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このところ、推理作家・東野圭吾の作品で、加賀恭一郎(かが・きょういちろう)という刑事が出てくる一連のシリーズ(計8作品あるそうです)を、むさぼるように読んでいます。 昨年発表され、ベストセラーになった最新作「新参者」から、発表年をさかのぼって読んでいるので、まだ全作品制覇に至っていませんが(現時点では5作品=「新参者」「赤い指」「嘘をもうひとつだけ」「私が彼を殺した」「悪意」です)、どの作品も睡眠不足になるほど、ハマッてしまいます。 加賀恭一郎が初めて登場したのは1986年、東野のデビュー第2作「卒業」です(これは未読です)、加賀は国立T大学に通う大学生で、在学中に巻き込まれた連続殺人事件の探偵役として登場します。その3年後の1989年の「眠りの森」(これも未読)では、警視庁捜査一課の刑事として再登場します。 さらに、1990年代中盤から後半にかけては主に警視庁捜査一課や練馬警察署に勤めているという設定で、「悪意」や「どちらかが彼女を殺した」「私が彼を殺した」「嘘をもうひとつだけ」という作品で登場しています。 2002年発表の「私が彼を殺した」は、(ネタばらしになるので詳しくは書けませんが)容疑者たちの中から、加賀刑事(すなわち作者)が犯人を明確に提示しないで終わるという“掟破り”の書き方で読者に論争を巻き起こしました(袋とじの「推理のヒント」が付いているという凝りよう)。 2006年に刊行された「赤い指」では住宅街の公園で起きた少女の死体遺棄事件から、どこの家族にでもあるかもしれない「闇」の部分に迫りました。そして2009年、あの書評家としても有名な俳優・児玉清氏をして「今年出版された本の中で文句なしに最も面白い!」と言わしめた話題の「新参者」へと続きます。 「新参者」では、加賀刑事は前作の練馬警察署から日本橋警察署へ転勤したという設定ですが、日本橋界隈という下町を舞台にした9つの短編がそれぞれ、「完結した人情推理もの」になっていながら、すべてが結末編へつながってゆくという構成が、実に見事というしかありません。 加賀刑事は独身で、30代半ばから30代後半という設定。初登場時は大学生でしたが、東野作品のプロフィール設定では卒業後に教師になったものの、ある出来事から「教師としては失格」と思って教師を辞め、父親と同じ警察官になりました。母親は蒸発しており、その原因が父親の多忙さにあると思っていて、父親とは仲はあまり良くありません。 警視庁では本庁捜査一課と練馬署(捜査一係)を往復した後、最新作の日本橋署へ異動します。国立大の社会学部の出身ですが、在学中は剣道部の部長(段位は六段)を務め全日本選手権で優勝したこともあるので、どちらかと言えば体育会系でしょうか。 警察官になってからは、どちらかと言えば協調性の少ない人間として描かれています。先輩や同僚と協力しながら事件を解決するというよりも、単独行動して事件解決の糸口をつかむのが加賀のやり方です。しかし、冷静沈着で、事件全体を見通せる能力はピカ一です。まぁ推理小説の主人公の刑事としてはよくあるパターンでしょう。 加賀は口数は少ないけれど、人情に厚い刑事です。犯罪者に対しても、優しさや思いやりを失いません。「新参者」では、ある事件の裁判で弁護側の情状証人として出廷したことが記され、そのせいで所轄の日本橋署に異動(左遷か?)となったとのことです。ちなみに加賀の趣味は、「新参者」の中では茶道とクラシックバレエ鑑賞となっていますが、小説の中では趣味に打ち込んでいる場面は出てきません(笑)。 残る「加賀シリーズ」は3作(「卒業」「眠りの森「どちらかが彼女を殺した」)ですが、全部すぐ読み終えてしまったらつまらないので、あわてずに挑もうと思います。現実の警察の世界では、加賀のようなキャラの刑事はなかなかいないでしょうが、そこはまぁ小説の世界だから許しましょう。東野さん、加賀刑事が日本橋界隈で活躍する「下町人情もの」の続編をぜひ書いてくださいなー。 ※本の表紙画像は基本的にAmazon上のものを引用しています。Amazon.Japanに感謝します。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/31
