全13件 (13件中 1-13件目)
1

日本人のルーツを調べていると、二系列の王族によって形成されていることに気づきます。それは、遙か古代アナトリアから始まり、中央アジアを通り、日本にも持ち込まれました。精神の王または最高位の祭司である天皇と、政治経済の実験を握る豪族、ある時は、蘇我氏であり、また、ある時は、藤原氏であったように。王が二重に存在して、精神の王と、現実社会に対する王とが分かれるというのが、西アジアの遊牧民の帝国に際立っていた双分制社会の大きな特徴でありました。これは、スキタイ・サカ族、匈奴らの大帝国に共通して特徴的に見られることでした。そして、もし両者が対立したら、精神の王が上位に来ることになっていました。中国の「史記」にも人間を創造した始原の神として伏犠氏と女カ氏があり、 蛇化した下半身が絡んでいる画が出土されています。日本の「古事記」の構成に於いても具体的な生成を行なう陰陽に分類された二霊、イザナギ・イザナミがあります。そして、前方後円墳もこの流れを汲むのではないかと考えます。方墳と円墳の合体、これには意味があると思われます。それは、遙か古代アナトリア~メソポタミアの人々が円形の住居と方形の住居に分かれていることに起因していると考えられます。中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年前。それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化しました。寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南しかありませんでした。BC1万8000年頃、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流となったケバラン人の出自はアフリカ系というよりはヨ-ロッパ系だった可能性が高い。 さて、BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人の勢力圏でのことです。世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。エリコは天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を、動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。 精密な針や矢尻、あるいはナイフなどが発見され、エリコの農業はナトゥフ人によって始められたと考えられています。やがて地元のエンメル小麦や大麦ばかりでなく、遥か遠くアナトリアからザグロス山脈にかけての地域を野性地とするエイコン小麦も栽培されるようになったことが分かっています。エリコの住人がアナトリアへ出掛けていって発見したようです。農業は、通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。カルメル山からエリコへ移り、農業を始めた人たちは、集団の規模の上で比較的優位にあった可能性があり、それが、幼児死亡率を減らし、人口増加につながったと思われます。2000人ほどにもなったナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らしていました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し、豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくてはならなくなったと思われます。更に、ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。なぜかといえば、エリコの遺跡から、遠くアナトリア中部のカッパドキア、カイセリからの黒曜石が見つかっているからです。その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。さらに、アナトリアのチャタルフュイックで、初めて高温の技術が生まれ、高温の技術は、まず火で焼いた土器を出現させ、次いで銅の冶金技術へと発展したと考えられます。自然に落ちていた銅、つまり自然銅の価値に気付いた人間が自然銅を拾い始めたことにより歴史が大きく展開していきます。彼らは、自然銅を求めて世界各地に散っていったのです。多数の人が、川の少ないアナトリア高原よりも、支流の多いチグリス川流域の魅力が増し北メソポタミアに現れ、現在の北イラクのモスル周辺に最古の土器文明、ハスナを築きます。この人々は、どうやらエリコを破壊した方形の家の民族だったようです。方形建物はもっぱら土器や篭に入れた食物を貯蔵するのに使われており、円形の建物は家屋だったらしいということがわかりました。さらに、これら二種類の構造物は互いに異なった、しかし密接に関連した二つの社会経済的集団のものであったことがわかりました。円形家屋は、エリコの集落に住んでいた在地の農耕民です。方形は、遊牧民で、この集落には時折住んだだけの人たちです。遊牧民たちが方形の建物を利用し、自分たちの持ち物を保管していたようなのです。
2011/01/23

これまで長い間、言語学者たちは、インド・ヨーロッパ語族の故郷はコーカサスあるいは南ロシアにあり、そこから南あるいは西へ移動したと考えてきました。しかし、最近ソ連の言語学者の研究によると、インド・ヨーロッパ語族の故郷は現トルコのアナトリアだったことが証明できるといいます。プロト・インド・ヨーロッパ語こそは、現在のインド・ヨーロッパ語族の共通の祖先であり約8000年前に話されていたと推定されています。インド・ヨーロッパ語族の祖語が、BC6000年頃のアナトリアに遡れるといいます。プロト・インド・ヨーロッパ語からは、ケルト・イタロ・トカリアン語とボルト・スラボ・ゲルマン語のヨーロッパ系の二大言語族の他に、二つの大言語族が分かれているそうです。第1のグループは、アリアノ・グレコ・アルメニック語を祖母語とするグループです。このグループは、ギリシ語を分離した後、東へ向かいました。そしてまず、アルメニア語が分かれます。その後の主流はインド・イラン語となります。それからペルシア語が分かれ、さらにサンスクリット語族は東へ向かいます。そしてヒンズー語、パンジャブ語、ベンガル語などインド系の諸言語に分かれます。第2のグループは、アナトリア・グループ。今は失われた古代語です。ヒッタイト語、リディア語、ルワイアン語などです。もし、それが真実だとすれば、現在ではインド・ヨーロッパ語族として一纏めにできる巨大な人間集団の故郷は、アナトリアのチャタルフュイックと、いうことになります。チャタルフュイックの規模は32エーカーと、たいへん大きい。同時代の遺跡の中では圧倒的に大きな規模です。チャタルフュイックが定住の地として選ばれたのは、湖が干上がった農業に最適の土地だったからだと思われます。