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今年は出雲大社・伊勢神宮の史上初、ダブル式年遷宮。 皇室の氏神である伊勢神宮には謎が多いです。伊勢神宮は元から今の場所にあったわけではなく「太陽神」である「天照大神」は東から西に天を巡る性質があるので太古の「天照大神」は日本各地を巡っていたそうです。それが三重県 伊勢市を最後に動かなくなってしまいました。20年に一度の遷宮は「巡る宮」の名残り、社殿だけ移して「巡った」ことにしてしまおうという策だったのでしょうか。 地球から見た場合、太陽は常に移動をしています。公転によっても自転によっても太陽と地球の関係は変わります。この「太陽は常に動く」ということが太古の学問としてあり、それに合わせるようなかたちで宮は移動をしていたと思われます。そして「旧事本紀」に「天照大神」を祀ったのは伊雑宮が最初であり、皇大神宮の内宮・外宮よりも社格を上にするとハッキリ記述されていたので1681年、皇大神宮の神官は激昂し、「旧事本紀」は発禁、伊雑宮の神官は流罪されました。 これはガド族+神武 VS シメオン族+エブス加羅国の古代史と重なります。 すべては秦始皇帝による焚書坑儒・儒者弾圧に始まります。 BC213年、秦始皇帝に焚書坑儒された孔子・孟子の子孫、ガド族は、燕王公孫氏(南朝系イッサカル族)の一部勢力と連合して移動開始します。BC86年朝鮮半島を南下して対馬に至り天照神社を祀り、対馬から船出して糸島半島へ移動して吉武高木に【旧伊勢国】を建て、金属製造所をつくり鉄鐸・銅鐸文化圏を創始します。猿田彦2世は日代宮を平原王墓(遺跡)に築き八咫鏡ほか神鏡・鉄剣・勾玉などの【三種神器】を奉納しました。BC74年、辰韓(秦韓)にいた秦の 始皇帝の子孫、シメオン族らは、鳥栖と吉野ヶ里の地に委奴国を建てました。 委奴国の王はシメオン族々長の大国主命であり、弟のグループは日本海側の敦賀に上陸して奈良盆地に入り、大和(奈良盆地)にユダヤ人亡命者のコロニーがつくられました。さらに、この時、ユダヤ人亡命者集団の先遺隊は関東地方にまで進出して、利根川河口付近にコロニーをつくったのです。 147年、後漢に圧された高句麗が委奴国および東表国を攻撃しました。当時の東表国(エブス王朝)は、朝鮮半島の金官加羅国とワンセットの文化圏とする海人族の千年続く【天の王朝】で、委奴国は同盟国でした。これより、東表国は、 高句麗と敵対関係になり東アジアの覇権を競う【倭の大乱】が始まりました。 163年、東表国エビス王海部知男命は、シメオン族倭奴国大国主命と連合して高句麗と同盟していたガド族猿田彦らの旧伊勢国を攻撃し、吉武高木・平原遺跡および太陽神殿を破壊して古墳内の超大型青銅鏡を悉く破砕しました。 大国主命に神聖な神殿を壊され、旧伊勢国(筑紫国)を奪われた猿田彦5世らは二手に分かれて亡命移動しましたが、その一隊は、日本海沿いに北上して山陰地方の島根県に至り、同族ガド族の先遺隊であった牛頭天王(スサノオノ命)のガド族とイッサカル族の連合移民団リーダー【出雲王朝】へ参入しました。次に、別働隊の遺民は瀬戸内海を東遷する途中、海沿いの各地には、旧伊勢国遺民の一部ずつ割いてコロニーを作り、香川県の森広遺跡・奈良県三輪山の日代宮遺跡・大阪府の利倉遺跡と池上遺跡に鉄鐸・銅鐸遺跡を残し、周防灘の徳山湾(遠石八幡宮の地)にコロニーを作り、楊井水道の大畠瀬戸に至り、旧伊勢の日代宮(御神体は八咫鏡)を遷社して柳井市に【天照神社】を建てました。