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妖に守られている病弱な若旦那が殺人事件に巻き込まれる話。●あらすじ廻船問屋長崎屋の若旦那の一太郎は体が弱くて祖父の遺言で犬神の佐助と白沢の仁吉や付喪神たちに守られて生活していて、過保護な親の目を盗んで外出したら殺人犯に顔を見られてしまう。岡っ引きの清七は武士の試し切りだというものの一太郎は納得がいかなかったので妖たちに事件を調べさせる。一太郎は幼馴染の菓子屋の栄吉の愚痴を聞いたり街の様子を聞いたりして事件を推理していると、木乃伊を欲しがる変な客に襲われて、男は下手人として捕まるものの動機が腑に落ちない。一太郎は内緒で奉公に行った兄の松之助に会いに行って行方不明になったので仁吉が探しに行くと、薬種屋が薬を欲しがる男に殺される事件が次々に起きる。一太郎は屏風のぞきに親が兄を疎んじている理由を聞きだす。また薬種屋が殺されて犯人の動機が一様におかしいので、一太郎は妖絡みの事件だと思って妖たちに捜査をさせると、付喪神になりそこねた墨壺が人間にとりついたようだった。墨壺は付喪神になるための薬を欲しがって返魂香で生き返った一太郎を狙っていたので、一太郎たちは墨壺と対決する。●感想一太郎視点の三人称。著者は漫画家から小説家に転向したらしく、いかにも漫画チックな内容。殺人事件を調べていくうちに一太郎が夜中に外出をする理由や一太郎が妖に守られている理由が明らかになっていくというオーソドックスなミステリの構図。しかし妖に事件を捜査させるのなら岡っ引きが事件を語るのは蛇足になる。そのうえ前半は病弱な一太郎のペースに合わせて展開がのんびりもっさりしているのでサスペンス性が低くなるし、妖ならではという見せ場も少ない。せっかくいろいろな種類の妖が出てくるのだから、事件を調べる鳴家の視点だとか妖怪ならではの人間とは違う捜査方法や考え方を展開したらミステリとしてもっと面白くなったかもしれない。言葉遣いは現代語なので、読みやすい反面江戸時代を舞台にする必然性も薄くなる。妖が当然のように存在する雰囲気づくりとして現代以外の舞台設定にしたいのだろうけれど、妖が怖い存在でなくて一太郎目線で親しい存在として書かれているので妖怪らしい不気味さがないし、妖が活躍する場面があまりないし、現代語なのでよけいにあっさりした雰囲気になっていて、雰囲気作りの演出がどこかちぐはぐな感じ。妖怪ならではのおどろおどろしい雰囲気がまったくなくて『ぬらりひょんの孫』系の人間に従属する怖くない妖怪で、いかにも腐女子受けしそうな感じなのでこの辺は好みが分かれるかもしれない。私はアニメの『モノノ怪』や『墓場鬼太郎』みたいな不気味な妖怪のホラーが好きなので、小粋で小回りが利く妖怪というのは魅力がない。人知で理解できない存在だからこそ妖怪に魅力があるわけで、人間が妖怪を理解して手懐けてしまったら人間やペットと大差なくなってしまう。そのせいかミステリでもなくホラーでもなく時代小説でもないファンタジーという感じになっていて、ジャンル小説になり損ねた消去法のようなファンタジーなのはよくない。文体としても特徴がないので、これは小説でなくても漫画でもいいんじゃないのと思ったら、漫画版『しゃばけ』や、『しゃばけ漫画』もあるらしい。元漫画家の小説が原作の漫画というなんか変な展開で、結局は最初から漫画で出せばよかったんじゃないのと思う。★★★☆☆しゃばけ (新潮文庫) [ 畠中恵 ]しゃばけ 1巻【電子書籍】[ 畠中恵 ]しゃばけ漫画 仁吉の巻【電子書籍】[ 畠中恵 ]しゃばけ漫画 佐助の巻【電子書籍】[ 畠中恵 ]
2018.09.19
