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日本列島の金属文化について、BC3世紀以降に青銅と鉄がほぼ同時に入ってきたといわれますが、実際は、BC7世紀に北九州に製鉄所があったことが遺跡により判明しています。この遺跡からは多量のトーテツ文青銅器の破片があり鉄滓の量から、殷周の鉄器すべてこの地で作る能力がありました。 バビロン史は、最古の海人としてディルムン、マガン、メルッハをあげていますがディルムンはバハレーン島のことで、マガンはオマーンのことです。聖書はタルシシ船の目的地としてマガン、プント、オッフルなどの地をあげていますがマガンはアラビアのオマーンだけでなく、メコン河、バンチェン、オケオ、マレー半島などを含む地域も指していたようです。またプントは後のオッフルといわれ、ソマリアにあり後にソマリアを支配したイエメンのサバ国を指したらしい。オッフルには遠隔地に多くの同名の植民市があり、北九州の豊国地方にできた製鉄基地、東表国もアビシニア(エチオピア)とオッフル(プント)の九州植民市でした。ダビデが建国した当時、エルサレムを支配していたエブス人はエジプトから撤退した、かつてのヒクソスで、ヒクソスになる以前は、アビシニア人でした。アビシニアとは【混血者】の意味で、日本のエビス(エミシ)もアビシニア人の意味でした。今の雲南の仮族やメコン流域のクメール族などの先祖が、シャキイ族に従って前七世紀にカルデア人と共にシナ大陸に入って東胡といい、その国々を韓(河南省)といい、また中山国(河北省)といいました。韓はアレクサンダーに従属したバビロン軍に吸収されてのちに奇子朝鮮となります。その中には、沖縄から上陸して大扶余と混じたシャキィ族とナーガ族もありました。 シャキイ族は朝鮮の昔氏になり、ナーガ族は朴氏になり、さらに那嘉、中曾根氏などになりました。 BC530年頃になると、時運傾き、ウラルトゥの辰国・扶余・箕子朝鮮連合の主力・箕子朝鮮は二分し、一はキンメリ(匈奴刀漫部)と連合し、一はイラン高地のアケメネス・ペルシアに混じ秦の滅亡後、秦人と共に辰国に戻り、この人々が後に【倭の五王】の臣である秦族になるのです。さて、ペルシアはメディアやエラムに臣従していましたが、箕子朝鮮の一部が入った後、益々強化しエラムもまた強大になりました。箕子朝鮮の中の倭人はカルデア人(サカ族・ニギハヤヒ)を中心とする南セム族でしたがバクトリア南部のシースタン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていてこの地のサカ族は、ペルシアのキュロスのとき降服して、ヒスタスペスの支配を受け後ペルシア王統が乱れたとき、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。【アメニギ】氏王家が朴氏、これと同盟したサカ族が昔氏、ともに箕子朝鮮の金氏と同盟したのです。サカ族はBC130年頃、傭兵となってパルティアを支援しましたが、後しばしばこれに背きそのためパルティアのフラアーテス2世やアルタバーヌス2世が戦死しました。箕子朝鮮は遂にバルハシ湖を以って境界とし、マラカンドの地を譲って東遷しました。 高句麗は朴・昔・金の三族を沖縄に追放し、この人々が狗奴国となって大隈を占拠して日向を本拠とする邪馬壱国 を攻撃しました。2~3世紀の倭の大乱(神武建国)が一段落したあと、4世紀中葉、ウガヤ王朝の後裔扶余王依羅(近肖古王)が、邪馬壱国と狗奴国(東表国)を合併して百済国(旧多羅)を建て朝鮮南部の弁辰諸国と九州の倭国を支配する【倭の大王】祟神天皇になりました。その孫の景行(百済の辰斯王)も倭の大王となりました。降って百済王久爾辛の娘、仁徳が駕洛第七代吹希王に嫁いで倭の大王(女王)となり、駕洛と百済の複合王家から倭の大王が選ばれるようになりました。 これが所謂5世紀の倭の五王時代でありました。この後、新羅と安羅の挟み撃ちに遭い駕洛(金官加羅)が滅んで王家が新羅に投降したため、再び安羅(邪馬壱国 )王家から倭の大王が共立され、安羅(本国は九州)の王であった継体(大伴談)安閑(大伴金村)宣化(大伴歌)が大王(天皇)になりました。北九州東部を豊日別というのは東表国のことをいいます。後に、この国は朝鮮史の駕洛国または金官国になりました。王姓は金氏、または中臣氏であり、新羅の金姓王朝または蘇我氏は、この分派です。 狗邪韓国(東表国)が邪馬壱国との戦いの結果、天の王朝(九州の東表国・エビス王)から朝鮮半島の南部、辰韓の地に飛地(分国)を作って金官加羅を建てたのは3世紀中頃だったと考えられます。金官加羅の初代王は首露王です。そして王妃はインド16王朝時代のアユダ国、別名コーサラ国の王女でした。コーサラ国は古代フェニキア人のインドに於ける植民地でした。4世紀中頃、首露王の曾孫、末仇と奈勿父子の時代に、辰韓12国中の自分たちの分家領地・斯盧国を独立させて【新羅国】を建て、奈勿尼師今(なこつにしこん)が第17代新羅王として即位しました。【三国遺事】によれば金官加羅は弁辰12国のうち最大の国家でしたが、10代仇衝王の時に新羅と争って敗れ、王族は降伏して新羅の重臣となりました。即ち、562年9月、新羅真興王の軍が攻めてきたとき、安羅国(金官加羅の本国、九州)の軍勢が駕洛国(金官加羅)の背後を襲ったといいます。つまり金官加羅は、新羅と安羅に挟み撃ちされて滅んだのです。