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2021.12.31
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「祝福を受けた者達」

1986年2月9日
一九八六年二月九日

 二月六日の早朝、ソウル本部教会・聖日礼拝の説似て、祝福を受けた者の位置を明示、その責任と使命について、原則的観点を示されました。


 永遠の基準において測られる人間の生涯

 きょうお話しする題目は、「祝福を受けた者達」です。

 私達はこの世の中で暮らしているけれども、この世だけでなく、霊界があるということを知っております。また、この世と霊界は異なった世界でなくて、一つの世界として連結されなくてはならないということも知っております。では、我々はその中のどちらの世界に向かって生きているでしょうか。勿論、地上で肉身生活が終われば、永遠なる世界に向かって生きるのです。

 世の中の一般の人々は、この世に生まれてから十代、二十代、三十代を越え、中年を過ぎてから壮年、老年へと時代を経ていくのです。青春時代を経て壮年時代に移り、やがて老年時代へと、時代の峠を越えながら、やがて落日の瞬間を迎えて生涯を閉じるのです。しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、人間の一生というものは短いものであり、次に迎えるべき世界が永遠であることを知っています。それ故に、一生の期間というのは、永遠なる世界を迎えるための準備期間なのです。

 では、何を準備するのでしょうか。学生を例にあげてみましょう。学生は一つの学期に、あるいは一つの学年ごとに、学校が制定したすべての学科、試験に合格点を取らなくてはなりません。そして、及第するためには、学校が定めた基準点で合格しなければなりません。一〇〇点満点をその基準とすれば、その基準にどれくらい到達したかによって、その学校の真なる認定を受ける基準となるのです。それで、合格点に満たない場合、そのパーセンテージが多ければ多いほど、それは学校で立てた価値基準から遠くなるわけです。つまり、ある標準の下で、すべての物事が測定されるというのです。

 我々の一生も測定される時が来るのです。この肉身生活の期間は、学校が認める合格点を取るために勉強する準備された期間と同じようなものです。我々が人生の合格者となるか否かを問われるとき、準備された生存過程において、なさなくてはならない責任的位置での、その責任遂行の実績が追求されています。言い替えれば、そこには責任を追求する一定の基準の前に、どれほど一致するかというその基準値を中心にして、皆さんは毎日の生活と生涯の路程を歩んでいるのです。



 そこには勿論、社会生活や人間関係において人倫道徳が形成され、発展してきた一面もありますが、そのような道徳の基準が民族間で異なり、国家間で異なり、また世界のすべての文化的背景の差によっても異なるため、それぞれの道徳基準とか、社会制度も全部異なってくるのです。

 本然の人間としての生活基準

 このような現状を歴史的に顧みるとき、人間の行くべき本然の基準と、今日の我々が住んでいる生活基準として立てるべきすべての道徳基準がいくつもの方向に分かれてしまって、一つに収拾されていません。それが問題です。それは、人間が生まれて、この世で歩むべき本来の行く道を、本然の世界の何たるかを知らなかったためであり、死んでから行くべき所がどこか、これが確実となっていなかったからです。そのために、一般の人々は霊界があるのかないのか、神がいるのかいないのか分からないのです。

 しかし、我々統一教会の人々は霊界が確実にあるということを知っています。信じることを超えて、知っているのです。それはなぜかといえば、多くの体験を通して、否定しようにも否定することのできない歴史的事実があり、今日の現実的な事実があるからです。今日、統一教会がこれほどまでに世界的な基盤を形成するようになったのも、その背後、前後を見回すとき、そこには多くの体験過程を経てきているからです。「霊界は存在しない」と言うことのできない立場の人々が統一教会員です。

 霊界の中心はどこでしょうか。自分が立つべき場所は、神を中心として構成された世界です。それは絶対的神であり、太初宇宙の起源となる方なのです。その方によらないものはありません。故に、その方の中にあるため、その中のすべてのものは、その方と共に感じ、その方と共に因縁を持って過ごしているのです。

 皆さんの一人一人の体の中には四百億兆もの細胞があり、その細胞自体が五感や、頭脳などに直接働きかけて連結し合っているのです。それと同じく、太初に創造主を中心として連結されたすべての存在の中でも、特に人間は意識を持った存在として特別に創られています。

 その意識があるから、更に次元の高い価値を追求することができ、一層高次元の感情を表現することができるのです。それは、人間から始まったものではありません。人間の根源から始まったために、人間過程を経てから、根源と通じることのできる結果の世界に生きている人生であると、このように見るのです。根源に通じる本然の生活をするには、本然的生活の基準を知らなければならないのです。

 統一教会は、原理によって神の創造理想がどのようなものであり、本然の人間がどういうものであるかを知っています。即ち、本然の人間とは、神の愛を中心として一つになった人々のことです。本当に、アダム・エバが完全に一つとなって、縦横の愛の理想圏を完成させた、その基準の上に生命の根を植え付けるはずだったのです。我々はそのことを知っているのです。

 皆さんの生命の根がどこにあるかというと、堕落していない善なる父母にあります。それは、どのような位置なのでしょうか。神は二性性相の主体であられるために、ご自身の二性性相を展開させ、神の形状として万物と人間とを造られたのです。被造物は、神の性相どおりに展開したものなのです。アダムは神の男性的性禀を展開したものであり、エバは神の女性的性禀を展開したものです。我々は一般的に、「天のお父様」とよんでいますが、それは1人のお方であるから、そのように言うのです。しかし、神様がお一人であるというその概念の中には、神なるお父様とお母様の概念が入っていなければなりません。

 分性化された神の愛

 すべての宇宙の理致(注・道理、ことわり)は、相対的関係を結ばなくては作用が起きません。作用がなければ、存在の気運となる力を造成することができないのです。アダムは何かというと、神の男性性禀を実体として展開した表示体であり、エバは何かというと、神の女性性禀を実体として展開した表示体を現している存在です。現れるときは実体として生まれたのです。現れる前に、現れようという動機があってから現れたのです。根である神を中心にして、これが分かれることによって、正分合作用するでしょう。分立されていたものが何を中心にして合一するのかといえば、男性・女性として、ある何かの作用が起きて合一するようになっているのではありません。愛を中心にして合一するようになっているというのです。

 皆さんは息を吸っては吐き、吐いてはまた吸うでしょう。これも全部正分合作用をしているというのです。分かれた動機があれば、その動機に習って、作用を連続しながら、全体と合一するのです。道を歩いていたとしても同じです。最初に踏み出した一歩を動機として反復しながら、誰もが皆遠い道を行きます。我々の人生も、一日の生活もそうです。朝起きてから夜寝るまで、毎日同じ活動するすべてのことを反復しながら仕事を進めています。十年であれば十年を延長させてから一生の道を行くのです。

 分立して展開したアダム・エバが何を中心にして合一するようになっていますか。また、何を中心として、そのように分立された二つの存在が近付くことのできる力の作用をするのですか。これは他でもなく、愛の力だというのです。愛とは、分立した性相、性禀が完全に調和、統一、和合するための力なのです。

 アダムとエバが成熟すれば、これか成人の体となります。アダム・エバ自体が心と体、内外の二重構造になっており、これが成長するにつれ、内外共に一致した成人になるのです。このようにして一つになったその男性と女性は、独立した主体・対象の立場で、再び横的に一つになるのです。むろん、女性自体が内外に一つになり、男性自体も内外に一つになって、初めて男性と女性は愛によって一つになることができるのです。

 それでは、体と心は何を以て一つになるのでしょうか。これが問題です。本来、我々が堕落しなかったならば、体と心は何で一つになっていたでしょうか。道義的な何かの観念ですか。それとも、他の何かの力ですか。我々の心と体も、本来は神を中心として分立されて一つになることのできるその動機が何でしたか。なぜ分立されたのか。これは、愛を具現化させ、愛を作用させるために分立されたというのです。一つの点に終着するのでなく、全体から歓迎を受けることのできる環境圏で、成長の環境圏で愛を表現するのです。

 皆さんの心と体がいつ一つになるかが問題です。皆さんの心はいつも父母様のことを想っていますか。父母様の愛。その心が行く方向性が何かというのです。父母の愛、あるいは兄の愛、また国を思う愛、世界を愛する、天地を思う愛、それが前後・左右・上下の関係の愛を連結しようとするのです。

 体と心を中心として考えてみると、体と心が一つとなったその位置というのは、北側にも南側に片寄った位置であはありません。東西南北の中心としての中央の位置に当たるのです。なぜ中央の地の近くに立とうとするのですか。中央の地というのは、縦的な宇宙の愛、縦的な神の愛と人間と関係を結ぶことのできる唯一の道であるというのです。

 人間が完成すれば、人間と創造主との間に一つの中心的愛の道が敷かれます。中心的愛の道がなくてはならないというのです。人間を分性化させて造ったのも、神様がその姿形を見るために造ったものではないというのです。

 神秘な愛の器官

 神様がなぜ人を造られたのか、また神様にとって、人間がなぜ必要かということです。今日、既成教会では、「神様は創造主であられ、我々人間は被造物である。創造主は聖なるものであり、我々被造物は俗なるものである」と言っています。それは、霊界の事実と人間世界の事実がどのように関係しているかということを全然知らないためにそう言っているのです。

 なぜ人間を造りましたか。神様も愛を求めるためには、一人ではできません。愛とは、必ず相対を通して成し、求めてくるようになっています。もちろん、それぞれが愛の本性と本質を持ってはいますが、その愛が愛として活動するためには、相対が現れなくてはなりません。プラスが作用するには、マイナスがなくてはならないようになっているのです。マイナスがなければ、それがどんなに頑張っても、プラスだけでは作用することができないのです。もし、マイナスが永遠に現れていなければ、プラスも無くなってしまうのです。

 それ故に、愛というものは必ず相対を通してなされるのです。そのために、男性と女性のすべての性的器官も入れ替えてあります。主人が誰かというと、自分が主人ではありません。女性が持っている物は男性に必要となるものですから、男性が主人となることのできるものを女性が代表して持っているのです。男性が持っているものは、女性が必要とするものですから、男性が代表して持っていることになります。その中心、貴いものが何かという、愛なのです。その愛の器官を取り替えているというのです。男性達は、自分が男だからと言って威張って歩いているけれども、その男性としての重要な愛の器官が誰のものかといえば、男性自身のものではありません。簡単な問題です。これを人々が知らないというのです。



 それで、男性と女性がなぜ結婚しなくてはならないのか。女性達のある者達同士はホモセクシャルだとか言って、女性達も一人暮らしをするようになり、多くの人々は動物的愛に溺れている有様です。「一体、愛には何の価値があるのか」と言って、彼らは愛の価値に対して没価値論を今主張しているのです。一時の享楽のための相手にどのような内的因縁が結べるでしょうか。「私とお前は永遠なる関係を結んだ」と言うことのできる内容がないのです。それは、知らないからそうしているのです。

 人間は、相手の貴いものを預かっているために、相手が主人なのです。男性の貴い愛の器官は女性に預けてあり、女性の貴い愛の器官は男性に預けてあります。取り替えておいたというのです。そうではありませんか。よく考えてみなさい。どうですか、なぜ女は男を求めて行き、どうして男は女を探し求めて行かなくてはならないのか。自分の主人を求めて会うためです。これが会わなくてはならないというのです。合わなければ、天地の理致に符合することができません。この宇宙というのは、主体と対象が完全なプラスと完全なマイナスとなったとき、保護してくれるのです。これを侵犯した場合は即座に打たれてしまうのです。宇宙は自ら保護するようになっているのです。

 完全なるプラスは完全なるマイナスを創造

 ご存じのように、プラスとプラスでは反撥します。プラスとマイナスの場合はどうなりますか。「えい! お前達は絶対に和合してはいけない!」と誰かが厳しく命令したとしても、嘲笑してこう答えるのです。

 「お前の話は、私の考える根本からみるとき、遠く離れています。私の考える根本とは、神様が言う根本です」。もしも、「プラスよ、マイナスよ、和合するな」と言う神様がいるとすれば、それは偽りの神様です。なぜならば、私達プラスとマイナスは、造られる前から神様の考えの中で既に和合していたからです。ところで、今言った偽りの神様がどんなに命令したとしても聞いてはならないのです。しかし、これを聞き入れてしまったために、サタン世界の思う壷にはまり、天地がみな分散してしまい、互いが怨讐と化してしまったというのです。

