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自分らしく生きよう、とか私らしく生き生きと、と言うキャッチコピーはよく見かけます。偏差値一辺倒の学力重視の時代から教育現場も少しずつ変わってきて、一芸を持った人なら受け入れる、という大学も出てきました。自分の個性をしっかり見つけて、それを伸ばしていく、という方向に世間はシフトしています。最近小学生でバレー留学とかサッカー留学を斡旋する業者がいるそうです。何か世の中、みんな好きなことをやろうよ、ムードです。でもこの好きなこと、得意なことって実は落とし穴があるのです。それは・・好きなことをやっていると時間を忘れます。集中もします。ですのでそれに「得意」が加わると鬼に金棒です。はっと気がつくと人よりも自分が秀でている事に気づきます。そしてますます自分の技を磨きたくなります。そのうち自分よりも上手な人がいなくなると、さらに自分の実力に近い人(人たち)を求めていくようになります。実力試験を受けに行ったり、「頼もう」といってほかの道場に行ったり(爆)、とにかく自分の実力を試したくなります。しかもそのレベルはどんどん高くなって、しまいには金メダルを目指したり、世界の頂点を見るようになります。集中している当の本人は自分の好きなこと、得意なこと、すなわち一芸(あるいは専門分野)に邁進しているつもりでも、実は本質は、他人との競い合いです。他人と比較のしようがないと思われる分野でも、何かに没頭するということは、ほかの視点や可能性をすべて排除していくという作業です。好き、得意を追求していくことの最大の落とし穴は、本人の可能性、視点を狭めてしまうこと、そして自分に妥協が出来なくなる分、どんどん自分を変えることで解決しよう、という究極のエゴが出てきてしまうことだと思います。宮本武蔵は剣豪として過ごしましたが、彼の残した五輪書は野球の松井選手が愛読するほど、内容が濃いものです。そこには剣豪という特殊な世界(原題だったらありえませんから・・)に生きたとはいえ、何か普遍的な生き様を残していると私たちは感じ、同感します。でも、よく考えたら、宮本武蔵は確かに剣の道を作り、極めていたけれど、周りは敵だらけでした。スポーツ選手もそうです。ひとたび頂点に上り詰めると、必ず後から追う挑戦者が敵となって自分を脅かします。芸能人だって、周りは敵です。スターのオーラがある、とか言われても、ちょっと何かの弾みで運気が弱まると散々バッシングされます。人気も落ちていきます。これが私たちが目指す生き方なのでしょうか?私は昨日のブログにアリーナを満席にして歌うロッカーになりたかった、と書きました。音楽のビデオなどで見るあの格好いいロッカーたちは、あの一瞬の場では輝いています。しかし、人気が出れば一年の半分はバスに乗ってツアーに出なければなりません。ツアーのバスと講演会場とパーティ会場だけがローッカーの場所になりかねません。それって本当に楽しいのでしょうか。もっとリッチな芸能人がいて、毎日好きなことをして過ごしても、何だか私には片手落ちに思えます。これは、セレブでない私の僻みではなく(爆)。何故片手落ちか?好きなこと、得意なことだけで、何故視点をせばめるか?次回はもう少し具体的に書いていこうかな・・私は私を生きる・・・この言葉いま自分の座右の銘なのです。これと好き、得意に特化した生き方と次回は比べてみることにします。
March 31, 2006
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今日はなにやら意味深のタイトルのようですが(笑)、森田健(もりけん)さんのHPの<「得意」や「好き」は排除したほうがいいと思います>という書き込みが、私をうならせてしまいました。この一文にはそれにまつわるもりけんさんの中学、高校時代の話しがバックにあってそれを説明すると大変なことになるので割愛します。どうしても見たい方は不思議研究所ドットコムをどうぞ。もりけんさんについては、ここでも機会あるごとに触れていますが、自分の周りにあることのすべてを自分に原因がある、と考えて、その理由や改善を探ったり、努力して自分を変えようとする生き方を「自分は原因派」として、ばっさり斬っています。あるがまま、今の自分でいい、今の自分は一切変えることは必要ない、という考え方なのです。私流に解釈すれば、「何々をしなければならない」とか、「自分はこうあるべきだ」という「○○しなければ」とか、「今の自分にはこれが足りない」だから、「ここを何とか頑張って努力しよう」と自分に厳しくする、という固定化された考えをやめよう、そしてもっと自由に軽くなろう、と言うことだと思っています。さて、その流れから、何ゆえに「得意」と「好き」にこだわってはいけないのか?世間では「好きなこと」を見つけて、それを仕事にすることが大事だ、と言われます。また自分の「得意」なことに磨きをかけて、自分の足場を固めることが必要だともいいます。私もつい最近まではそう思っていました。自分の好きなことを職業としてそれでお金を生み出せたら最高だと思っていました。もう一度生まれ変わったら、ロック歌手になって、アリーナを満席にして観客を総立ちにさせ、ギャラもたくさんもらい(爆)、人生を格好よく決めたい、などと思っていました。しかし、それではだめだともりけんさんは書いています。何故だめなのか・・今日は眠いので明日にします(スミマセン)
March 30, 2006
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このブログも始まってもう1年と数ヶ月経ちました。心の再生をテーマにして、喪失を体験した方たちに、何らかの言葉かけをしたかったのが始まりでした。同じ過労死遺族と言う立場で知り合った人たちには、様々な人たちがいました。まだ過労死と言う言葉が社会に知られていない頃、過労死と言う問題を提起した遺族の人たちは、長い裁判を闘ってきたり、支援の会などを通して地道に世論に訴えたり、それぞれのやり方で、過労死を社会問題として認知させるために努力をしてきました。そして過労死が新聞やテレビで報道されるのを私は「普通の人」として外から見ていました。ところがある日突然、私はその普通の人から過労死の遺族の側に入ってしまいました。これは自分の意思では当然ありません。自分の身には絶対に起きないだろう、と思っていたことが起こったのです。そして遺族と言う立場にたった私は、当然のように共通項を持つ人たちの場に入っていきました。そこには、前述したとおり、社会問題として過労死を認知させるために努力してきた先輩遺族がいました。そしてまた、私のように予期せぬ出来事として訳もわからず体験したことに、まだ戸惑いを隠せない新しい遺族もいました。そして勿論一人一人、同じ過労死遺族といってもひとくくりにはできません。考え方も違うし、年齢も違うし、被災された家族の方の状況もそれぞれに違います。共通項は、唯一つ、自分たちをわかってほしい、と言う点だったように思います。来月の15日でパートナーと別れてから4年が経過します。ようやくですが、自分のポジションが少し見えるようになってきました。HOW的生き方を斬る、というタイトルにもあるとおり、少しだけですが物事の根本を見ることの大事さを確認できるようになりました。そしてまだまだではありますが、一時の感情とか、一時的な動静にこだわらずに生きるということは、決して自分にこだわることではなく、むしろ自分を思い切り軽くすることではないか、という風に思えるようになってきました。ただ、まだ自分の好きとか得意な分野にこだわったり、自分へのこだわりとかプライドが捨てきれないところがあって、すべてを軽くするところまでは至っていません。これからが勝負です。このブログも心の再生のHPも近い将来には、心の再生とはまた違ったアプローチにすることを考えています。今の自分には、人を元気にしてあげよう、という視点とは違ったものが芽生えてきているからです。近い将来とはいっても、数ヶ月先あるいは1年かかるかもしれません。ちょっと予告編でした(笑)。