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19世紀末から20世紀初頭に活躍したウィーンの作家たちの短編小説集。シュニッツラー「レデゴンダの日記」は私のところに知人のヴェーヴァルトが来て、レデゴンダと浮気してたら日記で旦那にばれて決闘したと打ち明ける怪奇短編。バール「ジャネット」はジャネットに浮気されて意気投合したパウルとムニエが今度はジャネットとよりを戻そうとしてお互いを出し抜こうとする話。アルテンベルク「小品六つ」は風船に未練を持つ貧乏な少女とか、ホテルにネズミがでたのに信じてもらえない客とかの印象主義の掌編小説。ホフマンスタール「バッソンピエール公綺譚」はペストが流行っているときにバッソンピエール公が若い女との不倫していたら女と会えなくなった話。ヘヴェジー「地獄のジュール・ヴェルヌ 天国のジュール・ヴェルヌ」はジュール・ヴェルヌが地獄でよぼよぼの閻魔大王に会ったり天国でネモ船長に案内されて原始人のアダムに会ったりした様子を書いたユーモア短編。ヘルツマノフスキー=オルランド「シャイブスの町の第二木曜日」はシャイブスの市民が一週間にもう一つ木曜日が欲しいと言い出したので宇宙の秩序に悪影響を与える恐ろしい予測がされる話。シャオカル「ダンディ、ならびにその同義語に関するアンドレアス・フォン・バルテッサーの意見」は人からダンディと呼ばれるアンドレアスがダンディは意識をアイロニカルに眺めていてマナーにかけていなくて云々という話。フリーデル「オーストリア気質」は新聞の編集者からオーストリア人の気質について原稿を依頼されたフリーデルが他人に仕事を丸投げする様子がオーストリア人気質だという書簡体コメディ。ブライ「文学動物大百科(抄)」はカフカを真っ青なネズミと解説したりして作家を文学動物として皮肉った百科事典。クー「余はいかにして司会者となりしか──十の忠告と一つの警告」は司会者になるには冷笑的な口元や満足的な目つきや時折口ごもることなどが重要なのだという的外れな忠告をしておいてこの職業はやめとけと警告する話。クラウス「楽天家と不平家の対話」は世界大戦について楽天家と不平家が対話する話。ポルガー「すみれの君」は劇場の女たちからすみれの君と呼ばれていたルドルフ伯爵がトランプの借金で没落してみじめな老人になったところにベッティーナが訪ねてきて結婚してくれと言い出す話。ツヴァイク「落第生」はいやみな教師の気まぐれで落第させられたリープマン君が教師を殴って逃走する話。ベーア=ホフマン「ある夢の記憶」はパウルが散歩中にゲオルグが死んだ夜に見た夢の記憶を思い出す話。ロート「フェルメライヤー駅長」は貨物列車の事故で怪我したロシア人の伯爵夫人を家で介抱した駅長が伯爵夫人に惚れて、戦争で徴兵されて妻子を放っておいて伯爵夫人を口説いて不倫していたら、伯爵が戦場から帰ってくる話。ムージル「カカーニエン」は天才の国だったがゆえに没落したカカーニエンについての回想。●感想怪奇譚やら恋愛やらコメディやら、短編のバリエーションが多いのはよい。しかし百年前の小説でおまけに短編なので、プロットはあまり練られてない。面白さを楽しむ小説というよりは世紀末ウィーン流のユーモアを楽しむ小説という感じ。「地獄のジュール・ヴェルヌ 天国のジュール・ヴェルヌ」や「シャイブスの町の第二木曜日」は筒井康隆的なユーモアがあるけれど、エンタメとしてはやはり現代のフィクションのほうが面白い。印象に残ったのはツヴァイクの「落第生」で、現代のいじめ自殺に通じるものがある。編者の好みなのかユーモラスな小説が多いけれど、昔の小説は状況をユーモラスにとらえる感性、あるいは皮肉として異化する感性が一種の作家の資質だったのかもしれない。クンデラが『小説の精神』で小説の知恵はユーモアの精神から生まれたというようなことを言っていたけれど、ユーモアというのは権力をあざ笑って逆境に屈しないという作家の姿勢の表明である。このユーモアは現代の純文学作家には欠けているもので、純文学は地味で暗くて内向きでネチネチしてカビ臭くて負のオーラをまとった呪いの本みたいなもんになってしまった。中村文則や田中慎弥や高橋弘希みたいなのが選考委員に好まれているようで芥川賞を受賞したけれど、私はこの人たちの小説は読む気がしない。平和な時代に苦労せずに育った人がわざわざ体験したこともない暴力に興味を持ってユーモアのない感傷的で悲壮な物語を書くのは殴り合いもしたことがない陰キャラの中二病気質を見ているようでいたたまれなくなる。