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資朝 斬られる 阿新は父の敵を討ち、山伏に助けられる 五月二十九日の暮程に、資朝卿を牢から出だし奉り、遥かに(久しく)御湯も召し候わぬに御行水を候え、と申せば、早や斬られるときに成りぬと思い給いて、ああ、うたてしき事かな、我が最後の様を見届けようと遥々と下り来たる少者(おさなきもの)を一目も見ずして果てぬる事よ。と、ばかり宣いてその後ではかつて諸事につけて言葉をも出だし給わずに、今朝までは気色も萎れて、常には涙を押し拭いなされておられたが、人間の事に於いては頭燃(ずねん、頭脳に燃える火、激しい俗念)を払う如くに覚えて、ただ綿密の工夫の外は余念があるとも見えない。 夜になってから輿を指し寄せて乗せ奉り、ここからは十町ほどある河原に出だし奉り、輿を舁き据えたけれども、少しも臆したところも無く、敷き皮の上に居直って辞世の頌(じゅ、偈)を書きなされた。 五蘊(ごうん、心身、蘊は積もり集まる意。積もり集まって心身を形成するもの。色・受・想・行・識。色とは心身、受・想・行・識は心法、即ち精神上の分類)假成形(ごうんがかりにかたちをなし) 四大今帰空(しだい・地・水‣火・風の四大元素で、これが集まって一切万有を形成する、今空に帰する) 将首當白刃(こうべをもってはくじんにあて) 裁断一陣風(さいだんすいちじんのかぜ、ひとしきり吹く風がさっと身首を切断する) ——自分はこのように人間の姿をしているが、もともと五蘊が仮に人間の姿をしているに過ぎないのだから、今殺されても四大が散らばって、空に帰するだけだ。故に、落ち着いた静かな心で白刃に首を当てるのだ。 年号月日の下に名字を書きつけて、筆を差置きなされた。斬り手は後ろに回ると見えたが、御首は敷き皮の上に落ちて、骸はなお座せるが如し。 この程、常に法談などをした僧が来りて葬礼は形の如く営み、空しい骨を拾って阿新に奉りければ、阿眞はこれを一目見て、取り手もたゆみ倒れ伏して、今生での対面は遂に叶わずして変わった白骨を見る事よ。と、泣き悲しむのも哀れであるよ。 阿新はまだ幼稚ではあるが、健気な所存があるので、父の遺骨を唯一人召し仕えたる中間に持たせて、先ず、我よりも先に高野山に参りて奥の院とかやに収めよ、と命じて都に帰えしのぼせて、わが身はいたわる由が有るとて猶も本間の舘(たち)に留まったのだ。 これは本間が情けなく、父を今生にて我に見せなかった鬱憤を散じようと思ったからである。 かくて、四五日が経過した。阿新は昼間は病だと称して終日臥して、夜は忍びやかに抜け出でて本間の寝所などを細やかに伺って、隙があればかの入道父子の間で一人を刺し殺して、腹を切ろうと思いを定めて、狙っていたのだ。 或る夜、雨風が激しく吹いて番(とのい、宿直)する郎党共も皆が遠侍(とおさむらい、中門の傍らにあって宿直をする侍の詰め所)に臥していたので、今こそは待っていた好機であると思って、本間の寝所の方を忍んで覗うと、本間の運が良かったのであろうか、今夜は常の寝所を変えて何処に居るとも分からない。 又、二間(柱が二つある部屋)の所に燈火の影が見えていたので、これはもしや入道の子息であろうか。そうであっても、討って恨みを散じようと抜け入って相手を見ると、それでさえ此処には見えないで、中納言殿を斬り奉った本間三郎と言う者が只一人で臥している。 よしや、これも時にとっては親の敵である。山城入道には劣るまいと思って走り寄ろうと思ったが、自分にはもとより太刀も刀もない。ただ、人の太刀を我がものと頼みにしていたが、灯が殊に明るかったので、立ち寄るならば直ぐに目を覚ます事も有るだろうとたやすくは近づけないで、どうしようかと戸惑っている立っている間に、折節夏であったから、蛾が明かり障子に群がり集まって取り付いたのを、さあ、何よりいいことが有ると思って、障子をすこし引き開けた所、この虫が数多く内に入ってやがて燈火を打ち消してしまった。 今はもうこれでいい、と嬉しくて、本間三郎の枕元に近寄って探ると、太刀も刀も枕にあって、主(ぬし)は甚く寝入っている。 先ず刀を腰に差して、太刀を抜いて心許(胸のすぐそば)に差し当てて、寝ている者を殺すのは死人と同じなので、目を覚まさせようと思って足で枕をはたと蹴った。蹴られて驚く所を一の太刀で臍(ほぞ)の上を畳迄つと突き通し、返す太刀で喉笛を指し斬って、心静かに後ろの竹原の中に隠れたのだ。 本間三郎が一の太刀で腹を刺し通されてあっと言う声で、番衆どもが驚き騒いで、火をとぼしてこれを見ると血の付いた小さな足跡が有る。 さては、阿新殿の仕業である。濠の水が深いので、木戸(出入り口に設けた門)より外にはよもや出ないであろう。探し出して打ち殺せ、と言って、手に手に松明を燃(とも)して木の下、草の陰まで残る所もなく探したのだ。 阿新は竹原に隠れながら今は何処へ逃れるすべもない。人の手掛かるよりは自害をしようと思ったのだが、憎しと思う親の敵を討つにはどうにでもして命を全うして、君の御用にも立ち、父の素意を達するのこそは忠臣孝子の儀であろうよと、もしやと、ひとまずは逃げ延びる方策を探ってみようと思い返して、掘を飛び越えようとしたが、口二丈(尺の十倍、尺は約三十センチ)で、深さが一丈にあまる掘であるから、越えるべき方法もなかった。 それならば、こうして橋にして渡ろうと思い、堀の上に末が靡いていた呉竹の梢にさらさらと昇ったところ、竹の末が掘の向こうに靡き伏してやすやすと堀の向こう側に越えられたのだ。 夜はまだ深い。湊の方に行き、舟に乗ってこそ陸には着くだろうと思い、辿る辿る浦の方へ行く程に夜も早次第に明け離れて、忍ぶべき道もないので、身を隠そうとして日を暮らすべく麻や蓬が生い茂った中に隠れていた所、追っ手共と思しき者共、百四五十騎が馳せ散って、もしや十四五歳程の稚児が通らなかったであろうかと、道で行き遇う人毎に問い掛けながら道を行くのだった。
