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パワースポットを訪れることがちょっとしたブームになっています。ハッピーになれる不思議なパワーがあるということですがそれは理に適っていると思います。其処は大抵、ゼロ地盤といわれる地でほんとうにパワーが満ちているのです。 地球の磁力の源が集中し、【ヴォルテックス】と呼ばれるエネルギーが渦巻いているといいます。ヴォルテックスとは、ラテン語で渦巻きの意味。地球のエネルギーが強いパワースポットとされる中で、特に磁力の源が集中し地表に放出されるエネルギーが強い場所です。人によってはその波動を強く感じ取り、涙が溢れるなどの浄化(デトックス)作用を経験することもあるのだとか。こういう場所では植物も磁力の影響を受けて変わった成育をする事が多いらしい。 古代、地球の全ての生き物が磁力を感じ、行動していました。渡り鳥も魚も方向感覚が優れているのはその機能を持っているからです。磁場の歪みで地震を察知、逃避する動物もいれば、潮の動きで魚は食欲を左右されます。潮の干満も月と太陽の磁力で生じます。北半球のイワシなどの群れる回遊魚は、水槽に入れられると右回りに、南半球の魚は左回り。ウナギも方向を間違えず、エサも食べずにひたすらマリアナ海溝を目指します。古代の人類も不思議と集中しているのが、そういう場所。彼らは、レイラインといわれる聖地にストーンヘンジなど巨石を配しています。パワースポットと大地の気脈のながれ。 大地の中の気の流れを【龍脈】、その気が集中しているところを【穴】といいます。西欧では【レイライン】と呼ばれます。日本でも平安京から吉野・熊野へ繋がるラインがそれに相当します。レイラインとは、古代遺跡などを地図上で結んでいくと見えてくる一定の法則でつながっているネットワークのことです。ライン上には何らかの強いエネルギーが流れているとの説もあります。レイラインはよく、経絡とツボの関係にたとえられるのですが、レイラインが経絡だとすると パワースポットがツボになります。世界的にも遺跡・古くからの聖地などが直線的に配置され、活断層に沿ってあることが分かりました。岩石、特に石英に圧力を加えると電磁波が発生します。活断層上でしばしば起こる圧電現象は強力な電磁場を生み出し、条件がそろえば大気をイオン化して球電光を形成することもあるので古代人は、断層線上で起こる発光現象を目撃し【神】の出現と考え神聖視し、そこの場所に巨石などを配置して聖地として崇拝したのでしょう。イギリスでは、レイラインの多くは、ケルトあるいはそれ以前の時代にまで遡る遺跡を結んでいるといわれ、 そこには、ストーンヘンジや、ミステリーサークルの出現地なども含まれています。そこは、大地のエネルギーが集まってくるところというだけでなく、宇宙の生命エネルギーとの相互作用のセンターでもあります。そういうところでは私たちの生命波もまた天地に感応するのだそうです。ところで、人間の脳にある種の弱い電磁波を加えると、幻覚・幻聴・気分の高揚・逆に落ち込み等が発生することも知られていますが、このある種の電磁波というのが、活断層で発生する電磁波とそっくりなのだそうです。昔の聖職者(シャーマン)などは、感受性が非常に強い人たちで、活断層の近くに来るとそこで発生している電磁波の影響を受けて幻覚・幻聴・気分の高揚などがおこり、神の啓示を聞いたり姿(光)を見たりして、聖地としたのかもしれません。日本のレイラインで最も知られたものの一つとして大和の地に存在する寺社や古墳や山の山頂が、北緯34度32分の東西の一直線上に並んでいるというものがあります。太陽や星の運行とも密接な関係があるとされ太陽の道に付随して、神社や古墳が形作る巨大な三角形などが発見されており、それらは春分や夏至などの特定の暦日に太陽が昇ったり沈んだりする地上の地点を示すために利用されたといいます。【古代の鉄と神々】のなかで、このラインが採鉱・鉄冶業を生業とする集団によって日神祭祀の祭場とされたといいます。それに関連したことですが吉田松蔭は、水戸学の南朝正系論を理念とし、後醍醐天皇の血統、大室寅之祐を擁護していました。また部落・賎民など被差別民解放にも力を入れていました。松下村塾出身の志士たちに指導された長州奇兵隊の中核を成していたのは、部落解放の夢に燃える賎民出身の若者でした。奇兵隊のなかでも、特に注目すべきは力士隊、伊藤博文は、この力士隊の隊長でした。 この時代の力士隊というのは弾体制(同和)に従属していて部落と密接して関係しているかあるいは部落そのものでした。さらに力士隊のあった第二奇兵隊の屯所は麻郷(おごう)近くの石城山にあり、その田布施町は、大室天皇家のあった場所で、明治天皇となる大室寅之祐が明治維新の前年まで過ごした地でした。