新羅は第23代、法興王の頃から征服王朝の性格を備えはじめ、次の真興王の時代には全盛期を迎えていました。さらにインド伝来の固有信仰から発達した【花郎集団】がその宗教的な団結心を基盤にして、新羅軍事力の中核をなすようになるのもこの王代からです。奈勿王4世の孫、異斯夫は兵部令として新羅全軍を指揮するようになると、さらに領土拡張に努め、常に第一線の武将として活躍しました。彼は各地の交通の要衝を眼下に見下ろす高台の地に見事な【朝鮮式山城】を築城して戦いを有利に進めたといわれています。この【朝鮮式山城】は、中世のモンゴル侵入や近世の豊臣秀吉侵入に際し、その地方・地方の農民軍が立てこもり、時の王朝軍が戦う意欲を失った後も、自立した義兵闘争をこの山城によって展開した城です。南朝鮮には現在なお百を越える山城があって、見事な城壁(石垣)や遺跡を残しています。日本でも同じく、7世紀の白村江の戦い以後につくられたと思われる【非常の祭の逃げ城】としての【朝鮮山城】が西日本各地に21ヵ所も存在しており、新羅および百済文化の名残を留めています。
2012/01/31

天皇家は万世一系とはいえませんがシバの女王の時代から続くといわれるエチオピアの皇帝が1975年廃止してからは、アインシュタインをして【最も古く、最も高貴な家柄】と称させた世界最古の王家になります。日本人のルーツを調べていると、二系列の王族によって形成されていることに気づきます。それは、遙か古代アナトリアから始まり、中央アジアを通り、日本にも持ち込まれました。精神の王または最高位の祭司である天皇と、政治経済の実験を握る豪族、ある時は、蘇我氏であり、また、ある時は、藤原氏であったように。王が二重に存在して、精神の王と、現実社会に対する王、とが分かれるというのが西アジアの遊牧民の帝国に際立っていた双分制社会の大きな特徴でありました。これは、スキタイ・サカ族、匈奴らの大帝国に共通して特徴的に見られることでした。そして、もし両者が対立したら、精神の王が上位に来ることになっていました。中国の「史記」にも人間を創造した始原の神として伏犠氏と女カ氏があり蛇化した下半身が絡んでいる画が出土されています。日本の「古事記」の構成に於いても具体的な生成を行なう陰陽に分類された二霊、イザナギ・イザナミがあります。そして、これは、推測ですが、前方後円墳もこの流れを汲むのではないかと考えています。方墳と円墳の合体、これが当たっていたとしたら、すごい歴史の解明に繋がると思います。それは、遙か古代アナトリア~メソポタミアの人々が、円形の住居と方形の住居に分かれていることに起因しているのではないか?と、思うのです。フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマルシリア方面のアララクやウガリトから出土しています。BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世がフルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服されウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので同習俗、同種族とされる理由になっています。フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。フルリ人の【ミタンニ王国】がヒッタイト人によって征服された後、フルリ人の一部は北上し、アルメニアのヴァン湖畔に【ウラルトゥ】を建国しますがこのウル第三王朝~ミタンニ~ウラルトゥの流れが、満州の扶余に至る北回りルートで、【シルクロードの天皇家】となります。もう一つの南回りのルートは、シュメール~インド~ベトナム~満州という【シャキイ族】のルートです。これが【安冕あめ】氏と【阿毎あま】氏の二系です。ウラルトゥは、BC1300年頃のアッシリア碑文に初見されますが【ウラルトゥ】とは【ヴルトラ(蛇)】の意味で、【ナーガ族】の七頭の蛇との関わりがみれます。神社に張られるしめ縄は、男の蛇神と女の蛇神の交合を象った神の縄です。古代メソポタミアでは、この両蛇神を【ニンギジダ】と呼んでいました。しめ縄の原点であり【史記】の伏犠・女禍の神像は共に蛇身人首で両尾をしめ縄のようにからませています。有名な志賀島出土の【漢委奴国王】の金印は蛇紐です。【秀真伝ほつまつたえ】を作成した大物主家(公孫氏)の三輪氏(イッサカル族)は大和三輪山の蛇神を祀る神官の家柄なので、蛇紐金印の委奴国王家および蛇神信仰の新羅王家あるいは、亀神話のからんだ金官加羅の金首露王家と同族的な関わりがありました。ウラルトゥとしばしば戦いを交えたのがアッシリアで、シャルマネサル3世や4世が知られますが、彼らは、ウラルトゥを【ウルアトリ、ナイリ】と呼びました。アッシリアは、セムの2子、アシュルの流れでセム系とされていますが支配階級は、ハムの子、カナンの子孫、【旧約聖書】では、アララト王国となっています。中東の遊牧民族のなかにあって農業を主としており、この点シュメール人と同じです。【ウラルトゥ王国】は、BC9世紀始めにアラメによって建国され、アラメがアッシリアのシャルマネサル3世によって追放された後、次のシャルドウリシュ1世が国力を回復しアッシリア軍を撃退、以後、ウラルトゥとアッシリアは何度も交戦します。【ウルク】もバール信仰で、【ウル】の天神アンに敵対しましたが、もっと遡ればインドのナーガ族とアーリア人の敵対に端を発します。