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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありませんでした。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、原料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン農家の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に簡易で小型の蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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モニカ・セッテルンド(Monica Zetterlund)という1人のスウェーデン人女性の死が、5月15日(日)の朝刊各紙でひっそりと報じられていた。67歳とまだ若い。死因は何かと読めば、「自宅マンションで起きた火災で」とある。共同通信による記事は、火事の原因について「ベッドでの喫煙が原因とみられる」とも伝えている。 日本では、彼女の名はほとんど知られていない。だが私にとっては、大好きなジャズ・ピアニスト、ビル・エバンス(Bill Evans)と共演し、デュオ・アルバムを残した唯一の女性ヴォーカリストとして記憶に刻まれている。 1964年に発表したアルバム(写真左=日本国内での発売は74年)は、エバンスのあの名曲「Waltz For Debby」をスウェーデン語で歌った「Monica's Vals」(モニカのワルツ)をおさめ、話題となった。 アルバムは、エバンスの欧州ツアー中に、ストックホルムで録音された。モニカはこの時27歳。本国ではすでに「歌姫」として有名だったが、エバンスにとっては、きっと未知の女性だったに違いない。 モニカの歌はお世辞にも上手いとは言えない。ストレートに歌っているが、ハスキーで、ややけだるく、冷たい感じにも聴こえる。しかし、ヴォーカルと対等に語り合うように奏でたエバンスのピアノは、彼女の歌をリリカルに引き立て、実に自然で、温かい雰囲気すら感じられるアルバムに仕上がっている。 エバンスの演奏のノリも、とてもいい。よく聴いていると、あのヴィレッジ・バンガードのライブの時のような、複雑かつリズミカルなコード弾きも、随所に見せている。女性とのヴォーカル・アルバムをこの1枚しか残さなかったのが、返すがえすも悔やまれる(写真右=モニカの初期の代表作「Make Mine Swedish Style」。北欧ではヒットしたが、米国内や日本ではあまり話題にならなかった)。 モニカは90年代前半まで現役で活躍した。新聞では、モニカの肩書きを「ジャズ歌手」と紹介していたが、スウェーデンでは舞台や映画で活躍する女優としても有名だったという(と言っても、私は出演作のタイトルを一つも知らなかった。今回WEB上でいろいろ検索して、初めて知った)。 生涯に、ヴォーカル・アルバムを10枚以上も発表したモニカ。しかし、結果的に「Waltz For Debby」を超える評価を勝ち得た作品はなかった(そういう意味でも、伴奏したエバンスの存在は大きかったのかも…)。このアルバムは、今も彼女のヴォーカル。アルバムの中でも最高傑作と位置付けられているが、後年、ジャズの歴史に残るレコードの一つになってしまうなんて、二人とも思ってもみなかっただろう。 今なお、ジャズ・ヴォーカルの名盤として衰えぬ人気を持つ「Waltz For Debby」。そして、このアルバムの存在で、日本のジャズ・ファンにも忘れられない名前になってしまったモニカ・セッテルンド(写真左=22、23歳頃の初々しいモニカ。デビューは19歳だったという。(C)Sveriges-Radio.se )。 そんなモニカが、寝タバコによる火事で死ぬなんて、なんと悲しい、情けないニュースだろうか。久しぶりにモニカのCDをかけ、その歌声を聴いている。喪失の悲しみを、私はウイスキーで紛らわすしかない。 PS.スウェーデンから、いつもこの日記を読んでくださるYSOさん、スウェーデン本国では、モニカの死はどう報じられたのでしょうか。新聞やテレビでも、やはり破格の大きな扱いだったのでしょうか?
2005/05/18
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東京の湯島と言えば、関西人の僕には、「湯島天神」のイメージしか浮かんでこない。東京に出張へ行っても、銀座のBARが中心だから、湯島まで足を伸ばすことはまず、ない。湯島を訪れたのは、その昔(と言っても、かなり昔のこと)、「湯島に、いいBARがあるんですよ」と、東京在住の友人に連れていかれたのが初めてだった。 飲食店がひしめき合い、細い路地の多い下町。そんな界隈の、比較的近いエリアに3軒もの「Good Bar」が集まっていることに、とても驚いた記憶がある。その3軒の名とは「琥珀」「EST(エスト)!」「AB・・E(アベ)」。ともに住所は「湯島3丁目」。続く番地が一つずつ隣同士という不思議な関係だった。 歴史的に言うと、「琥珀」(写真左上)が昭和30年(1955)の開業で、一番古い。「EST!」と「AB・・E」はいつ頃の創業か、正確には知らない。ただ、「EST!」は20年ほど前僕が訪れた際、すでに老舗の風格を漂わせていたので、きっと1970年代初めのオープンだと想像している。 唯一、「AB・・E」は、僕の記憶ではマスターはまだ若かったので、おそらくは開業まもない80年代の半ばにお邪魔したのだと思う。その「AB・・E」も、今では、もうすっかり老舗BARの仲間入りをしている。 「琥珀」は、現在のマスター木村文比古さんのお母さん淑子さん(故人)が創業した。お母さんがご健在で、店に出ておられた頃は、作家の三島由紀夫や阿部知二、木下順二ら文人がよく集うBARだった。三島は入り口奥のテーブル席の中央がお気に入りだった。三島の愛したテーブル席は今も残り、店内は昭和の良き時代の雰囲気をとてもよく伝えている。 「EST!」(写真右)も、古き良き時代のBARという場所だった。白いバー・コートを着た渡邊昭男さんという方がマスターだったが、関西から訪ねてきた若造を実に温かく迎えてくれた。カクテルが得意な渡邊さんのジン・リッキーに、思わず「ホンマに旨い!」と、隠していた関西弁が出てしまった思い出がある。 ちなみに、渡邊さんの息子さん兄弟もバーテンダーになり、現在は東京・新橋で「Atrium」というBARを営んでいるという。やはりBARへの情熱は、親から子へ、脈々と受け継がれていったということだろうか。 「AB・・E」(写真左下=切り絵に描かれたオーナー・バーテンダーの阿部勝康さん。(C )成田一徹 )は前の2つの店に比べると、こじんまりした、スタイリッシュなBARだった。長身の阿部さんは、真面目そうで、口数の少ない方だったように記憶しているが、まるで、馴染みのBARような居心地の良さを感じさせてくれる空間だった。 実は、僕を案内してくれた友人は、この湯島から徒歩でも帰れる場所に住んでいた(現在も!)。「ネイバーフッド・バー」という言葉があるが、自宅の身近に、そんな素敵なBARを3軒も持っている友人が、僕は羨ましくて仕方がなかった。 湯島とも、もう随分ご無沙汰している。ただ、聞くところでは、現在の湯島は、風俗店と客引きが増えて、「街の雰囲気も、随分変わってしまった」と老舗BARのマスターらは嘆いているという。それはともかく、次回、東京出張があった際は、「久々に湯島の名BAR巡りでも」と目論んでいる僕である。【琥珀】=文京区湯島3丁目44-1 電話03-3831-3913 【EST!】=同湯島3丁目45-3 電話3831-0403 【AB・・E】=同湯島3丁目43-11 電話3831-5755
2005/07/15
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◆禁酒法時代の米国内で生まれたと伝えられるカクテル アヴィエ―ション(Aviation)、バカルディ・カクテル(Bacardi Cocktail)、バーバリー・コースト(Barbary Coast)、ベネット(Bennett)、ブラッディー・サム(Bloody Sam)【注1】、ブロンクス(Bronx)、シカゴ(Chicago)、クローバー・クラブ(Clover Club)、コロニー(Colony)、 デュボネ・カクテル(Dubonnet Cocktail)、フロリダ(Florida)、ロング・アイランド・アイスティー(Long Island Iced Tea)【注2】、オレンジ・ブロッサム(Orange Blossom)、アンクル・サム・スペシャル(Uncle Sam Special) 【注1】ブラッディー・サムのベースであるジンをウオッカに替えたブラッディー・メアリー(Bloody Mary)も「もぐり酒場」で人気があったと伝えられていますが、ブラッディー・メアリー自体は米国生まれではなく、1910年代後半に欧州で誕生したという説もあります。【注2】禁酒法時代、テネシー州のロングアイランドという地域で誕生したという説が伝わっていますが、「もっと後世に考案された」との異論もあるようです。 ◆米国の禁酒法時代に、欧州またはカリブ諸国内で生まれたと言われるカクテル ルイージ(Luigi)、メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)、モンキー・グランド(Monkey Gland)、サイドカー(Sidecar)、ホワイト・レディ(White Lady) ◆禁酒法施行以前に誕生していたと言われる主なカクテル アドニス(Adonis)、アラスカ(Alaska)、アレクザンダー(Alexander)、アメリカーノ(Americano)、バンブー(Bamboo)、ビジュー・カクテル(Bijou Cocktail)、ブラック・ヴェルヴェット(Black Velvet)、ブルー・ムーン(Blue Moon)、ブルックリン(Brooklyn)、カルーソー(Caruso)、シャンパン・カクテル(Champagne Cocktail)、チャーリー・チャプリン(Charlie Chaplin)、ダイキリ(Daiquiri)、エッグ・ノッグ(Egg Nog)、 フレンチ75(French 75)、ギブソン(Gibson)、ギムレット(Gimlet)、ジン・フィズ(Gin Fizz)、ジン・リッキー(Gin Rickey)、ジン・トニック(Gin Tonic)、グラスホッパー(Grasshopper)、ホーセズ・ネック(Horse’s Neck)、ホット・バタード・ラム(Hot Buttered Rum)、ジャック・ローズ(Jack Rose)、マンハッタン(Manhattan)、マルチネス・カクテル(Martinez Cocktail)、マティーニ(Martini)、 ミント・ジュレップ(Mint Julep)、モヒート(Mojito)、ニューオーリンズ・ジン・フィズ(New Orleans Gin Fizz)、オールド・ファッションド(Old Fashioned)、オールド・パル(Old Pal)、オリンピック(Olympic)、パリジャン(Parisian)、ピンク・レディ(Pink Lady)、プランターズ・パンチ(Planter’s Punch)、 サゼラック(Sazerac)、シャンディ・ガフ(Shandy Gaff)、シンガポール・スリング(Singapore Sling)、スノーボール(Snowball)、スティンガー(Stinger)、トム&ジェリー(Tom & Jerry)、トム・コリンズ(Tom Collins)、XYZ (※ただし、ブラック・ヴェルヴェット、ブルー・ムーン、チャーリー・チャプリンについては禁酒法以後の誕生とする説もあります)。 ◆追記(おまけ) サボイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book 1930年刊)には、その名も「Prohibition(禁酒法)」というカクテル=写真=が紹介されていますが、著者ハリー・クラドックのオリジナルかどうかは不明です。 レシピは、プリマス・ジン30ml、リレ・ブラン(「ホワイトワイン」「キナ・ワイン」と表記する文献も)30ml、アプリコット・ブランデー0.5tsp、オレンジ・ジュース1tsp。シェイクしてカクテル・グラスに注ぎ、レモンピールします(日本のカクテルブックでは、佐藤紅霞著「世界コクテール飲物辞典」=1954年刊=で初めて紹介されています)。 ◆禁酒法時代について書かれた日本語の参考文献 ※ほとんどの本が絶版になっていますが、一部の本はアマゾンなど中古本市場では入手可能です。本稿では前書きでも書いたように、主に1、2、3を参考にしました。しかし、いずれの本もバー(もぐり酒場)については少し紹介しているものの、そこで働く数多くのバーテンダーたちや、飲まれていた酒やカクテルについては残念ながらほとんど触れていません。1.「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊) →絶版(アマゾンなど中古本市場では入手可能)「高貴な理想」とは裏腹に、もぐり酒場の隆盛、密輸・密造業者の暗躍をもたらした禁酒法とは。華やかな「ジャズ・エイジ」を背景に問う内容。禁酒法時代の米国について日本人学者が著した最も一般的な本。2.「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書、1984年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。シカゴ・ギャングやアル・カポネについて比較的詳しく触れた一般向けの禁酒法解説本。3.「酒場の時代――1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平(サントリー博物館文庫、1981年刊) →絶版(中古市場では入手可能か)。禁酒法時代のアメリカ国内の酒場や風俗、文化、そして国民の倫理感がどう変わっていったかを綴る。4.「禁酒法と民主主義――道徳と政治と社会」:板倉聖宣著(仮説社、1983年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容の詳細不明だが、やや学術的、専門的な内容か。5.「アメリカ禁酒運動の軌跡――植民地時代から全国禁酒法まで」:岡本勝著(ミネルウ゛ァ書房、1994年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容は「なぜアメリカ人は、憲法を修正してまで『禁酒』にこだわったのか、『禁酒法』とは、彼らにとっていかなる意味をもっていたのか…植民地時代から1920年代までを、禁酒運動を通じて解説する、アメリカ社会史」とのこと。学術的な研究書。6.「アメリカ黄金時代――禁酒法とジャズ・エイジ」:常磐新平(新書館、1972年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容はまだ見ていないが、著者が作家・エッセスト、翻訳家として有名な常磐氏であることから、一般向けに書かれた本か。7.「狂乱の1920年代――禁酒法とジャズ・エイジ」:大原寿人著(早川書房刊、1964年刊) →絶版(中古本市場では入手可能)。内容の詳細不明。 ◆禁酒法時代について書かれた主な英米の参考文献(英米では当然ながら、下記以外にもたくさんの「禁酒法」関連書物が出版されています→Wikipedia「禁酒法」の解説末尾の注をご参照)1.Alcohol Consumption During Prohibition/ Jeffrey A. Miron & Jeffrey Zwiebel(1991)2.Law, Alcohol and Order:Perspectives on National Prohibition/ David E. Kyvig(1985)3. The History of Alcohol and Drugs Use in the United States,1800-2000/ Sarah W. Tracy & Caroline Jean Acker(2004)4. Profits, Power and Prohibition:Alcohol Reform and the Industrializing of America,1800-1930/ John J. Rumbarger(1989)5. Prohibition:Thirteen Years That Changed America/ Edward Behr(1996)6. The Spirits of America:A Social History of Alcohol/ Eric Burns(2003)7. The Speakeasies of 1932/ Gordon Kahn & Al Hirschfeld(2003)8. Dry Manhattan:Prohibition in New York City/ Micheal A. Lerner(2007)9.Domesticating Drink:Women, Men and Alcohol in America, 1870-1940/ Catherine G. Murdoch(1998)10. The Rise And Fall Of Prohibition/ John Kobler(1993) ◆禁酒法前後のカクテルを紹介した主な英米のカクテルブック ※1、3、4、7、8はおすすめ!(本稿作成にあたっても参考にしました)。5(絶版か?)以外はいずれもアマゾン等で入手可能です。1.Vintage Spirits and Forgotten Cocktails:100 Rediscovered Recipes and the Stories behind them / Ted Haigh (2009年)2.173 Prohibition Cocktails/ Tom Bullock & D.J. Frienz (2001年)3.Classic Cocktails of Prohibition Era: 100 Classic Cocktail Recipes/ Philip Collins(1997年) 4.Speakeasy :the Employee Only Guide To Classic Cocktail Reimagined/Jason Kosmos & Dushan Zanic(2010年)5.151 Classic Cocktails:Prohibition Era 19th Century Drinks/ 著者不明(2005年)=絶版か6.The Classic 1000 Cocktails/ Robert Cross(2003年)7.173 Pre-Prohibition Cocktails/ Tom Bullock(原著1917年 復刻版2001年)8.Vintage Cocktails/ Susan Waggoner & Robert Markel(1999年) 「禁酒法時代の米国--酒と酒場と庶民のストーリー」は今回でもって終了します。ご愛読有難うございました。ご感想、ご意見、ご情報等をお待ちしております。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/23
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57.ミント・ジュレップ(Mint Julep)【現代の標準的なレシピ】 (容量単位はml)バーボン・ウイスキー(45~60)、ミントの葉(適量)、ミネラル・ウォーター(またはソーダ)(20~30)、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)2tsp、クラッシュド・アイス 【スタイル】ビルド 「ミント・ジュレップ」は、現代のバーでよく飲まれる人気カクテルのなかでも、最初期に誕生したことが確実な、古典的カクテルの一つです。ただし、その誕生の詳しい経緯や由来について伝える史料は、ほとんど伝わっていません。 「ジュレップ」というスタイルのドリンクは、古代ペルシャの「Gulab(グルアーブ)」(「バラの水」の意味)にルーツを持ち、ペルシャからフランスへ伝わり、さらに米南部へ移民したフランス人たちによって持ち込まれ、改良されていったと伝わります(出典:欧米のWeb専門サイト=複数)。「ジュレップ」とはアラビア語源の言葉で、「薬を飲みやすくするための甘い飲み物」のことですが、おそらくは移民フランス人たちが、自分たちが発音しやすい言葉として選び、定着させたのではないかと想像できます。 1800年頃には、米国内、とくにヴァージニア州北部のプランテーションでミント・ジュレップは広まっていて、1815年、英国海軍の艦長だったフレデリック・マリアット(Frederic Marryat)は「米南部の農園ではマデラワイン・ベースのミントの葉入りのドリンクが飲まれている」という記録を残しており(出典:欧米のWeb専門サイト)、この頃すでに「ミント・ジュレップ」の原型とも言えるドリンクが飲まれていたことは間違いありません。 現代では、通常バーボン・ウイスキーをベースにつくられるミント・ジュレップですが、誕生当初はポートワイン・ベースで飲まれることが多かったとも伝わります(出典:同)。その後、時代が進むとともに、ブランデー・ベース、ウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベースなど様々なバリエーションが生まれていったようです。 「ミント・ジュレップ」が欧米のカクテルブックで初めて紹介されたのは、「カクテルの父」と言われる米国人バーテンダー、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas)の「How To Mix Drinks」(1862年刊)です。このため、少なくとも19世紀前半頃には、酒場や一般家庭でのドリンクとしてある程度は普及していたと考えられています。トーマスのレシピは、「ブランデー1.5Wineglass、ミントの枝3~4本、シュガー(分量の言及なし)ミネラルウォーター(同)、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、パウダー・シュガー(同)、飾り=ベリー類、オレンジ・スライス、生ミントの葉」となっています。 なお、上記トーマスのカクテルブックには、ミント・ジュレップのほかにも、その原型とも言われる「ジョージアン・ジュレップ(Goergian Julep)」(ジョージアン・ミント・ジュレップとも言う)というカクテルも収録されています。ベースはブランデー(コニャック)で、ピーチ・ブランデーも使いますが、基本的なコンセプトは同じです(※同書では、ほかにもジン・ジュレップ、ウイスキー・ジュレップ、パイナップル・ジュレップが収録されています)。 現代のバー業界でも意外と知られていないことですが、以下に紹介するように、19世紀~20世紀初頭までは、欧米ではミント・ジュレップと言えば、ブランデー(コニャック)・ベースが一般的でした。ウイスキー・ベースのミント・ジュレップがお目見えするようになるのは、1910年代以降です。では、1880~1950年代の主なカクテルブックは「ミント・ジュレップ」をどう取り扱っていたのか、ざっとみておきましょう。・「Bartender’s Manual」(ハリー・ジョンソン著、1882年刊)米 コニャック2分の1Wineglass、ミントの枝3~4本、水またはソーダ2分の1Wineglass、シュガー1tsp クラッシュド・アイス (※「このドリンクは米国以外の地域でも知られている」との記述あり)・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年刊)米 コニャック1jigger(45ml)、ミント(分量の言及なし)、シュガー(同)、ミネラルウォーター(同)、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、シュガーにディップしたミントを飾る。(※「Brandy Julep」の名で登場。「Mint Julep」については「Brandy Julepと同じもの」と紹介)・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年刊)米 ブランデー2分の1jigger、ラム2分の1jigger、シュガー1.5tsp、ミントの枝数本、ミネラルウォーター少々、クラッシュド・アイス、フルーツやミントを飾る。(「Mint Julep Southern Style」との名で収録)。・「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(ティム・ダリー著、1903年刊)米 ブランデー1.5Glass、シュガー1tsp、ソーダ2分の1Wineglass、ミントの枝4~5本、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、パウダー・シュガー(同)・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザース編、1912年刊)米 ブランデー1.5Glass、パウダー・シュガー3tsp、ミネラルウォーター1.5tsp、ミントの枝3~4本、クラッシュド・アイス、ジャマイカ・ラム1dash(最後に振る)、飾り=ベリー類、オレンジ・スライス、生ミントの葉・「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊、2001年&2006年再刊)米 ブランデー1jigger、シュガー1tsp、ミネラルウォーター4分の3Wineglass、生ミントの枝3~4本、クラッシュド・アイス、飾り=フルーツ、ミントの枝 (※「Brandy Julep」の名で収録。「Mint Julep Kentucky Style」という名のカクテルも収録しているが、バーボン・ウイスキー2jigger、角砂糖1個、ミネラルウォーター15ml、クラッシュド・アイス、生ミントというレシピ。ミントは潰さないと言及している)。・「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)英(バーボンウイスキー・ベースのミント・ジュレップが活字になった初めての例か?)。 レシピは文章スタイルで紹介されています。原著の通り記せば、「シュガー2tsp、ミネラル・ウォーターまたはソーダ2分の1Wineglass、生ミントの小枝3~4本を(タンブラーの底で)香りが十分出るまでつぶし、ミントは取り出す。次にバーボン・ウイスキーGlass2杯分を加える(※Glassのサイズについての言及はありません)。そこに、細かく削った氷(原文では「fine shaved ice」)をタンブラーいっぱいに入れて、グラスに霜が付くまでよくステアする。最後にミントの小枝を刺し、オレンジやレモン、パイナップルのスライスとチェリーをトップに飾る」(※1986年刊の復刻改訂版では、飾りは生ミントだけになっています)。・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著、1930年刊)英 ブランデー2分の1、ピーチ・ブランデー2分の1、シュガー1tsp、ミントの葉約10枚、クラッシュド・アイス (※バーボンまたはライ、カナディアン・ウイスキー・ベースのミント・ジュレップも収録されているが、名前は「Southern Mint Julep」)・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 バーボン・ウイスキー1Glass、シュガー1tsp、ミントの枝5~6本、クラッシュド・アイス、飾り=スライス・レモン、生ミント・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ギャヴィン・ダフィー著、1934年刊行)米 バーボン2igger、パウダー・シュガー1tsp、生ミント、ソーダ、クラッシュド・アイス・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 ウイスキー(バーボンかどうかの言及なし)1jigger、シュガー0.5tsp、ミネラルウォーター1pony(30ml)、ミントの枝3本、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 バーボン・ウイスキー2.5onz(75ml)、パウダー・シュガー1tsp、ミントの枝4本、ミネラルウォーター2tsp、クラッシュド・アイス、飾り=オレンジ・スライス、レモン・スライス、パイナップル・スライス、チェリー、生ミント・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 バーボン・ウイスキー1Glass、パウダー・シュガー1.5tsp、ミントの枝4本、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 バーボン・ウイスキー(分量の言及なし)、パウダー・シュガー1.5tsp、ミントの枝6~7本、クラッシュド・アイス、飾り=シュガー・コーティングした生ミント・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム著、1956年刊)米 バーボン・ウイスキー1measure、ミネラルウォーター2tsp、角砂糖1個、ミント数本(あらかじめグラス内でつぶしておく)、クラッシュド・アイス、飾り=生ミント ミント・ジュレップは1875年から続く伝統あるケンタッキー・ダービーで、公式ドリンクに認定されています。今日でも、会場であるチャーチルダウンズ競馬場や前夜祭では、このカクテルがこぞって飲まれているそうです。なお、このミント・ジュレップに使われるダービー公認バーボンには「アーリー・タイムズ」または「ウッドフォード・リザーブ」が指定されているそうです(出典: 欧米の専門サイト他)。 「ミント・ジュレップ」は日本にも1900年代後半に伝わりましたが、(理由ははっきりしませんが)当初はほとんど普及しませんでした。これには氷が貴重なのに加えて、生ミントも手に入りにくかったことが背景にあったと思われます(国産の生ハッカの葉で代用したレシピもあったそうですが…)。1900年代の文献で一度紹介された後は、確認できた限りでは、1950年代まで活字になることはありませんでした。 日本国内のバーで本格的に認知されるようになったのは、1960年代以降です。ただし、この当時でも生ミントが稀少で高価だったためか、当初はミント・リキュールで代用することも目立ちました。昨今のように、生ミントを使ったミント・ジュレップがバーで普通に飲めるようになったのは、うらんかんろの個人的な記憶からしても、1980年代になってからです。現代では、日本でもほぼ年間を通じて生ミントが手に入り、バーでもさほど苦労なく頼めるようになりました。私たちは本当に幸せな時代に生きていると思います。 【確認できる日本初出資料】「洋酒調合法」(高野新太郎編、1907年刊)。レシピは、「ブランデー1.5Glass、シュガー1tsp、生ミント3本、ミント3~4本、クラッシュド・アイス、オレンジの皮、ジャマイカ・ラム少々(最後にフロート)」。欧米での初期のレシピ同様、ラムを少し加えるつくり方になっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/30
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J ジャパニーズ・カクテル(Japanese Cocktail) これは「B」の項で説明しました「ブランデー・カクテル」の場合の、トッディ・ウォーター【注1】を、オルジェート・シロップに代える他(ほか)、すべて同じに調合してすすめます。 ジャースェー・カクテル【注2】(Jersey Cocktail) ソーダ水呑に砂糖大匙で一杯を入れ、水二匙を加えて溶かし、次に砕き氷を二分の一位までと、アンゴスチュラ・ビター一滴、およびアップル・ジャック【注3】一注(つぎ)を加え、充分にかき混ぜ合わせからサイダーを九分目までつぎ入れ、レモンの皮一そぎを押しつまんで浮かし、麦稈(から)をさしてすすめます。 ジョン・コリンス(John Collins) トム・コリンス【注4】か、または大きいソーダ水呑に氷の塊一個を入れ、上等のジン一ジガーを入れるか、本当に客自身の好みなだけの量を入れて置きます。別に中位の調合器に砂糖大匙で山盛一杯を入れ、ソーダ水三匙を加えて溶かし、レモン二個の露(つゆ)を搾りこみ、充分にかき混ぜ合わせてからソーダ水をつぎ入れ、更にかき混ぜ合わせて前に用意して置いたソーダ水呑の中へ漉してうつします。もし、九分目まで満たなかったら、プレーン・ソーダ水をつぎ入れてすすめます。 このジョン・コリンスは朝は精神作興の飲料となり、夜は精神を愉快にして慰安を感ぜしむるところの飲料であります。これまで大概の酒場では「ジン・フィズ」を調合して「ジョン・コリンス」なりと称してすすめているが、真に「ジョン・コリンス」と呼び得(え)るものは、前記の調合法によって調合されたものより外はありません。【注1】「トッディ」とは蒸留酒に蜂蜜や砂糖などの甘味を加え、お湯か水で割るスタイルのこと。「トッディ・ウォーター」は文字通り、水で割ったそれを意味しているのか。【注2】「ジャースェー」とはもちろん、「ジャージー」のことだが、カクテルとしての名前の由来は不詳。秋山氏のレシピはアップル・ジャックがベースだが、シードル(炭酸入りのリンゴ酒)にアンゴスチュラ・ビターズを加えるシンプルなレシピもある。【注3】「アップル・ジャック」とは、リンゴ酒を蒸留して造るアップル・ブランデーのこと。主に米国での呼称。主生産国であるフランスでは、「オード・ヴィー・ド・シードル」と言い、ノルマンディー地方で生産される高級品は「カルバドス」と呼ばれる。【注4】ここで言う「トム・コリンス」とは、カクテルの「トム・コリンズ」(現代の表記では「コリンス」ではなく「コリンズ」)を示すのではなく、ロングスタイル・カクテルに使われる「コリンズ・グラス」(容量300~360ml)を意味している。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/12/20
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神戸には、今はもう姿を消した伝説的なBARがいくつもある。「ルル」「ギルビー」「サンシャイン」「マダムマルソー」「キングズ・アームズ」…そして、忘れてはならないのが「コウベハイボール」(「神戸ハイボール」ではなく、こう名乗った)。 その多くは、バブル期の地上げや後継者難で、さらに、追い打ちをかけたあの阪神大震災での被害のために、閉店を余儀なくされた。そうした伝説的なBARに出入りする機会が持てた私はある意味幸せだったが、店がなくなってしまった今では、寂しさばかりが募る。 とくに、最後に名をあげた「コウベハイボール」。私が神戸で仕事をしていた頃、勤め先があったビル(神戸朝日会館)の地下にあったので足繁く通った、とても想い出深いオーセンティックBARである(ついでに言えば、同じビルの地下にあった「銀串」という焼鳥屋にもよくお邪魔した。老夫婦が営む味わいある店だった)。 「コウベハイボール」は昭和29年(1954)の開業。店は平日、午後3時にはオープンしていた。私は夕方を待ちかねたように、同僚らと会社をそっと抜け出しては地下へ下り、スイング式のドアを開けた。スタンディングのカウンターはいつも、6時前にはもう客が溢れていた。 大阪キタにある「北新地サンボア」で先日、そんな「コウベハイボール」の想い出話をしていたら、お店の方が「昔の写真、ありますよ」と数枚のプリントを見せてくれた。セピア色の写真には、もっとも円熟していた頃の「コウベハイボール」(写真左上)と、マスターの河村親一さん(写真右&左下)が紛れもなく写っていた。 この古き良き酒場の情景を皆さんにも見て欲しいと思って、接写させてもらったのがこの日記でも紹介した3枚。どれも、私にとっては、懐かしさで涙が出そうなほどの情景だ 河村さんはいつも白いバーコートに蝶ネクタイというスタイル。あまり笑わない、寡黙なマスターだったが、仕事は何もかも超一流だった。お店の名物の「ハイボール」は、きんきんに冷やしたサントリー・ホワイトとウイルキンソン炭酸でつくる。 今はなき「神戸サンボア」の歴史を受け継いだお店とあって、河村さんは氷なしのサンボアスタイルを継承したが、これが絶妙の旨さだった(当時1杯確か400円)。ついでに言えば、付きだしで供されるカレー風味のピクルス、これがまた美味だった。 酒場でのマナーにも厳しい人だった。大声を出したり、騒いだりする客には厳しく注意したし、スタンディングのカウンターはできるだけ多くの客が飲めるようにと、いつも気を遣い、客に声をかけていた。は、この「コウベハイボール」でBARという場所での大人の飲み方や、酒場でのマナーを学んだと言っても過言ではない。 「コウベハイボール」は、入居していたビル(朝日会館)の建て替えにぶつかった1990年、惜しまれながら、半世紀近い歴史に幕を閉じた。当時まだ68歳の河村さんだったが、後継者がいないこともあって建て替え後のビルには入らず、一代で店を閉じる決断をした。 最終日には、「コウベハイボール」に通い詰めた客たち(僕もその場にいた)が、古き良き酒場に悲しいお別れをした。私は友人らと費用を出し合い、河村さんに花を贈った(河村さんは1995年頃、一度お会いしたが、その後の詳しい消息は知らない)。 「コウベハイボール」のバック・バーの棚は幸い、しばらくの時を経て、冒頭、写真を見せてもらった「北新地サンボア」(大阪市北区曽根崎新地1-9-25 電話06-6344-5945)に移設された=写真右(オーナーのSさんの情熱のおかげだ)。 大阪に、「コウベハイボール」の想い出に浸れる空間があることはとても嬉しいが、個人的には、「コウベハイボール」という素晴らしい空間(酒場)がこの世から消えたことが痛恨というか、残念でならない。 古き良き酒場のない都会(街)には、私はほとんど魅力を感じない。人の匂いも、潤いも、温かさも感じられない、そんな街には私は住みたくない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/10