昔の小説はプロットよりも作家性が重視されたのに対して、現代の小説は作家性よりもプロットが重視されている。事物の螺旋的発展として考えると、現代の作家はプロットの面白さを保ったまま作家性をもう一段階向上させることが必要だろう。現代の作家が古典と同じことをやるなら古典だけあればいいし、ノンフィクションを参考にしてすでに語られたことを確認するだけの小説もいらない。小説だけが書きうることを書くには作家の個性や思想が不可欠である。その個性の中でもユーモアはくだらないものとして過小評価されがちだけれど、ユーモアの価値が見直されるときが来るんじゃないかと思う。暴力を暴力として書くのでなく、筒井康隆みたいにユーモアで社会に喧嘩を売る愉快な作家がいればよいのだけれど、今のところ筒井康隆の後継者になりそうな作家がいなさそう。又吉はまじめに文学をやらずにもっとふざければいいのに、中村文則なんかとつるんで辛気臭くなってしまって笑えない。素人のYouTuberやニコ生主が芸人よりも人気なのも芸の熟練度よりもユーモアによるもので、芸能界の上下関係で委縮して余裕がないような芸人が計算づくで小器用に漫才をするのを見てても笑えないし、素人が構成を練らずに伸び伸びとバカなことをやっているほうがリアクションがユーモラスなのである。そのうちYouTuber作家みたいなのが出てきたら純文学は変わるんだろうか。★★★☆☆【中古】 ウィーン世紀末文学選 岩波文庫/池内紀(その他) 【中古】afb
2018.09.15
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DQN(ドキュン)というのは非常識な言動をする人を指すスラングだけれど、バーベキューをするDQNはBBQN(バーベキュン)あるいはBQN(バキュン)と呼ばれる。バーベーキューというのは火+肉+酒+音楽というディオニュソス的な集団的狂乱を引き起こす行事である。ディオニュソスの祭りでは悲劇の競作が行われたそうだけれど、バーベキューでも酒を飲んで川で泳いだ人が溺死したり、酒を飲んで喧嘩して傷害致死したりする事件が毎年の恒例行事になっている。そもそもなぜ焼肉屋でなくわざわざ河原まで出かけて行ってバーベキューで肉を焼きたがるのか、監視員がいて安全なプールや海水浴場でなく危険な川で泳ぎたがるのか考えることにした。●なぜDQNはバーベキューが好きなのか・仲間を確認したい人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限であるダンバー数は100-250人と言われているけれど、バーべーキューも数十人の小集団で行われている。バーベーキューは結婚式の披露宴みたいなもので、仲間が一堂に会する場所や機会が日常生活にはあまりないし、焼き肉屋を貸し切りにしたりすると金がかかるので、仲間を確認する儀式として場所代がかからない河川敷でバーベキューを行って、誰がどのグループに属していて誰とつながりがあるのかという人間関係を確認して仲間の絆を深めるわけである。恋人ができた人はバーベキューに連れて行って仲間に紹介して、恋人と別れた人はバーベキュー参加者の中から恋人を見つけようとして、仲間内での人間関係を強固にしていく。どんちゃん騒ぎをするにしても、自治体主体で不特定多数が集まる祭りと、親しい仲間だけが集まるバーベキューでは目的が違うわけで、バーベキューの場合は仲間に重点が置かれている。そもそも動物は食べ物を分けてお互いを飢えさせないことで相手を仲間として認識するので、犬や猫やカラスのような社会性がある動物は餌をあげると人に懐く。バーベキューはレストランみたいに一人分ずつ食事を作るのでなくて、大きなコンロで大量の食材を焼いて皆で少しづつ分けるという食べ方なので、仲間を作るのに適した原始的な食事の仕方である。そして普段行かない場所に行って誰かと何かを食べた体験はエピソード記憶として長期記憶に残りやすい。