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私がTwitterでフォローしている中卒の月光氏がAbemaTVの学歴主義の特集の取材を受けたところ、「中卒の人生も悪くない」と中卒の人への励ましを伝えたかったのにその部分がカットされて納得いかない形でインタビューが使われた挙句に炎上して、中卒の癖に仕事を選ぶなだの親のせいにするなだのの誹謗中傷が殺到する事態になったようである。これについて考えることにした。・なぜ炎上したのかABEMA TVだと「義務教育に留年なし?中学に通わなくても卒業できる謎も?学歴主義のフシギ」という題で、義務教育と就職の学歴主義について考える内容になっていて、月光氏のインタビューは学歴の壁の例としてちょろっと使われた程度で、月光氏自体はコメンテーターの議論の焦点になっていない。就職難の中卒なら誰でもいいという感じの使われ方である。しかしABEMA TIMESをソースにしたYahoo!ニュースだと「学歴は“超えられない壁”なのか? 「年金すら払えない…」中卒女性が明かす苦難」として月光氏に焦点を当てた内容になっている。この焦点のすり替えのせいで個人批判になって炎上の原因になったようで、Yahoo!ニュースには6000以上のコメントが付いているし、5ちゃんねるのニュース速報+板では7スレ目でこっちも6000以上のコメントが付いている。ABEMA TVの番組説明では「過度な演出や切り取りを完全排除。たっぷり時間をかけて、ニュースの本質を探る報道リアリティーショー「ABEMA Prime」です。伝えることだけに満足せず、社会課題を解決するには何が必要なのか?出演者や視聴者の皆さんと一緒に考えます。」と言っているけれど、ABEMA TIMESのニュースでセンセーショナルに見えるような切り取りをしてしまって、社会課題の解決のための議論でなくて個人的な問題の議論に矮小化されてしまったら番組の意味がないではないか。ABEMA TVとABEMA TIMESの担当者が同じ人なのか違う人なのか知らないけれど、スタッフが番組の趣旨を共有して徹底できていないのは企業としてだめだろう。ABEMA TIMESがPVを稼ぐために意図的にやったなら悪質で、番組と違う形で論点をすり替えた低品質な記事に流用されるならインタビューに応じる人はいなくなるだろう。・どんなコメントがあるのかコメントにはだいたい以下のようなパターンがある。1.採用担当者の自社の採用についての意見2.毒親に育てられたことに同情する優しい人3.就職のアドバイス4.苦労した人の自分語り5.自己責任、甘え、努力不足、という説教ABEMA TIMESの偏向にまんまと騙されるようなネットリテラシーが低い人たちがABEMA TVの番組も月光氏のnoteも見ずに5ちゃんねるやYahoo!ニュースコメントしたようで、わざわざ読む価値がないような質が低いコメントが多い。マクロな視点で物事を考えられなかったり、抽象的な概念の思考ができなかったりする頭が悪い人が多いようで、月光氏についてのミクロな話題にだけ反応して、採用時の学歴主義についての議論の役に立っていない。アドバイスは相手のことをよく知らないと的確なアドバイスはできないし、そもそも月光氏はすでに次の仕事が決まっていて就活のアドバイスを求めているわけではないのに、下衆の勘繰りで的外れなアドバイスが多い。匿名の人に〇〇しろと命令されてその通りに行動する人はいないし、親切の押し売りの自己満足は他人にとって迷惑である。自分はもっと苦労したけど成功したという自分語りの自慢は目立ちたがりのトピック泥棒で、自慢話をしたいならキャバクラに行けばいい。アドバイスですらない価値観の押し付けの説教は存在自体が害悪で、他人の意見を聞く姿勢がないうえにハラスメントをしている自覚がない愚鈍さは救いようがない。説教をしたいなら居酒屋で知人相手にすればいい。・採用時の学歴フィルターは妥当なのかひろゆきは動画の36分ころに「人を見るもしないんですよね。採用側にしてみたら、じゃあ10人応募きました、で、中卒、高卒、大卒がいます。で、したらとりあえず大卒だけ話してみようよってなりますよ。時間が限られているんだもん。なので、そこはネットの一般の人的には学歴見てほしくないとか、なんか人間性を見るべきだよねって綺麗事はわかるんですけど、実際採用担当者の時間は限られてるので、もう書類選考で学歴ない人は落とすっていうだけの話なので、なので卒業証明書だけでも無理やり取って、学歴下駄履いたほうがまだ受かる確率上がるんと思うんすよね」と言っている。これは私は同意見で、学歴や偏差値でフィルタリングすること自体は差別だとは思わない。人間性を見ようにも面接時間が限られているので、書類選考の段階で面接する相手を絞らないといけないというのが現在の一般的な採用システムで、その書類選考のために学歴がフィルターとして使われている。しかしその学歴フィルターも万能ではなくて、問題点があるし改善の余地がある。今後の日本は少子化が確定していて、就職氷河期みたいに新卒の高学歴の大卒が零細企業までやってきて選り取り見取りなんていう状況はもうこないので、今いる人を最大限に活用してミスマッチを防ぐにはどうするかという視点で採用のシステムを考え直すべきだろう。企業がどんな人材がほしくて何の仕事をさせたいのかはっきりしないくせにやたらと大卒の新卒を欲しがるのが学歴フィルターの問題である。面接で10年先のキャリアパスまで語らせて高学歴を採用しても、その厳選した優秀な新入社員に大役を任せるわけでもなくて一律に低賃金の初任給で希望の職種とは違う部署でキャリアにならない雑用をやらせるので、優秀な外国人は日本企業を敬遠している。JETRO GLOBAL EYEで特集していたワルシャワ大学の日本語学科の学生が誰も日本企業に就職したがらないのが典型的である。日本の新卒至上主義だと大卒の新卒だけ欲しがって大学の成績評価のGPAを見ていなくて、大卒よりも勉強した修士や博士は大卒よりも年を取っているからという理由で就職に不利になっているのも変である。欧米だと社会人が金をためてから大学に入学して学びなおすのが珍しくなくて、サンデル教授の講義には仕事をしている30代の人たちがいたけれど、日本企業は学ぶことや考えることを軽視してうわべの学歴だけを見ているようである。それゆえにとりあえず大卒という肩書が欲しいだけで在学中にろくに勉強しないで面接対策のサークル活動をする人がいて、学歴フィルターが知識量や思考力を測るフィルターにはなっていない。最近は多様性が重視されているけれど、ユニークな人は従来の学歴フィルターの採用システムからこぼれおちる。大企業だと学歴フィルターで平均的に能力が高い人が採用できるけれど、それが悪い方にも作用して失敗を恐れて挑戦しない安定志向の官僚みたいな高学歴だらけになって停滞する大企業病になっている。頭の回転が速くてミスしない事務員や管理人がほしいならそれでいいけれど、それでは新しい製品やサービスは開発できないので次々に新しいことをするベンチャー企業や外国企業にシェアを奪われて衰退することになる。これらが学歴フィルターの問題点である。番組では中卒が採用されるにはどうするかが主に議論されて、学歴がなければ職歴を作ればいいとキャリア支援サービスを紹介する流れになっていて、採用方法の改善点が議論されていないのは議論が不十分だと思うので自分で考えてみる。書類選考で学歴で足切りする代わりにビデオ会議を使った面接やグループディスカッションで人柄を見たり、オンラインでテストを解かせたり課題を出してレポートや作品を提出させたりして能力を見たりして、ITを使って学歴を問わずに多様な人を採用できるようになるかもしれない。例えばSNSの広報担当者が欲しいなら応募者のSNSの文章に基づく選考のほうが文章力が高い人を採用できるだろうし、事務職が欲しいならクラウドでエクセルのデータ入力をテストして速さと正確さを測って点数をつければ情報処理能力が高くて関数をうまく使える人が採用できるだろうし、それなら学歴を基準にしなくても企業が欲しい実務能力を持った人が採用できるし、未経験でも職務適性がある人を見つけやすくなってミスマッチを少なくできる。最近はAI婚活でビッグデータから相性がいい相手を選ぶそうだけれど、就活でも同様に相性がいい職種や社風の求人を紹介して企業とマッチングする仕組みは技術的には可能だろう。あるいは最近は横領事件やバイトテロやパワハラ自殺とかの不祥事が頻繁に起きているので、頭の良さよりも倫理観や反社会性をチェックする採用方法のほうが重要かもしれない。反社会性は服装に典型的に出るので、就活のときだけ髪を黒く染めてる人もSNSの写真を見れば夏に刺青をしたDQNと海で遊んでるのがばれる。高学歴だからといって全員が育ちが良いわけでもなくて中には勉強ができる悪人もいて、スーパーフリー事件なんかが典型的である。企業がどんなに利益を出したりCMで好感度を上げたりしてもたった一人の社員が不祥事を起こしたら台無しになるので、長期的に企業を経営するなら従業員の人柄を見る必要がある。米久の創業者で時之栖の会長の庄司清和が2018年8月16日の「カンブリア宮殿」で社員は人柄で採用すると言っていたように、学歴よりも人柄を見る企業もある。しかし経営者がサイコパスのブラック企業が野放しの有様だし、モラルを優先する企業はまだ少数派のようである。採用担当者の一存で採用基準を変えられるものでもないし、結局のところ経営者の意識が変わらないと採用基準も変わらないのだろう。