【フルリの王】と自称したシャルドウリシュ1世やメヌアシュ、アルギシュティシュ1世などの優れた王を出したウラルトゥもBC585年にアーリア系のアルメニア人が侵入し、首都ティシェバーナが没落、以後ウラルトゥ人はシルクロードに亡命することになりますが、このシルクロードのウラルトゥ人を中国の文献は【伯族】と称しています。【宮下文書】は、ウガヤ王朝が月読命(月氏)と同盟していたとしますが、このことはアナトリアのウラルトゥとシルクロードの月氏が同盟してアッシリアと戦った歴史を表しています。セム系の月氏は、ウラルトゥの時代にも天皇家と共にあったようです。この時の同盟関係が天皇家と月氏(藤原氏・秦氏)につながります。 ウラルトゥ王国はBC6世紀初頭のカルミール・プルーフの時代に滅亡してしまったとされますが、彼らはナボポラサルのカルデア王朝に従属し、その後アケメネス朝ペルシアの王族を王とし服していましたが、アレキサンダーによってペルシアが滅びた後、その一部が扶余を建てました。ウラルトゥ王国がスキタイなどの印欧語族に追われてキンメリ人やチュルク人と共にアフガン北部のバクトリアに逃れ、さらに華北に移動、ここで秦に伐たれたため満州に入って扶余前期王朝を建てたのです。
2012/01/29

BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられています。その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたようです。農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし、生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家がアナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。円形は、長頭の地中海人~エブス~フェニキア~ユダヤ~公孫氏~卑弥呼につながるのではないかと推察しています。エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となってBC3500年頃、ウバイド人がいたバビロンの地に侵入しました。「史記」の伏犠氏は、この人々です。アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。黒曜石は、火山性ガラスで、ナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイックを中心としたアナトリアの一部)に混在しています。一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心にユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し範囲を拡げたということです。そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。ハッティ・ミタンニ・フッリ族などと共にエラム族もアルメノイドに組み込まれます。BC3500頃、またエラム族の別一派は、インダス河谷に侵入してドラヴィダ族になりました。エラム族は、ジグラットを作り、そこに月神シン(このシンが後々まで名付けに関連する・・秦・辰・晋・清)を祭り、部族同盟を作り、西はザクロスに至り、東は中国大陸に現れ中国史では、燕人となって、アラム族(のちのウラルトゥなど)の祖でもありました。この部族同盟は、族外婚という特徴に変化して、サカ族の末裔である蘇我氏でも行なわれていました。人類の文字は、エラム族が作った縦、または横の絵画配列に始まります。エラム族は、サカ族などの原型となりますが、この人々が、中国の甲骨文字とメソポタミアの原エラム文字を作った人々でした。
2012/01/29

氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。 最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。 やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し、一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まりそれは、めざましい成長を遂げるのです。アナトリアのチャタルフュイックのフュイックとは、テペあるいはテラ、丘をいいます。数千年に及んで、何世代もの人間が住居をつくり、それが壊れた後、後からやってきた人たちがその上に新しい住居をつくって住み着く。昔の家は粘土でつくったから、その営みが繰り返される度に、だんだん高さを増していく。そして、ついには丘にまで成長したのです。チャタルフュイックの周辺は、もとは大きな湖だったらしい。しかしBC1万年頃から、湖は徐々に干上がり、昔湖の底だった土地が肥沃な農業の適地となりました。チャタルフュイックに、最も早い時期の人間の住居跡が現れるのは、BC7000年頃です。BC7000年頃といえば、アナトリアからパキスタンにかけての地域で、小麦や大麦が初めて栽培されるようになった時代です。また山羊や豚が家畜化された時代でもあります。チャタルフュイックより早い文明の主要な根跡はエリコだけです。