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こう答えて系図の改訂を拒否したことを、大正期 の歴史学者でエミシ研究学者でもあった喜田貞吉氏 が紹介している。 さらに喜田氏は、秋田氏の態度を次のように褒め称 えている。 「・・・神武天皇御東征以前より本土に豪族たりと の家伝を固執し長脛彦の兄・安日の後なることを公 称せらるるはわが史上まれに見るの尊敬すべき態度 なりとす」 (昭和3年8月15日大阪朝日新聞 HP能代古代通史) 喜田氏はこれらの研究のため、大正15年8月と9月に三春を訪れて『秋田子爵家宝文書』等を閲覧し、秋田氏の史料調査を行っている、 ここに出てくる出雲国造家とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りの交渉を受けたとされる国津神の天穂日命(アメノホヒノミコト)の末裔とされる家である。しかしこれに対し秋田家では「拒否したといふ事実はない」と抗議し、喜田氏も取り消すという騒ぎが起こっている。もっとも秋田家は宮内省の意向を拒否はしなかったとはいうものの、安日王・長脛彦の子孫であることを否定もしていない。ただしこのエミシの安日王・長脛彦に祖を求めた秋田氏の家系図は、室町期に成立した『曽我物語(安日が津軽に逃亡してエミシになったという物語)』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は薄いと考えられている。 秋田氏が自らをエミシの子孫と伝承してきたことは確かである。そしてそのことこそが、北奥において大和とは別の歴史観を醸成し、アテルイに至る抵抗につながってきたということではあるまいか。この秋田氏の主張は、宮内省の側にとって面白いものではなかった。しかしこの両者の間でどのような話し合いがあったかは定かではないものの、秋田氏は子爵となったのである。 さてここで、さらに明治の10年代(1877~1887)より時間をさかのぼってみる。時は天明5(1785)年である。 この年の2月22日昼九ッ半(午後1時)過ぎ、三春八幡町鍛冶・近平方より出火、おりからの強風で東へ延びた火は、同心町、裏町通り、御免町を焼き、北は丈六・御持筒組下通り、愛宕下、道場町、荒町へと次々に延焼、龍穏院門前で辛うじて食い止めたが丈六からの猛火は中町の商人街を焼き、大町へと広がっていった。三春移封七代目の藩主・秋田千季(ゆきすえ・後に倩季・よしすえ)は大町焼失の頃北町黒門辺りに出馬したが、城に類焼の危機が迫ると宝来寺(廃寺・三春町亀井)に移った。しかし火はさらに広がり、大手の長倉、御下屋敷を焼き、ついには御三階から本丸まで焼き尽くした。この未曾有の大火の中で、東日流外三郡誌もまた焼失してしまったという。しかしそのとき、三春にこの東日流外三郡誌に類したものが焼失したという記録がないことから、元々、秋田氏がそれを所有していたかどうかも不明とされている。秋田千季が家系の資料の収集と系図の作成を命じたとされるのは、この大火の後のことであるという。 千季は長男の東太郎が幼くして死去したため寛政元(1789)年、次男の謐季(やすすえ)に家を継がせたが謐季は病弱のため7年で隠居した。そのため享和3(1803)年に三男の孝季(のりすえ)が継いだ。千季の死去する8年前のことであった。 大火から4年後の寛政元年、隠居した千季は、十三湊(青森県五所川原市)に住んでいたという孝季に、秋田氏家系の関係資料の収集をするように命じたとされる。ただし三春歴史民俗資料館学芸員の藤井康氏も次のように言って、十三湊の孝季の存在自体を否定している。「秋田氏では藩主となるべき世子のみが『季』の字を名前の下につけることが許されており、例え藩主の次男であっても『季』の字は上にした。だから領外へ出た者に孝季という名を付ける筈がない。しかも藩主と同姓同名を名乗ることなど許される筈もない」 とは言え、家系の資料の収集と作成を命じられたとされる十三湊の孝季は、義弟にあたる和田長三郎、つまり東日流外三郡誌を見つけた和田元市の先祖にあたる人と二人で、ひたすら収集記録に努めたという。もちろん前出の三春移封九代目藩主秋田伊豫守孝季とは同名異人である。現在これらの資料は五所川原市飯詰の和田家に保存されているとされ、もう一つの『東日流内三郡誌』は未発表であるとされる。この東日流外三郡とは、ほぼ津軽半島全域であって、内三郡はそれ以南の津軽の内陸部にあたる場所であるという。いずれにせよ、三春に東日流外三郡誌の原本や写本の類は一切残されていない。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/1/4、お陰さまで、1日平均アクセス数が70になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。
2011.01.21
