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カシート王朝から月氏王国、クシャン朝からサカ族~蘇我王朝につながる人々は交易においても重要な役割を担いました。中東は文明の十字路でした。数多の民族があらゆる方向からやって来て相争い、王朝を立てては滅んでいきました。「ムー」という雑誌の1999年12月号に「シャンバラ伝承と謎の古代文明クスターナ」という記事が出ています。シャンバラはシャングリラー。理想郷という意味です。またクスターナは、梵語で「大地の乳」を意味する言葉で、その後、クスタン、コタンと変化し、現在の新疆ウイグル自治区の町、ホータンだといいます。「ムー」の記事によれば、崑崙山脈から湧き出した清流が白玉川(ユルカンシュ)と黒玉川(カラカンシュ)という二本の川となってコタンの東西を流れ、その水が「大地の乳」なのだそうです。言い伝えによれば、コタンの町の近くにはアルティンタックと呼ばれる純金の山があり、無尽蔵の金が掘り出されていたといいます。さらに白玉川と黒玉川の両川からは、玻璃や瑠璃など玉が豊富に採れたともいいます。ラピスラズリの産地は、アフガニスタンの奥地、バダクシャンです。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回った人々は、BC4500年頃には東シベリアの銅や錫鉱石を採掘していた可能性が高く、それらの銅や錫は、メソポタミアまで運ばれていました。 これらの銅や錫鉱石、ラピスラズリをメソポタミアに運んだ鉱山技術に優れた人々が月氏=サカ族でした。彼らはイラン高原東部からバクトリア、ソグディアナ及び西北インドにかけてサカスタン王国を建てています。アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国に滅ぼされた後のことでサカスタンは(サカ人の国)はペルシアの一部を引き継ぎました。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回ったウルの人々が、文明の十字路クスターナを根拠に拡がっていったと考えられます。倭人には、北方性と南方性がありますが、南方性は弥生農民の文化です。倭人は、カルデラ人を中心とする南セム族であったのですが、バクトリア南部のシスターン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族はペルシアのキュロスの時、降伏して、ヒスタスペスの支配を受け、後ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。蘇我氏と、その一族が目指した方向というのは、仏教中心の政治でしたが、それは中国のものではなく、より西アジア的なものでゾロアスター教というより、もっと根源的なミトラ教的宇宙観でした。ミトラ教は、メソポタミアからペルシア、ユーラシア全域に広がった太陽信仰・光明信仰でした。北メソポタミアの王国ミタンニがミトラ国という意味であり、ヒッタイト王国の王室も「聖なるミトラ」と名付けられ、日本の天皇も宇宙を統べる皇帝すなわち「ミトラの皇帝」と意味する『スメラミコト』と称される。ミトラは古代ペルシア語の一部の方言でミシアと呼ばれましたが、それがメシアとなりました。フリーメーソンの起源もミトラであり、弥勒菩薩もそうです。それに加えて鳥のシンボリズムもあります。蘇我氏のルーツサカ族は、アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国によって滅ぼされた後、ペルシアの一部を引き継ぎ、イラン高原東部からバクトリア、ソクディアナおよび西北インドにかけてサカスタン王国を建てました。パルティアは470年ほども存続した巨大帝国でしたが、世界史上あまり知られていません。ペルシア帝国と同様、ミトラを国教とし、皇帝の名もミトラからとっています。パルティアを中国では安息国と呼びアンソクまたはアンキと発音しましたがそれが元来アサカ(アスカ)であったようで、日本の飛鳥につながります。シスターンに出来たサカスタン王国は、そのパルティアから、より宗教的に強い主張を持って【独立】した勢力でした。やがて彼らは東に移っていったのですが、シスターンに遺した彼らの貴金属の透かし彫りの技術は美しく精巧で学者の関心を惹いています。
2008/01/26
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日本最古の王朝、【天の王朝】とは、インド十六王朝の日神系のことです。【東表・豊日国】のことで、朝鮮の狗邪韓国(駕洛国・金官加羅)を飛地としていました。即ち、この王家は北九州を本国として朝鮮半島の弁辰地域を飛地として支配したのです。【東表国】とは元来、東方のオッフル(サマリア)国を表します。サマリアのオッフル国の植民市、九州の豊国、朝鮮南部、金官加羅でありました。東表国の王はエビス王の【クルタシロス】といい、金官加羅の首露王のことですが【クルタシロス】とは、タルシシ船を意味し、【シロス】は、治政者、王を意味しソロモンの製鉄コロニーでありました。ソロモンの父、ダビデが建国した当時エルサレムを支配していたエブス人は、エジプトから撤退した、かつてのヒクソスでヒクソスになる以前はアビシニアでした。アビシニアとは元来【混血者】の意味で日本のエビス(エミシ・夷)もアビシニアの意味です。BC8、7世紀にアビシニア(エブス)人と現在のソマリアにいたオッフル人の植民地が北九州東部の豊国地方の東表国で、駕洛国または金官加羅国にも飛地したのです。金官加羅の王姓は金氏、または中臣氏です。奈勿王の時に独立して新羅を建てその子孫が蘇我氏になります。北宋版【通典】は倭国王師升(しろす)の国を【倭面土国】とし、『釈日本紀解題』は これを【倭面国】としています。 【北倭記】と【桓檀古記】を総合しますと『箕子朝鮮が亡びたとき、その上将卓が馬韓に逃れて、辰韓の王となった。のちに東表国(倭面国)エビス王クルタシロスから鳥栖河と背振山脈の間の地を譲られた』箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者(イスラエルの南朝ユダの人々)は、慶州に馬韓の分国をたて辰韓と称しました。この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地吉野ヶ里を譲られ倭奴国(秦王国)としますが後に神武と公孫氏に破れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。鴨緑江の流域に前方後円型古墳の原型が発見されましたが、これは箕子朝鮮の古墳になります。馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。 このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になっていますし、新羅史では金氏の祖の首留日本史では孝元天皇になっています。インド史を整理すると、BC1000年にインドは十六王朝の時代となりカッシュ人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。BC1500年頃~1200年頃、エブス人たちの海人は、レバノンのアルワドからインドのロータルに移住し、デリーを経てマガダ近くまで移動し、インド十六ヶ国時代、コーサラ国アンガ国などの日神王朝諸国になりました。日神系のなかにはアンガ、コーサラ、マツラなどの諸国がありましたが、アンガ国はソロモン王のタルシシ船の移民の地でありコーサラ国はフェニキアのアルワド人の植民市であり、マツラ国はアラビア海のメルッハ人の国家でした。釈迦は、コーサラ国のなかの王族でした。駕洛国の王は、金首露で、王妃はアウド国の女【許氏】で、【許】がアウド国の別名コーサラを指します。皇統譜のなかの孝昭孝安の実体は東表国、即ち駕洛国の王でした。チャンバをたてたチャム人のコロニーは、ベトナム南部の林邑国に始まってボルネオの八河地帯のバンジェルマシン(耶馬堤国)、それから公孫氏の燕国につながり九州の日向と南朝鮮の咸安になって、ともにアンガ人、チャム人、または安羅人になります。この人々が天の王朝で、白村江の戦いの後に彼らが賎民化されて【八の民】となるのですが、これはボルネオの八河の民ということで【山海経】では八匹の蛇になっています。記紀神話では八岐の大蛇。マガダの都は、ガヤというところにあって、中国人は、これを加耶と書くのですが、朝鮮半島にできた、そのマガダの人々のコロニーが加羅になります。ボルネオのダワヤク族を経由したアッサムのボド族が我が国の山窩になります。ニギハヤヒ命というのは、カーシ国の鉄カーストの王です。オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれました。この人々は魏と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。これがニギハヤヒ王朝です。穢国の王姓はアグリ(余)というのですが扶余、百済もそうです。天皇家も、そういうことになります。中国史では堕羅国とか吐火羅と書きますが、後に河南省南陽の宛という所に移動しさらに朝鮮で穢国をたて、扶余と合体して、その涓奴部(けんぬべ)になった後、熊本と南朝鮮に多羅国または多婆羅国というコロニーをたてています。多羅は多羅加羅とも多婆羅ともいいますが【タタラ(製鉄部族)ノガヤ】ということです。ドヴァラヴァティの王家はサカ族で人民はモン族ですがモン族は、またの名をタライン族といいます。漢字で書けば多羅殷(夷)です。熊本に田原坂があります。♪ 雨は降る降る人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂 ♪ という唄がありますがこの地方には製鉄遺跡がありますから、田原というのは田んぼではなくタタラのことだったのです。【隋書】の阿毎氏というのは、このチャム人のことですが、元来インド洋の海民でもありこの人々がインドシナ、インドネシア、ボルネオなどに基地を持ちました。後にボルネオのバンジャルマシンに倭寇の基地があったのですがここは耶馬堤国で天の王朝の基地でありました。朴・昔・金の人々は、高句麗の故国川王が沖縄を支配しようとして、発岐と同盟したことに抵抗し、後に大隈から日向に侵入し、邪馬壱国を攻伐しました。新羅王家の紋章は【三つ巴】ですが、沖縄の尚王家の紋章も同じ【三つ巴】で朴昔金を表します。高句麗の紋章が【ニつ巴】なのは、昔氏が神武と一緒に九州に渡来してしまったからです。
2008/05/05
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中也の詩でとても好きな一篇がある。それは、「彼女の部屋」という詩。 彼女の部屋 彼女には 美しい洋服箪笥(やうふくだんす)があつた その箪笥は かはたれどきの色をしてゐた 彼女には 書物や 其の他色々のものもあつた が、どれもその箪笥に比べては美しくもなかつたので 彼女の部屋には箪笥だけがあつた それで洋服箪笥の中は 本でいつぱいだつた 『かわたれどき』と言うのは、夕方の薄暗い時間帯の事を言います。語源としては、薄暗くなって目視できる距離が狭まり、向こうから来る人が判らず『彼は誰ぞ(かはたれぞ)』と思う位の暗さで、段々と夜に向かう時間の事だそうです。 ですから漢字で書くと『彼は誰時』となるようです
2008/05/20
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再びペ・ヨンジュンの【太王四神記】について。広開土王は、前王の時代、19の部族の支配者に過ぎなかったのが全盛期には50以上の部族を支配し、高句麗の王権を確立したとされます。表題にもなっている四神とは朱雀、青龍、玄武、白虎の4つの神器のこと。古朝鮮に伝わる「壇君神話」に出てくる神器でこれらを支配する王が真の王として国を治めることができるとされます。四神とは中国神話に登場する、世界の四方向を守る聖獣のことです。四霊獣(龍、鳳凰、麒麟、亀)に数えられているものもいます。東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武といい、それぞれ川、海、道、山などに対応します。【世界の四方向】という考えはメソポタミアを初めて統一したアッカドのサルゴン以来からでそれが陰陽五行説になり、これが日本に伝わり、平城京(奈良)や平安京(京都)の土地選定に応用されたといいます。地勢は、四神相応の地を大吉とします。四神相応というのは、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武を四神といい天の四方の星象に合致相応しているのを四神相応といいます。すなわち、左に水流のあるのが青色、右に長道のあるのが白虎、全面に池水のあるのが朱雀、後ろに丘陵のあるのが玄武 というので、これらを最良大吉の地とするのです。平安京(京都)は、この条件に叶った地として選定されたのですが、これは科学的に見ても、南傾斜面でよく陽光をうけ、衛生的な土地であることがわかります。世界四大文明といわれる 「 エジプト文明 」 「 メソポタミア文明 」 「 インダス文明 」 「 黄河文明 」 は全て豊富な水を運ぶ大河の流域 で誕生し、農業や牧畜を中心とする都市文明が築かれました。 人類が生きていく上で最も大切な命の 『 水 』 が豊富にある場所 に、古くから人々は営みの基盤を置き、文明を発達させてきました。しかし、京都には大河と呼べるような河川はありません。 ところが、京都の地下には豊富な地下水脈が存在し、この地下水こそが千年の都 ・ 京都を支え続けてきたのです。 壇君とは、韓民族の始祖と伝えられる伝説上の人物ですが、その壇君神話のルーツをたどれば、ベトナムの文郎国、インドのクル王国、バビロニアのカッシート王朝メソポタミアのウルク王朝まで遡り、壇君朝鮮の歴史は、これらの国々からの借史と思われます。壇君朝鮮は、その後は北扶余、百済、辰韓、新羅などにつながり、大和朝廷や蘇我氏の一角を形成していきました。桓因(ファニン)はダゴン神、日本では帝釈天。桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)はバァル神(牛頭)、日本ではスサノオノ尊、壇君神話のルーツは、メソポタミアです。栄華を誇ったソロモン王率いるタルシン船で奴隷貿易を行った記録はBC7000年に遡り彼らが作った製鉄所のあとは日本の国東半島はじめ東アジアの至るところで発見されています。広開土王の石碑に【倭が百済を臣民とす】の倭とは朝鮮半島の南部にあった金官加羅のことです。朝鮮南部を「任那日本府」などというのは、間違いです。任那国は対馬に存在し、宗女壱与が建てた祭祀センターであって朝鮮半島南部の弁辰地区にあった安羅と多羅などを支配していました。金官加羅地方(今の釜山付近)では昔から製鉄が栄え、この地域を支配した倭人が後に日本に渡来して蘇我氏となったのです。蘇我氏は姓を金といい、その祖先は月氏国のスキタイ・サカ族です。加羅地方を小月支国と呼び、それが訛って蘇我氏となりました。百済と新羅の挟み撃ちで金官加羅は562年に滅ぼされたので、金氏はじめ多くの倭人が加羅地方から北九州を経由して東に逃れ、蘇我氏となって6-7世紀の大和地方を支配しました。蘇我氏ほか、朝鮮半島からの多くの渡来人もまた壇君神話を信じる民族でしたから大和地方に高松塚古墳のような四神を奉る古墳が存在するのです。後に唐が建国されたあおりをくって、百済が滅亡(660年)。大和地方が新羅に占領されるに及んで、加羅由来の蘇我王朝が滅ぼされました。これがいわゆる「大化の改新」につながる 乙巳の変です。 実際は朝鮮で起こった【「比曇の乱】を翻訳したものでした。壬申の乱までは国史は朝鮮史の翻訳でした。新羅の善徳王というのは女帝ですが和白(新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体)の筆頭であった伊食比曇が唐にそそのかされて、女王では国事ができないと主張し、廉宗と共謀して王位をねらい647年正月に反乱を起こしました。この時、王子の金春秋(新羅30代文武王)と重臣の金庚信が比曇を誅殺した事件。これを「比曇の乱」というのですが、「日本書紀」では女帝の皇極の時、大臣の蘇我入鹿が王位を狙ったため645年6月に中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、実はこれは「比曇の乱」の翻訳なのです。結果、新たなる征服者による歴史書「日本書紀」に馬子、入鹿、蝦夷などと蔑視な名前で記載されているのは、蘇我氏が直前の王朝であった証拠に外なりません。