チャタルフュイックの人々は小麦や大麦、リンゴ、ピスタッシェナッツ、アーモンドなどを食べていました。主食は家畜化された牛ですが、野性の動物を狩る状況が壁画に描かれているところから、狩猟も重要な食料補給手段だったようです。チャタルフュイックの近くには、黒曜石の産地があり、チャタルフュイックに1000年以上先行するエリコの遺跡で黒曜石が出土しています。そのエリコの黒曜石はアナトリアから運んできたものと考えられています。エリコの住人は、黒曜石の採掘のためにチャタルフュイックに住み始めたようです。集落は非常に特徴的な姿をして、家々はすべてコンパクトに密集し、間に道路がありませんでした。外側の壁には入口がなく、人々は木製の梯子を使ってまず屋根に昇り、屋根を伝わって再び梯子で所々に設けられている中庭に降り、そこから家に入りました。窓は、壁の高い部分にのみ設けられたことから、チャタルフュイックの人々が、ある程度は外敵に備えていたことは推察できます。チャタルフュイックでは、住居の床下に死者を葬りました。死体は、外に放置され、はげわし、あるいは小動物、などの清掃人によって、きれいにされた後、室内の床下に葬られました。後世の鳥葬の原型です。チャタルフュイックからは、火で焼いた粘土製のスタンプや石臼が、出土しています。小麦・豆にしても顔料・火薬にしても、すべては、粉から始まるところに気づいた人間は、すばらしいと思います。そこから無限の可能性が広がりました。スタンプの用途については、たぶん衣類や袋布の所有権を示すためと推定できます。家はすべて密集して建てられており、その間には道路もなく人々は顔を突き合わせて住んでいました。まだ私有財産など生まれていなかった頃ですが、身の回り品や当座の食料については、家族別の所有関係をはっきりさせておく必要があったのではないか。無用な争いを避け、多数の人たちが平和的に暮らすためには、所有権をはっきりさせる必要があります。しかし、まだ文字が発明されるより3000年も昔のこと、自分の所有権を表わす唯一の手段が、粘土で特別の文様のスタンプをつくり、顔料をつけて、自分の衣類や穀物を入れたと思われる布の袋に押すことだったのでしょう。印章の起源は、メソポタミアではなく、それより遥かに古いチャタルフュイックだったのです。 メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのはナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。 長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成しインダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れてスーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラムなどがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成されスーサでは最古のスメリア文明でした。アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、 ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドからアナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
2012/01/25

BC6000年頃に始まった金属文化は、初めにヒマラヤ山麓をルーツとして小アジア(トルコ)のチャタルフユィックやタイのバンチェンに拡がり、これがモヘンジョ・ダロを経てBC2500年頃までにはアンドロノヴォ(エニセイ川流域付近の村の名)に伝わったと考えられます。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー エニセイ川上流にいた民族が西へ向かってキルギス人となり東へ向かって日本人となったという説があります。天山山脈の麓に【ヤマトゥ】と呼ばれる国があり、その版図に【弓月王国】という王国があり弓月君とは【日本書紀】に記述された秦氏の先祖とされます。ここから【弓月君】に率いられ秦氏は朝鮮半島から日本に移動したという説です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーBC1800年~BC1300年に至るまでのバイカル地方に栄えたグラスコヴォ文化は、奴隷制・シャーマニズムをもち、銅器をトーテムとしますが、これが殷文化以前の文化です。殷の青銅社会は、実は中国に於けるイシン(バビロン)の植民地でした。 殷は商ともいいましたが賤名で【夷】とも云われたのは【銕人てつ人】製鉄族を表すとともに黒人を表し、【エビス神】【インダナ神】を意味し、カナンのエブス族のことで、後の海の国ヒクソス、エブス人、フェニキアは同一です。またウルのカルデア人は、後のサカ族のことです。サカ族はドーソンでモン族と合体した後、BC4世紀末、海陸両路で北上するのですが、弥生文化はこの人々がもたらしたものです。中国【史書】がオリエント史を漢訳して中国史に仕立てた理由は当時の支配層が、すべてオリエントの移民(秦人・ペルシアとユダヤの混血)だったからですが夏がウルク、殷がイシン、周がアッシリア、秦がペルシアの当て字であり、漢王家の指示により【史書】を著した司馬遷が宮刑に処せられた真相も李陵を庇っただけではなかったようです。