バーベキューは非日常的な河原に出かけてものを食べて仲間を記憶するのにちょうどいい条件がそろっている。・仲間外れになりたくないので誘いを断れないソロキャンプをするには一人で機材を全部用意しないといけないので金がかかる。しかし貧乏でも、車を出す人、テントを持ってくる人、コンロを持ってくる人、肉を買う人、酒を買う人、設営や片付けをする人に役割を分担すれば、一人ではできないこともみんなでできるようになる。このようにDQNは貧しさをカバーし合っているので、一人で行動せずに仲間という集団で行動する。バーベキュー主催者が仕事を回してくれる土建屋の親方とか人間関係に影響力があるマイルドヤンキーのリーダーとかだと、誘いを断って機嫌を損ねるとそのグループ全体から仲間外れにされて人間関係や仕事をなくして孤独な貧乏人になってしまうので誘いを断れないのである。・影響力を確認したいイベント系サークルが頻繁にパーティーをするように、イベントの主催者は自分が一声かけたら大勢の人が集まったという影響力を確認して満足したいので、定期的にイベントを開催したがる。泊りがけのキャンプの誘いとかなら準備が面倒だったり他に用事があったりして誘いを断る人も出てくるけれど、半日バーベキューをする程度なら相手に断られにくいし、友達も気軽に連れて来やすくて仲間が増えて主催者の影響力が大きくなるので、バーベキューは人を集めるのにちょうどよい。・治外法権の場所でヒャッハーしたい都会というのとは常に他人の目があって、何をするにも息苦しい。自宅の前の道路でバーベキューをすると隣の家のババアが文句をいうので、他人の目を気にせずに思う存分楽しみたいという欲求を満たすために管理者が常駐していない川まで出かけて行ってバーベキューを行うわけである。DQNの川流れとして知られる玄倉川水難事故で中洲でキャンプしていた人たちが再三の避難勧告に従わずに危険な中州に残ったのは、テントの設営をして自分たちのテリトリーを持ったことで自分がその土地の領主として主導権を持った気分になって他人からの命令を受け付けなくなったのだろう。社会心理学では集団になると極端な言動をするようになることをリスキーシフトというけれど、大雨で増水した川の中州でキャンプするのは危険だから避難したほうがよというのは個人なら誰でも理解できるだろうけれど、集団になると「早く失せろ、殴るぞ」という聞く耳を持たないDQNリーダーに同調するようになって無自覚にリスキーな行動をしてしまう。キャンプをして仲間の絆を深めたことでかえって集団としての判断を誤らせることになった。DQNは河原に領土を獲得してキャンプを設営すると、もはやいち市民ではなく一国の武将になる。そこで酒が入ると武将モードが発動して、身分が下の者の態度が気に入らないと難癖をつけて刃傷沙汰になる。・原始に帰って野性が目覚めるどの文明も川のそばの平野で生まれたのは、川が氾濫することで土地が肥沃になるし、川が敵の侵略を防いだり交易の拠点になったりするからである。文明の利器に囲まれて育った現代人がわざわざ不便な川のそばに集まるのは、川の側が生存に有利だという本能によるものである。登山の素人は山で遭難すると山頂の登山道を目指さずに危険な川沿いを下って沢で身動きが取れなくなって死んでしまうように、川は人を引き寄せる性質がある。酒を飲んだDQNが川で泳ぐのも本能によるもので、日よけがなくて暑い川辺でアルコールを飲んで水分不足になると、冷たくて気持ちいい川に引き寄せられるのである。そして火を使って食べ物を調理するのは人間だけができる贅沢である。バーベキューの味付けなんてシンプルなもので、料理としてたいしてうまいわけでもない。しかし火を使って調理して皆で食料を分け合うことにバーベキューの意義があるので、ピクニックみたいに電子レンジとかの文明の利器を使ったおいしい弁当を持ち込んで上品に食べてはいけないのである。こうして川の側で火を扱って肉にかぶりついて野性が目覚めることで、DQNは自分が強くなった気分になるからバーベキューが好きなのである。