2021.02.25
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最近はひろゆきが日刊SPA!のコラム「古文や漢文よりも「困ったときの役所の使い方」を義務教育で教えるべき」で、古文や漢文を共通テストの科目から外して、その時間をプログラム、お金の話、宗教の話、「困ったときの役所の使い方」を教えるのに使えばいいと言っていて、これについて巷で議論されているようなので考えることにした。・古文と漢文とは何か高校の授業の必履修科目の「国語」のうちの「古典」として古文と漢文を学習する。古文とは平安時代中期に用いられた中古日本語のことで、日本語の文語体の基礎になっている。漢文とは古代中国の文語体の文章のことで、日本語に翻訳するための文法を学ぶ。つまりは国語(日本語)を深く理解するために、そのルーツである古文や漢文も勉強するわけである。・欧米のラテン語教育はどうなっているのか日本の古文・漢文に相当するのが欧米のラテン語だろう。古代ギリシアと古代ローマが周辺国に多大な影響を与えたので、ラテン語とギリシャ語は欧米諸国の言語のルーツになっているだけでなく、学問や思想のルーツにもなっている。「もう使われないラテン語、なぜヨーロッパの小中高生は学ぶのか」という記事にはイギリス以外のヨーロッパの中学や高校ではラテン語が必修科目か選択科目になっていると書いてあって、英語力アップ、文化の理解、ヨーロッパの哲学や歴史の土台を知ることなどがラテン語教育を推進する理由だそうな。ローマ・カトリック教会の公用語がラテン語なのでキリスト教徒にとってはラテン語が重要だし、中世の自然科学や哲学などの学術用語として使われたので研究者にとってもラテン語は重要である。私は大学院の授業でウェルギリウスのラテン語の詩を読む必要があったのでラテン語を少しだけ勉強したのだけれど、英語にはラテン語由来の言葉が多いのでラテン語学習が英語力アップになるというのは納得できる。例えばラテン語で持ち上げることを意味するlevareに由来するlevが語幹にある英単語のleverやelevatorなどは持ち上げることに関連している言葉なのだとわかりやすい。漢字で言うとさんずいが水に関係する言葉だったりして部首で大まかな意味が推測できるようなものである。日本も中国から漢字と仏教が伝来して仏教由来の言葉が多く残っているし、日本では仏教徒が多いのだから、欧米出羽守の基準で言えば欧米でラテン語教育を推進しているように日本でも古文と漢文の教育を推進するべきだろう。・学校では何を教えるべきなのか知識の種類を大雑把に分類してみると、1.生きるために必要な知識(保健、家庭科、日本語、算数など)2.現代文明の成り立ちを理解するための知識(古文、漢文、歴史、地理、理科など)3.現代文明を維持するための知識(英語、公民、法律、簿記、看護、パソコンや車や機械の操作方法など)4.現代文明を発展させるための知識(科学、技術、工学、数学、人文科学、芸術、医学、プログラミングなど、いわゆるSTEAM教育)に分けられるかもしれない。では学校ではどの段階の知識をどの程度教えるべきなのか。生きるために必要な知識は小中学校の義務教育で落ちこぼれが出ないように最低限教えるべき内容だと思う。生きるために必要な知識を教えればたいていの人は普通に社会で生活できる。例えば外国人移民は生きるために必要な知識として日本語の応答ができて四則演算ができれば仕事をして買い物をしたり病院に行ったりして生活ができるので、業務によっては在留資格に日本語能力が要求される。ひろゆきが言う「困ったときの役所の使い方」は生きるために必要な知識だけれど、困る前から暗記してテストして理解度を上げる意味がなくて困ったときにその都度役所で聞けばいいだけなので、学校の授業で教える必要はないだろう。確定申告も同様に確定申告が必要になったときに税務署で聞けばいいだけだし、個人事業主や農業や不動産収入とかの収入の種類によって経費や仕分けの項目が違うのに収入がないうちから全部覚える必要はないだろう。現代文明の成り立ちを理解するための知識を教えれば、それを基礎として大学でさらに高度な研究できるようになって職業選択の幅が広がるので、高校で教えるのが合理的である。卒業した後で使わない知識だから教える必要ないものではなくて、国民の知識水準を上げて社会のコンセンサスを得るうえで必要である。例えば我々が学者になるつもりがなくても地動説や進化論や化学式を学ぶのは世界がそのように成り立っているという科学文明の事実を認識するためで、その科学的なコンセンサスがあるおかげで日本人はマスクの有効性を理解して、知識水準が低くてマスクをしたがらないアメリカ人よりもコロナの感染者数を少なくできている。古文や漢文も現代の日本語がどうやって成り立ってきたかという日本文化を認識するために必要で、日本史や現代文と合わせて勉強することで日本人としてのアイデンティティを形成できるようになる。日本にはビジネスのために英語教育を推進したがる人がいるけれど、自国の文化と歴史さえ理解していない者が外国語のうわべの意味だけ覚えて他国の文化や歴史を理解できると考えているのは思い上がりで、まずは日本語の教育をやるべきである。文明を維持したり発展させたりするための知識は仕事につながる知識で、各自が職業選択の必要に応じて専門学校や大学で学べばよい。社会は分業で成り立っているので、専門分野で国民全員が共通の知識を持つ必要はない。プログラミングとかの技術革新が速い分野は中学や高校の教師から学ぶよりもネットのほうが現役で働いている人の最先端の情報があって頭角を現す人はたいてい独学で勝手に学んでいるのだから、学校で一周遅れの知識を教える必要はないだろう。ちなみに私は小学生の時の部活でパソコン部に入っていたのだけれど、教師がだれもパソコンを使えなかったようで役に立つことは何も教えてもらえなくて、古いパソコンに8インチの大きなフロッピー入れて教本通りにプログラミングを入力するとテトリスが動くというのをとりあえずやったけれど、意味が分からないままただ教本をタイピングしただけなのでまったくプログラミングの勉強にはならなかった。・学問の価値とは何か高学歴なのに仕事ができない人がしばしば無能扱いされるけれど、受験勉強で現代文明の成り立ちを理解するための知識だけ詳しくなっても直接仕事で役に立つわけではないのが理由だろう。だからといって個人的な利益になる勉強だけをするのでは教養がなくなる。教養がないとはどういうことかというと、目の前の仕事はできても文明の仕組みや文化を理解していないということである。文明を理解して発展させるには包括的でバランスがいい知識が必要で、そのバランスがない拝金主義者は大卒でなくても年収○千万円稼いでるから大学は意味ないとか○○は儲からないから廃止しろとかの短絡的なことを言って、無自覚に知識の継承を断絶させて文明を破壊しようとする。最近は義務教育だけでなくて大学の学問でさえ文学部廃止論のように金儲けにならない学問を時間の無駄として廃止したがって、資格取得とかの仕事に役に立つ分野だけ研究させて企業に都合がいい就職予備校にしたがる風潮があるけれど、それは大学がやることではない。1973年のノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈・茨城県科学技術振興財団理事長は週刊ダイヤモンドの「日本人はもうノーベル賞を獲れない?深刻な科学技術立国の危機」という記事で「今は、基礎研究に対して『役に立たない』という不当な評価があります。当初から役に立つことを狙っているような基礎研究などあり得ません」と言っているように、役に立つかどうかを研究の基準にしてしまうと短期的な利益が出ない基礎研究ができなくなってしまう。