2025年12月31日
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然るに今、君の寵臣一両人を召し置かれ、御帰依の高僧量三人流罪に処せられることも、武臣の悪行の専一と言うべきでありましょう。 この上、に又主上を遠所に遷し参らせ、天台座主を流罪を流罪に行われん事、天道は奢りを憎むのみならず、山門争いの憤りを含まざるべきである。神が怒り、人が背くならば武運の危うきに近いであろう。 君が君足らずと言えども、臣は以て臣足らざるべからず。と言っている。 御謀反の事、君がたとえ思し召し立たれたとしても、武威が盛んである間は、與(くみ)し申す者はいないであろう。 これに付けても武家はいよいよ慎んで、勅命に応じないならば、君もどうして思召し直すことがないと言えるだろうか。かくてぞ、国家の泰平、武運の長久にて候と存ずるのだが、面々は如何存じられ候や。と、申しけるを、長崎新左衛門の尉がまたもや、自余の意見をも待たずに以ての外に気色を損じて、重ねて申しけるには、文武が揆一也と言えども、用捨は時が異なるべし。静かなる世には文を以って弥(いや)治め、乱れたる時には武を以って急に静める。故に中国でも戦国には孔子や孟子の仁義の道は用いられなかった。太平の世には干戈(かんか、武器)は用いる事なきに似たれども、事は既に急に当たっている。武を以って治めるべきである。 異朝には文王・武王が臣として無道(ぶどう)の君を討った例が有る(周の武王が殷の紂王を討ったこと。文王を出したのは下の文の義時・泰時に応ずる文章の綾に過ぎず、文王にはこうした例はない」 阿新父 資朝 を尋ねて 佐渡に下る さる程に、君の御謀反を申し勧めたのは、源中納言具行・右小辨俊基・日野中納言資朝である。各々は死罪に行われるべきだと、評所が一途に定まって、先ず、先年から佐渡の国に流されておわする資朝卿を斬り奉るべき、とその国の守護、本間山城入道に下知された。 この事が京都に聞こえたので、この資朝の子息国光の中納言その頃は阿新殿とて年は十三歳であられたが、父の郷が召人(めしうど、囚人)になられtからは、仁和寺付近に隠れておられたが、父が誅せられ給うべき由を聞いて、今は何事にか命を惜しむべきだろうか。父と共に斬られて冥途の旅の供をもし、父の最期の有様も見奉るべしと、母親に御暇を乞いなされた。 母御は頻りに諫めて、佐渡とやらんは人も通わない恐ろしい嶋と聞こえている。日数を重ねる道であればどのようにして降るのか、その上に、汝にまで離れては一日、片時たりとも命を長らえようとは思わない。と、泣き悲しんで止めた所、よしや、伴い行く人がなければ、いかなる渕瀬にも身を投げて死なん、と申しける間、母が甚く止めたので、又目の前に憂き別れもあらんと思い侘びて今まで一人付き添いたる中間を相添えられて、遥々(はるばる)と佐渡の国へと下したのだ。 道は遠いけれども、乗るべき馬もないので、履きも習わぬ草履に菅の小笠を傾けて、露分けわける越路の旅、思いやるこそ哀れであるよ。 阿新 佐渡に到着 本間入道 父子の対面を 許さず 都を出でて十三日と言う申すに、越前の敦賀の津い着いた。これよりは商人(商い尾と)の舟に乗って、程なく佐渡の国に着いたのだ。 人をして右と言うべき便(たより)もないので、自らが本間の館に出向いて、中門の前に至ったのだ。折節、僧が居たのが立ち出でて、この内への御用にて御立ち候か。またどのような御用で御座ろうかと問うたので、阿新殿は、これは日野の中納言の一子で候が、近頃斬られなされると承りてその最後の様をも見候わん為に都から、遥々と下り候。と、言いもあえずに涙をはらはらと流したので、この僧は心がある者であぅたから、急いでこの由を本間に語った。 本間も岩木ではないから、さすがに哀れと思ったのだろう、やがてこの僧を以て持仏堂にいざない入れて、足袋はばき(皮で作った足袋)を解かせ、足を洗わせて疎かならぬ体で置いたのだ。 阿新殿はこれを嬉しいと思いつけても、同じであるならば早く父の卿を見奉りたいと言ったのだが、今日か明日には切って捨てるべき人にこれを見せては、却って冥途への障りとなるであろう。又関東への聞こえもどうであろうかと考えて、父子の対面を許さない。四五町離れた所に場所に留めたので、父の郷はこれを聞いて、行く末も知らぬ都で如何あるだろうと思いやるよりも、猶悲しく感じる。 子はそなたを見やりて、浪路遥かに隔たった鄙の住居を創造して、心苦しく思った涙は更に数ではない。袂が乾く隙もない。 これこそ中納言のおわします楼の中だと見やれば、竹が一叢繁った所に、濠を掘り廻らして塀を塗って行き交う人も稀である。 情けが無い本間の心である。父は禁牢されて、子はまだ幼い。たとえ一所に置いたとてどれ程の畏怖があろうか。対面をさえ許さないで、まだ同じ世の中ではあっても、生きて隔たる如くであり、なからん後の苔の下、思い寝に見る夢でなければ、相看ることも有り難いと、互いに悲しむ恩愛の父子の道こそは実に哀れであるよ。
