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特定の人の話ではありません(爆)。前回の自分の好きなこと、やりたいことに囚われる事に関する続きです。そもそも好き、嫌いという感情はどこから出てくるのだろうとふと思うときがあります。人間の視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚という五感に関して、私たちは好き、嫌いという反応をします。ただ、この反応も、私の年齢になってくるとだんだん変化する場合があるのです。以前あまり好きではなかったり、まるで関心がなかったものが急に気になりだしたりする事が良くあります。味覚という点では、食べ物の嗜好もそれなりに変わりました。変わらないのはコーヒーがダントツで好きというくらいでしょうか。少なくとも五感に関する好き嫌いは、生まれ育った環境(時代を含めて)によるところが大きいと思います。そしてその五感に対する反応の延長として、たとえば好きな学科、好きな本、好きな価値観といった抽象的なものに対する感情の振り分けが出てきます。しかし、これも時と共に、またいろいろな経験を経るごとに変わっていくのが常です。好きな本ということで言えば、ここ1年くらいの間にいわゆる精神世界の本をいろいろ読みましたが、昨年の今頃と今年の今頃では読む本も違っていますし、考え方そのものも随分変わりました。人に関しては、苦手な人というのは確かに存在しますが、その苦手意識自体も微妙に変化しています。以前は、この人のこの行為がいけない、とピンポイントで意識していましたが、今はどうでもいいです(爆)。私が気に食わない方はどうぞ、という風に居直ってきています。(だから、余計に可愛くなくて嫌われるのかも・・笑)。だって私はちっとも悪くないし、同じように相手も別に悪いわけではない、相手が自分に嫌なことを為している、と思うのは自分であって、相手はちっともそう思っていないに違いない、だったら同罪、という何がなんだかわからない理論で、イーブンにしています。なぜこんな事を書いているかというと、好きとか嫌いという感情もまた、囚われることで自分の内面や自意識に過剰に向いてしまうからです。そんなことより、もう少し自分の周りを見ていくと、面白そうな話題、いろいろな出来事にあふれている事がわかります。そういえば、何かの本で読みましたが、胃を健康に保つためには胃に優しい食べ物を食べ続けるよりも、いろいろな食べ物をまんべんなく食べたほうが胃の機能のためにはいいそうです。好き嫌いなく食するということが人間の体にとっても良いそうです。同じ価値観、趣味、嗜好にこだわるのを少しだけやめてみる、というのもいいかもしれません。
February 28, 2006
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仕事運を上げる、お金持ちになる、あるいは起業することをテーマに色々な本が刊行されています。私が以前大好きだった(笑)成功へのハウツーものはいまや書店に行くと目に付きやすいところに山積みにされています。タイトルはさまざまではありますが、仕事、財運、そしてついでに人生の運そのものを良くしようという趣旨は一緒です。それらの本にほぼ共通した前提があります。 それは、好きなこと、やりたいことをやるということです。精神世界といわれる分野でも、好きなこと、やりたいことをやりましょう、と言われます。好きなこと、やりたいことの対極にあるのは、嫌いなこと、やりたくないことです(当然ですね)。嫌いな仕事、嫌いな人、嫌な場所、これらからイメージされる感情は、いわゆる不快な感情です。よく言われるのは不快の感情は、まず本人にストレスを与え、そこから焦燥感、士気喪失、徒労感、ひいては疲労を生じさせ、身体的、肉体的にもダメージを与えるということです。 嫌い、いや(不快感)→いらいら、ストレス(精神的な面に表出)→怒りとして爆発、暴力行為(身体的行動に具現)→不快感といった感じです一方好きなことの場合は、やりたいこと、好きなこと(快)→楽しい、幸せ(精神的にプラス、やる気がでる)→やりがい、生きがい、一体感を感じる、物事が進む(行動がスムーズに運ぶ)→達成感、充実感、幸せ感の喜びのサークルとなります。しかし、今の私にはどうもこのやりたいこと、好きなことだけを追求する方式も物足りなくなってきています。不快の負のサークルにしても、快の喜びのサークルにしても、サークル(循環)ということは、そこで閉鎖された世界を意味します。私が感じたのはまずその1点、それからもう1点は、好きなこととかやりたいこと、というのは自分が今まで経験したこと、あるいは何かで間接的に知っていることだけに限るのではないかという点です。反論として、それならば、できるだけいろいろな人と交流して知識を広げればいいではないか、現在はインターネットで情報を検索するのは容易だ、といいます。しかし、いくら情報量はたくさんあっても、実際私たち一人ひとりがアクセスできる情報は数が知れています。検索するにもキーワードを知らなければできません。仕事一つとっても、自分が思い浮かべるのは、過去に自分が知っている職業です。起業する人は、自分の好きなことからアイデアを発展させるのが原則らしいです。そして起業の成功は、着眼点のユニークさとも言われます。人が今まで思いつかなかった分野、ニッチな分野を探り当てる能力は、自分が好きなこと、やりたいことをやっている人がアンテナを張り巡らすことで身に着くといわれます。しかし、そうはいっても、過去の自分の体験にこだわっている限り、新しい発見は望めないように思います。判り易い例えでいえば、外国に行った先で今までに食べたことのなかった料理が出てきたとしたらどうでしょう。好きか嫌いか、それすらも多分わからないのではないでしょうか。まず食してみて、そこから始まります。好き、きらい、あるいは自分がやりたいことにあまりこだわりすぎると、いつの間にか自分の嗜好、体験だけに裏づけされた過去情報の世界にどっぷり遣ってしまいます。ではやりたくないこと、あるいは嫌いなことまであえて手をつける必要があるのでしょうか。 私が思うに、それでストレスを感じるくらいなら、やらない方が無難です。しかし、このやりたいこと、やりたくないこと、の狭間を埋める言葉があります。 それが、「好奇心」と言う言葉です。好奇心というのは、自分が体験していない未知の分野に対して抱く感情です。 子供から大人まで、年齢や性差、そして個人の体験、環境すべてを超越した感情ともいえます。愛だとか、優しさを人に与える、とか徳を積む、いいことをする、という言葉には、何か自分や他人に対してのこだわりが見え隠れしますが、好奇心に関してはそれがありません。これは多分直感というところに結びついて、自分を手放したところでも引っかかる言葉のような気がします。
February 27, 2006
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今日は「嫉妬」がテーマです。私は今まで人に嫉妬をあまり感じるタイプではありませんでした。ところが最近私はこの嫉妬と言う感情を抱くようになりました。困るのは、この感情は自分で「そんなことはない」と否定しても、何かの折に、ふっと感じてしまうやっかいな感情なのです。嫉妬と言う言葉に近いのが羨望と言う言葉だと思いますが、羨望というのは、自分にないものをもっている相手に対する感情です。私の場合の羨望の相手は、女子高時代n運動ができて格好いいクラスメートでした。彼女は実際下級生のファンが一杯いました。お昼休みになると、教室の外には必ず数名の下級生が彼女を一目見ようと集まってきました(笑)が、それはまるで宝塚の男装スターを見に来るファンのようでした(爆)。彼女は私が全く苦手としていた運動能力、それも並外れた能力を持ち、かつ勉強もできたので私にとっては羨望の的でした。しかも容姿も良く、通学の電車では男子からもてまくったそうです。(彼女は後に北大に現役で入りました)。私の記憶にあるのはそれくらいです。嫉妬というのは、羨望に悪意が入った感情のようにも思えますが、私は違うと思います。嫉妬は自分にかなり伯仲した力や、非常に似た物理的環境を持つ人に対して、その人が自分が望むような立場とか結果を獲得することに対して抱く感情です。ライバル意識に近いものですが、ライバル意識ほど相手を客観的には見ていません。ライバルとは自分と同じ土俵にたつ人です。