 それ故に、完全なるプラスがあれば、完全なるマイナスが生じるようになっているのです。完全なるプラスがあるのに、完全なるマイナスがないからと言って、無くなることができません。すると、完全なるプラスの立場にいる神様自体が、マイナスがいなくなる時、無くなるという結論になります。完全なるプラスは、無くなる前に、完全なるマイナスを創造するのです。論法はそうならなければならないというのです。完全なるプラスは完全なるマイナスを創造するのです。



 女性という動物は何か。女性は力もないし、体も小さい。男性より大きい女性が世の男に比較して何パーセントになるのかというのです。確かに、西洋の女性達は東洋の男性達より大きいのは事実です。それは話が違います。そのプラスに合致する西洋の女性と東洋の男性の出会いがた易いことか。それは遠い距離にあるものです。東洋の男性は東洋の女性に出会わなくてはならないようになっているのです。近い距離にあるプラスとマイナスが一つになるのです。

 根源的な神様がなぜ人間を造ったのかということです。神様が絶対的な主体だとすれば、絶対的な何を造らなくてはなりませんか。完全なるプラスとしての絶対的主対であるとすれば、そのお方は完全なるマイナスを創造しなくてはならないとみるのです。それ故に、完全なるプラスは無くなるのではなく、完全なるマイナスを創造するのです。

 完全なる調和への道

 完全なる人格者には、じっとしていても、その環境からすべての良心的な人々が周辺に集まって来て、彼に似ようとするのと同じです。似ていくことによって、その主体者の前に対象圏が形成されるために、すべての存在物が動き出します。元素の世界の、すべての物質の世界が動くのです。それはなぜか。価値的により次元の高い所に上ろうとするからです。すべての人々も一段階上に上ろうとします。それは、今の自己よりも円満であり、一層理想的な自己になることを欲しているからです。

 皆さん達、刺激的な映画が好きでしょう。面白くて仕方がない、刺激のある映画が好きに違いありません。面白い映画は、「見に行くな」と言っても、しきりに心が魅かれて見に行きたくなるものです。それが面白かったらどうしますか。すべてのものが集まるようになるというのです。そうではありませんか。刺激的なものにはすべてのものが集まって来るというのです。

 このようにみるとき、宇宙の中心部にも、そのような刺激的な母体があるとすればどうなりますか。その母体の前に、すべての万物が集まるようになっているのです。人間も、もちろんそこに来るようになっています。そのために、すべての元素達も全部が、「ああ面白い!」と言うのです。刺激には、より高いものと合一しようとする力があるため、宇宙創造の形成が可能であったというのです。その高い所へと刺激されながら上る道が何の道かと考えてみれば、それが授け受けする調和の道です。即ち、刺激を通して授け受けすることのできる調和の道へと進んでいるのです。刺激を感じることのできる元素は、元素自体として、その運動をしています。刺激を感じることのできるそれらの力が結束して、共により高い次元へと上っていくのです。その刺激の全体を完全に調和させることのできる力とは一体何の力なのでしょうか。それは、神様までも酔って、神様の四肢をぐっと伸ばして、目も開けられないほどになって、神様をうっとりさせることのできる力なのです。そうすれば神様もうっとりすることを望まないでしょうか。

 どうすればそれがかなえられるのか。我々は神様に似ているので、我々も酔うとぼんやりして、東西南北も分からないほど酔ってしまうのです。その味が何と言うのでしょうか。酔わせる味とでも言おうか、飲むと酔うようになっています。酔ったときの心地良さが欲しくて、世の人々は酒に酔おうとしています。しかし、酔うためにはまた酒を補給しなければなりません。それは自然的な補給ではありません。春夏秋冬の反復は自然的ですが、酒酔いの反復は自然的ではないのです。酒は人体の補給路を通して供給されるものですが、補給が断たれればそれっきりです。悲しくなるものです。悲しくなってから、その次に上る道がないというのです。しかし、自然の法則で補給されるこの春夏秋冬は切れることがありません。春が行ったとしてもまた巡って来ます。自然はそういうものです。

 縦的神の愛と横的男女の愛

 それで、若い人、あるいは我々の人生も同様です。愛の道は自然に訪れて来るものです。それを誰かが「来るな」と言っても来るし、「早く来い」と言っても早く来ません。待たなくてはならないのです。「あー、早く! 愛の道よ来い」と、どんなに大きな声で叫んだとしても、来ることができません。完全な愛の道というのは、自分の時になって訪れるのです。来ることは来ますが、自分の時を探して訪れるものです。「私が先に行く!」しかし、人間は時を知らず、時に合わせることを知らずに、でたらめに自分勝手に生きて、一時的な愛を楽しんでいるのです。これがいけないことです。

 神様がアダム・エバに、「取って食べてはいけない」と警告したのは、この、時にかなった愛を射止めるためだったのです。その時が来て、アダムとエバが成熟すれば、愛の主体者である神様が縦的な頂点から降りて来られて、アダムとエバの横的主体の位置と、ご自分の縦的主体の位置を圧縮してから横的な位置に来て核を作るのです。そうすれば、アダムとエバはマイナスですから、プラスの核と一つになるのです。そうすると、この縦的な核となった神様の愛が、即刻ご自分の位置に向って上がって行くのです。閉じたものが開くと下りて来ます。上って来て下りて来るし、閉じたり広がったりする、この作用が繰り返されるのです。

 神様はどのような愛し方をすると思いますか。皆さんもそうではありませんか。愛する人を抱いて、唇を固く閉じたままじっとキッスをしますか。(笑い声)それみなすり合わせて、ぐるぐる回ったりするようになっているのです。神様も同じです。神様がそのような縦的な愛の核になろうとして、丸くなるわけです。ああ、この横的なアダム・エバの愛が横から打ったので、(笑い声)打たれた愛の核はこのようにボールになるのです。ボールになったので、今度はアダム・エバが、「アイゴーッ」と、こうなるのです。(何かを“ボン”と叩かれる様子。)くっ付いたものを離そうとしても、離すことができないほど強く固まって、伸びたり縮んだり、上ったり下ったりしながら神様と共にいつまでもずーっと愛し合うのです。愛しては離れて、またぴったと一つになるのではないですか。これが運動の法則です。

 皆さんは縦的な愛が必要ですか。(「はい!」)一体全体、縦的な愛とは何ですか。神様の愛です。皆さんがしっかりと平面的に愛の火を付けるならば、火は燃え上がるのです。そうすると、それは何千度にもなる核になり、その核の位置に神様が突進して下りて来るのです。神様は、何千度もの核の力に引っ張られた勢いで、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながらやって来ると、アダムとエバを抱いて、稲光を放ちながら、火の固まりとなって燃えながら後ろに退いてしまうのです。熱くなると、たまりきれなくなって爆発作用が起こるわけです。これは変なことではありません。

 愛の水平線に立つ男女

 皆さん、曇った日には、大地と見えない空気の世界が結婚するのを見るでしょう。約婚式をし、その次には結婚式をしてから、「やった! 良かった!」と言うでしょう。見ると、曇った日には黒い雲が下りて、それが皆調和するようになっているのです。すると、陰電気と陽電気が起きて互いに相手を求めようと、高い所へ、高い所へと上っていくのです。「えいー!」と言いながら、高い所で会うと雷を鳴らすのでしょう。雷が何かというと、陰電気と陽電気がキッスをする音です。(笑い声が立つ。)なぜ笑うのですか。キッスしたら稲光が走る。稲光は何ですか。愛をするその光だというのです。

 同じことです。人間もそうだというのです。空気の世界でもそんなことをするのに、神様が宇宙のてっぺんで起こすプラスと、地上で人間が起こすマイナスも、全部焦点を目指してぴゅーと突進するのです。高い所と低い所は皆反対の位置にありますが、それが中央を中心として回らなくてはならないというのです。そのためには、中央に心棒が必要です。中心がなくてはならないのです。この中心は、水平線になっていなくてはならないのです。

 これが同じ角度で均衡を保つことができる線が水平線です。愛の水平線に立っているのが男性と女性なのです。分かりますか?「ああ! 私の主人があそこにいた!」と言って、これが端と端から全部集まってくるのです。男という動物が女という動物に近付くとき、何でもじもじするのか分かりますか?(笑い。)ここにいるのは皆祝福を受けた者達でしょう。男性が女性を求めるとき、何を動かして探して行くのか分かるでしょう?そうして二人が一つになったとすれば、愛の種が宿るのです。愛の種が何ですか。愛してから生まれた、その副産物が何ですか。(……。)我々です。愛してできたごみの副産物でないのですよ。愛して生まれた副産物が私だというのです。自分。皆さんだというのです。

 では、皆さんは何ですか。最近は、植物も細胞から出来るそうです。最近、私が済州島に行った時に、蘭が細胞で栽培されているのを見ました。試験管のようなガラスの器の中で栄養素を与えられると細胞が育つのです。小さなガラスの器一つで何千、何万という細胞が入っているとか言っています。実に、その一つ一つが蘭となって赤い花を咲かせるのです。この蘭の花が細胞から生まれてくるのです。

 人間も、植物のように細胞から生まれるとすればどうなるでしょうか。何万人という人が一度に出て来るのです。それも悪くないでしょうに。そういう時代だというのです。人間を見ると、生まれた時から、顔に目、鼻、口、耳などが付いていて、顔を調和させています。なぜ調和するのか。それは生まれる前からその細胞の中に調和させる何かが入っているからです。それはどれほど神秘的なことか。誰がそのように造ったのか。それは自然にそうなったのでしょうか。また、目、鼻、口、耳などの位置はいつになっても変わらないし、在るべき所に在るのですね。

 人の心に住まわれる神

祝福を受けた者達がその位置まで行こうとすれば、遠い旅路を歩かなければなりません。神様も愛が欲しいから、完全なプラスの愛でいらっしゃる神様が、完全なるマイナス的愛を自動的に創造法度に従って想像されたのです。そのために創造の原則を立てたのであり、この原則によって人間創造がなされたというのです。それ故に、プラス的神様が貴いと同時に、マイナス的神様は貴くありませんか、貴いですか。(「貴いです。」)貴いのです。神様はどんなに立派であったとしても、主体が持つべき最も貴い主人の位置を、神様の中に打ち込んだでしょうか、それとも対象の中に打ち込んだでしょうか。(「対象の中に!」)どうやって対象が神様の主人となれますか。

 「この不敬な者達よ、何としたことを! そういう大それたことを言うのか!」と怒ったらどう答えますか。そこで、人間が「そうすることができます」と言うと、今度は神様が、「ああ、もっともだ」とうなずくのです。(笑い。)

 それは、何を見て知ることができますか。息子は父親に似るから、父親は息子に似るのでしょう。鶏卵は何に似ていますか。丸いけれども母鶏に似ているのです。その鶏卵の中には母鶏の子が入っています。同じです。父親に似たものが息子ですが、息子に似たものが反対に父親だというのです。「○○○さん、あなたは誰に似ていますか」、と聞かれると、たとえ年を取った人であっても、「誰に似てるかって?それはお父さんとお母さんに似ている」と答えるし、「お母さん、お父さんは誰に似ていますか」と聞かれると、「あ、何、お母さん、お父さんが誰に似ているかって? 私に似ているのさ」と答えるのです。同じ話だというのです。

 だから、神様は誰に似ているかというと、私に似ているというのです。私は誰に似ていますか。神様に似ているし、神様は誰に似ていますか。(「私に似ています。」)私に似ているのです。同じことです。

 だから神様が近いのです。既成教会の神様は遠い遠い所にいる神様ですが、統一教会の神様は?(「近いです。」)どれくらい近いのか。手が届くのか、届かないのか。手が届いて、神様のお尻までも触れることができるのです。(大笑い。)神様がこうしてしっかりと抱いてくれるとすれば、それはどれほど近いのか。その上、愛の言葉まで交わすことができるのですから、こうなると完全にお前も私もありません。 黒いものも、赤いものも、黄色いものも、全部が混ざって白い色になるでしょう。白は無いことを証明するものです。万事が無い。白いものはすべてのことを新しく始めることのできる土台を意味するのです。紙が白ければそれは絵も画くことができ、泥棒も画くことができ、聖人も画くことができ、ありとあらゆるものを画くことがてきるのでしょう。私はそういう神様が好きです。私はそういう神様のことをよく知って、侍って生きているのです。

 神様はどこにいますか。どこに行けば会うことができますか。精誠を込めて祈祷しながら、「神様!」と呼ぶと、神様があの天上から、「私はここにいる」と返事をしてくれます。祈る人の心を通して返事が返ってくるのです。自分の神様は自分の中にいるのだから、内なる人の口を通して語りかけるのです。もう一度「神様ーっ、神様」と言うと、今度は、「ここだ、ここにいるではないか」と心の内側でそう言ったのです。そして、「どこを探すのだ。そっちじゃない。待ってくれ」と言って、心に丸い穴を開けるのです。神様は、心の穴から手を伸ばして、「手を入れなさい。あなたの手が私に届くのだ」と教えてくださるでしょう。神様がどこにいるのかというと、他にいるのではなく、皆さんの心の中にいようとされるのです。