瀬戸の浜辺に【磯の神】を祀る石上神社を建て、その元宮として旧い周芳神社(柳井市日積の諏訪神社)が再建されましたが、この天照大神(内宮)の神霊は、のちに志摩半島の伊雑宮(伊佐和宮)に遷社されています。中国・四国・近畿にやって来て各地に彼らのコロニーを作り、さらに紀州・熊野に移動して伊国を建て、志摩半島に移動して新伊勢国(伊雑宮・伊勢神宮の元宮)を建てました。奈良大和にも約1300人が移動して鮭文化圏を整え、東テイ国(纏向遺跡が中心)を建てています。ガド族と連合していたイッサカル族は、三輪山を中心に定着しました。筑紫の三輪(福岡県朝倉郡三輪町)から移ってきた三輪氏などであり、彼らが祭祀を担いました。なお、纏向の太田地区などには大田氏系の先祖も居住しました。連合していたゼブルン族は、葛城などに定着しました(葛城氏など)5代目猿田彦の弟の系列が建国した東テイ国(奈良)と地方との交通・交易の状況は、東テイ国(当時の奈良盆地・鮭文化の国)の出土品によって東海・北陸・山陰・河内・吉備・関東・近江・瀬戸内海・播磨・紀伊と交易がされていたことが解っています。東テイ国は鉄鐸・銅鐸文化で、水と火の祭りが三輪山を中心に行われていました。三輪山は、縄文・弥生時代から旧い御神体で、本殿がありません。縄文港川人や弥生苗族人の蛇信仰に彩られた【鉄と水稲】文化を育む聖山です。 しかし、これらガド族の神殿は、のちに神武勢力に敗れ、亡命・東遷した時シメオン族によって、徹底的に破壊されました。210年、扶余王ケイ須(神武)が南下を始め、九州博多に上陸して橋頭堡を築きました。橋頭堡を守るためと、約50年前(163年)に旧伊勢国を追われたガド族猿田彦らの仇を討つため、大国主命(シメオン族)たちの委奴国を攻めました。神武らに敗れたシメオン族の土師氏らは博多湾志賀島から乗船して出雲へ逃れ、先住していた猿田彦らのガド族及びイッサカル族を駆逐して新しい出雲王朝を建てました。土師氏らは新しい四本柱の大社を建て、その祭神を大国主命とし、併せて八百万の神々(ユダヤ12部族の神々+倭王たちの氏神)を祀りました。熊野山中には100キロメートルにも及ぶ石垣が存在しますが、これはガド族がシメオン族との戦いに備えて築いたものです。やがて秦王国の人々と東表国の人々は相協力して古周芳国および古周芳の石上神社(楊井水道)の領域を占領し、秦王国の分国【周芳国】を作りました。この時、周芳神社(柳井市日積・諏訪神社)の【たたえ祭り】 神事が猿田彦の亡命と共に、縄文人たちの故郷・信濃の諏訪神社へと伝承されそれが今日まで伝わる長野県諏訪神社の【たたえ祭り】になります。伊勢神宮は日本中央構造線の真上に建てられています。このゼロ地盤は地下から磁場、磁気が出ています。人間の身体が70%鉄分ということから、パワースポットに行くと磁化され パワーを頂けるようです。
2013/06/18

日本の天皇家は世界最古の輝かしい歴史を持つ王朝です。オリエントでアッシリア帝国と覇を争い、キンメリ人と連合してシルクロードを東遷したウラルトゥ王朝の末裔であり、後に扶余王となって満州の地に君臨し、ソロモンとシバの女王の子、メネリケの子孫である大物主一族(公孫氏)と同盟して邪馬壱国を建て、さらに百済国を建てました。この陸・南海シルクロードを駆けた壮大な歴史は、【記紀】によって抹殺され、忘却されてしまったのは残念なことです。扶余には、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝とインド経由の穢国・南海系の後期王朝がありました。