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南シベリア、山地アルタイのボリショイ・ウラガン河岸にある古墳群で BC6~3世紀のスキタイ時代の凍結クルガン(盛土大墓)が発掘され、調査の結果、このパズィルィク文化の担い手がスキタイ人に近い生活様式であったことが証明されました。出土した遺物から見ると、西アジアの西方のスキタイや中国との関係を保っていたユーロペオイド(白人・コーカソイド)であることが確認されました。彼らがクルガン人と云われる人々であり、約4400年前、精巧な車輪付き木製馬車を自在に繰り、コーカサス地方に侵入して、黒海に進み、インド・ゲルマン的特徴の混合文化を生んだアーリア人、後にインド・ヨーロッパ語族になった人々でした。パズィルィク古墳群がスキタイの古墳と違うところは、骨角器、金属製品に留まらずあらゆる遺物をいまに伝えたその永久凍結にあります。織物・羊毛・皮革製品・木製品・馬のみならず被葬者の遺体も残され、遺骸の側にはチーズも発見され、その味はまだ失われていなかったそうです。諸墳墓からは、遠隔地域からもたらされた種々の贅沢品を含む財宝が発見されました。中国産の刺繍のある絹布、BC4世紀の中国青銅鏡BC550~330年のアケメネス朝ペルシアのコブラン織り、豹の皮革青銅鏡入れ西アジア産のコエンドロの種子、さらにはインド洋産の貝殻また背の低いモンゴル馬、オリエント産の栗毛のアーリア馬が埋葬されていました。興味深いのは被葬者に文身(刺青)がほどこされていて、衣服・装身具のなかには容器そのほかの貴金属製品に描かれたスキタイ・アケメネス朝ペルシアの浮き彫りに見られるサカ人などのそれと一致するものが多いということです。これはこの頃にアルタイ地方に勢力をおよぼしてきた匈奴によって移動させられた月氏の残したものという説があります。チュルク族は月氏を主とするウラルトゥと同盟し、後にキンメリと合体して匈奴になりました。山地アルタイ出土のスフィンクス像とエルミタージュ博物館のウラルトゥ出土の【青銅グリフィン】の類似は歴然と明らかで、この類似はパズィルィク古墳の人々が【匈奴に合したチュルク族とウラルトゥ人の末裔】であった可能性が高い。パズィルィク古墳出土の動物像の表現法にはひとつの特殊な様式があってこれらはアケメネスペルシアの芸術によく似ているといいます。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになったといいますからペルシア芸術に似ているのは当然といえるでしょう。約4200年前には、インド・ゲルマン語族のヒッタイト人がアナトリアに入植しギリシアにもインド・ゲルマン語族が出現することになりました。小アジア・アナトリア高原にヒッタイト王国が起こり、オリエント世界唯一の製鉄国になりましたが当時の製鉄法は、砂鉄を原料、薪を燃料、タタラを風力としてナマコ鉄を得て、これを鍛鉄製品に仕上げるという【旧約聖書】に書かれている方法で鉄が作られていました。九州の【宇佐八幡】は、3500年前頃、彼らがフェニキア人のタルシシ船で渡来し築いたのでヒッタイト王国の首都【ハットウサ】に因んでいます。その500年前、約4000年前頃、アーリア人は南下してイラン高原に入り、それまでのセム系の国であったイランを支配し、アーリア系のケルト人がヨーロッパ中部および西南部(イングランドなど)で活動を始めました。同じ頃、同系のアカイア人およびイオニア人が南下してギリシアに入りクレタ島を中心とするクレタ文明に接触して、ミケーネ文明を生みました。また、その頃、カナーンの地にいたエブス人(プロト・フェニキア人)とハビル人、アモン人、カナーン人など5人種の新モンゴロイドの混血によって、フェニキア人が誕生しました。それは、約6000年前から、エブス人らの港湾都市が多いカナーンの地が、多くの船乗りたちが集う【人種の坩堝】となっていたからです。そして、このフェニキア人が船員たちの混合語を整理し、アルファベットを作り出して人々の共通語にしたのです。このカナーンの地では、フェニキア人とアーリア人の混血によって、カッシートも生まれています。彼らは、進取の気性に富んだ海人族でした。その100年後、約3900年前、バビロン第一王朝が始まり200年後の3800年前あたりから、インド・ヨーロッパ語族のコーカソイドの拡散が始まりました。当時、中央アジアに興ったミタンニ人はアーリア人であり、彼らの一部はシルクロードを東遷して中国大陸に達しています。また、人口が増えたインド・ヨーロッパ語族の多くは、それまで、インダス文明が栄えていたインド大陸に侵入しました。丁度その頃、ユダヤ人のアブラハムがメソポタミアのウル市に生まれました。ユダヤ人の族長の子として育ったアブラハムは、成人した後に、家族や奴隷たちを引き連れてウル市からハラン市へ行き、さらにカナーンの地(パレスチナ)に入って、近代ユダヤ民族の始祖となりました。約、3700年前、ラルサ王リムシンが、アッカド王(ウル王朝)の後継者と自称しその治世の晩年に統制経済を強化したため、アラビア海の交易ルートは衰退しバビロンの裕福な商人階級が急速に消えていきました。同じ頃、何派にも分かれたアーリア人の一派がイラン経由でカイバー峠を越えてインダス河谷へ侵入しました。当時、インダス河流域は長期にわたる家畜(羊)の放牧が原因で草原が失われつつあり、そこにアーリア人の侵入とあって、リムシンの統制経済の弊害と重なって、一挙にインダス文明が崩壊したといわれています。その余波を受けてか、アラビア海のマカンが貿易基地の移動を始め、彼らの一部はメコン河下流のオケオ港へと移動し、その大部分はエジプトへ侵入しました。その60年後、マカンのヒクソス人がナイル河の三角州地帯に侵入して下エジプトを支配し、ヒクソス王朝を建てました。約3730年前、ヒッタイト人が【鉄の武器】を持ってメソポタミアへ侵入しバビロンのハムラビ王朝を攻略した後、引き上げるとカッシート人が海の国の新しいリーダーとなりハムラビ王朝に代わってバビロンを支配しましたが、それは約400年間も続きました。一方、セム系の混血アーリアのクシャトリアは、マカンから出発して、ガンジス河の上流に至りました。白人の純血アーリアのバラモンも、ハラッパなどから出発し、同じくガンジス河の上流に至りました。ガンジス河流域は土質が硬く、鉄の農具でなければ耕作できなかったのでヒッタイトの鉄文化が浸透していったのです。約3580年前、メルッハ人から生まれたヒクソス人の王朝がエジプトの独立軍に滅ぼされたため、ヒクソス人由来のエブス人らがエレサレムへ移動しました。また多くのヒクソス人らは生みに浮かんでバンチェン文化圏を目指し、ひとまずオケオ港に入りさらに、山東半島の【番韓コロニー】に参入しています。常に連携して行動していたフェニキア人とエブス人やユダヤ人たちの関係は遠洋航海が得意な運び屋と武装した商人グループの関係でありました。約3500年前、干莱(韓商人)のエブス人がフェニキア人と共に黄河流域を遡り河南省へ進出して殷交易基地の文化圏をつくりました。別のエブス人たちは、アルワドからインド中部のロータルに移住し、さらにデリーを経てマガダ近くまで移動しました。これが後の16ヶ国時代、アヴァンティ国、コーサラ国アンガ国などの太陽(日神)王朝諸国となりました。