プロト・インド・ヨーロッパ語を話していた人たちがアナトリアに住んでいた約8000年前頃は、アナトリアのチャタルフィックで、高温の火を扱う技術を習得した時期と重なります。それは直ちに土器から銅へと利用が広まりました。そして、銅製の武器は、農民の周辺遊牧民に対する防衛力を決定的に高めました。インド・ヨーロッパ語を話す人たちは、銅という金属資源を求めて、アナトリアから世界へ散っていった人たちの子孫なのではないかと考えられます。アーリア人は牛・馬・犬などの家畜を引き連れて草原から草原へと移動しつつ生活していました。石器の使用も盛んでしたが、すでに金属も手にし銅器を使用していたとみられます。 その頃から自然崇拝を行い、「天なる父」を信仰していました。BC1700年頃、アーリヤ民族は移住を開始しました。その理由となったものはハッキリしませんが、人口の増加か干ばつによると考えられています。彼らは、西東に分離し、西方へ向かった一派は、ヨーロッパ民族の祖先になりました。ヨロッパに定住して現在のヨーロッパ諸民族(ケルト人、ゲルマン人、スラヴ人、ギリシア人など)となりました。別の一部はアナトリアで先住民のハッティになり、彼らは製鉄技術を持っていましたが、やがてヒッタイト人に吸収されます。東方へと移住した部族もいました。彼らはカスピ海の南東、西トルキスタンのステップ地帯に数世紀間、定住しましたが、更にアッシリア・バビロンを経て南下し、そこで宗教上の争いにより分離し一部はイラン高原に入り、イラニアン民族となって古代ペルシャ文化を興し他の一部は、東方へ進んでインドへ侵入しました。
2011/01/17

古代、白鳥トーテムの製鉄部族は欧亜にかけて存在しました。 【白鳥族】は匈奴の中にいた。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたが、これはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源します。彼らはニギハヤヒと共に渡来し秦氏になりました。葛城氏・物部氏・蘇我氏などは秦王国(記紀では大和朝廷)の豪族でした。古代より権力者が不老長寿の薬として重宝したのが【水銀】=辰砂・丹でした。この水銀が手に入るのが【中央構造線】沿いの地域で三輪、葛城の地はこの代表地でした。辰砂の産地であったから三輪山は聖地とされ、葛城氏は力をつけることができました。また【三輪、葛城の鉱山資源】を基盤にした市場こそが纏向・箸墓でした。蘇我氏が仏教を導入すると、寺院で使用する金箔や朱に、この地の水銀が重用され蘇我氏台頭の経済的バックボーンをなしました。そしてその時、最新技術を日本に持ち込んだのが秦氏です。奈良時代に、大仏の鋳造や金箔張りに銅や銀を扱ったことから、関係地域や人々に公害や奇病が発生したので、遷都が行われたと考えられます。仏像に鍍金(メッキ)するのに、液体の金属である【水銀】に金箔を入れて、アマルガムを像の表面に塗りつけてから火であぶって水銀を蒸発させて金を定着させました。水銀を蒸発させるときに、有毒ガスの発生が起こり、水銀による呼吸困難や皮膚障害が起こりました。奈良の東大寺建立には水銀中毒が多発したことを疑わせる記録が残されています。大仏は嫌われ、奈良と京都の境界線が川を避け妙な所で区切られ大和は封印されました。京都へ移る時は奈良の寺を移さず、僧侶も連れていきませんでした。香川県の佐伯氏(ユダヤ・シメオン族・秦氏)出身の空海上人は大変な山師で水銀鉱脈を多数掘り当て相当な財を築き宗教組織の維持発展のために費やしました。空海上人は水銀を扱うプロの技術者集団、丹生一族を巧みに利用する事に成功したと考えられます。古代イスラエル人の渡来には騎馬民族と関係があるといわれます。朝鮮半島を経由して流入してきた扶余系騎馬民族(ウガヤ王朝・天皇の祖)はスキタイ・サカ族に源を発し、アッシリア帝国を盛んに攻撃しました。このアッシリア帝国には古代イスラエル人が囚われていました。スキタイ・サカ族によりアッシリア帝国が滅亡すると古代イスラエル人はアケメネス朝ペルシアに流入しました。(秦氏)は渡来し、まず物部氏が次に蘇我氏がそして藤原氏が日本国を支配していきました。3100年前、殷で交易するエブス人、ヒッタイト人らがタルシシ船で北九州へ渡来し国東半島重藤に製鉄基地を建て宇佐八幡を都とし東表国となります。これが日本最古の王朝、【天の王朝】、のちに狗邪韓国となって朝鮮半島の南部にも領土をもち金官加羅国(伽耶)といわれ、王家は金海金氏と中臣氏になりました。金官加羅国から金姓王家が分離し【新羅】をたてたが金氏の中のヒッタイトが蘇我氏でした。物部が蘇我に対して【お前は豊国(東表国)に帰ってしまえ】といったとか。天の王朝を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後に山窩となり、傍流の秦氏は源氏、マラ族は平家を名乗る。【白鳥族】のチュルク族を思わせる人々はルソン島北部のバナウエに高地水田があり、この農民はマンドリンのような弦楽器を弾きながら田植えをするので、日本の農民に類似するとされているが正式の民族衣装は頭に牛角をつけハチマキ巻いて褌をしめ、銅矛型の槍をもつのであって、この人々は、箕子・サカの一族の末裔と思われます。箕子朝鮮は、3000年前メソポタミアのイシン王国が滅亡時、カルデア(サカ)人がイシン王族を推戴し遥々航海して遼東半島に上陸して建てた国。エルミタージュ美術館にはイシク古墳から発掘された金姓の金牛をトーテムとする黄金人間が保存され、これは箕子国のサカの王族。鉄文化を独占したヒッタイトが崩壊してこの鉄文化がインド・中国大陸へ波及しヒッタイト人はチュルク人の中にも存在しました。チュルクは白色を聖色としたがユダヤ民族の戦旗でもありました。サカ族も【鹿】をトーテムとして【犬】を忌んだ。ジンギス汗は、蒼狼と白鹿の末裔だが【狼】はチュルク、【白鹿】はこれに従う【サカ族】を表わす。古代中国で犬戎と呼ばれ、北狄と称され、昆夷、匈奴と怖れられた遊牧異民族は古代アーリア種の白人、即ち印欧系人種だった。【狄】は【犬偏】と【火】の文字、犬偏は犬族を示し、火は拝火教徒、製鉄部族の狗加を意味する。狗加は製鉄を職種とした部族でした。
2011/01/15

