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元プレジデント編集長が出版業界について書いた本で、夕刊フジに連載されていたものが2001年に出版されたらしい。第一章 「週刊ポスト」VS「週刊現代」読売新聞の広告見合わせ事件や、「週刊ポスト」と「週刊現代」の違いなどが書いてある。第二章 新書戦争講談社、集英社、文春新書、中公新書について書いてある。第三章 巨艦激突、週刊美術百科講談社と小学館の美術百科の発売が被ったいきさつが書いてある。第四章 どこへ行く、写真週刊誌「フォーカス」「フライデー」「フラッシュ」などの写真週刊誌のプライバシー侵害や衰退について書いてある。第五章 トーハンVS日販官僚的なトーハンと財務基盤が弱い日販の社風や経営方針の違いについて書いてある。第六章 「文藝春秋」物語文藝春秋の強みや芥川賞・直木賞について書いてある。第七章 幻冬舎、草思社、藤原書店 元気印三社の秘密好調な三社の経営者に取材して成功の秘密を書いている。第八章 まんが戦国時代講談社の編集者は新人漫画家の負担軽減のためにストーリー作りまですること、集英社は鳥嶋編集長が異動させられて黄金期から凋落して鳥嶋を戻して新人編集者育成に力を入れて持ち直したこと、小学館はミニ四駆の失敗を活かしてポケモンを成功させたキャラクタービジネスに強いことなどについて書いてある。漫画業界に興味がある人はこの章だけでも読む価値はある。第九章 「マネー誌」興亡記「ZAi」「あるじゃん」「会社四季報」などITバブル時代のマネー誌の興亡を書いている。第十章 「噂の真相」VS「週刊金曜日」「噂の真相」と「週刊金曜日」の類似点や違いについて書いてある。第十一章 オンライン書店戦争アマゾン、ブックサービス、紀伊国屋、ブックワンなどについて書いてある。2000年のアマゾンの上陸を業界では過剰投資だと危ぶんでいたようだけれど、今では本のタイトルで検索すればだいたいアマゾンが検索結果のトップに来るわけで、他の書店が後発の外資に追い抜かれたのは情けない。定価が同じ本を売っているにもかかわらずアマゾンが他のオンライン書店より人気があるのは、送料の安さや発送の早さといったサービスのよさに加えて、ユーザーレビューやアフィリエイトがあることでSEOに強いせいだろう。アマゾンはただ本を売るという以外の付加価値をつけたわけで、ユーザーが本の賛否を議論する場所にもなっている。中身が見れない本のオンライン購入の場合は読んだ人のレビューが購入のきっかけになりうるので、そこを疎かにしている他のオンライン書店がアマゾンに負けるのも必然といえる。しかしアマゾンではレビューの削除基準が不透明なうえに勝手にレビューが削除されるそうなので、私はアマゾンにレビューを書くつもりはない。私のようなアマゾン嫌いな人が他にもいると思うので、他のオンライン書店が読者が議論できるコミュニティをうまくつくればまだアマゾンから客を横取りできるチャンスがあると思うのだが、出版業界はネットに対して保守的で頭が固くてよくない。たとえばゲームならメーカーが実況者にソフトを配って宣伝するけど、出版社や本屋がYouTuberに本を配って感想を広めてもらったり、人気声優に本を朗読させたりして動画を使った宣伝手段もとれるはずなのにやらないで、新聞に広告や書評を載せるような古臭い宣伝手法をとっている。新聞だの学者だのの権威から一方的に発信される情報をありがたがる昭和時代は過ぎ去ったので、平成のネット世代に物を売るには批評家目線でなくてユーザー目線でビジネスを見ないといけないと私は思うのだ。最終章 どこへ行く、出版界出版業界の買収や出版不況について書いてある。全体の感想としては、編集者や経営陣への取材に基づいて分析されていて、同業者だからといって他の出版社に甘いわけでもなく、トーハンの官僚主義や書店への配本の偏り、「週刊金曜日」の本多勝一タブーなど批判すべきところは批判しているのはよい。全部で400ページほどあって読み応えがあるルポになっている。