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最近は、レンジでご飯を炊きIHヒーターの卓上コンロで料理することが多くなりました。 ニンジン、ブロッコリーも入れた野菜いっぱいのカレー。 今朝は、玉子粥も作って、柔らかく優しい味に温まって、ゆっくり時間が過ぎていきます。春になったら踊り子号に乗って旅行に行こうヨ・・・と、女ともだちと計画したり冗談を言って 笑いあっているひとときが温泉に入っているように癒されます。
2008/01/28

蘇我氏がやって来る前に日本列島内には縄文時代から二つの太陽信仰のネットワークがありました。青森の三内丸山と大和の三輪山を基点とするものでした。最初、東北のネットワークが先行していました。こうしたネットワークがあったことが日本列島が中国や朝鮮とは違う強力な太陽信仰の受け入れ地として同じ信仰をもつユーラシアの遊牧民から重視されたのでしょう。ユーラシアに自分達の存在基盤の揺らぎを感じていた人々が日本列島に新たな希望を求めて渡来してきたようです。そのほとんどは日本列島内では太陽信仰に於ける先進地帯である北日本にやってきました。応神、仁徳及び北陸系の王朝はいずれも北日本を拠点にして成立したと思われます。そうした土台があったところに何波にも及ぶ波の中で最期にやってきて北日本の王となったのが蘇我一族でした。彼らはユーラシア全域に拡がったミトラ教とシリウスの聖方位をもってやってきました。ミトラとは彼らの拠点サカスターンのあったペルシアの国教でした。ペルシアの国教はミトラの太陽信仰が基本でありながら、しばしば折衷的で暦はシリウスの観測を軸にしつつ『副太陽』であるシリウスをも崇拝の対象にしていました。『副太陽』という意味は、昼間の一番明るい星は太陽なのですが夜間で最も明るい星がシリウスということです。シリウスは太陽系から8.7光年の距離にある新しい星で古代日本でも『大星』といわれていました。人は『光』の根源を太陽よりシリウスに感じはじめていました。紀元前500年頃、ペルセポリスの冬至の真夜中、現在の12時にシリウスは真南から20度東に傾いた方向に煌々と輝きました。この方向に向かって、新年を告げるシリウスを遥拝すると遥拝する者の真後ろ(後ろの正面)は、真北から20度西に傾くことになるといいます。この方位を聖なる方位、聖方位として日本列島至る所に今も存在するのです。隠れてしまって気づかれることは、ほとんどありませんが。しかし有名な童謡『かごめ かごめ』は、このシリウス信仰を唄っていることが解かりました。 カゴメ、カゴメ カゴの中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面はだあれカゴメとは籠目、冬至線と夏至線が交差して出来た菱形の文様をいいます。例えば、ある地点に立ち、そこから冬至の日没を望む方位線を引きまた同じく夏至の日没を望む方位線を引いたと考えます。この二つの線は、その地点で59度強の角度をもって交わるがこの線を一定の距離をもって平行に少しづつ、ずらしていくことによってある一定の距離をもって平行する網の目を作り出すグラフィック・ネットワークが作られます。その網目の文様を『かごめ かごめ』といったのでしょう。籠の網目も菱形で同じですから。また六芒星のことかもしれません。すると『籠のなかの鳥は いついつでやる』とは蘇我氏は鳥との縁が深く、鳥のシンボリズムをもっていました。そこから八咫烏や烏帽子が生まれ、『飛ぶ鳥』と書く飛鳥が生まれたのでした。『夜明けの晩に鶴と亀がすべった』これは夜明けなのに晩という矛盾した時間に鶴と亀は四神獣の朱雀と玄武、すなわち方位を示します。つまり南北が統べった。それはシリウスの聖方位を示します。その時の『後ろの正面』は誰?ということでしょうか?