実際の中国史は、オッフル人、マガン人、メルッハ人などのヒクソス系の海人がバンチェンを経てチュルク人がいた中国に到達して殷文化が始まり後にアレクサンドロス大王がバクトリアに侵入しバクトリア王ディオドトスが洛陽に侵入して秦という統一国家を建てたという歴史です。アラム族の人々はセム族系の民族で、BC14世紀頃から北シリアを中心としてオリエントに拡散したとされます。また彼らはシリアを中心として幾つかの小国を建てましたが、ミタンニの故地であるハブール河流域と北シリア地方に住んでいたので、この地域をアラムあるいはナハライムというそうです。このアラム人とシメオン・フルリ両族が混血し、商業に長じていて、南西アジアの商権を支配し、陸上のフェニキア人とも呼ばれていたといいます。BC8世紀にはアラム語がアッシリアの公用語となり、やがてシリア、パレスチナでも用いられイエスはアラム語によって語ったとされています。バビロンのイシン国滅亡時に王族のアラム人が二分してカナンでユダ王家になり東方で箕子国を建てたといいます。アッシリアによってイシンが滅亡した時、アラム族は抗戦を唱えてならず、ラガッシュ人は征して勝たず、アーリア族は勇敢に防戦しましたが、エラム人が賄賂に毒されて裏切ったためにイシンはついに滅んだといいます。イシンのアラム人と海の国のカルデア人とは留まってバビロンの地を支えようとしましたがカルデア人は捕らえられていたイシンの王族箕子を奪い、ユーフラテス河西方のラケーに築城し、国を辰法殷(ビト・アディン=ウラルトゥ)と名付けました。このアラム人が【史記】の犬戎、ウラルトゥ=ウガヤ王朝のことで、カルデア人が後の月氏系サカ族、ニギハヤヒ族、辰王ですがこの時、共に戦っていたのです。さらにバジ王家の軍とエラム人に攻撃されて箕子一族はシルクロードを移動し、金鉱のあるイッシク・クルに築城し、これがイッシク古墳で金の上下を纏った被葬者【黄金人間】はサカ族(月氏系)の族長とシャーマンを兼ねた存在だといわれます。この古墳の遺物は様式的にみて、アルタイのバズィリク古墳のそれに近く現地で作られたという説とアムダリア流域の古代バクトリアから移入されたとの説があります。イッシク古墳は、イリ川のある箕子国のあったところであり、被葬者は箕子国の王族であり新羅三姓の金姓はアルタイの金山を表します。この金氏が後の金官加羅、そして分家して新羅の金氏のヒッタイト蘇我氏になったと考えられます。殷の時代には崑崙北麓、特にホータンの【玉】が殷の貴族たちに珍重されたのですがこれを運んだのは当時、甘粛から西域を支配した月氏族でした。またスキタイ・サカ系の民族は、北狄と書かれ、殷末には殷(イシン国)の亡命者が建国した箕子朝鮮の北方を支配しました。 スキタイ・サカ系の民族は、前800年頃から二分して 箕子朝鮮と同盟する扶余族と朝鮮半島を南下して辰国を建てた人々とに分裂することになります。インドでは前12世紀に、アーリア族の侵入が終了し、中国大陸では、この頃に周が建国しています。 周の建国にアーリア族の移動が影響を与え、殷族が周に亡ぼされた前11世紀に、殷族の一部が朝鮮半島南部に辰国を建国し、さらにその一部が九州北部の国東半島に逃れて、前8世紀頃以降に国東に製鉄遺跡を残したと考えられます。遺跡が国東に限定されているのは、この地域が朝鮮半島を本国とする人々の兵たん基地であったからであり、この人々はミタンニ族であると考えます。殷末までの時代には鉄器文化を持っていなかったのであり、鉄器文化はヒッタイトが衰退したため、前千年以降、辰国の王朝が【天の王朝】といわれますが、ヒッタイトの王族だったミタンニ族を中心としながら(人民はハッティ)朝鮮半島の南部では黒潮に乗って北上したマラ族と接触したらしく、次第に混合文化を形成していったと考えられます。【辰国】即ち【天の王朝】を構成した倭人のうち、王朝の本流であるサカ族系は後にサンカとなり傍流の秦族は源氏、マラ族は平家をそれぞれ名乗るのです。この【天の王朝】の時、既にカースト・ゲット-制が存在し、農民がある一方農業を行わない民族があって、農業地帯と山岳民族の区域を斑状に分離し神社を建てて結界を引きました。これはイラン文化の特徴であって、牧畜文化と農業文化の混在状態に於ける農業を差別するスキタイ民族が作り出し、インドのカラー差別にもつながります。【別所・別府】などと云われ、サンカ・木地匠・杜人・タタラなど山岳の人々が農業民と分離して生活したのです。辰韓の農民は鳥葬を行っていますが、鳥葬のルーツは殷民族といわれるチベット苗族であり、日本でもクメール族はストーン・サークルに屍体をおいて鳥葬を行ったといわれます。【蘇民】はスキタイを意味すると共に【けがれ、よごれ】の意があり農民サイドからの蔑視です。後、律令制に於いても、荘園内部にはゲットーとして【院地・散所】が作られ、非農地域として発展し、商業基地になってゆくのです。
2012/01/24