2025年12月29日
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番馬(ばんば、滋賀県の地名)、醒井(さめがい)、柏原、不破の関屋は荒れ果てて、なお漏る物は秋の雨の、いつかわが身の尾張なる熱田の八劔(やつるぎ)伏し拝み、塩干に今は鳴海潟(なるみがた)傾く月に、満ち見えて、明けぬ暮れぬと行く道の末はいづくと遠江(とおとうみ)、濵名の橋の夕塩に引く人もない捨て小舟、沈み果てぬる身にしあれば、誰か哀れと夕暮れの入相鳴れば今はとて、池田の浜給に着き給う。 元暦元年、の頃かとよ、重衡(しげひら)中将の、東夷の為に囚われてこの宿に着き給いしに、東路(あづまじ)の丹生(はにゅう)の小屋のいぶせさに古郷いかに恋しかるらんと、長者(宿場の長)の女が詠んだ、その古い哀れまでも、思い残さぬ涙である。 旅館の燈火が微かであり、鶏鳴が暁を催せば、疋馬(ひんば、一匹の馬)が風に嘶けば、天龍河を打ち渡って小夜の中山を越えて行けば白雲が路を埋め来て、そことも知らぬ夕暮れに家郷(かけい)の天を望んでも、昔西行法師が「命なりけり」と詠じつつ二度越された迹までも、浦山敷くぞ思われる。 隙行く駒の足が速いので、日が既に亭午(正午)に昇れば、食偏に向(かれい、干し飯)を勧める時刻であると輿を庭前にかき留めた。轅(ながえ)に即ち警護の武士を近づけて宿の名を聞いた所、菊川でありますと答えたので、承久の合戦の時に院宣(いんぜん)を書いた咎によって、光親(みつちか)郷が関東に召し下され候しが、この宿で誅せられし時に、 昔南陽縣菊水 汲下流而延齢 今東海道菊川 宿西岸而終命 (昔、中国の南陽縣の白河の支流菊水では下流を飲んで長寿を得たと言うが、今私は日本の菊川で西岸に宿って命を終える。と書いたとかいう。遠い昔の筆の跡、いまはわが身の上に成った。哀れやいとど勝りけん、一首の歌を詠んで宿の柱にぞ書かれたのだ。 古(いにしえ)も かかる例を 菊川の 同じ流れに 身をや沈めん (昔も似たようなことが有ったと聞くが、自分も同じ運命に遭って斬られるだろう) 大井川を過ぎたので、都にあった嵐山の大堰川の名前を聞いて、亀山殿の行幸が嵐の山の花盛りに龍頭鷁首ぼ船に乗り、詩歌管弦の宴に侍ったことも今は再びは見ない夜の夢と思い続け為された。 嶋田、藤枝に懸かって、岡辺の眞葛が裡枯(うらか)れて物悲しい夕暮れに、宇都の山辺を過ぎゆきて蔦葛が繁って道もない。 昔、業平の中将が住所を求めても東の方に下ったとて「夢にも人に逢わないのであった」と詠んだのもかくやと思し知ったのだ。 清見潟を過ぎ給えば、都に帰る夢をさえも通さない波の関守に、いとど涙を催され、向はいずこ三穂が崎・興津(おきつ)・神原(かんばら)打ち過ぎて、富士の高嶺を見給えば、雪の中から立つ煙上ない思いを較べつつ、明ける霞に松見えて、浮嶋が原を過ぎゆけば、潮干で淺い海に船が浮いて見える。 田に降りて作業をする田夫ではないが自らも、浮世を巡り苦しみを経験する輪廻の車ではないがその車を名に持つ、車返し、竹の下で行き悩む。足柄山の峠から大磯・小磯を見下ろして、袖にも浪は越えるそれではないが、小余綾(こゆるぎ)の急ぐというのではないけれども、日数が積もれば七月二十六日の暮程に鎌倉にこそ着き給いける。 俊基 鎌倉に 下着して 押し込められること その日、やがて南条左衛門高直が請け取り奉って諏訪左衛門に預けらる。 一間の部屋に蜘手を厳しく結い、押し込め奉ったその様子は、ただ地獄の罪人が十王(冥途にいる十人の王。秦広王・初江王・宗帝王・五官王・王偏に炎・変成王・泰山王・平等王・都市王・天輪王。冥途に行った者は七日毎に、これらの王のもとで裁断を受けると言う)の庁に渡されて頸枷手枷をいれて罪の軽重を糺されるのも、かくやとこそ思われる。 長崎新左衛門の尉 意見の事 付けたり 阿新(くまわか、兄い)殿の事 當今(とうぎん、今上天皇、後醍醐天皇)が御謀反の事、露顕の後は御位はやがて持明院(後深草天皇の系統を言う。当時は後伏見・花園の両上皇と後醍醐の皇太子量仁親王・光厳院が持明院統である)殿にぞ進(まい)らんずらんと、近習の人々は青女房(青は未熟、年若く位も低い)に至るまで悦びあえる所に、土岐が討たれた後もその沙汰がない。 今また俊基が召し下されだのだが、御位のことについては如何なる沙汰ありとも聞こえないので持明院方の人々は案に相違して、五口偏の意(ごい、悲しみ悼む)の歌を歌わない者とていない。 長崎高資 と 二階堂道薀 との論争 されば、とかく申し進める人があったのか、持明院殿より内々に関東に御使を下され、「當今の御謀反の企て、近日、事既に急である。武家が速やかに糾明の沙汰がなければ天下の乱は近くにあるべし」と仰せられたりければ、相模入道は「げにも」と驚いて、宗徒(むねと)の一門(主だった一族)・併(ならび)に頭人(とうにん、引き付け衆、評定衆を補佐し、訴訟の審理・記録などを掌る の首席)・評定衆を集めて、この事は如何あるべきか、と各自に所存を問われた。 しかれども或る者は他に憚って口を閉ざし、或いは己を顧みて言葉を出ださなかったところに、執事の長崎入道が子息新左衛門の尉が進み出て申しけるには、先年、土岐十郎が討たれた時に、當今の御位を改めるべきであったのを、朝憲(ちょうけん、国家根本の掟)に憚って御沙汰が緩かった為にこのことは未だに休みがない。乱を払って治を致すのは武の一徳である。 速やかに當今を遠国に遷し参らせて、大塔の宮をば不返の遠流に処し奉りなば、俊基・資朝以下の乱臣も一々に誅せらるるより外は、別儀有るべしと存じ候わず。と、憚る所なく申しけるを、二階堂出羽入道道蘊(どううん)が暫く思案してから申しけるは、この儀もっともしかるべく聞こえ候えども、退いて愚案を廻らすに、武家は権を執って既に百六十余年、威は四海に及び、運累葉(るいよう、累代)に輝かす事更に他事なし。 ただ上一人を仰ぎ奉りて忠貞に私無し。下は百姓を撫でて仁政に施しある故である。