ちなみに焚き木や炭で調理するときは「熾火(おきび)」という炭が赤くなった状態にすると火力が安定するのだけれど、DQNは火をガンガン燃え上がらせるのが好きなのでやたらと燃料を投下して焼きむらができたり焦げたりする。河川敷で調理するにしても芋煮会でDQNが暴れて死者が出ることはほとんどないので、DQNはバーベキューならではの肉と火が好きなのだといえる。・刺青を見せびらかしたい刺青を入れたのに見せる場所がないのではつまらないので、DQNはやたらと刺青を見せびらかしたがる。プールや海水浴場では刺青を隠すように監視員に注意されてうざいけれど、河川敷だと服装規定がないので、野外で上半身裸になって刺青を見せびらかして周囲の注目を集めることができてDQNの自己顕示欲を満たせる。DQNの集合写真はたいてい刺青を見せて格好つけている。ちなみに刺青については刺青・タトゥーについて考えるという記事で私の考えを書いています。●DQNがバーベキューで死ぬ原因普通の人はバーベキューで死ぬことはほとんどないけれど、DQNはなぜかバーベキューをすると死んでしまう。ということは死ぬ原因はバーベキューではなくて、DQNの行動に原因があるということになる。バーベキューをやるときに近くに川があること、火を扱うこと、酒を飲むことが死ぬきっかけになっているようである。・溺死そもそもDQNは仲間になめられたくなくて無駄に危険なことをやりたがるもので、川があると泳ぎたがる。グループの中のまともな人が危ないからやめとけと注意しても、DQNは臆病だと思われたくないがゆえに「大丈夫だって」「何ビビってんの」とかえってむきになって、自分に注目が集まることを喜んでしまう。そのうえ酒を飲むと理性がなくなって他人の注意を聞かなくなる。周りの人が抑え込んで無理やり止めようとすると喧嘩になってバーベキューの雰囲気が悪くなるので、それほど仲の良くないグループならDQNが泳ぐのを止めようとせず、そのままDQNが川に放流されることになる。自然には安全な場所というのはないもので、流れが穏やかな川でも溺死する危険がある。突然冷水と接することが原因で副交感神経が刺激されて心停止を起こすことを液浸症候群というけれど、川は底のほうが冷たくなっていることがあるので足がつく程度の深さだとしても水温が冷たいと心停止で溺れる可能性がある。あるいは川に入った最初のうちは元気でも水が冷たくて筋肉が冷えて泳ぎにくくなって低体温症になって溺れるパターンや、酒を飲んだうえに着衣で川に飛び込んで思うように泳げずに溺れるパターンや、橋とかの高い所から川に飛び込んで川底の石で頭を打ったり頸椎を損傷したり足を捻挫したりして溺れるパターンや、立とうとしても苔や泥で足が滑ってパニックになって溺れるパターンもある。さらには仲間のDQNも酔っていたり肉を焼くのに集中したり会話がはずんだりして周りに対して気を使っていなかったりするので、溺れた人がいてもすぐに気づかなくて救助が遅れる。海水浴場だとライフセーバーがいたり周りが泳ぐ準備ができていたりボートや浮き輪とかの救助に役立つ道具が近くにあるけれど、泳ぐための場所でない河川敷でその場のノリで川で泳ぐと周りも救助のための手段がないし、レスキュー隊を呼んでも現場に到着するまで時間がかかるし溺れている人の捜索や救助は大変なので、救助が遅れて心肺蘇生をしても手遅れで死亡率が高くなる。風物死と呼ばれるくらいバーベキューでの溺死が多いけれど、DQNに学習能力がないからこそ毎年死者がでる。・焼死液体着火剤は火をつける前の炭に塗って使うけれど、DQNは説明書を読まないので火をつけた後の炭に直接液体着火剤を投入して着火剤が飛び散って周囲の人が着火剤まみれになって炎上してしまう。ふざけて花火を相手に向けて化学繊維の服が燃え上がるパターンや、カセットボンベが爆発するパターンもある。・喧嘩で倒れて頭を打って死亡DQNはしばしばバーベキューで酔っぱらって他のグループに因縁をつけたり、女性をナンパしようとしてトラブルになったりして喧嘩をするけれど、バーベキューをやるような河原はたいてい大きめの石がごろごろ転がっているので、喧嘩で倒れた時に大きな石に頭を打ってしまうと打ちどころが悪ければ死亡する。