フリーメーソンのマークコンパスと矩は平安時代には日食月食割り出しに陰陽師らは熾烈な戦いを繰り広げ、江戸の世では庶民が算学本を一家に一冊常備するまでに。和算は生活に役立てるので感動する。直角二等辺三角形の相似を利用して、木の高さを目測できます。腰を90度に折り、木のてっぺんが見える位置を探せばそこから木までの距離と木の高さが等しくなります。四つん這いになった人が、股の間から木を見通す。 古代のフリーメーソンといわれる秦氏は、秦の始皇帝の末裔とされます。ルーツは、古代イスラエル。シュメール時代からの純粋な技術集団の彼らとロスチャイルドなどのマンモス財閥フリーメーソンとは繋がらない。現在、ユダヤ人といわれている白人は本来のユダヤ人ではなく、彼らは「ユダヤ教徒」に改宗した中央アジア人。考古学的には本来のユダヤ人はカナン人から由来するとされています。そして古代エジプト人、古代メソポタミヤ人、古代アナトリア人との人種混合が起こったとします。この人々が移動して日本国を造ったと考えられます。叡智のシュメール人。ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が連なっています。狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して日本列島にも渡って来ました。彼らが縄文人なり、三内丸山遺跡の人々にもなったと考えられます。黄河より長江文明の方が早く1万4千年前より稲作と養蚕と機織が始まっていたことが最近分かってきました。同じ頃、パレスチナ(エリコ)辺りで最古の小麦農業は始まっています。その流れは、やがてメソポタミアの大農業につながります。BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がりこれがモヘンジョ・ダロ(インド)を経てBC2500年頃までにはアファナシェヴォ文化(エニセイ川流域)に伝わりました。担い手は白鳥トーテムのチュルク族(白人)。アファナシェヴォ文化は南シベリアのエニセイ河上流とアルタイ地方に栄え、アンドロノヴォ文化という青銅文化につながりさらに南シベリアのカラスク文化に代わりました。トルコからシベリア、日本まで広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といい、さらに西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで、また他の一部はドナウ盆地にまで進出しました。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が侵入するまで中原の支配者でした。彼らは、高句麗・ 百済・日本天皇家に繋がります。彼ら【白鳥族】は、日本列島の中央構造線に沿って九州から四国、紀伊、伊勢、信濃、鹿島など水銀(丹生)や瑪瑙、翡翠、琥珀など数多くの鉱物資源を採掘していきました。その周辺は地下で巨大なエネルギー が蓄積し、それによって誕生したいろいろな資源が採掘できました。だから、大和の勢力は鉄と鉱物資源を掌握し豪族の勢力争いが起きました。はじめは葛城氏が、次に蘇我氏が、最後に藤原氏が征服しました。東北征伐もして金など重要な資源を手中にした。中央構造線のラインは前方後円墳の分布とも見事に一致します。九州から関東地方にかけて分布するが、密集している地域は主に、北九州、日向、吉備、讃岐、近畿、中部、そして関東地域でした。埼玉県から群馬県にかけて密集しているのはなぜか?この地域に密集している所は、利根川の上流、山地から下るあたりの支流に沿っています。それは、たたら製鉄の産地でした。前方後円墳を造るには鉄器具を要します。製鉄には膨大な木材を必要とするので山に近く、それを運ぶために川を利用するので川 沿いに位置していました。利根川を下っていくと埼玉県と群馬県、千葉県と茨城県の県境に沿って流れ鹿島灘へ注いで、鹿島神宮と香取神宮に繋がっていました。利根川は、鹿島神宮と香取神宮の前にあった香取の海に流れ込み、銚子のあたりで鹿島灘に流れ出していました。やはり、鹿島・香取二つの神宮は重要な拠点に位置していました。ブームになっているパワースポットは、鹿島・香取神宮をはじめ中央構造線のライン上に重なります。地球の磁力の源が集中し、【ヴォルテックス(渦巻き)】と呼ばれるエネルギーが渦巻いています。特に磁力の源が集中し地表に放出されるエネルギーが強い場所。磁力の出入りは呼吸と同調し磁力が入っているとき人間は強く自信に満ち、磁力が出てゆくとき人間は弱くなり失望を生じるといいます。人によってはその波動を強く感じ取り、涙が溢れるなどの浄化(デトックス)作用を経験するといいます。こういう場所では植物も磁力の影響を受けて変わった成育をする事が多いらしい。古代、地球の全ての生き物が磁力を感じ、行動していました。白鳥などの渡り鳥も魚も方向感覚が優れているのはその機能を持っているから。磁場の歪みで地震を察知、逃避する動物もいれば、潮の動きで魚は食欲を左右されます。北半球のイワシなどの群れる回遊魚は、水槽に入れられると右回りに、南半球の魚は左回り。ウナギも方向を間違えず、エサも食べずにひたすらマリアナ海溝を目指すといいます。
2011/01/15

日本人は古くから龍が螺旋を描いて舞うことで、様々な自然現象が起きると考えていました。雨雲、満潮、竜巻など、風雨に関する現象の多くは、龍神が司っています。渓谷、河川、神社のしめ縄から人間のDNAに至るまで、自然界の多くが、龍を模して創られています。司馬遷の『史記』に人類の祖先と伝えられている龍=蛇の神、伏犠女禍に『雷公(水神)が起こした大洪水の結果、二人きりになってしまった人類』という描写がありますが、太古の人々にとって『洪水』は人類の滅亡につながる大惨事で、常に洪水や戦乱との対立にさらされ続けていました。世界各地にある洪水伝説、ノアの方舟などもその1例。 上図は中国史記の【伏犠女禍】の画、ルーツは古代メソポタミアのフツリ人(伏犠)と、ラガッシュ人(女?)。ラガッシュ人は日本の白鳥族でした。この画の両者が手にもつコンパスと矩(大工が使用する直角金尺)とフリーメーソンのシンボルマークのコンパスと矩が酷似していることに驚く。このコンパスと矩は何を意味するのか?フリーメーソンと云えば、【ダビンチ・コード】で知られ、ユダヤ人の組織する秘密結社であるといわれますが、太古の時代、発生当初は純粋なギルド(石工職人)のスペシャリストの集団であったとされています。シュメール都市のあったチグリス、ユーフラテス川、エジプトのナイル川の氾濫は昔から、周辺の生活民を脅かす大問題でした。その治水事業、灌漑、測量の取り組み、発展に大きく寄与した三角測量の手法と、道具のコンパスと矩こそ、実は祖先から伝授された貴重な技術、ノウハウでした。コンパスと矩は、シュメールの時代から受け継がれてきた三角点測量に使用されてきた、道具のシンボルでした。上向き三角形(コンパス)と下向き三角形(直角定規)の結合はダビデの星を形成し、男と女、陽と陰、天と地、精神と物質など世界の二元性の融和を表現しています。中央の「G」は至高存在を意味し、神(GOD)と幾何学(geometry)を意味します。フリーメーソンにおいて個々の建築道具は人間の美徳と対応し、コンパスは真理、直角定規は道徳、籠手は結束と友愛、槌は知識や知恵を象徴しています。フリーメーソンの日本語的正式名称は【古代自由正統石工組合】けれど、既に意味合いは全然違う。フリーメーソンの目的は世界を一つにまとめ、世界統一政府を樹立すること。それが彼らの究極の目的となって。コレを実現する為に、手段を選ばす何世紀にも亘って活動を続けています。手段を選ばずという点が裏社会の彼らの実像を怪しくさせています。