因みに岸信介・安部晋太郎・晋三氏の出自もこの辺りです。伊藤博文などもこの辺です。興味深いことに、古くから石城山は【聖なる山】として崇められ、石城山を基点として【太陽の道】レイラインに神社が置かれています。田布施町の国森古墳からも、副葬品に鉄矛、鉄斧、鉄削刀子等が出土し、古くから鍛冶屋衆がいたと推論されています。この周辺の地から何人も首相が出ているのは偶然でしょうか。【言霊】といって、言葉にも波動があり、思考にも現実を変えるパワーがあるといわれています。マイナス思考でネガティブな言葉を発すると、本当に不幸を呼び寄せてしまう例は、少なからずあります。【シンクロニシティ】という共時性も、素粒子論で理解することができます。すべては、波動によって宇宙とつながり感応しています。前向きにポジティブに生きていくことに越したことはありません。
2010/05/24

巨大大陸パンゲアが分裂していくとき、 アフリカは震え、その脇腹に、ヒビが入りました。この巨大な断層は、東アフリカの大地溝帯に、つながっています。その影響がハッキリ目に見えるのがアフリカとアラビアの間の深い亀裂、紅海です。 200万年前、アフリカは、まだアラビアとつながり海峡は乾いていました。ユーラシアとアフリカの様々な哺乳動物は、アラビアとアフリカの間を紅海の北と南の両端で越えることができました。その時、すでにアフリカは年間15ミリの割合でアラビアから離れつつありしだいに地峡を開き、やがてアフリカの南ルートの門を閉ざそうとしていました。この段階では北と南ルートの門はまだ開いていたので、ホモ・エレクトスでは東インドから東アジアへ広がり、また180万年前には北のレバントからコーカサス山脈のドマニシへ到達しました。2、3000年がたつとレバント地方は乾ききり、ドマニシの人類は北へも南へも東へも逃れることができずに絶滅しました。250万年前、世界は寒冷になりはじめ、変化が起ころうとしていました。100万年のうちに湿潤温暖だった鮮新世から氷河時代の更新性へと移行しました。この乾燥した氷期が繰り返し訪れる過酷で不安定で寒冷で乾燥した時代になるとすぐ、石器と大きな脳をもつ最初の人類(ホモ属)が、アフリカのサバンナの舞台に登場しました。それより数百万年前に四足と二足の分岐が起こったときのようにこれは歩く類人猿の子孫にとっての分岐点でした。堅い植物質をすりつぶす大きな顎を発達させ、石器をつくりかなり大きな脳を発達させ、有能な狩猟採集民になる道を歩み始めやがて私たちへとつながっていきます。最も古い現生人類ホモ・サピエンスは、エチオピアのキビシュから発見されたもので、19万5000年前に遡ります。彼らは長い間、東アフリカの大地溝帯周辺で暮らしていましたが約8万年前、その中のごくわずかなグループがアフリカの角と呼ばれるソマリアを経て紅海を渡り、アラビア半島に到着しました。8万5000年前頃から地球規模の寒冷化が進み、紅海の海面水位が一時的に80メートル低下したため紅海入口の悲しみの門を渡り、彼岸のアデンに移住したと考えられています。この一団の子孫は海岸で食糧採取を続けながらアラビア半島の沿岸を巡り、西アジアからインドを経て、一万年の間にマレーシアからインドネシアまで到達しました。そして彼ら現生人類は、【出アフリカ】を果たした後、一万年前までに南極大陸を除く地球上のすべての大陸を席巻しました。女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。一つはマンジュ、もう一つのナスリーン、ナスリーンは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。マンジュはアジア人のなかだけにみられます。南アラビアとパルチスタン沿岸にナスリーンとマンジュの根源と早期の分枝がみつかっていて、ただ一度の南ルート出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとマンジュとナスリーンのDNAに属しているといいます。では、イヴ一族からマンジュとナスリーンは、どこで生まれ(分岐)たのでしょう。マンジュはインドで、ナスリーンは南アラビアとパルチスタン沿岸に根源がみつかっています。ナスリーンの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。男系もまたヨーロッパ人の祖先を南アジア発祥の地としてパキスタン~カシミールへ進みそれから中央アジアとロシアを経由して史上2番目のヨーロッパ進出したことを示しています。彼らは、それだけでなく、中央アジアへ入ってから東西に分かれてヨーロッパと東アジアへ広がっていきました。東に行った者たちは、やがてアメリカへ到達し一方西に行った者たちは北ヨーロッパと西ヨーロッパに入ってきました。最終最大氷期の間、留まった者たちは南方の中央アジアの避難地にひきこもりその後、ふたたび拡大して現在みられるシベリアやウラルの各集団の一部になりました。