芸術も同様に価値があるものを作ろうと決めて作るものではないし、まだ価値が付いていないものの中から唯一無二の物が出てくるもので、印象派もピカソのキュビズムも初めは評価されなかった。企業が即戦力がほしいなら育成を大学に求めないで自社でセミナーを開くなり職業訓練校を作るなり専門学校卒を採用するなりすればいいし、採用基準に○○の資格持ちと条件を付けておけばそこに就職したい学生は勝手に勉強するので、大学で教える必要がない。営利目的の民間企業がやらない研究をやるから大学の学問に価値があるのであって、企業がその価値を理解できないなら新卒採用で大卒を採用条件にするのをやめればいい。私はどんな知識でもないよりはあるほうが良いと思うし、金儲けのためでなくこの世界を知るために大学を卒業した後も勉強を続けている。世界は誰かの役に立つために存在しているのではないのだから、世界についての知識が誰の役にも立たなくても別によいではないか、というのが私の実存主義的な知識のとらえ方である。もちろん知識が役に立つに越したことはないけれど、いつか何かの役に立つかもしれないという程度の期待でよい。知を愛するフィロソフィアの精神で先人の知識を継承して広い教養を身に着けて何か新しい発見ができることが学問の価値で、会社の役に立つ技術者を作ることが学問の価値ではない。というわけで私は高校の国語で古文と漢文を教えるのは妥当だと思うし、古文と漢文を共通テストから外して他の事を教えるというひろゆきの案には反対である。古文と漢文以外にも金儲けにつながらない勉強はいろいろあるけれど、何でもすぐに損得に結び付けずに役に立たないことを楽しむ程度に人生に余裕を持ちたいものである。
2021.02.24
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法学初心者のために民法(財産法)について、契約や債務不履行などの要点を解説した本。●面白かったところのまとめ・当事者が対価関係に立つ債務を負担する契約を双務契約と呼ぶ。これに対して、贈与契約はもらう側は債務が発生しないので片務契約と呼ぶ。売買契約などの当事者が相互に対価関係に立つような経済的出捐を有償契約と呼ぶ。対概念は無償契約で、贈与契約が典型。双務契約は債務負担という法形式に着眼しているのに対して、有償契約は経済的出捐という実質の側面に着目している。・双務契約の当事者の債務はお互いに対価関係なので同時履行するが、相手が履行しない場合は相手の請求を拒絶する抗弁権がある。・危険負担は原則は債務者主義で、例えば賃貸借契約の借主が入居しないうちに建物が全焼した場合は貸主(債務者)の入居させる債務は履行不可能となって消滅して、借主(債権者)の賃料債務も消滅する。例外的に債権者主義があり、債権者の責めに帰すべき事由によって履行不能になった場合は債権者主義で処理される。・法律用語で「推定する」と「みなす」は使い分けられている。「推定する」は推測が誤っていると主張する側が反証を挙げて推定を覆すことが認められるが、「みなす」は事実と相違していても無視して、反証を挙げても覆すことはできない。例えば父親が殺されたときに胎児だった者はすでに生まれたものとみなして、子供の資格で損害賠償請求権を持てる。・債務の弁済方法には様々あり、現金以外では所有権の移転と引き渡し、供託、代金債権と貸金債権の対当額の相殺、第三者の弁済などがある。受領証書を盗まれたり債権者の代理人だと委任状を偽造されたりしてして誤って弁済した場合は善意(ある事実を知らないこと)か悪意(ある事実を知っていること)かで利害を調整して、善意の場合は保護される。・甲が乙と丙に同一の不動産を売ったとき、どちらかが所有者になるかは登記の対抗要件を早く備えるかによって決まる。これを二重売買、対抗問題という。対抗関係は両立不可能なので、乙と丙のいずれか一方が勝ち、負けた側は甲に債務が履行不能になった事による損害賠償請求をする。・甲が乙への債権fを丙に譲渡する場合は、債権譲渡を乙へ通知して承諾をもらう必要がある。乙は譲渡の通知も受けず承諾をしなかった場合は、丙から支払いの請求が来ても甲から丙への譲渡を認めないと主張して請求を退けることができる。・債務者が債務の本旨に従った履行をしないことを債務不履行と言う。債務不履行には建物引渡債務の建物が全焼した場合などの履行不能、履行が可能なのに履行期を過ぎても履行されない履行遅滞、一応の履行はあっても不完全な場合の不完全履行の3つの型がある。債権者は債務の強制履行(強制執行)で債務を本来の内容通りにきちんと実現させるか、それに変えて不履行によって生じた損害を賠償させるか、契約を解除する。訴訟になった場合に債務者側で自分に帰責事由がなかったことを立証しなければ免責されず敗訴する。・デートの約束などは徳義上の債務といい、法律上の債務ではないので法律上は約束を守る義務はなくて、債務の履行やそれに代わる損害賠償を請求して訴えることは許されない。・他人にお金を貸しても一定期間(普通は10年間)請求などの権利行使をしないと、権利(債権)は消滅してしまう。消滅時効は権利を行使しうるときから進行する。・損害賠償請求をするときは、債務不履行があったからこそ損害が生じたという事実的因果関係で賠償すべきかどうか決めて、事実的因果関係が認められる損害のうちでどの損害まで法的に救済するべきかの保護範囲を考える。・履行遅延などを理由に契約を解除すると契約ははじめからなかったことになり、債務もなかったことになり、各当事者はその相手方を原状に復させる義務を負い、代金を受け取っていたら利息をつけて相手方に返さねばならない。契約を解除したからといって損害賠償が請求できなくなるわけではない。・昭和9年に10円を貸した者(X)が30年後に3000円を返してくれと借主(Y)を訴えた時、戦後のインフレを無視して10円の請求権しか認められない。Xを負かせることによって生ずる不正義・不衡平よりも、それによって得られる社会的利益のほうが大きいと判断する余地があり、いろいろな観点から利害得失を検討することを利益衡量という。・売買の目的物が傷物であったときは買主と売主の間に紛争が起きるので、売主には担保責任がある。大黒柱に虫が食っているのを契約締結時に乙が知らない場合などの売買の目的物に隠れた瑕疵があり、瑕疵のために契約をした目的を達成できない場合は乙は契約を無催告で解除することができ、買主の権利に応じで売主が負う責任を瑕疵担保責任という。瑕疵担保責任の追及には時間的制限があり、契約の解除または損害賠償の請求は乙が事実を知ったときから1年以内にしなければならない。瑕疵担保責任は建物のような代物がない特定物ばかりでなく代物がある不特定物にも適用されて、瑕疵担保責任がまず適用されて、それでカバーされない責任は債務不履行責任によってカバーされて、代物請求や修繕請求がされる。・甲乙は生きていさえすれば私法上の権利を取得し義務を負担すること、権利義務の主体となることを認められる。幼児、精神障碍者、泥酔者のように行為の意識はあっても判断能力を備えておらず、意思能力を欠く状態の下に法律行為をしても効力を生じない。意思能力よりも程度の高い判断能力である行為能力を欠く場合にも権利を取得したり義務を負担したりすることにはならず、未成年者、禁治産者、準禁治産者は無能力者として保護者を用意して、無能力者が財産を失わないようにしている。・冗談で甲が乙に贈与を申し込み、乙が甲の真意を知りうべきであった場合には甲の意思表示は無効となり、これを心裡留保による無効という。相手方と通じて真意と異なる意思表示をする場合は虚偽表示といい、例えば税金対策の甲乙間の虚偽の売買契約は無効になる。表意者が真意と表示が食い違っていることに気づかずに意思表示をすることを錯誤といい、重大な点に錯誤があった場合には意思表示は無効とされる。心裡留保、虚偽表示、錯誤をまとめて意思の欠缺と呼ぶ。・騙されたり脅されたりしてした意思表示は有効だが、表意者はこれを取り消すことができる。詐欺と脅迫をまとめて意思表示の瑕疵と呼ぶ。●感想別に法律を本格的に勉強したいわけではないのだけれど、生きていれば何かしらの契約をするので民法について知っておいて損はないと思ってこの本を買ったのだった。実際に何か契約の問題が起きたら自分で対処するよりは弁護士に任せて詳しいことを知る必要はないだろうけど、大まかに概要を知りたい場合にはこういう入門書を中古で買ったり図書館で借りたりしてちょろっと流し読みするのがおすすめである。他にもプレップ労働法とかのシリーズがあるけれど、民法以外はあまり私の生活と関係なさそうなのでそっちは買わなかった。さてせっかく契約について勉強したので最近問題になっているクラウドファンディングについて考えてみる。