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マイケル・ジャクソンの実現しなかった最後のツアーのリハーサル風景をまとめたドキュメンタリー映画「This Is It」のDVDが昨日(1月26日)発売されました。公開中は話題になった映画でしたが、時間がなくて見に行けなかったこともあり、うらんかんろは発売されたばかりのDVDを早速買って、昨夜観ました。(※ご参照→ 急死の報を聞いて記した09年6月26日の日記 ) 見終わってまず強く感じたのは、このツアーに賭けるマイケルの思いです。当たり前ですが、リハに取り組む情熱・意気込みは、ただ凄いの一言です。天才と言われたマイケルですが、その陰で努力を惜しまなかった人であることもよく伝わってきました。実現していたら、きっと歴史に残るステージになっていたでしょう。感想はいろいろありますが、思いつくまま記してみます。 ◆超厳しいオーディション 冒頭、このツアーに参加するダンサーをオーディションするシーンが出ます。応募してきたダンサーの数が半端じゃないことにまずびっくりしました。その数はいったい何百人いるのかという感じ。数がたくさんいるから70~80人くらいずつ舞台に上げて、マイケル自身も審査に立ち会い、絞り込んでいきます。 当たり前ですが、マイケルのツアーに応募してくるくらいだから、みんなうまいのです。そうして選び抜かれたダンサーたちは、当然ですが身体能力が抜群で、踊りが段違いでうまいのです。アメリカのショー・ビジネスの世界の底力や、そこで勝ち抜く競争の厳しさを垣間見た気がしました。 ◆すべての動きが、まるでダンス マイケルは「素晴らしい歌声・歌唱力と、作詞作曲の能力と、ケタ外れに上手いダンス」という3つの天賦の才能を与えられました(できなかったのは楽器くらいでしょうか?)。改めて思ったのはとくにダンスの才能で、この人は普通の人間ではなかったということです。 踊っていない時でも、マイケルは、歩く一歩、一歩、手の上げ下げなど体の動きのすべてがダンスになっているのです。きっと、頭や手や足がすべて、無意識にそういう風に動くように、体の底から染みついているのです。これもおそらく「天から与えられたギフト」なんでしょう。 ◆音づくりへのこだわり 映画を観るまではステージでのマイケルは、音づくりに関してはおそらく、ツアーを仕切る音楽プロデューサー(またはディレクター)に任せているんだと思っていました。しかし、リハの風景をみると、テンポや音量、アレンジやコードにもかなり口を出しています。ベースシストの弾き方を、びっくりするくらい上手い「口(くち)ベース」で真似してみて、「こんな感じでもっとファンキーに弾いてくれ」と言ったシーンには笑いましたが…。 演奏家としてはマイケルより練達の人たちはいっぱいいる訳ですが、やはりそこは「キング・オブ・ポップ」です。マイケルが「こうしてくれ」「こんな感じで」と言うと、「分かった」と従っています。やはりツアーを最終的に仕切ったのはマイケルだったのです。 ◆いいステージにはカネがかかる このツアーのステージ・セットには凄いお金がかかったということが分かります。ステージ後方にはLED(発光ダイオード)のディスプレーを配して、そこに曲に合わせて最新技術でいろんな映像を流すのですが、「スムース・クリミナル」では、映像中のマイケルがディスプレーから飛び出してきたら、生身のマイケルだったなんていう演出も考えていたようです。「スリラー」は3D映像で新たなコンセプトでショート・フィルムを撮り直していました。 映像だけでなく、シルク・ド・ソレイユばりのアリーナの空間を目一杯生かした、大がかりなパフォーマンスもあれこれ考えていたようです。