2025年12月26日
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文観等の 配流 同じく七月十三日に、三人の僧達を遠流のこと、在所が定まって、文観僧正をば硫黄が嶋、忠僧正をば越後の国に流された。 圓観上人ばかりをば、遠流一等を宥めて、結城上野入道に預けられければ、奥州に具足し奉り、長途(ちょうど)の旅に流離い給い、左遷(官職を落す事)遠流と言わぬばかりである。 遠蠻の外に遷させなされたので、これもただ同じ旅程の思いであり、肇(はじめ、後秦の僧)法師(秦王に刑せられた人)の刑剹(けいりく)の中に苦しみ、一行(いちぎょう、唐の高僧で張公謹の孫。玄宗皇帝の信頼が厚かった)阿闍梨(あじゃり、梵語で規範。高僧の汎称で、後に真言の秘法を伝授する僧の職位となった)が火蘿(から)国に流された水宿山行(山水に起臥して苦しむこと)の悲しみもかくやと思い知られたのだった。 名取川(宮城県仙台付近)を過ぎなされたので、上人は一首の歌を詠みなされた。 陸奥の うき名取川 流れ来て 沈みやはてん 瀬々(せぜ)の埋もれ木(みちのく、正しくは、陸前の国、の憂き・辛い名を持つ名取川を浮かび流れて皆底深く沈んだ瀬々の埋木のように私も私も流罪になって再び浮かび上がることがないのであろうか) 波羅奈国 の 沙門の僧 時の天災を大權(だいごん、権化・ごんげ、仏が仮に現世に姿を現したもの)の聖者も遁れ給わぬにや、昔、天竺の波蘿奈国(はらないこく、中印度の波蘿奈川の流域にあった国と言う)に戒定慧(かいじょうえ、戒學・禁戒、定學・禅定、慧學・智慧の三っつ)の三學を兼備し給える一人の沙門が居られた。 一朝(一町)の国師(一国の天子の師範たるべき高僧)として四海(しかい、天下)の倚頼(いらい、頼りにすること)であったから、天下の人が帰依人偏の渇仰(きえかつぎょう、帰服依頼してその徳を仰ぐ)することはあたかも大聖世尊(釈尊、釈迦)の出世成道の如くである。 或時にその国の大王が法界(ほつえ、仏法を説くために衆を集める事)を行う事があって、説戒の導師に此の沙門を請ぜられた。 沙門は則ち勅命に随いて鳳闕に参じられた。帝は折節に碁を遊ばされる砌(みぎり)に伝送が参って沙門の参内の由を奏し申しける。が、遊ばしておられた碁に御心を入れられて、これを聞し召されず、碁の手に付けて「切れ(相手の石と石の連絡を断て)」と仰せられたのを、伝送が聞き誤って此の沙門を斬れとの仰せと思いて、直ちに沙門を禁門の外に連れ出して、その首を刎ねてしまった。帝は碁を遊ばし果てて、沙門をお前に召した所、典獄の官が「勅定に随って、首を刎ねました」と答えた。 帝は大いに逆鱗あって、「行死は定まって後、三奏す」(死罪が定まって後に、三度は奏上すべきだ。唐の大宗が張薀古を斬った時の故事による)と言われた。 しかるを一言の下に、誤りを行う。朕の不徳を重ねた。罪は大逆に同じだ。と仰って、直ちに伝送を召し出だして、三族の罪(父母、兄弟、妻子をにすること)に行われたのだった。 さて、此の沙門は罪なくして死罪に遭い給う事はただ事ではない。前生での宿業であろうと思召したので、帝はその故を阿羅漢(あらかん、小乗仏教の修行者の極位)に問い給う。 阿羅漢は七日間の定に入って宿命通(しゅくめいつう、自他の前世での一切の所業を自在に識る神通力。阿羅漢が所得の六通の一つ)を得て、過現を見給うに、沙門の前生は耕作を業とする田夫であった。帝の前生は水に住む蛙であった。この田夫が鋤を取って春の山田を返していた時に、誤って鋤の先で蛙の頸をぞ切ってしまった。子の因果に依って、田夫は沙門と生まれ、蛙は波羅奈国の大王と生まれ、誤ってまた死罪を行われたことは実に哀れである。 さればこの上人も、如何なる修因感果(因果)の理に依ってか、かかる不慮の罪に沈み給いぬらんと、不思議なりし事どもである。 俊基朝臣 再び 関東下向 の事 俊基 関東に 送られる 俊基朝臣は、先年正中元年1324年土岐(とき、岐阜県の地名)十郎頼貞が討たれた後で、召し取られて鎌倉まで下り給いしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて赦免せられたりけるが、又この度の白状どもにもっぱら陰謀の企て、彼の朝臣にありと載せたので、七月十一日にまた六波羅に召し取られて関東に送られたのだ。 再犯が赦されないのは法令の定める所であり、何と陳じても許されずに、路次にて失われるか、鎌倉において斬られるか、二つの間をば離れないだろうと、思いも請けて(予想して)ぞ出かけられた。 道 行き 文 落花の雪に踏み迷う、交野(かたの、河内の国の地名)の春の桜狩り、紅葉の錦を着て帰る嵐の山(京都府右京区)の秋の暮、一夜を明かす程だにも、旅宿となれば物憂いのに、恩愛の契り浅からず、我が故郷の妻子をば行方も知れずに思い置きて、年久しくも住み慣れた、九重の帝都をば今は限りと顧みて、思わぬ旅に出で給う心の中ぞ哀れなる。 憂きをば止めぬ逢坂の関の清水に、袖濡れて、末は山路を打ち出での濵、沖を遥かに見渡せば塩ならぬ海に焦がれ行く、身を浮舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り行き向(か)う人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も子を思うかと哀れである。 時雨もいたく森山(守山)の木の下露に袖濡れて、風に露散る篠原や、篠を分ける道を過ぎゆけば鏡の山は有りとても涙に曇りて見え分かず。 物を思えば夜の間にも、老蘇の森の下草に駒を止めて顧みる、古郷を雲が隔てるのだ。