クラウドファンディングは災難にあった人への寄付などで片務契約で使うぶんには問題ないけれど、売買契約として使うときに問題が起きかねない。普通の買い物はレジで商品とお金を交換することで店と消費者がお互いに債務を同時に履行しているけれど、クラウドファンディングやMakuakeは個人や企業がこれから製品やサービスを作るのを応援する形で製品がないうちから消費者が先払いするところが普通の買い物とは違っている。クラウドファンディングの契約ではプロジェクトを始めて金を集めた人は期限までに約束した商品を引き渡す債務を負うけれど、その債務が履行されないリスクがある。クラウドファンディング限定のお得なリターンがリスクプレミアムに相当する購入者の利益となるので、購入者もリスクを理解して金を先払いするわけである。逆に言うとリターンが魅力的でないとわざわざリスクが高いクラウドファンディングを使う意味がない。債務を履行するにはいつまでに何をするかが明確でないといけないけれど、クラウドファンディングは双務契約なのか片務契約なのか期日がいつまでなのかあいまいな場合があったり、令和納豆の納豆定食の生涯無料パスが没収されたように後から約束が反故にされる場合があるのが問題である。キングコングの西野が批判されているのは金だけ集めて債務を履行していない点で、西野がたくさんプロジェクトを抱えていると言うとやり手のように見えるけれど、違う言い方をするとまだ履行していない債務をたくさん抱えた多重債務者である。西野が「信用」と呼んでいるのは、あなたは私を信用して金を出したんだから債務を履行しなくても信用して待ってね、信用してるならやり方に口出ししないでね、という信用を盾にして徳義上の債務かのように振る舞うごまかし方で、オンラインサロンの信者が相手ならそのわがままなやり方が通用するけれど、信者でない人は契約通りの法律上の債務の履行を求めるのでトラブルになる。「1日館長になれる権」の引き渡し日は2022年4月だけれど美術館のオープンが間に合わないだろうし、このままでは柵を作っただけの不完全履行になるだろう。少額の債務なら履行されなくても手間を考えて返金を諦める人もいるだろうけれど、6千万円を集めた美術館建設が履行されなかったら金額が大きいので、契約解除と返金を求める集団訴訟になりかねない。購入者を保護するためにクラウドファンディングの運営側が規制するとしたら、履行していない債務が残った状態で新しいプロジェクトを立ち上げる場合に何かしらの制限をつけるべきだろう。西野はまだ美術館が建設されていないうちに5万円の「1日館長になれる権」や12万円の「一生フリーパス」を売っているけれど、これは美術館が建たなければ他のプロジェクトも必然的に全部債務不履行になるというリスキーな契約なので、審査を通してプロジェクトを掲載した運営側にも問題がある。吉本興業が運営しているクラウドファンディングサイトのシルクハットだと同時に複数のプロジェクトは作成できないようだけれど、募集中の新規プロジェクト作成だけ規制するのでなくて募集完了後も履行されるまでは新規プロジェクト作成を規制して、株取引の信用二階建てのようなハイリスクなやり方を潰さないと、履行されていないプロジェクトを担保にして次々に関連プロジェクトを作って金だけ集めて債務を履行しない詐欺が起きかねない。クリエイターは出版社と契約する以外に収入を増やす選択肢が増えることはよい。しかし西野のようにクラウドファンディングで未完成の作品を売るのはよいやり方ではない。工業製品なら見本のサンプルやスペックや会社の技術力から完成品のクオリティが予想できるけれど、それでもフィギュアの予約販売などでは届いた製品の出来栄えが悪くて炎上したり返金したりする事態が起きている。ましてやコンテンツビジネスは同じ作家でも作品ごとにクオリティが異なる水物で、出来上がる前から値段をつけてしまうと下手な出来栄えでも没にすることができなくなって買った人の期待も高くなって創作のプレッシャーになる。この本の85ページに文筆家が創作する債務は圧力を受けて仕方なしに債務を履行してもできが悪くて履行として意味をなさないという例が書いてあるように、よい作品を作ろうと思ったら他人に創作をせかされるような環境はよくなくて、無理やり仕上げても作品の出来はよくないだろうし、購入者も満足しないだろうし、完成度が低い作品を売るのではいくら儲けようがクリエイターとしての存在意義がなくなる。私が読んだ小説だとたいてい連載小説よりも書下ろし小説のほうが完成度が高いので、作品が完成してから現金化する方法を考えるほうがよい作品が作れると思う。というわけでキャラクターグッズとかの規格通りに作りやすくて納期管理がしやすい製品の制作費をクラウドファンディングで集めるのはよいと思うけれど、未完成のコンテンツをクラウドファンディングで予約販売するのはやめるほうがよい。★★★☆☆プレップ民法 (弘文堂プレップ法学/プレップ・シリーズ) [ 米倉 明 ]
2021.02.18
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絵画の構図や色彩を観察して分析する方法を解説した本。●面白かったところのまとめ・絵の中で最も重要なフォーカルポイントが絵を見始めるスタート地点。人が瞬時に注目する部分には、画面にそれ一つしかない、顔など見慣れたもの、そこだけ色が違う、他と比べて一番大きい、画面のど真ん中にあるという特徴がある。画家はフォーカルポイントに一番の明暗差を持ってくる。・線を一点に集めることで重要さを表すことができる。人の目は線状のものを追う性質があり、重要な箇所に向けて目を誘導する線のことをリーディングラインと呼ぶ。線が集まる地点、線がクロスする地点にフォーカルポイントがある可能性が高い。似たようなものの並び、身振りや手ぶり、グラデーションや筆遣い、大きいほうから小さいほうに向かう流れ、視線などもリーディングラインの役割を果たす。・集中型の絵はシンプルに一点に絞った表現で一目で主役がわかる。分散型の絵は漠然とした印象や全体の雰囲気を伝える表現で、画面のどこを見ても面白いように飾り立てるのにも向いている。ゴシック時代は分散型、ルネサンスは集中型が好まれた。・四角い画面は中心が最も強い引力を持ち、二番目に角が注意を引くので、視線を絵の中央に戻すために角を回避する描写をしていて周回型の経路がある。要素が一塊なら画面いっぱいに描く解決法もある。ジグザグ型経路の場合は画面の端にストッパーになる部分がある。ジグザグの角を滑らかにしたS字カーブの経路はストッパーを置かない解決策で、日本の美人画やアール・ヌーボーがよく用いた。放射状の経路には集中線型、十字型、クラッカー型がある。・絵のバランスは構造線とリニア・スキームを見る。縦の線は堂々とした感じ、横の線は動きのない感じ、斜めの線は起き上がるか倒れるかの動きを予感させて、カーブした線は柔らかい印象や神聖な印象を与える。絵の中の線は一本で成り立たないので別の角度のサブの線を必要として、この関係性をリニア・スキームと呼ぶ。・主役+両脇侍の左右対称のバランスをフォーマル・バランスといい、宗教画などの格式ばった様子を表現するにはよいものの、安定しすぎて作為的で人工的な感じになるので風景画ではあまり使われない。左右非対称の絵はフォーカルポイントを真ん中以外に置いて、バランスをとるために反対側に何かを置く。このやり方は画面の左右で変化が付くので主流になった。シーソーや竿秤のように左右を釣り合わせたり、遠近感を利用したりすると、小さい物でもバランスが取れる。・絵具は色の素になる物質を溶くメディウムによって絵の種類が変わる。油は油絵、膠は日本画、卵はテンペラ画、漆喰壁に塗ればフレスコ画、アラビアゴムは水彩画。昔はウルトラマリンはラピスラズリを原料としていて青い絵の具は高価であまり使えなかったので土由来の原料の黒や赤茶色の絵が多かったが、1704年に近代初の人工顔料のプルシャンブルーが合成されて普及したので18世紀は絵画の青の面積が増えた。・色の種類を表す色相、鮮やかさを表す彩度、明るさを表す明度を分けて考えると絵を分析しやすくなる。近代以前はモノトーンの下塗り段階で陰影の配分をあらかじめ決めておいて、その上に色を重ねて塗っていく描き方だったので、名画は白黒でも絵のあらましがわかる構成になっている。・陰影で立体感を出すことをキアロスクーロ(明暗法)と言う。ダ・ヴィンチが編み出した輪郭線を少しずつ暗くする手法をスフマートと呼ぶ。スフマートと対照的に、明るい部分を白く抜いたり影の部分に違う色を使う手法をカンジャンテと呼ぶ。・赤、青、黄の三原色の配色はうまくいく。オレンジ、紫、緑は三原色を混ぜてできる二次色で、主役感は一段落ちる。