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母の卒寿のお祝いに私が編集している句文集ですが、出版社の方から表紙案が3つ出て参りました~! 3つ並べてみましたが、うーむ。どうでしょう。 どれもなかなかいいけれど、アレかな、一番右の奴はちょっと安っぽいかな? 花筏だから桜、というのはわかりやすいけれど、これ、春以外の季節に目にすると、ちょっとそぐわないところもある。 となると、左のか、真ん中のか、ということになるけれど、左のはちょっと落ち着きすぎて、お婆さん臭いかなあ。まあ、母はもうすぐ90歳だから、実際お婆さんではあるのだけれど。 色々勘案すると、ワタクシ的には、直観で真ん中のがいいと思うのですけど、読者諸賢のご意見や如何に? さて、表紙案も出たので、あとは初校の校正をすれば、年内には完成の予定。本当は誕生日が2月なので、2月に入ってから渡すべきものですが、年内に完成するなら、年末に帰省する時にもう渡してしまおうかな。母も楽しみにしてくれているようだし。 というわけで、今日はこれから少し、校正作業に没頭することにいたしましょうかね。
November 30, 2021
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今日は大学内のさる場所にこっそり「秘密の小部屋」を作ってしまいました。 大学ってところは、しばしば備品が余るところでありまして、それぞれの研究室で不要になった備品がとりあえず廊下に出されて晒しものになっていることがある。まあ「いずれ折を見て捨てるから、しばらくここに置かせて」という意志表示であるわけですな。 で、私の研究室のある棟で、同僚のN先生が、やはり不要となった小机を廊下に出しておりまして。それ、私は前から気になっておったんですわ。 というのは、今年度いっぱいで定年退職されるものの、来年度から非常勤講師として毎週来学される「アニキ」ことK教授のことが頭にあったから。 専任教授の時は、もちろんそれぞれの先生が研究室を持っているわけですけれども、定年後、非常勤になると長年親しんだ研究室はお取り上げになり、「非常勤控室」なる小部屋に押し込められることになる。でも、そこは数多くの非常勤の先生方が出たり入ったりするところで、まったく落ち着けない場所であるわけですよ。で、アニキもいよいよ来年度からそういう立場になられるわけですけど、30年以上この大学に貢献して下さった方に対して、「はい、来年からは非常勤講師控室に居てね」なんて気の毒で言えやしない。 というわけで、どうにかいい方法はないかなと思っておったのですが、先に言いました、N先生の不要の机を見て、パッといいことを思いついた。 我が学科の共同研究室に作りつけてある書棚と書棚の間の隙間にこの机を押し込んだら、ちょっとした「隠し部屋」というか、「秘密の小部屋」になるし、それを「ミニ研究室」として使えばいいじゃん! というわけで、早速N先生にお断りしてこの不要の机を譲っていただき、これを共同研の書棚の隙間に押し込んでみたと。それが下の写真でございます。 おお! 頭の中に描いていた通り、まさにちょっとしたミニ研究室になったではあーりませんか!! これで、あとはちょっとした電気スタンドでも机に置けば、もうちょっとした書斎だ! で、このような状態にしてアニキことK教授に見せたら、先生も大喜び。これで来年度以降の居場所ができた!と。 ということで、今日はこっそり学内に秘密の小部屋を作り、先輩同僚に喜ばれてしまったのでありましたとさ。
November 29, 2021
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わたしゃ基本的に文学の人なので、語学にはさほど興味がないのですが、何年かに一回くらい、語学時代というのが到来することがありまして、実は今、語学時代に入っております。 きっかけとなったのは、先日、このブログでもご紹介した中山裕木子さんの『シンプルな英語』を読んだことなのですが。これこれ! ↓シンプルな英語 (講談社現代新書) [ 中山 裕木子 ] 前のブログにも書きましたが、中山さんの主張というのは、英語というのは主語と動詞で決まると。つまり、何を主語にし、何を動詞にするかで、文の根幹は決まってしまう。後は成行きだ、っていう。それが英語の本質だ、というわけ。 で、この教えというか、悟りって、実はかなり深いものがあるのではないかと。 中途半端に英文法のことを知っていると、「そうは言っても、自動詞と他動詞の違いがあるじゃろう。目的語を取るか取らないかは、大きな差なのではないか?」と、つい先入観で考えてしまうのですが、中山さんの主張するところを反芻しているうちに、自動詞と他動詞の区別、つまり目的語を取るか取らないかの違いというのは、実はそれほど重要な概念ではなく、それこそ成行きで、目的語を取るべきだと思えば取ればいいし、なくてもいいと思えば取らなければいい、というアバウトな感覚でとらえた方が、実際の英語の在り様に近づけるのではないかと思うようになってきたんですわ。 だって、英語のネイティヴだって、赤ん坊の時に自動詞と他動詞の区別を習うわけじゃないんだからね。連中は、そんな区別なしに、成行きでしゃべっているうちに、いつのまに使い分けているだけで、文法的なことを最初から意識しているわけではないのだから。 で、そのこともそうなんだけど、「英語は主語と動詞だ」という発想は、リスニングのコツでもあるのではないかと。 つまりね、英語を聴き取ろうとする時、最初から全体を聴き取ろうとすると、ついていけなくなることが往々にしてあるわけだけど、全体を聴くのではなく、主語と動詞だけに集中し、主語が何なのか、その次に来る動詞が何なのかだけ、そこだけに集中して聴くと、意味が取りやすいということが分かってきたのよ。 で、確かに、主語と動詞さえわかれば、英語って、その人が何を言おうとしているか予想ができるので、そうなると、その後に続くものーーそれが目的語であろうが、副詞句であろうが――が聴きやすくなるというところもある。それはね、ホント、実感するようになりました。 だからね、確かに英語は「主語と動詞」なのかなと。 っつーことで、この歳になって、英語に関する発見をして、面白いなあと思っている今日この頃なのであります。
November 28, 2021
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三重県は伊勢の近く、多気町にある「Vison(ヴィソン)」という観光施設に行ってきました~!これこれ! ↓Vison ここは広大な敷地にホテルと温泉と食事処と様々なショップが立ち並ぶ最新の観光名所なんですけど、とりあえずどんな感じかな~というのが知りたくて。 なお、所在地が「三重県多気郡多気町ヴィソン672-1」というあり得ない処番地なので、クルマのナビで設定しようとしても、「そんな地名ありません」と言われてしまいます。実際には伊勢道「勢和多気インター」を降りたら、もうすぐそこという感じなので、迷うということは絶対にありませんが、それにしても、処番地を「ヴィソン」にしちゃうというのですから、もう、県をあげて盛り上げようとしていることは間違いない。 さて、実際にどういう感じの商業施設かというと・・・うーん、ちょっと気合の入った大きなサービス・エリアって感じ? 確かに凝ったお店・・・例えば味噌専門店、酢の専門店、味醂の専門店など・・・が色々あって面白いし、食べるところも高級なお店から露店的なものまで様々あるので、一度行く分には物珍しくていいかもしれないけど、じゃあ、何度も行きたくなるかというと、さほどでも・・・。特に、敷地が広すぎて、全部見て回ろうとすると、疲れる疲れる。これ、若者はいいけど、お年寄りとか足の悪い人には、ちょっとしんどい感じかな。 まあ、まだ出来たばかりですから、これから手探りで改善されていくかもしれません。今後に期待しましょうかね。 ただ、「糀茶寮」というお店で食べた「糀ボール」というお菓子、これはね、特筆ものの美味しさよ。ついでに「糀甘酒ソフト」も超美味。これらを食べるためだけに、もう一回行ってもいいと思うくらい旨い。教授の熱烈おすすめ!ということで一つ。これこれ! ↓糀茶寮の糀ボール
November 27, 2021
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アマゾン・プライムで『サウンド・オブ・メタル』という映画を観ましたので、ちょっと忘備録を。ネタバレ注意ですので、まだ観ていない人、これから観るつもりの人は、以下、読まない方がいいかも、です。 これ、ルービンという男と、その恋人のルーという女の話なんですけど、二人はメタル・バンドを組んでいて、ルービンはドラム担当、ルーはギターとボーカル担当で、ギンギン大音量のメタルを演奏しながら、家兼用の改造バスに乗って全米各地を経めぐっていたわけ。 ところが、そのルービンが、突如、失聴してしまう。耳が聴こえなくなるんですな。メタル・バンドとして大音量の音楽に耳を晒し続けたのが悪かったのか・・・。 で、なにせ耳が聴こえなければバンド活動なんかできやしない。それどころか、日常の会話すら出来なくなり、ルービンはとまどいと苛立ちで荒れます。で、とりあえずルーが、耳の聴こえない人たちが集団で暮らすコミュニティみたいなのを探し出してきて、ルービンをそこに預け、自分は実家のあるフランスに帰ってしまう。ルーは、実の父親とはあまりいい関係ではないのですが、父親は富豪だし、背に腹は代えられないということで、そういうことにしたわけ。 で、最愛のルーもいなくなってしまったルービンは、そのコミュニティの中で暮らすことになり、コミュニティを主宰するボスの指導を受けながら、子供に混ざって手話を習ったり、そこで暮らす耳の聴こえない仲間たちと少しずつ心を通わせたりすると。 で、ルービンも少しずつ状況にも慣れ、コミュニティに溶け込み始めるのですが、やはり音楽への未練もあり、また耳が聴こえない苛立ちもあって、結局、音楽機材やバスも売って資金を作り、思い切って耳の手術をすることにするんですな。 とはいえ、手術をしたからと言って全治するわけではなく、要するに機能しない耳の代わりに、電気信号を直接脳の神経に伝えて、鼓膜の代役をさせるという手術なので、今まで通りというわけにはいかない。むしろ、頭の中に常に不協和音が鳴っているような状態になってしまうんです。でも、とりあえず、少しは人の言葉が聞き取れるようになった。 で、そこでルービンは一旦、コミュニティに戻るのですが、ボスはルービンをもはや受け入れません。 このコミュニティは、もう、一生耳が聴こえない人たちのコミュニティであり、そういう人生を受け容れている人達だけで構成されている。そこへ、まだ耳の聴こえる世界へ復帰するためにじたばたしているルービンが入ると、コミュニティの輪が壊れると。だから、ルービンはもはや受け入れられないっていうわけ。 ってなわけで、このコミュニティにも居場所を失ったルービンは、ルーを追ってフランスに行く。 で、リッチな父の下で暮らしていたルーと久々に再会するのですが・・・もうそこに、彼の知っていた彼女はいなかった。もう、元の父の娘たるフランス娘がいるばかり。 それをルービンも感じるんですが、それでもあきらめられない彼は、ルーに向って、早く元の生活に戻ろう、また一緒にバスに乗ってツアーをやろう、と誘うのですが、その時のルーの反応を見て、あ、これは駄目だ、と悟るんですな。もう彼女は、自分との生活には戻れなくなってしまったんだなと。 で、翌朝、まだ寝ているルーを残して、ルービンはアメリカに帰ることにする。その途中、フランスの街角のベンチに座っていた彼は、自分の頭に取り付けた機器を外すんです。そして無音の世界に入る。その無音の世界の中、ポツンとベンチに座ったルービンの顔がクローズアップされる。 まあ、結局、ルービンは、じたばたするのをやめて、無音の世界で生きることを選択した――。まあ、そういうことをほのめかして、この映画は幕を閉じます。 まあ、降ってわいた不幸の中で、苦しんで苦しんで、とうとう自分はすべてを失ったということを悟って、ルービンは新しい、耳の聴こえない人生を、ついに選択したんでしょうな・・・。悲しいけれど、しかしそれはそれで一つのスタートの物語でもあって、その意味では妙にすがすがしいところもあるというか。 