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92.X・Y・Z 【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ラム(30~40)、コアントロー(またはホワイト・キュラソー、トリプルセック)(15)、レモン・ジュース(15) ※ラム(20)、コアントロー(20)、レモン・ジュース(20)という等量のレシピもあります。 【スタイル】シェイク 誕生の正確な経緯は、残念ながらまったく不明ですが、1910~20年代のロンドンかニューヨークで「サイド・カー」のバリエーションの一つとして生まれたと言われています(出典:欧米のWeb専門サイト)。 カクテル名の「X.Y.Z.」の由来もよく分かっていません。日本のカクテルブックでは、アルファべットの最後にくることから、俗語で、「もう後がない(=これ以上のものはない)」「おしまい」「最高の、究極の」という意味で使い、このカクテルも、そういうという意味で名付けられたと解説する文献が目立ちますが、その根拠は示されていません。 しかし、カクテル研究家の石垣憲一氏は、その著書「カクテル ホントのうんちく話」(2008年、柴田書店刊)のなかで、「X・Y・Z」とは、「知られていない、あるいははっきりさせたくないもの(レシピは)ナ・イ・ショという意味である」と記していますが、石垣氏も、根拠となる資料について触れていないので、真偽のほどはよく分かりません。 「X.Y.Z.」と言えば、現代では通常ラム・ベースですが、不思議なことに、20世紀前半にはジン・ベースとラム・ベースの2種類の「X.Y.Z.」が存在していたのです。しかもジン・ベースの「X.Y.Z.」のレシピは、明らかにマティーニのバリエーションです。 欧米のカクテルブックで初めて「X.Y.Z.」という名前のカクテルが確認できるのは、1922年に米国で出版された「Cocktails: How to mix them」(Robert Vermeire著)です。しかし、そのレシピは「ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、レモン・ジュース4分の1個分、シロップ少々(シェイク)」となっていて、「(マティーニのバリエーションでもある)ブロンクスというカクテルのバリエーションである」と言及しています。 ラム・ベースでの「X.Y.Z.」が初めて活字になるのは、その8年後に出版された「The Savoy Cocktail Book(サヴォイ・カクテルブック)」(1930年刊)です。そのレシピは「バカルディ・(ホワイト)ラム2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)」とほぼ現代レシピと同じです。 ご参考までに、1930年代~70年代の欧米のカクテルブックで「X.Y.Z.」がどのように紹介されているのか、簡単に振り返っておきましょう。・「Cocktails」(Jimmy of the Ciro's著、1930年刊) ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、レモン・ジュース4分の1個分、シロップ少々(シェイク)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J. Tarling著、1930年刊) ホワイト・ラム2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊)※ジン・ベース、ラム・ベースの2種類が収録されています。 X.Y.Z. No1=ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1、レモン・ジュース4分の1個分、シロップ少々(シェイク) X.Y.Z. No2=ホワイト・ラム2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著、1948年刊) ダーク・ラム2分の1(※ダークラム・ベースは極めて珍しいです)、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「Old Mr. Boston Official Bartender's Guide」(1953年版) ホワイト・ラム2分の1、トリプル・セック(ホワイト・キュラソー)4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊) ダーク・ラム2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク) ちなみに近年はどうかと言えば、ベースを替えればほぼ同じカクテルとも言えるギムレットやサイドカー、バラライカの陰にかくれて、「X.Y.Z.」はあまり掲載されることは少ないのが現実です。探すのに苦労しましたが、何とか見つけたのが以下の一冊です。・「New York Bartender Guide」(Sally Ann Berk著、1995年刊) ライト・ラム7分の4、ホワイト・キュラソー7分の2、レモン・ジュース7分の1(シェイク) 「X.Y.Z.」は日本には、ジン・ベースのものは戦前に伝わっていますが、ラム・ベースのものが文献で紹介されるのは戦後の1950年代になってからです。ただし、現代の日本のバーでは、知名度がそれほどないためか、注文されることの少ない可哀想なカクテルになっています。【確認できる日本初出資料】「世界コクテール飲物事典」(佐藤紅霞著、1954年刊)。レシピは「ホワイト・ラム2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)」となっています。※日本では、1924年刊の前田米吉著「コクテール」に同名カクテルが登場しているのですが、ラム・ベースではなく、ジン・ベースです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/12/01
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私は2012年9月26日付の記事(リンクはこちら)で、SNS上の画像・写真の引用問題について記しました。その後、2018年と2019年に著作権法の改正がありました(2018年の改正は、主に環太平洋11カ国との「TTP協定」締結に伴うものです)。 今回遅まきながらですが、主な改正点を紹介するとともに、改正内容に合わせて前回の記事内容を追記・修正し、私たちがSNS上で「画像・写真を引用する場合」の注意点を、改めて紹介してみたいと思います(今回の追記・修正部分については、赤字で記しました)。【おことわり】前回同様の言い訳ですが、この記事は、あくまでSNS上での「画像の引用」ルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものです。しかし、私は法律の専門家ではありません。個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的なトラブルについては、私は一切の責任を負えませんので、疑問点等は文化庁や法律専門家にお尋ねください。なお、用語や解釈の間違い等のご指摘は歓迎いたします。→ arkwez@gmail.com まで宜しくお願いいたします)。 ◆改正・著作権法などの概要 改正著作権法は、2018年5月18日に成立し、2019年1月1日から施行されました。今回の改正は「デジタル・ネットワーク技術の進展により、新たに生まれる著作物の利用ニーズに的確に対応するため、著作権者の許諾を受ける必要がある行為の範囲を見直し、IT・情報関連産業、教育、障がい者、美術館等におけるアーカイブの利活用に関わる著作物の利用をより円滑に行えるようにする」のが狙いです。 具体的には、(1)一定の条件をクリアすれば、著作権者の許諾を得ないでも自由に利用できる範囲が広がった(2)IT技術開発・情報処理目的や検索エンジン(GoogleやYahoo等)のための著作物の利用は許諾がなくても可能に(3)授業などで教師が他人の著作物を用いて作成した教材を生徒に随時送信する行為も、公衆送信補償金の支払いで著作権者の許諾なく可能に(4)美術館などが収蔵・展示作品をデジタル化し、ネットワーク上で閲覧させる場合、許諾なく行えるようになりました。 また、ほぼ同時に、(5)TTP整備法を反映した改正(2018年6月9日成立、12月30日施行)も行われ、従来、作者の死後50年だった著作権保護期間は、米国の要請によって70年に延長され(末尾【注1】ご参照)、(6)海賊版の販売・送信行為への非親告罪化(著作権者の告訴がなくても起訴可能に)も導入されました。 ※(3)の補償金については、2020年4月からは年間1回のみの支払いで済む「ワンストップ補償金」制度が創設されました。この改正によって、オンライン授業における教材作成での規制や負担が大きく軽減されました(2020年度に関しては無料でしたが、2021年度から支払いが義務化されました)。「補償金」の料金体系や金額は以下の通りです。 ・学校種別の年間包括料金(公衆送信回数は無制限) 公衆送信を受ける園児・児童・生徒・学生1人当たりの額=大学720円/ 高校420円/ 中学校180円/小学校120円/ 幼稚園60円(※社会教育施設、公開講座等については、30人を定員とする1講座・講習を1回の授業として、授業ごとに300円) ・公衆送信の都度支払う場合の料金=1回・1人当たり10円(対象となる著作物、実演、レコード、放送、有線放送ごとに)。 ※「補償金」の支払い窓口・管理・著作権者への分配等は文科省から指定を受けた「一般社団法人:授業目的公衆送信補償金等管理協会(SARTRAS)」が担当します。料金等については3年ごとに見直しを行い、必要な措置を講じるとのことです。 ◆画像引用も基本は文章と同じだが… まず、基本的なことですが、写真やイラスト、絵画なども含むSNS上の画像についても、前回も紹介した「公正な引用のための要件」が適用されます。著作権法32条の「公正な慣行に合致し、報道・批評・研究など目的上、正当な範囲内で、定められ要件を満たしていれば、著作権者の了解なしに引用して利用できる」というのが前提です。 では、画像の合法的な引用・利用の基本要件はどうなるかですが、画像・写真の引用についても基本的に、「文章の引用」の場合と同じルールです。 (1)引用先は既に公表された画像であること (2)「公正な慣行」に合致すること =「公正な慣行」の定義は示されていませんが、判例等では、以下の(3)(4)(5)の要件がこれに当たるとしているケースが多いそうです。 (3)自分の著作物と、引用する画像との「主従関係」が明確であること =あくまで自分の文章が「主」で、引用された画像は「従」でなければなりません。「主」か「従」かは、著作物の目的・趣旨や引用した画像の大きさ、補足的なものとして使っているか等がポイントです。従って、小さな画像でもそれが「主」であれば違法となることもあります。 (4)引用する画像が、自分の著作物と明確に区別されていること(明瞭区別性) (5)引用する必然性があること(その引用が著作物の目的や構成上、必要・不可欠である) (6)出典・出所が明示されていること(著作権法48条) (7)画像に勝手な変更を加えないこと(加工したりしない) (8)引用しすぎないこと(過剰な枚数を引用したり、引用した画像のスペースが本文よりも大きいのは違法とみなされるおそれがあります) (9)報道・批評・研究などのための「正当な範囲内」であること(著作権法32条) ※(2)と(9)については、今回の法改正で追加された概念ではなく、旧法から存在した基準ですが、基本要件に含めている法律専門サイトが多いので、今回私も追加しました。 なお、「報道・批評・研究などのための『正当な範囲内』」という要件については、改正著作権法でも明確な定義は示されていません。唯一、判例で「社会通念に照らして合理的な範囲内のものであることが必要であり、具体的には、他人の著作物を利用する側の利用の目的のほか、その方法や態様、利用される著作物の種類や性質、当該著作物の著作権者に及ぼす影響の有無・程度などが総合的に考慮されなければならない」と示されている程度です(大阪地裁・2013年7月16日判決)。 すなわち、「引用に必然性・必要性があって、引用の分量や引用個所が適切であり、引用部分が明確に区別されている」などの条件を満たす必要があるのは当然だと思われます。 ◆出版社等の「禁止規定」は合法か、違法か 私たち個人がネット上で一番よく画像を「引用・利用」するケースとしては、(1)本や雑誌の表紙(2)CDやレコードのジャケット(3)映画のポスターや1シーン(4)市販商品の外観(5)ネット・オークションでの商品――などが代表的なものではないかと思います。このうち(5)については現在は原則、無条件の引用・利用が合法化されています。 (1)~(4)については、著作権法32条を守り、9要件をクリアすれば、誰でも合法的に引用・利用できるはずです。ところが、例えば出版社のHPにはよく、画像に関して以下のような禁止事項が列挙されています。表向きは、著作権者の許諾なしに一切の画像の使用はまかりならんという姿勢です。 ・出版物の装丁の画像の全体または一部を掲載することはできません ・キャラクターの画像および写真等の全体または一部を掲載することはできません ・ホームページの画像の全体または一部を転載することはできません ・法人企業のHPであっても、許可なく転載することはできません ・非営利であっても、個人サイトでの転載は「私的利用」にはなりません ・著作権侵害が行われた場合には法的手段をとることもありますので、ご注意ください 私も、Blogで時々、本の批評やCD、映画の感想など紹介しているので、本やCDジャケットや映画の1シーンの画像を借りることはあります。出典・引用元は可能な限り明示するようにしています。こうした利用は、著作権法32条に言う「公正な慣行に合致し、報道、批評、研究など目的上、正当な」という要件に当てはまり、合法的な利用です。 ここで疑問がわきます。「著作権法では正当な目的であって、主従関係を明確にして、引用元もきっちり明示すれば、画像の『引用』はできると認めている。こんな禁止規定自体が著作権法違反じゃないのか」という疑問です。そこで、法律専門サイト等でさらに調べたうえで、専門家の意見も少し聞いてみました。 ◆現実的には、出版社等は「黙認」姿勢 結論から言うと、文章の引用についてはこれまで判例がいくつもあって、様々な具体的ルールや指針がかなり周知されているのですが、画像については、争われた裁判(判例)がまだ少なく、違法か違法でないのかの基準が曖昧なままになっています。 知的財産や著作権法に詳しい杉浦健二弁護士は「一般的には、引用要件には法文上の明確な基準があった方がいいという意見もあるが、過度に明確化すると、インターネット等を中心とした利用形態の多様化に法律が付いていけず、弾力的な運用がしづらくなるため、引用要件にはある程度の“あそび”がある、現在の程度が望ましいと考えている」と記しています(出典:STORIA法律事務所Blog) 近年唯一、画像の無断使用で争われたとも言える有名な裁判に「脱ゴーマニズム宣言事件」(小林よしのり氏vs上杉聡氏)というのがあります。この裁判では漫画の引用問題が争点でしたが、1999年8月に東京地裁が出した判決「批評の対象を明確にするためには、絵も引用する必要があることを認める」「引用の要件を満たす限りは、引用が必要最小限であることまでは要求されない」(1999年8月31日)が現時点では数少ない判例です(参考:Wikipedia「脱ゴーマニズム宣言事件」)。 しかしながら、出版社はこうした判決が出た後も、禁止規定は撤回・変更していません。禁止規定は「任意規定であるから合法」という学説がある一方で、「このような規定自体が著作権法違反だ」という法律家もいます。法的見解が分かれる中、現実には、日本だけでも個人のHPやBlogで膨大な数の画像が引用・利用されています。 出版社やレコード会社等はいちいち告発したりせず、黙認しているのが現状です(おそらく、訴えたあげく不利な判例が出て、自分で自分の首を絞めるのが怖いというのもあるのでしょう)。現実には、個人やNPOのHP、Blogのように非営利目的であればあまり目くじらは立てないという姿勢だと思いますが、私たちはやはり、節度ある引用・利用に徹したいと思います(ちなみに、著作権侵害した場合の刑罰は、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金という結構重いものなので、くれぐれも安易な画像利用・引用には十分気を付けたいところです)。 ◆1、2枚の画像引用なら、まず問題なし 今回、法律関係者に直接尋ねたり、著作権問題を取り上げた法律事務所のWEBページの解説を調べたりしたところ、結論として、少なくとも以下のようなことは言えるかと思います。 ・SNS上の画像引用についても、冒頭にも挙げた、正当な引用のための「9つの要件」は最低限満たさなければならない。報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範囲内であれば、原則として問題はないが、「正当な目的」と「正当な範囲内であること」が大事(単なる日常雑記のような文章に、権利者が存在する必然性もない画像を勝手にアップするのは避けるべきである)。 ・静止画については、「要件を満たしていれば、引用が正当な範囲内に収まる可能性が高い」(斉藤博『著作権法』236頁、2000年、有斐閣刊)というのが学界の多数説。音楽評論や映画評論で1、2枚の画像をコピーして載せるのはセーフ。しかし、「必然性もないのに、例えば、自分のブログのトップにミッキー・マウスの画像をコピーして載せるというのは危ない」とのこと(とくに、ディズニー社は著作権、商標権にうるさいことで有名なので要注意)。 ・引用する画像の色合い等を、画像ソフトを用いて改変してはならない(唯一、画像のサイズ拡大、縮小は認められている)。 ・「出所の明示は合理的な態様で」というのが法の規定。著作権者名があればベストだが、不詳であれば、出典WEBサイトのURLを明記することが望ましい。いずれにしろ、企業の公式HPならともかく、個人の私的なBlogに静止画を少し載せるくらいなら訴えられることはまずないだろう。 ・ただし、この問題に関しての最高裁判決はなく、下級審判決例も、上記の要件のそれぞれに対するウエイトのかけ方が異なるので、難しい面がある。そもそも、「公正」とか「正当」とか、必ずしも利用者にわかりにくい基準で、裁判になってみなければ、それに反しているかどうか結論は出せない。おそらくそのような現状からして、新聞社、出版社などの権利者側からは、原則に戻って、許諾がいるというように警告を発しているのだと思う。 ・著作権法の引用要件を明らかに満たしている場合は、利用者は権利者に事前に許諾をとる必要はない。権利者が「利用を認めます」と回答してくれる可能性は低く、かさねて許諾まで取りにいくメリットは皆無で、かえってリスクが高い行為になる(「ダメ」と言われた場合、身動きがとれなくなる)=上記STORIA法律事務所Blogより。 ◆画像転載が合法化されているもの なお、SNS上での画像の引用・利用が(条件付で)自由に認められているものもあります。例えば、以下のようなものです。 ・ネット・オークションに添える商品説明の写真掲載=インターネット・オークション等で売買する際、商品を確認するという必要性から、2009年の著作権法改正で、条件付き(著作権法施行令等で定めた大きさや精度等を遵守)でその画像を著作権者の許諾なく掲載することが合法化されました。今回の法改正ではさらに、美術品や写真の販売の際にも、カタログ等の図面として許諾なく掲載することが同様に可能となりました。 ・情報検索サービスを実施するために著作物の複製すること ・障がい者の教育・福祉活動等ために著作物を複製すること ・画素数を落とした画像、サムネイル(縮小)画像の利用 ※Amazonなどは「アフィリエイト」(【注2】)契約をすれば、画像を無料で利用できるというサービスをしていますが、私は利用していません。 ◆引用・掲載してはいけない画像とは 自分が撮った画像でもSNS上に掲載できないものもあります。例えば以下のようなもの――。 ・被写体から許可を得ていない画像(知らない人の顔がはっきりわかる状態で写り込んでいたら、肖像権の侵害だと言われるおそれがあります。モザイクをかけるなど個人を特定できないようにしてください。 ただし、友人らとの飲み会での写真なら許容範囲でしょう。いまどき、あなたがSNSをしていることを参加者が知っていて、携帯やデジカメで写真をとれば、参加者も「彼(彼女)のページに載るんだな」と了承したものとみなされるでしょうから)。 ・タレントなど著名人が写った画像(街でたまたま有名人を見かけて撮った写真を掲載すれば、場合によっては、「パブリシティ権」(【注3】)を侵害したと言われる可能性があります。店で女性と一緒のところを盗み撮りなどした画像なら、プライバシー侵害と言われる可能性もあります。 ・他人の著作物を撮った画像(滅多にないとは思いますが、著作権のある創作物を直接写真に撮ってSNS上に掲載すれば、著作権侵害と言われる可能性があるそうです)。 ・公序良俗に反する画像(これは当然ですね) ◆基本は自分の撮影にこだわりたい 私は基本的に、可能な限り、自分のSNS上では自分のカメラで撮影した画像を使うことにしています。自分の撮影を原則にしているのは、オリジナリティにこだわりたいことに加えて、リスク(転載を巡るトラブル)を減らしたいからです。 SNS上で無用なトラブルを招かないためには、安易に他のサイトから画像をコピーしてこないこと、そして引用・転載する場合でも、ルールやマナーをきちんと守ることが何よりも大切だと思います。私自身も現在、自戒の気持ちを込めて過去のBlogのページなどで使った画像について、順次、著作権法違反がないか再点検しています。必要な場合は、少なくとも「引用元」をきっちり明示したいと思っています。 【注1】1967年以前に著作者が死亡している場合: 著作者が亡くなったのが1967年以前であれば、2018年12月30日の改正著作権法施行以前に50年の保護期間(1968年1月から起算)が終了しているため、70年には延長されません(1967年に亡くなった芸術家で言えば、例えば、山本周五郎<作家>、壷井栄<作家>ら)。 なお、著作者が亡くなった後、著作権継承者がいなければ、原則として著作者死亡時点で著作権は消滅します。 【注2】アフィリエイト(Affiliate) 「成功報酬型広告」とも言われ、例えばHPやBlogである企業の商品の広告スペースを提供し、その広告を通じて商品が購入されたら、その企業や販売する店舗からHPやBlogの管理者(運営者)に成功報酬が支払われるという広告またはその形態を指す用語(出典:Wikipedia、All About「アフィリエイトとは?」 → http://allabout.co.jp/gm/gc/22964 ) 【注3】パブリシティ権 人に備わっている「顧客吸引力を中核とする経済的な価値」を保護する権利のこと(出典:Wikipedia、はてなキーワード → http://d.hatena.ne.jp/keyword/ ) 【御礼】この一文を書くにあたって、主に下記のWeb ページ上の解説やデータ、Q&Aから貴重な情報や示唆をいただきました。この場を借りて関係の皆様には心から御礼申し上げるとともに、そのページ(出典元)を紹介しておきます。 ・文化庁HP(著作権問題Q&A)→ https://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ ・「画像や情報の引用について 専門家Q&A」→ https://profile.allabout.co.jp/ask/q-46093 ・「画像の引用・転載に関する著作権について(Yahoo知恵袋)」→ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/ ・「ネット時代の著作権(大塚商会)」→ https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_howto/200911.html ・「HPやサイトで著作権違反にならない方法」→ https://nanapi.jp/15604 ・「著作権法上合法な引用の条件」→ https://puple.noblog.net/blog/a/10056206.html ・「ネット・Webサイトでの著作権」 → https://uguisu.skr.jp/html/kenri1.html ・「画像の著作権侵害を回避するために最低限理解しておくポイント」(東京スタートアップ法律事務所HP)→ https://tsl-magazine.com/category05/image-copyright-infringement ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作権法の引用要件を満たしているのに、かさねて許諾を得る必要があるのか」(STORIA法律事務所Blog)→ https://storialaw.jp/blog/6114 ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権を侵害せずに文章や画像を引用・転載する方法」(ベリーベスト法律事務所HP)→ https://best-legal.jp/copyright-quotation-4942 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.html【おことわり】この日記は、画像「引用」のルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものですが、個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的な疑問やトラブルについては文化庁や法律専門家にお尋ねください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/06/20
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54.マティーニ(Martini)【現代の標準的なレシピ】(単位はml ) ジン(45〜60)、ドライ・ベルモット(5~15)、アンゴスチュラ・ビタース1dash、レモンピール、オリーブ(飾り) 【スタイル】ステア ※誕生当初はスイート・ベルモットを使う甘口レシピが主流でした。ジンとベルモットの比率は時代とともにドライ化の傾向が強まり、かつては3:1~4:1くらいが主流だったのが、今日では、5:1~9:1のようなエクストラ・ドライが好まれるような時代になっています。 ◆当初は ジン+スイート・ベルモット マティーニは「カクテルの王様(The King Of Cocktails)」と称されるほど有名なカクテルです。しかし、誰がいつごろ考案したかについては、確実な資料はほとんど伝わっておらず、どう発展していったのか(改良されていったか)についても、今日でもなお多くの論争があります。 「バーテンダーが100人いれば100通りのレシピがある」とも言われるマティーニには、現代でも「絶対的なレシピ」というものは存在しません。いちおう、「NBAバーテンダーズ・バイブル」と「HBAバーテンダーズ・マニュアル」で現代の標準的なレシピを確認しておきますと、レシピは、「ジン(45~50ml)、ドライ・ベルモット(10~15ml)、オレンジ・ビタース1dash、レモンピール、オリーブ(飾り)、ステア・スタイル」となっています(オレンジ・ビターズの代わりにアンゴスチュラ・ビターズを使うレシピも)。 さて、マティーニの原型となったドリンクとしては、数多くの文献は、1860年代初頭、サンフランシスコのオクシデンタル・ホテル(The Occidental Hotel)のバーで伝説的なバーテンダーだった、ジェリー・トーマス(Jerry Thomas)による「マルチネス(Martinez)・カクテル」を挙げます。このカクテルをベースにして、その後さまざまなバーテンダーが関わり、発展してきたと伝わっています(出典:Wikipedia英語版)。 ちなみに、トーマスによる「マルチネス・カクテル」のオリジナル・レシピは、「オールドトム・ジン1pony(30ml)、スイート・ベルモット1Grass(分量不明)、マラスキーノ2dash、シロップ2dash、ビターズ1dash、小さい角氷2個、シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、4分の1サイズのレモンスライスを入れて提供する」となっています。 一方で、原型になったのは「ジン&イット(Gin and It)」というカクテルだという説もあります。ジンとイタリアン(スイート)・ベルモットを使うこのカクテルは、ベルモットにイタリア「マルティーニ(Martini)」社の製品が指定されていたため、この「ジン&イット」から発展したカクテルが「マティーニ」と呼ばれるようになったといいます(出典:http://www.geocities.jp/bargold2004/martini.html)。だが、欧米の文献やWeb専門サイトを見る限り、この説を肯定しているは少数派です。 誕生当初から20世紀初め頃まで、マティーニはジンとスイート・ベルモットでつくるのが主流(標準的なレシピ)でした。その後、スイートとドライの両方のベルモットを使うレシピが登場し、さらにジンとドライ・ベルモットでのレシピも考案され、現代の標準レシピにつながっていきます(現代では、超ドライ化の流れに従って、ベルモットの割合は減る一方です)。手元にある欧米のカクテルブックを見る限り、ドライ・ベルモットを使うレシピが主流になったのは、1930年代以降のことと思われます。 ◆文献初登場は1888年か 「マティーニ(・カクテル)」の名が初めて活字で登場するのは、国内外の文献では従来しばしば、パリで1904年に出版されたフランク・ニューマン(Frank Newman)著のカクテルブック『アメリカン・バー(American Bar)』、あるいは、米国で1906年に出版されたルイス・マッケンストゥラム(Louis Muckenstrum)著の『ルイスズ・ミクスド・ドリンクス(Louis' Mixed Drinks)』がもっとも早いと紹介されてきました。 しかし、近年の研究では、米国のバーテンダー、ハリー・ジョンソン(Harry Johnson)が米国で出版した『バーテンダーズ・マニュアル(The Bartender's Manual)』(初版は1882年)の1888年に出た第2版にすでに登場していることが分かっており、これが活字となった初めての文献と言えるでしょう。ジョンソンの本では、「オールドトム・ジンとベルモット(スイートかドライかは不明)各ワイングラス0.5杯、シロップ2~3dash、ボウカーズ・ビター2~3dash、オレンジ・キュラソーまたはアブサン1dashをステア、マラスキーノ・チェリーまたはオリーブを沈めて最後にレモン・ピール」というレシピになっています。 一方で、ニューマンやマッケンストゥラムの本では、従来のイタリアン・ベルモットを使うスタイルとともに、フレンチ(ドライ)・ベルモットを使う新しい辛口スタイルの「マティーニ・カクテル」が併せてはっきりと紹介されていて、1900年頃には、現在のマティーニに近いものが飲まれていたことが分かります。 スイート・ベルモットを使うレシピが主流だった時代、ベルモットは「マルティーニ」社の製品を使うことが主流でした。カクテル史に詳しい米国のバーテンダー、ジム・ミーハン氏は「このマルティーニ社のベルモットの評判が、『マティーニ』=綴りは「マルティーニ」と同じ=という名でカクテルが普及・定着していくのに影響を与えたのではないか」と語っています。 しかしドライ化の流れで、マティーニにはドライ・ベルモットを使うのが主流になってゆくと、同じドライ・ベルモットでも「ノイリー・プラット(Noilly Prat)」社に人気がシフトしていきます(ちなみに、現代のバーでは「ノイリー・プラット」「チンザノ」「マルティーニ」の大手3ブランドがしのぎを削り、「ドラン」「ガンチア」などもよく使われていますが、ノイリー・プラット社は、その後バカルディ・マルティーニ社に買収され、その傘下に入っているのは皮肉なことです)。 ちなみに意外な事実かもしれませんが、1920年頃までは、マティーニにオリーブを添えるスタイルはほとんどありませんでした。オリーブを添えたマティーニが初めてカクテルブックで確認できるのは、1903年に出たティム・ダリー(Tim Dary)著の「Dary's Bartenders' Encyclopedia」です。オリーブを添える(または沈める)現代レシピが定着してくるのは、米禁酒法が廃止となった1933年以降です。 ◆ドライ化への流れをつくったマッケルホーン 甘口が主流だったマティーニはいつ頃から辛口へ方向転換を始めたのかは、すでに前述のニューマンの本(1904年)やマッケンストゥラムの本(1906年)にその萌芽が見えますが、影響力という意味で言えば、やはり、歴史上重要な三大カクテルブックの一つ、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の「ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)が転換点だったのではないかと思います。 注目すべきは、マッケルホーンは「マティーニ・カクテル」としては、ドライ・ベルモットを選択していることです。そのレシピは「ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、オレンジ(またはアンゴスチュラ)・ビターズ1dash(シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、チェリーを飾る)」となっています。当時としてもバー業界やバーテンダーに大きな影響を与えたであろうマッケルホーンの本が「ドライを選択した」ことが、後のドライ(辛口)化への流れをつくったと言えるかもしれません。 (※ただし、マッケルホーンは「マティーニ・スイート」=ジン3分の1、スイート・ベルモット3分の2、ガムシロップ1dash、飾り=チェリー(シェイク)、「マティーニ・ミディアム」=ジン3分の1、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット3分の1(シェイク)というレシピも併せて収録しています)。 マッケルホーンはつくり方も、それまでもあったステア・スタイルではなく、シェイク・スタイルを指定しています。下記にも紹介していますが、「サボイ・カクテルブック」の著者、ハリー・クラドックも同じくシェイクを指定しています。1920〜30年代のカクテルの両巨頭が、ともに「シェイク・スタイル」を選択しているのは、とても興味深いことです。 ◆カクテルブックにみるレシピの変遷 では、1880~1950年代の欧米の主なカクテルブック(「ABC Of …」以外)は「マティーニ」をどう取り扱っていたのか、どういうレシピだったのか、ひと通りみておきましょう。・「Modern Bartender's Guide」(O.H. バイロン著、1884年刊)米 掲載なし・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年刊)米 オールドトム・ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ4drops、レモンピール(ステア)・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年刊)米 オールドトム・ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ3dash、レモンピール、マラスキーノ・チェリー=飾り(お好みで)(ステア)・「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(ティム・ダリー著、1903年刊)米 オールドトム・ジン2分の1、ベルモット(スイートかドライか不明)2分の1、オレンジ・ビターズ2dash、オリーブを沈める(ステア)・「American Bar」(フランク・ニューマン著、1904年刊の第2版、1900年初版には掲載されず)仏 ジン4分の3、ドライ・ベルモット4分の1、アンゴスチュラ・ビターズ(またはオレンジ・ビターズ)3dash、レモン・ピール(ステア)※スイート・ベルモットのマティーニも紹介・「Louis' Mixed Drinks」(ルイス・マッケンストゥラム著、1906年刊)米 ジン2リキュール・グラス、ドライ・ベルモット1リキュール・グラス、キュラソー1dash、レモン・ピール(ステア)※スイート・ベルモットのマティーニも紹介・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザース編、1912年刊)米 ジン2分の1、ベルモット(スイートかドライか不明)2分の1、キュラソー(またはアブサン)1dash、ビターズ1~2dash、ガム・シロップ2~3dash、レモンピール(ステア)・「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊)米 掲載なし・「Cocktails: How To Mix Them」(ロバート・ヴァーマイヤー著、1922年刊)英 ドライ・ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ビターズ1dash、レモンピール(ステア)・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著、1930年刊)英 ドライ=ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、ミディアム=ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、スイート=ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1(いずれもシェイク・スタイル)・「Cocktails by “Jimmy” late of Ciro's」(1930年刊)米 ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモンピール、オリーブとともに・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 ドライ=ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、ミディアム=ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、スイート=ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1(いずれもステア・スタイル)・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著、1934年刊)米 ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ2dash、レモンピール、オリーブ(ステア)・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ダフィー著、1934年刊)米 ジン5分の4、ドライ・ベルモット5分の1、レモンピール、オリーブ(ステア)・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 スタンダード=ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ1dash、レモンピール、オリーブ、ドライ=ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、スイート・ベルモット4分の1、レモンピール、オリーブ、ミディアム=ジン3分の2、ドライ・ベルモット6分の1、スイート・ベルモット6分の1、レモピール、オリーブ、スイート=ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1(いずれもステア・スタイル。シェイクも可)・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 ドライ=ジン45ml、ドライ・ベルモット23ml、ビターズ1dash、オリーブ、ミディアム=ジン45ml、ドライ・ベルモット15ml、スイート・ベルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dash、オリーブ、スイート=ジン45ml、スイート・ベルモット23ml、オレンジ・ビターズ1dash、チェリー(いずれもステア)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ドライ=ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、ミディアム=ジン2分の1、ドライ・ベルモット4分の1、スイート・ベルモット4分の1、スイート=ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1(いずれもシェイク)・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 スタンダード1=ジン45ml、ドライ・ベルモット1dash、オリーブ、スタンダード2=ジン45ml、ドライ・ベルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dash、オリーブ、ミディアム・ドライ=ジン30ml、ドライ・ベルモット7.5ml、スイート・ベルモット7.5ml、オリーブ(いずれもステア)・「Esquire Drink Book」(フレデリック・バーミンガム著 1956年刊)米 ジン4分の3(または3分2)、ドライ・ベルモット4分1(または3分の1)、オレンジ・ビターズ1dash、レモンピール(ステア) 余談ですが、マティーニを愛した著名人は枚挙にいとまがありません。有名なところだけでも、元・英首相ウィンストン・チャーチル(超辛口を好み、ベルモットを眺めながら呑んだという逸話も)、俳優クラーク・ゲーブル(ベルモットのコルクでグラスを拭き、冷えたジンを注いで呑んだという逸話が)、俳優ハンフリー・ボガート、元・米大統領フランクリン・ルーズベルト、作家アーネスト・ヘミングウェイ、作家サマセット・モーム、元・米大統領ジョン・F・ケネディ、実業家ジョン・D・ロックフェラー、元・英首相マーガレット・サッチャーほか、数えきれないほどです。 ◆日本にも早い時期に伝わる さて、日本におけるマティーニの歴史はどうだったかと言えば、欧米とそう大きな時間差はなく伝わっています。確認できる史料によれば、日本で初めて活字でマティーニが紹介されたのは、1907年(明治40年)刊行の「洋酒調合法」(高野新太郎編)ですが、おそらくは日本が開国して外国人居留地が横浜や神戸に誕生して以降、少なくとも1890〜1900年代には外国人向けホテル等では提供されていたのではないかと想像されます。 この「洋酒調合法」で紹介されたレシピ(本稿末尾)では、ベルモットはドライかスイートかには触れていません。その6年後に刊行された「飲料商報・西洋酒調合法」(伊藤耕之進編)では「ジン3分の2、ドライ・ベルモット3分の1、オレンジ・ビターズ2dash、レモン皮(ピール)」と辛口のレシピでしたが、その後日本で1924年に出版された日本最初期のカクテルブックでは「ベルモットはイタリアン(スイート)ベルモットを使う」と記されており、初期の頃は、ベルモットの種類は依然揺れていたようです。 ちなみに、日本で「ミスター・マティーニ」とも言われたパレス・ホテルのチーフ・バーテンダー、故・今井清さん(1924~1999)のレシピは、「ジン(銘柄は「ゴードン」)55ml、ドライ・ベルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dash、レモンピール、オリーブ(飾り)」でした(※1960年代後半のレシピ。晩年はより辛口へ変化)。 近年では、銀座「モーリ・バー」毛利隆雄さんのマティーニが有名です。毛利さんと言えば、かつては「ジンはブートルズ」が定番でした。そのレシピは(10年ほど前に出された著書によれば)「ブードルズ・ジン60ml、ドライベルモット2.5ml、オレンジ・ビターズ1dash、レモンピール、オリーブ(飾り)」(超ドライな味わい)でしたが、ブードルズが終売になってしまったため、現在は別のジン(「BBRのNo.3」と「シップスミス」のブレンド)をベースにされているとのことです。 たかがマティーニ、されどマティーニ。マティーニはこれからもバーのカウンターを挟んで、マスター(バーテンダー)と客側の双方で、さまざまな話題となり、伝説を生み出して行ってくれるでしょう。 【確認できる日本初出資料】「洋酒調合法」(高野新太郎編、1907年刊)※欧米料理法全書附録という文献。レシピは「オールドトム・ジン2分の1、ベルモット(※ドライかスイートかの言及なし)2分の1、ビターズ2~3dash、ガム・シロップ2dash、オリーブ(またはチェリー)、レモンの皮(ピール)」となっています。 ※この項の作成にあたっては、石垣憲一氏の労作(上記)にひとかたならぬお世話になりました。改めて心から感謝申し上げます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/13
