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最近はYouTubeで1年間に2100本くらいのファスト映画が投稿されて、投稿していた3人が著作権法違反で初めて逮捕されたそうなので、これについて考えることにした。●ファスト映画とは何かファスト映画は映画の内容を10分くらいでわかるように編集した動画で、YouTubeが自動的に再利用されたコンテンツを検出して著作権侵害として判断するのを防ぐためなのか、映画の音声を使わずにナレーションや字幕をつけたりしてあらすじを説明している。ファスト映画は映画の紹介が目的というよりはYouTubeで広告収入を稼ぐ目的で作られている。●ファスト映画の問題点・著作権侵害で金儲けしている映画は総合芸術なだけあって利害関係者が多くて、俳優の肖像権や音楽の著作権や内容の翻案権や動画の頒布権などの著作権が複雑で、映画を引用して他の動画を作るときは慎重にやらないと著作権侵害になる。映画の配信元に許可をとったり、YouTubeのContent IDで著作権が管理されて広告収入が著作権者に行くようになっているなら問題ないのだけれど、映画会社は身元不明なYouTuberにいちいち許可を出さないので、おそらくほとんどのファスト映画は著作権を侵害している。ファンが作品への愛情表現として作ったMADとかの二次創作は宣伝になることもあるので著作権侵害でも黙認されたり、いきなり逮捕や訴訟でなくて著作権者に注意されて動画を削除すればそれで済むことがあるけれど、ファスト映画はYouTubeの広告で金儲けするのが目的なので、権利者が許してくれなくて逮捕されたようである。・批評でない批評なら「あの演出手法は監督が前作でも試したやつで~」とか「あの場面の演技はおおげさで~」とかを具体的に言うためにあらすじを紹介したりシーンを何秒か引用したりすることが認められている。しかしファスト映画はあらすじをまとめただけで内容について感想を言うわけではないので、批評のための引用の要件を満たしていなくて著作権侵害になる。・労力をかけていない良い批評をするには映画の古典のモノクロ映画からCGを駆使した新作まで何百本も見て、演劇や映画の理論を理解して、あの監督はこの監督の影響をうけたとかあのシーンはこの映画のオマージュだとかの背景情報も把握する必要があるので、映画評論家は批評のためにかなりの時間と労力をかけて、映画の知名度に乗っからずに自分の知識と知名度で仕事をしている。その一方であらすじをまとめて編集して動画にするだけなら知識がなくても誰でも数時間でできるので、ファスト映画を作る人はたいして労力をかけていない。ファスト映画を作る人に知名度がなくても映画自体の知名度で動画が再生されて、匿名で楽に金儲けができるがゆえにファスト映画を作る人が何人もいるわけである。・映画業界に貢献しない良い批評は視聴者の映画への理解を深めたり、視聴者が他の映画に興味をもつ役に立ったり、俳優の演技を改善するのに役に立ったりする。しかしファスト映画はただあらすじを紹介するだけで独自の意見がなくて付加価値がないので、映画業界に貢献しない。ファスト映画を作る人は映画を宣伝してやっているんだという言い分があるのかもしれないけれど、著作権者から許可を得ていないのならその言い分は成り立たない。●映画会社の問題点ファスト映画は著作権侵害で金儲けしているのでYouTubeから削除されるか非収益化されるべきだけれど、ファスト映画が流行った背景には映画会社にも問題があると思う。・公式トレーラーが短くて情報不足映画の公式トレーラーは1-3分程度しかなくて、印象的なシーンをいくつかつぎはぎして大文字の字幕を挟んでテーマソングを流したりするのが多い。映画の雰囲気はなんとかくわかるけれど、誰が何をする話なのかよくわからない。何でトレーラーはそういうつぎはぎみたいな編集の仕方が多いのか知らないけれど、もっとシンプルに誰が何をする話!見どころはここ!と言ってくれないと私のようなアホにはよくわからないので興味ももてない。日曜洋画劇場は映画が始まる前に淀川長治が見どころを解説したのでわかりやすかったし、公式トレーラーにもそういうナレーションをつければいいのにと思う。