ま、傑作とは言わないけど、ルービンを演じたリズ・アーメドの印象的な顔立ちもあって、佳作ではありましたかね。これこれ! ↓サウンド・オブ・メタル ところで、この映画の最後のシーンを観て、一つ思い出した別な場面がありまして。 それはアニメ『サスケ』の17話『霧消し』に出てくる伊吹兵馬のこと。合戦で視力を失ってから、自分の心臓の鼓動を聴きながら自己催眠をかけ、心眼で相手を見て斬るという盲目の天才剣士。まあ、『大菩薩峠』の机竜之介みたいなものなんですが、目が見えないことから心も荒んで、道場破りなんかしながら旅をしている。その伊吹兵馬が、たまたまサスケの父親・大猿と再会して久闊を恕するのですが、その時、大猿は伊吹の心の荒れを見抜くんですな。しかしその時の大猿は、自身、目を怪我していて、動きが取れない。そこで大猿は仲間の霧隠才蔵に頼んで伊吹の往く道で待ち伏せさせ、そこで決斗して彼を峰打ちで倒させるわけ。要するに、しょせん盲目では目の見える剣豪には太刀打ちできないということを、伊吹兵馬に悟らせるわけですよ。 で、倒された伊吹は、目が覚めてから怒りに任せて刀を振り回すのですが、やがて大猿に「知り合いのいる寺があるから、そこで仏に仕える身になってはどうか」とアドバイスされたことを思い出し、「俺に坊主頭は似合うかな・・・」と言って、刀を捨てて去っていく。 無論、失聴と失明は違うし、メタルバンドのドラマーとかつて徳川軍を恐れさせた必殺の剣士では大分立場が違いますが、身に降りかかった不幸と、そこからどう立ち直るかというストーリーはよく似てますよね・・・。だから、ルービンが無音の世界の中、ベンチに座ってじっと空を見ているのと、伊吹兵馬が「俺に坊主頭は似合うかな・・・」と呟くのが、重なっちゃって。 ま、そういうことですよ。 でも、伊吹兵馬がひょっとして仏門に入ったかもしれないように、ルービンにもまた、今までとは違うけど、やっぱり意味のある新しい生活が、彼を待っているんじゃないかな。そう思うと、ちょっと救われますよね。
November 24, 2021
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いやあ、大リーグで大活躍の大谷翔平選手に国民栄誉賞を授与しようとして、大谷選手本人から辞退されたって話、聞いた? まず辞退した大谷選手は偉い。そりゃそうでしょうよ。まだこれから何かを成し遂げようっていう大望を持っている選手にあげる賞じゃないよね。そういう賞じゃないから、私はまだ戴きませんと辞退した大谷選手は偉い。若いのにちゃんとしているよ。 だけどさ。 そういう話が政府のどこかで出るというのは、まあ、分かるよ。分かるけど、それはその場を盛り上げるためのアイディアとして出す話であって、正式に本人に打診する、なんてレベルまで持っていく話ではないよね! 逆に、そうなりそうになったら、誰かが止めなきゃでしょ。 それを止めないで、本当に打診しちゃったなんて、どうかしてるよ。 これを傍から見たらどうなの。弱冠27歳の若者に、国が、穏やかに叱責されたようなもんだよ。二十代の若者に、国が、国がだよ、国が、「もう少し常識を弁えなさいね」って言われたのと同じじゃないの。 もう、こうなってくると、「国の権威」なんてものはどこかに吹っ飛んでしまったようなものだよ。国の権威が飛んだというのは、そこが司っている国民栄誉賞の権威も飛んだということであって、そうなると、それは過去にこの賞を受賞した立派な業績を持つ方々の顔に泥を塗るようなことなんじゃないの? こういうことをしたら、こういうことになる、っていう、当たり前の推測を、どうしてこの賞の担当者は考えなかったのかね。 ホントにこういうことがあると、今の日本って、軽量級の人たちが運営しているんだってことが良く分かりますな・・・。情けないったらありゃしない。 ・・・ちなみに、もし仮にワタクシが大谷選手の立場で、二十代で国民栄誉賞を打診されたら、どうするか・・・。 もらうな(爆!!)。
November 23, 2021
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先日、何かのテレビで肉まんの話題が出て、MCの人が「ピザまん」は旨い、と熱弁を振るっておりまして。 ふうむ。そうなのか。 もちろん私も一度や二度は食べたことはありますが、普通においしいと思う以上のものではなかったかな。 でも、そういえば最近食べたことがないよな、と思い、なんだか食べたくなってきて、それで今日、出勤の途中でコンビニに立ち寄り、ピザまんを買って大学で食べちゃった。 ふうむ。普通に旨い。・・・でも・・・やっぱり普通の肉まんでいいかな・・・。 で、ちらっとネットでググってしまったのですが、今、コンビニの肉まんってすごいことになっているのね。各社しのぎを削って、それぞれ趣向を凝らした肉まんを出しているらしい。 で、私が気になったのは、セブンで出している中村屋系の肉まん。「ふんわり×ごろっと肉まん」と題されたそれは、相当においしいらしい。加えてその大きいバージョンである「もちもち×ずっしり大入肉まん」ともなると、ほとんどこれ一個でランチ一食分の充足感が得られそうとのこと。 なるほど。今でこそ半分名古屋に魂を売っておりますが、元はといえば関東の男。肉まんと言えば井村屋ではなく中村屋なのであって。その中村屋の監修を受けたセブンの肉まんなら、食べて吉なんじゃないの? っつーことで、ターゲットは決まった。次はセブンの肉まんだ。楽しみ~!
November 22, 2021
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中山裕木子さんという方が書いた『シンプルな英語』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 シンプルな英語。一口にそう言っても、考え方は色々でございます。 例えば、使う動詞の数を12個に限定し、英文を作る時に動詞の選択に悩まない、という形で、英語発話をシンプルにしよう、という考え方もある。イギリスの研究者C・K・オグデンが考えた「ベーシック・イングリッシュ」がその代表で、その考え方に基づきつつ、さらに日本人英語学習者に特化したのが『裏ワザ流』ね。こちらの考え方では、英語では動詞なんてあまり重要ではないから12個に限定してよし、あとは名詞を活用すればいい、ということになる。これこれ! ↓基本12動詞で何でも言える裏ワザ流英語術 [ 尾崎俊介 ] ところが、中山裕木子さんが提唱する「シンプルな英語」というのは、使う動詞の数を極端に減らすベーシック・イングリッシュの考え方とは真逆で、とにかく動詞重視。自分の言いたいことを言うのに最もふさわしい動詞を使って、「主語+動詞(+ケース・バイ・ケースで必要なものを足す)」で発話する、というもの。 つまり、場にふさわしい動詞を際限なくたーーーくさん知っていなければならない必要があるわけで、私が思うに、それはシンプルな英語じゃないじゃん、ということになるのですが・・・しかし、中山さんがおっしゃっている事にも、実は一理あります。 つまり、中山さんの考える「シンプルな英語」というのは、動詞を沢山覚える手間があるという面倒臭さはあるけれども、英語を発話する発想法として、「まず主語を何にするか考えろ」→「その次に動詞を何にするか考えろ」→「後は成行きで必要な情報を足せ」という、この3つのステップだけにシンプルに集中せよ、という意味での、「シンプルな英語」なわけ。 で、この「まず主語を決めろ、その次に動詞を決めろ、それでもう英語発話の大半は終わったようなもんだ」という発想は、確かに有効です。言われてみれば、その通りなんだよね。 例えば「弊社は空調機器を扱っている会社です」と言いたい場合、日本人だったらWe are a company that deals with air conditioners. などとしてしまいがち。日本語をそのまま英語に直した感じですな。 ところが中山さん曰く、これはシンプルじゃないと。シンプルな英語だったら、主語を「弊社」にし、動詞を「提供する」にして、そこでSVを固めてしまう。後は成行きで、Our company offers air conditioning solutuions. とする。「うちの会社は→提供する」と主語・動詞を決めてしまえば、後は「エアコン機器を」と言えばいいのだから、上のようになると。 それから日本人は「It-- for-- to」構文が好きだから、「あなたの質問に答えるのは難しい」と言いたい場合、It is difficult for me to answer your question. などとしてしまいがちですが、これをシンプルな英語に直すと、主語を「I」にして、動詞を「答えられない」にして、後は成行きでI cannot answer your question. としろと。 で、オグデン流(つまり裏ワザ流)のシンプルな英語であれば、誰もが知っているシンプルな動詞を活用するので、「アンケートにより出席者からの疑問点が明らかになった」という場合、The questionnaire makes clear the questions raised by the attendees. というのですが、中山さん流のシンプル英語では、「アンケート」を主語に、「ハッキリさせた」を動詞にしてそこでSVを固めるので、The questionnaire clarifies the questions raised by the attendees. とする。オグデン流(裏ワザ流)では、誰でも知っている「make」という動詞と、誰でも知っている「clear」という形容詞を組み合わせて、「make clear」で「ハッキリさせる」という動詞表現を作り出しているのに対し、中山さん流ではそれとは別に「clarify」という特別な動詞を覚えておかなければならないわけですが、中山さん的にはそっちの方がシンプルだ、ということになる。この辺が、オグデン的(裏ワザ流的)ベーシック・イングリッシュと、中山流シンプル・イングリッシュとの決定的な違いですな。 でも、ならば名詞中心主義のベーシック流(裏ワザ流)と動詞中心主義の中山流では、「シンプルさ」の定義のすべてが正反対かと言うと、実はそうでもなくて、中山さんも、名詞の重要性はちゃんと押さえています。何しろ中山流では、まず何はともあれ主語を決めることが重要なのですが、主語になれるのは名詞だけなので、その名詞の使い方に習熟しなければならない、ということになる。だから、動詞を重視する中山流シンプル・イングリッシュにおいても、主語を決める時には名詞の使い方が重要だ、という考え方はあるんですな。 例えば、「日本では40代で結婚する人は多い」と言いたい場合、普通の日本人ならばMany people in Japan get married in their 40s. などとしがちですが、中山さんは名詞を活用して、Marriage in their 40s is common in Japan. とするのがシンプルだ、と主張しておられます。「40代で結婚する」という動詞的表現を、「40代での結婚」という形で名詞にしてしまって、それをまず主語として設定し、次にbe動詞を持ってきて、後は成行きで「普通だ」としたわけ。これなど、「英語では名詞の上手な使い方がキモだ」ということを主張するベーシック流(裏ワザ流)シンプル・イングリッシュと中山流シンプル・イングリッシュが交叉するところと言えましょう。 というわけで、中山さんのこの本、裏ワザ流を唱導する私の目から見ても、敵乍らあっぱれ、なかなか面白く書けているなあと感心してしまったのでした。いい本です。英語という言語の持つシンプルなロジックのキモはこれだ! ということを理解する助けになると思います。私も大いに勉強させられました。 これこれ! ↓シンプルな英語 (講談社現代新書) [ 中山 裕木子 ] でもやっぱり、こっちの本もいいよ!基本12動詞で何でも言える裏ワザ流英語術 [ 尾崎俊介 ]
November 21, 2021