前回記したアルギッパイオイ人は、サカ族(スキタイ)であり、アッカドの末裔です。ポンティコンの実を食用とする根の国(ウラルトゥ)一族といわれます。この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害を加えられることはない。と、ヘロドトスも記しました。彼らニギハヤヒの軍団は、アラビア海の時代はシュメール人の一派のヤードゥやマラ族で、インドでシャカ族になって雲南へやって来ました。そしてワ族やナーガ族を引き連れて満州でウラルトゥ+月氏の扶余前期王朝と合体し、その庶子 が王位を奪って扶余後期王朝をたて東明王と称し日本に来てニギハヤヒになったということです。扶余は前期も後期も共に製鉄部族で同盟していたのでした。中国史料【通典】扶余伝には扶余王の埋葬には金鏤玉衣を用いている。中略・・扶余人の性質は勇敢にして慎み深く人情に厚い。ほかの種族の地への侵略などはしない。・・・と、記します。扶余国家は、初め【伯族(ウラルトゥ)】によって建国され後に【穢国(ニギハヤヒ)】と合体しましたが、ともにその一部は九州に渡来して【ウラルトゥ】から【ウガヤ王朝】、【穢国】からニギハヤヒ王朝が成立したのです。やがてウガヤ王朝後裔の神武はニギハヤヒ一族を破って吸収し邪馬壱国をたて最後まで神武と戦った狗奴国のナガスネ彦も東北に逃れ、荒吐族、後の阿部一族の祖になります。【三国史記】によれば新羅の朴氏の祖はナガスネ彦の祖と一致しています。それはアッサム高地からマレー海峡に散在するシナ・チベット語族のナーガ族です。そのナーガ族を率いてきたのが、ニギハヤヒです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー最後に日本にやって来たニギハヤヒの一族は青い目の人々もいたらしい。平安時代から村はずれに天部、余部という部落があって、後の被差別部落のルーツといわれますが、元来は天の王朝の人々の部落でした。新羅人の奈良王朝を破って百済人が平安王朝を建てた時、その圧制のもとで家を捨てた人々がこの地に次々と入っていったといいます。山形県の余目も最果ての余部と考えられ、ここには青い目の人が多いそうです。あらゆる文化が辺境にと逃れるように、天部の純粋の形態は東北地方に残ったのではないか。天の王朝一族は、ニギハヤヒ族の他、東表国・金官国の中臣族、公孫氏邪馬壱国の大伴氏などもありますが、このなかにも青い目の人々がいたと考えられます。10世紀中期、突如として、律令制を揺るがすような大騒動が持ち上がります。クシャトリアであった平将門の一族が下総北部を地盤として935年以来、同じクシャトリアのマラ族である平国香・平貞盛・平良兼・平良正らと領土を奪い合う合戦を繰り返していましたが、自ら【親皇】と称し新しい国家を造るべく関東地方独立を図り武力による【関東国家】の建設を目指したといいます。また時を同じくして、瀬戸内海でクシャトリアのヤードゥ族、藤原純友が1000艘を越える蛋民水軍を率いて反乱を起こしました。この2つの反乱は貴族たちに大きな衝撃を与え平安朝の天皇制も危うくしました。結局、将門勢力はクシャトリア・マラ族(アーリア人とドラヴィダ人の混血)の平貞盛と結んだツングース北倭武士団(アイヌ人)の藤原秀郷によって滅び、そのため純友は京都に突入する寸前で兵を引き返しました。敗戦の結果、将門に従っていたカッシート人らは関東平野や近畿地方に逃れて散居し、純友に従っていたヤードゥ族は蛋民(水上生活者)となって瀬戸内海一帯に散居し、各地に津(港)を作りました。やがて、鎌倉時代にこの武士たちの群れから足利氏の勢力が成長し、南北時代になると執権北条氏の鎌倉幕府を滅ぼすことになります。後醍醐天皇による【建武の中興】のとき足利尊氏は、南朝方の百済武士団の後裔・楠正成・新田義貞を滅ぼして北朝系の室町幕府を樹立するのです。
2012/01/13

倭人の祖神である国常立命の子、トヨクムヌノ尊は、西域の王でありました。と、いうことは日本の神話における神々は西域王ということになります。【秀真伝】【宮下文書】【倭人興亡史】【上記】などと比照すると西域全域におよび西はパレスチナ、アルメニアから東は楼蘭に至る地域であることが判ります。これらは【偽書】と扱われてきましたが、オリエント史、【史記】ギリシャの歴史家ヘロドトスの歴史書、などと一致しています。ヘロドトスBC484年頃~430年以降の【歴史】の概略。スキタイ全土の沿海地域の丁度、中央部に当たるポリュステネス河畔の住民たちの通商地を起点とすれば、まずカリピダイというギリシア系スキタイ人が住んでおりその向こうにはアリゾネスという名の民族が住む。アリゾネスの向うには【農耕スキタイ人】が住むが彼らが穀物を栽培するのは売却が目的である。その向こうにはネウロイ人が住むが、ネウロイ以北は、無人の境である。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーポリュステネス河を渡って、海辺から北上すれば、森林地帯があり、さらに北上すれば【農民スキタイ人】が住む。ギリシア人は彼らをポリュシテネス人と呼ぶが、彼ら自身はオルビオポリタイ(オリビア市民)と称している。この【農民スキタイ人】は東方に向かっては三日間の旅程を要する地域にわたって居住しており、パンティカペスという河に至る。また北方には、ポリュステネス河を遡航して十一日間を要する地域にわたっている。この先には広漠たる無人の荒野がつづいているが、この無人地帯を過ぎたところにアンドロバゴイ人(食人種)が住んでいる。これは特異な民族で、スキタイ系では全くない。これより先は正に無人の地で、いかなる人間の種族も棲息していない。【農民スキタイ】の居住地から東に向かい、パンティカペスを渡河すればそこははや【遊牧スキタイ人】の世界で、彼らは種も蒔かねば耕す術も知らない。そして森林地帯地方以外は、全土に一本の樹木もないのである。