2008/01/26
カシート王朝から月氏王国、クシャン朝からサカ族~蘇我王朝につながる人々は交易においても重要な役割を担いました。中東は文明の十字路でした。数多の民族があらゆる方向からやって来て相争い、王朝を立てては滅んでいきました。「ムー」という雑誌の1999年12月号に「シャンバラ伝承と謎の古代文明クスターナ」という記事が出ています。シャンバラはシャングリラー。理想郷という意味です。またクスターナは、梵語で「大地の乳」を意味する言葉で、その後、クスタン、コタンと変化し、現在の新疆ウイグル自治区の町、ホータンだといいます。「ムー」の記事によれば、崑崙山脈から湧き出した清流が白玉川(ユルカンシュ)と黒玉川(カラカンシュ)という二本の川となってコタンの東西を流れ、その水が「大地の乳」なのだそうです。言い伝えによれば、コタンの町の近くにはアルティンタックと呼ばれる純金の山があり、無尽蔵の金が掘り出されていたといいます。さらに白玉川と黒玉川の両川からは、玻璃や瑠璃など玉が豊富に採れたともいいます。ラピスラズリの産地は、アフガニスタンの奥地、バダクシャンです。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回った人々は、BC4500年頃には東シベリアの銅や錫鉱石を採掘していた可能性が高く、それらの銅や錫は、メソポタミアまで運ばれていました。 これらの銅や錫鉱石、ラピスラズリをメソポタミアに運んだ鉱山技術に優れた人々が月氏=サカ族でした。彼らはイラン高原東部からバクトリア、ソグディアナ及び西北インドにかけてサカスタン王国を建てています。アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国に滅ぼされた後のことでサカスタンは(サカ人の国)はペルシアの一部を引き継ぎました。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回ったウルの人々が、文明の十字路クスターナを根拠に拡がっていったと考えられます。倭人には、北方性と南方性がありますが、南方性は弥生農民の文化です。倭人は、カルデラ人を中心とする南セム族であったのですが、バクトリア南部のシスターン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族はペルシアのキュロスの時、降伏して、ヒスタスペスの支配を受け、後ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。蘇我氏と、その一族が目指した方向というのは、仏教中心の政治でしたが、それは中国のものではなく、より西アジア的なものでゾロアスター教というより、もっと根源的なミトラ教的宇宙観でした。ミトラ教は、メソポタミアからペルシア、ユーラシア全域に広がった太陽信仰・光明信仰でした。北メソポタミアの王国ミタンニがミトラ国という意味であり、ヒッタイト王国の王室も「聖なるミトラ」と名付けられ、日本の天皇も宇宙を統べる皇帝すなわち「ミトラの皇帝」と意味する『スメラミコト』と称される。ミトラは古代ペルシア語の一部の方言でミシアと呼ばれましたが、それがメシアとなりました。フリーメーソンの起源もミトラであり、弥勒菩薩もそうです。それに加えて鳥のシンボリズムもあります。蘇我氏のルーツサカ族は、アケメネス朝ペルシアがパルティア帝国によって滅ぼされた後、ペルシアの一部を引き継ぎ、イラン高原東部からバクトリア、ソクディアナおよび西北インドにかけてサカスタン王国を建てました。パルティアは470年ほども存続した巨大帝国でしたが、世界史上あまり知られていません。ペルシア帝国と同様、ミトラを国教とし、皇帝の名もミトラからとっています。パルティアを中国では安息国と呼びアンソクまたはアンキと発音しましたがそれが元来アサカ(アスカ)であったようで、日本の飛鳥につながります。シスターンに出来たサカスタン王国は、そのパルティアから、より宗教的に強い主張を持って【独立】した勢力でした。やがて彼らは東に移っていったのですが、シスターンに遺した彼らの貴金属の透かし彫りの技術は美しく精巧で学者の関心を惹いています。
2008/01/26
氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期がありました。ヤンガー・ドライアス事件と呼ばれている現象です。北アメリカにあった巨大な氷河湖(氷河が溶けて出来た水が堰き止められて形成された湖)が崩壊して、大量の淡水が一気に海に流れ込んだ結果、海流が乱されて地球規模の熱の移動が滞ったのです。中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために農業技術が進歩したと考えられています。 人類は地球が温暖化すると知的停滞し寒冷期の方が前頭葉が進化するようです。現人類の祖、ホモ・サピエンスも寒冷化・乾燥化した時期に獲物を求めて、アフリカから西アジアやインドに進出しています。最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部のナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。 さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見しその銅を加工する高温技術を発明したと思われます。アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に高地農耕が進みます。ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)から南下してきたと考えられます。 やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し、一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まり、それは、めざましい成長を遂げるのです。古代メソポタミアで重宝された石にラピスラズリという石があります。瑠璃色のきれいな石ですが、この石を原産地のアフガニスタン北東部からメソポタミアに運ぶ道が【ラピスラズリの道】と呼ばれています。フェルメールの『真珠の耳飾の少女』の絵画で使われた鮮やかな青、ヒヤシンス・ブルーともいわれる顔料のラピスラズリーです。その【ラピスラズリ】の道は、ラピスラズリのほかにも金・銀といった貴金属が運ばれたようです。この道は、トランス・エラム文明と呼ばれるイラン高原に存在した商人都市の交易ネットワークであり、このネットワークに連なる形でインダス文明や海上ルート上にペルシャ湾岸の古代交易都市が開発されていったようです。この文明は、スーサを首都に置き、メソポタミア文明から穀物を輸入し、東方で採掘した鉱物を輸出していたようです。これを原エラム文明と呼びます。ところが、紀元前27世紀の末、シュメール人の都市国家の一つであるキシュに首都のスーサを奪われてしまい、エラム文明は、首都を奥地のシャハダードに移転します。新しいエラム文明は、メソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求めインダス川流域に、新しい文明を現地人に作らせたと考えられます。事実、メソポタミアの特産品であるクロライト製容器が、インダス川河口付近の湾岸やモエンジョ・ダロ遺跡の下層から見つかっています。このことは、インダス文明成立以前にトランス・エラム文明の商人がインダス川流域を訪れ、交易を行ったことを示唆しています。物資を運ぶには、陸路を通るよりも、河川や海などの水路を使う方が便利です。そのため、やがてトランス・エラム文明は、バーレーン島に進出し、水路ネットワークを活用するようになりました。陸路が衰退することで、インダス文明は最盛期を迎えます。メソポタミアのすぐ近くに興った交易都市スーサ(原エラム文明) → そこからイラン高原の都市シャハダード(トランス・エラム文明) → そして海上のウンム・アン・ナール島(ウンム・アン・ナール文明)へ商人の拠点を移動していきます。 インダス文明は、この商人都市の穀倉地帯としてトランス・エラムの商人によって開発されその際に、現地の原住民、ドラビィダ人を使役したようです。純朴で勤勉な原住民のドラヴィダ人を教育して組織化し、高度な支配体制によってメソポタミアへ輸出する製品ための工房都市として機能させたのがイラン高原一帯に拡がったエラム文明であり、インダス文明だったのではないでしょうか。興味深いのは、エラム文明~インダス文明が繁栄した、この一帯は後々の歴史に、物質的にも精神的にも影響を及ぼしていることです。様々な民族が混在した十字路であり、豊かな河川、水路想像を超える精神性が此処には繁栄していたと感じられます。太陽神・ミトラ・・・シリウス、古代の人々の深い想いに届きたいと思うのです。
2008/01/24
BC8000年頃、人類は、パレスチナのカルメル山からパレスチナのイェリコの周辺で最初の栽培農業の生活に入りました。しかし、本格的な文明時代に入るのはBC3000年頃、その間の5000年間は人類が、農業社会を守る有効な武器を求めて、地球上をさ迷っていた時間です。銅を求めて、現在の常識では想像を絶するほど遠方へ出掛けていたと思われます。5000年間は、人類が、銅という金属をコントロールする火の技術を身につけるために必要だった2000年間と、銅を広範囲な地域からメソポタミアに集積するのに必要だった3000年間の合計になります。 金や銀は、銅の集積の過程から生み出されました。古代、金の生産地は偏っていました。エジプトのナイル川に集中していたのです。そして長い間、人類は、エジプトの金を奪うほどの政治権力を、エジプト以外の地域に作り出すことができませんでした。エジプトやその上流のヌビアで生産された金は数千年にわたって、エジプトに蓄積されたままでした。