同じ頃、エブス人とヒッタイト人は、フェニキア人と共に、九州国東半島に上陸し国東町重藤の海岸に莫大な砂鉄層を発見するとコロニーを設けて先住民に農業文化を普及させるとともに製鉄基地を建設し始めたのです。これが、東表国であり【宇佐八幡】になります。約3500年前、インド・クル国周辺のジャングルにいたナーガ族や瓦人(倭人)の祖、カッシート人を教化したバラモン、もしくはヒンドゥ教の高僧こそが、檀君朝鮮教の創作者でした。やがて2世紀に、この壇君教が卑弥呼の鬼道となり、扶余人たちの邪馬壱国 が東遷して近畿地方の秦王国と共存し、さらにインド伝来の熊野信仰とも融合して倭国の神道へと発展していったのです。約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によってウラルトゥ人が生まれこの人々によって小アジアのヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国で初代王となったのがアマテラスでした。約3000年前、新モンゴロイドの苗族とアエタ族との混血によって匈奴=フン族(ハンガリー人・フィンランド人)が生まれました。匈奴は、遊牧騎馬民族として中国から中央アジアにかけての草原地帯で暮らしていましたがその勢力は次第に強盛となって、2世紀にはヨーロッパに達し、4世紀後半(375年)には黒海沿岸のゴート族を圧迫して西方へ集団移動を起こさせ、ゲルマン民族の大移動はその余波によるものです。BC1013年、バビロンのイシン末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦い、その結果、アッシリア王シャルマネサル2世の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海からインドに逃れ、ウラルトゥは北方ヴァン湖周辺に退きシャキイ族(カルデア人・穢族)は南下して後に宛の徐氏になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族・子叔箕シャを奪い返し遥々航海して渤海に至り、遼東半島に上陸して国を建て【奇子朝鮮】と名付けました。【奇子朝鮮】は金姓で太陽神の金牛をトーテムとすイシン末のアラム族です。この後、アッシリアに抵抗して亡命した海の国カルデラ人(サカ族)の昔姓王家が扶余国を月氏族で朴姓のアメニギ氏が辰国をたてて三国が擁立しました。衛満朝鮮によって箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。そのため、月氏+ウラルトゥ王朝、シルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。
2010/01/26

ヒマラヤ山脈は、インドの北側に連なる8千メートル級の高さの大山脈ですが、そこではなぜか、海の生物の化石が見つかるといいます。その謎を解く鍵は、ヒマラヤ山脈の成り立ちにありました。大昔、インド(亜大陸)はプレートの動きと共に、ユーラシア大陸に近づいていきました。2つの陸に挟まれた海は徐々に狭まり、やがて小さな島が生まれました。海の底にたまっていた砂や土、生き物の死骸などの堆積物が押し上げられたためです。その後、インドとユーラシア大陸が衝突し、巨大な山脈が生まれたのです。これがヒマラヤ山脈です。高山に海の生物の化石があるのはそのためです。インドが乗ったプレートは、ユーラシア大陸が乗ったプレートにさらに潜り込んでゆき、ヒマラヤ山脈の北側にあるチベット高原も作りました。シルクロードのオアシスとも桃源郷とも云われたこの辺りが豊かな資源を蓄えていた理由が分かった気がしました。鉄は紀元前3500年くらいにメソポタミアで既に使われていたそうです。紀元前2000年くらいには現トルコのハッティという鉄の国ができて、そこに東からアーリア族が入ってハッティの製鉄の伝統を拡大して初めて鉄鉱石を溶かす溶鉱炉で鉄を量産して、ヒッタイト文化をつくったのだそうです。それ以前は、メソポタミアの鉄は6割が隕鉄でした。隕鉄は炭素を適当に含むので、溶かしてもう一度打てばいい鋼鉄になったそうです。青銅よりもつくるのが易しく、メソポタミアでは、そのために鉄は【天の金属】、【天の石】と呼んでいました。 BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がり、これがモヘンジョ・ダロを経てBC2500年頃までにはアンドロノヴォ(エニセイ川流域付近の村の名)に伝わったと考えられます。 BC1800年~BC1300年に至るまでのバイカル地方に栄えたグラスコヴォ文化は、奴隷制・シャーマニズムをもち、銅器をトーテムとしますが、これが殷文化以前の文化です。殷の青銅社会は、実は中国に於けるイシン(バビロン)の植民地でした。 殷は商ともいいましたが賤名で【夷】とも云われたのは【銕人てつ人】製鉄族を表すとともに黒人を表し、【エビス神】【インダナ神】を意味し、カナンのエブス族のことで、後の海の国ヒクソス、エブス人、フェニキアは同一です。またウルのカルデア人は、後のサカ族のことです。サカ族はドーソンでモン族と合体した後、BC4世紀末、海陸両路で北上するのですが、弥生文化はこの人々がもたらしたものです。エニセイ川上流にいた民族が西へ向かってキルギス人となり東へ向かって日本人となったという説があります。天山山脈の麓に【ヤマトゥ】と呼ばれる国があり、その版図に【弓月王国】という王国があり弓月君とは【日本書紀】に記述された秦氏の先祖とされます。ここから【弓月君】に率いられ秦氏は朝鮮半島から日本に移動したという説です。 アラム族の人々はセム族系の民族で、BC14世紀頃から北シリアを中心としてオリエントに拡散したとされます。また彼らはシリアを中心として幾つかの小国を建てましたが、ミタンニの故地であるハブール河流域と北シリア地方に住んでいたので、この地域をアラムあるいはナハライムというそうです。このアラム人とシメオン・フルリ両族が混血し、商業に長じていて、南西アジアの商権を支配し、陸上のフェニキア人とも呼ばれていたといいます。BC8世紀にはアラム語がアッシリアの公用語となり、やがてシリア、パレスチナでも用いられイエスはアラム語によって語ったとされています。バビロンのイシン国滅亡時に王族のアラム人が二分してカナンでユダ王家になり東方で箕子国を建てたといいます。アッシリアによってイシンが滅亡した時、アラム族は抗戦を唱えてならず、ラガッシュ人は征して勝たず、アーリア族は勇敢に防戦しましたが、エラム人が賄賂に毒されて裏切ったためにイシンはついに滅んだといいます。イシンのアラム人と海の国のカルデア人とは留まってバビロンの地を支えようとしましたがカルデア人は捕らえられていたイシンの王族箕子を奪い、ユーフラテス河西方のラケーに築城し、国を辰法殷(ビト・アディン=ウラルトゥ)と名付けました。このアラム人が【史記】の犬戎、ウラルトゥ=ウガヤ王朝のことで、カルデア人が後の月氏系サカ族、ニギハヤヒ族、辰王ですがこの時、共に戦っていたのです。さらにバジ王家の軍とエラム人に攻撃されて箕子一族はシルクロードを移動し、金鉱のあるイッシク・クルに築城し、これがイッシク古墳で金の上下を纏った被葬者【黄金人間】はサカ族(月氏系)の族長とシャーマンを兼ねた存在だといわれます。