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北海道・札幌市。日本有数の大都市であり、「ススキノ」という大歓楽街を抱え、歴史と伝統のあるBARも多い。 日本全国のBAR巡りを続けている私だが、大都市の中でも、まだほとんど足を踏み入れてなかった街だった(写真左=札幌最大の歓楽街「ススキノ」のシンボル、ニッカのヒゲのおじさんのネオンサイン)。 そんな札幌に、先週末お邪魔してきた。札幌を訪れるのは3度目だが、過去の2回はBARを巡る余裕がなかった。「この地のBARを訪れずしてはBARフリークとしての名がすたる」。そんな思いを長年ずっと抱いてきた。 で、満を持しての札幌のBAR巡りである。1軒目として選んだのは泊まったホテルからも程近い、Bar・Adonis(アドニス)=写真左下。 マスターのTさんは、同じススキノの「ラルセン」という老舗BARで修業された後、1991年に独立された(写真右=BAR巡りの前にはまず腹ごしらえ。豪華な海鮮丼で腹一杯!)。 聞けば、僕同様、全国のBAR巡りが好きな友人とも顔見知りで、僕が大阪でよくお邪魔するBARのマスターとも親しいということで、親近感がぐっと沸く。 BAR巡りのスターターの一杯はいつものように、ジン・リッキー。旨いジン・リッキーは気持ちを爽やかに、そして気分を高揚させてくれる。 「今夜は何軒回るの?」と聞かれて、「少なくとも5軒が目標です」と言うと、「頑張ってね。札幌の夜を楽しんでよ」との優しいお言葉。迷わないようにと、行く予定の店々の地図まで書いてくれた。 店内の「音(音楽)」が温かい感じだなぁと思っていたら、真空管アンプだという。「お客さんが作ってくれたんですよ。その棚の上の樽のスピーカー(写真右)も」とマスター。 なるほど道理で、普通のアンプの音ではないと思った。「いいBARにはいいお客さんが集う」ってことの証かも。 2軒目。Adonisからそう遠くないビルの5階。迷わずにたどり着けた(Adonisのマスターの地図に感謝!)、目指すBARの名は「PROOF」=写真左。 優しい笑顔が自慢のマスターのNさんは、札幌の老舗中の老舗BARである「やまざき」のご出身。大阪からBAR巡りに訪れた旨を告げ、きょう訪れる5軒のBARの名を口にすると、「5軒の中に選んでもらって光栄ですよ」との嬉しいお言葉。 Nさんも独立されたのが90年で、Adonisとは1年違い。しかし、わずか17年で風格ある本格BARに育てあげられた(写真右=Bar PROOFの壁に掛かる油絵はなんとBarやまざきの山崎さん作)。 時間が早く、客は僕一人だったこともあって、Nさんはずっと僕の相手をしてくれたが、とにかくよく喋る、喋る。客をとことん歓待しようというホスピタリティにあふれた人だ。 「Nさんはどちらかと言えば、大阪のバーテンダーっぽいですよね」と言うと、嬉しそうに笑った。気さくな人柄に馴染んで、時間を忘れそうになったが、まだ予定があるので、後ろ髪を引かれる思いで、店を後にする。 さて、3軒目。そろそろ8時過ぎ。先ほど少し触れた札幌を代表する老舗BAR「やまざき」(写真左)にお邪魔する。 1958年(昭和33年)の開業。マスターの山崎達郎さん(写真右)は御歳、87歳だが、とてもそんな歳には見えない。耳は少し遠いけれど足腰は丈夫で、歩くスピードは40代の男性と変わらない! 「やまざき」の名物は、山崎さんの特技でもある「顔のシルエットの紙切り絵」。白い画用紙をはさみ1本で巧みに切り抜き、客の横顔の造っていく。 シルエット絵は2枚重ねの紙で切り抜かれ、1枚は黒い画用紙の台紙に張って客にプレゼントしてくれる。 そして、もう1枚はお店のアルバムに保存される。アルバムに張る1枚には「名前を書いといてね」とペンを渡された。僕の横顔(写真左)が「やまざき」の歴史の1ページに残されると思うと嬉しい限り。 最近はほとんどシェーカーを振らないと聞いた山崎さん。だが、この夜は、「オリジナル・カクテルを何かお願いします」と頼むと、「インバネス」という名のカクテルをシェークで作ってくれた。 スコッチウイスキー・ベースにドライ・ベルモット、アクアヴィット、ブルー・キュラソーを加え、ボディのしっかりした爽やかな味わい。滅多に振らない山崎さんのシェークを間近で見られた僕は幸せ者かも。 山崎さんはこの夜、すこぶる機嫌が良かったのか、カウンターの上で、もう一つの特技(僕は知らなかったが)であるトランプ手品まで披露してくれた。札幌のバーテンダーはとにかく客を喜ばせる術を知っている。 幸せな気分に包まれながら、次なる酒場に移動へ。4軒目は、ススキノのメインの交差点角のビル8階にある、Bar・コオ(KOH)=写真左。ここも老舗BARの1軒と聞いていた。 扉を開けると、週末の夜9時半すぎとあって、超満員の賑わい。従業員の皆さんも大忙し。幸い、カウンターに1席空いたとのことで、腰を落ち着けることができた。きょうはどこを回ってもツイている。 73年のオープンで、ススキノの盛衰をずっと見てきたマスターOさんは、白いバーコートがよく似合う、柔和な感じのベテラン・バーテンダー。店も明るい雰囲気で、ノーチャージというから嬉しい。 この夜は超満員とあってかマスターのOさんは接客で忙しく、あまりお話はできなかった。帰り際、「お構いできなくてすみません」と見送ってくれた。まぁ、BAR巡りをしているとこういうこともある。「コオ」の雰囲気を味わえただけでも良かった。 さて、札幌の第一夜の締めのBARは、「やまざき」出身で、バーテンドレスでもあるNさんが開く「ドゥ・エルミタージュ」へ(写真右)。 82年に独立されたNさんは、おそらくは、札幌のバーテンドレスのなかでも先駆者だと思うが、身のこなしでも、風格があふれる。もう夜の11時近くだが、ここもほぼ満員(写真左=Nさんと記念のツー・ショット)。 「タクシーで帰っても千円くらいのところにみんな住んでいるから、安心して飲めるんですよ」と、あるマスターが言っていた。地方都市なら分かるが、札幌は大都市なのに、羨ましい限りだ。 店は「コオ」とは逆に、ライティングは極力抑えた、大人のムード。カウンター席にはだから、カップルも多い。そんな中で、僕はこの夜の締めの1杯目にまず、モスコー・ミュールを頼む。 Nさんに「大阪から来て、BAR巡りをしてまーす。5軒目です」と言うと、「5軒も!凄いですね。お酒強いですね」と笑って一言。自分では、顔にも出るし、決して「強い」とは思わないが、結構長くしぶとく飲めることは飲める。 2杯目にはアイラのヴァッディド・モルト(写真右=モルトも充実!)を飲みながら、Nさんと、お師匠である山崎さんのことや、ご主人が営むという仙台のBARの話などで盛り上がって、夜は更けていった。 札幌のバーテンダーの皆さんはとにかく、気さくで親切。ひと言で言って、旅の人間をもてなす「ホスピタリティの固まり」という人たちばかりだった(お値段も随分サービスしていただいて感謝感激!)。 翻って、銀座や大阪・北新地のBAR(バーテンダー)はどうだろうか。他の土地から訪れた旅人たちに、「いい思い出」を持ち帰ってもらう努力を十分やっているだろうか(老舗でも、不快な印象を与えがちなBARもある)。札幌の業界人に学ぶところが多いと思った夜でもあった(写真左=最後の締めには、やはり味噌ラーメン。「三極」というお店。結構好みの味でした)。 【Bar Adonis】札幌市中央区南四条西5丁目、第4藤井ビル4F 電話011-219-0456 【Bar PROOF】同南三条西3丁目、都ビル5F 電話231-5999 【Bar やまざき】同南三条西3丁目 克美ビル4F 電話221-7363 【Bar コオ】同南四条西3丁目、すすきのビル8F 電話531-2801 【ドゥ・エルミタージュ】同南三条西4丁目、南3西4ビル10F 電話232-5465(営業時間、定休日等は各店へお問い合わせください)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2007/04/16
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◆(6)禁酒法の終焉 禁酒法は都市部を中心に全米各地で違法な密売、「もぐり酒場」の営業などの横行を生んだうえ、ギャングによる抗争など犯罪は増えて、治安は悪化するばかりでした。また、取り締まり基準が地域(州)ごとに違ったことや、取り締まる捜査官(警官)、判事らの汚職・腐敗もあり、都市部住民からの反発が年々高まってきました。 折しも1929年10月、ウォール街での株の大暴落をきっかけに大恐慌が始まり、米経済は不況のどん底に陥りました。政財界や労働組合からは、禁酒法を廃止し、酒造業再開による雇用増や酒税徴収による予算での不況対策を求める声が日増しに大きくなってきます。 禁酒法施行中、本来得られるはずだった毎年5億ドルものアルコール課税収入分が不足し、政府の財政にも悪影響を与えたと言われています(WK)。そして迎えた1932年の大統領選では、失業対策と農民救済が叫ばれる中、禁酒法の改正を訴えたフランクリン・ルーズベルトが勝利するのです。 ルーズベルト大統領は、翌1933年3月、「ボルステッド法」(禁酒法施行の具体的内容を定めた法律)のカレン・ハリソン修正案に署名し、「容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造」は合法化されることになりました。 さらに憲法修正18条自体も、修正21条の成立により12月5日に廃止され、「ボルステッド法」はその役目を終えることになったのです(写真左=禁酒法廃止を伝える新聞)。 しかし、禁酒法廃止は全米一律ではありませんでした。連邦政府がこうだと決めても各州ではなかなかその通りには従わないのが、アメリカ合衆国という国の不思議なところです。ミシシッピ州が廃止したのは33年後の1966年、カンザス州に至っては、なんと、1987年まで屋内施設で酒類を提供すること(いわゆるバー営業)が許可されませんでした(WK)。 映画「アンタッチャブル」を観た方はよくご存知でしょうが、シカゴの暗黒街のボスだったアル・カポネは、エリオット・ネスのチームによる捜査の結果、1931年10月、22件の脱税の罪などで連邦大陪審に起訴されました。カポネは陪審員を買収しようと試みましたが失敗し、検察側が申請した側近の会計責任者の有力証言もあって、同年10月17日、懲役11年の有罪判決が下されました。 カポネは上訴したが退けられ、同年10月24日、郡刑務所に収監されました。刑務所から最後の望みをかけて出した再審請求も最高裁から却下され、翌1932年5月、カポネはアトランタ刑務所へ移送されます(さらに8月には、あの悪名高いサンフランシスコ湾内の孤島「アルカトラス刑務所」へ再移送されました)。 服役中のカポネは、刑務所内の靴工場の作業や風呂場の掃除係までこなしたということですが、そのうち神経梅毒の症状が悪化します。加えて、囚人たちから暴行や嫌がらせを受けたこともあって精神にも異常をきたすようになりました。 そして1939年11月16日、カポネは刑期満了前に釈放されました。釈放された時、「(カポネは)かつての暗黒街のボスという面影はなく、まったく別人のようだった」と当時の証言は伝えています(WK)(写真右=カポネが事務所兼常宿としていたシカゴのレキシントン・ホテル【注】 1994年夏、筆者写す)。 カポネはその後ボルチモアやフロリダの病院などで療養を続けました。当時最新の梅毒治療薬であった「ペニシリン」も試みましたが、病気が進行し過ぎていたため症状はあまり改善せず、1947年1月25日、48歳の若さで亡くなりました。かつて君臨したシカゴへは終生戻ることはなかったといいます(WK)。 カポネは「極悪非道の犯罪者」というイメージで見られがちですが、晩年の姿を知ると、同情を誘います。イタリア系移民の息子で、「アメリカン・ドリーム」の体現者でもあったアルフォンス・カポネは、シカゴ西方のヒルサイドという小さな町の墓地に埋葬され、現在は父母や弟たちとともに永遠の眠りについています(B)。 米国史上、「高貴な実験」と称された禁酒法は結果として、様々な矛盾や犠牲を生んで、失敗に終わりました。禁酒法が我々に残した教訓は、「酒に対する人間の基本的欲求を、宗教的・道徳的な規範で縛ることなど決してできない」「酒への欲求を法で縛れば、その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ」ということでしょう。。 第一次大戦での国家的危機感がゆえに、宗教的・道徳的規範が人間本来の欲求に優先すると信じた当時の米国の政治・宗教指導者たちは、今思えば愚かな人たちに見えます。国家が合法的に大衆を抑圧するのは、有権者の一時的な熱狂・妄信を後ろ盾にすればそう難しくないのです。それは、あのヒトラーが証明しています。 しかし、ワン・フレーズのスローガンに煽られて、大衆がみんな同じ方向へ一斉に走り出してしまう社会ほど怖いものはありません。かつてナチス政権登場時のドイツや、太平洋戦争に突き進んだ日本を思えば、私たちは、あの時代の米国の指導者や米国人をどれほど笑えるでしょうか。【注】カポネはこの「レキシントン・ホテル(The Lexington Hotel)」の1フロアほぼすべてを使い、様々な闇ビジネスの拠点とし、自らの住居にも使った。ホテルはその後「ニュー・ミシガン・ホテル」と名前を変え営業を続けたが、1986年に廃業した。廃墟となった建物はしばらくの間、シカゴの人気観光スポットにもなっていたが、老朽化とこの地域の再開発のため、1995年に取り壊された。現在、跡地には高層マンションが立っているという。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/17
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53.マルチネス・カクテル(Martinez Cocktail)【現代のレシピ】(※このカクテルに関しては現代においても「標準的」なものがなく、かなりレシピの幅が広いです) ジン(20~50ml)、スイート・ベルモット(20~50ml)、ドライ・ベルモット(0~20ml)マラスキーノ(またはオレンジ・キュラソー)1~3dash、オレンジ・ビターズ(またはアンゴスチュラ・ビターズ)1~3dash、レモン・ピール ※ただし、うらんかんろ個人として作る場合は、ジン30ml、スイート・ベルモット40ml、マラスキーノ2dash、オレンジ・ビターズ2dash、レモン・ピールというレシピでつくっています 【スタイル】ステア(またはシェイク) 「マルチネス・カクテル」は19世紀半ば~後半の米国で誕生したと伝わり、マティーニの原型とも言われる代表的な古典的カクテルです。その後に誕生したマンハッタンやマティーニへの「橋渡し的な役割」を担ったカクテルとも位置づけられています。 「マルチネス・カクテル」が初めて活字で紹介されたのは、”カクテルの父”とも言われる、かのジェリー・トーマス(Jerry Thomas 1830~1885)が著した世界初の体系的カクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)の改訂版(1867年刊)です。従来は以下のような、真偽不明の「誕生にまつわる逸話」が、たびたび文献や専門サイトで紹介されてきました。 「カクテル名の『マルチネス』は、米国カリフォルニア州の都市名(サンフランシスコの東約40マイル)に由来する。ゴールドラッシュ時代(1848~55年)のサンフランシスコ、同地のオクシデンタル・ホテルでバーテンダーをしていたジェリー・トーマスが、金鉱探しにやって来た男の客から『マルチネスへの旅立ちのために、元気になる一杯を』と頼まれ、つくったのがこのカクテルである」 しかし現時点で言えることは、「考案者は伝わっておらず、誕生の経緯・由来も残念ながら不明な部分が多い」ということだけです(トーマス自身もその著書では、由来については何も触れていません)。 一方で、当時よく使用されていたベルモットが、イタリアのマルティニ社製だったことから、その社名にちなんで「マルチネス」と呼ばれるようになったという説もあります。しかし、これも根拠資料やデータは伝わっていません。余談ですが、カリフォルニア州のマルチネス市には現在、「マティーニ発祥の地」を記念する石碑(いささかこじつけ気味だと思うのですが…)が建てられているといいます(出典:http://blog.livedoor.jp/bar_kimura/archives/8747718.html )。 ところで、ジェリー・トーマスが「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)の1867年の改訂版で初めて紹介したマルチネス・カクテルのレシピは、以下の通りです。「オールドトム・ジン1pony =【注1】ご参照、スイート・ベルモット1wineglass=【注2】ご参照、マラスキーノ2dash、アロマチック・ビターズ1dash。しっかりとシェイクし、大きめのカクテルグラスに注ぐ。4分の1の大きさのスライス・レモンをグラスに入れる。もしゲストが甘口の味わいを望むのであれば、ガム・シロップ2dashを加える」。 【注1】ponyは当時の液量単位で1ponyはほぼ1mlに相当。【注2】このwineglassの容量についてトーマスは明記していませんが、同著の挿絵に描かれたwineglassの絵を見ると、約60~90mlくらいと想像できます。 さらに今回、改めて様々な情報を集めていると、とても興味ある見解に出合いました。現在では英国のドライジン・ベースが当たり前となっているマルチネス・カクテルですが、誕生当時はオランダジンである「ジュネヴァー」を使っていたというのです(出典:diffordsguide.com/encyclopedia/1066/cocktails/martinez-cocktail)。確かに、19世紀後半だと、米国においてはジンは英国産よりオランダ産の方が主流だったでしょうし、あり得ない話ではないと思います。 ちなみに紹介されていたレシピは「ジュネヴァー50ml、スイート・ベルモット30ml、ドライ・ベルモット10ml、オレンジ・キュラソー8ml、アンゴスチュラ・ビターズ1dash」となっていました。時の流れで、ジンの主流がオランダから英国へ移行する過程で、こうした「過去」も忘れさられていったのかもしれませんが、ただしこの「ベース=ジュネヴァー起源説」が正しいのかどうかも、根拠資料が示されていないので現時点では何とも言えません。 ご参考までに、トーマスの本以降に出版された主なカクテルブックで、「マルチネス・カクテル」のレシピをざっと見ておきましょう。注目すべきは、現代の標準レシピとは違って、(スイート・ベルモットではなく)ドライ・ベルモットを使うレシピが目立つことです。これはやはりマティーニへ発展していく過程で、レシピが揺れていたことの証でしょう。・「The Modern Bartender's Guide」(O.H.Byron著、1884年刊)米 Martinez Cocktail No.1=ジン0.5pony、ドライ・ベルモット1pony、アンゴスチュラ・ビターズ3~4dash、ガム・シロップ3dash Martinez Cocktail No.2=ジン0.5wineglass、ドライ・ベルモット0.5wineglass、キュラソー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、ガム・シロップ3dash ※No.1、No.2いずれもステア なお、Byronによる以下のような別レシピも伝わっています(出典:ginfoundry.com/cocktail/martinez-cocktail/)。 オールドトム・ジン30ml、スイート・ベルモット30ml、キュラソー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash・「Cocktails:How To Mix Them」(Robert Vermier著、1922年刊 )米 オールドトム・ジン4分の1gill(=30ml)=【注3】ご参照、スイート・ベルモット4分の1gill、アンゴスチュラ・ビターズ1~2dash、ガム・シロップ(またはキュラソー)2~3dash、アブサン1dash=お好みで、レモン・ピール&チェリー(ステア)(【注3】gillは当時の液量単位。1gillは120mlに相当)・「Cocktails」(Jimmy late of the Ciro's著、1930年刊 )米 オールドトム・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ピール&オリーブ(作り方の指定なし)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 ジン0.5glass、ドライ・ベルモット0.5glass、オレンジ・ビターズ6分の1tsp、キュラソー(またはマラスキーノ)3分の1tsp、レモン・ピール&チェリー(シェイク)※本文中では6人分のレシピとして紹介していたため、1人分の分量に換算しました。・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1934年刊)米 ジン45ml、ドライ・ベルモット30ml、オレンジ・ビターズ1tsp、キュラソー(またはマラスキーノ)0.51tsp、レモン・ピール(シェイク)※本文中では6人分のレシピとして紹介していたため、1人分の分量に換算しました。 最後に現代のオーセンティック・バーではどんなレシピでつくっているのか、その代表として、英国ロンドン・サヴォイホテル「アメリカン・バー」のレシピをご紹介しておきましょう。 オールドトム・ジン50ml、スイート・ベルモット20ml、ドライ・ベルモット10ml、マラスキーノ5ml、ボウカーズ・ビターズ=【注4】ご参照=1dash、オレンジ・ツイスト(シェイク)。【注4】1828年にドイツ系米国人のヨハン・ボウカーが製造・販売したビターズ。かのジェリー・トーマスもいくつかのカクテルで使用している。1920年代に一時製造中止となったが、近年、その味わいを再現した製品が再発売されている。 「マルチネス・カクテル」は、日本には1930年代には伝わり、文献でも紹介されました。しかし、その後は60年代初めまでの間、カクテルブックに何度か登場したあとは、ほとんど忘れられたカクテルになりました。再び”陽の目”をみるのは、2000年以降、欧米の大都市を発信地としてクラシック・カクテル再評価のトレンドが起きてからです。【確認できる日本初出資料】「スタンダード・カクテルブック」(村井洋著、NBA編、1937年刊)。レシピは以下の二通りが紹介されています。 英国風=プリマス・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、オレンジ・シロップ2dash、レモン・ピール、 欧州大陸風=オールドトム・ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、オレンジ・ビターズ2dash、キュラソー(またはマラスキーノ)3dash、レモン・ピール・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/03
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27.ダイキリ(Daiquiri)【現代の標準的なレシピ】(単位ml) ホワイト・ラム(45)、ライム・ジュース(15)、シュガー・シロップ(またはガム・シロップ)1tsp 【スタイル】シェイク ダイキリは現代、日本も含めて世界中のバーでとても人気のあるショート・カクテルです。「1898年(1896年説もあり)頃、キューバのダイキリ鉱山で働いていた米国人技師のジェニングス・コックス(Jennings Cox)が考案し、鉱山の名前にちなんで名づけた」という説があまりにも有名です(考案場所については、「キューバ・サンチアゴのヴィーナス・ホテル」としている欧米の専門サイトもあります)。国内外のカクテルブックや専門サイトのほとんどは、このコックス考案説を紹介しています)。 近年まで、このジェニングス・コックス考案説を裏付ける資料はあまりオープンになっていませんでしたが、「The Cocktails of The Ritz Paris」(Colin Peter Field著、2001年刊)は、1946年に出版された「The Gentleman's Companion」(Charles Baker Jr著)の内容を引用する形で、「ダイキリを考案したのは鉱山技師のジェニングス・コックスとその友人のハリー・スタウトである(二人とも著者のBaker氏自身の個人的友人だったとか)。カクテル名は、当時バカルディ・ラムの工場があった、キューバのサンチアゴ・デ・クーバ近くのダイキリ村に由来する」と紹介しています。 一方で、カクテル研究家の石垣憲一氏は、その著書「カクテル ホントのうんちく話」(2008年刊)で、「なるほどコックスなる人物はいたかもしれないし、当時現地(ダイキリ鉱山)では当たり前のように飲まれていたドリンクかもしれない。しかし、(ラムのライム・ジュース割りは)少なくとも18世紀末には、英海軍では普通に飲まれるドリンクだったし、キューバでも(コックスがいた頃より)100年も前から普通に飲まれていたドリンクだった」という見解を述べています。 石垣氏の見解を裏付けるかのように、Wikipedia英語版では、「ダイキリのレシピは、少なくとも1740年代から英海軍で飲まれていたドリンクとよく似ている。このドリンクは1795年までに英海軍水兵への一般的な配給酒となっていた」と記しています(言わずもがなですが、当時このカクテルにはまだ「ダイキリ」という名はありませんでした)。 従って、「ダイキリ」に関して現時点で確実に言えることは、「1898年前後に、キューバで現地産のラムを使ったライム・ジュース割りに、ダイキリ鉱山にちなんで『ダイキリ』と名付けられた」ということだけです。 ちなみに1898年と言えば、米西戦争(1898年4月~8月)が起きた年。フィリピンとカリブ海という2つの地域で米国とスペインが交戦しましたが、米国の勝利に終わり、キューバは米国の保護領となりました。コックスなる人物は軍人ではありませんでしたが、おそらくはキューバから権益を吸い取ろうと目論む米国資本のために派遣された一人だったと想像されます。 ダイキリは当初はキューバのローカルな飲み物でしたが、1909年キューバを訪れた米海軍提督ルシアス・ジョンソンがとても気に入り、帰国後、ワシントンの将校クラブに紹介したことから米国内でも飛躍的に知名度が増していったと言われています(出典:Wikipedia英語版)。 「ダイキリ」が欧米の文献で初めて登場するのは、1913年に出版された「The Cocktail Book:A Sideboard Manual For Gentlemen」(Martino Publishing編)と「Straub's Manual of Mixed Drinks」(Jacques Straub著)という2冊のカクテルブックです。そのレシピは、前者は「ラム4分の3、グレナディン・シロップ4分の1、ライム・ジュース(シェイク)」、後者は「ラム3分の1、ライム・ジュース3分の2、パウダー・シュガー1tsp(シェイク)」となっています。 「えっ! グレナディン・シロップ?!」と多くの方が驚かれると思いますが、これには訳があります。「ダイキリ」はもともと、バカルディ社のラムを使って一世を風靡した「バカルディ・カクテル」(ラム、ライム・ジュース、グレナディン・シロップ)のバリエーションとして生まれたといわれます(当初は、ライム・ジュースは入っていなかったようですが)。1910年代では、「ダイキリ」と言えども、グレナディン・シロップを入れるレシピも珍しくなかったようです。 例えば、1919年に出版されたハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の「ABC Of Mixing Cocktails」(1919年)。そのレシピは、「ラム3分の2、ライム・ジュース6分の1、グレナディン・シロップ6分の1」、また1922年、ロンドンのエンバシー・クラブ(The Embassy Club)に勤めていたロバート・ヴァーマイヤー(Robert Vermeire)が著した「Cocktails: How To Mix Them」でも、ダイキリにはグレナディン・シロップが使われています。 それがその後、シュガー・シロップやガム・シロップなど、白や透明なシュガー(またはシロップ)を使うレシピへと変化していきます。マッケルホーンが「ABC Of …」を編んでいた1910年代とその後の20年代は、そういう過渡期だったと言えます。ちなみにマッケルホーン自身も、その後の改訂版では、グレナディン・シロップとは書かず、単にシュガーと記すだけにとどめています。 ちなみに、1910~30年代の欧米の主なカクテルブックでの「ダイキリ」の登場状況をいちおう見ておきましょう。 ・「173 Pre-Prohibition Cocktails」(トム・ブロック著 1917年刊)米 → 収録なし(バカルディ・カクテルは登場するが) ・「Cocktails: How To Mix Them」(ロバート・ヴァーマイヤー著 1922年刊)英 ラム3分の2、ライム・ジュース3分の1、グレナディン・シロップ少々 ※「キューバと米国南部の州ではとても有名なカクテルである」とのコメントが添えられている。 ・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著 1930年刊)英 ラム1グラス、ライム・ジュース2分の1個分(またはレモン・ジュース4分の1個分)、パウダー・シュガー1tsp(ティー・スプーン) ・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイヤー著 1934年刊)仏 ラム2分の1、ライム・ジュース2分の1個分、シュガー2分の1tsp ・「The Old Waldolf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米 ラム1グラス、ライム・ジュース2分の1個分、パウダー・シュガー1tsp ・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 ラム45ml、ライム・ジュース1個分、パウダー・シュガー1tsp ・「Bar la Floridita Cocktails」(1935年刊)キューバ ダイキリNo1=ラム2オンス、シュガー1tsp、レモン・ジュース2分の1個分 ダイキリNo2=ラム2オンス、キュラソー数dash、オレンジ・ジュース1tsp、シュガー1tsp、レモン・ジュース2分の1個分 ダイキリNo3=ラム2オンス、シュガー1tsp、グレープフルーツ・ジュース1tsp、マラスキーノ1tsp、レモン・ジュース2分の1個分、クラッシュド・アイス(シェイクして、氷と一緒にグラスに注ぐ) ダイキリNo4(Floridita Style)=ラム2オンス、シュガー1tsp、マラスキーノ1tsp、レモン・ジュース2分の1個分(クラッシュド・アイスと一緒に電動ミキサーに入れてフローズン・スタイルで供す) ・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 ラム4分の3、ライム(またはレモン)・ジュース4分の1、ガム・シロップ3dash キューバに伝わった当初のダイキリは、クラッシュド・アイスを詰めたトール・グラスに入れて飲むスタイルでしたが、1930年代後半にシェイクして冷やしたフルート・グラスに入れて飲む、現代に近いスタイルに変わったということです(出典:Wikipedia英語版 → 原資料はマイアミ・ヘラルド(The Miami Herald)の1937年の記事)。 欧米ではその後は、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)を使ったサヴォイホテルのレシピがメジャーになるに至り、国際バーテンダー協会(IBA)もそれを標準レシピに採用(出典:Wikipedia英語版ほか)、現在では欧米も日本も、冒頭のようなレシピが標準的なものになっています(現在市販されているマッケルホーンのカクテルブック改訂版もIBAレシピに従っています)。 「ダイキリ」は、日本には1920年代前半までには伝わり、1924年刊の文献に初めて登場していますが、50~60年代くらいまでは、やはりグレナディン・シロップを使うレシピが一般的でした(村井洋著・JBA編「スタンダード・カクテルブック」=1936年刊=ほか多数)。調べた限りでは、日本のカクテルブックでシュガー・シロップを使うダイキリが登場するのは、1954年刊の「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著)が最初です。 しかし、その後も日本では60年代に入ってもグレナディン・シロップ派が優勢で、シュガー・シロップ(またはパウダー・シュガー)を使うレシピが一般的になるのは70年代になってからです。この理由としては、日本にはマッケルホーンやエンバシー・クラブのレシピ(グレナディン・シロップ使用)が最初に伝わった影響が大きかったのではないかと推察しています。 なおダイキリと言えば、フローズン・スタイルの「フローズン・ダイキリ」も有名です。文豪ヘミングウェイが愛したことでも知られ、これがとてもお気に入りの彼は、キューバ・ハバナに居を構えていた頃(1939~41年、48~60年)(出典:ヘミングウェイ年譜 → http://www.casa-de-cuba.com/hemingway/nenpu.html )、住まい近くのバー「エル・フロリディータ(El Floridita)」で愛飲したと伝わっています。 ヘミングウェイのフローズン・ダイキリは、ラムをダブル(倍量)にし、グレープフルーツ・ジュースを加え、シロップは抜いたもので、「パパ・ダイキリ」または「パパ・ヘミングウェイ」とも呼ばれました。「(店では)1日12杯も飲んだ」とか「水筒に入れて釣りに持ち歩いた」という伝説も残っています。 フローズン・ダイキリが最初に考案されたのは1920年代後半で、同じくハバナの「スロッピー・ジョー」というバーだったという説(出典:サントリー社HP)もありますが、裏付ける文献にはまだ出合っていません。ちなみに、欧米のバーで「ダイキリ」と言って頼んでもまず通じません。英語では「デクゥレ」あるいは「デクゥィリ」と発音します(最後の「レ」や「リ」は聞こえないことが多い)。【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。レシピは、「バカルディ・ラム3分の2オンス、ライム・ジュース3分の1オンス、グレナディン・シロップ若干」となっています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/12/31