この【遊牧スキタイ人】は東方に向かって十四日の旅程にわたる地域に住み、ゲロス河畔に至る。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーゲロス河以遠は、王領のスキタイで、このスキタイ人は最も勇敢で数も多く他のスキタイ人を自分の隷属民と見放している。彼らの領土は、南はタウロイ人の国に達し東は、かの盲目の奴隷の子らが開削した掘割に至り、マイオティス湖(アゾフ海)畔の通商地クレムノイに及んでいる。また一部はタナイス河(ドン河)にも接している。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの王族スキタイ人の領土の以北には、非スキタイ系の別の民族メランクライナイ人(黒衣装)が住んでいる。メランクライナイ人以遠の地域には沼沢のみで人間は棲息しない。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーータナイス河を渡れば、もはやスキタイの地ではなく、まず最初の地域を占めるのはサウロマタイ人で、マイオティス湖の奥隅から北へ十五日間の旅程にわたる地域に住む。その全土は立木一本ない。 サウロマタイ人のかなたに第二の地域を占めて住むのはプディノイ人で、その国は全土にわたりあらゆる種類の森林に深く覆われている。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーープディノイ人の国を越えて北に向かっては、まず七日間の旅程にわたって無人の地が続きこの無人の境の果てたところで向きをやや東に転ずるとテュッサゲタイという多数の人口を擁し特異な性格をもつ民族が住んでいる。彼らは狩猟によって生計を営んでいるのである。テュッサゲタイ人と同じ地域に相接して、イユルカイの名で呼ばれる民族はおり、これも狩猟によって生活している。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこれらの民族の国を越え、さらに東方に進めば、別種のスキタイ人が住む。これは王族スキタイ人に背き、その果てに、この地に到来したものである。ここまで列挙した地域が、いずれも土壌の深い平坦な土地であるのに対しここから以後は、小石や岩だらけの荒地がつづく。長々とつづく、この荒地を過ぎると高い山脈の麓に、男女の別なく一人残らず禿頭であるという人種が住んでいる。獅子鼻で顎が張り、スキタイ風の服装をして、独自の言語を話し、ポンティコンという木の実を常食としている人種である。いちじく程の大きさの樹で、扁豆によく似た果実が生り、熟した実を布を濾して搾ると黒ずんだ濃い液が流れ出すが、その汁をアスキュと呼び、彼らは、この汁を舐めたり、乳と混ぜて飲んだり、また搾り糟の濃厚な部分で菓子様のものを作り食料にしている。この地方には良い牧場がないため、家畜の数が少ないことによるのである。彼らは、いずれも樹陰を住家とし、冬には樹に白いフェルトの覆いをかけて住み夏は覆いをとる。この民族は神聖視されているので彼らに危害を加える者は誰もなく武器の類は一切所有しない。近隣の住民の争いを調停するのも彼らであるし、彼らを頼って避難してきたものは何人によっても危害を加えられることはない。この民族の名はアルギッパイオイという。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上に列挙した地域は、ことごとく極寒の地で、一年のうち八ヶ月間は、その寒気は耐え難く、この期間には、地面に水を注いでも土に露われず、火を焚いてようやく土が露われるほどである。海は凍結し、キンメリア・ボスポロス(クルチ海峡)も、ことごとく凍るので、濠より内側に住むスキタイ人は、大挙して氷上を移動し、シンデ人の国まで車を駆ってゆく。このうち、【秀真伝】と一致する部分は、【西域諸族に神聖視されていた】アルギッパイオイ人に関する記述です。この人々は、バルハシ湖の北東、アルタイ山脈の西端のイルティシュ川のあたりのいたことになります。彼らこそ、日本の神話でアメニギ氏となっている私たちの祖王であって、【倭人興亡史】では【アキ比の王】とかアシムス氏から出た【ニギ氏】とか記されている水神エンキを主神とするアッカド人の末裔です。さて、ヘロドトスと一致する【秀真伝】の記録は、第二十四章、コエクニハラミヤマのアヤ(扶桑国蓬来参山章)のなかにあります。吾郷清彦氏による【直訳ホツマツタエ】第二十四章、冒頭部です。そもそもに 皇孫 仁々気根(ニニキネ)尊 新治宮 築波に治む。年すでに 三鈴二千五十 つらつらと 思えば、 民の 殖ゆるほど 田は増さぬ故 糧足らず。平場の小田は 水絶えず、 高田は雨の 降らぬ年 種を滅ぼす。川上の 水を掛樋に 運ばせて、 これも崩れば 井堰立て、 堤築きて 山水を 取りて高田を拓かんと、 巌の鴨船 伊勢に着け 巡廻請えども 大御神 許さず、 此処に 仮住居。・・・・・まだまだ長く続きますが、仁人木命が、イトウケステメに三千実の桃を与えたが、花実の桃は珍しいと、土産に持って帰ったという箇所があります。この三千実の桃が桜んぼうで、この野生の桜んぼうが、アルギッパイオイ人の生活の糧となる木の実【ポンティコン】だとされます。
2012/01/13