明治維新、太平洋戦争(大東亜戦争)、そして今日の「金融ビッグバン」、近代日本の転換点全てにフリーメーソンが関与しているといわれます。六本木フリーメーソン本拠地、京都三条のフリーメーソン・ロッジ、グラバー邸の石塔にもフリーメーソンのマークがあります。フリーメーソンのグラバーは坂本龍馬や岩崎弥太郎に影響を与えた人物。三菱の創始者、岩崎弥太郎 がチャンスをつかむのは同郷の坂本龍馬が暗殺されてから。海援隊を作った龍馬の亡き後、その利権を継いだのが岩崎弥太郎でした。龍馬から受け継いだ海運事業や武器取引は、後に西南戦争、日清戦争、日露戦争で三菱のドル箱事業となってゆく。坂本龍馬が暗殺されて最も得をしたのは岩崎弥太郎ということになります。即ち、坂本龍馬が亡くなっていなかったら三菱財閥はなかった。三菱の前身は岩崎弥太郎が、1870年(明治3年)に坂本龍馬が暗殺されたことで解散した海援隊の後身として始めた【九十九商会】でした。翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となり、弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開。さらに坂本龍馬の海援隊だけではなく、後藤象二郎がグラバーの高島炭鉱を二束三文で払い下げを受け自分のものとし【蓬莱社】と改名し、後に、岩崎に譲っています。グラバーの考え方に傾倒して行った龍馬は倒幕側として尽力したはずが、途中で公武合体派に鞍替えしてしまう。 なぜか?どうやら龍馬は、グラバー(とイギリス)が大量の武器弾薬を調達・販売し、日本国内に大きな内戦を起こそうとしていること、そのために自分が利用されていたことに気づいてしまい、グラバー&薩長同盟と対立するようになって抹殺されたという説があります。三井や住友などの財閥が江戸時代初期から両替商や呉服屋などで財を豊富に蓄えていたのに対し、三菱は幕末にポッと登場して一気に財閥に駆け上がっていきました。幕末の動乱期とはいえ、バックがいない状態で一文ナシから巨万の富を築くなどおいそれと出来るものではなく、また、維新政府が全国統一貨幣制度に乗り出した時に各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占めそれを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ています。これは明らかなインサイダー取引。欧米諸国に開国させられ、明治維新を成し遂げた日本も近代国家の道を歩み、武士階級に代わる国民皆兵の徴兵制度によって、国家総動員での戦争が始まるようになりました。これが、フリーメーソンに寄生したロスチャイルド(欧米を代表するユダヤの富豪一族)など軍需産業の商人達の陰謀であったのか、なかったのか。日本は明治維新後、日清・日露戦争、そして第一次・第二次世界大戦と戦争に明け暮れるようになり、政府と癒着した軍需産業から、多くの財閥が生まれることになります。そして、中国に進出した三菱は、阿片ビジネスに手を染めるようになります。三菱もフリーメーソンといわれます。因みに三菱系の【麒麟ビール】を最初に立ち上げたのはグラバー。現在の日本では、民主党小沢一郎氏がフリーメーソンのメンバーであるといわれます。また鳩山前総理の祖父 鳩山一郎元内閣総理大臣はフリーメーソンでした。幕末に日本を新生させたキーパーソンの多くがフリーメーソンのメンバーでした。戦後、日本を再生したマッカーサーも鳩山一郎もフリーメーソンだったことを考えると複雑。
2011/01/15
BC2000年頃 、カナーンの地で、フェニキア人(女性)とアーリア人(男性)の混血によってカッシート人が生まれました。彼らは、進取の気性に富んだ海人族であったといいます。その100年後のBC1900年頃、バビロン第一王朝が始まり200年後のBC1800年頃からインド・ヨーロッパ語族(白人種アーリア人)の拡散が始まっています。BC1013年、イシン王朝の末期に、フェニキア人の海の国・マカンがアラム人とともにアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王シャルマネサル2世の攻撃で、殷の本国であるイシンが滅んだために、番韓のヤードゥ(ヒクソス人)は、海に浮かんでインドへ逃れました。またアラム人(後のウラルトゥ人)は、北方ヴァン湖周辺に退き、ウル人(インド・シャカ族)は南に下って、後に中国の宛の徐氏(扶余)となりました。このオリエント戦乱の時代(BC1060年頃)、フェニキア人(女性)とヒッタイト人(男性)の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王になったのがアマテル(天照大神・男神)です。この血統が、後にシルクロードの【ウガヤ王朝】になり朝鮮~倭国の神武王朝から邪馬壱国を経て百済国となりました。その百済国は、白村江の敗戦によって一旦滅亡しましたが、亡命ユダヤシメオン族の藤原不比等が始めた【天皇家】に、その系譜は引き継がれました。その後、道鏡・光仁の時代に、光仁妃の井上天皇を葬り称徳天皇(不比等の孫・女帝)と道鏡の間の子・桓武天皇が再び百済人の王朝(南朝)を開くことに成功しました。以上によって、南朝天皇家の先祖は、ウラルトゥ王家の末裔であり従って日本民族はアーリア人の子孫でもあるのです。
2011/01/13

日本書記は、残念なことに偽書であることは疑いないようです。しかし100%偽りかというと必ずしもそうとは言えず、このテキストは百済史の訳文を中心に新羅史、安羅史を合成して大和に存在したように著した文書のようです。この百済という国家のルーツは壇君朝鮮で、後に扶余になり高句麗になってそこから百済が分かれたと考えられます。単一民族ではなく、カースト的な部族連合です。この人々のルーツは原シュメール人=エラモ・ドラヴィダ語族の人々が始まりでダゴン即ち壇君神話をもっていました。そこにカッシート以下のアーリア人が混同したようです。天皇家のルーツにあたる扶余という国家は壇君朝鮮系と穢国系の二つの勢力が合体した双分制になっています。1.壇君朝鮮というのは、シルクロードの西、オリエントのウンマ、カッシートや現在のアルメニアからグルジア高原を制覇していた周辺の騎馬民族を統一したウラルトゥ王朝の人々がバビロンのナボポラッセル王朝に参加した後、アケメネス・ペルシアの時代にシルクロードによってバクトリアから中国に入って趙という国を建てていましたが、その後さらに、月氏になり、満州に逃れました。この王朝がウガヤフキアエズ王朝です。 2.ニギハヤヒ系は、インドの釈迦を輩出したシャカ族の製鉄部族で宛(古代中国の製鉄地)の徐氏といい中国史では魏国になっています。 3.高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民族スキタイや 匈奴の製鉄部族の高令で、チュルク族が中心でした。 文明は定着農業とともに始まりました。文明発生の地は、中東です。 