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55.ミリオン・ダラー(Million Dollar)【現代の標準的なレシピ】(容量単位はml)ジン(45)、スイート・ベルモット(15)、パイナップル・ジュース(15)、グレナディン・シロップ2tsp、卵白(1個分)、飾り=パイナップル・スライス&チェリー 【スタイル】シェイク 「ミリオン・ダラー」は、少なくとも1920年までには誕生していた古典的カクテルの一つです。欧米の古いカクテルブックでもよく収録されていますが、残念ながら、誕生の経緯や考案者などは、現在でもよく分かっていません。 日本のカクテルブックではよく、「(ミリオン・ダラーは)1894年頃、横浜グランドホテルのバーで誕生した。考案者はカクテル『バンブー』を考案したことで知られる同ホテルの支配人&バーテンダー、ルイス・エッピンガー氏(Louis Eppinger)」と紹介されていますが、これを裏付ける文献史料は伝わっておらず、真偽の程はよく分かりません。 一方で、海外の専門サイト等では「1915年頃、シンガポールのラッフルズ・ホテルのメニューには登場していた。作者はあのシンガポール・スリングを考案したニャン・トン・ブーン氏」(出典:欧米のWeb専門サイト: diffordsguide.com/cocktails/récipe/1319/million-dollar-cocktail/ ほか)と紹介している例も見受けられますが、(海外でも)エッピンガー氏考案説を支持する見解も多く、決着はついていません。 ただ、様々な文献によれば、少なくとも1910年代にはアジア地域でそれなりに普及していたようです(ただし、ラッフルズ・ホテルのレシピには、冒頭の材料に加えて、ドライ・ベルモット、アンゴスチュラ・ビタースが加わります)。欧州へは、おそらくはアジアから外国航路の船(で働くバーテンダーや乗客)を通じて伝わったのではないかと想像されます。 「ミリオン・ダラー」が欧米のカクテルブックで初めて紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、1930年に出版された「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」(ハリー・クラドック著)です。なので、少なくとも20年代には欧州に伝わっていたことは間違いありません。サヴォイのレシピは、「プリマス・ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1、卵白1個分、パイナップル・ジュース1tsp、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク)」となっています。 参考までに、「サヴォイ・カクテルブック」以外の1930~40年代のカクテルブックに登場する「ミリオン・ダラー」のレシピをざっと見ておきましょう。・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 ジン2分の1、卵白半個分、パイナップル・ジュース1tsp、グレナディン・シロップ1dash(シェイク) ※ベルモットは使わないレシピになっています。・「The Official Mixer's Manual」(パトリック・ダフィー著、1934年刊)米 イングリッシュ・ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1、卵白1個分、パイナップル・ジュース1tsp、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク)・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年初版刊)米 ジン1.5オンス、スイート・ベルモット4分の3オンス、卵白1個分、パイナップル・ジュース2tsp、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英 サヴォイ・レシピと同じ。・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(ビクター・バージェロン著 1946年刊)米 ジン1.5オンス、スイート・ベルモット4分の3オンス、卵白1個分、パイナップル・ジュース2tsp、グレナディン・シロップ1tsp(シェイク) 「ミリオン・ダラー」は、日本では1920年代にはすでにメジャーなカクテルになっていて、当時のカクテルブックにも登場しています。なお横浜グランドホテルは、1923年の関東大震災で大きな被害を受けたため廃業しましたが、その流れをくむ現在の横浜ニューグランド・ホテルのバー「シーガディアン2」では、「ミリオン・ダラー」は今日でもなお、定番の人気カクテルとなっています。 余談ですが、横浜グランドホテル出身で、その後銀座・ライオンでバーテンダーをつとめた業界の大先輩、浜田昌吾氏(1971年に出版された「図解カクテル」の著者。※名前は「晶吾」という表記も)は、このミリオン・ダラーの普及に貢献したことで有名です。浜田氏はその自著で、「カフェー華やかなりし頃、大正時代の文化人が盛んにこのカクテルを飲み、花柳界でも話題になりほどの流行ぶりだった」と綴っています。 ただし、浜田氏のレシピは、「オールドトム・ジン3分の1、パイナップル・ジュース3分の1、卵白1個分、グレナディン・シロップ2tsp、レモン・ジュース1tsp、パイナップル・スライスを飾る(シェイク)」で、なぜか(上記フランク・マイヤーの著書と同様)ベルモットは使わないレシピとなっています(その後の国内外でのレシピの変遷を見ると、やはり定着していったのは「サヴォイ・レシピ」です)。【確認できる日本初出資料】「カックテール」(安土禮夫著、1929年刊)。そのレシピは、「オールドトム・ジン2分の1、スイート・ベルモット2分の1、卵白1個分、パイナップル・ジュース2dash、グレナディン・シロップ2dash(シェイク)」となっています。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/06/18
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(149) 漱石の原稿用紙 1994年 ※夏目漱石は、一徹氏好みの著名人(作家)。たびたび切り絵にしている。「The Cigar Story 葉巻をめぐる偉人伝」(城アラキ氏との共著)では、切り絵漫画の主人公にして一章を費やしている。この2枚は、有名な漱石の自家製原稿用紙を描いた切り絵。 1枚目の作品は、作家の半藤一利氏のエッセイ「歴史探偵かんじん帳」(当時、毎日新聞日曜版に1994~95年に連載)の第1回の挿絵のために制作したもの。用紙の上中央に「漱石山房」という篆書(てんしょ)があり、両側から龍の首(昇龍)が2つ描かれている。 この原稿用紙も一徹氏好みだったようで、別の方のエッセイでも切り絵にしている(2枚目の作品=制作時期は90年代。右下の四角い空白は、連載のタイトルカットが入るための空白)。「昇龍」は縁起が良いモチーフ。一徹氏も昇龍のようにさらに「ビッグ」な切り絵作家になることを願って、日々努力していたのかもしれない。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/03/08
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71.ピスコ・サワー(Pisco Sour)【現代の標準的なレシピ】(容量単位はml)ピスコ・ブランデー(40)、レモン・ジュース(20〜30)、シュガー・シロップ(10)、ペルヴィアン(Peruvian)・ビターズ2dash、卵白(1個分)(※卵白を入れないレシピもあります=本文参照)【スタイル】シェイク(最後にもう一度ビターズを振る) ※ペルヴィアン・ビターはペルー産の”地ビターズ”です。アンゴスチュラ・ビタースで代用してもまったく構いません。 「ピスコ・サワー」は近年のクラシック・カクテル再評価の潮流で、再び脚光を浴びてきたカクテルです。爽やかな酸味と、卵白の柔らかな舌触りが絶妙に調和した味わいが特徴で、欧米では大都市を中心に、提供するバーが増えてきています。 20世紀初頭にペルーの首都リマで誕生したカクテルと伝わっていますが、現代レシピの原型をつくり、普及に貢献したのは、1916年にリマでアメリカンスタイルのバーをオープンした米国人バーテンダー、ヴィクター・ボーン・モリス(Victor Vaughn Morris)だったと言われています(出典:Wikipedia英語版など)。当初あまり知名度はないカクテルでしたが、30年代に米国西海岸へ伝わり、50年代に入ってハリウッド・スターらに愛飲されるようになって、さらに人気が高まってきたと言われています。 ベースに使われている「ピスコ・ブランデー」とは、ペルー原産のマスカット系ブドウを原料にしたホワイト・ブランデーで、最近では日本でも数種類の銘柄が輸入販売されています(現在ではチリでも生産されています)。「Pisco」とは古代インカの言葉で「鳥」を意味するとのことです(出典:同)。 カクテル史に詳しい米国のバーテンダー、ジム・ミーハン氏によれば、印刷物に残る最も古いピスコ・サワーの記録は、1903年、「Nueva Manual de Cocina a la Criolla」(S.E.Redezma著)とのこと。欧米のカクテルブックで「ピスコ・サワー」が初めて紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、1947年に米国で出版された「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著)です。そのレシピは「ピスコ・ブランデー1オンス、シュガー・シロップ1dash、ライム・ジュース半個分、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、卵白1個分(シェイク)」となっています。 また著者のBergeronは、当時リマにあった「ホテル・モーリー」のバーで提供されていたピスコ・サワーのレシピも、併せて紹介しています。そのレシピは「ピスコ・ブランデー1オンス、シュガー・シロップ4分の1オンス、バー・シュガー少々、レモン・ジュース4分の1オンス、卵白4分の1個分、アンゴスチュラ・ビターズ(シェイクした後に、振る)」となっています。 なお、Bergeronはこの本の中で、ピスコ・サワーの思い出についてわざわざ以下のように記しています。 「1934年頃だったと思う。オークランドのBarで働いていた午後遅い時間、店はヒマだった。その時、身なりの良い紳士が一人、店にやって来た。彼は私のすぐ前に座って、『ピスコ・サワーっていうやつをつくってくれ』と言った。すると、彼は私はつくった1杯をすぐに飲み干した後、すぐに『もう1杯お代わりを』と頼んだ。私は『ピスコ・サワーのことをどこで知ったのですか?』と尋ねた。彼は『数カ月前、インドへ旅行した時、飛行機の中で読んだ『Life Magazine』に出ていた(私の)ピスコ・サワーの記事を読んで、いつか飲んでみたいと思っていたんだ』と答えた。そして彼は実際、私のピスコ・サワーを飲むためだけに、サンフランシスコにやって来たんだよ」。 Bergeronの記述からも分かるように、ピスコ・サワーは30年代には、雑誌『LIFE』に取り上げられるほど注目されており、米国西海岸の都市では、最新のトレンディなカクテルだったようです。 ご参考までに、他の欧米のカクテルブックで「ピスコ・サワー」がどのように取り上げられているのかご紹介しようと思ったのですが、なぜか、「Trader Vic's…」以後、50~80年代のカクテルブックではあまり取り上げられることがなくなります(「ピスコ・パンチ」というカクテルはよく登場するのですが…。この理由はまた稿を改めて探究したいと思っています)。 という訳で、90年代以降のカクテルブックから少しレシピを見ておきましょう(なお、欧米では「サワーグラスでロック・スタイル」というのが一般的のようですが、ショート・スタイルで提供するケースも少なくありません)。・「American Bar」(Charles Schumann著、1994年刊)独 ピスコ・ブランデー40ml、シュガー・シロップ10ml、レモン・ジュース20ml、マラスキーノ・チェリー=飾り(シェイク)※なぜか卵白を入れないレシピです・「Cocktails In New York」(Anthony Giglio著、2004年刊)米 ピスコ・ブランデー1.5オンス、シュガー1tsp、ライム・ジュース1個分、卵白1個分、ソーダ(適量)、ビターズ(シェイクした後に、振る)・「The Book of Cocktails」(Salamander Books編、2006年刊)英 ピスコ・ブランデー1.5オンス、シュガー1tsp、レモン・ジュース4分の3オンス、レモン・スライス&マラスキーノ・チェリー=飾り、グラスは砂糖でスノー・スタイルに(シェイク)※このレシピも卵白なしです・「Complete World Bartender Guide」(Bob Sennett編、2009年刊)米 ピスコ・ブランデー2オンス、シュガー・シロップ1.5tsp、ライム・ジュース1tsp、卵白1個分アンゴスチュラ・ビターズ1~2dash(シェイクした後に、振る) ちなみに、チリでは「ピスコ・サワーは1872年、チリ北部の港町イキケ(Iquique)のBarで、エリオット・スタブ(Elliot Stubb)という英国人によって考案された」と、ペルー発祥説に異論を唱える関係者もいます(出典:Wikipedia英語版)が、一般的には「ペルー説」が定着しています。【確認できる日本初出資料】近年、日本でも知名度は出てきたカクテルですが、きちんとした形で「ピスコ・サワー」を紹介しているカクテルブックは、現時点で確認できた限りでは「スタアバーのカクテルブック」(岸久著、2015年刊)くらいです。そのレシピは、「ピスコ・ブランデー45ml、シュガー・シロップ7ml、レモン・ジュース15ml、卵白1個分、アンゴスチュラ・ビターズ3dash=最後に振る(ビターズ以外をブレンダーにかけた後、さらにシェイク)」です。 ※これ以前にピスコ・サワーが掲載された日本のカクテルブックをご存知の方はご教示くださいませ( → ご連絡は、arkwez@gmail.com までお願いします)。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/10/22
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45.カミカゼ (Kamikaze)【現代の標準的なレシピ】ウオッカ(30)、コアントロー(またはホワイト・キュラソー)(20)、ライム・ジュース(20)(3つの材料を等量にするレシピもあります) 【スタイル】シェイク(※ロックスタイルで飲むのが一般的)。 現代でも有名なカクテルの一つですが、その起源・由来ははっきりしていません。カクテル名は、「その鋭い味わいが、(米軍を恐れさせた)太平洋戦争中の旧日本軍の特攻機『神風攻撃隊=カミカゼ』のイメージに重なったことから名付けられた」という説(※この説については異論は聞かれません)が一般的ですが、命名者はもちろん伝わっていません。 「カミカゼ」という名もあって、太平洋戦争中または終戦直後に米国内で生まれたという説や、戦後の日本占領時代の米軍基地内(横須賀基地内という説)のバーで生まれたとする説がよく紹介されていますが、裏付ける資料やデータは伝わっていません。ただ、少なくとも1970年代には米国の西海岸では、かなり認知されていたとのことです(出典:国内外の複数の専門サイト)。 しかし不思議なことに、1950~60年代はおろか、70~80年代のカクテルブックでも「カミカゼ」を収録している例は、現時点で調べた限りでは国内外を問わず、見当たりません(80年代以前の掲載例をご存知の方はご教示頂ければ幸いです → arkwez@gmail.com)。なので、個人的には「戦後間もなく誕生」とか「占領時代の米軍基地内発祥」という説の信憑性には疑問を持たざるを得ず、もう少し後の時代に誕生したカクテルではないかとも考えています。 著名なカクテル研究者のデヴィド・ワンドリッチ(David Wondrich)氏は、「カミカゼ・カクテルが(欧米で)初めてお目見えしたのは1976年(the history of the shooter can be traced back to 1976, when the Kamikaze first appeared on the scene)」と記していますが、その根拠資料には触れていません。また、映画「カクテル」の原作者でもあるヘイウッド・グールド(Heywood Gould)氏は、その原作(1984年発表)の中で「カミカゼはディスコ生まれのクラシック・カクテルだ」と記しています(出典:http://firstwefeast.com/drink/2014/04/david-wondrich-history-of-shots)。 現時点で調べた限りでは、欧米のカクテルブックで「カミカゼ」が初めて登場するのは、1991年に出版された「American Bar(日本語版のタイトルは「シューマンズ・バーブック」)」(Charles Schumann著)です。ただしそのレシピは、「ウオッカ40ml、ホワイト・キュラソー1dash、ライムジュース・コーディアル20ml、レモン・ジュース10ml」で、現代のレシピとは分量比がかなり違います。 現代では、3種の材料を等量で使うレシピも一般的ですし、「ウオッカ2分の1、ホワイトキュラソー4分の1、ライム・ジュース4分の1」とするレシピもあります(「等量でなければ『カミカゼ』ではない」としているカクテルブックもありますが…)。同じウオッカ・ベースのカクテル「バラライカ」とよく似ていますが、バラライカはライム・ジュースではなく、レモン・ジュースを使います。 「カミカゼ」は、日本には戦後まもなく伝わっていたという説もありますが、80年代以前に出版されたカクテルブックでの収録例は、現時点では見当たりません。個人的な記憶から推察しても、日本のバーでお目見えするようになったのは(おそらくは)1970年代で、一般的に飲まれるようになったのは80年代以降ではないかと考えています。 【確認できる日本初出資料】カクテル・ハンドブック(花崎一夫著、1990年)。レシピは、「ウオッカ3分の1、ホワイト・キュラソー3分の1、ライム・ジュース3分の1」です。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/04/16
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春になって、果物屋さんの店先にもいろんな種類の果物たちそろい、にぎやかな雰囲気になっている。柑橘系だけをとってみても、最近は、ネーブル、ハッサク、伊予柑、デコポン、清見オレンジ、文旦、日向夏…等々、デパートなどでは10数種類くらいは売られているだろう。 僕もいろんな機会に食べることがあって、たいていの柑橘系果物は一度は味見しているのだが、それでも、時々初めて味わう品種に出合う。先日、大阪のあるBARのカウンターに、見かけない果物が置いてあった。 普通のサンキスト・オレンジやネーブルに似ているが、皮の色が異様に赤っぽい。「それ、何やの?」と僕。「ブラッド・オレンジって言うんですわ」とバーテンダー氏。もともと地中海原産で、とくにイタリアのシチリア島のものが有名とか。でも、僕の目の前にあるのは、カリフォルニア産だとか(写真左=ブラッド・オレンジ。色合いはもっと赤いのもある)。 「で、どうやって飲んだら美味しいのん?」とさらに尋ねる僕。「これで、カンパリ・オレンジでも創ってみましょか?」。「うん、じゃぁお願い」。ブラッド(血)というだけあって、果汁の色は血のように真っ赤。一瞬、ギョッとするような色だ。オレンジというより、まるでカシスのような色合い。 味は濃厚で、普通のオレンジよりもまろやかで、深みがあって、ほど良い甘さ。嫌みのない味わいかな。スプマンテ(スパークリング・ワイン)で割っても美味しそう。 オレンジ・ジュースをシャンパンで割ったのは、ミモザという名前の有名なカクテルだが、ブラッド・オレンジで割れば、さしづめ「シチリアン・ミモザ」とでも言うのかな?(写真右=2つに切ればこんな感じ。何これ、という凄い色をしています)。 翌日、僕は早速デパートでブラッド・オレンジを見つけてきた。1個250円と意外と手頃なお値段。そして、この不思議で、魅惑的な果物を前にして、オリジナル・カクテルを創ろうと挑んだ。 ベースはウオッカ(30~40ml)、ブラッド・オレンジは皮ごとハンド・ジューサーで搾る。そして柑橘系と相性のいいヨーグルトのリキュール(15~20ml)を加え、グラッパ、レモン・ジュース少々と、シロップで味を調整。そして、ハード・シェイク。で、出来上がったのがこれ。 味わいは(自画自賛だけれど)飲みやすくて、女性に喜ばれそうな感じ。名前を何か付けたいのだけれど、まだ良い名前が思いつかない。とりあえず、ひらめきで付けたのは「ソッリーゾ・シチリアーノ(シチリアの微笑み)」(写真左)。ほかに、何かいい名前があったら、ぜひご提案を。 ブラッド・オレンジは他にもライチ・リキュール、カシス・リキュール、紅茶のリキュール等に相性がよさそうだ。工夫次第で、面白くて、かつ飲みやすいカクテルのヴァリエーションは、まだまだ増えそうな気がする。 ちなみに、柑橘系では日向夏(「小夏」とも言う)も最近は大好き。白皮の部分も食べられるのがいい。以前、この日向夏を使ってオリジナル・カクテルを作ってみたけれど、結構好評だった。皮の部分はコアントローなどの甘めのリキュールで漬け込んでからカクテルに添える。 ただし、この日向夏はブラッド・オレンジほど値段は安くないし、売っている店も少ない。だから、なかなか気軽にはつくれない。日向夏を手頃な値段で提供してくれるスーパーは出てこないかなぁ…。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/04/02
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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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31.ギブソン(Gibson)【現代の標準的なレシピ】(容量の単位はml) ジン(45~50)、ドライ・ベルモット(10~15)、パール・オニオン(1個) 【スタイル】ステア 少なくとも1910年代まで米国内で誕生していたと思われる古典的カクテルの一つです。マティーニに限りなく近くて、それでいてマティーニとは必ず区別されるカクテルですが、それがギブソンです。 違いと言えば、オリーブの代わりにパール・オニオンを使う程度ですが、そもそもマティーニにオリーブが入るようになったのは、1930年代半ば以降なので、古い時代のカクテルブックには単に「マティーニのレシピにパール・オニオンを加えたもの」としか記されていないことも多いのです。 欧米のカクテルブックで「ギブソン」が初めて登場するのは、確認できた限りでは、1917年に米国で出版された「173 Pre-Prohibition Cocktails」(Tom Bullock著)です。なので、少なくとも禁酒法時代(1920~1933)以前に存在していたことは間違いありません。 誕生の経緯については、下記の2説がさまざまな文献や専門サイトでよく紹介されています。 (1)19世紀末の米国の画家チャールズ・ダナ・ギブソン(Charles Dana Gibson)がニューヨークの「プレイヤーズ・クラブ」で「自分だけのマティーニを」と所望したところ、チャールズ・コノリー(Charles Connolly)というバーテンダーが、オリーブをパール・オニオンに替えて供した(考案の時期については、もう少し後の禁酒法時代=1920~33年=だったという説もあります)。 (2)米国の禁酒法時代(1920~33)、英国駐在だったギブソン米国大使がパーティーの席で、「本国は禁酒法が施行されているので自分は飲めない」と言って、カクテルグラスに水を入れ、パール・オニオンを飾って飲んだことから考案された。 ※上記に紹介した1917年刊のカクテルブックに紹介されていることからも、この説には無理があると思われます。 またWikipedia英語版では、最近発掘されたものとして、さらに以下の2説も紹介しています。どれも決定的なものではありませんが、(4)の説はかなり具体的です。 (3)ギブソンという名の銀行家が顧客と一緒にマティーニ・ランチを食べる際、しらふでいられるようにあらかじめ店のバーテンダーに「自分のグラスには水とパール・オニオンを」と頼んだことから(出典や時期については明記なし)。 (4)サンフランシスコでビジネスマンをしていたウォルター・ギブソンという人が、1890年代に、当地のボヘミアン・クラブで考案した(原資料は、San Francisco Chronicleの記者Charles MaCabeの著書「Man’s Weakness」)。 ※この説については、1898年にこのギブソン・カクテルについての記録を残している同クラブのメンバー、ウォード・トンプソンの証言によっても裏付けられているとのことです(原資料はウォール・ストリート・ジャーナルの記事 → Eric Felton: A Thoroughly Western Cocktail, Wall Street Journal, May 30, 2009)。 ご参考までに、歴史上有名なカクテルブックをいくつか見ておきましょう。・「ABC of Mixing Cocktails」(Harry MacElhone著、1919年刊)英 → なぜか収録なし。・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 ジン2分の1、ドライ・ベルモット2分の1、パール・オニオン・「The Artistry of Mixing Drinks」(frank Meier著、1934年刊)仏 ジン4分の3、ドライ・ベルモット4分の1、パール・オニオン・「Mr Boston Official Bartender's Guide」(1935年刊)米 ジン4分の3、ドライ・ベルモット4分の1、レモン・ピール、パール・オニオン・「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著、1948年刊)米 ジン5分の4、ドライ・ベルモット5分の1、パール・オニオン ※ちなみに、Wikipedia英語版では、ジンとドライベルモット6:1のレシピを「標準的なもの」として採用しています。 「ギブソン」は日本にも早い時期に伝わり、1920年代のカクテルブックに登場しています。しかし、現代の日本のバーでは、比較的知名度はあっても、マティーニに比べると注文する人はほとんどいない哀しいカクテルでもあります。 【確認できる日本初出資料】「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)。レシピは、「ジン3分の2、スイート・ベルモット3分の1、オレンジ・ビターズ一振り、玉ネギ小刻み少々」となっています。ドライ・ベルモットではなく、スイート・ベルモットを使うという驚くべきレシピですが、これは当時、マティーニ自体がまだ、スイート・ベルモットを使うケースが多かったことが背景にあるのでしょう。 ※1920年代の日本ではパール・オニオンが手に入りにくなったことから、玉ネギの小刻みで代用しているところに苦労の跡が偲ばれます。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/01/15
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<上> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテル★シェリー・コブラー(Sherry Cobbler)(19世紀初頭、考案者は不詳) ドライ・シェリー90ml、オレンジ・キュラソー10ml、マラスキーノ1tsp、レモンジュース1tspを氷(クラッシュド・アイス)を入れたタンブラーかコブレットに注ぎ、レモン・ツイスト&マラスキーノ・チェリー、生ミントの葉=飾り、必ずストローを添える(ビルド) ※19世紀初頭、米国内で誕生、1850年頃には人気カクテルになっていたという。米国のバーでは近年、再び注目されるように。「コブラー」とはワインやスピリッツにリキュール、シロップを加えてクラッシュド・アイスを入れたタンブラーに注ぎ、ストローを添えて味わう古典的カクテルのスタイル。★ジョージアン・ジュレップ(Georgian Julep)(19世紀初頭、考案者は不詳) ブランデー45ml、ピーチ・ブランデー10ml、シュガー・シロップ1tsp、生ミントの葉(適量)、ソーダ(適量)、クラッシュド・アイス(ビルド) ※ミント・ジュレップは19世紀の初めに誕生した最初期の古典的カクテルの一つ。その爽やかな飲み口もあって、今日でも人気は衰えない。「ジュレップ」とは、古代ペルシャ語の「Gulab(グルアーブ=「バラの水」の意味)」というドリンクにルーツを持ち、ペルシャからフランスへ伝わり、さらにフランス系移民によって米国に持ち込まれ、改良されていったという。 現代のミント・ジュレップはバーボンがベースであることが多いが、この「ジョージアン・ジュレップ(Georgian Julep=Georgia Mint Julepとも言う)」は、ミント・ジュレップの原型でもあり、ベースはブランデーで、ピーチ・ブランデーも使う(かのジェリー・トーマスのカクテルブック「How To Mix Drinks」=1862年刊=にも登場する)。通常のミント・ジュレップは男性的なきりっとした味わいだが、こちらはピーチ・ブランデーが入るため、甘味を感じ、優しい味わいになる。★アブサン・ドリップ(Absinthe Drip)(1830年代、考案者は不詳) アブサン45mlを低めの広口ワイングラスに入れる。専用スプーンの上に角砂糖1個を置き、上から冷やしたミネラル・ウォーターをスポイトで少しずつ落とす。 ※1830年代、アルジェリア戦争に従軍していたフランス軍にアブサンが医療目的で供給されるようになり、後に水で薄めて味わうようになったのが起源という。★ピムズ・カップ(Pimm's Cup)(1840年代、考案者=James Pimm<Bar Owner>と伝わる) ピムズ(Pimm's No.1)45ml、氷を入れたタンブラーにオレンジ、レモン、ストロベリー、キュウリのスライスを入れ、生ミントの小枝を飾り、ジンジャーエール(またはセブンアップ)で満たす。最後にパウダー・シュガーを振る(ビルド) ※「ピムズ」は1823年に誕生した薬草系リキュール。19世紀半ばから英国内で飲まれていたドリンクだったが、1971年、ウインブルドン・テニス(全英オープン)の会場で「Pimm's Bar」がオープンしたことで話題となり、幅広い人気を得るようになった。★マルチネス・カクテル(Martinez Cocktail)(1840年代、考案者は不詳) オールドトム・ジン20ml、スイート・ベルモット50ml、マラスキーノ1tsp、オレンジ・ビターズ1~2dash ※マティーニの原型とも言われる代表的な古典的カクテルで、マンハッタンやマティーニへの「橋渡し的な役割」を担ったカクテルとも言われる。ゴールドラッシュ時代の1840年代末、サンフランシスコのオクシデンタル・ホテルでバーテンダーとして働いていたジェリー・トーマス(世界初の体系的カクテルブック「How To Mix Drinks」<1862年刊>の著者)のもとに、金鉱探しの男が客としてやって来た。 男は「(サンフランシスコの東40マイルにある)マルチネスへの旅立ちのために、元気になる一杯を」とトーマスに頼んだ。カクテル名はそんな逸話に由来すると複数の文献が伝えているが、真偽のほどは定かではない(ちなみにトーマスのオリジナル・レシピは、ジン(30ml)、スイート・ベルモット(60ml)、マラスキーノ2dash、シロップ2dash、アロマチック・ビターズ1dash)。★シャンパン・カクテル(Champagne Cocktail)(1840~50年代、考案者は不詳) シャンパン(適量)、角砂糖、ビターズ、ブランデー10ml=最後にフロート(ビルド) ※古い時代のカクテルブックでは必ずと言っていいほど登場する、代表的な古典的カクテルの一つ。 欧米では19世紀中頃~末には、すでに一般的なカクテルとして普及し、パーティー等での食前酒として提供されることが多かったという。 標準的なレシピでは、フルート型シャンパン・グラスの底に、アンゴスチュラ・ビターズを染み込ませた角砂糖を置き、その上から冷えたシャンパンを注ぎ、お好みでレモン・ピールするというものが多い。シャンパンのなかで角砂糖の甘苦いビターズが徐々に浸み出し、時間の経過とともに味の変化が楽しめる。 映画「カサブランカ」の有名なシーンで、ハンフリー・ボガード扮するリックが、イングリッド・バーグマン扮するイルザの目を見つめながら、「君の瞳に乾杯!(Here's looking to you!)」と言って飲んでいたのがこのカクテルだ。★ブランデー・クラスタ(Brandy Crusta)(1850年代、考案者=ジョゼフ・サンティーニ<Joseph Santini>と伝わる) コニャック30ml、コアントロー10ml、マラスキーノ10ml、レモンジュース20ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、キャスター・シュガー(シェイク)、オレンジ&レモン・ツイスト=飾り ※ジョセフ・サンティーニは、ニューオーリンズのバーテンダーだったという。「クラスタ」とは、オレンジの果皮を砂糖でスノースタイルにしたグラスにはめ込み、マラスキーノ、レモンジュース、シロップ、ビターズなどを加えた古典的カクテルのスタイル。★ニッカー・ボッカー(Knicker-bocker)(1850年代、考案者は不詳) ゴールド・ラム45ml、コアントロー15ml、ラズベリー・リキュール15ml、レモン・ジュース10ml、シュガー・シロップ1tsp ※19世紀半ばに誕生した古典的カクテル。世界初の体系的カクテルブックとも称されるジェリー・トーマスの「How To Mix Drinks」(1862年刊)にも登場する。カクテル名は、ニューヨークに数多くやって来たオランダ系移民が愛用していた「短ズボン」のこと。転じて「ニューヨーク市民」のことを指すスラング(俗語)になった。★サゼラック(Sazerac) (1850年代、考案者は不詳) サゼラック・ライウイスキー50ml、ペイショーズ・ビターズ4~5dash、シュガー・シロップ0.5tsp、アブサン・リンス、レモン・ピール(ビルド) ※1850年代、米国ニューオーリンズの「サゼラック・コーヒー・ハウス」で誕生したと伝わる。元々は「Sazerac」という銘柄のコニャックをベースにしたカクテルだったが、1870年にフランス全土のブドウ畑が病害虫で壊滅状態になったため、代用品として使われたライ・ウイスキーが、そのまま現在まで定着している。★ジャパニーズ・カクテル/ミカド(Japanese Cocktail/Mikado)(1860年、考案者=ジェリー・トーマス<Jerry Thomas>) ブランデー40ml、ライム・ジュース10ml、オルゲート・シロップ10ml、アンゴスチュラ・ビターズ2~3dash(シェイク) ※「カクテルの父」と言われるジェリー・トーマス(Jerry Thomas)が考案したと伝わる。1860年、徳川幕府が派遣した訪米使節団がニューヨークを訪れた際、当時ニューヨークでバーテンダーとして働いていたトーマスが使節団一行を目撃し、インスピレーションを得て創作したとも。欧州へ伝わった後、当時ロンドンで大ヒットしたオペレッタ「ミカド」にちなんで、「ミカド」とも呼ばれるようになった。ダーク&ストーミー(Dark & Stormy)(1860年代、考案者は不詳) ダーク・ラム40ml、ライムジュース15ml、ジンジャー・ビア(適量)、氷、カット・ライム(ビルド)、タンブラーまたはロック・グラスで ※1860年代に英国領バミューダ諸島で生まれたと伝わる。「バミューダの首都ハミルトンのラム製造業者だったゴスリング兄弟(Gosling Brothers)が自社のダーク・ラムに、英海軍が本国で生産していたジンジャー・ビアをブレンドして考案したという。バミューダ諸島では「ナショナル・ドリンク」となっており、英連邦内では缶入り飲料もあるほどの人気カクテル。 カクテル名は、Barのカウンターで、航海中に遭遇した暗い雲と荒れ狂った天気(Sail under the dark and stormy weather)について語った老水兵の言葉に由来するという。なお、バミューダではライムジュース抜きで味わうこともあるが、欧米では、ライムジュース入りが一般的。ピスコ・パンチ(Pisco Punch)(1860~70年頃、考案者は不詳) ピスコ50ml、パイナップルジュース30ml、オレンジジュース15ml、レモンジュース15ml、シロップ15ml、シェイクして氷を入れたタンブラーに注ぎ、スパークリングワインで満たす。飾り=クローブを刺したパイナップル片 ※サンフランシスコにあった「バンク・エクスチェンジ・バー(Bank Exchange Bar)」=1853~19191=で誕生したと伝わる。カンチャンチャラ(Canchanchara)(1868~78年頃、考案者は不詳) ハバナ・クラブ3年 60ml、ライム・ジュース15ml、ハニー・シロップ(またはハチミツ)20ml、氷、ライム・スライス(シェイク) ※キューバ独立戦争の頃、ハバナで誕生? ダイキリの原形とも言われる。キューバではダルマのような末広がりの形をした陶器カップに入れて提供するのが一般的。イースト・インディア(East India)(1870 年代後半、考案者は不詳) ブランデー60ml、オレンジ・キュラソー5ml、ラズベリー・シロップ5ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash(シェイク) ※1870年代後半にニューヨークで誕生したと伝わる。ハリー・ジョンソン<Harry Johnson>が1882年に出版した『Bartender’s Manual』にも収録されている。ニューヨーク・サワー(New York Sour)(1880年代、考案者は不詳) バーボン60ml、レモンジュース30ml、シロップ15ml、ビターズ1dash、卵白、赤ワイン30ml=最後にフロート(赤ワイン以外をシェイク) ※当初シカゴで誕生した際は「Continental Sour」と呼ばれていたが、その後、「Southern Whisky Sour」と名が変わり、最終的にNew Yorkのバーで一番普及したため、「New York Sour」と呼ばれるようになったという。★ラモス・ジン・フィズ(Ramos Gin Fizz) (1888年、考案者はヘンリー・ラモス<Henry Ramos>) オールドトム・ジン60ml、レモンジュース15ml、ライムジュース15ml、シロップ23ml、生クリーム23ml、フラワー・ウォーター5dash(抜いてもOK)、卵白1個分。氷を入れずにまずしっかりシェイクした後、氷を入れてさらにシェイク。氷を入れたタンブラーに注ぎ、ソーダで満たす。 ※1888年、ニューオーリンズのマイヤーズ・テーブル・ドテル・インターナショナル(Meyer’s Table D’Hotel International)内のバーに勤めていたヘンリー・ラモス(1846~1928)が考案したと伝わる。ラモスは後に、インペリアル・キャビネット・サルーン(Imperial Cabinet Saloon)を創業し、自らのジン・フィズにさらに改良を加えた。禁酒法廃止(1934~)後、このドリンクの権利はルーズベルト・ホテルに売却されたが、現在では世界中のどこのバーでも楽しむことができる。ブランデー・デイジー(Brandy Daisy)(19世紀後半、考案者は不詳) ブランデー45ml、イエロー・シャルトリューズ20ml、レモンジュース15ml、シロップ10ml、シェイクしてソーダ少々を足す。クラッシュド・アイスを入れたワイングラスに。生ミントの葉=飾り ※ジェリー・トーマスのカクテルブックの改訂版(1887年)やハリー・ジョンソンのカクテルブック改訂版(1888年)に紹介されている。