共に製鉄部族です。箕子朝鮮が滅亡した後、南海系穢族の王アグリイサトは扶余前期王朝に合流しやがて穢族は強力になり扶余後期王朝になり、東明王と称しました。そのため、月氏+ウラルトゥ王朝のシルクロード系の前期王朝は、・エゾの地へ移動し東扶余を建て、その子孫に仇台が出て九州に渡来して神武天皇になりました。残念ですが天皇家は万世一系とは言い難く、幾つもの民族の歴史をつないできたものでした。 天の王朝(東表国・豊日国・金官加羅国) BC800年頃、タルシシ船でコーサラ国を経て九州に東表国(オッフルの植民地)を建てた日本最古の王朝。エビス王クルタシロス(首露王)のエビス王朝ですがクルタはタルシシ船支配者の意味。エビスはエレサレムのエブス人です。エブス人もオッフル人(現ソマリア)も紅海とアラビア海の海人でした。のち邪馬壱国に敗れるまで、九州全域を1000年間支配し、譲った後、朝鮮半島の弁辰地域の金海を飛地として支配し駕洛国・金官加羅といわれ、その王家は金氏と中臣氏になりました。この王家は【記紀】では孝昭、孝安、孝霊、孝元、開花とつづき、後の倭の五王に至ります。この王家から金氏が分離して【新羅】をたてます。ニギハヤヒの多羅王朝この一族は、かつてディルムンを本拠としたシュメール人とカルデラ人の子孫でした。後にソロモンのタルシシ船に参加したヒッタイトの製鉄カーストをも吸収し、アラビア海のヤードゥ族を従えてプール国をたて、ガンジス河口のコーサラ、マガダ両国のシャキイ族となってマレー半島を越え、モン族の地を支配し、ベトナムに文郎国をたて、後に河南省の宛に製鉄コロニーをつくって魏と韓に属していましたが後に、秦に追われて奇子朝鮮をたより、穢国をたてました。穢国王アグリナロシは奇子朝鮮を滅ぼした衛氏朝鮮に復讐するため漢に協力しましたが漢は衛氏を滅ぼすと奇子朝鮮を再興させず、楽浪、玄メンの二群にしてしまい欺かれたアグリナロシは自刃したため、その子アグリイサシは遼東太守を殺害して北扶余前期王朝と合体し、その庶子が王位を奪って北扶余後期王朝をたて東明王と称しました。穢国の王族はシャカ族で国民はチュルク族でした。ニギハヤヒの姓、余の「アグリ」はドラヴィダ族の一派というゴードン族のなかのサブカーストのアガリアという鉄工部族をさします。そして、この一族後期王朝の陝父(ニギハヤヒ)が南下して熊本に多婆羅国をたて後に、神武・卑弥呼の邪馬壱国に吸収されました。 【ウラルトゥの歴史】 カッシート人がウラルトゥ地方に侵入する前から、アナトリアには原ヒッタイト族、カルトヴェリ族ハヤシャ族などが住んでいました。フツリ人はエジプトやカナンから、この地に拡散してきたのですが、ヒッタイト資料は、この地方を【フツリ人の国】と記しています。フツリ人は、BC2000年紀半ばには、ミタンニ王国に従事し、ヒッタイト王シュビルリウマシュ以降はヒッタイト王国に従属していました。ヒッタイト崩壊後、いくつかの少国家がヒッタイトの伝統を継ぎ、重要都市のカルケミシュはハッティ国、オロンテスはハッテナ国となりました。そこに、ヒッタイトのムシュ族やカスカイ族が入ってきたのです。このようにウラルトゥは、当初からミタンニやヒッタイトのフツリ人、カッシート人チュルク人などからなる、いくつかの部族の連合体でありました。カッシート人は月氏になりインドに移ってクル国のなかにも混在しました。従ってウラルトゥとクル国は同族であり従属した同盟者といえるでしょう。