行ってみればスタートラインが一緒で、一緒にかけっこしている相手に対して、あと何メートル行ったら、抜かそう、とかあと半周したら一気にスパートしよう、という自分の勝負の同伴者です。ところが嫉妬の相手というのは、そうとも限りません。何か突然降ってくる感情のような気がします。今自分が時折体験するこの感情は、一体その正体は何だろうと昨日から考えていました。そして今朝オリンピックで荒川選手の金メダルの演技を見てふと思いました。「私は荒川選手には嫉妬しない・・」(爆)。そうなんです。嫉妬は、やっぱり自分と相手がかなりのところで類似点があって、しかも同じくらいのレベルで、でも相手に運が回って自分のところに来ない、そんな図式の上に成り立つものでした。「私に起こってほしいことが起きないで何であの人ばかりに運(良い結果、成功、機会)がいってしまうの?」という気持ちが今の私の嫉妬の正体でした。と、ここまで分析してみて、私の場合、実は嫉妬というのは相手に対して向かっているのではなくて、自分のふがいなさに対する無意識下での非難かもしれないと思います。「ちゃんと努力しているの?運をつかむようにちゃんと周りを見てるの?」という非難です。それが努力と無縁の、例えば恋愛だったら、「何故自分は彼(彼女)を惹きつけることができなかったのか」という答えのない辛い質問が待っています(笑)。私の場合は、自分の内側に向かっていきましたが、それが自分に対してではなく、相手に対する非難になる場合もあります。悪口を言ったり、相手に直接意地悪をする場合がそうです。で、次に考えたのが、この感情は一体なんで私に降ってくるのだろうか、という点でした。その答えは明快でした。自分がまさに過去にやりたかったことを相手が実践しつつあるからです。それは非常に広義でいえば、人の目にとまる、ということかもしれません。何だかんだ、といいながら、私は結構目立ちたがり屋なのかもしれません(爆)。事実こんなブログを書いたり、遺族の会を立ち上げたり(笑)。思えばこの人前に立つ快感をいうのは、やはりアメリカ留学時代で、学校演劇でミュージカルの舞台に立った頃からでした。正確に言えば、その前から下地はあったのです。私はバイオリンを3歳から始めましたが、そういえば・・毎年発表会の舞台で、小さいながら音楽の世界に浸りきってソロで弾いていた、生意気に目をつぶって弾いていた・・これだったのか、私のルーツは(爆)。さて、こういった嫉妬の感情は、自分の意と反することへの不快感のあらわれです。感情の矛先が相手であれ、相手の成功そのものであれ、あるいは出来なかった自分に対してであれ、そこには、やっぱり「為してやる」という気持ちがあります。もりけんさん流にいえば、自分が原因(=主体)となって物事を為してやる、という気持ちです。つまり、自分というものにこだわるから、言い換えれば自分の能力、環境、運というものにこだわるから、この感情があるのでしょう。過去に何度もこのブログに書いているとおり、私は為すことへの自分、つまり自分を主体とすることの反対側、すなわち、為すことを辞めて流れにしたがう、他力に生きる、ということを目指そうとしてきました。ところが実際の私の感情はまだまだそこに至っていなかったのです。まだバリバリの原因派、しかも社会と言うものを取り込んだ「上位」の世界に対してまだまだ手放せない自分がいました。2月14日のブログで告白して離れていくはずだったのに・・(爆)。しかし、こうやって考えると、こういう無意識の感情は大事です。自分が気がつかない意識で、今の自分の状態を教えてくれます。今回もまた、私はしてやられました、何にって、さあ、何でしょう、しかし、「してやられた」、と言う感情は残ります(爆)。ほらみたことか、お前はまだこだわっているぞ・・と。こだわりはそう急には抜けないものらしいですが、こうやって徐々にならしていくしかないようです。360度の視野を持つ、ということは、自分が獲得した視野を一旦忘れる、という作業も入るのだと何となく感じました。そして嫉妬の対極にあるのが、好奇心だと思います。次回から、好きなこと、やりたい事、好奇心といったことを書いていこうかと思っています。
February 24, 2006
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生きる、ということについて考える日々です。何故、そもそもこの話題になったかというと、すでに書いている通り、もりけん(森田健)さんの本を読んでからのことなのです。彼は高校生のときに、物理の方程式を見て、この宇宙の法則を作ったのは誰だ、という問いを持ちました。そして同時に自分はどこから生まれてきたのだ、という問いも芽生えました。彼は講演会の冒頭、「私たちはみなしごだ」と言いました。そしてそこから自分は誰?自由になるには?という生きることに対する根源的な問いを問い続けてきた人です。彼は大学を出てからいったんは生活のために、この問いをあきらめ富士通に入社しますが、ある日突然会社を辞めてしまいます。そしてそこからまた問いが始まるのですが、そうしながらも、彼は自分で会社を設立し結構それなりに成功もしています。そして30代後半くらいだと思いますが、現在の「不思議研究所」を作り、世界のあらゆる不思議現象を追求しています。彼が不思議現象を追求するのは、高校生のときに抱いた、誰がこの宇宙を作ったのだろう、という疑問の解明のためです。すでに科学で証明されていることではなく、証明されない非科学の世界にこそ、この疑問を解く鍵がるのではないか、と超常現象を自ら科学的に解明しようと、超能力者に会いにいき、そこで実験をしたりします。ところが、これらをあくまでも科学的に解明することに行き詰まりを覚え、前にここでも紹介した中国の生まれ変わりの村の話しから、魂に性差はないのでは、ということを実践するために、なんと女装をして1ヶ月間通したのです。そしてその時自分の中に芽生えた女性性から、非科学的なことを受け容れる、という視野を手にいれて、彼は占いを勉強するようになります。そしてその占いの結果、億単位を株から儲けてしまったのです。普通、こういった私は誰?という問いを持ち続けている人たちは、どちらかというと仕事もしなくて考えてばかりいる人、というイメージがあると思います。そして人とも疎遠になり、経済的にも行き詰まり・・というパターンを想像してしまいますが、もりけんさんの場合は全く逆です。むしろ会社経営は順調で、不思議研究もそれなりに充実して本まで出していますし、講演会をすれば大勢の人が参加し、まるで絵に描いたような社会の成功者の感じがします。(しかし、初めて女装になったとき、彼は「自分は何をやっているんだ、堕ちるところまできてしまった・・」と思ったそうです。)ちょっと彼のことを紹介しようと思っただけで、こんな量になってしまいました(笑)。彼はいわゆる精神世界の人たちのように、自分の夢、理想を大事にしてそれを達成することや、人のために役立つ人間になろうと努力することを、「自分を原因」とする人たちと意味づけ、それに異議を唱えます。あくまで自分が・・・と強調することに反発するのです。すでに今ある自分が完成した自分だ、だからこれ以上何の努力が必要だろう、無駄な努力をやめて、ハンドルを手放そう、というのが「ハンドルを手放せ」(講談社発行)に書かれています。私はこれを読んで、3回目の目からうろこでした。ちなみに最初は、中村天風の「道を拓く」、そして2回目は飯田史彦の「ブレイクスルー思考」でした。そして多分これは三度目の正直で、もう落ちるべき「うろこ」はないようです(笑)。何故延々とこんなことを書いているかというと、確かに目からうろこではあっても、まだまだ今の私は、私は誰?自由になるには?という問い(これを彼は下位の問いと呼んでいますが)に関して、「問いありき」という状態にはなれないからです。つまり、彼のようにすべてを投げ打ってでも、この問いに果敢に挑戦しよう、というレベルまで来ていないのです。然しながら、「生きる」というテーマについて何故生きているのか、自分を手放す(=ハンドルを放す)ということはどういうことか、ということには非常に関心があります。それを自分なりに追求していくことで、何か今までの自分とは違った視野が開けたり、もっと違った人生さえ送れたりするのではないかと思うからです。ちょうどもりけんさんが自分でも望んでいない良い運勢を得てしまった(と、彼は自ら語っています)いうように。つまり、今まで自分はこうだ、と思っている自分そのものが、まだまだ360度のうちの45度くらいで、実際には残る115度の自分もあるのではないか、だったらそれを体験してみたいと思うのです。最近歌を始めるようになったのは、もともとやりたかったせいもあるのですが、こうやって自分の身体を使って自分が楽器になる、という体験を極めて行きたかったこと(今までにはない体験です。単にカラオケで上手に歌を歌って、というのとはちょっと違います)が大きいのです。そしてできれば今まで自分が体験していないような世界にも踏み込んでみたい、とふつふつと思うようになっています。それが何になるのかはまだわかりませんが、そのためにも感受性とか直感を大事にしたい、そう思っているのです。(ふう~、整理できた)なので・・今は自分のことで精一杯で、心の再生プロジェクトが暗礁に乗り上げているわけなのです(爆)。