「デイジー」とは、スピリッツに柑橘系ジュース、シロップ(またはリキュール)を加え、クラッシュド・アイスを入れたグラスで味わう古典的カクテルのスタイルウイドウズ・キス(Widow’s Kiss)(1890年代、考案者=ジョージ・カペラー<George Kappeler>) カルバドス50ml、ベネディクティン10ml、イエロー・シャルトリューズ10ml(ステアまたはシェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾り ※ニューヨークの「ホランドハウス・ホテル」のバーテンダーだったジョージ・カペラーが1890年代に考案したと伝わる。彼が1895年に出版したカクテルブック『Modern American Drinks』にも収録されている。ティ・プンシュ(Ti’ Punch)(1890年代、考案者は不詳) マルティニーク・ホワイトラム45~50ml、シュガーケイン・シロップ10ml(または黒砂糖小1個)、ライムジュース10~15ml、ライム・スライス、氷、ロックグラスで(ビルド) ※マルティニーク諸島発祥と伝わる。マルティニーク島やクアドループ島のナショナル・カクテル。ハイチ、モーリス、レユニオンなどでも幅広く普及している。「Ti'」は「Petit(小さな)」の意味。マルグリート・カクテル(Ti’ Punch)(1890年代、考案者は不詳) ドライ・ジン35ml、ドライ・ベルモット35ml、コアントロー0.5tsp、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ツイスト(ステア) ※マティーニの原型の一つと伝わるドリンク。ハリー・ジョンソンの『バーテンダーズ・マニュアル』の改訂版(1900年刊)で初めて紹介された。カクテル名の「マルグリート」は花の名前「マーガレット」に由来するが、命名の経緯は伝わっていない。ポート・フリップ(Port Flip) (19世紀後半、考案者は不詳) ポートワイン45ml、ブランデー20ml、シロップ5ml、全卵、シェイクしてナツメグ・パウダーを振りかける(ブランデーを入れないバージョンもある) ※「フリップ」とはワインやスピリッツに卵と砂糖を加え、ナツメグを振りかける古典的カクテルのスタイル。ジェリー・トーマスのカクテルブックの改訂版(1887年)に収録されて、全米で普及するようになった(ホットで味わうこともある)。プランターズ・パンチ(Planter's Punch) (19世紀末、考案者=フレッド・マイヤーズ<Fred Myer's>) ダーク・ラム30ml、コアントロー15ml、レモンジュース15ml、オレンジジュース15ml、グレナディン・シロップ15ml、ソーダ(ソーダ以外をシェイク) ※古い時代の欧米のカクテルブックにはよく登場する、フルーティさが魅力の南国風ドリンク。植民地の大農園で飲むために考案されたのだろう。フレッド・マイヤーズは「マイヤーズ・ラム」の創業者。ボビー・バーンズ(Bobby Burns)(19世紀末、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー45ml、スイート・ベルモット15ml、ベネディクティン5ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ツイスト(シェイク) ※スコットランドの「ウイスキー詩人」ロバート・バーンズ(Robert Burns 1759~96)に捧げられたカクテル。考案者は不詳だが、活字になったレシピは、1900年に出版されたカクテルブック「Fancy Drinks Recipe Guide」で初めて確認されている。カクテル名は「ロバート・バーンズ」の名前で紹介されることもある。フローラ・ドーラ(Flora Dora)(20世紀初頭=1901年? 考案者=ジミー・オブライエン<Jimmy O'Brien>) ジン40ml、ライムジュース20ml、ラズベリー・リキュール15ml、シェイクした後、氷を入れたタンブラーに注ぎ、ジンジャー・エールで満たす。生ラズベリー&ライム・スライス=飾り ※フルーティで酸味の効いた味わいのジン・ミュール。1901年、ニューヨークで開かれた「フローラ・ドーラ」というミュージカルコメディ終演後のパーティーで、ジミー・オブライエンというバーテンダーが出演女優のために考案したと伝わる。カクテルは評判となり、その後、欧米の大都市のセレブたちの間で愛飲されるようになったという。ペグー・クラブ(Pegu Club)(20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、オレンジ・キュラソー15ml、ライムジュース15ml、ビターズ(アンゴスチュラ&オレンジ)各2dash ※20世紀初頭、英国植民地時代のビルマ(現ミャンマー)で生まれたと伝わるカクテル。その後、英本国へ伝わり、1920年代には欧州のバーにも普及した。ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)のカクテルブック「Bar flies and Cocktails」(1927年刊)や、サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)にも収録されている。カクテル名は、当時ラングーン(現在のヤンゴン)の北東約80km、ペグーという町にあった外国人専用の社交クラブ(現在は廃業)の名にちなむ。ウィドウズ・ドリーム(Widow’s Dream)(1900~10年代、考案者は不詳) ベネディクティン70ml、レモン・ジュース0.5tsp、シュガー・シロップ0.5tsp、生クリーム45ml、全卵 ※1920年代以前に誕生したと伝わるクラシック・カクテル。有名なサヴォイ・カクテルブック(1930年刊)にも登場するが、「未亡人の夢」という奇妙な名の由来は定かではない。昔のカクテルには、卵白や卵黄(時には全卵)を使うものがしばしば登場するが、これは全卵を使う代表的なカクテル。ベネディクティンはブランデー・ベースの薬草系甘口リキュール。美味しいスイーツを食べているような味わいで、食後にゆったりした気分で飲むのに最高の1杯である。★ピンク・レディ(Pink Lady)(1912年、考案者は不詳) ジン45ml、グレナディン・シロップ15ml、レモン・ジュース1tsp、卵白 ※1912年、英国で上演されたミュージカル「ピンク・レディ」の打ち上げパーティーで、主演女優のヘーゼル・ドーン(Hazel Dawn)に捧げられたという(考案者の名は伝わっていない)。昔のカクテルには卵白や卵黄を使うレシピが少なくない。氷が貴重だったため、常温でも飲みやすくする工夫の一つだった。★ブザム・カレッサー(Bosom Caresser)(1910年代、考案者は不詳) ブランデー40ml、コアントロー20ml、グレナディン・シロップ1tsp、卵黄、ナツメグ・パウダー ※1910年代、欧州(おそらくはフランス国内?)で生まれたと伝わる。カクテル名の直意は「胸を愛撫する人」だが、転じて「秘めやかな抱擁」というのが正確な意味。卵黄を使うのはこの時代のカクテルの特徴の一つだが、卵っぽい雰囲気はほとんどなく、むしろフルーツ香が感じられる、まろやかで上品な味わいである。カジノ(Casino) (1910年代、考案者は不詳) オールドトム・ジン45ml、マラスキーノ23ml、レモンジュース15ml、オレンジビターズ1dash(シェイク) ※1910年代に、ニューヨークのホテル・ワリック(Wallick)=ブロードウェイ43丁目=内のバーで誕生したと伝わる。1916年に出版されたカクテルブック『Recipes For Mixed Drinks』にも収録されており、バーテンダーだった著者のヒューゴ・エンスリン(Hugo Ensslin)が考案したという説も伝わっている。ラスト・ワード(Last Word)(1910年代、考案者は不詳) ジン30ml、グリーン・シャルトリューズ20ml、マラスキーノ20ml、ライムジュース20ml、水(シェイク) ※米国デトロイトの「デトロイト・アスレチッククラブ」で誕生したと伝わる。テッド・ソーシエ(Ted Sauciet)の著書『Bottms up』(1951年刊)にも登場する。長く忘れられていたが、2000年以降のクラシック・カクテル再評価の波に乗って再び脚光を浴びるように。★アヴィエーション(Aviation)(1910年代、考案者=ヒューゴ・エンスリン<Hugo Ensslin>) ドライ・ジン30ml、マラスキーノ10ml、ヴァイオレット・リキュール5ml、レモンジュース15ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾り ※Aviationとは「航空(学)」「飛行術」「航空機産業」の意。航空機による飛行が盛んになった1910年代を象徴するカクテル。ニューヨークのバーテンダー、ヒューゴ・エンスリン(Hugo Ensslin)が1910年代に考案したと伝わる。1916年に出版された彼のカクテルブック『Recipes For Mixed Drinks』にも収録されている。ティペラリー(Tipperary)(1910年代、考案者=ヒューゴ・エンスリン) アイリッシュ・ウイスキー30ml、スイート・ベルモット25ml、グリーン・シャルトリューズ10ml、ビターズ2dash、オレンジ・ツイスト(※3分の1ずつのレシピも)(シェイク) ※1916年に出版されたカクテルブック『Recipes For Mixed Drinks』の著者、ヒューゴ・エンスリン(Hugo Ensslin)が考案したと伝わる。 <中>へ続く。
2023/04/17
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ローレンス・バーグリーン(Laurence Bergreen)という米国の伝記作家が 1994年に著した「カポネ 人と時代(原題は、 Capone : The Man and The Era)」という伝記を、集英社が99年に刊行した翻訳版(常盤新平訳)で読みました。 著者が情報公開法によって発掘した当時の公文書や資料で明らかにした知られざるアル・カポネの姿を描いた第一級のノンフィクションです(ニューヨーク編、シカゴ編2冊合わせて、計約800頁にもなる超大作ですが、私が読んだのは後編にあたるシカゴ編です。 アル(アルフォンス)・カポネ(1899~1947)は、ご承知の通り禁酒法時代(1920~33)のシカゴで暗黒街のボスとして君臨した人物です。映画「アンタッチャブル」ではロバート・デ・ニーロが演じていたので、ご覧になった方も多いかと思います。 私は先般、本ブログ上で「禁酒法下の米国――酒と酒場と庶民のストーリー」という連載をして、その際カポネの生涯についてももちろん、できる範囲でかなり調べました。 連載では、カポネが暗黒街のボスに上り詰めたときはまだわずか30歳の若さだったことや、カポネを追い詰めた連邦捜査官のエリオット・ネスは若干25歳だったこと、それに、脱税で逮捕され服役した後は、梅毒に病んでいたため晩年は寂しく亡くなったことなどを記しました。 しかし、このバーグリーンの伝記を読むと、これまで私が知らなかったカポネの素顔や驚くべき事実が数多くありました。結果として、カポネという人物がくっきりと浮き彫りとなり、より実像(真実)に近付けたような気がしました。例えば、以下のような――。・抗争相手への報復事件として有名な聖バレンタインデーの虐殺の真相(本当に殺したい相手は到着が遅れたために仕損じてしまったこと)・カポネは実際には殺人にはあまり関わらず、時には、遠くフロリダの別荘からひそかに指示を送っていたことが多かった(この時代、シカゴとフロリダの移動は原則鉄道です。結構距離があり時間はかかったはずなのに、カポネが頻繁に行き来していたことにも驚きます)・直接殺人の実行には関わらなかったカポネが、唯一(?)「裏切り者」の仲間を自ら殺害した(映画「アンタッチャブル」にも登場する有名な)バットでの撲殺シーン。映画では、殺された仲間は1人だけでしたが実際は3人。カポネは3人を椅子の縛り付け、次々とバットで死に至る直前まで殴りつけます。その後、部下が銃を乱射して撃ち殺しました。指や腕が吹き飛ばされた遺体はハイウェイに乗り捨てられた車のトランクに放置されました。・カポネ組織の電話はかなり盗聴されていて、検察当局は、脱税の証拠や手がかりを盗聴を通じてかなり集めていたこと・逮捕してもなかなか口を割らないカポネ組織の会計士を、捜査当局はゲジゲジやゴキブリだらけの独房に閉じ込めて、ついには「捜査に協力する」と言わせたこと・有名な連邦捜査官エリオット・ネスは密造酒の摘発では多大な功績を上げたが、脱税でカポネ起訴をできたのは、検察と国税当局の担当者の努力が大きかったこと(晩年、ネスがアルコールで身を持ち崩したのは皮肉です)・警察・検察当局だけなく、新聞記者にもカポネに買収されていた人間がいたこと(その記者も二重スパイまがいのことをやって結局は殺されてしまいます)・脱税裁判でカポネを追い詰めていく検察側の手法(ショップの店員などを次々と喚問し、カポネが買った高級下着の領収書等から収入を算定して積み上げていく執念)・神経梅毒や淋病におかされていたカポネの病状は、シカゴの暗黒街のトップに上り詰めていくにつれて、年々悪化します。脱税で懲役11年の判決を受け、収監された数年後には完全治癒が望めないほど酷い病状になっていたこと・当初収監された刑務所では、刑務官らを買収して“特別待遇”を受けて、刑務所の中から電話で組織に指示を送っていたが、後に移送されたアトランタやアルカトラス島の刑務所では一般の囚人扱いで過酷な日々を送ったこと(別の囚人から殺されかけたこともあったという)・妻のメエは21歳で19歳のアルと結婚したが、愛人を何人も持った夫に対しても、彼女は最後まで献身的で、アルが梅毒が悪化し廃人のようになって死ぬまで寄り添ったこと(メエは、アルの没後約40年も生きて、亡くなったのは1986年。結構長寿でした)。・脱税で10年近く服役したカポネが病状悪化で仮釈放された後もずっと、シカゴの暗黒街の“互助組織(シカゴ・アウトフィット)”は、妻のメエやファミリーに経済的な支援を続けたこと(イタリア・マフィアの血の結束の強さには驚くばかり)・本には晩年、釈放された後、フロリダの別荘で過ごすアルの写真も掲載されていますが、一見すると結構元気そうで、梅毒による体調悪化と見えないのが不思議でした ******************************** カポネの兄弟や子どもたちは、カポネ亡き後も「カポネ=極悪」というイメージが消えず、兄のラルフもアルと同様、脱税を追及され、死ぬまで払っても払えないような追徴金を課せられます。その他の親族も生きていくのに苦しみました。名字を変えてひっそりと暮らしたり、カポネ・ファミリーだと中傷されて自殺した親族も少なくありません。息子のソニーも、大学で周囲の白い目を避けるために名字まで変えましたが、結局はばれて大学を中退せざるを得ませんでした。 カポネが司法当局の目の仇(かたき)にされた背景について、著者は、「当時はイタリア系とユダヤ系は目の仇(かたき)にされる世相だった。カポネ以外にも悪人はいたが、カポネは結局、イタリア系だったことで、アングロサクソンが主流を占めていたワシントンの政治家や検察当局、国税当局から一番の標的にされたのだ」と推察しています。禁酒法施行自体も、酒造業界を支配していたドイツ系の人たちへの反発があったことは、多くの歴史家が認めるところです。 アルフォンス・カポネは、確かに犯罪者であり、シカゴの犯罪組織のトップにまで上り詰めた人間です。今でも「極悪非道の犯罪者」というイメージが定着していますが、晩年の姿を知ると、私は少し同情を禁じ得ません。 カポネ自身は当時、「オレは市民がほしがるもの(アルコール)を提供しているだけだ」と言っていました。もちろん、当時の法律では非合法なやり方でしたが、現代社会でのルールでは、「あくどいビジネス」と非難される程度でしょう(もちろん、ビジネス拡大の過程で対立する組織の人間を粛清した行為は、もちろん現代でも明らかな凶悪犯罪ですが)。私は、カポネはある意味、禁酒法と言う時代が生み出した「必要悪のようなモンスター」だったのかもしれないと思っています。 最後に、ブログでの連載の最終章で私が書いた一文をあえて、もう一度再録して、この稿を終えたいと思います。 米国史上、「高貴な実験」と称された禁酒法は結果として、様々な矛盾や犠牲を生んで、失敗に終わりました。禁酒法が我々に残した教訓は、「酒に対する人間の基本的欲求を、宗教的・道徳的な規範で縛ることなど決してできない」「酒への欲求を法で縛れば、その抜け穴を狙った犯罪が増えるだけ」ということでしょう。 第一次大戦での国家的危機感がゆえに、宗教的・道徳的規範が人間本来の欲求に優先すると信じた当時の米国の政治・宗教指導者たちは、今思えば愚かな人たちに見えます。国家が合法的に大衆を抑圧するのは、有権者の一時的な熱狂・妄信を後ろ盾にすればそう難しくないのです。それは、あのヒトラーが証明しています。 ワン・フレーズのスローガンに煽られて、大衆がみんな同じ方向へ一斉に走り出してしまう社会ほど怖いものはありません。かつてナチス政権登場時のドイツや、(絶対天皇制下の軍部に主導されたとは言え)太平洋戦争に突き進んだ日本を思えば、私たちは、あの時代の米国の指導者や米国人をどれほど笑えるでしょうか。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2013/07/03
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16.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)【現代の標準的なレシピ】(単位はml)ジン(40)、クレーム・ド・マント(グリーンミント・リキュール)(20)、マラスキーノ・チェリー(飾り)、グラスの縁をレモンで濡らす(砂糖でスノー・スタイルにすることも) 【スタイル】シェイク 日本生まれ(または日本人考案の)カクテルは数多くありますが、バーの現場で、半世紀以上も忘れられずに生き残っているものはそう多くありません。現代でも毎年、千を超える創作カクテルが生み出されていますが、残念ながらそのほとんどは、数年以内に忘れ去られてしまうのが現実です(その理由については、また別の機会に書きたいと思います)。 「青い珊瑚礁」はそうした国内のカクテルの歴史の中で、長く生き残ってきたカクテルです。1950年(昭和25年)5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝きました。作者は名古屋のバーテンダー、鹿野彦司氏(後に名古屋・栄で「くらぶ鴻の巣」オーナー・バーテンダー。同協会の副会長も歴任)です。 敗戦後の1947年、日本政府はGHQ(連合国軍総司令部)の指示で「飲食営業緊急措置令」を出し、国内での酒場営業や自由な酒類販売を禁じました。この規制は1949年5月にこの「措置令」が廃止されるまで続きました。「青い珊瑚礁」は、酒場営業解禁を記念する歴史的な一杯でもあったのです。 カクテル名は、1948年に公開されたイギリス映画「ブルー・ラグーン(The Blue Lagoon)」にヒントを得たと鹿野氏自身が後に語っています(出典:「バーテンダー今昔物語」1970年刊)。その後、1955年に始まるトリス・バー開業ブームによって、日本国内に広まりました。 しかし、その後様々なカクテル・コンクールが開催され優勝カクテルが生まれたにも関わらず、昭和20年代に誕生した創作カクテルで、今なお知名度を保っているのはこの「青い珊瑚礁」と「キッス・オブ・ファイア」(1953年=昭和28年のコンクールでの1位カクテル)くらいです。 前者については、「戦後初のコンクールでの優勝作品」という大きな話題性もあって、業界でも長く記憶に残るカクテルとなりました。後者については、カクテル考案の年に歌手のペギー葉山が歌ったヒット曲「火の接吻(Kiss of Fire)」にヒントを得て考案した、言わば“タイアップの優勝作品”でした。 前述のような話題性もあって、昭和30年以降に国内で出版されたカクテルブックではこの2作品は必ずと言っていいほど取り上げられました。そうした長年の積み重ねが、現代でも知名度を保っている大きな理由の一つと考えられています。 なお、残念ながら同じような日本生まれのカクテル、「バンブー」や「ヨコハマ」、「チェリー・ブロッサム」とは違って、海外のカクテルブックでこの「青い珊瑚礁」を掲載した例は、現時点では確認されていません。【確認できる日本初出資料】「カクテール全書」(木村与三男著、1962年刊)。レシピは、ドライジン3分の2、クレーム・ド・マント・グリーン3分の1、マラスキーノ・チェリー&ミントの葉(飾り)、グラスの縁をレモンで濡らす(シェイク)。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/12/07
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日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
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◆(3)禁酒法がもたらした暗黒面 禁酒法の施行後には、当然予想されたことですが、非合法なアルコール製造・販売が横行し、都市部ではギャングの経営する「もぐり酒場(Speakeasy)」【注】が急増しました。都市部の治安は悪化し、ギャング同士の勢力争いに伴う抗争・殺人事件も相次ぎました。 禁酒法時代末期のニューヨーク市では、法施行前に正規営業していたバーの数(約1万5千軒)の約2倍以上、約3万2千軒ものもぐり酒場が存在(1929年時のデータ)し、禁酒法廃止前年の1932年には、全米でのもぐり酒場の総数は約21万9千軒に達していました(A、B、C)。 とくにシカゴは、禁酒法をごまかすための「避難所(Shelter)」として有名で(WK)、アル・カポネ(Alphonse Capone)=写真左=に代表されるようなマフィア、ギャングは、違法な酒類の取引(密造・密輸入)やもぐり酒場経営で巨万の利益を得ていました。 カポネ自身はシカゴで約160カ所のもぐり酒場も経営し、もぐり酒場のほか、とばく場や売春宿の経営等も含めて、1925~30年頃、少なくとも年間約2000万ドル(貨幣価値が現在とは違いますが、当時平均的米国民の年収の約7700倍)の稼ぎを得ていたと言われています(( C )Spartacus schoolnet )。 なお、映画「アンタッチャブル」(1987年)では、ロバート・デ・ニーロがカポネを演じ、中年のような雰囲気でしたが、実際のカポネは、1925年にシカゴの犯罪組織のボスに登りつめた時はなんと、まだ26歳(!)=1899年生まれ=の若さでした。イタリア系移民の子だったカポネは、年齢や人種に関係なく、ある意味、才覚だけで暗黒街のトップにのし上がり、彼の「アメリカン・ドリーム」をつかんだとも言えます。 ちなみに、カポネを脱税で追いつめ、訴追した財務省禁酒局特別捜査チームのリーダー、エリオット・ネス(Eliot Ness)=写真右=も、映画ではケビン・コスナーが演じて、30代半ばという感じの設定でしたが、驚くべきことに、1927年の捜査チーム・リーダー就任時は、なんと24歳(!)=1903年生まれ=でした。 20代半ばにして、大きな犯罪組織のボスとなったカポネ、政府の期待を一身に背負った捜査当局の責任者となったネス。いい悪いは別にして、歴史に名を残す人物は、やはり若くして大きな仕事をするのかもしれません。 ギャングは、主にカナダ経由で密輸した正規品だけでなく、メチル・アルコール等の混ぜ物をした質の悪い酒も市場に流通させました。ギャングだけでなく、一部の市民の間では、パスタブを使ってこっそり粗悪なジンを醸造するのが流行(はや)りました。そうしたジンは市場にも出回り、「バスタブ・ジン」とも呼ばれました(A、B)。 しかし「バスタブ・ジン」は当然、味もおいしくないどころか、なかには健康に害を及ぼす製品も多かったのです。一般市民の間では健康被害(最悪、失明に至るなど)が相次ぎ、一説には、禁酒法が廃止されるまでの13年間に、全米で1万人以上の死者が出たと言われています(A、C)。 非合法のアルコール製造や密輸や販売、もぐり酒場の取り締まりに当たる米財務省禁酒局の捜査官は全米で1500人足らず(当時の米国の人口と比べれば7万人に1人という割合)で、全米でくまなく取り締まることなどとても不可能でした(A、B)。 また、州警察・検察当局や各市警では積極的な取り締まりを行わないどころか、「袖の下(賄賂)」を取って違法営業を見逃す検事や警官の数も目に余る程だったと伝わっています。なかには、自ら「もぐり酒場」の経営に参加したりする悪徳警官もいました(A)。 【注】「Speak easy」とは元来は「小声でささやく」「こっそり注文する」の意。禁酒法時代の「もぐり酒場」は原則、顔なじみの人間か、誰かの紹介がなければ入店できませんでした。店の扉(ドア)には小窓があり、店側はその小窓を開けて客を名前(顔)や会員証で確認します。その際、客は自分の名前や合言葉をささやくように伝えたといいます。そして同様に、店内で酒を注文する際も小声でささやきました。いつしか、こういう「もぐり酒場」のことは「Speakeasy」と呼ばれるようになりました。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/08
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久しぶりに言葉の話題を(ただし、言葉といっても地名の話)。どこの土地に住んでも、初めて見る地名(や駅名)に戸惑うことは多い。「どう読んでいいのか、さっぱり分からんよー」と、困り果てた経験が皆さんもおありだろう。 かつて住んでいた徳島にも難読地名がいろいろあった。佐那河内(さなごうち)、宍喰(ししくい)、土成(どなり)なんてまだ簡単な方。鷲敷(わじき)や鮎喰(あくい)も、少し想像力を働かせればなんとかなる。だが、府中と書いて「こう」と読ませるなんて、「どこでいったいそうなるんだ」という感じだった。 地名は、方言同様、その土地の歴史や風土が詰まった「文化遺産」でもある。地名一つひとつに、人々の長い暮らしの歴史が染み込んでいる。行政効率の名のもとに、あるいは市町村合併という大義名分のために、消えて行った貴重な地名が何と多いことか。 吉良上野介邸があった「本所松坂町」という由緒ある地名は、今は大きく「両国」の中にくくられてしまった(写真左=現在の吉良上野介邸跡。両国3丁目にある)。 大阪ミナミには、かつて1970年代末まで、笠屋町、畳屋町、炭屋町など、文字通り、どういう職人たちが集まっていたかがわかる由緒ある地名が長く使われていた。しかし1981年、行政効率の論理が優先され、すべて東(西)心斎橋という味気ない地名に統一されてしまった(唯一、生き残ったのは「宗右衛門町」という地名だけ)。 個人的には、これほどの愚政はないと今も思う。あの大阪市なら、さもありなんというところか(一方で、十計町=かぞえまち=という加賀藩ゆかりの由緒ある地名を復活させた金沢市なんて、すばらしい土地もあるのに…)。 ミナミの住民たちは今も、比較的若い世代でも、鰻谷(うなぎだに=写真右下=現在の鰻谷かいわい)や三津寺(みってら)という、もうなくなってしまった地名を、普通によく使う。仲間うちでは、昔の地名の方がそのエリアや、イメージをうまく伝えやすいからだ(ただし、旅の人には、「その店なら、鰻谷にあるよ」とは決して教えたりはしないので、ご安心を)。 さて、首都圏から関西に就職、転勤、あるいは結婚で初めて来られた方は、この僕のブログに遊びに来られている中にも、何人かいらっしゃる。おそらくは、初めての関西の、いろんな難読地名・駅名に驚かれたことも多いに違いない。 以前、関東から転勤してきた社内の同僚のために、「関西弁クイズ(50問)」をつくった(4月23日の日記ご参照)。それとは別に「大阪(関西)難読地名・駅名クイズ」(兵庫県も一部含む)なるものも、つくってあげて、意外と好評だったので、ご紹介する。 もうすでに「誤読して→指摘され」の“洗礼”を受けている方も、そうでない方も、確認の意味で一度、以下のクイズに挑戦していただければ幸い。なかには僕自身、成人してかなり経ってから正しい読み方を知ったものもある。 「いまさら聞けない」地名の読み方。さぁ、8割できれば、貴方には「なにわの地名博士」の称号を贈りましょう(正解は、後日の日記で紹介します)。 【大阪(関西)難読地名・駅名クイズ】1.西中島南方( ) 2.十三( )3.御幣島( ) 4.柴島( ) 5.河堀口( ) 6.茨田大宮( )7.放出( ) 8.道修町( ) 9.丼池( ) 10.靫本町( )11.立売堀( ) 12.四貫島( )13.波除( ) 14.遠里小野( )15.粉浜( ) 16.杭全( )17.喜連瓜破( ) 18.野江内代( )19.蒲生( ) 20.鴫野( ) 21.富田林( ) 22.枚方( )23.交野( ) 24.樟葉( )25.私市( ) 26.水走( )27.弥刀( ) 28.布忍( ) 29.七道( ) 30.淡輪( )31.深日( ) 32.箱作( ) 33.堅下( ) 34.売布( ) 35.清荒神( ) 36.大物( )
2005/07/01
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先日のこと。ある海外のバー業界関係の方から「過去誕生したジャパニーズ・カクテルのなかで、知っておくべき重要なカクテルを教えてほしい」という依頼を受けました。 そこで、まがりなりにも長年カクテル史を研究してきた私が、独自の?視点で25のカクテルを選んで、DeepLの力を借りて(笑)英訳したうえでお伝えいたしました(うち2つは日本人の考案ではなく、滞日外国人が考案した or 関わったと伝わる日本生まれのカクテルですが…)。 以下はその日本語版です。「プロなら知っておくべきジャパニーズ・カクテル」と、その考案者(不明なものもありますが)、誕生の時期・由来等について簡単に紹介いたします(かつて私のBlog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」で取り上げたものについては、その該当ページへのリンクも貼っておきます)。1.横浜(Yokohama)(19世紀末から20世紀初頭、考案者は不詳) ジン30ml、ウォッカ15ml、オレンジジュース15ml、グレナデン・シロップ10ml、アニゼット0.5tsp(ティースプーン) ※横浜・外国人居留地のバーもしくは欧州航路の客船内のバーで誕生したと伝わっている。いずれにしても欧州航路の客船を通じて1920年代には英国にも伝わり、サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されることになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:横浜(Yokohama)」】2.チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom) 田尾多三郎(1923年) チェリー・ブランデー30ml、ブランデー20ml、オレンジ・キュラソー10ml、レモン果汁5ml、グレナディン・シロップ5ml ※田尾氏(故人)がオーナー・バーテンダーをつとめていた横浜・伊勢佐木町の「カフェ・ド・パリ」(現在は関内に移転し、「パリ」と改名)で誕生した伝わっている。カクテル「横浜」と同様、欧州航路の客船を通じてロンドンやパリなどの欧州の大都市にも伝わった。サヴォイ・カクテル・ブック(1930年刊)にも収録されている。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)」】3.マウント・フジ(Mount Fuji) 東京帝国ホテルのインペリアル・バーで誕生(1924年)、考案者は不詳 ジン45ml、パイナップルジュース15ml、レモンジュース10ml、シロップ1tsp、マラスキーノ1tsp、 生クリーム 1tsp、卵白 ※「マウント・フジ」カクテルには他に2つのバージョン(JBAバージョンと箱根富士屋ホテルバージョン)が伝わっている。詳しくは、連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話」の「マウント・フジ(Mount Fuji)」の項をお読みください。4.ライン・カクテル(Line Cocktail) 前田米吉(1924年) ジン25ml、スイート・ベルモット25ml、ベネディクティン25ml、アンゴスチュラビターズ2dash ※前田米吉氏(1897年~1939年)は大正時代のバーテンダーであり、日本初の実用カクテルブック『コクテール』(1924年刊)の著者。【ご参考:拙Blogの記事「『コクテール』の著者・前田米吉氏の素顔とは」】5.會舘フィズ(Kaikan Fizz) 東京會舘内のバー発祥(1945年)、考案者は不詳 ジン45ml、牛乳60ml、レモンジュース15ml、砂糖1tsp、ソーダ ※敗戦後(1945年9月)、東京會舘は占領軍に接収され、1952年まで将校専用の社交場(「東京アメリカンクラブ」)として使用された。「會舘フィズ」は朝から酒を飲みたい将校が、バーテンダーに「お酒に見えないアルコール・ドリンクをつくってくれ」と頼んで、考案してもらったのが起源と伝わる。【ご参考:拙Blogの記事「東京會舘メインバー:歴史の重みに酔う」】6.カミカゼ(Kamikaze) 考案者不詳(1945~46年頃) ウォッカ30ml、コアントロー30ml、ライムジュース30ml、ライム・スライス ※第二次世界大戦後(1945年~)、東京の占領軍キャンプ(米軍基地)内のバー発祥と伝わる。 7.青い珊瑚礁(Blue Coral Reef) 鹿野彦司(1950年) ジン40ml、グリーンペパーミント・リキュール20ml、マラスキーノ・チェリー、あらかじめグラスの縁をレモンで濡らしておく。 ※1950年5月、戦後初めて開催された本格的なカクテル・コンクール「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会=当時はJBA=主催)で1位に輝いた。考案者の鹿野氏は(当時)名古屋のバー「くらぶ鴻の巣」のオーナー・バーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:青い珊瑚礁(Blue Coral Reef)」】8.キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire) 石岡賢司(1953年) ウォッカ30ml、スロージン20ml、ドライ・ベルモット、レモンジュース5ml、砂糖でグラスをスノー・スタイルにして ※1953年に開催された「第5回「オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール」(日本バーテンダー協会主催)でグランプリに輝いたカクテル。石岡氏は残念ながら、この受賞から数年後に他界された。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:キッス・オブ・ファイア(Kiss of Fire)」】9.雪国(Yukiguni) 井山計一(1959年) ウォッカ45~55ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース5ml、ミントチェリー、砂糖でグラスをスノー・スタイルに ※1958年、山形県酒田市のバー「ケルン」のオーナー・バーテンダー井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をモチーフに考案。翌年の1959年に開催された「第1回寿屋(後のサントリー)カクテルコンクール」で最優秀賞を受賞した。 日本人が考案したスタンダード・カクテルとしては、「雪国」は日本国内では今なお最もよく知られている(日本生まれのカクテルとしては「バンブー」が世界的に有名だが、これは残念ながら、明治期に米国から来日した外国人によって考案されたもの)。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:雪国(Yukiguni)」】10. スカイダイビング(Sky Diving) 渡辺義之(1967年) ホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー20ml、ライムジュース10ml ※1967年10月に開催された全日本バーテンダー協会主催の大会でグランプリを受賞したカクテル。海外ではあまり知られていないが、日本ではほぼ「スタンダード」になっており、国内で出版されるカクテル本にも頻繁に登場する。渡辺義之氏は大阪のバーテンダー。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スカイダイビング(Sky Diving)」】11. レッド・アイ(Red Eye) (1970年代後半?沖縄発祥。考案者は不詳) ビール150ml、トマトジュース150ml、スパイス(セロリソルト、ブラックペッパー...) ※トム・クルーズ(Tom Cruise)主演の映画「カクテル(Cocktail)」(1988年公開)に登場する生卵入りカクテル「レッド・アイ」に似ているが、この日本発祥の「レッド・アイ」は全く別物で、映画公開前の1970年代後半には沖縄の米軍基地周辺のバーで流行っていた。その後、80年代半ばには東京や大阪などの大都市でも広く知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:レッド・アイ(Red Eye)」】12. メロンボール(Melonball) (1978年、考案者は不詳) ウオッカ20ml、ミドリ(メロン・リキュール)30ml、オレンジジュース80ml ※1978年、サントリー社がメロン・リキュール「ミドリ(MIDORI)」を米国で先行発売するに際して、提案したオリジナルカクテル(オレンジジュースの代わりにグレープフルーツジュース、パイナップルジュースを使うバージョンもある)。13. ソル・クバーノ(Sol Cubano) 木村義久(1980年) ホワイト・ラム45~80ml、グレープフルーツジュース60ml、トニックウォーター60ml、グレープフルーツ・スライス、フレッシュミント ※1980年に開催された「トロピカルカクテル・コンクール」(サントリー社主催)でグランプリを受賞。木村氏は神戸のバー「サボイ北野坂」のオーナー・バーテンダーとして今も活躍中。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ソル・クバーノ(Sol Cubano)」】14. 照葉樹林(Shoyo Jurin=means Shiba Forest.) (1980年頃、考案者は不詳) 緑茶リキュール 60ml、烏龍茶 120ml ※サントリー・カクテルスクール東京校発祥と伝わる。15. 吉野(Yoshino) 毛利隆雄(1983年) ウォッカ60ml、キルシュワッサー0.5tsp、緑茶リキュール0.5tsp、桜花の塩漬け ※奈良県の吉野は桜の名所として有名。毛利隆雄氏は、東京・銀座「毛利バー」のオーナー・バーテンダー。16. スプモーニ(Spumoni) (1980年代半ば、考案者は不詳) カンパリ30ml、グレープフルーツジュース30ml、トニックウォーター ※日本のバーで最も人気のあるカクテルの一つ。アルコール度数が低く飲みやすいため、とくに女性に人気がある。日本のカクテルブックでは「イタリア生まれのカクテル」と紹介されることが多く、バー関係者でもそう誤解している人が多いが、日本生まれのカクテル。 1980年代半ばに、日本のカンパリ輸入業者と、イタリア料理ブームに便乗した外食産業関係者によって考案され、広まった。「スプモーニ」の語源は、イタリア語の「泡を立てる(spumare)」から名付けられたという。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:スプモーニ(Spumoni)」】17. キングス・バレー(King’s Valley) 上田和男(1986年) スコッチ・ウイスキー40ml、ホワイト・キュラソー10ml、ライムジュース10ml、ブルー・キュラソー1tsp ※1986年に開催された「第1回スコッチウイスキー・カクテルコンペティション」での優勝作品。作者の上田氏は、東京・銀座「Bar TENDER」のオーナー・バーテンダー。18. サケティーニ(Saketini) (1980年代半ば~後半に登場、考案者は不詳) ドライ・ジン40ml、日本酒(SAKE)30ml、オリーブ19. フォーリング・スター(Falling Star) 保志雄一(1989年) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・リキュール15ml、オレンジジュース10ml、グレープフルーツジュース10ml、 ブルー・キュラソー 1tsp、レモンピールは星型にくり抜く。ブルー・キュラソーで銀河のようにコーラル・スタイルにしたグラスに ※1989年、日本バーテンダー協会主催の「全国バーテンダー技能競技大会」で総合優勝した際の創作カクテル。保志氏は現在、東京・銀座「バー保志」のオーナー・バーテンダー。20. チャイナ・ブルー(China Blue) 内田輝廣(1980年代後半〜1990年代前半) ライチ・リキュール30ml、ブルー・キュラソー10ml、グレープフルーツジュース45ml、トニックウォーター45ml(トニックウォーター無しのバージョンもある) ※ライチ・リキュール「ディタ(DITA)」の輸入発売スタートにあたり考案されたと伝わる。カクテル名は、中国の陶磁器「景徳鎮」の鮮やかな青色に由来するという。内田氏は富山市にある「バー白馬館」のオーナー・バーテンダー。21. ミルキーウェイ(Milky Way) 岸 久(1996年) ジン30ml、アマレット30ml、ストロベリークリーム・リキュール10ml、ストロベリー・シロップ15ml、パイナップルジュース 90ml ※1996年の「インターナショナル・カクテル・コンペティション(ICC)」ロングドリンク部門での優勝作品。岸氏は、東京・銀座「スタアバー」のオーナー・バーテンダー。ICCで優勝した日本人バーテンダーは岸氏が初めてである。22. オーガスタ・セブン(Augusta Seven) 品野清光(1997年) パッソア(パッションフルーツ・リキュール) 45ml、パイナップルジュース90m、レモンジュース15ml ※パッソア・リキュールの日本での輸入販売を開始するにあたり、オリジナルカクテル考案の依頼を受けた大阪の「バー・オーガスタ」オーナー・バーテンダー、品野清光氏が考案した。その後、人気漫画「バー・レモン・ハート」でも紹介されたことで全国的にも知られるようになった。【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:オーガスタ・セブン(Augusta Seven)」】23. スピーク・ロウ(Speak Low) 後閑信吾(2012年) ダーク・ラム50ml、ペドロヒメネス・シェリー5ml、抹茶1tsp、レモンピール ※2012年、「バカルディ・レガシー・カクテル・コンペティション」の優勝作品。後閑氏は日本人では、現在世界で最もその名が知られているバーテンダー。【番外編】・バンブー(Bamboo) 1890年、横浜外国人居留地にあった旧・横浜グランドホテルの支配人だった米国人、ルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)氏が考案したと伝わる。 ドライ・シェリー50ml、ドライ・ベルモット20ml、オレンジビターズ(ステア)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:バンブー(Bamboo)」】・ミリオンダラー(Million Dollar) 19世紀末または20世紀初めに、横浜グランドホテル内のバーで誕生? バンブーと同じエッピンガー氏の考案とも伝わるが、これを裏付ける文献資料は確認されていない。 ジン45ml、スイート・ベルモット15ml、パイナップルジュース15ml、グレナデン・シロップ、卵白(シェイク)【ご参考:拙Blog連載「カクテルーーその誕生にまつわる逸話:ミリオンダラー(Million Dollar)」】★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/04/01