・つまらない映画が無駄に長い映画は映画館で上映しやすい1時間30分から2時間程度の長さの作品が多いけれど、長いからといって面白いわけでもない。上映時間が3時間ある『ガンジー』みたいに大作が長いのならよいけれど、つまらない作品の上映時間が長いのは拷問である。『デッド寿司』みたいなくだらない映画は1時間30分も見ていられないので、子供向けの特撮ヒーロードラマみたいに30分に内容を凝縮したほうがかえって見やすくて面白かったかもしれない。視聴者にとっては時間もコストなので無駄に時間を使いたくなくて、面白いかどうかわからないような作品を見るのに2時間も使えないので10分で内容を確認できるファスト映画の需要があったのだろう。・シリーズ物が多すぎるスターウォーズシリーズみたいに変則的な時系列で続編が作られるのはエピソードのつながりがわかりにくいし、アメコミはマルチバースのパラレルワールドがあって各ヒーローのつながりがわかりにくいし、説明なしだとマーベル・シネマティック・ユニバースのシリーズをどの順番に見ればいいのかもわからない。そのシリーズを見たことがない人が巷の話題に興味を持っても、理解するために数十時間かけてシリーズの全作品を見るかというと見ないだろうし、たとえ見たとしても見終わる頃には最初に見た作品の内容を忘れていると思う。あらすじの紹介が翻案権侵害扱いにされてしまうとシリーズものの内容が膨大すぎて全体像が理解できなくなるし、興味を持つきっかけもなくなってしまう。・連絡先がわからない小説や漫画だと著作物を使用する許可をとりたいときは作者か出版社に連絡すればいいけれど、映画は複数の会社が出資して映画を作る製作委員会方式だと著作権者が多くてどの会社に連絡すればいいのかわからない。あるいは映画の公開から何年か経つと映画の公式サイトがなくなって連絡先がわからなくなったりする。●私の意見・映画会社が基準を示すべきゲーム会社はゲーム実況を宣伝として使っていて、ボス戦の手前までなら実況していいとかのゲームごとに配信ガイドラインを公開してユーザーと折り合いをつけつつ売り上げを損なわないように著作権をコントロールしている。一方で映画は引用として認められる範囲があいまいで批評する側の著作権侵害の訴訟リスクが大きいので、動画や静止画を引用した批評がやりにくい。著作権侵害にならない範囲や条件がある程度明確になれば、例えば1作品につき〇秒までならYouTubeの動画に使ってよいという条件だとしたら、俳優のデビュー作から後期作品までの様々な作品の演技を数秒ずつ引用して比較するとかで映画業界の発展や話題作りに役に立つような形で引用を使うやり方もあるかもしれない。あるいは公開直後の映画はトレーラーの紹介のみOKで、公開から10年経ったら本編から〇分まで引用していいとかで時間がたつごとに基準を緩めていって、忘れ去られて誰にも見られないよりはオンデマンド配信の宣伝に利用するやり方もあるかもしれない。・映画会社は作品紹介をちゃんとするべき映画会社はYouTubeでの宣伝はいくらでもできるのだから、数分のトレーラーをちょろっと公開するのでなくて、もっとじっくりゆっくり入念に作品を紹介すればよい。監督や俳優にインタビューしてこだわりや見どころを紹介したりロケの様子を見せたりして映画の魅力を紹介するやり方はいろいろあるだろう。映画会社は映画の制作に大金をかけている割に、宣伝はテレビCMと同じやり方で短いトレーラーを出す程度でSNSにうまく対応していないのが私には不思議である。・あらすじの紹介には寛容であるべきあらすじをまとめるのは作品の要点を理解して批評するために重要だし、映画の魅力は俳優の演技にあるのだから、あらすじの紹介を翻案権の侵害として厳しく取り締まるのは不毛だと思う。例えばセガールの沈黙シリーズはあらすじを言うまでもなくてセガールが様々な悪の組織を退治する話だとわかるけれど、セガールが無双するアクションに魅力があるのであらすじを紹介したからといって見る価値がなくなるわけではない。それに人間の記憶力には限りがあるので、一度見た映画でも何年も経てばタイトルや監督の名前やストーリーを忘れてしまう。例えば私が映画のタイトルを忘れたとして、うろ覚えで「考古学者が暗号を解いてゲートを通る映画」でgoogleで検索すると、『イミテーション・ゲーム』や『マーキュリー・ライジング』とかが検索結果に出てくるけれど、私が実際に探していたのは1994年のSF映画の『スターゲイト』で、こういうときにあらすじを紹介している記事があると探している映画の情報を見つけやすくなる。