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宇陀の編(508年)
★
幼帝を不幸な出来事で失った、
母の摂政・春日大郎は
自分の陵に幼帝を合葬させると主張するので、
蘇我高麗は仮陵に埋葬だけは済ませた。
大郎は悲しみを酒や罌粟(ケシ)の実に溺れることで
黄泉の国からの迎えを待っていた。
ところが、娘の手白香姫が懐妊したとの朗報で
大郎は蘇り、周りに気を使うようにまでなった。
大和の新大王となった男大迹王(継体天皇)は、
枚方の北に小さな宮・樟葉の宮を建てて住んでいるが、
王家の催事があると、大和の二階堂に来て、
催事を司る妃・手白香姫とともに過ごすこととなる。
大議会も、大伴が発言を控えて、物部の主張が良く通るようになった。
(おっと、臣のなかで平群は滅ぼされたハズで7人の合議では・・・)
★
蘇我高麗の日常を追ってみる。
1. 倭国から一方的に「倭国は日本国と称する」の使者があった。
男大迹王の解説によると、「新たな国号を名乗った新羅が軍事強化しているので
対抗して倭国が独立宣言し、古い大陸の呪縛を自ら解放したのだ」となる。
2.男大迹王から倭国および新羅の情報を探索するよう命令が出された。
3. 地方豪族からの王への寄進について:
布左(不先)の豪族が大和に寄進することは、大和という「本家」が土地の安全を
守ってくれると期待した考えによるものである。
以後は、王に代わり、大和より以東は全て王妃が所管することにする。
4.男大迹王は、蘇我高麗が隼人梟師から貰った「 列島の南半分地図
」が気に入り、
譲って貰いたいと言うので、その写しを渡した。
男大迹王は北半分の地図を三国衆にいつか作らせるという。
★ ・
蘇我高麗の義父、隼人梟師がやってきた。「梟師の位を譲ることにして、
そのものに孫を嫁がせたいので、此花姫の子を頂きたい」とのこと。了承。
男大迹王に遇いたいというので、手順を踏む。「隼人梟師に貰った地図に大王が
興味を持ち、空白の部分を自分の所で埋めさせるということや、また
新王は狭い大和を出て樟葉に宮を持っている」、というと、
「大和は良い王を迎えたものだ」と隼人梟師は感心した。
男 大迹王に密かにお会いした後、満足して西都原に帰って行った。
★・・「 辰砂
」と 大伴氏の秘話
隼人梟師は、大和の辰砂(湖南・辰州で採れる朱丹)が大陸で
膨大な利益を揚げていると言った。調べた結果を隼人梟師に木簡で認めた。
・・・
辰砂は「宇陀の真赤土(まはに)」と呼ばれ、原石は血原という土層または露呈、
または鉱脈から採取される。
穴民とか土蜘蛛と蔑まれる、土着の先住民が鑿で穿ち、削って粒状にして
俵に背負い集積場に持ち込む。
水力を利用して石臼や石杵を動かし、粉砕、細かい砂状とし、水で洗い、
重い粒子だけを集めて乾燥させて「宇陀の真赤土」を作る。
これらは泊瀬・朝倉の大伴氏が独占的に採掘管理・流通ルートを掌握している。
大和の王が代々、その独占を認めているのである。
/// 流通ルート ///
1. 直接に土師師に渡り、古来からの埋葬用装飾に使用される。
ただし、その流行は廃れ気味で、武具、馬具の装飾ものに取って代わられつつある。
2. 大和の海石榴市を通して一壺単位で売られる。朱に厄除けの効用があるとして、
朱と漆を捏ね合わせた塗料に仕立ててから利用する。
3. 物部氏の湊・難波津の交易商人により船で、筑紫・名の津に回送されて、
初めて大陸、半島諸国との交易が行われる。莫大な利益が揚がっている。
(大昔は、大陸の越人が直接に海石榴市に来て数倍の規模の取引が、奴隷取引と
併せて行われた。)
4.最近は銅製品に、辰砂を精錬して水銀を得て、金1対水銀5を混ぜたものを
塗り、炭火などで加熱して水銀を飛ばす鍍金技術が流行り、需要が増加している。
★・・・大和地の勢力の変遷
さらに、先住民、王家、大伴氏、物部氏の関係を纏めている。