2008/04/18
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【辰王は流沙(中国西北方の砂漠)の人で馬韓の月支国にあって弁辰十二国を支配した】と、【史記】朝鮮伝にあり、この辰王が月支国にいたとあるのは、月氏のサカ族を月支とも書きましたから、辰王はサカ族ということになります。サカ族に関しては、紀元前海のシルクロードを支配したマラ族が、もともと内陸のシルクロードを支配したサカ族と交流がありマラ族の協力によってマレー半島及びベトナムから倭韓に渡来したサカ族があったと思われ、この時、サカ族にマラ族の兄弟ニ王制が教えられたと考えられます。枕流王と辰斯王は、百済第十五・十六代の王ですが、日本では五十環敷入彦命と景行の兄弟として書かれています。百済王統でも兄弟となっていますが、枕流は百済王辰斯王は辰王(倭王)として共立したと考えられます。この兄弟ニ王制が、マラ族の特徴です。346年、近肖古王が即位して辰王となり、近仇首~枕流の後、385年、辰斯王が辰王家を継ぎますが、この王こそ筑紫に進んで伊都国の王【イソデ】の迎えを受けた倭の景行天皇でした。369年、近肖古王が辰斯王(景行)に倭王旨と刻した七支刀を与えた後、百済は371年平壌を占領して高句麗の古国原王を破り、百済王朝の黄金時代を作りました。七支刀に刻した【旨】とは、【辰の斯王】の【斯】を表わしています。正史では、その後、百済王朝の衰退期が始まって、405年、百済の阿萃王は高句麗の広開土王に破れ、その死後、太子腆支は北九州から急遽百済に帰国したとなっています。その腆支王の子、久爾辛こそ、倭国に渡来して五王朝を作った応神でありました。
2008/04/16
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苗族がBC3500年頃、山東半島に竜山陶土器をもって渡来した後中国北東部でオロチョンと接触してツングースが生まれ、BC15世紀からBC6世紀にかけて、カルデア人とフェニキア人が瓦(ワ)族クメール族、ムンダ族などと共に満州に入って東胡や燕人となり、その東胡が箕子朝鮮を建国した時、王族以下がチュルク族の匈奴と同盟し、ナーガ族やツングースなどと接触しながら雲南の瓦族の子孫らが北倭となり、さらに鮮卑となった後に蒙瓦室韋は蒙古族王室の直接の祖先でしたが、その『瓦』の字は瓦族をさしたものだったようです。即ち瓦族、ナーガ族(朴氏)とシャキイ族(昔氏)など→東胡→北倭→鮮卑→蒙瓦室韋→蒙古族と変わったのです。ナーガ族はBC2世紀頃に沖縄から函谷関北方にあった亡命ウラルトゥ人、すなわち狛族の大扶余に参入しましたが後に東胡と混じって鮮卑となり、さらに契丹のジ氏になりシャキイ族は匈奴と混血して契丹の耶津氏になりました。鮮卑は箕子朝鮮の東胡の末ですが烏丸は南方の烏蛮と同じもので殷の夷族の子孫でした。そうしてみると、日本人と蒙古族の共通の先祖は東胡、正しくは北倭だったとなります。北倭の一部が九州に渡来したのは、遙かに遅いAC200年頃邪馬壱国の時代でした。『記紀』が目的としたもののなかに『日本民族単一論』がありますが、それは日本列島に扶余人が、私達と蒙古族の共通の祖先であった北倭を率いて侵略した歴史を隠す目的があったようです。日本人が蒙古族の祖先である北倭であったこと。天皇がそれと違って、ウラルトゥのフツリ人または大扶余の伯族であったことを抹殺したのです。日本列島の住民は『山海経』にあるように労民、毛民、倭人でありその労民も雑多であり、極めて多元的でした。例えば、労民のオロッコ族は自らをウエッタ(エッタ)と称し、この言葉は秦王国以降も口語として残って鎌倉時代にエッタ(穢多)の語となりましたが、東北地方のエゾもオロッコをさす沃沮(オソ)が語源です。これに対してエミシとはミシハセ即ちツングース(亀ヶ岡人・ツボケ族)のことであって、義経の北海道亡命の後にアイヌ民族になりました。また山陰地方のエタになった『はちや』は、渤海が滅びた時代に契丹と室韋が渤海の旧地に入り鉱山労働者を主流とした海賊となって渡来し、天慶年間の純友の乱を始めとする一連の騒ぎを起こしましたが鎌倉時代の末期、たたら大名の大内弘幸が開山したという石見銀山に、その一部を集めて使役したことを以って始めとしたと思われます。やがて石見銀山が日本一の鉱山町に発展していくにつれて、はちや衆も次第に力をつけていきました。この人々は、農民にならずして鉱山労働者になったり、医師、薬屋、万才師、忍者などになりました。後の秀吉や長州忍者の殆んどはこの『はちや』の出身でした。『記紀』は新羅人と中国大陸から逃れて来た秦氏が共謀して、朝鮮半島南部史を以ってあたかも日本史の如く書いた偽書でした。そしてそれによって、バアル教を継いだ新羅の鬼道または壇君教から神道という民族宗教を創っていったようです。
2007/12/19
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234年、百済王仇首(扶余王・神武)死す。帯方郡の監察官・神武の死後、【一大率】のあとをめぐって再び「倭の大乱」が起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)の諸王が謀って、倭人連合の邪馬壱国を建国し、神武の王妃、卑弥呼を女王に推戴しました。そこで卑弥呼は神武と先妻との間の王子を伯済国・ソウルから呼び寄せて夫とし、都を西都原(さいとばる)に定めて君臨しました。古墳時代(2~3世紀)、神武・卑弥呼の邪馬壱国とは別に倭人諸国最大の国家として、北九州豊国の地に狗邪韓国がありました。これが東表国(豊日国)であり、朝鮮半島南部の弁辰地域、駕洛国(狗邪国・金官加羅国)は、その飛び地でした。王姓は金氏で、4世紀に建てられた新羅の金姓国家はこの分派です。また別に沖縄を中心として狗奴人の国があり、しばしば女王の邪馬壱国と争いました。これが長スネ彦(ナーガ族の王)の狗奴国で、後に狗奴人の熊襲族は辰韓の地に移動して新羅の朴氏になりました。駕洛国王・安日彦と、狗奴国王・長スネ彦が義兄弟であり、この南倭人たちが神武の北倭人軍団と激しく争い、神武の死後、卑弥呼の時代になっても、長スネ彦は津軽に亡命して邪馬壱国と戦い続けたといいます。特に中国との交易基地【種子島】をめぐる攻防は熾烈を極めたといいます。
2008/02/11
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BC334年、マケドニアの王アレキサンダーの東征が始まります。アレキサンダーは、ダリウス3世を殺害し、マラカンダでクレイトス、スピタメンも暗殺しました。BC324年、アレキサンダー大王は、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り、洛陽を建設しました。大王の軍は、さらにインド西部まで征服しましたが、アレキサンダーがバビロンで病死したので、大帝国も分裂しました。その結果、セレコウスがバクトリア王になりました。BC256年、バクトリア知事ディオドトスが、クーデターによって政権を奪い、グレコバクトリア(大秦国・大夏国)を建て、ディオドトス1世と称しました。BC246年、ディオドトスは、バクトリアの統治を2世(胡亥)に任せ、自らは精強なペルシア軍団を率いて中国に至り、名前を秦王政として諸国制覇に乗り出しました。BC239年、その余波を受けて、申国(大夫餘)にいたウガヤ42代・解慕漱(かいぼそ)が東北(満州)へ逃れ、松花江河畔の農安に北扶余王朝(前期王朝)を建て王となりました。同じ頃、マレー海峡のヤーヴァ・ドヴィーバの移民たちが沖縄から移って建てていた中山国が滅び、国王・綽(しゃく)が蜀へ移されたため、遺民たちは遼東へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮(智淮氏燕ちえしえん)を再興しました。BC230年、ギリシア人の将軍エウチデムスがクーデターを起こし、ディオドトス2世を追放してバクトリア王となり、ソグディアナから南進してヒンドゥクシュ山脈一帯を支配しました。そのため、ディオドトス2世は父の秦王政を頼って中国へ逃れました。BC228年、秦王政(ディオドトス1世)が趙国を滅ぼしました。BC221年、ディオドトス1世、秦王政が中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝と称します。 始皇帝ディオドトス1世は、すでに造られていた燕と趙の長城を繋ぎ合わせ さらにオルドス地帯の黄河沿いに新しい長城を築かせました。(万里の長城)始皇帝が、わずか10年で中国大陸を支配できたのは、彼の軍隊がアレキサンダーがバクトリアに残置したギリシャ軍団で、当時としては世界最強の戦力だったからです。BC213年、秦始皇帝(ディオドトス1世)による焚書坑儒事件が起こります。 この時、対象にされた孔子・孟子系のユダヤ人はガド族の人々であり それ以来、始皇帝(ディオドトス)のシメオン族と 製鉄基地南陽(ナンヤン宛)の支配者であったガド族とは敵対関係に入りました。 その結果、ガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになったのです。そうすると、後々、AC163年の糸島半島に於ける平原王墓(神殿遺跡)破壊事件は東夷諸族が東アジアの覇権を競い合う『倭の大乱』の最中に北朝系シメオン族が東表国エビス王家と連合して高句麗と同盟する南朝系勢力となった(旧伊勢国の)ガド族を攻撃し九州文化圏から追い払った・・・・・と、いうことになります。
2007/12/28
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【秦の始皇帝は、鼻は高くて蜂のようなかっこう、切れ長の目、猛禽のように突き出た胸豺(サイ)のような声で、恩愛は少なくて虎狼のような心だ】と、始皇帝の武官、リョウは始皇帝のことを表現しています。この形容と白皙、碧眼であったという始皇帝は、ユダヤ人でした。ところで、中国史がオリエントの借史であるとして司馬遷らへの原史料の提供者はというと、アッシリアに囚われていた北朝イスラエルの人々【失われた10部族】を始めとして、バビロンの虜囚の一部かギリシアに移住してアレキサンダー王と共に東に進んだユダヤ人たちが考えられます。そもそも星占いは、オリエント、特にカルデアで発生してその裏づけとしてオリエント史を利用したものですから、オリエント流の占者たちが秦の時代に自分の国で占いの資料として使ったオリエント史をそのまま漢訳したようです。ディオドトスの父、呂不偉は、ユダヤ人のシメオン族でした。【史記】を著した司馬遷が罪なくして宮刑に処せられたことは、中島敦の【李陵】という名作に詳しい。私は、この本に深い感銘を受けました。何をもって人が生きることをよしとするか、中島敦はこの作品で、李陵、蘇武、司馬遷という 3人の男を登場させて示しています。最後に救われたのは蘇武ですが、それぞれに生きる道を全うしているのであって、どれが正しいというものではない。真に生きるには、どの道も苦しいのだという問いを中島敦は、読者に与えているようです。 李陵は漢の国を脅かす匈奴討伐の願いを時の皇帝である武帝にゆるされて北征し、勇猛果敢に戦いに挑むも、内通者の手引きによって彼の軍は壊滅、自身も捕虜となるが、彼らのあくまで強き者に礼をつくすという気風や、武帝が彼の家族に対しておこなった処刑への恨み、そして国から離れることで見えてくる漢という国の思い上がりや腐敗の構図などの要因が、しだいに李陵の祖国への忠誠心を薄れさせていく。いつしか、彼は匈奴の人間として匈奴とともに生きる道を選んでいた。李陵が深く思い悩むことになるのは、同じように匈奴にとらえられしかしけっして彼らに組することを肯んぜずに厳しい捕虜生活をつづけている蘇武との出会いによるものだった。ただ純粋に祖国への、そして武帝への忠誠心を貫いていこうとする蘇武の態度に接した李陵は、自身のなかに打算的な、ものの考え方があることに気がついてしまう。そして気づいてしまった以上、彼ははたして自分が精神的に匈奴に降伏してしまったことが正しかったのかどうか、考えずにはいられなくなってしまいます。蘇武は李陵同様、匈奴に捕まるのですが、最後まで漢への忠誠を崩さず、ひたすら祖国、漢を慕い、極寒の北国にて餓死寸前の生活を送っても後悔せず、最後には許されて帰ります。 その信念はきわめて明快です。信念に徹して剛毅、英雄的な生きざまです。 そして司馬遷。漢の武帝の逆鱗のなか誰一人、李陵を庇うどころか好人物とされる人々も野次馬と化し、四面楚歌の李陵を弁護した、唯一の人物が司馬遷で、彼はそれがもとで宮刑(去勢の刑)を受けます。絶望しながらも【史記】を昼夜兼行で完成させます。読後に私が共感して、今でもその感が薄れずにいるのは司馬遷の好人物への怒り。武帝に対し将軍として果敢な匈奴と戦って捕虜となった李陵を漢の宮廷にあって李陵と友人でも係わりもなかった司馬遷が唯一人褒め称えたために宮刑(宦官)にされてしまった。そして宮刑を受けた司馬遷が呪うものは好人物であった。好人物は姦臣や酷吏よりも始末に悪い。何か事が起きても弁護もしなければ反駁もしない。その上反省もなければ自責もない。お人よしというのは阿諛迎合をしてもその自覚さえないのだと罵倒している。周囲に「いい人」と言われて安心している人々。始末に悪いのは、そういう民衆。これは現代にも通じます。平時にはニコニコ親切な人も事が起きた時、人は、自分の損得を瞬時に判断し有利な立場に付くか、見て見ぬふりをすることが多い気がします。保身に右往左往し、多勢の意見に流される民衆の大きなうねりは、実はたいへん恐くその大きな波に歴史は流されていくのです。戦争は、その最たるもので気づくと、もう抗うことことができなくなっているのだと誰でもが思い当たると思います。
2007/09/15