 神と人とは絶対基準においてのみ接触

 ところが、残念なことに、完全な愛を中心として神様と人間が会うことができなくなっているのです。愛を中心にして一つになるために造られた人間ではありますが、神様は人間世界と接触することができないということを皆さんは知らなくてはならないのです。

 さて、皆さんの目は誰に似ていますか。お父さんでしょう。お父さんはそのお父さんに、そのお父さんはまたその上のお父さんに似ているのです。こうして遡ると、一番初めのお父さんに出会うでしょう。一番初めのお父さんは誰ですか。それが神様です。つまり、私は誰に似ているかというと、それは神様である一番最初のお父様、そのお方に似ているということになるのです。それは間違いのない事実です。

 それで、神様も皆さんが食べている御飯を食べ、皆さんが飲んでいる水を飲みたくないでしょうか。(笑い。)断食のことを思い出してみなさい。それは非常に面白かったですか。統一教会に入ってからする一週間断食がどれほど楽しかったかと聞いているのです。一週間が終わる十二時十分前ぐらいになると、どれほど十二時の合図が待ち遠しいか。十二時を打つ音が聞こえると、それ以上嬉しい消息が外にないというのです。あと十分だ、あと五分だという時の心の切なさがどうであったのか。それ以上の場で神様に会うのです。それ以上の所に行ってからでないと神様に会うことができません。

 御飯が欲しい以上に切ない基準にあるのが愛です。寝たい時であれば、寝たい時以上の位置というのが眠らない位置ですから、それ以上の位置に行ってこそ、神様がおられるのです。一番上にある位置、天に接触して初めて神様との関係を結ぶのです。衣食住を中心とした、今までの堕落した圏内では、神様との関係を結ぶことがてきないというのです。大体分かりましたね、きょう我々が知ったその神様はどのような神様であったか。我々が知った神様は人類の先祖です。それはどれほど幸福なことでしょうか。

 皆さんは怖い時はどうなりますか。背筋がぞくっとして、髪の毛が逆立つでしょう。髪の毛がサッと上に立つでしょう。そういう恐ろしい思いをしたとき、愛に一度触れたなら、どうなりますか。それが下りて行くでしょうか、もっと上って行くでしょうか。もっと上って行かなくてはならないというのです。ぞくっとする思いを通り越した上に行ってから、充実した愛の喜びを味わうのです。だから上って行かなければなりません。そのような充実した愛の味、愛の充実感を感じてみましたか。

 ダイナミックな宇宙生活

 本来の祝福された人とは、どういう人達でしょうか。祝福を受けることのできる人とは、どういう人なのか。永遠なる神様の愛と永遠に一つになることのできる位置にいる人々が、祝福を受けることのできる人々なのです。その祝福を受けた人々の中で造られた、その愛を根として縦的愛と横的愛が一つになったのが、それが宇宙の核です。この宇宙の核の根、愛の核の根から今日の我々人間達が生まれるべきだつたのです。

 すると、根は下りる時から喜んでいます。分かりますか? 皆さんの生命は、その愛の核の中に根を下ろす時から嬉しいのです。お母さん、お父さんのすべての細胞が愛で睦じく和合して一つになると、男子の体と心も一つになり、女子の体と心も一つになって男女が横的に一つになることができます。そこに、天地の中心にいる神様と一つになって愛の玉を造るのです。

 このような作用が繰り返し、繰り返し連結されて、愛の玉が高く積み上げられていくと、積み上げられた愛の玉同士の間で、何回も押し合い、ぶつかり合う運動が起き、この運動で愛の玉の角が全部皆崩れてしまって、くるくる回るようになるというのです。丸く丸く運動をしなくてはなりません。それで、宇宙にあるすべての物は丸い物に似ているというのです。それはなぜか。愛を中心にして玉のように丸くなると、すべてのものが丸くなって動き出すのです。そのようにして愛が宇宙の中心核となれば、愛を欲するすべての元素世界が、また被造世界も玉のような愛を中心核に似て丸くなります。

 王様蜂を知っていますか。蜜蜂を飼っている所に行くと、王様蜂を見ることができます。蜂の王様だけは雄でなくて、雌なのです。「男王蜂」と言えば良いのに、女王蜂だと言っています。蜂の世界だけは雌が王様となっています。女に生まれて悲しい人には、この女王蜂がせめてもの慰めです。また、働き蜂達はこの女王蜂が摂取する蜜を運ぶために一生懸命働くのですが、蜜を準備すれば横取りするのが雄蜂です。雄蜂は卵を生むわけでもないのに、蜜が食べたくって女王蜂に付きまとうのです。飼い主は蜜を取られないために、雄蜂の何匹かを残して、後は全部殺してしまいます。私は養蜂については良く分かるのです。日本では、要らなくなった雄蜂は水に全部捨ててしまいます。水に追いやられた蜂が入って来ないように、働き蜂が門前で追い払うのです。

 それは訓練されているのです。統一教会も、そう訓練できたら本来に良いことでしょう。自分達同士で撃ち合って、自分達同士で処理するのです。女王蜂は昼夜回りながら、甘い蜜を食べたいだけ食べると、せっせと卵を生むのです。

 それと同じく、神様と人類の先祖にあたる愛のかたまりが、女王蜂のような一つの核となっていたなら、宇宙がそこに付いて回るのです。これは物理学的に説明できるようになっています。その宇宙がどれだけ大きいのか。宇宙の勉強をしなくてはなりません。好きになった二人が千年万年走っても、ぶつからないように神様が準備をしたというのです。あっちにぶつかって落ち、こっちにぶつかって落ちて、後には無くなってしまったりすることがないように宇宙は広大です。「遠くまで上りたい!」と言うと、「じゃ、上るだけ上ってみなさい。落ちたければ落ちてみろ。お前一人が落ちると、宇宙のすべてが皆落ちてしまうぞ。おーい、気を付けて上れ。もう一つ上れ!」と神様が励ましてくれるのです。

 それを想像してみなさい。どれほど素敵でしょうか。子供達がぶらんこに乗るとき、喜ぶでしょう。「わあーっ」と言って熱中するというのです。ぶらんこでさえそうであるのに、自分が宇宙を回るのを考えてごらんなさい。南極があり、北極があり、こちらには東極があり、西極がある。東西南北を飛行するとき、北極に行ってぶつかりそうになると、そうならないようにしてくれるのです。「危ない。直線コースで行くな! 東の方へ行け」と言うのです。そして、東の方に回転して、またぶつかるようになると、「南に行け!」という具合に保護してくれるというわけです。

 そのようにして千年万年生きる宇宙生活は、どれほど素晴らしいことでしょうか。それこそ、千年万年生きる醍醐味があるというものです。このうっとうしい世の中で、それだけ生きたらどうなりますか。一生生きるだけでも、「苦しい、苦しい」と言って大騒ぎしているのに、千年万年苦しんで素晴らしいでしょうか。

 本然の故郷に

 皆さん、故郷に帰りたいですか。(「はい。」)皆さんのお父さんお母さんが生まれた故郷は第二の故郷です。それを知らなくてはなりません。第二の故郷に行きたいのなら、第一の故郷になぜ行きたくないのかというのです。第一の故郷に行きたくないのですか。(「行きたいです。」)第一の故郷も第二の故郷も行きたいというのですか。皆さんの欲望は大きいです。なぜ人間の欲望は大きいのか。宇宙が大きいからです。人間が偉大であるのは、愛を中心とする大きな宇宙の調和の法則に応じることができるからです。そして愛の理想世界をつくるのです。そのために、千年も万年も続く無限なる幸福圏に向かって愛の道を歩くのに、その愛の道が第一の故郷への道です。第一の故郷は一番大きいものです。一番大きいものから、お母さん、お父さんを通して一番小さい第二の故郷に生まれ、再び一番大きな第一の故郷に戻って行くのです。これが自然の理致だというのです。欲望が出るのは故郷に戻るためです。

 欲望がそのように大きくなるのはどのようにしてか。運動すれば更にもっと大きくなるという法則があるからです。存在するものに中心があれば、大きくなってから小さくなることができ、小さくなったり大きくなったりすることができるのです。これは中央に運動の中心点がある証拠です。

 高い所と低い所の中心は中央です。左右の中心に中央があり、前後の中心に中央があります。そうではありませんか。高いだけでは中心を立てることができません。人間が歩くとき、足を上げ、高くするだけでは歩くことができないでしょう。足を前に下ろすことで前進するのです。新しい方向に向かって、すべてのものがそのような運動をしているのではありませんか。人間の欲望は無限に大きくなろうとするのです。自分の心は無限に拡大しなくてはならない本性の因縁の力があるために、我々の心は無限に大きいものを抱こうとするのです。それが何かというと故郷です。本然の故郷です。第一の故郷です。第一の故郷を離れて、第二の故郷を回って、再び第一の故郷に戻るようになっているのです。無限に大きい第一の故郷へ。

 第一の故郷では、すべてのものが含まれて暮らすのです。あなたも良いし、私よ良いと。私も良いし、あなたも良いという具合に、皆そうすることができるのです。逆に、私が悪ければ、あなたも悪い。あなたも悪いし、私も悪いという場合はどうなるか。宇宙が悪いというときは、愛の宇宙の核を連結して、宇宙の悲しみを動員することになり、莫大な被害を蒙ることになるというのです。

 悲しみの中では何が一番悲しいのか、嬉しいことでは何が一番嬉しいのか、一番の喜びといえば何が一番の喜びか、そして、何が一番高い喜びであろうかと考えてみなさい。金を儲けることですか。金や財産を持っていたら大変です。夜眠れません。強盗に狙われるのではないかと思うと、心配で眠れないというのです。黄金財を得たなら、黄金財を保管する金庫が必要です。ところが、金庫にしまっても安心できないものです。できることなら、自分の体の中に保管したいと思わないでしょうか。誰も彼も心の中に。心の金庫の中に皆保管して置きたい。そうではありませんか。

 女性がダイヤモンドを身に付けるのは、それが一番良いからです。一番良いものは誰もが欲しいのですね。千年たっても欲しいし、万年たっても欲しいのです。その誰もが欲しいものは、神様も目が飛び出るほど欲しいのです。神様も開けることのできない宝庫があるとすれば、それは何ですか。神様には無いものがないはずです。神様にお金がないでしょうか。ダイヤモンドがないでしょうか。金銀がないでしょうか。それは皆作ることができるものです。神様にも貴いし、すべてのものにとって貴いものは何か。すべてを捨ててしまっても、ご自分の内にしまって置きたいものが何か。神様でさえも心の宝庫にしっかりとしまっておきたいものが何でしょうか。

 それは神様の愛です。愛しかないというのです。神様に会いたければ、どこへ訪ねて行くのか。愛の故郷、愛の家を訪ねて行かなければなりません。父母の愛が欲しかったら父母に会いに、父母様の愛が欲しかったら、本然の故郷を訪ねて行かなければならないのです。そうではありませんか。同じことです。

 愛だけが平等なもの

 一生の路程は、第二の故郷に生まれてから、どこへ行くかというと、第一の故郷を訪ねて行く道程なのです。第一の故郷は測り知れないほどの大きなプラスですから、私は大きなマイナスとなって帰ってから、天の門を開けるのです。

 人間の欲望は誰が、何のために与えたものですか。泥棒をしなさいというのではありません。偉大な愛を包むために下さったというのです。分かりますか? 偉大な愛を包むための欲望は嫌いですか。(「はい。欲しいです。」)その欲心がどれほど甘くおいしくて、興味があるものなのか。味を知ればたまらないというようになります。

 お婆さん達も笑っていますね。皮がみんな伸び切ってしまっているのに。悲しかったのでしょう。どれほど悲しいことがあって、あんなにしわくちゃになったのでしょうか。でも、愛の話をしたら、嬉しそうに笑っていますね。最近テレビで面白い番組がありますね。『花指輪』という番組です。ウンピル爺さんが七〇歳を越えたというのに、再婚すると言って喜んでいるのを見ると、(大笑い。)……それは実感が出ています。これも、天地が中心になるのです。お爺さんの威信も捨てて、老いぼれても天のてっぺんに上ろうとするんですね。