15年も前の本なので時事問題については話題が古くなっているものの、その分を差し引いたとしても出版業界に興味がある人にとっては内部事情がわかって面白い。しかし女性誌について書かれていないのが物足りない。女性ファッション誌は雑誌の中では興亡が激しい人気ジャンルだと思うので掘り下げてほしかった。個人的に面白かったのは幻冬舎を創業した見城徹が初めて自社作品を世に出すにあたって起草した「闘争宣言」からの引用で、「私達は文芸が衰退しているのではなく、文芸を編集する側が衰退しているのだと考えています。すなわち、大手寡占状態の中で、出版社は作者と読者の両方の胸の鼓動や息遣いに耳を澄ますことなく本を送り出しているのではないか?」(p204)と言っていて、タレント本とはいえベストセラーを連発して文芸誌の編集者に喧嘩を売っているあたりはよい。最近いくつか編集者の本を読んだけれど、頭角を現す編集者は本に対する情熱を持っていて、自分が読みたい本を出そうとする特徴が共通している。読者にもその情熱が伝わるからこそ手がけた本が売れるのだろう。講談社の元役員によると「講談社の入社希望者のうち過半数が漫画誌希望者。次いでファッション関係。『週刊現代』などははるかに少ないし、文芸誌などほとんどいないに等しい」(p264)という状況で、エリート社員が漫画誌に配属されるらしい。講談社の「群像」にしろ集英社の「すばる」にしろ、漫画部門が圧倒的に売れている出版社が出している文芸誌がぱっとしないのはそもそも文学に興味がある編集者がいないせいなのだろう。文芸誌の編集者もちゃんと育成してほしいもんである。★★★★☆出版動乱 [ 清丸恵三郎 ]価格:1,836円(税込、送料込)
2016.02.21
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エンジニアの男が難民キャンプでボランティアする女に惚れたので会社をやめてカンボジアに行った話。●あらすじ船舶用エンジンのエンジニアの野山隆志はタイのカンボジア人の難民キャンプにエンジンを寄付してほしいと行ってきた難民支援ボランティアの樫村修子と出会って、二人は偶然同じ盛岡の出身で、ヤリチンのナンパから逃げた修子を野山が保護してエッチするものの、修子はタイに行ってしまって野山が悶々として、野山が出張でタイに行くと修子はデング熱にかかっていたので、ヌアルチャンとキャンプを見に行ってシソワットに子供の絵をもらって戻ると、子供が書いた幼稚園の絵にはタマリンドの木があった。キャンプは閉鎖される予定だったものの修子はカンボジアに行く予定で野山と東京で暮らすつもりはないといい、野山は話題を変えて汽車でタマリンドの実を食べた話をする。野山はタイを出て北欧に行って悶々と仕事をしていたものの、修子を追いかけてカンボジアに行く。●感想三人称。冒頭は難民キャンプである家族が生活する場面から始まるものの、ここで出てくる家族はその後物語に登場するわけでもないので、この場面はいらなかった。「ことが終わってずっと後になってから、野山隆志の同僚たちは行きつけの小料理屋の厚い白木のテーブルと小鉢の列を前にして、すべての発端になったあの打ち合わせの席へ彼を呼ぶべきではなかったのではないかと議論した。」「半年ほど前の問題の日、野山隆志は昼食の後、少し遅れて一人で社に戻った。」という思わせぶりな文章があるものの、ここで言う「こと」というのは野山が会社をやめて修子を追いかけていったことで、「すべての発端」「問題の日」というのは野山が修子に初めて会った日という意味しかない。「こと」だの「問題の日」だのと大げさな書き方をしているからこれがプロットの仕込みで、読み進めたら驚愕の事実が発覚するのかと思ったら何もなくて肩透かしをくらった。女のケツ追っかけて会社辞めたくらいで大騒ぎすんなっつーの。同僚が不倫相手と心中したとか、やくざの妻と駆け落ちして埋められたとか、刑事事件になるくらいの不祥事なら大騒ぎするのもわかるけれど、違法でもない他人の色恋沙汰を飯食いながら議論するサラリーマンは幼稚すぎないか。