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めいてい君 @ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Oct 17, 2020
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​​​​​​​ 補論II Třešť (発音はチェシュチュ)における

   シュンペーター家 について







、”Schumpeter“は、チェコ語で、もともとSumpetrと
 表記されたが、後にドイツ語で Schumpeter と表記さ
 れるようになった。
  シュンペーター家はこの町の古い家柄のひとつであ
 る。
  1523年この町に移り住んだ、Mildov 出身のVáclav
 (発音は ヴァーツラフ
 Sumpetrが先祖とされ、
 妻はHladov(発音はフラドフ)出身のBarboraであった。
  夫
Václav の職業はわからないが、妻Barboraは
 Hladovのみならず、Moravia(発音はモラヴィア)の
 村々に、土地、城、その他資産を有し、主人に対し
 多額の借り入れをしており、その返済額も多かった
 ことから、夫は、商人か金融業者ではなかったかと
 いわれている。
  Mildovが現在どこの土地かはわからない。
  シュンペーター家は従来Třešťから妻を選んだ。
  それは妻たちの属する社会的階級からの要請であり、
  この婚姻関係がしっかりしていれば、両者は社会的に
   また経済的にも満足する状態を維持できるからである。
  シュンペーター家は19世紀の後半ローマカトリックを
   信ずるドイツ・オーストリア国籍であると自ら宣言した。
  度重なるユダヤ人に対する迫害にもなんら影響を受
 けなかったということがシュンペーター家の正当性を
 象徴している。
  1933年ヒットラー統治下のドイツを離れ、アメリ
 カに移住したとき、彼はドイツにいるユダヤ人の経済
 学者を擁護する喧伝をたびたび行った。
  そして彼自身および先祖は誰も、ユダヤ人を先祖に
 持たないといった。
、シュンペーター家は代々織物の製造販売に従事して
 いた。
 織物業のギルド社会、および布地のギルド社会は、
Třešť だけでなく、近隣のJihlava, Telč ,そして
  Třebíč に存在したが、彼らはオーストリア帝国の織
 物業を持たない地域に対し、その卸小売をすることで
 大いに潤った。
  蓄積された資本は、この産業に投資された。
  Frantisek Xaver Schumpeter(1740-1814)
 即ちSchumpeter Ⅸ は織物商人であった。
  そして、1795年から Třešť の市長を務めた。
  その子、Josef Schumpeter Ⅹ(1777-1848)
 は商売の範囲を広げ、織物ばかりでなく、鉄鉱石、塩
 も販売した。
  そして、はじめて、Třešť に織物工場を建てた。
 「彼は1832-1833に、屋敷(No.176)の中に工場を
 建てた。
  その場所は町のはずれ、ユダヤ人街の裏手に接した
 場所である。」
  この出来事は、Třešť における産業革命の始まりで
 あった。
  この工場では、初めは馬力で、その後蒸気機関
 「Damphmaschin」で発電機が回された。
  Josef Schumpeter Ⅹの息子 Alois Jakub
 Schumpeter Ⅹ1(1813-1898)は経済学者シュン 
 ペーターの祖父に当たる。
  彼は沢山の子宝に恵まれ85歳まで生きた。
  経営的に多くの業績をあげ、偉大な「経営者」と
 いわれた。
  1867年から1873年まで、彼はTřešťの市長を務め、
 名誉市民に選ばれた。
  彼の息子 Josef(1855-1887)は経済学者シュ
 ンペーターの父親である。彼は32歳のとき事故で死
 んだ。
  シュンペーター家の人々は敬虔なローマカトリック
 信者で、宗教上の目的のために多額の献金をしてきた。
  シュンペーター家の工場がキリスト教の儀式に従う
 ことは有名で、従業員は、金曜日は午後3時に仕事を
 やめ、ミサに参加するよう求められた。
、Alois Jakub Schumpeter Ⅹ1(1813-1898)は
 1898年7月、85歳で死んだ。
  そして、同年12月21日、クリスマスの少し前、
 シュンペーター工場は火災にあった。放火と疑われた。
 「当時シュンペーター工場に臨時雇いとして雇われて
 いた、
  布さらし職人の一人は、次のように回想している。
  その夜、彼は、当直者が病気になったので、彼に
 代わって、夜間見回りを行った。
 するとニックネーム「Edinek」というシュンペーター
 の遠縁が建物に入って来た。
  数分して、彼は周りを気にしながら出て行った。
  臨時雇いがその後巡回に回ると、突然火が燃えあが
 った。
  炎はどんどん広がり、瞬く間に工場の建物2棟に燃
 え移った。
  やがて炎は工場の煙突にまで達した。
  消化活動は、深い霧、降り積もった雪、水不足によ
 り難航した。
  火災の原因ははっきりしなかった。」

