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公開中の映画「ゼロの焦点」を見てきました。「ゼロの焦点」のは、言うまでもなく、松本清張のベストセラーにもなった長編推理小説を映画化したものです(過去何度も映画やテレビドラマにもなっています)。 簡単にあらすじを紹介しておくと--。時代は昭和33年。東京に暮らす26歳の板根禎子(広末涼子)は26歳。金沢の広告代理店に勤める鵜原憲一(西島秀俊)と見合い結婚した。信州での新婚旅行を終えた10日後、憲一は、仕事の引継ぎをしてくると言って夜行列車で金沢へ旅立つ。しかし、予定を過ぎても憲一は帰京しない。 しばらくして禎子の元に届いたのは、憲一が北陸で行方不明になったという、勤務先からの知らせだった。禎子は急いで金沢へ向かう。憲一の後任者の男性らの協力を得ながら憲一の行方を追うが、その過程で、夫の隠された過去や金沢での暮らしぶりを知ることになる(これ以降はネタばれになるので、映画館でどうぞ)。 僕は自分で言うのもなんですが、松本清張の大ファン。中学生の頃から、彼の読み始め、彼の作品の7~8割くらいは読んでいると思います。当然、この「ゼロの焦点」も読んだはずなのですが、ずいぶん前なので、映画を観る前はどういう結末だったのかは忘れていました(映画を観るためにはそれがかえって良かったかもしれません(笑))。 見終わってとりあえずの感想としては、いくつかあります。 1.映画の出来としては及第点でしょう。映像美も素晴らしい。古い金沢の街がとてもよく再現されていました(主に韓国の映画撮影所のオープン・セットを使って再現したそうですが…)。 2.ただし、米軍占領下の日本とその頃日本人女性が置かれていた状況や、親だけで結婚相手を決めてしまうなどの時代背景について、今の若い世代がどこまで理解できるかどうか(戦後復興のために必死で努力していた日本人の姿が、随所に描かれているのはとても良かったですが…)。 3.主役の広末は、共演の中谷美紀に完全に食われていたなぁ…--の3点です。 僕はとくに、古い時代の面影をまだよく残していた昭和50年代前半、金沢に住んだことがあったので、(昔の金沢駅など)よく目にした情景や耳にした地名がたくさん出てきて、とても懐かしい気持ちになりました。オープン・セットでは雪の金沢の街で、昔の市電まで走らせていましたが、ここまで時代考証にカネをかければいい映画も撮れるという証でしょう。 清張がこの作品で最も訴えたかったのは、おそらく「敗戦後の日本で、時代に翻弄された女性たちの悲しい運命」だったと思います。米軍占領下で、主権を奪われていた日本では、生きるために、貧困から脱するために男性も苦労しましたが、女性はより過酷だったことを忘れてはなりません。そうした歴史的、社会的背景を頭の片隅に置きながら、この映画を観ればより充実感が味わえると思います。 映画では、様々な事件を縦軸にしながら、横軸として(原作にはなかった)金沢市長選挙への女性の選挙運動(立候補から当選まで)が女性の自立、社会参加の象徴として描かれていますが、現実の金沢市政では女性市長は今なお誕生していません。監督の真意は分かりませんが、女性の地位向上・自立を選挙という舞台で描きたかったのかもしれません。 【おすすめ度】★4つ半(★5つで満点)【追記】091223 映画を観た後、原作をもう一度読み直しました。原作と比較して映画は、骨格はあまり変えてはいないのですが、いくつかの部分で原作とは違います。上記で書いたように、金沢市長選への女性候補の出馬のエピソードはありませんし、さまざまな事件の殺害場所、殺害方法も若干違います。登場人物の中でも、映画では死ぬのに、原作では死なない人もいます。でもまぁ、映画の脚本・演出としては許容の範囲内かなと思います。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/12/08
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11.ビトウィーン・ザ・シーツ(Between the Sheets)【現代の標準的なレシピ】(単位はml) ホワイト・ラム(20)、ブランデー(20)、コアントロー(20)、レモン・ジュース(10)、レモン・ピール (※ダークラムを最後にフロートさせるレシピもあります) 【スタイル】シェイク 「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」(1930年刊)や、「カフェロイヤル・カクテルブック(Café Royal Cocktail Book)」(1937年刊)にも紹介されている、代表的なクラシック・カクテルの一つです。有名なカクテル「サイドカー」のレシピにラムが加わっていることからしても、「サイドカーのバリエーションの一つとして」考案されたという説もありますが、真偽のほどは定かでありません。 「シーツの間で=ベッドに入って」というその意味深なネーミングもあって、「ビトウィーン・ザ・シーツ」は現代でも、国内外を問わず不動の人気を持つカクテルです。しかし、口当たりは良いけれどアルコール度数はかなり高めなので、お酒に弱い人には「要注意な」カクテルでもあります。 誕生の由来、時期については、以下のような3つの説が伝わっていますが、いずれの説もそれを裏付ける文献資料は確認されておらず、現時点ではあくまで「説」にすぎません(出典:英語版Wikipediaほか)。 (1)パリの「ハリーズ・ニューヨークバー」のオーナー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)がカクテル「サイドカー」のバリエーションとして1930年代に考案した。 (2)ロンドンの「バークリー(The Berkely)・ホテル」のマネジャー(Mr. Pollyという方)が、1921年頃考案した(※ただし、バークリー・ホテルのHPのBarページでは、「Between the Sheets」や「Mr.Polly」の名には一切触れておらず、掲載されているカクテル・メニューにも「Between the Sheets」はありませんでした。なので真偽のほどは分かりません)。 (3)20世紀初頭のフランス国内の売春宿(Brothel)で、女性たちが好んで飲む食前酒だった。その女性たちを通じて酒場にも広がった(※カクテル名からすれば、この説もあながち嘘ではないかもしれません)。 「サヴォイ・カクテルブック」に掲載されていることからも、1920年代には欧州のバーで、ある程度認知されるカクテルであったことは間違いありません。従って、少なくとも(1)の説には無理があります(もしマッケルホーンが考案したとしても、それは1910〜20年代のことでしょうが、マッケルホーンは1919年に出版した「ABC of Mixing Cocktails」だけでなく、1927年に出版した「Bar Flies and Cocktails 300 recipes」にも収録していません)。 参考までに、1930~40年代の主なカクテルブックに登場する「Between the Sheets」のレシピを見ておきましょう(スタイルはいずれもシェイク)。 ・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 &「Café Royal Cocktail Book」(W.J.Tarling著、1937年刊)英 ラム3分の1、ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモン・ジュース1dash ・「The Artistry of Mixing Drinks; Ritz Bar, Paris」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ラム3分の1、ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモン・ジュース1tsp ・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米 ラム4分の3オンス、ブランデー4分の3オンス、コアントロー4分の3オンス、レモン・ジュース半個分 ・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米 ラム2分の1オンス、ブランデー2分の1オンス、コアントロー2分の1オンス、レモン・ピール ・「The Official Mixer's Manual」(Patrick G. Duffy著、1948年刊)米 ラム3分の1、ブランデー3分の1、コアントロー3分の1 ちなみに、キューバ・ハバナの有名なBar「La Florida」が1935年に出版したカクテルブックに、同じ「Between the Sheets」という名のカクテルが収録されています。しかしそのレシピは、コニャック3分の1、クレーム・デ・カカオ3分の1、生クリーム3分の1、砂糖1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dash、レモン・ピールというもので、まるで有名な「アレキザンダー」のバリエーションのようです。なのでこの稿で取り上げているのとは別物のカクテルです。 なお、「ビトウィーン・ザ・シーツ」は日本には戦前に伝わっていたという説もありますが、文献で確認できるのは1950年代に入ってからです。 【確認できる日本初出資料】世界コクテール飲物事典(佐藤紅霞著、1954年刊) ※レシピは、バカルディ・ラム3分の1、ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモン・ジュース1dash です(「サヴォイ…」と同じです)。・こちらもクリックして見てねー! → 【人気ブログランキング】
2016/11/27
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私は2012年9月26日付の記事(リンクはこちら)で、SNS上の画像・写真の引用問題について記しました。その後、2018年と2019年に著作権法の改正がありました(2018年の改正は、主に環太平洋11カ国との「TTP協定」締結に伴うものです)。 今回遅まきながらですが、主な改正点を紹介するとともに、改正内容に合わせて前回の記事内容を追記・修正し、私たちがSNS上で「画像・写真を引用する場合」の注意点を、改めて紹介してみたいと思います(今回の追記・修正部分については、赤字で記しました)。【おことわり】前回同様の言い訳ですが、この記事は、あくまでSNS上での「画像の引用」ルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものです。しかし、私は法律の専門家ではありません。個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的なトラブルについては、私は一切の責任を負えませんので、疑問点等は文化庁や法律専門家にお尋ねください。なお、用語や解釈の間違い等のご指摘は歓迎いたします。→ arkwez@gmail.com まで宜しくお願いいたします)。 ◆改正・著作権法などの概要 改正著作権法は、2018年5月18日に成立し、2019年1月1日から施行されました。今回の改正は「デジタル・ネットワーク技術の進展により、新たに生まれる著作物の利用ニーズに的確に対応するため、著作権者の許諾を受ける必要がある行為の範囲を見直し、IT・情報関連産業、教育、障がい者、美術館等におけるアーカイブの利活用に関わる著作物の利用をより円滑に行えるようにする」のが狙いです。 具体的には、(1)一定の条件をクリアすれば、著作権者の許諾を得ないでも自由に利用できる範囲が広がった(2)IT技術開発・情報処理目的や検索エンジン(GoogleやYahoo等)のための著作物の利用は許諾がなくても可能に(3)授業などで教師が他人の著作物を用いて作成した教材を生徒に随時送信する行為も、公衆送信補償金の支払いで著作権者の許諾なく可能に(4)美術館などが収蔵・展示作品をデジタル化し、ネットワーク上で閲覧させる場合、許諾なく行えるようになりました。 また、ほぼ同時に、(5)TTP整備法を反映した改正(2018年6月9日成立、12月30日施行)も行われ、従来、作者の死後50年だった著作権保護期間は、米国の要請によって70年に延長され(末尾【注1】ご参照)、(6)海賊版の販売・送信行為への非親告罪化(著作権者の告訴がなくても起訴可能に)も導入されました。 ※(3)の補償金については、2020年4月からは年間1回のみの支払いで済む「ワンストップ補償金」制度が創設されました。この改正によって、オンライン授業における教材作成での規制や負担が大きく軽減されました(2020年度に関しては無料でしたが、2021年度から支払いが義務化されました)。「補償金」の料金体系や金額は以下の通りです。 ・学校種別の年間包括料金(公衆送信回数は無制限) 公衆送信を受ける園児・児童・生徒・学生1人当たりの額=大学720円/ 高校420円/ 中学校180円/小学校120円/ 幼稚園60円(※社会教育施設、公開講座等については、30人を定員とする1講座・講習を1回の授業として、授業ごとに300円) ・公衆送信の都度支払う場合の料金=1回・1人当たり10円(対象となる著作物、実演、レコード、放送、有線放送ごとに)。 ※「補償金」の支払い窓口・管理・著作権者への分配等は文科省から指定を受けた「一般社団法人:授業目的公衆送信補償金等管理協会(SARTRAS)」が担当します。料金等については3年ごとに見直しを行い、必要な措置を講じるとのことです。 ◆画像引用も基本は文章と同じだが… まず、基本的なことですが、写真やイラスト、絵画なども含むSNS上の画像についても、前回も紹介した「公正な引用のための要件」が適用されます。著作権法32条の「公正な慣行に合致し、報道・批評・研究など目的上、正当な範囲内で、定められ要件を満たしていれば、著作権者の了解なしに引用して利用できる」というのが前提です。 では、画像の合法的な引用・利用の基本要件はどうなるかですが、画像・写真の引用についても基本的に、「文章の引用」の場合と同じルールです。 (1)引用先は既に公表された画像であること (2)「公正な慣行」に合致すること =「公正な慣行」の定義は示されていませんが、判例等では、以下の(3)(4)(5)の要件がこれに当たるとしているケースが多いそうです。 (3)自分の著作物と、引用する画像との「主従関係」が明確であること =あくまで自分の文章が「主」で、引用された画像は「従」でなければなりません。「主」か「従」かは、著作物の目的・趣旨や引用した画像の大きさ、補足的なものとして使っているか等がポイントです。従って、小さな画像でもそれが「主」であれば違法となることもあります。 (4)引用する画像が、自分の著作物と明確に区別されていること(明瞭区別性) (5)引用する必然性があること(その引用が著作物の目的や構成上、必要・不可欠である) (6)出典・出所が明示されていること(著作権法48条) (7)画像に勝手な変更を加えないこと(加工したりしない) (8)引用しすぎないこと(過剰な枚数を引用したり、引用した画像のスペースが本文よりも大きいのは違法とみなされるおそれがあります) (9)報道・批評・研究などのための「正当な範囲内」であること(著作権法32条) ※(2)と(9)については、今回の法改正で追加された概念ではなく、旧法から存在した基準ですが、基本要件に含めている法律専門サイトが多いので、今回私も追加しました。 なお、「報道・批評・研究などのための『正当な範囲内』」という要件については、改正著作権法でも明確な定義は示されていません。唯一、判例で「社会通念に照らして合理的な範囲内のものであることが必要であり、具体的には、他人の著作物を利用する側の利用の目的のほか、その方法や態様、利用される著作物の種類や性質、当該著作物の著作権者に及ぼす影響の有無・程度などが総合的に考慮されなければならない」と示されている程度です(大阪地裁・2013年7月16日判決)。 すなわち、「引用に必然性・必要性があって、引用の分量や引用個所が適切であり、引用部分が明確に区別されている」などの条件を満たす必要があるのは当然だと思われます。 ◆出版社等の「禁止規定」は合法か、違法か 私たち個人がネット上で一番よく画像を「引用・利用」するケースとしては、(1)本や雑誌の表紙(2)CDやレコードのジャケット(3)映画のポスターや1シーン(4)市販商品の外観(5)ネット・オークションでの商品――などが代表的なものではないかと思います。このうち(5)については現在は原則、無条件の引用・利用が合法化されています。 (1)~(4)については、著作権法32条を守り、9要件をクリアすれば、誰でも合法的に引用・利用できるはずです。ところが、例えば出版社のHPにはよく、画像に関して以下のような禁止事項が列挙されています。表向きは、著作権者の許諾なしに一切の画像の使用はまかりならんという姿勢です。 ・出版物の装丁の画像の全体または一部を掲載することはできません ・キャラクターの画像および写真等の全体または一部を掲載することはできません ・ホームページの画像の全体または一部を転載することはできません ・法人企業のHPであっても、許可なく転載することはできません ・非営利であっても、個人サイトでの転載は「私的利用」にはなりません ・著作権侵害が行われた場合には法的手段をとることもありますので、ご注意ください 私も、Blogで時々、本の批評やCD、映画の感想など紹介しているので、本やCDジャケットや映画の1シーンの画像を借りることはあります。出典・引用元は可能な限り明示するようにしています。こうした利用は、著作権法32条に言う「公正な慣行に合致し、報道、批評、研究など目的上、正当な」という要件に当てはまり、合法的な利用です。 ここで疑問がわきます。「著作権法では正当な目的であって、主従関係を明確にして、引用元もきっちり明示すれば、画像の『引用』はできると認めている。こんな禁止規定自体が著作権法違反じゃないのか」という疑問です。そこで、法律専門サイト等でさらに調べたうえで、専門家の意見も少し聞いてみました。 ◆現実的には、出版社等は「黙認」姿勢 結論から言うと、文章の引用についてはこれまで判例がいくつもあって、様々な具体的ルールや指針がかなり周知されているのですが、画像については、争われた裁判(判例)がまだ少なく、違法か違法でないのかの基準が曖昧なままになっています。 知的財産や著作権法に詳しい杉浦健二弁護士は「一般的には、引用要件には法文上の明確な基準があった方がいいという意見もあるが、過度に明確化すると、インターネット等を中心とした利用形態の多様化に法律が付いていけず、弾力的な運用がしづらくなるため、引用要件にはある程度の“あそび”がある、現在の程度が望ましいと考えている」と記しています(出典:STORIA法律事務所Blog) 近年唯一、画像の無断使用で争われたとも言える有名な裁判に「脱ゴーマニズム宣言事件」(小林よしのり氏vs上杉聡氏)というのがあります。この裁判では漫画の引用問題が争点でしたが、1999年8月に東京地裁が出した判決「批評の対象を明確にするためには、絵も引用する必要があることを認める」「引用の要件を満たす限りは、引用が必要最小限であることまでは要求されない」(1999年8月31日)が現時点では数少ない判例です(参考:Wikipedia「脱ゴーマニズム宣言事件」)。 しかしながら、出版社はこうした判決が出た後も、禁止規定は撤回・変更していません。禁止規定は「任意規定であるから合法」という学説がある一方で、「このような規定自体が著作権法違反だ」という法律家もいます。法的見解が分かれる中、現実には、日本だけでも個人のHPやBlogで膨大な数の画像が引用・利用されています。 出版社やレコード会社等はいちいち告発したりせず、黙認しているのが現状です(おそらく、訴えたあげく不利な判例が出て、自分で自分の首を絞めるのが怖いというのもあるのでしょう)。現実には、個人やNPOのHP、Blogのように非営利目的であればあまり目くじらは立てないという姿勢だと思いますが、私たちはやはり、節度ある引用・利用に徹したいと思います(ちなみに、著作権侵害した場合の刑罰は、10年以下の懲役もしくは1000万円以下の罰金という結構重いものなので、くれぐれも安易な画像利用・引用には十分気を付けたいところです)。 ◆1、2枚の画像引用なら、まず問題なし 今回、法律関係者に直接尋ねたり、著作権問題を取り上げた法律事務所のWEBページの解説を調べたりしたところ、結論として、少なくとも以下のようなことは言えるかと思います。 ・SNS上の画像引用についても、冒頭にも挙げた、正当な引用のための「9つの要件」は最低限満たさなければならない。報道、批評、研究その他引用の目的上正当な範囲内であれば、原則として問題はないが、「正当な目的」と「正当な範囲内であること」が大事(単なる日常雑記のような文章に、権利者が存在する必然性もない画像を勝手にアップするのは避けるべきである)。 ・静止画については、「要件を満たしていれば、引用が正当な範囲内に収まる可能性が高い」(斉藤博『著作権法』236頁、2000年、有斐閣刊)というのが学界の多数説。音楽評論や映画評論で1、2枚の画像をコピーして載せるのはセーフ。しかし、「必然性もないのに、例えば、自分のブログのトップにミッキー・マウスの画像をコピーして載せるというのは危ない」とのこと(とくに、ディズニー社は著作権、商標権にうるさいことで有名なので要注意)。 ・引用する画像の色合い等を、画像ソフトを用いて改変してはならない(唯一、画像のサイズ拡大、縮小は認められている)。 ・「出所の明示は合理的な態様で」というのが法の規定。著作権者名があればベストだが、不詳であれば、出典WEBサイトのURLを明記することが望ましい。いずれにしろ、企業の公式HPならともかく、個人の私的なBlogに静止画を少し載せるくらいなら訴えられることはまずないだろう。 ・ただし、この問題に関しての最高裁判決はなく、下級審判決例も、上記の要件のそれぞれに対するウエイトのかけ方が異なるので、難しい面がある。そもそも、「公正」とか「正当」とか、必ずしも利用者にわかりにくい基準で、裁判になってみなければ、それに反しているかどうか結論は出せない。おそらくそのような現状からして、新聞社、出版社などの権利者側からは、原則に戻って、許諾がいるというように警告を発しているのだと思う。 ・著作権法の引用要件を明らかに満たしている場合は、利用者は権利者に事前に許諾をとる必要はない。権利者が「利用を認めます」と回答してくれる可能性は低く、かさねて許諾まで取りにいくメリットは皆無で、かえってリスクが高い行為になる(「ダメ」と言われた場合、身動きがとれなくなる)=上記STORIA法律事務所Blogより。 ◆画像転載が合法化されているもの なお、SNS上での画像の引用・利用が(条件付で)自由に認められているものもあります。例えば、以下のようなものです。 ・ネット・オークションに添える商品説明の写真掲載=インターネット・オークション等で売買する際、商品を確認するという必要性から、2009年の著作権法改正で、条件付き(著作権法施行令等で定めた大きさや精度等を遵守)でその画像を著作権者の許諾なく掲載することが合法化されました。今回の法改正ではさらに、美術品や写真の販売の際にも、カタログ等の図面として許諾なく掲載することが同様に可能となりました。 ・情報検索サービスを実施するために著作物の複製すること ・障がい者の教育・福祉活動等ために著作物を複製すること ・画素数を落とした画像、サムネイル(縮小)画像の利用 ※Amazonなどは「アフィリエイト」(【注2】)契約をすれば、画像を無料で利用できるというサービスをしていますが、私は利用していません。 ◆引用・掲載してはいけない画像とは 自分が撮った画像でもSNS上に掲載できないものもあります。例えば以下のようなもの――。 ・被写体から許可を得ていない画像(知らない人の顔がはっきりわかる状態で写り込んでいたら、肖像権の侵害だと言われるおそれがあります。モザイクをかけるなど個人を特定できないようにしてください。 ただし、友人らとの飲み会での写真なら許容範囲でしょう。いまどき、あなたがSNSをしていることを参加者が知っていて、携帯やデジカメで写真をとれば、参加者も「彼(彼女)のページに載るんだな」と了承したものとみなされるでしょうから)。 ・タレントなど著名人が写った画像(街でたまたま有名人を見かけて撮った写真を掲載すれば、場合によっては、「パブリシティ権」(【注3】)を侵害したと言われる可能性があります。店で女性と一緒のところを盗み撮りなどした画像なら、プライバシー侵害と言われる可能性もあります。 ・他人の著作物を撮った画像(滅多にないとは思いますが、著作権のある創作物を直接写真に撮ってSNS上に掲載すれば、著作権侵害と言われる可能性があるそうです)。 ・公序良俗に反する画像(これは当然ですね) ◆基本は自分の撮影にこだわりたい 私は基本的に、可能な限り、自分のSNS上では自分のカメラで撮影した画像を使うことにしています。自分の撮影を原則にしているのは、オリジナリティにこだわりたいことに加えて、リスク(転載を巡るトラブル)を減らしたいからです。 SNS上で無用なトラブルを招かないためには、安易に他のサイトから画像をコピーしてこないこと、そして引用・転載する場合でも、ルールやマナーをきちんと守ることが何よりも大切だと思います。私自身も現在、自戒の気持ちを込めて過去のBlogのページなどで使った画像について、順次、著作権法違反がないか再点検しています。必要な場合は、少なくとも「引用元」をきっちり明示したいと思っています。 【注1】1967年以前に著作者が死亡している場合: 著作者が亡くなったのが1967年以前であれば、2018年12月30日の改正著作権法施行以前に50年の保護期間(1968年1月から起算)が終了しているため、70年には延長されません(1967年に亡くなった芸術家で言えば、例えば、山本周五郎<作家>、壷井栄<作家>ら)。 なお、著作者が亡くなった後、著作権継承者がいなければ、原則として著作者死亡時点で著作権は消滅します。 【注2】アフィリエイト(Affiliate) 「成功報酬型広告」とも言われ、例えばHPやBlogである企業の商品の広告スペースを提供し、その広告を通じて商品が購入されたら、その企業や販売する店舗からHPやBlogの管理者(運営者)に成功報酬が支払われるという広告またはその形態を指す用語(出典:Wikipedia、All About「アフィリエイトとは?」 → http://allabout.co.jp/gm/gc/22964 ) 【注3】パブリシティ権 人に備わっている「顧客吸引力を中核とする経済的な価値」を保護する権利のこと(出典:Wikipedia、はてなキーワード → http://d.hatena.ne.jp/keyword/ ) 【御礼】この一文を書くにあたって、主に下記のWeb ページ上の解説やデータ、Q&Aから貴重な情報や示唆をいただきました。この場を借りて関係の皆様には心から御礼申し上げるとともに、そのページ(出典元)を紹介しておきます。 ・文化庁HP(著作権問題Q&A)→ https://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/ ・「画像や情報の引用について 専門家Q&A」→ https://profile.allabout.co.jp/ask/q-46093 ・「画像の引用・転載に関する著作権について(Yahoo知恵袋)」→ https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/ ・「ネット時代の著作権(大塚商会)」→ https://qqweb.jp/QQW/STATICS/it/pc_howto/200911.html ・「HPやサイトで著作権違反にならない方法」→ https://nanapi.jp/15604 ・「著作権法上合法な引用の条件」→ https://puple.noblog.net/blog/a/10056206.html ・「ネット・Webサイトでの著作権」 → https://uguisu.skr.jp/html/kenri1.html ・「画像の著作権侵害を回避するために最低限理解しておくポイント」(東京スタートアップ法律事務所HP)→ https://tsl-magazine.com/category05/image-copyright-infringement ・「著作権が自由に使える場合」(公益社団法人・著作権情報センター)→ https://www.cric.or.jp/qa/ ・「著作権法の引用要件を満たしているのに、かさねて許諾を得る必要があるのか」(STORIA法律事務所Blog)→ https://storialaw.jp/blog/6114 ・「著作物・著作権をめぐるルール改正(解説)」(GVA法律事務所HP)→ https://gvalaw.jp/6253 ・「著作権を侵害せずに文章や画像を引用・転載する方法」(ベリーベスト法律事務所HP)→ https://best-legal.jp/copyright-quotation-4942 ・「著作権保護期間、50年から70年に延長。一部非親告罪化も」(Watch Impress)→ https://www.watch.impress.co.jp/docs/news/1152341.html【おことわり】この日記は、画像「引用」のルールについて、現時点での著作権法上の一般的なルールや法的見解、マナー等をまとめたものですが、個別具体的問題についての対応・見解まで保証するものではありません。具体的な疑問やトラブルについては文化庁や法律専門家にお尋ねください。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/06/20
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◆プロなら知っておきたい「知られざるカクテル」<中> ※原則、年代順に紹介しています。レシピは標準的なものです。★印は近年においても欧米のバー・シーンでは頻繁に登場する、とくに重要なカクテルです(かつて私のBlog連載で取り上げたものについては、その関係ページへのリンクも貼っておきます)。★ハンキー・パンキー(Hanky-Panky)(1903~20年代前半、考案者=エイダ・コールマン<Ada Coleman>) ジン45ml、スイート・ベルモット45ml、フェルネット・ブランカ2dash、オレンジ・ピール(シェイク) ※スイート・ベルモットを使う甘口系「マティーニ」(ドライ・ベルモットを使うマティーニが主流になるのは、1920年代後半以降)のヴァリエーション。ロンドンのサヴォイ・ホテル「アメリカン・バー」で2代目のチーフ・バーテンダーをつとめた女性バーテンダー、エイダ・コールマン(1875~1966)が、顧客の求めに応じて考案したと伝わる。★ベボー・カクテル(Bebbo Cocktail)(1920~33年、考案者は不詳) ジン40ml、オレンジ・ジュース10ml、レモン・ジュース10ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※米禁酒法時代(1920~33)に生まれたカクテルと伝わる。奇妙な名の由来は定かではない。クラシック・カクテルには、ハチミツを使うものがしばしば登場する。氷が貴重品だった時代、カクテルを飲みやすくするバーテンダーの工夫の一つだった。(禁酒法時代の)粗悪なジンを使ったカクテルが飲みやすくなり、ジュースにも見えるため当局の摘発から逃れられるという実用的利点もあったと伝わっている。★メアリー・ピックフォード(Mary Pickford)(1920~33年、考案者は不詳) ホワイト・ラム30ml、パイナップル・ジュース20ml、マラスキーノ10ml、グレナディン・シロップ1tsp、レモン・ジュース1tsp(シェイク) ※米国の禁酒法時代(1920~1933)に、キューバの首都ハバナを代表するバー「エル・フロリディーダ(El Floridita)」で誕生したと伝わる。サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)にも紹介されている。パイナップルの風味が効き、マラスキーノ・リキュールがほのかに香る、爽やかな味わい。カクテル名は、サイレント(無声映画)時代のハリウッドの大女優の名にちなむ。 ちなみに、ピックフォードは自ら映画製作に乗り出した最初の女優として知られ、1919年にはチャプリンらと共同で映画製作・配給会社「United Artists」を設立している。「エル・フロリディーダ」は、ハバナをたびたび訪れ、居宅も構えた文豪ヘミングウェイが、大好きなフローズン・ダイキリを味わうために通った店としても有名。★ピスコ・サワー(Pisco Sour)(1920年代、考案者は不詳) ピスコ・ブランデー40ml、レモン・ジュース15ml、シュガー・シロップ10ml、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、卵白(シェイク) ※爽やかな酸味と、卵白の柔らかな舌触りが絶妙に調和したカクテル。1920年代、ペルーの首都リマでバーを誕生したと伝わる。その後米国へ伝わり、50年代に入って、ハリウッドスターらに愛飲されて人気が高まった。ピスコ・ブランデーは、マスカット系ブドウが原料。カクテル名の「Pisco」は、古代インカの言葉の「鳥」に由来する。★ブラッド&サンド(Blood & Sand) (1920年代、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー30ml、スイート・ベルモット10ml、チェリー・リキュール10ml、オレンジ・ジュース20ml、ビターズ(シェイク) ※1920年代に誕生。サイレント時代の名優、ルドルフ・ヴァレンチノ(Rudolph Valentino)が主演した映画「Blood And Sand(血と砂)」(1922年公開)にちなんで考案されたという。美女の心を掴(つか)むために闘牛士の主人公が猛牛に戦いを挑むが、敗れて倒れ、血が熱砂を染めたという映画のエピソードから生まれたカクテルと伝わっている。★アペロール・スプリッツ(Aperol Spritz)(1920年代、考案者は不詳) アペロール60ml、スパークリング・ワイン60ml、オレンジ・スライス(ビルド)(アペロール40ml、白ワイン60ml、ソーダ40mlというレシピも)。 ※「アペロール」は1919年イタリア北部の町パドヴァで誕生したリキュール。「スプリッツ」は20年代には地元ですでに飲まれていたスタイル。戦後もそう注目されることもなかったが、2000年以降、欧米の大都市のバーでブレイクし、おしゃれで飲みやすいドリンクとして近年の人気カクテル・ランキングでは常に上位にランイクインしている。サウスサイド(Southside) (1920年代、考案者は不詳) ジン40ml、ライムジュース15ml、シロップ15ml、フレッシュ・ミントの葉7枚(ビルド) ※1890年代、米国ロングアイランドの「Southside Sportman's Club」で誕生した「サウスサイド・フィズ」が、その後、禁酒法時代(1920~33)に、ニューヨーク・マンハッタンのもぐり酒場(Speakeasy)でソーダを抜いたショート・カクテルのスタイルに変化したものと伝わっている。エンジェル・フェイス(Angel Face)(1920年代、考案者は不詳) ジン、カルバドス、アプリコット・リキュール各3分の1ずつ(ステアまたはシェイク) ※英国ロンドン発祥と伝わる。『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したという説も伝わっているが、裏付ける資料は確認されていない。プレジデンテ(Presidente)(1920年代、考案者は不詳) ラム40ml、スイート・ベルモット(またはドライ・ベルモット)10ml、コアントロー10ml、オレンジ・ビターズ2dash(ステアまたはシェイク) ※1920年代、ハバナのバーテンダーが、キューバの第3代大統領マリオ・メノカル(「第5代ヘラルド・マチャド大統領」という説も)のために考案したと伝わる(「El Presidente」という名で紹介されるケースも)。他にも、「ニューヨークのクラブ「エル・チーコ」に勤めるキューバ人バーテンダーが考案した」という説も。 サヴォイ・カクテルブック(1930年刊)には「President」というよく似たカクテルが登場するが、こちらはベルモットは入らない別のカクテル。一方、ハリー・マッケルホーンのカクテルブック(1919年刊)に登場する「President」は、「El Presidente」に近いレシピであるなど、実に紛らわしいカクテルである。★コープス・リバイバー#2(Corpse Reviver #2)(1920年代、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ドライ・ジン、トリプルセック、リレ・ブラン、レモンジュース各15ml、シロップ5ml、アブサン2dash(シェイク) ※サヴォイ・ホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。 同時代(1920年代)のカクテルに、J.W.ターリング(Tarling)による「コープス・リバイバー」が、また、少し後の1950年代に誕生したパトリック・ダフィ(Patrick Duffy)による「コープス・リバイバー#3」も伝わっているが、欧米ではクラドックの「#2」が一番よく知られている。他の2つのレシピは以下の通り。 ・コープス・リバイバー=ブランデー30ml、カルバドス15ml、スイート・ベルモット15ml(シェイク)(※同名のカクテルでは「ブランデー、オレンジジュース、レモンジュース各20ml、グレナディン・シロップ2dash、シェイクしてシャンパンで満たす」というレシピも伝わっている) ・コープス・リバイバー#3=ペルノー45ml、レモンジュース15ml、氷を入れたタンブラーに入れ、スパークリングワインで満たすモンキー・グランド(Monkey Gland)(1920年代、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>) ジン40ml、オレンジジュース20ml、グレナディン・シロップ5ml、アブサン 2dash(シェイク) ※パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の創業者、ハリー・マッケルホーンが考案したと伝わる。カクテル名は直訳すると「猿の分泌腺」だが、1920年代、フランスの外科医セルジュ・ヴォロノフ(1866~1951)が「猿の睾丸を移植すれば長寿になる」ことを実証するため老人に移植手術したというエピソードに由来するという。パラダイス(Paradise)(1920年代?、考案者=ハリー・クラドック<Harry Craddock>) ジン45ml、アプリコット・ブランデー23ml、オレンジジュース23ml、オレンジ・ビターズ(シェイク) ※サヴォイホテルの3代目チーフ・バーテンダーで、『サヴォイ・カクテルブック』の著者、ハリー・クラドックが考案したと伝わる。★ブールヴァルディア(Boulevaldier)(1927年、考案者=ハリー・マッケルホーン<Harry McElhone>と伝わる) バーボン・ウイスキー40ml、カンパリ25ml、スイート・ベルモット25ml(シェイク) ※レシピを見て分かるように、ネグローニのジンをバーボンに代えたバージョン。「Boulevaldier」の文字通りの意味は「大通り」だが、転じて、「伊達男」「遊び人」「流行りの場所に出入りする人」の意がある。近年の欧米の人気カクテル・ランキングでは、常に20位以内に入るなど再び注目を集めるカクテル。 ハリー・マッケルホーンは、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」創業者で、1919年には歴史的名著『ABC of Mixing Cocktails』を出版した名バーテンダー。ブールヴァルディアは、彼の2冊目の著書『Bar Flies & Cocktails』の「Cocktail Round Town」の項で初めて登場する。ナイト・ライト(Night Light)(1920~30年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、ゴールド・ラム15ml、コアントロー20ml、卵黄(シェイク) ※1920~30年代に誕生したと伝わる、食後向きのナイト・カクテル。ブザム・カレッサー(前出)と同様、卵黄を使うカクテルで、英国で1937年に出版された「カフェロイヤル・カクテルブック」でも紹介されている。基本はロック・スタイルだが、ショート・カクテルでつくってもとても美味しいドリンク(バーUKではベースのラムは2種をブレンドしています)。ブランデー・ズーム(Brandy Zoom)(1930年代前半、考案者は不詳) ブランデー45ml、生クリーム30ml、ミルク20ml、ハチミツ10ml(シェイク) ※甘口でデザート感覚で楽しめるカクテル。1934年にパリで出版された「The Artistry of Mixing Drinks」(フランク・マイヤー著)で初めて紹介されたが、マイヤー自身のオリジナルかどうかは不明である。「ズーム(Zoom)」とはミツバチが飛ぶ羽音の擬音。転じてハチミツを使うカクテルは「Zoom Cocktail」と呼ばれるようになった。ベースにはラムやウイスキー、ジンも使われるが、ブランデー・ベースが一番人気である。★サイレント・サード(Silent Third)(1930年代前半、考案者は不詳) スコッチ・ウイスキー35ml、コアントロー20ml、レモン・ジュース15ml(シェイク) ※有名なカクテル「サイドカー」のスコッチ・ウイスキー版。1930年代前半、コアントローの独占販売権を持っていた英国の実業家が考案したと伝わる。カクテル名は「物言わぬ第三者」との意ではなく、考案者の愛車のサード(トップ)・ギアがとても静かでスムースだったことに由来するとのこと。ベースに使用するスコッチ・ウイスキーは、アイラ島のスモーキーなシングルモルトを好む人も多い。