March 28, 2006
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HOW的生き方を斬る、というシリーズ、順調に進みたいところですが、私自身ちょっと休憩を(爆)。FOXテレビで「アメリカン・アイドル」という番組があるのを最近知って今日初めてテレビで視聴しました。アイドルを発掘する番組ですが、日本の「スター誕生」とか最近の番組に比べても、さすがアメリカというか、レベルが高いことに驚きました。日本の場合アイドルというと、歌唱力よりもルックスとかスター性なども同等に評価します。ちょっと昔のアイドルなんて、歌は超へたくそでした(爆)。ところが、アメリカの場合は、アイドルとはいえ、下手な歌ではだめなようで、まず歌唱力ありきのようです。今回はその歌唱力をとりあえず認められてステージで歌うことが許された挑戦者が、スティービーワンダーの歌に挑戦していました。どうやら挑戦者は、スティービーとかいろいろなジャンルのスーパースターの歌に挑戦をして、その実力を評価されていくらしいです。こういうところもアメリカ的(徹底的に評価をシビアにする)だと思います。で、私が何故この番組のことを書いたかと言うと、今回挑戦者が共通してチャレンジしたスティービーワンダーが最後にゲストとして登場したのですが、その彼の歌った1曲に感動したからです。挑戦者はいずれもそのパフォーマンスは申し分なく声がちゃんと出ていて、しかも素晴らしい声でした。容姿もスター並みの人もいるし、歌いっぷりも堂々としていて、とても素人とは思えないのですが、その彼らのパワーあふれるステージの後にスティービーワンダーは出てきました。彼の歌った曲は、題名を忘れてしまいましたが(汗)、とにかく渋い曲で、歌いだしは彼の低めの抑えた声ではじまったので、派手さもなく音量も決して十分ではありませんでした。ところがだんだんさびのところに来たとき、彼のあの独特のこもった、しかし中で響く特有の声がはっきりとコントラストで聞えてきました。そこで、私はなぜか涙が出てきました。私の場合、音楽を聴くときに出る涙は別に何か思い出にリンクした、というのではなくて、感動すると自動的に出てくるサインみたいなものです(爆)。前の挑戦者は「うーん、うまい」という思いで聴いていましたが、スティービーの場合はうまいというより、それを超えた感動を運んできました。これが本物の音楽だ、と言ってしまうと納得するでしょうが、本物とは何でしょうか。感動って何でしょうか。私が感動したのは、彼が本物だから感動したのではなくて、ただ純粋に彼の歌声が私の感動スイッチを押したからでした。正直言って今のスティービーの声のボリューム、音質、全体のエネルギーだけを取れば、アイドルの挑戦者たちのほうが実は上回っているのです。ところがそういった声の質、トーン、歌の技巧がすべて最高になれば、最高のパフォーマンスか、というとそうともいえないと思います。努力して最高のパフォーマンスをして人を感動させよう、とギンギンになっている挑戦者たちと、スティービーと一つだけ違うところ、でもとても大きな違いは、彼が自然体だと言う事だと思います。自分を知り尽くしているけれど、それを持って人を感動させようと無理をしない、その姿勢が、歌と言うものを通して私たちに何かを伝えたのだと思いました。私はボイスレッスンから始めてそろそろ6ヶ月レッスンをしています。今シャンソンの「サントワマミー」に挑戦しています(笑)。ですので、歌うものの端くれとして(爆)、今日の番組はなかなか教えられることが多い内容でした。
March 26, 2006
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今日は小児科医中原利郎さんの過労死認定を支援する会の懇親会にお邪魔してきました。今日は中原利郎さんの民事裁判の証人尋問の3回目でした。あいにく私は証人尋問には傍聴できませんでしたが、懇親会にちゃっかりお邪魔して盛り上がった雰囲気に一緒に酔わせていただきました。私は過労死遺族のケアの会を運営しています。そしてこの会のメンバーでもある中原さん(利郎さんの奥様)の支援の会にも入っています。しかし・・・前にも書いていると思いますが、私は自分の活動が社会を変える、あるいは国の政策を変える、というところを目標にはしていません。確かに以前は、過労死遺族という体験を持った私たちが声を上げて、はじめて世間の人たちは過労死と言う問題に気づいてくれる、だから私たちはこのことを少しでも多くの人に知ってもらわなければならない、そしてそのためにも、自分たちの活動(労災申請、裁判)を続けていかなければならない、と思っていました。これらはいずれも正論です。そして過労死の問題に関わる人のほとんどが、これらを当然として受けとめています。ただ私には、体験者である私たちが社会に訴える、と言う事の内容が、ただ自分たちの労災申請が認定されるよう助けてください、と言う単純なものである限り、それはその申請者のエゴで終わるような気がします。多くの人に知ってもらうことは大事ですが、私はこんなに不幸です、ですから過労死と認めてもらうように助けてください、では、病気で亡くなった家族はどうでしょうか、犯罪被害者の家族はどうなのでしょうか。彼らは助けてください、と訴える場もなければ、救済する行政措置も過労死のように整っていないのです。一体私たちは社会に訴えるといっても、社会のどの部分の人に共感を持ってもらい、そしてどんな社会にしていくかということをちゃんと議論しているのでしょうか。過労死の無い社会、とよく言われますが、人が働くところには、必ず一定の組織があってストレスがまったくないということはありえません。労働つまり、働くということは、現代社会では生活の糧を得る手段でもあります。そこで働く人たちにとって、会社とは労働を提供し、交換に給料を提供してくれる存在です。そこでたまたま過労死で倒れた人がいて、その人に同情こそすれ、その家族が裁判でも起こそうものなら、「やっぱりお金が目当てなのか」、という見方をする人も多いのです。こういったことをきちんと片付けた後ではないと、少なくとも私は自分のケースを支援してくれ、とはいえないのです。ただ、中原さんの場合は、そういったことを抜きにして、彼女を応援したい、と言う気持ちで参加しています。彼女が訴える小児科医療の問題もあります。様々な問題が彼女のケースには含まれています。このケースが解決するということは、いろいろな面での波及効果は絶大ですが、それはそれとして、私は個人的に彼女を応援しています。そして彼女の支援の会の人たちは皆さんとても素敵な方たちです。一見矛盾しているように見えるかもしれませんが、今の私はHOW的生き方ではなく、WHYを追求しようとしていますから、過労死問題ということも、どうしたらなくなるか、というHOWではなく、そもそもなぜこういったことが問題になるのか、といったところから議論すべきだと思っています。ですので、それがあまり見えない研究会とか交流会には参加していません。それよりも、今はまだ自分の生き方に忙しい、というのが本音なのです。とにかく今日は頑張った彼女に乾杯!