2010/05/24

縄文時代(1万2000年前以後)の人々は、みんな白血病のウイルスを持っていたことが分かってきました。続いて弥生時代(3500年前以後)になると、中国や朝鮮などから、いろいろな人々が渡来して賑やかになりますが、弥生時代の人々は、この白血病ウイルスを持っていませんでした。このように縄文人と弥生人は明確に違う存在だったことが分かります。日本人を血液型でみていくと、A型は、チュルク族(トルコ系)・高句麗・新羅・百済系B型は、ツングース(アイヌ)系・アーリアンの白人系O型は、ネアンデルタール人及びネグロイド(黒人)・ポリネシア人・ユダヤ人など各種系統が含まれます。日本人は、いろいろな人種が混合された雑種であり、そのおかげで遺伝的に強くなっていったようです。(縄文人)日本列島に最初に渡来した縄文人の人口は、5000人に満たない数でした。港川人が2000人、アエタ族800人、オロッコ人600人、アイヌ人800人です。すべてドラヴィダ人の血を引いているといいます。この人々が、縄文人となります。約9万年前、アフリカにいた原人の群れの中から、最初の新人であるフッリ人がアフリカで誕生しました。彼ら新人の群れは、しばらくして世界中に広がりましたが、各地に拡散する過程で、分化しました。 ドラヴィダ人は、約6万年前に、マレー海域においてフッリ人(黒人)から生まれアーリア人(白人)の侵入以前にインド北部を支配し、インダス文明を担ったとされる民族でした。アエタ族は、コロボックルといわれた小柄な人々で、港川人と共に南方からやってきて薩摩、日向、熊本に住み着きました。やがて彼らは、山口、出雲、高知、青森、北海道などに散居していきました。港川人は、約1万2000年前(ビュルム氷期の最終期)に、スンダ大陸にいたエブス人(プロト・フェニキア人/男性)と先住のワジャック人(ドラヴィダ人から生まれた先住民)との混血によって、セレベス島のパル、ゴロンタロなどの中部スラウェシで生まれました。 オロッコ人は、約1万3000年前に、ワジャック人とヒッタイト人(約5万年前に、アラビア半島において、エジプト人から生まれた)の混血によって、セレベス島のマカッサル周辺で生まれました。アイヌ人は、約8000年前に、シベリアのバイカル湖付近でオロッコ人(オロチョン)とアーリア人の混血により生まれました。ビュルム氷期の終末期、約1万2000年前の大洪水直前にバイカル湖周辺にいたオロッコ人が日本列島に移動して縄文人になりました。津軽の荒吐五王(安倍氏・秋田氏)の歴史を伝える【東日流外三郡誌】は、このオロッコ人(狩猟民)のことを、岩木山周辺にいたアソベ族(阿蘇部族)としています。当時、オロッコ人の交易従事者たちは、約9メートルの丸木舟を横に2艘つないで帆を張り、舵をつけて盛んに航海していたようです。まだエジプト文明より遙か以前のことです。三内丸山で使用した黒曜石は、和田峠や霧ヶ峰(八ヶ岳連峰)及び佐渡島などからもたらされました。糸魚川文化圏からはヒスイの原石や加工品、黒曜石などを運び帰りにはサケ・コンブ・毛皮などを持ち帰りました。琥珀などは東北でも産出していましたが一部シベリアからも輸入していました。古代、東北には餅鉄という純度の高い磁性に富んだ磁鉄鉱石を使用した製鉄法があって、明神平でも3600年前頃のカキ殻の付着した鉄滓が出土するといいます。タタラ製鉄以前の縄文製鉄があったと考えられているのです。この縄文人は、風の強い所を選んで盆状の野焼炉を造り、餅鉄とカキ殻を入れて火をかけ、還元鉄を取り出していたらしい。これでヤジリや釣り針を作っていたようです。正倉院にある「舞草」銘の無装刀は、日本刀のルーツとされていますが、岩手県一ノ瀬の舞川近くの「餅鉄」が発祥の地とされています。 1万1千年前、港川人が沖縄を経て鹿児島へと上陸し、日向や阿蘇などの各地に広がり、縄文人になっていきました。阿蘇カルデラ北辺山頂にある【押戸石】と呼ばれるヒエログリフ(神聖絵文字)を刻んだ古代祭祀遺跡が港川人が造った【シュメール文明のモニュメント】であって、他にも飛鳥の【酒船石】に似た【宇宙図岩】は、ユダヤ民族の秘儀といわれるカバラの生命の樹(セフィロト)すなわち神的属性の図を立体的(4次元的)に岩全体に刻まれています。さらにBC6000年頃、彼らが奈良の地に渡来し、胡沼の畔に竪穴式住居をたて定住しコロニーをつくりました。現在の【奈良盆地】は、その頃は盆地ではなく琵琶湖ほどの大きな湖だったといいます。