この古墳の遺物は様式的にみて、アルタイのバズィリク古墳のそれに近く現地で作られたという説とアムダリア流域の古代バクトリアから移入されたとの説があります。イッシク古墳は、イリ川のある箕子国のあったところであり、被葬者は箕子国の王族であり新羅三姓の金姓はアルタイの金山を表します。この金氏が後の金官加羅、そして分家して新羅の金氏のヒッタイト蘇我氏になったと考えられます。殷の時代には崑崙北麓、特にホータンの【玉】が殷の貴族たちに珍重されたのですがこれを運んだのは当時、甘粛から西域を支配した月氏族でした。またスキタイ・サカ系の民族は、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の北方を支配しました。 スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して 箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下して辰国を建てた人々とに分裂することになります。インドでは前12世紀に、アーリア族の侵入が終了し、中国大陸では、この頃に周が建国しています。 周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れて、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地であったからであり、この人々はミタンニ族であると考えます。殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を中心としながら(人民はハッティ)朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触したらしく、次第に混合文化を形成していったと考えられます。
2010/01/26

古代、白鳥をトーテムとする部族は欧亜にかけて存在しました。【白鳥族】は匈奴の中にいました。後の【匈奴】は自称【フン】Hu-unといいましたがこれはメソポタミアのウル語の【鳥】=【フ】huに起源しています。彼らは鳥(フ)をトーテムとしていましたから民族名を【フン】と称したのです。そして、この鳥の【フ】は、3世紀、馬韓の長い王号の中に、濆(フ)、不(フ)、報(ホウ)としてありました。また高句麗では王妃部の絶奴部が、細群(さいぐん)と麁群(そぐん)に分かれていましたが、細群が【白鳥トーテム族】、麁群が【大角鹿トーテム族(スキタイ人)】でした。いうなれば、白鳥トーテム族が匈奴にも、高句麗にも、馬韓にも、いたのです。【白鳥族】と【牛族】は、ラガッシュ系とウル系に分かれるのですが、両族は【七夕伝説】【羽衣伝説】【白鳥乙女伝説】【夕鶴物語】でも分かるように、対婚部族であったのです。日本にも、倭建命の霊魂が白鳥となって飛び去ったという白鳥伝承があります。 新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、パレオ・ユーロペオイド的(白人)でした。アフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化の東方流入によって発達したといわれます。中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した様々な文化的要素とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだとおもわれます。カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたるアナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族はウラル・アルタイ語族=ツラン族といいこの内、ツングース、蒙古、サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。「ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、「往昔、その原郷のアルタイ山脈から出発し、北東と西に広がって、主としてアジアに限局する地域を占めた。・・・西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的にはメソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった」と述べています。彼らはシルクロード全域に亘って分布し、アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。そして、高句麗・百済・天皇家につながります。この人々は後に分裂して【丁零】、【殷庶の高令】、【匈奴高令部】、【高句麗】などになりました。【倭人興亡史】によれば辰王家=ウガヤ王朝の前期王朝は天の王朝の安冕(アメ)氏であり、後期王朝は扶余系百済王家の賁弥(ヒミ)氏です。前期辰王朝の天の王朝が、朝鮮半島の主権を高句麗に渡した後、倭の大乱を経て畿内に侵入し、物部王朝を建て、倭軍を率いた安冕(アメ)氏の一族が移動した時に【アメ】という言葉や地名を残しています。まず沖縄では【アメ】とは、遠来の人を表すとされますが、国東半島南部には今日でも【海部(アマ)郡】という地名があります。また京都には天部(アマベ)という地名があり、これは後に余部とも書かれはじめ五条河原、後に三条河原にあった賎民の蘇塗です。実は余部という地名は福知山をはじめ全国に散在するのですが最北には山形県酒田市北東の余目(アマルメ)があります。辰国前期王朝の人々が、九州国東半島のアマ地域(海部郡)から京都の天部を経て最後に山形県余目(アマルメ)に辿り着いたという地名遷移、山形の余目の人々が肌が白く、瞳が碧眼でコーカソイドの特徴をもっていることからスキタイ系とイラン、ユダヤ・シメオン系の人々の混じった扶余・辰国系の人々の軌跡は、白鳥族によって広範囲に拡散したと考えられます。
2010/01/26

以前、エヴァンゲリオンのようにヒットした【鋼の錬金術師】は、私も好きなアニメでした。シェイクスピアは言葉の錬金術師と云われます。【錬金術】とは、字の通り金を練成する術です。「金は、一番不純物が無いの。古くなっても、拭くとすぐピカピカになるでしょ」と、理科系の友人が言いました。なるほど。 古い雛人形の着物の金糸が今もキラキラ輝いていたことを思い出します。 金は、とにかく変化しにくい物質だということが分かりました。すべての元素の中でもっともイオン化傾向が低く、空気にさらしていても錆びることは無いし、酸につけても溶けることは無い。ゆえに変化しない物質だということです。そういう物質が天然で金属のまま産出されるのだそうです。それは完全なもの、永遠なものを意味し、古代の人々は、それを創り出す自然に神の偉大さを重ね合わせたようです。錬金術では、地上の原理はすべて宇宙の原理とシンクロしていると考えます。宇宙を一つのシステムだとすると、そこに存在する全てのものは相互に関わりあっていると。人間は一つの宇宙であり、細胞はミクロの宇宙であると、したがって地球である大宇宙と小宇宙である人体は相似形であると考えました。頭部と四肢を持つ人体。