全体として言えるのは、1曲、1曲のアレンジや演出を、マイケルも含めたスタッフで想像以上に一生懸命ディスカッションして、緻密に作り上げようとしている真摯な姿が印象的でした(正直言って、もっとスタッフ任せでいい加減につくっていると思っていました)。 ◆環境問題への強い思い 「アース・ソング」(1995年発表)という曲のバックでは、新たにつくった環境問題への取り組みを訴えるアマゾンの熱帯雨林の映像が流れます。熱帯雨林はやがて焼き尽くされ、ブルドーザーで押し潰されます。マイケルはメッセージでこう言っています。「次世代の子どもたちのためにも、この地球の環境を守りたい。誰かがやってくれるだろうではだめなんだ。僕ら一人ひとりが何かをしなくてはいけないんだ」と。 巨額のギャラを稼ぎ出すショー・ビジネスの世界にどっぷりはまっていながら、そんなカッコイイことだけを言うのは偽善者のように聞こえますが、実際にマイケルがこれまで成し遂げてきたチャリティの実績を考えた場合、決して偽善とは思えません。彼は結構真面目に次世代のことや地球環境のことを考えていたに違いないと、僕は信じます。 ◆あまり見せなかった素顔 「初めて舞台裏を見せた」というのがこの「This Is It」のウリでしたが、実際観てみると、素顔と言ってもあくまでステージかステージの周辺に限ったマイケルです。素顔のごく一部を見せたに過ぎません。また、映画は個人的な記録として撮られていた映像をもとに作られた訳ですが、いくら「個人的な記録として」とは言っても、撮られているのは分かっていた訳ですから、カメラをまったく意識しなかったということはないでしょう。 だから、この映画の素顔のマイケルは「本当の素顔」なのかと言えば、それは大いに疑問です。ステージやその周辺だけでなく、もっともっと舞台裏、例えば楽屋や自宅、移動中の車内などでの素顔のマイケルを観たかったと思うのは、僕だけでしょうか。映像や音楽も演出も素晴らしい内容だったのですが、そういう意味では物足らなさを残しした映画でした。 いずれにしても、マイケルのような唯一無比のアーチスト、ミュージシャンはもう当分は出てこないでしょう。観れば観るほど、彼がだんだん人間とは思えなくなってくる僕がいました。やはり、マイケルは神が地上に使わした天賦の才能だったと信じて疑いません。そして、彼を誤って死なせてしまった専属医師を恨まずにはおれません。ソロで初来日した1987年、大阪球場で観た彼の生パフォーマンスは今も忘れられませんが、それを思い出すのは、今となってはとてもつらいと言うしかありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/27
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うらんかんろが最も馴染みにしているBARのうちの1軒、大阪キタのBar・Kでは毎年正月の1週間だけ、お店にあるモルトはすべて半額で飲めるという「大奉仕キャンペーン」をやってくれます。嬉しいですね。今年は18日~23日の1週間でした。 で、早速お店に行って参りました。毎年この半額大奉仕には欠かさずお邪魔して、普段は飲めないような、ちょっといいモルトを味わい、至福の時間を過ごすことにしています。 今年は何からいただこうかなぁと悩んでいたところ、松葉マスターが「**さん、とりあえずこれ今年のおすすめです」と「Tomatin(トマーチン)1976年」の31年熟成(2007年ボトリング)=写真左=を僕の前に。 う~ん、さすがです。思いっきり熟成感が出て、芳香もしっかり漂っています。Tomatinはあまり人気のない、マイナーな銘柄ですが、最近は頑張っているようです。 2杯目は、やはり僕の好きなアイラ島のBowmore(ボウモア)で。とは言え、Bowmoreは相当呑み荒らしているので、最近はあまり驚くようなBowmoreには出合いません。 この夜出てきたマスターおすすめのBowmoreは、1994年蒸留の14年熟成で、2009年ボトリングの「ボトラーズ」もの(Berry Brothers社販売)です=写真右。