March 23, 2006
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今日はWBCの決勝戦でした。普段はリアルタイムで野球を観戦するということはほとんどないのですが、今日ばかりはさすがに気になりました。というのも、私が今回このシリーズを通して気になっていたのが、イチローのコメントでした。そもそもこのWBCが自分の関心をひいたのは、あのクールなイチローが、最初の練習で、フェンスにドスンドスンと体当たりをして、ボールをとりに行く感触をつかんでいる、というニュースでした。そのときは、天才と言われるイチローでさえ、王監督が驚くような念の入れた練習をするのだ、と思いました。そのとき、私の頭に浮かんだのは、用意周到という言葉でした。しかし、用意周到というのは、およそ天才とかスター性のあるスポーツマンには、似合わない言葉のようでもあります。メジャーリーグでは毎年素晴らしい実績を残し、今やアメリカでもその真価が認知されているイチローですが、その裏には彼なりの野球と言うものに対するこだわりがあって、それは技術を基軸とした、彼なりの独自の美学があると私は感じていました。修験者のように何かを極めることを求めている近寄りがたい雰囲気があったからです。そこには、何か自分の可能性を究極まで試してやろう、という内面からほとばしる自分への挑戦、あるいはこだわりを感じていました。しかしフェンスに体当たりという、徹底した現場主義は、自分の技とか読み、集中力という自分に焦点をあてて自分に絶対の自信を持っている場合、「そこまでやるか」という何か泥臭いものを感じます。現場主義・・良く刑事もののドラマで、刑事コロンボとか腕利きだけれどなかなか昇進できない刑事が、泥臭く現場に通って事件の手がかりを得ながら、事件解決に至るというシーンを思い出します。今回のイチローは何か最初から泥臭い一面がありました。そして、韓国に2度敗れたとき、悔しさのあまり痛飲した様子が報じられて、何か今までの私の抱いていたイチローのイメージがだんだん違ってきました。準決勝のときの彼の言葉、「同じ相手に3度負けることは許されない、チーム一丸となって闘う」と言う言葉には、今までの淡々としたイチローとは違った、韓国全体を敵に回してまで挑発する違った面を見るようでした。そして今日見事世界一に輝いた彼は、「今日はコドモのような気持ちになれた。素晴らしいチームだった」と言っていました。そこには、野球を始めたころの野球少年だった頃のイチローがいました。恒例のシャンパンがけのとき、インタビューを受けているときに後ろからシャンパンをかけたのがたぶん上原だと思いますが、そのとき、イチローは「こら、お前ら、先輩を敬え」と食ってかかります。何かそのときの彼はとても楽しそうで、後ろではしゃいでいる上原とか若手の選手もとても嬉しそうで、まるで小学生のように見えました。ふっと思いました。今回日本がここまでこれたのは、半ばあきらめていたときの準決勝進出のときから、勝利の運の流れに乗れたのだろうということ、それに選手、監督がすべてを尽くして勝ちに行く、という高校野球のような感覚を持てたからなのではないかと。そこには、自分流とか、自分の技に対するこだわり(エゴとかプライド)というものを捨てきって、チーム全体が「勝ちに行く」という一つの目標を通してネットワークでつながったからではないか、そしてその中心にいたのが、イチローだったような気がします。私は今回のWBCでイチローが大好きになりました(笑)。
March 21, 2006
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HOW的生き方を斬る、と題したテーマも3回目になりました。今日もりけんドットコム(森田健さんのHP)からメルマガが久しぶりの届きました。その中で、私がドキッとした言葉がありました。それが「人の出した問の答えを聞く」という言葉でした。HOW的生き方の定義として、いかに生きるかということに特化した生き方だ、と前に書きましたが、それでは何となく優等生的な書き方です。むしろ、HOW的生き方の根本は、と問われれば、他人が出した問いに対する答えを聞く事、かも知れないと気づきました。たとえばカーネギーの「道は開ける」であれば、それはカーネギーが自分に出した問い、「如何にしてお金をもうけながら社会に貢献できるか」に対するカーネギー自身の答えが、彼の生き方そのものになっていたのだと思います。そしてその生き方を「道は開ける」という本の中で私たちが知ることになるのです。それはナポレオンヒル、マーフィにしてもそうです。あるいはこのブログで私が書いていることもそうかもしれません。それは書き手の持っている問いに対する書き手自身の答えなのです。他人の問いに対する他人の答えとはいえ、それがある程度の普遍性を持っているものならば、万国共通に時代を超えて受け入れられていきます。宗教などはその最たるものかもしれません。しかし、他人の問いがどんなに普遍性を持った考えであっても、ひとたびそれが答えになってしまうと、なぜか私は物足りなくなってしまいます。推理小説を読んでいるときなどは、早く結末を知りたくてうずうずするのですが、ひとたび結末を知ってしまうと、なーんだ、と一気に興ざめしてしまいます。人間って本当に強欲だと思います(爆)。たぶん私たちはもともと、好奇心が強いのだと思います。問いを持って、それに対して探求していくことに面白さや充実感、わくわく感を持っているのですが、そこは人間、少しでもその先を知りたいと思うからでしょうか、結論を急ぎたくなってしまいます。他人の問いが、たまたま自分の関心を惹いた場合、その問いに対して他人が試行錯誤の末に出した答えは、知りたいと思います(笑)。特にそれが時間と労力をかけたものほど、その答えの価値は高くなります。しかし、それはしょせん他人の問いに対する他人が出した答えです。自分の問いに対して自分自身が考えて出した答えではありません。例えは悪いかもしれませんが、このお店のこの料理は絶品だ、と書かれた料理についてその味は食感を想像することはできても、実際に味わうことができないように、あるいは、人の恋愛体験をいくら聞かされても、自分が実際に恋愛を体験しなければわからないように、体験という事を抜きにしては、理解は難しいような気がしています。他人の出した問いの答えをもっともらしく、読んでそのときは納得しても、真の理解は難しいと思います。まずは、自分がオリジナルの問いを発してみる、そして、自分自身で問いの答えを見つける、その姿勢がまずは必要なのかと思いました。
March 20, 2006