★ゾンビ(Zombie) (1934年、考案者=ドン・ビーチ<Don Beach>)以下の2種類のレシピが伝わっているA=ホワイト・ラム、ゴールド・ラム、ダーク・ラム各15ml、アプリコット・ブランデー、オレンジジュース、パイナップルジュース各10ml、レモンジュース、グレナディン・シロップ各5ml、アブサン少々、氷、オレンジ・スライス(シェイク)B=ホワイト・ラム、ダーク・ラム各25ml、ライムジュース、パイナップルジュース各15ml、グレナディン・シロップ1tsp、氷、オレンジ・ピール(シェイク) ※Aの簡略版として考案されたものだろう ※ハリウッドにあるドン・ビーチのバー「ドン・ザ・ビーチコンバーズ(Don the Beachcomber's)」発祥と伝わる。映画「ティファニーで朝食を」でオードリー・ヘプバーンがパーティ・シーンで味わっていたのがこのカクテル。★ヴュ・カレ(Vieux Carre) (1937年、考案者=ウォルター・バージェロン<Walter Bergeron>) ブランデー、ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット各20ml、ベネディクティン1tsp、ビターズ3dash、レモン・ピール(ステアまたはシェイク) ※ニューオーリンズのモンテレオーネ(Monteleone)・ホテルのバー・カルーセル(Carousel)のバーテンダー、ウォルター・バージェロンが考案したと伝わる。「Vieux Carre」とは、観光名所「フレンチ・クォーター」地区の古名。上記26のブールヴァルディアと同様、近年再び人気が上昇している「クラシック」の一つ。アルゴンキン(Algonquin) (1930年代、考案者は不詳) ライ・ウイスキー35ml、ドライ・ベルモット10ml、パイナップル・ジュース20ml(シェイク)、マラスキーノ・チェリー=飾り ※ニューヨーク・マンハッタンにある老舗ホテル「アルゴンキン・ホテル」のブルー・バー発祥と伝わる。B & B(1930年代、考案者は不詳) ブランデー30ml、ベネディクティン30ml、氷、ロック・グラスで(ビルド) ※米国の禁酒法時代(1920~33)の1930年代、大都市にあった「もぐり酒場(Speakeasy)」で考案され、その後1937年、ニューヨークの有名な社交クラブ「21 Club」で提供されるようになって、幅広く普及したと伝わる。現代のバーでは人気カクテルという訳ではないが、今なお「スタンダード」としての地位を保っている。★ヘミングウェイ・スペシャル(Hemingway Special)(1930年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム40ml、マラスキーノ10ml、ライム・ジュース10ml、グレープフルーツ・ジュース40ml(シェイク) ※キューバ・ハバナの老舗バー「エル・フロリディータ(El Floridita)」のバーテンダーが、1930年代、常連客だった文豪ヘミングウェイのために考案したと伝わる。当初は、「パパ・ダイキリ(Daiquiri como Papa)」と呼ばれていたが、その後いくつか名が変わり、最終的に現在の名前になったとのこと。ヘミングウェイはこれを一日に12杯も飲んだという逸話も伝わっている。エース・オブ・クラブス(Ace Of Clubs)(1930年代、考案者は不詳) ゴールド・ラム40ml、ホワイト・クレーム・ド・カカオ10ml、ライム・ジュース10ml、シュガー・シロップ1tsp(シェイク) ※1930年代にバミューダ諸島の発祥と伝わる。カクテル名の「Ace Of Clubs」とは、1930年代後半、ニューヨークにあったバーの名(元々の意味は「トランプのクラブのエース」)。考案者はここに勤めていた無名のバーテンダーだが、彼は禁酒法時代、キューバのバーで働き、禁酒法廃止後、再びニューヨークへ戻ってきた。その彼がキューバでの日々を思い出し、ダイキリのヴァリエーションとして考案したという。カカオ・リキュールが入るが意外ときりっとして旨い。ミッショナリーズ・ダウンフォール(Missionary Downfall)(1930年代後半、考案者=ドン・ザ・ビーチコマー) ホワイト・ラム45ml、ピーチ・リキュール15ml、パイナップルジュース40m、カット・パイナップル2~3片(シェイカー内で潰す)、ハチミツ1.5tsp、生ミントの葉5~6枚 「宣教師の転落、破滅」という妙な名前を持つ古典的カクテルだが、名前の由来は不詳。「ラム・カクテルの帝王」とも称されるアーネスト・レイモンド・ボーモン・ガント(Ernest Raymond Beaumont Gantt)、すなわち米国のドン・ザ・ビーチコウマー(Don the Beachcomber)が考案したと伝わる。1907年にテキサスに生まれたガントは、禁酒法時代に酒の密輸業者として財をなし、34年に自らのバーをハリウッドに開いた。37年には自らの名前を「ドン・ビーチ」と改名。その後、自らの名を冠したレストラン&バー・チェーンを全米へ次々と展開、100以上のラム・カクテルを生み出した。サファリング・バスタード(Suffering Bastard) (1942年、考案者は、ジョー・セイアロム<Joe Seialom>) ブランデー30ml、ジン30ml、ライム・コーディアル20ml、ライムジュース10ml、ビターズ3dash、ジンジャー・ビア100ml、氷を入れた大ぶりのマグで提供する(ジンジャー・ビア以外をシェイク) ※セイアロム氏は、当時、エジプト・カイロのシェファーズ(Shepheard's )・ホテルのバーテンダー。★エル・ディアブロ(El Diablo) (1940年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、ライムジュース10ml、カシス・リキュール20ml、ジンジャー・エール(適量)、ライム・スライス(ビルド) ※米国カリフォルニア州オークランドのバーテンダーが考案したと伝わる。1946年に出版されたVictor Vergeronのカクテルブックには「Mexican El Diablo」として紹介されている。Vergeron自身のオリジナルではないかという人もいるが、裏付ける資料は確認されていない。1960年代後半からは、単に「El Diablo」として紹介されることが多くなり、現在ではこの名前で定着している。【ご参考】過去のBlogでの関連ページハリケーン(Hurricane) (1940年代、考案者は不詳) ホワイト・ラム15ml、ダーク・ラム15ml、レモンジュース10ml、パッションフルーツ・シロップ7.5ml、グレナディン・シロップ2tsp、オレンジジュース5ml、パイナップルジュース5ml(シェイク)、オレンジ・スライス&チェリー=飾り ※ニューオーリンズの「パット・オブライエンズ・バー(Pat O’Brien’s Bar)発祥と伝わる。★パロマ(Paloma) (1950年代、考案者は不詳) テキーラ40ml、グレープフルーツジュース20ml、トニックウォーター30ml、グラスの縁を塩でスノースタイルに ※メキシコでの人気スタンダードカクテルの一つ。同国テキーラ村地区で誕生したと伝わる。バラクーダ(Barracuda) (1950年代後半~60年代前半、考案者=ベニート・クッパリ<Benito Cuppari>) ラム(ハバナクラブ3年)45ml、ガリアーノ15ml、パイナップルジュース 45ml、ライムジュース7.5ml、シロップ少々。シェイクしてシャンパンで満たす ※地中海クルーズの客船上のバーで働くクッパリ氏が考案したと伝わる。同氏は1966年、このカクテルでコンペに出場し、何かの賞をもらったという。イエロー・バード(Yellow Bird)(1960年代、考案者は不詳) ハバナクラブ3年20ml、バカルディ・ホワイト20ml、バナナ・リキュール15ml、ガリアーノ10ml、オレンジジュース45ml、パイナップルジュース25ml、レモンジュース5ml(シェイク) ※ハワイの「ハワイアン・ヴィレッジ」にあるシェル・バー(Shell Bar)で誕生したと伝わる。ゴールデン・ドリーム(Golden Dream) (1960~70年代、考案者=レイモンド・アルヴェラス<Raimondo Alveraz>) トリプル・セック25ml、ガリアーノ25ml、オレンジジュース40ml、生クリーム25ml(シェイク)※4つの材料を等量にするレシピも ※マイアミの「オールドキング・バー(Old King Bar)」のアルヴェラス氏が考案したと伝わる。★ペイン・キラー(Pain Killer) (1970年代初め、考案者=ダフィニー・ヘンダーソン<Daphne Henderson>) ダーク・ラム(パッサーズ・ネイビー・ラム)30ml、パイナップルジュース60ml、オレンジジュース15ml、ココナツミルク(またはココナツ・リキュール)15ml、クラッシュド・アイス、ナツメグ・パウダー=最後に振りかける(シェイク) ※「痛み止め」という変わった名前を持つカクテル。1990年代以降、世界中で注目を集めるようになってきたが、考案されたのは、1970年代初めで、発祥はカリブ海に浮かぶ英領ヴァージン諸島の一つ、ヨスト・ファン・ダイク(Jost Van Dyke)島と伝わる。パッサーズ・ラム社のHPによれば、ダイク島の「ソギ―ダラー・バー(Soggy Dollar Bar)」のオーナー・バーテンダーで、英国人女性のダフィニー・ヘンダーソンが考案したという。 後日、「ペイン・キラーの美味しさ」の噂を聞いたパッサーズ・ラムのオーナー、チャールズ・トビアス(Charles Tobias)が、ヘンダーソンに「レシピを教えてほしい」と頼んだが断られた。しかし、トビアスは「調合されたサンプル」を入手し、2年がかりで味を再現して、世界中のバーに紹介していったという。 「ペイン・キラー」の普及には、ドイツ・ミュンヘンにある「パッサーズ・ニューヨーク・バー」(1974年創業)が大きく貢献したことで知られており、現在でも同店の看板カクテルになっている。【ご参考】過去のBlogでの関連ページフレンチ・コネクション(French Connection) (1971年、考案者は不詳) コニャック45ml、アマレット23ml(シェイクまたはビルド)※コニャックではなく普通のブランデーだと「Godchild」というカクテルになる。 ※1971年、映画「フレンチ・コネクション」の公開を記念して考案されたと伝わる。初出文献は、1977年に出版された「Jones Complete Bar Guide」。ジャングル・バード(Jungle Bird) (1973年、考案者=ジェフリー・オン<Jeffrey Ong>) ダーク・ラム45ml、カンパリ23ml、パイナップルジュース45ml、ライムジュース15ml、デメララ・シロップ15ml(シェイク) ※マレーシア・クアラルンプールのヒルトン・ホテル内「バー・アヴィアリー(Bar Aviary)」のバーテンダー、ジェフリー・オン氏が考案したと伝わる。★アマレット・サワー(Amaretto Sour) (1974年、考案者は不詳) アマレット45ml、レモンジュース23ml、シロップ1tsp、卵白(シェイク)、飾り=レモン・ツイスト、マラスキーノチェリー、ロック・グラスで提供 ※米国のアマレットの輸入業者が1974年に考案したと伝わる。本格的に普及したのは1980年代以降。近年の欧米の人気ランキングでは常に上位にランクされている。 なお、2012年にオレゴン州のジェフリー・モーガンタラー(Jeffrey Morgenthaler)というバーテンダーが上記レシピにバーボンを加える別バージョンのアマレット・サワーを考案し発表。若い世代のバーテンダーに支持されたこともあって、現在ではオリジナル・レシピと同じくらい普及している。レモン・ドロップ・マティーニ(Lemon Drop Martini) (1970年代、考案者=ノーマン・ジェイ・ホブディ<Norman Jay Hobday>?) シトロン・ウオッカ60ml、トリプル・セック7.5ml、レモンジュース20ml、シロップ15ml、グラスの縁を砂糖でスノースタイルに(シェイク) ※サンフランシスコ発祥と伝わる。考案者ではないかと伝わるホブディ氏については詳細は不明。フェルナンディート(Fernandito) (1970年代、考案者は不詳) フェルネット・ブランカ(リキュール)50ml、氷を入れたグラスに入れ、コーラで満たす(ビルド) ※アルゼンチン・ブエノスアイレス発祥。考案者はブエノスアイレスのバーテンダー、Oscar Becerraとも伝わるが、裏付ける資料は確認されていない。★ブランブル(Bramble) (1980年代半ば、考案者=ディック・ブラッドセルラス<Dick Bradsell>) ジン40ml、レモンジュース15ml、シロップ10ml、ブラックベリー・リキュール(クレーム・ド・ミュール)10ml。シェイクして、クラッシュド・アイスを入れたロック・グラスに。レモン・スライス&ブラックベリーの実=飾り。 ※ロンドンの「フレッド・クラブ(The Fred's Club)」のバーテンダー、ディック・ブラッドセル氏(1959~2016)が、故郷・ワイト島の香ばしいブラックベリー畑にインスピレーションを得て考案したと伝わる。今日でもなお数多くのカクテルブックで取り上げられる「モダン・クラシック」の一つ。ブラッドセル氏は80~90年代に数多くの素晴らしい「モダン・クラシック」を創り出したことで知られる。 <下>へ続く。
2023/04/18
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最近立て続けに観た3作の邦画について、取り急ぎ感想と独断での評価(★5つで満点)を--(それにしても、映画も結構観ているんだけど、この日記で映画評を書くのはほんとに久しぶりだなぁ…さぼっていて、すみません)。※「あらすじ」部分のデータは公式HP等から引用しました。多謝です! ◆八日目の蝉 <あらすじ>不倫相手の子を堕胎し、その後捨てられた野々宮希和子は、その不倫相手である秋山丈博と妻の間に生まれた生後6カ月の恵理菜を誘拐する。そして、姿を隠しながら恵理菜を育てるが、4年間の逃亡の末、ついに小豆島で逮捕される。映画はこの希和子の判決の場面から始まり、現在の恵理菜と、過去の事件(回想)が平行して描かれる。 法廷で求刑が告げられた後、希和子は静かにこう述べた。「4年間、子育ての喜びを味わわせてもらったことを感謝します」と。一方、21歳の大学生となった恵理菜は、解放後、初めて実の両親に会ったが、「私たちこそが正真正銘の家族だ」と言われても実感が持てなかった。誰にもあまり心を開くことなく、恵理菜は家を出て一人暮らしを始める。 そんな中、岸田という妻子のある男に出会い、好きになったが、ある日、自分が妊娠していることに気づいた恵理菜の心は揺れる。そんな頃、恵理菜のバイト先に安藤千草という女性ルポライターがたびたび訪ねてくる。千草はあの誘拐事件を本にしたいという。恵理菜は放っておいて欲しいと思いながらも、なぜか千草を拒絶することが出来なかった。千草に励まされながら、恵理菜は今までの人生を確認するように、希和子との逃亡生活をたどる旅に出る。 直木賞作家・角田光代の原作小説を、井上真央、永作博美の主演で映画化したヒューマンサスペンス。監督は「孤高のメス」の成島出。 <評> ★3つ 結末にはあえて触れないが、映画の結末は原作とほぼ同じだという。そして、タイトルの意味も含め、いろんな解釈がネット上で飛び交っている映画でもある。そして映画を観た僕も、原作者や監督は結局何が訴えたかったのか、何を描きたかったのかがよく分からなかった(それくらい、観る人によって解釈が分かれる、難解な映画である)。 4歳まで愛情を持って大事に育てられれば、たとえそれが容疑者であっても、完全な憎しみなんて持ち得ないだろう。それが一つのテーマであれば、なぜ出所後の希和子と恵理菜を再会させなかったのか、疑問が残る(原作では、少しだけ再会する場面が描かれているというが)。 子どもをさらったのは、いくら「捨てた相手への復讐だ」「赤ちゃんを見て愛情が沸いた」とか言い訳しても、犯罪には変わりない。だが、希和子だけに罰を与え、元々の原因をつくった勝手な男どもに何ら教訓(罰)を与えていないことにも、説得力を欠く。 原作はどうなんだろう? 僕には、尻切れトンボのようなシーンで終わったことも含め、欲求不満が残る映画と言うしかない。映画は、やはりエンターテイメントである。小説としてはそれなりによくできた作品だったのかもしれないが、結局は、映画化するには無理があったのだろう。まぁ、ヒマならレンタルで借りて一度ご覧ください(永作博美の演技だけは絶品です)。 ◆阪急電車~片道15分の奇跡~ <あらすじ>ある日、結婚式に出席したOLの翔子は、花嫁と見間違えるような純白のドレスで現れ、新郎新婦を唖然とさせる。それは、彼女の復讐だった。会社の同僚でもある婚約者を後輩に寝取られた翔子。別れ話を切り出してきた婚約者に出した条件が、結婚式への出席だった。 披露宴会場を後にした翔子は、帰宅途中の電車で1人の老婦人が声をかけてくる。その老婦人とは、曲がったことの嫌いな時江だった。孫の亜美と電車に乗っていたところ、純白のドレスに引き出物というチグハグないでたちの翔子が気になって、声をかけたのだった。 女子大生ミサの悩みは、恋人カツヤのDV。2人で同棲するための物件を見に行く途中、電車に乗り合わせたドレス姿の翔子のことを話しているうちに口論となり、カツヤはミサを突き飛ばして降りてしまう。それを見ていた時江が吐き捨てた「くだらない男ね」という言葉で、ミサは別れを決意するが…。 また、セレブ気取りの奥様グループに嫌々付き合っている庶民派主婦の康江は、今日も高級レストランでのランチに誘われ、胃痛を我慢して出かける。電車内で傍若無人に振舞う奥様グループに肩身の狭い思いをしていたのだが。 一方、地方出身で都会の雰囲気に馴染めない大学生の権田原美帆と圭一。ある日、電車の中で出会った2人だったが、その距離は近づくのだろうか。また、大学受験を控えた女子高生の悦子は、人はいいがアホな社会人の竜太と付き合っている。プラトニックな関係は保ち続けていたが、ある日、高校の担任から第一志望の大学は難しいと言われ、自暴自棄になって竜太とラブホテルに向かう。 「フリーター、家を買う。」「図書館戦争」などで知られる人気作家・有川浩の原作小説を映画化。兵庫・宝塚市の宝塚駅から西宮市の今津駅までを結ぶ阪急今津線を舞台に、婚約中の恋人を後輩社員に奪われたアラサーOL、恋人のDVに悩む女子大生、息子夫婦との関係がぎくしゃくしている老婦人らの人生が交錯する。片道15分のローカル線で起きる小さな奇跡の数々を描くヒューマンドラマ(監督は関西テレビ出身のドラマ演出家で、この作品が映画監督デビュー作となる三宅喜重)。 <評> ★4つ半 映画の舞台である阪急・今津線は、兵庫県の阪神地域に住む僕にとっても身近な路線である。映画に登場するシーンも馴染みのところがほとんど。これは観に行くしかないと思って出かけた。 映画自体は、どうってことないいくつかの話をつなぎ合わせたオムニバス映画なのだが、それがみんな、微妙に絡み合っていて結末につながっていく。テンポがよくて、構成(演出)が上手いので、原作の映画化としてはとても成功しているだろう。一言で言えば、観た後、あったかい気持ちになれる、後味のとてもいい映画だ。こういう結末のオムニバス映画は、以前に観た「大停電の夜に」にも似ているが、それ以上の出来だと思う。 出演者について言えば、一番輝いていたのは、他でもない老婦人(宮本信子)の孫役をしていた芦田愛菜ちゃん。この子は本当に凄い! 戸田恵理香、南果歩、玉山鉄二、谷村美月は関西出身なので、関西弁が自然で聞いていても気持ちがよかったが、宮本信子の関西弁は違和感がいっぱい(主演の中谷美紀は「関西以外の出身で、関西でOLしている」という設定らしいのでまぁ許そう)。 関西在住・関西出身者の方は必見の映画だと思うが、関西以外の方でも十分楽しめる上質のエンターテイメントだ。ぜひおすすめでーす(ちなみに僕は、この映画、出張先の東京・有楽町マリオン内の映画館で観ましたが、結構お客さん入っていましたぞ)。 ◆プリンセス トヨトミ <あらすじ>7月8日金曜日、午後4時――大阪が全停止した。遡ること4日前の月曜日。東京から大阪に3人の会計検査院調査官がやって来た。税金の無駄遣いを許さず、調査対象を徹底的に追い詰め“鬼の松平”として怖れられている松平元。その部下で、天性の勘で大きな仕事をやってのけ“ミラクル鳥居”と呼ばれている鳥居忠子、日仏のハーフでクールな新人エリート調査官、旭ゲーンズブール。 彼らは順調に大阪での実地調査を進め、次の調査団体のある空堀(からほり)商店街を訪れる。その商店街には、ちょっと変わった少年少女がいた。お好み焼き屋「太閤」を営む真田幸一と竹子夫婦の一人息子・真田大輔は、女の子になりたいという悩みを抱えていた。その幼馴染・橋場茶子は、大輔とは対照的に男勝りでいつも大輔を守っていた。 そんな商店街を訪れた調査員一行は、財団法人「OJO(大阪城跡整備機構)」に不信な点を感じる。だが、徹底的な調査を重ねるも、経理担当の長曽我部にのらりくらりとかわされ、諦め始めた鳥居も「これでOJOが嘘をついているとしたら、大阪中が口裏を合わせていることになりますよ」と不満をもらす。 そのとき、松平の脳裏にある考えが閃いた。「そうだ、大阪の全ての人間が口裏を合わせている」。意を決して再びOJOを訪れた松平の前に現れたのは、お好み焼き屋「太閤」の主人・真田幸一。そして「私は大阪国総理大臣、真田幸一です」と発せられたその言葉に松平は耳を疑った。 「鴨川ホルモー」などで知られる人気作家・万城目学の直木賞候補になったベストセラーを映画化。1615年の大阪夏の陣で断絶したはずの豊臣家の末裔(まつえい)が今も生きつづけ、大阪の男たちは400年もの間その秘密を守り続けていた。国家予算が正しく使われているかを調査する会計検査院の精鋭3人は、ふとしたことからその真実を知ってしまい、大阪の公共機関や商業活動など、あらゆる機能が停止する一大事件に巻き込まれていく(監督は木村拓哉主演の「HERO」や、テレビドラマ「古畑任三郎」シリーズで知られる鈴木雅之)。 <評> ★4つ 関西を舞台にした映画が相次いでいる。なぜか分からないが、東京の映画関係者にとっては、エンターテイメントの舞台(テーマ)としての関西に、僕らの知らない魅力を見ているのだろう。それはともかく、「全編大阪ロケ」と銘打ったこの映画は大阪の名所がてんこ盛り(唯一、鶴橋が出てこなかったのは不満だが)。とくに関西以外の方におすすめしたい。 荒唐無稽過ぎるプロットが故、原作の小説や脚本としての評価はあえて避けるが、映画に出てくるような「大阪国民」が、徳川に滅ぼされた400年後も、豊臣家(秀吉)へのシンパシーを抱いているいるという点(大阪人だけじゃなく、僕も含めた関西人に広く共通するだろう)は、おそらくは東京人には理解できないものだろうが、濃淡の違いはあれ、それは大阪人(関西人)にとっては、「阪神タイガース愛」と共通するDNAと言ってもいいものだろう。 歴史に「たら・れば」はないが、もし秀吉が家康に勝って、大阪幕府が出来て大阪が首都がなっていたことを想像すると、僕は、やはり大阪はNo.2で良かったとつくづく思う。今回の東日本大震災が教えた一つの教訓は、やはり行き過ぎた一極集中はダメだということだ。大災害が起こった時のバックアップとして、やはり政治も経済も機能は出来る限り、二眼レフ化すべきだろう。 なお、映画としてはそれなりに面白かったが、キャスティングについては大いに異論がある。お好み焼屋の店主役でかつ「大阪国内閣総理大臣」役の中井貴一は重要な役柄だったが、大阪弁がやはり変! この役をやらせるなら、他にも例えば、豊川悦司、近藤正臣、内藤剛志、佐々木蔵之介のような、まともな関西弁をしゃべれる関西出身の俳優がいただだろう。あえて中井貴一を起用したのは理解に苦しむ(これは中井の妻役だった和久井映見についても言える)。この映画が画竜点睛を欠いたとしたら、この二人のキャスティングだろう。 こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/06/18
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◆フェノール値 & ppm って何だ? モルト・ウイスキーの味わいを表現する形容詞に、スモーキー(smoky)、ピーティー(peaty)という言葉があります。そして、「スモーキーさ」「ピーティーさ」の程度を表す数値として、(あまり一般的ではありませんが)しばしばフェノール値という言葉が登場し、「ppm」という単位が使われます。最近では、ウイスキーのパンフレットやラベルの説明にもお目見えするようになりました。 しかし、「フェノール値とかppmとかって何なの?」と聞かれて、正確に答えることが出来る人は、ウイスキーに詳しいバーのマスターやバー業界関係者でも、意外と少ないのが現状です。そこで、自分なりに得られるだけの資料を使って、友人のサポートも受けながら、精一杯まとめてみました(※お読みになってもし何かお気づきの点があれば、ご指摘頂ければ幸いです)。 1.ピートが生むスモーキーさ スモーキーなウイスキーが誕生するためには、ピート(泥炭)、原材料の大麦、酵母、仕込み水、樽の種類などいろいろな要素が絡んできますが、なかでもピートと原材料の大麦の影響が大きいと考えられています。ピートはヒースなどの野草や灌木などが長い歳月で堆積して炭化したもので粘土状のものです。スコットランドでは昔から、掘り出して乾燥させ、冬季には貴重な燃料源として燃やして暖房に使ったりしています。 スモーキーなウイスキー造りの際には、発芽後の大麦(モルト)をしばしばピートを燃やしてその煙と熱で乾燥させます(逆に、最終商品として「スモーキーなウイスキー」を造らない場合は、ピートは使いません)。ピートはスコットランドの北部や南部、島部など広い地域で採掘されますがその成分は産地によって違います。アイラ島などはピートに海藻や貝殻、海の生物、海水が結構含まれているため、燃やすと燻製香、ヨード香が強く出ます。一方、内陸部のピートは灌木や草花(ヒースなど)といった植物系の成分が多いのでスモーキーさも穏やかです。ピートのどの部分(成分)が、どのようなスモーキーさを生み出すのかは、まだよく解明されていません。 2.製麦はほとんどがモルトスター頼み ただし、スコットランドでも現在はほとんどの蒸留所が、大手のモルトスター(製麦会社)から乾燥済みの原料大麦を購入しており、フロアモルティング&乾燥を自ら行っているところは稀です(ボウモア、ラフロイグ、キルホーマン、ハイランドパーク、スプリングバンクなど7~8カ所程度です)。そして、フロアモルティングしている蒸留所でもウイスキー造りに使う大麦の全量の製麦はできないため、多かれ少なかれモルトスターから購入しています。 モルトスターは蒸留所からの注文に応じて、ノン・ピーティド大麦、ピーティド大麦を販売し、ピーティド(焚き込み)のレベルも、例えば「40ppm程度で」などの注文に応じています(自社生産している蒸留所は、過去の経験値からピートを燃やし乾燥させる量や時間を調整し、目指すppmレベルに近づけます)。 3.スモーキーさの「一つの指標」 ウイスキー造りの世界では、このピート由来の香り=「スモーキーさ」はフェノール値の数字「ppm」という単位で表されます。すなわち、ppmは「スモーキーさの指標」であり、「フェノール化合物の濃度」です(ppmは「parts per million」の略。1ppmは0.0001%、1%は10000ppmに相当します)。 ピートを燃やして乾燥された大麦は、そのピートの種類や量、乾燥時間などで一般的に、ライト・ピーティド大麦(一般に5ppm以下)、ミディアム・ピーティド大麦(6~19ppm)、ヘビリー・ピーティド大麦(20ppm以上)、スーパー・ヘビリー・ピーティド大麦(概ね80ppm以上)と分けられます。 ピートの使用量は一般的に、ヘビリーの場合で麦芽1トンに対して20~30kg、ミディアムで15kg、ライトで10kgくらいです(この部分の出典:集英社新書「日本のウイスキー 世界一への道」輿水精一&嶋谷幸雄 共著から。※ちなみに、日本国内の蒸留所は現在、ウイスキー用大麦麦芽のほぼ全量を海外から=主にスコットランドから=輸入しており、国産大麦を一部使っているのは秩父蒸留所のみ、国産ピートはニッカの余市蒸留所や新興の厚岸蒸留所が使用していますが、採掘規制もあり、使用量はごく一部です)。 なお、ピートで乾燥させない大麦は「ノン・ピーティド大麦」と呼ばれますが、ノン・ピーティドでも、ウイスキーの製造過程でピート層を通った仕込み水を使ったりするので、アイラ・モルトなどでは1~5ppm程度のフェノール値が検出されることがあります。 4.「スモーキーさ」を生む化合物 ppmは「フェノール化合物の濃度」と先ほど書きましたが、この化合物には様々な種類のものが存在します。代表的なフェノール(phenol)、クレゾール(cresol)以外にも、エチルフェノール(ethylphenol)、グアヤコール(guaiacol)など。いわゆる「スモーキーさ」を生むのは、クレゾール、エチルフェノール、シリンゴル(syringol)、キシレノール(xylenol)、ビニルグアヤコール(vynylguaiacol)という化合物が要因です。 通常は、出来たてのウイスキーのフェノール値を測定する場合、様々なタイプの検査機器、例えばHPLC(High Performance Liquid Chromatography=高効率液体クロマトグラフィー)や、GC/MS(ガスクロマトグラフィー<GC: Gas Chromatography>と質量分析計<MS: Mass Spectrometry>を組み合わせた測定機器)などを使いますが、上記のような様々な化合物の含有量の総量がフェノール値としてppmで表示されます。 5.フェノール値(ピートレベル)は何で測るのか フェノール値は、完成したウイスキーの液体そのものではなく、通常、ピートの燻煙で乾燥させた大麦麦芽を使って測ります。フェノール化合物はそれぞれ特有のにおいを持っていますので、含まれる割合によってウイスキーのにおいも異なります。それがウイスキーの個性とも言えます。ただ、フェノール値だけで「どの化合物がどれくらい含まれているか」を判断(数値化)することはできません。また、フェノール値(ppm)が高いからと言って、最終商品としてのウイスキーの「スモーキーさ」が強くなるという訳ではありません。 この理由には、いくつかの要因が指摘されています。例えば蒸留後、冷却して出来上がった原酒は通常、最初に出て来る部分と最後の残りの部分はカットされて、真ん中の部分(ミドルカット)のみ樽熟成に回されます。「前後の部分」をどの程度カットするかは、各蒸留所の製造方針によって違います。また、どのような種類の樽でどのくらいの期間、どのような環境で貯蔵・熟成するかによっても、最終商品のスモーキーさは変わってきます。 従って、(大麦麦芽段階での)フェノール値が高いほど「よりスモーキーな(臭い)ウイスキーになる」というのは迷信・誤解です。フェノール値100ppmのモルトウイスキーより、50ppmのモルトウイスキーの方がスモーキーだったということもしばしば起こります(例えば、フェノール値が軒並み100ppm以上の「オクトモア」より、50ppmのアードベッグの方がよりスモーキーさを感じるように)。 6.フェノール値(ppm)は、麦芽の乾燥時間で経験的に決めている? ここで私の友人で、職業柄「サイエンス・ライティング」に詳しい、ウイスキー愛好家の安部祥輔氏の示唆に富む見解を紹介しましょう。 安部氏は「私の中での仮説でしかないのですが、(各蒸留所が目指す)フェノール値は『ピートで麦芽を※時間乾燥させたから**ppm』というふうに乾燥時間で決めているような気がしています」と話します。 海外サイトを見ていると、フェノール値は「麦芽の乾燥の度合い」とか「ピートを焚きこんだ度合い」といった記述がけっこう見受けられます。安部氏ならずとも、単位がppmなので、濃度にばかり意識が向きます(実際にほとんどのサイトは濃度について言及しています)が、「なぜ乾燥度合いがppmなのか?」と疑問に思います。 安部氏は「しかしながらフェノール値は、フェノール化合物が含まれている実際の濃度ではなく、単にピートを使った乾燥時間と考えると、腑に落ちることがたくさんあります。経験的に、製麦業者や蒸留所の製麦職人は、乾燥時間からおおよその数値を類推しているのではないでしょうか。乾燥時間が長ければ、麦芽に含まれるフェノール化合物量が増えてフェノール値が大きくなるのでしょうが、含まれる化合物の割合はこの値からはわかりません」と語ります。 なので繰り返しになりますが、ppm値が大きいからといってスモーク臭が強いわけではなく、「含まれるフェノール化合物の大半がクレゾールならボウモアのような香り、すなわち消毒薬のような匂い」になる、一方で、「グアヤコールが多ければ(ラフロイグのような)正露丸のような香り」がする、などという合理的な説明ができます。ppmは100万分の1単位という極微量単位だから測定誤差も考慮すれば、乾燥時間でppm値をざっくりと決めたとしても罪はないでしょう。 7.フェノール値の定義(算出方法)と測定方法は不明確 「どこを探してもフェノール値の定義と算出方法に関する記述が見つけられない」。ウイスキー愛好家から、しばしばこういう声を聞きます。フェノール値の算出方法としていくつかの手法が考えられますが、個々のメーカー(蒸留所)は、具体的にどのように測定・算出しているのかは公表していません。 安部氏は、以下のような手法を推測しています。 議論の前提として、そもそもフェノール値とは、測定対象(モルトやウイスキー)から検出されたすべてのフェノール化合物の濃度をすべて合算した数値なのか、何種類かのフェノール化合物をあらかじめ決めておいて、それらの濃度を合算したものなのか、それが判然としません。どのHPを探しても記述が見つけられません。いずれの方法でもない可能性もあります。 あるメーカー(蒸留所)が、例えば「以下のようなフェノ―ル化合物の濃度の合計値」を自社ウイスキーのフェノール値とするとあらかじめ決めていて、 フェノール(phenol)5ppm、 o-クレゾール(o-cresol)4ppm、 m-クレゾール(m-cresol)2ppm、 p-クレゾール(p-cresol)3ppm、 グアヤコール(guaiacol)8ppm、 4-エチルフェノール(4-ethylphenol)9ppm、 4-エチルグアヤコール(4-ethylguaiacol)10ppm だった場合、 合計値(合算値)である41ppmがそのウイスキーのフェノール値ということになります。 一つ手掛かりとなるのは、日本の大手メーカー(蒸留所)の手法です。先に紹介した輿水氏&嶋谷氏の共著のなかでは、「(サントリー社は)輸入された麦芽を、定性的にはガスクロマトグラフィー分析によって、ピーティングの度合いを調べ、定量的には全フェノール値、揮発性フェノール値を用いる」と紹介されています。 そこで、ここでは前者の算出方法、すなわち「検出されたすべてのフェノール化合物の濃度のすべてを合算」した場合を説明してみましょう。 ウイスキー中のフェノール値を算出すると、ピート由来だけではなく樽由来のフェノール化合物、さらに双方に由来するフェノール化合物とエチルアルコール(言うまでもなくウイスキーの主成分)との反応物であるフェノール化合物など、すべての製造工程で生成したフェノール化合物の濃度が算出されるわけです。 だとすれば(樽由来のフェノール化合物はスモーキーさとは縁遠いものもありますので)、フェノール値をもってスモーキーさを議論することはまったく不毛であることは誰にでも理解できることでしょう。 完成品としての(ニューポットではなく樽熟成後の)ウイスキーのフェノール値に言及している記事も多々あります。しかし、モルト中のフェノール値を算出するにしても、いったい何種類くらいのフェノール化合物が含まれるのか分かりませんが、スモーキーさの要因となる化合物とそうではない化合物のすべての濃度を算出することにあまり合理性が感じられません。従って、モルト(乾燥麦芽)中ではなく完成品のウイスキー中のフェノール化合物を、同じ指標で語ることはナンセンスだということです。 8.フェノール値の測定・算出方法とは? 「フェノール値の定義(算出方法)についての記述が見つからない」と書いているのは、ここまでの考察や推察を含んでの話です。ウェブサイト上でどんなに探しても「フェノール化合物の濃度」とか「ガスクロマトグラフィーを使って測定する」というレベルの域を超える記述は見当たりません。 もちろん分析化学や環境化学を専門としている研究者の文献を探せば、サイエンスに基づいて厳密に書かれた論文はいくらでも見つかりますし、ウイスキーの成分分析に関する論文もいくらでも見つけられますが、フェノール値の定義(算出方法)はどこにも書かれていません。 測定方法についても、やや専門的過ぎるかもしれませんが、改めて少し確認しておきましょう。専門家が紹介している様々な情報から推察すると、ウイスキーに含まれる成分の分析では、ガスクロマトグラフィー(GC: Gas Chromatography)単体ではなく、質量分析計(MS:Mass Spectrometry)を組み合わせた「GC/MS」や、高効率液体クロマトグラフィー(HPLC:High Performance Liquid Chromatography)と「MS」を組み合わせた「LC/MS(液体クロマトグラフィー質量分析法)」が用いられていることが多いのではないかと思います。GC単体やHPLC単体で調べるよりも、精度が高く分析も簡単だからです。 ただ、いろんな文献を検索して読んでいると、近年は、「GC/TOFMS(ガスクロマトグラフ飛行時間質量分析計=最新の分析機器です)」もよく使われているような印象です。 ちなみに、10社近くのモルトスターのサイトを調べてみると、多くの会社が「IoB Methods of Analysis」という測定手法を採用しているようです。これはイギリスの「The Institute of Brewing and Distilling」という業界団体が推奨する方法のようです(同法人のサイトには分析法の詳細が記載されているようですが、会員制サイトなのでIDとPWがなければアクセスができません。残念…)。 モルトスターは、IoB Method以外にもThe American Society of Brewing Chemists(ASBC)、The European Brewing Convention(EBC)という業界団体が推奨する分析法を使っていることもわかりました。国や業界(ビール、ウイスキー、ワインなどなど)ごとに基準があるようです(以上、測定方法については、しっかりとした「裏取り」はしていないうえでの記述であることをお含みおきください)。 ただしそもそも、こうしたモルトスターや蒸留所が、どのようにサンプリング(試料採取)しているのか、1回の測定に使用するモルトは何グラムか、どのような試薬を使って対象化合物を抽出するのかなどの測定手順やルールは公表されていません。微量成分の分析を行うのであれば、モルトスター間で分析手法を統一しなければ、測定データのバラツキが大きくなってしまいますが、それも不明です。 このように考えると、誤解をおそれずに言えば、本当にモルトスターや蒸溜所が(フェノール値の)濃度をきちんと測定しているのだろうか、データの信ぴょう性はどうなのかという疑問すら生じます。 9.結び 本稿を締めくくるにあたっては、やはり、安部氏の言葉を紹介しておきたいと思います。 「個人的には、やはりピートの焚き具合でppm値を決めていると思いたい。そのほうがサイエンスの手法で数値をはじき出すよりも、家内制手工業的なウイスキー製造にロマンを感じるからです。自社でフロアモルティングをやっている蒸溜所に、GC/TOFMSのような最新の分析装置がセッティングされていたら興ざめじゃないですか」。 私もまったく同感です。ウイスキーは数字で楽しむ(飲む)ものではないと思います。ウイスキーが嗜好品である以上、何でも機械や科学で決めてしまうより、蒸留所の職人たちが長年の経験を活かして、原材料や仕込み水、発酵条件、樽や熟成期間、風土等という様々な「偶然」と向き合いながら造る方が、より魅力的なウイスキーが出来ると信じています。 【御礼】この稿の作成にあたっては、本文中にも紹介したサイエンス・ライティングに詳しい安部祥輔氏のほか、堀正明氏(ウイスキー文化研究所認定ウイスキーセミナー講師)、大北賜氏(大阪「リトル・バー」マスター、※現在は「マスター・オブ・ウイスキー」)の御三方に貴重な情報、ご助言を頂きました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2020/03/08