February 23, 2006
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そういえば・・このブログのカテゴリーも最近は「最近考えること」が続いています。そうなんです、だって再生プロジェクトのほうはぜんぜん進んでないんだもん(爆)。去年の今頃の私だったら、もういらいらの絶頂期にあって(笑)、何とかしなきゃ、何かしなきゃ、と焦っていたはずです。ではなぜ今こんなに開き直れるのか・・それはやっぱり、根源的な問いが大事だと気がついたからです。もりけんさん(森田健さん)の本を読み出してから、大きく気づいたことは、この何十年間というもの私は、自分が誰?、自分は何で自分なのか、とか自分の存在って何?とか、何で自分は生きているのか?といった問いを全く持っていなかったという、ことです。自分は一人で生まれてきて、死ぬときも一人のはずなのに、この自分というものの正体をわかろうともせず、どうやってこれから生きるのか、というhow(いかに)を追求する一方でした。ですから、そのハウにあたる行動は常に変化こそすれ、根源的なことがおいてきぼりになっていました。しかし、さてこの年になって(笑)、自分って誰?自分だと感じるのはどの意識、と聞いたとき、まさに冷や汗ものでした。直観力はなんとなく自分に固有の意識だとはわかります。では、自分の性格は、というと結構変わっているところがあるんですよね。昔はわがまま放題で、かなりひんしゅくを買っておりました。が、人並みに家庭を持って人並みに苦労するうちに、気配りだとか、配慮という美徳が身についたようです。しかし、これもなぁ、何か自分の本当のところとは思えないところもあって、これ自分じゃない、と思っているふしもあるし。では食べ物の嗜好、これは環境とか文化によって違ってくるだろうから、自分固有のものでもなさそう。で、音楽の好み、これもそれに近いのでしょうか。と考えてくると、一体どこからどこまでが、自分なのか、わからなくなってきました。ただ言えることは、私はこういう人間です、と性格、価値観をがんじがらめにすることはあまり楽しくなさそうだ、倫理観を持つのは人間として必須だとは言われているが、それにとらわれるあまりに、人間の暗の部分を否定してしまうことは生き方を狭めることになりそうだ、ということです。なんでもあり、360度の視点を持つ、ということを受け入れて、そこでこれから自分が何を感じていくか、きっとその感じる主体が自分なのでしょう。今日はとりとめがありませんが、これからしばらくは、こんな感じになるかもしれません(爆)。
February 22, 2006
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明日に続くはずの内容が3日持ち越しになりました(笑)。何か新しい展開を考えたり、何かを始めようとするとき、思いもかけない流れに出会うときがあります。私はこの3年ほどにそういった体験を何回か味わうことができました。ところが、その流れが順調に行ったかというと、そうではなく、自分の思い込みとほぼ反比例して、物事が自分の予想した流れとは逆の方向に向かいました。大きな波に乗って、その波の頂点に立ったと思った瞬間に自分はどんどん波とともに岸に流され、あの頂点に立ったときの自分は何だったんだろう、と振り返る感じでした。私はサーファーではないので、波乗りの感覚はわかりませんが、結局、その頂点から波に乗るということは、別にその波の高さの問題ではなく、いかに波に乗っていくかが問題だと思います。波の高さだけに焦点を置くと、もう終わった・・と思います。しかし、大きな流れや驚くような展開ばかりが人生ではありません。振り返れば、何かこういった展開を体験することが人生の醍醐味、人生の生き甲斐につながると思っていました。勿論新しい人との出会いは新鮮です。いろいろな場を求めることも楽しいです。しかし、今の私は日常生活の中で、自分が生きるということを模索していくことが何か大事なことではないか、と思うようになっています。今自分が置かれている環境で、いかに自分の自由度を上げていけるのか、そして楽しく生きることができるのか、それはいかに=ハウという生き方を追求するのではなく、瞬間瞬間の自分の感覚を味わい、楽しむということではないか、と思います。今の私は昨年に比べると表面上活動的ではありませんが(いやそうでもないか・・・爆)、何かを為そう、というより、自分の周りにあるものすべてを受け入れよう、という方向に向かっていることだけは確かです。そしていつも新しい視点を持とうとしています。
February 21, 2006
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ジャンヌ・ダルクの続きです(笑)。自分が何かに操られているような、あるいは目の前に赤い絨毯(じゅうたん)が現れて自分を導いている、そのような、自分以外のものの力で物事が進むときがあります。そういった機会はそう多くはないと思いますが、何かそこに必然性を感じて、自分はこのために生きてきたんだ!とさえ思う瞬間があるのです。自分のイメージしていたものが次第に具体化されていき、しかもそれがどんどん展開していく、あるいは思いもかけない人たちとの出会い、こういった体験は高揚感を生みます。これなのよね、これが人生の醍醐味よね、という瞬間を味わうのは人生でもっとも至福のときです。ところが・・私の場合、こういった展開はなぜか長続きしませんでした。当初は人が来てくれさえすればいい、と思っていたケアの会がそれなりに続くうちに、内容や規模を充実させていきたい、と思うようになり、自分なりのビジョンを描き出したとたん、なぜか勢いが停滞してきたのです。これは昨年の心の再生プロジェクトもそうでした。なぜか「よし、やろう」と思い込みを入れたとたんに、風船がしぼみだしてしまうという感じになりました。これはたまたま私の場合です。人によっては、そこをこらえて色々な策を講じ、努力を重ねて踏ん張り、新たな展開を見つけるでしょう。いや、それが社会人として、大人として当然のように思われています。しかし・・です。私のケースに関して、何故このようになったのか、考えてみました。それは私の性格によるところも確かにあるとは思いますが、気持ちを入れ込んだとたんに物事が急にしぼんでしまう、あるいは自分の意に反した方向に行ってしまうということはないでしょうか。自分が気持ちを入れれば入れるほど、物事が空回りしだす、あるいは内部分裂のような感じになる、当初の目論見とは全く違った形になっていく、そんなことがないでしょうか。これは多分、気持ちを入れ込みすぎていることから来ると思います。自分が頑張ることで、あるいは自分のエネルギーをそこに注入することで、何かより大きな結果が期待できる、と信じていたからだと思います。これが、自分は原因で物事がすべて自分の意図するとおりに動いていく、という考え方です。これは今の社会では当たり前のことといわれています。勉強をしなければいい点数は取れない、だから勉強しなければいけない、大人になるためには、いろいろな苦労をしなければならない、だから辛いことをできるだけ我慢して、忍耐することが良い、というように、努力、反省、忍耐は人生にとっては必要不可欠のものである、という考え方です。一方では、夢や理想、願望という「楽しい」とか「快」の感情に着目して楽しく、自分の夢を実現させよう、とするアプローチもあります。が、これもまたある意味、自分が願望や夢、理想を持てばその分幸せになる、ということで、苦労とか忍耐の逆パターンではありますが、ベクトルは同じです。すなわち、私が何かをすれば、それが結果となって自分に見返りをもたらす、というアプローチです。私は今までこのアプローチを散々踏んできました(笑)。つい最近までは、苦労、修練、忍耐を良しとする方でしたが、夢を実現する、というアプローチも取り入れました。でも結果は結局一緒でした(爆)。さて、ではどうすればいいのだろうかと、戸惑う私がいました。・・・明日に続きます。