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「思いは実現する」そのために自分は生きている・・・この考えはつい数年前まで続いていました。学生時代、社会人として過ごした時代(OL時代)、そして結婚、子育てを経験し、税理士の資格取得を目指して働きながらの勉強・・・勿論すべてが順風満帆ではありませんでしたが、大きな病気や災害に遭うこともなく、それなりに人生は進んでいきました。4月15日が来る前は・・・あの日、平成14年の4月15日、忘れもしません。午後1時半すぎに一本の電話が職場に鳴り、パートナーの死が告げられたことをきっかけにすべてが大きく変わりました。それに関しては『ありがとう、もう大丈夫』に書きました(ちゃっかり宣伝)。その中でも一番大きく変わったのが、「私は何で生きているのか」という問いが目覚めたことだったのです。人の死を目のあたりにするのは、人生半ばになると結構経験します。葬儀に参加する機会も多くなり、自身の祖父母や親などを送り出す場合も出てきます。私は20代の頃に母親を亡くしています。私にとっては母親というとても身近でかけがえのない存在でした。大切な人との別れとは、その人が自分にとってかけがえがないほど、取り残されたという気持ちが強くなるものです。パートナーの場合は、母の場合ともまた感じが違いました。パートナーとはまさしく私にとっては人生のパートナーでした。空気のような存在にもなっていました。長年一緒に二人三脚でに人生を築いてきた自分の大切な片割れが突然いなくなったのです。私にとってみれば、メンター的な存在でもあった彼を失ったことは、自分の人生の羅針盤が突如消失してしまったような状況でした。船の舵を一緒にとっていたはずの舵取り人、そして羅針盤ごと突然消えてしまった船に一人取り残された私は、そこで初めて孤独感を味わいました。そこでです。「私にとって生きることはどういう意味なのか」という「どのようにして生きるか」という問い以外の全く違った問いが出てきたのです。世帯主が亡くなるということは、経済面、生活面色々なところで問題が生じます。ただ、「生きるとはいったいどういうことか」という問いが自分の存在意義に関する根本的なものだとすれば、経済面とか色々な問題は実務上というか、生きていく上で必要な実用的な問題で、適切な手段を選び、しかるべきところに相談していけば、いずれ時間とともに解決していくものです。しかし、生きるとは、とか私は何故一人なのか、という種類の疑問は、時間が経過しても解決できません。まして人に相談することなどできません。舵取り人と羅針盤が一挙に消えた船の甲板で、私は思わず、何で私はここにいるの?と叫びたい思いでした。何でひとりぼっちなの?何故私はよりによってこの船なの?あちらの船は豪華客船で、人もたくさんいるのに、何故私は一人でこの船に取り残されたの?この「何で」という問いが今までのどうしたらというHOW的なものと全く違う、「WHY」的な問いでした。 パートナーを亡くしたとき出てきた、何故、という問い、それは自分が今までの中で一番強く感じた孤独感から出発したものでした。
March 17, 2006
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HOW的な生き方を斬る、ということは、HOW的アプローチを否定することではありません。日常の仕事や長期的な計画の中で、あらかじめ段取りを決めてどのようにしたら最も効率よく行えるか、それに必要な時間や労力はいかほどか、などを予測していくことも、またHOW的なアプローチですから、これを頭から斬る、と言っているわけではありません。私が今回HOW的な生き方と、WHY的な生き方を区別して考えてみよう、と思ったのは、最近自分の中で湧き上がってくる「自分とは何か」という問いから始まりました。オギャーと生まれたときから、私は北海道の両親の愛情に恵まれ育ちました。3歳の頃から母が自分でやりたかった、というバイオリンを習い、勉強も母がしっかり見てくれたせいもあり、小学生のときは成績優秀でした。中学は道内でもかなり有名な中高一貫のミッションスクールに入学して、高校のときにはアメリカに1年間留学しました。実家は決して裕福ではありませんでしたが、お金に困っているわけでもなく、私は自分の進路に関してほとんど金銭的な面での制約はありませんでした。ただし、私が東京の大学に在学していたときは実家が経済的に行き詰ってしまい、学資しか仕送りしてくれなかったので、私はアパート代と生活費を稼ぐためにアルバイトをしましたが、それはそんなに苦労ではありませんでした。結構アルバイトも楽しかったのです。(若さゆえですね)そんな私にとって、自分とは何か、という問いはいつの間にか素通りしてしまった感があります。高校のときに習った哲学でも、自分という存在はこの世界で唯一無二のもので、かけがえのない存在だ、という意識しかありませんでした。それは裏返せば、孤独感というものをあまり強烈に感じなかったせいかもしれません。それに自分が何かしたい、と思ってそれに向かって努力したことが、比較的スムーズに実現していった、ということもありました。バイオリンは確かに練習はとてもきつくて、楽しいとはいえませんでしたが、私の弾くバイオリンの音色はかなり良かったらしく、バイオリン教室でも結構優秀な生徒でした。もともと耳がよく、音感があったようです。発表会などで人前で演奏することも楽しかったし、中学になって入ったオーケストラ部でオーケストラの一員として演奏することもそれなりに好きでした。ただ、音楽を一生の職業として選択するには、実家の資力は十分ではなく、私自身も音楽家になる、という道は頭にありませんでした。なんだか自分の話しになっていますが(笑)、こうやって振り返ると、私はかなり恵まれた少女時代を過ごしています。生きるということも、いかにして自分がこの社会で自分の実力を試して、いろいろな経験をしたい、という希望と期待に満ちた感覚で受け止めていました。そしてそれは大学に入ってからもそうでした。大学に入り確か2年目の夏に、私はカーネギーの「道は開ける」という本を手にします。それが私にとって、HOW的な生き方に目覚めるきっかけになったのです。このブログでもこの本に関しては数回書いています。簡単に言えば、この本はカーネギーという一代で財をなし成功した、実業家が、その軌跡を紹介しながら、自分の能力を最大限に生かして社会で成功し、世の中に貢献していくための、具体的な指針を教えたものです。この本はハウツーものの分野では、かなり著名な本で今でも多くの人が読んでいます。ちょっと御幣があるかもしれませんが、私の中での区分で言えばこの流れを組んでいるのが、ナポレオンヒルとかマーフィーといった人たちなのです。彼らに共通しているのは、願い、思いというのは自分の潜在意識から生じるものであって、それは必ず実現する、というものです。ただ、人によっては、この願い、思いに気がつかない場合もあり、これを使命感(ミッション)とリンクさせると、それは生きがい論にも発展していきます。今生きがい、とか人生の価値を豊かにしよう、というテーマで出されている本も、その根本は、「思いは実現する」ということなのです。私はこの「思いは実現する」ということを指針にして、人生の半ば以上を過ごしてきました。ですから、この「思い」の主体である自分自身について、我とは何ぞや、とか、私の意識って何だろう、と思うことは少なかったのです。ですが、たまに自分が死んだらどうなる、ということを考えるときもありました。そのとき私が思っていたことは、物理で習った「エネルギー不変の法則」を勝手に解釈して(爆)、自分はきっと何かのエネルギーが具体化した存在で、自分は死ぬことでそのエネルギーに戻っていく、つまり自分の意識は無と化すのだろう、だからこそ、この世で生きている間に自分の思いを実現させていくこと、自分の人生を充実させていくこと、簡単に言えば、精一杯生きることが大切なのだ、と思っていたのでした。ある意味唯物論的な考え方に近かったのでしょう。でもこの世ではうまくいかないことも多いのです。そういうときは、やはりどこかに偉大な存在(神とか宇宙)があって、この自然の世界の法則がなりたっているのだろう、とテキトーに考えていました。ああ、なんとアバウトだったんだろう(滝汗)。
March 15, 2006