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【人類の足跡10万年全史】という本を読んでいます。メソポタミア文明その先はアナトリア。その先は・・・もっと先はとできるだけ人類の起源を知りたいと思うのです。この本によると人類が繰り返しおこなった拡散は、主に気候と地理によって決定されアフリカから出る二つの、よく踏み鳴らされた道が使われたそうです。二つのルートは、過酷な氷河周期によって、一方(北あるいは南)が開けば片方が閉じられ追い込まれた人類を絶滅近くまで減少させ、その厳しい試練は、より大きな脳をした人類をつくり彼らは故郷に留まったり生地アフリカを離れて運をためしたりしていました。三十万年前ごろ、気候により発達した脳は今日の人々のものを11%上回るという頂点に達しその時から私達の脳と身体は小さくなっているそうです。アフリカ出の二つの道は、北と南にありました。 北のルートは短い温暖期が来た時だけ開く。地球が暖かく湿潤になるおよそ10万年ごとに起こる、緑が生い茂り花が咲くごく短い北ルートは移住者にとって死の罠となることもありました。サバンナと森林のパッチワークは他の世界から切り離され人類を閉じ込め氷期がくると絶滅させました。ただ一度きりの成功したアフリカ出は、南ルートだったといいます。紅海の南の端バーブ・エル・マンデブ「悲しみの門」から約8万5千年前にイエメンに移動した一団の子孫だけが、現生人類として7万4000年前までにマレー半島に6万5000年前までにオーストラリアに到着したと書かれています。この本は、遺伝子、化石記録、気候学を屈指して人類10万年の足跡を明らかにしています。ミトコンドリアには小さなDNAがあり、これは母方からのみ譲り受け男性を決定づけるY染色体は父方からのみ受け継ぐ。双方とも長い間に突然変異がゆっくり蓄積していくからこれらのDNA配列を調べると母系と父系から血統関係をたどることができるという。ヨーロッパ人の祖先は約8万5千年前にオーストラリアへ移動した出アフリカの一族から出た最初の枝に属しますが、彼らは南アジアで何万年も待たなければなりませんでした。早くとも5万年前になってやっと、湿潤で温かい期間がアラビア砂漠に緑をもたらし肥沃な三日月地帯が開いたので、北西のトルコやレバント地方へ移動することが可能になりました。南アジアでヨーロッパの始祖が誕生したことをDNAは示しています。
2008/02/01
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日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し、ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。この陸・南海シルクロードを駆けた壮大な歴史は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国・南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて穢族は強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。そのため、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。残念ですが天皇家は万世一系とは言い難く、幾つもの民族の歴史をつないできたものでした。 天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国) BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国(オッフルの植民地)を建てた日本最古の王朝。エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人(現ソマリア)も紅海とアラビア海の海人でした。のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。ニギハヤヒの多羅王朝この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫でした。後にソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニーをつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。穢国の王族はシャカ族で国民はチュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国をたて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。神武以下の扶余の百済王朝朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。公孫氏が南下して帯方郡をたてるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。
2013/06/12
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今、友人からのメールでターシャ・チューダーが亡くなったことを知りました。ショック!彼女の絵本が好きで集めていたのは、まだブームになる、ずっと前でした。花と子供と動物が森や野原で遊ぶ姿が愛らしく、絵本を眺めては癒されていました。彼女の暮らしぶりを知ったのは、その後で、アメリカ開拓時代のような自給自足の暮らしはたちまち魅了されました。バターやチーズを作ったり、広大な庭に色とりどりの花を咲かせハーブや野菜畑からの素材でつくる料理やお菓子。レースを編んだり、服を手縫い、人形も手作りでと、そんな暮らしに憧れました。そんな彼女が、とうとういなくなってしまったとは。淋しい地球になりました。
2008/06/22
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日本人のルーツに関係するインド史を整理すると、前一千年紀にインドは十六王朝の時代カッシート人を中心とする月神王朝系と、アラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。日神系のなかにはアンガ、コーサラ、マツラなどの諸国がありましたがアンガ国はソロモン王のタルシシ船の移民の地であり、コーサラ国はフェニキアのアルワド人の植民地でありマツラ国はアラビア海のメルッハ人、または『旧事紀』のアマツラの国家でした。月神系のマガダ国はコーサラ国を伐ってシャキイ(サカ)族をヴラトゥヤのなかに吸収したらしい。彼らは製鉄所を作りながら東方へ進み、ベトナムの文郎国を経て中国南部に至り、福建省河南省、中山国などに製鉄基地を建てました。さて、マガダ国のシャキイ族はコーサラ国のシャカ族と同じであり、シャカはコーサラ国のなかの王族でした。日本史のニギハヤヒ族もシャカ族であり、オシャカ様は同じニギハヤヒ族であることから倭人の歴史はインド史と極めて関係が深いのです。
2007/10/27
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『しゃばけ』最高!!入院している間に、友人が私の好みそうな番組を録画してくれたビデオを観ました。『がばいばあちゃん』は、まだブームになる前に昔『徹子の部屋』に洋七さんが語った時から好きで映画も観にいったので嬉しかったけれどその後に録画されていた奇想天外な『しゃばけ』には圧倒されました。妖しく美しく面白く、惹き込まれました。久々に大ヒットです。友人に激しく感謝しました。さっそく原作を買いにいきましょう。犬神とか歴史にもふれることありますし。
2008/01/06
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日本人のルーツに関係する扶余には二派あって、シルクロードの西にいたカッシートの月氏やアルメニヤ高原のウラルトゥの人々でシルクロードを支配した後に中国史に於ける趙になり、さらに月氏になりました。この王朝がウガヤ王朝です。もう一方はインドから入った製鉄部族で、宛(古代中国の製鉄地)のニギハヤヒ系があり、インド仏陀を輩出したシャカ(サカ)族です。高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民であるスキタイや匈奴の製鉄部族の高令でチュルク族が中心でした。この辺が私たちの祖になります。ウガヤ王朝の戦士団はシュメール人、後にアーリア人がシルクロードを支配してカッシート、ウラルトゥ、ペルシャ、バクトリアなど、この人々が中国も支配しました。扶余族は唐の時代にバクトリア東部のクスターナにホータン(于闌)という国があって月氏によって支配されていました。また馬韓にしても辰王は月支国の人となっています。趙の王家は、この月氏系で、それがギリシア系、バクトリア人の秦に伐たれて満州に移って扶余になりました。辰王のシンというのはバビロニア神話の月神シンを信奉することで、月氏またはカッシート族をいいます。辰韓とセットになる馬韓がサカ族またはキンメリのことで番韓がアラビア系のディルムン人です。【鹿】は「ヴェーダ」ではアーリア人の王権をシンボライズして、サカ族というのは鹿族という意味で、カッシートとの混血アーリアンだったようです。 次に魏の製鉄部族の宛のニギハヤヒ族も満州に逃れて穢国になりました。箕子朝鮮が滅びたあと、その将の卓が穢国の領地を引き受けて馬韓を建てました。穢国は扶余に合体したという経過です。高句麗はチュルク人で、当初は匈奴やシルクロード諸族に所属していたのですが後にグレコ・バクトリアが衰えてからシルクロード全域で暴れだして、その中から高句麗がでてきたのです。
2008/02/21
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倭国内乱、すなわち邪馬壱国と東表国・狗奴国の争いの状況は展開していきます。まず邪馬壱国王の安寧が狗奴国王、孝霊の王女、孝元を娶り次いで祟神が孝元の娘、開花を娶りました。こうして邪馬壱国優位のうちに祟神が両倭国の王になり国名を百済としたのです。
2008/02/18
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天照大神(神体はヤタの鏡)を祀る内宮は、糸島半島の平原王墓遺跡(太陽神殿・日代宮)から周芳国の天照大神に遷社されていましたが、その後、志摩半島の伊佐和宮へ移動安置されました。ところが祟神天皇の時、邪馬壱国と狗奴国を合併して百済国が作られた頃、疫病が流行ったため、ご神体を大和の笠縫邑に遷しました。ついで、垂仁天皇の時、皇女倭比売命を御杖代(奉仕者)として、伊勢国の皇大神宮(内宮)に祭祀されています。これより以前、倭奴国のユダヤ人たちは鳥栖祭殿跡(鳥栖市)にイスラエルにあるガリラヤ湖の玉宮と同じ玉宮=真奈井神社を建て、ユダヤの神【ヤーウェ神】を祭祀していましたが213年、倭奴国が滅び、シメオン族(秦氏)らが東遷するとき周南市徳山の旧石清水八幡宮を中心に周芳国が建てられ、その領内楊井水道の豊崎に豊受大神を祀る【外宮】として鎮座しました。その後、外宮は豊受大神を祀るレビ族(祭祀族)の移動とともに丹波地方に遷坐したものと考えられます。685年、天武天皇の御世、社殿を20年ごとに新しく作りかえる式年造営制度が定められ、東西に相並んで設計された敷地に交代で造営されることになりました。これが、式年遷宮といわれる【国家行事】の由来です。このような歴史を物語る【日本神話】や【出雲神話】が、3世紀にユダヤ人のラビ(儒者)によって考案され、先住民族教化のための神楽舞として、神前で大掛りな【岩戸神楽】や【大蛇神楽】が奉納されるようになりました。
2008/02/08
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狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が第17代新羅王として即位しました。【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州)の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】がその宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城によって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣)や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および百済文化の名残を留めています。
2008/02/20
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邪馬壱国の成立は、遼東太守公孫氏と関連しています。後漢は184年の黄巾の乱によって急激に王権が衰退しますがこれより先、玄莵郡太守公孫域は事実上自立していました。域の子、豹が早く死んだため、域は度(大国主)を養子とし、度は高句麗や鳥丸を討って勢力を拡大じました。正史では109年には高句麗は度と協力して度の富山討伐に加わっています。197年、高句麗の故国川王の死後、発岐と延優が王位を争い、兄、発岐を支持する者は消奴部のみで他の四部は弟、延優を支持しました。発岐は公孫氏の支持で王位につき延優は吉林省輯(しゅう)安に都を移しました。後、発岐は公孫氏によって遼東郡に移住させられ、その子が高句麗を治めましたが、やがて延優の新国に吸収され、新国が高句麗を名のるのです。
2008/02/10
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672年、唐の高宗から朝鮮派遣軍の委任されていた鎮将・劉仁軌は、白村江の決戦で勝利した後、旧百済国の行政府を扶余邑から熊津(今の公州)へ移し、百済王・隆を熊津都督として行政を委任しました。これを日本書記は【近江大津宮へ遷都】と記しました。また、百済禰軍の将軍であった郭務宗(かくむそう)を説得して唐の倭国鎮将に任命し占領軍司令官・唐務宗として倭国へ赴任させました。劉仁軌は、新羅、百済、耽羅(とら・済州島)、倭人の四国の使節を率い、渡海して山東省へ帰り、泰山で戦勝式を行うと、首都長安で高宗に凱旋報告を行ったところが、劉仁軌が各地を転戦している間に、新羅文武王(金春秋の子・金法敏)は、王子・金霜林(後の高市皇子)に命じて旧百済軍を急襲し、熊津の松山城を陥落させてしまいました。そのため百済は完全に滅亡し、百済王族を始めとする武士団や軍属たちは、雪崩を打って倭国(九州)へ亡命しました。これが世にいう【壬申の乱】の真相でした。【日本書記】のいう天智天皇(新羅・武烈王・金春秋がモデル)と大海人皇子(金春秋の子・金法敏)の確執物語や、近江朝廷(大津宮)の大友皇子が壬申の乱で敗れて山中で首を吊った悲話などすべてが【熊津都督府】滅亡の物語の翻案であったのでした。劉仁軌は怒って急使を派遣し、文書で新羅の盟約違反に厳重抗議しましたが、唐が朝鮮への出兵を諦めたため、朝鮮では【統一新羅】が誕生し、新興の新羅帝国は、遼東から日本列島に至る広大な地域を支配することになりました。673年11月、新羅は、本国の慶州に抑留していた唐務宗を洗脳し、改めて郭務宗として倭国へ赴任させ、それまで新羅の占領軍司令官であった源花長官の金ゆ信を退任させて郭務宗をその代役としました。この郭務宗+金ゆ信が中臣鎌足=藤原鎌足のモデル。694年12月、藤原宮へ遷都。この時、倭国(九州)と秦王国(大和)を合併して【日本国】としました。
2008/05/16