 それで、人の欲心を圧縮させると飛び出そうとするのです。そうであるため、我々人間の圧縮した圧縮空気を爆発するようにしておいたのが愛だというのです。それで、愛に触れると、爆発して直線を走ろうとするのです。引力の関係で、地球には運動するものに直線運動するものはないというのです。ピィーッとなって、その次は「カーン! アイゴー」そのカーンという拍子に神様が飛び出て、その愛に神様がぶつかって行く。そして、空気で出来た愛をぴたっと受け止めるというのです。「アイゴー。大変なことになってしまった。」爆発すると地上に戻ってから、また同じことが繰り返されるのです。こうして結ばれる神様との愛が縦的な愛です。「アイゴー。」上ったり、下ったり、それがどれほど素晴らしいことか。そして、ふんわりふんわりと浮き上って、宇宙を思うがままに飛び回るのです。考えて良し、形も良し、形容しても良し、心で良し、御言として良ければそれで良いのです。良いものが何ですか。ダイヤモンドか、大韓民国の土地ですか、どれですか。皆さんの心は大韓民国の土地くらいのダイヤモンドが良いと思ったとしても、体の細胞は、骨であろうと、皮であろうと皆眠っています。体と心が離れてしまっているので、心が思っても体は眠っているのです。

 ところが、愛の芽が開くとき、愛の機関銃がこういうふうに狙ってダダダダダッと撃つと、四百億兆の部屋(細胞の扉)が開いて、いっせいに目を醒ますのです。分かりますか? 愛の機関銃がどれほど素晴らしいのかというのです。これを撃ちまくると、宇宙が上を下への大騒ぎをしながら復活するというのです。これは話を聞いただけでも大したものでしょう。みんなでそのように素晴らしく生きよう。(とんとんと膝を叩かれる。大爆笑。)踊りを踊るとき、膝を曲げてこうするでしょう。その愛の踊りはトイレに座ってもできるというのです。(大笑い。)臭いが香ばしいというのです。臭いがするのに、なぜ臭いと思わないのか。その臭いは自分の中で、自分と一つであったから、私と一つであったのですから、臭いが厭でないというのです。臭くても愛がある。臭いがしても愛せるのです。

 年取った人々が愛し合うのを見て、「何という不潔な者よ。お前達のような人間は早く死んでしまえ」そう言うのですか。愛ほ年寄りも酔わせるし、すべてを忘れさせてしまうというのです。年取ってからの愛というのは丸い愛でなく、平らな愛になるというのです。丸くなってから平らにならなければならないというのです。平らになってから丸くなるために、彼の国へ行くと拍子が合うというのです。皆平等にできています。愛だけが平等であり得ます。分かりますか?

 平等という言葉自体も、愛を抜いてしまえば抜け殻同様です。愛を中心としなくては平等はありません。幸福というものが何かというと、愛の向こうの端です。幸福が何ですか。愛の後ろです。それも正しいのです。幸福が何か。愛の前方です。幸福が何か。愛のてっぺんです。幸福が何か。愛の端でしょう。合っているというのです。愛は一つであり、丸いために、端も後ろも前も皆愛だというのです。

 愛を抜きにして幸福がありますか。どんなに美女であっても、一人座って鏡を見ながら、「アイゴー、私は幸福だ。私は何て美しいんだろう。鏡様、私を愛して。」そうするのですか。鏡様に向かって「私を愛してくれ」と言えば、それで鏡様が自分に唇を合わせますか。女性には平等的愛の内容を持った男性が現れたとき、調和が生じるのです。

 ああ、私はなぜ生まれたのかと考えるとき、これは素晴らしく生きるために生まれたのだということが分かったのです。手に向かって、「手よ、手よ、音を出せ」と言って両手を合わせると、「音を出すな」と言っても音を出すでしょう。相対がなければ駄目だというのです。

 死刑囚に似た堕落人間

 それほど素晴らしい人間の本然の元の道があったのに、その元の道から我々は堕落したというのです。どれほど悲しいことか。愛の核の根には本然の愛があり、神様もそこにおり、我々の故郷もあるのです。すべてが愛で一つの根になっているのです。自分というのが、その本然の自分の根から生まれた自分となることができず、堕落したサタンの愛から生まれた自分となってしまったのです。何と悔しいことか。これが事実なのです。堕落した瞬間、「あっ! しまった。何ということをしてしまったのだろうか」と後悔してみても、もう遅いのです。

 私は死刑囚達と一緒に暮らしてみましたが、死刑囚が一番恐れているのは何かというと、自分の名前を呼ばれることです。他の一般の囚人にとって一番嬉しいことは自分の名前を呼ばれることであり、死刑囚にとって一番恐ろしくて、一番厭なことは、名前を呼ばれることなのです。死刑囚は、自分が呼ばれた時を、この世の最期として考えるからです。しかし、一般の囚人が呼ばれるのは面会か、そうでなければ便りです。本当に、同じ場所にいるというのにです。

 堕落とは何か、堕落した人間とはどういう人間ですか。堕落した人間とは死刑囚だというのです。神様に自分の名前を呼ばれたら地獄行きです。そうではありませんか。それで、宗教人達の目的は、死刑囚を呼んで求道の道に行かせるために、神様の代わりに囚人の名前を呼んであけることなのです。神様の代わりに囚人の名前を呼んであげる人達です。呼ばれた本人が、今一度本然の昔に帰りたいと希望すれば、蘇生する道があるというのです。自分を呼んでくれることでもって、天国に行くか、地獄に行くのかの道に立たされるのです。それは実感論ですよ。皆さんは監獄に行ったことがないから分からないでしょう。死刑囚は自分の人生を嘆き、罪を悔いながら、一日に何回も溜息をつくのです。その溜息がいつの間にか習慣化されてしまって、無意識のうちにも吐いているのです。

 我々堕落した人間がそれと同じ立場なのです。神様が呼ぶ日には、地獄に行かなくてはなりません。しかし、宗教を信じる人は悔い改めて、天国に行くことができる道があることを知らなくてはなりません。もう五日の後には、私も満六十六歳になります。私の心は小さい時と少しも変わらないのに、いつの間に年を取ってしまったのでしょうか。幼い時に交流していたその心と、今日の私との距離はありません。心の世界は時間を超越するのです。愛の世界、愛の心もそうです。愛の衝動を受けた心には時間的距離がないから永遠と通じるのです。十年前のことがきょうのことであり、百年前のことがきょうのことです。

 休みなく相対へ流れる愛

 一番高い所に行くことのできる力があるとすれば、それは愛の力です。愛の力だけです。愛の力は自己の生命を捨ててまで自分を超越しようとするのです。それは、愛の力が自分に固着するのではなく、大宇宙に固着した作用をしようとするからです。

 それ故に、我々の一生は多様的な生活をするのではなくて、一様的な生活をするというのです。一つになった生活です。一つの道に行くというのです。皆さん、そうですか。大韓民国の四千万国民が生きる道は全部同じですか。国に対する、愛国心への道が皆同じですか。違うのです。どれが本当の愛国への道なのか知らないのです。漠然としています。青年の行く道が何か。漠然としているのです。孝子の道が何か。漠然としているのです。自分の親に食べる物を与えることが親孝行だと思っているのです。喜びがなく、ただ食べ物を与えるだけで親孝行と言えますか。

 骨の髄から湧き出る愛で行わない行動は、伝統的本物の道に連結することができません。ですから、愛のない孝子々道はないものと考えるわけです。国もそうです。国に対しても、自分の父母に対する孝子の道、あるいは妻子に対する家庭の道を越えて、国の為に尽くすのが忠義の道です。国に対する忠義の道を越えて、世界に向かう心を聖人の道というのです。聖人とは、世界を愛する、世界的な愛の持ち主です。その次は聖者の道があるというのです。聖者の道とはどういう道か。地上の人間世界だけでなく、見えない霊界の世界までも通じて伝統的忠孝の道を、全宇宙を代表して行くことが聖者の道です。聖人の道の愛を犠牲にして、理想の愛の道を立てようとするのが聖者の道です。イエス様はこの地に来てから聖者の道を歩まれたお方です。聖人の道を乗り越えて、怨讐までも愛することができたのです。それは次元が異なるのです。怨讐までも愛そうとしていたのでした。

 なぜ怨讐を愛することができるのでしょうか。神様は無限なる愛の持ち主ですから、与えても与えても忘れてしまって、また与えようとするのです。どうしてでしょう。愛は私のためにあるのではなく、相手のためにあるからです。愛の主人は自分にあるのではなく、相対にあるために、与えようとするのが愛の本質だというのです。相手に流れて行こうとするのが愛の本質だというのです。それ故に、本然の愛は与えてもなおまた与えようとする愛なのです。分かりますか? これは理論に合った話です。悪魔的人間の愛は、与えて何倍も奪って来る愛です。今日、アメリカに行った人々には恋愛結婚が多いといいますが、女性の中には財産目当ての、断片的な結婚をする人がいるそうです。私がこういう話をすると、「レバレンド・ムーンは男性第一主義者であり、女性反対論者だ」と言われるかも知れません。女性反対論者だと言われても構わないというのです。

 分かりますか? 本然の愛は休みなく相手の方へ流れようとするのです。低い次元から一段階上に上りながら、級で言えば一級です。どのようになるかというと、全部に与えながら次々と上って行くのです。ここまで来ると一四〇度になり、ここまで来ると九〇度になるのです。こうして、次から次へと上って行くのです。上って行くこの道はどれも垂直の系統を通じて上って行きます。

 次はここを回ります。回ってからどうなるかというと、今度は与えた方が受けなければならないというのです。与えて一杯になったならば、与えた後は受けなければならないというのです。父母が子供に与えた後は、子供が父母の前に戻すことを孝道といいます。ここにいる若い娘さんや青年達。お母さん、お父さんから愛を受けましたか、受けていませんか。

 一八〇度まで上って行ったなら、その次は誰の番かというのです。子供達が上がるのです。子女が成熟する時の線が水平線です。これが一八〇度ですの球形の一八〇度の位置です。こうなったら、その次は回さなくてはなりません。父母は、その息子と嫁を中心として二人が一つになるように愛の祝福をしてあげたくなるものです。全体を任せたくなるものです。そのことを通じて、ずーっと下に下りて行きます。孝道の道が別にあるのではありません。このようにして、子供が一杯になるまで受けた親の愛を、親に返していく道なのです。父母の愛が満ちたならば、その次には誰の順番ですか。これが、与えながらずーっと上って行ったなら、このてっぺんからは受けながら、こっちの方に下りて行くのです。受けながらこの頂点に上って行くと、与えられながら下りて行くのです。与えられていた方で返さなくてはならないというのです。皆同じ理致なのです。

 二重の復帰

 本来、皆さんは本然の父母、アダム・エバの愛を中心として、その本然の愛の核の根を受けて生まれるべきであったのに、堕落によって、堕落した血筋を通して植えておかれてしまったというのです。唖然とするのです。宇宙の根は愛の根です。堕落の天をもっては宇宙に通ずることができません。異常が生じて通じないのです。

 また、堕落の根は移し替えたくても移し替えることができません。この宇宙はただ一つ、愛の根だけが中心となるようになっているのですが、偽りの悪魔はこの愛を完全に絶ち切ってしまったのです。それで、人間達がこちらに来て、再創造して接ぎ木される時も、根の基準は通じることができなかったというのです。それはどれほど悲惨なことでしょうか。

 生まれるとき、愛の核の根から生まれなくてはならないのに、堕落することによって、偽りの愛の根から生まれてしまった人間であるために、再び戻って行くにはどうすればいいのかといえば、まず接ぎ木しなくてはならないのです。その次にはどうなりますか。接ぎ木だけでいいのですか。皆さん自体は接ぎ木したとしても、堕落した、昔の世界の根を持っています。渋柿の根です。接ぎ木するとき、甘柿の木の根に、渋柿の枝を接ぎ木しますか。それとも、渋柿の根に甘柿の枝を接ぎ木しますか。接ぎ木された皆さんの根の起源はどこですか。渋柿の木です。これを知らなくてはなりません。渋柿の根がまだ残っているのです。

 本来の「祝福を受けた者達」とは、甘柿の根から生まれて祝福された者達を言うのに、今日の我々は渋柿の根に生まれ出て、これを切ってから接ぎ木された自分であるということを知らなくてはならないのです。

 渋柿の根から生まれた人々が、本来の神の愛の核の根を中心にして生まれた人々の住む、愛の理想を達成した本然の天国に入って行くことができますか。深刻です。深刻だというのです。本然の世界に入って行くことができるかというのです。本然の世界に入って行けるようになっているかというのです。養子にしかなれない身分です。それを考えると、堕落した人間は、庶子でもいいからなりたいと願うのです。