約1万5000年前、ベーリング・アレレード温暖期という地球の温暖化が始まり、その影響を受けて、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。このシリアの環境は、木ノ実や小動物など、豊富な食糧を得て、狩猟採取民族はハルーラという場所で定着生活に入りました。しかし、約1万1000年前に、ヤンガードリアス期と呼ばれる地球的規模の寒冷化の揺り戻しがありました。温暖化の傾向を受けて、それまで約25万年間も北米大陸の北部を覆っていた、厚さ3000メートルの氷河が溶け出し、しかし大西洋への捌け口は、まだ氷で閉ざされていましたから、北米大陸の中心には巨大な湖、天然のダムが形成されたのです。ところが、気温上昇のために、ある時、水の通路を塞いでいた氷の壁が融けて崩壊し巨大な湖に蓄えられていた、膨大なる低温の淡水が一挙に大西洋に流れ込み、広大なる海域に広がったのです。この地球的規模の大異変は、世界的な気候に重大なる影響を与えました。温暖化の傾向に一時的なブレーキがかけられ、気温は約10℃低くなり温暖化が始まる前の元の水準になったのです。大異変の前の気温に戻るのに1000年かかりました。寒冷期が約1000年続いたのです。突然の寒冷化の理由も分からないまま狩猟採取民族の生活は突如重大な影響を受けました。シリア北部の自然環境は、もはや、かっての生産性豊かなものではなくなって、その時には定住生活により人口の増加をもたらしていたと想像できるので、この突如襲った環境の激変と、それに伴う食糧の減少は、村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。正に晴天の霹靂です。しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。明かに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったのです。彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。小麦は比較的寒さに強い。さらにラッキーなことは、野性の小麦の性質は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質をみるみる変え、粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。死海の北、ヨルダン川沿いのオアシスの町、エリコは、世界最古の町として知られています。その起源は古い。本格的な考古学的発掘が行なわれたのは、20世紀に入ってからです。当初、エリコ発掘は、ユダヤ人たちのエジプト脱出との関連で興味が持たれ、エジプトを脱出したユダヤ人たちが、パレスティナに侵入、占拠する時代の考古学的確認が目的でした。ところが、エリコの起源は遥か古代に遡ることになってしまったのです。放射性炭素年代測定法によれば BC 9250年まで遡るといいます。エリコは、元々は人々が定期的に立ち寄る水呑み場でしたが、だんだんと人が住み着くようになり、最古の建物は、信仰の対象を奉るためのものだったと考えられています。エリコは、現在のイスラエル北部に広く住んでいた、中石器時代のナトゥフ人の文化圏から継続的に発展してきたと考えられています。エリコの農業はナトゥフ人によって始められました。エリコは元々大麦の野性種やエンメル小麦の先祖の生育地に属し、最初はそれらの野性種が食用として試みられ、だんだんと栽培されるようになり、地元のエンメル小麦や大麦ばかりでなく、遥か遠くアナトリアからザグロス山脈にかけての地域を野性地とするエイコン小麦も栽培されるようになりました。エリコは城壁を造った点に特徴があります。つまり何者かに備える必要が生じていたわけでアナトリア産の黒曜石は、矢尻など武器に欠かすことができなかったと考えられます。エリコの人々は黒曜石を得るためアナトリアへ出掛けて行き、そこでエイコン小麦に出合ったのだと思われます。エリコは、10エーカー以上の面積を持った城壁に囲まれた町に変身し興味深いのは、この時代の城壁の下から、さらに古い住居跡が発掘されていることです。それ故、城壁がつくられる直前のエリコの町は、すでに、かなり大きな規模に成長していたと考えられます。農村は外敵に襲われやすく幼児死亡率が高い。その問題解決させたのが城壁と考えますが、それには、城壁を造るためにはかなりの人数、城壁の前に、それ築造を可能とする数の人間社会が成立していなければならない。その頃中東に、数多く叢生したと考えられる多くの農民社会の中で、なぜエリコだけがその条件を満たすことができたのでしょう。それは、エリコがより広いナトゥフ人の文化圏の中で誕生し、ナトゥフ人の共同管理によって平和秩序を形成・維持されていたからと考えられます。エリコだけは、ある規模の町に成長するまで、直接外敵と接触する機会が少なかった。それ故、いざ外敵に襲われ始めた時には、その村落は城壁を造るために必要な人数を十分動員できる規模にまで成長していたのです。
2011/01/09

トルコと日本は遠くて近い国で、トルコ人は日本贔屓だといいます。日露戦争の時、いち早く日本の味方になると宣言し、日本の勝利に、国中が喜んだそうです。第二次世界大戦でもトルコは、日本側でした。トルコ人は、日本人は自分たちの兄弟だと、先祖から教えられているそうです。調べていくと、その通りであることが分かってきました。 BC3000年~BC2000年の始めにかけて南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドとは異なり、パレオ・ユーロペオイド(白人)であったとします。アフナシェバ文化は西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間、分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化はBC2000年、南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャブ文化に代わりました。多数のカラスクの遺物が中国の殷の遺跡から出土し、バイカル湖沿岸では殷の山足土器が発見されています。かつて中国北部に住んでいた丁零が殷の住民から借用した様々な文化的要素特に青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだらしい。カラスク人につづくタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人・コーカソイド)に属し、中国史の丁零である・・・と、いわれます。丁零とは、チュルク族の一派です。丁零は、高令、後の高句麗とともにチュルク族の一派でシルクロード全域にわたって分布していました。匈奴のなかに高令または丁零というチュルク人がいたことは知られていますが秦始皇帝以前の中国を支配していたのは、この人々でした。