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噂では聞いていたけれども、翻訳サイト「DeepL」というのはものすごいね。実際に使ってみて、あまりの精度に驚愕しましたわ。 前に「ポケトーク」を使った機械翻訳は素晴らしい、と書いたことがありますけれども、DeepLはそれに輪をかけてすごい。長文も一瞬にして、かなり精度の高い英語に直してしまうという。 こんな機械翻訳が手軽に利用できるのに、英作文の勉強とか、する必要あるのかね? ハッキリ言って、もうないんじゃない? 自分も含め、普通の英語の先生よりはるかに見事に英語転換してくれるよ。 で、昨夜、寝る前にDeepLを試してしまい、そのあまりの衝撃に、なかなか寝付けなかったという・・・。 しかも、DeepLって、任意の英文を読み上げてくれるのだけど、これがまた見事な発音、見事な読み上げっぷりで、まさに熟練のアナウンサーに朗読してもらったような感じでした。 もうさ、こういうものが傍らにあるんだったら、英語の勉強の仕方って、おのずと変わってくるんじゃないだろうか? でまた、英語の教授法も、変わらざるを得ないんじゃないかなあ。 少なくとも、こういう超優秀な機械翻訳システムが存在するのに、それを学生に教えずして、今まで通りの英語の授業をするというのは、犯罪なのではないかという気がする。 これからの英語の授業って、DeepLの存在を踏まえたものでなければならないと思うのだけど、ではどうすればいいか。これをどう活用すればいいのか。昨日一晩考えたけど、なかなか結論は出ませんでした。 っていうか、まずは自分がこれをどう活用するか、そこから考えないといかんのかもね。
November 20, 2021
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ポール・デュカスの「ペリのためのファンファーレ」って曲、ご存じ? この曲には私も思い入れがありましてね。 私が通っていた玉川学園では、毎年12月に全学――というのは、小学部から大学まで――を挙げての「音楽祭」というのを普門館のような本格的な音楽ホールで開催するのですが、その開会に当たってファンファーレが鳴る。 ここがカッコいいところで、玉川学園って、行事教育に力を入れているだけあって、そんじょそこらの学校とはイベントの演出が違う。 普通の学校だったら、「音楽祭」とか言うと、「開会宣言」とか、やりそうじゃん? ところが玉川はそういうダサい宣言とか一切やらないの。いきなり会場にファンファーレが鳴り響き、これが音楽祭の開会の合図になるのね。ファンファーレを演奏するのは、大学の音楽科のブラスバンドだと思います(多分)。 で、そのファンファーレがまたカッコよくて、私も子供の頃は、音楽祭の度にこのファンファーレにしびれたものでございますよ。 ところが、そのカッコいいファンファーレの曲名を知らなかったというね。多分、有名な曲なんだろうなとは思っていましたが、誰が作曲したなんと言う曲なのか、知らなかったの。つい昨日まで。 それが昨夜。NHKの『クラシックTV』とかいう番組を観ていたら、たまたま特集がブラスバンドで、なんとなんと、そこで我が玉川学園音楽祭のファンファーレが鳴り響いたのよ。ビックリ。 で、ようやく私は、還暦間近(還暦? マジか?!)になって、このファンファーレがポール・デュカス作曲「ペリのためのファンファーレ」という曲であることを知ったのでした。 で、さっそくググってみると、あるわあるわ、演奏の動画が沢山ある。もう昨夜は懐かしさのあまり、何度も聴いてしまいましたわ~。ペリのためのファンファーレ・その1ペリのためのファンファーレ・その2ペリのためのファンファーレ・その3 上の三つを比べると、上の二つがプロっぽい。三番目のがやや素人っぽいかな。 だけど、ワタクシ的には一番下のが好き。というのも、このぐらいのテンポで演奏した方がこのファンファーレにはふさわしいと思うから。いや、実は、もっと早いテンポでもいいと思っているくらい。私が指揮をしたい。 ま、それはともかく、私の子供の頃からの疑問についに終止符が打たれた次第。犬も歩けばなんとやらというけれど、テレビだってとりあえず観ていれば発見があるものですな。
November 19, 2021
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私が通っている柔術道場の師範の先生が、最近、クルマを替えられまして。新しいクルマはメルセデス・ベンツ。前のクルマもベンツでしたが、前のはセダン。今度のは流麗なシューティング・ブレイクでございます。 先週、稽古が終わって、それぞれ帰路につく時に先生がクルマを替えられたことに気づいたので、それについてちょっとインタビューしたのですが、まあ、今度のクルマは出来がいいのだそうで。 先生は、実はそれほどクルマに興味がないそうなのですが、しかし、仕事の都合上、高速での移動などもそれなりにある。それで、このクルマに変えて、高速を流していると、まあ、乗り心地といい、ハンドリングといい、惚れ惚れするようなものであると。しかもディーゼルだから、燃費も悪くない。 ふーむ! クルマの運転がそれほどお好きでない人ですら、惚れ惚れするほどのものなのか! それがベンツというものか!! ベンツねえ・・・。やっぱり、ベンツには一度は乗っておかないといかんのかなあ・・・。 私の車歴における外車と言うと、プジョー→アルファロメオ→シトロエン→ルノー、という感じで、フランスとイタリアのクルマしかない。全部ラテン系。もっとも、家内用のクルマとしてはオペルとフォルクスワーゲンという二台のドイツ車がありますが、いわゆるドイツ御三家、すなわちベンツ、BMW、アウディは一度も乗ったことがない。もっとも、「最後のクルマはポルシェ」と決めているので、いずれドイツ車を所有することになるとは思うのですが、さて、それまでの間にベンツに乗るチャンスは、果たしてあるのかどうか・・・。 しかし、師範の先生にかくもベンツの魅力を語られると、ちょっと心を動かされますねえ。 今乗っているルノーの次は、ボルボかミニ、と思ってはいますが、私も気づけばアラ還、免許返納まで20年。 その間に、果たして私がベンツに乗るチャンスはあるのか?? クルマ好きにとって、しかもあまりお金のないクルマ好きにとって、次の愛車選びは常に悩ましい選択ですなあ・・・。
November 18, 2021
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元広島カープ監督、古葉竹識さんが亡くなられました。享年85。 私も今ではプロ野球をまったく見なくなりましたが、昭和後期に子供時代を過ごした者として、やはり子供の頃は野球に夢中になったものでございます。 とはいえ、公立の小学校ではなく、私立の小学校に電車通学していた身としては、家の近所に友達がおらず、野球とかキャッチボールとは無縁の生活をしていたワタクシ。だから小学校低学年までは野球のルールすら知らず、ボールにもバットにも、ましてやグローブにも一度も触れたことのないままに過ごしておりました。 で、小学校3年生になった時、私の通っていた小学校でクラス対抗の野球大会が開かれることになりまして、当然、全員参加ですから、私も嫌々ながらバッターボックスに立つことに。何しろそれまで一度もバットを振ったことがないもので、クラスメートたちから「とにかくボールが飛んで来たら思い切りバットを振ればいいんだ」とのアドバイスを受け、相手チームの凄腕ピッチャー高野憲君と対面することになった。 で、一球目。とりあえず思い切りバットを振ったら、なんとなんと、バットがボールに当たったどころか、ボールは遥か遠くに飛んで行って、いきなり場外ホームラン。私は、王選手さながら、人生最初の打席でホームランをかっ飛ばしてしまったという。 で、その裏。初めてグローブなるものを手にはめ、初心者ということでとりあえずライトの守備につかされたと。 で、しばらくは暇だったのですが、2アウトをとって、もう一つアウトを取れば試合終了(勝利)となるところで、カツーン!という音が。 で、見ていると、高く上がった打球が、気のせいか、私めがけて飛んでくる。私はもう足がすくんで動けず、ただただ飛んでくる打球を茫然と見守っていたのですが、いよいよこのままだと私の顔面にボールが当たるとなって、無意識のうちに手で顔を覆ったところ、なんと打球は見事私のグローブの中に。そしてこの超ファイン・プレーで試合終了、私は勝ち越しのホームランと、最後のアウトをとった男として、その日一日、伝説のヒーローとなったのでした。 まあ、こういうことがあれば、私がその日から熱狂的な野球少年になったのも当然でありましょう。 時は1973年ですよ。巨人がV9を達成した頃。王も長嶋も現役で、それに加えて柴田だの高田だの土井だの堀内だの森だの、そういう連中がそれぞれに職人のような仕事をしていた時代。当然、当時の東京の野球少年の常として巨人軍のファンとなって、ペナントレースの行方に一喜一憂したものでありました。 で、期せずしてその巨人の宿敵となったのが、広島東洋カープでありまして、その赤ヘル軍団を率いていたのが古葉監督だったと。当時は山本浩二とか、衣笠とか、そういう連中が活躍していた頃――それはまた広島にとっての黄金時代でもあったのでしょうな。巨人ファンとしては、にっくき敵将というわけでありまして。 しかし、やがて長嶋が去り、王が去り、巨人のV9も遠い過去となり、私もまた大きくなって、段々野球から関心が薄れて行ったのでした。それでも、どこを応援するかとなったら、やっぱり巨人ということには変わりなかったかな。それは、今でも。 そして、その時からさらに時が経ち、私が大学生になって出会った恩師が、広島出身ということもあり、常軌を逸した熱狂的広島ファンだったと。 で、私は恩師の強すぎるカープ愛に圧倒され、自分が巨人ファンであることは懸命に隠していたのですが、野球関係の話をしている時の私の反応ぶりから、どうやら私が隠れ巨人ファンであることを察知された先生は、ことあるごとに嬉しそうに私の前で巨人を罵倒したものでした。 で、そんな調子でしたから、私の恩師にとって広島東洋カープを4度の優勝と3度の日本一に導いた古葉竹識監督は、まさに神様のような存在だったのではないかと。私が古葉監督を追悼するのは、だから、私にとっての憎き敵将としてではなく、私の恩師にとっての神様として追悼するのであります。 私の恩師・大橋吉之輔先生は、広島カープのホームグラウンドだけが「広島市民球場」となっていることをいつも自慢しておりましたっけ。たとえ設備等は他球場に劣るとも、あれは広島市民の球団であるカープのために、広島市民がお金を出し合って作った球場なのであって、だから意味があるのだと。 確かに、今はどうか知りませんけれども、一昔前まで、広島カープというのは、広島市民のチーム、という感じが色濃くありましたね。 80年代の終わりごろだったか、私は恩師が里帰りするのをサポートするので、カバン持ちとして先生と広島を訪れたことがありまして。その時、先生はとある知人の家を訪れたのですが、その訪れた先の奥様と先生が、なにやら「ヨシヒコ」がどうたらこうたらと噂話をし始めた。で、私はその「ヨシヒコ」というのは、その奥さんの息子さんなんだろうと思っていたのですが、どうも話がおかしい方向に行くなあと思っているうちに、はたと、そのヨシヒコがカープの名選手・高橋義彦のことであることに気づいたという。 ごくごく普通の家の奥さんが、野球選手のことを下の名前で呼び、まるで自分の息子であるかのようにその消息を語る・・・。なるほど、これが大橋先生の言っていた、「カープは広島市民の球団だ」ということなのかと、その時、あらためて私は理解したのでした。例えば私の母が、巨人の選手のことを「マスミが・・・」とか「ヨシノブが・・・」などと呼んだり、その消息を噂したりするはずがないことから推しても、いかにカープの選手たちが広島市民に愛されているかが分かるというものでありまして。 ま、古葉さんは、そういうチームを作り上げたんだよなあ・・・。もちろん、古葉さんだけの手柄ではないだろうけれども。 ということで、私の直接の思い出/思い入れということではないけれども、色々と懐かしい記憶に結び付く広島カープ監督・古葉竹識さんのご冥福をお祈りしたいと思います。合掌。
November 17, 2021