約3000年前に、フェニキア人とヒッタイト人の混血によって、ウラルトゥ人が生まれました。この時、ウラルトゥ人によって小アジア(トルコ)のヴァン湖周辺に建国されたのがウラルトゥ王国であり、その初代王となったのが、アマテラス(男神)です。BC1013年、イシンの末期に、フェニキア人のマカン(海の国)がウラルトゥと共にアッシリアと戦いました。その結果、アッシリア王の攻撃でイシン(殷の本国)が滅んだため、番韓のヤードゥは海に浮かんでインドに逃れ、ウラルトゥは、北方ヴァン湖に退き、シャキイ族は、南下して後の穢国になりました。この時、カルデア人は、アッシリア軍に捕らえられていたイシン王族の子叔箕しゃ(ししゅきしゃ)を奪い返し、遥々航海して渤海湾に至り、遼東半島に上陸してその地に国を建て、【奇子朝鮮】と名付けました。BC781年、ウラルトゥ王アルギシュティシュ1世=ウガヤ王朝初代・衰子餘よ(すいしよ)または申侯が、アッシリア王を破ります。同じ頃、ドーソン(銅鼓)文化の拡散始まります。インド太陽王朝のマラ族と月神王朝の連合軍が銅鼓文化を持ってジャワ島、バリー島セレベス島などに入りました。アッシリアを滅ぼしてから300余年を経てBC6、5世紀になるとウラルトゥは二分して匈奴(キンメリ)と連合するものと、ペルシア(秦)に従属するものとになりました。秦は、この後、益々強くなり燕(フェニキア)も強化されたので、奇子朝鮮は、ついに満州に移って大凌河を国境とし河西の地を譲って東遷しました。神武以下の扶余の百済王朝朱蒙は東扶余(北扶余前期王朝)に追われて、北扶余後期王朝(穢国)の陜父らと共に卒本に逃れて高句麗をたて、北扶余を奪って高句麗国をたてました。このために陜父らは九州に亡命し多婆羅国をたてるのです。扶余王家は、167年頃、夫台が高句麗と戦い、その子仇台は、高句麗と和解し高句麗の養子になりその王族と化してケイ須といいました。後に自立し、公孫氏と同盟して、その宗女を娶り、公孫度は逆に扶余の王女を娶りました。公孫氏が南下して帯方郡をたてるとケイ須もその地に至って伯済国をたてた後に百済王仇首といいました。この仇首が伊都国王イワレヒコ・神武であり、その妃、卑弥呼は公孫度の宗女で日向にいました。高句麗は新大王の長子、発岐が公孫氏と同盟し涓奴部を率いて遼東に都したため、三子、延優らは輯安に移って新国をたてました。後に魏によって公孫氏が滅亡した時、発岐一族の旧国は新国に合流しました。扶余王家は仇台、位居、麻余と続き、依慮はその末王であり、百済の近肖古王になって鮮卑の慕容カイに討たれて亡命南下し、伊都国の王、祟神になりました。
2013/06/12

日本最古の王朝、【天の王朝】とは、インド十六王朝の日神系のことです。【東表・豊日国】のことで、朝鮮の狗邪韓国(駕洛国・金官加羅)を飛地としていました。即ち、この王家は北九州を本国として朝鮮半島の弁辰地域を飛地として支配したのです。【東表国】とは元来、東方のオッフル(サマリア)国を表します。サマリアのオッフル国の植民市、九州の豊国、朝鮮南部、金官加羅でありました。東表国の王はエビス王の【クルタシロス】といい、金官加羅の首露王のことですが【クルタシロス】とは、タルシシ船を意味し、【シロス】は、治政者、王を意味しソロモンの製鉄コロニーでありました。ソロモンの父、ダビデが建国した当時エルサレムを支配していたエブス人は、エジプトから撤退した、かつてのヒクソスでヒクソスになる以前はアビシニアでした。アビシニアとは元来【混血者】の意味で日本のエビス(エミシ・夷)もアビシニアの意味です。