<フローリン銀貨=2シリング​に相当>
  燃え尽きた工場は25,000 Florins で、Berthold 
 Muench(近隣のHodice に織物工場を持つ)によって
 購入された。彼はそこに3階建ての新工場を建て、古い
 建物は取り壊された。
  新設備が新たに設置され、工場は操業を再開した。
  シュンペーター家の富に関してはいろいろ憶測を呼ん
 だ。
Třešť では忘れられてしまっているが、今でも伝説と
 して残っている。
  シュンペーター家が使用していた綿花はメキシコから
 輸入されていた。
  シュンペーター家とメキシコの契約者との間はお互い
 深い信頼関係で結ばれていた。
  と言うのも、メキシコの業者は品質の優れた綿花を提
 供し、シュンペーター家はすぐに代金を支払ったからで
 ある。
  しかし、メキシコの革命および市民戦争(1854-1860)
 後、様相は一変する。
  即ち、これら良好な関係は、メキシコを占領したフラ
 ンス(1862-1867)、即ち Maximilian ハプスブルク
 公爵(オーストリア皇帝の弟)をメキシコ皇帝の地位に
 つけたフランスによって阻まれた。
  しかし、その後、フランス進駐軍は敗退し、皇帝は
 逮捕の上処刑された。
  うわさによれば、
この間、 に到着した綿花の内
 部には、宝石が隠されていたという。
  戦乱を恐れて、メキシコ人達は、自分たちの金や宝石
 を保管してもらうために、商売の相手方に、それらを送 
 っていたというのである。
  シュンペーター家はうまく隠してくれた(一説には壁
 の中に)という。
  メキシコの情勢が落ち着くと、メキシコ人は、
Třešť
 現れ、彼らの宝石類の返還を要求した。
  シュンペーター家は驚いた。
  宝石類については一切知らない、そのようなものは受
 け取った覚えはないと突っぱねた。
  シュンペーター家は、彼らに鍵を渡し、探させた。
  宝石類はどこにも隠されていないと彼らを納得させる
 ためである。
  メキシコ人達は壁や床を隅々まで探した。
  庭も全部掘り返した。しかしなにも出てこなかった。
  彼らは手ぶらで帰らざるを得なかった。
  その後工場は繁栄を極め、シュンペーター家の館は
 気取った建物に建て替えられた。
  それも驚くには当たらない。
 1866年のオーストリア・プロイセン戦争のあと、
Třešť は繁栄の時代を向かえ、生産は拡大し、販売は伸
 びた。
  しかし、ここ
Třešť では、隠し財産の話はその後も
 ひそかにささやかれ、シュンペーター家の財産は正当
 に得たものではなく、ほめられるべきものではないと
 いわれた。
  だから、シュンペーター家の穀物倉(収穫したものが
 どっさりはいっている)が1896年に火災で焼けた時も、
 1898年に工場が焼けたときも、よく思わない人々は、
 これは、不浄のお金に対する神の罰と思い、この神の業
 を喜んだ。
、第1次大戦後、シュンペーター一族の  Třešť  での活動は
 終止符を打つ。
  この400年間、シュンペーター一族は  Třešť  の歴史の中
 で重要な役割を果たしてきた。
  Frantisek Xaver Schumpeter は1795年市長に、
 Josef  Schumpeter は1860-1864年に Councillor に、
 Alios Schumpeter は1867-1873年に Councillor を務
 めた。
  1901年、 Třešť  を正式なTown に昇格させる嘆願を
 Franisek Josef 1世に提出した代表団の一人に、
 Karel Schumpeter(1840-1906)が加わっていた。
  1897年鉄道敷設のための新会社では、
 Alois Schumpeterが代表として活躍した。
、一族で特色ある人物としては下記がいる。
  プラハで成功した写真家。
  教区のカトリックの司祭 2人(1740年代)
  また、 Třešť  のドイツ語小学校の記録簿には、
 シュンペーター一族の子供の名前が何人も記載されて
 いる。
  シュンペーター一族は Jihlava でも慈善活動を行い、
 種々の団体に献金した。
                    以上
​★

********************
 過去のブログに、ご興味のある方は、次をクリックし
「Archives」→月別記事の「2016年」→「9月」
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「宇治見氏特別寄稿<改訂>: 
​「チェコ の Třešť における
シュンペーターのファミリー・ヒストリー」​
(その1/6)~(その6/6)
をクリックしてご覧ください。
(その2/6)(その3/6)・・・~(その6/6)は
<新しい記事> を次々に押せば~現れます。

「これらの画像・文字を全面的に<改訂>しました。」​

​****************

★​


​<予約>​

 宇治見氏から

J.A.Schumpeterの補論「III」

​Třešť における 産業革命 とシュンペーター家について​​

​も送付いただいたが、 10/20  に掲載いたします。​

 ご期待ください。

★​​





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Last updated  Oct 17, 2020 09:19:45 PM
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