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自己啓発研究をしていると、日本の自己啓発思想の中で大きな役割を果たしている神社のことを調べざるをえず、調べているとどうしても実験してみたくなり、結果、私もこのところちょこちょこと自宅近くの神社にお参りすることが増えまして。 で、実際に神社に定期的にお参りに行っていると、色々分かることがある。 まず気づくのは、「人は神社にお参りするものだ」ということ。 つまり、私がお参りに行くと、私の前にお参りしている人がおり、自分がお参りを終えると、自分の後ろにお参りしようとしている人がいるんですわ。で、「なるほど、21世紀の今日でも、神社をお参りする人ってのは、想像している以上に多いんだな」ということがわかる。こういう研究をする前まで、人が神社をお参りするのは元日だけだろう、なんて思っていましたが、それは事実ではないですね。 そして次に気づくのは、「神社で願いごとをすると、たいてい、叶う」ということ。 ついこの間も神社にお参りして、「私がプロデュースしている本が、書評されますように」とお願いしたら、たちまち新聞に(短評ですが)書評が載ったもんね。 で、私はその辺律儀なもので、願ったことが叶ったら、必ずお礼参りに行くわけ。で、昨日も出勤前にちょいと神社によって、「ありがとうございました、おかげさまで、書評が出ました」とお礼を言っておいたと。 すると・・・ なんとその日のうちに、二つ、いいことがありました。 一つはね、(別な本のだけど)印税が入金されたというお知らせ。まあ、印税と言っても微々たるものですけれども、やっぱり自分の書いたもので収入が生まれたというのは、象徴的な意味で私にとっては意義あることでありまして。嬉しい限り。 そしてもう一つは、フランス文学者でエッセイストの山田稔さんからすばらしいお手紙をいただいたこと。拙著を読んでくださった感想を寄せてくださったのですが、これはもう、家宝にしたいような、涙が出るほど嬉しいお便りでありました。 ね?! 神社にお参りする効能って、確かにあると思わない? 私は思いますね。まさに霊験あらたか。 ということで、明日もまた、出勤前にお礼参りしちゃおうかな。エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ]
November 16, 2021
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ダニエル・クレイグが007映画から卒業ということで、それを記念して作られた「Being James Bond」というショート・フィルムを、昨夜、アマゾン・プライムで観ちゃいました。 で、へえ~っと思ったのは、ダニエル・クレイグがジェームズ・ボンド役に決まった時の、イギリス中のアンチの反応ね。まあ、当初、「黒目黒髪でない」とか「背が(ボンドにしては)低い」とか言われていたことは私も知っていましたが、「ダニエル・クレイグは007には似合わない」という批判があそこまでひどかったとは知らなかった。 ちなみに私と家内は、クレイグが主演していい仕事をした『レイヤー・ケーキ』という映画の大ファンだったので、その彼が007を演じるならまさに理想的じゃん、と思っておりまして。まあ、イギリス本国の人たちよりも、遠い日本に住む我々の方が、よほど先見の明があったというとでございましょう。これこれ! ↓レイヤー・ケーキ コレクターズ・エディション [ ダニエル・クレイグ ] ちなみに、先の「Being James Bond」の中で、全5作の「クレイグ007」がざっと回顧されておりましたが、その中では、やはり最初の『カジノ・ロワイヤル』と三作目の『スカイフォール』がダントツでいいよね! さて、『Being James Bond』を観終わった我ら夫婦は、ついでにクレイグの前の007俳優だったピアース・ブロスナンの『007 ゴールデン・アイ』をチラ見してみたのですが、もう、アクションから何から3流のギャグ映画にしか見えず、最初の10分ほど観てあきれ果て、観るのを止めてしまいました。このこと一つ取ってみても、ダニエル・クレイグによって007映画が各段の質的向上を果たしたってことは一目瞭然ですな。ようやく、大人の鑑賞に堪える映画になった、というべきか。 だから、そのクレイグなき後、誰が新しいジェームズ・ボンドになるのか、興味津々であると同時に、誰がやってもクレイグほどの存在感は示せないのではないか、という不安もある。結局、次は誰なのでしょうか? 『コードネーム・アンクル』でナポレオン・ソロ役を演じたヘンリー・カヴィルあたりはどうかとも思うものの、やっぱりどこか月並みなプレイボーイ・スパイみたいな感じになってしまうのではないかという懸念があり、クレイグと比べると・・・となっちゃうかな・・・。 まあ、「ダニエル・クレイグ、以外の007」ってのは、想像することすら難しいってことですかね。
November 15, 2021
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昨日のブログで、アーネスト・ベッカーの『死の拒絶』という本のことに言及し、非常に難しくてよく内容がつかめなかったと前置きした後、それでも自分にとって心に留めておきたい部分について、抜き書きしておいたんですけど、その作業をやっている時にハタと思い当たることがありまして・・・。 それは何かと申しますと、本として読んだ時にはよく分からなかったことが、それを書き写しているうちに分かるようになってきた、ということでございます。 なるほど、と思いました。 つまり、読んで分からないことも、書けば分かるんだと。 他人が書いた文章は難しいけれど、自分が書いた文章は理解できる。それは当然。 ならば、他人が書いた文章も、自分としてそれをあらためて書き写せば、それは取りも直さず「他人が書いた文章」を「自分が書いた文章」に偽装する行為であり、結果として、自分が書いた文章がもたらす理解力をもたらすのではないだろうか?? 別な言い方をすれば、脳みそは、脳の中にだけあるのではなく、ワープロを叩く指先にもあるのではないかと。 だから、難しい本――だけど、どうしても読まなくてはならない本――は、もう、冒頭から書き写していけばいいんじゃね? なんか、そんな気がしてきた。 もちろん、他人が書いた本をまるごと、全文、書き写すのは骨だけど、でも、ワープロのキーを叩くスピードと、黙読するスピードって、せいぜい「1対3」くらいじゃない? つまり、読み進めるスピードは3分の1に落ちるけど、その当該の文章に対する理解力は格段に上がると思う。ならば、それをやる価値はあるのではないかと。 ま、そんなことをふと、考えた次第。
November 14, 2021
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昨日、『中日新聞』に書評が出る~と浮かれていましたが、どうやら書評ではなく、新刊紹介だった模様。ちょっとがっかり。まあ、それでも紙面に名前が出るだけでもありがたいと思わなくちゃね・・・。 さて、アーネスト・ベッカーという人の書いたピューリッツァー賞受賞作、『死の拒絶』という本を随分時間をかけて読んだのですが・・・結果から言うと、読めませんでした。つまり、内容が全然理解できなかった。こちらも、ちょっとがっかり。 いや、内容が理解できなかったのは、この本が悪いのではなく、ワタクシ自身の力不足。これを読むには、もうちょい――ではなく、もっとずっと――哲学(特にキルケゴール)とフロイト心理学、及びユングやオットー・ランクなどフロイトの後継者たちについての知識が必要でした。それらがないと、とても歯が立たない。 しかも、ワタクシはそういう哲学系の言説に、まったく興味が持てないということも分かった。いや、前から知ってましたけど、あらためて。 というわけで、この本に何が書いてあるのか、ほとんど理解していないんですけど、ほーーーんとうに大雑把に一言でまとめると、人間にとっての最大の不安ってのは死の不安であり、その意味するところは、精神的な面では、人間はどんなことでも思考できるという意味で、小さな神とでも言える存在なのに、その偉大なる精神が、何の価値もない、放っておけば腐る他ない肉体の中に閉じ込められていて、その点では無価値と言ってもいい。つまり、神とクソが不可分に一緒になっている状態こそが人間の本質なのであって、このディレンマこそが、人間を他の動物と区別するものでもあり、また人間にとって最大の悩みでもある。 とはいえ、人間ってのは、常に常に「死ぬのは怖い~」などとビビっていられないので、どこかでそれを抑圧している。その結果、人間は「自分だけは死なない」というナルシシズムに陥っており、それが人間の幸福の元にもなる。極論すれば、人間の幸福とは、自分にではなく隣に立っていた兵士に敵の弾が当たることである。で、それほど人間にとってナルシシズムは重要なので、人間はあらゆるレベルで他人より優れていることを、つまり、自分がヒーローであることを証明しようとする。だから、ヒロイックであることの追求は、人間にとって完全に自然なことである。そして社会/文化とは、このヒロイズムを表現するシステムである。例えば、巨大寺院などは、人間が作り出す価値の永続性への希求の象徴であって、その意味で、すべての社会は宗教的であるとも言える。また現代社会の問題点は、若者が従来のヒロイックたるものの象徴を、もはやヒロイックであると思えなくなっていることから生じるとも言える。 ・・・とまあ、そんなことを前提として、ではこういう状況について、フロイトとその後継者たちはどう理解していたのか、ということを論じる――それが本書の狙い・・・なのではないかと。 でも、そこから先の細かい話には、ほとんどついていけませんでした。残念! というわけで、これ以上云々してもあまり意味がないのですが、せっかくなので、ちょっとだけ、面白かった部分を抜き書きしておきましょう:〇われわれがヒロイズムを扱う際、最初にやらなければならないことは、ヒロイズムの根底をあらわにし、何が人間におけるヒロイックなものに固有の性格と起動力を与えるかを示すことである。ここでわれわれは、まさに現代思想による偉大な再発見の一つを直ちに紹介しよう。すなわち、人間を動かす動因のうちでも主要な一つに、死の恐怖があるということである。ダーウィン以後、死の問題が進化論の問題として前面に出てくると、多くの思想家はそれが人間にとって大きな心理学的問題であることを直ちに理解した。さらに彼らは、多くの思想家はそれが人間にとって大きな心理学的問題であることを直ちに理解した。さらに彼らは、シェーラーがまさに世紀の変わり目の一九○○年に、ヒロイズムはまず何よりも死の恐怖の反映であると書いたときに、真のヒロイズムが何に関するものであるかをすばやく理解した。われわれは死に敢然と立ち向かう勇気をもっとも賞賛し、そのような勇気にもっとも高く、もっともゆるぎのない尊敬を捧げる。そうした勇気にわれわれが心中深く感動するのも、われわれが自分だったらはたしてどのくらい勇敢になれるかという疑念を抱いているからである。われわれはある人が自分自身の終焉に雄々しく立ち向かっているのを見るとき、われわれは想像できるかぎり最大の勝利のリハーサルをしているのである。したがって、ヒーローは、おそらく種としての人間の進化が始まって以来、人間の尊敬と歓呼をもっとも受けるものであった。(中略) 十九世紀には人類学と歴史学もまた、原始、古代以来のヒロイックなものの像を集大成する研究に着手した。ヒーローは霊界、死者の世界に入っていき、生きて還れる人であった。彼は、死と復活のカルトである東地中海地方の神秘的なカルトの中にその後裔をもっていた。これらのカルトのそれぞれが擁する神としてのヒーローは、死者の世界から蘇った人間であった。そして今日われわれは、古代の神話や儀式の研究から、キリスト教そのものがこうした神秘的なカルトの競争相手であり、最後に勝利をおさめえたのは、まず何よりもそれ自体、死者の世界から蘇り、超自然的な能力をもつ信仰療法家を呼びもににしていたからであることを知っている。復活祭の大きな歓喜は「キリストが蘇った!」という歓声であり、これは神秘的なカルトの信者が死に対する勝利の儀式で演じた同じ喜びの繰り返しである。G・スタンリー・ホールがきわめて適切に述べたように、これらのカルトは死と死の恐怖という最大の悪を洗い流す「斎戒沐浴」を遂げようとする試みであった。歴史上のあらゆる宗教は人生の終焉にいかに耐えるかというこの同じ問題に取り組んだ。ヒンドゥー教や仏教のような宗教は再生を望まないふりをするという巧妙なトリックを演じた。これは、本当にいちばん望んでいることは望まないと主張するという、一種の裏返しの呪術である。