BC8、7世紀にアビシニア(エブス)人と現在のソマリアにいたオッフル人の植民地が北九州東部の豊国地方の東表国で、駕洛国または金官加羅国にも飛地したのです。金官加羅の王姓は金氏、または中臣氏です。奈勿王の時に独立して新羅を建てその子孫が蘇我氏になります。北宋版【通典】は倭国王師升(しろす)の国を【倭面土国】とし、『釈日本紀解題』は これを【倭面国】としています。 【北倭記】と【桓檀古記】を総合しますと『箕子朝鮮が亡びたとき、その上将卓が馬韓に逃れて、辰韓の王となった。後に東表国(倭面国)エビス王クルタシロスから鳥栖河と背振山脈の間の地を譲られた』箕子朝鮮の上将卓が帯方(月支)に辰国を建て、秦の亡命者(イスラエルの南朝ユダの人々)は、慶州に馬韓の分国をたて辰韓と称しました。この時、箕子朝鮮系の馬韓人に従って渡来した倭人が【北倭】でした。北倭と秦の亡命者は、エビス王から鳥栖河と背振山脈の間の地吉野ヶ里を譲られ倭奴国(秦王国)としますが後に神武と公孫氏に破れ、出雲経由で大和地方に【秦王国】を建てます。鴨緑江の流域に前方後円型古墳の原型が発見されましたが、これは箕子朝鮮の古墳になります。馬韓人に領土を与えたという【東表国王クルタシロス】が【倭面土国王師升】のことです。 このシロス王は駕洛史では金官国の【首露王】になっていますし、新羅史では金氏の祖の首留日本史では孝元天皇になっています。インド史を整理すると、BC1000年にインドは十六王朝の時代となりカッシュ人を中心とする月神王朝とアラビア海の海商を中心とする日神王朝系に分かれていました。BC1500年頃~1200年頃、エブス人たちの海人は、レバノンのアルワドからインドのロータルに移住し、デリーを経てマガダ近くまで移動し、インド十六ヶ国時代、コーサラ国アンガ国などの日神王朝諸国になりました。日神系のなかにはアンガ、コーサラ、マツラなどの諸国がありましたが、アンガ国はソロモン王のタルシシ船の移民の地でありコーサラ国はフェニキアのアルワド人の植民市であり、マツラ国はアラビア海のメルッハ人の国家でした。釈迦は、コーサラ国のなかの王族でした。駕洛国の王は、金首露で、王妃はアウド国の女【許氏】で、【許】がアウド国の別名コーサラを指します。皇統譜のなかの孝昭孝安の実体は東表国、即ち駕洛国の王でした。この人々が天の王朝で、白村江の戦いの後に彼らが賎民化されて【八の民】となるのですが、これはボルネオの八河の民ということで【山海経】では八匹の蛇になっています。記紀神話では八岐の大蛇。マガダの都は、ガヤというところにあって、中国人は、これを加耶と書くのですが、朝鮮半島にできた、そのマガダの人々のコロニーが加羅になります。チャンバをたてたチャム人のコロニーは、ベトナム南部の林邑国に始まってボルネオの八河地帯のバンジェルマシン(耶馬堤国)、それから公孫氏の燕国につながり九州の日向と南朝鮮の咸安になって、ともにアンガ人、チャム人、または安羅人になります。ボルネオのダワヤク族を経由したアッサムのボド族が我が国の山窩になります。ニギハヤヒ命というのは、カーシ国の鉄カーストの王です。オリエントのウルという海商国家が初めで、インド十六王朝の時代にウルのカルデア人やマラ族などの古代の海人たちがガンジス流域でカーシ国という海商国家をたてました。それがマレー半島を経て河南省の宛に入ってきて【宛の徐】氏といわれました。この人々は魏と同盟した製鉄部族ですが、魏が秦に伐たれたため、満州に逃れて穢国をたてました。これがニギハヤヒ王朝です。