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BC585年、ウラルトゥ王国、崩壊。以後は、シルクロードを流浪するウガヤ王朝となります。ウガヤ10代王アルカ(桓子かんし)は、一族を率いてキンメリ族(フン族・匈奴)と同盟しシルクロードを経て華北に入ると、山西省に趙国ちょうこくを建てました。趙国は、中国の春秋戦国時代に七雄の一つとなり、天孫族(伯族)の申国または大夫餘とも称されました。扶余人=百済人は、ウラルトゥ人(フェニキア人とヒッタイト人の混血人種)がオリエントから東遷して華北に建てた趙国人の直系末裔であり、その流れは下記のように日本の南朝系の天皇家にまで繋がっています。ウラルトゥ王国→シルクロードのウガヤ王朝→趙国→北扶余(前期王朝)→東扶余→伯済国→多羅国→伊都国→邪馬壱国→百済国→(奈良時代の)百済王一族→桓武平安王朝→南朝系天皇家
2007/12/27
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奈良県の桜井市多武峯にある談山神社は、藤原鎌足を祀るお宮です。多武峯は、奈良(新羅)朝廷を守る占領軍の司令部を置いたところです。その長官は初代が新羅元帥金ゆ信(中臣鎌足)で、2代目が百済将軍郭務宗(藤原鎌足)でした。そのため、奈良朝廷では何かというと伊勢神宮ではなく、【多武峯】にお伺いを立てる習慣であったといいます。初代の金ゆ信の墓(円墳)は朝鮮の慶州にありますが2代目の郭務宗(藤原鎌足)の墓は妙楽寺にあり、その神霊は談山神社にあるからだといいます。その藤原家誕生から桓武王朝までの経過をたどってみます。 1.710年3月 平城京に遷都しました。当時の朝廷は、天武天皇こと新羅30代文武王の次男・刑部親王が知太政官事(日本総督)となり 阿部・石上・大伴・巨勢・多冶比・藤原などの諸氏が行政を担当し政治的に安定した時代でした。 2.729年 藤原氏は、新羅王族の知太政官事・長屋王(高市皇子の子・54歳)の失脚によって不比等の娘・光明子を聖武天皇(不比等の子・首皇子)の皇后として冊立することに成功。この時から藤原氏と諸氏族との勢力争いが激しくなりました。その間、僻地の鎮守府に駐屯する陸奥守を歴任して、力を蓄えた(財力)実はウガヤ王朝の直系王族の百済王、敬福が、光明皇后(光明子)と結ばれて3女を儲け、新興勢力となりました。 3.736年、宮廷内で敬福と光明皇后の子、阿部内親王(後の孝謙天皇・19歳)と道鏡(実は敬福の4男・18歳)の間に山部親王(後の桓武天皇)が生まれました。737年 藤原氏の4兄弟は天然痘によって斃れ、3女・吉日媛の夫、橘諸兄(葛城王)が朝廷の首班となりました。続いて唐からの新帰朝者、玄坊・吉備真備(きびのまきび)が一時権勢をふるいましが、そのため740年、大宰少弐藤原広嗣は、九州で叛乱を起こしました。聖武の朝廷は、これを鎮圧したものの、恭仁(くに)・紫香楽(しがらき)・難波と転々と皇居を移し745年、ようやく遷都しました。(聖武天皇は、姉・光明子の繰り人形であった) 4.その間、741年のいわゆる国分寺の詔、743年の廬遮那(るしゃな)大仏建立の詔などの国家的仏教興隆政策がとられました。これは、重なる政争や天災飢餓に悩まされた時代の空気を一新しようという聖武朝廷、光明皇后の人気取り政策でしたが、国家財政を益々拡大して、【人民の辛苦】の種をまく結果となりました。 5. 752年 大仏開眼会と進む過程で、聖武は退位し、孝謙女帝の時代となっていきましたが藤原仲麻呂(南家)は、光明皇太后の紫微中台(実力者の館)の長官として勢いをふるい朝廷の権力を一身に集めました。-----------------------------------------------------------------------756年、聖武上皇崩す。その遺言によって道祖王(天武天皇の孫)を皇太子とします。これは、新羅側の命令であって、吉備真備らが唐津に怡土城を築いたのも、新羅迎賓館にするためでした。-----------------------------------------------------------------------この頃、光明皇太后は、聖武天皇の遺品(ユダヤ10部族が運んできた世界史にも珍しい古代中近東の宝物)を、東大寺の正倉院に納めています。-----------------------------------------------------------------------757年 橘諸兄の子・橘奈良麻呂を首謀者とする大伴・佐伯・多冶比などの失意の貴族たちが光明子政権に対するクーデターを計画し、仲麻呂を除こうとしましたが、先の内裏天皇こと百済王敬福・仲麻呂らは、新羅系の黄文王・道租王に続いて、高官の大伴・多冶比・小野加茂・らを捕えて拷問し死刑・流刑に処し、その総数443人にものぼったといいます。こうしておいて、仲麻呂は、自分の私邸に育った淳仁帝(舎人親王の子)を皇位につけ自らは太政大臣に相当する大師の地位につき、太政官をその一党で固めて専制権力を確立しました。こうして在日新羅系の勢力は一掃され、百済王敬福と光明皇太后夫婦の娘孝謙女帝の政権は安泰の度を増し、日本の独立路線が明確に打ち出されていったのです。 6.760年、光明皇太后(66歳)崩す。翌761年10月、僧、道鏡は、孝謙上皇と再会、上皇を担いで勢力を拡大しました。仲麻呂は、764年、道鏡を除こうとして兵を起こしましたが、失敗して滅びました。孝謙は天皇を廃し、重祚(退位後、再び皇位に就くこと)して称徳天皇になり、道鏡は太政官をおさえ、やがて太政大臣禅師・法王となり、皇位に就く策動も行われました。ウガヤ王朝系・物部弓削守屋の子孫であった道鏡とユダヤ系シメオン族とガド族の血を引く孝謙天皇の間に出来た子が、山部親王であり、後の桓武天皇になるのです。
2008/05/19
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シルクロード時代の蘇我氏や藤原氏、秦氏を探しています。サカ族が蘇我氏と思ってきましたが、月氏が蘇我氏、サカ族を藤原氏とする久慈氏の説があり、また高零を蘇我氏とする栗本慎一郎氏説などもっと調べていかなければ解からない、その分、愉しむことができるのでゆっくり考えながら書いていこうと思っています。独断と偏見、多々ありますがお許しください。BC3000年~BC2000年の始めにかけて南シベリアのイェニセイ河上流とアルタイ地方にアフナシェバ文化が栄えました。この文化の担い手は周囲のモンゴロイドとは異なり、パレオ・ユーロペオイド(白人)であったとします。アフナシェバ文化は西シベリアのソンスク地方にBC1750年~1200年の間、分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化につながり、さらにアンドロノヴォ文化はBC2000年、南シベリアのカラスク文化と中央アジア北部のダザバギャブ文化に代わりました。多数のカラスクの遺物が中国の殷の遺跡から出土し、バイカル湖沿岸では殷の山足土器が発見されています。かつて中国北部に住んでいた丁零が殷の住民から借用した様々な文化的要素特に青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだらしい。カラスク人につづくタガール人は西シベリアの古いユーロペオイド(白人・コーカソイド)に属し、中国史の丁零である・・・と、いわれます。丁零とは、チュルク族の一派です。丁零は、高令、後の高句麗とともにチュルク族の一派でシルクロード全域にわたって分布していました。匈奴のなかに高令または丁零というチュルク人がいたことは知られていますが秦始皇帝以前の中国を支配していたのは、この人々でした。匈奴には二系あって、一つはBC4000年頃から中国大陸に侵入したチュルク人であり他の一つはBC700年頃から侵入したキンメリ人でありました。両者はともに先秦期の中国内陸の支配者だったのです。古代シルクロードの諸族はすべて部族連合でした。チュルク人とキンメリ人の連合を基本として、後の日本天皇のルーツ、ウラルトゥの扶余伯族月氏、鮮卑などを外戚とした部族連合でありました。南シベリア、山地アルタイのボリショイ・ウラガン河岸にある古墳群でBC6~3世紀のスキタイ時代の凍結クルガン(盛土大墓)が発掘され調査の結果、この文化の担い手がスキタイ人と同じ生活様式であったことが証明されました。出土した遺物から見ると、西アジアの西方のスキタイや中国との関係を保っていたユーロペオイド(白人・コーカソイド)であることが確認されました。このパズィルィク古墳群がスキタイの古墳と違うところは、骨角器、金属製品に留まらずあらゆる遺物をいまに伝えたその永久凍結にあります。織物・羊毛・皮革製品・木製品・馬のみならず被葬者の遺体も残され、遺骸の側にはチーズも発見され、その味はまだ失われていなかったそうです。諸墳墓からは、遠隔地域からもたらされた種々の贅沢品を含む財宝が発見されました。中国産の刺繍のある絹布、BC4世紀の中国青銅鏡BC550~330年のアケメネス朝ペルシアのコブラン織り、豹の皮革青銅鏡入れ西アジア産のコエンドロの種子、さらにはインド洋産の貝殻また背の低いモンゴル馬、オリエント産の栗毛のアーリア馬が陪葬されていました。興味深いのは被葬者に文身(刺青)がほどこされていて、衣服・装身具のなかには容器そのほかの貴金属製品に描かれたスキタイ・アケメネス朝ペルシアの浮き彫りに見られるサカ人などのそれと一致するものが多いということです。これはこの頃にアルタイ地方に勢力をおよぼしてきた匈奴によって移動させられた月氏の残したものという説があります。チュルク族は月氏を主とするウラルトゥと同盟し、後にキンメリと合体して匈奴になりました。山地アルタイ出土のスフィンクス像とエルミタージュ博物館のウラルトゥ出土の「青銅グリフィン」の類似は歴然と明らかで、この類似はパズィルィク古墳の人々が【匈奴に合したチュルク族とウラルトゥ人の末裔】であった可能性が高い。パズィルィク古墳出土の動物像の表現法にはひとつの特殊な様式があってこれらはアケメネスペルシアの芸術によく似ているといいます。BC5~6世紀になるとウラルトゥ王国は、匈奴に連合するものとペリシアに従属するものに二分します。BC4~5世紀の中央アジアにペルシア風の文化が波及したことがアムダリア流域から出土したオクサス遺宝から解かってきました。その中には鞘の身の部分には騎射によるライオン狩りの図を打ち出したアキナケス型の金製鉄鞘のデザインがオリエントそれもアキメネス・ペルシア風とスキタイ風文様のみごとな融合を示しているといわれます。これらの文化は、匈奴の一部族となって身につけたスキタイ(キンメリ)風とバクトリアに亡命したウラルトゥ人の文化であったと考えられます。
2008/03/20
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カシート王朝から月氏王国、クシャン朝からサカ族~蘇我王朝につながる人々は交易においても重要な役割を担いました。中東は文明の十字路でした。数多の民族があらゆる方向からやって来て相争い、王朝を立てては滅んでいきました。「ムー」という雑誌の1999年12月号に「シャンバラ伝承と謎の古代文明クスターナ」という記事が出ています。シャンバラはシャングリラー。理想郷という意味です。またクスターナは、梵語で「大地の乳」を意味する言葉で、その後、クスタン、コタンと変化し、現在の新疆ウイグル自治区の町、ホータンだといいます。「ムー」の記事によれば、崑崙山脈から湧き出した清流が白玉川(ユルカンシュ)と黒玉川(カラカンシュ)という二本の川となってコタンの東西を流れ、その水が「大地の乳」なのだそうです。言い伝えによれば、コタンの町の近くにはアルティンタックと呼ばれる純金の山があり、無尽蔵の金が掘り出されていたといいます。さらに白玉川と黒玉川の両川からは、玻璃や瑠璃など玉が豊富に採れたともいいます。ラピスラズリの産地は、アフガニスタンの奥地、バダクシャンです。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回った人々は、BC4500年頃には東シベリアの銅や錫鉱石を採掘していた可能性が高く、それらの銅や錫は、メソポタミアまで運ばれていました。 これらの銅や錫鉱石、ラピスラズリをメソポタミアに運んだ鉱山技術に優れた人々が月氏=サカ族でした。彼らはイラン高原東部からバクトリア、ソグディアナ及び西北インドにかけてサカスタン王国を建てています。アケメネス朝ペリシアがパルティア帝国に滅ぼされた後のことでサカスタンは(サカ人の国)はペルシアの一部を引き継ぎました。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回ったウルの人々が、文明の十字路クスターナを根拠に拡がっていったと考えられます。倭人には、北方性と南方性がありますが、南方性は弥生農民の文化です。倭人は、カルデラ人を中心とする南セム族であったのですが、バクトリア南部のシスターン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族はペルシアのキュロスの時、降伏して、ヒスタスペスの支配を受け、後ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。
2008/01/15
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友人のマルちゃんと新宿で待ち合わせて徐々苑で焼肉ランチ。その後、【旧岩崎邸庭園】へ。ここは、旧三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の長男、3代目岩崎久弥が別邸としたものだそうです。戦後、昭和22年に国有財産になり、最高裁判所司法研修所として利用されてきました。建築は明治29年に、イギリスのジョサイア.コンドルの設計によるもので、敷地面積15000坪余り。洋館の規模は、木造2階、地下1階。屋根は手割りのスレート葺き。広さは531平方メートル。ビリヤードルームがある別棟、撞球室とは地下道でつながっています。洋館と和館をつなぐ渡り廊下は郵船を象徴する船天井(写真下右)になっています。和館は、書院造りを基調にしたもので、書院造りの広間には橋本邦夫、狩野芳崖の日本画が残っています。戦後は、GHQに接収され、その後最高裁判所研修所等に使われ、この時に和館の方は大広間をのぞき、大部分が壊されてしまったそうです。 明治三十四年生まれで平成十三年に百歳で亡くなられた、画家の木本大果氏の回想「湯島の天神様の辺りを湯島天神の切り通しの坂と申しておりましたが、広小路の方から見まして右側の坂のところが岩崎さんのお邸でした。あのお邸の前にガス燈が立っていたんです。夕方などになりますと、人通りもない所に青白い光がほのかにぼうっとついておりまして、何ともいえず、ロマンに満ちた情景で、泉鏡花の小説の世界を感じさせるものでした。夕方になると、このガス燈に点火する人が走って来るんです。3~4メートルの細い棒を持ちまして、すうっとガス燈の所に持っていくとぼうっと青白い光が浮かぶんです。 岩崎家の三菱は、三井、住友とともに三大財閥家系です。三菱は、岩崎弥太郎が明治期の動乱に便乗し政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたといいます。弥太郎は天保5年、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男として生まれました。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことです。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれています。弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していました。岩崎家は甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔を称しますが、日本古来の原住民、山祇族の流れを汲む久米氏族ないし三好の同流だったとする説があります。岩崎家が土佐に移った時期は不詳ですが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏に仕えました。母美和の実家が医師の家だったことから、幼少のころから学問的環境に恵まれ土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇をえ、その門下生である、後藤象二郎らとの交際が出世の糸口となりました。幕末、土佐藩参政、吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事します。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴きますが尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国職を辞しました。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され坂本竜馬が土佐藩から脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当しました。最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ます。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎ですが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍しました。今でいうインサイダー取引です。1873年に後藤象二郎の知遇で現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に【三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)】を設立(「三菱」は土佐藩(山内氏)の家紋である三つ柏を模している)。弥太郎の死後、政府の後援で熾烈な値下げ競争を繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となりました。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。なお弥太郎の娘婿から2人の内閣総理大臣を輩出しています。財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく三菱と国家の密接な関係を証明しているといわれます。
2008/04/09
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弥生文化の普及によって人々の生活は豊かになり、急激に人口が増えると各地にクニが出来て互いにテリトリーを主張するようになりました。BC500以降の日本列島には下記のようなクニと種族の棲み分けが出来ていたようです。奥州(東北地方)に 津保化(つぼけ)族 (ツングース・アイヌ人)武州(関東地方)に 宇津味(うづみ)族 (オロッコ人)越州(北陸地方)に 長三毛(ながみけ)族 (苗族)濃州(東海地方)に 津称奈(つとな)族 (ツングース・アイヌ人)大和(近畿地方)に 津止三毛(つとみけ)族 (ツングースと苗族の混血人種)紀州(紀伊半島)に 奈津三毛(なつみけ)族 (苗族)四国(四国地方)に 大賀味(おおがみ)族 (港川人)淡路(淡路島) に 賀止利(かとり)族 (苗族)因州(山陰地方)に 宇津奴(うづみ)族 (苗族)芸州(山陰地方)に 亜羅三毛(あらみけ)族 (苗族)九州(九州地方)に 猿田続(レビ族) と 日向(ひゅうが)族(港川人)これが『魏志』倭人伝などにいう『倭の百余国』の所以であるかと思います。九州の猿田族は、のちに糸島半島(前原市)に旧伊勢国を建てたガド族系の猿田彦とは別の種族です。『古事記』にはスサノオノ命が出雲の簸川(ひのかわ)の辺でヤマタノオロチを退治し国神(くにつかみ)の娘、櫛名田姫を救って妻となし、大国主命を生んだ神話が記されています。この神話の共通のルーツは、ヒッタイトにあります。ソロモン王の母親は、父ダビデが臣下から奪ったヒッタイトの女性、ソロモンはユダヤ人とヒッタイトのハーフでしたがソロモン王は、妻シバの女王との間に王子メネリケがいて、この王子が連綿として20世紀まで続いたエチオピア王朝の祖王になりました。ソロモン王とシバの女王はヒッタイトの製鉄技術者たちをタルシシ船に乗せてインド大陸やマレー半島に派遣しました。技術者たちはガンジス中流やメコン上流のバンチェンに入植して製鉄所をつくり、鉄製品を現地の黄金、象牙、香料、真珠などと交換しました。
2007/12/20
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【ハロルドとモード/少年は虹を渡る】知る人ぞ知る作品です。舞台にもなり、昔映画にもなったそうです。私は、借りて読み、文学座の舞台で観ました。90歳近い女性に19歳の少年が恋をする話・・・と云えば “ありえない” と一笑にふされるでしょう。しかし、モードの魅力は素晴らしいのです。心映えが。実に前向き。ポジティブ。人生を目一杯愉しんでいる。やりたいことがあれば即実行。オートバイだって乗りこなす。樹に上り枝に腰掛けて月を仰ぐ。白い可憐な花にときめき、夢をあきらめない。19歳にして死んだように生きているハロルドは、そんなモードに惹かれていきます。自分の城から出ることが出来ない少年ハロルドにモードが言う。良い本をたくさん読み、暖かい火と思い出とに囲まれてね。それでもなお、いつでも壁を飛び越え、星の下で眠ることもできるのよ人はあたたかく守られた安全な殻の中で生きることも出来る。だからって外に出てみないって法はないんじゃない? そうモードは語りかける。
2008/03/02
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久しぶりに池袋東急ハンズに行きましたら、途中に白蓮が花を開きかけていました。いつのまにか花の季節が訪れていたのですね。桜の花もチラホラ咲いているようです。菜の花は、一面明るい色で目も心も和み気分が爽快になります。毎年、仲間と近くの野原に桜のトンネルや真っ白な二厘草、スミレなど見に行きます。桜のトンネルの下草も青々と緑で、土筆やタンポポが生えて、なんとも美しい場所を見つけました。あまり人に知られていませんので、静かに眺めることができます。川も流れていて恰好の眺めです。
2008/03/28
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北朝イスラエルの人々はBC7世紀にはペルシャに移住し逃れ、弓月王国などを形成し商人、工人などして陸のシルクロードに進出し、そこでの交易を支配し、殖民、建国を繰り返していきました。BC328年、アレキサンダー軍は、ソグディアナの首都マラカンドを占領し、さらにシル・ダリヤの岸に達し町を築きましたが、スピタメンは、マラカンドを奪回し、さらにアレキサンダーの救援軍を全滅させました。このためアレキサンダーは、自ら軍を率いてマラカンドに向かい、スピタメンはマサゲト人を味方にし騎馬の大軍で迎撃しますが、その結果ソグド人は12万人殺害されました。スピタメンは、妻に暗殺され、妻は夫の首をアレキサンダーに献じますがアレキサンダーは彼女を夫殺しとして追放しました。BC324年、アレキサンダーは、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り洛陽を建設し インド西部まで征服の範囲を大きく拡げます。BC323年、アレキサンダーがバビロンで病死したため、ペルシア帝国は分裂。アレキサンダー王の東征に従軍した南朝ユダ王国のシメオン族が現在のアフガニスタンにバクトリア王国を建国しソグドを支配します。この時の王が中国西域にバクトリアの分国を創り、BC222年皇帝になりました。これが秦帝国であり、この皇帝が秦の始皇帝でした。始皇帝は金髪碧眼だったといいます。中国の史書は漢民族のための「偽書」を漢王に強制されたユダヤ人の司馬遷がオリエント史を漢訳して、夏、殷、周、秦という諸国の歴史もアッシリア・ペルシアをモデルとした創作史でした。三国志もバクトリア国の内部抗争をそのまま中国史に置き換えた創作でした。BC 213年、秦の始皇帝(ユダヤ人・シメオン族・ディオドトス)が思想・言論の自由を抑圧し、方士や儒者460人余りを生き埋めにする焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)事件が起こりました。この時、焚書坑儒の対象にされた孔子(ユダヤ人のラビ、エリア)・孟子系のユダヤ、ガド族は始皇帝のシメオン族とは敵対関係に入りました。結果、ガド族は南朝系に接近して北朝系と争うようになりました。この南朝、北朝系の争いは、日本国の天皇制になっても続き、室町時代、明治時代には、大きな政治的戦略につながったと思われます。初めて中国の史上に列島の倭人が登場するのは、BC1020年、周が建国した頃、列島は、縄文晩期にあたる。江南の会稽(かいけい)に住んでいた王充(おうじゅう)という人の「論衡ろんこう」という書に、周の初めの成王の時代、倭人が帳草(鬱金草ウコン)を献じてきたと、あります。帳草とは神おろしの儀式に使う酒に入れて香りを出す草といわれています。中国は、5000年の歴史といわれてきましたが、それは虚構であったようです。孔子はエリヤ、孟子はアモス、列子はプラトン、荘子はアリストテレス、儒学はユダヤ人ラビの「ジュウ学」、殷はシュメール人、周はアッシリア人、秦はバクトリア人のオリエント史がモデルです。司馬遼太郎は読売新聞紙上に、【漢民族は関中台地(陜西省)に流れこんでくる、インド・ペルシア系の流入者から、今の中国武術、曲芸、さらに仏教という形而上学を学んだ。秦の始皇帝陵の兵馬俑はギリシアの技術で作られたものであり、始皇帝の時代、ギリシア丈化はバクトリアを通じて中国の文化を支配していた】と書いたそうです。秦帝国はアレキサンダーが作らせたバクトリア王国(大夏国・大秦国)中国における植民地でした。歴史的にアレキサンダーの大遠征を完成しようというものでした。しかし、アレキサンダーが亡くなり、従軍していたデオドトスが秦帝国の皇帝の座に着きました。始皇帝がわずか一〇年で中国大陸を支配できたのは、秦の軍隊はアレキサンダーがバクトリアに残したギリシア兵団で、当時としては世界最強の戦力だったからです。始皇帝は、すでに造られていた燕と趙の長城を繋ぎ合わせ、さらに黄河沿いに新しい長城を築かせた(万里の長城)。楚と秦の戦いも司馬遷のフィクションで、始皇帝の死後、ギリシア人の将軍エウチデムス(史記の項羽)がクーデターを起こし、ディオドトス2世(胡亥)を追放して三世子嬰も殺し、宮廷も焼くと秦王国が滅亡させ、バクトリア王になり、ソグディアナから南進してヒンドゥクシュ山脈一帯を支配しました。極めてギリシア的ともいえる同族戦争の結果中国人の治め難さを知って、エウチデムス(項羽)は中国大陸を見捨ててバクトリアからインド大陸に転進したというのが真相。項羽が焼いたといわれていた始皇帝の地下宮殿も発掘され、兵馬俑が明らかにされたのは周知の事実。兵たちの像はギリシアやペルシャ様を成し、前三〇〇年頃、中国の西方にあったというバクトリアの軍隊でした。その後、劉邦らが「前漢」を建国して、秦の遺産を引き継ぎました。秦王政の余波を受けて大扶余にいた日本人のルーツウガヤ王朝が東北の満州に逃れ松花江河畔の農安に北扶余前期王朝を建てました。同じ頃、マレー海域のヤーヴァ・ドヴィーバー(五穀豊かな国)の移民たちが、沖縄から移って建てていた中山国が滅び、国王・綽(シャク)が蜀(四川省成都)へ移されたため、遺民たちは遼東(満州)へ移動し、原ツングース(韓人)を従えて箕子朝鮮を再興しました。秦の王族(シメオン族)たちは遼東(満州)へ逃れ、奇子朝鮮を頼って亡命しました。
2007/09/14
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これは信憑性は分かりませんが、伝わっていることです。イエス・キリストが仏教の秘儀を知り、弟子の義弟トーマスを身代わりにして処刑場に送ると自らはインドに亡命して布告活動を続けていました。その後、イエス・キリストの一行ゼブルン族50名は、インドを船出してAD 34年、オケオ港経由で渡来し、津軽十三湊(青森)へ上陸します。上陸後、キリスト(当時37歳)は、先住者ゼブルン族のミユ子と結婚し長女をもうけました。その3年後、津軽から鹿嶋(茨城県)へ渡ったイエス夫妻は次女をもうけますが、この次女は、後に伊勢神宮の内宮で巫女となり、死後は外宮に祀られます。次いでミユ子は長男をもうけますが、その長男は後に茨城の静神社に【建葉槌命】として祀られ【八戸太郎大天狗神】とも呼ばれるようになりました。イエスは鹿嶋に3年間滞在したあと、船で熊野に移り、熊野巫神社に2年間滞在すると今度は伊勢(伊雑宮)に移って、そこに2年間滞在しました。こうした同族コロニーへの布教活動の後、再び津軽に帰りますがこの時すでにイエス・キリストの身体は結核に冒されていました。病弱な身体で青森に着いたキリストは、遂にこの津軽の地で息絶えたのです。享年59歳でした。イエス・キリストの墓は、青森県五戸町近くの戸来(現在の新郷村)にありその御霊は鹿嶋浦(茨城)の鹿島神宮に【武ミカ槌大神】として祀られています。鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の3社が祭られている常総地域は、一般に【鹿嶋トライアングル(ゼブルン族の三角地帯)】と呼ばれ古神道および古武道(一刀流)の聖地として知られています。また、2004年6月6日イスラエル駐日大使が、戸来のイエス・キリストを祀る祭典に出席し【エルサレムストーン】と名付けられた友好の記念碑を新郷村の聖地に贈呈しました。この史実はイスラエル国民にも、認識されることとなりました。イエスが語った言葉はヘブライ語ですが、今でも伊勢音頭にはヘブライ語が残ります。
2008/02/06
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いいかんじのカフェをみつけると本を片手にぶらっと立ち寄ります。居心地のよい椅子とテーブル、珈琲の香り、本を読んでいて今まで見えなかったものが突然ひらめくのもこんな時です。いつもと違う角度から視ることができるのでしょう。反省したり、やさしい気持ちになれたり、自分を取り戻すのも、こんな時。目にみえないけど、大切な何かを失いたくないので、現実の社会に入る前に作りたい時間です。
2008/02/13