野山にしても幼稚なサラリーマンの一味なので、物語の主人公としての魅力がない。偶然出身地が同じで女のほうから泊まりにきてとんとん拍子にエッチするとか、空から女の子が降ってきたレベルのご都合主義。エッチは遠くきありて思ふもの、そして悲しくうたふものであるべきで、簡単に相思相愛になってエッチしてしまうとしらける。理系男子がそんなにモテてホイホイエッチできるんなら日本は少子化にならなかっただろうし、理系男子が二次元空間に迷い込むこともなかっただろう。物語としては難民だのカンボジアのポルポト派だのと舞台設定が大掛かりな割りに、結局は野山が仕事と女のどっちをとるか悶々としたというだけで、主人公とヒロインは始終両思いで、脇役との絡みもなく、事件も起きず、舞台設定も小道具も生かせてなくてプロットがないのでつまらない。タイトルのタマリンドの木にしても難民キャンプの象徴としてちょろっとエピソードを入れた程度で、象徴ありきで物語をでっちあげたような感じ。池澤夏樹の初めての恋愛小説らしいけれど、初めての恋愛小説だから下手というよりも手抜きして短編程度の内容を中編に引き伸ばしたような感じで、特に読む価値なし。どうせリアリティのないフィクションなのだから、会社の金を何億か横領して難民と結婚してエンジニアの知識を生かして武器を量産して反政府側のリーダーになって政府にゲリラ戦を挑むくらいの冒険をしてほしいもんである。★★☆☆☆タマリンドの木【電子書籍】[ 池澤夏樹 ]価格:432円
2016.02.14
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38年間文藝春秋で働いた編集者が司馬遼太郎、松本清張、和田芳恵、立原正秋、阪田寛夫、中上健二、有吉佐和子、中里恒子、芝木好子、江藤淳、辻邦夫、大岡昇平、遠藤周作、中野孝次らの作家たちや編集者の仕事について語ったエッセイ。各作家については親密度合いに差があるようで、原稿を取りに行ったときのエピソードをちょろっと書いた程度の作家もいれば、死に際に病院まで見舞った作家もいる。作家名を列挙したほうが本としては売れるのだろうけれど、作家論というほど作家について語っていないので内容は物足りない。編集者の仕事としてはファクシミリがなくて締め切り間際にタクシーで作家の家に行って原稿を受け取って印刷所に運ぶまでが一仕事だった時代の苦労話で、メールでやり取りする現代人には大して面白い話でもない。文藝春秋の編集者が自社が主催する芥川賞や直木賞をあげた売れっ子作家について悪く言うことは基本的にないので、作家に迷惑をかけられてもただの苦労話としてごまかされている感じ。中上健二のデビュー時から手伝って金の前借にも応じて死を見取るまでを感動的なエピソードのように書いているけれども、ヤスケンが中上健二は原稿が遅くて甘やかされたクズ作家だと言っていたのとは対照的。個人的に面白かったのは、和田芳恵が文學界の原稿を依頼された際に文學界を一冊読んで、新人の小説は編集者が納得いくまで書き直しを求めるので編集部の求める作品の水準がわかり、座談会や対談のまとめ方で編集者の能力や知識がわかり、特集企画の題名と割付けで編集者の感覚がわかると言った点。いまどきの文芸誌は新人が壊滅状態で、書き直せばもっと良くなるようなものでも下手なまま載っているので、私はこの編集者たちが編集している間は文芸誌は読むだけ無駄だと思って読むのをやめた。あと気になったのは、著者が「秀れた現代作家は秀れた現代史家と言っていいだろう。」といって唐十郎の『佐川君からの手紙』を例に挙げて、小説は題材が勝負であると言っている点。被害者のことは一切考えずに人肉食のセンセーショナルな部分だけに注目していて倫理観の欠片もない。金儲けのためなら何でもネタにするという文藝春秋の編集者のゲスな本性が垣間見えた。あとは芥川賞・直木賞の選考の仕組み(下読みチームの候補作選定方法、選考会の○△×方式など)について書いてあるので、そこは資料として役に立つかもしれない。文藝春秋の元編集者のエッセイが文藝春秋からは出版されなくて、青志社で単行本になったあとに集英社文庫で文庫本になるのは謎。★★★☆☆編集者魂 [ 高橋一清 ]価格:648円(税込、送料込)