2025年12月24日
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三人の僧徒 関東 下向の事 同年(同じき年の)六月八日、東使三人の僧達を具足して関東に下向する。 忠圓・文観・円観の 高僧 かの忠圓僧正と申すのは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断(多くの文題の論議を一人で判断する事)の登科(官吏登用試験に及第する事。ここは第一級の人材と言う事)で一山無双の碩学である。 文観僧正と申すのは、元は播磨の国法華寺の住侶であぅたが、壮年の頃より醍醐寺(京都市伏見区醍醐にある古義真言宗醍醐派の総本山)、に移住して真言の大阿闍梨であったから、東寺(京都市下京区九条にある古義真言宗東寺派の総本山)の長者、醍醐の座主(ざす)に補せられて、四種(真言密教の四種の曼陀羅。即ち仏菩薩が総集したさまを表した大曼陀羅、諸尊の種子・真言・呪文を口に唱え、書記する法曼陀羅、諸尊の形相・作用を現わす羯磨曼陀羅の称)三密(身・口・意の秘密。手に印を結び威儀を務める身密と、真言を分明に誤りなく誦する口密と、本尊を観ずる意密と)の棟梁である。 圓観上人と申すのは、元は山徒でありましたが、顕密両宗の才、一山に光あるかと疑われ、智行兼備の誉は諸寺に人がいないのかと思われた。 然れども、久しく山門さんずいの嶤漓(軽薄、末世)の風に随うならば情慢(増上慢)の幡(はた)が高くして(思い上がった心が無暗に高くて)、遂に天魔の掌握の中に堕ちるであろう。 如かず、公請論場(公の会で僧を請じて法を論じさせる場所)の声誉を棄てて、高(祖大師(伝教大師最澄)の旧規に帰らんには、と。 一度(ひとたび)、名利(みょうり)の轡(くつばみ)を返して、永く寂寞の苔の扉(とぼそ)を閉じ給う。始めの程は西塔の黒谷にと言う所に居を卜(ぼく)して三衣(大衣・だいえ・七条・五条の三種の袈裟)を荷葉(蓮の葉)の秋の霜に重ね、一鉢(布施を受ける鉢)を松華(松の花)の朝の風に任せ(蓮の葉に霜が置く秋も僧衣を着て修行し、松の花が朝の風に散る様に一鉢を持って修行に出た)給いけるが、徳は不孤(孤ならず)必ず隣あり(徳が身に備われば必ず隣にも及ぶ=論語)。大明(太陽)光を蔵(かく)さなかったので遂に五代聖主(後伏見・後二条・花園・後醍醐・公巌の五代の帝王)の国師として三聚淨戒(さんじゅじょうかい、仏弟子が受持する戒法。摂津受戒・一切の諸悪を、みな悉く断捨すること。摂善法戒・一切の諸善をみな悉く実行する事。摂衆生戒・一切の衆生を皆悉く摂取して、遍く利益を施す事)の太祖(始祖)である。 この湯な有智高行(内工業)の尊宿であると言えども、時の横災(おうさい、不慮の災害)を逃れる事は出来ないのか、また前世の宿業に依るものなのか、遠蠻(東夷、東国武士)の囚われとなって逆旅(ここは旅の事)の月に流離い給うのは不思議なる事共ではある。 鎌倉への 下向 圓観上人ばかりこそ、宗印・圓照・道勝とて如影随形(影が形に随うような)の御弟子三人が隋逐して輿の前後に供奉した。 その外、文観僧正・忠圓僧正・には相随う者は一人もなくて、怪しい店馬(宿場に供えられた公用の馬)に乗せられ、見慣れぬ武士に打ち囲まれて、まだ夜深いのに鳥が鳴く東への旅に出で成された心の中こそ哀れである。 鎌倉までも下し着けずに、途中の道で失ったなどと聞こえたならば、かしこの宿に着いたとしても今や限り、この山に休めば是や限り、と露の命の有るほども心は先に消えてしまうだろう。 昨日も過ぎ、今日も暮れたと行く程に、我とは急がない道ではあるけれども、日数が積もったので六月二十四日に鎌倉にこそ到着した。 圓観上人をば佐介越前の守、文観僧正を佐介遠江(とおとうみ)守、忠圓僧正をば足利讃岐守にぞ預けられた。 文観 及び 忠圓 の 白状 圓観が 奇特を現じ 拷問を免れる 両使が帰参して、かの僧達の本尊の形、炉壇の様を絵図に写して注進した。 俗人が見知るべきことではないので、佐々目の頼禅僧正を請じ奉ってこれを見せられしに、「仔細無き調伏の法である)と申されたので、「されば、この僧達を拷問せよ」と、侍所に渡して水火の責めを致したのだ。 文観房はしばしが程は如何に問われても落ち給わざりしが、水問(水責め、或いは、推問・事実を取り調べる事)が重かったので、身も疲れ、心も弱ってしまったのだろうか、勅定により調伏の法を行ったことに間違いはありません、と白状なされた。 その後に忠圓房を嗷問(ごうもん、拷問)しようとした。この僧上は生来が臆病の人で、未だ責められない先に、主上が山門に御語らいありしこと、大塔の宮の御振舞、俊基の陰謀の事などを有りしも有らざる事までも残る所なく白状一巻に載せられた(罪人が自ら罪を述べる事)。 