2008/01/23
メソポタミアに発生した世界でもっとも古い文明の一つの起源がアナトリアからシリアにかけてのタウルス山脈周辺地域からチグリス・ユーフラテス両河沿いに南に下って来た人たちであることはかなり可能性が高い。この人々をウル人とします。ウル人は、牛頭信仰を持つ人たちでした。その痕跡はメソポタミアに存在します。そして、BC3000年頃クレタへやってきた人たちは、メソポタミアのウルを離れてやってきた可能性があります。クレタには、牛信仰の痕跡があるのです。
2008/01/23
最近、母は神経が疲れています。見かけは、驚くほど若いけれど、やはり老いてきたせいか取り越し苦労が多く、ささいなことでも心配が耐えない様子。そんな母をホッとさせるものはないかと・・・考えていると与勇輝さんの作る人形が頭に浮かびました。人形好きな母のこと、愛らしい、あの子達が側にいたら心が和むのではないか残念ながら与勇輝さんの人形は売ってはいない。売っていたら私もほしいところ。自分で作るにしても難し過ぎる。母には早く元気になってもらいたい。
2008/01/22
昨夜は、友人との新年会、まったりと和みました。飲めないけど、酔う人と同レベルに盛り上がれるので実に愉快でした。一杯ぐらいはと、柚子の香りの甘めのカクテル、これは美味しかった。二杯目からは、ウーロン茶。あとは料理をパクパク。実は、昨日、ソファーが届いて、どうやってもリビングに入らず、四苦八苦していて新年会の時間が迫ってきたので、ドアの前にデ~ンと置きっぱなしで外出したのでした。翌朝の今も、まだ、ドアの前に立っております。アイボリー・カラーの素敵な奴なんですが押しても引いても、廻しても、今一つ入らない。けれど、きっと入るだろうと何の根拠もなしに楽観しとります。ひとまず、お茶飲んで、ゆっくり のんびり 気長に部屋に呼び込もうと思っています。このところカントリー調のダイニングセットを購入したり、暮らし向きの変化を図っていて、心機一転新しい気分を取り入れています。庭も少しづつ耕して、野菜やハーブを植えてと、ちょっとは芽生えてきた気力をつかまえて進みたいなと。ゆる~い スローライフではあるけれど。
2008/01/19
カシート王朝から月氏王国、クシャン朝からサカ族~蘇我王朝につながる人々は交易においても重要な役割を担いました。中東は文明の十字路でした。数多の民族があらゆる方向からやって来て相争い、王朝を立てては滅んでいきました。「ムー」という雑誌の1999年12月号に「シャンバラ伝承と謎の古代文明クスターナ」という記事が出ています。シャンバラはシャングリラー。理想郷という意味です。またクスターナは、梵語で「大地の乳」を意味する言葉で、その後、クスタン、コタンと変化し、現在の新疆ウイグル自治区の町、ホータンだといいます。「ムー」の記事によれば、崑崙山脈から湧き出した清流が白玉川(ユルカンシュ)と黒玉川(カラカンシュ)という二本の川となってコタンの東西を流れ、その水が「大地の乳」なのだそうです。言い伝えによれば、コタンの町の近くにはアルティンタックと呼ばれる純金の山があり、無尽蔵の金が掘り出されていたといいます。さらに白玉川と黒玉川の両川からは、玻璃や瑠璃など玉が豊富に採れたともいいます。ラピスラズリの産地は、アフガニスタンの奥地、バダクシャンです。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回った人々は、BC4500年頃には東シベリアの銅や錫鉱石を採掘していた可能性が高く、それらの銅や錫は、メソポタミアまで運ばれていました。 これらの銅や錫鉱石、ラピスラズリをメソポタミアに運んだ鉱山技術に優れた人々が月氏=サカ族でした。彼らはイラン高原東部からバクトリア、ソグディアナ及び西北インドにかけてサカスタン王国を建てています。アケメネス朝ペリシアがパルティア帝国に滅ぼされた後のことでサカスタンは(サカ人の国)はペルシアの一部を引き継ぎました。BC6000年頃から世界中に銅資源を求めて探し回ったウルの人々が、文明の十字路クスターナを根拠に拡がっていったと考えられます。倭人には、北方性と南方性がありますが、南方性は弥生農民の文化です。倭人は、カルデラ人を中心とする南セム族であったのですが、バクトリア南部のシスターン(サカスターン)地域では既にサカ族の名になっていて、この地のサカ族はペルシアのキュロスの時、降伏して、ヒスタスペスの支配を受け、後ペルシア王統が乱れた時、ヒスタスペスの子がダリウス一世となっています。
2008/01/15