同系色でまとめるのは風景画に多い。たくさんの色で埋め尽くした絵は絵の具が貴重だった時代の贅沢だが、目立たせたいものが埋没する問題がある。・画面の真ん中は大事なものを示す一で、上下では上の方が重要で価値が高く、左右では絵の中の人物にとっての右側の人(見る側にとって左側の人)が偉いが、文化によって違うので絶対的なものではない。・異時同図法では一枚の絵に違う場面を同時に描きこむ手法で、同一人物は同じ服装で書かれていて、必ずも時系列順に並んで配置されているとは限らない。ダ・ヴィンチが一画面につき一場面でないとリアリティがないと否定したので廃れた。・多くの名画の構図は定石の組み合わせでできている。成功した絵の構図を真似することはパクリではなくて、レンブラントやルーベンスも過去の作品の構図を借用した。・十字線と対角線を引くと構図を分析しやすい。当分割のパターン以外にラバットメントのパターン、対角線と直交するパターン、黄金分割のパターンがある。●感想私は美術に興味があったのだけれど教育を受ける機会がなくて、中学で美術の授業があったけれどただ描けと言われて放置されるだけで、どうすればうまく描けるのかという技術的なことはまったく教えてもらえなかった。たいていの人は絵を描くといってもイラストや漫画程度だろうから芸術としての絵の描き方や見方なんて知らないだろう。この本はカラーの絵がたくさんあって解説もわかりやすいので、絵に興味があるけれど絵の専門教育を受ける機会がなかった人は読んで損はないし、学校の不毛な美術の授業よりもこの本1冊読むほうがためになる。芸術の技術や思想はジャンルを超えて相互に影響を与えてきたし、小説家にも観察眼が必要なので、油絵を見る機会が乏しい人でも創作するなら絵の教養もあるほうがよい。さてこのブログは主に小説について考えているので、絵画の構成の仕方を小説にも活かせるか考えてみる。リーディングラインは小説のプロットの仕込みと似ている。絵画はひとつの画面上でリーディングラインで見る人の目線の流れを誘導する一方で、小説だと読者は最初のページから終わりのページまで時系列順に読まざるを得ないので、作者はクライマックスのオチに誘導するように時系列順に仕掛けを仕込んでいく。私はバーで飲んでいた時にフリーのマジシャンがマジックを披露しに来てマジックの仕込みが失敗する瞬間を見たことがあるけれど、マジシャンがトランプを見せてきたときにコロンと私の椅子の下に10円玉が落ちて、その時はなぜ10円玉が落ちたのかあまり気にしなかったけれど、そのマジシャンは3つ後くらいのネタで誰かのシャツの袖から10円玉が出てくるマジックをしていて、後で使うネタの仕込みをしようとしてトランプを見せるときに私のシャツの袖口に10円玉をすべり込ませようとして失敗したのだと気づいたのだった。客が仕込みを気づかないからこそマジックでびっくりするように、小説も前景化で主要な登場人物に焦点を当てる一方で、ご都合主義に見えないようにどのタイミングで何の情報を出すのかという描写と説明をコントロールして読者の意識をオチに誘導していくので、オチが意外で面白く感じる。初心者の小説はその仕込みが足りないので、ただストーリーの各場面を順番に書くだけで場当たり的でクライマックスがない展開になってしまう。完成度が高い作品はプロットの構成がよくできているもので、それゆえにストーリーが面白く感じるのである。小説の描写量のバランスも絵画的センスがあるとわかりやすい。絵画だと主役でないどうでもいい部分は描かずに省略したり、リーディングラインとして主役を目立たせるために使うけれど、小説だと一度しか登場しない脇役の話とかの重要でない部分を書きすぎる人が多い。一日で原稿用紙何十枚分も書いたと量を自慢する人が典型的である。小説は長く書けばいいというものではなくて構成のバランスがとれていないといけなくて、それゆえに推敲して書きすぎたところを削るのが重要である。例えばヘミングウェイのハードボイルドの文体は描写が少なくてもそのぶんニヒリズムのテーマが目立っていてバランスがよくて、フォーヴィズムの絵画のように鮮烈な印象が残る。ハードボイルドの文体のうわべだけ真似ようとしても情報の取捨選択のセンスがないと情報不足になるので、短くまとめるほうが技術的に難しい。絵画は絵の具が高価で貴重だったけれど、小説の場合は誰でも知っている言葉だから材料費が安いのではなくて、情報源の取材に一番コストがかかっている。本で情報を得るにしても、現地調査をするにしても、時間と金がかかる。ヘミングウェイはスペインやアフリカやキューバに旅行して長期滞在して物事をよく観察しているので、短編でも内容が充実している。取材コストがかかっていない小説は色彩やモチーフが乏しい絵のようなもので、読者にとってはあまり面白くならない。原作の設定を借りた二次創作なんかが取材しない創作の典型である。文体や構図のアイデアに凝るやり方もあるけれど、現代美術が意識高い系の一発芸みたいなものになって世間が関心を持たなくなったようにアイデアは相手に理解されないと独りよがりになるし、アイデアがヒットしてもネタ切れしやすくて作家として大成しないので、取材してモチーフをよく調べたり観察したりすることが創作の基本になる。ダ・ヴィンチがカンジャンテや異時同図法や輪郭をはっきり描くことをリアリティがないと批判したけれど、絵画が視覚的なリアルさを具体的に提示できる一方で、小説は言葉そのものが抽象的で、同じ言葉でも読者によってイメージするものが違うのでリアリティが失われやすい。抽象的な小説では場面が想像できなくてあまり面白くないので、読者がリアリティを感じて物語の世界に没入できるような小説がよい小説といえる。しかし純文学は自然主義私小説の衰退とともにリアリズムの流派がなくなって創作の方法論も研究されなかったので、リアリティを軽視するようになってしまった。純文学もエンタメ寄りになって、ポップというよりは芸術性が乏しい軽薄な方向に向かいつつあるのはよくない。物事をリアルに描写するデッサンの基礎を踏まえたうえでシュールリアリズムやマジックリアリズムに向かうのはよいと思うけれど、デッサンさえできないのは観察眼がなくて技術的に下手なのだ。小説も絵画や音楽みたいにもっと技法や理論への理解が深まってほしいものである。★★★★★絵を見る技術 名画の構造を読み解く [ 秋田麻早子 ]
2021.02.14
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キングコングの西野のオンラインサロンの信者たちは5ちゃんねるで西野が批判されると、チャレンジする西野さんすごいプペ、日本はチャレンジする人を潰そうとするからだめプペ、というようなことをしきりに言う。オリエンタルラジオの中田敦彦がシンガポールに移住する理由として「日本はめちゃめちゃはみ出すのを潰しますからね」と言っていた。しかし日本人はそんなにチャレンジを嫌うものだろうか疑問に思ったので、チャレンジについて考えることにした。・チャレンジにはリスクマネジメントが重要チャレンジとは難しいことに挑戦することなので、失敗する可能性が高い。それゆえに入念に計画を立てる必要がある。そこで重要なのがリスクマネジメントで、どんなリスクがあるのか洗い出して、費やした時間や金の損失がどの水準を超えたら失敗とみなして損切りするのか、どうやってリスクを回避して損失をリカバリーするのかという視点でリスクを管理する必要がある。例えば投資家は全戦全勝ということはありえないのであらかじめある程度の損失を織り込んでポートフォリオを組んでリスクマネジメントして、投資したうちの数社の業績が悪くても総合的に利益がでるようにする。大学受験だとたいていの人は本命の大学以外にもワンランク下の滑り止めの大学を受験して、本命が不合格だったときを想定してリスクマネジメントをしている。部外者なら成功と失敗のリスクを客観的に評価できるけれど、チャレンジしている本人は夢に挑戦することを美化して鼻息が荒くなっていて、批判する人を敵視して忠告を聞かない傾向がある。そうして自分は成功するに違いないという認知バイアスができあがって、計画通りにいかなくても失敗を認めずにずるずる時間と金を費やして、リスクマネジメントをしないまま失敗すると再起不能な大失敗になりかねない。リスクマネジメントができていない例として、薩摩藩が明治維新の頃に採用していた人事評価がある。一番:挑戦して成功した人二番:挑戦して失敗した人三番:自分では挑戦しなかったが、挑戦した人の手助けをした人四番:何もしなかった人五番:何もせずに批判している人この評価はチャレンジを推進していてやる気がある人を評価していて一見してよさげに見えるけれど、批判する人をまったく評価しないことが問題である。