匈奴には二系あって、一つはBC4000年頃から中国大陸に侵入したチュルク人であり他の一つはBC700年頃から侵入したキンメリ人でありました。両者はともに先秦期の中国内陸の支配者だったのです。古代シルクロードの諸族はすべて部族連合でした。チュルク人とキンメリ人の連合を基本として、後の日本天皇のルーツ、ウラルトゥの扶余伯族月氏、鮮卑などを外戚とした部族連合でありました。南シベリア、山地アルタイのボリショイ・ウラガン河岸にある古墳群でBC6~3世紀のスキタイ時代の凍結クルガン(盛土大墓)が発掘され調査の結果、この文化の担い手がスキタイ人と同じ生活様式であったことが証明されました。出土した遺物から見ると、西アジアの西方のスキタイや中国との関係を保っていたユーロペオイド(白人・コーカソイド)であることが確認されました。このパズィルィク古墳群がスキタイの古墳と違うところは、骨角器、金属製品に留まらずあらゆる遺物をいまに伝えたその永久凍結にあります。織物・羊毛・皮革製品・木製品・馬のみならず被葬者の遺体も残され、遺骸の側にはチーズも発見され、その味はまだ失われていなかったそうです。諸墳墓からは、遠隔地域からもたらされた種々の贅沢品を含む財宝が発見されました。中国産の刺繍のある絹布、BC4世紀の中国青銅鏡BC550~330年のアケメネス朝ペルシアのコブラン織り、豹の皮革青銅鏡入れ西アジア産のコエンドロの種子、さらにはインド洋産の貝殻また背の低いモンゴル馬、オリエント産の栗毛のアーリア馬が陪葬されていました。興味深いのは被葬者に文身(刺青)がほどこされていて、衣服・装身具のなかには容器そのほかの貴金属製品に描かれたスキタイ・アケメネス朝ペルシアの浮き彫りに見られるサカ人などのそれと一致するものが多いということです。これはこの頃にアルタイ地方に勢力をおよぼしてきた匈奴によって移動させられた月氏の残したものという説があります。チュルク族は月氏を主とするウラルトゥと同盟し、後にキンメリと合体して匈奴になりました。山地アルタイ出土のスフィンクス像とエルミタージュ博物館のウラルトゥ出土の「青銅グリフィン」の類似は歴然と明らかで、この類似はパズィルィク古墳の人々が【匈奴に合したチュルク族とウラルトゥ人の末裔】であった可能性が高い。パズィルィク古墳出土の動物像の表現法にはひとつの特殊な様式があってこれらはアケメネスペルシアの芸術によく似ているといいます。BC5~6世紀になるとウラルトゥ王国は、匈奴に連合するものとペリシアに従属するものに二分します。BC4~5世紀の中央アジアにペルシア風の文化が波及したことがアムダリア流域から出土したオクサス遺宝から解かってきました。その中には鞘の身の部分には騎射によるライオン狩りの図を打ち出したアキナケス型の金製鉄鞘のデザインがオリエントそれもアキメネス・ペルシア風とスキタイ風文様のみごとな融合を示しているといわれます。これらの文化は、匈奴の一部族となって身につけたスキタイ(キンメリ)風とバクトリアに亡命したウラルトゥ人の文化であったと考えられます。
2011/01/07

最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。特筆すべきは、アナトリアの女系社会です。壁画、漆喰浮き彫り、石の彫刻、粘土製のおびただしい【女神】小象、すべて女性崇拝の品々が発掘されています。この現象は、恐らくエリコからすでにあり、6000年頃にはアナトリアから農業の伝播とともにメソポタミア、コーカサス南方、カスピ海南方、それまでは辺境であった地域にまた一方では南ヨーロッパへと拡大し始めます。この地母神は、クレタ島やキプロスにも海路によりつながっていったのです。【大いなる女神】が、ときに鳥の姿になったり蛇の【女神】になったりしながら、水の生命授与力を支配し、ヨーロッパとアナトリアでは雨を孕み、乳を与える、そういう文様が刻まれています。アナトリアのチャタルフユィックの遺跡からは、母系で妻方居住の社会構造が現れました。その構造は、チャタルフユィックからクレタに移住し、太古地母神《女神》と共に農業技術をもたらし、つづく四千年の間に、土器製作、織物、治金、彫版、建築、その他の技能およびクレタ独特の生々とした喜びに満ちた芸術様式の進歩がありました。そこでは富は、公平に共有されました。年上の女性ないし氏族の長が大地の実りの生産と配分をつかさどり、実りは集団の全員に属するものとみられていました。主要な生産手段の共有と、社会的権力は、すべての人の利益になるよう図られ、責任のもとに基本的に共同的な社会組織が生まれていました。これは、パレスチナの世界最古の町エリコナトゥフの人々が成功していた共同社会につながると思われます。太古地母神《女神》を中心に女も男も異なった人種の人々も・・・共通の幸福のために平等に協力して働いていました。母系による相続と家系、至高の神としての女性、現世的権力をもった女司祭と女王の存在はありましたが男性の地位が低いということはなく、両性は平等な協調関係を築いていました。彼らは、たいへん自然に親しんでいて、アニミズム(精霊崇拝)はクレタだけでなく、ケルト民族にも伝わりました。太古地母神《女神》を中心にした文化はアナトリアを中核として地球一周しました。ストーンサークルやドルメン、メンヒルなど、これらの祭祀が彼らの残した足跡です。しかし、その女神崇拝文化も侵略され滅亡される時がやってきました。 最初、それは家畜の群の草を求めて彷徨う一見取るに足りない遊牧民の集団にすぎませんでした。数千年以上も、どうやら彼らは地球の端の誰も望まぬような厳しく寒く痩せたシベリアに住んでいました。その遊牧の集団が長い期間をかけて数と獰猛さを増しヨーロッパ北東からヨーロッパ大陸に群がり南下し侵略してきたのです。彼らは最初のインド・ヨーロッパ語族あるいはアーリア人といわれるクルガン人です。あるクルガンの野営地では、女性住民のおおかたはクルガン人でなく、新石器時代の太古地母神《女神》崇拝の人々であったことが発掘資料から判明しています。このことが暗示しているのは、クルガン人が、その土地の男性や子供たちの大部分を虐殺し、女性たちのある者だけを助けて妻や奴隷にしたということです。遺跡から農機具のみで武器というものが見あたらない【平和】で【民主主義】な社会が営まれた《女神》崇拝社会が破壊され、男性的支配社会のはじまりでした。インド・ヨーロッパ語族は、先の文明を築いていた太古地母神《女神》を崇拝する農耕民族を次々侵略していったのです。インドに於けるアーリア人、【肥沃な三日月地帯】に於けるヒッタイト人とミタンニ人アナトリアに於けるルヴィ人、東ヨーロッパに於けるクルガン人、ギリシアに於けるアカイア人および後のドーリア人、彼らは征服した土地や先住民の上に次第に自分達のイデオロギーと生き方を押し付けていったのです。このほかにも侵略者はいました。ヘブライ人と呼んでいるセム系の人々です。
2011/01/03