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93. 横 浜 (Yokohama)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ジン(30)、ウオッカ(15)、オレンジ・ジュース(15)、グレナディン・シロップ(10)、アニス酒(アブサン、パスティス、ぺルノーなど)1~2dash 【スタイル】シェイク 明治の開国後、日本は欧米諸国との関係を深めていきます。そして1896年(明治29年)には、日本郵船が欧州との間に初めて客船「土佐丸」で定期航路を開きます。 1902(明治35)年には、同社は欧州極東往航同盟への正式に加入。最盛期には、他社も含めて20隻近い大型客船が日本(横浜や神戸など)と欧州を結ぶ航路で定期運航されていたということです(欧州まではスエズ運河経由で約50日も!かかりました。客船での欧米との定期航路は戦後、航空機の発達で姿を消します)。 このカクテル「Yokohama」は1910年代前半以前に、横浜(居留地?)のホテルバー、あるいは横浜を母港に運航された外洋大型客船内のバーで生まれたという説が一般的です。欧州にもほぼ同じ時期に伝わっています。しかし残念ながら、根拠のある資料や考案者などの詳細は一切伝わっていません。 欧州航路の拠点港・横浜の名を冠したカクテルが考案されたことは何ら不思議ではありませんが、その誕生の場所としては、個人的には、日本船籍の大型客船内のバーの可能性が高いのではないかと推察しています(当時、外国の船会社の大型客船が遠い日本にまで就航していたという話は、調べた限りは確認できませんでしたので、おそらくは日本船籍の大型客船でしょう)。 濃いオレンジの色合いは「横浜港の沖合いから昇る朝陽をイメージした」とも言われていますが、「ジンやウオッカ、アブサンという複数の国の酒をベースにしていることからも、豪華客船内のバーが”国際航路”をイメージして創作し、Yokohamaと名付けたのでは」という見解もあります。ちなみに日本の都市名が付いたカクテルはいくつかありますが、国際的にも知られているのは、このYokohamaだけです。 活字となったYokohamaが初めて確認できるのは、世界初の実用的カクテルブックとも言われるハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)の「ABC of Mixing Cocktails」(1919年刊)です。1910年代の欧州で、このカクテルがすでに認知されていたことがうかがえます。 マッケルホーン本でのレシピは「ジン3分の1、ウオッカ6分の1、オレンジ・ジュース3分の1、グレナディン・シロップ6分の1、アブサン1dash(シェイク)」となっています。 ご参考までに、1930~40年代の欧米のカクテルブックでYokohamaがどのように紹介されているのかを、ざっと見ておきましょう。・The Savoy Cocktail Book(Harry Craddock著、1930年刊)英 ドライ・ジン3分の1、ウオッカ6分の1、オレンジ・ジュース3分の1、グレナディン・シロップ6分の1、アブサン1dash(シェイク)・World Drinks and How To Mix Them(William Boothby著、1934年刊)米 ジン3分の1jigger、ウオッカ、オレンジ・ジュース、グレナディン・シロップ各1Spoon(※このSpoonのサイズは不明)、アブサン1dash(シェイク)・The Official Mixer's Manual(Patrick Gavin Duffy著、1948年刊)米 ドライ・ジン3分の1、ウオッカ6分の1、オレンジ・ジュース3分の1、グレナディン・シロップ6分の1、ペルノー1dash(シェイク) 最後に、近年のカクテルブック(掲載例は意外に少ないです)ではどのようなレシピになっているか、一例を紹介しておきましょう。・Complete World Bartender Guide(Bob Sennett編、2007年刊)米 ジン4分の3oz(オンス)、ウオッカ2分の1oz、オレンジ・ジュース2分の1oz、グレナディン・シロップ2分の1oz、ペルノー1dash(シェイク) なお、Yokohamaは日本生まれのカクテルですが、なぜか国内のカクテルブックで紹介されるのは1930年代に入ってからです。バー業界でも知名度のあるカクテルですが、残念ながら、カウンターで注文されるシーンはあまり見かけません(唯一、横浜のバーではご当地カクテルとしてそれなりに飲まれているようですが…)。【確認できる日本初出資料】「スタンダード・カクテルブック」(村井洋著、NBA編 1936年刊)。レシピは「ドライ・ジン3分の1、ウオトカ6分の1、オレンジ汁3分の1、グレナディン・シロップ6分の1、アブサント1滴。以上をよく振蕩(シェイク)してコクテール・グラスに注いで供す」と、サヴォイ・カクテルブックと同じです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/12/09
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先日、運良く1980年(昭和55年)に出版された「社団法人 日本バーテンダー協会(当時はJBA、現NBA)五十年史」という本を、古書店で手に入れることができました。 1929年(昭和4年)5月の協会創立以来の歴史や、JBAが関係したカクテルコンクールの歴代入賞者と作品などが詳しく紹介されています。週刊誌ほどのサイズで、約200頁です。 ちなみに現NBAは1987年(昭和62年)、JBAから分離独立(1955年のこと)したANBA(全日本バーテンダー協会)と合併し、誕生しました(現NBAとしての歴史は、まだ30年余しかないことが分かります。意外でした)。 個人的には、ライフワークとして、古い時代のカクテルのことをあれこれ調べているので、どうしても昔のバーテンダーやカクテルコンクールについて、正しい情報を知る必要に迫られます。 「あの有名なカクテルをつくられたバーテンダーは、当時どこのお店に勤めていたんだろうか?」「あの年のあのコンペでの1位は何というカクテルで、作者の名前と正確なレシピを知りたい」等々。 まだパラパラっと読んだだけですが、現在続けている「全面改訂版:カクテル--その誕生にまつわる逸話」執筆にも、大いに役立ちそうです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/07/28
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WEBマガジン「リカル(LIQUL)」連載 【カクテル・ヒストリア第34回】 謎多き「カクテルの貴婦人」ホワイト・レディ「ホワイト・レディ(White Lady)と言えば、1920年代に登場した代表的なクラシック・カクテルの一つ。このカクテルについては、二つの大きな謎が今も残されてる。一つは誰によって考案されたのか? もう一つは、二つの代表的なレシピのうち、卵白を入れるレシピはいつ頃、誰が始めたのか? ◆誕生については、少なくとも5つの説ホワイト・レディには、ジン・ベースにコアントロー(オレンジ・リキュール)、レモン・ジュースという基本レシピに加えて、卵白を加えるというレシピ(※味わいがなめらか、まろやかになる)がある。日本は前者が一般的だが、欧米では後者も珍しくない。誕生の経緯については、従来は以下の3つの説が伝わっていて、(1)と(2)が有力な説だった(写真左=ホワイト・レディには卵白入り<右>、卵白なし<左>の2種がある)。(1)パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー(Harry’s New York Bar)」のオーナー・バーテンダー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)が1919年頃、ロンドンのシローズ・クラブ(The Ciro’s Club)で働いていた時期に考案した。 (当初のベースはジンではなく、ブランデー、コアントロー、ペパーミント・リキュールというレシピだったが、マッケルホーン自身は、「1929年に(現在も伝わる)ジン・ベースへ変えた」と自著に記している)。(2)ロンドンのサヴォイホテル(The Savoy Hotel)「アメリカン・バー」のチーフ・バーテンダー、ハリー・クラドック(Harry Craddock)が1920年代に考案した。(3)フランス・カンヌのカールトン・ホテル(The Carlton Hotel)のバーで考案されたという説(WEB上で紹介されているが、時期や裏付け資料は示されていない)。ところが、2020年以降になって、欧米のカクテル専門サイトでは、4番目、5番目の説が散見されるようになった。(4)ロンドンのクアリーノ(Quaglino)・レストランのバーで誕生したという説(出典:2021年刊の『Oxford Companion to Spirits and Cocktail』=裏付け資料の明示はない)。(5)ロンドンのグロブナーハウス(Grosvenor House)・ホテル、ビクターズ・バーのチーフ・バーテンダー、ビクター・キャブリン(Victor Cabrin)が1929年に考案したという説(出典:英国の著名なカクテル専門サイト「ディフォーズ・ガイド(Difford’s Guide)」=画像右)。 ◆近年登場した「キャブリン説」への疑念ハリー・クラドックは、1930年刊の「サヴォイ・カクテルブック」にホワイト・レディを収録していることからして、少なくとも1920年代後半には同ホテルのバーで提供していたと考えるのが自然だろう。 1929年にベースをジンに変えたマッケルホーンはおそらく、クラドックのレシピが主流になった現状を知って、そのレシピに倣ったのだろう(ただし、分量比は少し変えているが…)。「キャブリン説」を示した「ディフォーズ・ガイド」はその根拠として、彼自身が登場した1934年の5月英国の新聞広告=写真左下=で、ホワイト・レディを「His White Lady being perhaps the most famous」とあたかもオリジナルのように紹介していることや、キャブリンのホワイト・レディへの関与を示唆する別の2つの新聞記事(1935年10月と1946年11月)を紹介しているが、いずれも「1929年考案」を裏付ける証拠にはならない。他にも、ここ数年、「キャブリン説」を紹介している専門サイトもいくつか登場しているが、残念ながら、それを裏付ける「一次資料」を示したサイトはない。なので現時点では、キャブリンという人物が何らかの形でホワイト・レディの発展に関わったことはあり得るとしても、クラドックやマッケルホーンを差し置いて、最初の考案者であるとはとても言えないと私は思う。さて、クラドックやマッケルホーンは、卵白を使わないレシピでホワイト・レディを提供していたが、一方でキャブリンは基本、卵白を使うレシピだったという。 ◆「卵白入り」は1930年代半ばからでは欧米で、卵白を使うホワイト・レディはいつ頃から普及し始めたのか? 初めて「卵白入り」を紹介したのは、1935年刊に米国で出版された「ミスターボストン・バーテンダーズガイド(Mr Boston Official Bartender’s Guide)」=写真右下=であるが、このホワイト・レディには生クリームも入っており、「卵白だけ」という意味で言えば、1946年刊の「ストーククラブ・バーブック(The Stork Club Bar Book)」が最初である(レシピは以下に)。ご参考までに、1930年代~60年代の欧米の主なカクテルブックで「ホワイト・レディ」がどのうように紹介されているか、ざっと見ておこう。・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英ドライ・ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1・「Mr Boston Official Bartender's Guide」(1935年刊)米ジン1.5オンス、生クリーム1tsp(ティースプーン)、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米 ジン1.5オンス、コアントロー4分の3オンス、レモン・ジュース半個分、卵白1個分・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ジン3分の2、レモン・ジュース6分の1、コアントロー12分の1、卵白1個分・「Booth’s Handbook of Cocktails & Mixed Drinks」(John Doxat著、1966年刊)英 ジン2分の1、レモン・ジュース2分の1、コアントロー2分の1、卵白1tsp ◆サヴォイホテルは今、「卵白入り」派ちなみに、サヴォイホテルの「アメリカン・バー」では1980年代以降、卵白入りのレシピでホワイト・レディを提供しているほか、現代の代表的なバーテンダー、チャールズ・シューマン氏も、その著書「シューマンズ バー・ブック(原題:Charles Schumann American Bar)」=2002年刊=では卵白入りのレシピを採用している。欧米のバーでは昔から、クラシック・カクテルに卵白や卵黄を使用するものが少なくなかった。それは、氷が貴重品であった時代、カクテルの味わいをなめらかにし、飲みやすくするための工夫の一つ(氷の代わりにはならないが)だったが、1906年、米国の食品医薬品局がサルモネラ菌による生卵の食中毒を指摘したことで、一時的に使用にブレーキがかかった(写真左上=1930年代前半頃のサヴォイホテル内の「アメリカン・バー」)。だが、1920年代の後半には、殺菌処理された生卵が流通するようになり、再び「卵白入り」のカクテルのバリエーションも増えていった。ホワイト・レディは日本には1930年代に伝わったが、カクテルブックで紹介されたのは50年代半ばになってから。日本のバーでは21世紀の現在でも、おそらく、卵白なしのホワイト・レディを提供しているところがほとんどだろう(生卵を扱うことを敬遠するバーテンダーが多いことが背景にある)。しかし、私のバー(Bar UK)では、クラシック・スタイルの味わいを再発見してもらうことを願って、ホワイト・レディは、お客様が卵白あり、卵白なしを選択できるようにしている。ぜひ、皆さんも機会があれば、「絹のように滑らかな」卵白入りホワイト・レディをぜひ楽しんでいただきたい。・WEBマガジン「リカル(LIQUL)」上での連載をご覧になりたい方は、こちらへ・連載「カクテル・ヒストリア」過去分は、こちらへ
2025/12/21
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遅ればせながら、バーUKでは、「エスプレッソ・マティーニ(Espresso Martini)」を本日から定番メニューにしました(これまでも、“裏メニュー”として、お客様の要望があれば時々作っていたのですが…)。 オン・メニューにするのを機会に、ベースになるウオッカ(アルコール度数40度)は、エスプレッソ用のコーヒー豆をあらかじめ漬け込んだ、特別な「インフューズド・ウオッカ(Infused Vodka)」を常時用意することにしました。通常は、普通のウオッカ&エスプレッソ・コーヒー&コーヒー・リキュールで作りますが、少しアレンジしてみました(と言っても私のアイデアではなく、バー業界の大先輩から教わったものです…(^^;)) 2枚目の写真のウオッカ・ボトル(写真下右)が、漬け込み後、約1週間経った状態です。見にくいですが、ボトルの底にはコーヒー豆が結構沈んでいます(豆は最初は浮いていますが、3~4日経つと沈んでいきます)。 エスプレッソ・マティーニは、お酒(ウオッカ)の強いアタックと苦味(コーヒー)、甘味(コーヒー・リキュール等)のバランスが絶妙な、素晴らしいカクテルで、食前酒にも食後酒にもピッタリの味わいです。ぜひお試しください! ちなみに、「エスプレッソ・マティーニ」が誕生したのは1983年。考案したのは英国のバーテンダーで、ディック・ブラッドセル(Dick Bradsell =故人、1959〜2016)という業界では結構有名な、天才的なカクテル・アーチストだった方です(私も先般、WEBマガジン「リカル<LIQUL>」の連載「カクテル・ヒストリア」で、彼をテーマに執筆しました。記事はこちらへ)。 比較的近年に考案された創作カクテルなのですが、その後、世界的に人気となり、シンプルな材料が故に、数多くのバーテンダーが普及に貢献し、今では欧米の人気カクテル・ランキングでは毎年常に上位に入るなど、「モダン・クラシック(スタンダード)」として揺るぎない地位を築いています。
2026/02/17
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転勤族にとって、その土地土地で暮らす楽しさはいろいろあるが、「食」の探求に加えて、僕は、方言とふれ合い、自分でも喋る面白さが好きだった。 かつて住んでいた徳島市では、阿波弁(徳島弁とも言う)が話されている。阿波弁と言っても、県内の地域によって、若干違いはあるのだが、有名なところでは、「~けんど」「~けん」に代表される語尾だ。(そう言えば、「けんど茶屋」という名前の居酒屋もあった)。 語尾の言葉も特徴的だが、接続詞の「ほなけん」(だから、だけど)、「ほなけんど」(しかし)なんて言葉も、頻繁に耳にする。女性は「です」の意味で、「~じょ」という言葉をよく使うが、これがすごく色っぽい。「ほうなんじょー」(そうなんですよ)と耳元で言われるととても艶っぽく、ゾクゾクっとする(と感じているのは僕だけかもしれないが)。 阿波弁は、関西弁とイントネーションはやや似ている。四国の他の3県と違って、関西の民放テレビすべての電波が届くという地理的な条件も影響したのかもしれない。だから徳島県人は、みんな小さい頃から「吉本新喜劇」を見て育っている(写真=徳島と言えば、やはり「阿波踊り」。老いも若きもお盆の4日間、踊って燃える)。 語彙にも関西弁と共通のものもたくさんある。例えば、「かく」(運ぶ)、「こすい」(ずるい)、「食べさし」(食べかけ)、「ちびる」(摩耗する)、「ちょける」(ふざける)、「なんぼ」(いくら)、「のーなる」(なくなる)、「見てくれ」(外見)、「よーけ」(たくさん)、「わや」(駄目、めちゃくちゃ)なんて言葉は、徳島の人は、阿波弁だと思っている人が意外に多いが、実は関西弁とほぼ同じ意味で、共に使う。 だから関西方面から転勤してきた場合、言葉の上では馴染みやすい土地とも言えるが、阿波弁でしか使われない意味で、使う言葉があるので要注意。 徳島へ転勤した僕が一番戸惑ったのは、ある病院に初めて行った際、看護師さんからいきなり、「せこいですか?」と聞かれた時。関西弁でも「せこい」という形容詞は使うが、「ケチ」とか「(お金に)きたない」「ずるがしこい」なんて意味でしか使われない。 しかし、徳島では(関西弁での意味で使うこともあるが)その「せこい」を、「苦しい」「しんどい」なんて意味で、かなり一般的に(!)使う。だから徳島でビジネスの相手から、「あんたの仕事もせこい仕事やねー」なんて言われても、決して怒ってはいけない。同情されているのだから…。 もう一つ忘れられない言葉。ある時、年配の男性2人連れAさん、Bさんと同席した。Aさんは「Bと僕はちんちんの仲ですけん」と僕に紹介した。僕の頭の中は混乱する。「えー! ちんちん??」。「この2人は、ひょっとしてゲイ友?」。 もちろん、そんな意味であるはずはない。答えを先に言うと、「ちんちん」とは阿波弁で「仲良し」という意味。ただし、このエピソードを徳島の30~40代の友人に話したら、「えー、そんな言葉、僕らの世代ではもう使いませんよー」と反応した。だから、阿波弁の「ちんちん」ももう死語になりつつあるようだ。
2004/12/20
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WEBマガジン「リカル(LIQUL)」連載 【カクテル・ヒストリア第36回】 似て非なるミリオン・ダラーとミリオネア「ミリオン・ダラー(Million Dollar)」=写真左=と、「ミリオネア(Millionaire)」=同右。共に、100~130年ほど前に誕生したと伝えられる有名なクラシック・カクテルだが、誕生の経緯について確実な記録は伝わっていない。そして、プロのバーテンダーでも、時々レシピを混同してしまうような、紛らわしいカクテルでもある。 ◆共に卵白を使うレシピが主流にまずは、この2つのカクテルの「現代の標準的なレシピ」を見てみよう(容量単位はml。スタイルはシェイク)。【ミリオン・ダラー】ジン(45)、スイート・ベルモット(15)、パイナップル・ジュース(15)、グレナディン・シロップ2tsp、卵白1個分【ミリオネア】は、ベースが違う3種類(ウイスキー・ベース、ラム・ベース、ジン・ベース)のものが伝わっている。・レシピ1=バーボン(またはライ)・ウイスキー(60)、ホワイト・キュラソー2dash、グレナディン・シロップ4dash、卵白1個分 ・レシピ2=ラム(15)、スロー・ジン(15)、アプリコット・ブランデー(15)、ライム・ジュース(15)、グレナディン・シロップ1dash ・レシピ3=ジン(40)、ペルノー(またはアブサン)(20)、アニゼット1dash、卵白1個分 ◆裏付ける一次資料が乏しい誕生の起源「ミリオン・ダラー」については、「1894年頃、横浜・外国人居留地にあった横浜グランドホテル内のバーで誕生したと伝わる。考案者はカクテル『バンブー』を考案したことで知られる同ホテルの支配人&バーテンダーであり、ドイツ系米国人のルイス・エッピンガー(Louis Eppinger)」=写真右(1900年頃?)=というエピソードが紹介されることも多い。この伝承を裏付ける文献史料は伝わっていないのだが、現代では、海外も含めて「エッピンガー考案説」を支持する見解が、なぜか多数派だ。一方、「百万長者」というめでたい名前を持つ「ミリオネア」も、「20世紀初め(1900~1910年代)に、英国で誕生した」と伝わる代表的な古典的なカクテルの一つだ。著名なカクテル研究家のデヴィッド・ワンドリッチ(David Wondrich)氏は、「1925年までのある時期に(ロンドンの)リッツ・ホテル内のバーで考案された」(出典:http://www.esquire.com/food-drink/drinks/recipes/a3759/millionaire-drink-recipe/)と書いている。ワンドリッチ氏の見解については、パリの「ハリーズ・バー」の創業者、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)氏が自著『ABC of Mixing Cocktails』(1919年刊)のミリオネアの項で、「ロンドンのリッツ・ホテルのバーのレシピ(ウイスキー・ベース)が基になった」と付記していることからも、おそらくは、このリッツ・ホテルが誕生に深く関わっていたことはほぼ間違いない。後で紹介する欧米での初出文献が1908年であることからも、少なくとも1900年代後半には登場していたと考えるのが自然だろう(写真左上=カクテル「ミリオネア」誕生の場所と伝わるロンドン・リッツホテル内のバー <(C)同ホテルのHPから>)。ミリオン・ダラーもミリオネアも、外国航路の客船のバーテンダーや乗客などを通じて、少なくとも1920年代には、欧米やアジアなど幅広い地域でそれなりに普及した。 ◆早い時期に幅広い地域で普及エッピンガーが1894年に考案したというミリオン・ダラーのレシピは、残念ながら、ジンの銘柄や分量比なども含め伝わっていない。現時点で確認できる、最も早い時期に活字となったミリオン・ダラーは、「1922年に、フィリピン・マニラの弁護士、J.A.ウォルフソン氏が地元紙に紹介した記事」(出典:英国のカクテル専門サイトDifford’s. Guide)で、レシピは、「ゴードン・ジン4分の3glass、パイナップル・ジュース6分の1glass、グレナディン・シロップ6分の1glass、卵白1個分」だという。 一方、「ミリオネア」は、米国で1908年に出版されたカクテルブック『Jack’s Manual』(ヤコブ・グロフスコ<Jacob Grohusko>著)=写真右=で初めて活字となった。レシピはウイスキー・ベースで、「ライ・ウイスキー4分の3ジガー、キュラソー6dash、グレナディン・シロップ2dash、オレンジ・ビターズ1dash、卵白1個分」だ。しかしその後、ミリオネアはご存知のように、1910~30年代から、ウイスキー・ベース以外にも、ラム・ベースや、ジン・ベースなど複数の違うベースで創作されるようになる。なぜ様々なバリエーションが生まれていったのか、その理由はよく分からない(今後の私の研究課題だ)。 ◆3つのベースが今なお共存するミリオネアご参考までに、ミリオン・ダラーとミリオネアについて、その後のレシピの変遷を欧米のカクテルブック上で少し見ておこう。【ミリオン・ダラー】使っている材料の分量比は変われども、その後も、現代に至るまで「ジン、スイート・ベルモット、パイナップル・ジュース、グレナディン・シロップ、卵白」という5つの材料を使うという点では同じだ(唯一、1934年にフランスで出版された『The Artistry of Mixing Drinks』=フランク・マイヤー著=は、スイート・ベルモット抜きのレシピとなっている)。【ミリオネア】現在に至るも、レシピはウイスキー・ベース派、ジン・ベース派、ラム・ベース派の3つに大きく分かれ、どれが主流という雰囲気ではない。カクテルブックによっては、複数のベースを収録しているものも少なくない。・ウイスキー・ベース派 『ABC of Mixing Cocktail』(1919年刊)、『Mr Boston Bartender’s Guide』(1940年刊)、『Booth’s Handbook of Cocktails』(1977年刊)、『The Bartender’s Bible』(1991年刊)ほか/・ジン・ベース派 『Waldorf-Astoria Bar Book』(1935年刊)/・ラム・ベース派 『How and When』(1937年刊)、『Vintage Spirits and Forgotten Cocktails』(2009年刊)・2種収録(ジン・ベース、ラム・ベース) 『Recipes for Mixed Drinks』(1916年刊)、『The Savoy Cocktail Book』(1930年刊)ほか/(ウイスキー・ベース、ラム・ベース) 『Cocktail Bar』(1952年刊)ほか・3種収録(ウイスキー・ベース、ジン・ベース、ラム・ベース) 『World Drinks and How To Mix Them』(1934年刊)、『Trader Vic’s Bartenders Guide』(1947年刊)、『Bartender’s Guide』(1970年刊)、『Complete World Bartender Guide』(2009年刊)ほか以上のような歴史的な経緯もあって、欧米のバーでは現在でも、「ミリオネア」と言えば、この主な3種類のベースで提供されている。結局のところ、ミリオネアのレシピに関しては、どれが正しく、どれが間違いというものはなく、どの酒をベースにするかは、そのバーテンダーやお客様の好みによる部分が大きいのかもしれない。 ◆日本におけるミリオン・ダラーとミリオネアミリオン・ダラーは、日本では1920年代にはすでにメジャーになっていたのか、当時のカクテルブックにも登場する(『カクテル製法秘訣』=中田政三著、1926年刊=写真左)。レシピは、「ジン10分の2、パイナップル・ジュース10分の2、ホワイト・キュラソー10分の1、グレナディン・シロップ10分の1、ストロベリー・シロップ10分の1、卵白1個分」となっている。中田氏はスイート・ベルモットを使わないレシピを採用しているが、日本ではその後はベルモットを使うレシピ、使わないレシピの二派に分かれるようになる。私の手元にある日本国内出版のカクテルブック約40冊で調べてみたら、約6割が「ベルモットを使う」、残り4割が「使わない」だったが、近年に絞ってみるとほぼ100%が「使う」派だった。横浜グランドホテル=写真左下(開業間もない頃のポストカード)=は、1923年の関東大震災で大きな被害を受けたため廃業したが、同ホテル出身で、その後バー業界の重鎮となった浜田晶吾氏が、このミリオン・ダラーの普及に大いに貢献した。現在の横浜ニューグランド・ホテルは、直接横浜グランドホテルの流れをくむ訳ではないが、ホテル内のバーでは、ミリオン・ダラーは今日でもなお、定番の人気カクテルとなっている。一方、ミリオネアも日本には比較的早く、1920年代初めに伝わり、1924年<大正13年>刊の『コクテール』(前田米吉著)で早くも紹介された(レシピはウイスキー・ベースで、「ウイスキー3分の2オンス、グレナディン・シロップ3分の1オンス、キュラソー1dash、ガム・シロップ2dash、卵白1個分。シェイクしたる後、グラスに注ぎ、アブサン少々を加えてすすめる」)。日本では当初、ウイスキー・ベースの方が主流だったが、現在のバー・シーンでは、ラム・ベースの方が比較的多くつくられているようだ(ただし、私のバーでは、米国で主流のウイスキー・ベースで提供している)。・WEBマガジン「リカル(LIQUL)」上での連載をご覧になりたい方は、こちらへ・連載「カクテル・ヒストリア」過去分は、こちらへ
2026/06/04
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その9:席でのマナー(2) ◆長居は無用 BARは長居するものではない。氷が溶けて水っぽくなるほどだらだら飲むのもよくない。2杯、3杯飲み続けて、気が付けばカウンターは満席状態。カウンターの後ろのテーブル席では、カウンターが空くのを待っている客もたくさんいる。でも貴方は、隣客との話がはずんでもう1杯、もう1杯と杯を重ねる。そんな姿は決して美しくはない。 当然、会話ばかりを続けて1杯だけで長居するのも無作法だ。1杯~2杯で2時間も居座ったり、営業時間が過ぎてまで粘って飲んだりも論外だ。貴方は「嫌われる客」としてリストアップされるだけだ。 世界中でも日本だけの「チャージ」という不可解な料金システムは好きではないが、地価の高い都会の盛り場では、貴方の席のスペースにも店側に税負担(固定資産税)がある。1杯だけで延々と居座れては店にとってはたまらない。そんな不届きな客が存在するために、「席料」としてチャージがなくならないのなら、やむを得ない。 ◆1杯約20分を「目安」に 昔、とある老舗BARの老バーテンダーに言われた言葉を今も忘れない。「酒場では、無駄口をたたかず、ささっと2杯ほど、酔っぱらわない程度に飲んで、ささっと帰るのが、格好いい酒呑みだ。BARという空間を独占してはいけない。BARで飲む幸せは、1人でも多くの他人と分かち合うべし」と。 うらんかんろは特別の理由がない限り、1軒のBARでは2杯までとしている。そして1杯を飲むのに約20分余、2杯なら約45分くらい。3杯飲んでも1時間くらいを目安にしている(なお、そのBARのトータルの滞在時間は、次のドリンクを注文するまでの間やバーテンダーがつくる時間もあるので当然、1杯だと約30分、2杯で1時間弱、3杯なら1時間半弱という感じになる)。 酒場での飲み方でもう肝要なことは、もう一つ。「酔っぱらって他人に迷惑をかけない」ということ。酒場は酒を楽しむところで、酔っぱらうところでない。酔っぱらいは、声が大きくなり、他人にからみ、足元はふらつく。あげくの果てにゲロする輩もいる。そんな酔っぱらいほど醜い、恥ずかしい、迷惑な存在はない。酔っぱらって絡む、ゲロを吐くまで飲むなどは論外だ(どうしても我慢できずにゲロを吐きたければ、便所に行って便器を抱いて吐くべし)。 ◆飲んでも飲まれるな 神戸にかつて、コウベハイボールという伝説的なBARがあった。河村さんというマスターは怖い人だった。飲み過ぎて酔っぱらってきた客には、お代わりは認めなかった。「きょうはもうダメ! もう帰りなさい!」。そう言って、酔客を叱り、たしなめた。 うらんかんろは、酔っぱらってスツール(背の高い椅子)ごと転倒して後頭部を打ち、救急車で運ばれた客を見たこともある。酔っぱらって他の客に絡んで、注意をした店の人を殴り、警察に連れて行かれた客も知っている。うらんかんろは、そういう客(「客」とも呼ぶ資格もないが)には、軽蔑はしても、決して同情しない。大怪我をして仕事に穴を開けるのも、警察の留置場で一晩過ごすのも、それは自業自得というものだ。 店や他の客の迷惑を考えてみればいい。想像してみよう。貴方のゲロを掃除する人のことを、救急車を必至で呼ぶ人のことを、床に着いた血を洗う人のことを、壊れた椅子を自腹で修理する店の人の気持ちを…。BARで飲みたければ、想像力の働く大人でありたい。 ◆自分の適量を知り、ペース配分を うらんかんろも酒を飲み始めた頃、飲み過ぎて少し醜態をさらしたことは何度かあった。そういう姿を翌朝思い出し、自己嫌悪に陥った。しかし、人間は学習しなくてはならない。自分が正常に飲めるペース、限度(アルコール総量は人それぞれで違う)というものを貴方は知っておかねばならない。うらんかんろも学習した。そしてここ20年ほどは、BARで酔いすぎて不覚になったことは、一度もない。 貴方には、そういう醜い酔っぱらいには決してなってほしくない。自分の適量を知り、ペース配分を考えながら飲み、明日も美味しくお酒が飲めるように、「そろそろ限界かなぁ」と思うちょっと手前でやめておくのが一番だ。酒は、独りで家に帰れる余力を残して楽しむものだ。 言わずもがなだが、酔ってグラスを倒して割るのも論外だ。どんなに高価なグラスを割ったからと言って、店に1個しかないアンティークのグラスを傷つけたからと言って、グラス代を請求する店はまずないだろう(そんな客に高価なグラスを使ったのは、店側のミスだ)。 店側は、グラスが割れることも計算して、収支計画を立てている。割られて困るような貴重なグラスは、酔った客には使わない方がいいということを、店側も学ぶだろう。しかしもし仮に、酔って割ったのではなく、単なる過失で割ったとしても、次回その店を訪れる際にはお土産を持って謝りに行くような紳士でありたい。 かつての老舗BARのマスターやバーテンダーには、マナーに厳しい方が多かった。うらんかんろは、そうした方々から多くを学んだ。そして、いつかそうした方々に誉められるような、いい酒呑みになろうと誓った。貴方もぜひ格好いい、大人の酒呑みになってほしい。 ◆お酒は残していけないか 頼んだお酒は、最後まで(できれば美味しそうに)飲んであげるのが、つくってくれたバーテンダーへの礼儀だ。しかし、どうしても体調が悪くて飲みきれないこともある。そういう時は無理に飲まずに、残していい。無理に飲んで酔い潰れられた方が店には迷惑だ、金を払っているのは自分(客)だから、卑屈になることはまったくない。ただし残して帰る際、「残してすみません、ちょっと飲み過ぎてしまって…」とひとこと言い添えるのが大人のマナーだ。 うらんかんろも、どうしても飲み干せない場合は、バーテンダーさんに詫びて残すこともある。時には、あまりお勧めはしない方法だが、残りを含めるだけ口に含んでトイレへ行き、洗面所で口から流してしまうこともある(飲んだように体裁を繕うのは、いちおう見栄を張っているから…(笑))。理想を言えば、頼んだお酒は残さないように、体調を考えながらゆっくりとしたペースで飲むのが一番だ。【その10へ続く】【おことわり】写真は本文内容とは直接関係ありません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/01/26
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1~2日と仕事で四国・松山へ出張してきた。松山は徳島に住んでいた頃、年に数回は訪れていたのだが、きちんとBAR巡りはしたことはなかった。 そこで今回は仕事の後、居酒屋で腹ごしらえ(写真左=初めて食べた「行者にんにく」、香り、歯ごたえとも酒の肴にぴったり)した後、真面目に(?)BAR巡りに精を出すことにした。 まずは、禁酒法時代の米国のもぐり酒場の雰囲気を漂わせるBAR「B♭」へ(写真右下)。一見こわもての感じのマスターは話してみると、とても気さく。かと言って、馴れ馴れしくもなく、客との距離感をとても大事しているかのよう。 ジャズが流れる静かで、暗い店内。「逆Pの字」形をしたカウンターが面白い。僕より先に来ていた年配のお客さんは、「僕は年間250日来ていますよ」と一言。なるほど、この居心地の良さ。お値段もリーズナブル。通いたくなる気持ちはよく分かる。 さて2軒目は、地元の友人に紹介されたBAR「大塚」。年配のご夫婦で営むアット・ホームなお店。 ここで、地元の同僚と合流し、3軒目に予定しているBAR「露口」へ転戦。露口は昭和33年オープンという松山を代表する老舗BARである。 サントリーの故・佐治敬三会長や、アンクルトリスの画家・柳原良平さんも松山に来たら、必ず訪れていたという。店内には、佐治さんの色紙や、柳原良平さんがオーナーの露口さん夫妻を描いた素敵なイラストが飾られている!(写真左) 露口は噂に聞いた通りの素敵なBARだった。露口さん夫妻は、初対面の僕にもほんとに気さくで、親切で、あったかい接客で、めちゃ嬉しい。BGMも心地よいジャズ。頭を上げて壁を見上げたら、何とケニー・ドリューやデューク・ジョーダンのサインが(写真右)。す、すごい! あの伝説の名ピアニスト2人がここを訪れていたとは! さて、露口を後にした僕は、地元・松山でもその筋では有名という「エル・モロッコ」というBARへ。ここは元ヘラルド映画発行の雑誌記者をしていた奴田原(ぬたはら)さんという方が開く店。 BARというよりも、映画好きのオーナーの自宅応接間という雰囲気(写真左)。所狭しと並べられた(カウンターの上まで!)ハリウッドの往年のスターの写真やポスターが圧巻。奴田原さんは今年76歳というが、新聞やテレビを丹念に見て、時事ネタもばっちり仕入れていて頭脳明晰。とても70代には見えない。しかも、きちっとスーツを着こなすダンディな紳士だ。 「エル・モロッコ」でも、初めての僕は温かく歓迎された(ピザのサービス有難う!)。松山のBAR業界の方は、太っ腹と言うか、ひょっとして徳島以上に親切かもしれないなぁ…。 さて、5軒目は、以前から一度行ってみたかったBAR「ゆめまぼろし」(写真右)。ここは、織田信長が大好きなオーナー・バーテンダーの店。店に入っていきなり度肝を抜かれるのが、入り口の目の前にど~んと飾られた信長使用の鎧甲(もちろん複製品だけど)。バック・バーや天井なども、「和」を強調したモダンなインテリアになっている。 「ゆめまぼろし」を訪ねたかったもう一つの理由は、ここの女性バーテンダーAさんのカクテルを飲んでみたかったこと。Aさんは、NBA(日本バーテンダー協会)の全国大会で、2度も準優勝(2002年と2004年)するという輝かしい経歴の持ち主。この夜もお願いして、その準優勝した時のカクテルを作ってもらった。 「松山だけで仕事していると、お客さんの変化にも限界があって…。もっと大きな都市で仕事をしてみたいという夢はあります。いつかは自分の店を持ちたいと思ってますし…」と言うAさん。 確かに、彼女ほど実力のある人は、一度東京か大阪へ出てみるのもいいかもしれない。いずれにしても、いつかAさんが自分のBARを開いたら、もう一度訪ねてみたい。 さて、日付も変わりそうになって、僕も相当酔いが回ってきた。でも、最後に、あと1軒だけ訪ねておきたいBARがあった。「信天翁(あほうどり)」という名の店(写真左上)。 そして写真を撮っているので、確かに訪れているのだが、ここでの記憶は少しおぼろげ。相当出来上がっていたのかも…(写真右=松山と言えば、漱石の名作「坊ちゃん」の舞台。街にはこんなレトロな「坊ちゃん」列車が走っています)。 オーナー・バーテンダーのTさんも、他の松山のバーテンダー同様、とても気さくで、優しい方だった。でも、あまりお話できなかった(と言うより、記憶が飛んでいる!)のが残念。次回、松山を訪れる際は、酔ってしまわないうちに訪ねよう。 あったかい街、松山。来月、もう一度仕事で来る予定なので、楽しみな出張になりそうだ(「仕事と遊び、どっちがメインだ?!」と突っ込まれそう…)。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2006/03/03
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「(イタリアから)日本に帰ったら、必ず観てね」と言われた映画があった。それを先日ようやく、DVDを借りてきて観た。すでにご覧の方には、「何を今さら」という映画。「冷静と情熱のあいだ」。 主演は竹之内豊。その相手役に香港スターのケリー・チャン。ラブ・ストーリーで、舞台はフィレンツェ、ミラノ、そして東京。東京はまぁ、添え物のような感じで、物語のほとんどは、最初の2つの街で進行する。 順正(竹之内)とあおい(チャン)の二人は、かつては恋人同士。あおいは香港人と日本人のハーフ。留学していた東京の大学で知り合い、愛し合うようになる。だが、あることがきっかけで別れ、その8年後(?)くらいに、イタリアで再会する。 順正は古絵画の修復士としてフィレンツェで修業中だった。あおいはミラノで、アメリカ人実業家と一緒に暮らし、不自由のない生活をしていた。順正は今も、別れたあおいが心の片隅から消えない。 二人にはある約束があった。「10年後、二人の愛が変わってなければ、フィレンツェのドゥオーモ(フィレンツェ名物の聖堂=下の写真の右奥に見える大きな聖堂)の上で会おう」という約束が。あおいは再び現れた順正を見て、心が揺れる。順正は、あおいが昔、順正の元を去った本当の理由を、まだ知らない。 これ以上は、映画のネタに関わるので、あまり詳しくは書けないけれど、とにかく、外国を舞台にした日本映画のラブ・ストーリーとしては、よく出来ていて、興行的にも成功した部類に入るんだろうと思う。 竹之内のイタリア語や英語のセリフも、ケリー・チャンの日本語もそう不自然ではない。チャンはそれもそのはず、神戸のカナディアン・アカデミーに3年間通っていたんだとか(Madokaさんと、ひょっとして同級生?)。 アッシジを案内してくれたガイドさん(フィレンツェ在住の日本人女性、30代後半?)は、「とにかくフィレンツェの街の映像がめちゃきれい。きっと訪れた所がいっぱい出てくるから、見てるだけでも楽しいよ」と太鼓判。 確かに、この映画中のフィレンツェやミラノの街の映像は、筆舌に尽くしがたいほど美しい。とくに、竹之内が自転車で駆け抜けるフィレンツェの細い街路がとても素敵だ。「こんな街で1カ月でもいいから暮らしてみたい」と思うのは僕だけではないだろう。 かのガイドさんは、この映画の撮影中の竹之内君をフィレンツェで見て、すっかりファンになってしまったとか。「かっこいいったらなかった」と言う。確かに、この映画の順正はかっこいい。僕が女でも惚れてしまうだろう。それに比べて、常磐貴子似のケリー・チャンは、ちょっと、あおいのイメージとは違うなぁ…。 映画では、ドゥオーモが「愛を語り合う場所」という設定になっていたが、ガイドさんは「フィレンツェの地元の人に何人も聞いたけれど、そんな話は聞いたことがない」という話。「愛」どころか、どちらかと言えば血なまぐさい歴史もあるという。 まぁ、「高い場所での再会」という設定は、きっと、あのケリー・グラントとデボラ・カーの名作「めぐり逢い」からヒントを得たんだろうなぁ…、とは思うけれど、まぁ映像が美しすぎるから許してしまう僕。ハッピー・エンドで終わるのも、僕好みだから…。 フィレンツェもいいけど、ミラノも実に美しい。路面電車がとても街に似合う街だ。次回はぜひミラノを訪ねたいという気持ちが、ますます強くなってきた。人気ブログランキングへGO!→【人気ブログランキング】
2005/10/25