古代の世界をマクロの視野から展望すると、新石器時代から青銅器・鉄器時代に渡って、きわめて特殊な文化の型が大きく地球上を一周していることに気づきます。この文化は、日神・月神を祖神とする多神教、巨石像あるいはストーン・ヘッジなどの巨石建造物、卍の紋章を神聖なる護符とする民族もしくは種族によって生まれたものです。そのルーツはエジプトの古代文化でありピラミッドは、これらを代表し、祭祀あるいは埋葬などの宗教的行事のために造られたとされます。
2008/01/14
人類が文明を発生した、きっかけは、安定した農業社会の成立のためでした。BC8000年頃イスラエルのイェリコで誕生した定着農業が、平和な1000年の時を経た後、敵から襲撃に遭い、アナトリアに武器を探しにいって自然銅を発見したことから文明が始まったと考えられます。銅を加工するために高温火力の技術が発明され、さらに原料の銅を探しに世界の山へ散っていったと考えられます。一方、イエリコからアナトリアへと農業が伝わり、さらに大規模な農業をとメソポタミアへと移動する人々もいたようです。やがて王国を築くまでに大規模農業と発展したメソポタミアは、採鉱師となった遊牧民にとって高価な交易相手になりました。それにしたがって、記録のための文字が必要になりスタンプも作られていったと考えられます。こうした歴史のなかで重要なポイントは、文明が銅の長距離交易の中から生まれたという点です。 この観点から文明の発生に関連して古代アナトリアの果たした役割は、かなり重要だと思います。メソポタミア文明にしても、エジプト文明にしても、それぞれの地域の内部だけで個々に発展していったとは考えにくい。お互いに関連し、交易、人類の移動によって繋がって発展していったと考えています。黄河文明も同様です。イェリコで誕生した定着農業が、大規模農業へ発展するためには、1.広大なるメソポタミアの土地を発見する必要があった。2.外部からの攻撃に曝されやすい平地で安全に暮らすためには、大量の銅の武器の蓄積が 必要だった。メソポタミアにもっとも近い山、ザクロス山脈は、水成岩地帯であるので銅を産しない。 従って、もっとも古い時代、メソポタミアに銅を供給したのは、火山を含むアナトリアであった可能性が高い。そのアナトリアのチャタルフユィックの博物館に今も大きな牛頭が展示してあるといいます。それは何を示すのでしょう。シュメール語で牛はウルと言います。そして牛頭信仰がアナトリアを起源に世界中、四方に散っていることに驚き、感動を覚えます。牛の頭に対する信仰、「牛頭信仰」は、その後の人類の歴史の中に系譜が遡れます。私達日本国のスサノオのミコトは牛頭大王という別名をもっていますし牛頭天王というのが古代天竺(インド)に居て、釈尊の教国の僧坊である祇園精舎の守護神だったといいます。文明の流れは、アナトリアから北シリアを経てメソポタミア南部へ流れそして古代メソポタミアのウル人あるいはシュメール人が、インドを経て東方へ移動した可能性が高いと考えられます。メソポタミアのウル人はアッカドが滅びた時、サルゴン王に追従してインドに侵入し月氏になりウラルトゥの連合隊に加わり、そしてサカ族となってウガヤ王朝の中心的存在になり、日本に渡来して蘇我氏になったと考えられます。古代シュメールのアンという神が重要な存在として浮かび上がってきます。アンは、すべての神の父である。BC2300年からBC2000年までのシュメールとアッカドの混在時代には、アンは、子供のエンリル、孫のエンキとともに、神々の頂点のトタイアド(三本柱)を構成しました。シュメールが消えたBC2000年以後は、アカドの神のトライアドは、アヌとベル、そしてエアに変わっています。つまり、エンリルとエンキはシュメールとともに消え失せたが、アンだけは、発音が少々変わっただけで生き延びたのです。アンの重要性がよく分かります。アンの名はBC2400年頃の粘土板文書まで遡れるといいますが、起源はさらに古いらしい。アンの名は、空を意味しますが、本源的には「大きな牛」としてイメージされていたらしい。あるいは、大きな牛頭だったのではないか。ともかく、アンは、「ウルのアン」換言すればウラノスとして、ギリシアまで伝わっています。牛の頭は、文明のメイン・ストリームの最高神だった可能性が高いのです。
2008/01/14
ずっと ずっと 気になっていることがあります。メソポタミア文明以前の人類のこと。何度も書いたことですが、現在のトルコあたりから人類の文明は始まったと考えられその辺の歴史を解明したい思いが常にあります。元々は、 パレスチナを中心に農業がはじまり、それがBC1万8000年頃からBC7000年頃まで「継続的」に発展してきたことが解かっています。BC7000年に何があったか分かりませんがパレスチナは衰退し文明はアナトリアに移行しここで自然銅の発見により、さらに銅の採集のために人類は世界へ散っていったと考えられます。私が気になるのは、アナトリアでの黒曜石採掘の民族の分布です。