・批評のためのネタバレはよいあらすじ紹介の際にネタバレすることに対しての批判がある。私は公開してすぐの映画とかでまだ映画を見ていない人が多い状況でネタバレするのはマナーとしてやらないほうがよいと思うけれど、すでに作品を見た人向けの解説や批評のためにネタバレするのはよいと思う。例えば私はSF映画の『インターステラー』を初めて見た時に主人公が本棚の裏に行った理由がよくわからなかったのだけれど、映画批評ブログとかで詳しい解説を読んだら映画の理解が深まって役に立った。『ミスト』のオチに納得できない人は他の人の感想も気になるだろう。有名な作品の続編を批評するなら前作までの展開のネタバレは避けられないし、例えばスターウォーズのダースヴェイダーの正体をたいていの人が知っていてwikiにも書かれているので今更ネタバレに配慮して隠す意味がない。ネタバレが全部禁止になるとミステリのトリックの良し悪しに言及できなくなったりして、ジャンルによっては批評自体ができなくなってしまう。映画に限らず芸術は鑑賞してああだこうだと感想を言うのが楽しいもので、そこを制限されるのでは鑑賞自体がつまらなくなってしまう。
2021.06.24
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絵画史上最高価格がついた「医師ガシェの肖像」がどう描かれて誰の手に渡ったのかを書いたノンフィクション。●まとめゴッホは1853年にオランダ南部の中流階級の家で生まれて、16歳で叔父がオーナーをしている画廊の見習い店員になると、古典的な絵よりも自然を描いたバルビゾン派の絵画にひかれる。パリに転勤になると画廊に不満を持つようになって23歳でくびになり、見習い牧師になってスケッチを描き始めて腕を上げ、27歳で画家になる決心をして印象派の絵画を見たことで色彩に注意を向けるようになり、印象派を擁護する画商の弟のテオの援助を受けながら絵を描いたものの無名だったので評価されなかった。アルルに移ると光と田園に触発されて、実物を描くことに固執して強烈な色や強い輪郭線を持つ独自のスタイルを確立した。35歳の時にゴッホはゴーガンと共同生活を始めたものの口論して耳を切り落として、精神病院に入って発作を起こしながら絵を描き、37歳で症状がよくなったときに退院する。その後で平凡な医者で素人画家のガシェの診療を受けて、自分のアイデンティティと医師のアイデンティティを結び付けて、患者であり芸術家、苦しむものであり癒すものであるという着想を得て、彼の肖像画を描くことにして、人間の心をさらけ出すためにフォルムと色彩を駆使した画期的な描き方で頬杖をついたメランコリックのポーズのガシェの肖像画を描いた。やがてゴッホは自らをリボルバーで撃って死んでしまう。ゴッホの自殺で無名の絵を販売しにくくなり、テオは兄の絵を認めさせるために展覧会を開くものの一点も売れず、腎臓病を患って入院して精神病院に移されてゴッホの死の6か月後に死ぬ。テオの美術コレクションは妻のヨハンナの所有物になり、ヨハンナはゴッホの擁護者として絵を保存して高い評価を得るように努めて、ゴッホがテオに送った600通以上の手紙を編集してオランダのアムステルダムで絵を展示して、オランダでゴッホは批評家に殉教者扱いされて悲劇の天才画家のイメージになり、北ヨーロッパで高評価された。印象派の評価が高まってくると、パリの画商のアンブロワーズ・ヴォラールはヨハンナと交渉して絵を数点入手して、1897年に「医師ガシェの肖像」を300フラン(1995年の1000ドル相当)で元画家で革新的な絵画の愛好者でユダヤ系中流階級のアリス・ルーベンに売る。アリスが友人の画家でデザイナーのモーエンス・バリンに「ガシェ」を渡すと、1904年にバリンは絵を売るためにベルリンの画商のパウル・カッシーラーに絵を送り、カッシーラーの友人のハリー・ケッスラー伯爵が私的コレクションとして1689マルク程(1995年の6744ドル相当)で買った。カッシーラーが前衛モダニズムを宣伝してゴッホがドイツの美術に影響を与え始めて、ドイツでコレクターが現れる。