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WEBマガジン「リカル(LIQUL)」連載 【カクテル・ヒストリア第35回】 レシピは揺れても、生き残った 「ブルー・ムーン」「ブルー・ムーン(Blue Moon)」=写真左=は、1910年代の米国のカクテルブックにはすでに登場する長い歴史を持つカクテル。現代の日本のオーセンティック・バーでも根強い人気を持つ。だが、誕生の経緯を巡る信憑性のあるストーリーはほとんど伝わっていない。 ◆ヴァイオレット・リキュールの登場で欧米の専門サイトでは、「欧州でのヴァイオレット・リキュール人気に目をつけて、1890年代、米国のメーカーが新たに、ニオイスミレを使った<クレーム・イヴェット(Crème Yvette)>という名のリキュールを発売。このリキュールを使った創作カクテルとして考案された」、あるいは「マンハッタンのレストラン・バー(あるいはホテル内のバー)で誕生した」などという説を紹介しているが、残念ながら裏付け資料は示されておらず、決定的なものではない。「Blue Moon」とは、大気の状態で「ごく稀に月が青く見えること」を指し、転じて、英語では、「めったに起こらない」「きわめて稀な」ことの例えとして使われる。しかし、これが直接カクテル名の由来になったのかはよく分からない。現在、日本での標準的なレシピは、「ジン(40ml)、ヴァイオレット・リキュール(15ml)、レモン・ジュース(15ml)、シェイク」と紹介されることが多いが、欧米のレシピは、誕生時から今日に至るまで揺れ続け、今なお様々なバージョンが登場している(※ヴァイオレット・リキュールは「クレーム・ド・ヴァイオレット、クレーム・イヴェットまたはパルフェ・ダムール」という名で商品化されている)。 ◆初めて活字になったのは1916年「ブルー・ムーン」のレシピが確認できる一番初期のものは、米国で1916年に出版された『Recipes for Mixed Drinks』(ヒューゴ・エンスリン=Hugo Ensslin著)というカクテルブック=写真右。そのレシピは「ジン(40)、フレンチ(ドライ)・ベルモット(20)、オレンジ・ビターズ1dash、クレーム・イヴェット1dash」で、ベルモットを使っている点など現代のレシピとは微妙に違う。欧米では、このエンスリンのレシピが一定の割合で受け継がれ、今なお採用するカクテルブックも少なくない。しかし一方で、以下のような様々なバージョンが、「現れては消え、消えては現れ」を繰り返している(単位はml)。1. ジン、アニゼット(ハーブ系リキュール)、ペパーミント・リキュール(1920年代から)【例】ジン(30)、アニゼット・リキュール(5)、ペパーミント・リキュール(5)(William Boothby著『World Drinks and How To Mix Them』 1934年刊)2.ジン、ヴァイオレット・リキュール、レモン・ピール(1930年代から)【例】ジン(45)、クレーム・イヴェット(23)、レモン・ピールしてそのまま沈める(『Mr Boston Bartender's Guide』 1935年刊)3.ジン、マラスキーノ(サクランボのリキュール)、卵白(1940年代から)【例】ジン(45)、マラスキーノ(15)、卵白(1個分)(Patrick G. Duffy著『The Official Mixer's Manual』 1948年刊)4.ジン、ブルー・キュラソー、レモン・ピール(1970年代後半から) 【例】ジン(45)、ブルー・キュラソー(23)、レモン・ピール(『Mr Boston Bartender’s Guide』 1978年版)5.ブルー・キュラソー、テキーラ、ウオッカ、レモネード(1980年代から) 【例】ブルー・キュラソー(40)、テキーラ(30)、ウオッカ(30)、レモネード適量(Hilary Walden著『Cocktails』 1983年刊)(写真左上=ヴァイオレット・リキュールの代表的銘柄の一つ「パルフェ・ダムール」)。 ◆日本の標準的なレシピの”ルーツ”は日本での標準的なレシピとほぼ同じものが欧米のカクテルブックに登場するのは、確認した限りでは、1948年に出た『The Fine Art of Mixing Drinks』(デヴィッド・エンベリー<David Embury>著)=写真右下=が最初だ。同著でのレシピは分量比表記なので、「ml換算」してみると、「ジン80ml、ヴァイオレット・リキュール10ml、レモン・ジュース20ml」というもの(なお、エンベリーは「卵白を加えることもある」と付記している)。しかし、このエンベリーのレシピは日本とは違って、その後の欧米では「主流派」とはなり得ていない。1950年代以降のカクテルブックを見ても、採用されているのは数少ない(近年では、カクテル研究家のテッド・ヘイ氏の著書『Vintage Spirits and Forgotten Cocktails』=2009年刊=くらい)。現代の欧米では、「エンスリン・レシピ」「エンベリー・レシピ」「それ以外」の3種が群雄割拠している状態だ。ちなみに、「それ以外」のレシピでは、「テキーラ(20)、ブルー・キュラソー(10)、ガリアーノ(数dash)、生クリーム(40ml)」(Charles Schumann著 『American Bar』 2002年刊)、「ウオッカ(20)、ブルー・キュラソー(15)、生クリーム(15)、ヴァニラ・シロップ(10)、オレンジ・ジュース(10)、コアントロー1tsp」(欧米の専門サイト「My Recipes.com」 2010年)などのように、奇抜で独創的なものが目立っている。 ◆カクテル界の重鎮に”支持”されて定着「ブルー・ムーン」は、日本には1920年代半ばに伝わったと考えられていて、1929年(昭和4年)に出版された秋山徳蔵氏(「天皇の料理番」として著名だった方)の2冊目の著書、『コクテール(混合酒調合法)』に初めて収録された。しかし、そのレシピは初版では「ジン5分の3、ペパーミント・リキュール5分2」、改訂版では「ジン10分の7、ヴァイオレット・リキュール10分の2、ペパーミント・リキュール10分の1」となっており、現代のものとは様相を異にしている(秋山氏が、欧米のどのカクテルブックを下敷きにしたのか、そのとも自ら考案したのかは分かっていない)。25年後の1954年、『世界コクテール飲物辞典』(佐藤紅霞著)という本に再び「ブルー・ムーン」は登場したが、レシピはベルモットを使う「エンスリン・レシピ」だった。現代の標準的なレシピがお目見えしたのは、1959年、間庭辰蔵氏が出版した『カクテルの本(Cocktail Book)』=写真左上=が最初だ。そのレシピは「ドライジン2分の1、クレーム・ド・ヴァイオレット4分の1、レモン汁4分の1」と現代のレシピに近い。間庭氏がエンベリーの著書(1948年刊)を参考にしたことは間違いないだろう。その後、このレシピは、木村与三男、今井清、福島勇三、浜田昌吾、福西英三ら日本カクテル界のそうそうたる重鎮たちの本でほぼ支持=継承されてゆき、結果的に、日本では、この「エンベリー・レシピ」がスタンダードとして定着することになったのである。・WEBマガジン「リカル(LIQUL)」上での連載をご覧になりたい方は、こちらへ・連載「カクテル・ヒストリア」過去分は、こちらへ
2026/02/07
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20日の日曜の午後、大阪キタのホテルで、今年の日本バーテンダー協会(NBA)の全国コンペティションで見事日本一(総合優勝)に輝いた小西広高さん(Bar Blossom)のお祝いの会=写真左=があり、不肖うらんかんろも参加してきた。 実は、このような業界の内輪が中心のお祝いの会に同席するのは、なんとなく場違いな感じもして、最初、僕はあまり気は進まなかった。 しかし今回は、関西から30年ぶりの優勝者誕生というめでたい祝宴(もう当分はないかも?)で、あるバーテンダーさんからも強く誘われたこともあって、末席にお邪魔させてもらった。 小西さんは以前のブログでも書いたが、まだ30歳の若さ。バーテンダーになって約7年。最初、大阪キタの「Harbor Inn」というBARで約5年間修業。2年前独立して、キタのお初天神の近くに念願の店を持った。 年齢的には若手に違いない小西さんなのだが、数年前からは、さまざまなコンペで上位入賞するなど、とても注目される存在だった(おまけに、大阪のバーテンダーの中でも3本の指に入る「イケメン」!で、女性ファンも多い)。 だから、今回の全国コンペで、彼も含め関西代表からの総合優勝を予想する業界関係者がいなかったとしても、小西さんの「日本一」は決してまぐれではない。 彼が全国コンペで上位入賞するに値する実力を持っていることは、関西のバーテンダーなら誰もが認めていることだろう。 もっとも、上位入賞者に実力差なんてほとんどない。さらに言えば、全国大会に勝ち上がってくる各地区代表の実力差なんて、微々たるもの。後は、運と巡り合わせが左右するのがバーテンダーのコンペの世界だ。 いずれにしても、前のブログでも触れた「今年からよりフェアに改善された審査方法」が、小西さんに良い方向へ働いたのは間違いないという。来年以降も、このようなフェアな審査が続いていってほしいと願うのは僕だけではないだろう。 それはともかく、お祝いの会には業界内外から200人近くが集まった。まず、関西のNBA各支部の代表らの祝辞が続いた後、小西さんが舞台上で、全国コンペ同様、フルーツ・カッティングや創作カクテルのパフォーマンスを披露(写真右上)。 カクテルのパフォーマンスはNBAのコンペ等で見飽きている僕だけれど、普段は一般には公開されないフルーツ・カッティングの演技(制限時間10分以内に、4種のフルーツをカッティングし、大皿に飾り、盛り付ける)は、プロのペティナイフのつかい方がとても興味深くて、面白かった。 おしゃべり上手の司会担当のSさん(Bar Beso)は、演技中に冷やかしやからかいのツッコミを入れるが、さすがの小西さんは余裕の笑顔で、次々とフルーツを飾り付けていく。これも全国優勝からくる自信だろうなぁ…拍手! この後、同じ全国コンペの創作カクテル部門で1位になった鴻野良和さん(徳島のBar 鴻)が駆け付けてくれてスピーチ。「小西君とは同じ組で演技させられ、顔や背丈では勝てないので、僕は絶対総合優勝できないと思った」と話し、会場を笑わせた(写真左上)。 師匠である藤田敏章さん(「Harbor Inn」マスター)は、「彼は5年間無遅刻、無欠勤。とにかく真面目で、努力家でした。それが今回報われたのだと思う」と絶賛した。 この後さらに、若手バーテンダーたちによる仮装パフォーマンス=写真右=(Bar「P」のマスターNさんの「長州小力」には、体型といい、あまりにハマリ役なので笑ってしまった)、奥さんからのねぎらいの言葉、息子さんからの花束贈呈、お楽しみ抽選会などと続き、賑やかに、そして和気あいあいの内に会は終わった。 バーテンダーにとって、全国コンペでの総合優勝(日本一)は究極の夢であり、目標だろう。「しかし、その後のバーテンダー人生の方が長いんですよね」と、ある先輩バーテンダーが僕に語った言葉が印象的だった。だから、まだ30歳の小西さんにとっては、まだ半分にも達していない。 お祝いの会にこれだけたくさんの人たちが集まったのは、関西にとっては30年ぶりの祝宴ということもあるが、小西さんの素朴で、丁寧で、飾らない人柄に負うところも大きいだろう(写真左=奥さん、息子さん、そして師匠の藤田さん=左端=も舞台に上がって、フィナーレ)。 コンペ(競技生活)からは退くことになるが、どうかいつまでも客に愛されるバーテンダーでいてほしい。全国大会で上位入賞したせいなのか、その後「天狗」になって、昔の客が離れていった人も僕は知っているが、小西さんにはそんな心配は杞憂だろう。 日本一という栄誉を得ても、彼はきっとこれからも変わぬ接客につとめて、末永く愛されるバーテンダーであり続けてくれると信じて疑わない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/08/22
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麻生首相が、高級料理店で食事をした後、連日のように一流(高級)ホテルのBarで飲んでいることに対して、野党やマスコミから批判する意見が出ています(僕のブログでは、政治と宗教と営利を目的とした勧誘などのテーマは原則としてNGにしているので、ここでは首相の政治的信条については触れません)。 ホテルのBarで飲むことについて、首相は「ホテルのBarは別に高くない」「(首相が)居酒屋で飲んだら営業妨害って言われるだろ?」「聞いてんだよ、答えろよ!」と記者にムキになって反論しました。いささか大人げない物の言い方は好きではない僕ですが、この件に関しては首相を弁護したいと思います。 一流ホテルのBarは、例えばスタンダードクラスのウイスキーなら、街場のBarで1杯700~900円くらいで飲めるところが、少なくとも1杯1000円~1300円くらいはするでしょう。カクテルも一般論として街場のBarよりは割高です(おそらく200円~500円くらいはアップ)。 1杯いくらか分からないと不安でしょうが、街場のBarとは違って、ほとんどのホテルBarでは、1杯の料金を記したメニューを用意しているので、明朗会計です。また、「本日のおすすめウイスキー、カクテル」などと銘打ってリーズナブルな料金で提供してくれたり、軽い付き出しが最初からサービスで付いてたりするところもあります。さらに、ホテルBarでは生演奏を聴かせてくれるところも多いのですが、ジャズのライブハウスなどとは違って、ミュージック・チャージを別にとるところはまずありません。 なお、世界中でも日本だけに見られる「チャージ」という不可解な料金ですが、ほとんどのホテルで500円~1000円くらいはとられます。しかし、今朝の某新聞に載っていた「記者の体験ルポ」によれば、首相が愛用するホテル・オークラのBar「ハイランダーイン」では、なんとチャージ料はなかったとのこと! これには僕も少々驚きました。 もっとも、この「チャージ」については、街場のBARでもとるところがほとんどなので、ホテルのBarだけを非難することはできません(銀座や北新地のBARでは、1500円~2000円!もの法外なチャージ料をとる店だってあります→そういう店に限ってロクなサービスしかありません)。 ただし、一流ホテルのBarでは「チャージ」以外に、消費税とは別に必ず10~15%くらいの「サービス料」がかかってきます(この「サービス料」は街場のBarでは、「チャージの二重取りだ」と客に嫌われるのであまり見られませんが、銀座や北新地の「勘違い高級Bar」では堂々とこの「二重取りシステム」を導入している店も目立ちます。情けないことです)。 従って、「チャージ(+サービス料)」のトータルについては、街場のBarより高いホテルもありますが、街場のBarとほとんど変わらない良心的なホテルも少なくありません。店の雰囲気は、高級ホテルだから当然とても落ち着いた、ゆったりした空間のところが多く、大声で騒ぐ柄の悪い客もまずいません(素晴らしい夜景というおまけが付いているBarもあります!)。 結論としてトータルで考えた料金(お値打ち)では、一流ホテルのBarは街場のBarと比べて、決してそう高くなく、場合によっては街場のBarと同じか、よりリーズナブルなところもあると言うことです(上記のホテル・オークラのほか、僕の経験だと、大阪のロイヤルホテルのリーチ・バーや、リッツカールトンのザ・バー=僕のベスト1=などは考えようによっては、街場のバーよりリーズナブルかもしれません)。 一流ホテルのBarは、決して一般人が飲めないような特別な場所ではありません。だから、この飲む場所だけで首相を批判するのは、ちょっと可哀想だと同情します(もちろん首相がどんな銘柄を飲んでいるのかは別にして、ですが…)。 ただし、本当に庶民の声を肌で感じたいと思ったら、時には街場のBarに予告なく訪れて飲むなんて冒険も(もちろんSPの同伴は必要でしょうが)してみてはいかがでしょうか、麻生さん。「営業妨害と言われる」とのご心配ですが、僕は、「首相が訪れてくれるなんて名誉なことだ」と喜ぶ店主も多いと思いますよ。 【おことわり】写真は日記内容とは直接関係ありません。悪しからず。 【追記】ちなみに、僕はホテルのBarで飲む頻度は少ないです。その理由は料金の問題(本文でも書いたように、街場のBarではホテルより高い店だってあります)ではなく、僕が街場のBarのマスターやバーテンダーとの、ざっくばらんな会話が好きだからです。 当然ですが、ホテルのBarにはマスター(店主)はいません。チーフ・バーテンダーはいても、従業員であることには変わりありません。次の時に訪れても、持ち場が代わっていることもあります。だから会話を交わしても、どうしても当たり障りのない内容が中心になってしまい、残念ながら「ざっくばらん」とはいきません。それが僕が街場のBarの方が好きな最大の理由かもしれません。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/10/26
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先週の金曜(16日)の夜、まもなく建て替えのために閉館となる大阪フェスティバル・ホールでのコンサートに行ってきた。ジャズの歴史そのものとも言える、ソニー・ロリンズを聴くために…(写真左=今回の日本ツアーのポスター)。 ソニー・ロリンズと言えば、ジョン・コルトレーンと並ぶジャズ・サキソフォンの代表的な奏者。1930年9月生まれだから、御歳77歳。1950年にデビューし、マイルス・デイビスら名だたるミュージシャンと共演しつつ、半世紀以上過ぎた今なお、第一線で活躍する稀有な存在である。 ロリンズは、3年前の2005年の来日公演が「最後のワールド・ツアー」と言われていたので、もう一度来日するとは予想外だった。今回のツアーのタイトルは、それを意識したのか「I’m Back」。もうツアーからは引退すると言っていたので、「復活」をアピールしたかったのかもしれない。 しかし年齢が年齢(77歳)である。僕は、「おそらくはもう最後の来日で、今回を逃すと二度と生ロリンズは見られない」と思って、万難を排してコンサートへ足を運んだ。 約2700人が入る会場はほぼ満席。今回のツアーでロリンズは5人(トロンボーン、ギター、ベース、ドラムス、パーカッション)のバックバンドを従えていた。ベースはやはり50年来の友であるという、ボブ・クランショー。 ロリンズはしばしばピアノレス・バンドが好きと言われているが、今回もピアノレス。音の厚みに若干問題があるというピアノレス・バンドだが、コンサートではギターがしっかりピアノの代わりを果たし、トロンボーンは時には弦楽器(ストリングス)のようにしっかりとロリンズのサックスをサポートしていた。 正直言って、ロリンズのアルバムはそんなに聴いた訳じゃない。全発売アルバムの10分の1くらいかもしれない。しかし、それでも彼のテナーは僕の心を十分につかんで離さない。御多分にもれず、僕も「サキソフォン・コロッサス」(写真右上)という彼の最も有名なアルバムから聴き始めた。 それから、「テナー・マッドネス」「ビレッジ・ヴァンガードの夜」(写真左)「アルフィー」(写真右下)などと聴きつないだ。とくに、「アルフィー」の中のタイトル曲「アルフィーのテーマ」は僕の大好きな曲の一つ。 ロリンズの素晴らしさはジャズだけにとどまらず、ラテンやボサノバ、ロックとのコラボレーションを積極的に展開し、彼自身の演奏にもジャズだけにとらわれないスタイルを確立したこと。スティービー・ワンダーの曲「Isn't She Lovely?」を取り上げたり、ローリング・ストーンズのアルバム「刺青の男」に参加したこともある。 ステージのロリンズは、歩き方こそ年相応によろよろしていたが、ひとたびサックスを吹き始めると、それこそ「テナーの帝王」に変身した。音には往年の力強さはないが、一言で言えば「円熟」。心から歌い上げるような表現力の豊かさは、決して衰えを感じさせなかった。 約2時間10分のコンサート。生けるジャズの伝説、ロリンズを目の前で見て、聴いて、僕はこの夜至福のひとときを満喫した。もちろん、あの「セント・トーマス」もやってくれた(写真左=ロリンズをまだ知らない方の入門編には「ベスト盤」がおすすめ)。 ソニー、本当に有難う! 貴方と貴方の音楽を知り合えて、僕は幸せです。どうか体を大事にしてこれからも元気で、テナーを歌い上げてほしい。 【2008.5.16.のセットリスト】Sonny,Please、 They Say It's Wonderful、 In The Sentimental Mood、 Someday I'll Find You、 Nice Lady、 Serenade、 St.Thomas、 Why Was I Bornこちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/05/18
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B バルチモア・キッセス(Baltimore Kisses) 鉢か甕(かめ)に、鶏卵の白身ばかり六個分を入れ、メープル・シロップかメープル・シュガーを適宜な量だけ加えて甘みをつけ、充分にかき立てて泡雪に仕立て、別に壜(びん)のまま冷やしたカーラント・ワイン【注1】一壜を、泡雪をなほかき立てながら、初めの間は少しずつ加えて行って全部を混ぜ合わせ、四個の水呑につぎ分けてすすめます。 ビショップ(Bishop) ソーダ水呑に砂糖小匙(さじ)で一杯を入れ、水小匙で二杯を加えて溶かし、次にレモンの輪切二片(きれ)か又は搾り汁小匙で一杯を加え、氷の塊一個を入れ、ソーダ水を四分の三位までつぎ入れ、更にジャマイカ・ラム二注(つぎ)と、赤葡萄酒か或いはレッド・バーガンデー【注2】一ジガーを加え、充分にかき混ぜ合わせて氷をとり除き、麦稈(むぎから)をさしてすすめます。 ブラック・ストライプ(Black Stripe) ソーダ水呑に、ニュー・オルレアン・モラッセス【注3】を大匙で一杯とクロアクス・ラム【注4】一ジガーとを加え、冬期は熱湯をつぎ入れ、かき混ぜ合わせてすすめ、夏期には氷水をつぎ満たし、よくっかき混ぜ合わせ、麦稈をさしてすすめます。 ブラックソーン・カクテル(Blackthorn) 調合器に砕き氷を入れ、フレンチ・ヴェルモットとイタリアン・ヴェルモット、およびスロージンの三種を各一ジガーずつ加え、次に香料としてオレンジ・ビター二滴とアンゴスチュラ・ビター一、二滴をたらし、充分にかき混ぜ合わせカクテル・グラスに漉してつぎ分け、レモンの皮一そぎずつを押しつまみ、浮かしてすすめます。 ブルー・ブレーヅァー(Blue Blazer)【注5】 銀鍍金(ぎんめっき)をかけた耳付盃(マグ)二個を用意して、その一個に砂糖小匙で一杯を入れ、熱湯で小匙で二杯位の量を加えて溶かし、次にスコッチ・ウイスキー一ジガーを加え、かき混ぜ合わせてマッチで火を付け、ぱっと火焔(かえん)が燃え上がったらば直ぐに、手早く別のマグにうつし、更に前のマグにうつし替え、この方法を四五回くり返している間に、酒精分がすっかり燃えつくしますから、そしたらナッツメグ少しをおろしかけ、レモンの皮一そぎを押しつまみ、浮かしてすすめます。 ブランデー・エンド・ガム(Brandy And Gum) 水呑にガム・シロップ大匙で一杯を入れ、氷の塊二つ三つを入れ、別に、氷水と、ブランデーを壜のまま添えてすすめます。 ブランデー・エンド・ソーダ(Brandy And Soda) 水呑に氷の塊二つ三つを入れ、ブランデー一ジガーを加え、ソーダ水を九分目までつぎ入れてすすめるか、または水呑に氷を入れ、別にブランデーとソーダ水を添えてすすめます。 ブランデー・ブァント(Brandy Burnt) 小皿の中央に角砂糖二個を置き、ブランデー一ジガーをつぎかけ、マッチで火を付けて酒精分を燃やしつくし、炎が消えたらば直ぐ水呑にうつし、熱湯を八分目までつぎ入れてすすめます。 ブランデー・シャンペレル(Brandy Champerella) シェリー・グラスに(一)レッド・キュラサオ四分の一、(二)アニゼット四分の一、(三)シャルトルーズ四分の一、(四)コギャク【注6】四分の一を、プース・カフェの場合と同様、静かに段々とつぎ入れ、別に氷水を添えてすすめます。もし好みなれば、初めにシェリー・グラスの中へアンゴスチュラ・ビター一二滴をたらし、グラスの内部に流してから四種の酒をつぎ入れてすすめます。 ブランデー・カクテル(Brandy Cocktail) 調合器に砕き氷を入れ、トッディ・ウォーター小匙で一杯、オレンジ・ビター二注、アンゴスチュラ・ビター二滴およびコギャク一ジガーを加え、充分にかき混ぜ合わせてカクテル・グラスに漉してうつし、レモンの皮一そぎを押しつまんで浮かし、別に氷水を添えてすすめます。 ブランデー・クラスタ(Brandy Crusta) まづカクテル・グラスの内側の縁(ふち)をレモンの薄切りで、むらのないようになでまわし、砂糖の中に伏せてレモンの露で湿らせた部分に砂糖をまぶしつかせて置き、別に調合器の中へ二つ切りにしたレモンの中身を除けて皮ばかりを起こして置きます。 その皮の中へガム・シロップ三注、オレンジ・ビター一注、ブランデー一ジガー、キュラサオ二注及びレモンの露半個分を入れ、静かによくかき混ぜ合わせて、前に用意して置いたカクテル・グラスの中へ、まぶし付けた砂糖のしずくを垂らさぬよう、グラスの中央を目がけてつぎ入れ、静かに持ち運んですすめます。 ブランデー・デイジー(Brandy Daisy) 中位の調合器に砕き氷を半分位まで入れて、レモン一個の搾り汁、オレンジ・コーディアル【注7】三注、及びブランデー一ジガーを加え、よくかき混ぜ合わせてパンチ・グラスの中へ漉してうつし、冷たいサイフォン・ソーダ水【注8】を九分目までつぎ入れてすすめます。 ブランデー・フィックス(Brandy Fix) ソーダ水呑に砕き氷を二分の一位まで入れて置き、別に中位の調合器に砂糖中匙で一杯を入れ、水中匙で二杯を加えて溶かす。次にレモン一個の搾り汁とウイスキー一ジガー、及びソーダ水呑に丁度一杯になると思われるだけの水をつぎ入れ、充分にかき混ぜ合わせて前のソーダ水呑の中へ漉してうつし、パインアップルの薄切り一片を浮かせ、麦稈をさしてすすめます。 【Bの項<下>へ続く】【注1】「カーラント」とはカシスやブルー・ベリーなどのスグリ類の木種のこと。従ってこのカーラント・ワインもスグリ類の実でつくったワインのことであろう。【注2】「バーガンデー」(Burgundy)とは、フランス・ブルゴーニュ(Bourgogne)地方またはブルゴーニュ地方産ワインのこと。「レッド・バーガンディー」とは、ブルゴーニュ産の赤ワインのことを指すのだろう。【注3】「ニュー・オルレアン」とは米国南部「ニュー・オーリンズ」のこと。「モラッセス」(「モラセス」とも表記する)は「廃糖蜜」のことで、砂糖を精製する時に発生する糖分以外の成分を含んだ黒褐色の液体。米国の一般家庭ではよく食用に利用する。【注4】「クロアクス・ラム(Croix Rum)」とは、カリブ海の米領ヴァージン諸島の「セント・クロイ(St.Croix)島」産のラムを指す。【注5】 現代の一般的表記なら「ブルー・ブレイザー」。カクテルの父とも言われるジェリー・トーマス(1830~1885)が生んだ代表的なオリジナル・カクテル。【注6】ご推察の通り、「コギャク」とは「コニャック」のこと。【注7】「コーディアル」とは身体を元気づけ、刺激する強壮作用のある食品、主に飲み物のこと。英米では、コーディアルは極めて甘い、(たいていは人工的に)濃縮されたノンアルコール飲料を指し、水で薄めて味わう。オリジナルのカクテル「ギムレット」は、生ライムジュースではなく、ライム・コーディアルを使用することで有名。「オレンジ・コーディアル」とは従って、薄めて飲む濃縮オレンジ・ジュースのような甘口飲料か。【注8】「サイフォン」とはコーヒー・サイフォンのように文字通り、器具・装置のことである。この「サイフォン・ソーダ水」という表現は、天然ソーダ水との比較として、秋山氏は用いているのかもしれない。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/23
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欧米には、芸術作品コレクターの富豪(パトロン)が数多くいます。そして欧米の有名美術館には、そうしたコレクターからの寄贈で所蔵作品を充実させてきたところが少なくありません。ニューヨークのメトロポリタン美術館のコレクションなどその典型的なケースでしょう。 さてオランダには、ゴッホ美術館に次ぐゴッホ・コレクションを誇る美術館があります。それが「クレラー・ミュラー美術館(Kröller-Müller Museum) 」です。その名からも分かるように、ある富豪夫婦のコレクションが基になっています。 オランダ生まれのアントン・クレラー(Anton kröller 1862~1941)と、ドイツ出身の妻、ヘレン・ミュラー(Helene Müller 1869~1939)=写真下((C)https://www.hogeveluwe.nl)。クレラーは造船業で財をなし、ミュラー家は鉱業を営む富豪でした。美術館は2人のコレクションを基にして、1938年に開設されました。とくに、ゴッホが大好きだった妻のヘレンは生涯に油絵約90点、素描175点を購入しました。他にも夫妻が集めた19~20世紀の絵画や彫刻作品が多数、常設展示されています。 この美術館の特異性はその立地です。アムステルダムから東南東へ約100km、電車とバスを乗り継いで約2時間、森林におおわれた約6000ha(東京ディズニーランド100個分!)もの広さのデ・ホーヘ・フェルウェ(De Hoge Veluwe)国立公園の中にあるということです。しかも、驚くなかれ、この国立公園の敷地も元々クレラー・ミュラー夫妻の私有地だったのです。 1930年代前半、夫妻の会社は世界恐慌のあおりで経営難に陥ります。長年集めたコレクションの散逸をおそれた夫妻は1935年、全コレクションと私有地をオランダ政府に寄付します。そして政府はその3年後、美術館を開設したのです。 オランダ3日目の26日(火)、僕らは、ゴッホ・ファンのもう一つの聖地、クレラー・ミュラー美術館に向かいます。今回の旅は個人旅行で、原則、ガイド(添乗員)はありません。 しかし、事前にネットでこのクレラー・ミュラー美術館を訪れた人の体験記をいくつか読むと、その不便な立地が故、いずれも「交通機関(手段)がややこしくて、大変だった」「初めての場合、個人で行くのはかなり苦労します」というものでした(写真は、毎度お馴染みのアムステルダム中央駅。オランダ国内どこへ行くにも、この駅が起点になるみたいです)。 なので、海外の旅では時間は有効に使いたい。そのためには必要な費用は惜しまないことにしました。日本での申し込み時に、クレラー・ミューラー美術館への往復の行程だけ、ガイドさんをお願いしました(ガイド料は往復の交通費や入場券代も込みですが、とてもリーズナブルだと思いました)。 ガイドさんはアムス在住約20年のWさんという40代半ばくらいの日本人の男性で、この日は僕ら以外には客はなかったので、早速出発です(写真は、朝9時15分、ガイドさんとの待ち合わせ場所に指定された中央駅・駅前のツーリスト・オフィス)。 アムステルダムから行く場合には、列車でアペルドールン(Apeldoorn)またはエーデ・ワーゲニンゲン (Ede-Wageningen) まで行き、そこからバスに乗り換えます。僕らはアペルドールン経由のルートを選びました(写真は、アペルドールン駅のホーム)。 アぺルドールンの駅前になぜか風車がありました。近くで見るのはオランダに来てから初めてです(オランダ国内の風車も昔に比べるとだいぶ減ったそうです。しかし観光立国には欠かせない文化財なので、今は維持管理に補助金も出ているそうです)。 とりあえず駅前のバス停で、オッテルロー(Otterlo)方面行きの「108」番の路線バスを待ちます。アペルドールンの駅前は、のどかな田舎のような、のんびりした雰囲気です。バス停ではすでに何人かの乗客がいました。 美術館(国立公園)に行くには、まずはバスでロテンド(Rotendo)まで向かいます。乗客は最終的に、僕らも含め15人ほどでしょうか。 約20分ほど走って、ロテンドまで来ました。ここで一回り小さい、国立公園行きの「106」番のバス(後ろの緑色のバス)に乗り換えます。別方面からの乗客も含めて、人数はさらに増えてきました。 「106」番のバスは15分ほど走り、国立公園の入り口に到着。ここで降りて、公園の入場券を買います(美術館に行くだけでも、公園の入場券がいちおう必要。美術館のチケットはガイドさんが事前に用意してくれてますが、公園の入場券はここでしか売っていないそうです)。 この公園入り口には無料のレンタサイクルがあるので、自転車に乗れる人はここから美術館や公園内に自転車で行けます。しかし、バスでそのまま美術館へ行くには、公園入場券を買った後、再び同じバスに乗らなければなりません。バスの運転手は5~10分ほど待ってくれますが、最後の1人までは待ちません。入場券を買う列が長ければ、このバスには乗れません。次のバスはなんと1時間後です。 公園入口で降りた乗客の3分の2くらいは、再び乗ってきませんでした。みんな自転車を借りて美術館や公園内のサイクリングに向かったのでしょう。 ガイドさんは「この国立公園入口の関門がいつも綱渡りで、ヒヤヒヤなんですよ。ただ、公園入場券を買ったかどうかは美術館ではいちいちチェックしないので、最悪の場合、買わずに乗って(美術館に)行っても何とかなるんですが…」とも。 幸い、僕らは列の最初の方で入場券が買えたので、無事、同じバスで美術館まで行けました(写真は、美術館前バス停付近。ここから森の中を5分ほど歩いたら、美術館です)。 「バスの車内で公園の入場券も売ればいいのに」と僕が言うと、ガイドさんは「それはバス会社の仕事ではないということで、やってくれないんです」と。合理主義のオランダと言いながら、この非合理的なシステム。なんとかならないんでしょうかねぇ。せめてネットで販売してくれたら、事前に購入できるのに…。 そんな話をしながら5分ほど歩いて、気が付けば、美術館の門(入り口)に到着です。ここから展示している建物まではさらに数分歩きます。 美術館の周辺には、いろんな現代アートが数多く、屋外展示されています。所蔵作品には意外と彫刻が多いのです(夫妻が亡くなったあとの第二次大戦後に、コレクションとして購入された作品も結構あります)。もっとも、クレラー・ミュラー夫妻にとっては当時、ゴッホも「現代アート」だったのかもしれませんが…。 これが美術館の本体建物。シンプルで、モダンなデザインです。周囲は木々がいっぱいで、とても素晴らしい環境です。 美術館は平屋の建物ですが、中はきれいで、ゆったりとした空間です。ロビーのネオンサインが、意外と館内の雰囲気にマッチしています。 絵が展示されている部屋は、天井から磨りガラス越しに柔らかい自然光が差し込み、とても明るくて絵が見やすいです(前日に訪れた国立美術館やゴッホ美術館は電気の光がメインだったので、照明はやや暗い感じでしたが…)。 さて、いよいよ珠玉のゴッホ作品の鑑賞です。なかでも「夜のカフェテラス」(1888年)は、この一枚の絵のために僕はここに来たと言ってもいい、大好きな作品です。南仏アルル時代に描かれたゴッホの最高傑作の一つ。長年、本物が観たいと恋い焦がれ続けました。 館内はフラッシュをたかなければ撮影OKです。絵の具の厚塗りや筆のタッチも生々しく、情念がこもった絵です。僕は、細部の筆づかいももっと見たいと、絵の部分アップ=下の写真(絵の右下部分の拡大)=も何枚か撮りました。 せっかくなので、クレラー・ミュラー美術館が誇るゴッホ・コレクションの中から少し、誌上展覧会を開催いたしましょう。これは言わずと知れた名作「アルルの跳ね橋」(1888年)。 ゴッホは、「ひまわり」以外にも、花の絵の傑作をたくさん残しました。「草原の花とバラのある静物」(1886~1887年)と題されたこの絵は、公式ガイドブックに収録されていませんでしたが、結構好きです。 「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット」(1886年)。パリのモンマルトルにある、「ギャレット(ガレット)の風車」の名を持つダンスホールを描いた一枚。ゴッホにしては珍しく、落ち着いた色合いです(セザンヌやモネの影響もあるような、ないような…)。 「星月夜と糸杉の道」(1890年)。ゴッホの苦悩がにじむ、亡くなる直前の作品。 「自画像」(1887年)。ゴッホは自画像をたくさん残していますが、僕はこのパリ時代の自画像が一番ゴッホらしくて、好きです。ちなみに、ガイドのWさんは、ゴッホ関連のことに実に造詣が深く、絵の解説も当を得たものでした。 クレラー・ミュラー美術館では約3時間の鑑賞時間を予定していましたが、意外と早く見終わってしまいました。とりあえずガイドさんと一緒に、外国人見学客がいっぱいの隣接の屋外レストランでお昼ご飯にすることにしました。団体バスツアーでやって来た日本人客の皆さんは、屋内レストランで集まって食事をしています。 バスでの団体ツアーは、この美術館のようにアクセスが悪い場合、とても便利ですが、鑑賞時間が制限されるうえに、個人行動はあまり出来ません。海外の個人旅行に付き物の「予定外のハプニング」もまず起こり得ず、現地の人たちとの触れ合う機会もほとんどありません。だから、僕らはやはり、個人(少人数)旅行の方が有意義に思います。 昼ご飯を終えた後、ガイドさんと今後の予定を話し合いました。ガイドさんからは「私の拘束時間は夕方5時までありますから、もしアムスで行きたい場所があるなら、早めに戻ってご案内しますよ」との提案がありました。 きょうは元々、アムスに帰ってから、ジュネヴァ(オランダ・ジン)酒場に行こうと思っていたので、願ったり叶ったりです。そういう訳で、食事の後、僕らは再びバスと電車でアムスへ引き返すことにしました(写真は、美術館の公式ガイドブック。英語版を買ったつもりが、帰国後に見ると、オランダ語版でした(笑)。絵はともかく、中の文章は皆目わかりませーん)。 <7回目に続く>※過去の「旅報告」連載は、トップページ中ほどのリンク「旅は楽しい」からお読みになれます。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/07/18
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皆さまへの大切なお知らせ 2024年2月15日成田一徹氏の作品を愛してくださる皆さまへの大切なお知らせがございます。「オフィス一徹(Office Ittetsu)」では、切り絵作家であった故・成田一徹(1949~2012)の没後、その残された原画作品の数々を大切に保管・継承し、時には個展で公開展示し、著作権保護にも務めて参りました。私(Bar UKマスター)も、「オフィス一徹」代表である奥様の素子様に協力して、作品保存だけでなく、作品に関する調査研究にも務めて参りました。一方で、一徹氏が生み出した唯一無比のアートを次世代への継承するにはどのような形が一番望ましいのか、奥様と共にずっと思い悩んで参りました。作品は永遠に残りますが、個人での保存・継承には、人間の命に限りがある以上、限界がございます。奥様と私は、将来のことを考えると、最終的には公的な組織・機関で保管・展示・活用して頂くことが最善の道であると信じて、この数年間、様々なお相手と相談・交渉を重ねて参りました。その結果、このたび、成田一徹の残された全原画作品および関連資料を、美術・文化の保護・発展に深い理解をお持ちのサントリー株式会社に寄託することに至り、今月、サントリー社側と正式な「寄託契約覚書」を交わしました。当面、作品の著作権は成田素子・オフィス一徹代表(著作権継承者)が引き続き保有いたしますが、今後は、作品の保存・管理についてはサントリー社が責任を持ち、作品の活用・展示等についても同社が優先的な権利を持つことになります。現時点での契約は、「寄託」という形になっておりますが、最終的には、「寄贈」の方向で話し合うことで双方とも合意しております。今回、サントリー社が受け入れる作品の点数はバーやお酒関係をテーマにしたものが約800点、バー以外の様々なテーマの作品が約2400点、計約3200点となっています。同社は、(株)TOPPAN様の協力で、今後数年間をかけて、全作品のデジタル・アーカイブ化を進めるとともに、作品を大切に保管し、次世代へ継承していく考えです。今回の寄託契約は、当初は、「山崎蒸留所100周年のイベントのため、成田一徹さんの原画作品の一部をお借りしたい」という申し出からスタートしたものでした。しかし、交渉を重ねるうちに、サントリー社側から「全作品を受け入れ、保管・活用していきたい」という、私たちの願いにも応える有難いお言葉を頂き、今回このような嬉しいニュースに至った次第です。サントリー社様には、その寛大なお申し出に心から感謝申し上げるとともに、生前、雑誌「Whisky Voice」の連載などで強い繋がりもあった成田一徹氏も、サントリー社に自らの作品が託されることには、天上できっと大喜びしているものと信じております。サントリー社は、バーやお酒をテーマにした切り絵作品については、山崎蒸留所、白州蒸留所内で展示するとともに、その作品を活用した多彩な商品も展開していく予定です。山崎蒸留所内では、早速一部の原画作品が展示されており、見学者へのお土産として、原画を使ったオリジナル商品の販売も近くスタートいたします。さらに、バー以外をテーマにした作品の数々についても、同社は今後、展示・活用の道を探っていく予定です。オフィス一徹では、将来的には、同社の関連施設でもあるサントリー美術館とも連携したプロジェクト、イベントも開催されることを願っており、同社も気持ちを同じくしております。成田一徹の作品を愛する皆さまにおかれましては、今後とも、その作品の将来を温かく見守って、応援して頂ければ幸いです。何卒宜しくお願いいたします。【追記】なお奥様のご厚意で貸与され、Bar UK店内で展示中の一徹氏の切り絵原画作品(貸与された32点中、現在23点を展示中)につきましては、Bar UKが廃業するまでの間、引き続き貸与されることで、奥様およびサントリー社様からご了解を頂いております。ご安心くださいませ。
2024/02/15
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バーUKは本日7月29日(水)、「テイスティングの集い」開催のため、原則として終日貸切営業となります。何卒ご了承くださいませ。Today( July 29th )the bar UK is fully booked for our whisky tasting meet-up. Thank you for your understanding.