全体の約70%が水分の人体。中央が高い五本の指を持ち、五臓で生命を維持しています。宇宙の崩壊を実際に見なくても、古代人の感性は死という人間の崩壊を見て、それをイメージし宇宙の発生を見なくても、誕生という人間の発生を見てそれを拡大解釈することができたと考えられます。昼と夜が巡ると風景が変わり、生き物は成長し年老いて崩壊してゆく。それらの要素を古代人の柔軟な想像力は、自由自在に拡大・縮小し、誇張や比喩を積み重ねて原子サイズから漠とした宇宙までを破綻なく見立てる理論を構築して文字に記し残しました。知恵と気の流れ、天の巡り、陰陽が溶け合った部分が全てのものが発生する聖地とし古代の人々は遺跡を残しました。ストーンヘンジ・ピラミッド・前方後円墳・鹿島神宮も。錬金術では、卑金属から黄金を産み出すという作業を通して内的な魂の変容のプロセスを歩みます。 黄金とは、不変で完全で祝福された状態の魂のシンボルであり黄金の獲得を目指すことは同時に悟りの境地のように意識が根源的に変革されて高次の認識水準に達することをも意味しました。【金】は新しく生まれ変わった再生の象徴ともされました。金属を作り出す神がなぜ一つ目や片目とされてきたのかという点に関しては金属精錬のタタラ作業で火の色を長年見つめるために片目がつぶれたという説などがあります。中世ヨーロッパでは、錬金術師が、鉛などの卑金属を金に変える際の触媒となると考えた霊薬が賢者の石とされました。また【賢者の石】は卑金属から黄金に変える赤くて重い石を液化すると延命長寿の薬となりあらゆる病気に効く万能薬といわれました。秘教的錬金術、錬金術師がめざした黄金は金属(物質)ではなく魂の浄化を象徴した霊的黄金である意識の至高状態をいいます。錬金術師は自然になりかわって自然の作業を成就し卑金属を黄金に変成させて自然を完全なものとし、時間にとってかわる修験道永遠の生命の探求をめざした煉丹術(錬金術)と同じ金を採集するための苦難が、苦難そのものが、目的のようになり変形しています。本来は、修験の服装や持ち物も、前人未踏の地に金や水銀を探すためのものでした。人類が利用し始めた最初の金属は、銅でした。銅を高温で加工する技術を発見した過程で偶然、僅かな金を発見したと考えられます。銅は、自然の形で発見されることが多かったのです。金は、銅や銀と、元素で同族の関係にあり、多くの銅鉱石は、少量の金や銀を伴っています。したがって銅を大量に使っている間に、金が少しづつ蓄積していったようです。金は、王権と密接に結び付いていたと考えられます。古代の農民社会は、王と戦士階級と農民、三つの要素で構成されていました。興味深いのは、かなり時代は下がりますが、古代のミトラ信仰にこの三つの要素が濃厚に反映されていることです。ミトラが王の神格、インドラ(帝釈天)が戦士階級の長の神格そして農民階級を現すその他大勢の神・・・。ミトラ信仰はゾロアスター教信仰以前の古代イラン人の宗教といわれています。しかしその古代イラン人はどこから来たのでしょう。北方起源説が有力なアーリア系のイラン人が、その信仰の農民的性格から実はメソポタミア起源である可能性があるといわれます。農民社会は、遊牧民族から発展したのです。遊牧民の生活は、絶えず外部の状況が変化し、絶えず未知のリスクに曝されそのなかで選ばれるとしたら血筋よりは、個人の能力、とくに判断力と決断力に優れていることが、リーダー選定の基準になっていたことでしょう。激しい闘争を勝ち抜き、王となった人間にとって最大の課題は、潜在的な競争相手から自分だけは超越した存在であることを誇示することであったでしょう。この目的で、金はラピスラズリとともに理想的な材料でした。簡単に手に入らないことが、好まれたのです。とくに、どんな環境にも光りを失わない金は、太陽光線の下であれ夜の篝火の横であれ、見る者に畏敬の念を抱かせたでしょう。金は、王権を確立するための小道具として、必要欠くべからざるものでした。銅には遅れましたが金もまた、世界でもっとも早く農業社会が発展したメソポタミアでもっとも強い需要があったと思われます。かくてほとんどの金の生産地は、メソポタミアの王のために開発された可能性が高いのです。やがて分業がはじまり、農耕をせずに採鉱と交易をする遊牧民はアラビア半島を数百年かかって迂回し、シナイ半島の銅鉱山を開発したようです。さらにスエズを渡ってエジプトの山を探鉱して回りそしてナイル河の砂金を発見しました。東ではインド、バクトリア、ソグディアナ、これらの地域も、シナイの鉱山と同様、これらの鉱山師によって開発されたと考えられます。そして、北シリアから地中海岸をイベリア半島まで、またメソポタミアからイラン、パキスタンを経てアフガニスタンからソ連中央アジアまで、銅や金を運ぶルートが出来ていったと考えられます。中央アジアのシルク・ロードは、古くはゴールド・ロードあるいはカッパー・ロード(銅の道)でした。インダス河流域、モヘンジョ・ダロのBC2500年頃に遡った頃に設計された都市もメソポタミアへ金や銅を運ぶ基地として、メソポタミア系の人によって建設されたと考えられます。
2010/01/25

「ペ・ヨンジュンのファンではなかったけど、知人から贈られてきた【韓国の美をたどる旅】を読んでみたら、とても良い文で、すばらしい本でした。なぜ彼がヨン様と騒がれているのか解らなかったけど、この本を読んで、わかる気がしました。」と、サークルの師が言いました。元々、ペ・ヨンジュンの人となりが好きだった私は、その話を聞いてその文を読んでみたくなり、帰宅するとインターネットで検索してみましたが既に絶版。やっと見つけたAmazonでは、プレミアで1万5千円。迷った末に清水の舞台から飛び降りる思いで注文しました。韓国の歴史も綴られているということで、古朝鮮に築いた辰国の名残を少しでも解ればという思いもありました。届いた本は、期待通り静謐な文章で韓国の美しい文化について書かれています。家庭料理、キムチ、韓服、暮らし、漆や陶磁器、茶について彼自身、実体験を伴って真摯に綴っています。歴史についても詳しく、弥勒寺を創建したといわれる【ソドン説話】など。これは今、丁度DVDでシリーズを観ているところなのでドキドキしました。ペ・ヨンジュンが演じた広開土王の話、そして韓国の祖は檀君とも書かれています。この本を購入してよかったと思っています。ペ・ヨンジュンは、書ける人でもありました。檀君といえば、日本の神道と同じ、ルーツはオリエントにありました。 檀君教とは、ミタンニやインドのインドラ神であると共に、フェニキア人のダゴン神であって、ダゴンを檀君と書きました。BC10世紀以降、彩文灰色土器を持ったバビロンのカッシート人がイラン高原からバンジャップに入り、BC8世紀頃、デリー北方のクルを中心として南北パンチャーラに移動しました。アラビア海には、これより先、BC20世紀頃からロータル港を中心として黒緑赤色土器を持ったバハレーン島のディルムン人やオマーンのマカン人と交易していたメルッハ人がいたのですがBC10世紀頃にフェニキア人と共に北東部に進み、クル・パンチャーラ及びマガダ西方でカッシート人と接触しました。カッシート人はインドラ神、フェニキア人はダゴン神を祭っていたのですが、両者は元来オリエントに於いて同じ神だったので協力してヴェーダ教をつくったのです。檀君朝鮮は、グート王がアッカドを滅ぼしたあと、カッシート人の王朝ができBC10世紀頃、カッシート人はバビロンから脱出しました。