この上は何等の疑いもないけれども、同罪の人であるから、さし置くべきではない。圓観上人をも明日、問い奉るべき評定があった。 その夜、相模入道の夢に、比叡山の東の坂本から猿共が二、三千匹群がり来たってこの上人を守護し奉る体で、並みいたると見給う。 夢の告げはただ事ではないと思われたので、未明に預かり人の許に使いを遣わして、上人を拷問することはしばらく差置け、と下知せられたところに、預け人の方からそれを遮って入道に申した事には、上人を拷問する事、此の暁に既にその沙汰を致し候わん為に上人の御方に参りて候ところ、燭を掲げて観法定坐(坐して禅定に入ること)せられて候。 その御影が後ろの障子に移って不動明王の形に見えさせ給って候つる間、驚き存じてまずことのし仔細を申し入れん為に、参りて候なりとぞ申しける。夢想(夢の中に神仏のお告げがある事)と言い。示現(じげん、神仏の霊験を示し表す事)と言い、ただ人では無いと言うので、拷問の沙汰を止められたのだ。
2025年12月23日
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この中に忠圓僧正は、顕宗(密教に対して教義が幽玄でなく、容易に理解できる教法で天台宗・浄土宗などの類)の碩徳であったから、調伏の法を行わrたという。 その人数には入らなかったけれども、これもこれ君に近づき奉りて、山門の講堂供養以下(いげ)の事、萬(よろず)直に申し沙汰せられしかば、衆徒が与力した事を、この僧正がよも存じられぬことはあるまいと、同じく召し取られ給いにけり。 これのみならず、智教・教圓の二人も南都から召し出されて、同じく六波羅に出でにけり。 二条為明 和歌の趣によって 口偏の慠問(拷問)を免れる 又、二條中将為明(ためあきら)卿は歌道の達者であり、月の夜雪の朝に褒貶(誉めたり貶したりして批評する)の歌合わせの御會に召されて、宴に侍る事隙がなかったので、さしたる嫌疑の人ではなかったけれども、叡慮の趣を尋ね問わん為に召し取られて、斎藤某(なにがし)にこれを預けられる。 五人の僧達の事は、もとより関東に召し下して沙汰があることであるから、六波羅で尋ね極めるには及ばずに、為明卿の場合には先ず京都にて尋ねる沙汰があって、白状があれば関東に註進すべしとて、検断(けんだん、理非を検察して訴訟を裁判する職。検断職。鎌倉では侍所が、六波羅では検断職が刑事を裁判した)に仰せて既に拷問の沙汰に及ばんとす。 六波羅の北の坪に炭をおこす事、钁湯(かくとう、足の無い大鼎)炉炭(ろだん、灼けた炭)の如くにして、その上に青竹を破って敷き並べて少し隙をあけてあるので猛火が炎を上げて烈々たり。 朝夕に雑色どもが立ち並んで両方の手を引き張って、その上を歩かせ奉らんと、支度をした有様はただ四重五逆の罪人が、焦熱・大焦熱の炎に身を焦がし、牛頭馬頭(ごずめず、地獄の獄卒で牛頭人身、馬頭人身の鬼)の呵責に遭うのもこのようであろうと覚えて、見るだけで肝が消えるように恐ろしく感じる。 為明卿はこれを見給いて、「硯やある」と尋ねられたので、白状の為かとて硯と料紙とを取り添えて奉りければ、白状ではなくて、一首の歌を書かれたのだった。 思いきや わが敷島の 道ならで 浮世の事を 問はるべしとは 常葉駿河の守、この歌を見て、感嘆肝に銘じければ涙を流して理に服したのだ。東使の両人もこれを読んで諸共に袖を浸した。 この為に為明は水火の責めを免れて、咎無き人にあったのだ。 著者 の 批評 詩歌は朝廷の翫(もてあそび)所、弓馬は武家の嗜む道なれば、その習わしは未だ必ずしも六義(りくぎ、詩歌)数寄(すき、風流)の道に携わらねども、物に相感じることは皆自然であるから、この歌一首の感によって拷問の責めを止めた事は、東夷の心中(こころのなか)こそ優しけれ。 力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目には見えない鬼神をも哀れと思わせ、男と女の仲も和らげる。猛き武士(もののふ)の心をも慰めるのは歌であると、紀貫之が古今集の序に書いたのも理(ことわり)と覚えた事だ。 三人の僧徒 関東へ 下向の事 同じ年の六月八日、東使は三人の僧達を具足し奉って、関東に下向した。 忠圓・文観・円観の 高徳 かの忠圓僧正と申すお方は、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断(多くの論議の文題を一人で判断する事)の登科(とうか、官吏登用試験に及第する事。ここは第一級の人材の意)、一山に無双の碩学である。 文観僧正と申すのは、元は播磨の国の法華寺の住侶であったが、壮年の頃から醍醐寺に移住して真言の大阿闍梨であったから、東寺の長者、醍醐の座主(ざす)に補せられて四種(ししゅ、真言密教の四種の曼陀羅。即ち仏菩薩の諸尊が総集したさまを現わした大曼陀羅、諸尊の器杖・印契を画いた三昧耶・さんまや曼陀羅、諸尊の種子・真言・呪文を口に唱え書紀する法曼陀羅、諸尊の形相・作用を現わすか羯磨曼陀羅の称)三密(身・口・意の秘密。手に印を結び威儀を務める身蜜と、真言を分明に間違いなく誦する口蜜と、本尊を観ずる意蜜)の棟梁である。 圓観上人と申すのは、元は山徒(延暦寺の僧)でありましたが、顕密両宗の才、一山に光あるかと疑われ智行兼備の誉は諸寺には人がいないが如し。 