・ 先住民 ・・・ いまでこそ土蜘蛛と揶揄される先住民は、
悠久の時の流れにまかせ、
自然風土に手を加えず自生しつつ
神と共存する生活様式を育んで
高い精神文化を作り上げた。
・第一派の倭人 は、大伴族、鴨族、和珥(わに)族、三輪族、葛城族である。
王家の祖先は三十数世代前に
精神文化の濃い先住民のいる列島に、 東より渡来(*)
、
稲をもたらした倭人である。
両者は同胞が少なく共存しながら融合し、今の大和文化の基礎ができた。
先住民は、形の良い山に神が宿るとして「 神奈備
」と称し祭祀の中心とし、
倭人は、「 真名井
」という湧き水を主に利用する、まだ幼稚な湿田稲作を
行ったが、両者は容易に合体できた。
・第二派の倭人
は、十数世代を経てやってきた。砂鉄を原石に踏鞴を吹いて
優秀な鉄器をえて支配者集団として先住民の上に君臨した。鉄製の農具で
開墾を行い、領地を列島を埋め尽くした。彼らは技術は優秀ながら、
先住民に精神文化面で適わず、十数世代を経て先住民の文化を受け入れ
ざるを得なかった。物部族、中臣族、巨勢族、佐伯族、紀族などの中央豪族
がそれである。
・第三派の倭人
は、伽那の鉄生産技術集団が鉄鉱脈を求めて
各地に分散、地方豪族発生の基礎を作った。鉄鉱石から大量の鉄を自家生産し
大型の開墾用具で池、溝を掘削、乾田技術を導入、水田面積は飛躍的に拡大した。
淡海の息長氏、三国の三尾氏がその代表である。
★・★
・★・
王家を中心に言うと、大伴一族は王家の伴の中の伴として仕えてきた古族である。
物部氏は西より順次、列島を席巻し、東で大和王家と衝突したが、今は分家として
西から分離し、王家に妥協する姿勢を取っている。
★
新王は大和の王家とも、物部氏とも違った家系に育ち、狭い土地を出て、
樟葉の宮から列島を眺め、大陸文化の素養も充分身に付けているから、
新しい大和の歴史が始まるのは間違いない。
★
以上が、隼人梟師への報告書の要旨である。
しかし、間もなく、
西都原から隼人梟師の訃報が風の便りで大和に届いた。
★ ・ ★ ・ ★
(*)
呆けの小生には「 東より
倭人が渡来」と本文P.284にあるのが
よく判らない。
「大陸(=中国)の東に住んでいた倭人が揚子江近くの水稲技術とともに渡来した」
と言う意味なのではないのか。
方角の基点を「大和」に限定すると、東は名古屋方面だが、倭人が
この盆地に入り込んだのが単に東の方角からであったのであり、
どこから来たのかを示している訳ではなかろう。
著者は故人となったので聞くことも叶わない。神話で古代は輝いているから
少々の疑問には、特に、東西の方角には、 気にすることはない のだ。
太陽神を崇める国だから、何事も「東」に求めたがる国民性を理解しよう。
どこかの国も「東海」の名を東の海の名称に求めるように・・・
・★・
大陸から東の海を、大陸人は自分中心、または、人がいないと考えて
単純に「東海」と呼んだ。渡来人は東の海を「東海」と呼ぶものだから
東西の基準軸を失ったように呆けの小生は感じる。彼らは、自分たちが
「東海」を経て上陸した場合、東から来たと言ったのではないか。地球儀
で見ると、日本海を経由して奈良に行った場合は、「南西から対馬海流に
乗って上陸し、陸を南に向かった」ハズである。「東海(トンヘ)」から「大和」
にというのを「 東から大和に行った 」というのは、
東西基準を持たない渡来人 では
仕方がないことである。当時は、隼人梟師が地図をもっており、
男 大迹王がその地図に載っていない地域を完成させようとしていた。
「 東海
」ではこのように国際的な固有名詞にすると 紛らわしいばかり
である。
★・★
東海銀行、中国銀行などは「国内だけに通用する」のであり、
固有名詞は難しい問題である。
脱線したようだ。
(呆けの写経は続く・・・少し疲れてきた)
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