その中に半島的にわずかに見えていたのが 三輪山とか大和三山(畝傍山・天の香具山・耳成山)でした。現在の間氷期よりも気温が高く、彼らは採取だけでなく、根菜やヒエ・アワビ・キビなどの雑穀栽培を行い、併せて狩猟・漁労などで生活していたようです。当時、三輪山周辺にピラミッド・巨石文化の遺跡が多く存在し、これは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム信仰)として崇拝していたからと思われます。三輪山と天の香具山(人工的に造った聖地)を含む大和三山の関係は丁度二等辺三角形を形作っています。三輪山と畝傍山を結ぶ線が冬至の【日の入り】に当たる線になっています。そういう点で、縄文人というのは、【日の出・日の入り】といった天体観測を非常に詳しくやっていたようです。彼らの信仰というのは当時世界共通に巡っていた太陽信仰=蛇信仰なるものでした。鬼界カルデラの大爆発の後、生き延びた彼らは、メソポタミアへ向かい最古の文明とされるシュメール文明を担ったと考えられます。カタカムナという、優れた叡智をもった古代の人々は素粒子の存在を知っていたようです。素粒子には、地球の大気にふれると左に渦を巻きながら落ちてくるものと、右に渦を巻きながら落ちてくるものがあります。これらの素粒子は、天の気で生命の源と考えられています。天の気は、このように左と右に渦を巻きながら頭から体内に入ってきます。古代人は、既にそれを知っていて、それを土器の模様にしたのが縄文土器と思われます。ケルトの渦巻きも同様でしょう。左渦と右渦を土器に入れると、まず土器そのものが劣化しにくくなり土器の中に入った食べ物は美味しくなり腐りにくくなります。体の異常は、気の過不足が原因で起こります。気の流れが滞った場所(ツボ)その入るべき場所から素粒子が入ってこないために病気になるのだそうです。体で、最も気が入りやすい場所は、左右の鎖骨外端下のくぼみにある中府穴と首の後ろの大椎穴の3ヶ所です。どれも昔から着物に紋を入れる位置なのです。氣は丸が大好きです。丸型には、強い氣のエネルギーが集まってきます。イギリスのストーンヘンジのように石をサークル状に並べると、強力なエネルギーを集めることができるそうです。ちなみに両手を丸くしたとき、手で作った丸の中は、温かさを感じます。熱をもつのは空中の気が集まるからです。神社で拍手を打つのも気が集まるからです。
2010/05/16

中東は、アジア、ヨーロッパおよびアフリカの三大大陸が結合する地球上でも珍しい地域です。それに紅海で裂かれたアラビア・プレートが、アジア大陸に衝突し、ザクロス山脈をつくっているところです。1億年以上前、そこは浅い海でした。海の底の藻類やバクテリアの死骸がゆっくりと沈み、地下奥深く堆積しました。そして、地熱の働きによって、石油へと変成したのです。その中東の資源は昔も今も多くの人々を惹きつけています。それは、初期の農耕によって生み出されました。 では、農耕はどのようにして始まったのでしょうか。ナイル川の畔に文明が誕生したのは、気象変化のためだったと考えられています。昔々、北アフリカは、今よりはるかに温潤で植物が多かった。最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。特筆すべきは、アナトリアの女系性です。壁画、漆喰浮き彫り、石の彫刻、粘土製のおびただしい【女神】小象、すべて女性崇拝の品々が発掘されています。この現象は、おそらくエリコからすでにあり、6000年頃にはアナトリアから農業の伝播とともにメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、それまでは辺境であった地域にまた一方では南ヨーロッパへと拡大し始めます。この地母神は、クレタ島やキプロスにも海路によりつながっていったのです。【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。そこでは富は、公平に共有されました。年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。男女仲良く手に手をとった姿は、今でも道祖神のなかに見受けられます。彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。しかし、その女神崇拝文化も侵略され滅亡される時がやってきました。 最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人。あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会の始まりでした。インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や先住民の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。このほかにも侵略者はいました。ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。