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華 族 令 ここで昭和22年から明治の10年代(1877~1887)に時間をさかのぼる。 戊辰戦争が終わり、明治新政府が成立して間もない明治4(1871)年、廃藩置県が実施された。藩が県となったことから旧藩主はその地位を失い、東京への移住が命じられた。各県には旧藩主に代わって新たに新政府から県令が任命された。当初の県は藩をそのまま置き換えたため、現在の都道府県よりも細かく分かれており、3府302県であった。また飛地が多く、地域としてのまとまりも弱かったので11月には3府72県に統合された。そして明治14(1881)年、現在の形に落ち着いたのである。中央集権国家確立の下段取りとして廃藩置県を断行した新政府は、旧藩主から旧藩の人的、軍事的、経済的分断を図る必要があった。各地の旧守派が旧藩主を擁立して反抗することなどで、佐賀の乱や西南戦争の二の舞を恐れたのである。その懐柔策として出てきたのが華族令であった。明治17年7月、公・候・伯・子・男と段階こそあったが、『皇室の藩屏たる華族』という箔を与え、生活を保障することで今後旧藩主を擁して起こるかも知れない新政府に対する感情の悪化と反乱を押さえ込もうとしたのである。 この位階の授与のため具体的な準備にとりかかった宮内省は、旧藩主たちにそれぞれの系図の提出を求めた。旧藩主たちはその先祖を天皇家や天皇家から分かれた源平藤橘などの諸姓に繋ぎ、権威付けをして提出した。通常、系図は中央の名族に関係づけて飾るのが一般的である。ところがこのとき、三春移封11代目の藩主・秋田映季(あきすえ)の提出した系図が宮内省を困らせてしまったのである。何故なら映季は、自分の家の先祖の出自を先住民エミシの後裔をもって報告したからである。その系図によると、秋田氏の先祖は安東氏とそれに続く安倍氏であるが、その遠祖は安日王(あっぴおう)、長脛彦(ながすねひこ)となっていたからである。ただし安日は姓であるから、安日王長脛彦が正しいとの説もある。 日本神話によると、長脛彦は日向の高千穂宮(たかちほのみや)を出発して大阪湾から奈良盆地に攻め入ろうとした神武天皇の軍を破ったが、のちに八咫烏(やたのからす)の案内で、再び奈良盆地へ侵攻した神武天皇に敗れている。そもそもエミシとは中央政権側から見たときに、その外側にいる人々への呼称である。それにもかかわらず秋田氏は、この安日王・長脛彦を頂点にして、安東、安倍、藤原のように各時代ごとに中央政権に抵抗したエミシの中心人物を書き連ねたのである。これはまことに異例というほかない。そこにあるのは強烈なまでの自己主張と自意識である このような系図を提出された宮内省の側の見方からすれば、神話の中ではあるものの、安日王・長脛彦は日本史上初めての皇室への抵抗者であり、何とも不都合なことであった。「いやしくも皇族の藩屏たる華族の先祖が、安日王や長脛彦の子孫では困る」 そう考えてこの秋田氏の系図の取り扱いに苦慮した宮内省が調べてみると、その昔、三春移封初代の秋田俊季(1598~1649)が幕府に提出していた系図に、秋田氏の遠祖が第八代の孝元天皇にはじまりその後は四道将軍の1人の大毘古命(オオヒコノミコト)に続いているということが記載されていたことが分かった。四道将軍とは、第10代・崇神天皇の時代、全国統一のため4人の大将軍がそれぞれ北陸道、東海道、山陽道、山陰道の四方面へ派遣されたという神話である。(2010/6/20・阿武隈川 日本神話2 参照)これであれば無難である。宮内省はこの系図への差し替えを求めた。 しかしこの申し出を、秋田氏はなかなか受け入れなかったという。 「恐れながら、当家は神武天皇の御東征以前の旧家 ということをもって家門の誇りといたしております。 天孫降臨以前の系図を正しく伝えておりますのは、 はばかりながら出雲国造家と当家のみでこざいます」ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。2011/1/4、お陰さまで、1日平均アクセス数が70になりました。ありがとうございました。またよろしくお願いします。
2011.01.11
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講演 その他1982/4 「馬車鉄道の客車を復元」 郡山歴史資料館に寄付1983/5 「馬車鉄道」 田村郡都路村公民館老人学級にて講演 「実物大の馬車鉄道模型」 三春第一保育所に寄付1984/6 「1/10の馬車鉄道模型」 三春歴史民俗資料館に寄付 /7 「三春馬車鉄道会社跡記念碑」 ヨークベニマル三春店前に建立1985/8 「鉄道の効果的利用について」 郡山商工会議所採択1988/1 「第93国立銀行跡記念碑」 三春町商工会館前に建立 /7 「ミニ駅設置について」 JR郡山にて講演1990/6 「外から見た三春」 三春ロータリークラブにて講演 /8 「郡山、そして過去から未来へ」 郡山ロータリークラブにて講演1993/1 「戊辰の年 三春藩」 三春ロータリークラブにて講演1995/6 無着先生とカンボジアへ。