ケッスラーは自宅に絵を飾って文化人や政治家たちに「ガシェ」を紹介し、1908年に展覧会のために「ガシェ」を欲しがっていた画商のウージェーヌ・ドリューエに絵を委託してパリの市場に戻した。パリではフォーヴとキュビストの絵画が評価されたことでセザンヌなどの後期印象派の絵の値段も上がっていたものの展覧会で絵が売れず、1910年にケッスラーはボナールの絵を買うために14000フラン(1995年の44000ドル相当)でドリューエに「ガシェ」を売る。ロンドンのゴッホの個展では客に嘲笑されて理解されなかったので、ドリューエはフランクフルト美術館に20000フランで絵を売る。当時ドイツでは高いフランス絵画を買うことが国益と国民性を損ねるという画家からの批判があったが、美術館長のシュヴァルツェンスキーはモダニズムを擁護して、「ガシェ」が美術館に買われたことでデューラーなどの巨匠と並ぶ傑作として認知された。1933年にヒトラーがドイツを掌握して、ヒトラーはゴッホが退廃芸術家のグループで国民の士気に危険を及ぼすとみなして反モダニズムだったので、シュヴァルツェンスキーは「ガシェ」などを展示室から外して屋根裏に隠した。ゲーリングはフランクフルト市長をナチ党員と交代させて、ユダヤ人のシュヴァルツェンスキーは停職処分になる。アドルフ・ツィーグラーが退廃芸術展の作品を選抜するために美術館の屋根裏を捜索したものの、「ガシェ」は法的には退廃芸術ではなかったので押収されずに済む。ゲッペルスはナチが見下している美術品をでたらめな配列で展示して公衆の侮蔑を引き起こすことを意図した退廃美術展を1937年に開催して、その一方で国民を称揚するための大ドイツ芸術展を開催して、「ガシェ」も押収される。ゲーリングはナチの領土拡大を美術品を集めるために利用して、歴史上最も貪欲な美術品泥棒になる。1938年にナチは外貨を稼ぐために押収した退廃芸術作品を売り始めて、「ガシェ」は銀行経営者のフランツ・ケーニヒスが53000ドル相当(1995年の57万ドル)で買った。ケーニヒスはオランダ在住の銀行家のクラマルスキーに絵を売るためにカッシーラー画廊に「ガシェ」を送り、絵はドイツからアムステルダムに移る。評価が定まった美術品は換金可能な資産として価値が高くなっていた。ケーニヒスは列車事故に見せかけて殺される。ケーニヒスから「ガシェ」を買ったクラマルスキーは美術品を守るためにコレクションの一部をアメリカに移して1939年にニューヨークに行く。亡命美術家たちがアメリカに来たことでニューヨークが近代美術の中心地になって、亡命学者のエルヴィン・パノフスキーは主題を研究するイコノグラフィーの研究方法でアメリカの美術史の研究を革新した。1934年のアーヴィング・ストーンの小説「炎の人ゴッホ」がベストセラーになってアメリカではゴッホは最も知られている画家になり、大衆的な人気とともに絵の値段が上がって「ガシェ」は20万ドルの価値が見積もられて展示会で何度か展示される。1961年にクラマルスキーが肺がんで死んだのでフランクフルトの美術館が「ガシェ」を購入しようとしたものの、クラマルスキー夫人を怒らせて失敗する。1984年に夫人が病気になると「ガシェ」は無期限でメトロポリタン美術館に貸与されて、1980年代がゴッホ展の最盛期になる。マルキシズム、記号論、文学論、フェミニズムなどのアプローチでゴッホが研究されて弱者に同情的な聖人的な天才という従来のゴッホ像が覆されて、ゴッホの絵は狂気の所産でなくて真摯な芸術上の目的追及の所産という認識になる。1980年代に美術品市場がインフレして、アメリカでは絵を売れば得られる金を投資しないことで生じる損失が大きくなって裕福な家庭の子孫は印象派の絵画は高すぎて保持できなくなり、税制改革で美術館への寄贈が減ってオークションに出るようになって、日本はプラザ合意で低金利になって貸出が増えてバブルになったので日本人が美術品を買いあさって、1987年のオークションで安田火災海上は「ヒマワリ」を3990万ドルで買う。クラマルスキーの息子は絵を売ることを考え始めて、1990年のクリスティーズのオークションで「ガシェ」が売られて、絵の状態が悪かったものの銀座の画商の小林秀人が7500万ドル(1割の手数料を入れると8250万ドル、約124億円)で買って、大昭和製紙の斉藤了英が入手する。