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<中> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです(かつて私のBlog連載で取り上げたものについては、その関係ページへのリンクも貼っておきます)。★ハンキー・パンキー(Hanky-Panky)(1903~20年代前半、考案者=エイダ・コールマン<Ada Coleman>) ジン45ml、スイート・ベルモット45ml、フェルネット・ブランカ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※スイート・ベルモットを使う甘口系「マティーニ」(ドライ・ベルモットを使うマティーニが主流になるのは、1920年代後半以降)のヴァリエーション。ロンドンのサヴォイ・ホテル「アメリカン・バー」で2代目のチーフ・バーテンダーをつとめた女性バーテンダー、エイダ・コールマン(1875~1966)が、顧客の求めに応じて考案したと伝わる。★ベボー・カクテル(Bebbo Cocktail)(1920~33年、考案者は不詳) ジン40ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース10ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※米禁酒法時代(1920~33)に生まれたカクテルと伝わる。奇妙な名の由来は定かではない。クラシック・カクテルには、ハチミツを使うものがしばしば登場する。氷が貴重品だった時代、カクテルを飲みやすくするバーテンダーの工夫の一つだった。(禁酒法時代の)粗悪なジンを使ったカクテルが飲みやすくなり、ジュースにも見えるため当局の摘発から逃れられるという実用的利点もあったと伝わっている。★メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)(1920~33年、考案者は不詳) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・ジュース20ml、マラスキーノ10ml、グレナディン・シロップ1tsp、レモン・ジュース1tsp(シェイク) ※米国の禁酒法時代(1920~1933)に、キューバの首都ハバナを代表するバー「エル・フロリディーダ(El Floridita)」で誕生したと伝わる。サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)にも紹介されている。パイナップルの風味が効き、マラスキーノ・リキュールがほのかに香る、爽やかな味わい。カクテル名は、サイレント(無声映画)時代のハリウッドの大女優の名にちなむ。 ちなみに、ピックフォードは自ら映画製作に乗り出した最初の女優として知られ、1919年にはチャプリンらと共同で映画製作・配給会社「United Artists」を設立している。「エル・フロリディーダ」は、ハバナをたびたび訪れ、居宅も構えた文豪ヘミングウェイが、大好きなフローズン・ダイキリを味わうために通った店としても有名。★ピスコ・サワー(Pisco Sour)(1920年代、考案者は不詳) ピスコ・ブランデー40ml、レモン・ジュース15ml、シュガー・シロップ10ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、卵白(シェイク) ※爽やかな酸味と、卵白の柔らかな舌触りが絶妙に調和したカクテル。1920年代、ペルーの首都リマでバーを誕生したと伝わる。その後米国へ伝わり、50年代に入って、ハリウッドスターらに愛飲されて人気が高まった。ピスコ・ブランデーは、マスカット系ブドウが原料。カクテル名の「Pisco」は、古代インカの言葉の「鳥」に由来する。★ブラッド&サンド(Blood & Sand) (1920年代、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー30ml、スイート・ベルモット10ml、チェリー・リキュール10ml、オレンジ・ジュース20ml、ビターズ(シェイク) ※1920年代に誕生。サイレント時代の名優、ルドルフ・ヴァレンチノ(Rudolph Valentino)が主演した映画「Blood And Sand(血と砂)」(1922年公開)にちなんで考案されたという。美女の心を掴(つか)むために闘牛士の主人公が猛牛に戦いを挑むが、敗れて倒れ、血が熱砂を染めたという映画のエピソードから生まれたカクテルと伝わっている。★アペロール・スプリッツ(Aperol Spritz)(1920年代、考案者は不詳) アペロール60ml、スパークリング・ワイン60ml、オレンジ・スライス(ビルド)(アペロール40ml、白ワイン60ml、ソーダ40mlというレシピも)。 ※「アペロール」は1919年イタリア北部の町パドヴァで誕生したリキュール。「スプリッツ」は20年代には地元ですでに飲まれていたスタイル。戦後もそう注目されることもなかったが、2000年以降、欧米の大都市のバーでブレイクし、おしゃれで飲みやすいドリンクとして近年の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランイクインしている。サウスサイド(Southside) (1920年代、考案者は不詳) ジン40ml、ライムジュース15ml、シロップ15ml、フレッシュ・ミントの葉7枚(ビルド) ※1890年代、米国ロングアイランドの「Southside Sportman's Club」で誕生した「サウスサイド・フィズ」が、その後、禁酒法時代(1920~33)に、ニューヨーク・マンハッタンのもぐり酒場(Speakeasy)でソーダを抜いたショート・カクテルのスタイルに変化したものと伝わっている。エンジェル・フェイス(Angel Face)(1920年代、考案者は不詳) ジン、カルバドス、アプリコット・リキュール各3分の1ずつ(ステアまたはシェイク) ※英国ロンドン発祥と伝わる。『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したという説も伝わっているが、裏付ける資料は確認されていない。プレジデンテ(Presidente)(1920年代、考案者は不詳) ラム40ml、スイート・ベルモット(またはドライ・ベルモット)10ml、コアントロー10ml、オレンジ・ビターズ2dash(ステアまたはシェイク) ※1920年代、ハバナのバーテンダーが、キューバの第3代大統領マリオ・メノカル(「第5代ヘラルド・マチャド大統領」という説も)のために考案したと伝わる(「El Presidente」という名で紹介されるケースも)。他にも、「ニューヨークのクラブ「エル・チーコ」に勤めるキューバ人バーテンダーが考案した」という説も。 サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)には「President」というよく似たカクテルが登場するが、こちらはベルモットは入らない別のカクテル。一方、ハリー・マッケルホーンのカクテルブック(1919年刊)に登場する「President」は、「El Presidente」に近いレシピであるなど、実に紛らわしいカクテルである。★コープス・リバイバー#2(Corpse Reviver #2)(1920年代、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ドライ・ジン、トリプルセック、リレ・ブラン、レモンジュース各15ml、シロップ5ml、アブサン2dash(シェイク) ※サヴォイ・ホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。 同時代(1920年代)のカクテルに、J.W.ターリング(Tarling)による「コープス・リバイバー」が、また、少し後の1950年代に誕生したパトリック・ダフィ(Patrick Duffy)による「コープス・リバイバー#3」も伝わっているが、欧米ではクラドックの「#2」が一番よく知られている。他の2つのレシピは以下の通り。 ・コープス・リバイバー=ブランデー30ml、カルバドス15ml、スイート・ベルモット15ml(シェイク)(※同名のカクテルでは「ブランデー、オレンジジュース、レモンジュース各20ml、グレナディン・シロップ2dash、シェイクしてシャンパンで満たす」というレシピも伝わっている) ・コープス・リバイバー#3=ペルノー45ml、レモンジュース15ml、氷を入れたタンブラーに入れ、スパークリングワインで満たすモンキー・グランド(Monkey Gland)(1920年代、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>) ジン40ml、オレンジジュース20ml、グレナディン・シロップ5ml、アブサン 2dash(シェイク) ※パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の創業者、ハリー・マッケルホーンが考案したと伝わる。カクテル名は直訳すると「猿の分泌腺」だが、1920年代、フランスの外科医セルジュ・ヴォロノフ(1866~1951)が「猿の睾丸を移植すれば長寿になる」ことを実証するため老人に移植手術したというエピソードに由来するという。パラダイス(Paradise)(1920年代?、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ジン45ml、アプリコット・ブランデー23ml、オレンジジュース23ml、オレンジ・ビターズ(シェイク) ※サヴォイホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。★ブールヴァルディア(Boulevaldier)(1927年、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>と伝わる) バーボン・ウイスキー40ml、カンパリ25ml、スイート・ベルモット25ml(シェイク) ※レシピを見て分かるように、ネグローニのジンをバーボンに代えたバージョン。「Boulevaldier」の文字通りの意味は「大通り」だが、転じて、「伊達男」「遊び人」「流行りの場所に出入りする人」の意がある。近年の欧米の人気カクテル・ランキングでは、常に20位以内に入るなど再び注目を集めるカクテル。 ハリー・マッケルホーンは、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」創業者で、1919年には歴史的名著『ABC of Mixing Cocktails』を出版した名バーテンダー。ブールヴァルディアは、彼の2冊目の著書『Bar Flies & Cocktails』の「Cocktail Round Town」の項で初めて登場する。ナイト・ライト(Night Light)(1920~30年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、ゴールド・ラム15ml、コアントロー20ml、卵黄(シェイク) ※1920~30年代に誕生したと伝わる、食後向きのナイト・カクテル。ブザム・カレッサー(前出)と同様、卵黄を使うカクテルで、英国で1937年に出版された「カフェロイヤル・カクテルブック」でも紹介されている。基本はロック・スタイルだが、ショート・カクテルでつくってもとても美味しいドリンク(バーUKではベースのラムは2種をブレンドしています)。ブランデー・ズーム(Brandy Zoom)(1930年代前半、考案者は不詳) ブランデー45ml、生クリーム30ml、ミルク20ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※甘口でデザート感覚で楽しめるカクテル。1934年にパリで出版された「The Artistry of Mixing Drinks」(フランク・マイヤー著)で初めて紹介されたが、マイヤー自身のオリジナルかどうかは不明である。「ズーム(Zoom)」とはミツバチが飛ぶ羽音の擬音。転じてハチミツを使うカクテルは「Zoom Cocktail」と呼ばれるようになった。ベースにはラムやウイスキー、ジンも使われるが、ブランデー・ベースが一番人気である。★サイレント・サード(Silent Third)(1930年代前半、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー35ml、コアントロー20ml、レモン・ジュース15ml(シェイク) ※有名なカクテル「サイドカー」のスコッチ・ウイスキー版。1930年代前半、コアントローの独占販売権を持っていた英国の実業家が考案したと伝わる。カクテル名は「物言わぬ第三者」との意ではなく、考案者の愛車のサード(トップ)・ギアがとても静かでスムースだったことに由来するとのこと。ベースに使用するスコッチ・ウイスキーは、アイラ島のスモーキーなシングルモルトを好む人も多い。★ゾンビ(Zombie) (1934年、考案者=ドン・ビーチ<Don Beach>)以下の2種類のレシピが伝わっているA=ホワイト・ラム、ゴールド・ラム、ダーク・ラム各15ml、アプリコット・ブランデー、オレンジジュース、パイナップルジュース各10ml、レモンジュース、グレナディン・シロップ各5ml、アブサン少々、氷、オレンジ・スライス(シェイク)B=ホワイト・ラム、ダーク・ラム各25ml、ライムジュース、パイナップルジュース各15ml、グレナディン・シロップ1tsp、氷、オレンジ・ピール(シェイク) ※Aの簡略版として考案されたものだろう ※ハリウッドにあるドン・ビーチのバー「ドン・ザ・ビーチコンバーズ(Don the Beachcomber's)」発祥と伝わる。映画「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘプバーンがパーティ・シーンで味わっていたのがこのカクテル。★ヴュ・カレ(Vieux Carre) (1937年、考案者=ウォルター・バージェロン<Walter Bergeron>) ブランデー、ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット各20ml、ベネディクティン1tsp、ビターズ3dash、レモン・ピール(ステアまたはシェイク) ※ニューオーリンズのモンテレオーネ(Monteleone)・ホテルのバー・カルーセル(Carousel)のバーテンダー、ウォルター・バージェロンが考案したと伝わる。「Vieux Carre」とは、観光名所「フレンチ・クォーター」地区の古名。上記26のブールヴァルディアと同様、近年再び人気が上昇している「クラシック」の一つ。アルゴンキン(Algonquin) (1930年代、考案者は不詳) ライ・ウイスキー35ml、ドライ・ベルモット10ml、パイナップル・ジュース20ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾り ※ニューヨーク・マンハッタンにある老舗ホテル「アルゴンキン・ホテル」のブルー・バー発祥と伝わる。B & B(1930年代、考案者は不詳) ブランデー30ml、ベネディクティン30ml、氷、ロック・グラスで(ビルド) ※米国の禁酒法時代(1920~33)の1930年代、大都市にあった「もぐり酒場(Speakeasy)」で考案され、その後1937年、ニューヨークの有名な社交クラブ「21 Club」で提供されるようになって、幅広く普及したと伝わる。現代のバーでは人気カクテルという訳ではないが、今なお「スタンダード」としての地位を保っている。★ヘミングウェイ・スペシャル(Hemingway Special)(1930年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、マラスキーノ10ml、ライム・ジュース10ml、グレープフルーツ・ジュース40ml(シェイク) ※キューバ・ハバナの老舗バー「エル・フロリディータ(El Floridita)」のバーテンダーが、1930年代、常連客だった文豪ヘミングウェイのために考案したと伝わる。当初は、「パパ・ダイキリ(Daiquiri como Papa)」と呼ばれていたが、その後いくつか名が変わり、最終的に現在の名前になったとのこと。ヘミングウェイはこれを一日に12杯も飲んだという逸話も伝わっている。エース・オブ・クラブス(Ace Of Clubs)(1930年代、考案者は不詳) ゴールド・ラム40ml、ホワイト・クレーム・ド・カカオ10ml、ライム・ジュース10ml、シュガー・シロップ1tsp(シェイク) ※1930年代にバミューダ諸島の発祥と伝わる。カクテル名の「Ace Of Clubs」とは、1930年代後半、ニューヨークにあったバーの名(元々の意味は「トランプのクラブのエース」)。考案者はここに勤めていた無名のバーテンダーだが、彼は禁酒法時代、キューバのバーで働き、禁酒法廃止後、再びニューヨークへ戻ってきた。その彼がキューバでの日々を思い出し、ダイキリのヴァリエーションとして考案したという。カカオ・リキュールが入るが意外ときりっとして旨い。ミッショナリーズ・ダウンフォール(Missionary Downfall)(1930年代後半、考案者=ドン・ザ・ビーチコマー) ホワイト・ラム45ml、ピーチ・リキュール15ml、パイナップルジュース40m、カット・パイナップル2~3片(シェイカー内で潰す)、ハチミツ1.5tsp、生ミントの葉5~6枚 「宣教師の転落、破滅」という妙な名前を持つ古典的カクテルだが、名前の由来は不詳。「ラム・カクテルの帝王」とも称されるアーネスト・レイモンド・ボーモン・ガント(Ernest Raymond Beaumont Gantt)、すなわち米国のドン・ザ・ビーチコウマー(Don the Beachcomber)が考案したと伝わる。1907年にテキサスに生まれたガントは、禁酒法時代に酒の密輸業者として財をなし、34年に自らのバーをハリウッドに開いた。37年には自らの名前を「ドン・ビーチ」と改名。その後、自らの名を冠したレストラン&バー・チェーンを全米へ次々と展開、100以上のラム・カクテルを生み出した。サファリング・バスタード(Suffering Bastard) (1942年、考案者は、ジョー・セイアロム<Joe Seialom>) ブランデー30ml、ジン30ml、ライム・コーディアル20ml、ライムジュース10ml、ビターズ3dash、ジンジャー・ビア100ml、氷を入れた大ぶりのマグで提供する(ジンジャー・ビア以外をシェイク) ※セイアロム氏は、当時、エジプト・カイロのシェファーズ(Shepheard's )・ホテルのバーテンダー。★エル・ディアブロ(El Diablo) (1940年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、ライムジュース10ml、カシス・リキュール20ml、ジンジャー・エール(適量)、ライム・スライス(ビルド) ※米国カリフォルニア州オークランドのバーテンダーが考案したと伝わる。1946年に出版されたVictor Vergeronのカクテルブックには「Mexican El Diablo」として紹介されている。Vergeron自身のオリジナルではないかという人もいるが、裏付ける資料は確認されていない。1960年代後半からは、単に「El Diablo」として紹介されることが多くなり、現在ではこの名前で定着している。【ご参考】過去のBlogでの関連ページハリケーン(Hurricane) (1940年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム15ml、ダーク・ラム15ml、レモンジュース10ml、パッションフルーツ・シロップ7.5ml、グレナディン・シロップ2tsp、オレンジジュース5ml、パイナップルジュース5ml(シェイク)、オレンジ・スライス&チェリー=飾り ※ニューオーリンズの「パット・オブライエンズ・バー(Pat O’Brien’s Bar)発祥と伝わる。★パロマ(Paloma) (1950年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、グレープフルーツジュース20ml、トニックウォーター30ml、グラスの縁を塩でスノースタイルに ※メキシコでの人気スタンダードカクテルの一つ。同国テキーラ村地区で誕生したと伝わる。バラクーダ(Barracuda) (1950年代後半~60年代前半、考案者=ベニート・クッパリ<Benito Cuppari>) ラム(ハバナクラブ3年)45ml、ガリアーノ15ml、パイナップルジュース 45ml、ライムジュース7.5ml、シロップ少々。シェイクしてシャンパンで満たす ※地中海クルーズの客船上のバーで働くクッパリ氏が考案したと伝わる。同氏は1966年、このカクテルでコンペに出場し、何かの賞をもらったという。イエロー・バード(Yellow Bird)(1960年代、考案者は不詳) ハバナクラブ3年20ml、バカルディ・ホワイト20ml、バナナ・リキュール15ml、ガリアーノ10ml、オレンジジュース45ml、パイナップルジュース25ml、レモンジュース5ml(シェイク) ※ハワイの「ハワイアン・ヴィレッジ」にあるシェル・バー(Shell Bar)で誕生したと伝わる。ゴールデン・ドリーム(Golden Dream) (1960~70年代、考案者=レイモンド・アルヴェラス<Raimondo Alveraz>) トリプル・セック25ml、ガリアーノ25ml、オレンジジュース40ml、生クリーム25ml(シェイク)※4つの材料を等量にするレシピも ※マイアミの「オールドキング・バー(Old King Bar)」のアルヴェラス氏が考案したと伝わる。★ペイン・キラー(Pain Killer) (1970年代初め、考案者=ダフィニー・ヘンダーソン<Daphne Henderson>) ダーク・ラム(パッサーズ・ネイビー・ラム)30ml、パイナップルジュース60ml、オレンジジュース15ml、ココナツミルク(またはココナツ・リキュール)15ml、クラッシュド・アイス、ナツメグ・パウダー=最後に振りかける(シェイク) ※「痛み止め」という変わった名前を持つカクテル。1990年代以降、世界中で注目を集めるようになってきたが、考案されたのは、1970年代初めで、発祥はカリブ海に浮かぶ英領ヴァージン諸島の一つ、ヨスト・ファン・ダイク(Jost Van Dyke)島と伝わる。パッサーズ・ラム社のHPによれば、ダイク島の「ソギ―ダラー・バー(Soggy Dollar Bar)」のオーナー・バーテンダーで、英国人女性のダフィニー・ヘンダーソンが考案したという。 後日、「ペイン・キラーの美味しさ」の噂を聞いたパッサーズ・ラムのオーナー、チャールズ・トビアス(Charles Tobias)が、ヘンダーソンに「レシピを教えてほしい」と頼んだが断られた。しかし、トビアスは「調合されたサンプル」を入手し、2年がかりで味を再現して、世界中のバーに紹介していったという。 「ペイン・キラー」の普及には、ドイツ・ミュンヘンにある「パッサーズ・ニューヨーク・バー」(1974年創業)が大きく貢献したことで知られており、現在でも同店の看板カクテルになっている。【ご参考】過去のBlogでの関連ページフレンチ・コネクション(French Connection) (1971年、考案者は不詳) コニャック45ml、アマレット23ml(シェイクまたはビルド)※コニャックではなく普通のブランデーだと「Godchild」というカクテルになる。 ※1971年、映画「フレンチ・コネクション」の公開を記念して考案されたと伝わる。初出文献は、1977年に出版された「Jones Complete Bar Guide」。ジャングル・バード(Jungle Bird) (1973年、考案者=ジェフリー・オン<Jeffrey Ong>) ダーク・ラム45ml、カンパリ23ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース15ml、デメララ・シロップ15ml(シェイク) ※マレーシア・クアラルンプールのヒルトン・ホテル内「バー・アヴィアリー(Bar Aviary)」のバーテンダー、ジェフリー・オン氏が考案したと伝わる。★アマレット・サワー(Amaretto Sour) (1974年、考案者は不詳) アマレット45ml、レモンジュース23ml、シロップ1tsp、卵白(シェイク)、飾り=レモン・ツイスト、マラスキーノチェリー、ロック・グラスで提供 ※米国のアマレットの輸入業者が1974年に考案したと伝わる。本格的に普及したのは1980年代以降。近年の欧米の人気ランキングでは常に上位にランクされている。 なお、2012年にオレゴン州のジェフリー・モーガンタラー(Jeffrey Morgenthaler)というバーテンダーが上記レシピにバーボンを加える別バージョンのアマレット・サワーを考案し発表。若い世代のバーテンダーに支持されたこともあって、現在ではオリジナル・レシピと同じくらい普及している。レモン・ドロップ・マティーニ(Lemon Drop Martini) (1970年代、考案者=ノーマン・ジェイ・ホブディ<Norman Jay Hobday>?) シトロン・ウオッカ60ml、トリプル・セック7.5ml、レモンジュース20ml、シロップ15ml、グラスの縁を砂糖でスノースタイルに(シェイク) ※サンフランシスコ発祥と伝わる。考案者ではないかと伝わるホブディ氏については詳細は不明。フェルナンディート(Fernandito) (1970年代、考案者は不詳) フェルネット・ブランカ(リキュール)50ml、氷を入れたグラスに入れ、コーラで満たす(ビルド) ※アルゼンチン・ブエノスアイレス発祥。考案者はブエノスアイレスのバーテンダー、Oscar Becerraとも伝わるが、裏付ける資料は確認されていない。★ブランブル(Bramble) (1980年代半ば、考案者=ディック・ブラッドセルラス<Dick Bradsell>) ジン40ml、レモンジュース15ml、シロップ10ml、ブラックベリー・リキュール(クレーム・ド・ミュール)10ml。シェイクして、クラッシュド・アイスを入れたロック・グラスに。レモン・スライス&ブラックベリーの実=飾り。 ※ロンドンの「フレッド・クラブ(The Fred's Club)」のバーテンダー、ディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が、故郷・ワイト島の香ばしいブラックベリー畑にインスピレーションを得て考案したと伝わる。今日でもなお数多くのカクテルブックで取り上げられる「モダン・クラシック」の一つ。ブラッドセル氏は80~90年代に数多くの素晴らしい「モダン・クラシック」を創り出したことで知られる。 <下>へ続く。
2023/04/18
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その8:席でのマナー(1) ◆ショート・カクテルはだらだら飲まない ショート・カクテルを、カウンターで1時間近くもかけてだらだら飲んでいる人を、時々見かける。ショート・カクテルは冷やしたカクテル・グラスに入れて供される。BARで供される飲み物でも、最も華やかで美しい。しかし、ひとたびグラスに入った後は、どんどんぬるくなっていく。 ぬるくなったショート・カクテルほど美味しくないものはない。せっかくバーテンダーが心を込めてつくってくれたのだから、感謝と敬意の気持ちを込めて、冷たく、美味しいうちに3口か4口(時間にして15~20分以内に)で飲みきるのが美しいマナーであり、エチケットだ。 ショートを3~4口でなんてとても飲めないという、お酒にそう強くない方は「ロング(スタイル)でお願いします」と告げよう。すると、バーテンダーさんはコブレットなどのロング・グラスに氷を入れて、時にはソーダなどで割って出してくれる(なお、カクテル・グラスを持つ際は、足の部分を親指と人差し指の先でつかみ、中指で台座の部分を抑えて安定を保つ。カクテルが入っているボウルを持つと体温で温まってしまうので、触らないこと)。 ◆むやみに他の客には話しかけない BARにやって来てカウンターで飲む理由は、人によって様々だ。一人で来る人もいれば、カップルもいる。グループもいる。知らない客に話かけられても構わないという人もいるだろうが、話しかけられたくない客やカップルもいる。BARでは基本的に、隣席の客にむやみに話しかけるのはよくないマナーだ。 他人の話の中に、もし自分の興味をひく話題が出てきたとしても、隣のグループ客の中に顔見知りがいたとしても、そこは我慢しよう。いきなりその会話に入っていくのはマナー違反。BARでは誰にでも、プライバシーを邪魔されない権利と、仲間うちだけで静かに酒を楽しむ権利がある。 ただし、マスターやバーテンダーから、「この方は、****の*****さんなんですよ」と紹介されたら、礼儀正しく挨拶して、話し相手になろう。その人物との会話から、思わぬ発見や知識を得て、得をすることだって珍しくない(ビジネスパートナーを得ることだってある)。BARとはそんな場所である。また、どうしても話したければ、直接ではなく、マスター経由で取り次いでもらって相手の意向を聞いてみよう。 ◆BARでのナンパは論外 BARのカウンターに1人で飲みに来ている女性客に、酔った勢いで声をかけている輩(やから)を時々見かける。言わずもがなだが、見知らぬ女性がすぐ隣で独りで飲んでいたとしても、決していきなり声をかけてはいけない。ましてや馴れ馴れしくしたり、口説いたりしてはならない。 BARは女性をナンパするところではない。女性客も“出会い”を求めて1人で来ている訳ではない(時にはそういう人がいないではないが…)。BARがそういう場所と思っているなら、貴方は変な映画の見過ぎだ。「1人で静かに飲みたいと思っているのに、変な男がしつこく声をかけてきて…いやだわ」と思われ、最悪の場合、その女性客はこのBARに「二度と来たくない」と思うだろう。客を失いかねない店からは貴方は嫌われて、「要注意人物」の烙印を押されるのがオチだ。 ◆奢ったり、奢られたりは? もし、同じ常連客と同じBARで2度、3度出会って、向こうも貴方の顔を知っていて、挨拶でもしてきたら、言葉を交わすのもいいだろう。相性が合ったら、「1杯、僕から」と奢ってあげるのもいい。しかし、その相手が女性であったとしても、それでお近づきになろうなんてすぐには考えない方がいい。後で「オレの女にちょっかいを出したな」なんて、ヘンな男が出てこないとも限らない。くれぐれも慎重に、慎重に。あとは自己責任である。 付け加えて言えば、「1杯いかが?」と逆に他の客から勧められたら、どうするか。「いい客」からの申し出かどうか分からなければ、マスターの目を見ればいい。目がイエスかノーかをきっと教えてくれるだろう。でもマスターが頼りにならないと思ったら、最終的には貴方自身が決めるしかない(その「1杯」にいかなる思惑があるかは分からない。後で高い代償を払うかもしれないが、それも含めて自己責任)。 ◆大声でしゃべらない、騒がない BARは静かにお酒を楽しむ場所だ。貴方だけの空間ではなく、他のお客さんと共有するパブリックな空間だ。この「入門講座」ではさまざまな細かいマナー(=BARの掟)に触れてはいるが、要は、「他の客にも店にも迷惑をかけない」「不快な思いをさせない」ことさえ守ればいいのである。 しかし常連の一部には何を勘違いしているのか、自分の家のように振る舞い、大声を出してしゃべり、大声で笑ったり、机を叩いたりし、あげくの果てはマスターに友達同士のようなぞんざいな口をきく客もいる。マナー違反であることは言うまでもない。貴方は決してそんな客にならないでほしい。 自分の声の大きさには、意外と気が付かない人が多いものだ。とくにグループで飲みに来た場合は要注意だ。集団で語り合うとつい声は大きくなる。グループの中には、声の大きい人が一人や二人はいるかもしれない。一人で静かに飲んでいる他のお客さんに迷惑をかけるような行為は、慎みたい。そんな友人がいたら、貴方は逆に注意してあげるべきだろう。以前にも書いたが、大勢でワイワイ騒ぎたければ、居酒屋やスナックへ行けばいい。 ◆カウンターに肘(ひじ)を突いてはいけないか これには両論がある。「肘は突いてはいけない」というマスターもいれば、「カウンターが混んでいない時は、肘くらい突いてもらって、リラックスしてもらってもいいですよ」というマスターもいる。だから一概には言えない。 昔は、京都サンボアの先代マスター(故人)や神戸の老舗BAR「ギルビー」(今は閉店)のマスターのように、「カウンターに肘はつかない!」と注意する怖いマスターもいた。しかし今では、肘をついたくらいで怒るマスターもそういない。しかしだからと言って、貴方はそんな風潮に甘えないでほしい。肘をついたり、ほおづえをついたりしながら飲む姿は決して美しいものではない。酔いすぎてカウンターに寄りかかって、挙げ句の果ては寝てしまうなどは論外だ。 カウンターでは、できれば背筋を伸ばし、綺麗に格好よく飲みたい。そして、店が混んで来たら、椅子を寄せる(詰める)などの心遣いもほしい。余談だが、京都サンボアの先代マスターは「店に入ってきたら帽子やマフラーはとる!」「(付き出しの)南京豆の殻は(灰皿ではなく)下へ落とす!」(=店ではそういうルールだった)などと口うるさい方だった(こういう頑固マスターも少なくなった)。 ◆マスター(バーテンダー)を独占しない マスターとしゃべりたくてそのBARへやって来る常連客は多い。だから、マスターはつら~い人気者だ。カクテルをつくりながらも、たくさんの客の話し相手をつとめなければならい。 しかし、マスター(バーテンダー)も聖徳太子じゃない。1人で同時に多数の客の話し相手はできない。カクテルの注文を受けて、シェイカーを振っている時はおしゃべりをする余裕はない。客と話だけしていても儲からない。酒を売らなければバーテンダー(従業員)に給料も払えない。だから店が忙しい時は、貴方の前にやってきたマスターに、待ってましたとばかりに話しかけ、ずっと独占するのはよくない。 他の客の様子も見よう。店の空気も読もう。貴方以外にもしゃべりたい客がいるかもしれない。忙しい時は、1対1の会話はせいぜい10分以内にとどめよう。それが優しさというものだ(ただし、開店直後など客があまりいない、余裕のある時間なら、精一杯独占して話をしても構わない)。 ◆お酒を真剣につくっている時は話しかけない バーテンダーはグラスを洗うなど何かの作業をしている時でも、話しかけたら大抵の場合、応えてくれる。しかし、シェイカーを振ってカクテルをつくっている時や、ミキシング・グラスでバー・スプーンを回している最中(マティーニなどをつくる際)などは、全神経を集中しているので、話しかけるのはやめたい。 「作業中でも話しかけてもらって構わない」というバーテンダーもたまにいるが、バーテンダーだって人間だ。神経の集中を乱されるのはイヤに決まっている。だから、真剣にカクテルをつくったりしている時はやはり、シェイキングが終わるまで待つような優しさを持ち合わせたい。 なお、カウンターに座る客の話の内容は、たとえ小声であってもバーテンダーには意外と聞こえているものだ。職業柄の習性で、彼らは無意識に耳の神経を集中させている。だから客の話し声はイヤでも聞こえてくる。貴方がこそこそしゃべった他人の噂話や悪口だって、意外と聞こえている。カウンターではそういうことも承知で声の大きさや話す内容には注意しなければならない。 ◆満席の時は席を空ける オーセンティックBARでは、常連客はもちろん、BAR好きの人はカウンター席で飲みたいものだ。しかし、人気があるBARのカウンターは週末などすぐに満席になる。もし自分がそのBARのカウンターで最初の方に座った先客であった場合、満席になってきたら席を空けて、待っている客に譲ってあげよう。 BARの経営者はある意味、客の回転率を上げることで生計を立てている。ノーチャージのBARであっても、客の回転率が上がった方がいいに決まっている。だから1人の客が長々といることより、次々と客が代わる方が有り難い。貴方がもし本当にそのBARを愛する客ならば、そういう心遣いも必要だ。 貴方が1時間以上そのカウンターに座っていて、すでに2~3杯飲んでいるのであれば、満席になったら、次の客に率先して席を譲ってあげよう。貴方は店からも感謝され、席を譲られた客からも喜ばれる。そして貴方は「良い客」としてマスターに一目おかれる。カウンターはそのBARを愛するみんなのもの。貴方がBARを愛するなら、そういう大人になりたい。【その9へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/24