このカッシート人を主体とするクル王朝と同盟していたのがカッシート人の原郷に接するアナトリアのバン湖周辺のウラルトゥ王、のちのウガヤ王朝です。カッシート人は元来、イラン高原を越えてインダスに入る以前にウラルトゥのフツリ人と同盟していたのですが、インダスに移動しクル王朝をたてた時も互いに連絡を保っていたと考えられます。当時、アラビア海には色々な海人がいました。先に書いたディルムン人は中国大陸で殷や箕子朝鮮をたてました。オマーンのマカン人はタイ国の古代バンチェン文化圏を流れる河にマカンの名をつけました。アラビア海に面したロータル港のメルッハ人は【旧事紀】に書かれたニギハヤヒの船団で知られたアマツマラのことで、後にガンジス河流域に移住しました。そして、この一族はBC10世紀以降ロータル地方からクル地方やマガダ周辺に侵入しました。ニギハヤヒノ命という名はウガヤフキアエズと同じく世襲ですが、【旧事紀】によるとニギハヤヒの軍団には鍛冶部の祖、鉄工カーストがいたとあります。ニギハヤヒの一族は徐氏と名乗って河南省の宛で製鉄コロニーをたて、秦の始皇帝に破れたため満州に逃れて穢国をたてたとあります。その後、衛満と戦って扶余に合体します。【後漢書】穢伝には、穢君ナロトが戦死し、その子、イサトがクーデターを起こして扶余王東明になったために、従来の北扶余王家は逃れて東扶余を建てたとあります。、この王家をウガヤ王朝というのですが、後の夫台、仇台につながって、扶余仇台が神武になるのです。神武より先、東明の子孫の陜父が、ウガヤ系の東扶余との抗争に破れて九州の熊本で多婆羅国をたてますが、この陜父はニギハヤヒのことです。この時代、満州から朝鮮半島南部まで亡命した諸族は、九州との航路を確保する必要がありました。なので陜父だけでなく、公孫氏と扶余王の仇台及び神武も九州に足がかりを求めたのです。ウガヤ王朝の戦士団は、オリエント史に初めて登場するシュメール人、言い換えるとエラモ・ドラヴィダ語族がダゴン・バアルの神話、即ち桓因-桓雄神話を持っていたらしい。ウンマ・ウルク・ウルというのはバビロンの第二王朝、海の国をたてたカルデア人で、エラモ・ドラヴィダ系の海人でした。そこにアーリア人が混同し、シルクロードを支配してカッシート、ウラルトゥ、ペルシャ、バクトリアなどの戦士団ができました。この人々が檀君朝鮮または辰韓になっていますが、その終わり頃、中国を支配しました。【史記】では、これが趙になっています。扶余族は、唐の時代にバクトリア東部のクスターナにホータンという国があって、月氏によって支配されていました。また馬韓にしても辰王は月支国の人となっています。 次に、ニギハヤヒ族というのは、オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれていました。宛というのは戦国時代の魏の製鉄基地ですが、この人々も扶余、高句麗の涓奴部なのでニギハヤヒ族(サカ族)と月氏とは同族ということでしょう。この人々は、戦国時代の魏(三国時代ではない)と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。穢国の王姓は、アグリ【余】というのですが、扶余、百済もそうです。したがって、天皇家もそういうことになります。天皇家のルーツ、扶余→百済→邪馬壱国のいわば本家である中馬韓を建国した【卓】という一族はフェニキア系でした。バビロニアのイシン王朝の末裔=箕子朝鮮が滅びた後、その将の卓が穢国の領地を引き受けて馬韓を建てたのです。そして穢国は扶余に合体しました。高句麗はチュルク人(トルコ族)で、当初は匈奴などのシルクロード諸族に所属していたのですが 後にバクトリアが衰えてからシルクロード全域で暴れだして、その中から高句麗が出てきたのです。この高句麗に扶余の皇子が養子に行き、九州に侵入した後の神武天皇になります。
2010/01/20

日本最古の王朝、【天の王朝】とは、約3500年前、フェニキア人、エブス人、ヒッタイト人らがタルシシ船で渡来し国東半島へ製鉄基地を築いて『殷文化圏』に鉄製品を供給し始めました。続いて3100年前、国東半島重藤の製鉄基地が発展して殷の東表国となり彼らフェニキア人らは宇佐八幡を都とし、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として東表国(豊日国)を建てました。これが、わたしたちの国の第一王朝の始まりです。日本書紀上、日本初の天皇とされる神武天皇の前に既に1000年間も続いていた王朝でした。この時、先住民である港川人・オロッコ人・ツングース(アイヌ人)・アエタ族らの縄文人を不必要に殺さず、できるだけ生かして新文化の建設に使役しました。彼らがエビスさん、七福神と人々に親しまれた所以です。現在の大分県・宇佐八幡は、全国の八幡社の根本社になっています。本殿の第一は応神天皇、第二は、比売大神(ひめのおおかみ)を祀ります。応神天皇が八幡神として顕れたとも伝えますが、元々比売大神が本来の祭神であとから八幡神が来たとも考えられます。宇佐氏が祀ってきた比売大神の上に新たに八幡大神の祭祀が重なったことで、宇佐の地では二重祭祀あるいは混淆祭祀が始まることになります。八幡神の出現は菱形池の辺りで鍛冶の老人の姿であったと縁起は伝えます。菱形池の辺り、小椋山の麓に一身八頭という奇異な姿をした鍛冶の翁が顕れ、人が行く毎に、五人行けば三人を、十人行けば五人を殺した。大神比義が出向いたら梢の上に金色の鷹がいた。比義が祈って『誰が成り変りしか』と問うと、金色の鳩となって比義の袂の上に飛び来たった。ひとつの身に八つの頭を持ち、訪れる人を殺す荒ぶる神だったともいいます。8世紀の初め、南九州の隼人がしばしば反乱を起こしたため、藤原政権の命によって北九州から鎮圧軍が派遣されました。この時、象徴となったのが八幡神、ヤハタという名は八流の幡・・・軍旗で、多くの軍勢を意味するといいます。多く朝鮮半島からの渡来民だった北九州軍は大隈に【辛国城からくにじょう】を建設、入植民を引き入れて南九州土着の隼人たちを服属させていきました。後に、送られたのが正八幡宮・・・現在の鹿島神宮です。現在も宇佐八幡宮で行われる【放生会ほうじょうえ】は、隼人殺戮の罪をあがなうため魚貝などを放つ行事なのだといいます。八幡神の名が全国に広まっていくのはその後、8世紀半ば・・・・・奈良に巨大な銅の仏像が造られる時でした。元々、北九州は大陸から稲作と共に最初の鉄器文化が入ってきた場所でした。農業のための鎌や鍬など鉄製の農具を作る製鉄・鍛冶職人も渡来し、そして、そうした職人たちは、しばしばシャーマンでもありました。 奈良に巨大な銅の仏像が造られる時、金属精練に長けた秦氏系の職工が国家的事業に結集しました。八幡神の名の下に集められたパワーでした。式典には宇佐の女性神官(シャーマン)が盛大に招かれ大仏を拝し、これは八幡神が日本の神々を代表して仏を受け容れる儀礼でした。後に仏と国家の守護神【八幡大菩薩】と称されることになります。八幡放生会では古くから、ご香春(かわら)の古宮八幡宮で作られた銅鏡を神体として運ぶ神事もあったらしい。香春岳は有名な銅山であり、古宮八幡宮の付近は、まさに【採銅所】という地名であることは因縁があると考えられます。