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BC213年、秦始皇帝による『焚書坑儒』(東洋史の捏造)事件が起きます。『焚書令』が出され、秦の記録以外の史書をすべて焼き、この世から消し去ったのでした。『六国年表』などの諸侯の記録、民間にある詩・書・百家の語(録)などもすべて回収して秦以外の史書、詩経、書経をことごとく焼き捨てさせたのでした。それだけでなく、『焚書令』の翌年に、坑儒事件が起こり、この法に触れたという罪で、儒学博士や史学者たち460人余りが首都で生き埋めにされました。なぜ?こうまでして秦始皇帝は、中国の古代からの歴史を抹殺する必要があったのでしょう。『秦本紀』には「秦の先祖は黄帝より出で・・・・・」と、なっていて、秦という国が、古くからこの地(中国)に存在したように記してあるといいます。中国随一の歴史の古典とされる『史記』によれば、中国古代ではBC1600年から殷が始まり次に周が起こり、やがて長い春秋戦国時代に入ります。孔子、孟子が活躍し、後に儒教の基となった数々の古典を残したのも、この時代になっています。そして始皇帝によって秦が統一を果たしたのが、BC221年とされています。しかし秦の台頭は、あまりにも目覚しく、圧倒的な強さを誇った軍事力も謎に包まれ、また統一後の政策や事業のやり方も画期的で、それまでの中国に例を見ないような革命的なものでした。1974年、洛陽郊外で陶馬と武人俑が埋めてある始皇帝陵が発見されました。この兵馬俑の兵士が、実はペルシアのダリウス三世の「桂甲」とまったく同じものを着用しその乗馬はペルシア軍の乗馬と同じく耳の付け根を結んでいて、秦とペルシアの同一性を示すものだといいます。現地の兵馬俑の実寸大の人形は漢民族より長身で顔も西域人を思わせるものだといいます。中国史上、最大の英雄の一人である始皇帝が異国人であったら?そして、秦帝国がバクトリアの植民地であり、秦以前の歴史がことごとくオリエント史の翻訳でしかなかったとすれば?中国が世界の中心であるという中華思想、 「中国四千年の歴史」と、よく言われます。しかし、ほんとうの中国史は、漢王国から始まった2千年足らずなものでしかないと考えられます。秦以前の、この大陸には、漢民族なるものは存在していませんでした。『史記』を書いた司馬遷自体が中国人ではなく、ユダヤ人でありその師である、孔子もまたユダヤ人のラビ族でした。「殷」がシュメールの本国『イシン王国』、周は『アッシリア』、秦は『ペルシア』の歴史をモデルに司馬遷が『史記』に創作したものだったようです。彼は宮刑に遭いながら『史記』を書いたといいます。李陵を庇ったために武帝により刑罰に遭ってしまったとされますが、それだけでは、過酷過ぎるので、中国史改竄を強要され、それを知る者として宮刑にされた可能性も考えられます。司馬遷は父の司馬談と同じく太史公という職にありましたが、この職業は歴史の記録だけでなく、もうひとつ、天文観測実は星占いがありました。古代の天文は暦を作ることと星占いでした。古代では歴史と星占い(予言)は同一人が兼ねるほどに不可分であり、ここに星占いの専門科としての司馬遷が、オリエント史をもって中国史とした必然性がありました。星占いは、別名『カルデアの知識』といわれたように古代バビロンで開発され、カルデア人の天文学は有名でした。バビロンの星占いたちは、王さまの跡継ぎを誰にすべきか、いつ戦争をすれば勝てるか、この将軍はダメだから取り換えた方がいいとか、国政に口をはさんでは生活費を得ていました。司馬遷の時代にあって星占いは先端技術であり、そのベースに歴史があり、歴史の中にある因果律を見出して、それを神意として想定することによって初めて予言が成立したと考えられます。その時、司馬遷が用いた星占いはオリエントの技術でありその素材となるべき歴史は、すべてオリエント史であったと思われます。
2007/12/23
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204年、高句麗王子・発岐は、北朝鮮の沃沮(エゾの地・チガル)にいた北扶余後期王朝、穢族の王、ニギハヤヒの命を攻撃しました。そのため、北扶余後期王朝の王ニギハヤヒの命は大移動を決意しエビス系穢王(実はユダヤ人ガド族々長)でもあったニギハヤヒの命が白丁軍団(インドからの渡来のアーリア人とドラヴィダ人の混血クシャトリア・マラ族と海人族メルッハ人の連合軍)を率いて 乗船しました。彼らの船団は日本海沿いに南下して九州に至り、熊本の多婆羅国へ参入しました。213年、イワレヒコ(神武)は、北倭を率い、公孫氏と連合してさらに南下し、熊襲(多婆羅国・ニギハヤヒ軍団)と戦い、いったんは熊本付近で敗北したもののエブス人である高倉下命(東表国エビス王・安日彦)の仲裁で和睦することとなりました。その後、ニギハヤヒ尊を祖とする物部氏(ユダヤ人レビ族)のシンボル「十種神宝」は神武に捧げられましたが、その後、久しく続いた倭国の内戦、争乱時代に、神宝の行方が分からなくなったものと考えられます。
2008/02/09
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メソポタミアに発生した世界でもっとも古い文明の一つの起源がアナトリアからシリアにかけてのタウルス山脈周辺地域からチグリス・ユーフラテス両河沿いに南に下って来た人たちであることはかなり可能性が高い。この人々をウル人とします。ウル人は、牛頭信仰を持つ人たちでした。その痕跡はメソポタミアに存在します。そして、BC3000年頃クレタへやってきた人たちは、メソポタミアのウルを離れてやってきた可能性があります。クレタには、牛信仰の痕跡があるのです。
2008/01/23
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"Ur"という言葉は、「非常に古い根源的なもの」を意味します。Urbefolkning ;原住民、先住民族Urkraft ;根源力、底知れぬ力Urkristendem ;原始キリスト教Urkund ;原本、原典Urminnes ;太古(以来)のUrtid ;原始時代、先史時代「ウルの牛(Uroxe)」という形が、原牛(古代に住んでいた牛)を意味することも興味深い。ウルは、ウル語では、ウル族、牛族、ウル人の意味があるそうです。ウルが付くものとして、都市名でウルク、ウルビはウル部族があります。朝鮮語ではウは牛、ソも牛。合わせて「ソウ」ですが、「ソウル」という地名があります。文明の起源はアナトリアです。そのアナトリアのチャタルフュイックでは、BC6500年頃の牛の首が発見されています。文明は、アナトリアから北シリアを経てメソポタミア南部へ流れています。ウルは、アナトリアのチャタルフュイックの牛頭信仰に繋がっていると考えられます。そして、古代メソポタミアのウル人あるいはシュメール人が、インドを経て東方へ移動した可能性があります。最初のセム族であるアッカド人が現われる前のメソポタミアは、シュメール人とウル人が住んでいました。シュメール人は蛇を、ウル人は牛をトーテムとする人たちでした。そしてウル人がシュメール人を支配していたらしい。牛の頭に対する信仰、「牛頭信仰」は、その後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。日本国のスサノオのミコトも牛頭大王という別名をもっていますし、牛頭天王というのは 古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の守護神だったといいます。牛頭神は、ヨーロッパにも見られ、世界文明の主なる流れの最高神だった可能性があります。メソポタミアでもっとも古い神、アン大神は巨大な牛だったと考えられています。 前3000年頃から、インダス河口が人々の移住を許すようになると、セム族に圧迫されながらエラム、ドラヴィダ系の人々が南下し、前2350年頃から、アッカドのサルゴン王家は河口のロートルに上陸し、筏に乗せて牛を揚陸させました。インダスに於いては牛が貴重品であったため、支配者のアッカド人とウル人は、ドラヴィダ人に聖牛思想を教え、牛首のバァル神の崇拝を強制しました。それまで、ドラヴィダ人の祭神は【ヤオロチ】即ち蛇神であり、シュメールではサルゴン時代から、バァル神とディルムン説話が生まれていたのです。したがって、これ以降インダスでは、聖蛇信仰と聖牛信仰が併存しました。 アッカド人とウル人は、グート人に圧迫され、前2000年以前に、チベットから黄河沿いに下降して彩陶文化を残すのですが、アッカド末王イキギとナヌムは、日本神話で知られるイザナギとイザナミの世襲名になって、ウル人の方は、チベットのホータンを中心として月氏となります。月氏の前身は、カッシート人といわれます。そのカッシートの前身がウル人だったのではと、考えます。文明の起源、アナトリアで自然銅を加工する技術を発見した人々が牛頭信仰のウル人であり、銅、後には錫や金・銀・ラピスラズリを探鉱するために世界に散りあらゆる民族の基になったのではないかと考えるのです。なぜなら、彼らウル人の痕跡が北方ヨーロッパ各地にも残っているからです。彼らが北方へ移動し、アーリア人になったとは考えられないでしょうか?シベリアや東アジア、アメリカ大陸にも鉱山を探しに移動しています。彼らの鉱物を需要していたのが、メソポタミアの広大な農場であり、エジプト王朝だったのではないでしょうか。インドは、それらを円滑に行うためのコンビナートであり、精神性を高め民族の宇宙観を極めていったスピリチュアルな聖地だったのではないかと思うのです。ウル人は、月氏であり、サカ族になり、倭人の中心的存在であり、日本で蘇我氏になったと考えられます。 不思議なことに、ウル人=月氏=サカ族は、三つに分かれ、ユーフラテスを横切る三つのシルクロード、どのグループにも存在していた気がします。 南海ルートの釈迦を輩出したシャカ族~ニギハヤヒ~邪馬壱国と合併中央アジア、オアシス・シルクロードに栄えたホータン王国の月氏~小月~金官加羅~蘇我氏ステップ・シルクロードのウラルトウ(ウガヤ・扶余)と同盟した月氏~百済
2008/06/26
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210年、高句麗新大王の末子、ケイ須(イワレヒコ)が帯方軍の伯済国(ソウル)から北倭軍(扶余族と高句麗の連合軍)を率いて南下、北九州糸島半島に橋頭堡を築きました。一方、公孫氏(ユダヤ人イッサカル族)の大物主王家も渡来して薩摩・日向に投馬国を建てました。この両者は同盟して、東表国の領域内に築いた橋頭堡を守るためと併せて約50年前(163年)糸島半島を追われた【旧伊勢国】の人々(イッサカル族先遺隊+南朝系となった猿田彦のガド族ら)の仇を討つために大国主命(ユダヤ人・シメオン族々長)の倭奴国を攻めることにしました。まずケイ須(イワレヒコ・神武)は北方の背振山から攻め込み続いて公孫康(南朝イッサカル族・大物主)は南方の有明海から上陸して同時に倭奴国の首都「吉野ヶ里」を挟撃しました。その後、倭奴国の人たちは数年間戦い続けたが、倭奴国王・大国主命(北朝シメオン族々長)は遠矢に当たって戦死したため、急速に戦う意欲を喪失しました。こうして大国主命の倭奴国の吉野ヶ里は滅亡し、敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から船に乗って出雲(大社)に逃れ、先住していた猿田彦らのガド族(およびイッサカル族)を駆逐して、新しい【出雲王朝】を建てました。土師氏は、新しい大社(4本柱)を建て、その祭神をシメオン族の族長(故)大国主命とし、併せて八百万の神々(ユダヤ10部族の神々および倭王たちの氏神)を祀りました。また、紀元163年以後、出雲にユダヤ南朝系の出雲大社(6本柱)を建てていた猿田彦らのガド族は、213年、再度シメオン族に追われたため、イッサカル族の一部を伴って中国、四国近畿、諏訪の各地に移り移住しました。その後、彼らは志摩半島に先住していたゼブルン族と協定して三重県の地に伊勢国(イスラエル人のクニ)を建てています。
2008/02/07
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奇子(箕子)朝鮮は衛子朝鮮によって滅びた後、奇子朝鮮の上将で月支生まれである卓が一族を率い馬韓に逃れ、共立されて辰王となり、楽浪郡月支(平壌)に辰国(中馬韓)を建てました。 この時、辰王卓と行動を伴にしていた秦の亡命者(失われた10部族)の内、8部族も南下して慶州に馬韓の分国を建て、辰韓または秦韓としました。BC86年、辰王卓は、倭の第一王朝、東表国から鳥栖・背振の地を譲られて、その地に倭奴国を建てました。倭奴はワドと読み、フェニキア人の一派のアルワド族のことです。
2008/01/02
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日本人のルーツと深い係わりのあるウラルトゥ国とは? アルメニア高地は、小アジアの東方にあって、そこにはユーフラテス河の大支流アルサニア河とアラリヤス河の河谷があり、南方にはタウロス山脈が走っています。カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、この地には原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですがヒッタイト史料は、この地方を『フツリ人の国』と記しています。フツリ人はBC2000年紀の半ばにはミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊の後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、カルケミシュはハッティ国オロンテスはハッテナ国と名乗りました。そしてそこにヒッタイトのムシュ族やカスカイ族などが入ってきました。このようにウラルトゥは当初から、ミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人、チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でした。
2007/12/24
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BC627年に即位したアッシリアはカルデア人の王、ナボポラッサルの反乱に破れBC612年、メディアのキアクサレスによって滅びます。その後、メディア(楚)はスキタイ(越)と同盟してソグディアナ、後のソグド付近に移動しました。『史記』は、越(スキタイ)を夏王、禹(ウトヘトガル)はグート人とウルク人の混血なのでスキタイ族はグート・ウルク族です。その後、エラム族グループのなかのアケメネス・ペルシアがオリエントを支配しました。 エラム族はシュメール人やグート族と同系です。ペルシア人はアーリアンの一派ですが同じくイランを根拠地にしてエラム諸族と同盟していました。ペルシア王国の姉妹婚はエラム族の習俗であり、エラム語はペルシア帝国の公用語でした。ペルシア王キルスはカルデア人のバビロン王朝を滅ぼしてオリエントの覇者になりました。ペルシア史にBC519年、カスピ海の東方で尖冒サカ族が反乱し、ペルシア王ダリウス1世は自らカスピ海を渡って遠征したとあります。尖冒サカ族とはアッシリアの遺民を表わし王子を擁立してダリウスを攻撃したと考えられます。この後、ペルシア帝国は『ソグディアナのかなたのサカからエチオピアまで、インダスからサルディスまで』におよんだとありますから、ソグディアナの東方にあたる黄河上流の流域はペルシアの支配に服したことになり、従来のアッシリア系亡命者の支配地を奪ったことになります。アッシリア史はアッシュールウバッリトの敗走後を生死いずれも記録しないが、ウラルトゥに逃れた後、さらにサマルカンドまで逃亡したのです。
2007/12/27