2026/07/29
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日本のフォーク、ロック、その黎明期を振り返る ◆歌謡曲、演歌、民謡しかなかった邦楽の世界に いま振り返ると、1960年代後半から70年代後半の約10年間は、日本の音楽シーンにとっては、とても重要な時期だったように思います。 60年代後半、それまで歌謡曲、演歌、軍歌、民謡くらいしか聴かれなかった邦楽の世界に、まずフォークというジャンルの音楽が登場します。70年代に入るとフォークは、フォーク・ロックという方向へ発展し、そして初めて日本語で歌うロックが生まれ、その後「ニュー・ミュージック」という新たなジャンルが生まれていくという、まさに新感覚の邦楽の黎明期でした。 この60年代後半から70年代初めにかけては、「米国の音楽に負けるな!」と、情熱あふれる若いアーチストたちが数多くデビューし、職業作詞家・作曲家に頼らず、自分たちの感性でメロディーや詩をつくり、歌うアーチスト(シンガー・ソングライター)が輝きを持ち始めた時代でした(歌謡曲の世界でもその後、職業作曲家が洋楽のセンスを織り込んだ和風ポップスの曲を生みだしてゆきます)。 先日、ある友人から、当時の音楽シーンはどういう状況だったのかを尋ねる質問を受けました。そこで、私の記憶や印象に今も残り、多大な音楽的影響を受けた歌手、グループを、当時のレコードレーベルも含めて、そして私自身の音楽遍歴も交えて振り返ってみました(データは一応Wikipediaなどで確認しましたが、正確性の保証はありませんので、悪しからずご了承ください)。 ★1965~69 ◆まずフォークから始まった 1960年代後半、日本にフォーク・ブームが起きます。そのきっかけとなったのは、60年代半ばに米国から伝わったPPM(ピーター・ポール&マリー)やジョーン・バエズ、ブラザース・フォー、ボブ・ディラン、キングストン・トリオらのレコードでした。小学校5年生で初めてギターを買ってもらった私が、まず始めたのもPPMの曲のコピーでした。 まもなく日本ではマイク真木が歌う「バラが咲いた」(1966年)やブロードサイド・フォーの「若者たち」(同)、森山良子の「この広い野原いっぱい」(1967年)が大ヒットし、大学ではカレッジフォーク・ブームが起きて、フォーク・ソング同好会やサークルが次々と誕生していきました。 加山雄三がフォーク路線を狙って「旅人よ」を出したのもこの頃でした(ビートルズも64、65年頃には日本で人気を得ていましたが、ビートルズから直接影響を受けて誕生した、オリジナルを歌う歌手やバンドというものは、残念ながらこの頃まだ登場しなかったと記憶しています)。 一方、関西では、思わぬ形でフォークが注目を集めるようになります。1967年12月、京都の大学生3人(加藤和彦、はしだのりひこ、北山修)からなるフォーク・クルセダーズ(通称フォークル)というグループがメジャー・デビュー。デビュー曲の「帰ってきたヨッパライ」は爆発的にヒットし、オリコン初のミリオン・セラーとなりました。 このコミック・ソングのようなデビュー曲は、私はあまり好きではありませんでしたが、その後の発表された、「悲しくてやりきれない」「イムジン河」「青春は荒野をめざす」はお気に入りで、友人と一緒にやっていたフォーク・バンドでもレパートリーにしていました。当初「1年限りのプロ活動」を公言していたフォークルは、68年10月に解散しました。 (加藤は解散後、サディスティック・ミカバンドやソロ歌手としてあるいは作曲家として活躍したが、2009年に自殺。はしだの「その後」は本稿の「はしだのりひことシューベルツ」で後述。京都府立医大の学生だった北山は、解散後は芸能界とは距離を置き、九州大学医学部教授も歴任、精神科医・エッセイストとして現在も活動している) ◆反戦・平和、そしてプロテスト・ソング 1968年になると、ベトナム反戦運動や反安保闘争がさらに活発化してきます。フォーク歌手のなかにも、娯楽的な歌詞から一線を画し、社会的、政治的メッセージの色濃いプロテスト・ソングを歌う人が増えてきました。曲も自分たちでつくるシンガー・ソングライターが次々と登場してきます。 69年には、「URC(アングラ・レコード・クラブ)」という関西フォークを発信する独立系レコードレーベルが誕生します。URCは社会性の強いアーチストを発掘したのが特徴でした。この頃、活躍し始めた歌手やグループには、高石ともや、五つの赤い風船、中川五郎、岡林信康、高田渡、斎藤哲夫、遠藤賢司、加川良らがいました。このなかで、私が一番好きだったのは岡林信康です。 岡林のセカンド・アルバム「見る前に跳べ」とサード・アルバム「おいら、いち抜けた」は今でも、凄い名盤だと思います。後に“路線転向”した岡林ですが、この頃は反戦・反権力をメインテーマにしていました(「見る前に跳べ」では、後の、はっぴいえんどがバックをつとめていました)。当時、大阪の「春一番」ライブや、中津川のフォークジャンボリーは「フォークの聖地」として人気を集めていました。 ★1970~73 ◆日本語を初めてロックに載せたはっぴいえんど 70年安保の混乱と熱気が去った後、様々な音楽が生まれ、その中から大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆の4人からなるバンド、はっぴいえんどがバンドとしてメジャー・デビューを果たします(70年8月、当初はURCレコードから発売、のちベルウッド)。 はっぴいえんどはご承知のように、「日本語をロック音楽に乗せて歌った初めての本格バンド」と位置づけられています。1stアルバム「はっぴいえんど」(1970年発表)と2ndアルバム「風街ろまん」(1971年発表)は不滅の名盤だと思います。私は、「風街ろまん」発売直後のライブを大阪・難波の高島屋ホールで聴く幸運な機会が持てましたが、大瀧詠一亡き今、とても貴重で少し自慢できる思い出です。(少し個人的な話で恐縮ですが、ちょうどこの頃、私の参加していた3人編成のギター&コーラス・バンド「木の葉がくれ」も結成されました。はっぴいえんどの音楽は私たちの心をとらえ、当初は、その曲のコピーに熱心に取り組みました。洋楽では、もっぱらCrosby, Stills, Nash & Youngのコピーをよくしてましたが、その後、自分たちでオリジナル曲もつくるようになり、それは2枚のアルバムに結実しました)。 一方、旧来のフォーク路線でも、第二世代の歌手たちが登場してきます。1969年、吉田拓郎、泉谷しげる、海援隊らを世に出す「エレック・レコード」という会社が設立されます(しかし、エレックは放漫経営がたたって76年に倒産します)。 ◆「学生街…」が大ヒットしたガロの悲劇 この頃デビューした歌手・グループで、前述以外では、どんな人たちが記憶に残っているかといえば、次のような面々です。ガロ、ザ・ディラン2(セカンド)、赤い鳥、六文銭、あがた森魚、はしだのりひことシューベルツ、ブレッド&バター、はちみつぱい、RCサクセッション等々(ブレッド&バターは今でもまだ現役で活動してます)。 このなかで、私がとくに好きだったのはガロとザ・ディラン2、赤い鳥、シューベルツでした。 ガロは1971年、「日本のCrosby, Stills & Nash」を目指して結成された、コーラスを重視した3人編成のバンドでしたが、72年にリリースしたシングル盤の「学生街の喫茶店」(当初「美しすぎて」というシングル盤のB面用の曲だったのがレコード会社の意向でA面に差し替えられた)が大ヒットしてしまったのが不幸の始まりでした。 ガロにはその後、歌謡曲っぽいイメージが付きまとい、テレビで歌わされるのは「学生街…」ばかり。本人たちも不本意だったのか、わずか5年で解散してしまいました(メンバーの1人日高富明は1986年に自殺。もう一人のメンバー堀内護も2014年病死、現在は大野真澄だけが健在です)。 ディラン2は、60年代末、西岡恭蔵、大塚まさじ、永井ようの3人が当初「ザ・ディラン」の名で結成し、活動していました。彼らのオリジナル、「プカプカ」「サーカスにはピエロが」は今でも凄い名曲だと思います。メンバーのうち、西岡は1971年に脱退し、「ディラン2」自体も74年に解散します。 西岡恭蔵はグループ脱退後、ソロ歌手として精力的にライブハウスなどで活動していましたが、残念ながら1999年、その2年前に先立った妻の後を追うように自殺してしまいました…(涙)。残るメンバーだった大塚まさじ、永井ようは現在もそれぞれソロで精力的に活動し、時折り一緒にステージに立っています。 ◆「翼をください」は今や教科書にも 5人グループだった赤い鳥は「竹田の子守唄」でデビューし、ヤマハの「ライトミュージック・コンテスト」で優勝します。当初はフォーク路線でしたが、その後、紙ふうせん(2人)とハイファイ・セット(3人、現在は解散)に分裂してしまいました(赤い鳥時代の「翼をください」と「忘れていた朝」は今も大好きな曲です。「翼をください」は今では教科書にも載っていますね)。 「風」が大ヒットしたシューベルツは、フォークル解散と同時に、はしだのりひこが結成したバンドでしたが、メンバーの突然死もあって解散。はしだはその後、クライマックス(「花嫁」が大ヒット)、エンドレスと次々グループを換えながら音楽活動を続けました。晩年はパーキンソン病を患い、闘病生活をしながら時折りソロ活動も続けましたが、2017年、72歳で亡くなりました。 はっぴいえんどは1972年に解散。URCからその版権を引き継いだのが「ベルウッド・レコード」(1971年設立)でした。当時の「ベルウッド」のアーチストとしては、ほかにはっぴいえんど解散後ソロになった大瀧詠一や、山下達郎、大貫妙子らが目立っていました。 ◆1974~77 ◆数多くのスターを生んだポプコン 井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、小室等の4人が1975年、「フォーライフ・レコード」を設立します。ただし、経営方針をめぐるゴタゴタもあって、印象に残るような実績はあまり残せずに、2001年に会社は解散しました。 一方、ヤマハが1967年~71年に開催した「ライト・ミュージック・コンテスト」と、1969年に始まった「ポピュラー・ミュージック・コンクール」(通称「ポプコン」)からは後にメジャーになるアーチストが巣立っていきます。 ポプコン出身で目立っていたのは、中島みゆき、オフコース、チューリップ、小坂明子、八神純子らです(チャゲ&飛鳥もポプコン出身ですが、注目されるのはもう少し後です=1979年の「ひとり咲き」でメジャー・デビュー)。 中島みゆきは現在でも息長く活動中。オフコースのメンバーだった小田和正やチューリップのメンバーだった財津和夫はその後、ソロ歌手(シンガー・ソングライター)として活動し、現在でもなお名曲をリリースし続けています。 ◆ユーミンの衝撃デビュー ポプコン出身以外で衝撃的なデビューを果たしたのは、1972年に登場した荒井(現・松任谷)由実です。彼女の音楽は、コード進行やメロディーが当時としては、とてもおしゃれで、斬新でした。フォークでもロックでもない新しい感性の音楽分野は、まもなく「ニュー・ミュージック」と呼ばれるようになりました。 デビュー・アルバム「ひこうき雲」(1973年発売)と、セカンドの「ミスリム」(1974年発売)は、やはり日本の音楽史に残る名盤だと思います。昔、荒井由実時代のライブを天王寺野外音楽堂で聴けたことは、今でも私の自慢の一つです。 かぐや姫が人気を得たのもこの頃(1973~74年)ですが、個人的には、私たちのバンドの音楽的志向と少し違っていたので、「神田川」(73年発売)や「赤ちょうちん」(74年発売)はあまり好きではありませんでした(唯一、「妹」=74年発売=は好きでしたが…)。また、かぐや姫解散後、伊勢正三らがつくった「風」のシングル「22才の別れ」も結構好きで、聴いていました。 1973年にデビューした、名古屋出身の「センチメンタル・シティ・ロマンス」も都会的なセンスあふれる大人のロックを創り出すバンドで、現在でも息長く活動を続けています。 ◆ロック史上に輝く名盤「ソングス」 1975年、大瀧詠一は独自の「ナイアガラ・レーベル」を設立します。このレーベルからは、シュガー・ベイブ(山下達郎、大貫妙子らが中心となったグループ、76年に解散)やソロでの山下達郎、佐野元春、杉真理らが育ち、メジャーになっていきます。 この頃、私は邦楽では、荒井由実時代の4枚のアルバム(上記の2枚&「コバルト・アワー」=1975年発売、「14番目の月」=1976年11月発売)と、73年にデビューしたセンチメンタル・シティ・ロマンスの1stアルバム(75年発売、タイトルはバンド名と同じ)、それに75年4月に発売されたシュガー・ベイブのデビュー・アルバム「ソングス」を、レコードの針が擦り切れるほど聴いていた記憶があります。 「ソングス」は今聴いても素晴らしく、日本のロック史に輝く名盤と言っていいと思います。とくにこのアルバム1の名曲「ダウンタウン」はその後、エポら多くのアーチストによってカバーされています。 以上、駆け足でしたが、日本のフォーク&ロック黎明期の10年を振り返ってみました(でも、急いでまとめたので、誰か大事なアーチストを忘れていないかなぁ…)。 (文中敬称略)【おことわり】ロカビリーやGS(グループ・サウンズ)はなぜ“無視”したのかと言われそうですが、ロカビリーについては60年代前半までがピークだったことに加えて、米国音楽の翻訳・模倣音楽であるため、日本人によるオリジナルとは言えないというのが理由です。 また、GSは基本的に歌謡曲の延長線上に誕生し、曲も職業作詞家、作曲家に頼っていたグループが多かったので、あえて触れませんでした(ブルーコメッツは作曲も取り組んでいましたが、曲の雰囲気はフォークでもロックでもなく、歌謡曲がポップに発展したものと僕は考えています)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2012/09/24
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◆(4)禁酒法施行の前と後 ―― バー業界は、カクテル文化はどうなったか 禁酒法施行前の1890年~1920年の頃、米国のカクテル文化は急速に発展し、当時世界の最先端を行っていました。その背景には、この時期欧州各国から多数の移民が米国へ渡り、欧州各国特産のリキュールやハーブ、スパイスを持ち込み、各国の多様な文化を伝えたことも大きかったといいます。 しかし、禁酒法施行とともにホテルのバーや街場のサルーン・バー、クラブの多くは閉店を余儀なくさせられました。なかには、表向きは酒を出さないレストランに宗旨替えしたところや、裏通りに移転し、「もぐり酒場」に転向するところもありました(A、B、C)。 ニューヨーク・マンハッタンの高級レストラン・クラブだった「21Club」(今も現存)は、表向きは酒を出さない高級レストランとして営業しながら、常連客にはこっそりと酒を提供し続けました(写真左=禁酒法施行下の「もぐり酒場」の様子。女性がバーで飲む機会が増えたのも、実はこの時代だったという)。 「21Club」では店の玄関にドアマン(監視員)を常駐させ、客を装った取締官らしき人間が来たら店内に合図を送らせました。また、同じくニューヨークにあった会員制高級社交クラブ「The Yale Club(イエール・クラブ)」では、法施行前の猶予期間中に10年以上のストックをため込んだと伝わっています(A、B)。 これまで書いてきたように、法施行後、大都市ではマフィアやギャングが経営する非合法の「もぐり酒場」が急増しました。「1軒のバーが潰れると、2軒の『もぐり酒場』が生まれる」とも言われました(A、C)。(写真右=禁酒法時代には、酒のポケット瓶を足に隠して持ち歩くのが流行した。( C )Culver Pictures INC.)。 有名ホテルや街場のクラブ、バーで働いていたバーテンダーらは職を失い、別の職種に転向した者もいましたが、バーテンダーとしての働き続けるために、やむを得ず「もぐり酒場」へ移った者も少なくありませんでした(ニューヨークだけでも数万人いたとか)。 一方、当時ニューヨークで働いていたハリー・クラドック(後年の名著「サヴォイ・カクテルブック」の著者)に代表されるような志の高いバーテンダーの多くは、船で欧州やキューバなどのカリブ海諸国へ渡りました。彼らは渡航先のホテル・バーなどで働く場を得て、最新の技術・知識を持っていた米国のバーテンダーは、欧州などで高く評価され、歓迎されたといいます。 どのくらいの数のバーテンダーが米国外へ出たのかについては、現時点では正確な資料に出合っていませんが、その数は数百人とも千人以上とも言われています。結果として、当時最先端だった米国のカクテル文化が欧州に広まり、さらに発展することにつながったのは歴史の皮肉と言っていいでしょう。 意外なことですが、禁酒法時代は、カクテル文化がある種の発展を遂げた時代とも言われています。警察の目からアルコールであることをごまかすために、あるいは質の悪いアルコールの味をごまかすために、皮肉にも、フルーツ・ジュースやシロップ、リキュールを混ぜる工夫・技術が進んだのです。その結果、今も伝わるような有名なカクテルも誕生しました(例えば、「オレンジ・ブロッサム」=写真左、( C )WEBサイト「100%カクテル」から画像拝借。多謝です!=のような)。 輸入禁止となったスコッチ・ウイスキーや、医薬用以外では製造禁止となった国産のバーボン・ウイスキーに代わり、この時期、カナダ産のライ・ウイスキーやメキシコ産のテキーラ、カリブ海諸国産のラムなどが密輸入され(A、B)、「もぐり酒場」では多様なカクテルが発展していったのです。 【禁酒法時代の米国に続く】【主な参考資料・文献】「WK」→「Wikipedia(ウィキペディア)」(Internet上の百科事典):アメリカ合衆国における禁酒法「A」 →「禁酒法――『酒のない社会』の実験」:岡本勝著(講談社新書、1996年刊)「B」 →「禁酒法のアメリカ――アル・カポネを英雄にしたアメリカン・ドリーム」:小田基著(PHP新書 1984年刊)「C」 →「酒場の時代―1920年代のアメリカ風俗」:常盤新平著(サントリー博物館文庫 1981年刊)こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/11
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スペイン・バルには結構行っているのに、恥ずかしながら知りませんでした。こんなに旨いものだったとは!スペインのガリシア地方では、塩味で茹でて食べるのが人気で、名物料理だそうです。 先日、大阪で行きつけのバル「Q」にお邪魔した際、カウンターのガラスケースに、亀の手のような奇妙な海産物があるので、マスターのMさんに聞いてみたら、それが「ペルセベス」(Percebes)=写真左=でした。 「ペルセベス」はフジツボの仲間で、一応貝類に分類されています。塩味で茹でて殻(皮?)をむいて食べるだけというシンプルな食べ方で味わいますが、グロテスクな見かけと違って、これが旨いのなんの! 磯の香りが染み込んでいて、食感は、歯ごたえのある貝の身か、あるいは赤鶏系の鶏の身のような。殻は思ったより簡単にむけます。 日本のバルでは、メニューにしている店は少なくて、「Q」でも初めての入荷とのこと(九州・佐賀産だそうです)。4月~6月くらいの間しか採れないようなので、今が旬というか、もうシーズンは終わりかけかな。聞けば、日本でも「亀の手」とか「烏帽子(えぼし)貝」とか呼ばれて、日本でも全国の港町周辺では結構食べられているそうですが、都会へ出荷されることはまれなようです。 「ペルセベス」は辛口のシェリーや白ワインに、めちゃめちゃ合います。「やめられないとまらない」という「かっぱえびせん」のCMがありますが、まさにそんな感じ(写真右=「Q」で飲んだマンサニージャ「Sanluquena」。旨かった!)。僕は、フィノやマンサニージャを飲みながら、あっという間に30個ほどをたいらげてしまいました。ネットで見ると、通販でも売っていますが、残念ながら季節が限られているようです。 こんな美味しい食品をこの歳になるまで知らなかったとは、情けない限りです。後で調べてみると、ブログの友人のステラビアさんは、すでに2006年11月22日の日記で触れていました(さすがスペイン通!)。遅れていたのは僕だけぇ? あぁ恥ずかしい。国内外の料理には、僕がまだまだ知らないものがきっといっぱいあるんでしょうね。こりゃ、せいぜい長生きするしかありません。・こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/06/14
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オーセンティック・バーでも提供されることの多い自家製の「漬け込み酒」。実は何でもかんでも好き勝手に造れる訳ではなく、一応、法的な規制が厳然と存在します。バー業界のプロでも意外と知らないこうした日本国内での法的ルールについて、(以前にも一度書きましたが)改めて最新情報も含めてまとめてみました。ご参考になれば幸いです。 ◆2008年に自家製造のお酒の規制が緩和 バーUKでは、4種の自家製造の酒(しょうがを漬け込んだウオッカ、7種類のスパイスを漬け込んだラム、ザクロを漬け込んだカルバドス、レモンピールを漬け込んだリモンチェロ<ベースはスピリタス>)をお客様に提供していることはご承知の通りですが、友人やお客様から「それって、法律的に問題ないの?」と聞かれることが時々あります。 日本国内では、お酒を製造・販売(提供)するには酒類製造免許が必要です。お酒のメーカーが業として行う「果実や穀物などの原料から酒類を製造する行為」だけではなく、バーや飲食店等がお酒に様々な材料や他のお酒等を混ぜ合わせる「混和」という作業も、法的にはお酒の製造(新たなお酒を造っている)と同じ扱いを受けます。そして、アルコール分1%以上のお酒はすべて課税されます。 従って、バーや飲食店が無許可で自家製のお酒を造って提供するのは、基本、違法行為です。違反した場合は、酒税法第54条《無免許製造の罪》の規定に該当し、10年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処せられます(単なる無許可販売の場合は1年以下の懲役又は50万円以下の罰金=同法第56条)。 しかし現実には、許可を得ることなく自家製の果実酒等を提供している飲食店は、昔からありました。様々な果実やスパイス、ハーブ、コーヒー豆、茶葉等を漬け込んだ自家製のお酒を「店の名物」にしているバーも少なくありません。厳密に言えば、2008年の法改正までは、こうしたバーや飲食店等での「製造・提供行為」は限りなく「違法」行為でした。 国税庁もこれ以上「違法状態」を放置できないと考えたのか、それとも実態に合わせて少し制限を緩和すべきと考えたのか、2008年<平成20年>に租税特別措置法(酒税関係)が改正され、特例措置(例外規定)が設けられました。それは「客等に提供するため酒類に他の物品を混和する場合等、一定の要件を満たせば、例外的に酒類の製造に該当しないこととし、免許や納税等が不要となる」という特例です。 この結果、例えば「焼酎で作る梅酒」「しょうがを漬け込んだウオッカ」「ウオッカにレモンを漬け込んだリモンチェッロ」等は、酒類免許がなくても、バーや飲食店は法的な裏付けを持って堂々と製造し、提供することが可能になりました。 一方、個人が自分で飲むために造る酒(例えばよくある梅酒づくり等)は、かなり昔からとくに法的な規制はなく、旧酒税法(1940年<昭和15年>施行)でも禁止する規定はありませんでした。すなわち、個人の場合は事実上「黙認」状態でしたが、1953年<昭和28年>に施行された新・酒税法で初めて、「消費者が自ら消費するために酒類(蒸留酒類)に他の物品を混和する場合は新たに酒類を製造したとは見なさない」とする特例措置(酒税法43条11項)ができ、めでたく法的にも認められることになりました。 ◆使用が禁止されている穀物や果実に注意 このバーや飲食店等を念頭に置いた租税特別措置法の特例措置についてもう少し詳しく説明しましょう。適用対象は「酒場、料理店等、酒類を専ら自己の営業場において飲用に供する業」であり、具体的には、下記のようないくつかの条件を満たす必要があります。(1)酒場、料理店等が自己の営業場内において飲用に供することが目的であること(2)飲用に供する営業場内において混和を行うこと(3)一定の蒸留酒類とその他の物品の混和であること ※酒場や料理店等が客に提供するために混和する場合だけでなく、消費者(個人)が自ら消費するため(又は他の消費者の求めに応じて)混和する場合も、この「特例措置」と同様の規制を受けます。 また、使用できる酒類と物品の範囲は、以下の通り指定されています(この規定は個人が自分で飲むために造る場合も順守する義務があります)。(1)混和後、アルコール分1度以上の発酵がないもの(2)蒸留酒類でアルコール分が20度以上のもので、かつ、酒税が課税済みのもの(具体的には連続式蒸留焼酎、単式蒸留焼酎、ウイスキー、ブランデー、スピリッツ<ウオッカ、ジン、ラム、テキーラ等>、飲料用アルコール)(3)蒸留酒類に混和する際は、以下に示す禁止物品以外のものを使用すること (イ)米、麦、あわ、とうもろこし、こうりゃん、きび、ひえ若しくはでんぷん、又はこれらの麹 (ロ)ぶどう(やまぶどうを含む)=【末尾注1】ご参考 (ハ)アミノ酸若しくはその塩類、ビタミン類、核酸分解物若しくはその塩類、有機酸若しくはその塩類、無機塩類、色素、香料、又は酒類のかす (ニ)酒類(※国税当局に問い合わせたところ、「蒸留酒、醸造酒を問わず、ベースの蒸留酒と同一の酒類以外の市販の全ての酒類を指す」とのこと) ※なおこの特例措置は、前記のように店内での飲食時に提供する場合に限られ、お土産として販売するなどの客への譲り渡しは出来ません(個人が自宅で造る場合も、同居の家族や親しい友人等に無償で提供することはできますが、販売することは出来ません)。 ◆蒸留酒はOK、醸造酒はダメ 以上のように、例えばバーや飲食店等でよく見かける梅酒は、「蒸留酒である焼酎やウオッカ等(アルコール度数20度以上)に漬け込む」のはOKですが、日本酒は「醸造酒であり、通常アルコール度数も20度未満」ですから、二重の意味でNGです(まれに、度数20度以上の日本酒も存在しますが、バーや飲食店で提供する場合は「蒸留酒」しか使えないのでやはりダメです)。 また、梅酒に自然な甘さを出したいからと言って、氷砂糖の代わりに「麹」を使うのも「(3)の(イ)に抵触する」ため、当然NGです。また、ぶどう類を原料にして自家製ワインのようなものを提供すれば、ベースが醸造酒・蒸留酒等に関係なく、完全に違法行為となります。 さらに、年間に自家製造できる量の上限も、営業場ごとに1年間(4月1日から翌年3月31日の間)に1キロリットル以内と決められています(バーUKの場合は、4種類全部合わせても、たぶん月間で最大2~3リットルくらいなので、全然大丈夫です)。なお、この特例措置を受ける場合は、所管の税務署に特例適用の申告書を提出しなければならないとされています(バーUKも一応、申告書を提出しております)=【末尾注2】ご参考。 ◆「自家製サングリア」の提供は基本NG 気をつけなければいけないのが「自家製サングリア」です。サングリアとは「ワインにフルーツやスパイスを漬け込んだワインカクテル」のこと。アルコール度数も低く、フルーティで、お酒が苦手な女性にも飲みやすいので、「自家製サングリア」を食前酒やカクテルとして提供するバーや飲食店も少なくありません(私も何軒か知っています)。 しかし、ベースがワイン(醸造酒)なので前述した条件の「ベースが蒸留酒」にも「20度以上」というルールにも引っかかり、事前に漬け込むことが一般的なサングリアは、場合によっては「発酵」も起こるので、租税特別措置法の特例措置は適用されません。許可なく製造・提供すれば違法で、刑事罰(前述)が科せられます。 従って、現在の日本国内では、基本、自家製サングリアの提供はNG(違法行為)です。プロのバーテンダーの人でも、この規定を知らない人を時々見かけますので、本当に注意が必要です(ただし、自家製サングリアを公然と、あるいは内緒で提供していたというバーが国税当局に摘発されたという話は、個人的には過去聞いたことはありませんが…)。 なお、お客様が飲む直前にワインにフルーツを入れて提供するような場合については、「店舗内で消費(飲む)の直前に酒類を混和した場合(例えばカクテルのようなドリンク)は、そもそも酒類の製造に当たらない」という特例措置と同等に扱われるため、まったく問題ありません。 ◆目に余る行為でない限り、現実には「黙認」 くどいようですが、日本国内でお酒を製造するには、(そこがバーであろうとなかろうと)酒類製造免許(酒造免許)の取得が義務づけられています。なので免許を取れば、店内で自家製のビールやワイン、そしてサングリアを製造・提供することも法的には可能です=【末尾注3】ご参考。 しかし免許取得には、管轄税務署より「経営状況」「製造技術能力」「製造設備」等の審査、免許を受けた後も1年間の最低製造数量を満たしているか等の審査があります。製造しようとするお酒の種類ごと、また製造所(店舗)ごとに免許が必要です。普通のバーや飲食店等が独自で取得するのはかなり高いハードルがあり、そう簡単ではありません。 現状では、「自家製サングリア」を提供するバーや飲食店は時々見かけますが、それはかなりの部分で「グレーな行為」だと思われます。だが、国税当局は「年間通して常時、公然と一定量を提供したり、お土産で販売したりする」ような目に余る行為でもない限り、事実上「黙認」している状況です(いちいち摘発する手間も大変だからでしょう)。 個人的には、年に1~2度くらいの特別なイベント時なら、事前に申請すれば例外的に自家製サングリアの提供を認めてほしいと強く思います。しかし現状では、何かのきっかけで国税当局が厳しく規制してくることも十分考えられますので、まぁ基本的には、バーでは手を出さない方がいいと考えています。サングリアに近いアルコール・ドリンクを提供したい場合、前述したように、飲む直前にワインにオレンジやレモン、ライムなどのフルーツを加えるしかありません。 ここまで書いてきたことの要点(大事なポイント)をまとめておきますと、バーで提供できる自家製のお酒は、(1)20度以上の蒸留酒を使うこと(2)ぶどう類以外の材料を使うこと(米などの穀物類や麹もダメ)(3)店内で作り店内だけで提供すること(持ち帰り販売はダメ) ということです。この3つだけは常に頭に入れておきましょう。 ◆その場でつくるカクテルはOK では、バーの花形である「カクテル(Cocktail)」はどうでしょうか? バーでのカクテルは通常、お客様の注文を受けてその場でつくられ、飲む直前に提供されます。1953年に成立した酒税法には「消費の直前に酒類と他の物品(酒類を含む)を混和した場合は、前項の規定(新たに酒類を造ったものとみなす)は適用しない」(第43条10項)という例外規定があり、2008年の租税特別措置法の改正でも、この例外規定は受け継がれています。 従って、その場で作ったカクテルを提供することは全く問題ありません。提供の直前につくるカクテルなら、フルーツなどを混ぜても「発酵」することはあり得ないからです。また、店舗前のテラス、ベンチ等は、客がその場で短時間で消費する前提であれば、店舗内と同じ扱いとなります。ただし、店舗内・店舗前に関係なく、自家製酒や作ったカクテル等を容器に詰めたりして販売する(無償譲渡することも含む)などの行為は、「無免許製造」となるのでできません。 なお、個人が自宅においてカクテルを飲む直前につくる場合、家庭内で消費する限りは家族や来訪した友人にも自由に提供できますが、(別の場所に住む)他人の委託を受けてつくったりすると「違法」になるので注意が必要です(当然、販売行為もNGです)。 ◆「期限付酒類小売り免許」も一時制度化されたが… ちなみに、国税庁は2020年4月、コロナ禍で苦しむ飲食業を支援するため、バーや飲食店等が6カ月の期限付きで酒類の持ち帰り販売ができる「期限付酒類小売業免許」を新設しました(現在ではこの制度は終了)。昨年は、この「期限付小売業免許」を取得して、ウイスキー等を量り売りするバーもあちこちで目立っていました。 加えて、国税庁が「カクテルの材料となる複数の酒類や果実等を、それぞれ別の容器に入れて、いわゆる”カクテルセット”として販売することも、期限付酒類小売業免許を取得すれば可能」という見解を示したことを受けて、カクテルの持ち帰り販売(材料別に密閉容器等に詰めての販売)をするバーも登場しました。 ミクソロジストとしてバー業界でも著名なバーテンダー、南雲主于三(なぐも・しゅうぞう)氏は「期限付免許」を取得したうえで、自らの店舗で持ち帰り用のオリジナル・カクテルセットを販売されました。その後は、酒類製造免許を持つ会社とタイアップして、完成品の瓶詰めオリジナル・カクテルの販売(通販がメイン)も始められました。その南雲氏の体験談はとても参考になります(出典:食品産業新聞社ニュースWEB → https://www.ssnp.co.jp/news/liquor/2020/04/2020-0413-1634-14.html)。 ◆出来たこと・出来なかったこと ご参考までに、「期限付酒類小売業免許」で出来たこと・出来なかったことや許可要件等を少し紹介してみます。(1)瓶(ボトル)や缶のままでの販売は可能(※この場合の瓶や缶とはウイスキーやビール、ジン等の未開栓の商品を指す)。(2)来店時にその場で酒類を詰める量り売りも可。量り売りの場合、容器は客側が用意することが前提(店側が容器を用意する場合、容器代の伝票は別にすること)(3)来店前にウイスキー等の酒類を詰めておく「詰め替え販売」は、詰め替えをする2日前に所轄の税務署に届け出をすれば可能。(4)カクテルなどをプラカップに入れて蓋をして販売することはできない。(※ただし、事前にカクテルを材料別に密封容器に詰めておく「詰め替え販売」は、(3)と同様、事前に所轄の税務署に「詰め替え届」を出していれば可能)=【末尾注4】ご参考。(5)量り売りの場合はラベル表示は不要だが、詰め替えはラベルが必要。(6)2都道府県内にまたがる配送は不可。(7)酒税法10条(酒類製造・販売免許を得るための人的・資格要件)に違反していないこと。(8)新規取引先から購入したものは販売不可。既存の取引先からの酒類に限り、販売が可能。 ◆「期限付免許」は2021年3月末で終了 前述したように、期限付免許での「詰め替え届」が出ていれば、カクテルを材料別に密閉容器にボトリングまたは真空パックにしてセット販売することが出来ました。南雲氏は例えば、ジン、カンパリ、ベルモットを密閉容器に詰めて、オレンジピールと一緒にして「ネグローニ・セット」として販売。お客様も自宅で手軽に、プロ並み(に近い?)のカクテルが楽しめたのです。 南雲氏は当時、「小売と同じことをしても価値はない。バーにしかできない売り方が付加価値となります。例えば、ウイスキーのフライト(飲み比べ)セット、自家製燻製とウイスキーのマリアージュセット、クラフトジンとライムとトニックのジントニックセットなど、可能性は無限大です」と大きな夢を描いていました。素晴らしい取り組みだと思いました。 しかし、国税庁はこの「期限付酒類小売業免許」を2度の期限延長を経た後、今年(2021年)3月末を持って終了(廃止)してしまいました。4月以降も継続を希望する場合は、通常の「酒類小売業免許」を申請するように告知しています。コロナ禍がここまで長引くとは思わなかったということもありますが、せっかくの「期限付免許」はコロナ禍が収束するまでは存続させてほしかったし、一方的に終了してしまった同庁の姿勢はとても残念に思います。 その後も南雲氏は、日本国内のバーで、カクテルのデリバリー販売、テイクアウト販売が常時認められることを目指し、様々な団体やバーテンダーと連携して、国税庁への働きかける活動を精力的に続けられています。ぜひ応援していきたいと思っています。 ◆出張バーテンダーの扱いは? 時々見かける(そして、私自身もたまに依頼される)出張バーテンダーっていう営業は、出張先で用意された酒や材料を使ってカクテル等つくる場合においては、法律的な縛りはまったくありません(出張料理人・シェフも同じ条件ならば合法的な行為と見なされます)。厳密に言えば、食中毒を起こさないように注意する程度です。 ただし、出張先(店舗外)で提供するカクテルを、事前に作り置きして容器に詰めていくことはできません。租税特別措置法では、「当該営業場以外の場所において消費されることを予知して(事前に)混和した場合、特例措置にいう『消費の直前に混和した』こととはならず、無許可の酒類製造に相当する」とされています。 要するにバーにおいてのカクテルは原則として、「自らの店の中でつくって提供すること」「注文の都度つくること(作り置きすることはNG)」「注文した人が飲むこと」の3つの条件を満たす必要があり、出張先においても「(出張先は)自らの店と同じ扱いになる」ことも含め、この3条件を守らなければなりません。 以上、長々と書いてきました。2020年1月以降長く続くコロナ禍で、バーを含む飲食店は、非科学的なアルコール規制のために、苦境に立たされています。しかし、ピンチはチャンスでもあります。我々バーテンダーは、コロナ禍が収束した暁に、バー空間で味わうお酒の楽しさをお客様に実感してもらえるように、関係する諸法律には誠実に向き合いながら、より一層の創意と工夫を加えて新しい自家製酒やカクテルを提供していこうではありませんか。【注1】他の果物は混和してもいいのに、なぜ、ぶどう類だけは禁止になっている理由について国税庁は説明していませんが、おそらくは(正式の免許を受けて醸造している)国内のワイン用ぶどう栽培農家=製造業者の保護という観点があるのではないかと考えられています。【注2】特例適用申告書については、店で少量の自家製酒を不定期に提供している何人かのバーのマスターに聞いてみましたが、実際、個人営業の店で申告書を出しているところはそう多くないようです。現実には、少量で不定期ならば、国税当局も事実上「黙認」しているようですが、私は、妙な疑いをかけられるのも嫌なので、一応、法律に従って申告しています。 【注3】アルコール度数1%未満であればビールやワインを醸造するのに許可は必要はありません。市販の自家製ビール(またはワイン)製造キットがこれに当たります。なお、店内に小型の簡易な蒸留器を置いているバーを見かけることがたまにありますが、無許可でアルコール度数1%以上の蒸留酒を造る行為は「違法」になるのでご注意ください。【注4】南雲氏との2020年4月の一問一答で、国税庁酒税課は「カクテルは、仕様がグラスやカップ、プラカップ等で直後に飲むことを前提としている容器であれば(店舗内での)提供」と答える一方で、「結果として客側が持ち帰ったとしても、直ちに販売と言うのは難しい」との見解も示し、蓋のない容器での「テイクアウト」も事実上容認していました。しかし、期限付免許が終了した現在、カクテルの「テイクアウト」販売は残念ながら再びNGになっています。【2025年1月追記】コロナ禍収束後、ここ数年の間に、酒類製造免許を持つメーカーからは、ボトルに詰めたカクテル製品が続々と市場にお目見えしています(有名バーテンダーとコラボしている商品も目立ちます)。しかし消費期限等の制約もあり、現状ではマンハッタン、ネグローニ、マティーニなど度数の高いもので、劣化しやすいジュース類は使用しないカクテルに限られています。この類の「ボトル詰めカクテル」商品が今後定着していくかどうかは、現時点では未知数というしかありません。【おことわり&お願い】この記事は、バーにおける「自家製漬け込み酒」等について、現時点での酒税法、租税特別措置法上の一般的なルールや法的見解等をまとめたものですが、個別具体的な行為や問題についての適法性まで保証するものではありません。個別のケースにおける疑問や法的な問題、取扱いについては、バーや飲食店等の所在地を所管する税務署や保健所にご相談ください(※ご参考:酒税やお酒の免許についての相談窓口 → 国税庁ホームページ掲載リンク)
2021/06/04
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コロナ禍や飲食店への休業要請と関係ないつぶやきで、失礼します。日本はここ5~10年ほど、毎年天候不順が続いています。高校野球の全国大会はまだ2日目なのにいきなり雨で順延。今週は残りずっと雨予報で、試合消化に不安の声も出ています。甲子園球場も、そろそろ開閉式の屋根を付ける時期に来ているんじゃないでしょうか。天候に振り回される高校球児が可哀想ですし、阪神タイガースにとっても、雨での日程変更にほとんどなくなるメリットは大きいはずです。屋根を付けるには数百億円単位の巨額な費用がかかるとは思いますが、全国の高校野球ファンやタイガースファンの数を考えたら、クラウドファンディングしたらすぐに集まりそうな気がします。近年は高校野球の期間中、ケタ違いの猛暑になることが多く、熱中症など球児たちの身体への影響も心配されています。屋根はあまりに暑い時は半分閉めればいいですし、爽やかな気候で青空なら全開放すればいいのです。阪神電鉄さん、ここは英断を持ってクラウドファンディングしてくれませんか?