酔っていると足元がふらつくうえに受け身も取らないので死亡率があがる。夏休みに死にたくない人は、夏休みに死なない方法の記事を読むとよいですよ。●DQNにバーベキューをやめさせる方法はあるのかコロナの蔓延防止のために政府が不要不急の外出自粛を要請したり地方自治体が河川敷を通行禁止にしたりしても、DQNは真面目に他人の言いなりになるのが格好悪いと思っているので効果がない。ではどうすればDQNに不要不急のバーベキューをやめさせることができるのか考えてみる。・罰金をとる違法駐車や飲酒運転や歩きたばこのような好ましくない行動をやめさせたいなら罰金を取るのが効果的で、最初は反発があっても社会的な慣習になれば従うようになる。バーベキュー禁止地域への不法侵入やゴミの不法投棄に対して罰金をとって、罰金を払うよりも有料バーベキュー場や焼き肉屋を予約するほうが安いのならDQNはそっちを使うかもしれない。・保険で不利になる告知をする川で泳いで死ぬにしても、生命保険に入っている場合に立ち入り禁止の場所や遊泳禁止の場所で泳いだりして死亡した時には普通死亡保険金は払われるものの災害保険金の分が払われなくなるので、受取人は損をする。DQNは立ち入り禁止の河川敷を人がいなくて好き勝手できる場所と認識しているけれど、事故が起きたら自己責任で大損する場所なのだと認識を改めれば危険なところには近づかなくなるかもしれない。・ライブ中継する川にはあちこちに水位を確認するための監視カメラがあるけれど、これを違法バーベキュースポットにも設置して24時間ライブ配信すれば、いくら恥知らずのDQNでもネットで全国に恥をさらすのは嫌がって避けるかもしれない。・DQNのテンションを下げる環境に無害なくさい臭いを付けた水を開発して河川敷に散布したり、水死者の供養塔を建ててお経を流したり、霊障があって運気が下がるパワーダウンスポットだと宣伝したりすれば、DQNのテンションが下がってバーベキューや水遊びをする気分でなくなって帰るかもしれない。●なぜDQNでない人はバーベキューが嫌いなのかマツコ・デラックスがバーベキューを批判したのが話題になったけれど、バーベキューが嫌いな人も少なくない。・仲間より自分が大事最近はソロキャンプが人気になっているけれど、自然が好きな人はまず個人として自然と向き合いたがる。他人の目を気にして他人と価値観を共有しなくても、自分が楽しければそれでいいのである。マイルドヤンキーは友達ネットワークから排除されると貧困になるから友達を重視するということが橘玲の『幸福の「資本」論』に書いてあるけれど、マイルドヤンキーでない人はわざわざバカとつるむくらいなら一人のほうがましだと考える。・野性より理性が大事理性がある人は自然とお友達になって自然を従えることはできないと知っているので、野性の呼び声を無視して理性で物事を判断する。家族連れなら危険な川でバーベキューをするくらいなら金を払って安全で衛生的なキャンプ場を使うし、もし川辺でバーベキューをするにしても天候に注意して、川の上流で雨が降ったら自分がいる場所で雨が降ってなくても鉄砲水を警戒して川から離れて、わざわざ危険な場所で酔って判断力をなくして無防備になるようなことはしない。・自宅が一番快適なので外出したくないわざわざ不便な場所に出かけて行って、偉い肉奉行のご機嫌取りをして、食中毒の危険がある肉を食べて、人間関係のいざこざに巻き込まれるなんて罰ゲームである。若者が職場のバーベキューに参加したがらないのは、一番下の立場で準備と後片付けでこき使われて、酒が入った上司や先輩にいびられるとわかっていて、休日をつぶしてまで参加するメリットがなんもないので、家にいてエアコンがきいた部屋でごろごろしてゲームするほうがましなのである。