しかれども、久しく山門さんずいの嶤漓(ぎょうり、軽薄、末世)の風に従えば、情慢(じょうまん、増上慢、思い上がった心)の幡高くして(むやみに高くなって)遂に天魔の掌握の中に堕ちてしまうだろう。 しかない、公請論場(こうせいろんじょう、公の場所に僧を呼んで法を論じさせる事)の声誉を棄てて高祖大師(伝教大師最澄)の旧規に帰らんには。 一度、名利の轡(くちばみ)を返して、永く寂寞(じゃくまく)の苔の扉(とぼそ)を閉じ為された。 初めの程は西塔の黒谷と言う所に居を卜(しめ)て、三衣(大衣・だいえ、七条、五条の三種の袈裟)を荷葉(かよう、蓮の葉)の秋の霜に重ね、一鉢を松華(しょうか、松の花)の朝の風にまかせたまいけるが(蓮の葉に霜が置く秋も僧衣を着て修行をし、松の花が朝の風に散る様に一鉢を持って托鉢に出た。徳は孤ならず必ず隣あり(徳が備われば必ず他人にもその恩恵が及ぶ=「論語」)、大明光(太陽)を蔵さなかったので、遂に五大聖主(後伏見・後二條・花園・後醍醐・光巌の五大の帝王)の國師として三聚淨戒(仏弟子が受持する戎法、摂律儀戎・一切の諸悪をみな悉くd断捨すること、摂善法戎・一切の諸善をみな悉く実行する事、摂衆生戎・一切の衆生をみな悉く摂取して遍く利益を施す事、の三っつ)の太祖たり。 かかる有智高行(ゆうちたかぎょう)の宿僧であると言えども、時の横災をば逃れ給わぬのであろう。又、前世の宿業にや依るのだろうか。遠蠻の囚われとなって逆旅(ここは旅の事)の月に流離い給う不思議である事共であるよ。
2025年12月19日
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太平記 巻 第二 南都北嶺 を行幸 の事 東大寺 興福寺 を 行幸 元徳二年二月四日、行事の辨別當、万里小路(までのこうじちゅうなごん)中納言藤房卿、を召されて「来月の八日に東大寺・興福寺に行幸あるべし。はや供奉(ぐぶ)の輩(ともがら)に触れ仰(おお)せるべきだ」と仰せ出だされければ、藤房は古きを尋ねて、例を考え、供奉の行米偏に荘、路地の行列を定められた。 佐々木備中の守を廷尉(ていい、検非違使庁の三等官の唐名)になして橋を渡し四十八か所の篝(かがり)、甲冑を帯し、辻々を固めた。 三公(中国の三公に準えて、太政大臣と左右の大臣を言う)九卿(中国の九卿に准えて日本の公家を言う)を相従えて、百司千官が列を引く。言語道断(詞では言い表せない)の巌儀である。 東大寺と申すのは、聖武天皇の御願(御願寺、御祈願により建立した寺)、閻浮(閻浮提、ここは日本の事)第一の廬舎那仏がおわし、興福寺と申すのは淡海公(藤原鎌足の子、不比等のおくり名)の御願、藤氏が尊崇の大伽藍であれば、代々の聖主も皆結縁の御志はおわせども、一人で出で給うのは容易くないので、多年にわたりて臨幸の儀はなかった。 この御代に至って絶えたるを継ぎ、廃れてたるを興し、鳳輦を廻らし給いしかば衆徒は歓喜して掌を合わせ、霊佛は威徳の光を添えた。 されば、春日山の嵐の音も今日からは万歳を叫ぶかと怪しまれる。北の藤波は千代(千年)かけて花を咲かせる春の陰は深いのだった。 比叡山に 行幸 大講堂 供養 津守国夏の 詠歌 また、、同じ月の二十七日に比叡山に行幸がなって、大講堂の供養があった。 かの堂と申すのは、深草天皇の御願、大日遍照(身の光と智の光が遍く無碍の法界を照らす意)の尊像である。中ごろに造営の後に、未だ供養を遂げずに星霜が既に積もったので、甍が破れては霧不断の香を焼き、扉(とぼそ)が落ちては月が常住の燈火を掲げる。 されば満山歎いて、年を重ねていた所に忽ちに修造の大功を遂げられ、速やかに供養の儀式を調え給いしかば、一山が眉を開いて九院が首を傾けたのだ。 御導師は妙法尊燈法親王、呪願(じゅがん、導師が施主の為に幸福を祈願するのを言う)は時の座主大塔尊雲法親王にてぞ御座(おわ)しける。 称揚讃仏のみぎりには鷲峰(じゅほう)の花の薫りもこれに譲り、歌唄頌徳(かばいじゅとく)の所には魚山(ぎょさん)の嵐が響きを添える。 伶倫しんにゅうの葛雲(れいりんふつうん、音楽を奏する人が雲の流れを止める程の素晴らしい曲を奏し)の曲を奏し、舞童回雪(神女の舞)の舞の袖を翻せば、百獣も率舞(そつしまい、相じきいてまい)、鳳凰も来って儀容があるさまなのだ。 住吉の神主、津守の國夏大皷(くになつたいこ)の役で登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌を書付けたのだった。 契りあれば この山もみつ 阿耒偏の辱多羅三草冠の貌三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい) の種や植けん これは、伝教大師当山草創の古(いにしえ)に「我が立杣に冥加あらせたまえ」と、三草冠に貌三菩提の仏たちに祈らせられた故事を思って詠んだ歌なのであろう。 行幸 の 理由、護良親王 の 御武芸 そもそも元亨(げんこう、元応三年1321二月に改元して元亨と言う)以後、主愁え、臣は辱められて天下には更に安き時はない。 行幸の折節こそは多かったが、今の南都北嶺の行幸は叡願は何事であろうかと尋ねると、近年に相模入道の振る舞いは日頃の不儀に超過した。 蠻夷の輩(ともがら)は武命に随う者であるから、召したとて勅には応じないのだ。ただ、山門南都の大衆を語らって東夷を征伐せられようとの御謀反であると聞こえた。 