90年代以降のBowmoreはオーナーであるS社の設備改善の成果もあって、80年代よりも大幅にクオリティが上がりました。 しかし、それでもBowmore黄金期の60年代~70年代前半のような味わいや香りはなかなか再現できません。だが、このBowmoreはなぜか、60年代~70年代前半のような、オレンジやパッション・フルーツのような柑橘系の香りが結構しっかり付いています。なぜだろうか?という僕の疑問に、マスターが解説してくれました。 「実はこのBowmoreは、Bowmore社の歴史に残る美酒、『Bicentenary』などを造るのに使った空き樽を再利用して熟成させたらしいのです。だから、そうした美酒の樽香や残留したエキスが結構残っているという訳です。こういうBowmoreは、90年代前半のものに時々見られるんです」。 もっとも90年代前半のボトリングと言っても、「当たりはずれがあるので、全部が全部そうじゃありませんが…」と言います。皆さんも、こうした蒸留年&熟成年数のBowmoreを見かけたら、ぜひ一度お試しあれ。 さて3杯目。シェリー樽系のモルトにしようかとも思ったのですが、この夜は松葉マスターのおすすめに最後まで従って、「Ardbeg(アードベグ)10年」のオフィシャルのオールド・ボトル(写真左)にしました。 1970年~80年代頃流通していたボトルでしょうか。この頃のアードベグはあまり味わったことがないので、Bowmoreとの対比という点でも興味深いです。 で、味わってみると、さすがにボディは少し枯れているような感もありましたが、Ardbeg独特のピート香や潮臭さがとてもよく出ていました。 という訳で今年もBar・Kの「モルト半額大奉仕」をたっぷり楽しませていただきました。松葉マスター毎年ほんとうに有難う! 来年もよろしくねー!【Bar・K】大阪市北区曽根崎新地1丁目3-3 好陽ビルB1F 電話06-6343-1167 午後6時~午前1時 日祝休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/24
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きょう1月17日は、6434人の命が奪われたあの阪神・淡路大震災から15周年。被災者の一人であった者として、きょうはやはり震災の記憶について触れざるを得ない。うらんかんろは2005年の10周年の際にも、1月17日の日記で震災について触れたが、15周年のきょうは、「あの日」のことを忘れないためにも、あえて5年前の日記を再録することをお許し願いたい。**************************************** 前日の16日、深夜勤明けの僕は午前3時半ごろ帰宅した。眠りについたのは午前4時近くだっただろうか。それから間もなくして、強い縦揺れに襲われ、目が覚めた。あの時、まず思ったのは、「近くでジェット旅客機が墜落したに違いない」だった。 僕はベッドから起きて家を飛び出した。だが、辺りはまだ暗くてよく見えない。しかし見渡せる範囲では、火柱や煙が上がっている様子はない。近所の人たちも、何事が起こったのか確かめようと、次々と家から表に飛び出してきている。間もなく、夜が白み始めると、辺りの惨状がはっきりしてきた。 周辺の古い木造家屋の約8割は、全半壊状態だった(我が家は軽量鉄骨プレハブだったため、幸い屋内の被害だけで済んだ)。近隣でもとくに、我が家のすぐ向かいの家の姿には言葉を失った。大きな2階建てのお屋敷なのだが、1階部分が完全に見えない。2階部分もかなりひどく崩れている。この家には、親子4人と祖母が住んでいるはず。それは、近所の多くの人も知っていた。 だから、誰かれともなく敷地に入り(塀も崩れていた)、その家族を捜し始めた。すると、どこからともなく、がれきの下から「助けてくださ~い」という声がかすかに聞こえてくる。声のする辺りの屋根瓦を、7、8人の男性で協力して、はがしにかかった。 