哲学が宗教を引き継いだとき、宗教の中心問題も引き継いだのであり、死は、ギリシャでの哲学発祥からまさしくハイデッガーや現代の実存主義にいたるまで、真の「哲学の霊感(ミューズ)」となったのである。(32-34)〇しかし、もっと重要なのは抑圧がどのように働くかということである。それは生のエネルギーに敵対する単なる否定的な力ではない。抑圧は生のエネルギーを糧として、それを創造的に利用している。私は、拡張しようとする有機体の努力によって恐れが自然に吸収される、ということを言いたいのだ。自然は、有機体の中に生まれながらの健全な心を作りあげたように思える。それは、自分を楽しんだり、自分の可能性を世界に広げる喜びを感じたり、事物を世界に統合したり、無限の経験を糧にするとき、姿を現わす。これは多くの非常に肯定的な経験であって、強力な有機体はこの経験をしながら行動するとき、満足を与えられる。かつてサンタヤナが述べたように、ライオンは神が自分の味方であることを、ガゼルよりも確信しているにちがいない。もっとも基本的なレベルでは、有機体は生きている経験の中で自分自身を拡張し永続させようと努めることによって、自らの脆さに積極的に対抗しようとする。有機体は生から後退するかわりに、より大きな生へ向かって進むのである。また、有機体は心を奪う活動から不必要に注意を逸らされることを避け、一度に一つのことしかしない。このように、死の恐れは注意深く無視されるか、生の拡張過程に実際に吸収されるか、どちらかが可能なようにみえる。われわれはときおり、人間のレベルにおいて、そのような活力ある有機体を見るように思われる。私はニコス・カザンザキスの『ギリシャ人ゾルバ』の人物描写を念頭に置いている。ゾルバは、心を奪う日々の情熱が臆病と死とに無頓着に勝利をおさめる典型であった。彼は彼の生を肯定する炎で、他者を浄化した。しかし、カザンザキス自身は決してゾルバではなかったし――ゾルバの性格が少々偽りのように響くのも一つにはその理由による――大部分の他の人々もまたゾルバではない。それでもやはり、どの人もライオンのナルシシズムではないにしても、実際に使えるだけの量の基本的なナルシシズムをもっている。前述のように、十分に育まれ愛されたこどもは、魔法のような全能感、自分が不滅であるという感覚、明らかに力があり確実に支えられているという感情を発達させる。彼は心底で自分が永遠であると想像することがある。彼が自分自身の死という観念を容易に抑圧するのは、この観念に対してナルシシズム的な生命力で武装しているからだといえよう。このタイプの性格があったからこそ、フロイトに、無意識は死を知らないと述べさせたのであろう。(48-49)〇人間は彼を自然から鋭く引き離す象徴的アイデンティティをもっている。彼は象徴的自己であり、名前や生活史をもつ被造物である。彼は自然の外に舞い上がって原子や無限を思索する精神をもつ創造者であり、想像力により自分自身を空間の一点に位置づけたり、自分の惑星を沈思黙考できる創造者である。この広大な広がり、この器用さ、この霊妙さ、この自己意識は、ルネッサンスの思想家たちが知っていたように、自然における文字どおり小さな神の地位を人間に与える。 だが、同時に、東洋の賢者も知っていたように、人間は蛆虫であり、蛆虫の餌食である。これが逆説なのである。人間は、自然の外にいると同時に、自然の中に絶望的にとらえられている。彼は二元的なのである。天上の星にいながらも、かつて魚のものであり、そのことの証である鰓の痕跡をいまだにとどめている心臓がポンプの役割を果たし、呼吸にあえぐ肉体に宿っているのである。彼の身体は多くの点で彼と相いれない肉を素材とする包装である――もっとも腑に落ちずいまいましい点は、身体が痛み、血を流し、やがて朽ちて死ぬことである。人間は文字どおり二つに分裂している。彼はそびえ立つ威厳をもって突出しているという、自分自身のすばらしい独自性を認識しているが、目も見えず口もきけずに朽ちはて、永遠に消滅するために、地下二、三フィートのところに戻るのだ。それは人間にとり、その中に生れ落ち、生涯の同伴者としなければならない恐るべきディレンマである。下等動物は象徴的アイデンティティやそれに伴う自己意識をもっていないので、もちろんこの苦痛に満ちた矛盾を免れている。それらは本能に駆り立てられるままに単に反射的に行為し行動するにすぎない。それらが休止することがあっても、それは肉体の休止にすぎない。内面ではそれらは無名で、それらの顔でさえ名前をもたない。それらは時のない世界に生きていて、いわば口のきけない存在の状態で脈打っている。このために、バッファローや象の群れ全体を撃ち殺すことがそんなにも簡単なのである。これらの動物たちは死が生じつつあることを知らないので、他の者が傍らに倒れるあいだも落ち着いて草を食べつづけている。死を知ることは反省と概念によるのであり、動物はこの知識をもっていない。それらは無頓着に生き、無頓着に消滅する。二、三分の恐怖、二、三秒の苦悶、それで終わりである。しかし、夢や全盛期にさえつきまとう死の運命とともに生涯を生きること――それは別のことなのだ。 あなたがこの逆説の重み全体を精神と感情に深く沈めてみるときはじめて、動物が存在するにはそれがどんなに我慢ならない状況であるか理解することができる。人間の条件を完全に理解することは人間を狂気に駆りたてる、と考察する人は正しい、文字どおり正しいと私は信じる。ときどき、鰓や尻尾のある赤ん坊が生まれるが、このことは公表されずにもみ消されてしまう。われわれには理解しがたい世界で爪で引っかき息を切らして呼吸しているわれわれと同じ被造物を、誰が真正面から見たいと思うだろう。そのような出来事はパスカルのぞっとするような省察、「人間が狂気となるのはきわめて必然的なので、狂気でないことは別の形態の狂気に等しいことになる」の意味を例証していると思う。必然的というのは、実存的二元性が我慢のならない状況、責めさいなむディレンマを生み出すからである。狂気というのは、のちに見るように、人間が象徴的世界ですることはどれもこれも、自分のグロテスクな運命を否定し克服しようとする営為だからである。彼は社会的勝敗、心理的トリック、個人的に没頭している関心事によって盲目的な忘却に文字どおり自分自身を駆りたてる。それらは彼の状況の現実とははるかにかけ離れているので、狂気の形態をとる――合意された狂気、共有された狂気、偽装され、威厳をつけられた狂気であるが、すべて狂気には変わりない。(中略)最近では、エーリッヒ・フロムが次のような疑問を投げかけている。たいていの人々が、時間を超えた事物の構成において無限の価値を人間に与えるようにみえる象徴的自己と、九八セントほどの価値しかない身体との間の実存的矛盾に直面して、狂気にならないですむのはなぜか、と。両者を和解させる方法は何か。(56-58)〇晩年になりフロイトが、かつてのアードラーのように、こどもを本当に悩ませるのは彼の内面の衝動というよりは彼の世界の本質である、ということを理解するようになったのは明らかである。フロイトはエディプス・コンプレックスの力について語ることは少なく、「自然の恐るべき力に直面した人間の困惑と無力感」、「自然の恐怖」、「死という苦痛に満ちた謎」、「生命の危機に直面したときのわれわれの不安」や「救済の術のない運命の偉大な必然性」について語ることが多かった。そして、事が不安という中心問題に至ったとき、彼は――初期の著作で彼が述べたように――こどもの存在が本能的衝動によって内側から圧倒されるとはもはや語らなくなった。そのかわり、フロイトの定式は実存的になった。不安はいまや主として全面的な無力さ、自己放棄、運命への反応の問題と考えられるようになった。 ”したがって私は次のように主張する。すなわち、死の恐れは去勢の恐れと類似物と考えるべきであり、かつ、自我が反応する状況は保護者である超自我――運命の力――から見放され見棄てられる状態であり、このためにあらゆる危険に対する安全に終止符が打たれることである。” この定式は視野の大幅な拡大を示している。この定式に一ないし二世代の精神分析学の臨床研究を加えることによって、われわれは、こどもを本当に悩ませているのは何か、いかに生がこどもにとって本当にやりきれないものであるか、こどもがいかにして過剰な考えや過剰な知覚や過剰な生を回避しなければならないかという問題について、著しく信頼できる理解に達した。そして同時に、子供がいかなる楽しい活動にふけっているときでも、その背後やすぐ下でとどろいている死、遊んでいるときにも肩ごしに覗いている死をいかに回避しなければならないかについても、同じことがいえる。その結果、われわれはいまや、人間という動物がそれから保護されている二つの大きな恐れを特徴としていることがわかっている。それは、生の恐れと死の恐れである。人間の科学において、これらの恐れを浮き彫りにして、自分の思想体系全体の基礎をこれらの恐れに置き、人間の理解にとってそれがどんなに中心となるかを示したのは、他の誰にもましてオットー・ランクであった。ランクがこの点について書いていたとほぼ同じ頃に、ハイデッガーはこれらの恐れを実存哲学の中心に据えた。彼は、人間の基本的不安は世界内存在の不安であると同時に、世界内存在についての不安であると論じた。すなわち、それは死の恐れと生の恐れの双方であり、経験と個体化の恐れである。(93-95)〇キルケゴールの人間観の土台は堕罪の神話、つまりアダムとイヴのエデンの園からの放逐である。われわれが見てきたように、この神話には、人間は自己意識と生理的身体という対立物の結合であるという、いつの時代にも妥当する心理学の基本的洞察が含まれている。人間は下等動物の思考力を欠く本能的な行動から脱却し、自分の条件を反省するにいたった。彼は万物の中で自分が個性的であり、部分的に神性をもっているという意識、つまり自分の顔と名前は美しくユニークだという意識を与えられた。同時に彼は、世界の恐怖と自分自身の死や腐朽の恐怖という意識も与えられた。この逆説は歴史や社会を問わずあらゆる時期の人間に真に不変のものである。フロムが述べたように、かくしてこれこそ人間の真の「本質」である。われわれが見たように、現代の優れた心理学者たち自身、それを彼らの嗜好の礎石としてきた。しかし、キルケゴールはすでに彼らに助言していたのである。「心理学はこれより先へは進めない・・・けれどもさらに心理学は、人間生活の観察において、この点を再三証明できるのである。」 自己意識への転落、自然における心地よい無知から出現したことは、一つの大きな罰を人間に加えた。それは人間に不安を与えた。キルケゴールが言うように、動物には恐怖が見られないのは、「まさしく動物は本質的に精神として想定されていないからである」。「精神」を「自己」あるいは象徴的な内的アイデンティティと読み替えよ。動物はこういうものをいっさいもっていない。キルケゴールは、動物は無知であるがゆえに無垢であると述べている。しかし、人間は「心的なものと身体的なものとの総合」であり、それだからこそ不安を経験する。ここでもまたわれわれは、「心的なもの」を「自己意識的なもの」と読み替えかえればならない。 ”万一人間が、動物か天使だとしたら、不安に陥ることはありえないだろう。〔すなわち、もし人間が全く自己意識をもたないか、完全に非・動物であるならば〕 人間は一つの総合であるために不安に陥る可能性があるのだ・・・人間自身が不安を生むのだ。” 人間の不安は、彼の両義性そのものと、その両義性を克服してストレートに動物か天使になることが全くできない無力さとの関数なのである。人間はその運命に無頓着に生きていくことはできないし、人間の条件の外に出ることによってこの運命を確実にコントロールして勝利をおさめることもできない。 ”精神は自分自身から抜け出すことはできない。〔すなわち、自己意識が消え去ることはありえない〕。・・・人間は植物的なものに身を落とすこともできない〔すなわち、全くの動物なのである〕。・・・彼は不安から逃れられない。” しかし、不安の真の焦点は両義性そのものではなく、それは人間に下された審判の結果なのである。つまり、もしアダムが知恵の木の実を食べるなら、神は彼に「汝はきっと死ぬであろう」と言うのだ。言いかえれば、自己意識の最終的な恐怖は自分自身の死を知ることであり、それは動物界では人間だけに下された特異な判決である。これこそエデンの園の神話と、現代心理学による死は人間に特有な最大の不安であるということの再発見の意味である。