 私の小さい頃、まだ両班(ヤンバン)・サンノム(注・身分の高い人、家柄・身分の低い人、家柄)の差別が強かった時代、庶子の出生というのは実に悲惨でした。庶子として生まれた者は、奥の暗い部屋に閉じこもって、毎日のように人に会うのを避けて暮らしたのです。僕にもなれないし、主人にもなれない中途半端な人間なのです。その人生がどれほど辛い人生かというのです。そのように、庶子にもなれない堕落した自分自身であることを自覚しなければなりません。

 では、どうすれば良いのか。本然の根の核を貰うのです。接ぎ木された枝に新しい芽が出たなら、昔の根は腐ってしまわなくてはなりません。二重に復帰するのです。堕落した愛で植え付けられた昔の渋柿の木が腐って、その実が落ちるようになるまでは、本然の愛の道を連結した位置に立つことができません。これを何代でしますか。数十代、数百代かかったとしても、それが清算される日を迎えなくてはなりません。霊界にいる先祖達を解放するにも、皆さんが代わって努力しなければならない事情が残されている事実を知らなくてはならないのです。これを一代で清算することができるとすれば、己の一生身を粉にしてでも、成さなくてはならないのであり、千回万回死んで成すことができるとすれば、生きることのできる道を行かなくてはならない立場が、堕落した後継者達の立場ではないかというのです。

 血統転換した位置

 イエス様はどういうお方ですか。父母が過ちを犯したために、その代身者として、天が新しく送ってくださった完成格のお父様なのです。完成という言葉は、ただアダムの骨格が大きくなったからといって完成ではありません。

 聖書にあるように、母親のマリヤに向かって、 「婦人よ、あなたは、私と、何の関わりがありますか。私の時はまだ来ていません」(ヨハネ福音書二章四節) と言ったことがあります。これは自分のことを口実にした言い方です。なぜそのような言い方をするのかというと、三十歳が過ぎてもマリヤはイエス様を結婚させていないのです。マリヤはイエス様に対する責任は果たさないで、親戚の婚姻の席では、ぶどう酒の補充をイエス様に命じているのです。(沈黙)

 この恨みが何ですか。年取ったチョンガーの恨みが何か。嫁を迎えていないのが恨みなのです。三十歳になるまで結婚していないイエス様は、年取ったチョンガーでしょうか。それとも若いチョンガーでしょうか。マリヤはそこまで考えることができなかったというのです。結婚するにしても、イエス様の結婚は簡単にできなかったのです。どのような結婚をしなくてはならないのか。妻になる人も、堕落した世界の根から生まれた女性しかいないのです。分かりますか。イエス様は、神様が血統を清めてから送ってくださったお方です。

 血統を清めるためにどういうことをしましたか。まず、エサウとヤコブの双子の時代を経て、弟のヤコブを通して長子権を復帰させたのです。ユダの長男の嫁であるタマルの腹中では、ペレヅとゼラの双子が闘い、兄と弟が入れ替わって生まれるという血統転換が、タマルの子宮の中で行われたというのです。先に出た兄のゼラを押しのけて、弟のペレヅが先に生まれたのです。兄さんのゼラが先に出ようとして、産婆は赤い糸をその手に結んだというのですが、これを、以後の真なる世界の継承者として見るとき、共産主義及び共産党の抬頭を意味しているのです。赤い印の兄さんの押しのけて、弟ペレヅは長子として生まれました。長子権復帰ができなければ世界の統一ができません。その戦いを私が今やっているのです。これらのことは、皆神様が事前に啓示してくださったことです。

 聖書は実に啓示的であり、また人類の歴史を語る上で、文化の世界からも、宗教史の世界からも抜くことのできない宝典です。この宝典は、こみ入った人類歴史の秘密がことごとく記されているのです。その一つ一つを解いていかなければなりません。聖書は、持てば良いというものではありません。啓示されていることばを解かなければならないのです。

 その一つが血統転換です。マリヤの腹中から生まれたイエス様は、サタン世界の血統を転換させたのです。そうではありませんか。(「はい。」)イエス様は血統を転換した位置に立っていますが、イエス様の相対になることのできる新婦は血統転換の過程を通過していなかったのです。何の話か分かりますか? だから複雑なのです。平面的にみれば、お母さんが娘になり、娘がお母さんになるという。“入れ替え”がなされなくてはならないのです。女性の世界において反対の天地開闢が繰り広げられるのです。お母さんが娘になり、娘がお母さんにならなくてはならないのです。それは一人ではできません。神様とアダムが完全に一つになってから、これを協助せずしてはできないのです。そこに誰が協助するのかというと、マリヤが協助しなくてはならなかったのです。お母さんが娘になり、娘がお母さんにならなければなりませんでした。万古の伝統として知られることのできるお母さんとならなければならないのに、そのようになれなかったというのです。

 マリヤを求める民族

 皆さんはそういうことを知らないでしょう。先生が今日このような話をすることができるのは、それを皆正したから言えるのです。お母様をお迎えできたのも、それを正したからです。お母様を迎えることがた易いですか。私はなぜ四十歳を越えて、この年若いお母様をお迎えしたのですか。

 お母様をお迎えすることを知った統一教会の女性達は、目を女王蜂の目のように大きくして、稲妻のような火花を散らしたのです。熱が上がって、「私がお母様になる」と言い出しました。お婆さんも、十二歳の乙女達もみんなが、「お母様になる」と言って大騒ぎをする始末でした。そういう所にお母様を連れて来たらどうなりますか。真っ裸にしかねない有様だったのです。それで、先生が知恵を使って、作戦をうまくしたので無難に突破できたのです。

 イエス様の時はそうではなかったのです。結婚するには何から始めますか。結婚式の準備をすべきではなかったか。エデンの園のアダムとエバのように、裸のままで新郎・新婦の二人が結ばれるというのですか。準備ができなかったのです。歴史上のすべての讒訴条件を補償するための準備をすることができなかったというのです。

 祭司長とけんかしてしまったのです。ユダヤ教は何を以て反対したのか。統一教会はどんなに悪口を言われたとしても、じっとするのです。四十年間悪口を言われっ放しでした。もし反撥したなら殴られます。何百回も殴り殺されることになるのです。大韓民国でもそうです。黙っていません。みんながみんな殴り殺そうとするのに、じっとしているのです。男としてどう反撃すべきか知らないのではありませんが、じっと耐えて知らぬ振りをしているのです。しかし、いざ避難すると私は山の頂上でちゃんと待つのです。そして、「お前達は今来たのか」と言います。その時が清算する時なのです。

 イエス様は祝福を受けましたか。(「受けていません。」)誰のせいですか。誰のためですか。☆☆ ☆☆☆(こうしてだね)、☆☆ ☆☆☆(ああしてだね。)☆☆ ☆☆☆(そうしてだね……。)☆☆ ☆☆☆(本当だね……。)このように韓国人は「マリヤ、マリヤ」と言うのはなぜですか。それはお母さんを呼んでいる言葉なのです。「お母さん」と言う代わりに、「マリヤ」と呼んでいます。韓国人は、どんな話をするときでもすぐに「マリヤ」と言うのです。なぜそうなのか。それはキリストに関わりがあって、マリヤを求めているのです。

 ザカリヤの家庭とヨセフの家庭

 マリヤが責任を果たせず、ヨセフが責任を果たせなかったので、ザカリヤの家庭が責任を果たせなかったのです。洗礼ヨハネの家庭とヨセフの家庭が仲良く組んだなら、簡単に事は済んだのです。ヨセフはイエス様をお父さんとして迎え、ザカリヤは洗礼ヨハネをお父さんとして迎えれば良いのであり、ザカリヤの家庭に生まれた娘をお母さんとして迎えれば良かったのです。そうしなければならなかったというのです。それができていたなら、イエス様は間違いなく結婚したというのです。二代が協助しなければなりませんでした。この二代がカイン・アベルの関係にありました。この二代が転換しなくては、お母様を迎える道がなかったのです。そうではありませんか。善悪に分かれてしまって、位置が逆になったのですから、これを交替しなければなりません。上に立つべき者が下に立っているからです。善は下に立っていましたが、時が来たので上に行かなくてはならないし、上に立っていた悪は下がって行かなくてはならないのです。

 この交差点で上下を転換させる歴史的責任がメシヤにあるために、メシヤは上下が交叉する時に来られるのです。それ故に、ヨセフの家庭とザカリヤの家庭が交叉しなくてはならなかったのです。また、ザカリヤの家庭とヨセフの家庭は、カインとアベルの関係にある親族として、この親族の立場が入れ替わらなくてはならなかったことは言うまでもありません。伝統的イスラエル歴史を見るとき、ザカリヤの家庭が上ですか、ヨセフの家庭が上ですか。ザカリヤは大祭司長ですが、ヨセフは大工であり、平民でした。平民が大祭司長を屈伏させなければならなかったのです。ザカリヤはヨセフの前に屈伏しなければならなかったのです。入れ替わって、祭司長であるザカリヤはイエス様の王宮を祭司長として迎えなければならなかったのです。そうすることのできる自分の甥です。洗礼ヨハネとイエス様はお母さん姉妹から生まれた従兄弟です。

 そのようなことが可能ですか。それで殺されてしまったのです。そうならないように事を運ぶ責任がマリヤと洗礼ヨハネのお母さんにあったのですが、それを知らなかったというのです。かと言って、アダムが教えてあげるわけにはいかなかったのです。復帰路程では、自らが五パーセントの責任を果たさなくてはならないからです。女性が果たすべき責任を、マリヤと洗礼ヨハネのお母さんが果たせないまま、いつの間にかイエス様は三十歳にもなってしまったのです。

 マリヤがイエス様を宿す時に、ザカリヤの家に行ったのでしょう。そうであるとすれば、イエス様が婚期を迎えた時、その親戚の家に訪ねて行って相談すべきではなかったのか。相談して、親戚結婚をすれば良かったのです。そうすれば、洗礼ヨハネがイエス様に侍ったことでしょう。家庭的にしなければならなかったというのです。それがどうしたことでしょう。ヨハネは放浪しながら洗礼を授けて歩いていました。「彼は必ず栄え、私は衰えるだろう」(ヨハネ福音書三章三十節)という、そんなやりとりは本来する必要がなかったはずです。

 イエス様の怨恨

 イエス様は、そのような事情を背景にして、紆余曲折を乗り越え、本然の基準に帰らなくてはならない祝福の基準をどれほど渇望したことでしょうか。イエス様が一代を懸けて欣慕していたその位置を、イエス様自身が求め得ることができなかったというのです。死んで二〇〇〇年、イエス様に従った数多くの聖徒達が捧げられた血の祭壇に、血の乾くことがないように祭壇が連結されてきたのです。今日、世界的なキリスト教版図を中心にして、再臨という一時を中心として来られるのですが、それは栄光の座から来ることができないのです。血の祭壇から始まらなくてはなりません。血を乾かすことのできる道から歩まなければ、祭壇の伝授がなされないというのです。イエス様の、その怨恨を知らなくてはなりません。地上に来られて、果たすべきことを果せなかったイエス様の恨みが残っているのです。

 再臨時代においては、この怨恨が晴らされて、本然の愛に結ばれた祝福者達がいることのできるその位置は、どれほど得難いものであるかということを皆さんは知らなくてはなりません。先生がそうではありませんか。お母様をお迎えしたのは四十歳になってからです。祝福の位置に立つまでがどれほど困難であったか、また、どれほど待望したか分からないのです。だから貴いのです。どれほど貴いのか。祝福を受けた者達がどれほど貴いのか、皆さんは知りませんが、先生はよく知っています。

 イエス様はそれを知っていたというのです。どれほど思い焦がれていたことでしょう。慕わしい思いで眺めるイエス様の視線を、お母さんが、ヨセフの一族が、どのように受けていたでしょうか。洗礼ヨハネの一族はどうであったのか。祝福を受けた者達がいる場所を恋しく思う、その心中をどれほど測り得たことでしょうか。

 ご飯を食べても、それは忘れることができないものであり、一年が過ぎても忘れることができないものです。このような深い思いで憧憬し続けた祝福への夢が、三十余年の生涯と共に消えてしまったのです。その志を成し遂げることができずに、十字架の露となって消えて行った悲運のイエス様でした。胸の詰まる思いでした。