2016.02.14
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きちがいのヤリマン女が海外旅行してドラッグやらセックスやらをする話。●あらすじヤリマンの黒沢真知子が会社をやめたら幻覚や幻聴が出るようになり、通称『先生』の元大学教授の金持ちサカキバラヨシオとパリ経由でモロッコに行くことになるものの、自分の分身のジョエルの幻聴の指示に従ってパリで先生から逃げて、他のホテルで知り合ったコバヤシとラフォンスとディスコにいってサイコパワーで催眠術師を吹っ飛ばしてコカインをやって仲良くなって、再会した先生を仲間に殺させて、モナコの賭博場で幽霊の幻聴を聞いて発情してペニスだけの幽霊に会いに行って、その後モロッコに行ってコカインをやりながらレズってたら警察に捕まり、テレパシーを使って脅迫して釈放されたら一人でマラケシュに行って、ターキッシュ・バスでおばあさんと言語波で旅や故郷について会話して、おばあさんからイビサの話を聞いてバルセロナに行くと、犯罪者が売春婦の少女に目をつけていたので自分が身代わりになると言語波を送って、両手両足を切断されたものの奇跡的に地元の資産家に助けれて、ディスコのシンボルとして生き延びることにする。●感想黒沢真知子の一人称。一人称なのに語り手に自分語りする動機がなく、現在形と過去形がごっちゃになっていていつの時点から語っているのか不明で、ナラトロジーとしての設定が詰められていない。「先月からわたしは歯にペンをはさんで字や絵を書くことを始めた。最初の手紙は、父親にあてて出すつもりだ。絵のテーマも決まった。モチーフはすべて、歯と骨だ。」というのがラストの文章だけれど、じゃあこの物語はいつどうやって書いたのか。歯にペンをはさんで一ヶ月で自伝を書き上げたというのはありえないし、つじつまが合わない。それに一人称の場合は何かしら自分語りする動機があるべきだけれど、その動機がないまま語り手が本来は隠すはずのドラッグやら殺人やら犯罪がらみの出来事をべらべらくっちゃべっているがゆえに、女性の一人称なのに村上龍というおっさんが小手先で書いているのが丸出しでリアリティがなく興ざめする。そのうえ黒沢真知子の経歴や人間関係が謎のままで、幻覚まじりのわけがわからない自分語りが展開するので、物語に入り込めない。さらには黒沢真知子には主人公として物語を牽引する動機がなく、プロットがないような妄想交じりのエログロエピソードがだらだらと続く。短編ならナラトロジー的におかしくてもまだ読めるものの、長編でこの語り手に付き合うのはつらい。40ページくらい読んで続きを読む気をなくして、一応最後まで読んだもののの面白いと思える箇所がどこにもなかった。作者はセックスやらドラッグやらを書いて何かしら出来事を書いたつもりになっているけれど、そもそも一人称の語りにリアリティがないので濡れ場も暴力シーンもくそつまらない。さらにはサイキックだの言語波だの奇跡的に助かるだのというご都合主義のごり押しにうんざりする。赤プリとかディスコとか海外旅行で自分探しとかいかにもバブル時代に濫造された三文小説という感じ。きちがいヤリマンの自分探しなんかをテーマにしないで、エンタメとしてポルノに徹していたほうがまだましだったかもしれない。純文学としてもエンタメとしても駄作。★★☆☆☆イビサ [ 村上龍 ]価格:534円(税込、送料込)
2016.02.10