(118-120)〇フロイトがその教義について間違っていたということは、ちょうどユングとアードラーがまさに当初から知っていたように、今日のわれわれにも明らかである。人間は性欲と攻撃という生まれながらの本能はいっさいもっていない。いまわれわれはそれ以上の何か、つまり現代に登場しつつある新しいフロイトを見ており、彼が人間の被造物性を暴露することに執拗に献身したのは正しかったということを理解しつつある。彼の感情的なこだわりは正しかった。それは天才の真の直観を反映している。その感情との知的な対応物――性理論――は間違っていると判明したとしてもである。人間の身体は「運命の呪い」だったのであり、そして文化は抑圧の上に築かれたのだ――それは、フロイトが考えたように人間は性欲、快楽、生と拡張だけを追求するものだからではなく、まず、死を避けるものであったからである。性欲ではなく、死の意識が第一次的な抑圧である。ランクがいろいろの書物の中で展開し、ブラウンが最近再度論じたように、精神分析に対する新しい見地は、その決定的な概念が死の抑圧であるということである。これこそ人間の被造物性の本質であり、これこそ文化構造の基礎たる抑圧、自己意識を持つ動物特有の抑圧である。フロイトはその呪いを知り、できるかぎりの力をふるってそれを明らかにすることに彼の人生を捧げた。だが皮肉なことに、彼はその呪いの厳密な科学的根拠を見逃した。(161)〇われわれがフロイトの著作を典拠にしてこの問題をたどろうとすると、藪の中に迷い込むことになろう。彼は後期の著作では、エディプス・コンプレックスの狭い性的な公式化から離れ、むしろ生そのものの本質、人間実存の一般的な問題へ目を向けた点についてはすでに触れた。彼は父親を恐れる文化の理論から自然を恐れる文化の理論へ移行したといえるかもしれない。しかし、彼はいつものように留保していた。彼は率直に実存主義者になることは一度もなく、依然として本能理論に拘束されていた。 フロイトにはある一つの不本意があったと思われる。そして私は、彼の著作を詳細に探ろうとはしないが、この不本意を一つの鍵となる観念によって明るみに出すことができると思う。それは彼の後期の著作に現れるもっとも重要な観念、「死の本能」である。(中略)フロイトの「死の本能」という新しい観念は、いまや人間を単なる自我の性欲との葛藤にではなく、ずっと深い有機体の根底に帰属させることによって、初期の本能理論を手つかずのままにしておくことを可能にする一つの工夫であった。いまや彼は生へ向かう衝動と並んで、死へ向かう衝動も本来人間に備わっていると考えた。そしてそれによって彼は、激しい人間の攻撃や憎悪、悪を、新しい――だが、依然として生物学的な――方法で説明することができた。人間の攻撃性は生の本能と死の本能の融合からおこる。死の本能は有機体の、死にたいという欲望を表している。しかし、有機体は死に向かうそれ自身の衝動を外へ向け直すことで、この衝動から自分自身を救うことができる。死にたいという欲望はそのとき殺したいという欲望に取って代わられ、人間は他者を殺すことによって自分の死の本能を打ち破るのである。(162-3)〇一回の地震は個人の生命の意味を一○○万回も否定できる。人類は人間の意味を彼岸から保証しようとして反撃してきた。人間の最善の努力も、正当化の源であるより高い何か、つまりある種の超越的次元から人生の意味を観念的に支えるものに訴えなければ、全く誤りやすいようにみえる。この信念は人間の基本的な恐怖を吸収しなければならないので、単に抽象的なものではありえず、情動、すなわち自分は自分自身の力と生よりも強く、大きく、重要な何ものかの中にあって安全であるという内面の感情に、根ざしていなければならない。人はあたかもこう言うかのようである。「私の生命の脈搏は衰え、私は消えて失せて忘れられる。だが、『神』(または『それ』)はとどまり、私の生の犠牲によってますます輝きを増しさえする。」少なくとも、この感情は個人にとってもっとも効果的な信念である。 確かなヒロイックな意味を得るために、生がどれほど遠くまで到達しなければならないかという問題は、明らかにフロイトをひどく悩ませた。精神分析理論によると、こどもは生と孤独の恐怖に立ち向かう際に、まず自分が全能だと主張し、次に自分の不滅性の手段として文化的道徳を利用する。われわれがおとなになるまで、この自信に満ちた代理の不滅性は、危険に直面したわれわれの有機体の均衡に奉仕する、主要な防衛機制となる。人間をいとも容易に戦争へ赴かせる主な理由の一つは、めいめいが心の底では、やがて死ぬ隣の兵士を哀れに思っていることである。各々の兵士は自分は血を流しているというショックを受けるまで、空想の中で自分自身を保護している。(196) ・・・まあ、ざっとこんなところかな? でも、不思議なことに、抜き書きをしているうちに、ベッカーが何を言わんとしているのか、何となく分かってきたような気も・・・。気のせいか? ともあれ、難しい本ではありましたが、著者が(少なくとも著者自身には非常に明確に分かっている)あるメッセージを伝えようとしてこの本を書いていることはよく分かる。そういう意味では、いい本ですよ。同じベッカーでも、カール・ベッカーとはえらい違いだ。 ということで、上に抜き書きしたことがピンとくる人には、この本、おすすめです。
November 13, 2021
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現在、劇推し中の名著(?)、大橋吉之輔先生のエッセイ集ですが、今週末、中日新聞(東京新聞)に書評が出ることになりました~!!!これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ] 書評というのは、本の出版から最短で1ヵ月後くらいに出るものですが、本書の出版は10月15日なので、そろそろ最初の書評が出てもいい頃かな~、なんて期待していたのよ~! いやあ、嬉しい! しかも今私の住んでいる名古屋方面では、中日新聞のシェアが圧倒的なので、少なくとも他のどの新聞に出るよりも、中日新聞に書評が出るのが一番効果的と言いましょうか。 大きな書店になると、「書評に出た本」コーナーとかあるもんね。これでちょっとこの本に対する世間の認知&売り上げがアップするのではないでしょうか??!! っつーことで、早くコイコイ日曜日(東京新聞の書評欄は土曜日ですが、中日新聞は日曜日なので)! 楽しみ~。っていうか、そもそも誰が書評してくれたんだろう? それも楽しみ。 「書評が出ますように」って祈願しておいた神社に、お礼参りに行かなくちゃ!
November 12, 2021
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結婚した時に姉から贈られた大きな電子レンジ。四半世紀近く日々酷使してきたんですけど、さすがに寿命が尽きてしまいまして。 で、新しいのを買ったのですが、古い方を捨てるタイミングを失して、しばらく家に置いておいたわけ。 でも、さすがに邪魔だということになり、今日、時間が空いた時に捨ててきました。 幸い、家からさほど遠くないところに、ごみ処理場がありましてね。そこへ持って行くと、有料でたいていのものは処分できる。で、今回も600円ほど支払って、長年愛用の電子レンジとお別れすることが出来た次第。 ところで、このブログでも再三書いているように、ワタクシは長年愛用したものへの愛着の念が強くて、たとえ使えなくなってゴミになったものでも、お別れは寂しいわけね。 で、今日もいよいよ捨てるとなった時も、非常に寂しい気持ちというか、長い間私たちの生活を支えてくれた電子レンジさんを捨て去ることへの罪悪感があって、名残惜しい感じがしていたんですわ。 ところが! 処理場について、係のおじさんに「これなんですけど・・・」と電子レンジを見せると、「あいよっ!」とばかりに、電源コードをひっつかむと、そのままずりずりと引きずって行ってしまったっていう。 その様子が、まさに女人の長い髪をひっつかんで無理やり引きずっていくような感じで、おもわず「ご無体な~!」と叫びそうになってしまいました。 あーん。せめて最後に「今までありがとうね」と、電子レンジさんをひと撫でしたかったのに~・・・。 とまあ、最後のお別れはゆっくり出来ませんでしたが、せめてブログに綴って、電子レンジさんの長年の貢献に感謝したいワタクシなのであります。
November 11, 2021
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昨夜、『デューン』を観た後、なんとなくあれこれ考えていたんだけど、結局のところ、映画ってのは大概、「父の承認」を巡る物語なんじゃないか、っていう気がしてきた。別の言い方をすれば「父―息子関係」の物語っていうことなんだけど。 父親から見たら息子というのは、「自分を越えた息子」か「自分を越えられなかった息子」か、そのどちらかしかないわけですよ、理論的に言って。 ところが、父親というのは、普通、前者を認めない。だから世の父親にとって、息子というのは、良くて自分と同等、残りの大半は「自分ほどではない」のばっかり、ということになる。 一方、息子というのは、父親の承認――それも、「お前は俺よりすごい」という承認――が欲しくてたまらない。 だから、ほとんどすべての父―息子関係は、悲喜劇になるわけですな。だって、欲しいものが与えられないことの方が圧倒的に多いんだから。 まあ、この中で一番幸福なのは、こういうパターンじゃない? 例えば創業者の息子が、銀座の老舗を引き継いで二代目になり、可もなく不可もなく経営が続いている状況。これだと、父親からすれば「息子も、店を創業した俺ほどではないが、まあ、とりあえず安心して任せることができる程度にはなったな」という、まずまずの承認を与えており、息子からすれば、店を任されたという時点で、父親の承認を得た、という実感があるだろうから。 でも、このパターンは絶対的に少数派だし、全然面白く無いから映画にはならない。 じゃ、こういうのはどう? 親父から仕事を任され、無事、それを引き継いでいるが、どうも自分は親父ほどの実力がないのではないか、と悩む息子。つまり、父親からの承認はあったが、自分ではその承認が信じられない、というパターン。 はい、これを映画化すると『ゴッドファーザー』になります。 あるいは、父親だってダメダメで、むしろ息子の方が優れている点が多いのだけど、どうしても親父が「お前は俺を越えた」って言ってくれないから、その承認を求めて無駄に悪あがきをする息子。 はい、これを映画化すると『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』になります。 「親父なんてダメな奴だ」と思っている息子が、自分を承認してくれない父親と仲たがいするんだけど、最後の最後になって、両者和解し、親父は息子を承認、息子はそれを受け入れるというパターン。 はい、これを映画化すると『ビッグ・フィッシュ』になります。これはハッピーエンドね。 こんな感じで、延々と続けることができるような気がする。つまり、父―息子の間の、(承認・非承認)/(受け入れ・拒絶)の組み合わせで、いくらでも映画ができるような気がする。 『デューン』の場合、主人公が王家のプリンスだからね。親父を継ぐ者としてその資格があるかどうか、ということが問題になるわけだけど、肝心の親父が承認を与える前にあっさり死んじゃったから、プリンスとしては、死んだ父の承認を(別な形で)どうやって取りつけるかが問題になる。だから、きっと、そういう話になるんでしょう。 ちなみに、私の父は、やっぱり最後まで私を「自分以上のもの」とは認めなかったですなあ。自分も大学教授だったから、私が教授になって「自分と同等のもの」になったとは思っただろうけれども。 さて、そんなことを考えていたら、ふと、女性の場合はどうなんだろう、と、そんなことがふと思い浮かびまして。 果たして娘は、母親からの承認を求めるものなのだろうか? 私の予想としては、母―娘関係には、そういう側面はないんじゃないかしら。 でも、女性の中でもメンタルが男性的な女性の場合、そこに父親からの承認を求めるモーメントが生じるような気もする。 そう考えると、例の「〇塚家具」の、「社長」と「家具屋姫」の間の争いが、俄然、面白い話題として浮かび上がってくるような気がするんだけど、如何?