だが、駆けつけた人たちはみんな素手だ。あたりには、瓦やガラスや陶器のような破片が散乱している。手にけがをするのは目に見えている。僕は、家にあった軍手の束のことを思い出し、つれ合いに持ってこさせ、配った(この時ほど軍手に感謝したことはない。「震災の時、一番何が役立ったか」と、聞かれることも多いが、いつも「軍手の買い置き」と答えている)。 約1時間くらいかけて、屋根瓦と天井板をはがし、両親と子どものうち、姉を救い出した。祖母は入院中で、家にいないという。しかし18歳の妹は、「別の場所で寝ている」という。父親が、がれきとなった家のその場所辺りに案内した。僕らは再び屋根瓦をはがし始めた。だが、妹がいたはずの空間の惨状を見た誰もが、生存に不安を感じていた。 さらに30分ほど。ようやく家の大きな梁(はり)の下敷きとなっていた妹を見つけ出し、病院に運んだ。だが、その後ほどなく、「(妹さんは)即死状態だった」と伝え聞いた。18歳の若さで奪われた命。「だから、早く建て替えようと言ったのにー!」と母親は、がれきの中で叫び、号泣した。 聞けば、この家(お屋敷)は建築後、約70年経っていたという。この辺り一帯で数多くの土地を持つ昔からの地主さん。建て替える経済的な余裕がないはずはなかった。父親は「長年住み慣れていた母が、建て替えを渋ったので…」と話していたと、後に聞いた。 近隣では、この娘さんも含め4人の方が犠牲になった。いつも通勤に利用する駅の、すぐ駅前にある7階建てのビルは全壊し、18人が亡くなった。我が家のある地域では、停電した電気は当日の夕方までに復旧したが、水道が戻るまでは約2週間、ガスの復旧には39日かかった。 日常生活は徐々に戻ってきた。だが、一瞬にしてすべてを奪ってしまった震災は、僕の価値観をも変えてしまった。「形のあるものはいつか壊れるかもしれない。そして形のあるものだって、墓場まで一緒に持って行ける訳ではない」と。 娘を失った一家は、震災後に近くへ引っ越し、家があった場所は広い駐車場に変わった。その家の庭にあった大きな松の木だけは、切られずに残され、家の名残を伝えている。その松の木の根元に今朝、僕は花をひと束、供えた。助けられなかった妹さんのために…。もし生きていれば(※2010年の今で=追記)33歳。幸せな家庭を持っていたかもしれない。 「命のドラマ」は6434の数だけあったはず。彼女は6434分の1だったかもしれない。だが僕は、あの日の朝のこと、彼女のことを「1.17」が来るたびに思い出すだろう。 【追記】20100117 娘を失った向かいのご家族は近所に引っ越されたが、風の便りに、ご主人はその後脳梗塞でになられ、長らく車椅子生活をされた後、数年前に亡くなられたと聞いた。お姉さんも今では結婚して家庭を持たれているに違いない。過ぎ去った15年の歳月。しかしこの一家のことを、僕は一生忘れることはないだろう。 震災で生き残った僕らは、紙一重の差で、たまたま運良く生き残っただけと思っている。だから、生き残った、生かされた僕らは死者に対して、今生きていることに何らかの意味を考え、毎日を送らねばならないと思う。人間はいつかは死ぬ。生き残った僕らは、未来に対しての責任を負っている。
2010/01/17
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2カ月ぶりに広島への出張があったので、仕事の後、再びBAR巡りをしてまいりました(前回の広島BAR巡りの日記は、こちらに)。 出張の日(13日)は全国的に大寒波が襲い、広島も日中から雪模様の天気でした。歩いていると震えるほど。「とにかく早く開いているお店に入りたい」と探したのですが、広島は6時オープンの店が意外と少ないのです。ほとんどのBARは午後7時か8時の開店です(広島のお客は出足が遅いのだとか)。調べた限りでも、「6時開店」は2軒しかありませんでした。 で、最初にお邪魔したのはそのうちの1軒、「Bar・Fouque(フーケ)」=写真右=というお店です。まぁ、この店も以前から訪れてみたいと思っていたので、若干予定外でしたが、丁度よかったのかもしれません。 