 キリスト教徒の錯誤

 それ故、神様の所願の御旨はどうなりましたか。創造の偉業の甲斐もなく、人間の堕落によって失われた理想世界を、堕落以後取り戻そうとした神の摂理が、また再び延長せざるを得ない悲運の歴史を天はもたれたのです。では、祝福を受けた者達を天はどれほど恋しく思ったか、考えてもみなさい。また、霊界に行った数多くの霊人達は四〇〇〇年間、メシヤ来臨の準備をしていたのであり、その期間に祝福された者が現れることをどれほど期待したことでしょうか。

 祝福の歴史的瞬間が天上の神様と、霊界のすべての霊人達の恨みが地上で解放される時なのです。この地上で恨みが解かれるその時を期待していたのです。しかし、その時を再び手離してしまったのです。手離してしまった霊人達の悲しみと祭壇の悲しみはさて置いて、数千年間更に受け継がれることになった霊界の悲痛な事実がどれほど大きかったことでしょうか。

 イエス様は地上における希望の基点でした。生きていたなら、たとえ年老いても負わされた責任を果たしたに違いありません。しかし、その責任を果たせずに三十三歳で死んで行かれたイエス様自身が神様の前に行けますか。天上世界のすべての霊人達を救い、地上世界の人間達を救うのが救世主の立場なのに、責任を果たさないイエス様が天国に入ることができますか。このような実に大変な事情をキリスト教徒達は想像すらできないというのです。自分達が主様と呼んで信奉するイエス様の、夢にも想像することのできない境地に立たされたその辛い事情を誰が知っているのでしょうか。知らない立場で祈祷しているのです。「イエス様が死んだ血の代価として我々が救われた」と言っているのです。

 血の価! 血の代価! その血がどこから来たか知っていますか。血が先ですか、愛が先ですか。命が先ですか、愛が先ですか。肉の血筋を通した生命は延長されましたが、神の血統を通した理想的愛の道は未だ閉じられたままで、肉の血筋はサタンに支配された死亡の血筋なのです。いつかはこの血筋を取り替えて、神様の血筋として転換させなくてはなりません。イエス様の結婚式をしてあげなければならないということが分かりますか。霊界とこのすべての事実を知ってみるときに、キリスト教徒達はあまりにも没常識であり、それで良いのかというのです。

 そこには一つの理由があるからです。あのパウロが大きな罪を犯したというのです。彼は、「信仰によって人は救われる」と言いましたが、人間は信じることによって生まれたのですか。

 堕落とは何ですか。堕落したのは、愛によって堕落したのでしょう。偽りの愛で堕落したものを、信じることで救いを受けることができますか。サタンの愛を清算することができますか。サタンの愛を清算することができないのに、救われると思いますか。神様の血筋とサタンの血筋とに分かれてしまったのに、サタンの血筋の者達がただ信じるだけで天国に皆住むことができますか。

 本然の創造理想では、神様の愛の根を中心にして、それが元となって収穫された実だけが、天国に獲入(とりい)れられるのです。それなのに、サタンの血筋の者が、信仰するだけでどうして天国に行くことができますか。そのような妄想的な、理論に符合しない信仰観に従って、世の終わりの時を待ち続けて来たというのです。何とあきれた話でしょう。それで、祈祷することは、「福を授け給え」と言うのです。サタン世界に根を張っていながら、「神様の愛と福は自分に下さい」と言っているのです。これは泥棒ではありませんか。そのような祈祷を聞くイエス様の心境がどれほど悲惨であり、神様の心境がどれほど切ないことでしょうか。

 祝福の基盤

 そのようなすべての事情が歴史の背後に隠されており、埋れて来たという事実を知ったレバレンド・ムーンという人が現れて、その根本を明かし、その根拠を解明しなくてはならないのです。こうした手続きの上に皆さんの祝福があるのです。どれほどか神様が願い、今まで数多くの霊人達が彼の国で憧れていた祝福を受けた者達がどういう者であるかを考えられるその長い間、霊界では、地球上に祝福が拡大することを願ってきたのです。祝福は、歴史の所願である解怨が成就することのできる基点であり、死亡時から方向も忘れて、根本から離脱した人類歴史の方向を定めて、本郷に帰ることのできる転換点にもなるのです。

 祝福は、信じることでありません。新しい生命を植えることのできる愛の伝統がなくてはならないというのです。分かりましたか? サタン世界の愛を踏み付けて、天の世界の愛の伝統を継承する、本然の根に属することのできる因縁を持たなくてはならないのです。その因縁で皆さんが祝福を受けた位置は、イエス様が解怨される位置なのです。アダムの解怨もしてあげなくてはならないし、イエス様の解怨もしてあげなくてはなりません。そして、次は皆さん達が先生の解怨をしてくれなければなりません。

 先生の解怨とは何ですか。 先生は、この地上で苦労する先生ではありません。私の手足を見なさい。先生の手足が小さいと誰かが言っていましたが、仕事をしないで生きるように生まれているのです。仕事をするようになっていないのです。本来、この地上で苦労するために生まれた人ではありません。歴史上の終着点から、新天地に向かって前進する歓喜の旗手としての使命を持って生まれたのです。この世に一人の使命者を送るには、歴史的にどれほど多くの犠牲が払われたか知りません。使命を果たした勝利者の出現がどれほど待望されたことか。霊界では使命の重大な責任が全うされるよう、神様も霊人達も私を見守ってくれましたが、地上の世界は反対だったというのです。これは驚くべき事実です。

 先生が四十歳になって、初めて祝福の基盤が出来上がったのです。それが、解放された一九四五年から十四年が過ぎた年です。十四年が過ぎるそれ以前には、場所を定めることができなかったのです。なぜならば、アダムが堕落したのが長成期完成級で、七と七の段階だったからです。十四はそこから来ている数字です。それで十四年たって、先生を中心にして皆さんを祝福してあげたのです。皆さんに、そのような祝福を受ける資格がありますか。神様の祝福を受ける人は、どのような位置に立った人ですか。神様の愛の根から生まれていなければならないのです。本然の父母から生まれて成熟したならば、その本然の父母から祝福を受けて、宇宙を相続する立場に立つのが祝福です。

 皆さんはそういう位置に立ちましたか。統一教会にそのような基盤がありますか。祝福を受けた人達、手を挙げてみなさい! 皆さんが置かれている今の位置は、祝福を受けた者としての位置ではありません。祝福の本然の世界を求めて行くための条件基盤なのです。三十六家庭であろうと、何であろうと皆同じです。カインはどのように先生に付いて来るのですか。七十二家庭が先生に付いて来るには三十六家庭という基盤を通して付いて来るのです。次から次へとそうするのです。

 祝福家庭という基盤が地上の基盤ですから、祝福の基盤を通らなくては先生には付いて来る道がありません。だから、後輩家庭が先輩家庭に頭を下げるのです。「死ね」と言えば、死ぬつもりで先輩の命令に服従して付いて来るのです。三十六家庭の者達が、先生の家庭がどうのこうのと評価することはできません。先生の家庭を評価することができるのは神様だけです。なぜか分かりますか。神様の家庭には、先生の家庭しかありません。本来の本然の世界には、三十六家庭のようなものもないのです。先生の直系に似ていますか。それが直系の息子・娘ですか。七十二家庭も、一二〇家庭もなかったのです。これは、この世を救うために作ったものなのです。

 この世の人は、怨讐の血筋で生まれたために、養子の形態に従って、彼らの息子・娘達を迎え、先生の直系の息子・娘を結んであげて、それを基盤にして、残る者達を全部繋ぐのです。そうしなければ、皆さんの後孫が天の前に行くことができません。皆さん自身が天国に入る道がありません。原理がそうではありませんか。この世は、何事も皆原理が基点になっているのです。

 皆さんは、祝福を受けた者達だと思っているのですか。本来の祝福を受けた者達ですか。違うのです。違うのです。カイン圏の長子権復帰されなければ私は苦労しません。お母様にも苦労させないし、私の息子・娘にも苦労させません。カインの長子権を復帰するために、先生の家庭が悲惨になってしまったのです。

 このような話をなぜするかというと、時が来たからです。本然の祝福を受けた者達の願いは何ですか。歴史の背後で絡み合っているものを解き、根の痕跡を塞いでしまうのです。自分の過去の習慣性から来る意識までも忘れることのできるその位置を探すのはいつでしょうか。過去の意識を持っていては、彼の国へ行ってから全部再生工場に入れられ、保留期間に置かれてしまうのです。そのため、私も今までに苦労したすべてのことを忘れようとしているのです。

 死んだ後、本然の道を進むべき祝福を受けた者達が、過去の意識を持ったままで本然の道を行くことができないのです。過去の意識が残っていれば、いまだサタン世界の因縁が切れていないことになります。それは、サタン世界の渦中に止まっているのであって、サタン圏を越えた、本来の世界圏に立っていないのです。みんな忘れてしまうのです。先生も、この道を行こうとしているのです。過去の意識を持って霊界に行ったとき、何事もなく通過できると思いますか。全部手帳に書かれているのです。 もしも統一教会の祝福家庭の楽園が出来るとすれば、それこそ悲痛な出来事です。

 祝福の価値

 深刻ですよ。皆さんが祝福を受けたその日と、イエス様が祝福を受けたいと懇切に願っていたその日々を比べてみなさい。母親に「婦人よ、あなたは、私と、何の関わりがありますか。……」という、本当に脅迫めいた発言をしなければならないイエス様の心情圏と、皆さんか祝福を受けて祝宴を催した時の心情圏とを比べてみなさい。どれほど天地の差がありますか。皆さんは天国でなく、地獄に行く群れ達です。

 天国に入る時は、天の本然の愛の衣服を着て入って行くのです。天国の愛の衣服を。自分が天国の服に合わせますか。それとも、天国が私に合わせて服を作りますか。そのような原則がありますか。学校の点数の付け方がどうなのか。一〇〇点を基準とするならば、「私に合わせた一〇〇点の基準で認定してください」と学生が言えますか。学生達の方が合わせなくてはならないのです。同じ理屈です。原理的伝統の祝福を受けた本然の者達が行く基準の中に、祝福を受けるという者達も、祝福を受けたという群れも、千年、万年、億万年かかったとしても合わせなければならいのです。

 地上で合わせられなかったら、霊界に行っては、何億万年かかるかも知れません。 その時、皆さんは親や子供達から皆讒訴されるのです。子供から、「あなたは、なぜ親としての蕩減を清算してくれなかったのですか。親としての罪を清算しないで、どうして私を生んだのですか」と言われるのです。

 皆さんの欲望を民主主義式でかなえるとすれば、神様の方で行ったり来たりしながら皆さんに合わせなくてはならないことになります。天国の方が風呂敷を包んで皆さんの方に行ったり来たりするようになっているのですか。それとも、皆さんの方が天国に合わせて行ったり来たりするようになっていますか。皆さんが合わせなくてはならないのです。深刻です。

 そういうことを考えるならば、皆さんはどれほど神様の助けを受けて、この祝福を受けた群れかというのです。霊界を動員して祝福を受けた者達です。イエス様が一生かかって期待して止まなかった祝福の位置に立った者達よ。それは、イエス様以後二〇〇〇年間この方、多くの人達が流し続けた血の犠牲の上で得た祝福の位置なのです。打たれても、また打たれずにおられない、その悲痛な歴史の非運を見詰めるイエス様が、それを越えて、昔自己が成すことのできなかったものを、世の終わりの日において、再び再臨して、成就して、捧げなければならない、その祝福の位置だったのです。神様を始め、全霊人、すべての道主(どうしゅ)、地上にいるすべての道人達が解怨される、悔い改めの位置なのです。

 皆さんが祝福された背後に、父母様がどれほどの難関を乗り越えて勝ち得たものであるか、その価値が分かりますか? 想像以上のものです。祝福の価値は何千万円分のものか、 「たとえ人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、何の得になろうか」 とイエス様も言っているではありませんか。それが何ですか、今日の統一教会の者達は、本然の祝福基準と、そこに和合することのできる内容があるかというのです。ああ、この者達は皆中身の無いもみ殻です。中身が無いのに、大きいことを言うのは誰ですか。春になれば分かるのです。種をまいても発芽しないのです。彼の国へ行けば、実の無い殻の方へ押しやられるのです。これが一番恐ろしいことなのです。その恐ろしさを知って、先生はありとあらゆる手を尽くしているのです。この道は、生死を賭けた道です。監獄に入る時も、自ら進んで入って行きながら、死の道を行ったとしてもこれをなしたのに、「私に祝福を下さい」と言うのですか!