香春は【銅】を表わす朝鮮語【カル】からきているともいわれますが、新羅系の金属技術者たちが多く渡来していたことを物語ります。香春で造られた銅鏡が神体として宇佐へ運ばれたらしい。大仏建立で名を上げた鍛冶と託宣の神を広めていったのは後の武士階級でした。【弓矢八幡】ともいわれ、武神・軍神として尊崇された八幡神は武家勢力の拡大と共に発展し源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮を造って以来、江戸時代まで全国に八幡社の隆盛をみることになったのです。江戸時代末期、鉄製の黒船に驚愕した日本人は明治維新を経て近代化の道を急いでいました。列強に比べて遅れている【製鉄】が無ければ大砲も軍艦も他国から買うしかない。自前の軍備のため製鉄所を持てるか否かに大日本帝国の将来がかかっていました。1889年(明治23年)洞海湾を望む北九州の3つの村、尾倉・枝光・大蔵が合併して、一つの大きな村になりました。各村に八幡宮があったためといいますが、新しい村は【八幡やわた】と名付けられました。古代初めて鉄器文化を受け入れ、八幡神の故郷でもある北九州に、日本最初の近代的製鉄所が建設されたのです。1901年、東洋一の規模を誇る国営八幡製鉄所が操業開始、中国から輸入される鉄鉱石を港に受け、筑豊の石炭で溶かして出来た鉄鋼を全国に供給するシステムが稼動することになりました。天の王朝以来、3500年も製鉄につながった縁を考えると感慨深いものがあります。
2010/01/18

現在【奈良盆地】といっている場所は、縄文人がやって来た時は盆地ではなく琵琶湖ほどの大きな湖沼だったそうです。その中に半島的にわずかに見えていたのが三輪山とか大和三山(畝傍山・天香具山(人工的につくった聖地)・耳成山)のような島的に存在していた小山地帯で、この湖沼の畔に竪穴住居をたて定住してコロニーをつくったのが港川人でした。湖中の島であった三輪山周辺に、縄文時代の遺跡やピラミッド・巨石文化の遺跡が現在も多くあるのは港川人たちが三輪山を御神体(アニミズム)として崇拝していたからです。大和三山が二等辺三角形を形作り、三輪山と畝傍山を結んだ線は冬至の【日の入り】に当たる線になっているのも彼らの太陽信仰だと考えられます。彼ら縄文人の三輪山アミニズム信仰は後に渡来してきて秦王国をつくったユダヤ・シメオン族の大国主命グループによって守られ国つ神とされています。ユダヤ・ガド族を破り、その仕返しに天つ神の神武・公孫氏によって大国主命が敗戦、日本に渡来してきた豪族たちは、どのようにクニ造りをしていったのでしょう。第一回目天孫降臨 ユダヤ南朝系ガド族+イッサカル族+ゼブルン族 BC213年、秦始皇帝による焚書坑儒により、孔子・孟子の子孫、ガド族は、イスラエル北朝系からユダヤ南朝系に転身して燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合してBC90年頃から移動再開。BC86年、ガド族猿田彦の下にイッサカル族、ゼブルン族が結集し、一行は朝鮮半島を南下して対馬に至り【高天原】と称し、天照神社を祀り、対馬高天原から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建てます。初代猿田彦命が肺結核で病死するとイッサカル族出身の王妃が女王となって王権を継ぎ、かなり長く君臨しました。二代目猿田彦(ガド族)は平原に王宮を移し、【記紀】に出てくる"前の君"と呼ばれました。猿田彦二世はイスラエル神(バアル神)を祀る太陽神殿(天照大神を祀る日代宮)を平原王墓(遺跡)に築き、八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。彼は、この最新式な青銅器文化を持って九州一円に進出し、先住のシュメール人・苗族・港川人らを支配下に置いてきました。第二回目の(天孫降臨)【秦始皇帝子孫イスラエル北朝系シメオン族】 BC74年頃、朝鮮の秦韓(慶洲)にいた秦の遺民ユダヤ人亡命集団6部族が移動を始め対馬高天原経由で九州有明海の鳥栖に上陸し、博多に委奴国を建て、その勢力を吉野ヶ里の地まで拡大しました。そのことをフェニキア人(海人族)から伝え聞いた秦王率いる苗族らも合流して、秦韓シメオン族々長・大国主命を推戴して委奴国としました。この時、別働隊として日本海側の福井県敦賀に上陸し、滋賀県を経て奈良に入った大国主命の弟のグループがありました。また、大国主命の父親は、佐賀県に上陸した後、別の先遺隊を率いて再び乗船しいち早く先駆けとして奈良盆地に到着しています。こうして奈良盆地の大和にユダヤ人亡命者のコロニーが初めて作られました。第三回目の【天孫降臨】ユダヤ人ガド族3百人ユダヤ人亡命集団ガド族三百人が対馬高天原から船出して、利根川下流域の霞ヶ浦=衣河流海(茨城県)に渡来しました。彼らは鹿島灘にある明石海岸の大鳥居近くに上陸して椿神社(祭神は猿田彦命)を建て、猿田(猿田彦命の兄弟に因んだ地名)などにコロニーを作りました。そしてこの地を聖地として【常陸の高天原】と称するようになりました。BC30年頃、続いてゼブルン族4百人が薩摩半島から渡来し、鹿島灘周辺に上陸しました。この時、天津甕星(あまつみかほし)らは常陸の大甕などにも移住しています。紀元一年、高句麗にいた北扶余の穢王一族が、穢族の一部を率いて亡命し日本海沿いに南下して対馬経由で北九州博多に上陸しました。彼らは既存勢力の旧伊勢国や大国主命の倭奴国に遠慮して一旦、阿蘇山系にコロニーを作りましたが、族長の陝父らはさらに下って熊本に多婆羅国を建てました。この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますがその建国を担ったのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝系の人々)で、この多羅国が成長して百済国となり後に百済国初代王神武の系譜が現在の天皇につながっていきます。147年、後漢に圧された高句麗(北倭人)が倭奴国(ユダヤ人)および東表国(南倭人)を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、倭奴国は、その同盟国でした。その時、東表国エビス王は海部知男命でしたが、これより高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う東夷諸族の争い=【倭の大乱】が始りました。 163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、その首都吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。この時、秦始皇帝の末裔・大国主命が率いるシメオン族の兵士ら30名の攻撃部隊はあらかじめ用意した20丁の鉄斧ですべての神鏡を徹底的に割ってしまいました。大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊(約600人)は、日本海沿いに北上して山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった鉄鐸・銅鐸文化の蘇民将来のクニ牛頭天王(スサノオノ命)のユダヤ系ガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】へ参入しました。