「Fouque」ではマスターはまだ店にお見えになっておらず、サブのHさんがカウンターを切り盛りしておられました。店内はオーセンティックBARというよりも、落ち着きの中にもスタイリッシュさを兼ね備えた空間でした。 聞けば、オープンしたのは1989年というから、もう20年ほど前。スタイリッシュさもあってか、そんな古さを感じさせない居心地の良い店です。バックバーのデザインやライティングも上品で、デザイナーの方のセンスやこだわりを感じさせられます。 Hさんはバーテンダー歴8年で、30歳というお話でしたが、そうは思えないほど行き届いた接客&サービスです。初めてのBARでは第一印象が大事といいますが、「Fouque」の第一印象はHさんのおかげで最上のものとなりました。 さて、1時間ほど「Fouque」で過ごした僕は、帰り際に出勤されたマスターのUさんとご挨拶をした後、広島最大の歓楽街「流川」エリアへ向かいました。 2軒目にお邪魔したのは「BAR福澤」(写真左は、店の入り口横の壁に架かる素敵なプレート)。1996年のオープンで今年で15年目に入るお店です。あいにくマスターはまだお見えでありませんでしたが、話し好きなサブの方のおかげで退屈せずに済みました。 「福澤」では、オリジナル・ハイボールというのがメニューに出ていたので、頂きました。ベースはウイスキーの「白州」。よそのハイボールと大きく違うのはレモン・ピールではなく、オレンジ・ピールにしている点です。 サブの方曰く。「レモンだと少しとんがり過ぎて、白州本来の味わいを押さえてしまうので、オレンジでやってみたところ、ちょうど口当たりもいい感じになったんです」。確かに、オレンジ・ピールは合います。飲みやすい感じになるので女性向きかもしれません。 さて、日帰りの予定なので、早々と3軒目へ転戦です。訪れたのは「福澤」からもそう遠くない場所にある老舗の「Bar・Degas(ドガ)」=写真右。ここは、全国のBARに詳しい友人の推薦です。お邪魔してみると、カウンターが5、6人ほどで、あとテーブル席が一つという意外とこじんまりしたお店でしたが、ほぼ満員の盛況です。 「Degas」は1958年の創業なので、半世紀以上の歴史をもつ老舗です。両親と息子さんという家族3人で切り盛りされていることもあって、とてもアットホームな雰囲気です。メニューはドリンク、フードとも充実しているのが嬉しいです。 僕はカウンターの中にいた息子さんのSさんにご挨拶し、「先日広島でBAR巡りをした際には、(福山のBAR)さくまのマスターと『Slaintheva』でばったり会いましたよ」という話をしたら、Sさんは「そうでしたか、お客様のことでしたか。佐久間さん実はそのあとうちにお越しになられて、その話をしておられましたよー」と応え、僕もびっくり。世の中狭いですね。 「Degas」ではウオッカ・トニックとホット・ウイスキーを頂き、手作りのお通しも美味でした。Sさんは忙しいにもかかわらず、温かい接客で、僕の話し相手もしっかりしてくださり、感謝感激です(写真左=「Degas」のメニューブックの表紙にはあの柳原良平さんのオリジナルな絵が)。 さて、3軒回っていい気分になった僕は、後ろ髪を引かれる思いで、路面電車で新幹線の広島駅へ(広島の路面電車は本数が多くて、繁華街から広島駅まで10分ほどというアクセスの良さが嬉しい)。来月もまた広島出張の予定があるので、次はどこを回ろうかなぁ…と今からワクワクしています(それにしても、広島のBAR経営者の皆様、もう少し開店時刻を早くしてほしいなぁ…)。 【Bar・Fouque】広島市中区鉄砲町4-7 シティコープ幟町1F 電話082-227-5837 午後6時~午前3時(日祝~午前零時) 年末年始のみ休み 【Bar福澤】同市中区流川町3-4 フジヤマビル4F 電話246-8695 午後7時~午前3時 不定休 【Bar・Degas】中区堀川町3-8 イテザ3ビル2F 電話241-3076 午後7時~午前2時(日祝~午前零時) 無休 【追記】今回の広島BAR巡りの際、あるマスターから「夕方の5時から開いてるBARが1軒だけありますよー」と教えてもらいました。「Bar・Brown」という店です。この店についての報告は次回の広島BAR巡りでいたしますので、乞うご期待。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/16