February 16, 2006
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一夜明けて・・・なんとも意味深なタイトルです(笑)が、昨日のコクリを受けての話です。本人としてはかなり言ってしまった、と思っていますが、行動的にはすぐには結び付けないのが悩みです。本来であれば、私が今所属しているいろいろな団体に、退会届を出して、かつ、今自分が運営しているケアの会でも解散宣言をすべきところです。ですが、行動を起こす前に、まず自分の中で解決しなければならない問いがあるのです。それは、こういった上位(社会を良くする、地球を考える、世の中、人のためという個よりも全体的な目標を掲げる意識)の活動が、何故こんなにも自分に違和感を運んでくるのか、そしてそれをきちんと、上位の活動をする人たちに伝えられるのか、ということです。それを抜きにして、一方的に活動停止宣言をしたところで、私自身も何かすっきりしないし、宣言された相手にすれば戸惑うだけだと思います。それを整理するには、まず自分と社会、あるいは個と全体、自分と他人との関係性を再考することが必要だと思います。私としては、直感がそういっている、というのが本当の答えで、それで済ませてもいいかな、とも思っているのですが(爆)、一応今後のために(意味不明)整理しようと思いました。地球環境、政治、労働問題、紛争解決、人権問題、人口、食料問題など、いわゆる上位のテーマには事欠きません。例えばある人が仕事を定年退職して、何かボランティア的な活動をしようとしたら、自分の周りにあるありとあらゆるものがその取っ掛かりになると気づくと思います。極論ですが、自分をとりまく外側(物理的な環境、家庭や職場、学校の中での対人関係)には、問題とならないケースを探す方が難しいほど、いろいろな問題があります。多分一人の人間が最低一個以上の問題テーマを抱えているはずです。その数多く、いや無数といっていいほどの問題の中で、特に自分が関心を持つもの、あるいは自分の意に反して体験してしまった問題、というのが、多くの場合、その人が上位の問題に係わる方向性を決めているようです。私の場合はパートナーの過労死でした。ある意味わかりやすいです。自分の例で恐縮ですが、私にとっては労災申請というステップが事の始まりでした。申請をするためにある労組系の支援団体に相談に行き、そこで家族会を知りました。そして家族会の人たちとの交流を通じて、複数の支援団体を知り、勉強会に行ったり、相談活動を手伝ったりしてきました。そんな活動をしているうちに、そこに集まる人たち(遺族)の苦しみが共通の体験をわかちあうことでいやされるというグリーフケアの概念も知りました。何か人のために役立ちたい、世の中に何か役に立つことをしたいとかねてから思っていた私は、この過労死の分野でこそ、これが可能になると確信して、グリーフケアと過労死の予防と二大テーマをリンクさせた活動をしようと、ケアの会を2年前に設立しました。ケアの会の設立に関しては、すべてのことがまるで一点に集約するかのごとく、動いていきました。必要なときに必要な方と出会っている感覚がありました。それがまた余計、私に使命感というか、これが運命なのだ、と思わせることにもなりました。そうです、確かにこれは運命どおりでした。このときの私は、自分の頑張りもそうだけれど、何か自分とは違うものが私を操っているのでは、と感じたくらいの高揚感を持っていました。そしてケアの会が始まって毎月の例会がスタートしていきました。第1回の例会は自分で言うのもなんですが、大盛況でした。また自画自賛になりますが(爆)、この例会に講師として呼ぶ方たちは、この過労死の分野では、実務経験と知名度、そして専門的な能力と言う点ではトップレベルの方たちばかりでした。こういう方たちの話しを聞きながら、過労死というのは防げないはずがない、という確信が強まりました。そしてそれを発信するのは、私たち実際に悲劇を体験した遺族が一番ふさわしい、とも思いました。私たちの話しに耳を傾けて欲しい、そして社会世論全体が、過労死予防に向けて目をもっと向けてほしい、そのためには、街頭活動もやりたい、何か人目を引くようなイベントもやりたい、そういった気持ちが段々強くなりました。私はまさにこのときジャンヌ・ダルクと化していました(爆)。続く
February 15, 2006
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今日はバレンタインの日です。バレンタインは女性から男性に愛の告白をする、つまりコクリの日です(笑)。であるならば、今日は思い切って、私もコクリます(爆)。もったいぶった言い方ですが、要はこれからの自分の活動に関して、やっぱり思ったことをコクろう(というより表明ですね)と決心しました。私は最近自分の中身を充実させることよりも、それを放り出す方向にベクトルが向いています。自分を空にすることで、自分はそもそも誰なんだろう、という問いを発し続けたいと思っています。生きるということは、毎日スタートラインに立つこと、いつも360度の視点を持つことですが、ここに大きな前提があります。それは自分がこの世に「おぎゃあ」と生まれて瞬間に運命はすでに決まっている、ということです。自分がどの場所に、どの親の元に生まれ、どのような環境で育てられ、そしてどんな人たちと出会い、いろいろな体験をしていくか、それはすでに決まっている、そしてそれは自分では大きな変更をすることができない、という前提です。自分は人に対して原因となって他人に影響を与えることはできるけれど、自分で自分に影響を与えることはできません。自分の中身をどんどんつめて、一生懸命努力して頑張って自分が原因となって物事を動かそうとしても、大きな運命の流れを避けることはできないのです。スポーツの世界を見てもそうです。たった5回目の滑走で金メダルをとってしまった選手がいました。練習を入れて5回ですよ!そうかと思えば、優勝候補の選手がまさかの予選落ちとか、失速とか、こういった話題には事欠きません。ただ、これから何かを始めようとする人に向かって、貴方の運命はもう決まっているのだから、努力したって無駄です、とは言いにくいですが(苦笑)。一生懸命頑張っている人、歯をくいしばっている人、孤独と闘いながら目標に向かってチャレンジしている人、そういう人たちは確かに美しいです。以前の私もある意味そうでした(別に美しいと言うわけではなく・・笑)。しかし、そうやって頑張れば頑張るほど、なぜかどんどん自分の思いから離れていくことが多かったのは事実でした。一方、自分が本当にやりたいことは、努力とか頑張るという言葉とは無縁の世界でした。学生の頃、私は英語が好きで、英語さえ勉強していれば幸せでした。今思うと中学の教科書を丸暗記して、そしてそれをノートに何回も書き込むというなんとも効率の悪く、しかも労力がいることを嬉々としてこなしていました。自分がやりたいことをやるときって、こんな感じなのだと思います。ここで私がいいたいことは、運命は決まっている→無駄な努力、頑張りはやめよう→自分の運命を受け入れよう→そして自分の生きる意味を考えよう、という流れに自分の思考が動いてきたということです。そして私にとっての自分の生きる意味とは、努力とか頑張りとか人のために役立つとか、自分が100%から400%になって人に与える、という自分を濃くする方向ではなく、逆にもっと自分を軽くしていく生き方を模索することです。その意味で、運命は決まっている、という前提がとても重要です。・・で、話しが長くなるのですが、コクリはこれからです(爆・・・いや真剣)。私は今までパートナーを過労死で亡くしてから、過労死関係の活動や、自分でもケアの会を立ち上げ、過労死を社会問題として考える運動に係わってきました。しかし、最近、自分たちの活動によって社会に影響を与えよう、という姿勢についていけなくなっています。結果としてそれが変える、という考えはいいのですが、社会を変えよう、とスローガンを掲げる活動に対して引いている自分がいます。自分がこういう状態にある、ということを訴えていった結果として、世の中の意識が変わることについては異論はありません。