「ガシェ」の値段は1世紀で2万3千倍以上になった。斉藤は「わたしは、身のまわりの人間たちに、わたしが死んだら、〔あの絵を〕棺桶に入れて、燃やすようにいっているんだ」と記者会見で言ったことで人類の財産を私物化していると批判されて、絵を公開せずに倉庫で保管していることも批判される。数か月後にバブルがはじけて美術品の需要が薄れて印象派と近代絵画の値段が暴落する。斉藤はゴルフ場建設のために賄賂を贈って逮捕されて、大昭和製紙の株価が暴落して、1996年に斉藤が死ぬ。●感想たいていの人はゴッホが精神病を患って耳を切り落として評価されないまま死んだということは知っていても、その後絵がどう評価されてきたのかは知らないだろう。その大勢の人が知らない絵の買い手の部分に焦点を当てたのは面白いやり方で、ゴッホや絵に興味がある人は面白く読めると思う。バブルで絵画を買いあさった日本人の様子も興味深い。日本の金持ちは評価が定まった絵は高値で書いたがるけれど、若い芸術家を支援するわけでもないので、絵が好きなわけではなくて権威主義なのだろう。部分的には面白い所があるけれど物語と言うよりは説明が多いし、時系列順に書かれていない部分があって話のつながりがわかりにくいし、500ページ弱の文章は長いので私は途中で飽きてしまった。映画とかで物語形式で見るならもっと面白いかもしれない。さて芸術について考えることにする。19世紀後半から20世紀前半のモダニズムの芸術家たちは、作家も画家も音楽家も古典の形式から抜け出して独自のテーマと技術を追及して個性的な作品を残してきて、私はこの時代が傑作が多く作られた芸術の最盛期だと思う。日本だと明治時代に美術が欧米の芸術の中心として扱われて、洋学といえば美術ということで小説家になりたい人が美術学校を勧められて美術の勉強をしたそうな。この本からはいくらひとりで傑作を作ろうが、評価基準がなくて評価する人がいないと傑作扱いされないことがわかる。価値観が似たような芸術家がお互いに影響を与え合って〇〇派を作るようになると、〇〇派の作品の中で優劣が出てきて相対的な評価基準ができると個人のコレクター間で売買されるようになって、美術館が買うことで権威付けがされて評価が定まって、一般客にも作品が認知されるようになる。逆に言えば、評価する人さえいれば傑作でないものでも高値をつける。デュシャンの「泉」みたいなのは技術の評価よりも概念的な一発芸みたいになっていて、美術の文脈を知らない門外漢には何を表現しているのか意味が分からない。そんなよくわからないものでも評価する人がいて高い値段がついている。最近はイタリアの芸術家のマウリツィオ・カテランの壁にバナナを粘着テープで貼った「コメディアン」という作品が1300万円で落札されたり、イタリアの芸術家のサルヴァトーレ・ガラウの目に見えない彫刻の「Io Sono」という作品が200万円で売れたりしていて、こういう技術がない作品はどんな値段がつこうが芸術としてたいして価値がないと思う。文学はテクスト論として作品から作者を切り離して作品そのものを評価するのが主流だけれど、美術だとたいてい誰が作ったかで評価が変わる。都内で鼠の落書きを見つけてバンクシーの作品じゃないかと騒ぐのが典型的で、みんなが価値があると言っているから価値がわかるように装うアンデルセンの「裸の王様」みたいなものである。これは文学が複製可能な芸術であるのに対して、美術は複製が不可能なので作者の評価を含めた属人的な作品の評価になるのだろう。美術品は一点もので需要と供給のバランスが悪くて欲しがる人が二人以上いればオークションで高値になるけれど、高いからといって優れている作品というわけではないし、その値段で所有したがる人がいたというだけである。バブルの頃の日本のように富裕層が増えて使い道のない金が余るほど美術品の値段が上がって、値段が上がるから投機目的で買う人が出てきてさらに値段が上がって、有名な何某が作った作品だというだけで作品の出来と不釣り合いなほど高値になる。ラーメン屋の客が情報を食べていると揶揄されているように、現代美術は作品の内容を評価しているというより情報を買っているようなもんである。