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きょうは「成人の日」。数年前よりは少しはましになったかと思えば、今年もやはり馬鹿な20歳が成人式で暴れて捕まっています。そういう馬鹿は厳罰にすればいいのです。さて、それはそうと、うらんかんろがよくお世話になっている神戸・元町のBar・HEAVENのメニューに、新しいラインナップが登場しました。 従来の元祖「コウベハイボール(氷なし)」(ホワイト・ハイボール)、トロ角ハイボールに加えて、ブラック・ハイボール、レッド・ハイボール、イエロー・ハイボールが加わり、5つのハイボールが揃いました。 それらのハイボールたちを、遊び心たっぷりのマスターは「ハイボール・5レンジャー」と名付けて、チラシまで作っちゃいました(写真左=少し濡らしてしまって、字がにじんですみませ~ん(^_^;)。 ブラックは「トリスのハイボール」、レッドは「レッドのコークハイ」、ホワイトはホワイトを使った「元祖・氷なしハイボール」、イエローは「黄角のハイボール」、そして「トロ角ハイボール」は冷凍庫でキンキンに冷やした黒角を使ったヘビーなハイボールです。 いつものように、HEAVENではノーチャージなのに、おつまみ2品(名物のカレー・ピクルス+1品)が付きます。そして5レンジャーのお値段は430円~700円という涙ものの良心価格です。嬉しいですね。 皆さまも神戸・元町へ行かれたらぜひ、この「ハイボール・5レンジャー」を味わってみてください。何の色気もない店内(笑)ですが、実直なマスターが一生懸命作りますよー!(うらんかんろの本「今宵も、BARへ…」も店内で販売していますので、よろしくね!)。 【Bar・Heaven】神戸市中央区栄町通2丁目10-3 アミーゴス・ビル4F 電話078-331-0558 営業時間は午後2時~9時半頃(平日)、午後1時~7時頃(土日祝) 月・火曜定休(アミーゴス・ビルは、中華街西門を出てすぐ海側へ歩いて30秒、通りの東側にあるオレンジ色のビルです)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/01/11
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楽天ブログの友人の皆さま、その他の皆さま、新年明けましておめでとうございます! 旧年中はいろいろとお世話になり、本当に有難うございました。本年も何卒よろしくお願いいたします。 新年はいかがお過ごしでしょうか? 関西地方は晴れ間の多いおだやかな元日を迎えました(とは言っても、同じ関西でも日本海側の方は雪のお正月で大変だったようですが…) 昨年は政権交代という歴史的な年ということもあり、政治や経済をはじめ私たちの身近なところでもさまざまな変化がありました。しかし、民主党政権もまだ船出したばかりで不安定で進路はよく見えません。今年はどうか、より良い、明るい日本へ向かって再スタートを切る年でありたいと願っています。 個人的には「本年の目標」といっても、とくに大それたものはございません。毎年言っていることですが、公私ともに(仕事でも、BAR巡りでも、お酒の知識充実でも、ピアノ・ギターでも、その他様々な分野でも!)充実した1年が送れるように、マイペースで頑張っていきたいと思っています。 皆さまにとっても、幸多き、実り多き1年でありますように、心からお祈りいたします。
2010/01/01
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