しかし、逆に世の中を変えてやろう、というところから出発する活動は、何か違う気がします。なぜか・・と今は聞かないでください(笑)。まだ自分で分析がすんでいません(爆)。ただ近いうちに必ずこの回答は出すつもりです。ゆえに・・です。世の中からこういった現象をなくそう、という活動に関して、私はこれから手を引くことにします。これがコクリです(爆)。それよりも、もっと自分にわがままになって生きていきたいのです。これが本心です。人のためにとか、世の中のためにではなく、自分の視点が常に360度ぐるぐる回って、自分の外側をしっかり見て、武蔵のように鳥の声に耳を澄ませて生きていきたいのです。他人のこと?社会のこと?そんなことはどうでもいいです。言ってしまいました(滝汗)。そして第二のコクリ、運命は決まっている、ということを私はやっぱり周りの遺族にも少しずつリークしていきます(爆)。正直なところ、家族を亡くして間もない人に向かって、「貴方のご主人(家族)がこうやって亡くなることは決まっていたのです」と、今の私はとても言えません。しかし、こう考えることで随分気持ちが楽になる部分はあると思います。遺族の方にとって、「運命は決まっている」と言う言葉は禁じ句です。しかし、私はここから本当のパラダイムの転換が始まると思います。それを受け容れて、さてこれから私はどうするか、という問いが真剣味を増すからです。私は私の道を行きます。それが他の人から見たらどう思われようとも。しかし価値観が違ったから、と宣言をわざわざする必要もないかと思います。自然に任せていくうちに、何とかなっていくものなので。
February 14, 2006
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オリンピックが始まりました。注目はなんと言ってもフィギィアスケートでしょう。日本はこの分野では世界のトップクラスだそうです。その中でも人気が高いのが安藤美姫選手だと思いますが、彼女がオリンピックに出場すると決まったとき、「身体を絞り込んで頑張ります」とコメントをしました。身体を絞り込む、この表現が何となく気に入っています。それは今自分の身体に課している目標でもあるのですが(爆)、これとは別に精神面を絞り込むということを考えていました。私たちを取り巻く社会では、努力、頑張り、修練、と言った言葉が大好きです。ついでに、回りに対する気配りやら、人への配慮といったスパイスを加えて、できるだけ自分の中身を一杯につめていく作業が、年齢を重ねることの美しさだと教えます。挫折、苦悩、悩み、といった思い通りにならないことは、今の自分をもっと成長させるための貴重な糧だとして、それをクリアすることが大事だともいいます。結果として、私たちは日々何かしらの荷物を背負いながら生きていくことになります。いみじくも徳川家康は、人生は重荷を背負っていくものだ、と言いました(これは小学校の卒業式に担任の先生が教えてくれました)。こういった努力の証、涙と汗の分だけ、人生は美しく輝くと私は今まで信じてきました。しかし、このような自分の中身を濃くしていく生き方は、なぜか楽しくありません。じゃあ、楽しいことを探そうかといろいろ過去の楽しかったことを思い出して、その感情に浸ろうとしましたが、それでも一瞬をすぎると、もとの中身一杯の自分に戻ってしまいます。いろいろなセミナーに出ては、勧められるやり方を試しましたが、いまひとつでした。その原因はなんだったのか、それが最近ようやくわかってきました。自分が主役で運命を切り開いていく、と思っていたからでした。つまり運のよしあしはすべて自分に原因がある、と思っていたからです。例えば試験の結果が悪ければ、自分の努力が足りなかった、頑張りが足りなかったのは、動機付けが足りなかった、あるいは、自分のことばかり考えて他人のことを配慮しなかったからだ、もっと人のために何かを為していれば違った、感謝の気持ちが足りなかった、エトセトラ、エトセトラです。つまり、自分が何かをしていなかった(努力、頑張り、感謝、人への気配り)から、こういう結果になった、という図式だったのです。よくスポーツで負けてしまった選手が、「すべて自分の責任です」というコメントをします。以前オリンピックの柔道で主審の誤った判定のためにメダルを逃した選手がいました。そのときの彼のコメントは、一言「自分の責任です」といった意味の言葉だけで、悔しそうにその場を後にしていきました。何かそういう自分にすべて背負ってしまう人生を潔く、格好いい、とする風潮が回りにないでしょうか。私は当時、ああ、確かに潔い、と思いましたが、なぜかすっきりしませんでした。言いたいことをぐっとこらえるのは人間的に成長した証、大人だ、と言われますが、ここまでしなくても、と思ったのです。あれを見て、柔道をやりたいと思った子供はおそらく少なかったと思います。楽しさも、充実感もなかったからです。何よりも生き生きしていませんでした。自己犠牲、自己管理、自己規制、そんな言葉が当てはまる世界は何となく重たく、生きづらいように感じます。精神的に絞り込む、というのは、こういった重さを払いのけてしまうことに繋がるのではないか、とふと思いました。
February 13, 2006
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ふと考えています。今、私はこの瞬間を本当に生きているのだろうか?と。前回「あるがままの自分」という題で書きましたが、自分の中にあるダークサイドを含めての自分をそのままオーケーと認める、ということは、また、自分の中にある未知の感情や感覚もまた認めるということでもあります。自分を見つめるという作業は、一般的には過去の体験にさかのぼって、その時点での自分の感情を探し出すものです。しかし、私たちには未来があります。過去も大事かもしれませんが、自分がこの世に誕生してから、死というものを迎えるまで、今という時点を基点としてみると、過去も未来も価値的には同等です。人生40代から50代になれば、過去より未来の時間のほうが短い場合もあります。よく人生をマラソンにたとえて、40代から50代は折り返し地点だ、という表現をする人がいます。折り返すとちょうど風も向風から追風になる、だから今までの人生の経験をベースに、あとは全力疾走しなくてもできるだけセーブしていく人生でいい、いわゆる残りを有終の美を飾るくらいの気持ちで穏やかに過ごすのがいい、そんな考えの方も多いと思います。そうでしょうか。人生って半分くらい過ぎたら、あとは前半の貯金をできるだけ減らさないように、うまく制御していくのがいいのでしょうか。たった一つの視点、生き方、価値観、倫理観で自分を縛ってしまうと、その時点で、そのたった一つの価値観をベースにその人は自分を律して生きていくことになります。たとえば、正しく生きる、とか人のために役立つ人生を送るとか・・・しかし、こうやって価値観を固定化していくことは、未来に対する可能性を狭めていくことではないか、と感じています。一つに縛られる、ということは、目の前に様々な選択肢が来ても、相変わらずその一つにこだわる、ということです。それは自分の過去の軸をベースにして生きていることにならないでしょうか。今を生きるということは、自分に対して未知の感覚、未知の分野、今までまったく思いもしなかったこと、という未来を見つめて、それを受け入れるということではないでしょうか。未来に対してあくまでも貪欲に果敢に向かっていく、そのことが今を生きることではないか、と思います。たとえば土の中から芽を出す植物、生まれてまもない動物の赤ちゃんには生命感を感じます。生き生きとした活力が感じられます。彼らは、自分が何者であるかを知りません。しかしとにかく土から出てくる、とにかく歩き回って動いてみる、そうやって植物や動物は育っていきます。私たちも、結局は一緒です。自分は自分のことを知り尽くしている、もう自分の人生は残りものだ、という大人には、子供のような活力がありません。仕事、権威、一定の収入、社会的地位は得たかもしれませんが、日々これらのことに流されていくうちに、何かを失ってはいないでしょうか。今日はなんとなく、そんなことを考えていました。
February 12, 2006