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自称スーパーエディターの著者が編集者になったいきさつと、編集者の適正、編集者として自分がやった仕事を書いた本。安原は編集者は本が死ぬほど好きで好奇心が旺盛でなければならず、編集者は適正のあるなしがすべてで、長くやったからといってベテランになるわけでもなく、合議制でやるより一人の編集者が仕切ったほうがよいといい、経済的に自立しえぬ商品で、死んだメディアであるすべての文芸雑誌は一度廃刊すべしといっている。文芸記者は新人をじっくり育てず、既成の作家たちの虚名のみにすがり、毎月の原稿を集めるだけが仕事の編集者にはクズ小説と傑作を見分ける眼力がなく、文芸誌に本気で小説を書く作家が出てくる訳がなく、読者の文芸誌離れは激化するだろうと言っている。私と似たようなことを言っていているけれども、編集者でもなく読書量も乏しいいち読者の私がスーパーエディター安原と似たような意見を持ったということは、私がスーパーエディター並みの眼力を持ったという訳ではなく、純文学や文芸誌を取り巻く状況は安原がバリバリ編集者をしていた70-80年代から改善されていないどころか悪化していて、私のような教養のないアホな若造にさえ知覚できるくらい小説の質が落ちているということだろう。しかし文芸誌に限らず出版業界全体が粗製乱造になっているので、文芸誌の作家や編集者だけが飛びぬけて質が低いというよりは斜陽の出版業界全体の質が低下していると思われる。中身スカスカの新書や自己啓発本は売れれば中身は何でもいいという出版業界の劣化を顕著に表している。文芸誌離れというよりは本離れで、著者はブログやSNSで直接最新情報を発信して、まとめサイトとかのコンテンツアグリゲータが編集者代わりにネットで無料で役立つ情報を編集して提供するようになって、理念のない出版社も編集者もゴミ本も読者にとってはいらなくなってしまったのだろう。他の内容としては、安原が手がけた雑誌『海』や『マリクレール』などの目次が延々と列挙されているので、文学関係の編集者を目指す人には企画の立て方の参考になるかもしれない。あとは東峰夫、竹西寛子、円地文子、津島佑子、武田百合子、吉増剛造、瀧井孝作、金井美恵子、佐々木基一、佐木隆三、野坂昭如、木下順二、山田風太郎、村上春樹、佐多稲子、野口富士男、河盛好蔵、林京子、飯島耕一、柴田南雄、中村真一郎、谷川俊太郎、色川武大、荒木経惟への短いインタビューが載っているけれど、ちょろっと生い立ちや作家になったいきさつを尋ねた程度。この本の中ではインタビューが一番面白かったものの、『なぜ「作家」なのか』という別のインタビュー集を読んだほうがよかったかもしれない。安原は三浦雅士や池澤夏樹を世話してやったのに売れたら態度が変わったとか、中上健二はクズ作家だとか、「マリ・クレール」の編集長は無能だったとか、中央公論の嶋中鵬二社長は気が狂ったとか、大江健三郎の「タレコミ事件」以来大江を蔑んでいるとか、全方位に悪態をついているけれど、作家については下手糞だの見る目がないだのと腐すだけで具体的にどこがどう悪いのかという作品論は展開していないので、論理的な批評を期待する人にとっては読む価値は乏しい。安原はニーチェの誇大妄想よりはましなものの、自称天才の俺様的な態度が痛い。毒舌的ユーモアというよりは本気で周りの作家や編集者を見下していたのだろう。口は悪いものの、本への情熱をもっていて、作家や他の編集者と馴れ合わずに読者にとって価値のある本を出版しようとしている姿勢はよい。★★★☆☆決定版「編集者」の仕事 [ 安原顕 ]価格:2,268円(税込、送料込)
2016.02.08
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2003-4年に書かれた短編・掌編集。「白昼」は白昼堂々自分を垂れ流している男を追いかけていたら追いかけられていたという話。○○している人が実は自分が○○されていた、というのは掌編小説に良くあるパターンで、プロットとしては特に面白くもない。こういうパターンで成功したのはコルタサルの「続いている公園」で、こっちはオチに切れがあるうえに、現実と虚構の世界がつながるというオシャレな仕上がり。平野みたいにぐだぐだやると素人がこね回した寿司みたいになってネタが痛む。