モダニズムまでの絵画は文学や音楽にも影響を与えたので私は絵画には興味があるけれど、現代美術は何かの思想があるわけではなくて文学に影響しないだろうし、絵よりも立体が主流になって技術の連続性もなくなったので、私は現代美術にはあまり興味がない。インスタレーションは体験したらそれなりに面白いのだろうけれど、それは作者の思想や感情の表現と言うよりはテーマパークみたいな商業的な見世物で客を驚かせる感じで、絵画や彫刻みたいに家に飾れるわけでもないし、自分の人生とは関係のないものに見える。文学についても考えると、文学と美術の違いは複製可能かどうかという点だけでなくて展示方法にもある。美術館が何かのテーマで企画展をして作品の認知を高めて客の美的センスを鍛えるのに対して、文学の場合は図書館や本屋でなくて文芸誌がその役割を担うので、ページ数の都合で掲載作品が限られるし、美術と違って古典を掲載するわけにもいかなくて現役作家が優先されるし、影響力もないので、あまり客の育成につながっていない。あるいはテーマに沿った作品を収録したアンソロジーが出版されるけれど、これもページ数の都合で短編集になってしまって傑作揃いとはいかない。本来は本屋が企画を立てて古典から新刊までを幅広く販売すればいいのだろうけれど、本屋の店員が売っている本の内容を把握しているわけではないし、どの作家がどの作家に影響を与えたとかのアカデミックな知識があるわけでもないのでキュレーターとしてはあまり役に立たない。書店員が選ぶ本屋大賞も選定基準に一貫性がないので客の育成にならない。図書館は公共施設の側面が強くて館長や司書が誰だろうがどの図書館も変わり映えしなくて、何かに特化しているわけでもないのであまり存在感がない。ミステリ図書館とかの攻めた図書館を作って密室殺人展や孤島展をやったら面白そうだし、犯罪捜査や裁判の資料を充実させればミステリ作家の育成につながると思うのだけれど、私立図書館じゃないとそういうのはできないのだろう。特徴のない図書館よりも読書家や作家の書斎の方が面白いかもしれない。★★★☆☆【中古】 ゴッホ「医師ガシェの肖像」の流転 文春文庫/シンシアソールツマン(著者),島田三蔵(訳者) 【中古】afb
2021.06.19
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最近は緊急事態宣言下でワクチン接種も完了していないのにオリンピックを開催しようとする政府の矛盾した行動に対して批判が高まっているようなので、オリンピックについて考えることにした。●オリンピックとは何か古代ギリシアで4年ごとに開催されていた古代オリンピックではエケケイリアというオリンピック期間中の休戦があった。これをモデルにして近代オリンピックは文化や芸術活動を推進して平和教育の基礎を築いて国家紛争の根を取り除くために、1896年から4年ごとにスポーツの祭典として開催されるようになる。●オリンピックの問題点・平和にあまり寄与しないオリンピック期間中にちょっと休戦したところで、戦争が終わらないのでは根本的な解決になっていない。海外旅行が一般的でなかった20世紀前半までならオリンピックの出場や観戦で世界の様々な国に旅行して文化交流する意義があったのかもしれないけれど、個人で気軽に外国に旅行したりネットで交流したりできる現代では世界中のスポーツ選手が一か所に集まって競技する意味がない。それに文化的な交流をするならスポーツでなくて万国博覧会でいい。そもそも世界の平和を脅かす元凶になっている中国がオリンピックに参加したりオリンピックを開催したりするのがおかしい。オリンピックで中国の人権問題が何か改善したのだろうか。・利権まみれIOCが接待まみれでバッハ会長がぼったくり男爵呼ばわりされているように、オリンピックの理念がどうであれ実態は腐敗している。東京オリンピックの招致にも賄賂が使われた疑惑があって、招致委員会が大会組織員会理事の電通元専務の高橋治之氏に820万ドルを渡してIOC委員にロビー活動をして、森喜朗が代表理事をする一般財団法人嘉納治五郎記念国際スポーツ研究・交流センターにも約1億4500万円が支払われたそうな。オリンピック関連の事業でゼネコンや電通やパソナが儲かる一方で、ボランティアは宿泊場所もなくて扱いがひどい。