2010/05/04

ミトコンドリアDNAは、母親からのみ伝えられ Y染色体は、父親からのみ伝えられるといいます。この二種の遺伝子は、混ざり合うことなく次世代へと変化することなく受け継がれるため私たちの祖先を遡り、最初の哺乳類、それ以前のものにまで辿っていけるのだといいます。このようにして一つは父方、一つは母方の遺伝子の二つの系統樹をつくることができます。すると、この男系、女系の遺伝子系統樹は、それぞれ、ただ一つの系統がアフリカからやってきたことを示しているといいます。私たちにつながる出アフリカは、たった一度しか成功しなかったということです。その前に、アフリカを出て行った先人類たちは死に絶えてしまったといわれています。男系、女系とも、ただ一つの共通の遺伝子上の祖先をもち、それぞれ世界すべての父となり、母となったのだといいます。1000万年前、アフリカは、みずみずしいパラダイスで、まばらな林が広がり、数種の類人猿が住んでいました。250万年前、世界は寒冷になり始め、変化が起ころうとしていました。100万年のうちに、氷河時代に移行し、それからは乾燥した氷期がくり返し訪れる過酷な時代で1万8000年前にピークをむかえた最終氷期まで、アフリカの草原は広がったり退いたりをくり返していました。この不安定で寒冷で乾燥した過酷な時代が、最初の人類の脳を大きく発達させ有能な狩猟採集民になる道に進み、やがて私たちへとつながっていきました。アフリカを出るには北と南の二つのルートがありました。森林と砂漠との果てしないアフリカは、気候環境によってつくられる二つのルートが他の世界から隔離されていました。温暖の時は北ルートが、氷期の時は南ルートが開けました。どちらか一方が開くと、どちらか一方が閉じていたのです。12万年前頃、温暖になると、北ルートの先人がレバントに進出しましたがほどなく壊滅的な氷結と乾燥化したサハラ砂漠によって北の通路に閉じ込められ、戻るに戻れず、絶滅してしまいました。ただ一度成功したアフリカ出は、8万5000年前、南ルートでした。人類の祖先はただ一度、アフリカから紅海の入口の海峡をイカダか舟で渡り貝や海洋産物など体力にも脳にもよい栄養価の高い食物を採集しながらアラビア半島南部を経由し、陸だったペルシャ湾入口を歩いてインドにまで進出することに成功しました。女系のミトコンドリアから調べると、この成功した南ルートの少数をイヴ一族としています。イヴはやがて二人の娘からそれぞれ女系一族をつくりました。一つはマンジュ、もう一つのナスリーン、ナスリーンは、ヨーロッパ人の唯一の母になりました。マンジュはアジア人のなかだけにみられます。南アラビアとパルチスタン沿岸にナスリーンとマンジュの根源と早期の分枝がみつかっていて、ただ一度の南ルート出アフリカ移動が、まず南アジアへ進んで行ったことの証になっています。イヴ一族は、インド洋沿岸を周って東南アジアやオーストラリアへ突き進んでいきました。彼らはヨーロッパが殖民されるよりずっと以前の6万年以上前にはオーストラリアへ到着していました。オーストラリアの母系各族とマレー半島の先住民の遺伝子を調べるとマンジュとナスリーンのDNAに属しているといいます。では、イヴ一族からマンジュとナスリーンは、どこで生まれ(分岐)たのでしょう。マンジュはインドで、ナスリーンは南アラビアとパルチスタン沿岸に根源がみつかっています。ナスリーンの子孫は温暖期に入った5万1000年以上前、インド湾岸からザグロス山脈の中腹に沿って中央アジア~肥沃な三日月地帯~トルコを通って、最初の南からの最古のヨーロッパ進出を行いました。男系もまたヨーロッパ人の祖先を南アジア発祥の地としてパキスタン~カシミールへ進みそれから中央アジアとロシアを経由して史上2番目のヨーロッパ進出したことを示しています。彼らは、それだけでなく、中央アジアへ入ってから東西に分かれてヨーロッパと東アジアへ広がっていきました。東に行った者たちは、やがてアメリカへ到達し一方西に行った者たちは北ヨーロッパと西ヨーロッパに入ってきました。最終最大氷期の間、留まった者たちは南方の中央アジアの避難地にひきこもりその後、ふたたび拡大して現在みられるシベリアやウラルの各集団の一部になりました。
2010/05/02
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