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湘南邸園文化祭2007湘南邸園文化祭とは、相模湾沿岸地域で各地の邸園を舞台にインスタレーション、音楽、講演、映写会、など文化芸術創作活動が行われています。2年目になる湘南邸園文化祭2007の茅ヶ崎会場、「高砂緑地の歴史と文化景観を考える」が11月3日に開催され多くの同時開催事業の中、多数のご来場ありがとうございました。今から23年前、次々に消えていく別荘建築の一つ、マンション建設の反対運動の末茅ヶ崎市によって緑地公園として現在は憩いの場として存在している。と文書に表すと簡潔な出来事にも思えるが、その経緯については悲喜こもごもに描き出されている。当時、まだ建造物の保存運動が盛んではなかった頃の出来事である。私自身20代の後半で「バブル」全盛の身で朝のCNNニュースを見て夜のCNNニュースを見てから寝る毎日、それどころではない。まったく無関心であったことを現在では反省している。11月3日の当日は、反対運動をされた渡辺、岩本氏をはじめ「松籟荘」の書見を制作した横浜国大の大学院教授吉田鋼一氏をお迎えし、フォーラムが開催された。当時50代の方は70代、既に亡くなられた方もいらっしゃる。あっという間の23年だ。昨今では、リノベーションなど単に保存を促すだけでなく保存家屋を活かす手法が定着しているがそう簡単にはいかない。同時に庭の保存にも同じことがいえる。永く仕えていた「お屋敷」は、相続とともに分割され狭小住宅かマンション建設の憂き目にあう。この相続とは1905年日露戦争の戦費を賄うために制定されたといわれている。家督3代目には無くなる租税だ。例えば山林はの材木は、3代後に製品となる。つまり、納税する時には半分以下になるという。山林相続については平成14年度税制改正への要望内容を固めた。いつだったか画家の相続人が相続税が捻出できずに「絵を燃している」衝撃的なニュースを見たことがある。つくづくこの国の文化度の低下が図り知れる。松籟荘は、明治35年(1902)新派俳優川上音二郎が約3000坪の敷地を埋め立て住居を構えた所で後、大正8年日本化薬社長原安三郎が保養によい温暖な土地を求め2200坪を購入した。当初、「松籟荘」跡の位置に建坪40坪の二階建既存の建物を使用していたという。明治44年(1911)川上音二郎は、舞台で倒れ帰らぬ人となった。一方、夫音二郎を亡くした貞奴は、福沢桃介との縁を深め(NHK春の波濤)ていく。大正6年(1917)貞は女優を引退し名古屋に居を移し、児童劇団を結成している。つまり、原安三郎が土地を購入し、しばらく住んでいた建物は、川上音二郎の家だった事と察することが出来る。しかし、大正12年(1937)9月1日関東大震災で倒壊した。茅ヶ崎の別荘建築は最盛期には200戸を超える別荘があったとものと思われるが震災で倒壊を逃れたのは僅か4棟だけだったと云われている。その後、昭和6年(1931)に「松籟荘」が建てられ昭和7年(1932)には、回遊式の庭園が造られた。この頃、当時7歳の私の父は貨車から庭園材料が園内に運び入れられているのを見ていたという。この頃の日本は、昭和2年(1927)の昭和大恐慌、つづいて昭和5年(1929)の世界大恐慌のころでもある。昭和8年(1932)には、総理犬養毅が暗殺されている。「松籟荘」はその時代の建物だった。全体の様相は、イタリアのヴラ、スペイン調の民家の印象を受けた建物で別府ステンドグラスが程よく設えられていたという。
2007年11月09日
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3年ほど前、裏千家のお茶の先生宅で飛び石と三つ組みの据え方を教えていた時の話、事の発端は、またも「思い込み」「こらぁ~何やっとんじゃー、ボケ」とは言わなかったものの。キミ、「当然、右足からだろ。京都では何してきたの~」と言った時、生意気にも「私は表千家でしたから」と言われたときはちょっとショックであった。とはいっても裏千家の庭なら「郷に入ったら郷に従え」だろ。といってその場を収めた。よくよく話を聞いてみたら京都に修行に行く=手入れを習得する=庭師なのだそうだ。京都にいて庭つくりの経験がない? 造ったことないのに庭師?「ふ~ん、そうなの」恥ずかしい話だ。私は裏千家の手前しかやっていないのでつい最近わかったこと、表と裏では足捌きが違うことが判明した。裏千家では陰陽五行を基に考えられている作法なので右足は陽。点前は右足から入り、畳の敷き合わせの踏み越しも右、すなわち陰の客に対して陽の側を常に客付けとして足を運ぶ。これは、露地でも同じことが云えるのだ。このことが判ってからはどちらも対処出来る様心がけることにしている。右足から出て、左足で帰る・・・裏では当たり前のようにされている。ところが表では逆だという、裏では逆勝手があり戸惑うことしばしある。3年前、第一歩を左にした職人を諌めた時判明したことだった。諌められた本人も判ってはいない行為でもあるが、陰陽が逆。その頃、近所の中学で総合学習の時、或実験に参加してもらった。これも初めて実証された。当日雨なので屋内での授業となり行動学のお話をさせてもらい。被験者10名、右利き左利き問わず或実験を試みた。そこでは、「左と右」の行動心理の「右周りと左周り」の際、「左利きの子と右利きの子」との行動が異なることが判った。文章だと判りにくいかもしれないが飛び石を3歩目で左右に分けたとき、「右に行くのか左に行く」のか、「第一歩の左足が先か右足が先なのか」第一歩で右利き左利きが判るいい機会であった。もしかしたら、これは、あくまでも推測と憶測。利休亡き後、宗旦・宗室が裏千家に、宗旦の三男宗佐は表千家として家督されいく。四代江岑宗佐以降の襲名に「宗左」の「左」が付けられてことも気になるが、所作共々左右に関る所作が表裏どちらも違う所作になっているのはなぜか。もしかしたら祖は左利きだったのかもしれない。表千家と裏千家の手前の違い部屋に入る時表、左足から裏、右足から 出るときは逆の足から お茶を出す時表、茶碗を反時計回りに回して出す裏、茶碗を時計回りに回して出す茶碗を返す時表、反時計回りに回して返す裏、時計回りに回して返す 茶碗の仮置き表、二手(左手、右手)で仮置き裏、一手(右手)で仮置き 茶杓を出す時表、茶杓が反時計回りに回る裏、茶杓が時計回りに回るもし、左利きだとしても右利きの者が左手で箸を持つだけで手が "プルプル" しちゃうのにその昔、左利きを異端と思われていた事を思うと想像を絶する努力が要求されたに違いない。あくまでも推測と憶測だ。「裏」と「表」のお手前が何故逆なのかの説明は何処にもしるされていない。と思ったらkokorouruoi.blog105.fc2.comのブログではこの様なことが書かれていた。※小田榮一 先生のお話によると 「宗旦(利休の孫)が左利きだったために 帛紗を左に着けるようになった」 という説もある(古い書物に記されている)のだそう。 小田榮一 原色茶道大辞典、詳細. 茶会記の風景、茶会記を読むなど茶道本がたくさん出されています。裏千家お手前には「本勝手と逆勝手の点前」がある。これは、裏千家独自のもので稽古のときは勝手が違うのでかなり戸惑います。「右、左」両方知ることで初めて判る事でした。反省!!
2007年11月02日
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