アナトリアは黒曜石の原産地ですが、大きく分けて二つあり一つはキズル・イルマク川の南岸のカッパドキア周辺またもう一つは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯です。--------------------------------------------------------------------------さらに詳しく見ると、カッパドキア系の黒曜石にも二系統ありチフトリックとアシゴルに分かれます。両者は数十キロメートルしか離れていませんがチフトリック産の黒曜石は、キプロス島の南部、死海の南、アナトリアのチャタルフュイック、メルシンなどの地域で発見されていますが、これらの地域では、別の産地の黒曜石と混在しています。チフトリック産の黒曜石は、アナトリアでは余り発見されず、もっぱらイェリコを初めヨルダン川流域で発見されていることから、チフトリックは、イェリコを中心としたパレスティナ系の人々によって開発された可能性が高い。アシゴル産のオブシディアンの分布はチャタルフュイック、およびその西方、ハシラーに至る地域でのみ発見されています。興味深い点は、チャタルフュイックからチフトリック産とアシゴル産の両方の黒曜石が半々発見されていることです。 --------------------------------------------------------------------------一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あります。しかし、とくに重要なのはヴァン湖の西岸のネムルト・ダグとスファン・ダグです。これらの黒曜石はチグリス川およびその支流地域を中心に、ユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心です。しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲に混在しています。それは、パレスティナとチャタルフュイックを中心としたアナトリアの一部です。この場合、どんな推理ができるのでしょう。 初めて農業に着手したイエリコを中心としたパレスティナ人の社会に、次第にライバルが現れるようになったのでしょうか。そこで彼らは、カッパドキアまで出掛けて行き、黒曜石を採取し武装することを余儀なくされた。この段階で、アナトリアへ農業技術が伝わったのでしょうか。パレスティナ文明圏はアナトリアまで範囲を広げ、その中からチャタルフュイックが発展してくる。しかし、やがて、ヴァン湖の黒曜石が開発されるようになる。どうやら、それは、パレスティナ系とは別系統の人種によって行なわれた? 彼らは、だんだんとパレスティナ系を圧倒していった。チャタルフュイックは最初チフトリック産の黒曜石を開発したパレスティナ系の人々が 住み着いたが、後になってアシゴル産の黒曜石の利用者が取って代った。分布の地域性からして、ヴァン湖地域の黒曜石が、ハスナ期以降の北メソポタミアの興隆に密接に関係していたと考えられます。ここで重要なのは、ヴァン湖周辺といえば、我々のルーツウラルトゥ=フツリ人の故地だということです。チャタルフュイックは、BC6850年頃からBC6300年頃まで人間が住み着いていたといいます。自然銅を拾い始めるとすると、川の少ないアナトリア高原よりも、支流の多いチグリス川流域の魅力が増します。この流れで考えると、北メソポタミアに現れたもっとも古い土器文明、ハスナが現在の北イラクのモスル周辺に位置している点が興味深い。原ハスナから発展したと考えられるサマラ期の文明がBC6300年頃からBC6100年頃ですからハスナ期はもう少し古く、チャタルフュイックがまだ存在していた時代に起源を持っていると考えられます。あるいは、ハスナ期には、チャタルフュイックの出店的存在だった北メソポタミアがその後サマラ期になると、なんらかの理由で、本部のチャタルフュイックの勢力が全体として移動してきて、アナトリアを空洞化するとともに、メソポタミア文明の原動力になったのではないか。イェリコからチャタルフュイックへ、そしてメソポタミアへと、文明の継続性は保たれていたのです。そこで農耕をする人々と農耕をしないで採鉱をし運搬をする人々に分かれるのです。採鉱をする人々は遊牧民族となり農耕する人々との交易が始まり海に陸へと商人になって大きく貿易が発展して彼らは移動していったのです。その出発点がアナトリアだったことは間違いないように思います。お正月に、友人がトルコに行ってきたと聞いたので、彼女からの情報も待たれます。
2008/01/13