東京オリンピックは2013年に世界一コンパクトな五輪をアピールして開催費用を7340億円と見積もったけれど、コロナ禍で1年延期したこともあって大会経費の総額は1兆6440億円にまで増えたそうな。競技会場もセーリングは東京湾から江の島に移されて、2019年に暑さ対策でマラソンと競歩は札幌でやることにして、どんどんコンパクトでなくなっていった。佐野研二郎ロゴのぱくりとか、ザハがデザインした新国立競技場の建設費用が1300億円の予定が3500億円まで膨れ上がって隈研吾案でやり直すとか、ボランティアの制服がなぜか韓国風だとか、デザイン関係もひどかった。利権に集る人が多くて予算を守れず、物事を決めたとおりに進行することができずにダメになっていくのが日本しぐさである。そもそも国民が開催を求めたわけでなくて都市が勝手に立候補しただけなのに、結局は国家のプロジェクトとして多額の税金が使われるのはおかしな話である。開催に賛成する人のカンパだけでやればいいのに。・会場が有効活用されずに環境破壊が進むオリンピックのスタジアムは特殊な設計で再利用が難しいそうで、例えばリオオリンピックのサッカー会場になったマラカナン・スタジアムは再利用されずに備品が盗まれてゴミが散乱して荒れているのがニュースになっていた。1回限りのイベントのために大規模な建物を作るのは環境破壊のうえに資源の無駄である。・世界選手権やプロスポーツのほうがレベルが高い何かの競技の最高レベルの試合を見たいなら、毎年開催される世界選手権を見ればよい。オリンピックは4年に1度しか開催されなくて、選手の能力のピークの時期が合わなかったり、怪我をして出場できなくなったりする人もいて実力者が出場できるわけではないので、世界選手権のほうが試合のレベルが高くなる。サッカーのFIFAワールドカップやテニスの四大大会みたいにすでに権威がある大会があって大金が稼げるプロスポーツだと、賞金が少ないオリンピックにプロ選手が参加するメリットがあまりなくて、本業に支障がでるような怪我をしないように抑え気味にプレイするので名試合にはならない。・テレビはマイナーな競技を取り上げないオリンピックを放送するテレビ局はスポーツを見せたいのでなくて日本人が活躍する場面が欲しいだけで、マイナースポーツでメダルをとった外国人選手やメダルが取れない日本人選手は取り上げない。例えばボートは1900年の第2回パリ大会から採用されている由緒あるスポーツだけれど、地味なうえに日本人はメダルが取れないのでほとんどテレビで特集されることがない。テレビで人気スポーツしか取り上げないならスポーツの祭典でなくて視聴率の祭典で、結局はオリンピックとしていろいろなスポーツを一挙にやる必要がなくて、各スポーツの世界選手権を個別に開催して興味がある人だけ見ればいいということになる。観客もオリンピックの全部の競技に興味がある人なんてほとんどいなくて、たいていの人は普段から観戦するのはせいぜい1-2種類だろうし、いろいろなスポーツを短期間に一つの都市で一挙にやる必要がない。ちなみに私はボート部だったけれど水上を散策して鴨を眺めたりするのが好きなだけで記録には興味がないので他人のレースを見たいとは思わない。たぶん世間の人はボートというと手漕ぎボートよりも競艇を思い浮かべる人のほうが多いと思うし、東京オリンピック開催を支持してる大勢の人もたぶんボートには興味ないだろうし選手の名前も知らないだろうしレースを見ないと思う。・不平等が際立つサンデル教授の能力主義批判が最近話題だけれど、仕事だけでなくてスポーツも環境の良さが顕著に成果に反映する。メダルを取るのはたいてい強化費用が豊富でスポンサーが多くて働かずにスポーツに打ち込める先進国の選手で、仕事の合間に練習していて練習施設や道具が不十分な発展途上国の選手は努力しようが上位には入れない。専門的な練習施設や高い道具や遠征費用が必要な競技や団体競技ほど資金がある国のほうが有利で、スポンサーがつかない発展途上国の人は道具の性能や練習環境の時点で負けていて勝負についていけなくなる。シドニー・オリンピックで赤道ギニアの水泳のムサンバニ選手が特別枠で出場して五輪ワースト記録で必死に泳いだのが感動扱いされているけれど、私はこれを美談にすることに違和感を持つ。プールを作る金がなくて練習環境がない国の選手を出場させても記録が出ないことはわかりきっているし、勝敗や記録を競わないのではスポーツではない。