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英国リバプール生まれのビートルズがアメリカへ進出し、飛ぶ鳥を落とす勢いでファンを獲得していった60年代半ばのこと。このままでは英国人に音楽チャートは占領されてしまうと、米国の音楽ビジネス業界が立ち上がった。 そして、ビートルズに対抗するポップロック・グループをオーディションで誕生させようと、1965年9月、応募してきた約400人の若者から4人が選ばれた。 デイビー・ジョーンズ(Davy Jones ヴォーカル)、マイク・ネスミス(Mike Nesmith ギター)、ピーター・トーク(Peter Tork ベース)、ミッキー・ドレンツ(Micky Dolenz ドラムス)という4人。 約1年間、歌や演奏、そして演技のトレーニングを積んだ後、66年10月、彼らはモンキーズ(Monkees=写真左。(C)公式HPから)という名前でデビューした。 デビュー・アルバムは「The Monkees」(写真右下)だったが、日本では収録曲の邦題タイトルから「恋の終列車(Last Train To Clarksville)」と名付けられた。 モンキーズはレコードとともに、自分たちの名を冠したテレビ番組「ザ・モンキーズ・ショー」もスタートさせた。コメディ仕立てのドラマと歌を交えた番組だったが、これは全米だけでなく、日本でも結構人気番組となった。 初期に彼らが出したシングルは、次々とヒットした。「恋の終列車」「モンキーズのテーマ(Theme from The Monkees)」「アイム・ア・ビリーバー(I'm a Believer)」「スター・コレクター(Star Collector)」「デイドリーム・ビリーバー(Daydream Believer)」「すてきなヴァレリ(Valleri)」…。 なかでも、1967年11月に発売された5枚目のシングル「デイドリーム・ビリーバー」(写真左)は、全米1位の大ヒット。世界で500万枚近いセールスを記録したというこの曲は、その親しみやすいメロディー、完成度の高さもあって、今ではモンキーズの代表曲というより、ポップスのスタンダード・ナンバーにもなっている。 モンキーズは日本にも68年秋にやって来てコンサートを開いたが、テレビで観た僕の印象は、演奏の実力も備えたビートルズとは違って、武道館という大きなキャパの会場では見劣りする稚拙な演奏だった。 その後、ある雑誌で読んだ暴露話によると、実は、ステージの裏で隠れてバックバンドが演奏していて、モンキーズ自体はほとんど演奏していなかったという(いわゆる「音パク」?)。真偽のほどは定かでないが、あの稚拙な演奏も本人たちじゃなかったとは…、日本のマーケットがなめられていたということか。 しかし、演奏技術はともかく、デイビーの歌は魅力的だったし、彼らに提供された楽曲は素晴らしいものが多かった(写真右=最近の4人。みんなええオッサンになってます。(C)公式HPから)。 ボビー・ハート、ニール・ダイヤモンド、キャロル・キングという当時、アメリカでも最高のソング・ライターたちが彼らのためにとっておきの曲を贈った。その名曲の数々は、今も色あせることはない。 モンキーズは、マイクやピーターが音楽性の違いなどを理由に次々と脱退し、1970年6月に正式に解散。グループとしてはわずか4年の短い活動だったが、8枚のアルバムと12枚のシングルを残した。 モンキーズを知らない人でも、「デイドリーム・ビリーバー」を知っている人は多い。「デイドリーム…」は、僕も大好きな曲の一つで、Bar 「M」でもよく弾き語りで唄う。 1980年代には、コダックのCMで「デイドリーム…」が使われたこともあって、再びリバイバル・ブームが起こった。昔のレコードもCDで再発されるようにもなった(写真左=ベスト盤は何種類か出ているが、これもその一枚)。 メンバーたちは80~90年代、グラミー賞やアメリカン・ミュージック・アウォードなどに久しぶりに登場し、ライブ・パフォーマンスを何度か見せてくれたこともあった(一度だけは、マイクも含めて4人で出てきた)。 マイクを除く3人は、その後何度か再結成をくり返し(最近では2001年に)、コンサートも開いているが、最近の音沙汰はあまり聞かない。おそらくは全員、60歳前後だろうが、どうしているんだろうか。 短命だった音楽活動には、人為的に作り出されたグループの悲哀も感じる。だが、娯楽性と完成度の高さを兼ね備えた、親しみやすい曲を数々送り出し、ポップ・ミュージック・ファンの裾野を広げたという意味で、モンキーズの功績は大きいと、僕は思っている。【追記】(2020年5月)4人のメンバーのうち、デイビー・ジョーンズは2012年2月(67歳)に、ピーター・トークは2019年2月(77歳)にそれぞれ死去。現在ではマイクとミッキーのみ健在ですが、公の場にはほとんど姿を見せていません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/11/09
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前回(17日)の日記で沖縄の旅のことを書いたが、なかでも印象的だったのは、那覇・牧志の市場だった。魚も肉も果物・野菜も、本土ではちょっとお目にかかれないようなものが山ほどあり、見るものすべてが興味深かった。 お土産にトロピカル・フルーツを少し買ってきたが、本土に比べて、当たり前だが、値段も安いし、種類も豊富だった。本土だと1個300~600円はする形のいい、大ぶりのパッション・フルーツ(写真のなか、上)で1個150円~200円。値段と形の良さを見て、もちろん3個ほど買ってしまった。 ほかにもいくつかフルーツを買ったが、そのなかに、生まれて初めて見るようなものがあった。店先の、その果物を積み上げていたところにあった紙札には、「メロンの味、ペピーノ」「クリの味がします、カニステル」と記してあった。 ペピーノ(写真の手前右)は、ビワくらいの大きさで1個200円、カニステル(写真の手前左)はもう一回り大きくて、イチジクくらいの大きさ。1個250円だった。 名前を聞くのも、見るのもまったく初めて。店のおばちゃんが「3、4日経ったぐらいが食べ頃だよー」と言っていたので、まだ味わっていないが、果たしてどんな味や食感なのか、楽しみだ(どなたか食べた方はいらしゃれば、感想なりを教えてほしいけれど…)。 昨日、早速行きつけのBAR「C」のバーテンダーHさんに、沖縄に行ってきた話をしたが、生フルーツのカクテルが得意なHさんも、「ペピーノ、カニステルですか? 聞いたことない名前ですねー」と言っていた。 ところで、沖縄のBARには当たり前のように泡盛を置いている店が多いが、泡盛ベースのカクテルも、いまや定番になっている。泡盛にシークヮーサー・ジュースを入れ、ソーダで割ったりすると、簡単だけれど、爽やかな味と香りで実に旨い。 今回は行けなかったが、牧志の市場近くにある、Bar「Dick」(那覇市牧志1-1-4 電話098-861-8283)というお店が、泡盛カクテル発祥のBARなんだそうな(写真右&左は、Dickのオリジナル・泡盛カクテル。右はココナツとパイナップルを使った「ちむぐくる」という名のカクテル=「ちむぐくる」とは直訳すれば、ちむ(肝)+ぐくる(心)で、肝心ということだが、沖縄弁では「心そのもの」を意味するとか。左は、見た目の通り「ゴーヤーのフローズン・カクテル」。どんな味なんだろうか興味深々)。 独特のクセのある泡盛はカクテル・ベースとしては、敬遠されがちだったが、意外や意外、生フルーツなどとの相性もいいし、面白い、個性的なカクテルができる(テキーラだって、相当クセがあるけど、「マルガリータ」なんて素晴らしいカクテルになるんだから、ね)。 で、せっかくだからと、「泡盛ベースで何かショート・カクテルを作ってよー」と無理をお願いする。Hさんは「う~ん、泡盛ですか…、クセがあるから、フルーツはやはり柑橘系がやはりいいかなぁ…、ちょっと考えさせてねー」と、熟考すること約10分。そしておもむろに作り始めた。 そして、作ってくれたのは土佐文旦を使った泡盛ベースのカクテル。(写真撮るのを忘れちゃったので、写真ありません。ごめんなさーい)。ハード・シェイクでできた細かい氷が浮かぶ、そのカクテルは、泡盛の味わいをしっかりと残しながらも、文旦の爽やかで、新鮮な美味しさを生かした素晴らしい味わい! 「何かいい名前を考えてくださいよー。漢字が入った名前がいいかなぁ…」とHさんに言われたので、沖縄弁の「まーさん」(美味しい)を使って、「『まーさん文旦』ってどう?」と提案したが、連れの同僚に「そのままやないか! もうひとひねりやなー」と却下された。次回、「C」にお邪魔する時までに、真面目に考えなくっちゃ。
2005/04/19
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67.オーガスム(Orgasm)【レシピ1】アイリッシュクリーム・リキュール=一般的には「ベイリーズ」(またはドランブイ)(20)、カルーア・リキュール(20)、アマレット(15)、生クリーム(15)、牛乳(15)【スタイル】シェイクまたはブレンダーで 【レシピ2】コアントロー(30)、アイリッシュクリーム・リキュール(30)、グランマルニエ(20)【スタイル】ビルド(プースカフェ・スタイルで) 「オーガズム」は、1988年に公開(日本での公開は1989年)されたトム・クルーズ主演の映画「カクテル(Cocktail)」で登場し、その後、世界的にブレークしたカクテルです。映画では、バーテンダー役のクルーズが、フレア・バーテンディングの派手なパフォーマンスを披露したことでも知られています。 「オーガズム」とは思わずドキリとするような、意味ありげな名前ですが、味わいはまろやかで、風味も良いカクテルです。映画版「カクテル」では、「オーガズム」の他にも、「セックス・オン・ザ・ビーチ」「ジュ・ダムール(愛の汁)」「アラバマ・スランマー(アラバマの早漏男)」「デス・スパズム(絶頂)」などという過激な名前カクテルがたくさん登場したことで、当時とても話題を集めました(もともと日本生まれの「レッド・アイ」に生卵を入れるという映画版「レッド・アイ」にも驚かされました)。 ただし、この「オーガズム」もそうですが、原作の小説には登場していません。原作者であり、映画版でも脚本を担当したヘイウッド・グールドが、監督のロジャー・ドナルドソンと相談して、映画の内容(見た目)を派手に演出するために創り出したのではないかと言われています(グールドはバーテンダーの経歴もあるということですが、レシピを本人が考案したのかどうかは不明です)。 ちなみに、映画「カクテル」は興行的にはそこそこヒットしましたが、映画評論家らには「(内容やストーリーが)薄っぺらい」「全般的に下品で、深みがない」と酷評され、その年の最低作品を選ぶ「ゴールデン・ラズベリー賞」では、作品賞と脚本賞に選ばれました。トム・クルーズ自身も、自らの出演映画のワースト4に入れているという話です(出典:Wikipedia)。 「オーガズム」は、欧米のカクテルブックではなぜか収録している例はきわめて少なく、現時点で確認した限りでは「Cocktails & Party Drinks」(2001年刊)のみです(Webの専門サイトでは多数で紹介されていますが)。レシピは冒頭の代表的な2つ(レシピ「1」の方が一般的ですが)以外にも、以下のようなヴァリエーションが多数存在する不思議なカクテルです。【レシピ3】アイリッシュクリーム・リキュール(25)、カルーア・リキュール(25)、アマレット(25) ※プースカフェ・スタイルで。【レシピ4】アイリッシュクリーム・リキュール(20)、カルーア・リキュール(20)、アマレット(15)、バニラ・アイスクリーム(カップ半分) ※オンザ・ロックまたはプースカフェ・スタイルで。【レシピ5】ウオッカ(15)、アマレット(15)、トリプルセック(15)、ホワイトクレーム・ド・カカオ(15)、生クリーム(30) ※オンザ・ロックまたはプースカフェ・スタイルで/このレシピは「スクリーミング・オーガズム(Screaming Orgasm)」の異名を持つ。 「オーガズム」は、日本にも映画公開(1989年)と同時に伝わり、「(酒場の)話のネタ」になるからとバーでも提供するところが、90年代末まではよく見られました。しかし、映画の記憶が薄らいでくると、いつしか現場からは忘れ去られてしまい、今に至っています。現在の若いバーテンダーなどは、映画版を観た人も少ないでしょうから無理もありませんが、(その名前はともかく)意外と美味しいカクテルなので、個人的には、ぜひ今後もつくり続けていってほしいと願っています。【確認できる日本初出資料】「カクテルズ」(福西英三著、1994年刊)。レシピは、「ベイリーズ・アイリッシュクリーム20ml、カルーア・リキュール20ml、アマレット15ml、生クリーム15ml、牛乳15ml(シェイク)」となっています。日本国内の文献ではなぜか、他に収録している例をあまり見かけません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/09/20
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94. 雪 国 (Yukiguni)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ウオッカ(40)、ホワイト・キュラソー(20)、ライム・ジュース(10) ※カクテルグラスの縁を砂糖でスノー・スタイルにした後、あらかじめミント・チェリーをグラスの底に置く(なお、1958年の考案当時は、日本国内では生ライム、生ライム・ジュースは出回っておらず、ライム・コーディアルジュースを使用していた)。 【スタイル】シェイク 1958年(昭和33年)、山形県酒田市のバー・ケルンのオーナー・バーテンダー、井山計一氏が、川端康成の小説「雪国」をイメージして考案、第1回寿屋カクテルコンクール(1959)で最優秀賞に輝きました(初めて発表されたのは、前年1958年に開催された寿屋コンクールの東北大会でした)。 日本生まれのカクテルとしては、世界的には「バンブー」が最も有名ですが、残念ながら考案したのは明治期に米国から来日した外国人です。「雪国」は、その後も多くのカクテルブックや全国各地のバーテンダーに紹介され続け、日本人の考案したスタンダード・カクテルとしては、現在、最も有名な存在でしょう(今では海外のバーテンダーでも知っている人が少なくありません)。 井山氏は92歳の今(2018年)もなお、現役バーテンダーとしてカウンターに立ち続けていて、バー業界のレジェンドです(末尾の【追記】ご参照)。今年は、井山氏の歩んできた人生とカクテル「雪国」誕生秘話を描いたドキュメンタリー映画「YUKIGUNI」が完成、地元・山形で先行上映されました。2019年以降、首都圏(1月から)や関西でも公開される予定です。 「雪国」はバーテンダー修業をしていた井山氏が、コンクール出場のために、身近にあったウオッカ、ホワイト・キュラソー、ライム・コーディアルという材料で急きょ考えたと言います。当初は、ミント・チェリーなしで考えていたそうですが、何かアクセントがほしいなぁと思っていたところ、仙台にいたバーテンダーの友人とのアドバイスもあって、当時、店に回ってきた営業マンから購入した珍しいミント・チェリーを沈めることを思いついたそうです。 当時としては、とても斬新だった「スノー・スタイル」(塩や砂糖をグラスの縁に付けること)という見た目のひと工夫は、井山氏によれば、「雪国」誕生の5年前にあったカクテルコンペで優勝した「キッス・オブ・ファイア」(この連載の第47回で取り上げています)というカクテルからインスピレーションを得たそうです。 現代のスタンダード・カクテルと言えども、当たり前ですが、当初はバーテンダー個人が考案した創作カクテルでした。それが長い歳月の中で、数多くのお客様に愛されて注文され続け、バーテンダーがつくり続けた結果、「スタンダード」として定着・認知されてきた訳です。 国内外では毎年、何百、何千という数多くの創作カクテルが誕生していますが、残念ながら、たとえコンクールで優勝、準優勝したカクテルでも数年後に生き残るものは極めて稀です。戦後誕生した日本人の手による創作カクテルで、現在でも長く生き続け、全国ほとんどのオーセンティック・バー通じるくらい知名度を持っているのは、雪国以外では、ソル・クバーノ、キングス・ヴァレー、オーガスタ7くらいでしょうか。そうした創作カクテルの中でも、「雪国」は最も有名で偉大な存在と言えるでしょう。 なぜ「雪国」がここまで愛され続け、生き残ってきた理由ですが、やはり3つの材料だけで構成された飽きのこないシンプルな味わい、酸味と甘味のバランスの良さ、そして「スノー・スタイル」にして、ミントチェリーを沈めるというビジュアルでの工夫。この4つの絶妙な組み合わせが大きかったと思います。 しかし誕生当初、日本のバーではカクテルという飲み物はまだあまり馴染みなく、井山氏は「コンクールで優勝した後でも、(ケルンでも)雪国の注文はあまりなかった。飲まれるのはハイボールやビールばかりだった」と振り返ります。その後、80年~90年代のカクテルブームの時でも、爆発的に飲まれるということはなかったということです。 しかし10年ほど前、ある英字新聞が井山氏と雪国について記事で大きく紹介したのがきっかけに、テレビや雑誌等でもよく取り上げられるようになり、全国からお客様が来るようになったといいます。今では、映画公開の効果もあって、ケルンは連日満員です。井山氏は毎日何十杯も雪国をつくるそうです(あまりに忙し過ぎて疲れ気味なので、最近は毎週のお休みを1日増やして、月・火を連休にされています)。 なお当初は、冒頭のレシピで提供していた井山氏ですが、現在は辛口な味わいにレシピを変えておられます。現在ではウオッカを45~55ml、ヘルメス・ホワイトキュラソー7~8ml、ライム・コーディアル(サントリー・ライム)3~4mlです。ウオッカは、度数の違うサントリー・ウオッカを2種(40度と50度)を使い分けておられます(アルコールに強いか弱いか、男性か女性かなどお客様に応じてウオッカの度数を選択しておられます)。 辛口に変えた理由について、井山氏は「当時は時代的に甘口が好まれたけれど、現在では辛口志向になっているから、昔と同じレシピでつくると甘すぎるし、。レシピも時代に合わせて変えていけばいいと思う」と話しています。頑固にレシピを変えないバーテンダーもいますが、飲み手の嗜好に合わせて柔軟に対応するという姿勢は、後輩である私たちは忘れてはいけないと思います。 【確認できる日本初出資料】カクテル小事典(今井清&福西英三著、1967年刊)。レシピは冒頭に掲載のものと同じ。【2021年6月追記】大変残念ながら、井山計一氏は、2021年5月10日、老衰のため死去されました。謹んでご冥福をお祈り致します。
2018/12/31
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読者の皆様、先頃連載した「禁酒法時代(1920~1933)の米国--酒と酒場と庶民のストーリー」で一部訂正があります。 第3回の項で、アル・カポネが当時、闇ビジネスで稼いだ金額(年収)について紹介しましたが、その際、「もぐり酒場の経営などで、1927年の1年間だけで約1万5千ドル(当時の平均的米国民の年収約6倍)を稼いだ」と記しました。 しかし、その後さらに幾つかの資料にあたってみると、カポネは実際には、1927年当時、すでに年間約2000万ドルの稼ぎがあったことが分かりましたので、つつしんで訂正させて頂きます。大変大きな数字の違いで申し訳ございません。本ブログ上の本文は、すでに以下のように修正いたしております。 「カポネ自身はシカゴで約160カ所のもぐり酒場も経営し、もぐり酒場のほか、とばく場や売春宿の経営等も含めて、1925~30年頃、少なくとも年間約2000万ドル(貨幣価値が現在とは違いますが、当時平均的米国民の年収の約7700倍)の稼ぎを得ていたと言われています。」 連載を小冊子にしてお送りした皆さんには、大変申し訳ありませんが、このページか修正済みの本文の該当箇所をプリントアウトして正誤表としてお使いください。 なお1920年当時の2000万ドルは、日本円でどれくらいの価値があったかですが、日銀のHPなどによれば、1920年当時の対ドルの円レートは、1ドル=約2.5円でしたので、2000万ドルは単純には5億円となります。 しかし一方、当時の日本の公務員の平均月収は約20円だったそうですから、そう考えるとこれは当時の5億円は、今の貨幣価値だと4兆円くらいにも相当することになります。いかにカポネの稼ぎが凄かったのかを感じさせる数字です。 以上、宜しくお願いいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/12/23
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「カクテル(混合酒調合法)」宮内省大膳寮厨司長・秋山徳蔵編(大正13年=1924年=10月15日、東京・国際料理研究所発刊、128頁) 秋山徳蔵(あきやま・とくぞう)氏は、明治21年(1888)8月30日、福井県南条郡武生町(現・越前市)の料理屋の次男に生まれた。旧姓・高森。明治37年(1904)年、東京・麹町の華族会館料理部に就職した後、築地精養軒料理長などを歴任。明治42年(1909)、西洋料理の修業のため渡欧し、約4年間、ドイツ、フランスなどで修業を積んだ。 大正2年(1913)3月に帰国後、東京倶楽部料理部長に就任。同年6月、我が国初の本格的な西洋料理の教科書と言われる「仏蘭西料理全書」を著した。翌7月、秋山俊子と結婚・秋山家に入籍し、秋山姓に。同年10月、宮内省大膳寮厨司長に迎えられた。 宮中晩餐会の料理責任者だったこともあり、酒類への造詣も深かった。大正13年(1924)、日本初のカクテルブック「カクテル(混合酒調合法)」を出版。その後、大正、昭和両天皇の料理番を長くつとめた。昭和47年(1972)10月、83歳の時、宮内庁を依願退職。昭和49年(1974)7月14日、85歳で没。「新フランス料理全書」「料理のコツ」「味の散歩」「味と舌」「テーブルマナーのすべて」など多数の著書を残している。 【おことわり】旧かなづかい、古語的な用語・表現のうち、現在馴染みにくいものは可能な限り現代語法に直しましたが、原則として、原文の良さ・雰囲気を伝えることを重きを置いて紹介していきます。補足的な説明ができる部分があれば、末尾の【注】で紹介していきます。 なお、私の国語的能力の限界もあり、分からない部分は原文のまま紹介するほか、当時のカクテル関係の専門用語で分からないものもそのまま紹介するつもりですが、ご容赦ください。もし何かご存知の方はメール(arkwez@gmail.com)でご教示いただければ幸いです。*************************************** 1.はしがき 黄金の殿堂座にして、まさに萎(しぼ)みゆかんとするは、今のアメリカンの姿である【注】。 彼等もしかし、広大なる土に恵まりたりとはいえ、世界的な金権を把握するにいたれるまでの昔は、朝(あした)には思うがまま奮闘せんとする活発な精神を振るいおこさんがために、愉快なアルコールを必要した。夕べには、終日の勤労を癒して、新しく明日の力を培養するために、強烈なスピリットを愛した。 わけても、この混成酒は、口を極めて言えば、その調合法が、国家的に研究せられ来(きた)ったものである。わが日本酒の功徳、また大なりと言えども、時間に制限をもたなかった昔ならばいざ知らず、今人のごとく多忙な生活を営み行かねばならぬものには、それはその人々の酒量にもよるべけれど、あまりに量を多く、習慣上あまりに時間を多く過ごされば、精神を発酵せしめるにいたらない憾(うらみ)がある。 われ等は、更新の大国民であらねばならぬが、いまだ、黄金の殿堂を築くべき基礎すらも固まってはいない。大いに国威を発揚すべく、さかんに奮闘をしなければならぬ。この秋、精神を振興し、身体を強壮にするところの、混成酒の調合法を説く。敢えて徒事ならざるを信じ、烈日の下(もと)に、この「カクテル」を編む。 大正十三年八月中旬 編者誌【注】1920年代初頭、米国は第一次大戦終結後の重工業の発展やモータリゼーションの拡大で経済的好況を享受していた。しかし一方、禁酒法(1920~1933年)の施行に踏み切り、歓楽街は衰退の一途にあった。腕利きのバーテンダーたちは活躍の場を求めて、欧州に渡るしかなかった。1924年と言えば、禁酒法施行から5年目だった。「まさに萎みゆかんとするは」という表現は、禁酒法下で米国内の酒文化が衰退しつつある現状を言ったものと思われる。 なお、この本が出版された大正13年と言えば、前年の大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災の翌年で、東京はまだ復興の途にあった。「贅沢をやめて勤勉につとめよう」と政府が呼びかけていた時節に、秋山氏がこの「カクテル」という書を世に出すことは少々勇気が要ったことと思われるが、「(美味しい酒を飲んで)前を向いて進んでいこう」という国民へのメッセージもあったのではとは考えすぎだろうか。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/18
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★「Office Ittetsu」による成田一徹「公認複製画」販売について 故・成田一徹氏の切り絵原画の著作権を継承・保護している「Office Ittetsu」(成田素子・代表)は、一徹ファンの要望に応えて、2013年から高品質、高精細の「公認複製画」を限定販売をしてきました。この「公認複製画」は現時点では増刷する予定はなく、在庫限りで終売となるため、購入ご希望の方はお早めに買い求めください(現在では原則として、WEBを通した販売のみでご購入いただけます)。 「公認複製画」は、「成田一徹の切り絵原画をもとに高精度、高精細にスキャンして、原画の味わいを上質の紙で高品質に再現した」もので、高い技術を持った専門業者が制作しています。原画(現在は全作品が非売品)と比べてかなりお手頃な価格で、一徹作品のシャープでスタイリッシュな世界が身近に楽しめます。複製画には1点、1点、Ofiice Ittetsuによる「公認証明書」が付いており、違法なコピー画とは一線を画すことができます。 【公認複製画の購入申し込み方法】次のアドレスにまず、お問い合わせください → arkwez@gmail.com(お支払いは「Office Ittetsu」の指定銀行口座への振込みのみです。振込手数料と送料はご購入者がご負担ください。注文から発送までは約1カ月程度かかりますが、何卒ご了承ください)。 なお、ご希望の方にはBar UK(大阪市北区曾根崎新地1-5-20 大川ビルB1F)店頭での受け渡しも可能です(この場合は送料不要)。 ※「公認複製画」商品は以下の通りです(価格はいずれも額・マット付きの税込価格。別途送料1000~2000円が必要です)。 ★シャンパン・グラス(Champagne Glass) 絵のサイズ=大(335×193mm) 19,000円(完売=Sold Out)、小(223×135mm) 16,000円(完売=Sold Out) ★マンハッタン(Manhattan) 絵のサイズ=大(360×166mm) 19,000円(残り1点)=額は縦長サイズ(600×300mm)、小(255×118mm) 16,000円(残り2点)=額は縦長サイズ(500×250mm) ★フェニックス号の帰還(Pheonix in Port Of KOBE) 絵のサイズ=274×193mm 17,000円(残り5点)=額は太子サイズ(379×288mm) ★1995・春・神戸に 絵のサイズ=256×133mm 18,000円(残り1点)=額は横長サイズ(250×500mm) ★グッドバー・クラブ&バー・アンカー(Good Bar Club & Bar Anchor)(2枚組) 絵のサイズはともに163×110mm 18,000円(残り3点)=額は横長サイズ(250×500mm) ★ミント・ジュレップ(Mint Julep) 絵のサイズ=209×112mm 15,000円(残り1点)=額は八ツ切サイズ(303×242mm) ★舞妓さん 絵のサイズ=242mm×172mm 16,000円(完売=Sold Out) ★オールドタウン・バー(Old Town Bar of New York) 絵のサイズ=188mm×262mm 16,000円(完売=Sold Out) ★桜花とカクテル 絵のサイズ=220×170mm 13,000円(残り2点)=額は八ツ切サイズ(303×242mm) ★マティーニ(Martini) 絵のサイズ=210×148mm 10,000円(残り3点)=額は八ツ切サイズ(303×242mm) ★ミッシャー・マイスキー(Mischa Maisky) 絵のサイズ=380×265mm 21,000円(残り2点)=額縁は「大衣」サイズ(509×394mm) ★Old Imperial Bar 絵のサイズ=300×222mm 16,000円 (在庫僅少)=額は四ツ切サイズ(348×424mm) ※帝国ホテル(大阪)ギフトショップでの限定販売です(「Office Ittetsu」での販売はありません)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2023/08/11
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バーUKは本日22日(土)、明日23日(日)の両日、お休みを頂戴いたします。何卒ご了承くださいませ。Bar UK is closed on 22nd & 23rd of June.
2024/06/22
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とても残念なお知らせです。うらんかんろも開店に関わり、拙著「今宵も、BARへ…」を置いてもらったり、時々キーボードを弾いたりしていた神戸・元町のBar・Heavenが、11月23日(金)をもって店を閉じることになりました。 一番の理由はTマスターの体調です。閉店後に手術されるようです。命にかかわるような手術ではないとのことですが、元々、がんを克服して開店したといういきさつもあるのに加えて、体力的・年齢的なこともあって、店を続ける気力を失われたようです。 HeavenのマスターTさんは、ご存じの方も多いですが、サラリーマン時代の成田一徹さんと同じ職場にいらして、二人で一緒に伝説的な「酒場の絵本」(現在は絶版)を出版した方です。 神戸の古き良きBarが、成田さんの切り絵と洒脱な文章で紹介された素晴らしい本で、僕も80年代、この本を参考にしながら、神戸の外人Bar巡りをしました。その洒脱な文章を書かれたのがTマスター本人です。 マスターの閉店の決心は固い...ようです。この約3年半で、もう完全燃焼されたのかもしれません。手術の後は、出版関係の仕事を手伝うとのことです。最期のHeaven月例会は11月17日(土)、23日は「サヨナラ・パーティー」の予定です。 皆様ももし良ければ、古き良き時代の神戸の残り香を伝えるHeavenに、閉幕までにぜひ一度お越しください。 【Bar Heaven】神戸市中央区栄町通2-10-4 アミーゴス・ビル4F 電話078-331-0558 午後3時~10時(土日祝午後1時~8時)月&火休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/16
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先日再び広島県の福山へ出張する機会があり、念願だった老舗BAR「さくま」にお邪魔してきました。 BAR「さくま」と言えば、中国地方のBAR愛好家で知らない人がないほどの老舗の1軒です。マスターの佐久間さんはことし77歳ですが、とてもそんな歳には見えない現役バーテンダーです(今も自転車で通勤されているとか)。 オープンしたのは大阪万博の前の年の1969年とのこと。ただし当時は現在とは別の場所にあったそうで、20年ほど前に現在の船町に移転されたといいます。 初めて訪れた「さくま」は、ゆったりとした空間の中に、長いチークのカウンターに12席ほど。さらにテーブル席が3つあります。木やレンガを基調にした、あったか~い(温かい)雰囲気です。 関西のバーテンダーにも佐久間さんは有名人です。僕が大阪キタの行きつけのBar「K」や「C」のマスターにも親しい存在です。「福山へ行ったら、佐久間さんによろしくね」。何人かからそう言われました。 佐久間さんはNBA(日本バーテンダー協会)中国地区本部や倉敷支部の幹部をされています。毎年倉敷で開かれる支部主催のカクテル研究会には関西のバーテンダーも参加し、懇親しているそうです。なるほど親しい訳です。 大阪から出張で来た僕らを佐久間さんは、「遠いところを有難うございます」と歓迎してくれました。もちろん関西のバーテンダーの話題でも盛り上がりました。 聞けば、佐久間さんはもともとは熊本の出身とか。理由は聞き忘れましたが、なにかの縁でこの福山に腰を落ち着けることになったそうです。 1杯目。ジン・リッキーは生ライムがしっかり絞り込んであって、とても爽やかでした。2杯目はスコッチでハイボールを頼みました。すると、佐久間さんはウイスキーを入れる前に、先にソーダを注いでいます。 「どうしてソーダを先に? 普通はウイスキーが先というのが多いですよね」と聞きたがりの僕は当然尋ねます。「この方が(ソーダの)泡がこわれにくいんですよ」と佐久間さん。なるほど、長年の経験からくるこだわりなんですね。 帰りの新幹線の時間を気にしつつ、「最後にもう1杯、モルトでも」と思っていると、佐久間さんは「これ、おすすめです」と棚から出してきてくれました。 94年のラフロイグ12年のボトラーズもの=写真左。オフィシャルにはない、ひと味違ったラフロイグです。「意外とまろやかで旨いですね」と僕。美味しいモルトと老バーテンダーが創り出す温かい雰囲気に酔いしれた福山の夜でした。佐久間さん、ほんとに有難う!【Barさくま】広島県福山市船町3-3・2F 電話084-925-7212 午後6時~2時 火休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/05/31
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東京でBAR巡りをし始めた20数年前には、まともな東京の「BARガイド」など、まだ1冊もなかった。 だから、BAR好きの友人やカウンターで出会ったBAR好きの酔客に教えを乞うたり、バーテンダーさんから老舗を1軒ずつ教えてもらったりしながら、「マイ手帳」に店のリストを増やしていった。 手帳は用紙が差し替え式(今どき「化石」の「8穴タイプのシステム手帳」!)になっていたので、ホルダーを更新しながら、用紙を追加しながら、現在でも(20年以上も!)大切に使っている。 その手帳の最初の方のページには、当時、銀座で回り始めた店の名前が並ぶ。「クール」「サン・スー・シー」「スミノフ」「うさぎ」「蘭」「あんて」「ルパン」「モンド」「カーネル」「よ志だ」「ダンボ」「ダルトン」「JBA・BAR」…。 名を挙げたBARのいくつかは、今はもうその姿がない。バブル期の地上げで店を追われたところ、後継者難で店を閉じたところも、そして「クール」のように一代限りで見事に幕を引いたところもある。それぞれである。 そんな銀座のBAR巡りのきわめて初期に出合った一つに、「いそむら」(写真左上)という店があった。これぞ銀座という格調高い老舗の1軒だった。そう頻繁にお邪魔したわけではないが、印象深いBARの1軒だった。 BARというよりも、英国の伝統的なパブのような、落ち着いた雰囲気。とくに「日本で初めてギネスを扱った酒場」というのが「いそむら」の自慢の一つだった。 そんな「いそむら」が半世紀近い歴史(1954年開店だったという)を閉じたという話を伝え聞いたのは3年ほど前(写真右=昔もらった「いそむら」のマッチ。他の老舗のマッチとともに額に入れて飾っている)。 「あぁ、また老舗が消えるのか…」と残念がっていた昨年末、ある雑誌で、マスター「磯村さん」のお弟子さんの藤本さんが、店の内装などをほとんどそのまま引き継ぎ、店名だけを「舶来居酒屋・ふじもと」と変え、再出発したという嬉しい記事を読んだ。 店の名前は変わっても、「いそむら」のスピリットは「ふじもと」に受け継がれた。なによりも老舗の店そのもの(内装)が残ったことが嬉しい。新装のBARでは、どんなに素晴らしくても老舗の味わいは望むべくもない。 「いそむら」時代から、名物のカツサンドも健在という。「舶来居酒屋」という冠を付けたのは、若い世代にも、老舗の良さを感じて、味わってほしいというマスターの心意気の表れだろう(写真左=看板は「ふじもと」と変わっても…)。 今度出張の機会には、生まれ変わった老舗BAR「ふじもと」にぜひお邪魔して、あの「いそむらスピリット」を肌で感じてみたい。【舶来居酒屋・ふじもと(旧Barいそむら)】東京都中央区銀座8丁目5-15 SVAXビルB1F 電話03-3571-6957 午後5時~午前2時(土曜は午後10時半まで) 日祝休(お値段は“銀座料金”。予算は2杯で5千円くらいは覚悟を)。【追記】理由はよく分かりませんが、残念ながら2007年2月末で閉店されたとのことです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/10/25