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HOW的生き方ということについて、もう少し詳しく書くことにします。HOW的生き方というのは、如何にして生きるかを追求する生き方と前回書きました。これを見るには本屋さんに行けばすぐわかります。「誰でもわかる」シリーズとか、「猿にもわかる」シリーズは、PCとか税金関係という限定されたトピックが多いのですが、最近は、質問力とか、人間力をつける、人をいかにしてひきつけるか、いかにして人を感動させるか、といった書籍が多く出ています。国内の本は比較的精神論的なものが多いのですが、アメリカの本は、非常に具体的で、イラストつき、あるいはその図の描き方まで指導する本が出ています。例えば、何か願望や理想を持っている人向けに、そのイメージを膨らませるために図を描いて具体的にいろいろなことを考えさせたり、あるいはそれを音楽やナレーションにしたCDを付けて、これを聞けば貴方の潜在意識に入って、願望が叶います、といった種類のもの(これは若い女性向けの恋愛勝ち組のための本が多いです)もあります。こうやって見ると、今の日本はHOW的な志向が花盛りといった感じです。これは今に限ったものではありません。私は学生の頃(かなり前です・・汗)、カーネギーが書いた本を買いましたが、これはまさにHOWの原点を凝縮した本でした。自分の願望や理想、あるいは欲求をいかに実現させるか、ということだけに焦点を置いた本だからです。私はこのカーネギーの本を一読して、感動で興奮したことを覚えています。このように考えていけば人生はまさに開けるのだ、と思ったのです。今思うと実に単純でした(爆)。自分で言うのも何ですが、私の唯一のとりえは素直だ、と言うことで(笑)、これはとりえでもあり、大きな欠点でもあります。当時私は、素直にカーネギーの考えを受け入れてしまい、それから何十年もの間、願望実現の仕組みを信じ続けてきたのです。詳しいことは忘れましたが、カーネギーにしてもナポレオンヒルにしても、この流れの本は、潜在意識が持っている無限の可能性を強調するところから始まります。人間にはもともと神と通じる意識が備わっていて、それは究極の良心であり、自分の心の声(=直感)をまず信じることがスタートです。そして、その潜在意識に向かって、自分の願望や理想、信条を意識的に落とし込んでいくことで、潜在意識が自動的に自分を勝手にリードしてくれるようになる、というのが根本の考え方なのです。この意識的に落とし込んでいくやり方が、人さまざまで、紙に書いて天井に張っておく、ノートに書いて寝る前に読んでみる、あるいは朝起きたらすぐそれを読む、もっとすごくなると、書いたら意図的に忘れてしまうというのもあります(爆)。これらのいろいろなやり方は、それぞれの著者の成功の実体験とセットされているので、その本を読んでいる限り、これに従えば、必ず自分の望むどおりになる、と強い啓示を受けるというのが特色でもあります。私は、何十回とこの啓示を受けました(爆)。しかし、啓示は啓示で終わってしまいました。その本を読んだ後は確かに感動して、良し、私も、と思うのですが、なかなか継続できないのです。そのうち、それ自体も忘れてしまい、また一つ挫折したときに、違う種類のHOW読本を買って、読んで、また感激しては・・という繰り返しが今までの私だったのです。お恥ずかしい話しですが、これらの本を買って、是非実現させたい、と思った事柄は、自分の記憶にすらないのです(滝汗)。10年間もトライし続けた税理士試験にいたっては、何の役にもたちませんでした(爆)。何故約に立たなかったのか、それは・・物事の根本を問うという視野がなかったからだと思います。明日に続きます。
March 13, 2006
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HOW的な生き方を斬る、などとすごいタイトルになりましたが、私は文字通り、今までの生き方を斬るつもりでこれから少し書いていきたいと思います。まず、HOW的な生き方についての定義です。これは、もうずばり、HOW=いかにして、という方法論に終始した生き方をいいます。これは私の今までの人生がまさしくそうだったのですが、たぶん多くの人はこのHOW的生き方を、特に疑問にも思わず過ごしていると思います。人は何故生きるのか、とか、自分が自分だと感じる意識はどこから来ているのだろうか、と考えたことは全く無い、という人はたぶんいないと思います。中学、高校、あるいは大学といった学生時代に、多かれ少なかれ、こういうことを疑問に思った経験はあると思います。たとえ覚えていないにしても、ある日突然、自我意識に芽生えたときとか、何かしらそういった疑問は感じているはずです。ところが、中学、高校と進むにつれて、先生は将来どんなオトナになるかを考えなさい、と盛んに私たちにアドバイスし始めます。目標が具体的であればあるほど、将来の自分がイメージしやすいこともあって、早いうちから、社会で自分がどうやってひとり立ちするかを考えるように指導します。ここからすでに「如何に生きるか」HOW(どうやって)生きるか、という問いが私たちに突きつけられます。どうやって生きるかということは、確かに重要な命題です。それにいち早く気づくのがオトナへの近道だといっても過言ではありません。どうやって生きるかという問いは、具体的には、どんな職業につくか、将来自分は何になりたいのか、社会に対して何が貢献できるか、何を信条として生きていくのか、自分に最も適した生き方はなにか、という問いがすべて含まれます。医者になりたい、弁護士になりたい、あるいは政治家になりたい、という学生たちは先生は大歓迎です(爆)。こういう子達は大体が成績優秀で、物覚えも早いし、先生の言ったことはすべてきちんとこなします。しかし、将来何なるかを考えることもなく、進路相談のときに、「先生、先生は何故この世に生まれてきたかを考えた事がありますか」などと質問しようなら、「余計な事を考えないで、いい加減将来のことを考えろ」と言われてしまいます。私たちの社会では、このHOW的生き方を追求することこそが生きることであり、何故生まれたか、あるいは自分は何者か、という問いは非生産的で無駄な作業、たわごとに過ぎない、と斬り捨てられます。私はこれからこのHOW的な生き方を斬ろうとしていますが、それにはそれなりの理由があります。その生き方の限界を見たこと、そしてHOW的な生き方は実はちっとも楽しくない、ということを感じているからです。次回はそこを書いてみようと思っています。
March 12, 2006
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自分の意識ということについて考えていました。「ミクロ決死圏」という映画が昔ありました。人間を極小化して、ある患者の体内に送り込み、そこで病原菌と闘う、というストーリーです。この映画を見ながら、人間の体内はまるで宇宙のようだ、と思ったものです。何年か前ですが、ビッグバンとかブラックホールという言葉がブームになったとき、NHKなどが宇宙の始まりは何だろう、という特集を組んでいました。そのとき、宇宙というのはとてつもない大きな存在なようだけれど、その広がりの果ては一人の人間の体内に収まっているのかもしれない、などと感じたときがありました。それについては、パートナーも同じ事を言っていました。ひょっとしたら私たちの意識というのは、実は何か大きな宇宙のような存在に、根本ではつながっているのではないか、と思うようになっています。こんなことを考えたきっかけは、カリフォルニア工科大学で脳科学を研究している下條さんと言う方の研究の内容でした。彼は「感情は自分のものではない」という主観をテーマにしているというのです。彼の研究そのものについては概要が下條さん講演会というHPに載っています。自分が今まで自分特有のものだと思っていた感情が、もし何らかの外的な要因で発生するものだとすれば、その外的と呼ばれる外側とは何か、それが発生してくるというのはどういうことか、それを考えるだけで混乱しそうですが、例えば自分がどうしようもなく落ち込んでいるとき、あるいは悲しいとき、この感情の出所は何だろうとふと目線を変えると、視点が変わるのではないかと思います。落ち込んでいるとき、悲しいときは自分だけが世の中で一番辛くて、嫌な人間だ、と思いがちです。しかし、そう思う感情はひょっとして自分以外のところから生じているのだとしたら、そしてそれが何か大きなものとつながっているとしたら、今の感情は自分だけが辛い、嫌だと思っている感情ではなく、とても普遍的なものだともいえると思います。であれば、自分は自分であるけれど、何かの一部かもしれません。それが繋がると言うことなのかもしれない、とふと思いました。前回つながるということをテーマに書きましたが、自分の意識が何か全体的なものにつながっている、と言う可能性もあるのではないか、と今思っています。