穢国の王姓はアグリ(余)というのですが扶余、百済もそうです。天皇家も、そういうことになります。中国史では堕羅国とか吐火羅と書きますが、後に河南省南陽の宛という所に移動しさらに朝鮮で穢国をたて、扶余と合体して、その涓奴部(けんぬべ)になった後、熊本と南朝鮮に多羅国または多婆羅国というコロニーをたてています。多羅は多羅加羅とも多婆羅ともいいますが【タタラ(製鉄部族)ノガヤ】ということです。ドヴァラヴァティの王家はサカ族で人民はモン族ですがモン族は、またの名をタライン族といいます。漢字で書けば多羅殷(夷)です。熊本に田原坂があります。♪ 雨は降る降る人馬は濡れる。越すに越されぬ田原坂 ♪ という唄がありますがこの地方には製鉄遺跡がありますから、田原というのは田んぼではなくタタラのことだったのです。【隋書】の阿毎氏というのは、このチャム人のことですが、元来インド洋の海民でもありこの人々がインドシナ、インドネシア、ボルネオなどに基地を持ちました。後にボルネオのバンジャルマシンに倭寇の基地があったのですがここは耶馬堤国で天の王朝の基地でありました。朴・昔・金の人々は、高句麗の故国川王が沖縄を支配しようとして、発岐と同盟したことに抵抗し、後に大隈から日向に侵入し、邪馬壱国を攻伐しました。新羅王家の紋章は【三つ巴】ですが、沖縄の尚王家の紋章も同じ【三つ巴】で朴昔金を表します。高句麗の紋章が【ニつ巴】なのは、昔氏が神武と一緒に九州に渡来してしまったからです。
2013/06/12

数万年前まで日本列島は中国大陸とつながっていてシベリヤのバイカル湖あたりから古モンゴロイドと呼ばれる人々が今の日本列島の地へと移ってきて、一万年近く続いた縄文時代の担い手になりました。彼ら古モンゴロイドの言葉がアイヌ語にわずかに残り、それはそのまま韓語にも通じるといいます。むしろ韓国語のほうが日本語よりアイヌ語に近いといえます。(日本語) (アイヌ語) (韓語) 神 Kamui カム、コム川 nai ネ寒い chamusi チュブまたアイヌ語はネイティブアメリカンの言葉にも近いとされます。ユーラシアの北方にはアジアからヨーロッパまで坦々としたステップ地帯が連なっています。狩猟民族はマンモスや鹿を追いかけてユーラシア大陸を抜けて北東のシベリアへ進み、さらに南北アメリカに渡たりました。温暖の時は北方へ、厳寒になると南下して陸続きの日本列島にも渡って来ました。約一万年前に大陸の端っこの陸地が海面上昇のために分断され日本列島が出現しました。朝鮮半島と日本列島をつないだのは船でした。半島からイカダを出せば海流に乗って簡単に列島に流れ着いてしまうのです。韓国・釜山市にある東山洞貝塚は5千年前の朝鮮半島と日本列島の絆の地でした。そこからは九州産と見られる縄文土器や有田の黒曜石などが出土しています。一方、対馬や九州北部の遺跡からは当時の朝鮮半島産の土器が出土しています。釜山市辺りは昔、金官加羅国があった所で、砂鉄を生産し周辺諸国と鉄貿易が盛んでした。 金官加羅は、九州の国東半島に本国があり、釜山はその出先機関もしくは植民地でありました。これを【面土国】といったのは【九州は四面あり】というように、四面土国を省略した言い方で九州国というほどの意味でした。九州北東部にあった東表国(豊国)の倭人は【南倭】といわれ、日本の天皇家(南朝)はこの国家の王家とは直接の関係はありませんが、史書のうえでは、東表国の王が孝昭から開化までの天皇(北朝)になっています。ところで、【晋書】は【卑弥呼は宣帝の平げる公孫氏なり】と述べます。