 イエス様の位置、氏族メシヤの位置での祝福

 獄中生活をするには、家庭を犠牲にしなくてはできないのです。祝福の位置を得るために、なぜ私の息子・娘が犠牲になるのか。そういう罪はもっていないのです。嫁ぐ前の娘は自分の体に衣を巻き、肌を隠して操を守るように、私も若い時から自分の肌が見えないように服で隠し、男子としての貞操を守って生きたのです。ですから、やたらに外出もしませんでした。劇場の前を通っても、劇場には入ったことがありませんでした。その時の劇場は今も残っていますが、劇場に行くことなど考えもしなかったのです。バスはまた必ずその前で止まったのです。そのようなことを皆通過した後、この世を救うチャンピオンとなってからは、その中にいる彼らを救い出すために、劇場などにも出入りするようになったのです。

 屁を出しながら知らぬ顔をする人間がいるでしょう。この統一教会の群れ達は、ちょうどそれと似た者です。この世の臭(くさ)い臭(にお)いがするままに天国に連れて行ったらどうなりますか。天国が臭くてどうしようもないでしょう。臭いまま行く道が祝福の天国へ行くことのできる道ですか。この者達を一箇所に集めて何とかしなければなりません。自分の母親、自分の父親、自分の夫、自分の詰、自分の息子・娘は重要視しながら、天国を造り上げる子供達は重要視していないのです。自分の家庭よりも、天国を願っているのかということなのです。

 今は自分の子供、自分の妻・夫達を犠牲にして、天国の国民を編成する時なのです。それだどうしたというのです。どうなるか知っていますか。先生はあのように言っていますが、まさかそうなりはしないと思ったら見当違いです。本当か嘘かはいずれ分かるのです。分かった時はもう遅いのです。その時になって許しがあると思いますか。先生の話したことに許しがあると思いますか。霊界に入る時、許しがあるかないか、適当にやれば良いという者達、見ていなさい。その時が来てから引っ掛かるときは、泣いたり、わめいたりするというのです。

 法があり、原則があります。それを基準にして善悪を判断するのです。それに引っ掛かった者には、前進中止を命じるようになるというのです。そういうことがあってはならないと、先生は一生の間監獄を求めたのです。もっと大きな監獄へと求めて行ったのです。個人路程の監獄を越えて氏族監獄へ、氏族監獄を越えて民族監獄へ、民族監獄を越えて国家監獄へ、国家監獄を越えて世界監獄へと上って行ったのです。それが私の一生です。獄中で、やるべきことは皆やったのです。サタン世界で、私の果たすべきことは皆果たしたのです。そのようにして探したものが皆さんなのですか。違うのです。私は間違いなく自分の行く道を皆拓き、自分の行く道を走って来たのであり、自分の果たすべき責任分担をも皆走りに走って来ましたが、皆さんはまだなのです。私と違うのです。

 既成の祝福家庭達、覚醒しなくてはなりません。先生がいなかったら、本来既成祝福家庭はあり得ません。そういう原則がありますか。よその子供を連れて来て結婚させるとゐう原則がありますか。無い原則を立てたのです。イエス様が死んだために、メシヤが再臨するときは、イスラエルの直系の血筋を通しては来られなくなったからです。新しい別の血筋を通して来臨するようになったのです。

 イエス様の肉体をどこで探しますか。イエス様の肉体を探す場所はサタン世界だというのです。皆さんは、イエス様の肉体の代身として探し出された立場に立っているのです。イエス様の代身者の立場ですから、祝福が可能であるというのです。

 皆さんの祝福は、皆さんの位置で祝福を受けたのではなく、イエス様の位置で祝福を受けたのです。先生と父母様は、マリヤが果たせなかった責任を果たし、ヨセフの家庭、ザカリヤの家庭が果たすべき蕩減を代わりに蕩減し、皆さんをイエス様の立場に立てたのであり、イエス様の恨(ハン)を解いたのです。宗族編成は、個人、家庭、氏族の三段階を通過するのです。この恨、これを解かずしては、氏族、民族、国家、世界へと越えていくことができないのです。皆さんはどこから来て、どこへ行く者達ですか。真っ直ぐに行くのか、どちらに行くのかというと、イエス様の体の立場ですから、イエス様の体の位置で、父母様の前で祝福を受けるのです。分かりますか! (「はい!」)

 私は氏族的メシヤの位置で祝福をしてあげるのです。イエス様が肉身を失って行ったのですから、その肉体を探さなくてはなりません。イエス御自身が探すことがてきないでしょう。このようにして、イエス様の相対を結婚させてあげることにより、皆さん達を結婚させてあげることができるのです。

 しかし、その祝福はイエス様の霊的な援助に止まっているのです。実体的に祝福となるためには、統一教会の実体基準を通さなくてはなりません。そのために、イエス様が立てられなかった氏族基準の位置を立てるのです。氏族基準の位置は、ヨセフの家庭とザカリヤの家庭が和睦した位置です。この位置で先生の家庭と、祝福を受けたこのようなカイン圏の先輩の家庭の擁護を受けることによって、皆さん達を祝福してあげることができるのです。何の話か分かりますか?

 ホームチャーチによるカイン圏の復帰

 それで、皆さんはホームチャーチをしなくてはならないのです。ホームチャーチ基盤はイエス様の氏族圏なのです。ヨセフ家庭とザカリヤ家庭のカイン・アベル圏を一つにすれば、民族編成圏に連結することができます。イエス様ができなかったものを、皆さんがホームチャーチを通して蕩減復帰するのです。ヨセフの家庭、ザカリヤの家庭の蕩減復帰をすれば、イエス様が願っていた神様の国へ行くことができるのです。ここに民族が連結されるのです。先生が皆さんを連れて、民族と世界の蕩減路程を連結させることができるのです。そうしなければ、皆さんが連結される道がないというのです。

 先生の実体はイエス様の延長です。分かりますか? 皆さんはイエス様の延長された位置で、代身者として立たされたのですから、先生の世界的蕩減が延長した実体基盤を築くことによって、皆さんも子女の立場で先生の恩恵圏を相続して受けることができるのです。イエス様の位置で、イスラエルの国とイスラエルの王権を回復し、祝福圏が成就することによって、愛を中心にして相続するようになっているのです。分かりますか? (「はい。」)

 天的な愛、本然の愛を中心にして相続が繰り広げられるのです。なぜ愛を探して行くかというと、愛を持たずしては、相続を受けることができないからです。神様の愛を根としなくては相続権が、所有権がないというのです。過去にあった所有権はサタンを中心としたものですから、これを否定して、天の国の所有権を取り返さなければならないのです。それには、ホームチャーチをしなければなりません。

 ホームチャーチを通して、カイン圏を収拾しなければなりません。そうすることなく、皆さんの故郷に帰ることができないのです。金氏、朴氏、何氏であろうと皆そうです。カインの氏族圏が無ければ自分の家庭を救う道がありません。天の掟に引っ掛かるのです。なぜホームチャーチをしなければならないか分かりますか? イエス様の代身者として、イエス様の氏族基盤であるザカリヤの家庭と、ヨセフの家庭を一つにして、カイン・アベルの位置を転換させ、祝福の基盤を復帰するためです。これによってイエス様が果たせなかったことを蕩減復帰することになるのです。

 皆さんの家庭は、血を流して死ぬようなことがあっても、ホームチャーチの三六〇軒を皆一つの家庭として連結させるのです。恐れをなして行かない時は、サタンが止めることになっているのであって、神様な止めるようになっていません。これを通して、民族圏、国家圏へと上って行くのです。それを通らないでは行くことができません。

 楽に暮らしてみたければ暮らしてみなさい。祝福家庭の子女であっても、ホームチャーチをしない者の息子・娘は、年齢に達しても祝福をしてあげることができません。ホームチャーチが完成する時を待つより他ありません。年を取るまで完成しなければ、そのまま死ぬしかありません。死にたければ死ぬし、止めたければ止めるのです。従わない人は絶対に祝福を受けられると思ってはなりません。祝福対象者を呼んで約婚させるのもいつになるか分かりません。三十六家庭が先生の代わりに立って祝福を与えるようになるかも知れません。そうすれば、今回の祝福に入らなければ、もう私から祝福を受けることはできなくなります。恐らくないでしょう。

 本然の祝福者となるために

 自分勝手に御旨を否定して出て行った者達は、離教者の道を歩むことになるのです。祝福を受けたとしても、皆さんの祝福は条件祝福であるということを知らなくてはなりません。条件祝福者から本然の祝福者となるには、三代にわたる三回の祝福を受けなくてはなりません。祝福される位置はどういう位置ですか。サタンが反対する位置に祝福がありますか。君達は統一教会内で祝福を受けたのでしょう。国が祝福してくれたのではありません。今それを知らなくてはなりません。

 教会の祝福と、国の祝福と、世界の祝福を受けなければならないのです。アダムとエバが受けるべき祝福の位置は、天と地の往来が自由にできる愛の軌道の上だったのです。皆さんの祝福は統一教会内だけの祝福でしょう? (「はい。」)

 国の祝福の時には、今まで先生が指示したすべてのことが憲法となります。天の国の憲法と同じです。その憲法に合格しない者は、国の祝福圏内から脱落するのです。三十六家庭であろうが、誰であろうが皆脱落するのです。しっかりと覚えてください。

 そこで考えるのですが、国家の祝福としては、大韓民国の国家祝福を受ければ良いのです。大韓民国の祝福を受ける際に、世界祝福を一緒に受けても良いのです。また、世界祝福を別に後から受けても構わないのです。三段階の祝福があるということを知らなくてはなりません。

 このように残された祝福の道があるにもかかわらず、祝福の二世達に対して、「お前は勉強だけしろ!」と言っていた者がいます。そういう間違いがあるかないか、私は徹底して調べようと思います。私は、邪悪なことをする人に対しては徹底した人間であることを記憶してください。自分の好き勝手に相手を選んで結婚する者もです。そういう親から生まれた息子・娘達は全部垣根の外です。

 それから、統一教会に入って来てから落ちて行った者達、または祝福を受けてから落ちて行った者達は別の囲いに入れなくてはなりません。島国に行って住むのです。陸地にいたとしても、陸地の中にある島のような所に島流しするのです。島にいたまま死ねば、霊界に行って島に住むことになるのです。嘘ではありません。そのような悲痛な運動から脱出しなければならない者達同士で結婚すればどうなるか。どれほど悲しまなくてはならないかということを知らなければなりません。それを知ったために、先生は自分の生涯を全部水泡に帰して、監獄巡りの一生を歩んで来たのです。生涯を皆捨てたのです。なぜかというと、本然の祝福を受けた者達の祝福の位置が欲しいからです。

 先生にもその道が残されているのに、統一教会のこの奸臣達よ! 祝福を受けた身でありながら、天に背くとは何事か。それがどういうことになるのか知っていますか。堕落した位置は長成期の完成級の位置ですから、祝福を受けて堕落すれば、完成期の完成級で堕落したことになります。サタンが皆さんの主流です。サタンを解放して、皆さんを地獄に行かせなくてはならないというのです。それは父母様の体を脱ぐことになります。夫婦共に神様の体を脱ぐことになります。それを知らなければなりません。教会を離れたその者達が、教会に対して批判することのできる何の権利もありません。 祝福家庭だからと言って、「アイゴー!教会で助けてください」と言える何の権限もありません。サタン世界の者達を面倒見たり、助けたりすることができますか。天が私を助けるのは、荷物を増やすことになるのです。その何十倍もサタンが喰い付いてぶら下がるというのです。助けを受ければ受けるほど、それが穴に押し込まれていくのです。這い上がろうとしても這い上がることができません。蕩減が次から次へと代を重ねて受け継がれるため、上へ上へと積み重なるからです。上がることができないというのです。

 きょうの題目は何でしたか。「祝福を受けた者達」です。それを成さなければなりません。完全に解放を成し遂げてから、神様の愛の伝統に従って、愛の核の根から生まれた枝となって、そこから万国が連結することのできる、そのような祝福の位置に立つのです。その位置を、神様と、霊界にいる人類がどれほど切望したことでしょうか。地上に住む人々が、連綿と綴ってきた、このような悲哀に満ちた闘争史の中で、方向も知ることができず、世の人々は今なお混沌とした状態にあり、行くべき生命の道を見出せないでいるのです。そうしたこの世に未練があるでしょうか。皆さんの行くへき道が忙しいのです。何の話か分かりますか? これを忘れないようにしなくてはなりません。

 新しい決意のもとに

 きょうのこの元旦は、八六年の初日です。この日に我々が行くべき「祝福を受けた者達の位置」に向かって前進することを決意するのです。祝福を受けた家庭、祝福を受けて住むことのできるその世界、その天国が我々の前途にあるのです。しかし、今はなんと遠い距離にあるかということが分かりますか? (「はい。」)分かりますか! (「はい。」)天国とどれほどかけ離れた自分であるか、恥ずかしいという事実を知らなくてはなりません。