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あるがままの自分ということをちょっと考えていました。あるがままの自分、というのは一体どういう状態なのでしょうか。一番自分らしい自分、これはもちろんあるがままの自分です。しかし、人間はいつも、自分らしい自分でいられるわけではありません。仕事をしていれば、必ずどこかで折り合いをつけなければならない事態が出てきます。人間関係でも、いつも自分が思うままに行動していればおのずと嫌われ者になりますから、ある程度人間関係をスムーズにしようと思う人は、かなりの部分を自分に折り合いをつけて、意に沿わないことも我慢していくようになります。それを人は社会に適応することだ、と言い、大人になることだ、と言います。最近、本音を言わない人が増えた、という話しを聞きます。本音にあたる部分がない、と言う人もいますが(笑)、本音を言うとその場の雰囲気を乱すから、とか、せっかくうまく行っている関係に水をさすから、という理由で、本音を呑み込んでしまう人が多いという話しです。確かにそれは当たっているようです。そういう「いい子」あるいは「いい人」という人たちは周りには多いです。そういう人たちにとっての、あるがままの自分というのは、本音を言いたい自分を指すのでしょうか。だったら、その人たちは、いい子、あるいはいい人という仮面をかぶっているのでしょうか。私はあるがままの自分、というのは、この仮面をかぶっている自分も含めるのだろうと思います。会社で同期だった人間が、自分より早く昇進したようなとき、その人間がたまたま友人であった場合など、「お目でとう」と顔で笑ってはいても、「あんた、うまくやったわね、私なんて上司に恵まれてなくて・・」という本音を出す人はまずいないでしょう(笑)。あるいは、「くそっ」と一瞬嫉妬してしまうかもしれません。この嫉妬とか、羨望という感情は社会的、倫理的にはまずいものかもしれませんが、本人が感じる限りそれは悪でもなく、善でもありません。単なる感情です。あるがままを認めるというのは、友人の昇進を本当はねたんでいる、という自分のダークサイドの部分も認める、ということ、そしてそれを「おめでとう」という仮面で隠していることも合わせて認めるということだと思います。前にこのブログでも書いていますが、世の中は陰と陽、プラスとマイナス、善と悪、正と邪でできています。光は影がなければわかりません。善という行為は、対極にある悪という行為を通して理解できます。正義という言葉も、不条理という世界があるが故に成り立つ概念です。ということは、私たちの心の中とて同じです。いつも、善人でいよう、としても、邪念、欲望、ねたみ、嫉妬というマイナスの感情は入ってくるはずです。そういった感情のほかにも、絶望、悲嘆、無気力、といった為さざる感情もあります。そういった感情は確かにいつも占めていれば、良くないかもしれませんが、私たちの中にある多様性を育むためには必要なものです。多様性、心のひだ、様々な視点、これらはちょうど自分を包む感情のじゅうたんのようなものです。生きるということは、そのじゅうたんをより繊細に、より美しく、そしてより厚くしていく行為のような気がしています。悩んでも、考えあぐんでもいいと思います。何で自分にこんな感情があったのだろう、と驚いたり、あるいは自分の中に思わぬ「魔」をみたとき、そんなときに戸惑う必要はありません。ましてそれをいけないことだ、と自分を責めたり、押し込めたりする必要もありません。ただ、あるがままにそれを認めること、そして自分がどんな人間かわからなくなってしまっても、その混乱すら、多くの視点、多様性に貢献している、そう思うことで少し、楽になるのではないでしょうか。むしろ、いつも善人でいる、あるいは一定の価値観を持ち続ける、というスタンスは、ものの見方を狭めてしまうような気がしています。まずは、今の自分のマイナスの感情、ダークサイドの部分を感じてみることです。その上でそれを認めてあげれば、人を安易に非難したり、自分の考えを一方的に押し付けることは段々なくなるのではないかと思います。
February 10, 2006
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私はどうも落ち込みやすく、かつお調子者のタイプなようです(笑)。人から見ると、一貫性がなくて、物事に縛られるのが嫌いで、少しだけ浮気っぽくて(爆)というのがどうも、一番楽な私のようです。ところが今までを振り返ると、表面上は自分は真面目でこつこつと努力をすることに意義を感じて、人には誠実で、社会の規則もきちんと守って・・というタイプの人間、よくある日本人の典型に入るように自分を創ってきたような気がします。典型に入るように創ったということは、無理に合わせてきた、ということです。私は今の会社に20年近く勤務しています。職種は翻訳担当ということですが、普通この年数勤め上げてなおかつ、途中で専門能力を付けようと税理士試験までチャレンジして2科目合格しているのですから、何らかの役職をもらってもいいのですが、私は今も平社員です(笑)。そしてそれに何の抵抗もありません。もともと昇進しようという意思がないのです。昇進するということは、会社にしてみれば報酬を余計に払うということですから、当然その見返りを求めます。営業マンだったら、売上を伸ばす、事務職であればこなす業務量を増やす、という具合にです。私はその見返りのために働くというのが嫌でした。それにこの会社に勤め始めていたとき、私にはまだ幼稚園と小学生の低学年の子供を抱えた共働き主婦でしたから、仕事は自分の能力の70%までしか割かない、と決めてやっていました。その後子供たちも成長して、今はパートナーもあちらの世界に行ってしまったので、仕事ばりばりにやってもよさそうですが、それでも前のスタンスとはちっとも変わりません。これは、その状況がさせているというより、もともとのポジショニングがこういう考えなのです。仕事をやりながら経験を積んでいく、という考え方もあります。それはそれで私は否定しません。ある時期はそうしなければならないときもあります。しかし、私は基本的には浮気性なので(爆)、一つの色に染まりたくありません。かっこよく言えば、いろいろな視点を持ちたい、いろいろな経験をしたい、いろいろな人と出会いたい、ということだろうと思います。なので私は多分会社でははみ出し者で、人から見ると要領がいいけれど鼻持ちならない、と非難されるタイプだと思います。先日、例の緊急事態のことである占いに行ってきました。(私は占い大好き人間です)その占い師によれば、私の性格は明るい、要領がいい、という接客業とか芸能界に向いているらしく(あのう、外見とかタレント性は別です)、今の仕事は何故就いたのでしょうね、という感じでした(大笑)。そこで納得しました。こつこつと努力して、一生懸命働いて残業して上司の評価を期待するタイプの人たちにとって、私のような存在は天敵なのだ、と。(爆)さて何でこんな話しをしているかといいますと、私が一番私らしい、と感じるところは何か、ということを考えたかったのです。こつこつと一生懸命に目標を決めて努力していたとき・・それが達成されたときだったろうか、それとも本当に思いもかけない出来事に翻弄されていたときだろうか、答えは後者でした。私が今でも自分の経験の中で一番楽しかったのはアメリカ留学、そして王様と私で役をもらって舞台に出たときです。アメリカ留学は当時結構倍率が高かったAFSという奨学生試験を受けたのですが、そのための勉強はとても楽しかったのです。それに舞台に出たときの練習もまた楽ではありませんでしたが楽しかったのです。そこには何か面白そうなことがあるからやってみようかな、という好奇心とちょっとやってみて面白い、とはまっていくという流れがありました。それ以降歯をくいしばって何かを達成しようとすればするほど、結果は散々でした(爆)。そして反省を繰り返しても結果には結びつきませんでした。大学受験ですら、前の日にたまたま目を通したところがばっちりと出たおかげで、受かったくらいです。こうやって考えると、私の場合、緻密なプランニングと計画されたスケジュールというのがもっとも似合わない性分でした。(滝汗)ですからその方向に自分を追い詰めるほど、逃げ出したくなり、結果もその通りだったわけです。ただ、そうはいいながらも結構その場を楽しむところもあるので、それはそれで楽しく過ごしてしまう、というアバウトさもあるし・・私が一番楽でいるとき、私らしい、と感じるとき、これらの瞬間を私はもっと追求して、もっとそれを感じて行きたいと、思っています。そのために直感を磨き、場合によっては、何で・・という行動に出て、ということもあり、だと思います。緊急事態とは、そのことを知らせるための波でした。もう恐くないぞ!