「初七日」は心筋梗塞で児島康作が死んでから家族が葬式をしたり火葬をしたり康作の従軍について考えたりしていると猫が家に入ってきたので追い出した話であった。三人称であった。なんといまどき「であった」調の文体であった。現代人が普段の作文で「であった」調を自分の言葉として使う機会はまずないので、意図的に古い小説の文体をまねて言文不一致にしたのであろう。作者は言語的擬態の器用さをみせびらかしたかったか、あるいは自分の表現方針を持っていないのではあるまいか。従軍についての思考を康作の長男の還暦越えの康蔵にさせるのは時代遅れで、なぜいまさら若い作家が戦後作家の真似をする必要があったのか。作者と同年代の登場人物が戦争について考えるというやり方もあったはずで、それが若い作家が書くべき本筋の物語展開であるが、そうしなかったのは、知識と想像だけで他人を理解できると高をくくり、なおかつ自分をさらけ出さないようにするという平野のような高学歴な人によくある自己欺瞞であろう。誰かの真似をして小説らしい小説を書いたがゆえに、作者自身が投影されておらず小説の表現としては価値がないのである。戦後世代の真似をして作者が体験してもない戦争を回想したところで、作者個人の左翼的懐古趣味を満たすだけで、過去の出来事を新しい視点でとらえるわけでもなく、読者にとってはなんら得るものがないのであった。葬式の話などは本来は私小説作家が自分の体験として語るがゆえに、作者の心情の吐露として表現が価値を持つのである。作者が育った福岡の方言を使っているあたりは唯一リアリティのかけらが残っていたが、欺瞞に満ちた文体で台無しにしたのであった。66ページもあって割りと長めなうえにつまらないので、ひーこらひーこらばひんばひんであった。「珍事」はホテルのサラリーマンが向かいのビルの窓から見られていて、そいつに手を振られたという話。三人称。珍事を期待している相手の人生を見下しているつもりの男がつまらない人生を送っていたという、○○している人が実は自分が○○だったというパターンの一種。掌編なので特に見所がない。「閉じ込められた少年」はいじめられていた僕が、あいつをナイフで刺した話。一人称。ABCDEDCBAというような回文的構図だけれど、改行箇所は変わっている。一人称で変なことをやったせいでナラトロジーとしての語りのリアリティはなくなり、そのうえ物語としても面白いわけでもなく、とりあえず回文的なことをやってみたという以外に見所がない。「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」はひとつのタイトルだけれどまったく関係のない二つの短編。「瀕死の午後」はひったくり常習犯の男が闇金から金を借りた女からひったくろうとして事故に会う話。三人称で、短編なのに男と女の視点を変えるあたりは物語の焦点がぶれてしまう悪手で、どちらか片方に視点を固定したほうがよい。内容はなんのひねりもなく、小説として金払って読む価値なし。「波打つ磯の幼い兄弟」は幼い兄弟が波打ち際に行って、弟が潮を警戒して兄を呼ぶものの、兄が意地になってカニをとろうとするうちに帰れなくなる話。長編の中のいちエピソードとしてその後生き残った兄弟のどちらかが云々という展開になるならこれでいいけれど、短編でこの場面だけ展開されてもどうしようもない。昭和初期ならこういうリアリズムお涙頂戴系短編で十分及第点なのだろうけれど、わかりやすい悲劇をそのまま提示するのは現代の純文学作家としては芸がない。こういう素直な小説はデビュー前後の習作として書いたりするものだけれど、平野は変なデビューの仕方をしたのでデビューしてから数年たってからこういうのを書きたくなったんだろうか。「les petites Passions」は少年が主人公の「彼方」「数」「性」「記憶」「自己」の掌編小説。「彼方」は中二病の少年が空で処刑される妄想をする話。「数」は少年が街中でいきなり消えたという話。「性」は少年の恋がクラスに知られたので全身が切断される話。「記憶」は少年が死の空を眺めて泣く話。