兵站を無視したインパール作戦のような無謀な作戦で失敗しても挑戦したことを評価されるのでは損害が膨れ上がってリカバリーできなくなるし、それを批判した人が評価されないのでは上司の無謀な計画を批判する部下がいなくなって、サンクコストとして割り切って途中で諦めることもできなくて、失敗すると分っていても全力で玉砕してさらに損失を拡大させる暴挙に出るようになる。登山家の栗城史多の実力に見合わない無謀なエベレスト登山計画もスポンサーがついて大々的に宣伝されて応援されていたけれど、結果的に失敗して死ぬことになった。彼を応援した人たちは成功のおこぼれが欲しいのだろうけれど、応援する人数が増えればエベレストに登頂する可能性が高まるというものでもないし、無責任に応援だけして失敗したときのことを考えていない。彼を救える可能性があったのは批判してきた他のまともな登山家たちで、その批判を素直に聞いていれば過大評価されて死ぬこともなかっただろう。リスクマネジメントの視点を持たずにやたらとチャレンジしたがる人たちは勇気があるのでなく、リスクを感知できないほど鈍感で無謀なのだ。鈍感だから批判されてもリスクを理解できずに嫉妬ととらえるのである。そういう無謀な人でも1000人いたらそのうち数人は偶然成功することもあるかもしれないけれど、それは計画的なチャレンジでなく運頼みのギャンブルである。慎重に地雷をよけて何も起きない人よりも、積極的に地雷を踏みに行く人のほうが見る側ははらはらして面白いだろうけれど、それをチャレンジとして応援するのは無責任である。・批判の重要性何かの物事に対して賛否両論があるから議論が深まって問題の解決策が出てくるけれど、賛成して褒めるだけだと議論にならないので問題提起もできない。それゆえに何に対しても批判は必要で、特に権力は腐敗しないように常に批判されるべきである。議会は議論する場所なので、批判がなくて与党に賛成する人しかいないなら議会制民主主義は成立しない。1989年に石原慎太郎と稲森昭夫が『「NO」と言える日本』という本でアメリカを批判したのがベストセラーになったように、昭和の日本人は長い物に巻かれるイエスマンが多くて自分より偉い相手の批判ができないことが問題だった。今は日本人もNOを言うようになって、企業で会議をするときに批判的な見方でダメ出しを担当する人を決めたりして、忖度して付和雷同のナアナアな会議にならないようにして問題点を見つけようとしている。当然批判にも良し悪しがある。あいつ嫌いだから失敗すればいいのにとかの主観的で非論理的な批判は悪い批判なので考慮するに値しないけれど、その計画はXXを見落としていて詰めが甘いとかの客観的で論理的な批判は良い批判である。しかし巷では批判する人は批判内容の良し悪しに関わらず嫌われがちである。「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」という友達と一緒にアニメを見に行ったら批判されて楽しめなくなったという内容の漫画が前にバズったのなんかが典型的で、誰かが好きなものを批判する人は無神経なひどい奴として扱われている。純文学の新人月評も褒める批評ばかりで、批判的な批評は採用されないらしい。批判を怖がって遠ざけようとするのではなくて、批判に対して論理的に反論するべきである。反論次第で批判が正しいのか間違っているのかがはっきりするし、論理的に反論できないのなら批判のほうが正しいのだから、それを踏まえて計画を修正すればプロジェクトの成功率が高まったり、もっとよい作品作りができたりする。西野のオンラインサロンの信者とかの夢追い人たちは「頑張ってチャレンジしている人を批判するな」と言うけれど、批判に答えずに論点をそらしてかわそうとする人は追及されたら困るようなやましいことがあるうさんくさい奴だと思われても仕方がない。西野はクラウドファンディングで集めた金では美術館建設の金が足りないとわかったならいったん返金して計画を立て直すのが筋である。材料価格や人件費の高騰で計画段階よりも建設費が1割足りなくなったとかならまだわかるけれど、6千万円では足りなくて実は15億円必要だといって寄付をおかわりしようとするのは最初から見積もりがおかしくて計画が杜撰なのだ。批判に対して論理的に反論ができないような杜撰な計画なら失敗が見えていて時間と金の無駄なので、やらないほうがましである。失敗やミスをしない人間はいないけれど、失敗したときに批判から逃げる人は信用に価しない。自己愛性人格障害の人はパワハラ気質で目下の人を批判するのに、自分が批判されると失敗を認めずに責任転嫁したり嘘をついたりしてプライドが傷つかないようにする。物事がうまくいっているときは誰でも魅力的に見えるものだけれど、失敗して批判にさらされたときに人間の真価がわかるものである。多目的トイレ不倫が発覚したアンジャッシュ渡部はすぐに記者会見せずにほとぼりが冷めた頃にこっそり復帰しようとしたけれど、かえって印象が悪くなって復帰予定だった出演シーンがカットされることになった。「批判された人が自殺したらどうするんだ」というのは批判封じによく言われる言葉だけれど、そもそも批判されることをやらなければよいだけで、問題を起こしておいて批判されたくないというのはわがままである。・日本人はチャレンジする人を潰すのか「出る杭は打たれる」ということわざがあるけれど、字義通りにとらえたら建材としての杭は他の杭と高さがばらばらだと見栄えが悪いし強度も不安定なのではみ出ていたら打たれて当然で、優秀な人が憎まれることのたとえとしてはおかしい。建材として規格通りに打たれるのが嫌なら建材であることをやめればいいのだけれど、杭は他の用途で使えるものでもないし、建材でなくなった杭は結局は役に立たないのである。オリラジ中田が「日本はめちゃめちゃはみ出すのを潰しますからね」と言ったけれど、イスラム原理主義が教義からはみ出した人を殺害したり、中国共産党が政権批判する人を逮捕して思想教育したり、アメリカで対立する意見の人が銃撃されるのに比べたら、日本は言論にも行動にも自由がある平和な国である。相手が実際に潰す気があるなら「潰そうとする」と文句をいうこともできない状態になってとっくに潰されているはずである。元ジャニーズの手越が仕事がキャンセルされるとあたかもジャニーズの圧力かのように言っているけれど、フリーランスだと競合相手に仕事が流れることはしょっちゅうあるもので、ジャニーズからはみ出たから潰されているというわけではないだろう。ジャニーズが手越を潰すのに労力をかけても儲かるわけでもないし、手越個人にジャニーズ事務所ほどの信用や営業力がないから仕事が流れているのだろうけれど、今まで事務所に守られてきた手越にはそれがわからないのだろう。ネットは噂話と違って意見が直接相手に届いてインフルエンサーに対しては賞賛も批判も極端になりやすいので、インフルエンサーは攻撃されて潰されるという感想を持つのだろう。しかし上場企業が社外取締役や監査法人に監査されていてIRを公開しているのと違って、個人は帳簿を表に出さないので金に関する信用がない。うさんくさいインフルエンサーへの批判は詐欺やステルスマーケティングやマルチ商法に対する批判であって、夢にチャレンジすることへの批判ではない。起業して銀行から融資を受けられないような個人がクラウドファンディングで夢にチャレンジするのはよいけれど、事業計画がずさんならそれを批判されて当然である。社会の役に立つチャレンジはどんどんやればよい。しかし心地よく夢を見たいから批判をするなというのは見当違いの主張で、法律やモラルに関する批判に耐えられないような自分勝手なチャレンジは他の誰かの不幸につながる可能性があるので、そんなチャレンジならやらないほうが社会のためになる。東芝の無茶なチャレンジ強要が不正会計につながったように、なんでもかんでもチャレンジすればよいというものではない。
2021.02.07