小学生並みの記録でも一生懸命泳げば感動できるのなら小学生のレースを放送すればいいしオリンピックをやる必然性がない。発展途上国に水泳を普及させるために特別枠で出場させるといっても、プールを作る金がないのでは結局水泳は普及しないだろう。IOCの接待に使われた数億円の費用でプールを作るほうがよっぽど水泳の普及になると思う。・スポーツマンシップがなくなる子供の頃からスポーツの英才教育を受けて国家ぐるみでドーピングして国威発揚に利用されるロシアの選手はもはやスポーツ選手というより国家の政治的な道具で、スポーツマンシップとは対極の存在である。欧米が勝てない競技でルールを改変するのもスポーツを楽しむことが目的でなくて利益が目的だからで、選手がスポンサーの金儲けの道具として扱われるのではもはやスポーツマンではなくビジネスマンである。●私の意見私は東京オリンピックの誘致の時点で利権まみれでずぶずぶになる予想がついたのでコロナのパンデミックがなかったとしても開催に反対だし、オリンピック自体も昔は意義があったのだろうけれど現代では意義がないと思う。世界各国がSDGsを推進するつもりならオリンピックのような無駄が多くて環境破壊につながるイベントは開催するべきでないし、何十年かかけて段階的に廃止していくほうがよい。例えば大手スポンサーがいて権威がある大会があるプロスポーツはオリンピックでやる必然性がないので種目から外せばいいし、専用の大きな会場の建設が必要な競技は種目から外せばいいし、いずれオリンピックをやめてパラリンピックだけやればいいと思う。そんでイスラエルの空爆で手足がなくなったパレスチナ人とか中国共産党の拷問で手足がねじれた人とかがパラリンピックに参加できるようになるなら、金儲けのためのイベントでなくて平和のためのイベントと言えるようになるかもしれない。選手は子供の頃からオリンピックが素晴らしいものみたいな幻想を持って練習してきたのだろうし、私はオリンピックを目標にする選手を責めるつもりはないけれど、聖火ランナーやボランティアが辞退しているようにいずれ選手の意識も変わって、利権まみれの環境破壊大会に利用されるのは嫌だという選手も出てくるかもしれない。国ごとにメダルの数を競うのでなくて、選手個人として世界選手権で記録を競えばいいではないか。スノーボードの國母和宏がバンクーバーオリンピックで服装を注意されたけれど、「自分にとって五輪はスノーボードの一部で、特別なものではないので」と言うように個人の価値観でどんな服装をしようが好きにやればいいと思う。私は個人が国家を代表する必要はないと思うし、4年に1度のオリンピックだからといって特別な価値があるとは思わない。東京オリンピックは開催を強行するようだけれど、オリンピックの中止を求める人はオリンピックを見なければよいと思う。オリンピックを見ない人が増えればスポンサーも撤退するかもしれないし、スポンサーのしがらみがなくなれば選手が意見を言いやすくなって、もっと健全なスポーツになるかもしれない。
2021.06.06
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リアリズムの描写についての動画をアップロードしました。描写にアマチュア作家とプロ作家の違いが顕著に出ていて、アマチュアはしばしば描写が抽象的で何を書こうとしているのか曖昧で、前景化ができていなくてどの情報が重要なのかわかりにくいです。絵画で言うとデッサンの量が足りてなくて画力がないようなものなので、小説でも風景や場面をデッサンすると描写の訓練になります。ヘミングウェイが若い頃に新聞記者として事実を端的に書く訓練をしたからこそ独自のハードボイルドの文体にたどり着いたように、昔の作家はなにかしらの文章修行をしていましたが、現代人は旅行してもスマホで写真をとってSNSにアップロードして済ませて日記とかに風景を文章で書き残す習慣もなくなったので、意図的に訓練しないと描写力は上がらないと思います。描写がスカスカなライトノベルが流行しているのも、文章で風景を描写をしなくなった現代ならではの傾向なのかもしれません。
2021.06.02
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