次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷し、中国・四国・近畿にやって来て各地に彼らのコロニーを作りました。彼らのうち、紀州・熊野に約300人が移動して伊国を建て志摩半島に約300人が移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。さらに、奈良大和に約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を建てています。なお、旧伊勢国の日代宮(太陽神殿)を建てたのは猿田彦2世であり高句麗と同盟して大国主命や東表国と戦って敗れ、出雲に亡命したのは5代目でした。また、志摩半島に新しい伊勢国を建てたのは6代目でした。この時、猿田彦の別働隊(ガド族・イッサカル族・ゼブルン族等)は、瀬戸内海を東遷した途中周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作りました。さらに、一行は楊井水道の大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して大畠・大久保の地、柳井市に【天照神社】を建てました。また、瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。さらに、旧伊勢国グループは、東遷の途中、瀬戸内海沿いの各地に、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に鉄鐸・銅鐸遺跡を残しています。
2010/01/18

今日は、古典講座に行ってきました。 自転車で隣町へ、、たいてい歌を小さく唄いながら走っているのですがマイケル・ジャクソンが亡くなってからは、ビリー・ジーンをハミング♪ しています。 彼が、とても好きでした。歌も、切れのいいダンスも、何よりピュアなスピリッツが好きでした。この世で生きるには純粋過ぎ、淋しいけど彼のためには、天国へ行ったことは良かったのかもしれません。天国といえば、神秘的な惑星が描かれた【アバター】を観てきました。見たこともない光景、様々な動植物が生息する美しい森、そこに住む青い人々も自然の一部として躍動的に跳んだり、飛んだり。 確か 「"I see you"・・・心で感じるのよ」 という台詞だったか、シンパシーを感じました。私も、そう感じ、そうしたいと常に思っているから。青い人々ナヴィは、自身の心を通じて自然や動物と共存し調和しながら生きています。"I see you" 「あなたが見える」これは、目に見えるというのではなく"あなたを感じる" 魂を感じる 考えるのでなく 心で感じるということ人間だけでなく、樹も花も動物も心で視るということ視覚はむしろ妨げになるかもしれません。自然と交信しながら自由に解き放たれてピュアに生きているナヴィたち、不思議な世界観に引き込まれます。この星は、地球から5光年離れた【パンドラ】という惑星という設定ですが、ストーリーを追っていくうちに、古代の世界にひどく近いことに気づきます。歴史好きが昂じて何でも結びつけてしまうこともあるでしょうがそれだけではない気がします。此処には【聖なる木】があり、それを中核として、あらゆる生命のもと、再生と知識の源となっています。パンドラの一番磁場の強い場所に【聖なる木】は位置しています。樹木の複数に分岐した層を村のようにして活用して一万年もの間、暮らしてきた原住民の青い人々一族のリーダーは、シャーマンである長老というのも古代人を彷彿とさせます。【聖なる木】の地下にある鉱物を狙って侵略してくる地球人が、天孫族に見えてきます。いつか、壮大な古代の世界を映像で観てみたいと願っている私は遥か昔に繰り広げられた先住民と侵略者の興亡は、このようなものだったのかとスクリーンを通して、古代の世界観をイメージしていました。そして、【聖なる木】から【生命の樹】をイメージする人も少なくないでしょう。飛鳥時代の【酒船石】の遺跡は、実はカバラの「生命の樹」の形を刻んでいるといわれます。水銀を流したらしい溝とは神の流れで神的属性の間を結ぶ小径であり、それ故に【生命の樹】は交流する時は小径が二重になっているのですが「酒船石」も二重になっています。カバラの【生命の樹】をたどると、古代、中央アジアを中心に全世界に広まったミトラ教につながります。ミトラは密教、弥勒にもつながります。空海が長安から持ち帰った密教の曼荼羅が【セフィロト(生命の樹)】といわれるものです。【生命の樹】とはユダヤの秘儀といわれますが、起源はアーリア人のミタンニと考えられ世界のすべての事・物・者に影響を与えているおおいなる教えを図にしたものです。樹木崇拝は世界中にあり、各地で生命の樹の神話とそれぞれの土地の樹木崇拝が結びつき、樹木の造型として展開しました。世界の七不思議、バビロンの空中庭園も宇宙軸、生命の樹の観念につながる象徴的な樹木を配して、天上の楽園を観念的な表現としたものでした。【セフィロト(生命の樹)】が象徴することには多くの意味と解釈があります。 その基本は、一番上のセフィラーから、順々にエネルギーが流れていき最後のセフィラーで物質の力として安定する、という「万物創造」の仕組み図です。10個のセフィラーは、様々な創造の過程でエネルギーが溜まった渦のようなもの。そしてパスはエネルギーの通り道です。森羅万象は日々、様々な創造を繰り返し、人間の営みもまた同じです。【セフィロト(生命の樹)】には、そうした全ての現象が入っています。古代、このような宇宙観をもったユダヤ教の神官、ラビの一部の人々は、バアル(牛頭神教)が、万民の神であるということを伝えるために、カバラという秘密教団を組織しました。このカバラの神官が古代日本にもやってきたようです。【ユダヤの秘儀】によると【神】の流れはセフィロト間を結ぶ小径と、幾つかの三つ組その三角関係を辿ることによって詳しく追ってゆくことが出来ます。まるで【エヴァンゲリオン】の世界です。魂の成長・浄化。現代にも通じるスピリチュアルなことです。
2010/01/15
お正月に獅子舞を見かけることは今では稀になりましたがこの獅子舞を伝えたのは牛トーテム族の司祭です。七夕伝説に、天に上ってしまった 織女を追って牛の皮を着て、ふわふわと天に上る牽牛の話があります。 この牛の皮を被るというところが獅子舞になったのです。地中海のクレタ島の王が牛の皮をかぶり、エジプトにも牛の皮をかぶる神官がいたのは、この伝説の影響のようです。獅子といっていますが、実は【牛】のことなのです。牛の皮をかぶったシャーマンが、跳んだり、はねたりして帰神状態になり託宣をくだすのですがその様をウル語で、【グデン グデン】といい、酒に酔って半ば虚脱状態になった様の語源です。日本には、メソポタミアのウル語がアジアの北周りで入ってきています。【すごろく】などもそうです。ウル系の遺風や言葉を日本に持ち込んだのは、中央アジアの牛トーテム氏族、白鳥トーテム氏族を包括する騎馬遊牧民たちでした。【鉢巻】もそうです。【ハヂ】は古代エジプトの【白】という言葉で、上エジプト王の王冠が白い王冠だったので【ハヂトゥ】といいました。古代アラビアでは、そのエジプトの【白】の【ハヂ】を借りまして、イスラム教信徒の名誉ある称号、白衣白帽を許された長老の【ハヂ】にあてました。その【ハヂ】が沖縄へ入ると清音の【ハチ】となりました。鉢巻の【マキ】は古代インドの高官、重臣という【マントリ】が語源でした。【八墓村】という映画がありましたが、鉢巻に懐中電灯を牛の角のように差していました。戦いの兜甲の角(ur-sag)であり、司祭やシャーマンの牛冠です。牛頭天王、牛頭神で最も知られているのは、祇園社を始めとする各地に祀られているスサノヲノミコトです。敦賀に渡来したツヌガアラヒトの頭の角のことも想起されます。花嫁の綿帽子を角隠しという謂れも、これに由来しているのでしょうか。