●DQNはバーベキューのようなフィクションが好き・仲間系フィクションはDQNだらけバトル漫画はたいてい主人公の仲間グループと敵グループの二項対立で、いい奴は仲間、悪い奴は敵、悪い奴はぶっとばして一件落着である。政治的駆け引きや話し合いの余地がなく、どんな理念を持っていようが強いほうが勝ちという野蛮なやり方である。主人公が自分たちに正義があると思っているという点でアウトロー漫画とは違うけれど、考え方や行動はDQNで、ボス戦で仲間が大集合して協力して敵を屠るバーベーキュー的展開になる。中でも典型的なのがやたらと仲間を強調する『ONE PIECE』である。表裏のないバカな船長が仲間と外出して権力や支配に反逆して大暴れしてセクシー美女と飯を食ってどんちゃん騒ぎをして仲間意識を深めるという展開で、これはいうなればバーベキュー漫画で、バーベキュー好きなマイルドヤンキーにうけた。・文学はバーベーキューの対極のぼっち系文学は一人の主人公の思想や行動に焦点を当てる。価値観が同じ仲間がわらわら出てきてみんなで騒ぐというバーベーキュー的展開は文学作品ではほとんどない。むしろ主人公が社会的に疎外されることで主人公の価値観が浮き彫りになる。しかしぼっち読者相手に本を売っても口コミが広がらないので、マーケティング的には旨味がない。出版業界が若者の読書離れをくいとめたいなら、DQNをターゲットにして仲間を大事にして俺らツエーウェーイするバーベキュー文学を売ればよいと思う。本なんか焚火にしてしまえ、ヒャッハー!的なバーベキュー文学があれば、たぶんマイルドヤンキーにうけてビートジェネレーション的な流行になって、バーベキューで本が燃やされるたびに増刷されて出版社は儲かるんじゃないかと思う。幸福の「資本」論あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」【電子書籍】[ 橘玲 ]
2018.09.12
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ミスター通産省と呼ばれた官僚の風越が人事をいじったり大臣やライバル官僚を相手に権力闘争をしたりする話。1975年の刊行で著者が48歳の時の作品。●あらすじ第一章 人事カード1960年代に通産省の人事権をもつ秘書課長の風越は人事で通産省を改革しようとして、結核なのにパリに行きたいという牧に見切りをつけて、有望な学生の御影と小糸に目をかけると、牧が小糸と同じ夜学に通ってフランス語を勉強していたのでパリに行かせることにする。第二章 大臣秘書官風越は秀才だが気に入らない片山をカナダに行かせる。風越が官房長官を批判して広島に飛ばされると、課長になった辻がすぐに根をあげて辞任したがったので、風越は性格の評価の仕方を考える。二年後、実力者の政治家の池内が通産大臣になったので秘書官に庭野を任命する。風越が推す人材が順調に出世する中で、牧はパリで放って置かれて焦る。第三章 対立通産省内では通商を重視して自由化を進めようとする池内大臣と玉木繊維局長、産業を重視して自由化尚早論を主張する風越らの局長が対立するものの、原綿原毛の自由化が強行されたので、風越はパリで理論武装した牧を呼び戻すことにする。第四章 登退庁ランプ風越は次期次官を約束された企業局長になり、庭野と牧を課長に据える。片山を新大臣の須藤の秘書官にすると親子のようにうまく仕事をこなしたものの、須藤は風越をいまいち信用してなくて風越が提案した予算を取ろうとしなかった。第五章 権限争議池内が総理になり、須藤に代わって反須藤派の古畑が通産大臣になる。風越は官民協調経済体制の指定産業振興法を立法しようとするものの、頭を下げない高飛車な姿勢のせいで金融界を敵に回して交渉が難儀して、風越が振興法の必要性を声高に主張すると国家総動員法として批判されて裏目になってしまう。古畑は玉木を次期次官にすると突然言い出して政界が荒れて、風越派閥は影響力をなくして振興法が廃案になる。第六章 春そして秋風越は特許庁長官に左遷されるものの仕事ぶりが良いので庁内では人気になり、政治の風向きが変わって風越が次期次官になるという噂が出る。