原文は、【漢末倭人乱攻伐不定。乃立女子為王。名日卑弥呼。宣帝之平公孫氏也......】この卑弥呼が、記紀では事代主命の娘、神武妃ヒメタタライスズになっているのですが記紀は大物主の軍団に【大來目】がいたと記しますから、遼東の公孫氏にはクメール人(古コメル族)またはその支派の瓦族がいたことは間違いなくこの時、満洲と朝鮮に残留したクメール人または北倭が、後に扶余王依羅(崇神)が倭の地に逃れたあとで、唐に敗れた高句麗人を収容して渤海国をたてさらに外蒙古では蒙瓦室韋となり、後に蒙古族になりました。ですから、ジンギス汗はもともと北倭の王だったのです。 南倭もまたBC1000年頃、ガンジス河口から採鉱のために、タルシシ船に乗って九州にやって来たエビス族の一派でした。国東半島の重藤遺跡によれば、彼らがこの地に上陸してトーテツ文の土器や青銅器を作り、これを殷に運び、また盛んに砂鉄を採って製鉄を行っていたことが判ります。 【北倭記】は国東の倭国を【東表国】として【殷(箕子朝鮮)と姻たり】とするのですが、後にこの国は面土国といい、駕洛国といい、金官加羅ともいったのです。この金官加羅の王族から分れたのが新羅の金氏であり、後の蘇我氏になります。穢国の(扶余後期王朝)の王、ニギハヤヒは熊本にあった多婆羅国の王で、これが後に新羅の昔氏になりました。また沖縄の狗奴国の王・南解次々雄または長髄彦は新羅の朴氏になりました。神武天皇は実は扶余(前期王朝)王、仇台(神武)のことで扶余と公孫氏が連合して、多羅婆国を併せて邪馬壱国を作ったのです。なので日本史で倭人と云うのは、大別して、九州の金官加羅国の【南倭】と公孫氏の分国であった邪馬壱国の【北倭】を指します。このうちの【南倭】が朝鮮半島南部の駕洛地方に展開していたのでした。東表国または金官加羅国の王家は箕子朝鮮のカルディア人と対婚したアラビア海の海人で、インドのガヤに中間基地があったらしい。この人々はBC1000年頃、ソロモン王のタルシシ船でマレー海域から北上して、北九州の国東半島で製鉄基地を築いたのですが、タルシシ船にはヒッタイトの鉱人がいて、ハットウサの地名によって宇佐八幡と名付けられました。この国の人民は猪族と南倭で、南倭の方はカーシ族の信仰を維持していました。宇佐の原神はバンコとトウビョウであったといいますが、バンコは猪族の犬神信仰でしたしトウビョウはもともとカーシ族のトウレンという蛇神信仰でした。 【旧唐書】は倭国と日本国を別の国として扱って『倭国は古の倭奴国である...-四面に小島、五十余国あり。その王は阿毎氏であった。一大率を置いて諸国を検察し、みなこれに畏付する--・・衣服の制はすこぶる新羅に類する』と述べていますが、【新羅に類する】というのは当然で、新羅は面土国または金官加羅国から分れた国だったからです。【四面に小島がある】というのは、いにしえの九州を四面といったからです。ここで委奴国(秦王国)というのは九州北東部にあった面土国の金官加羅国が馬韓に領土を分けて作らせた国で、後に邪馬壱国に征服されて秦人は去り、邪馬壱国のなかの奴国になります。邪馬壱国は福岡の伊都国、吉野ヶ里の倭奴国(奴国)、熊本の多婆羅国、日向の安羅国などの連合国家であって、この内、多羅婆国の王がニギハヤヒでしたが、王姓を阿毎氏といいました。記紀は『神武が十種神宝とともにこの姓をニギハヤヒから貰った』と書いています。
2013/06/08
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