2021/08/12
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福井県って関西にも近くて、(原発も多いけど)温泉もたくさんあって、確か全国の都道府県「暮らしやすさ」度ランキングでは、沖縄といつも全国一、二を争うという県なんだけれど、近くに金沢(石川)や京都という観光の人気府県があるので、なんとなく“埋没感”が否めない(福井の皆さんごめんなさい)。 私も、出張とかで金沢や富山へ行っても、帰りの福井はいつも通り過ぎてしまうだけ。BARがあることは知っているんだけど、まだ一度も足を踏み入れたことがない。関西から近いのに、うらんかんろにとっては「今宵も、BARへ…」の「おすすめBAR」でもこれまで、なぜか空白県になっていた。 そういう訳で、先日、富山へ日帰り出張があった際、空白解消の絶好の機会だと、帰りのサンダーバード(JR特急)を途中下車して福井市内でBAR巡りを敢行することにした。以下は簡単だけれども、そのご報告。【洋酒カクテルバー・ニュー淀】 とりあえず1軒目にお邪魔したのは、福井では最も老舗BARだというこのお店。1970年のオープンというから、今年で41年目を迎える。福井駅からは徒歩7、8分の「順化」という盛り場エリアにある。 なぜここを1軒目にしたかと言えば、お目当ての店の中で、一番オープンの時刻が早かった(午後5時半)から。地方都市のBARは開店時刻が遅くて、日帰り出張族にはあまり有難くないが、ここは早いので嬉しい。 明かりのついた大きな看板のあるビルはすぐに見つかった。重い扉を開けると、少し塗装がはげて年季を感じさせるカウンター、重厚で歳月を感じさせるバックバー、そして柔らかい雰囲気で接客をしてくれるマスター。どこを切り取っても、「良い老舗BAR」の見本のような店だ。 「1週間ほど前に電話した者です」とまず挨拶。地方都市だとたどり着いたら臨時休業なんてこともよくある。だから、僕は前もって、この日開いていることを確認しておいた。「あー、あの方ね。わざわざ本当にありがとうね」とマスター。 マスターのSさんは今年71歳。業界の重鎮で、関西でもその名が知れる。それもそのはず、40年ほど前のNBAの全国カクテルコンペで準優勝したという輝かしい経歴を持っている。美味しいカクテルやハイボール(指定しないのに、マッカランでつくってくれた!)を味わいながら、Sさんから昔のバー業界の秘話をあれこれ聞かせてもらい、僕は大阪や神戸のBAR業界の最近の様子を(知っている限りだが)お話しした。 心地よい空間で、マスターと話し込むうちに、あっと言う間に1時間が過ぎた。いけない! きょうは日帰りで、最終のサンダーバードで帰阪する予定。あと2軒は回るつもりなので、後ろ髪をひかれつつお別れする。【Bar LOTUS(ロータス)】 ニュー淀から歩いて数分。次にお邪魔したのは、いま福井で一番実力派と言われるオーナー・バーテンダーOさんの営むこの店。カクテルコンペでも優秀な成績をおさめた方で、大阪で懇意のマスター(複数)からも、「福井へ行くならLOTUSだけははずさないで」と言われていた。 ドアを開けると、まだ開店したばかり(店は7時オープン)。「少し遅刻して、まだバタバタしてますが、すみません!」とOマスターの快活な声が返ってきた。 「前から一度来てみたくて、きょうは富山の帰りに福井で途中下車しました」と僕。店はカウンター7、8席とテーブルが二つ。内装はスタイリッシュだが、コーナーに和の雰囲気の石庭があったりしてとてもおしゃれだ。 Oさんは、コンペでバーテンダーが着るような白いバー・ジャケット姿(大阪でもいまどき珍しい正装)。理由は尋ねなかったが、いつもきちんとした仕事がしたいという心意気の現れか。だが、Oさんはその端正な姿とは真逆で、おしゃべりで話好きで、初対面でもすぐ打ち解けてしまえるような気さくさ。一言で言えば、話していて実に楽しい方なのだ。 せっかくだから、2杯目はOさんが一番つくるのが好きだというギムレットをいただく。結構ハードシェイクで、僕好みの「細かい氷がいっぱい浮かせる」つくり方。味もきりっと締まって、実に美味い。地方都市にも、こんな素敵な人柄のバーテンダーがいて、居心地よい酒場があることを福井の人はもっと自慢していいと思う(料金も、1軒目の「ニュー淀」と同様、実に良心的)。 帰り際、Oマスターは「これ、帰りの電車の中ででも、ビールのアテにどうぞ」と乾き物の小さな袋を一つくれた。初めてやって来た出張の旅人にも、こんな優しい心遣いができるなんて! 都会のバーテンダーも見習うべき点は多いのではないだろうか。皆さんも福井にお越しの際は、ぜひ「LOTUS」へ。【Bar Dufftown(ダフタウン)】 最後もう1軒と立ち寄ったのは福井一モルトの品揃えを誇るというこの酒場。暗い通りで、看板がかなり高い位置にあって気づきにくく、店のドアには何のプレートもないので、一瞬「お休みか?」と思ったが、ドアを開けると、ウッディで温かい空間が目に飛び込んできた。 カウンターに座って、「最終のサンダーバードまで、1時間弱飲ませてください」と挨拶。バックバーのシングルモルトのボトルは、都会のBARにも負けないくらいの充実度。ヒゲが似合うKマスターは基本、物静かだけれど、モルトの話をし始めたら止まらない。モルトへの愛が感じられる。アイラ島の蒸留所を訪れた話も披露してくれた(4年前にアイラ島を訪れた僕と、話が合って盛り上がったのは言うまでもない)。 店はカウンターが10席ほど、テーブルが4つほどあり、なおかつカウンターとテーブルとは程よい間隔が空いているため、実にゆったりした空間だ。グループで来ても十分対応できる広さだ。モルトだけでなく、ビールも種類も豊富だという。ただ、ここもオープンは午後7時と遅めだ(当初は5時半オープンだったそうだが、やはり地方都市だと客の出足はどうしても遅めになり、そうした対応になるのだろう)。 僕はこの夜、シェリー樽熟成のボウモア16年(オフィシャルボトル)と、ラフロイグのクォーター・カスクと計2杯をいただいた。お値段は最初の2軒と比べたらやや高めだが、それでも都会のバーに比べたら、良心的だろう。福井で、こんな心地よいモルトBARに出会えたことに感謝して、僕は家路についた。 福井のBARのマスターの皆様、温かいおもてなしを本当に有難うございました。【洋酒カクテルバー・ニュー淀】福井市順化1-17-21 旭ビル1F 0776-24-1725 午後5時半~1時 日休 【Bar LOTUS】同市順化1-6-7 金津屋ビル2F 27-2788 午後7時~午前4時 月休 【Bar Dufftown】同市順化1-1-10 シルクビル1F 30-1171 午後7時~午前2時 日休 ※ニュー淀のSマスターはその後(2019年)天国へ旅立たれました。心からご冥福をお祈りいたします。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2011/11/27
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今回は、かなり関西(大阪?)ローカルなテーマなので、関西以外の方は(読んでもたぶん面白くないから)読み飛ばしていただいて結構でーす。 関西では新聞やテレビのニュースでもよく報道されていたけれど、大阪・梅田の阪急百貨店内にある旧・阪急梅田駅舎コンコースが、百貨店の改築のため取り壊されることになった。 見納めになるという13日の夜、僕は会社帰りに立ち寄り、デジカメで写真に収めた(写真左)。僕と同じようにデジカメや携帯で思い出に残そうという勤め帰りの人たちが、想像以上にたくさんいた。改めて、この空間はみんなに愛されていたんだということを確認した一瞬だった。 梅田と言えば、大阪最大のターミナルであり、いわゆる「大阪キタ」の中心地。JR(大阪駅)、阪急、阪神、地下鉄という4つの鉄道が結節し、百貨店は阪急、阪神、大丸という3つの大手が顔を付き合わせる、大阪市内最大の繁華街(近い将来には三越もできる)。 京都生まれで、大阪育ちの僕は、子どもの頃、京都市内の祖父母の元へ行くのに、いつも阪急京都線を利用した。当時は(現在の四条河原町とは違って)四条大宮が終点で、いつも阪急の梅田駅から特急に乗った。そして、当時の改札口は、今回の改築でなくなるコンコースの中央にあった。 現在の阪急梅田駅のホーム&改札口は、70年代の大改造で、昔の場所より300mほど北に移された。だから、この旧コンコースは、昔の駅舎の面影を伝える唯一の証人。会社の若い同僚に、そういう話をしても「へーっ、そうやったんやー」と驚くだけ。僕は今でも、この場所に立つと、昔懐かしい改札口の風景がよみがえる(写真右=阪急百貨店&阪急梅田駅。昭和4年=1929=の建築。外壁のゆるやかなカーブが美しい)。 60年代半ばまでは、梅田駅を発車してわずか数分もすれば、まだあちこちに田畑が広がっていた。車窓から見る、今のヤンマーの本社ビルの周辺や、梅田ロフトの辺りは、ほとんど何の建物もなかった。 梅田の駅前にも、戦後の焼け跡闇市の名残がまだあった。阪神百貨店の南側には、区画整理の及ばない、小さな店がひしめく怪しい一角があり、僕はよく探訪した(その一角も10年ほど前についに一掃された)。 そんな梅田(大阪駅)界隈も、この数年で相当様変わりしようとしている。時代が変われば、街の風景も変わるのは当たり前だけれど、当時の、あの猥雑な梅田の面影を残すエリアも、、今では、曽根崎・お初天神の辺りだけになってしまったのは、何となく悲しい。 新聞によれば幸い、阪急百貨店は、あのコンコースにある壁画やシャンデリアは保存して、改築後の建物のどこかに活用すると話していた。子どもの頃の思い出が残るのは嬉しいが、個人的には、ニューヨークのグランド・セントラル駅にも似たあのアーチ型の旧駅舎=コンコース全体を保存してほしかった。 「建築物には寿命がある」と役人や(馬鹿な)建築家は言う。そう言うならば、「ロンドンやパリやプラハの街並みを見ろ」と僕は言いたい。100年、200年前の建物が今なお、現役のものとして、住民が活用しているではないか。そして、街全体が今も生きているではないか。 街や、建物に寿命があるなんて決めつけるのは、人間の傲慢でしかない。身近な街並みが、本当に歴史的使命を終えたのかどうかは、役人や経営者や建築家だけが決める問題ではない。最終的には、市民(住民)の選択に任せるべきだろう。
2005/09/15
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神戸のオフィスに先日仕事で立ち寄った後、同僚らと中華街(南京町)で軽めの夕食。その後、1軒BARをはしごした後、僕は同僚らと別れて、ひとり南京町からさらに南の「海岸通」方面を目指した。 「あのBARは今どうなっているだろうか?」とふと、思い出したから…。「店じまいした」という噂あるが、それが本当かを確かめたかったこともある(写真左=こんな暗い路地の奥に素敵なBARがあるなんて…)。 神戸に行っても、この港に近いエリアまで来ることは今では少ない。オフィスや小さなブティックやカフェばかりで、夜は人通りの少ない、静かなエリアになる。 だが、昔、20数年前、神戸で仕事していた頃は、夜は結構華やかだった。外国人船員相手の酒場、いわゆる「外人バー」が数多く集まる歓楽街としても知られていた。 海外からコンテナ貨物船が着くたびに、陸(おか)に上がった船員たちが集い、店内からは賑やかな声が、さまざまな国の言葉で、表通りまで漏れ聞こえてきた。国籍はデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ギリシァ、イギリス、タイ、フィリピンが多かった。 表のドアに「日本人お断り」と掲げた店が多かった。日本人は船会社の関係者くらいしか出入りできなかった(店が、外国人船員と日本人客とのトラブルをおそれたためらしい。)。そんな「外人バー」の名残りを伝える酒場は、今では数えるほど。朝着いたコンテナ船が夕刻にはもう出港してしまう現在、船員たちは陸に上がって酒場に癒しを乞うこともできない(さびしい時代になった…)。 いま、元町界隈の酒場には外国人船員の姿はほとんどなく、BARで目立つのは日本の若者ばかり。かつての「外人バー」はさびれ廃れ、今残る店はほとんどが「日本人もウエルカム」だ(写真右=怪しげな灯りがいいなぁ、このエントランス)。 僕がこの夜思い立ち、向かったのは、そんな昔の「外人バー」の1軒、「チャーリー・ブラウン(Charlie BRown)」という店。通い始めたのは20数年前。マスターは、「キディ」という愛称のデンマーク人(男性)だった(本名は「キディ・プリスコフ(Kidde Priskov)」と言った)。 彼自身、デンマークの船会社の船員だったが、縁合って訪れた神戸を気に入り、そのまま居ついてしまったらしい(そういう外国人・元船乗りは神戸に実に多かった)(写真左=とりあえず通りに面した青いネオンが目印)。 中華街から南へ歩いて数分。一見さんは絶対に見逃しそうなビルとビルの間の実に細い、暗い路地の奥に、その酒場はあった。紹介者と一緒でなければ、勇気が出ず、とても入れないようなロケーションにある。 まさに「究極の隠れ家BAR」と出合い、僕は一目惚れした。キディは日本語は少しは話せるのに、無駄口も愛想もほとんどなしという静かな男だった。僕には、そんなキディの所作がとても格好よく映った。神戸を離れた後も、年に数回は、キディの顔を見に訪れた。決して珍しい酒があるわけでもない。ただその怪しげな空間が何よりも好きだった。だから、一緒に連れて来る人は、大切な人に限った。 そんな「チャーリー・ブラウン」だったが、突然の病(後に知ったが、白血病だったという)がキディを襲う。闘病中も時々店に出ていたが、少しつらそうな姿で接客していた。そして1994年、別れを言う間もなく天国へ旅立ってしまった。まだ50歳の若さだった。キディの早すぎる死は、この酒場を愛する人間に取って、むごすぎる現実だった。彼が入院中、そして亡くなった後もしばらくの間、彼の妹と言う女性がカウンターを守った。 さらにその後も、関係がよく分からない外国人男性が店を仕切っていたが、キディのいない「チャーリー…」には、しばらくは近づく気が起きなかった(写真右=ドアを入ってすぐ右にはキディが愛したジュークボックスが…今も)。 しかし、僕の若き日の思い出が染みついた「チャーリー…」。この夜に躊躇はなかった。随分と久しぶりなので、店への道順も若干忘れ気味だったが、何とかたどり着けた。 店には常連らしい年配の女性客が1人。カウンター内には、初めて見る高齢の女性が1人いた。頼んだウイスキー味わいながら、僕が昔、この「チャーリー…」によく通ったことやキディという名のマスターがいた思い出などを話した。 すると、その女性が僕に近づいてきて、「私、キディの妻だった人間です。律子と言います」と話した。生前、キディは家族などプライベートなことは一切口にしなかった。長く日本に定住していたので、考えてみれば何ら不思議ではないのだが、彼に日本人の奥さんがいたことは少々驚きだった。 聞けば、キディさんよりは9つ歳上で現在71歳という。シャイだったキディの思い出や近所の外人バーの「その後」などを語り合いながら、僕は律子さんと素敵なひとときを過ごした(写真左=上等な高い酒は置いてないけれど、実にあったかい雰囲気)。 「キディ、素敵な店を残してくれて有難う。貴方の残した財産は貴方の愛した人にしっかり守られ、今も輝いているよ」。帰り道、僕は天上のキディにそうつぶやいた。【Bar Charlie Brown】神戸市中央区海岸通1丁目2-15 電話なし 午後7時くらい~11時半 不定休
2006/10/19
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約1カ月ぶりのご無沙汰でしたが、Bar UK写真日記です(By うらんかんろ)。 マスターはこの日、お客様から誘われて、シンガー・ソングライターのRay Yamadaさんのライブにお邪魔しました。ライブの後は、お客様3人と一緒に居酒屋へ。その店のメニューに「たこ焼きセット」なるものがあり、もちろん注文しました。関西人にはやはり、たまらない味です! バーUKのお酒のラインナップに初めて梅酒が仲間入りしました。しかし、そこは普通の梅酒ではありません。ウイスキー樽で熟成させた梅酒(95%)と梅酒樽熟成のグレーン・ウイスキー(5%)とをブレンドしたという「山崎・焙煎樽梅酒」です。甘さ控えめの上品な味わいです。ぜひ一度ご賞味を! 「初めて来られたお客様にバーUKのことをもっと知ってもらいたい」というマスターの願いを生かした小冊子(A6判、4頁)ができました。バーUKのコンセプトや特徴、主なドリンク&フードメニュー、そして営業日・営業時間等のデータも紹介しています。もちろん、口コミの大切さを重んじるマスターは、常連のお客様にもお渡しして、まだバーUKのことを知らない方にも宣伝してもらえればと願っています。 常連のお客様のご協力もあって、上記の小冊子の英語版もできました。これは訪日&在日の外国人(とくに欧米から来られた皆様)のために作成したものです。来阪する欧米系の外国人の方がよく利用するホテルでもバー案内の際、役立ててもらえると思っています。 マスターは、きょうは閉店後にモルトのお勉強です。スコットランド・セントアンドリュースにできた新しい蒸留所「Eden Mill」。まだ日が浅いのでウイスキーは販売できず、蒸留前のニューメイクスですが、なかなか良い味に仕上がっていたとのことです。 マスターの趣味の一つは、バラ栽培。ことしもお気に入りのチャールストンが咲きました。 きょうは開店前に、ウイスキーのお勉強。台湾のモルトウイスキー「カヴァラン(Kavalan)」のセミナーです。「美味しいし、クオリティも高いんだけど、値段がねぇ」とマスター。購入先として、中国本土の金持ちがターゲットになっているので、高級路線の経営戦略です(ほとんどが1本1万5000円以上)。バーUKでは一番低価格(8000円台)の「コンサートマスター(ポートワイン樽熟成)」という銘柄を置いていますが、マスター曰く「これでも十分美味しい」とか。 きょうはマスターの休日。去年秋に旅したチェコの郷土料理「クバ(Kuba)」に挑戦しました。大麦とドライマッシュルーム、玉ネギを使ったリゾットのような料理です。大麦はこういう形で食べるのは初めてだそうですが、「プリプリした食感が美味しい、不思議な味わい」なんだとか。皆さまも機会があればいかがですか?【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途土曜に月2回、水曜に月1回不定休(月によっては変更されることも有り)。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。オープン~午後7時まではノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2016/05/07
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91.ホワイト・レディ(White Lady)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)ジン(30~40)、ホワイト・キュラソー(またはコアントロー、トリプルセック)(15)、レモン・ジュース(15) 【スタイル】シェイク ※1960年代までは、上記レシピに卵白(1個分)を加えるレシピも一般的でした。 代表的なクラシック・カクテルの一つです。欧米のバーでは、少なくとも1920年代半ば頃には認知されていたと思われます。日本では卵白を入れないレシピがほぼ定着していますが、欧米のホテル・バーなどでは、(サヴォイ・ホテルのバーのように)現在でも卵白を入れるスタイルで提供しているところが少なくありません。 誕生の経緯については、以下の3つの説が伝わっています。有力なのは(1)と(2)ですが、今なお決着はついていません。名前の由来も正確には伝わっていませんが、カクテルの「輝くような白色」から「貴婦人(レディ)」をイメージしたと思われます。 (1)パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」のオーナー・バーテンダー、ハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)が考案した。 マッケルホーン自身は、自著のカクテルブック「Harry’s ABC Of Mixing Cocktails」に「1919年、ロンドン・シローズクラブ(The Ciro’s Club)時代に考案した」と記しています。 ただし、マッケルホーンのレシピは1919年の考案当初、ベースはジンではなく、コアントロー(オレンジ・リキュール)でした(レシピは「コアントロー3分の2、クレーム・ド・マント=ペパーミント・リキュール6分の1、ブランデー6分の1、シェイク」)。マッケルホーンはその後、「10年後の1929年に、ジン・ベースへ変えた」と自著に記しています(出典:Wikipedia英語版)。 (2)ロンドン・サヴォイホテル(The Savoy Hotel)のバーテンダー、ハリー・クラドック(Harry Craddock)が1920年代に考案した。 サヴォイ・ホテルのHPは「ハリー・クラドックが同ホテルのアメリカン・バーで考案した」と記し、「サヴォイ・カクテルブック(The Savoy Cocktail Book)」(1930年刊)にも収録されています(出典:同)。 (3)フランス・カンヌのカールトン・ホテル(The Carlton Hotel)のバーで考案されたという説もWEB上では紹介されていますが、時期も裏付け資料は示されていません。 クラドックは少なくとも1920年代半ばまでにはサヴォイ・ホテルのバーで「ホワイト・レディ」を提供していました。マッケルホーンによるジン・ベースの「ホワイト・レディ」の考案が1929年であるならば、現代の標準的な「ホワイト・レディ」については、クラドックによる考案の方がおそらくは先んじていたと思われます。 ご参考までに、1930年代~50年代の欧米の主なカクテルブックで「ホワイト・レディ」がどのように紹介されているか、ざっと見ておきましょう。・「Cocktails」(Jimmy of the Ciro's著、1930年刊)米 マッケルホーンのレシピと同じ・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 ドライ・ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「The Artistry of Mixing Drinks」(Frank Meier著、1934年刊)仏 ジン2分の1、ホワイト・キュラソー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「Mr Boston Official Bartender's Guide」(1935年刊)米 ジン1.5オンス、生クリーム1tsp、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William Boothby著、1934年刊)米 /・「Café Royal Cocktail Book」(W. J. Tarling著、1937年刊)英 ドライ・ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1(シェイク)・「The Stork Club Bar Book」(Lucius Beebe著、1946年刊)米 ジン1.5オンス、コアントロー4分の3オンス、レモン・ジュース半個分、卵白1個分(シェイク)・「Trader Vic's Bartender's Guide」(Victor Bergeron著、1947年刊)米 ジン1オンス、コアントロー2分の1オンス、レモン・ジュース4分の1オンス、卵白1個分(または生クリーム)(シェイク)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham著、1956年刊)米 ジン3分の2、レモン・ジュース6分の1、コアントロー12分の1、卵白1個分(シェイク) なお、これも参考までに紹介しておくと、現代の代表的なバーテンダー、チャールズ・シューマン氏は、その著書「シューマンズ バー・ブック(原題:Charles Schumann American Bar)」の中で、ホワイト・レディを次のようなレシピで紹介しています。 「ジン40ml、ホワイト・キュラソー10~20ml、レモン・ジュース20ml、卵白1個分、パウダー・シュガー1tsp」(※卵白入りのレシピです!)。 ちなみに、プロのバーテンダーなら常識の範囲内ですが、ベースのジンをブランデーに変えると「サイド・カー」、ラムを使うと「X・Y・Z」、ウオッカを使うと「バラライカ」というカクテルになります。 「ホワイト・レディ」は日本には1930年代には伝わったと思われますが、カクテルブック上で確認できるのは戦後の1950年代になってからです。 【確認できる日本初出資料】「世界コクテール飲物事典」(佐藤紅霞著、1954年刊)。卵白を入れるレシピ(ジン3分の1、ホワイト・キュラソー3分の1、レモン・ジュース半個分、卵白1個分、チェリー1粒を飾る)、入れないレシピ(ジン2分の1、コアントロー4分の1、レモン・ジュース4分の1)の両方が紹介されているほか、ハリー・マッケルホーンのコアントロー・ベースのレシピも併せて紹介されています。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/11/04
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「この世に、永遠というものはない」。そんな言葉を以前、ある本で読んだ。確かに、人は貴賤を問わず、必ず死ぬ。形のあるものも、いつか不幸にして壊れることがある。その業界では老舗といわれる大会社だって、昨今は、瞬く間に姿を消してしまう。 BARも然り。銀座の名BAR「クール」は2003年11月、55年の歴史に幕を閉じた。オーナーの古川録郎さんは、後継者を作らず、自ら幕を引いた。「それが古川さんの美学だったのでしょう」と、ある銀座のバーテンダーは語った(そう言えば、神戸の名BARとして知られた「神戸ハイボール」の河村さんも、後継者を作らず、自分一代で店を閉じてしまった) 「クール」に先立つこと数年前、銀座6丁目で1軒の老舗BARが店を閉じた。「サン・スーシー(Sans Souci)」(写真右は、店の正面)。フランス語で「憂いなし」という意味の店名は、文豪・谷崎潤一郎の命名という(谷崎は「サンボア」の名付け親でもある。よほどBAR好きの酒飲みだったんだろうなぁ…)。 「サン・スーシー」は交詢社ビル(写真左)という銀座のランドマークとして有名な建物の1階に、昭和4年(1929)、開店した。初代オーナーは西川千代さんという女性だった。「舶来物に関心が強く、ハイカラな女性だった」西川さんは、当時は珍しかった、洋酒を飲ませるBARを開く。そして、店は新しもの好きの作家や、会社経営者、船会社の関係者らに長く愛されてきた。 それが、交詢社ビルの建て替えに伴って、2000年に店を閉じることになってしまった(実際はもう少し早く閉店したのかも)。僕が、「サン・スーシー」に初めてお邪魔したのは、もう20年以上前だろうか。 店のオーナーは、千代さんの娘である、と志さんに代変わりしていたが、店の内装やステンドグラスの窓など、レトロな雰囲気は(たぶん)昔のままだった。と志さんやカウンターのバーテンダーの方は、関西から来た若造を実に温かく迎えてくれた。 カウンターの後ろには、ゆったりとしたスペースに広いソファ席もあって、BARというより、サロンかラウンジのようで、家庭的な感じの店だった。音楽はない、静かな空間。本でも読みながら飲むと、とても似合いそうな雰囲気だった。 その「サン・スーシー」も、今はない。なぜ建て替え後の交詢社ビルにテナントとして入らなかったのか、不思議で仕方がない。最後は、と志さんの娘の富美子さんが3代目を継いでいたが、その後の消息は知らない(移転したという噂も聞いたが本当なのだろうか?)。 大阪でも「仏蘭西屋」「Be-in」、神戸でも「神戸ハイボール」「ルル」「ギルビー」などという素敵なBARが、今はもう、なくなってしまった。店を閉じた理由(事情)は、さまざまだ。「この世に、永遠というものはない」と分かってはいても、通いつめたBAR好きの人間にとっては、やはり寂しさだけが残る。
2005/04/05
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皆さまお待たせいたしました。「関西弁(大阪弁?)クイズ」(23日の日記)の正答です。正答に異論のある方、突っ込みを入れたい方のお返事をお待ちしております(※印は、前回も触れたように、いまや標準語化したとも言える関西弁かもしれませんが…)。1.あんばい※(加減、程あい、都合) 文例:.お風呂の湯加減、ええあんばいになっとったわー (料理の味や果物の熟れ具合などにも使います)2.行きしなに※(行く途中に) 文例:行きしなに、駅前のコンビニ寄って行くわ3.いっちょかみ(すぐ話に首を突っ込みたがる人) 文例:.あいつ、ほんまに、いっちょかみなんやから…(いい意味でも悪い意味でも使います)。4.いらち※(いらつく人、せっかちな人) 文例:あんた、ものすごー、いらちやなぁ5.うっとおしい※(わずらわしい、うるさい) 文例:うっとおしい やっちゃ(人)なぁ…(人のほかモノや事象にも使います)6.〈ご飯を〉うます(蒸らす) 文例:ご飯、炊けたとこで、まだ、うましてる途中やでー。7.ええしのぼん(良家の子息、「金持ちの子」という意味でも使う) 文例:**君は、ええしのぼんやさかい、育ちがええわー8.おあいこ(引き分け、同じ同士) 文例:これで、おあいこやねー9.おいど(おしり)→今の若い人はまず使いません。ほとんど死語。 文例:道でしりもちついて、おいど痛―い!10.おこうこ(たくあん)→これも、ほとんど聞かれなくなりました。11.かいもく※(さっぱり) 文例:英語は、かいもくわかりまへーん12.(机などを)かく(持って運ぶ) 文例:ちょっと、僕こっち側かくさかい、机のそっち側、かいてぇなぁ(こう言われて、ほんまに机の上を爪で掻いた人がいます)。13.かさ高い(大きくて場所を占領して邪魔な様子) 文例: 父ちゃん、かさ高いから、掃除の邪魔になって困るわぁ14.きばる※(精を出す、頑張る) 文例:今度の期末試験、きばりやー!15.きょうび(近ごろ、最近の) 文例:きょうびの若いもんは、挨拶も満足によーせんわ16.ぐるり(周囲)→これもあまり聞かれなくなった言葉。 文例:ちょっと家の、ぐるりの様子見てくるわー17.ごんた(いたずらっ子、わんぱくな子、わがままな様子) 文例:**ちゃんは、小さい頃からごんたやったなぁ…18.さらっぴん(真新しいこと、新品) 文例:さらっぴんの背広やでー、なかなか似おてるやろ。19.すか(はずれ、当てはずれ、空っぽ) 文例:今度の彼女は、すかやったわー(人のほか、モノにも使います)20.せく(急ぐ) 文例:ちょっとせかな、電車に乗り遅れるでー (「せいては事をし損じる」なんてことわざもありますね)21.ちちくま(肩ぐるま)→これも今では、死語かも。 文例:小さい頃、オヤジによくちちくましてもおたなぁ…22.〈鉛筆などが〉ちびる(摩耗する) 文例:筆圧強いさかい、鉛筆の先、すぐちびってしまうわぁ23.てれこ※(行き違い=てれこてれこと繰り返して言うことも多いです) 文例:待ち合わせの場所、お互い勘違いしてもおて、てれこてれこになってしもたわー24.でんぼ(おでき、できもの)→お年寄りは今でも使います25.どつぼ(決定的な打撃) 文例:当てが外れて、どつぼにはまってもうた、あぁどないしょう!26.とれとれ(とれたばかりの、とれたて) 文例:とれとれの鯛やでー、美味しいでー (関西人なら、かに道楽チェーンの「とーれとれ、ぴーちぴち、かに料理」というテレビCMがあるのでお馴染みの言葉です)。27.〈元の場所に〉なおす(元通りにする、片づける)→関東人に分からない代表的な言葉。 文例:お父ちゃん、掃除機、押入れになおしといてー (関西人の妻から「なおしといて」と言われ、修理に出した関東人の夫がいるとか)28.ぬくめる(温める) 文例:ご飯、(電子レンジで)チンして、ぬくめといてなー 29.ねき(そば)→上方落語にはよく出てきます。 文例:そのねきに、置いてるさかいに。持って帰っておくれやす30.のっけから※(最初から) 文例:のっけから、何言うとんねん31.はんなりした(上品で華やかなこと)→ニュアンスをうまく説明しにくい言葉ですね。ちなみに広辞苑でも、「はんなり=落ち着いた、はなやかさを持つさま。視覚、聴覚、味覚にも使う」と紹介されているので、今では標準語として認知されているのかな。 文例:はんなりしたお方やなぁ…、 はんなりした味の一品やなぁ…32.びびる※(ためらう、気遅れする) 文例:相手が偉すぎて、会うのもびびってしまうわー33.べった(びり、最終) 文例:数学のテストの成績、クラスでべったやったー34.ほかす(捨てる)→これも関東人には?な言葉かな。 文例:父ちゃん、ゴミはゴミ箱にちゃんとほかしといてーなー35.ほたえる(戯れる、ふざけて騒ぐ)→あまり聞かれなくなりましたが…。 文例:(子どもに対して)お坊さん来てお経あげたはるから、ほたえるのやめなさい36.まがいもん※(にせもの、模造品) 文例:しもたー! まがいもん、買わされてもーた! (ぱちもん=ニセ物、ばったもん=安い物、なんて言い方もあります)37.まっかいけ(真っ赤) 文例:連日の徹夜で、目ぇー(充血して)まっかいけや38.めばちこ(ものもらい)→関西でも、「ものもらい」と言う若者が増えてきましたが…。39.もっさり(やぼったい) 文例:あの娘、もっさりした格好してんなぁ…40.もみくちゃ※(ひどく揉まれること、ぎゅうぎゅう詰め) 文例:今朝の電車、めちゃめちゃ混んでて、もみくちゃやったわー41.やいのやいの(しつこく求めること) 文例:まだ時間あるさかい、やいのやいの言うたらあかん42.やんぺ(終わり、止め) 文例:もう、時間遅いから残業は、やんぺにしょー43.やきをいれる※(鍛え上げる→転じて「しごく、説教する」) 文例:あいつ、最近よう怠けとるみたいやから、ちょっとやきをいれたろかー44.ゆびづめ(指を〈ドアなどに〉はさむこと) 文例:大阪の地下鉄には、ドアのところに「ゆびづめ注意」なんてシールが張っています。 (くれぐれも、ヤクザが小指つめることとは違いまーす)。45.ようけ(たくさん) 文例:福引きの景品、よーけ、当ててきてやー!46.よそいき※(上等の) 文例:きょうはお呼ばれに行くんやから、よそいきの服着ていきやー47.らちがあかん(さっぱりうまくいかない) 文例:話の通じん相手やから、ほんま、らちがあかんわー48.冷コー(アイスコーヒーのこと)→最近の若い人は使わないようですが…。49.ろくすっぽ※(満足に、十分に、真面目に) 文例:あれだけ言うたのに、ろくすっぽ聞いとらんかったなぁ50.わや(駄目、失敗、無茶苦茶) 文例:「さっぱりわややー」なんてフレーズで使うことが多いです。 以上、長々とお疲れ様でした。関西圏の皆さんには、さらに関西弁の奥深さが伝わったでしょうか? 関西圏以外の皆はん、関西へよーおこし! そして、このオモロい関西弁をぜひつこーて、関西人と仲よーしてくんなはれ。
2005/04/27
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バーUK マスターの写真日記です。 バレンタインでいろんな方からチョコレートを頂きました。これは竹鶴ピュアモルトを練り込んだ生チョコです。 頂きものばかりでマスターは恐縮しています。これも、お客様から頂いた竹鶴のノベルティ(キー・ホルダー)です。国内唯一の馬具製造メーカーが作った丈夫な製品です。ほんと嬉しいですね。 マスターは次々と新しいことに挑戦しています。本物のバーボンの樽材を使ったミニ樽(容量2リットル)にオロロソ・シェリーを2カ月間満たして、その後、シェリーは取り出して、代わりに57度のバーボンで満たしました。さらに2カ月ほど熟成させます。さて、どんな味わいに育っていくか楽しみです。 お客様のリクエストに応じて、バーUK所蔵のオールドボトル&ヴィンテージ・ボトルの価格リストを作りました。ハーフ(23ml)、シングル(30ml)、ジガー(45ml)でのお値段を明記していますので、安心してお飲み頂けます。 とあるメディアからの取材のためにバックバーの最新の写真を正面から撮りました。カウンターの上のボトルも開業時から比べるとずいぶん増えてしまいました。 相変わらず、マスターは竹鶴政孝さん、リタさん関係の本をよく読んでいます。これは最近出たばかりの、孫の孝太郎さんが著した本です。初出のリタさんの写真がたくさん納められていて、とても興味深かったです。改めて、100年近く前に、遠いスコットランドから、マッサンと一緒に日本まで来てくれたリタさんの愛と勇気に感銘を受けました。 マスターのカクテルの腕も少しずつ上がっているようです。「習うより慣れろ」を実践して、フルーツカクテルにもあれこれ挑戦しています。これはお客様の注文でつくったストロベリー・マティーニ。木村硝子の大ぶりのカクテルグラスに注いでお出ししました。【Bar UK】 大阪市北区曽根崎新地1-5-20 大川ビルB1F 電話06-6342-0035 営業時間 → 平日=午後4時~10時半(金曜のみ11時まで)、土曜=午後2時~8時半、定休日=日曜・祝日、別途、水曜と土曜に各々月1回程度お休み。店内の基本キャパは、カウンター7席、テーブルが一つ(4~5席)。午後4時~7時はノーチャージ、午後7時以降はサービス料300円こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2015/02/21
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ブログを長年(と言ってもまだ4年ほどですが)やっていると、酒やBAR巡りを主なテーマにしているために、BAR業界の方が覗きに来てくれることがよくあります。 そのなかには、もちろんなじみのBARのマスターやバーテンダーの方が多いのですが、まったく会ったことのない、見知らぬ土地に住む方もいます(日本全国、いや全世界とつながっているインターネットの世界ですから、当然と言えば当然です)。 コメントをくださったりするうちにヴァーチャルな世界で親しくなって、まだ見ぬ土地でBARをされているマスターやバーテンダーのことに想像をめぐらせます。どんな方なのかなぁ…、どんな感じの店なのかなぁ…、店がある街はどんな雰囲気なのかなぁ…と。そして、いつかそのお店を訪ねて、本人に会ってみたいという熱い思いが募ってきます。 HPやブログをされている方も多いので、はっきりと店の名や住所を書かれている方もいますが、参考情報程度しか書かれていないケースや、「**地方(県)でBARをやっています」としか記されていないケースも結構あります。でも、そんな場合ほど、何とか見つけて訪ねてみたいと思うものです(写真左=今回目指した店の目印はこれ)。 先週末、東京へ出張がありました。その際、以前から一度訪問したいと願っていた千葉県内のBARにお邪魔する計画を立てました。東京や横浜のBARにはあちこち出没しているうらんかんろですが、同じ首都圏でも千葉県のBARにはいまだ一度も行ったことはありませんでした。 ただし、僕が訪ねようとしているBARは船橋市にあるということと、僕のブログによくコメントをくださったその店のバーテンドレスの方のハンドルネームが「エストレヤ」ということの2つしか手掛かりはありません。でも、インターネットの世界は不思議です。キーワードをあれこれ考えながら手を尽くして調べていると、ひょんなことから運良くたどりつけることがよくあります。 今回も店は偶然、僕がいくつかのキーワードで検索していたら、見つかりました。「Bar・Cooperage」。店名は「(ウイスキーの)樽職人」という意味でしょうか。先方は僕が訪ねることは知りません。でも訪ねてみて定休日とかだったらがっくりくるので、事前(約1週間前)にお店に電話して休みではないことは確認しておきました(念のために、ウイスキーマガジン・ライブでエストレヤさんご本人と会ったというブログ仲間のバブデ・ピカソさんにも「確認情報」をもらいました。ピカソさん多謝!) JR総武線の各停にのんびり乗って船橋に到着。駅前は、想像していたより大きく、にぎやかです。駅から南へ地図を片手にテクテク歩きました。最近はヤフーやグーグルで、詳細な地図が簡単に入手できるので楽です(いま賛否両論が沸き起こっている「ストリート・ビユー」は嫌いなので利用しません)。 駅から歩くこと約7、8分。Bar・Cooperageがあるビルの前に着きました。ここがエストレヤさんがご主人と2人で営んでいるというBARです。2階への階段の上がり口には、おしゃれなサインポールが立っていました。ここから店のドアを開けるまでの短い時間は、本当にワクワク、ドキドキする時間です。 木のドア(写真右上)を開けると、予想外に広いゆったりとした店内が目に飛び込んできました。温かい感じのライティング。カウンターはL字形に長く延びていて、なかには店長らしき男性と女性の2人がいました。カウンターには3人連れの先客が一組。 「一人なんですが、いいですか?」。僕はそう女性のバーテンドレスの方へそう断って、カウンターのほぼ真ん中の席に腰を下ろしました。赤い縁の眼鏡。以前、ご自身のブログで触れられていたから、目の前のバーテンドレスがエストレヤさんに間違いありません(写真左上=Cooperage店内風景)。 初めての店では、たいていまずジン・リッキーかスコッチのハイボールを頼みます。ジン・リッキーやハイボールの美味しい店に、「あまり外れはない」という僕流の一つの物差しです。頼んだジン・リッキーは、もちろん「外れ」ではありませんでした。バランスがとれてキリッとした旨さ、心地よい酸味が疲れをいやしてくれます(写真右=2杯目にいただいたバーボンの美酒「Richmond Reserve」)。 「エストレヤさん、うらんかんろです。はじめましてー、やっとお邪魔することができました!」と、ここで自己紹介。当然ですが、「えっ! うらんかんろさん?!」と驚きを隠せないエストレヤさん。「わざわざ訪ねてくださって、本当に有難うございます。でも、よく分かりましたねー。(ブログには)店の名前も住所も書いてなかったのに…」と当然のご質問です。 「エストレヤ、船橋、バー、バーテンダー、バーボンなどとキーワードを入れていったら、そのうちにだんなさん(=たるおさん)のブログにたどりついたのです。そこにはエストレヤさんのブログがリンクされていたし、これはもうビンゴ!だと」と得意げに語る僕。もちろん、ブログをやっていたからこそこうした嬉しい出会いが生まれたことは言うまでもありません。インターネットに感謝です(写真左=店内風景)。 エストレヤさんはたるおさんと結婚されたとほぼ同時に、このCooperageをオープンされました。お店は今年12月でまる8年。お客さんは地元の方が中心だそうです。船橋は東京へ通勤している方が多いので、土日にもこのカウンターで癒しの時間を求める方が多いとか。だから定休日は月曜日です。お喋り好きで明るいご夫妻のおかげで、落ち着いた店内なのに、とてもアットホームでなごやかな雰囲気です。 エストレヤさんは「もっとオーセンティックなBARを想像されていたうらんかんろさんの期待を裏切ったかもしれませんね」と謙遜されていました。いやいや、オーセンティックBARを名乗って、店の調度に惜しみなくカネをかけ、バカ高いチャージをとるBARに限って、ロクな店はないのです。 Bar・Cooperageの「温かい接客」と「居心地の良さ」こそ、オーセンティックBARのお手本であり、オーセンティックを名乗る資格は十分ですよ。その証(あかし)に、僕はジン・リッキーの後、3杯も飲んでしまいましたぞ。 2杯目は、バーボンにとても詳しいエストレヤさんが一番好きだという「リッチモンド・リザーブ」の8年ものをストレートで。まるで重厚なシングルモルトのような、奥行きある旨さです。ブッシュが大統領でいる間はバーボンを敬遠していた僕ですが、民主党のオバマが次期大統領に決まったことを祝って、これからはバーボンもしっかり飲みましょう(笑)。 3杯目。「テンプルトン・ライ」(写真右上)。ポットスチル蒸留による100%ライ・ウイスキー。あのアル・カポネが好きだった酒だとか。話のタネが一つ増えました。そして最後は、東京へ引き返すためのクールダウンとして、カクテルの「レッド・アイ」をお願いしました。 名残は尽きないけれど、お別れの時間が近づいてきました。玄関の外まで見送りに出てくれたエストレヤさんと、再会を誓って固い握手(写真左=エストレヤさんとの嬉しいツーショット!)。 これでいままで1軒も知らなかった千葉県に、僕の「なじみのBAR」が出来ました! Bar・Cooperageが船橋でますます愛される酒場になることを祈って、乾杯! そしてこの夜の素晴らしい出会いに乾杯!! エストレヤさん、たるおさん、心のこもったおもてなし、本当に有難うございました。【追記】訪れる約1週間前、定休日を確認するために自宅からCooperageにかけた電話の話。ナンバー・ディスプレーに表示された市外局番を見て、エストレヤさんは「関西に住む方からの電話だなぁ…」とは思っていたそうです。これは鋭い!一本とられちゃった。でも、「昔うちに来てくれて関西に転勤した人がまた訪ねてきてくれるのかなぁ」と予想していたそうなので、やっぱり僕の訪問は「大きなサプライズだった」とか。【Bar・Cooperage】千葉県船橋市本町4-40-12 インペリアル山下ビル2F 電話047-425-8885 午後7時~午前3時 月休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2008/11/10