November 10, 2021
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『デューン』をレイトショーで観てきました~。 それにしても、名のある監督の大作が、1ヵ月持たずに上映終了になっちまうなんて、昭和世代の人間としては信じられんなあ。もう、日本人は洋画を観ないのかね? 淀長さんとか、墓の下で泣いているよ! で、以下ネタバレ注意なんだけど、まあね、ネタっていうほどのもんじゃないのよ。 要するにね、これは、ヴィルニューブ版の・・・『風の谷のナウシカ』なのね。 だから、王蟲も出てくるよ。腐海の下では花も咲く。で、みんなで戦争するんだけど、プリンセス(こちらではプリンスだけど)が懸命に何とかしようとします。予言されていた通りにね。そういう話。 いや、あれか、順番から言ったら、『風の谷のナウシカ』が宮崎駿版『デューン』なのか。まあ、どっちでもいいけど。 そういう話。好きだね、人は、そういう戦争の話が。私はあんまり好きじゃないけど。 でも、パート1観ちゃったからな・・・。パート2も観なければなるまい。やれやれ。せめてヒロインが、ハリウリサじゃなければ良かったんだけどなあ・・・。
November 9, 2021
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私が今一番推している大橋吉之輔著『エピソード』という本のことが、今日の朝日新聞の一面のサンヤツに出まして。これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ] サンヤツの、しかもど真ん中だったので、結構目立つ。 で、実際、今日大学で出会った何人かの同僚から、「釈迦楽さん、新聞に例の本のこと、出てたねえ」と言われてしまった。やっぱり、今でも大学の先生って、朝日新聞購読者であることが多いのよね~。 で、朝日のサンヤツに出るとどういうことになるのか、非常なる興味をもって推移を観察していたんだけど、うーん、今のところ、どうなんだろうか。 例えばアマゾンを見ると、確かにサンヤツに出てから、この本の売り上げ順位がグーンと上がりました。でも、それでも何十万位から数千位に上がったくらいなもので、それだって大したものだとも言えるけれども、やっぱり売り上げとしてはまだまだ。 結局、こういう本は書評が出ないと、一般読者には気づかれないんだよなあ。 書評ってのは、本が出てから最短で1ヵ月後くらいから出始める。となると、この本の場合、10月15日刊だから、来週の今日あたりから、もしかしたらどこかのメディアで書評が出るかも。そうなるとね、大分違うんですけどね。 ということで、もうしばらく、辛抱強く、書評の出現を待つことといたしましょうかね。あと、来週は、今度は中日新聞/東京新聞のサンヤツに出るそうですから、名古屋地域での認知度も少し上がればいいな!
November 8, 2021
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今日は論文の執筆に明け暮れているんですけれども、今回の論文のテーマは「死の自己啓発」。自己啓発思想が人間の死というものについていかに対処してきたか、ってことの大まかな見取り図を描くというのが狙いでありましてね。 で、そうなると必然、古代ギリシャ哲学から説き起こす必要が出てくるわけよ。 前に、大衆向けロマンス小説論を書いていた時期は、1740年あたりから説き起こしていたから、まあ300年も時代を遡れば良かったんだけど、自己啓発思想となると、発端が古代ギリシャとか古代インドの話になってくるからね。大体3000年くらい遡ることになる。今、まともなアメリカ文学者で、3000年遡った研究しているヤツっているかな。いないだろうな。それを見ても、いかにワタクシが「まともじゃない」かが分かるよね! ま、それはともかく。古代ギリシャの哲学者にエピクロスって奴がいて、快楽主義者の大将ということになっているんだけど、この人が人間の死について、こんなことを言っております――「人間は死とは無関係である。なぜなら、あなたが死を恐れているうちは、まだ死はやってきておらず、本当に死がやって来た時には、あなたが死と出会うことはない。故に、死を恐れることは無意味である」。 なるほど! そりゃそうだ。 っつーことで、論文の中でもこのエピクロスの言葉を引用したんですけど、このエピクロスの考え方ってのは、一見すると言葉の綾で遊んでいるというか、死というものとまともに取組もうとせず、単にふざけ飛ばしているような感じを受けなくもない。人によっては、不届きなことを言っている、なんて思うかもしれない。 だけどさ、エピクロスのこの言葉って、要するに「明日のことを気に掛けるな」ってことでしょ。将来の不安とか、そんなのどうでもいいから、「今、ここ」を生きろ、と。 となると、これはもう現代のポジティヴ心理学の主張と変わらないことになる。逆に言うと、現代のポジティヴ心理学が主張していることなんて、古代ギリシャにとっくに言われているよ! ということにもなる。 あ、これは面白いなと、私は思いました。 で、現代のポジティヴ心理学、とりわけ「フロー理論」によって「今、ここ」を生きることの意義を主張したミハイ・チクセントミハイをエピクロスと組み合わせたら面白いんじゃね? と思って、チクセントミハイに言及すべく、ウィキペディアでその名前の綴りを調べようとしたわけ。なにしろチクセントミハイはハンガリー人だから、普通の綴りじゃないのよ。そしたら・・・ ガーン! ミハイ・チクセントミハイは、つい二週間ほど前に亡くなっていたことが判明したのでした。2021年10月20日没。享年87。 えーーーー、そうなの? 知らなかったわ~。新聞の訃報欄に出てた? 少なくともY新聞には出てなかったような気がするぞ。 ふーん・・・。そうなのか・・・。私はチクセントミハイの書いていることが割と好きだったので、数多い自己啓発思想家の中でも、高く買っていたのに・・・。 ま、アメリカ文学プロパーなことだけやっていたら、多分、一生読まなかったと思いますが、たまたま自己啓発文学というテーマ設定をしたことで、私はこの人のことを知るようになった。ただそれだけの縁ですけど、「フロー」という考え方、「今、この瞬間を生きる」という考え方からは、私も多くのことを学ばせてもらいました。 ほんとに袖触れ合うほどの縁でしたが、これも他生の縁かも。このヘンテコリンな名前のハンガリー人の死を、私として、悼みたいと思います。合掌。フロー体験喜びの現象学 (Sekaishiso seminar) [ ミハイ・チクセントミハイ ]
November 7, 2021
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文化人類学者の中根千枝さん、亡くなりましたね。享年94。 私が大学生になりたての頃は、まだまだ「文化人類学」ってのが流行していて、日本の文化人類学を牽引した中根千枝さんの『タテ社会の人間関係』なんて本がロングセラーになっておりましたっけ。これこれ! ↓タテ社会の人間関係 (講談社現代新書) [ 中根 千枝 ] 文化人類学ってのは、元々未開の部族とかの文化や人間関係を調べた結果、そこに一定の厳密なルールがあることを解明し、「未開の人たちってのはアホだから文化なんてないんだ」という類の偏見が完全な誤りであることを文明社会に知らしめたわけですが、その未開人社会のフィールドワークの調査方法を文明社会に当てはめてみたら、アーラ不思議、やっぱりそこにも目に見えないルールがあることが分かった。で、中根千枝さんの場合は、そういうやり方で日本人の集団に遍在する「タテ社会」のルールを見事に見抜いたというのが一つの成果だったわけですな。タテ社会という意味では、日本のド田舎の町内会も、当時中根さんが勤めていた東大の教授会も、まったく同じルールで運営されていたことを喝破して、各方面の留飲を下げたわけでね。 で、そういう新しい学問が新しい認識をどんどん生み出していた時代、「文化人類学」とか「神話学」なんてのは、アカデミズムの場でも非常に人気があって、それこそ『ユリイカ』とか『現代思想』なんて雑誌が交互に特集を組んでいたりしたもんですよ。 で、そんな人気絶頂の文化人類学の世界で活躍した中根千枝さんは、学問系では初めて女性の文化勲章受章者となった。そう言えば、つい最近も、同じく文化人類学者の川田順三氏が文化勲章を受章しておりましたが、このことをとっても、当時の文化人類学の勢いを知ることが出来るというものでありましょう。っていうか、『悲しき熱帯』とか『野生の思考』を書いたフランスの文化人類学者、クロード・レヴィ・ストロースなんて、私は絶対、ノーベル文学賞を取るべきだと思っていましたから。 それにしても、まあ、いい時代だったよね! 今から思えば。逆に今、文科系の学問で何が熱いのか、さっぱり分からない。少なくとも文学が冷え切っているのは、当事者だからよく分かるけど。今、熱い学問ジャンルがないから、大学院に進んでまでその学問を追求しようなんて学部学生がいないんだろうね。でまた、そういう若い学究候補者が出ないから、既存の学問まで先細りと。 ま、それはともかく、あの文科系学問に熱気のあった時代、そして私自身も若かったあの時代は、懐かしいですなあ。今日、中根さんが亡くなったことを知って、そんなことをつらつら思い出しましたわ。 ということで、時代の先端を行く女性学者として輝いていた中根千枝さんの功績を讃えつつ、そのご冥福をお祈りしましょうかね。合掌。
November 6, 2021
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話題の新書、落合博さんが書いた『新聞記者、本屋になる』という本を読みました。 落合さんというのは、大手新聞社で記者として長年働いていた方だそうですが、59歳にして早期退職し、まったく異業種である本屋さんを開店・経営するようになった。本書は、記者を辞めてから本屋を開業するまでの準備、そして開店後の展開などを綴ったものでございます。 本が売れない時代とはいえ、その一方、小規模出版社を開業する人や、小さな本屋・古本屋を開店する人はそこそこ増えている。傍で見るほど楽な世界じゃないのは分かっていても、こじんまりとしたサークルの中で、ひっそりと本と係わっていたいという人の数は、決して少なくない。書くにせよ、作るにせよ、売るにせよ、本というものには、まだまだそういう魅力というか、人を魅する魔力があるということなんでしょうな。 だから、普通なら定年を迎えてあとは悠々自適という年齢で、敢えて新たに本屋を開店させるなどという蛮行を決行された人の体験記というのは、一層興味深いわけですよ。実際、私もそういった興味に惹かれて本書を読んでしまったわけだし。 で、その落合さんですが、さすが取材命の元記者だけあって、本屋をオープンするに当たって事前調査は怠らない。関係書を読みこみ、また自分の目指すのと似たような形態の本屋を開店した人のところに赴いてインタビューしたり、といったことを繰り返し、また同じく記者時代に培った人脈も活用しつつ、「Readin' Writin' Book Store」の開店に漕ぎつける。その過程がなかなか面白い。 そして落合さん自身、「理想の本屋の実現」を目指すというよりは、その時々の自分の事情や社会の事情に合わせて、少しずつ本屋の在り方を変えていく、その永遠に終わらないプロセスを楽しむのだ、とおっしゃっているように、「Readin' Writin' Book Store」の在り方もちょっとずつ変わって行っている。予想外に、店内で開催するイベントが増えていったりね。 でも、基本の路線は不動のまま。すなわち、大手取次を使った委託販売ではなく、自分自身がこれ、と思った本を買い取りで売るという方針。となれば、そこには当然、「Readin' Writin' Book Store」が主体的に売りたいと思った本だけが並ぶわけで、落合さんとしてはそういう本屋でなければ自分が開業する意味がないんですな。 でまた、本書には「Readin' Writin' Bookstore」の内外装の写真が載っているんですけど、これがまたとてもいいのよ。とても趣味がいい。モダンでありながら、居心地の良さそうな、いかにもこだわりのつまった個人経営の本屋さんという感じがよく出ている。 本書の最後の方に書かれている経営状況を読むと、やはり本屋さんというのは、それほど儲かるもんじゃないんだな、という事は分かりますが、それはそれとして、定年後、ただ暇を持て余し、余生を無駄に過ごすより、チャレンジングな書店経営で頭をフル回転させている方が、そりゃ、いいよな、という気もする。 私も定年まで残すところ数年ですけれども、そういう年頃のワタクシとしては、落合さんのチャレンジ、なかなか面白く読ませていただいたのでした。これこれ! ↓新聞記者、本屋になる (光文社新書) [ 落合博 ] ところで、本書を読んでいると、割と頻繁に「トランスビュー」という出版社のことが話題に上るんですわ。 「トランスビュー」は、取次と契約しておらず、書店からの注文があって初めて本を直接出荷する販売方式(注文出荷制)をとっている、ちょっと珍しい出版社なんですけど、どうやらこの出版社は、自社の本だけでなく、他の小規模出版社の本の注文出荷も引き受けているらしいんですな。だから、トランスビューの存在は、日本の小規模出版社にとって非常にありがたいものであると。 だから落合さんご自身もトランスビューから本を仕入れることが多い、というようなことを本書の中に書かれておりました。ちなみにもう一つ、落合さんの選書の基準は、「表紙デザインの良いこと」だそうで。 となると、トランスビューの出版物で、かつ、表紙デザインが抜群の本であるこの本も、おそらく、「Readin' Writin' Book Store」の商品となっていることでありましょう! 本ブログをお読みの方の中で、「Readin' Writin' Book Store」に近い所にお住まいの方々、是非、落合さんのお店で、この本を手に取ってくださいませ。これこれ! ↓エピソード アメリカ文学者 大橋吉之輔 エッセイ集 [ 大橋 吉之輔 ] ちなみに、噂によると、今度の月曜日(11月8日)、朝日新聞のサンヤツに、この本の宣伝が出るようで。 なんだかんだ言って、やはり朝日新聞の読者層ってのは、私の書くような本の読者層と重なるところがあるもんで、ちょっと期待するところはあるんですけどね・・・。