March 10, 2006
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繋がるということについて考えてみました。繋がる、とは、連帯、共有、意思の伝達が可能になる状態がイメージできます。もともとの言葉の意味は、放れないようにする、とか結ぶということですから、自分と誰かあるいは何かの対象と放れないように、もしくは結ばれると言う意味です。物と物をつなぐ、例えば端末にケーブルをつなぐ、と言う意味ではしっくりきますが、それが精神的な意味になったときに、意味不明になりそうです(笑)。自分の感情のある部分(例えば、嬉しさ、悲しさ)が他人のその部分に結びついたときは、繋がった状態になると思います。今思い浮かんだのは、ロックコンサートでのあの一体感(爆)です。コンサートの場合には、演奏するロッカーが「のってるかーい?」と叫んで、聴衆が「イエー!」と叫び返す、そしてゴワーンと凄い音で演奏が始まり、追っかけの人たちはもうそこでしびれてしまいます。観客席で片腕をあげたり、踊っている人たちもまた、恍惚感でいっぱいになります。それをテレビとかビデオで見る私たちもまた酔いしれて・・・いわゆる感動の連鎖です。多分これが繋がった状態です。上記の例ではちょっとした興奮状態ですが、静かな感動もありだと思います。ただ繋がる、と言う状態は、こちらが一方的に受身になっている場合には難しいと思います。映画の場合は、観客はスクリーンに投じられる作品を通して感動しますが、感きわまってすすり泣く場面になっても、隣の人とつながっているとは言いがたい状況です。そこには何か繋がるためのワンクッション、あるいはちょっとした起爆剤(ロックコンサートであれば、ロッカーの叫び声とか問いかけ)が必要です。これは多くの人たちとつながる例ですが、一人対一人の場合には、コミュニケーションが必要です。自分が思うことをそのまま相手に感じてもらうには、ちょっとした霊的な直観力(=テレパシー)を持っているとか(笑)、かなり親密な関係であることが前提となります。しかも、自分が繋がりたい、と思うのであれば、自分から問いかけ、あるいは意思表示といったアクションが必要です。と、ここまではかなり常識的な内容でした。少し抽象的な領域に入ります。例えば、道端に咲いていた一輪の花を愛でるという行為があります。このとき、花と自分の関係はどうでしょうか。ペットと遊ぶときや撫でているときの、ペットと自分の関係はどうでしょうか。満天の星を見上げたとき、ふと「何か」を感じたようなとき、そのときの星と自分の関係は?外を歩きながら風の中に春の気配を感じたとき、その空気と自分は?これらもまた繋がっている状態とはいえないでしょうか。いや、そんなもの、たまたま自分の周りの環境に自分が気がついただけだ、といってしまえばおしまいですが、ただ気がつくだけではなく、花を愛でると癒される、ペットの可愛さに微笑む、春の気配にわくわくする、星を見たときになぜか懐かしい感じがする、という感情がわいてくるのは、やはり自分の周りにある花、ペット、星これらが自分にとって特別な存在であることを意味すると思います。何か行動を通して繋がるときには、自分が主体となるか、媒体要因が必要でした。しかし静かなつながり、上記のような場合には、主体となる自分はむしろ邪魔かもしれません。自分がある感情を持つ、ということは、何かしらそこにその感情を誘発する要因があるということです。自分を1回空にしてみたと想定して、その空の自分の感情を誘発してくれるものがあったら、その感情を通して、空の自分とその誘発してくれたものは繋がったと言えると思います。素直になって初めて感動とか、気づきは訪れるような気がします。道を歩きながら、今日は感動する花を探そう、とか、何かわくわくすることを見つけよう、と構えてしまうと意外にその対象は見つかりづらいものです。肩の力を抜いて、自分の殻を脱ぎ捨てて、感じるままに一日を過ごしてみると、いろいろなつながりを感じることができそうです。
March 8, 2006
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物事には絶対確実ということはあり得ません。今の自分の仕事、生活、人間関係すべてがこのまま継続していくという保証もありません。私は4年前にパートナーを亡くしましたが、突然このような形で別れがくるなどとは夢にも思っていませんでした。むしろこれからずっと夫婦続いて死ぬまで一緒のような感覚すらありました。そして数日前の空き巣事件です(しつこいって・・爆)。平穏無事という生活のイメージが奇しくも崩れました。更に仕事もそうです。定年まで無事に勤め上げることすら今の私には保証はありません。そう考えると、なにやら急に目の前が暗くなってきました。そんな気分でなんとなく、もりけんさんのHPの「もりけん語録」を見ていたら、「幸福論」と題した書き込みがありました。そこには「それがどうした?」というフレーズが出ていました。私の場合は、ちょっとしたことでも落ち込みやすいタイプなので(苦笑)、無駄とわかっていても先を考えてしまいます。ある意味心配性かもしれません。ここしばらくは、その心配性はどこかに行っていましたが、きゃつは空き巣事件で私のところに戻ってきてしまいました(笑)。仕事、生活、すべての面で先の保障なんてまるでないではないか、ときゃつは強く訴えます。そんな時ふと引っかかったのが「それはどうした?」でした。確かに先のことをきちんと準備するのは大事です。この社会で少なくとも食いっぱぐれないためにも、仕事は大事です。生活の安全面も大事です。こういうことをきちんと準備していくことは重要ですが、やっぱり「それがどうした?」です。言い換えれば、それがすべてではないはずなのです。感覚的な話しをします。仕事の継続性、生活の保障などつらつら考えているときの私は、とてもシニカルで、暗くて、疑心暗鬼が全面に出ています。ところが、一言、その私が「それがどうした?」とつぶやいた時点で、何かこういう問題はとてもつまらないことに思えるようになりました。何に比較して、ということではなく、一体今の自分は何を問うているのか、というスタートラインに引き戻されてしまうからです。そもそも自分が何で自分であるのか、自分が生まれてくる前、その先もわからない、この状態こそが一番不安定なはずなのに、そこを外して、自分の立つ所だけを確保しようとして、それがどうした?なのです。昨日私は強烈な孤独感に襲われました。すべてから見放され、途方にくれる自分、先が全く読めない自分、そんな自分がいました。その感覚が襲ってきたのは、現実面での不足、欠乏感のなせる業です。きっとまだまだ何かに固執しているのだと思います。それを一つ一つはがしていくキーワードが「それがどうした?」だと思います。「・・で、何が問題なの?」、「そう・・で、それがどうした?」。すべてのことはこの瞬間の感情に素直になることから始まると思います。今孤独の最中にあっても、その感情に浸りきる前に、このキーワードをつぶやくと、何か気持ちがリセットする気がします。それは私と「何か」がつながったということではないか、とふと感じています。