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進化生物学者でニューギニアで三十年以上研究してきた著者が、たくさんのものを発達させた白人と自分の物がないニューギニア人の違いはどこにあるのか、1万3千年の人類の歴史を考察した本。●各章のまとめ・第1部 勝者と敗者をめぐる謎第1章 一万三千年前のスタートライン人類は異なる時期に異なる大陸に住み始めて、先行スタートしたことで土地の環境に順応する時間が稼げて、歴史の経路の有利な展開につながった。現代はユーラシア大陸で人間社会が急速に発展した。第2章 平和の民と戦う民の分かれ道ニュージーランドのマオリ族とチャタム諸島のモリオリ族はポリネシアの同じ先祖から分かれて、環境の違いによって大きなニュージーランドのマオリ族は好戦的な農耕民族になって人口が増えていろいろなものを作って、小さな離島のモリオリ族は狩猟採集民族になって人口過剰からくる諍いを避けるために戦いを放棄して簡素な技術と武器しか持たずに統率力がない非好戦的民族になった。人間社会は環境によって多様化する。第3章 スペイン人とインカ帝国の衝突1532年にカハマルカの惨劇で60人の騎兵と108人の歩兵しかいないピサロが8万の兵士がいるアタワルパを捕虜にして、7千人のインディオを殺害した。ピサロ側は銃、鉄製の装備、馬を持っていたが、アタワルパ側は騎乗する動物がなくて装備も石や青銅や木のこん棒や刺し子の鎧などしかなかったので、ピサロ側が圧倒的有利になった。またスペイン人が持ち込んだ天然痘で皇帝が死んでインカ帝国が王位争いの内戦で分裂していたことがピサロ側に有利になった。ピサロ側は文字をもっていたことで知識を継承してコルテスの戦略を学んでいた一方で、文字がないアタワルパ側はスペインについての知識も海外からの侵略者についての経験もなかった。これがヨーロッパ人が新世界を植民地化できた要因。・第2部 食料生産にまつわる謎第4章 食料生産と征服戦争いつから食料を生産するようになったかは民族によって異なる。食用にできる動植物を選んで育てれば、1エーカーあたり狩猟採集民の10倍から100倍の人口を養うことができる。家畜は肉、乳、肥料を提供し、鋤を引くことで食料生産に貢献するので、家畜を有する社会は多くの人口を養うことができる。また定住生活は余剰食糧の貯蔵を可能にして、食料生産に携わらない人を養うことができて、首長が支配する集団が形成され、大規模な農耕社会では王国が形成される。大型の家畜は陸路輸送に変革をもたらして、馬は征服戦争に貢献した。第5章 持てるものと持たざるものの歴史環境は適しているのに近世になるまで食料生産がおこなわれなかった地域が複数存在して、いまでは世界有数の農耕地帯や牧畜地帯になっていたりする。食料生産の起源はイラク、イラン、メキシコ、アンデス、中国の一部、アフリカのサヘル地域の草原地帯などの環境的に農耕に適していない地域なのはなぜか、説明としては野生動物を家畜化する方法で独自に食料生産を始めたケースと、他の地域から農作物が持ち込まれて栽培化されたケースと、飼育栽培種を持った人々が突然やってきたケースがある。第6章 農耕を始めた人と始めなかった人農耕を始めた人は食料を得る方法が他になかったので突然始めたわけではなく、食料獲得戦略の一つとして選ばれて、自然資源の減少や栽培化可能な野生種が増えたり加工や貯蔵の技術が発達したことで移行した。食料生産者は狩猟採集民よりも数が圧倒的に多かったので狩猟採集民を追い払うことができて、食料生産に適した地域ではほとんどの場合、土着の狩猟採集民は近隣地域の食料生産者によって追い出されてしまうか、食料を生産する生活によって生き延びるかのいずれかの運命をたどる。砂漠地帯や北極地帯などの狩猟採集民が20世紀まで狩猟採集生活を続けてこれたのは食料生産に不適な地域に離れて暮らしていたので食料生産者による入れ替わりを免れたから。第7章 毒のないアーモンドの作り方野生のアーモンドにはシアン系毒物に分解する苦いアミグダリンがあるが、原始人は苦みの少ないアーモンドを見つけて採集して栽培されるようになった。食料を最初に作り始めた狩猟採集民は大きさや味や油分などで選別して知らず知らずのうちに品種改良をして野生種を栽培種にした。野生のエンドウのさやははじけるが、さやがはじけない突然変異種が栽培種の原種になった。第8章 リンゴのせいか、インディアンのせいか作物を育てるのに適した場所であるにもかかわらず農業が自発的に起こらなかった地域がある理由は、住民に問題がある場合と、その土地で入手可能な野生動物に問題があるという二通りの考え方ができる。北アメリカで野生リンゴが栽培化されなかったのは、アメリカ先住民に原因があったのでもなく、野生リンゴに原因があったでもなく、手に入れることができた野生の動植物の種類が全体的に限られていて食料生産の開始が遅れたのが原因で、リンゴは接ぎ木が必要で栽培が難しい品種なので時間が足りなかった。第9章 なぜシマウマは家畜にならなかったのか45キロ以上の大型草食動物で20世紀までに家畜化されたのは羊、山羊、牛、豚、馬、ヒトコブラクダ、フタコブラクダ、ラマ(アルカパ)、ロバ、トナカイ、水牛、ヤク、バリ牛、ガヤルの14種しかいない。象は飼育されたが人間の品種改良によって家畜化された動物ではない。重要な大型家畜の野生祖先種が大陸ごとに偏って分布していたことが結果的にユーラシア大陸の人々が銃器や製鉄の技術を発達させ、疫病への免疫を発達させたことにつながっている。動物を家畜として飼うことを禁じる文化的タブーはないので、シマウマが家畜化されなかったのは哺乳類側に原因がある。野生の動物をペットとして飼いならすことは家畜化の初期段階だが、実際に家畜化された動物はわずかしかいない。近代の科学者や遺伝学者がシマウマなどの大型哺乳類を家畜化しようとした試みはほとんど失敗しているので、昔の人間に問題があったわけではない。家畜化されないのは、餌の経済効率、成長速度の遅さ、繁殖の難しさ、気象の荒さ、パニックになりやすい性格、序列性がある集団を形成しなくて人間が群れの頂点になれないことが理由。シマウマは歳をとるにつれて気性が荒くなるので家畜化できなかった。第10章 大地の広がる方向と住民の運命ユーラシア大陸は東西に広がっていて、アフリカとアメリカ大陸は南北に広がっている。緯度が違うと植物が環境に適応できないので、食料生産の東西方向への伝播は早くて南北方向への伝播は遅かった。肥沃三角地帯で家畜化された動物も気候や風土病が原因で南下の速度が遅れて、ツェツェバエが鞭毛虫を媒介して感染する伝染病のせいで馬は西アフリカより南の地域では飼育されなかった。食料生産システムを介して車輪や文字などの技術や発明が広がる速度にも影響した。・第3部 銃・病原菌・鉄の謎第11章 家畜がくれた死の贈り物病原菌も人間と同様に自然淘汰の産物で、進化の過程で感染せるための様々な手段を編み出してきた。人間は病原菌に対する遺伝子を持っている人が生き残って子孫を残して人間の集団全体の抵抗力を遺伝的に強化していて、アフリカ大陸の黒人はマラリアに対する抵抗力があって、ユダヤ人と北ヨーロッパ人は結核と細菌性下痢に対する抵抗力がある。農業の勃興によって人口が増えて都市で人口密度が高くなって集団感染症が出現した。第12章 文字をつくった人と借りた人ゼロから文字システムを考案することはむずかしいので、エジプト、中国、イースター島を除いて、文字はシュメール文字かマヤ文字から派生的に改良されたか、刺激を受けて考案された。文字の発達には文字が有用な社会と、文字の読み書きを専門にする書記を食べさせるだけの生産性のある社会でなければらなず、いったん文字が発明されて存在が知れ渡ると、他の社会が独自に文字を発明する必要性が先取りされてしまった。第13章 発明は必要の母である技術は非凡な天才がいたおかげで突如出現するものではなく、累積的に進歩して完成して、技術は必要に応じて発明されるのではなく、発明された後に用途が見いだされることが多いことが古代の技術に当てはまる。ニューギニアの先住民は一様に保守的なのではなく、チンプー族は西洋技術を積極的に取り入れたが、ダリビ族は保守的で新しい技術に関心がなかったように、同じ大陸内でも技術への対応には社会ごとに大きな差があり、同じ社会でも時代によって異なる対応をすることがある。第14章 平等な社会から集権的な社会へ数十人が移動生活をする平等な小規模血縁集団、数百人が定住生活する平等な部族社会、数千人が定住生活する集権的な首長社会、5万人以上が定住生活をする集権的な国家へと社会が発展していった。首長社会では宗教と権威が結びついて富の取得を正当化して、国家では首長社会よりも労働の分化が進んで奴隷にさせる仕事がたくさんあったので初期の国家の大半が奴隷制度を大規模に取り入れた。・第4部 世界に横たわる謎第15章 オーストラリアとニューギニアのミステリーオーストラリアとニューギニアはもともと陸続きで先住民は同じ祖先から分かれたけれど、環境が違うので社会が異なる。オーストラリア大陸ではニューギニアが一番技術や社会システムが発展したものの利用可能な土地に限界があって人口が増えず、トレス海峡での交易はあっても乾燥して不毛なオーストラリアでは農業ができないので一部の技術しかオーストラリアに伝わらず、アボリジニは狩猟採集生活で環境に適応したので人口が増えず発展しなかった。