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Sep 20, 2019
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カテゴリ: 物語り
​​​​​​☆

 無垢の赤ん坊や子供が、
幼いままに親の躾と言う名目で

殺された。

 男親は躾にことよせて子供に暴力を振るう。

 母親は躾なのか解らず、
男親には女として従うのみで、
ただDVを恐れて従う。

 上記の場合は、子供が大人になるまで

生きられない状態である。

 では、親の愛情で育てられず、
躾にもあわずに
野に放置され、
親を呪って、世間を呪った

獣状態の怪物が大人となってこの世にあらわれた
としたらどうなるだろう?

 このような事件から
「フランケンシュタイン」という
怪物の小説を思い出してみよう。



NHKの「100分de名著」
2015.2.26放送
​『フランケンシュタイン』
    の
「怪物」とは何者か​



​​
 科学者ヴィクター・フランケンシュタインが
生み出した怪物は、無垢(むく)で優しい心
を持って生まれた。
 しかし、生みの親に見捨てられたことで
怒りと復讐に支配されるようになる。
 19歳の女性作家メアリ・シェリーが生み出した
名作『フランケンシュタイン』で描かれる
この「怪物」とは一体何者なのだろうか。
 京都大学大学院教授の廣野由美子
(ひろの・ゆみこ)氏が考察する。
*  *  * 
「怪物とは何か?」という問題を考えるときに
抜かすことのできないもの──
それは「創造主」と「被造物」の関係、
つまり「生む側」と「生まれる側」の関係が
作品の原点にあるということです。
 メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の
執筆に先立ち、
ミルトンの『失楽園』を二度にわたって読んでいます。
 彼女が『フランケンシュタイン』の創作にあたって
ミルトンを強く意識し、『失楽園』をライトモチーフ
として創造主と被造物の対立を描こうとしていたことは、
次のような『失楽園』からの引用が、題辞として掲げら
れていることからも明らかです。
 創造主よ、私は、土くれから人間の形にしてください
と、あなたに頼みましたか?
 暗闇から私を導き出してください
と、懇願したでしょうか?
(第10巻743—745)
 題辞とはその作品の始まりに先立って最初に引用
されるもので、自分はこれを下敷きにしている、
という作者自身からのメッセージでもあるわけです。
 この文言は、楽園から追放されたアダムの嘆きの
言葉の一部ですが、『フランケンシュタイン』で
アダムの状況に置かれているのは怪物です。
 つまりこれは、自分の創り主であるヴィクターに
対する怪物の訴えの言葉として響いてくるのです。
 怪物にとって、ヴィクター・フランケンシュタイン
とは「創造主」であり、「神」だったのです。
 怪物自身も、直接こう訴えます。
「おまえがおれを創ったのだということを、忘れるな。
 おれは、おまえのアダムだぞ。
 まるで、何も悪いことをしていないのに、
おまえに追い立てられて、喜びを奪われた堕天使みたい
じゃないか」
    (第10章)
怪物が述べるとおり、怪物の立場はアダムとサタン
(悪魔)の両方を兼ね具(そな)えています。
 ヴィクター・フランケンシュタインは、
怪物に対して神のように振る舞いますが、
その振る舞い方は『失楽園』の神とは
まったく異なるものでした。
 ミルトンの描いた神は、
アダムがひとりぼっちにならないようにと
女の伴侶を創り与えましたが、
ヴィクターはいったん完成しかけた女の伴侶を
破壊してしまうばかりか、
怪物にいかなる救いも与えようとしません。
 彼は怪物に「おまえと私の間には、
つながりはありえない。 我々は敵同士なのだ」
と言ってはばからないのです。
 そのような無慈悲な創り主に対して、
怪物は悪魔のごとく反逆したのです。
『失楽園』のモチーフに照らして見たとき、
「怪物」とは「神によって創られたのち見捨てられ、
反逆する者」として定義づけられます。 
 しかし、「創造主」と「被造物」の関係は、
たんにキリスト教の枠組み内にとどまる問題では
ありません。
 拡大解釈すると、これは私たち人間の
「親」と「子」の歪んだ関係にも、
根本においてつながる問題であるとさえ
言えます。
 なぜなら、それは「生む側」と「生まれる側」の
関係にも置き換えられるからです。
 生まれた子の立場から見ると、
親による虐待・ネグレクトなどは、
怪物がヴィクターから受けた無情で
無責任きわまりない態度と重なり合います。
 逆に親の立場から見ると、
子とは自分が生んだものでありながら、
自分にとって制御のできない、
時としては自分に歯向かい、重い責任を負わせる
──ある意味で怪物的な──存在です。
 そしてこの「生む側」と「生まれる側」とは、
ヴィクターと怪物がそうであったように、どこまでも
追いかけ合うという宿命を背負った関係だと言える
かもしれません。
 怪物が最後までヴィクターを殺そうとしないのも、
どんなに憎もうとも自分を生み出した親であるが
ゆえに、愛情を乞う気持ちが捨てきれなかったからだ
とも考えられます。
 怪物は、とにかく愛情に飢えていた。
 女の怪物が欲しいと言いはしたものの、
最も欲しかったのは親の愛情であり、
それゆえ彼からの愛を最後まで求めつづけましたが、
それが叶(かな)うことはありませんでした。
 私はふとそこに、虐待された子供が、なぜか
親をかばって、事実を他人にひた隠しにするといった
現象が間々見られることなどを、思い出したりもします。
「親」と「子」の関係をさらに拡大し、
「社会」と「個人」の関係に置き換えてみましょう。
 個人は社会に属し、社会の性質は個人にも影響を
及ぼします。
 怪物が「創り主の手を離れて、手に負えなくなる存在」
であるなら、個人としての彼(怪物)は、
自分を生み出した者、そして自分に同情しない社会に
対して、復讐を企てる者となります。
 すると「怪物」の概念は、社会の病弊としての
「犯罪者」の存在にも重なってくるように思えるのです。
 たとえば殺人という、想像を絶する許し難い罪を犯す
人間は、私たちに恐怖や不安を与えるがゆえに、
「怪物」のような存在と感じられがちです。
 少なくとも被害者やその周囲にとって、
殺人犯は怪物以外の何者でもありません。
 しかし『フランケンシュタイン』の物語は、
怪物が生まれてきたのには理由があり、
怪物に育ったプロセスがあるのだ、
ということを主張しています。
 したがって、それをいかに受けとめるべきかは、
現代社会における隠喩としての「怪物」を、
私たちがいかに扱うべきかという重たい問題
とも結びついてくるのです。

​​​​





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Last updated  Apr 30, 2020 05:31:05 PM
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