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70年代初め、日本に米ウエストコースト・ロックを伝えた「アサイラム」というレコード会社があった(今も存続しているのかな?)。ジャクソン・ブラウン、イーグルスらアサイラムが紹介したアーチストで、その後ビッグになった人(人たち)は多い。 そのアサイラムが同じころ売り出したアーチストにトム・ウェイツ(Tom Waits)という男がいた。ギターも弾くが、主にピアノで弾き語るシンガー・ソングライター。だが、日本で彼の歌を聴くには輸入盤を手に入れるしかなかった。 輸入盤と言っても、今と違って2700円~3000円くらいした時代。しかも試聴を簡単にさせてくれる輸入レコード店などなかった。アーチストについての情報は、洋楽に詳しい友人か、レコード店の店長から得るしかなかった。 僕はある友人から「一度聴いてみろよ。面白いから」と教えられ、彼のデビュー・アルバム「クロージング・タイム」(写真左上)を輸入盤で買い求めた(国内盤はまだ発売されていなかった)。 第一印象は、「何だこのしわがれ声は…」というもの。でも、メロディーは素朴で心地よく、歌い方も郷愁を感じる、とてもいい味わい。とくに1曲目の「OL’55」が素晴らしかった。一目惚れという感じで、セカンド・アルバムの「土曜日の夜」(The Heart Of Saturday Night)=写真右=も買い求めた。 ちょうどその頃、75年か76年だったかと記憶しているが、トムが来日した。大阪・厚生年金会館でコンサートをするというので僕は駆けつけた(ただし、大ホールではなく中ホールだったが…)。 ステージ中央にグランドピアノが1台置かれ、記憶では、バック・バンドはウッド・ベースとドラムスの2人だけというシンプルな音づくり。バックはいたけれど、ほとんどはトム一人の弾き語りだったように思う。でも、心地よくて、味わいのある、いいコンサートだった。 トムはMCもほとんどなく、淡々と歌い続けていく。ヘビー・スモーカーのトムはステージ上でも煙草をプカプカ(今なら問題になるだろう)。トムはもちろん「OL’55」も披露してくれた。興に乗って、一人社交ダンスなんて芸も披露していたなぁ…。 しかし、4枚目のアルバム「スモール・チェインジ(Small Change)」から、トムの音楽性は変化し始める。音づくりや歌い方はジャズっぽくなり、声自体の「しわがれ度」もさらにアップしていった(90年代以降にトムを聴き始めた人が、デビュー盤を聴いたら、同一人物とは思えないくらい驚くだろう)。 さすが、僕はこのトムの変化にはついていけず、その後のトムのアルバムを長い間買うことはなかった。久々に買ったのは、今回、トムのことをブログで触れようと思って、参考に買い求めた初期の頃が中心のベスト・アルバム「USED SONGS:ザ・ベスト・オブ・1973-1980」(写真左)。 久々に聴いたトムだけれど、やはり僕の気持ちは変わらなかった。僕にとっては、「クロージング・タイム」と「土曜日の夜」のトムが、僕にとって一番輝いていたトムだった。 名曲「OL’55」は今もトムの代表曲で、ポップスのスタンダードにもなっている(イーグルスもカバーしている)。僕も弾き語りのレパートリーに入れていて、時々歌う。何度歌ってもいい曲だ。 トムはその後もアルバムを出し続けているようで、2004年にも「Real Gone」というファンクぽいアルバム(写真右)も出した。熱烈な固定ファンは今でもいるようだが、僕にとっては、4枚目以降のトムは別人のようにも見える。 トムはもう25年くらい来日していない。米国内でも、公の場での音楽活動はほとんどしていないという。今年12月で57歳になるトム。ネットでのトムのファンサイトでは「再来日要請署名」なんて活動も行われている。でも、僕はもうトムのライブには行かないだろう。僕にとってのトムはもう「クロージング・タイム」がすべてだから。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/07/25
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その3:店へ行く時&店に入ったら ◆服装について BAR(ここで言う「BAR」とはオーセンティックBARを指す)は日常を忘れて、静かな雰囲気で、美味しい酒と会話を楽しむ空間だ。言葉を換えれば、非日常を楽しむ「ハレ」の場所である。オーセンティックと言っても、高級ホテルのカクテル・パーティーではない。だから「ドレス・コード」がある訳ではない。 しかしオーセンティックBARにデビューするということは、貴方はいっぱしの社会人、大人の仲間入りをするということだ。大人の世界には、TPOに合わせた大人のマナー、ルールというものがある。「ハレ」の場所を訪れるからには、TPOに合わせた、常識ある、センスある服装で行きたい。 上はTシャツやタンクトップ1枚、下はジーンズや半パンツにサンダルなんて格好で行っても、日本では高級ホテルならいざ知らず、街場のBARで入店を断われることはまずないだろう。ただし、海外ならスタンダードクラスのホテルのBARでも、入店拒否に遭うこともあるので要注意! だが、たとえ入店が認められたとしても、貴方の品性はその時点で「NGの烙印」を押されている。 別にスーツで行く必要はない。ネクタイ着用でなければならないこともない。しかし、ウイーク・デーなら、やはり「きちんとした服装」で飲みたい(なお土・日も開けているBARにウイーク・エンドに行く場合は、カジュアルな格好=許容範囲はあるが=でも構わない)。 ◆勝手に座らない BARのドアをいったん開ければ、そこは他人の家と同じ。自分の家のように勝手に振る舞うのは許されない。カウンターに幾つか空いている席があっても、勝手に座るのはBARのルール違反である。 貴方が座った席は予約席かもしれない。後から遅れて来るお連れ客のために、店側がキープしている席かもしれない。マスターは常にその夜の客と席の配置のことを考えている。新たな客が来た場合も想定して、「常連なら、とりあえず端っこの席でも我慢してもらえる」「タバコをよく吸われる客ならば、同じく喫煙されてる客の隣に」「まったく初めてのお客さんはここに」などと、あれこれ考えている。 斯様(かよう)に、店側にもいろいろと都合がある。たとえカウンターに誰一人なく、貴方がその夜の最初の客であったとしても、どんなに常連であったとしても、勝手に空いている椅子に座わるのはよくない。マスターやバーテンダーさんの指示があるまで待つのが、BARのルールであり、客のマナーだ。 店に入ったらなるべく、客の入りに関係なく、マスターやバーテンダーさんに「どこがいいですか?」と座る場所を尋ねよう。貴方がそう言えば、初対面であるの店の人は、貴方に対して「とてもマナーのいいお客さんだなぁ」と良い第一印象を持つこと間違いない。BARに馴れてくれば、貴方とお店の方との目と目の会話だけで、座る席が分かるようになる。そういうレベルになれば貴方はもう一人前だ。 ◆最低限の挨拶はしよう 普通の社会生活でも、会社でも、初対面の方には「はじめまして、よろしくお願いします」と挨拶するはずだ。初めてのBARでも同じこと。マスターもバーテンダーも初対面の人だ。店に入ったらまず、「こんばんは」ときちんと挨拶しよう。それが大人のマナーだ。 客に慣れている店の人たちだって、初めての客を前にして、少しは緊張している。「こんばんは」とか「初めてですが、いいですか?」などとちょっと一言話せば、空気は一気に和らぐ。相手との距離もぐっと縮まる。相手も貴方のことを「紳士」として認めてくれる。何事も最初が肝心。気持ちよい挨拶でその夜が始まれば、その後のマスターやバーテンダーとの会話もきっと弾むはずだ。 ◆万一、このBARは馴染めないと思ったら ドアを開けた時の雰囲気で、「ちょっとこの店は合わない、馴染めない、イメージがまったく違う」と思うこともある。うらんかんろにも、そういう時がある。そういう時の選択肢は2つだ。我慢して取りあえずそのBARで飲んでみるか、退くか、である。居てみると意外と良かったなんてこともあるが、いつもそうなるという保証はない。 貴方が明らかに、「(そのBARを)私の好みじゃないなぁ」と思った時には、無理をすることはない。静かにドアを閉じて、礼儀正しくその店を後にすればいい。ただし、立ち去る際には「すみません、(店を)間違えたようです」と言うくらいのエチケットは忘れないでいたい。 言わずもがなだが、もう席に座ってしまってからの「やっぱりやめます」は、いくら何でも不細工なマナーで、御法度だ。決断は早めに。席についてしまったら、とにかく1杯は飲むべし。どんなに貴方に合わない店でも、殺されることはない(笑)。【その4へ続く】【おことわり】写真と本文内容は直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/17
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◆(7)禁酒法時代に生まれたスラング(俗語) 禁酒法時代に流行したスラングには、「スピーク・イージー(Speakeasy=もぐり酒場)」のほかにも、今もなおよく、バーの店名などに使われる言葉があります。例えば、「ムーン・シャイン(Moon Shine=密造酒)」。これは当局の摘発から逃れるために月夜の晩に酒を密造していたことが由来です(※ただしこの言葉は、独立戦争後の18世紀後半、ウイスキーに重税を課した政府に対抗し、山間部で月光の下で酒を密造したことが由来とする説もある)。 ちなみに密造業者のことは「Moonshiner」と言われていました。「密造酒」を意味するスラングは他にも多く、White Lightning、Skull Cracker、Mule Kick、Panther’s Breath、Happy Sallyなど数多く伝わっています。 また、今日では「禁制品」や「(レコードやCDなどの)海賊盤」を意味する「ブートレグ(Bootleg)」(「Bootlegger」だと「密輸する人」の意)という言葉も、禁酒法時代に生まれました。禁酒法に反発する国民は、密造酒を国外から持ち帰る際に、だぶだぶのズボンをはいてブーツに隠して持ち帰りました。その有様を表現した言葉といいます。 ちなみに、今日でも流通している「内側にややカーブした平たい形」のウイスキーのポケット瓶が生まれたのはこの禁酒法がきっかけです。密輸する際、ブーツの内側に隠しやすいようにとあの形が考案されたのです。 さらに、日本ではあまりメジャーな言葉ではありませんが、「86(Eighty-six)」と言えば、「売り切れ」「品切れ」「お断り」「泥酔客」(動詞として使えば「隠す」「殺す」「消す」、過去形はeighty-sixed)を意味する禁酒法時代に生まれた隠語です。 語源は諸説ありますが、手入れを避けるために表玄関からは入れないようにしたニューヨーク・ウェストビレッジのもぐり酒場「チャムリーズ(Chumley’s)」【注】=写真( ( C )Observer Com. )=の住所(Bedford St. 86番地)にちなむという説が一般的です。 なお、「スマグラー(Smuggler)」というスラングも日本でよく知られていますが(スコッチ・ウイスキーの銘柄名にも)、この言葉は禁酒法時代の米国でなく、17世紀のスコットランドで生まれたものです。イングランド王による様々な酒造規制や重い課税に抵抗するスコットランドの零細酒造業者は、密造した酒を流通させました。 彼らはいつしか、密輸出入するという意味の動詞「スマッグル(Smuggle)」から転じて、「スマグラー=密造人、密造酒運搬人」と呼ばれるようになり、これが今も伝わっているのです(なお語源は不詳です。ご情報お持ちのの方はご教示ください)。【注】「Chumley's」は1926年に開業。作家や文化人にも愛され、フォークナー、オニール、スタインベックらも常連だったという。禁酒法廃止後も最近まで営業を続け、禁酒法時代の面影を残す数少ないバーとしてニューヨークの観光名所にもなっていたが、2007年4月、店舗内の暖炉につながる煙突が崩れ落ちたため、閉鎖された。Web情報では、建物を改修した後、再開させる計画も進んでいるとあるが、ことし8月時点の情報では、まだ再開のめどは立っていないという。 【禁酒法時代の米国に続く】こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/20
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いささか古い話で恐縮だけれど、大阪キタの名Bar「K」で修業したバーテンダーのK君が、バレンタイン・デーの2月14日、念願の自分の店を開きました。 K君はまだ30代前半ですが、「K」で長年研鑽を積んだ結果、バーテンダー・コンクールで何度か上位入賞を果たしたほか、ソムリエ資格まで取った努力家の一面も持っています。 「K」を辞めた後、しばらく大阪ミナミのBar「O」の店長としてさらに修業を重ね、その後、いくつかの店を経た後、今回の独立に至りました。独立する店の場所については、彼なりにこだわりがあり、キタやミナミであちこち、長い時間をかけて探したそうです。 苦労の甲斐があって、ようやく北新地の一角の路地(横丁)に、素敵な物件を見つかりました。「新地にまだこんな隠れた路地があったのか!」と誰もが驚くような場所でした。 長屋の1軒で、元小料理屋らしき店は、元の店の外観や雰囲気の良さも少し残しつつ、素晴らしい空間に生まれ変わりました。古木を活用したような内装には温かい空気が流れます(写真上左&右)。 K君は、店を「エリクシールK」と名付けました(写真左下=バック・バーにはこんなオールド・ボトルも!)。「エリクシール」(どこかの化粧品会社にそんな商品がありましたね)とは、中世の錬金術から生まれた言葉で、「霊酒」「秘酒」を意味するそうです。 「K」は彼のイニシャルとお世話になったBar「K」にかけているのは言うまでもありません(写真右=元料理屋さんの灯りがBarの灯りに変身!)。 宮崎出身のK君ですが、もうすっかり大阪に溶け込んで、大阪人以上に大阪っぽいバーテンダーの顔になっています。さぁ、これからは晴れて「マスター」です。【Bar ELIXIR・K(エリクシール・ケイ)】大阪市北区堂島1丁目2-9 電話06-6345-7890 午後6時~午前4時(土日祝は ~午前2時) 隔週火休(チャージ料<500~700円?>のほか、別に10%程度のサービス料がかかります)。 【追記】この日記はもともと08年の4月にオープンした際、このBARやマスターに期待を込めて記したものです。しかしその後、いくつかの不可解に思える理由もあって、私自身は09年4月以降、このBARに出入りしておりません。この日記の本文は掲載当時の文章をほぼ生かしていますが、現在のこのBARの状況(料金、接客、サービス等)を反映しているものではありません。その点を十分ご理解いただいたうえで、お読みください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/04/18
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3月に入ったというのに、まだ肌寒い日が続く。そのせいか会社でも、風邪がなかなか治らない人、新たに風邪をひく人などいろいろ。 「診療所へ行ったら、インフルエンザのA香港型だと言われたよー」と自慢げに言う上司には、心の中で、「頼むから、僕に近寄らないでくれー」と叫んでいた。幸い、感染(うつ)されることはなかったが…。 近代医学が進歩しても、いまだに風邪の特効薬というのはない。ひたすら対症療法の薬と抗生物質で持ちこたえて、安静にして栄養を摂って、ウイルスの抗体ができるのを待つしかない。 今シーズンの冬(昨年11月~)、僕は奇跡的に、今のところ風邪を一度もひいていない。いつものシーズンだと、一度は風邪にかかるが、今年ひかないのがなぜかは自分でもよく分からない。 さて、風邪をひいた時、古来、日本では「玉子酒」という伝統的な飲み物がある。カクテルで言えば、風邪にひきはじめにいい飲み物は何だろうか。玉子は入らないけれど、僕は、やはり「ホット・バタード・ラム」(写真左)かなと思う。 ホット・バタード・ラムと言えば、一般的なレシピは、ダーク・ラム(またはゴールド・ラム)に、バター、角砂糖、そして熱いお湯を注ぐ。BARによっては、クローブを浮かべてくれたり、シナモン・スティックを添えてくれたりする。 比較的よく知られたホット・カクテルだから、BARで飲んだことがある人もきっといるだろう。ちなみに、お湯の代わりに、ホットミルクにすると、「ホット・バタード・ラム・カウ」というカクテルになる。 さて、僕が家で飲む時は、ある親しいバーテンダーから教えられたレシピで作る。バターはあらかじめ、三温糖とクローブ&シナモン・パウダー、ナツメグのすり下ろしとしっかり混ぜ合わせて、冷蔵庫(チルドルーム)に入れておく(写真右=自家製スパイス入りバターは小瓶に入れて保存)。 ダークラム(45ml)をホット用グラスに注ぎ、熱湯適量、クローブと自家製バターを浮かべる。マドラー代わりにシナモン・スティックはぜひもの。ラムとバター、そして3種のスパイスの香りが複雑に絡み合って、何とも言えない素敵な味わいになる。 もちろん、味わいが素晴らしいだけでなく、風邪気味の時などは、このホット・バタード・ラムを飲めば、翌朝にはケロっと治っていること間違いなし。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/03/06
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久しぶりにミステリー小説の話題。またまた、「今さら何」と言われてしまうかも知れないが、雫井脩介(しずくい・しゅうすけ)という、いま結構人気ある作家の作品を、たて続けに2冊も読んでしまった。「火の粉」(写真左下)と、「虚貌」(写真右下)という2つ。 作品のあらすじを詳しく書くのはマナー違反だから、かいつまんで言うと、前者の「火の粉」は、殺人事件の被告に対して、確信を持って無罪判決を言い渡した元裁判官に、文字通り、予期せぬ「火の粉」が次々と降りかかってくるというストーリー。話の展開のテンポがいいので、一気に読んでしまった。家族間の人間関係の描写もなかなか秀逸だ。 ちょっとホラーっぽい怖さもあるけれど、最近では、イチ押しできるミステリー小説だ。と書いてみた後、いろいろネットで調べていたら、今年の2月にテレビドラマ化されたという話を知った。見たかったなぁ…。そんな話は知らなかったから、とても残念。再放送してくれないかなぁー。 後者の「虚貌」は、運送会社の経営者の一家が殺傷され、主犯格と見なされていた男が20年後に仮出所したところから、不可解な事件が次々と起こるというストーリー。文庫本では上下2巻の大作だが、次がどうなるのか、予想もつかない展開の内容。 ただ、トリックはそれなりに面白いけれど、本筋とあまり関係ないような話をあれこれと詰め込み過ぎて、後半はちょっとアラも目立ち、少しだれてしまうところが難点かな…(でも、そうは言ってもこの作品も、読み始めたらやめられないことは、まぁ間違いない)。 雫井脩介ってどんな人かと興味を持たれた方のために、少し経歴に触れておくと、1968年、愛知県生まれ。専修大文学部を卒業後、柔道・オリンピック代表チームのドーピング疑惑をモチーフにした作品「栄光一途」(2000年)でデビュー。この作品で、新潮ミステリー倶楽部賞を受ける。その後「火の粉」「虚貌」のほか、「犯人に告ぐ」「白銀を踏み荒らせ」など話題作を次々と発表している。 大学を卒業してから、デビューするまで10年ほどの歳月があるが、その間、どんな経歴だったのかは、僕はよく知らない。家にある本にも、この日記に書いた以上のデータは出ていなかったので、本人もあまり明かしていないのかもしれない。 僕の大好きな高村薫や横山秀夫もそうだけれど、デビュー前の経歴というか、人生経験は、作品にいやでも反映されることは言うまでもない。できれば、雫井氏のプロフィールももう少し詳しく知りたいなぁ、と思う(どなたかご存じの方いらしゃいますかー?)。 雫井作品をほとんど読んでいるという連れ合いは、「犯人に告ぐ」が一番面白かったと言う。僕はまだ読んでいないので、「これからの楽しみ」が残っている。できれば、映画化してくれれば、もっと嬉しいのだけれど…。 ※本の画像はAmazon HPから引用・転載しました。感謝いたします。
2005/06/17
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【番外編<上>】から続く5.ギムレットは当初、超甘口カクテルだった ギムレットは現代においては、辛口ショート・カクテルの代表格と思われています。しかし、英国で誕生した当初(1900~1910年代頃)のギムレットは、「プリマス・ジン(若干甘口のジン)+ライム・コーディアル(甘口のライム・ジュース=ローズ社製が一般的だった)」という材料でつくられていました。 ライム・コーディアルはかなり甘口なので、生のライム・ジュースとは似て非なるものです。以前、僕はとあるBarで、実際にこの材料を使って“元祖”ギムレットを再現してもらったことがありますが、現代のギムレットのイメージとはかけ離れた味わいでした。 しかし時代が進み、Barで生ライムが手に入りやすくなると、ギムレットは辛口傾向になります。ジンも、プリマス以外の様々なジンが使われるようになりました。結果、生き残ったのは辛口のギムレット。甘口の“元祖”ギムレットはいつしか忘れ去られていきました。 欧米でも今ではギムレットといえば、辛口です。日本にギムレットが伝わったのは第二次大戦後と言われています(戦前は、味わえたとしても海外駐在の邦人、すなわち商社マンや外交官くらいだったでしょう)。 戦後も長い間、生ライムがとても高価で希少だったため、普通のBarでは生のライム・ジュースを使うことなどはとても望めず、もっぱら合成ライム・ジュースが使われていました。僕自身も、Barで初めてギムレットを飲んだ時は、明治屋かサントリーの合成ライムだったと記憶しています。 今日のように、ほぼどこのBarでも生ライムが扱え、きりっと辛口で爽やかなギムレットが楽しめるようになったのは、1980年代後半からです。かつては1個500円前後もした生ライムは現在では、スーパーでも一年中安定供給され、100円台で買えるようになりました。カクテル好きには、ほんとに良い時代になりました。 6.レッド・アイはほぼ間違いなく日本発のカクテル レッド・アイは、ご存知トム・クルーズ主演の映画「カクテル」(1988年公開=日本では89年公開)でブレイクしたカクテルです。しかし、映画でのレッド・アイは今日の日本で飲まれている標準的なレッド・アイ(ビール&トマト・ジュース)とは違い、生卵も加えるという驚くべきカクテルとして描かれていました(出典:Wikipediaほか多数)。 実は、日本では、映画公開以前からBarで「レッド・アイ(生卵はなし)」というカクテルが飲まれていたという事実はあまり知られていません。この映画が発信源だと思っているBar業界の方も意外と多いのです。 映画の原作はヘイウッド・グールド(Heywood Gould)という方の同名の小説ですが、これが発表されたのは1984年です。しかし日本では、1982年に出版されたカクテルブック(福西英三著「カクテル入門」)にすでにレッド・アイは登場しています。 僕自身の記憶でも、日本のBarでは、70年代後半にはレッド・アイの名は結構知られ始めていたと思います。少なくとも、本土返還前の沖縄では「トマト・ビール」という名前でこのカクテルは飲まれてたという証言もあります(出典:http://webcache.googleusercontent.com/ )。 映画や原作では、トム演じる主人公フラナガンの友人で、バー・マスターのダグが、フラナガンのために生卵入りのレッド・アイをつくる有名なシーンがあります。 ダグがこう言います。「卵を入れずにこれ(レッド・アイ)をつくるアホが世間にはごまんといる。アホどもは、このドリンクの名前の由来は、赤い眼をしている時に飲むことが多いからだという。が、真相はつねに単純で、名は体を表すのだ。こいつ、赤い眼に見えるだろ」。(出典:文春文庫「カクテル」53頁=芝山幹郎訳 ※生卵を落とし込んだトマト・ジュースのビアカクテルを底から見れば、確かに赤い眼ぽく見えます)。 しかし、上記の時期的な理由からしても、これは映画&小説のために考案された「オリジナルなレッド・アイ」であって、今日私たちが味わっているレッド・アイとは基本的に別物であると考えるべきでしょう(WEB情報では、「原作者のヘイウッドが東京のBarで飲んだレッド・アイが忘れられなくて、小説のなかの小道具として使ったらしい」との話もありましたが、真偽のほどは未確認です)。映画は、専門家から酷評されたこともあって、この生卵入りのレッド・アイも、その後米国内でもほとんど忘れ去られてしまいました。 実際、欧米のBarやPubで「レッド・アイをください」と言っても、まず99%通じないそうです。「ロンドンのPubでレッド・アイを頼んだら、『何ソレ?聞いたことないよ』と言われ、『ビールとトマト・ジュースのカクテルだ』と説明したら、ラガー・ビールとトマト・ジュースと空グラスを出され、仕方なく自分でつくった。店員さんは不思議そうな顔をしていた」というエピソードを掲示板で紹介する人もいました(出典:http://www.misichan.com/cocktail/d/cocktail134.html )。 米国でもレッド・アイがさほど知名度がないことの裏付けとしては、ヤフー米国版のQ&Aのページ「Is there a name for tomato juice with beer? 」(http://answers.yahoo.com/question/index?qid=20080905163600AA3Wwim )が面白いです。ほとんど誰も名前を知りません(写真右=映画「カクテル」(C)ワーナー・ブラザーズ)。 日本のカクテルブック等では、レッド・アイを欧米発のカクテルと紹介しているケースが目立ちますが、僕がリサーチした結論としては、レッド・アイはほぼ間違いなく日本生まれのカクテルで、「二日酔いの血走った目」というイメージから名付けられたのが正解ではないでしょうか。それが何らかのルートで「カクテル」の原作者グールドに伝わり、アレンジされて映画にも登場したのではないかと僕は想像しています。 こうした見解を裏付けるかのように、70年代以降の欧米のカクテルブックで、この「レッド・アイ」というカクテルを紹介している文献は調べた限りでは、まったくありません。「Red Eye Cocktail」と打ってグーグルで検索しても、欧米のサイトではほとんどヒットしません。英国の専門サイトが唯一、日本とほぼ同じレシピのレッド・アイを紹介していましたが、面白いのは、そのページの掲示板に、「生卵を入れないとレッド・アイにはならないよ!」というユーザーのコメントがあったことです(出典:http://www.cocktail.uk.com/Cocktail-Recipe/Red-eye.htm )。 欧米のWEBサイトでは、映画の「レッド・アイ」をそのまま紹介していたり、生卵入りレッド・アイを「レッド・アイ・ア・ラ・カクテル(Red Eye a la Cocktail)」という別名で紹介したり、日本版レッド・アイのレシピにさらにウオッカを加えたレシピ(日本では「レッド・バード」という名のカクテル)にしたり、日本でレッド・アイを飲んだ外国人が母国でその驚きを紹介していたり、アサヒビールが2012年6月に売り出した缶入りのレッド・アイを話題にしていたりと様々ですが、まぁその程度のレベルです(出典:Google「Red Eye Cocktail」)。 ちなみにWeb上でみる限り、欧米でのビールとトマト・ジュースだけのカクテルの呼び方は「レッド・ビア(Red Beer)」「トマト・ビア(Tomato Beer)」「レッド・ルースター(Red Rooster)」「ブラッディ・ビア(Bloody Beer)」など様々です(「レッド・ビア」が多数派という)が、どれをとってもさほど有名ではありません(出典:Yahoo! Answers英語版、Wikipedia英語版)。 7.昔のカクテルはぬるいのが普通だった Barにも製氷機が当たり前にある今日、私たちはどこのBarへ行っても冷たいカクテルが楽しめますが、1920年代以前は、カクテルといえばそう冷たい飲物ではありませんでした(欧米では今も、英国のPubのように、氷を少ししか入れないぬるいカクテルを出すところもありますが…)。 近代カクテルが誕生したと言われる1850~60年代、欧米では簡単な仕組みの製氷機が登場したばかりで、高価なこともあって小さなBarやPubで備えているところはほとんどありませんでした。ドイツのカール・リンデ(Carl von Linde)=写真左((C)The Linde Group)=が初めて本格的な業務用製氷機を発売したのが1879年で、欧米の飲食業の現場で製氷機が普及したのは1910~20年代以降と言われています。 それまでは、冬場に凍結した川や湖から切り出した氷を氷室(ひむろ)で保管し、BarやPubでは木製の冷蔵庫を使って保管していたようで、もちろん量も限られ高価なため、カクテルに好きなだけ使うなどはとてもできませんでした。したがって、マティーニやマンハッタン、ロブロイ、ギムレットなど、現代でも人気の古典的カクテルと言えども、誕生当初は、かなりぬるい状態で味わっていたのが実態だったと思われます。 1920年以前のカクテルに生卵(卵白や卵黄)を使うカクテルが多かったのは、キリっと冷えたカクテルを楽しむなど簡単には叶わなかった時代に、カクテルを飲みやすくするために、まろやかな味わいを演出しようとしたバーテンダーならでは工夫だったのでしょう。 ちなみに、1860年(万延元年)、日本で始めて誕生した横浜ホテルのBarでは当然、天然氷を使っていて、木製の保冷箱のようなもので保管していたようですが、どのくらいの時間溶けずにもったかは想像に難くありません。街場にBarができた明治末期~大正時代でも事情はそう変わりませんでした。大きな氷を入れて冷やす木製冷蔵庫は登場していましたが、氷が貴重品であったことには変わりはありません。 日本に米国製製氷機が初めて輸入されたのは1920年代末ですが、家が一軒買えるほどの値段だったため、当初は一流ホテルか一部の金持ちしか持つことができませんでした。国産の業務用製氷機が普及し始めるのは1950年代後半です。現代では「ぬるいカクテルなんてカクテルじゃない」と思いがちですが、1920~30年代に生きていた人たちがもし現代のBarにタイムスリップしたら、「カクテルが冷たすぎる!」と驚くに違いありません。 <完>【御礼】昨年6月以来続けてきた「【全面改訂版】カクテル--その誕生にまつわる逸話」は今回で終わります。成田一徹さんの急逝や偲ぶ会開催に伴う繁忙のため、途中中断を余儀なくさせられましたが、バー関係も含む友人の励ましもあって、ゴールにたどり着くことができました。この場を借りて厚く御礼を申し上げます。この連載がバー業界に働く皆さんのお役に立てば、これに勝る幸せはありません。
2013/05/28
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鳥取県と言えば、日本で最も人口が少ない都道府県(約60万人)。その県庁所在地である鳥取市の人口もわずか20万人しかない。鳥取砂丘や二十世紀ナシ、らっきょう、松葉ガニで有名だが、過疎化、高齢化を象徴する県の一つでもある。 経済的には、同じ県内の米子市と勢力圏を二分していることもあるが、鳥取市内の商店街は不況もあってさびれが目立つ。しかし、意外と元気なのが飲み屋街である。景気が悪くても、やはり外食はしたい。だから居酒屋やBARも元気である(ちなみに、寿司屋がやたら多いのが鳥取市の特徴でもある)。 鳥取までは大阪から直通特急「スーパーはくと」で2時間半ほど。出張でも十分日帰り圏内であるが、如何せん本数が少ない。最終は午後6時40分発。うらんかんろのような呑み助には、BAR巡りが叶わないダイヤである。今回、うらんかんろは1泊出張の機会に恵まれ、ようやく念願のBAR巡りができることになった。 とは言え、関西のBARのマスターにも鳥取のBARに詳しい人はあまりおらず、で、頼りにしたのはS社のホームページにある全国のBARR案内「Bar-NAVI」。そこにオーセンティックBARとして紹介されていた2軒に狙いをしぼった。 最初にお邪魔したのは「Bar・Style」=写真左。しかしオープンは午後8時ということなので、寿司屋でゆっくりと腹ごしらえをしてから出かけた。扉を開けると、当然僕が最初の客。 まず、1杯目をいただく。「ご出張ですか?」とマスターのMさん。「えっ、分かります?」と僕。「ええ、早い時間に来られるのはまずそうですね。地元の人間は出足が遅くて、(来店は)早くて9時。普通は10時前後くらいです。それに服装です。やはり都会から来られた方はセンスがいいので、すぐ分かります」と解説をしてくれたマスター。センスを誉められて少し嬉しい気持ち。 店内は、都会にあるようなおしゃれで、落ち着いた雰囲気。鳥取にいるのを(失礼!)忘れるくらいだ。バック・バーの棚のお酒の品揃えも都会に負けないくらい充実している。「(地方都市の)ハンディはありますが、情報は精一杯手に入れて、都会のBARに負けないように頑張っています」とマスター(写真右=Bar Styleの店内風景)。 マスターは時間があれば、比較的近い関西のBARに出かけては、そこのマスターのカクテルづくりなどの所作を学んでいるという。「僕には師匠がいませんから、都会のBARで働く先輩はみんな先生です。技術で盗めるものは全部勉強しています」。話を聞いていて、その努力家ぶりにただ頭が下がる。 マスターの話に出てくる大阪のBARのマスターには、僕が懇意にしている人も何人もおり、親近感が増す。店は今年で8年。柔らかくソツがなく、温かい接客。まだ30代半ばであろうマスターには「これから」を大いに期待させる。鳥取に行く機会があればまた行きたいと思えるBARだが、マスターどうか午後6時くらいから店を開けてくださいなー(笑)。 さて2軒目もS社の「Bar-NAVI」に出ていた「Bar・Ism」=写真左。訪れた日の夜は雪が吹雪いて、凍えそうに寒かったが、1軒目の「Style」からは歩いて数分なので有り難い。 店は雑居ビルの2階にあるが、店内はとても静かでゆったりとした空間。バックバーの扉代わりの格子戸がこのBARをさらにしっとりとした雰囲気にしている。ここも8年目という。まず1杯いただいた後、1軒目のBARでした同じ話(鳥取のBARのオープン時刻はなぜ遅いのか)をする。 「Ism」のマスターもやはり、鳥取の客の出足の遅さを口にした。都会のBARなら、早い時間に開けておけば仕事帰りの客を期待できるだろうが、地方都市なら、マイカー通勤も多いだろうから、なかなかそれも叶わないのだろう。都会とは違うBAR経営の難しさを知った。 2杯目は、寒いので体を温めるためにホット・ウイスキーをお願いする。「(ウイスキーに浮かべる)丁字(クローブ)はありますか?」と尋ねたが、あいにく「切らしているんです。申し訳ありません」とのこと。 都会のBARと同じレベルの望んではいけないし、なかったからと言って問題にしてはいけない。温かい接客とリーズナブルなお値段のお酒があれば、もう十分満足なのだから。そういう意味では「Ism」も十分及第点のBARだと僕は思う。 さて、まだホテルに帰るには時間も早いので、1軒目のマスターに聞いたBARに向かう。なにやら、大阪のBARで修業した方が故郷に戻って開かれた店という。ひょっとして共通の知人がいるかもしれない。 店は泊まるホテルと川を挟んだ斜め向かい、住宅と飲食店が混在する通りにあった。その名は「Misty Bar」=写真右。目立つ看板も出ていないので、もうちょっとで通り過ぎてしまいそうだったが、店先にBARらしい灯りがあるので、なんとか迷わずにたどり着けた。 「大阪から出張でお邪魔して、Styleのマスターから教えてもらいました」とまず、マスターのNさんに挨拶する。聞けば、Nさんは、大阪で僕も何度かお邪魔したことがある「~ist」というBARで働いていたという。そして、当時の同僚には今は独立されて、僕の懇意にしているバーテンダーも数多くいた。 こうなれば僕とNさんとの距離はあっという間に縮まる。落ち着いた雰囲気もあってか、Nさんは実際の年齢よりは少し老けて見える(失礼!)が、ほのぼのとした人柄。ひと言で言えば、「いい味出している」バーテンダーという表現がぴったりか(写真左=Misty Barの店内風景)。 店は「~ist」で修業したという影響もあるのか、なんとなく、店内の雰囲気や酒類の品揃えやフードへのこだわりが似ている(付き出しの盛り付けなど)。聞けば、この店も今年でオープン8年というから驚いた。つまり、鳥取のBAR状況は8年前から大きく変わったということか。 ほのぼのとしたNさんのゆったりトークに包まれていると、心地よい酔いがさらに心地よくなる。Nさんおすすめのシングルモルト「ベンリアック1987」が胃にしみる。鳥取のBARも捨てたものではない。みんなそれぞれ一生懸命頑張っていることを、僕は実感した。 願わくは、鳥取の経済状況ももっと好転すればなによりなのだ。そのためには、まず鳥取の人口が増えるような施策が行政にほしい。そして、地元で暮らしたい人が十分暮らしていけるような働き口が多くできればいい。さらに、都会からもっと旅行客を呼び込めるようなアイデアを考えたい。JR西日本さん、ぜひ最終の特急は9時発くらいに設定してほしい。頑張る地方都市を応援することは、都会側にも必要なことだと思う。 鳥取で訪れた3軒のBARのマスターの皆さん、温かいもてなしを本当に有難うございました。皆さんのBARにいつかまた再訪できることを、うらんかんろは心から願っています。 【Bar・Style】鳥取市末広温泉町206 ギャザビル2F 電話0857-23-8008 午後8時~午前3時 月休 【Bar・Ism】同市末広温泉町158 ユキビル2-2F 電話21-1366 午後7時~午前3時 日休 【Misty Bar】同市弥生町140 柄本ビル1F 電話29-0180 午後9時~午前4時 日祝休 (JR鳥取駅から徒歩10~15分。3軒ともとてもリーズナブルなお値段です)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/02/19
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先日、「最近、Blogに書くネタ探しが結構大変なんだよー」と言う話を、親しいバーテンンダーにしていたら、「こんなネタはどうですか?」と教えられた。 それは、貴方もスコットランド・アイラ(Isle of Islay)島の土地の「生涯貸借権」が得られるという話。あのラフロイグ(Laphroaig)蒸留所=写真左=が、保有する蒸留所内の30cm四方の土地をプレゼントするという”愉快な”キャンペーンをおこなっているんだという。 ラフロイグ蒸留所の公式サイトから申し込めば、誰でもその土地の権利証明書を数カ月後に貰えるのとのこと。うれしがりの僕は、早速トライしてみた。公式サイト内の「ラフロイグ友の会(Friends Of Laphroaig)」というリンクへ飛ぶ。 そしてそのページの指示通り、手元にあるラフロイグのボトルの背ラベルにあるバーコードの13ケタの数字を打ち込むと、申込書のフォーマット(用紙)が現れる。 名前、住所、生年月日、Eメ-ル・アドレス、自己紹介、ラフロイグ歴など、書き込むところが結構あって、少々疲れるが、終わって送信(Submit)すればめでたく完了! 画面はただちに、「Mr. ※※※※、Welcome to Friends Of…」というものに代わり、「Your plot number:269328」という土地番号が送られてきた。ご丁寧に、権利を獲得した土地の衛星拡大写真(写真左=赤い点が僕の土地らしいです)まで!見られる。 蒸留所内の土地のオーナーになったからと言って、地代が貰えるわけではない。単なるお遊びと言ってしまえばそれまでだが、あのアイラ島の小さな土地のオーナーになった気分は、なかなかいいもんだ。 僕より先に会員登録した人の話によると、忘れられた頃送られてきた権利証明書「Lifetime Lease On A Square Foot Of Islay」(写真右)には、こう記されていたという。 「もし貴方が(この証明書を持って)ラフロイグ蒸留所を訪れたら、地代(つまり僕がこの土地をラフロイグ社に貸している形)として、年に1杯のラフロイグが与えられ、その土地にも案内してもらえます。野生生物から身を守る装備一式も提供いたします」と記してあったという。 キャンペーンのチラシには、こんな泣かせる話もあった。ある時、骨壺を持った未亡人がいきなり蒸留所に現れた。彼女は蒸留所の関係者に「夫に与えられた土地へ連れて行ってほしい」と頼み、そして、その30cm四方のヒースの土地にうらうらしく遺骨をまいたのだという。 僕も、死んだら「遺灰を自分の土地(No.269328)にまいてほしい」と遺言に記しておこうかなと思ったが、「残された家族が迷惑するだけやろ」という友人の声を聞いてやめた。 それよりも、近い将来、アイラ島を訪れたら、自分の土地を訪れて、その上に立って、記念写真くらいは撮りたいな。あー早く実現させたいアイラ島への旅。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/11/12
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