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1980年代前半、神戸で仕事をしていた。神戸にはその頃、港に数日停泊する外国人貨物船員相手のためのBARが、(当時は、もっぱら「外人BAR」と呼ばれていたが)元町かいわいに数多くあった。 正統派のBARから、接待の女性がいるスナックに近いBARまで、その数40~50軒、いやひょっとして100軒近くあっただろうか。なかにはいかがわしい、いわゆるぼったくりBARもないではなかった。 ノルウェー、デンマーク、イギリス、ギリシャ、アジア系など、国籍ごとに「たまり場」となるBARは分かれていた。もっぱら、ゲイの船員がよく集うBARもあった。客として出入りできるのは、原則として外国人オンリー。「日本人お断り」。店の表にそう書かれている店も少なくなかった。 外人BARってどんなところだろうか、と好奇心をたぎらせた僕は、ある時、東南アジアの船会社の関係者を装って、わざと変な日本語をしゃべって潜入(入店)に成功したことがあった。もちろん、座ってものの15分くらいで、「あんた日本人違うん?」と見破られてしまったが、追い出されることもなく、そのまま飲ませてくれた。そんな大らかな時代だった。 僕はそんな異国の怪しげな雰囲気を漂わせる外人BARが好きになり、あちこちのBARに出没した。なかでも一番よく通いつめたのは、南京町の近くにあった「Sunshine」というBARだった(写真=成田一徹氏の切り絵に残された「Bar Sunshine」の店内風景。昔、個展で購入)。 マスターのロバートさん(日本人の客は、いつも「ロバさん」と呼んでいた)はデンマーク人で、マースク・ラインの元船員。神戸がことのほか気に入って居ついてしまい、その後、ついには日本人女性と結婚した。 店は、その奥さんと2人で切り盛りしていた。当然、毎夜のように、デンマークの船員が集まり、店内にはデンマーク語があふれ、彼らはアクアヴィットをストレートでくいくい飲み干しながら、もっぱら賭けダーツに興じていた。僕もカタコトのデンマーク語をおそわったりした。雰囲気はまるで外国のようだった。 その「Sunshine」も悲しいかな、バブル景気のあおりで地上げに遭い、90年初めまでには姿を消してしまった。もう1軒、よく通った「Charlie Brown」のチャーリーさんも、その後、病気で天国へ旅立ってしまった。居心地のいい酒場を無くしてしまった僕は、今もバブル景気を恨む。 高速コンテナ貨物船が主流となった今は、船は朝港に着いても夜には出航してしまう。船員たちが陸(おか)に上がってBARで一夜を楽しむ余裕(時間)はなくなり、元町かいわいのBARで夜、外国人船員と出逢うことはほとんどない。 元町の外人BARもその後、店を閉めたり、普通のBARやスナックや喫茶店に姿を変えたりして、今は、1、2軒がかろうじて残る程度(もちろん、今は「日本人もウエルカム」だが、昔の外人BARの面影はない)。 南京町かいわいを歩くと、今でも「Sunshine」での懐かしい夜と喧噪を思い出す。その後、ロバさん夫妻の消息も聞かない。時代が変わるのは仕方がない。しかし、ミナト神戸によくお似合いだった、あの猥雑で怪し気な外人BARが消えたのは、言葉で言えないくらい悲しい。
2004/12/04
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76.ソルティ・ドッグ(Salty Dog)【現代の標準的なレシピ】 (容量単位はml)ウオッカ(45)、グレープフルーツ・ジュース(45~90)、氷、塩でグラスをスノー・スタイルに【スタイル】ビルドまたはシェイク 「ソルティ・ドッグ」は、「英海軍生まれのカクテル」と言われ、多くのカクテルブックでもそのように紹介されています。この定説への異論は聞かれませんが、誕生の時期については、1930年代~40年代と幅があり、詳細は不明です。 カクテルに関する著作も多い作家のオキ・シロー氏はその著書「カクテル・コレクション」(1990年刊)で「1940年代に誕生したジン・ベースのソルティドッグ・コリンズが前身」と紹介しています。「ソルティドッグ・コリンズ」は、ジン・ベースでライム・ジュース、塩少々、ソーダ(適量)というレシピです。 オキ氏は根拠となる一次資料を明示していませんが、他にもこの「ソルティドッグ・コリンズ起源説」を紹介するサイトもあり、ソルティドッグ・コリンズが40年代に存在したことは事実なので、そのライム・ジュースがグレープフルーツ・ジュースに代わったバリエーションが、「ソルティ・ドッグ」として定着していったという説にはそれなりに説得力はあるかと思います。 「ソルティ・ドッグ」(塩辛い犬=「犬」は転じて「野郎」というような意味)とは、スラングで「海軍の甲板員」のこと。いつも波しぶきを浴びて、体じゅうに塩気を帯びていることから、この名がついたと言われています。スノー・スタイルは、潮まみれで仕事をする甲板員をイメージしているとのことです。 一方、「Dog」は、綴りの文字順を入れ替えた「God」すなわち「塩(海)の神(God Of Salt)」を意味するという説もあります(出典:Webの専門サイト)が、裏付ける資料は明示されていません。 以上のような経緯、すなわち当初の「ソルティ・ドッグ」はジン・ベースだったということはバー業界でもあまり知られていません。ちなみに昔は、グラスの縁に塩を付けるスノー・スタイルではなく、塩をひとつまみ直接放り込んだり(または一緒にシェイク)して飲むというスタイルが一般的でした。現在のようなウオッカ・ベースで、グラスをスノー・スタイルにするというやり方は、1970年代以降に米国の西海岸で誕生したと言われています(出典:Suntory HPほか多数)。 欧米で「ソルティ・ドッグ」の知名度が上がったのは1950年代の後半以降です(当初は、前述の通りジン・ベースが主流でしたが)。その後70年代以降、トロピカルカクテル・ブームにも乗って世界的に広く普及しました。しかし意外にも、50~70年代のカクテルブックで収録している例は、なぜかそう多くありません。 「ソルティ・ドッグ」が、(欧米の)カクテルブックで初めて紹介されたのは、現時点で確認できた限りでは、米国で出版された「Mr Boston Official Bartender's Guide(ミスターボストン・バーテンダーズ・ガイド)」(1935年初版刊)の1953年の改訂版です。そのレシピは、「ドライ・ジン60ml、グレープフルーツ・ジュース120ml、氷、塩ひとつまみを加えて、よくかき混ぜる(ビルド・スタイル)」でジン・ベースです。 ウオッカ・ベースでの欧米初出は、現時点で確認できた限りでは、フランスで1983年に出版された「The Larousse Book Of Cocktails(ラルース・ブック・オブ・カクテル)」です。そのレシピは「ウオッカ30ml、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスはスノー・スタイルに」となっています(70年代のカクテルブックでの収録例をご存知の方は、ご教示ください → arkwez@gmail.com までお願い致します)。 ソルティ・ドッグのベースがジンからウオッカに移行していくのは、概ね1970年代後半から80年代前半にかけてです。その理由は明確ではありませんが、第二次大戦後、米国で急速に普及したウオッカの販売戦略としてトロピカル系カクテルが活用されたことに加えて、ジンに比べてクセの少ないウオッカの方がカクテルのベースとしては使いやすく、バーテンダー側、客側の双方から選ばれていったのではないかという専門家もいます(ただし、米国内では現在でもジン・ベースのソルティドッグも割と普通に飲まれています)。 ちなみに、スノー・スタイル(塩)なしでこのカクテルを作れば、「ブル・ドッグ(Bull Dog)」、「グレイハウンド(Greyhound)」または「テールレス・ドッグ(Tailless Dog)」と呼ばれます。 ご参考までに、70年代以降の欧米のカクテルブックで、「ソルティ・ドッグ」がどのように紹介されているかを、少し見ておきましょう。・「The Bartender's Standard Manual」(Fred Powell著、1979年刊)米 ジン2ジガー、グレープフルーツ・ジュース4ジガー、塩ひとつまみ、氷(ビルド)・「The Book of Cocktails」(Jenny Ridgwell著、1986年刊)英 ウオッカ45ml、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩でスノー・スタイルに(ビルド)・「American Bar」(Charles Schumann著、1994年刊)独 ウオッカ50ml、グレープフルーツ・ジュース50ml、グラスを塩でスノー・スタイルに(シェイクし、ショートカクテル・スタイルで)・「New York Bartender's Guide」(Sally Ann Berk著、1995年刊)米 ウオッカ2オンス(60ml)、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩とグラニュー糖でスノー・スタイルに(ビルド)・「Complete World Bartender Guide」(Bob Sennett著、2007年刊)米 ウオッカ2オンス、グレープフルーツ・ジュース適量、氷、グラスを塩でスノー・スタイルに(ビルド) 「ソルティ・ドッグ」は日本には、1960年代、沖縄駐留の米軍を通じて広まりました。本土の街場のバーで知られるようになるのは70年代以降です。とくに大きなきっかけとなったのは、サントリー社が70年代後半から80年代初めにかけて展開した「トロピカル・カクテル・キャンペーン」です。そして、80年代前半までには日本国内でも幅広く認知されるようになりました。【確認できる日本初出資料】「たのしむカクテル」(今井清著、1976年刊)。レシピは「ジン45ml、グレープフルーツ・ジュース適量、グラスはスノー・スタイルで」となっていて、70年代半ばの日本でも、ジン・ベースが一般的だったことが伺えます。 しかし、著者の今井氏は「最近はウオッカでつくることも多くなってきました」とわざわざコメントを残しており、この頃から日本でも、ベースがジンからウオッカへ移行していったことも分かります。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2017/12/05
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先週末、仕事で四国・松山へ行く用事があり、再び、BAR巡りをしてまいりました。まずは、BAR巡りの前の腹ごしらえ。地元の友人に教えてもらった「さかな工房 丸万」=写真右=という魚料理のお店へ。 祇園町という市中心部の盛り場から少しはずれた、若干「場末感」が漂うエリアに店はあった。明治12年創業の老舗の魚屋さんの経営で、現在の大将は4代目という。店に入って驚かされるのは、カウンターの目の前が魚屋さんの陳列棚のようにディスプレーされていること=写真左下。 タイ、ノドグロ、サヨリ、ウオゼ(愛媛ではアマギと言うとか)、ウマヅラハギ、カンパチ、マナガツオ、ハタハタなど数えただけでも20種類近い魚が氷の上にてんこ盛り状態。ウチワエビ、イカ、サザエ、トコブシ、アサリなどの甲殻類、貝類も豊富だ。 この魚や貝類を見ながら、どれを食べたいかを選び、さらにどんな調理法が一番美味しいかを尋ね、それでメニューを決めていくという贅沢。で、我々が食べたのは、刺身の盛り合わせ、ウチワエビの刺身(これがイセエビみたいに身が甘くて美味!)、ハタハタの唐揚げ、キスの塩焼き、ウマヅラの煮付け、サザエの壺焼き、トコブシのバター焼き等々。 お値段も都会じゃ信じられないくらい良心的。市中心部から少し遠いのに、これだけ繁盛している理由もわかる。友人も「人にあまり教えたくない店」と言っていた。皆さんも松山へ行く機会があったらぜひお越しを(事前の予約は必須ですぞ)。 この夜の1軒目は、まずワインBAR。先の「丸万」からは中心部へ戻りながら歩いて5、6分ほど。「ワインセラー・ヤマモト」というお店。お店と言っても、看板も何も出ていない。入り口に見逃してしまいそうな立て看板が一つあるだけ。 入り口の店内側には酒の段ボール箱が山積みになっていて、店内の様子はまったく見えない。しかも薄暗い。「ほんまに営業してるの?」という感じなのだが、店に入ってすぐ左側の階段を下りると、別世界。確かにそこはワインBARでした=写真右下。 実はここ、かつては酒屋さんの倉庫だったとか。店内の壁には、ワインの収納・運搬用の木箱が天井まで所狭しを山積みにされていて、それがまたいい雰囲気を醸し出している。店は交通量の多い道路の側(そば)にあるが、店内は意外と静かで、喧噪はここまでは聞こえない。 僕らは店主おすすめのグラスワインを数杯頂きまがら、居心地の良い時間を過ごす。店内が少し寒いのは、ここがワインのセラー(保管庫)でもあるから。店主は「寒かったら、そのジャンバーを来てくださいね」と、僕らの背中側に立っている洋服掛けを示した。 ここではグラスでも(品数は限られているが)、ボトルでもワインを楽しめる。しっかりしたフードもあれこれある(店主のお母さんご自慢の手料理らしい)ので、お腹を空かせて行ってもOK。また松山に来たら、訪れてみたいBARだけど、わかりにくいので無事にたどり着けるかがちょっと心配だ(笑)。 さて、2軒目は、昨年11月に松山へ行った際、初めてお邪魔した「Bar・JuJu」を再訪=写真左下。人気店で金曜日とあって、ほぼ満員。店に向かいながら事前に電話でカウンターの席をおさえておいて良かった。 再会したマスターとご挨拶して、早速「予約席」へ。「JuJu」は、お酒の品揃えやフード・メニューがとても充実しているのが嬉しい。この「JuJu」で同行メンバーが1人増えたこともあって、サーモン・パイとトマトソース系のパスタ、バゲットを注文。 僕らは「丸万」でしっかり食べてきたはずだが、「JuJu」の美味しいそうな料理を前にすると抵抗もできず、一緒に分け合う。久しぶりの「JuJu」では、ホット・ラム(この夜松山はめちゃ寒かったので)数杯を飲んで、その後、モルトウイスキーを頂く。 「JuJu」はお酒やフードの充実度で言えば、大阪キタのBarのクルラホンに近い。クルラホンと違うのは、店の広さと店内のライティングか。「もう少し暗めの方が雰囲気も出てええと思うんだけど…」とFマスターに言ったら、苦笑しながら「あんまり暗くすると、フルーツや生ハムがうまく切れないんですよ」と。 確かに、カウンターの端には生ハム用のイベリコ豚の足が鎮座している。客の目の前で、フルーツ・カッティングなど細かい作業をする分、暗いライティングはしたくても出来ないのだろう。余計なこと言ってごめんなさい、マスター。 「JuJu」はこれからも何度でも来てみたいと思える店だ。訪れるたびに違う、新しい発見が期待できそうな店だ。この夜は店がめちゃ忙しかったので、Fマスターとあまりお話ができなかったのが残念だが、楽しい時間は過ごせた。帰り際、マスターは「またブログ見ときますからね」と言ってくれた。そう言われたら、やはりすぐ報告を書かねばならないと思って、こうして綴っている。 さて、1軒目の「丸万」でちょっと時間を使い過ぎてしまった分、もう日付変更線に近くなってしまった(いつも松山では必ず寄っていた「Bar露口」は午前零時閉店なので、今回はもう無理だなぁとあきらめる。「露口さんご夫妻、すみません! 次回は必ず寄りますから!」)。 今回の松山行では、最後にもう1軒、お邪魔してみたいBAがあった。「JuJu」からも歩いて数分のロケーション。しかし、店の前辺りまで来ても、それらしい看板が見当たらない。やむを得ず店へ電話する。 「四つ角の中華の店の前にいます」と言うと、数分後にマスターがどこからとなく現れた。なんと中華店の目の前の、角のビルの2階にあるという。でも表に看板は出ておらず、そのビルの2Fへ上がる階段の途中に小さなサインがあるだけ。ある方がネットで記した訪問記でも、「ものすごく見つけにくい」と書いてあったが、確かにその通り。 BAR店の名前は「独奏(「DOKUSOU」とも表記)」という=写真右。田代まさしがアフロの長髪をしているような独特の雰囲気のマスター。聞けば、この店を持って2年だが、その前に雇われで6年ほど働いたという。 店の名前は以前は「独創」だったが、オーナーとなった時に「独奏」に変えたという。「以前の店の名前で知ってる人も電話してくるから、電話で返事するとき、『はい、どくそうです』と言えば済むので便利でしょ」と面白い返答をしてくれるマスター。 マスターは基本的には寡黙で、一見、無愛想で厳しいそうに見える。しかし、ひとたび会話を始めると、話の“間”が抜群で、ボケるトークもまた巧みだ。だからカクテル一つ頼んでも、出来てくるまでが一筋縄ではいかない(笑)。 酒はフルーツ・カクテルとバーボン(それもオールド・ボトルもいっぱい)にこだわり、(真偽の程は確認しなかったが)生ビールやワインや焼酎は置かない、フードもほとんどないとか。その一方で瓶ビールやウイスキーの品揃えは、松山でも群を抜くという。ネットでは「少し独特の雰囲気を持ったマスターは、客側にも好きか嫌いにはっきり分かれるだろう」との表現もあったが、僕も確かにそう思う。そして、僕にとっては「好き」なタイプのマスターだ。 この夜、僕らは主にフルーツ・カクテルを中心に頼んだ。せっかくだからと、「バーボンをベースにしたカクテルを」と頼むと、ミント・ジュレップにイチゴのフレッシュ・ジュースを加えたオリジナルをつくってくれたが、これがまた絶品だった。「独奏」という店名は、このBARの素晴らしさを実によく表しているかもしれない。松山に来る楽しみがまた増えた。 【さかな工房 丸万】松山市祇園町3-21 089-921-7242 午後5時半~11時 不定休 【ワインセラー・ヤマモト】松山市河原町139 945-0303 営業時間&定休日? 【Bar JuJu】松山市一番町2-4-2 モナーク2F 932-4536 6時~2時 日休 【Bar 独奏】松山市二番町2-2-3 まるはビル2F 935-6800 6時~深夜 不定休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/03/28
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90年以上の歴史を持つ関西屈指の老舗BARグループ「サンボア」(SAMBOA)のことはこれまでも折りに触れて何度か書いた(例えば、2005年3月12日の日記)。しかし、うらんかんろがまだ取り組んでいなかったことがあった。サンボア・グループ11店(この投稿当時でのグループ全店。※その後増えて2021年4月末現在では15店になっている)の「詳細な紹介」と「飲み比べ」である。 一口にBARサンボアと言っても、一様でない。微妙に違うのである。他のサンボアでは常識であっても、別のサンボアでは通用しないこともある。そもそもメインのお酒だって、「サンボアだから当然、サントリーの角瓶でしょう」と思っている貴方、そうじゃないという事実に驚かされるに違いない(写真右=堂島サンボア)。 貴方の持っている「バー・サンボアの常識」は当たっているのか。うらんかんろも今回11店すべてを改めて訪れて、初めて知った驚くべき事実がいろいろある。それではテーマごとに紹介していこう。 【メインのウイスキー】 バー・サンボアと言えば「ハイボール」が代名詞。そしてハイボールに使われるウイスキーの銘柄は基本的には、前述したように「サントリーの角瓶」である。 しかし、なぜか京都(寺町)サンボアと木屋町サンボアだけはニッカである(ちなみに、京都サンボアはグループ最古の歴史を持つ店)。前者はなんと竹鶴12年(ハイボールで飲むなんてもったいない!)、後者はスーパー・ニッカを使う(なお、竹鶴12年のコンスタントな入荷が難しくなってきた2015年頃からは、京都サンボアもスーパー・ニッカに切り替えたと聞いています)。 理由は正確には知らないが、BAR業界関係者に聞いたところでは、京都サンボアはサントリーの営業マンとある時、喧嘩別れしてから、ニッカ一本に宗旨替えしたのだとか(個人的にはやはりサンボアを名乗る以上は「角瓶」でやってほしいと思うのだけれど…)。(写真左=北サンボア)。 【氷を入れる・入れない】 サンボアと言えば、ハイボールに氷は入れないというのが定番。グラスに冷凍庫で冷やした角瓶とこれまたキンキンに冷やしたソーダを注ぎ、仕上げにレモンピールをさっとかけるのが正しいハイボールだ(写真右=北新地サンボア)。 店によってはグラスまで冷蔵庫で冷やしておいてくれる店もあるが、ほとんどの店は常温保存のグラスに注ぐ。だからいくらウイスキーとソーダがよく冷えていたとしても、20分以内で飲み干さないと美味しくは飲めない。 なお、「サンボア=氷なしハイボール」と書いたが、前項で紹介した京都サンボアと木屋町サンボアはなぜか少量の氷を入れる。理由はあえて聞かなかった。聞いても、「うちは最後までぬるくならないように、氷を入れた方がいいと思ってるんです」という答えが返ってくるのは予想できる。京都サンボアと木屋町サンボアは、サンボア・グループの「異端児」ということなんだろう(写真左=ヒルトン・サンボア)。 【飲むスタイル】 サンボアと言えば、これまたスタンディングで飲む店ばかりと誤解している人も多い。確かにカウンターがスタンディングの店は多い。堂島。北、梅田、北新地。銀座の5店はそう。しかし、それ以外の6店にはカウンターに椅子がある。またカウンターがスタンディングの店でも店内の別の場所に椅子席もあるので、疲れた場合はそちらに移動することもできる。 ハイボールは基本的にダブル(ウイスキーが60ml)で供される店が多い。これが強すぎるという方は、「シングルでお願いします」と頼めばそうしてくれる。ただし、お値段は半額とはいかず、100~200円お安くなるという程度(写真右=梅田サンボア)。 【付き出し】 「サンボアの付き出しと言えば、そら、南京豆に決まっているでしょうが」と思っている貴方、そうした先入観も大きな間違い。今回11店を回って、うらんかんろもそのバリエーションの多さに驚いた次第。 南京豆だけを出しているところは堂島、北、北新地、京都、木屋町、銀座の6店だけ。その他の5店は、梅田=塩豆、ヒルトン、南、島之内=南京豆とピクルス、祇園=ホット・サンドイッチだった(写真左=南サンボア)。 という訳で、付き出しとチャージ(後述)のコストパフォーマンスで比較してみると、ヒルトンと南、島之内の3店が一番お得感がある。個人的には、ヒルトンのピクルスは結構いける味わいで気に入っています。 【雰囲気】 サンボアだから基本的には英国調でウッディな造りの店が多く、どこもまず落ち着いて飲める。ただし、歴史と伝統に裏打ちされた重みという点では、やはり北、堂島、京都の3店が群を抜く。どの店も内装を見ているだけでも飽きない(写真右=島之内サンボア)。 個人的には、比較的新しいサンボアだけれど、北新地とヒルトンも大好きだ。前者のバック・バーの棚はあの伝説の名バー「コウベハイボール」のものを移築したもので、一見の価値がある。後者は意外といつもすいている都会の穴場で、ゆったり落ち着けるカウンターがとてもいい。 【ハイボール1杯のお値段】 サンボアだからハイボールのお値段は基本的にはリーズナブルだけれども、1杯のお値段は当然、店によってかなりばらつきがある。梅田、島之内=700円、堂島、北、ヒルトン=800~850円、北新地、南、京都、木屋町、祇園、銀座=900~1000円(写真左=京都サンボア)。 グラスの大きさや作り方も微妙に違うから、どの店が一番とは一概には言えないが、コストパフォーマンス的に言えば、堂島、北、ヒルトンが僕のおすすめ(なお、1杯の値段を「消費税込み」にしている店もあれば、「税別」の店もあります)。 【チャージ】 「サンボア=ノー・チャージ」と意外とみんなそう思っている。しかし、今回改めてお邪魔してお勘定をしてみた結果では、多かれ少なかれ何らかのチャージはとられていることを確認した。その額も店によりまちまちだ(写真右=木屋町サンボア)。 150円(北)の店もあれば400円(祇園)の店もある。だいたいが200~300円だ。ただし、どんなに高い店でも銀座や北新地で無意味に法外なチャージをとるBARに比べれば、十分良心的であることは言うまでもない。 【キャパ】 店の広さはまちまち。比較的広い店で言えば北新地、北、ヒルトン、南、銀座。中くらいなのは堂島、京都、祇園の3店(写真左=祇園サンボア)。 梅田、島之内、木屋町は10人も入ればいっぱいになるような小さい店だ。なお北新地と銀座では、広いキャパを生かして時々ライブ演奏などの催しもある。 【その他】 ・北サンボアと南サンボアでは、おしぼりまで出してくれます(北サンボアは、マスターも奥様もいつも笑顔で親切で、とても気持ちのいい接客です)。 ・午後3時開店の北新地と銀座では、6時までは「ハッピー・アワー」として、65歳以上は半額という嬉しいサービスをしています。それ故、開店後の早い時間帯はお年寄りが一人でふらっと来て、楽しそうに飲んでいる姿をよく見かけます(写真右=銀座サンボア)。 ・ヒルトン・サンボアでは、サンボア・グループではただ1軒、ランチもやってます。 ・祇園サンボアの正面玄関には素敵な暖簾がかかっています。暖簾の「サンボア」の文字は、ここの常連だった作家の故山口瞳氏の筆で、とても味わいのある筆致です。一見の価値があります。 ・京都と木屋町のマスターはスモーカー。目の前でタバコを吸われるのがお嫌いな方は行かない方がよろしいかと。 ◆サンボア・グループ(営業時間は各店へお尋ねください)【堂島サンボア】大阪市北区堂島1-5-40 電話06-6341-5368 日祝休 【北サンボア】同北区曽根崎2-2-12 電話6311-3645 日祝&第2土休 【北新地サンボア】同北区曽根崎新地1-9-25 玉美ビル1F 電話6344-5945 無休 【梅田サンボア】同北区角田町9-26 新梅田食堂街2F 電話6312-8987 日休 【ヒルトンサンボア】同北区梅田1-8-16 ヒルトンプラザイーストB2F 電話6347-7417 無休 【南サンボア】同中央区心斎橋筋2-1-10 電話6211-0215 日祝休 【島之内サンボア】同中央区東心斎橋1-6-23 清水町会館1F 6241-9513 日休【京都サンボア】京都市中京区寺町通三条下ル桜之町406 電話075-221-2811 火休&第2水休 【木屋町サンボア】同中京区西木屋町通四条上ル紙屋町367 電話222-2389 月休 【祇園サンボア】同東山区祇園南側有楽町570 電話541-7509 月休 【銀座サンボア】東京都中央区銀座5-4-7 銀座サワモトビルB1F 電話03-5568-6155 無休【追記】2010年以降、サンボア・グループでは新たに4店がオープンして、2022年1月現在、計15店となっています。新しくできた4店を以下ご紹介しておきます。いずれも素敵な雰囲気の店です。【数寄屋橋サンボア】東京都中央区銀座7-3-16 東五ビル1F 電話03-3572-5466 日休(2010年10月開業)。【浅草サンボア】東京都台東区浅草1-16-8 電話03-6231-7994 水休(2011年2月開業)。※オーナーは北新地サンボア、銀座サンボアと同じです。【天神橋サンボア】大阪市北区天神橋3-8-3 電話06-6360-4212 火休(2013年8月開業)。 【神戸サンボア】神戸市中央区加納町4-2-1 電話078-381-8179 定休日は現時点では未定(2021年4月26日開業)。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2009/03/29
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久しぶりに言葉の話題。関西以外の方は、関西弁なんて、関西へ行けばどこでも話されているし、地域でそう大きな違いはないと思っている人も多い。 確かに、いわゆるイントネーションだけで言えば、奈良出身の明石家さんまも、兵庫・尼崎出身のダウンタウンも、大阪市出身の綾戸智絵も、三重・名張育ちの平井堅(生まれは大阪だそうです)も、みんな同じ関西弁を喋っているように聞こえる。 しかし、実はそうではない。関西弁と言っても、地域ごとに微妙に、かなり違うということを知ったのは、なかでも神戸弁というのがあることを知ったのは、大学生になってからである(写真左上=神戸は港から発展した。海から見る景色は今も魅力的だ) 生まれは京都の僕だが、高校までは大阪だったので周りの友達も、大阪弁を話すエリアに住む友人がほとんどだった。たまに東京から転校生があると、クラスは、それは凄い騒ぎだった。聞いたことのない東京弁を、面白がって真似する子も多かった(写真右下=元町の旧外国人居留地には、今ではおしゃれなブランド・ショップなどが集まる。唯一今も残る洋館は、阪神大震災で全壊したが、部材を再利用してよみがえった)。 大学には、兵庫県の高校出身の同級生がたくさんいた。とくに神戸、長田、御影という有名な3つの県立高校から進学してきた人が多かった。彼らが話す関西弁は、もちろん僕には理解できたが、ところどころに、僕がそれまで聞いたことのない言い回しや単語があり、「あれ?」と思うことが時々あった。 それが「神戸弁」という、関西のある地域でしっかりと確立している方言であることを、僕は程なく知った。神戸弁のなかでも、僕が聞いて一番驚いたのは、(典型的な神戸弁でもあったのだが)例えば、動詞の語尾変化の「~とう」。 「~とう」は、標準語では「~ている」という意味。「知っとう」「書いとう」「来(き)とう」「見とう」「取っとう」などと言う。話すとき語尾を上げれば、そのまま疑問文にもなる。この「~とう」という言葉(表現)は大阪や京都では絶対に使わない。 また、標準語で「来ない」を、大阪弁では「けーへん」、京都弁では「きやへん」と言うが、神戸弁になると「こやへん」になるということも初めて知った。あと、「べっちょない」(心配ないよ、大丈夫だよ)という言葉も、(播州方面でもよく使うようだが)最初は意味が分からなかった(写真左=神戸と言えば、異人館。その代表格とも言える「風見鶏の館」) 「アホ」「バカ」に当たる言葉にも、「ダボ」という神戸弁独特の単語があるが、「ダボ」には、相手を威圧・軽蔑するというよりは、自虐的な意味もある(だから、自分に対しても使う)。あまり食べるところは少ないけれど、すぐエサに食い付いてくれる「ハゼ」のことを、「ダボハゼ」なんて言うこともあるが、これも語源は同じかもしれない。 神戸弁には、他にも面白い言い回しや言葉がたくさんある。「どないしょ(ん)?」(=どうしたの?)は、知り合い同士なら、挨拶代わりにでも使える。よく似た言葉で、「なんどいや?」(なんですか?)というのもよく使う(写真右下=開港以来、多くの外国人が住み着いた神戸。中華街=南京町=は今や神戸観光の人気スポットだ)。 「せんどぶり」(ひさしぶり)、「なしたまぁ」(おやまぁ)、「やっと」(たくさん)、「だんない」(大丈夫だよ)なども、神戸エリアでしばしば耳にする(最後の「だんない」は、地理的に近い徳島でもよく聞かれるけれど…)。 では、大阪弁と神戸弁はどの辺りが境界線なのか。阪神間の芦屋はどちらかと言えば、神戸弁。尼崎はほぼ完全に大阪弁。芦屋と尼崎の中間の西宮市辺りになると、神戸弁と大阪弁を喋る人々が混ざり合い、コミュニティを形成し、両方の言葉を聞くことができる。だから、この辺りが神戸弁と大阪弁の境界かもしれない。 神戸弁を聞きたければ、三宮か元町辺りを歩くといい(異人館の辺りは他県からの観光客も多いので、あまりおすすめはできない)。旧居留地辺りをゆっくりと散策して、これらの「神戸・お国言葉」が聞けば、きっと「あぁ、港町・神戸に来たんだなぁ…」と実感するはずである。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2005/08/30
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「Master of Heavy Metal Funk」の異名を持つ当代きってのスーパー・ベーシスト、と言われても、正直言って、私も最初はピンと来なかった。普段よく聴く音楽ジャンルの人でもなかった。それが、ひょんなことで出逢うことに。 T.M.スティーブンス(Stevens)。ニューヨーク出身。1951年7月生まれだから、今年誕生日が来れば、54歳!になるが、(本人に会った私の印象では)、まったく、そんな歳に見えない。せいぜい40歳前後っていう感じ。 徳島で仕事をしていた頃、私が一番よく出入りしていた洋琴堂(ようきんどう)というピアノBARがあった。猫好きのオーナーのせいか、いつも店内には人なつっこい猫がいた。ピアノ好き、猫好きの私としては、好きにならないはずのない場所だった。 洋琴堂では、いろんなジャンルの音楽好き、楽器好きの人が夜な夜な集まってきた。ジャズ、ロック、ポップス、ラテン、シャンソン、歌謡曲…。店にはピアノ、ウッドベース、エレキベース、ドラム、ギターなどが常備されていたが、「マイ楽器」を持ち込む人も多かった。 毎夜のように、見知らぬもの同士のセッションが自然と始まった。私がそのうちの一人に、仲間入りさせてもらうのに、さほど時間はかからなかった。 そんなある夜、私がちょうど友人らの前で、ビリー・ジョエルの「New York State of Mind」を弾き語りしている時だった。T.M.が、突然やってきた。美しい日本人女性とともに…。 オーナーは以前から、T.M.と知り合いだったようだ。私はもちろん初対面。がっしりした体。身長約185cmの大きな黒人男性。しかも、ただものではないという雰囲気を漂わせている。 演奏を中断しようとした私に、T.M.は「Com'on, keep on playing!」と言って続けさせた。外国人の前で、英語でビリー・ジョエルを歌うなんて。なんと大胆な、恥知らずな…と思うと、私は顔が真っ赤になってきた。 そんな初めての出逢いから、私はT.M.とすぐうち解けた。とにかく彼の素晴らしさは、「フレンドリー」ということ。一緒に店を訪れた日本人女性は、実は奥さんのTaka(タカ)さんだった(写真右上は、T.M.とTakaさん。T.M.の向かって左隣に私に写っているが、お見苦しいのでカット)。 Takaさんは地元・徳島の鳴門の出身。里帰りの機会には、「(T.M.は)トクシマが好きだから、いつも付いてくる」と話していた(「阿波踊りも大好き」とか!)。 T.M.は徳島へは、毎年のように奥さんに付いて帰ってきているようで、その後も、何度か(主に洋琴堂であることが多かったが)再会した。そしてしばしば、店のエレキ・ベースを手にして、オーナーのピアノの伴奏をして遊んだり、時には、その神業のようなチョッパー・ベースを聴かせてくれたりした。 数年前には突然、僕の携帯にTakaさんから電話があった。「あすの夜、大阪でT.M.がライブするんだけど、バック・ステージに遊びに来ないか」という、とても嬉しいお誘いだった。その時は残念ながら、先約があったため行けなかったが、徳島を離れた後も、忘れないでいてくれてることに、心から感激した。 ステーブ・ヴァイ、マイルス・デイビス、ジェームス・ブラウンら、有名アーチストのバックをつとめることが多かったT.M.だが、最近は、リーダー・アーチストとしての活動もめざましい(なんと2001年には俳優として映画出演まで!)。 彼の音楽には、ジャズ、ブルース、メタル、ロック、ファンクなどすべての要素が詰まっている(アルバムでは、歌も歌ってますが、これが結構うまい!)。機会があれば、ぜひ貴方もT.M.のCDを聴いて、脳天に一撃をくらってほしい。【追記】大変残念な事実ですが、T.M.は2017年頃から認知症を患い、ナーシングホームに入院中であることが明かされました(なので現在は目立った活動はありません)。Takaさんともその後離婚したとのこと(出典:Wikipedia英語版&日本語版)。
2005/02/16
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神戸を代表する老舗の酒場が、あす(28日)を最後に約40年の歴史を閉じる。 三宮のBar「SAVOY(サヴォイ)」。オーナー・バーテンダーの小林省三さん(75)は、世界カクテルコンテストで優勝したほどの素晴らしい腕を持ち、関西だけでなく、日本全国のバーテンダーにその名を知られた方だ。 物腰柔らかく、気配りあふれる接客、そして時折放つジョークの数々。これぞバーテンダーの教科書のような人で、その立ち振る舞いがすべて「絵になる」素敵なプロだった(写真左=「マティーニ名人」で知られる小林さん。流れるような所作も美しい)。 阪神大震災で受けた大きな被害(店は「震度7」のエリアにあった)も乗り越えて、店を再建した小林さんだったが、ことし奥様を亡くされてから、めっきり元気がなくなった。体調を崩し、店を休むことも多くなった。 弟子のバーテンダーの皆さんたちや常連客らが励まし続けたが、それでも店に幕を引く決断をしたのは、一緒に店を切り回していた“戦友”のような奥様の存在を失ったことで、体力や気力が奪われてしまったのが大きく影響したのかもしれない。 長年お世話になった小林さんに御礼を言いたくて、僕は昨夜(26日)、「SAVOY」にお邪魔した。小林さんは、店のフィナーレで連日たくさんの客の相手をしているためか、やや疲れた顔をしていた。 僕は、やはり最後にもう一度、「SAVOY」のカウンターで、小林さんのマティーニが飲みたいと思って、お願いした。道連れで同行してくれた友人ももちろん、マティーニを頼んだ(写真右=2杯目にいただいた「Sun Expo」は70年大阪万博でのカクテルコンテストでのグランプリ作品!) 「店がなくなってしまうなんて、ほんとに悲しいです。残念でなりません」と話しかけた僕に対して、小林さんは「いやぁ…これは僕の一事だから…」「もう、潮時だしね…」と言葉少なに語った。 小林さんほどの人脈があれば、探せばいくらでも後継者は見つかっただろう。お弟子さんは何人も育って、「SAVOY」の名を付けた「2号店」もあるのに、小林さんはそういう選択はせず、一代限りで幕を引く決断をした(その決断に、赤の他人の僕がどうこう言うべきではないだろう)。 小林さんはこの先の予定について、はっきりとは語らなかった。「元町でちょっと教える仕事もあるし…」とポロっと漏らしていた。店はなくなっても、またどこかで小林さんに会えるなら、とても嬉しいのだけれど…。 店を去る時、僕は小林さんの手を両手でしっかり握って、「元気でね。また戻ってきてよね。待ってるから…」と伝えた。小林さんはただ、「ありがとう、ありがとう」と言って、笑顔で僕の手を握り返すだけだった。その笑顔を見て、僕はもう少しで泣きそうになった。 こうして、老舗BARの灯がまた一つ消える。2代、3代と続くBARもあるが、バーテンダーに寿命がある以上、BARは永遠ではない。永遠であり続けるためには、その歴史を紡いでいってくれる後継者たちが必要だ。 「SAVOY」が一代限りで消えることは、寂しすぎる、悲しすぎる現実だが、僕の記憶の中では、小林さんの思い出とともに、「SAVOY」は永遠に生き続ける(写真左=「SAVOY」の玄関。このプレートも見納めかと思うと悲しい)。 「SAVOY」閉幕まで、きょうを含めてあと2日。もし、神戸の老舗BARの最後の輝きを見たいという方は、ぜひきょう、あすの2日間のうちにお越し下さい。【Bar SAVOY】神戸市中央区北長狭通2-1-11 玉廣ビル4F 電話078-331-2615 午後6時~午前0時こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2006/12/27