February 8, 2006
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緊急事態を呼びそうな波の気配を感じた昨日でしたが、今日になって救援隊がやってきました(^^); 救援隊と言っても、一時しのぎの救援ではありますが、私にとってはまさに援軍到来、といった感じでした。やれやれ。実は昨夜、色々考えました。今のライフスタイルのベースになっている仕事のこと、その先もろもろのこと・・しかし結局考えれば考えるほど、それこそ先は一寸の闇です。こういうとき一般的に言われることは、想定するケースをすべて書き出して、どう対処していくか具体的につめてみる、というアプローチです。例えば、こういう風な展開となったときには、どういう戦略をとるか、こう聞かれたときにはどう答えるか、そういった具体的なケースを個々に想定して、自分なりに対処策をまとめていくと、心構えができ、なおかつ最悪のケースに備えられるといいます。しかし、今回に限っては私は直感勝負で行こうと思っていました。この秋から私が触れることになった情報(もりけんさんの「私は結果である」)が的を得ているものなら、こんな場合に私がどんなに頑張っても、問題は決して解決しないからです。今回の緊急事態は確かに私が原因となって、引き起こしたもので、それは私にしてみれば結果です。私の行動や考え(それが短期のもの、習慣性あるいは瞬間のものであれ、あるいは私の存在そのもの)が原因となって、それがその個人や組織に一定の行動や判断を促したわけです。今回の大きな波は、自分が原因となって引き起こした結果としての波でした。であるならば、自分が頑張っていけばいいのか、それは違うのです。私はあくまで他人に対して原因にはなるけれど、自分自身に対して原因となることはできないのです。自分で起こした波を自分ではどうしようもできないのです。それこそ流れに乗るしか、もう道はありません。よく悪い行いをすると良くない、という例えで、天に向かって唾を吐くと自分にかえってくる、といいますが、これは悪い行いだけではないような気がするのです。場合によっては自分が為した善すら、自分にかえってきてしまう、という事があると思います。もりけんさんはそれを「作用、反作用」と説明していましたが、これなら納得する事も出来ると思います。一つの作用を私が原因で起こしてしまうと、それは必ず反作用として自分に降りかかる、ということなのだと思います。実は今までこの「自分は結果である」ということがどうしても理解できなかったのですが、少しだけ実感できた気がしました。かなりの危機感を伴ってはきましたが(爆)。
February 6, 2006
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生きることは何だろう、という問いについて諸々書いてきましたが、今ちょっとした波が来ています。この波はかなり強力なものなので、それに潰されるとやばいです(爆)。自分の中では、ベーシックな「生きる」ということにフォーカスしながら、自分をもっと軽くしたはずだったのですが、この波を目の前にして正直途方にくれています。目標は持たないように、そう言い聞かせてはいますが、当座この波を通過しなければいけないことは明らかです。思い切って潜ってしまいたい気分ですが、潜ってしまうと、たぶん浮き上がるまで体力が持たず、そのまま・・という事態になる可能性が高いし・・・しかし波に乗るには、ある程度目測したり、こちらの準備を整える必要もあるし、それはそれで大変だし・・要するにどっちを選択しても大変さは変わらない、そして気楽な現状には戻れない・・いろいろな気持ちが交錯しています。こういった自分の日常の世界でのことに振り回される自分を見て、あらためて思います。そんなに仕事をする、しないということが大事なのだろうか。勿論生活のためには仕事は必要だし、大事だけれど、この波を乗り切りそこなって怪我をしたり、万が一おぼれてしまっても、それが一体この先私に何の意味があるのだろう。360度の視点、あるがままに生きる、これらのキーワードを実践できるか否か、試されるときがきたようです。こうなったらもう何も考えずに、その波を自分に受けた瞬間に感じたとおりに体を動かす、それしかなさそうです。何も考えずに、直感勝負です。武蔵よ、鳥の声を聞け・・・この心境を目指します。
February 5, 2006
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いかに(how)生きるか、ということに終始していた私は、4年前のパートナーの死によって、何で(why)生きるのか、という全く違った視点の問いに出遭うことになりました。何で彼はこんなに突然に逝ってしまわなければなかったのか。それは私にとって一番知りたいことでした。それは運命だった、という言葉で片付けたくないと思いました。それからです。私の生きる意味探しが始まりました。その発端が飯田史彦さんの「ブレイクスルー思考」という本でした。この本を読み終わったとき、大きな価値観(パラダイム)の転換を感じました。それは、生きることの理由、そしてパートナーの死の意味に回答を与えてくれたからでした。その後、参加したセミナーを通じて斉藤一人さんや小林正観さんを知ることとなり、影響も受けました。そのあたりはこの昨年の秋頃までのブログに書いたとおりです。私は魂(身体とは別個に存在する)の存在を信じていますし、転生輪廻もあると思います。このあたりは、魂の存在を認めない、そして転生輪廻はない、とする人とは考えを異にします。しかし、一方で、転生輪廻とか魂の存在を説く人たちがよく口にする、死んだ人たちの魂が自分を支えてくれる、という考えにふと疑問を持ったのが、森田健さんが紹介した中国の生まれ変わりの村の情報でした。この話しは一風変わっているので、その地域性から一種の宗教、あるいは伝説を軸とした共同幻想みたいなものではないか、と思う人も多いと思います。あの世にあるスープの話(それを飲むと前世の記憶がすっかり消える)などその最たるものですから。しかし、魂の存在や転生輪廻を前提にすると、この話しはあながち虚言のようには思えません。そこで村の人たちが語る内容から見えてくる共通の事項が私にとってはとても新鮮で納得できるからです。まず、あの世に行った人たちは前世で自殺をしたり、悪行をしても、それによって罰を受けるということがない、ということ。これは善、悪に価値の差はない、ということになります。そして自分が次の世に生まれることについては自分で決められない、ということ、これは、あらかじめ運命というものが決まっている、そしてそれを自分はあらかじめ知ることも選択もできない、ということです。そしてあの世では男性だった人が、次には女性で生まれてくる、しかし自分というアイデンティは変わらない、という事実。つまり魂には男性、女性の性差がないということでした。善も悪もそのまま認めてしまう、しかも自分はそれを取捨選択できず、何か自分に与えられた役をこなす感覚で人生が過ぎていく、という一連の流れがイメージされます。自分が頑張って、努力すればその結果がきちんとついてくるはず、と今まで信じてきたことがまるで肩透かしをくらうようになりました。しかも、成長とか学びということを人生の意味として捉えてきた私にとって、善も悪も一緒、というのは一番認めたくないことです。ただ、現実を見れば、意外にその多くは努力が報われるのではない、どちらかというと不条理なケースが多いような気がします。それに魂が支えてくれる、という私の考えも払拭されてしまいました。しかし、この全く違う発想の村の話しはなぜか今私をとても惹きつけています。単に新鮮な視点というだけではない、と直感で感じています。今の段階でこうだ、と言い切るのは難しいし、これが真実だ、と胸を張っていえるわけでもありませんが、今のところ私にもっとも腑に落ちるもの、とりあえずはそれを取捨選択しながら、過ごしていこうと思っています。
February 3, 2006