君がため春の野に出て若菜摘む わが衣手にゆきはふりつつ早いもので、もう七草ですね。なずな七草 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草すすり ストトントントン ホーイホイホイと歌いながらそれぞれ7回ずつあわせて49回......と唄いながら包丁で葉をたたき、きざんで粥にするそうです。唐土の鳥は、ツバメのことで、ツバメが渡ってくる4月頃になるとナズナが果期に入り葉がほとんどなくなって食べられなくなることからナズナのおいしい季節はツバメが南の国から渡ってくるまでであるという意味だそうです。古代、遊牧民は、一月七日は、家畜を大切にする思いからその日は、殺すことを避け、占いの日ともされ7日は人の刑の執行はされない日としていました。
2008/01/07
祇園社の祭神が「牛頭天王」であることからも明らかなように、同じ「牛頭天王」に関わる熊野の修験に関係するからです。また祇園社の牛頭天王は陰陽道とも不可分の存在で、安倍晴明が著したと言われる「金烏玉兎集」にもその名が現れています。なお祇園の神輿が進む時、前駈けをするのも犬神人です。「清水坂の西に住み感神院に属している犬神人は、弓矢と弓弦を作っているので弦指(つるさし)と呼ばれています。「犬」が弓弦の材料である「麻苧」と関係すること犬が疫神や牛に関係すること、また犬神人の祖先は疫神である牛頭天王の連れていた犬だったなどという伝承、小児の額に朱で「犬」の字を書くという民間伝承があります。ところで、現在の祇園祭の山鉾のなかには役小角や山伏の山が加わっていて今でもその山は本山派の修験が祈祷するのが慣例となっています。
2008/01/06
北九州豊日国の国東半島には製鉄所があり、この遺跡には多量のトーテツ文様の青銅器の破片があったといいます。鉄滓の量が2~3万トンと、殷周の鉄器を全てこの地で作る能力をそなえていました。これが約3100年前、タルシシ船の船長エビス王家のクルタシロス1世を初代王として渡来してきたフェニキア人(エブス人の子孫)の製鉄所でした。その精錬方法は『旧約聖書』に「鉄は赤土からとる」とあるタタラ製鉄で神武以前にあった日本最古の『天の王朝』です。宇佐八幡宮は、エビス王家を「クルタシロス神」として祀る東表国(天の王朝)の王家のお社です。その建国の歴史を伝える宇佐八幡宮の秘儀が放生会として3000年以上も連綿と今も続けられているのです。朝鮮半島南部の金官加羅(駕洛国)は、この東表国(豊日国)の分国、新羅は金官加羅の分国でした。金官加羅の滅亡後は安羅が豊国を支配したといいます。宇佐八幡に伝わる一座経は犬神バンコと蛇神トウビョウの祭儀を伝えています。犬神信仰は原ユダヤ教で物部氏が奉じたといいます。「犬神」は九州、山陽をはじめ四国にその伝承があり、「蛇神」を犬神の仲間とみています。これは宇佐八幡自身が蛇神と犬神、両方を奉っていることに関係すると思います。蛇のトーテムはヒッタイト、犬はクメール族のトーテムです。クメール族は日本書紀には『大来目(おおくめ)』と書かれていて、物部族のことでソロモンの子孫、ユダヤ人です。バンコ神話は犬神といわれる人々の間に伝わる八幡の教義だそうです。ユダヤといえば祇園社の祭神が「牛頭天王」であることからも明らかなように、同じ「牛頭天王」に関わる熊野の修験に関係します。犬神人は、ユダヤ人ゆかりの神社に仕え、あらゆる下働きをする人々のようです。また祇園社の牛頭天王は陰陽道とも不可分の存在で、安倍晴明が著したと言われる「金烏玉兎集」にもその名が現れています。なお祇園の神輿が進む時、前駈けをするのも犬神人です。「清水坂の西に住み感神院に属している犬神人は、弓矢と弓弦を作っているので弦指(つるさし)と呼ばれています。「犬」が弓弦の材料である「麻苧」と関係すること犬が疫神や牛に関係すること、また犬神人の祖先は疫神である牛頭天王の連れていた犬だったなどという伝承、小児の額に朱で「犬」の字を書くという民間伝承があります。ところで、現在の祇園祭の山鉾のなかには役小角や山伏の山が加わっていて今でもその山は本山派の修験が祈祷するのが慣例となっています。
2008/01/06
『しゃばけ』最高!!入院している間に、友人が私の好みそうな番組を録画してくれたビデオを観ました。『がばいばあちゃん』は、まだブームになる前に昔『徹子の部屋』に洋七さんが語った時から好きで映画も観にいったので嬉しかったけれどその後に録画されていた奇想天外な『しゃばけ』には圧倒されました。妖しく美しく面白く、惹き込まれました。久々に大ヒットです。友人に激しく感謝しました。さっそく原作を買いにいきましょう。犬神とか歴史にもふれることありますし。
2008/01/06
日本人のルーツを辿って、ウラルトゥ→扶余国→辰国→ウガヤ王朝まできましたがその人々の支配層は、やはりシュメール人だったようです。古代日本列島を『秋州島アキシマ』といいました。シュメール人の島という意味です。『阿キ』は、シュメール語のunnkiでウルを意味し、ウルの先住民を指すのでシュメール人のことです。またウルは牛という意味でもありました。1961年アナトリア南部のコンヤ市南東の丘で、チャタルヒュユクの遺跡が発見されてBC6500年以降のもの解りましたが、この人々は牛神崇拝の信仰をもっていたらしい。牛神信仰は、この後オリエント全域に広がり、クレタ島でも行なわれ、さらにマガンとインダスにも行なわれました。蛇神が河水農耕民の神であり、水の神であるのに対して牛神は牧畜民の神であり、火の神でした。ウルクでは牛は神々の獣として登場しウルク王ギルガメッシュとエンキドウが天上の雄牛と戦って殺したという神話があり同じような神話がミケネにもあります。これらの神話は古代バビロンに於いて農民の蛇トーテム族と遊牧民の牛トーテム族とが戦っていたことを示しています。