片山は風越に気に入られていないし同期の庭野のスペア扱いされるのも嫌なので退職しようとするものの、玉木に説得されて思いとどまる。風越は次官になって大蔵省や政府を批判して、自動車会社の合併や鉄鋼業界の減産調整を行うものの、腹心の鮎川が病死して退官を決意する。第七章 冬また冬風越は天下りする気もなく政治家になる気もなくて無職になる。牧は企業局長になって風越のお気に入り官僚たちを冷遇して、風越が庭野を推しすぎたせいで庭野が潰されて入院して、風越は牧に文句があるもののもう通産省への影響力はなくなっていた。●感想三人称。1960年代が舞台で、である調とか木炭自動車とか、なうでヤングな若者にはあちこち古臭く感じるものの、文章自体は読みにくいわけではない。Wikipediaによるとほとんどの登場人物にモデルがいるらしい。出版と同時代に読んだ人にとってはモデルの政治家をじかに見ている分面白さがあったのかもしれないものの、60年代を知らない人が読んでもモデルとどれだけ似ているのかわからない。『官僚たちの夏』というタイトルの通り三人称でいろいろな官僚たちの視点で書いているけれど、性格や考え方の書き分けができているのはよい。しかし主人公の風越がどういう風に通産省を変えていきたいのかという最終的なゴールが見えないので、物語の方向性がわからないのはよくない。風越が人材を値踏みしたり大臣をあしらったりするシチュエーションを楽しむ類の小説としてみれば面白みがないわけでもないけれど、プロット自体は誰がどの役職に就いただの揉めただのという話を延々とやるだけでつまらない。官僚の世界という一般人がわからない世界を書くこと自体はよいけれど、この小説は官僚側の狭い世界だけ書いていて、同時代の日本の政治経済で何が起きているかという背景となる状況を書かないので、60年代を知らない読者が読んだときには外部資料なしで60年代がどういう時代だったのかというのがわからない。熱血な日本男児の風越のやり方を書く一方で、いろいろ癖がある官僚たちを書いて片山や玉木に風越を批判させるという試み自体は成功しているものの、そのせいで風越から話題がそれて散漫になってしまって物語の芯がぼやける。官僚たちの夏にせずに風越の夏にして、風越の人物像を掘り下げて仕事の様子だけでなくプライベートでの様子や人生観まで描いたらナギーブ・マフフーズの『渡り鳥と秋』みたいな小説になったかもしれない。城山三郎は文學界新人賞でデビューしたあとに直木賞を受賞して経済小説の先駆者として経済小説を確立したらしくて、作者の名前は知っていたけれど小説は読んだことがなかったので、どんなもんじゃろうと思って読むことにしたのだけれど、やっぱりジャンル小説として限定された範囲の面白さしかなくて、私が経済小説を読んだ時に感じるユーモアとエロスと文飾の物足りなさ、遊び心のなさをこの小説にも感じる。経済小説はむさくるしいおっさんがシリアスぶる展開ばかりでかわいくない。経済小説で一番物足りないのは作者ならではの思想がないことで、有名人をモデルにして特殊な業界を書いたことで作者が満足してしまって、作者の意見としての日本の政治経済がどうあるべきか、官僚はどうあるべきかというテーゼがない。テーゼがないとアンチテーゼもないし、ジンテーゼでのカタルシスもない。オリジナルキャラの小糸や御影に新人として政治経済の未来を語らせるなりしてテーゼを掘り下げさせればよいのに、小糸たちはプロット上の役割がないまま単なる場つなぎの脇役で終わってしまったし、初の女性官僚の<お人形さん>もちょろっと顔を見せに出てきた程度で削ってもいいような脱線気味のエピソードになっている。悪い小説というわけではないけれど、エピソードが地味なうえに話が長くて脱線もあるし、話の長さに見合うほどオチにカタルシスがあるわけでもないので、なんか惜しい感じ。★★★☆☆官僚たちの夏【電子書籍】[ 城山三郎 ]
2018.09.03
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