第16章 中国はいかにして中国になったのか中国では鉄の精錬や稲の栽培の技術が南から北に広がったが、文字は北から南に広がった。東アジアで中国は食料の生産、技術や文字システムの発達、国家の形成で他の地域をリードして、近隣地域も中国の影響を受けて発展していった。第17章 太平洋に広がっていた人々オーストロネシア人は中国南部の沿岸から広がり始め、台湾とフィリピンを通ってインドネシア西部および中央部に拡散して、居住可能な土地にことごとく住み着いたが、ニューギニアの原住民に取って代わったわけではなく内陸部には入り込めなかった。第18章 旧世界と新世界の遭遇南北アメリカ大陸は家畜化できたり栽培化できたりする野生動植物があまり存在していなかったせいで発展が遅れた。ユーラシア大陸から最初にアラスカに来たアメリカ先住民はツンドラ地帯で生活する技術や道具しか持ち合わせておらず、南北アメリカ大陸で新しい生態系に出くわすたびに土地に適した技術や道具を作り出さなければならなくて技術開発が遅れて発展が遅れた可能性がある。第19章 アフリカはいかにして黒人の世界になったか西暦1000年頃にはアフリカ大陸では北部の白人、中部の黒人とピグミー族、南部のコイサン族、マダガスカルのアジア人(インドネシア人と黒人の混血)の5つの人種がすでに暮らしていた。ピグミー族やコイサン族は狩猟採集民で作物や家畜を持っておらず、農耕民で鉄器を持っているバンツー族の黒人が南下して彼らの居住地にやってきて赤道地帯の熱帯雨林から追い出して孤立させた。●感想学説の主張は作者が経験からそう思うという主観的なもので、客観的な根拠がないのであまり信憑性はないけれど、人類に関する雑学的な読み物としては面白い。歴史や人類学を知って何の役にたつのかというと、人間が環境次第で好戦的にも非好戦的にも変わるという人間の行動原理を知れば、よりよい社会づくりにつながるかもしれない。たとえば最近は引きこもり中年が60万人以上いることが話題だけれど、引きこもりをどう社会に参加させるのかという課題を解決するためのヒントが人類学の研究にあるかもしれない。外部との接触を拒否しているインド洋の北センチネル島のセンチネル族のような未接触部族もまだ地球には残っているけれど、飛行機とかの現代文明の存在は知っていても奴隷化されるのを恐れて接触を拒否しているようである。引きこもりも似たような心理で、社会の底辺で奴隷のようにこき使われてリア充に搾取されたくないので親のすねをかじって引きこもって社会とのかかわりを絶って、自己防衛のために過剰に攻撃的になるのかもしれない。狩猟採集で自活できる未接触部族と違って引きこもりは自活できなくて生存戦略にはならないので、治外法権として餓死するまで放っておかずに引きこもりが社会と関わりを持って生存できるように支援しないといけない。そこでいきなり大きな会社組織に組み込んで立派な社会人に仕立てようとするのではなくて、農業や漁業などの就業規則がゆるい小規模の集団から社会復帰をはじめるのがよいと思う。会社もまた人間関係でできあがる社会なので、会社について考えるのにも役に立つかもしれない。フリーランスはあちこちの会社を移動しながら仕事と利益を分け合っていて平等な小規模血縁集団に近い。血縁でないので小規模仕事縁集団とでもいうようなものだろう。組合や業界団体などは同じ業界内で利益を平等に分ける部族社会に似ている。会社は必然的に集権的になるので首長社会に似ていて、社長が利益を集めて株主や従業員に分配する仕組みなので社長次第で会社は良くも悪くもなってガバナンスが問題になる。中小企業が成長していくつかの子会社をまとめる大企業になると、国家のように権力を持ったエリート階級が出来上がってホールディングス化して情報や意思決定を独占するようになる。こうして発展した企業が新技術や新製品を開発してシェアを奪って他の企業を征服してM&Aをして、貧乏人を社畜化する競争が行われている。その征服のための武器として使われたのが20世紀は労働力や機械だったのが21世紀はITという新しい武器ができて、新しい技術を取り入れなければ競合する社会に負けるのが必然だけれど、老害が多くてITで出遅れた日本はGAFAMに蹂躙されて検索や広告やネット通販などの市場を奪われることになった。ITという最新の武器に対して安価な労働力という旧式の武器で対抗しようとしても中国やインドくらい人口がいないと勝負にならないのだけれど、日本は今更低賃金の移民を入れようとして竹やりでB29と戦おうとするような間違いを繰り返している。歴史の失敗から学ばない人がいる限り歴史は繰り返すもので、江戸時代に緊縮財政をしてかえって財政が悪化したように、現代でも財務省が財政健全化をしようとした挙句に消費税増税してデフレと少子化になって、世界が経済成長している間に日本はセルフ経済制裁で一人負けしているのだから、政財界の間抜けさは救いようがない。先日は経団連の中西宏明会長が「日本の賃金水準がいつの間にか経済協力開発機構(OECD)の中で相当下位になっている」と他人事のような発言をして5ちゃんねるで批判が殺到していた。森喜朗も「うちの家内がスマホばかりみているんですが、私の悪口ばかりだったそうです。『森は何を考えているのか、バカじゃないか』と。菅さん以上に悪口ばかり。こんなのは長い人生で初めて。森内閣でもこんなに酷くなかった」と言っていたけれど、偉い人の耳には生活苦の人たちの怨嗟の声は届かなくて、日本が衰退しても自分の待遇が悪くなるわけでもなくて逃げ切れるので当事者意識がないのだろう。リーダーがだめだと社会がだめになるのは国も企業も同じである。どうやって社会が成り立っていったのかを考えるのは小説を書くのにも役に立つ。SFやファンタジーの世界だとどれだけの食料があればどれだけの人口を維持できるのか、どういう環境や生態系なのか、どうやって農業や牧畜をしているのか、技術水準はどれくらいなのかという世界設定を考えないとリアリティがなくなる。SFは世界設定が作り込まれているけれど、ファンタジーだと世界設定がでたらめで、エルフやドワーフとかの異種族が同じ言語を話しているとか、モンスターがなぜか武器や防具を持っているとか、魔法がエネルギー保存の法則を無視しているとかのご都合主義的な世界設定でリアリティがないことが多い。架空の世界にリアリティを持たせるには創世神話まで遡って世界の成り立ちを考えないといけなくなるので、本格的にファンタジーをやろうとしたら神話、言語、文化、技術、宗教、動物学、植物学とかの幅広い知識が必要になる。ちゃんと世界設定を作り込めばSFやファンタジーは起こりうる社会のシミュレーションとして役に立つのだけれど、うわべの雰囲気だけ真似しただけだとあまり役に立たない。最近は異世界転生のファンタジーが多いけれど、せっかく自由に世界設定ができるのにそこに凝らずに雰囲気だけのファンタジーごっこで終わっているのはもったいない。いかに人間が動物を家畜化してきたかということを知るのは、肉食やヴィーガンについて考えるのにも役に立つ。家畜はあらゆる方面で人間の役に立っていて、肉は食料になるし、荷物の輸送手段になるし、畑を耕す労働力になるし、糞は肥料や燃料になるし、毛皮や骨は衣類や道具の材料になるし、免疫はつくし、初期の文明を発展させるのに不可欠な手段といえる。家畜化可能な動物が限られているからこそ人類はその飼育のノウハウを安易に捨てるべきではなくて、例えばもし将来資源が枯渇して機械が使えなくなったとしても畜産技術が残っていれば人類は中世程度の文明レベルを維持して生存できる。あと食人の習慣がある地域ではたんぱく質が不足していて栄養不足だから人を食べるとこの本には書かれているけれど、そうでないケースの食人もある。中国の人肉食やアフリカでアルビノを殺して食べるのはたんぱく質不足というよりは迷信に基づく薬用目的で、病気や薬の科学的な知識がないがゆえに特別なものには特別な栄養や薬効があると思っているのだろう。しかし無教養な人たちが薬草でなくて肉を求めるのは、肉が一番栄養があるものとして刷り込まれているのかもしれない。チンパンジーが共食いするのもアリや小動物を食べても足りないたんぱく質を補給する目的かもしれない。それだけたんぱく質は生存にとって重要だったわけで、もしヴィーガンが無人島に移住して食用動物がいないユートピアを作ったら、たんぱく質不足でこっそり食人をするようなディストピアになるのかもしれない。カニバリズムの孤島ミステリを書いたら面白そうである。★★★★☆銃・病原菌・鉄 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2021.02.03
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