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友人に誘われて、堺でBAR巡りをしてきました。堺(市)と言えば、日本最大の墓、仁徳天皇陵などたくさんの古墳があることで有名ですが、戦国時代にいち早く、環濠を備えた自由貿易都市として栄えました。フランシスコ・ザビエルが布教活動したほか、千利休や与謝野晶子ら偉人を輩出した歴史的な街としても知られています。 しかし、度重なる戦乱や空襲で、そうした歴史的遺産は今では目に見える形でほとんど残っていません。このため、近畿地方に住む我々でも、観光という目的ではあまり訪れることの少ない街ですが、大阪駅(梅田)からは地下鉄と電車を乗り継いで約30分余で行ける意外と近い穴場的な場所なのです。 そんな堺には意外や意外、素敵なBARがたくさんありました。以下は、今回お邪魔した6軒の店の紹介です。【Italian Bar・Millanta(ミランタ)】BAR巡りの前にまず腹ごしらえをと、泉北高速・深井駅前にある、友人おすすめのイタリアン・バールへ。旨い料理と酒を味わいながら、今夜のBAR巡りの“作戦”を練ろうという魂胆です。 お酒はワインやビールがメインのようですが、カクテルもOKとのこと。しかし、この夜は友人おすすめの、ここでしか飲めないシードル(アップル・スパークリング・ワインという表現が一番近い?)を頼みました。 料理はパスタと前菜の盛り合わせをいただきましたが、評判通り美味しさ。失礼ながら、堺でこれほどレベルの高いイタリアンが食べられるとは思っていませんでした。オーナーのCさんもとても親切で、温かい人柄。接客・サービスも申し分ありません。ミランタのおかげでBAR巡りはいいスタートが切れそうです。堺に来たら、また行きたいと思わせる1軒になるでしょう。【Bar 街のあかり】まずお邪魔したのは、深井駅近くにあって、友人が懇意にしているバーテンダーAさんが勤めるこの店。2004年開業の、堺では人気のBARなので、僕も名前は知っていましたが、お邪魔するのは初めてです。 キャパは結構広めです。ウッディな内装のゆったりとした空間で、カウンターもかなりの人数が座れ、個室もあります。フードも充実しています。僕はAさんにご挨拶をした後、早速、彼のカクテルをいただきました。Aさんは、南大阪エリアで今どんどん力を付けてきているバーテンダーとして、大阪キタのBARでもその評判を聞いたことがあります。 まだ27歳と若いのに落ち着きがあって、礼儀正しくて、好感が持てます。僕のブログや本(「今宵も、BARへ…」)もすでに読んでいてくれたこともあって、打ち解けるのに時間はかかりませんでした。調子に乗って、「ミリオン・ダラー」なんて卵白を使うめんどくさいカクテルを頼んだ僕(ごめんなさ~い)に対して、嫌な顔一つせずに応じてもらって感謝でーす。【Bar・Kiln(キルン)】3軒目は、南海電鉄・中百舌鳥駅へ駅一つ移動。改札口を出て徒歩数分の、大きなマンションの前に来ました。店はこのマンションの2Fにあります。ことし4月に誕生したばかりの、堺のニュー・フェースです。マンションの2Fに飲食店舗のスペースがあるなんて、意表を突かれます。 しかし、ドアを開けて店に入ると、普通の街場のBARのようで、違和感はまったくありません。店はどちらかと言えば、モルトに力を入れておられるようす。その意気込みは店名を「Kiln」(=ウイスキー蒸留所の象徴である「乾燥塔」のこと)と付けたことからも分かります。バック・バーの木の額縁入りの店の紋章(皮張り!)も素敵です。 マスターのSさんも他の店のマスターに負けず劣らず気さくで、親切な方でした。聞けば、マンションの住人の方も結構常連さんになっているとか。レアなモルトもいろいろあるらしいです。こんな素敵な酒場が自分のマンションにあったら、僕もきっと入り浸ってしまいりそうです。【Bar・Whisky Cat】Kilnから程近いところに、南大阪のバー業界の重鎮(?)がおられるというのでお邪魔しました。BarとIrish Pubの両方の顔を持つような店。土曜日のまだ8時頃なのに、店内はもうほぼ満員の盛況です。カウンターの2席だけが空いてたので、ラッキーでした。 オーナー・バーテンダーのOさんも腰の低い方で、とても柔らかい丁寧な接客をされます。土曜日でもこれほど繁盛しているのは、やはりOさんの人柄ゆえでしょう。「お会いするのを楽しみにしていました」とOさん。事前に僕の本を読んでいてくれたおかげで、すぐに旧知の間柄のような気持ちになりました。 この店もウイスキーへのこだわりは並大抵のものではありません。バック・バーには樽入りのモルトもいくつか置かれています(ちなみに、店名の由来となった「Whisky Cat」とは、蒸留所でネズミ獲りのために飼われている猫のことです)。堺のBARのレベルの高さ、恐るべしです。【Bar・アッセルブル・オン・エイト】南海高野線・堺東駅から南海本線・堺駅方面へ歩いて、次の店へ移動する途中に立ち寄りました。お目当てのバーテンダーが休んでいたので、ここは1杯だけで退散。飲食店舗の設計で有名なデザイナー、間宮吉彦氏が内装を手がけたという、おしゃれな雰囲気のBARでしたが、滞在時間が短かったのでとくにコメントはありません(写真もなしです。すみません)。【Bar 中原】南海・堺駅近くにあって、2009年11月にオープンしたばかりの新しい店。ここのNマスターも友人が懇意にしています。Nさんは今、南大阪エリアだけでなく、関西でも今とても注目されているバーテンダー。実際、業界のカクテルコンクールの創作部門で優勝経験もあるほどです。 店は、やや暗めのライティングのおしゃれな感じ。清潔感にあふれたオーセンティックBARです。ここはせっかくだから、マスター渾身のカクテルをいただかなくては、と早速「ミリオネア」というスタンダード・カクテルをお願いしました。 NさんはホテルBARの出身ですが、ホテル出身のバーテンダーの方に有りがちな堅苦しさもなく、話好きな方です。店では、Nさんの創作カクテルも人気です。「梅の音」という名の「響12年」をベースにした美味しそうなカクテルもメニューにあることも、後で知りました。知っていたら、味わっていたのに…残念!(次回訪問の際は、ぜひいただきたいと思っています)。 さて、そろそろ堺ともお別れの時間です。各店のマスターやバーテンダーの皆さん、美味しいお酒と料理、そして温かいもてなし&心地よい時間を本当に有難うございました! 再会の機会を楽しみにしています!! 【Italian Bar millanta】大阪府堺市中区深井清水町3987 東野ビル1F 電話072-270-0090 午前11時半~午前3時 不定休 【Bar街のあかり】堺市中区深井沢町3342 プラザOM1F 277-7749 午後6時~午前2時 無休 【Bar Kiln(キルン)】堺市北区中百舌鳥町2丁82-83 キラリ8-1ビル203 250-1450 午後6時~午前3時 不定休 【Bar Whisky Cat】堺市北区中百舌鳥町3丁358-10 ライフステージ村田1F 259-8667 午後5時~午前1時 無休 【Barアッセンブル・オン・エイト】堺市堺区熊野町東4丁1-18 TMCビル4F 222-8833 午後8時~午前5時 火休 【Bar中原】堺市堺区戎島町2丁30 ターミナルマンション1F 282-7766 午後7時~午前2時 月休こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2010/11/13
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サヴォイ・カクテルブックと言えば、今さら改めて説明するまでもありませんが、1930年に出版され、今では世界中のバーテンダーの、おそらく8割以上は持っている「バーテンダーにとっては最初の教科書(バイブル)」のような本です。 著者のハリー・クラドック(Harry Craddock)は、1875年、英イングランド生まれ。22歳で米国に渡り、ニューヨークなどでバーテンダーとして活躍していました。しかし1920年、禁酒法施行を嫌って米国に見切りを付けて帰英。ロンドンのサヴォイ・ホテルで職を得ます。 そして1925年には同ホテルのチーフ・バーテンダーとなり、そのさらに5年後、この歴史的な名著を出版するのです。同著には約880種類のカクテルが紹介されており、スタンダード・カクテルをつくる場合、バー業界では今日でもまず、このサヴォイのレシピが「出発点」になっています。レトロな挿し絵も楽しく、ぱらぱらとページをめくっているだけでも、時々思わぬ発見があります。2002年には待望の日本語版も出版されました。 ただ、私がずっと気になっていたことがありました。それは、初の日本語版のベース(底本)となったのは初版本なのか、それとも、その後1952年や1965年、1985年に出された改訂版なのかどうかという点でした。改訂版には初版本以降に誕生したカクテルもいくつか収録されています。「底本」の時期は本に収録されているカクテルがいつの頃から存在していたのか、その時期を推定する重要な手がかりになります。もし初版がベースであれば、収録のカクテルは少なくとも1920年代には登場していたことになります。 さて、私は先般、幸い、このカクテルブックの貴重な初版本を手に入れることができました。そして、その収録内容について、日本語版の内容と詳細に比較検討してきました。その結果ですが、日本語版は、ほぼ完全に(下の【追記1】ご参照)初版本を下敷きにして翻訳・制作されていることが分かりました。 現在も世界中のバーで愛され続けているスタンダード・カクテルのほとんどは、1930年までに誕生したものです。言い換えれば、モダン・カクテルの基礎はこの1900~1920年代につくられたと言っても過言ではありません。日本語版を持っている皆さんは、1920年代のカクテルのレシピを確実に知ることができるのです。小さなことかもしれませんが、クラドックが生きた同時代のレシピが味わえる幸せに、改めて感謝したいと思います。【追記1】「ほぼ完全に」と書いた理由は、以下の通りです。サヴォイ・カクテルブックの初版には約880種類のカクテルが収録されていますが、2002年の日本語版ではなぜか、初版の「ADIDTIONAL COCTAILS」(P282~283)という2ページにある以下の9つのカクテルが抜け落ちているのです(「うっかり」忘れたのか意図的なのかは不明ですが、とても重要なカクテルが含まれているので、改訂版ではぜひ収録して頂けるよう願っています)。 <日本語版では未収録の原本(初版)収録カクテル>バカルディ・カクテル(Bacardi Cocktail)、バンブー(Bamboo)、ブラックソーン(Blackthorn)、ブックセラーズ・スペシャルプライド(Bookseller's Special Pride)、デヴォンシャー・プライド(Devonshire Pride)、ゴールデン・ドーン(Golden Dawn)、ガン・コットン(Gun Cotton)、ジャージー・ライトニング(Jersey Lightning)、ルルズ・フェイバリット(Lulu's Favorite)【追記2】ちなみに、現代でも生き残っているスタンダードのうち、このサヴォイ・カクテルブック・初版本が「初出資料(文献)」と確認されている主なものは、以下のようなカクテルです。 アヴィエーション(Aviation)、バーバラ(Barbara)、ビトウィーン・ザ・シーツ(Between the Sheets)、ブラッド&サンド(Blood & Sand)、チェリー・ブロッサム(Cherry Blossom)、シカゴ(Chicago)、ミリオン・ダラー(Million Dollar)、ミスター・マンハッタン(Mr Manhattan)、ニューヨーク(New York)、ニコラシカ(Nicolaski)、パリジャン(Parisian)、エル・プレジデンテ(El Presidente)、シャムロック(Shamrock)、シャンハイ(Shanghai)
2016/03/17
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43.ジャパニーズ・カクテル(Japanese Cocktail)/ミカド(Mikado)【現代標準的なレシピ】ブランデー(またはコニャック)(40)、ライム・ジュース(10)、オルジェート(「オルゲート」と表記する場合も)・シロップ(10)【注1】、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、レモン・ツイスト 氷(ロング・スタイルの時) ※ライム・ジュースを入れないレシピもある 【スタイル】シェイクまたはステア “カクテルの父”とも言われる、かのジェリー・トーマス(Jerry Thomas)が1860年頃に考案し、世界初の体系的カクテルブック「How To Mix Drinks」(1862年初版刊)にも登場する歴史的かつ由緒あるカクテルです。国の名前がついたカクテルの中でも、最も歴史が古いカクテルと言われています。 トーマスが考案したオリジナル・レシピは、「ブランデー1Wineglass、オルジェート・シロップ1tsp、ビターズ2分の1tsp、レモン・ピール→タンブラーに注いでステア」となっています。 1860年と言えば、日本はまだ開国まもない混乱期で、攘夷の嵐が吹き荒れていた時代。そんな頃、なぜ米国で「日本の」という名が付いたカクテルが誕生したのでしょうか--。この理由については、洋酒研究家・石倉一雄氏が、近年まで「謎」に包まれていたその由来を解き明かしてくれています(石倉氏の玉稿「日本人の知らないジャパニーズ・カクテル/ミカド」をご参照。→ Webサイト「Food Watch Japan」= http://www.foodwatch.jp/column/ =で連載)。 石倉氏によれば、1860年当時、ニューヨークのマンハッタンにあった「パレス・バー」でチーフ・バーテンダーとして働いていたトーマスが考案し、名前の由来には、なんと徳川幕府が1860年(安政7年、3月に「万延」元年に改元)に派遣した訪米使節団が大きく関係していているということです。トーマス自身、ニューヨークを訪れたサムライ姿の使節団の姿を目撃し、インスピレーションを得たとも言われています。 しかし、カクテルはブランデーがベースで、他の材料にも日本的なものは一つもないのに、なぜ「ジャパニーズ・カクテル」なのでしょうか? 石倉氏は、トーマスは、このカクテルの材料の一つ「オルジェート・シロップ」に使われている杏(あんず)の核(仁)の香りに、「オリエンタルなイメージ」を強く抱いたのではないか、そして、1850年代から米国西海岸に増え始めた中国人移民が持ち込んだ紹興酒の味わいに「ジャパニーズ」的なイメージを感じ、紹興酒に似た味わいのカクテルを西洋の酒で再現しようとしたのではないかと推察しています。 もちろん、「紹興酒は中国の酒じゃないのか?」と思われる方も多いでしょう。しかし、この当時の一般的な米国人は、中国と日本の区別はほとんどつかず、日本は中国の一部だと考えていた人がほとんどでした。なので、トーマスが紹興酒を日本の酒と考えたとしても不思議ではありません(詳しくはぜひ、石倉氏による渾身の論考をお読みください)。 ジャパニーズ・カクテルはその後欧州へも伝わり、当初は「ジャパニーズ・カクテル」の名で紹介されていました。しかし1885年、日本を舞台にした「ミカド(Mikado)」というオペレッタが、ロンドンの「サヴォイ・シアター」で上演され大ヒットすると、「ジャパニーズ→ミカド」という連想から、いつしか「ミカド・カクテル」と呼ばれることが多くなったということです。「ミカド」はその後、米国でも上演されるなど欧米でロングランの大ヒットとなりました。 ご参考までに、トーマスの本以降に出版されたカクテルブックでの「ジャパニーズ・カクテル」の扱いを見ておきましょう。・「Bartender’s Manual」(ハリー・ジョンソン著、1882年初版、1934年再版、2008年復刻版刊)米 ブランデー1グラス、ボウカーズ・ビター【注2】2~3dash、オルゲート・シロップ2~3dash、マラスキーノ2dash、レモン・ピール・「American Bartender」(ウィリアム・T・ブースビー著、1891年初版、2009年復刻再刊)米 コニャック1グラス、アンゴスチュラ・ビターズ3dash、オルゲート・シロップ4分の1tsp、レモン・ピール・「Modern American Drinks」(ジョージ・J ・カペラー著、1895年初版、2008年復刻版刊)米 ※Japanese Cocktailの名での収録はないが、Japanese Punch(ブランデー2分の1、アラック【注3】2分の1、ライム・ジュース半個分、シュガー1tsp、紅茶適量)、Mikado Punch(セント・クロワ・ラム【注4】2分の1、ブランデー2分の1、レモン・ジュース半個分、シュガー1tsp)という2種類が掲載されている。・「World Drinks and How To Mix Them」(ウィリアム・T・ブースビー著 1908年刊行、1934年再版)米(ジャパニーズ・カクテル、ミカドの双方が登場) ★ジャパニーズ・カクテル → ブランデー1ジガー、オレンジ・ビターズ2dash、オルゲート・シロップ1tsp、(アンゴスチュラ?・)ビターズ2drops、レモン・ピール(同書では、ジン・ベース=3分の2ジガー=に替えた「ジャパニーズNo.2」というカクテルも収録されている) ★ミカド → ブランデー3分の2ジガー、キュラソー2dash、オルゲート・シロップ2dash、クレーム・ド・ノワヨー【注5】2dash、ビターズ2drops、レモン・ピール・「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(ウェーマン・ブラザーズ編、1912年初版、2008年復刻版刊)米 & ・「173 Pre-Prohibition Cocktails」 &「The Ideal Bartender」(トム・ブロック著、1917年刊、2001年&2006年再刊)米 → 収録なし・「ABC of Mixing Cocktails」(ハリー・マッケルホーン著、1919年刊)英 ブランデー1グラス、アンゴスチュラ・ビターズ2dash、オルゲート・シロップ1tsp(ティー・スプーン)、シェイクしてカクテルグラスに注ぎ、チェリーを飾る・「The Savoy Cocktail Book」(ハリー・クラドック著 1930年刊)英 Mikado(ミカド)の名で登場 → ブランデー2分の1グラス、キュラソー2dash、オルゲート・シロップ2dash、クレーム・ド・ノワヨー2dash、アンゴスチュラ・ビターズ2dash・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 Mikado(ミカド)の名で登場 → ブランデー2オンス、クレーム・ド・カカオ2分の1tsp、キュラソー2分の1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ2dash ※「ジャパニーズ・フィズの名で以下のレシピのカクテルも登場 → ライ・ウイスキーまたはバーボン・ウイスキー1.5オンス、ポート・ワイン2分の1オンス、レモン・ジュース半個分、パウダー・シュガー1tsp、卵白1個分、ソーダ適量・「The Artistry Of Mixing Drinks」(フランク・マイアー著 1934年刊)仏 → 収録なし・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S.クロケット著 1935年刊)米ブランデー1ジガー、オルゲート・シロップ2dash、ボウカーズ・ビターズ1dash、レモン・ピール・「Café Royal Cocktail Book」(W.J.ターリング著 1937年刊)英ブランデー4分の3、オルゲート・シロップ4分の1、ボウカーズ・ビターズ2dash、レモン・ピール・「Trader Vic’s Bartender’s Guide」(ビクター・バージェロン著 1947年刊)米 → 収録なし 「ジャパニーズ・カクテル」は日本には、少なくとも1920年代前半までには伝わり、日本初のカクテルブックと言われる、「カクテル(混合酒調合法)」(秋山徳蔵著、1924年刊)や「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)=に登場します。※同時期に出版された両著ですが、レシピはかなり異なっています。秋山氏のレシピはトーマスの本にルーツを持ち、前田氏のレシピは、サヴォイ・カクテルブックとほぼ同じです。 その後、30年代以降に日本で出版された幾つかのカクテルブックにも「ジャパニーズ・カクテル」または「ミカド」の名で登場します。ただし、せっかく「日本」にちなむカクテルなのに、現代の日本のバーでは残念ながらほとんど知られていません(「オルジェート・シロップ」という若干ややこしい材料のせいでしょうか?)。カクテル名も、現代のカクテルブックやWeb専門サイトにおいてもなお、「ジャパニーズ・カクテル」「ミカド」の両方が混在しています。 なお、「ジャパニーズ・カクテル」には、その後さまざまなバーテンダーによって、多くのバリエーション(20種類近くも!)が生み出されています(代表的なバリエーションの一つは、「ブランデー50ml、クレーム・ド・カカオ1tsp、オレンジ・キュラソー1tsp、シロップ0.5tsp、アロマチック・ビターズ1dash」です)。 また、「世界コクテール飲物辞典」(佐藤紅霞著、1954年刊)にはウイスキー・ベースの、さらに「JBAカクテルブック」(1963年刊)と「すてきな夜にはカクテル」(木村与三男著、1983年刊)にはジン・ベースの「ジャパニーズ・カクテル」がそれぞれ収録されていますが、そのルーツはよく分かっていません。 【注1】「オルジェート(Orgeat)・シロップ」:ナッツの香りが特徴のビター・アーモンド・シロップのこと。19世紀後半から20世紀初頭の欧米のカクテルにはしばしば使用された。Orgeatとは仏語で「アーモンド」の意だが、このOrgeatは普通のアーモンドではなく、杏仁(杏の核)のことを指す。現在でも「MONIN(モナン)」社のシロップ・シリーズで入手可能だが、原材料に杏仁がどの程度使われているかどうかは不明。 【注2】「ボウカーズ・ビター(Boker's Bitter)」は、1828年にドイツ系米国人のジョン(ヨハン)・ボウカーが製造・販売を始めたビターの銘柄。かのジェリー・トーマスもいくつかのカクテルで使用している。1920年代に一時製造中止となったが、近年、その味わいを再現した製品が再発売されている。 【注3】アラック(Arrack)とは、中近東からアジアにかけて、現在でも幅広く造られている蒸留酒。原料は米やサトウキビ、ナツメヤシ、ジャガイモ、ヤシの花穂など。 【注4】カリブ海の米領ヴァージン諸島の「セント・クロワ(St.Croix)島」産のラムのこと。 【注5】「クレーム・ド・ノワヨー(Crème de Noyaux)」=ノワイヨーとも表記される=は、桃や杏の核を主成分とするリキュール。アーモンドの風味を持つ。 【確認できる日本初出資料】カクテル(混合酒調合法)(秋山徳蔵著、1924年刊)、コクテール(前田米吉著、1924年刊)。
2017/04/02
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81.サイドカー(Sidecar)【現代の標準的なレシピ】(液量単位はml)<レシピ1:英国風> ブランデー(30)、コアントロー(またはホワイト・キュラソー、トリプルセック)(15)、レモン・ジュース(15)<レシピ2:フランス風> ブランデー(20)、コアントロー(20)、レモン・ジュース(20)【スタイル】シェイク ※欧米では、砂糖でグラスをスノー・スタイルにすることもある。 「サイドカー」は20世紀初めに誕生し、現代においても超有名なクラシック・カクテルの一つです。カクテル名の由来でもある「サイドカー」とはオートバイの横に取り付けて走る乗り物です。第一次世界大戦で軍用バイクとして開発されました(2輪のバイク+1輪の側車の3輪で走ります)。 ただし、有名なカクテルなのに、誕生の時期や考案者については定説がありません。現在までに、以下のようなさまざまな説が伝わっていますが、以下の(1)と(2)の2説は有名で、どちらも複数の文献やWeb専門サイトでよく紹介されてきました。(1)第一次大戦後の1920年代前半に、パリの「ハリーズ・ニューヨーク・バー」の経営者、ハリー・マッケルホーン(Harry McElhone 1890~1958)が、いつもサイドカー付きのオートバイに乗って来店する常連客のために考案した(出典:Wikipediaほか多数)。 ※これまで一番紹介されることが多かった説。しかし、裏付ける資料は確認されておらず、信憑性が薄いとして、現在では専門家の間では否定されている。(2)第一次世界大戦(1914~18)中、パリのレストラン・バーで、コニャックを飲んでいた軍人(米軍人、フランス軍人、ドイツ軍人の3説あり)の元に、「急いで軍の本部へ戻れ」という指令が来た。度数の強いコニャックを短時間で飲み干さなければならないその軍人が、バーテンダーに「ホワイト・キュラソーとレモン・ジュースで割ってくれ」と頼んだのが始まり(出典:多数の文献やWeb専門サイト)。※このレストラン・バーがどこかは不明。(3)1919~21年頃、ロンドンの社交クラブ「バックス・クラブ(The Buck’s Club)」(1919年創業)の初代バーテンダー、パット・マクギャリー(Malachy "Pat" MacGarry)が、フランス国内で流行っていたサイドカーのレシピをアレンジし、バックス・クラブで提供。その後、英国内で広まった(出典:PBOのHPやWikipedia英語版 ※「考案者」という表現はしていない)。 ※英国のバーテンダー、ロバート・ヴァーマイヤー(Robert Vermeire)のカクテルブック『Cocktails:How To Mix Them』(1922年刊)のサイドカーの項では、「(1922年以前から)サイドカーはフランスではとても人気のあるカクテルだった。バックス・クラブの著名なバーテンダー、マクギャリー氏が初めてロンドン(のバー業界)へそのレシピ紹介した(introduced)」という、(4)の説を裏付ける「添え書き」を掲載している。(4)1920年代前半、パリのリッツ・ホテル(The Ritz Hotel)内のバーで誕生した(リッツ・ホテル側の主張・見解=出典:Wikipedia英語版)。 ※リッツ・ホテルのチーフ・バーテンダー、コリン・ピーター・フィールドはその著書『The Cocktails of The Ritz Paris』(2003年刊)の中で、「1923年頃、リッツのバーの責任者だったフランク・メイエ(Frank Meier)が考案したと信じている」と記す。ただし、裏付けとなる証拠(資料)には触れていない。メイエ自身は、1934年に出版した自著『The Artistry of Mixing Drinks』のサイドカーの項では、「自分のオリジナルである」とは一切言及していない。(5)デヴィッド・エンベリー氏(David Embury)の著書『The Fine Art Of Mixing Drinks』(1948年刊)は、「第一次大戦中、パリに駐留していたサイドカー好きの米陸軍軍人のために、あるビストロが考案した」と伝える(出典:Wikipedia英語版)。(6)19世紀半ば~後半に、ニューオーリンズで生まれた「ブランデー・クラスタ」(末尾【注1】ご参照)のレシピが、20世紀初めにシンプルに改良され、それがその後欧州へ伝わった(※この説は近年、専門家の間では支持を集めている)。(7)19世紀末~20世紀の初めに一足早く誕生したダイキリ・カクテルのラムをブランデー(またはコニャック)に代えたところ、客の評判がよくて発展した。 欧米のカクテルブックで「サイドカー」が初めて紹介されたのは、1919年に英国で出版されたハリー・マッケルホーン(Harry MacElhone)のカクテルブック「ABC of Mixing Cocktails」の1922年改訂版です。なので、欧州では、少なくとも1920年頃までには社交クラブや街場のバーで登場していたことになります。 国内外のカクテルブック等では現在に至っても、(1)の説を真実であるかのように紹介する本をよく見かけます。もちろん、サイドカーは今も、ハリーズ・バーの看板カクテルであり、このバーが、サイドカーの世界的普及に大きく貢献してきたことは間違いありませんが、しかし近年は、「マッケルホーン=考案者」説には、専門家から疑問の声が数多く出ています。 諸説が入り乱れている場合は、私はやはり、信頼できる一次資料(カクテルブック等の文献)の記述を「拠り所」にするしかないと信じています。 現時点で一番信頼するに足ると考えているのは、マッケルホーン自身が、自著『ABC Of Mixing Cocktails』の「サイドカー」の項で記した「ロンドンのバックス・クラブ(The Buck’s Club)のバーテンダー、マクギャリーのレシピによる(Recipe by Pat McGarry)」という添え書き、さらに、(3)で触れたヴァーマイヤーの著書『Cocktails and How To Mix Them』のサイドカーでの追記内容です。 マッケルホーンは自著収録のカクテルで、自身が考案したものについては「自分のオリジナルである」と明記していますので、「サイドカー」が自らの考案であれば、間違いなくそう記したはずです(末尾【注2】ご参照)。同時代の2つの重要な文献が「マッケルホーン考案説」を間接的に否定している以上、(1)の説を支持することはできません。 私は、国内外の新刊のカクテルブックが今なお、「マッケルホーンが考案した」と間違って紹介しているのを見ると、とても不可解で、残念でなりません(「マルガリータ=流れ弾に当たった恋人の名前起源説」のように、後世のつくり話が一人歩きして、間違ったまま"定説化"してしまう典型的な例かもしれません)。 ちなみに、マッケルホーンとマクギャリー、そしてヴァーマイヤーの3人は、ほぼ同じ時期にロンドンでそれぞれ別の社交クラブでバーテンダーとして働いていましたが、おそらくは3人ともに面識があり、最新カクテルのレシピの情報交換はしていたはずです。なので、マッケルホーンやヴァーマイヤーが自著に「マクギャリーによるサイドカー」を載せること自体は不自然なことではなかったでしょう。 結論として、21世紀の今の知見では、現在伝わっている「標準的なレシピのサイドカー」の誕生に最も貢献した人物(限りなく「考案者」に近い?)は、マッケルホーンではなく、パット・マクギャリーであると考えるのが一番自然だと考えています。すなわち、私個人としては(3)の説を支持しています。もし、マクギャリーが考案者でなかったとしたら、それはパリのどこかのバーで働くバーテンダーであったのでしょうが、その名前を突き止めるのは、今となっては極めて難しいでしょう。 なお、「サイドカー」というカクテル名の由来については、現代においても「飲み心地が良いため酔い潰れやすい、このカクテルの味わいが、サイドカーに乗った際の酔い心地(乗せたのは主に女性)と似ていた」という説を紹介する文献もありますが、これについても、おそらくは、後世の“後付け”的なつくり話がそのまま間違って定着してしまったのでしょう。 さて、「ABC of Mixing Cocktails」収録のレシピはどうかと言えば、「ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジュース3分の1」(シェイク・スタイル)です。「ハリーズ・ニューヨーク・バー」では現在でもこのオリジナル・レシピを頑固に守っているそうです。 しかし、1920~30年代のカクテルブックをみると、「サイドカー」のレシピは大きく分けて2つの流れが見受けられます。その一つは、マッケルホーンの本と同じ「3つの材料等量レシピ」。これは「フレンチ・スタイル」と呼ばれています。 そして、もう一つは、「英国スタイル」と言われるレシピで、「ブランデー(2分の1)、コアントロー(またはホワイト・キュラソー、トリプルセック)(4分の1)、レモン・ジュース(4分の1)」です。「英国スタイル」は『The Savoy Cocktail Book』の著者、ハリー・クラドック(Harry Craddock)によって考案されたと伝えられています(出典:Wikipedia英語版)。 では、1900~1950年代の主なカクテルブック(「ABC…」以外)は「サイドカー」をどう取り扱っていたのか、どういうレシピだったのか、ひと通りみておきましょう。・「Dary's Bartenders' Encyclopedia」(Tim Daly著、1903年刊)米、「Bartenders Guide: How To Mix Drinks」(Wehman Brothers編、1912年刊)米、「173 Pre-Prohibition Cocktails)」 & 「The Ideal Bartender」(Tom Bullock著、1917年刊)米 いずれも掲載なし・「Cocktails:How To Mix Them」(Robert Vermeire著、1922年刊)英 コニャック・ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジュース3分の1(シェイク)・「The Savoy Cocktail Book」(Harry Craddock著、1930年刊)英 本文中に挙げた英国風レシピ(シェイク)。・「Cocktails by “Jimmy” late of Ciro's」(1930年刊)米 ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジューズ3分の1(スタイル不明)・「The Artistry Of Mixing Drinks」(Frank Meier著 1934年刊)仏 ブランデー2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「World Drinks and How To Mix Them」(William T. Boothby著、1934年刊)米 ブランデー2分の1、コアントロー2分の1(ステア・スタイル) ※3つの材料等量レシピのものは「Sidecar No4」という名で収録。・「The Official Mixer's Manual」(Patrick Gavin Duffy著、1934年刊)米 ブランデー2分の1、コアントロー4分の1、レモンジュース4分の1(シェイク)・「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」(A.S. Crockett著 1935年刊)米 掲載なし・「Mr Boston Bartender’s Guide」(1935年刊)米 ブランデー1onz(30ml)、コアントローオ0.5onz(15ml)、レモンジュース4分の1個分(シェイク)・「Café Royal Cocktail Book」(W.J. Tarling著 1937年刊)英 ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジューズ3分の1(シェイク)・「Trader Vic’s Book of Food and Drink」(Victor Bergeron著 1946年刊)米 ブランデー1onz(30ml)、コアントローオ0.5onz(15ml)、レモンジュース4分の1個分、砂糖でスノー・スタイルにしたカクテルグラスに注ぐ(シェイク)・「Esquire Drink Book」(Frederic Birmingham編、1956年刊)米 サイドカーNo1=ブランデー3分の2、コアントロー3分の1、レモンジュース1dash(シェイク)、サイドカーNo2=ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジューズ3分の1(シェイク) ちなみに、フランス国内での「サイドカー」は当初、「レシピ1」の等量レシピが一般的でしたが、サヴォイ・カクテルブックの影響もあったのか、1930年代以降は「レシピ2」のような「2:1:1」のものが主流になっていったということです(出典:Wikipedia英語版)。 マッケルホーンは1922年、かつて働いたことのあるパリの「ニューヨーク・バー」が売りに出されたことを知って買収し、翌1923年2月、店の名前を「ハリーズ・ニューヨーク・バー」に変えてリニューアル・オープンしました。そして、自らのバーを通じて、カクテル「サイドカー」を世界的に広めました。たとえ考案者でなくとも、「サイドカー普及の最大の貢献者」がマッケルホーンであることに、異論を挟む人はいないはずです。 「サイドカー」は、日本には少なくとも1920年代までに伝わり、日本初の体系的カクテルブックの一つと言われる「コクテール」(前田米吉著、1924年刊)で初めて紹介されました。 誕生当初は「オリジナル・カクテル」の一つに過ぎなかった「サイドカー」は、長い歳月の間、多くのバー・ファンの心をつかみ、世界中に普及しました。現在では、国境を超えて不動の人気を誇る「スタンダード・カクテル」です。シンプルな材料のコンビネーションが生み出す奥行きのある味わい、アルコールと酸味と甘味の絶妙のバランス。100年後でも、多くの人々に愛されている理由が分かるような気がします。【確認できる日本初出資料】『コクテール』(前田米吉著、1924年刊)。そのレシピは「ブランデー3分の1、コアントロー3分の1、レモンジュース3分の1、アンゴスチュラ・ビターズ1dash(シェイク)」で、マッケルホーン・レシピとほぼ同じです。【注1】ブランデー・クラスタは、コニャックとキュラソーを混ぜたあとレモンやビターズを加え、砂糖で縁取りしたグラスで飲むという古典的なスタイルのカクテル。【注2】サイドカーのレシピについて、ハリー・マッケルホーンはその著書で「パット・マクギャリーによるもの」と記しましたが、その説明文は28年版を最後に消えて、1932年以降に出版された版では「自らが考案した」と記述を変えています。レシピ自体は変更を加えていないのに、なぜ説明文を変えたのか、その理由はよく分かりません。「結局のところ、サイドカーを有名にしたのは自分であり、ハリーズ・ニューヨーク・バーである」という自負もあったのかもしれませんが、最初自らが書いた記述を何の説明もなく変えるのは理解に苦しむところです。こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2018/04/15
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(279) バッタのスケッチ 1993年 ペン画 ※製図用の径0.1mmのペンを使った、かなり細密な絵。点描と線描を駆使して描いている。生涯、切り絵でも昆虫の絵を何枚も手掛けた一徹氏だが、ここまで細密なものは珍しい。トリノまさる氏との共著「ペンとカラーインクで描く」(グラフィック社・刊)のために、作例として描いた作品(同著の33頁に掲載)だが、1993年と言えば、すでに切り絵作家としての評価・知名度がかなり広がっていた頃。なぜ、一徹氏が(共著とは言え)このような本をつくったのかは、正直言って少し謎である。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/07/17
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成田一徹・バー切り絵作品集 『NARITA ITTETSU to the BAR』 完全改訂増補版 発刊記念! ITTETSU Gallery:もう一つの成田一徹(300) ピッコロシアター30周年のために(4点) 2008年 ※兵庫県尼崎市にある「ピッコロシアター」(兵庫県立尼崎青少年創造劇場)は1978年に開館した、関西では有数の「舞台演劇」発信の拠点である。2008年、劇場関係者との個人的なつながりもあって、一徹氏はその30周年に際して、記念ポストカードのための切り絵を依頼された。そして出来上がったのがこの4枚。いずれも非常に丁寧で、繊細で、手の込んだ作品に仕上がっており、関係者からとても喜ばれたと伝わっている。◆故・成田一徹氏の切り絵など作品の著作権は、「Office Ittetsu」が所有しております。許可のない転載・複製や二次利用は著作権法違反であり、固くお断りいたします(著作権侵害に対する刑罰は、10年以下の懲役又は1000万円以下の罰金という結構重いものです)。※「ITTETSU GALLERY:もうひとつの成田一徹」過去分は、こちらへ★こちらもクリックして見てねー!→【人気ブログランキング】
2021/08/07
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