辰国は、遙かなる古の国、日本のルーツ、ウガヤ王朝です。 辰国は月神シンを主神とする、アッカド、ウル、シュメールの人々がサルゴン王朝末期にインダスを遡って、チベットから黄河を下降した人々の国家です。 後の、【sin・シン】、秦、晋、清・・・・・は、この月神シンからくるのでしょうか?彼らの故郷、バビロンでの国も【イシン】といいました。アッカド人が王家で、タクラマカン砂漠を本拠としウル人は月氏としてチベットへシュメール人は殷の時代、姜人として黄河流域にいましたが遊牧化したものが匈奴冒頓部となりました。辰国とは、これらの人々とエブス人、またはフェニキア人(ユダヤ)による九州と山東半島(殷)を支配した東表国との連合体で、カラスク文化は辰国の人々が作ったのです。 ウルの商人(サカ族)は、ディルムンの銅をスーサにいたエラムの銅と交換することによって肥大化したのですが彼らが銅を買い付けるための基地が九州の東表国だったのです。イシン滅亡の後、イシンのアラム人と海のカルデア人がシルクロードによって辰国に亡命したため、辰国は、アラム人をバルハシ湖周辺の地に収容しました。 BC6800年~5800年頃 メソポタミア北部のクルディスタン山麓のジャルモでは 地母神信仰をもつ農耕社会が成立。BC5800年~5100年頃 チグリス河上流ハッスナーからサマッラにかけて高原農耕社会成立。BC5100年~4300年頃 ハラフ文化が展開。彩文土器、銅、円形のトロス、押捺印章など。 分業がはじまり、金属細工人、陶人、石工が生まれ、銅鉱石交易。この頃、銅鉱石を採集してハラフ農民(高令・丁零)と交換した人々が後のアッカド人。 すると、ハラフ農民(高令・丁零)は、パレスチナのエリコにいたナトウフの人々でしょうか。彼らは、北部ヨーロッパから寒冷期に南下して来た人々でしたからパレオ・ユーロペオイドのコーカソイドというのも合点がいきます。アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後BC2360年~BC2180年頃までバビロンを支配しインダス経営はBC2350年~1700年まで続きました。碑文は、この王朝がインダス渓谷と交易しマガン(エジプト)を征服しディルムン(山東半島)を支配したと記しています。アッカド人の出自は、ウラルトゥの北方のアゾフ海に流れ込むコーカサスのグバン河デルタにシンデイという人々がいて、このシンデイ人がアッカド人の先祖と考えられます。シンデイ人は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだ原セム族の人々でカスピ海周辺から南下し、メソポタミア南部のシュメール人を支配しました。 ハラフはヴァン湖に銅鉱器文化による農耕が始まり、シリア方面に西進し北イラクのトルコ国境、高地南麓【テル・ハラフ】で大河下流の流域を開墾し小麦初期農耕を始め後BC5000年紀末、太古のハラフ農民(高令・チュルク)がユーフラテス河流域に下降しました。このハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよんでいました。ハラフ農民【高令】族または【丁零】は、採鉱民族であるセム族アッカド人に率いられてBC1000年紀にシルクロードによってジュンガリア砂漠の北方に移住した農耕民族でした。銅鉱石文化についてはハラフ文化と同時期、エラム高地にも同様な文化が発達しさらにウルク原文字時代が始まります。ハラフ高地に銅器を持ち込んだアッカド人と、エラムに銅器持ち込んだ人々が、元来同一の文化の流れに属して、それぞれの農民と結合しながら異文化を発展させたと思われます。【姜】族(シュメール)とは、エラム高原の農民がチグリス河流域に移動した人々です。中国側の資料では、、【姜】族はチベット人で、殷の甲骨文では、しばしば生贄にされています。【姜】族がチベットの羌族になったのは、アッカドのサルゴン王朝がインダス河を遡行してチベットに侵入した時、チグリス農民を伴ったからです。 倭人はカルデア人を中心とする南セム族でしたがバクトリア南部のシースターン(サカスターナ)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族は、ペルシアのキュロスの時に降伏してヒスタスペスの支配を受け、後、ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス1世になっています。BC221年、大秦国(バクトリア)王、ディオドトス一世は、精強なペルシャ軍団を率いて中国大陸に侵攻し、中国全土の統一に成功すると、自ら【始皇帝】を名乗って秦帝国を建国しました。 【秦】というのは、多分【月神si-n】。【月神si-n】とは、悠遠のかなたのジグラッドの主神であり檀君神話のルーツになります。【檀君神話】は、イラン族のナンダナ神、アーリア族のインダナ神でもありますが、【【月神sin】から派生しています。ここ一帯を大洪水が破壊したあと、チグリスユーフラティスの流域に戻ってきた人々が夢と希望をこめてジグラッドを作ったのです。エジプトのピラミッド、高句麗の将軍塚、日本の前方後円墳のルーツとなったジグラットは主神として【月神sin】を祭るのですが、後に月氏も匈奴もこの神を祭りました。【月神sin】信仰は多様に分化してこの地域の各民族に拡がりましたが原型は同一でした。【辰国】の辰王は、秦よりはるかに古いイシン国の王統でした。国は滅びても、流浪の辰王が権威を持って、辰系諸族が作った諸国家の民の間に、いつまでも存在していたのです。中国の西域を支配して新しい権力者となった秦の大王は、その権威に対抗するべく秦という名を持つ国家を建てましたが、辰王の権威をもつことは出来なかったようです。そして、おそらく、本来は身内であったはずの匈奴勢力が離反したため、辰王の権威にとらわれない全く別の新権威を名乗って【始めての皇帝】したのでしょう。本来は草原地域からの軍用補給路であった万里の長城は、始皇帝以降、実力を熟知している嘗ての身内、匈奴軍を防ぐ防壁に変わっていったと思われます。しかし、彼ら秦は【イシン国】の遺民であるタイ系種族が建てた国であったがゆえに、既存の辰王の権威を無視することなしに新しい帝国運営は困難であったので【sin秦】。焚書坑儒という、とてつも無い規模の文化破壊も、すべての辰系学者を殺害も、文書類を焼いて過去とのつながりを断ち切って新しい国家を始めましたが【秦帝国】崩壊後もsi-nという音への魅力はいやしがたく、後々までもisinの遺民である【月神sin】諸族の間で、晋、新、清、と幾度も甦る事になります。
2011/01/02

アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、つまり丘をいいます。数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後からやってきた人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。昔の家は粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。そして、ついには丘にまで成長したのです。チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が肥沃な農業の適地となりました。チャタルフュイックに、最も早い時期の人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェナッツ、アーモンドなどを食べていました。主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、チャタルフュイックに1000年以上先行するエリコの遺跡で黒曜石が出土しています。そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。エリコの住人が、チャタルフュイックに住み始めた理由が、黒曜石の採掘にあったというのは既に書きました。集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、間に道路がありませんでした。外側の壁には入口がなく、人々は木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。後世の鳥葬の原型です。チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプや石臼が、出土しています。小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた人間は、すばらしいと思います。そこから無限の可能性が広がりました。スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく人々は顔を突き合わせて住んでいました。まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、身の回り品や当座の食料については、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要があったのではないか。無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、所有権をはっきりさせる必要があります。しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす唯一の手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、自分の衣類や、穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです。
2011/01/02

日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう? 氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。北アメリカにあった巨大な氷河湖(氷河が溶けて出来た水が堰き止められて形成された湖)が崩壊して、大量の淡水が一気に海に流れ込んだ結果、海流が乱されて地球規模の熱の移動が滞ったのです。中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。 人類は地球が温暖化すると知的停滞し寒冷期の方が前頭葉が進化するようです。現人類の祖、ホモ・サピエンスも寒冷化・乾燥化した時期に獲物を求めて、アフリカから西アジアやインドに進出しています。最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。 やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し、一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まりそれは、めざましい成長を遂げるのです。メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。 長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興ったナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民のルーツともいうべき複合民族でした。ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力となりました。やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることからサカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいはカラスク文化となりました。約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。この文化の担い手はクルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車を使用していました。 彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、ヨーロッパ全域を覆いました。クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島までユーラシア大陸全体にありました。同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。即ち、クルガンを建設した人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであるといいます。 ウルは、アナトリアのチャタルフュイックの牛頭信仰に繋がっていると考えられます。アッカド人が現われる前のメソポタミアは、シュメール人とウル人が住んでいてシュメール人は蛇を、ウル人は牛をトーテムとする人たちそしてウル人がシュメール人を支配していたといいます。牛の頭に対する信仰、【牛頭信仰】は、その後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。日本国のスサノオのミコトも牛頭大王という別名をもっていますし、牛頭天王というのは 古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の守護神だったといいます。牛頭神は、ヨーロッパにも見られ、世界文明の主なる流れの最高神だったようです。ナトウフからエリコの地中海人種の系譜はヨーロッパにも流れています。そして、月氏であり、日本の天皇家のルーツと考えられます。
2011/01/01
2011年明けました。今年も平和で幸せな年になりますように。
2011/01/01
全13件 (13件中 1-13件目)
1


![]()