2010/01/06

あけまして おめでとうございます。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。近くの八幡様に初詣にいってきました。まん丸のお月さまと星が明るく清々しい気持ちで白い御飾りをくぐりました。この白い御飾りは、【紙垂(しで)】というそうです。日本は不思議な国です。世界の歴史は長い間、力のある者によって制され、力のある者が敵対者を排除して自ら覇者になるという理でありましたが日本の天皇家のみが武力によらず、その宗教的、文化的な存在意義のみで現在に至っている世界的にも唯一の稀有な家系になります。 古代史からみても非力でありながら崇拝され守られている存在でありつづけます。このような超越した力は一体何に起因するのでしょう。 神武天皇以前にも何代にも亘って存続され、ある時期に大陸へと出て行かれある者とは協調し、ある者とは敵対、やがてウル第三王朝の滅亡と共に北回りと南海回りの二つのルートで故日本列島を目指し、満州扶余で、北、南の二つの流れが合流韓半島を通って北九州へ渡来したと考えます。 姓を持たないとされる天皇家も古代に於いて【阿毎あめ】または【天あめ】といった姓を有されその【あめ】がシュメールの天神An(アン)に基づき、これは宇宙の構造としての重要な一部を担っています。彼らは、いにしえより倭人の長だったと考えられます。西アジアを除く、アジア全域の特徴とも言えますが、この地域の竜は、神性を持つことが多い。インドの竜も、一部の例外を除けば、神として扱われる事が多いようです。インドで竜に当たる存在は、『ナーガ』と呼ばれ、その意味は、インドで古代より使用された言語、サンスクリット語で【蛇】、特に強力な毒を持つ『コブラ』を示すと言われます。インド神話によれば、ナーガは地底に住む毒蛇の神々と言われ、バラモン教や、ヒンドゥーを通じて、崇拝されています。ナーガの姿の殆どは、コブラのような姿の巨大な蛇か、古代中国や、バビロニア地方の古代神に見られる、半人半蛇の姿をしていると言わます。半人半蛇といえば、バビロンに現れた魚人オアンネス説話や中国史の伏犠・女カ氏に通じます。ナーガは、本来インド先住民族であったドラヴィダ人系の神々であったと考えられます。そこに、征服民として入ってきたアーリア人がやってきて、ドラヴィダ人を支配すると同時に、ナーガという蛇神の思想を、自らの神話に取り込んだと考えられます。これにより、ナーガはアーリア人系の神々の従神格的要素で残り、多くの逸話が生まれたのでしょう。竜は聖なる存在として、或いは強大な力を持つ存在として崇拝され、広くアジア全域に定着しました。例えば、東南アジアにある遺跡、『アンコールワット』にはアナンタ竜王の石像があります。インドや中国の神話の拡大は、アジアのみならず、シルクロードや草原の道など、中国からインド、中央アジアなどを通して、これら多神教的な竜の思想は、ヨーロッパにも伝播したと考えられます。中央アジアの遊牧騎馬民族などを通じて広まったそれは、グノーシス主義などの『拝蛇教』に強い影響を与えたと考える事もできます。BC3700年頃、バビロンのジクラットにいた黄きゅう氏(こうきゅうし)青氏(チュルク族) 白巣氏(シュメール系初期エジプト族)黒巣氏(インドに南下したシュメール系ドラヴィダ族) が移動を始め、この4氏族の長である苗族とナーガ族が真っ先に移動を開始。彼ら苗族&ナーガ族は高地、コーカサス山脈に行き、そこから北上して極北の地に臨みました。雪や氷に覆われUターンして南下しコーカサス山脈の西側に至ったところで二派に分かれ苗族は草原地帯を東に進んで中国へ移動し、さらにコラート高原へと移動を続けました。一方、ナーガ族は南下してアフガニスタン東部のカイバー峠を越え、インダス河谷に流入しました。彼らはダナヴァ族やダイユ族とともにアスラ族と呼ばれ、ドラヴィダ族とともに古代インダス文明の担い手となりました。この地に滞在中、【壇君教】を奉じる集団となったナーガ族は、その後インド・デカン高原からタイのバンチェンに入り、そこで苗族と再び合流し黒陶文化を展開し、彼らがシュメールに上陸して、さらにエジプト古王朝に参加したマヤ人(植民者)であったといいます。この時、彼らを待ち受けていたのが地中海人種のエラモ・ドラヴィダ語族でエジプト第一王朝の古フツリ人であり、中国の【史記】では伏犠氏と記された人々です。両者の抗争については、テキストでは【バールとモートの争い】として述べ、モートまたは盤古神は、元来焼畑文化の再来神だったことから照葉樹林帯に於ける農耕民の主神だったことが窺われます。エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、古代ウバイド人(苗族)を征服し、バビロンの地に侵入しました。この人々が伏犠氏です。シュメールの【ウル第一王朝】始まります。アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。。シュメール人には二系あり、中国の【史記】では伏儀(ふぎ)氏と女女咼(じょか)氏と記します。伏儀氏が初期のシュメールなら洪水後の女女咼(じょか)氏は後期のシュメールのナーガ族とオーストロ・アジア語族のカーシー族です。ニギハヤヒに率いられたナーガ族は倭人の王族で、後の朴氏です。昔氏はインドのシャキイ族、金氏はアユダ国の王女が首露王の王妃になったことでも分かるように、元々アユダ国の植民地が沖縄から九州の豊日国に移り、さらに朝鮮半島に於いて駕洛国となったものです。すなわち、新羅三姓といわれる朴・昔・金の王族たちは倭人であり、統一新羅は倭人が建てた国だったのです。中国の史書では犬戎とありますが、実際には扶余・辰国・箕子国の遺民を示し扶余が昔氏、辰国が朴氏、箕子国が金氏です。高句麗王が辰王の地位を得ると後に分国して九州に邪馬壱国を建てましたが辰国系の狗奴国に追われ、半島南部で百済となり、狗奴国は伽耶となり、伽耶がまた新羅と倭に二分しました。高句麗時代のケイ須(神武)が公孫氏と一旦、山東半島を支配し、後、ケイ須(神武)の兄、五瀬命(発岐)を沖縄王に任命したため朴・昔・金の王族は抵抗して狗奴国をたてて北上し、日向の邪馬壱国を攻撃したとあります。さらに、この人々は、後に新羅王家を建てます。狗奴国・伽耶の倭王は扶余系の蘇我氏で昔姓の王で国史の天日矛または安日彦王朝この王家が古墳文化を残したのです。白村江の大戦まえ、百済の王子豊が蘇我王家を簒奪するときまで、日本列島を支配していたのが蘇我王家でした。
2010/01/01
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