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カッシート王朝はバビロニアを400年以上も支配しましたがBC1156年に滅亡しました。滅亡したカッシート王朝の残存勢力は大きく分けて三つに分かれました。一つはバビロニアにとどまったもの。一つはインドに移住して新たな王国を建国したもの。一つは中央アジアや中国の西域に移住して月氏国の建国に参加したもの。カッシートの高級官僚は、バビロンに新成立したイシン後期王朝の要職にとどまりバビロン第五、六王朝はカッシートの子孫が王位に就いています。インダス河流域、クル王国に亡命したカッシートはシャキイ族になったと思われます。中央アジアのホータンや中国の西域のトカラ、クチャに進出したカッシートは、カシミールからチベットに進出したカッシートとともに、BC3世紀には月氏王国を建国したと考えられます。月氏王国は、一時期、匈奴を圧迫し、冒頓(マオツ)を人質にしていましたが、彼が逃亡して匈奴の単于(チャンユー)になると再び匈奴は勢いを増し、中国との交易から手を引かせるために月氏を攻撃し、これによって月氏は大月氏と小月氏に分裂しました。後に大月氏になるカッシートは一旦中央アジアまで後退し、富と力を蓄積しバクトリアを滅ぼしBC140年頃、大月氏を建国し、ソグディアナ、バクトリアパミール高原の一部を支配しました。五つの部族長のうち貴霜族長がクシャ朝を起こします。
2008/03/03
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最近、母は神経が疲れています。見かけは、驚くほど若いけれど、やはり老いてきたせいか取り越し苦労が多く、ささいなことでも心配が耐えない様子。そんな母をホッとさせるものはないかと・・・考えていると与勇輝さんの作る人形が頭に浮かびました。人形好きな母のこと、愛らしい、あの子達が側にいたら心が和むのではないか残念ながら与勇輝さんの人形は売ってはいない。売っていたら私もほしいところ。自分で作るにしても難し過ぎる。母には早く元気になってもらいたい。
2008/01/22
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アーリア人が日本民族の祖となっている可能性について少しの説明が必要かと思われます。 BC2000年頃、カナーンの地で、フェニキア人とアーリア人の混血よってカッシート人(後のサカ族=月氏=蘇我氏)が生まれました。彼らは進取の気性に富んだ海人族であったといいます。その100年後のBC1900年頃、バビロン第一王朝が始まり、200年後のBC1800年頃からインド・ヨーロッパ語族(白人種アーリア人)の拡散が始まっています。BC1013年、イシン王国の末期にフェニキア人の海の国、マカンがアラム人とともにアッシリアと戦った結果、殷の本国、イシンが滅んだために、番韓のヤードゥ(ヒクソス人)は、海に浮かんでインドへ逃れました。またアラム人(後のウラルトゥ人)は、北方ヴァン湖周辺に退き、ウル人(釈迦を輩出したインド・シャキイ族)は南下してニギハヤヒ族になりました。このオリエント戦乱の時代BC1060年頃、 ウラルトゥ人は、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって生まれました。 小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたウラルトゥ王国の初代王となったのがアマテル(天照大神・男神)でした。この血統が、後にシルクロードの【ウガヤ王朝】となり、朝鮮~倭国の神武王朝から邪馬壱国を経て百済国となりました。その百済国は、白村江の敗戦によって、いったん滅亡しますが亡命ユダヤ人シメオン族の藤原不比等が始めた【天皇家】に、その系譜は引き継がれました。その後、道鏡の策略によって道鏡の子、桓武天皇が百済王朝(南朝系)を開くことに成功しました。以上によって、南朝天皇家の先祖はウラルトゥ王家の末裔であり、アーリア系の子孫と考えられます。
2007/10/02
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不比等(ユダヤ・シメオン族・土師氏)と、宮子(ユダヤ・ガド族・津守氏)の家系が【藤氏=唐氏】家伝の藤原氏となって、日本貴族の主流となりました。【不比等と宮子の子】 長男・武智麻呂たけちまろ・・・藤原南家を立てる。長女・長蛾子ながこ・・・新羅系の長屋王妃になった。3男・宇合うまかい・・・藤原式家を立てる。4男・麻呂まろ・・・藤原京家を立てる。次女・安宿媛あすかべのひめ・・光明子と名乗り7歳年下の弟・聖武天皇の皇后になる。光明皇后3女・吉日媛きちびひめ・・・橘諸兄たちばなもろえ、の妻4女・殿刀自とのとじ・・・大伴古慈斐おおともこしび、の妻5男・首皇子・・・聖武天皇となる。国史には文武天皇の皇子と記す。これとは別に、次男房前(ふささき)は、実は藤原鎌足(郭務宗・ユダヤ・レビ族大伴氏)と讃岐志度浦の海女(四国屋敷の豪族。ユダヤ・レビ族・膳(かしはで)の女)の間の子ですが鎌足の奏譜によって天武天皇(新羅文武王・金法敏がモデル)の勅許を得て、不比等の嫡子となり、藤原北家を立てました。その鎌足の子・房前が、737年に天然痘で亡くなると3男・真楯が跡を継ぎ、内麻呂→冬嗣の子・良房が摂政となりました。ここに至るまでの藤原氏の内紛・政争で、南家・式家・京家は互いに牽制し合っていましたから北家が摂政位について政権運営を担当していたと思われます。これが人臣摂政の始まりで、良房→基経→忠平→実朝→伊尹→兼通→朝忠→兼家→道隆→道兼→道長→朝道→教通→師実→師通→忠実(関白)となり、次の基通は近衛家となりましたが摂関政治は、なおも続けられていて、その流れは現代まで続いています。
2008/05/18
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高句麗族は、いにしえの高令です。高令とは、殷庶(殷の残党)の三族である高夷、弧竹、令支であり殷人は後に箕子朝鮮をたてました。従って高令は箕子朝鮮の主流になります。因みに殷(実際はイシン王国)滅亡の時殷(イシン)に従ったのは和(か)、陽、伯(はく)、淮(わい)、徐じょ、、丹、高令、宛、シ黄(こう)周(実際はアッシリア)に従ったのは、易、(姜氏)高令は後に高車・丁零といって、匈奴に従属する製鉄部族になりました。匈奴はニ部族で成り立っていました。シウ伊逗氏とシウ刀漫氏です。伊逗氏は、殷(箕子朝鮮)のミコ王(国常立命)の孫が入って継いだものです。淮族と伯族のうち、匈奴に合した人々は、よく考慮した後、これを宗としました。しかし、その後、衰退し、ミコ王の子孫は、しばしば漫氏に養われました。ミコ王の子孫の冒頓は幼くして異相を嫌われ大月氏に人質とされた後に急襲されました。冒頓は走り逃れ、迂回して、殷(箕子朝鮮)に助けを求めました。殷はよく外部と相談し、伯族は密かに匈奴内部から内応しました。その結果、冒頓は匈奴に入って単于となり、漢軍を包囲して高祖を虜にし、反転して匈奴と殷の間の諸族を追い払いました。そこで殷は安泰になりました。冒頓単于の死後、伯族はゴビ砂漠に逃げてしまい、箕子朝鮮は滅び、その亡命者であった馬韓の辰王、卓が地を提供しましたので高令族がやってきたとあります。匈奴のニ部族の内の冒頓単于系の『シウ伊逗氏』が、高令族ということになります。『倭人興亡史』第三十七章 辰国の一部分です。『神祖のあとにシウムス氏(イシン帝国)があった。もと東表国(九州の豊国のこと、駕洛国・金官国に同じ、サマリアのオッフル国の植民市)のアシムス氏(中臣氏)と同じであった。シウムス氏に子があり、兄の末をビバシウ氏(ビバイニリ、ウラルトゥ国のことウガヤ王朝)といい、弟の末をカルシウ氏(バハーレン島のカルデラ人)といった。カルシウ氏は分かれて干来(山東半島のライ夷のこと)となり、二千海をへだてて故国を望んだ。干来がまた分かれて高令となったという』箕子国家がカルデア人の基地であったディルムン(バハレーン島)港またはマカン(オマーン)から大航海によって満州に移動したことを示します。『神皇紀』は『国常立命の子トヨクムヌが早逝したため、王妃は幼い王子を連れて伊逗氏の王と再婚した』と述べます。キンメリはBC7世紀中頃、強大になり、ウラルトゥ王国(伯族)を攻撃して従属させました。この後、ウラルトゥの一部はアケメネス・ペルシヤに従属しました。匈奴のキンメリ人に従属したウラルトゥ王朝がウガヤ王朝の初期に該当し後に扶余となり神武につながる日本皇室のルーツになるのです。シュメールの女神アラメア(アナト)の名をとったウラルトゥ王アラメを『神皇紀』の天照大神に比定し、以下51代続き、神武は52代となります。
2007/12/22
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770年8月、称徳女帝が崩御。国史では10月、白壁王(敬福の長男文鏡)が即位したようになっていますが、実際には白壁王の妻、井上内親王(敬福と光明子の3女)が即位して井上天皇となりました。その井上朝廷は道鏡を下野の薬師寺別当に落とし他戸親王(敬福の次男武鏡の子)を皇太子としました。白壁王は表向きの光仁天皇となり、実は内裏天皇として公務をこなす後見役となりました。先に、白壁王・文鏡と井上天皇との間に早良親王が生まれていましたが、この時は、まだ幼かった。光明皇后と百済王敬福が夫婦となって生まれた3人の姉妹と、敬福と先妻との間の兄弟が結ばれて各々カップルとなりました。その3組のカップルが天皇位をめぐって争い、図らずも同族間の紛争の火種になりました。それを藤原4家が2派に分かれて盛り立て、諸豪族もそれぞれの利益によって応援しましたから、ここに藤原氏の内紛は全国的規模のものとなり【南北両王朝】の対立に発展したのです。
2008/05/20
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日本人のルーツ、ウガヤ王朝はアッカド人とラガッシュ人(フツリ人とウル人の混血)の連合部族でこの王朝が後にウラルトゥを建てました。アッカド人の出自に関して最も有力な推測は、BC4000年以降のハラフ高地に自然銅を運んだカスピ海周辺の人々だと考えられます。ハラフ文化は、東はヴァン湖から西は地中海におよび、その年代はBC5000年の末と推定されます。そうすると、以前に書いた世界最古の町とされるエリコの人々がアナトリアへ黒曜石を採りに行った時に、既にヴァン湖周辺を黒曜石の採掘にテリトリーとしていた部族は、アッカド人であったことに思い当たります。 アッカドのサルゴン王朝は、BC3000年頃のアッカド人の民族移動の後、BC2360年頃バビロンを支配しましたがBC2190年から2120年にかけ、グティウム人がシュメールからアッカド人を追放し、その時に、アッカド人と共にインダス渓谷に亡命したウルの月神の一族がチベットに於いて月氏になりました。ウラルトゥ王国を建てた後、スキティアやアッシリア系印欧語族に追われ、キンメリ人やチュルク人とともにバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。そして穢王アグリイサシが扶余と合体して自ら東明王になって後期王朝を建てました。この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶余王仇台は公孫氏と同盟して南下し、馬韓の帯方、いまの京城に伯済国を建てましたが公孫度の娘、卑弥呼を娶って公孫氏に帯方の地を譲り、北九州に上陸して伊都国を建てました。仇台は伯済国では百済の始祖仇首になり、伊都国ではイワレヒコ、後の神武になりました。 後期王朝はインドから一旦河南省の宛に入り、そこから満州へ来た穢族です。この人々はウルのカルデア人のことです。BC1530年、ヒッタイトがハムラビ王朝を倒した後、カッシート人王朝ができたため、バビロニアを「カルドウニアシス」と呼び後世「カルデア」と呼んだのです。ウンマ王ルーガルザグギシとグート人の王シャルラクに始まり、バビロニアのカッシート王朝となり、さらにそのカッシート人がバンヂャップに入って後期ヴェーダ時代に、インド十六王朝のなかのクル国になった後、カルデラ人の子孫のプール族と合体してガンガ流域に移り、ベトナムの文郎国を経て中国大陸の河南省に移民した国家です。国史のニギハヤヒノ命である穢国の王、アグリナロシはこのプール族の王でした。アグリはインドの製塩カーストのアグリアーを意味します。------「通典」の穢伝より------穢人はその性質が慎み深く誠実で、貪欲なところが少なく、恥というものを知っている。衣服は男女ともみな円い襟をつけ、男子は広さ数寸の銀花をつけて飾りにしている。穢人の習俗では、山川を重んじ、山にも川にもそれぞれ邑落ごとの区域というものがあって、みだりに立ち入ることが出来ない。同族内では婚姻せず、タブーが多い。病気にかかったり、死者が出たりすると忌み嫌って、すぐさま旧い居宅を棄て、新しいのを作る。麻を栽培して養蚕し、綿・布を作ることを知っている。星宿をうかがうことに聡く、その年が豊作かどうかを予め知っている。珠玉を宝物としない。また虎を祭祀してこれを神としている。穢人の邑落、相互の間で侵犯することがあれば、直ちにその双方を罰して生口・牛馬を取り立てるが、これを「責禍」(虎神様のお咎め)と称している。盗みをする者は少ない。矛は三丈もの長さがあって、時には数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦する。かの有名な【楽浪の壇弓】というのは穢の地で産出されたものである。
2008/02/17