2008/01/05
BC86年、北扶余前期王朝と合体した穢族(マラ族とメルッハ族の連合勢力)が強くなり北扶余後期王朝を建てたため、ウガヤ46代(もとウラルトゥ)解夫ルが追われて北沃阻・エゾの地へ移動し、東扶余国を建て、その王として座位しました。この時、奇子朝鮮と同行していた猿田彦(世襲名)らのユダヤ北朝系ガド族は本隊と分かれて別行動をとり、【銅鐸文化】を持って日本海寄りに南下して対馬へ移動し、さらに北九州糸島半島に上陸して伊勢国(イスラエル人の王国)を建てました。これは現在『平原王墓遺跡』によって証明されます。
2008/01/05

近頃、健康のためにも野菜料理ばかり作って食べています。時々、玄関先にいっぱい野菜が置いてあって農家の親戚の人の心配りだと感謝しています。もともと野菜は好きなので煮たり、 スープにしたり、サラダやお浸しにしてベーグルに玉ねぎ、とけるチーズを挟んでオーブン・トースターで加熱しあとからレタスをいっぱい挟み、熱い紅茶とランチに食べるのも格別。野菜ってだいすき。今日も白菜と大根が玄関ポーチに置いてあったので、さっそく何を作ろうかな友人に柚子をたくさん戴いたので、大根と柚子の酢のもの・・・とかいいかもしれない。変わったレシピをみつけた。「レモンスープ」。これは少量のお米をスープストックの中でゆっくり煮て、レモンの皮のすりおろしとレモンジュースと卵黄、サワークリームで味付けるスープ。レシピでは、柔らかくなったお米は裏ごし、お米の粒々感が好きな人は、そのままでも。「冷やしてレモン皮一個分を上にちらしてパプリカを少々振りかける」冷たい酸っぱいスープになるでしょう。冬は温かいスープでもいいかもしれない。
2008/01/04
箕子朝鮮が滅び、箕子王・卓が辰国に亡命したため、辰国の王族・穢族は卓に国を譲り北扶余と合体しました。北扶余はウラルトゥ王朝、中国史では伯族の王朝でこれを前期王朝とし、後期王朝は穢国の東明王を始めとする伯族と穢国の合体史とする北扶余後期王朝となりました。そして、AD元年、北扶余の穢王(河南省南陽の製鉄部族・宛の徐氏)の知将陝父(きょうふ・インド16王国時代の王族・陝野侯はい幣命の後商)が高句麗の首都・卒本(吉林省集安市)から亡命し、日本海寄りに南下して北九州に上陸しました。彼は既存勢力の旧伊勢国や大国主命(秦人・ユダヤ)の倭奴国に遠慮して阿蘇山系に至り、さらに白川流域を下って熊本に多婆羅国を建てました。この多婆羅国は、この後、朝鮮半島南部に逆上陸して分国の多羅国を建てますが、この建国を直接担当したのは扶余族のウラルトゥ人(ウガヤ王朝の人々)でした。その旧多羅国が成長して百済国となるのですが百済国・初代王仇首=神武の系譜が、やがて天皇家につながっていくことになるのです。
2008/01/04
扶余には、シルクロード(北方ステップ路)系の前期王朝とインド経由で河南省の宛に入り、そこから満州にきた南海系の後期王朝がありました。前期王朝はシルクロードの西方でウラルトゥ国を建てアッシリアやスキタイに追われキンメリ人やチュルク人と共にバクトリアに逃れ、さらに華北に移動し、ここで秦に伐たれたため、満州に入って扶余国の前期王朝を建てました。そして穢王アグリイサトが扶余と合体して、自ら東明王となって後期王朝を建てました。この時、前期王朝は東扶余に移り、後に扶台、仇台(神武)などの王が誕生します。
2008/01/03
奇子(箕子)朝鮮は衛子朝鮮によって滅びた後、奇子朝鮮の上将で月支生まれである卓が一族を率い馬韓に逃れ、共立されて辰王となり、楽浪郡月支(平壌)に辰国(中馬韓)を建てました。 この時、辰王卓と行動を伴にしていた秦の亡命者(失われた10部族)の内、8部族も南下して慶州に馬韓の分国を建て、辰韓または秦韓としました。BC86年、辰王卓は、倭の第一王朝、東表国から鳥栖・背振の地を譲られて、その地に倭奴国を建てました。倭奴はワドと読み、フェニキア人の一派のアルワド族のことです。
2008/01/02

あけまして おめでとうございますさわやかに晴れた元旦、今年は、きっと好い年になることでしょう。平和を祈ります。 また 一年 好きな 歴史の本を 整理しながら 綴っていきます。どうぞよろしくお願いします
2008/01/01
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