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このブログも開設してから1年を過ぎました。そして開設した当初から私自身は相当変化しています。先日は脱皮までしちゃいました(爆)。今日、明日と自分の思考体系について少し振り返ります。前からごらんの方はかなり重複するところもあるかと思いますが、少しおつきあいください。以前にも数回書いていますが、大学時代に書店で思わず手にしたのが、アンドリュー・カーネギーの「道は開ける」でした。それ以来私はカーネギーとかナポレオン・ヒルといった人たちの成功哲学に興味を持ってかなり読んできました。しかし、それは生きるということとは関連があるようで、実は根源的なところでは違っていました。私が当時向かっていたのは、いかに成功するか、いかにしたら自分の思い通りの人生を描けるのか、という「いかに(how to)」に特化した問いで、生きるということのそもそもに焦点をあてた問いではなかったからです。しかもこういった本には大体同じ内容が書かれていました。成功哲学は、本質は願望実現です。それぞれの著者の体験や語り口は異なるものの、その本質は、(1)自分の願望を確定させ、(2)それに対して潜在意識レベルにまで願望を伝えさせ、(3)その実現を図る、というものです。これら本質の部分に、例えばナポレオンヒルであればキリスト教の倫理観を加え、またある人は自分の哲学を語ります。私が読んだアメリカの成功哲学のバックには必ずといっていいほど、キリスト教の倫理観がありました。多分今書店に出ている多くの本も、その本質は上記の3点に尽きると思います。方法はそれぞれ違うかもしれませんが。で、私がこういった成功哲学=願望実現から得たものはなんだったか、というと、合理的な考え方くらいでしょうか(爆)。それも不思議なもので、一度読んでこれはいける、と感動しても、しばらくすると忘れていて、また何か困ったときにそれを読み返している、という感じで、何か堂々巡りなのです。そこには新しい気づきや発見はなく、ああ、またここに戻ったか、という感じなのです。成功哲学(=願望実現)を紹介する人たちは、成功実績があり、社会的にもステイタスをもっている人たちなので、魅力があります。成功哲学とか願望実現といいながら隙間風の吹く掘っ立て小屋に住んでいる人がいたとしたら、誰もその本は買わないでしょう(爆)。そしてそれらの本は実によくできているので、すぐ試したくなります。実際に試す方法がかなり具体的に書いてもあります。ところが・・・少なくとも10冊以上はこの種類の本を読みましたが、結局は私は変わりませんでした。運勢ということで言えば、この本を読んでいる期間は、財運も仕事運も悪くはなっていませんが劇的には良くなっていません(笑)。この間受験にチャレンジした税理士試験にいたっては10年も続けましたが合格したのは2科目でした(爆)。こういった本に出てくる言葉、「貴方の思い描く人生・・」も実現しませんでした。私の実行した方法がまずかったのか、努力が足りなかった、といえばそれまでです。それを認めたとしても、でも10種類以上のやり方がことごとく不成功というのは何となく納得できません。これが願望実現とか成功哲学に対して私が懐疑的になった理由の一つです(勝手な理由ですが)。そして二つ目の理由、哲学を唱える人たちに対する違和感のようなものです。願望実現の方法論を唱える人たちはすべからく人生の勝者です。そして、「私はとても幸せです、こうすれば貴方も幸せになります」、と心の安息を説く人たち(宗教や精神論の世界の人を含めて)もまた、人生の明暗という部分で言えば、明の部分にいる人たちです。しかし、最近私は、こういう人たちになんだか魅力を感じません・・・一つには、彼らはすでに問いを発することをやめたような気がするのです。何故、幸せな人がいて、一方で不幸せな人がいるか、何故世の中には悲惨な戦争が絶えないのか、何故幸せの絶頂にあって、孤独感や絶望感に襲われるときがあるのか、これらの問いに彼らは多分優等生的な回答はするでしょうが、不幸せ、絶望、孤独、こういった感情を自分からは決して感じようとはしないはずです。それらは自分たちにとっては敵対する感情だから。願望や目標に向かって生きる、人のために生きることを説く人たちにとって、願望もない、目標もない生き方、人のためはおろか、自分のためにも生きることを放棄している人たち、そういった人たちの存在を彼らは受け容れることはできないはずです。それらはすべからく「想定外」の出来事だから。 明日へ続きます。
February 2, 2006
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ひとり、ということの意味を考えていました。ここのところ私を包んでいた別離感は、一体感とは対極のものでした。それは何かに取り残された、という感じから次第に、一人ぼっち、という状態に移行していきました。取り残された、という感じは、自分が知る人が突然華々しく活動を展開し始めたり、急に注目を浴びるようになった、という状況の変化が引き起こすものであったり、物理的にいつも一人でいる状態が多くなった、という今までと違った環境への不慣れさもあるでしょう。しかし、それはあくまでも表面的な理由です。本当は別離感を通して孤独感、一人を味わうということを通過しなければならなかったようです。考えてみると、孤独感というのは家族と一緒にいても襲ってきます。大きな集団の中で皆が一緒の価値観で団結しているとき、自分だけ違う・・と感じたときの孤独感もあります。さらに、恋愛の真っ只中にある恋人は、離れている数時間が一日にも、そして数日が一ヶ月にも長く感じます。集団の中にいようが、一人でいようが、この孤独感というのは容赦なく、私たちを覆います。何故こんな感情があるのでしょうか。先週の金曜日、もりけんさんの講演会に行きましたが、講演会はあるスライドからスタートしました。「私はみなしごだった」というタイトルでした。エッ、と思うかもしれません。みなしごっていったって、私たち、親がいるし・・違うのです。親はあくまで今の世で生を受けたいわゆる身体の親です。魂と身体を別にして考えると、魂の親ではない、というのです。私はそのとき、ふーん、と聞いていました。「私はみなしごだった」というフレーズは、彼の著書の中でも確か見た記憶があるし、昨年の講演会でも同じスライドがありました。今回の講演会でもこのスライドは、次に続いた「私は誰?」という問いのためのプロローグのように思っていました。しかし、昨日のことです。もりけんさんのホームページで彼の書き込みを見ているうちに、その感覚はいきなりやってきました。昔、かなり昔です。「時間よ止まれ」という番組が私の少女時代にありました。それは主人公の少年(これが太田博之でした)は次元を超越する能力があって、時間を止めることができるのですが、彼が「時間よ、止まれ!」といった瞬間に回りにいた人はすべて静止状態になります。そして主人公の少年だけ、そして一部の人間(これが適当なのですが、そのシチュエーションに必要な特定の人間だけ)が動くことができるのです。少女だった私はこれを面白いとは思いながら、これが自分だったらと思うとちょっと恐くなったのを覚えています。だってそれは、自分ひとりだけが、この世にいる、という状態です。こんな状態が永遠に続いたら、私はきっと気が狂うな、と思ったのです。そしてちょうどそのあたりだと思いますが、よく夢を見ました。気がついたら、まわりには誰もいない、世界に自分だけがいる、という状況でした。その夢の中の感覚を思い出したのです。イヤー、久しぶりの感覚でした。それが私にとって恐怖だったかというと、そうでもないのです。なぜか自分の本当の原点を垣間見た、そんな気がしました。そして次に思ったことは、ひょっとしてこの世界を創造した存在があるとして、その存在もまた同じようにこの感覚を味わったのではないか、と。だとしたら、その存在は私たち人間よりもっと孤独感を持っているに違いない。だってその存在は親を知らないのだから。キリスト教ではイエスが聖母マリアの身体を通じてこの世に生を受けますが、聖母マリアは神の母ではありません。それは人間としての擬似体験にすぎません。仏陀もまた母親から生まれてはいますが、それもこの世に生まれるために通過してきた、という感じだと私は理解しています。神にも親はなかった、だとしたら私が感じる孤独感は私一人のものではない、そう思った瞬間になぜかとても気が楽になりました。そして今思います。何かとつながろう、と思うとき、それは確かに自分が孤独、あるいは無力であると思うときかもしれません、あるいはもっと人とのつながりを得て何かのパワーを欲しいと思うときかもしれません。そしてひとたび繋がったときの高揚感や充実感はそれは素晴らしいものです。それも、孤独感というものをしっかり感じてこそではないかと。繋がるために孤独感がある、というのは勝手な憶測ですが、別離や孤独に震える自分というのは決して弱くて無力だけの存在ではないと思います。それは生きていくためにどうしても体験しておかなければならないものだと思います。だってそこが私たちの原点だったからだ、と思うからです。
February 1, 2006
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