古代の人類集団は、【トーテム】をもち、そのトーテムの名で呼ばれます。【牛】の原産地はメソポタミア。そのウルク期に於いて牛はウルと呼ばれていました。牛族が王族となったため、ウル王朝と呼ばれ、都市もまたウル市といわれました。それから34世紀経ったBC1世紀、古代満州の扶余に牛を部族名とする【牛加】が実在しました。【加】とは、人の意であり、部でもあります。【牛加】が官名であると同時に部族名でありました。 牛加には二種あり、一つはウル族、一つはシオ族。この【塩族・シオン族】は、BC2800年前後頃から、牛族のウルクと帯同して原郷のメソポタミアを離れ、インドでは釈迦の名で呼ばれ、殷では、【召方ショウホウ】と呼ばれました。【日本書紀】垂仁天皇二年の条の第一の一書にあった【額に角の有る人】という記述は 牛の角形のついた冠帽をかぶった人の形容で、これが【兜】になり、二本の牛の角のある【牛冠】をかぶる古代の習俗だったのです。【ツヌガアラシト】はツノガアルヒト(角がある人)であると共にアラシトは、後代実在した加羅の人名、また王号でもありました。【蘇】は【于斯うし】牛の朝鮮語のsoです。【牛冠】とは、人間の身分を表し、【王】のシンボルだったようです。BC2500年、アッカド王国では、ナラム・シン王がかぶっていました。BC800年、ウラルトゥ王国では、牛冠のスフィンクスが王座の一部でした。祟神・垂仁朝、牛冠をかぶっていたというウシキアリは王子でした。【日本民族を形成するアジア五加】馬族・・・・・アルタイ系種族(白人系)牛族・・・・・オリエント系種族・シュメール人(白人系)犬族・・・・・印欧系アーリア種族(白人系)鳥族・・・・・殷人(黄色人系)蛇族・・・・・原南洋人(オウストロネシア語族(黄色人系)縄文晩期の西日本は、原南洋人、オウストロネシア語族、蛇をトーテムとするオラン・ラウトの生活舞台でした。次いで弥生早期に洛東江流域から南加と原シナ人(鳥をトーテムとする猪加)という猪加とは、チュルク族、つまりトルコ人のことです。猪加というのは、扶余の王族である馬加の文化人が蔑んで名づけた名でした。黄色人同士、稲作農耕民であるところの二種族が西日本へ渡来しました。これが日本列島へ稲作文化を搬入した二加であり、原畿内人であり、銅鐸人であったと考えられます。次に、弥生中期になると、扶余の王族、高句麗の前期王族、そして、馬韓王の系譜につながる馬加を盟主とする連合軍が、まず北九州の松盧国に上陸し、以後しだいに先住の狗加、牛加、猪加、南加たちを制圧して九州に入りました。これが日本の天皇氏族であり、種族の系譜としては馬をトーテムとするアルアイ系人種、すなわち北方騎馬民族の一種です。また、馬加が西日本一帯を完全に制圧したのは、【三国志・魏志・倭人伝】によると、247年、九州の狗奴国(狗加の国)が邪馬壱国に敗北した時点になります。弥生時代の【弥生】という名は東京の本郷弥生町からとったものでありもとの地名は【向ガ岡】、ムコガ岡を語源学的に表記し直せば【馬加賀岡】。即ち、東大農学部構内の弥生土器が出土した地点には弥生後期、馬をトーテムとする人間集団馬加が小邑落をつくっていたのであり、そこから出土した弥生土器はアルタイ系人が使用してものでした。また、大森の久が原遺跡は、弥生中期、狗加族(くかはら)が住んでいた跡であり板橋の前野遺跡は馬拝(まへの)が住んでいた後期遺跡であって、日本中の古代遺跡跡地の【地名】は、みな、そこに住んでいた種族、アジア五加の名が付けられていたといいます。現在、地名がどんどん新しく改変されています。歴史の唯一の手がかりを惜しげなく消してしまっていいのでしょうか。
2012/01/08
新年おめでとうございます。お正月に獅子舞を見かけることは今では稀になりましたがこの獅子舞を伝えたのは牛トーテム族の司祭です。七夕伝説に、天に上ってしまった 織女を追って牛の皮を着て、ふわふわと天に上る牽牛の話があります。 この牛の皮を被るというところが獅子舞になったのです。地中海のクレタ島の王が牛の皮をかぶり、エジプトにも牛の皮をかぶる神官がいたのは、この伝説の影響のようです。獅子といっていますが、実は【牛】のことなのです。牛の皮をかぶったシャーマンが、跳んだり、はねたりして帰神状態になり託宣をくだすのですがその様をウル語で、【グデン グデン】といい、酒に酔って半ば虚脱状態になった様の語源です。日本には、メソポタミアのウル語がアジアの北周りで入ってきています。【すごろく】などもそうです。ウル系の遺風や言葉を日本に持ち込んだのは、中央アジアの牛トーテム氏族、白鳥トーテム氏族を包括する騎馬遊牧民たちでした。【鉢巻】もそうです。【ハヂ】は古代エジプトの【白】という言葉で、上エジプト王の王冠が白い王冠だったので【ハヂトゥ】といいました。古代アラビアでは、そのエジプトの【白】の【ハヂ】を借りまして、イスラム教信徒の名誉ある称号、白衣白帽を許された長老の【ハヂ】にあてました。その【ハヂ】が沖縄へ入ると清音の【ハチ】となりました。鉢巻の【マキ】は古代インドの高官、重臣という【マントリ】が語源でした。【八墓村】という映画がありましたが、鉢巻に懐中電灯を牛の角のように差していました。戦いの兜甲の角(ur-sag)であり、司祭やシャーマンの牛冠です。牛頭天王、牛頭神で最も知られているのは、祇園社を始めとする各地に祀られているスサノヲノミコトです。敦賀に渡来したツヌガアラヒトの頭の角のことも想起されます。花嫁の綿帽子を角隠しという謂れも、これに由来しているのでしょうか
2012/01/06
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