SVAのトリピタカと 山びこ小学校の寄付に同行。シアヌーク殿下出 席の贈呈式に参加。1996/4 「安田銀行三春出張所跡記念碑」 桐屋商事GSに建立 /8 「商店街に賑わいを取り戻すには」 郡山商工会議所にて講演1999/6 「三春馬車鉄道」 福島中央TVにて放映2000/5 「カンボジア王国勲一等国家建設功労章」 カンボジア宗教大臣より受く2001/5 「三春は狐にあらず~戊辰戦争」 宮沢賢治三春の会にて講演2002/3 「第12回国際加齢知的障害クオリティオブ ライフ円卓会議」 「マウナケアの雪」の取材が縁で、郡山ビック パレットで開かれたこの会議に参加した。 三笠宮寛仁親王殿下が出席なされた。 /12 「伊東祐長と田村輝定を追って」 日和田町郷土史会にて講演2003/2 「三春戊辰戦争始末記」 三春築城500年記念会にて講演 /5 「三春戊辰戦争始末記」 中央大学同窓会郡山支部にて講演2005/5 「源頼朝に郡山を貰った男」 郡山市男女参画プラザにて講演 /8 「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」 北東文芸協会にて講演2006/3 「源頼朝に郡山を貰った男」 郡山市婦人団体協議会にて講演 /3 「第442連隊創立第64回記念パーティ」 ホノルルで招待される2007/6 「源頼朝に郡山を貰った男」 中央大学同窓会郡山支部にて講演 /10~2008/7「郡山の歴史を楽しもう」 ヨークカルチャーセンターにて講演 /11 「源頼朝に郡山を貰った男」 安積高校文化講演会にて講演2008/6 「福島県人会110周年記念会」 ハワイ島ヒロ市に福島県知事からの祝辞を帯同 して出席。ホノルルで第100大隊資料館を訪 問 /7 「源頼朝に郡山を貰った男」 郡山市富田西公民館にて講演 /11 「会津藩、ロシアに対峙す」 矢吹町にて出版記念懇談会 /11 「阿武隈川~蝦夷と大和の境界線」 安積高校文化講演会にて講演 /11 「三春の戊辰戦争」 三春観光ボランテア会にて講演 /11 「ハワイの歴史にかかわった福島県人」 郡山自由大学にて講演2009/6 「郡山の歴史を楽しもう」 郡山市倫理法人会にて講演 /6 「三春の歴史を楽しもう」 三春町舞鶴大学にて講演2010/3 「郡山の歴史を楽しもう」 郡山市悠々クラブにて講演 /5 「日本神話、邪馬台国と郡山」 中央大学同窓会郡山支部にて講演ブログランキングです。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.01.10
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古代の郡山 従来の学説によりますと氷河期の日本列島は大陸と陸続きになり、日本人の祖先は獲物を追ってやってきたとされてきましたが、近年の研究では氷河期の最寒期でも津軽海峡には海が残り、北は陸続きにならなかったことが分かってきました。郡山が氷河に覆われていたかどうかは分かりませんが、マンモスが歩き回っていたのかも知れません。 『郡山市史』は、旧石器時代後期(約2万年前)の遺跡として田村町宮田A遺跡などをあげています。その次の縄文時代は今から約1万6千年前から紀元前約1千年の間とされていますが、旧石器時代と縄文時代の違いは土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の存在にあるなどと言われています。郡山でも中田町下羽広遺跡から31棟の掘立柱の住居跡が見つかっています。このような時代、他の国ではどのようなことが起こっていたのでしょうか。すでに世界の4大文明が勃興していました。黄河文明、メソポタミア文明、エジプト文明、そしてインダス文明です。 時代が下がり、日本では邪馬台国が興った弥生時代の後期、バビロニア、エジプト、ローマ、ギリシア、スパルタなどが興隆し、戦いを繰り返していました。ところで紀元前776年、つまりキリスト生誕後776年に第1回の古代オリンピックが開催されました。近代オリンピックの華マラソンは、紀元前490年、アテネのマラトン海岸に上陸したペルシャ軍をアテネ軍が打ち破り、勝利を伝えるため走り続けて絶命した兵士の故事が起源とされています。その上、この頃に作られたという世界の7不思議が伝えられています。バビロンの空中庭園、アルテミス神殿、オリンピアのゼウス像、マウソロス霊廟、ロードス島の巨像、アレキサンドリアの大灯台、ギザの大ピラミットです。 このような時代、郡山では縦穴住居に1世帯が数人で住み、その数世帯が集まって中央の広場を囲み、集落を形作っていました。他所の国と比較して文化の程度が遅れていたのかも知れませんが、争いのない生活であったのではないかと思います。古代の郡山は、平和な歴史を刻(きざ)んでいたのかも知れません。ブログランキングです。←ここにクリックをお願いします。
2011.01.01
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