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7世紀に、百済、倭国、高句麗と続けざまに滅ぼして、東アジアの覇権を確立するほどまでに統一新羅が強くなったのは、王族(金氏)が優れていたからでもありますがインドからやって来た庸兵花郎軍団のおかげでした。この庸兵たちは、もともとはクシャトリアのヤードゥ族(アーリア人とチュルク族の混血)でインド・グプタ王朝の騎士団でしたが、606年に、グプタ王朝が、ハルシア王によって滅ぼされたため、移動を開始し、満州を経て新羅の外人部隊=花郎(ファラン)軍団となりました。彼らは【ギーター】という封建的な忠誠心を尊ぶ3000人の武士団でしたが、長い移動中にホモセクシャルの軍団になっていたため、新羅人は彼らを【花の野郎たち】と呼び、それを略して【花郎】と呼んだのです。その花郎軍団の長官は、【源花】と呼ばれ、兵士は郎徒と呼ばれましたが、いつしか、その【源花】の地位に旧金官加羅最後の王・金仇亥の曾孫金ゆ信が坐り、上級貴族の15歳と16歳の子弟を花郎(ファラン)とし、金ゆ信のもとに数百名から1000名にものぼる青年が花郎徒として集まり軍団を結成していました。650年、唐(高宗・李治)を守護する正式な藩屏国となった新羅は、唐軍に呼応して出兵。655年、新羅は高句麗・百済の連合軍に北部の33城を奪われ危機に陥ったので唐に救援軍を要請します。新羅の要求を容れ唐軍は高句麗出兵するも失敗し、百済を攻撃。唐の陸軍に遅れて新羅の水軍の参戦により熊津江が陥落、百済軍は敗走し、さらに武烈王自身が5万の大軍を率いて出陣し、百済軍を破りました。この後、王族の鬼室福信(きしつふくしん)や僧、道ちん等が百済復興軍を組織しました。彼らは倭国に人質になっていた王子豊璋(天智のモデル)を帰国させ、高句麗や倭国の支援を受け周留城を拠点にして新羅軍と戦っていました。ところが、百済の遺臣団の間に内紛が起き国王に立てられた豊璋が福信を殺害し、士気は低下しました。661年6月、新羅は、親唐政策を固持する武烈王(金春秋)と独立路線に転換しようとする王子金法敏の意見が対立し、王子の主張を支持する花郎軍団の長官・金ゆ信によって武烈王は慶州金城内で暗殺されました。武烈王の葬儀には、唐から盛大な【哀悼使節団】が参列してその死を悼んだといいます。その後、金ゆ信のバックアップで文武王(金春秋の子・金法敏)が即位しました。663年5月、新羅の要請に応じ、孫仁師が率いる40万の唐軍が徳物島(徳積島)に到着。8月、唐・新羅連合軍は、百済復興軍の周留城攻略のため、孫仁師・劉仁願・文武王らが率いる陸軍を牙山湾・白石浦へ上陸させることにし、その先駆けとして、劉仁軌・杜爽・扶余隆らが水軍となり、糧船を率いる軍船170艘が白江に向かいました。これを迎え撃つ倭軍側は、総数約3万人、約千艘でした。内訳は、初めて倭国より参じた廬原君臣(いおりはらのきみのおみ)ら3000人前将軍上毛野君稚子(さきのいくさのかみつけぬのきみわくご)間人連大蓋(はしひとのむらじおおかた)が、率いるイッサカル族兵士、および港川人・シュメール人・苗族の兵士1万2000人中将軍(そいのいくさのかみ)=三輪君根麻呂(みわのきみねわろ・レビ族)巨勢神前臣譯語(こせのかむさきのおみをさ・ガド族)が率いる港川人の兵士3000人【後将軍(あとのいくさのきみ)=阿部引田臣比羅夫(あべのひきたのおみひらふ)・大宅臣鎌柄(おほやけのおみかまつか)共にフェニキア人の父とエブス人の母の混血】が率いる荒吐族と一部、苗族の兵士1万2000人(この中に高句麗軍も混じっていたかも)でした。 白村江は、どこでしょう?牙山(アサン)湾の中央の突き当たりで、今の白石浦にあり、白石は韓音ではHAKUSUKで、【日本書記】は白村江をハクスキノエと読みました。この辺りは石灰岩が多いことから海の色が白っぽく見え、このような名になったと思われます。663年8月、唐水軍の白石浦からの上陸作戦を阻もうと、そこに倭軍(前衛)の水軍が待ち構えていました。27日、唐水軍が入ってきて、さらに、原君臣らの水軍3000人が到着し、出会い頭に交戦となりましたが、倭の前衛水軍に利はなく、すぐに退却しました。続いて翌28日、中軍の三輪君根麻呂らの水軍3000人が、小雨の中、戦いを仕掛けましたが唐軍の挟み撃ちにあって敗れました。その後、後軍1万2000人、さらに遊軍1万2000人が交戦しましたが、ことごとく敗戦しました。唐軍は、油を沁み込ませた干草を倭軍の船に投げ込み、放火して炎上させる戦法にでて、それらがすべて奏功したのでした。次いで、倭軍を白村江(白石浦)で打ち破った劉仁軌らの水軍と、唐・新羅の大軍勢が連合して、9月8日、周留城を陥落させました。 この侵攻作戦は、百済の残党征伐が名目でしたが、唐は主な敵を高句麗と連合する倭国に於いていたので、周留城に立てこもっていた百済人をすべて放免しました。しかし、百済王豊璋は高句麗へ亡命したため、百済の要人たちは次々に倭国へ亡命しました。これに倣って新羅も倭人(約2万人)を放免しています。白村江の敗戦後を【日本書記】は、唐との断交期としていますが、その時期に建立された奈良の薬師堂金堂の薬師3尊が、当時の唐の建造様式とそっくりであり、実は唐の日本進駐は、あったと主張する学者もいます。奈良時代は、唐・新羅の倭国支配時代でありました。
2008/05/17
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以前、【天使】というテーマで講義を受けたことがあります。それは偶然でした。そして今回、【四神】を調べていくうちに何かピンと閃いたのです。四神も天使もミトラ教が形を変えて東方、西方へ広がったものではないかと。その通りでした。 ミタンニ条約の碑文です。この碑文には、七柱神のことが示されており、この時代に既に七大天使(七曜神)の原形が存在していたことが分かりました。天界と人間界を自由に飛び回る羽翼の天使はオリエントからヨーロッパに多く登場します。頭部と両手が失われているにもかかわらず【ヘレニズム彫刻の傑作】と呼ばれるサマトラのニケも羽翼の天使です。そして、アジアにも羽衣をつけた飛天がみられます。【国宝 薬師寺展】の日光・月光菩薩さまも、羽衣を身につけていらっしゃいました。すると思い浮かぶのは、空海の曼荼羅の基と思われる生命の樹。セフィロットの樹とも云い、天国に生えている【生命の樹】を意味し、広大な大宇宙をあらわすと共に、その雛形である小宇宙としての人体でありさらには神に至る精神的遍歴を意味します。この【樹】は10個の球セフィラーと22本の径からなります。22本の径を経てセフィラーのひとつづつを会得しながら、1の(王冠)へと精神の旅路、あるいは瞑想への旅を続け、それぞれのセフィラーには人々への指導、守護をするための大天使がいるとされます。神にとって最も重要な仕事に立ち合うのは、選ばれた7人の天使とされています。その中でも、ミカエル、ガブリエル、ラファエル、ウリエルの4人は、大天使の中でも別格の存在で、世界中に名の知られた四大天使です。彼らは、あらゆる物質を構成する4つの基本要素である【火】【水】【風】【土】の天使、あるいは方位の天使とも呼ばれます。そして、ミトラから古代中国に入って生まれた道教の四神、青龍、朱雀、白虎、玄武と、共通した存在で、宇宙の生成、運行のすべてに深く関わっているとされています。 ミトラという名の神が、記録に残された最初は、紀元前14世紀の粘土版文書でありこの文書は、アッシリアとハッティ(ヒッタイト)の和平文書でした。ミトラ神はこの和平を担保する証人として召還されたとあります。ミトラは、こうした遊牧民族どうしの和平や同盟を司る神であり民族や人種を越えた友愛と平等と平和の神とされ、メソポタミアの国家では光の神、太陽神になりました。それは最高神に近い存在でした。ミトラの起源はヒッタイト・ミタンニ・カッシートの信仰にまで遡り、彼らの南下によってイラン・メソポタミア小アジア・インドに持ち込まれ、地中海沿岸のヨーロッパ、西アジア中央アジア、中国の乾燥地帯、砂漠地帯、草原地帯に広がりキリスト教、ユダヤ教、仏教などに影響を与えた史上最古の世界宗教でした。ミトラは水辺の洞窟(岩屋)で、12月25日の冬至に生まれ、この日に生誕祭が行なわれます。キリストが12月25日に生まれたとされるのは、このミトラに重ねたのです。岩屋の天のアーチは全宇宙を表わし太陽神と月神が左右の上部に描かれました。そこはミトラ神が現世の生命の象徴である牛を屠る儀式を行なった場所でした。遊牧民族では、家畜を屠って、お頭つきで供するのが客人への最高の礼儀だとされます。牛を屠る事は、同席するミトラへの最高の捧げものを意味し、条約の当事者たちがそのお相伴にあずかることが条約調印と盟約の印となり、それが聖餐の儀式でした。この聖餐の儀式は、後のキリスト教の【最後の晩餐】や神との新しい契約【新約】の考え方に引き継がれることになります。また、ミトラは度々自ら猛牛を屠る英雄神として形象され、猛犬とカラスを連れ馬に乗った荒々しい狩人として表現されることがあります。こうした戦う神としてのミトラは、遊牧民族の生活習慣の反映であるとともに、違約者に対して容赦なく懲罰を与える神としての性格を物語っています。祭壇には神殿の近くの泉から水を引いた聖水受け皿が置かれていました。ミトラ神には、水利事業の神という性格もありました。遊牧民は水の重要性を認識し、水利技術に長けていたのです。オアシスの自然湧水量が、生存できる人数の上限を決めてしまうが故に水と食料の奪い合いが起こることを身に沁みて知っていた彼らは、人工的にオアシスの湧水量を拡大することにこだわったようです。ペルシャを起源とするカナート(カレーズ)と呼ばれる地下水道の水利技術が中央アジアからその周辺に広がったため、オアシス都市の生産能力は飛躍的に向上し旅をする隊商に水と食料を供給することが可能となり、これが、シルクロードの東西交通路の発達につながりました。ミトラ教神殿の遺跡に残るレリーフには、暴れる猛牛を屠る英雄神ミトラの像が見られます。このレリーフでは、牛の像から流れ出た血潮からさまざまな穀物や農産物、諸々の家畜が生まれ出るさまが描かれています。荒れ狂う猛牛は、単なる供物としての意味を離れ、氾濫する大河の象徴となり英雄神はこの暴れ河を治水灌漑する土木工事事業を意味することとなりました。水利事業の成功は食料増産を意味し、異民族どうしで富を分かち合うことを可能にします。ここに於いてミトラ神は、遊牧民族の神から遊牧民族と農耕民俗の融和を司る神になったのでした。こうした異民族間の融和、遊牧民族と農耕民族の融和は、治水灌漑という科学技術の発展による生産力向上が前提になっています。ミトラのもたらす平和と友愛の世界を支えるのは、科学技術の発展でありました。そして、ペルシャ人がバビロニア王国を滅ぼし、チグリス・ユーフラテス河流域の支配者になったとき、この地域で土木建築事業を実際に担当していたのは、アッシリア補囚とバビロン捕囚でこの地に強制移住させられていたイスラエル人とユダヤ人達だったのです。
2008/04/20
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オリエント史、インド史、インドネシア史、中国史、朝鮮史、日本史などこれらの歴史は一見バラバラに見えますが、実は互いに密接に関連する世界史の【一つの流れ】から生まれたものでした。1.【中国】の黄帝が【オリエント】のアッカド王サルゴンであり2.【日本列島】の稲と弥生時代が3500年前、【エブス人ら】によって始まった・・・東表国3.【中国】を統一した秦始皇帝が【バクトリア】知事ディオドトスであり4.その子孫が前方後円墳文化をもって渡来し、大和に秦王国を建てたこと5.ウガヤ王朝の神武天皇が【百済】の扶余王仇台であり6.天武天皇が【新羅】の武烈王と【百済】の王子、豊璋の合成人物であり7.【秦王国シメオン族】と【百済扶余王】の血統が、平安王朝の天皇家になったこと。 約3500年前~約2000年前の弥生時代を、倭人がジャワ海域から華北と東北(満州)経由で朝鮮半島を南下し、日本列島に侵入した時代を考えてみますと、倭人はその後この地域を白村江時代まで支配していたことになります。フェニキア人の流れをくむ人々がインド経由で朝鮮へ渡来し、扶余という部族連合体の百済国を建てていました。しかも、この中には、オリエントのウラルトゥ(ヴァン湖周辺)からシルクロード経由でやって来たウガヤ王朝の伯族(先祖はフェニキア人と同じエブス人)やユダヤ人亡命者の公孫氏らが貴族または武士団を構成していたのです。つまり、エブス人を祖にもつフェニキア人(女)とアーリア人(男)の混血が月氏のカッシート人フェニキア人(女)とヒッタイト人(男)の混血がウラルトゥ人であり、ウラルトゥ王朝の初代王のアラメ(男)が天照大神です。この血統が、後にシルクロードの【ウガヤ王朝】となり朝鮮~倭国の神武王朝から邪馬壱国を経て百済国になりました。その百済国は、白村江の敗戦によって一旦滅亡しましたが、亡命ユダヤ人シメオン族の藤原扶比等が始めた【天皇家】に、その系譜は引き継がれました。
2008/05/18
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先日のNHK【その時歴史が動いた】では【古事記】を取り上げました。それは古事記の内容を擦ったにすぎなくとても残念でした。そろそろ真実の日本史が明らかになりユーラシアを西から東へ駆けてきた雄々しい魂を取り戻してほしいと願います。史実を埋もれさせないでほしい。【古事記】の序文には「天武十一年(682年)、諸家の持っている【帝紀】と【旧辞】は偽りが多いから【帝紀】を撰録し、【旧辞】を討覈して、偽りの部分を削り事実を定めて後世に伝えるために、稗田阿礼に【帝紀】と【旧辞】を誦み習わせた」と、述べています。【帝紀】とは、すでに作られていた舎人版【日本紀】の本紀序文で【旧辞】とは、兎のワニ騙しなどに始まる安羅国、卑弥呼~大伴氏の大物主王朝の歴史です。【帝紀】と【旧辞】という古文書があるのに、わざわざ暗唱させたということは、その後、焼いてしまったものと思われます。天武とは実は新羅の文武王のことですから、この時の修史命令は新羅の焚書命令で、この時、焼かれたのは百済、安羅の歴史であったと考えられます。【武】は、中国の史書では始祖を表わしますので【武】のつく天皇、即ち神武天皇、天武天皇桓武天皇、この三人の天皇がすべて新王朝の祖王でした。それは【武】には革命的な意味があったからです。さて、『古事記』の神話に登場する主要な神々は、タカミスビ、天御中主命、スサノオ、大物主命などです。タカミスビがダゴン神であり、天御中主命が太一神であり、スサノオがバアル神であり大物主命がソロモン王と公孫域です。公孫氏は、卑弥呼の祖になります。そのルーツはソロモン。ソロモン王の母親は、父ダビデが臣下から奪ったヒッタイトの女性バテ・シェバでしたのでソロモンはユダヤ人とヒッタイト人のハーフでした。ソロモンの王妃は、有名なシバの女王。ソロモンとシバ(サバ)の女王の間の子供が後のエチオピア王朝の祖王、メネリケであり母の死後、ソロモンのタルシシ船の支配者になるのです。ソロモンは海にフェニキア王、ヒラムの船団のほか、タルシシ船団を持ち、三年に一度サバ国の船員とフェニキア人の船員とヒッタイトの製鉄技術者たちをタルシシ船に乗せインド大陸やマレー半島に派遣しました。技術者たちはガンジス中流やメコン上流に入植して製鉄所をつくり鉄製品を原地人の黄金・象牙・香料・真珠などと交換しました。これこそまさにソロモンの智慧でした。『古事記』に載っている大国主命が鰐をだました兎を助けた説話のルーツは、マレー半島にあって、そこでは鹿がソロモンの命令を受けたと言って鰐をだまし、横にして渡ったとなっています。日本には鰐はいないので、それは合点がいきます。この説話は辿っていくとマレー半島からセイロン島、そして結局、古代ユダヤ人に行き着くのです。この説話を持ち込んだのはタルシシ船の人々で入植した土地々々に、同じ話が伝わっています。また大国主命の一族はタルシシ船の子孫でした。かれらの長い【鉄の旅】でありました。ヴィデーハ、後のマガダにはインド最大の製鉄基地があり、そのためにマガダはやがてインドを統一しました。マガダ国を継いだモウリア王朝が残した巨大な鉄柱は、二千年を経てもいまだサビ一つなく、ヒッタイトの製鉄法は秘密にされていたので、その製法はなお解明されていません。マガダ人がパンジャップからガンジス流域に進出し、あいついでコーサラ、カーシ、アンガの諸国をつくりましたが、このアンガ国が後の卑弥呼の国であり白村江当時の倭国でもあった【安羅国】の基地であり、タルシシ船の中継基地でした。ソロモン王のタルシシ船によってマレー半島を越えオケオ港に上流し、メコン河流域のバンチェン地帯に到達しその時の事件が兎の鰐だまし神話になったと考えられます。ソロモンの末裔、ユダヤ人のイッサカル族の公孫氏は、メコン河流域のクメール族を従えて、華北から遼東に移動しました。公孫氏の卑弥呼が高句麗末王ケイ須=扶余王仇台=神武の妃となって九州に邪馬壱国を建て、それが安羅国でもあります。この安羅国の歴史もそれ以前に千年続いたエビス王の天の王朝(東表国・宇佐)の歴史もニギハヤヒ(シャカ族)が熊本に多羅婆国をたてて、それが後に邪馬壱国のメンバーになった歴史も秦帝国の亡命者が日本に逃れて秦王国を造った歴史も【日本書記】や【古事記】は抹殺したのでした。
2008/04/24
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