 皆さんは今、自分が何の服を着てこの座に参席しているのか知っていますか。それも知らない君達なのです。そういう自分が恥ずかしくありませんか。恥ずかしくても、今は行かなくてはならない宿命があるのです。行くまいとしても、行かずにはおれない宿命にあります。先生も宿命と思って一生を生きてきました。本来、苦労するためにこの地上に来たのではありませんが、行かなくてはならないために自分の宿命と思って生きて来ました。キリスト教が先生を迎えてくれていれば、私の一生も、この地上も、今日のようにはなっていないのです。四十年が終わった今では、そのキリスト教の勢力が弱体化してしまって、すべての面で統一教会に太刀打ちできないようになっています。衰退したキリスト教会は、統一教会に従わざるを得なくなるのです。このような転換を目前にしながら、統一教会の皆さんが許しを受けることのできない者であったとすればどうなるのか。

 たとえイエス様が成すべき救いの御旨を代わりに成したとしても、そのイエス様の体は怨讐サタンに奪われて行ったのです。だから、皆さんの一身は愛の衣服を着た者として、涙でもって洗ってから清くしてもらったとしても、心は清くなれない自分であることを知らなくてはなりません。悲運の者であることを自覚しなくてはなりません。この悲運な事実を自覚しなければなりません。考えるだけでも身震いするのです。サタンの、その怨讐の血が流れている者達よ! あの、宇宙の大魔王に体を蹂躙された者達よ! 姦夫の血が己の欠陥に脈々と流れていることを知らなくてはならないのです。

 本然の人間としての貴さはどこに消えたのか。人間は堕落したとはいえ、本性は失っていませんでした。本性ある限り、サタン世界は悲しみの世界です。サタンがどれほど本性の訴えを蹂躙してきたことでしょう。今日の皆さんが、そのような本性を蹂躙された歴史の後継者なのです。長い間苦痛を受けてきた、悲惨な姿を天の前に覆い隠せるとでも思いますか。恥ずかしい我が身であることすら自覚のないこの群れよ。軽挙妄動するこの群れが今日の統一教会の祝福を受けた者達ではないかというのです。この時間、警告しておきます。

 私が監獄に入る時、無言で入って行ったのです。迫害を受けた時も、私は何も言わずに生きて来ました。控訴された時も彼らを許したのです。打たれても耐え、悔しくとも耐えて、ただ天を見上げるばかりでした。神様が悔しいことを分かってくれるのです。私の代わりに悲しむのです。天をお迎えして、父母の心情を慰労するため、息子の道理の道を案じながら、黙々と自責しながら行かなくてはならない道が、復帰の運命の途上にある私達の道であることを知らなくてはならないのです。

 その曉に、本然の祝福を受けた者達がその価値と名分によって得るものは、自由と希望に満ちたものです。神様の愛と父母様の愛に結ばれて住む永遠なる天国の本部を定めて、全宇宙を統治することのできる永遠の宝座に座るのです。宝座は、己の一身をすべて捧げても座れるものではありません。行けども行けども宝座に着けない不足な皆さんです。不足を顧みながら、感謝して歩まなくてはならないのです。たとえその世界を追慕するだけでも、罪責感を感じなくてはならない。我々堕落した後継者であることを知らなくてはなりません。分かりますか? (「はい。」)きょう、この話を聞いた新年、皆さんは今までの統一教会での生活を一新しなければなりません。

 条件的祝福家庭から、本然の祝福家庭へ

 これから、新しい世界がやって来ます。統一教会反対の時代が過ぎて行きます。そうすれば、どういうことが起こるでしょうか。若い統一教会の二世達、よく聞きなさい。キリスト教の二世達が入ってくるのです。そうなれば、誰がもっと熱心に励むと思いますか。自分が一番だと考えているこの者達でもとうてい及びません。天が認めないのです。神様は、この世界全体を救うために、ご自分の息子・娘を送られて、後に続く者として皆さんを祝福してくださったのです。それなのに、祝福を受けた者達が救いの先頭に立つのでなく、摂理の観覧客となって、摂理の部隊を眺めているとは何事ですか。全部が全部地獄へ逆さまに落ちて行く者達です。

 分かりますか? 条件付きではなく、本物の祝福を受けた者達になろうという真剣な気持ちで、自分の整備をして進めて行かなくてはならない時点に置かれているのです。整備の仕事とは何ですか。それがホームチャーチ運動なのです。この運動をなおざりにして来たことを、涙を流して悔い改めなければなりません。それでも足りなければ、血を流してでも祭物となることによって、ここに住むすべての国民が生き残る道が開かれるのです。これを造るべき責任がホームチャーチの責任であり、この世に住む人々でないことを知って、いち早く準備して行くべき祝福家庭であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 私が願う祝福家庭は本然の祝福家庭です。本然でない祝福家庭が、現在の未完成状態にある祝福家庭なのです。これを「条件的祝福家庭」と言うのです。この両者を混合してはいけません。本然の祝福家庭の位置に進むための、条件的祝福を受けた者の道がどれほど険しく、どれほど難しいものであるかを、くれぐれも忘却してはいけません。分かりますか? (「はい。」)

 新しい年を出発するにあたり、まずは自分の家庭から整備運動を急がなければなりません! 「そうする」と言う人は手を挙げてみなさい。

 祈祷

 流れ行く歳月の中にあって、長いサタンの世が始まり、今なお続く中で、人類はサタンの血を受けて増えてきました。ここにひれ伏す者達は同じ血を受けておりますが、二つに分かれた歴史の起源を因縁に持って生まれた、悔しい堕落の後孫であることを悟る私達自身であります。この後孫を救うために、天がどれほどのご苦労をされ、天の因縁をもったすべての聖人達を長い歴史上にどれほど犠牲にしたことでしょうか。悪なる群れ達の前で悲惨ないけにえとなった言葉なき犠牲者の墳墓の中に、神様の哀怨の数々がどれほど多かったかを考えるとき、彼らを復活させて、その恨みを解き、天上世界に勝利の覇権を賦与されることのできる、そのような時をどれほど心から期待されたでありましょうか。その日を迎えるために、この地上に本然の父母が生まれなければならないのであり、父母の血族に連結し、世界に広めて、その血筋を清めて、接ぎ木された者達が現れなくてはならないのであります。数代を経て、三代で成さなければ、七代をかけて成すようにしてください。

 愛の伝統的起源は、神様の愛の核の根を植えることから始められるのでした。愛の幹が伸び、枝が育ち、愛の葉が育って、愛の実を結ぶべきこの基準を誰も達成てきなかった事実を、神様もご存じです。歴史上の聖人、先哲が、霊界に行った数多くの我々の先祖達が、すべての霊人達が、今までこの地上に住むすべての人々も、察することはできずとも、心の世界ではこの基準を追求したのでありますが、辛い苦労の人生の後は、苦労の人生航路に終わった後に歩んだ死亡の道であって、生命の道ではなかったのであります。

 このような歴史的恨(ハン)を知って、この統一教会の群れ達は父母様を通して、祝福という、この上ない恩恵を受けましたが、この大いなる祝福に対して、自分なりの誤った判断をもって、自分を中心とした祝福として考えておりました。この容赦することのできない過去を、涙を流して深く悔い改めておりますので、どうぞお許しください。残された時間が少ないことを知って、二度と同じ過ちを繰り返さぬよう肝に銘じさせてください。

 夫婦がどのような位置に立つべきかを考えるときに、原理原則から遠い距離にある自分達であることを自責しながら、原則を天の代身に立てておき、それを崇拝しながらその標準の前に私が合格するよう、自分自らを整備して愛の完成への道を急がせてください。

 訓練と準備をしなくてはならない厳粛な公式的法規の基準を知ったのでありますから、その前に順応し、その前に絶対的権限を立て、自分はいかなる犠牲を払ってもそこに一致することのできる道を越えながら、一段階、一段階上って、天上世界にまで行かなくてはならない運命の道が自分を招いていることを忘却してはなりません。

 これまでに、多くの祝福家庭をここにお父様が立ててくださいましたが、彼らは悪がはびこる険悪なこの世から多くの痛手を負って、ここかしこに傷痕を残しております。全身ぼろをまとっておりますので、傷痕を覆うことができませんが、神様の御旨を知り、神様の本然の心情圏がどのようなものであるかを知ってからは、統一教会員はこの世の人々とたった一つ異なる点をもっているのです。お父様が願い、父母様が願う本然の心情圏に進む道を運命の道として受け入れることのできる一つの素質をもっているのであります。このことが統一教会の信者が一般の信仰者と異なる点であり、一般の人々と異なる点であり、大韓民国の国民と異なる点であります。これを誇り得る、これらの群れをどうぞお父様、哀れみをもって御覧くださいませ。

 この祈りに先立ちまして、「貴き者」となるための訓示を与えましたが、今一度訓示の言葉と共に自らを整備し、明日への準備を急ぐことに不足のないよう、自己の全生涯を懸けて努力する群れとして、その家庭、その一族となることができるように激励、鞭達、指導してくださいますようお願い申し上げます。

 彼の本然の世界に、あなたの純粋な愛の血縁を結ぶため、アダム・エバの本質的愛の美化と、その愛の価値の昇華を待って、神の縦的愛の核を、横的アダム・エバの愛に接触させるその一時を待ち望んで、ここに生命の起源とし、愛に始まって、愛に生まれ、変わることのない愛の生涯を経て、永遠なる愛の世界へ循環することのできる道を整えるための、お父様の本然の創造の偉業が、千万不幸にも、アダム・エバの堕落によってこのような悲痛なる歴史を残してしまいました。考えるだけでも、知るだけでも不忠であるほどの一大事件であったこの堕落の後裔であるということをお許しくださいませ。

 この時間、原理を通して学んだ神の心情圏がどのようなものであるかを各自が知りましたので、これだけでも、あなたの前に誇り得る条件とさせてください。

 今までの過ちをお許しくださり、きょうから新しく始まる画期的な家庭の一つの線を立ててください。三十八度線以南に住む我々は、サタン世界とは関係のない民であり、どのような困難に出会ったとしても、我々の夫婦だけは間違いなく天の側の家庭であり、たとえ、この肉体を失うことがあっても、名は失うことのないよう、万民の主体的主人としておられるそのお方を、私のお父さんとして侍ることのできる特権と権限を持って、あなたの前に帰ることに羞恥することなく、自信と信頼をもって、すべてを越え、克服することのできる統一の群れ達になれるよう許諾してください。

 旧正月の元旦を迎えたこの朝、このように新たな目標を定めて、教会祝福を経て、国家祝福と世界祝福までも迎えて、万々歳の勝利の凱歌を上げるその日まで、すべてのことを忘れて、ひたすらに愛の昇華に勤めて、あなたの愛の光に照り輝く、燦然とした理想の姿になれるよう、お父様、お導きください。

 あなたの本然の心情が、それが所願であることを知りましたので、その所願を統一教会の者達の心の中に深く納めて、その一念がお父様のための一念であり、その一念の中に永遠に湧き出るあなたを偲び、あなたを愛さずにはおられない、瀑布の水のような新しい愛の泉となって、自分の家庭を潤し、一族を潤し、民族を潤し、万民を潤しても余りある愛の生水を吹き出すよう祝福してください。

 無知であった過去を清算し、完全なる位置に立って、明日の勝利の防牌(ぼうはい:楯)を掲げ、悪魔の世界の前に号令して、「退け」と命令することのできる天の王子・王女、特権的な権限を備えた勝利者として、千年万年をつつがなく暮らしながら、神様が愛する父母様と共に、千年万年侍って暮らすことができますように。更に、韓国民族が、残されている民族と共に、我々の父母様と共に千年万年暮らすことのできる、これらの者とならしめてくださることを、許諾してくださいますよう、懇切にお願い申し上げます。

 この一年をお父様が導いてくださり、苦難に満ちたお父様の歩みが、どれほどお疲れになっているかを知りながらも、愛の心には疲れを疲れとして感じることのできないお父様の愛の心情を思いますとき、今一度これらの者を収拾して、あなたの愛の圏に導かれて、乾くことのない草園に安息することのできるねぐらを築いて、安息することのできる「祝福を受けた者達」になることができますように、守り、覆ってくださいますことを、再三再四お願い申し上げながら、すべての御言を真の父母様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。(「アーメン。」)




一休さんのような機知(トンチ)ではありません。

奇知=人とは異なる知恵
すなわち神様の知恵

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Last updated  2021.12.31 08:25:23
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