March 7, 2006
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昨日はイチローの面白い話をご紹介しました。イチローにはなにか修行僧のような厳しさを感じるときがあります。鋭い目、研ぎ澄まされた精神、並外れた集中力、彼は平成の宮元武蔵ではないかとさえ思うときがあります。彼っていったいリラックスするときはあるのだろうか、遊ぶときってどんな風にしているのだろう、などと私はついつまらない事を考えてしまいますが、少なくとも家族から天然ぼけと言われている私とは全くタイプが違うことは確かです(爆)。しかし、天然ぼけと家族には言われていますが、本人としては宮元武蔵とかイチローのあの近寄りがたい雰囲気を自分は持っていたいと思っています。少なくとも、「生きる」ということに関して、武蔵流、イチロースタイルを貫きたいと思うときがあります。武蔵もイチローも非常に内面を追求しているかに見えますが、実は大事な場面では自分を空にしているのではないか、と最近思います。真剣勝負の場合は負けは死を意味します。生きることに執着していると、冷静な判断が出来なくなる場合があるような気がするのです。勝負もそうです。何が何でも勝つ、という勝ちに対するこだわりは確かに大切です。しかしあまりに勝ち負けにこだわることで、感受性が鈍くなってしまうこともあるかもしれません。私は野球も剣もやりませんが(当たり前だ・・爆)、何となく理解できるのは、本番まではひたすら練習とあらゆる場面を想定しての実地訓練を繰り返すけれど、いざ本番になったら自分の意識そのものを取り去り、無の境地、あるいは空の境地に入り、無意識に近い状態で臨むのではないかと思うのです。そしてその真剣勝負の瞬間に今までのすべてを賭けるのです。これで勝負がどう転ぼうと、後悔しない、そこまで自分は修行を積んできた、つまり用意周到に準備をした、だからこそ心静かに決戦を迎え、その先はこだわらない、そんな気がします。つまりそれまでの日常はこの一番勝負にかけるための助走だったともいえます。しかもその助走は淡々と、日々の修行(メニュー)としてこなしているのです。イチロー的生き方、武蔵流の生き方、少し試してみようかしら・・少なくとも今この瞬間を精一杯生きるというスタンスを学んで。
March 6, 2006
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先日ネットの記事で、イチローがWBCの試合に備えて何とドームのフェンスにどすんどすんと体当たりをして、場外ボールのダイビングキャッチを練習している風景が紹介されていました。普通、練習といえば、基本の練習と思いきや、イチローは確率でいうとほんのわずかな場面を想定して、それに対応する練習をしていたのです。これには驚きました。彼ほどの実力と実績を持てば、余裕で笑いながらフォームの確認とか、調整をするくらいか、と思っていたら、一試合であるかないかの確率を想定してしかも何度も現場で確認しているのです。何と用意周到なこと。イチローは並外れた力と技、そして判断力を持っています。しかし、それにおごることなくはたから見たら求道者のようにどこまでも完成形を求めていくような気がしていました。完璧なバッティング、自分の限界にあくまでも挑むチャレンジャー、そこには人を寄せ付けない厳しさを感じていました。しかし、この万が一の場面の想定練習という記事を見て、彼はある意味とても用意周到な人なのだ、と思ったのです。私たちは良く、「人事を尽くして天命を待つ」という状態を努力の最大値、あるいは目標ととらえます。しかし彼にとって、人事を尽くすというのは目標ではなく、当たり前のことなのかもしれないのです。用意周到にすべての場面を想定して着実にこなしていく、というのは実は世の中で一番大変なことかもしれません。それを難なくこなすから、彼はすごいのかもしれませんが、直感だけにおぼれない、というところが彼の一番すごいところかもしれません。私は今まで直観力とかインスピレーションを大事にしようと思っていました。確かにそれは左脳系だけの考え方よりも、物事の根本に迫る確率は高いのです。しかし、それだけに頼っていると、何でも直感で乗り切ろう、というおごりが出てくるような気がします。直感は自分の無意識から出てくる魔法の力と勘違いすると、自分の中に密かな自信が芽生えます。しかし、その自信が実は曲者です。自信にこだわると、自己を肯定する状態から自画自賛状態になるからです。自分を肯定するということは「ありのままの自分、今の自分」を認めるということです。今自分がどれほどの実力があって、何が足りないかも知ることです。しかし、それを認識することと、自分を過小評価すること、あるいは自分はこんな程度の人間だと気落ちする事は別問題です。今の自分の力を認める、足りないところも認める、そしてそれをOKとする。しかしその足りないところは素直に認めて補おうとする・・それがイチロー選手の「どすん」という練習に相当します。この姿勢は、簡単に努力という言葉では置き換えたくない気がします。あるがままを認める、足りないところは淡々と補う、そこにはもっと自然の流れを感じます。努力、自信、という言葉には、なにか高い目標に向かって揚々と向かう自分へのこだわりを感じます。自分にこだわらないから、どこまでも用意周到にできるのではないか、と思います。
March 5, 2006
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会社の同僚とランチをしながら、空き巣談義で盛り上がりました。彼女の家も一度入られたそうですが、なんと北側の手洗いの格子のついた窓からの侵入だったそうです。格子がついているから安心とは言っていられません。彼女が言うには、人間は頭さえ潜り抜けられれば身体全体は通ってしまうものなのだそうです。さらに彼女の話では、綺麗にしている家ほど、泥棒は勘が働くそうです(笑)。よーし、挑戦してやろう、と意欲がわくのでしょうか。確かに彼らは犯罪者ではありますが、一応プロですから、それなりに身体も鍛え、獲物に対する嗅覚も優れ、そして意外と人間の心理分析にたけているのかもしれません。闇の世界に身をおいているとはいえ、あなどれません。事実今回もわずかな現金と商品券はちゃんと探し当てて持っていきました。あと、これも冗談で話していたのですが、もし入り込んで、たいした収穫がなかったら、これはこれで問題です。せっかくリスクを侵して侵入したのに、成果がゼロでは洒落になりません。逆切れされて放火されたり、床に醤油をこぼしていったり、という例もあります。ということは、少しは収穫物の足しになるようなものを置いておくのがいいのかもしれない、と思ってしまいます。私が子供の頃よく読んだ漫画「さざえさん」には、結構泥棒にまつわる漫画がありました。その中で傑作だったのは、サザエさんの家にしのびこんだ泥棒が、さて、家捜しをしようと思っていたところに、こんちはー、と酒屋さんの御用聞きが集金にきます。