「自己」は孤独な少年が自分が放った刺客に滅多刺しにされる話。マジック中二病イズムでもやろうとしたんだろうか。なんでタイトルフランス語なのか意味不明。そこは中二病的に難解な漢字に無理やり読み方を割り振るべきだろう。「くしゃみ」はひ弱な男がくしゃみをしてばらばらに壊れるという掌編小説。でっていう。くしゃみで壊れるくらいひ弱ならとっくに壊れてるだろうに。「最後の変身」は会社をぶっちして部屋に引きこもっているネット中毒の書評家きどりの男がカフカの『変身』について考えたり虫に変身したつもりになる話。俺の一人称の横書きの手記形式。男はバブル崩壊時に小学生なので、団塊ジュニア世代なのだろう。パソコンで遺書を書いてネットでばらまくという動機で男が自分語りをしていて、一応ナラトロジーとしての整合性はあるものの、テレヴィ、コンヴィニと書くあたりは平野臭さがプンプンするので一般人の言葉としてのリアリティはない。この小説も、星野智幸の『ロンリー・ハーツ・キラー』も2003-4年頃の同時期に書かれた小説だけれど、ネットにアップするために手記を書くということで一人称の語りの動機の整合性をつけようとするあたりは現代的ともいえるけれどもそのぶん安直な手法。紙の本で出版しないで電子書籍限定にするくらいに凝らないと芸にならない。さらには話の大部分をカフカの『変身』に頼っていて独創性がない。この小説では語り手の男の意見を垂れ流しにするだけで、それに対する外部からの批判が何一つないため、話にしまりがなくてやたら冗長。語り手の男は遺書として書いたから自分の意見が拡散されるはずと思っているけれど、命がけで書いたゴミは結局ゴミでしかない。そのゴミを文学的な遊びに昇華させるような仕掛けもなく、純文学としての構成が練られていない。ナウシカの蟲みたいに仲間を呼ぶとか、体液がでちゃうとか、触手を伸ばすとか、ピギャーと叫ぶとか、何かしら虫っぽい面白さがほしいもんである。こんなつまらない小説もどきの読書感想文を読むくらいならゴキブリの観察でもしてたほうがましやんけ。ちなみにAnimal Planet Liveではゴキブリをライブカメラで放送しているので、自分でゴキブリを生け捕りにするのがめんどくさいという人はこっちで観察するとよい。「『バベルのコンピューター』」は文芸作品が映像化されたというイーゴル・オリッチの『バベルのコンピューター』という架空の作品についての批評。内容に興味がないので流し読みしていたら、ページがペイジと書かれてある時点でジミー・ペイジが気になってしまい、これを読むのをやめてネットサーフィンすることにした。平野はせっせと脚注まで作りこんでいるものの、読者が脚注まで読んでくれると思ったら甘いのである。ジミー・ペイジの観察でもしてたほうがましやんけ。●感想私は平野啓一郎は嫌いなものの、実験小説は嫌いでないのでこの本のamazonの評価が悪いのを承知でわざわざブックオフで108円もの大金を払ってこの本を読むことにしたのであった。しかし実験というほど実験になっていないので期待はずれであった。せめて筒井康隆のようにギャグでもあれば実験小説でも楽しく読めるものの、平野には筒井のようなユーモアやカルヴィーノのようなおしゃれさがないのであった。オビには「衝撃のデビューから五年、平野啓一郎が、いま、新たな頂点をきわめる!」というおおげさな宣伝文句が書いてあるけれど、これ以上成長しないよという宣言なんだろうか。言葉のうわべにだけ凝って中身が欠落した小説ばかり書いてきた平野にふさわしいオビであった。こんな内容じゃ売れないだろうなと奥付を見てみたら、やはり初版であった。本棚に置くにも邪魔なので捨てることにしたのであった。ブックオフにキャッチアンドリリースするのさえめんどくさいのであった。★★☆☆☆であった。滴り落ちる時計たちの波紋 [ 平野啓一郎 ]価格:648円(税込、送料込)
2016.02.04
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