November 5, 2021
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午前中、大学に出向く前に自宅近くのスタバで出版社の方と待ち合わせ、母の句集の入稿を済ませました。 ・・・なーんて言うと、ちょっとカッコよくない? スタバでパソコン開いて勉強だか仕事だかしているのもちょっとカッコいいけど、今日のワタクシは仕事の打ち合わせだからね。なんか、すごく仕事しているような気になるじゃん? 気のせいか・・・。 で、この先、校正もあるし、表紙デザインの決定、見返しの色の選定等々、やるべきことは色々あるけれど、大半の作業の手は私のもとを離れたからね。ちょっとホッとしました。 で、順調に行くと、年内に句集は完成する。母の90歳の誕生日は2月だけれど、まあ、2月まで待つことなく、年末に帰省するときに一緒に持って行ければ、母は喜ぶだろうな。 それにしても、この母の句集も入れれば、私は今年、3冊の本の出版に関わったことになる。一年に三冊って、なかなかなもんじゃないの? よく働く、いい子だ。 ということで、ホッとしたり、自画自賛したりのワタクシなのであります。
November 4, 2021
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非常に売れていると評判の北村紗衣著『批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く』という本を読了しました。 批評を書くための入門書、ということで、そもそも「批評」とは一体何をすることなのか、感想文とどう違うのか、というような初歩的な解説から始めて、実際に批評を書いてみよう、書いたならば、それをシェアして合評してみよう、という試みをした本ですな。 で、読み始めたんですけど、「批評というのは、こういうことをするんだよ」という解説した第1章、第2章あたりはとてもよく書けていて、なかなか要領よく、批評というものの在り様を解説している。そうそう、そういうことなんだよな、と頷きながら面白く読み進めることができます。 で、なるほど、これは確かに売れるはずだわと思いながら読んでいたんですけど、では実際に批評を書いてみましょう、という、いわば「実践編」ともいうべき第3章に入ってから、おやおや? という感じになってくる。 具体的に言いますと、実地に批評を書く作業をするに先立ってまずは先生のお手本を、ということで、著者の北村さん自身が新見南吉の傑作童話『ごんぎつね』を素材に批評の手本を示すのですが、これがあまり面白くない。 もちろん、これは見本ですから、実験的なことをやってみようとした心意気は理解できます。批評をするには「切り口」というものが必要だ、ということを示すために、仮にこの童話を「うなぎ」という切り口から分析したらどうなるか、ということを例示しようとしたわけですな。だけど、結果的にはやはりその切り口は良くなかったようで、北村さんのお手本が全然面白くない。少なくとも「うなぎ」という切り口では『ごんぎつね』の面白さが全然伝わってこないので、凝ったところを狙いすぎて大きく的を外してしまった、という感じが否めないわけ。 だけど、さらに良くないのが第4章で、この章では北村さんともう一人、北村さんのお弟子さんなのかな? 飯島さんという別の著者が登場して、『あの夜、マイアミで』と『華麗なるギャッツビー』という二つの映画をそれぞれが「批評」し、その後、その批評文をめぐって二人で合評形式で紙上討論するという趣向なんですけど、お二人の映画評が予想外に面白くない。これを読んだら、「えー、批評って、こんなことを書くことなの~??」ってなってしまうのではないかと。 いやあ。手本を出すなら、もっといいものを出さなくては。 ということで、この本、前半部分はとても面白かったのですが、後半はやや失速、という感じでしたね、少なくとも私にとっては。 と同時に読みながら思ったのですけど、この本って、一体どういう人たちを想定読者にしているのかなと。 だって、批評を書く作業って、普通の人はしないですよね? 批評を書くのは、プロの物書きか、あるいは大学の研究者のどちらかで、どちらにしてもそれで飯を食っているという意味ではプロということになる(もちろん、同じプロでも、ピンからキリまであるけど)。で、そういう、批評で飯を食っていこうという人にとって、この本が解説しているようなことは知っていて当然なことなのであって、あらためて解説するほどのことはないわけですよ。プロのレーシングドライバー、およびその予備軍に「半クラッチというのはね・・・」なんて解説したって意味がないのと同じで。 となると、この本は、将来批評で食っていこうとまでは思っていないけど、とりあえず今、批評を書かなくてはいけない立場にある人向け、ということになるのか?? それって、要するに、文学部とかそれに近い学部で学んでいる大学生、ということでしょ。授業の中で、あるいは卒論として、文学批評ないし映画批評・音楽批評的なものを書かなくてはならない立場に置かれた学生。とりあえずレポート書いたら、指導教授に「お前の書いているのは、単なる感想文じゃないか」とか言われて、「えーーー、感想文じゃダメなの―――。じゃあ何をどう書けばいいのーーーー」って悩んでいる学生。 で、そうなんだろうな、と思ってあらためて振り返ると、この本の内容は、そういう、感想文と批評の区別もつかない学生を想定読者とするには、ちょっと高度過ぎるところがある。 だから、実際にこの本を読んでその内容を楽しんでいるのは、批評家の卵ではなく、かといって宿題として批評を書くことを課せられている学生でもなく、その中間層、すなわち「自分で批評を書くつもりはないけれど、プロの書いた批評を読むのは割と好き」といった文学・映画・文化論好きの人たちだろうと想像される。ま、実際にそういう人たちが読んでいるんでしょう。そういう人たちの数はそこそこいるからね。 この本は『批評の教室』と言いながら、むしろ教室外の人たちに読まれているんだろうと思います。そうでなきゃ、この本がそんなに売れるはずないもん。 その意味で、この本は、結局、批評のノウハウを教えているのではなく、批評を書く人に興味を抱いている一般読者に、「批評家と呼ばれている私たちって、実は日々、こういうことをやっているんですよ~」的なことをほのめかしている本、ということになるのではないだろうか。 ・・・なんて言うと、何だか批判しているみたいに聴こえるかもしれないけれど、無論、私はそれでもいいと思う。どんなものであれ、売れる本を書くというのはすごいことだからね。余程の才能、余程の嗅覚がないと、売れる本なんて書けないですよ。私も一度くらい、売れる本を書いてみたい。 だから、この本は駄目だなんて全然思っていないんですけど、でもね、望むらくは後半の「著者のお手本」部分をもうちょい面白くしてもらいたかったなあ、とは思います。 ということで、やっかみ半分であれこれ書いて来ましたが、少なくとも前半はとても面白かったし、今、こういう本が売れるんだ、ということを勉強させていただいたという点でも、読んだ甲斐があった本だったのでした。これこれ! ↓批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く (ちくま新書 1600) [ 北村 紗衣 ]
November 3, 2021
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先日来、このブログにも書いていますが、今、母の句集の編集をしておりまして、近く出版社との打ち合わせ/入稿というところまで漕ぎつけました。 で、こういう時私は、ただ原稿を出版社の担当者に手渡すだけでなく、「大体、こんな感じで作ってください」というイメージを伝えるために、私自身が編集したものを紙に打ち出し、それを簡単に綴じて、お渡しするんです。 で、そういう時に役に立つのが、簡易製本機の名機「とじ太くん」なんですな。これこれ! ↓その他 とじ太くん[R] とじ太くん3000 (1台) 4905382229048 これはですね、専用のファイルに紙の原稿を挟み、この機械に30秒ほど差し込むだけで、簡単に製本されてしまうという魔法のようなマシンなのでございます。 で、簡易製本とはいえ、実際に本の形にすると、完成形のイメージが涌くわけですよ。だから、私はこの「とじ太くん」を買って以来、結構な頻度で使用しております。 ま、結構な頻度と言っても、毎年、そうですね・・・3回か4回使うって感じかな? でも、年に3,4回使うというのを何年も続けていると、もう、これが無くては話にならないという感じにはなって参ります。便利よ~。それに、構造がシンプルなので、全然壊れる気配がない。これが数千円で買えるのなら、買うしかないでしょ。 っつーことで、我が愛用の「とじ太くん」、教授のおすすめ!です。
November 2, 2021
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うちの大学では月末に、各教員が公開している論文のダウンロード数などを通知してくれるのですが、10月のワタクシの論文へのダウンロード数がえげつないことになっていたのでビックリ。 と言っても、ものすごい数のダウンロードを受けているのは、自己啓発本に対する研究論文ばっかりで、純文学を対象にした論文の方はさっぱり。やっぱり、世は文学に興味がなく、自己啓発本に興味があるのね~。このテーマを選んで良かった。将来的に食いっぱぐれがなさそうだ。 っていうか、あれだよね、そろそろNHKの『100分de名著』とかの出演依頼とか来てもいいんじゃね? NHKの担当者さん、デール・カーネギーの『人を動かす』とかをこの番組で取り上げるってのなら、ワタクシの方はいつでも準備OKだぜ。伊集院さん相手に、超面白い話、ぶっこんでやるよ。連絡待ってまーす。 さて、週末を実家で過ごし、久しぶりに・・・というわけでもないけど、大学に顔を出してみると、最近公費で購入した本を図書館まで取りに来てくれという連絡が来ていて、30冊近い本をえっちらおっちら研究室まで担いできた次第。 大半はやはり自己啓発本関連の資料だったんですけど、中にはそうでない本もありまして。 例えば、今、評判の北村紗衣さんの『批評の教室』という新書とかね。ま、ワタクシも大学では卒論指導をしなくてはならない身なので、参考になることがあるかなと。 ま、読み始めたばかりなので、いい本なのかはまだ分かりませんが、小説だけでなくごく最近の映画の話題なども取り上げられていて、なかなか面白そうではある。 しかし、それよりも何よりも、私がいつも興味深く思うのは、文学論・・・それは批評的/分析的なものかもしれないし、評論的なものかもしれないけど・・・をやる人間ってのは、いつの時点かで、こういう入門書を書きたくなるっていうところですな。その時点ってのは、多分、自分なりに本や映画を分析する手法に自信が持てるようになった時、ということなんですが。 そういう点では、北村さんは、まだお若いのに、もうその「時点」に達しちゃったのか。早いな。 ということで、その早熟な北村さんのお手並み拝見と参りましょうかね。これこれ! ↓批評の教室 チョウのように読み、ハチのように書く (ちくま新書 1600) [ 北村 紗衣 ]
November 1, 2021
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