あわてて泥棒は、はいよ、といって応対してお金を払わされます。そしてなぜか、次々とその日は集金のとりたてが相次いで、結局全部その泥棒が支払うことになり、「何で泥棒の俺が立て替えるのか」といってしょんぼりする漫画でした。なんともほのぼのとした漫画でした。あの当時は強盗でも滅多に人を傷つけなかったようですし、義理人情というものがまだ伝わる時代でした。今は義理人情どころか、普通の人だと思っていた人間がいきなり「きれて」人を殺してしまったり、しかもその「きれる」原因が、ちょっと無視された程度のことであったり、何か独りよがりの被害妄想的な感じがあります。単に時代が違うと言い切れない要素があるとは思いますが、それだけ人とのコミュニケーションが不足している時代なのでしょう。犯罪の凶悪化を憂いて、これは偏差値教育の大きな弊害だと指摘する人もあり、家庭のしつけのあり方、しいては子供を育てる親の姿勢を問題にする人もいます。しかし、偏差値教育の弊害を受けていないと思われる70代以降の高齢者にも、最近新聞報道では、かなり凶悪な犯罪の加害者になっている例もあります。一つ一つを丁寧に検証していけば、共通の問題点が見つかるか、というとそうでもないかもしれません。ひところ少年犯罪が続いた頃、少年法を改正しようとか、何故小学生に殺人が起きるか、といったことがしきりに論ぜられました。これについて、アセンションを唱えている精神世界の人たちは、犯罪が凶悪化し、地球環境もどんどん破壊されていくのは、地球そのものの地軸、あるいは磁場が急激に変化をしているからだといいます。そしてそれは何でも2012年にピークになるとかで、そのとき人類に浄化が始まるというのです。このアセンションと言う言葉は昨年私は初めて知りましたが、精神世界では常識なようで(笑)、アセンション(これは上昇と言う意味です)に備えるためには、人間は精神的に高いレベルに達して一緒に上昇しなければならず、そのために人格を磨き上げ、徳を積まなければいけないとされています。でもこれって、よく考えたら、宗教でいう世紀末の教えに似ています。つまりある一定の範囲で、選ばれた人たちとそうでない人たちに別れ、選ばれた人たちには特権(地球からほかの星に上昇する機会、キリスト教でいえば天国に入る権利)が与えられる一方で、選ばれなかった人たちは魂あるいは意識ごと消滅してしまうという図式です。今日は空き巣の話からなぜかアセンションに話題が飛びましたが(爆)、世の中いろいろな考えがあるものです。
March 3, 2006
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昨夜我が家にちょっとした事件がありました。空き巣に入られたのです(@@;)。空き巣の被害にあうなんて、今まで考えたこともありませんでした。帰ってみると、ベリイが何だか震えていて様子がおかしく、ふと和室を見るとなにやら押入れが開いて座布団が落ちています。あれっ、今日は地震でもあったっけ、と思いましたが、なにか胸騒ぎがして二階に行ってすべてが把握できました。たんすの引き出しが開けられ、重要なものが入っていると思われる箱類はひっくり返され、大変なことになっていました。そこで、初めて「やられた・・」と思ったのです。一生のうちでまず自分が経験することはないだろう、と思っていたことを実際に経験してしまった気持ち・・ああ、これはパートナーの突然の別れと一緒じゃん、と思ったのですが、しかし冷静に考えると、やはりパートナーのときの方が大変でした。今回は幸い、誰も命に別状もなく終わりました。それが何よりでした。しかし・・です。これが突然空き巣ではなくて強盗かなにかで、家族やペットに危害が加えられていたら、想像もできません。それは恐怖と不安との闘いでしょうし、万が一のことがあったらそれに喪失感が加わるのです。犯罪被害者の方の気持ちというのはおそらく私たちにはわからない、さまざまな気持ちが交錯しているのだろう、とふと感じました。さて今回の事件で、私は物事に対する意味づけが何の役にも立たないのではないか、と感じています。以前であれば、空き巣の被害を被ったのは、よほど何か意味があるに違いない、私はどんな学びをこの体験からすべきなのだろうか、と考えていたに違いありません。あるいは、空き巣に入られて家財は持って行かれたが、この家財は結局は人の手にわたる運命だった、自分がそれを提供する事に意味があった(人に自分のものを提供するという意味で)、これは自分をもっと身軽にせよ、というメッセージだ、とかなんとか、意味付けしていたに違いないのです。今回被害にあったのは、実はパートナーが海外出張のたびに買い求めてくれたアクセサリー類でした。値段の問題ではなく、私にとっては、パートナーの思い出の品です。それを根こそぎ持っていかれたのですから、意味づけを・・といわれれば、それは「もう、パートナーのことは忘れなさい」と言っているのか、はたまた、心機一転何かを始めろというメッセージなのか、と考えるところでしょう。個のカルマを言う精神世界の人から見たら、私の前世は泥棒です(爆)。直接の泥棒でないにせよ、人の財産をとった、あるいは人の愛人をとった(爆)という個のカルマのゆえに、今私は空き巣にあったということになります。ですが、そうでしょうか。空き巣に遭う、ということに一体どれほどの意味があるのでしょう。そこから学ぶとしたら、何を学ぶのでしょうか。突然の出来事、それに喪失感が加わったらどうなる、と想像力を膨らませて、犯罪被害者の会と遺族の会と連携でもとりあって、社会に訴えるのでしょうか。冗談ではありません。大体遺族とか、犯罪被害者とひとたばにくくる事も意味ありません。そんな薄っぺらい気持ちはかえって相手の心に土足で踏み込むだけです。個のカルマについても同様です。いちいち自分の為した行為、しかも現在の自分が全くあずかり知らぬ行為の反作用が、なぜ今ここであらたに清算の対象、あるいは相殺の対象となって忽然と出来事になって具現化してくるのでしょうか。実はこの意味づけには、大きな前提があります。それは「自分がすべて原因で、物事が動いている」ということです。自分の努力、苦労、費やすエネルギーに比例して物事は成就していく、と言う考えです。この考えに基づくと、自分の何かが足りないからその結果としての現象が現れた、とうことになります。確かに私の防犯に対する甘さが今回の事件を引き起こしたのかもしれません。でもそれで私は自分を責めるべきなのでしょうか。猛烈に反省すべきなのでしょうか。そんなことをしたら被害者の私はただ落ち込むだけです。物事に必要以上に意味づけは無用です。今回はただ、せいぜいもっと用心せよ、というくらいです。家に現金とか宝石を置くなといっても、日常使うものに関しては泥棒が探しにくいところに毎日置いておくわけにもいきません。お巡りさんの話では、貴重品(宝石類)でも、泥棒により様々で、価値の高いものだけを物色して持っていく泥棒もいれば、とにかく全部持っていく泥棒もあるそうです。手口というのも様々だそうです。パートナーが亡くなってから、それなりにいろいろな考えを求めて本を読んだり、セミナーに行ったりした話しは何回となくブログに書いていますが、結局、今回の空き巣事件をこれらにあわせて考えると、上記のようになったわけです。意味づけは無用です。しかし物事をしっかり見ることは重要です。そこには反省だとか、悔しさだとか、憎しみといった感情も不要です。それにしても・・ベリイが無事でほんとに良かった・・
March 2, 2006
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