これに依って大塔の二品(にほん)親王(護良親王)は、時の貫主(天台座主、天台宗延暦寺の首長)にておわせししかども、今は行學共に捨て果てさせて朝暮にただ武芸の嗜みの外には他事なくていらっしゃる。 御好みある故にや依るのであろうか、早業は江都王の軽捷依りも優れていたので、七尺の屏風を未だ必ずしも高いとは感じずに、打ち物は子房(張良、字は子房)の兵法を会得なされていらっしゃる。一巻の秘書を尽くされずということはない。 天台の座主は始まってから。このような不思議の門主は御座さず、後に思い合わせると東夷征伐の為に御身を鍛えられておられた武芸の道であると知られた。 僧徒が六波羅に 召し捕られる事 付けたり 為朝 詠歌の事 御企 武家方に漏れ 円観等が捕えらる 事が漏れやすいのは禍を招く媒(なかだち)であるから、大塔の宮の御振舞、禁裏に調伏の法を行われる事共、一々が関東に聞こえていた。 相模入道は大いに怒って、いやいや、この君の御在位の程は天下は静まらないであろう。所詮は君をば承久の例(北条氏征伐の企が漏れて後鳥羽上皇は隠岐に、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に流された事を言う)に任せて、遠國に遷しまいらせ、大塔の宮は死罪に処し奉るべきであろう。先ず、近頃は殊に龍眼に咫尺(しせき)し奉りて、当家を調伏し給う、法勝寺の圓観上人、・小野の文観僧正、南都の知教・教圓・浄土寺の忠圓僧正を召し取って仔細を相尋ねるべきだと、既に武命を含んで、二階堂下野判官・長井遠江守の二人を関東から上洛させた。
2025年12月17日
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資朝(亮知)俊基(敏元) 関東下向の事 付けたり 御告文の事 東使が上洛して 資朝・俊基を捕える 土岐・多治見が討たれた後で、君(後醍醐天皇)の御謀反は次第に隠れなかりければ、東使(鎌倉からの使者)長崎白羽左衛門泰光(やすみつ)、南条次郎左衛門宗直(むねなお)が二人して上洛して、五月十日資朝・俊基両人を召し取り奉る。 土岐が討たれた時に、生捕りの者は一人もなかったので、白状はよもあらじ、さりとても我等が事は顕れまいと儚い頼みに油断をして、かつてその用意も無かったので、妻子を東西に逃げ迷いて身を隠そうとする所なく、財宝は大路に引き散らされて、馬蹄の塵となったのだ。 かの資朝卿は日野の一門であり、職大理(検非違使別当の唐名、検非違使庁の長官。司法警察に随う)を経て、官中納言に至ったので、君の御覚えも他に事にして、家の繁昌は時を得たのだ。 俊基朝臣は身は儒雅(儒家の流れで文の道に優れた家柄。代々儒を業とした)の下(もと)より出て望み勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み(同僚も御機嫌を取り)、長者も残盃の冷に随う(長上の者も恥を甘受した)、 むべなるかな、不義して富且つ貴きは我に於いて浮雲の如し、と言ったことは、これは孔子の善言で魯論(論語)に記している事なのでどうして違えてよいだろうか。 夢の中に楽しみが尽き、眼前の悲しみここに来れり。彼を身、これを聞ける人ごとに盛者必衰の理を知らなくても、袖を絞り得ず。 資朝、俊基 鎌倉に送られる 同じ二十七日に東使の両人は資朝・俊基を具足し(引き連れ)奉って、鎌倉に下着した。この人々は殊更iに謀反の張本(発頭人、首謀者)であるからやがて(直ぐに)誅せられんと覚えしかど、倶(とも)に朝廷の近臣として才覚優長(才學が優れている事)の人たりしかば、世の謗り君の御憤(みいきどおり)を憚って拷問の沙汰にも及ばずに、ただ世の常の放召人(はなしめしうど、押し込めるだけで獄舎に禁足されない特別の囚人)の如くにして預け置かれたのだ。 御告文を 高塒に 賜う 七月七日、この夜は牽牛と織女の二星が烏昔に鳥橋(うじやくのはし)を渡して一年の懐抱を解く夜であるから、宮人(みやびと)の風俗、竹竿(ちくかん)に願いの糸をかけて、庭前に嘉菓(よい菓子)を列(つら)ねて、乞巧奠(こつこうでん、七夕祭)を修する夜であるが、世上は騒がしい時節であるから詩歌を奉る騷人(そうじん、詩文の人、風雅の士)もなく、弦管を調べる伶倫(音楽を奏する人)のいない。 偶々(たまたま)上臥(じょうが、宮中に宿直する)したる月卿雲客(げっけいうんかく、公卿と殿上人、公卿は位は三位、官は参議以上。殿上人は四位五位以上の人及び六位の蔵人で昇殿を許された者)も何とはなしに世の中の乱れに、また誰の身の上に難が来るかも知れないと、魂も消え、肝の冷えてしまっている時分であるから、皆が眉をひそめて面をたれていたのである。 夜が甚く深く、「誰か候や」と召されたので、吉田中納言冬房が候と、御前に候ず。 主上は席を近づけて仰せなされたのは、「資朝・俊基が囚われた後は、東風・鎌倉の様子 猶未だ静かだはなく、中夏・中華・四方の蛮夷に対して中央の開けた所=ここは帝都が危険を感じる意は常に危うきを感ず。 この上にまた如何なる沙汰をばいたすんずらんと、叡慮更に穏やかならず。どうにかして先ず東夷を定むべき謀があろうか、と勅問(ちょくもん、臣下に問うこと)ありければ、冬房は謹んで申し上げた。 資朝・俊基が白状あったとしても承り候ねば、武臣もこの上の詮議には及ばじと存知候えども、近日に東夷の振る舞いには粗忽の義多く候えば、御油断あるまじくて候。先ず、告文一紙を下されて、相模入道の怒りを鎮め候らはばや、と申されたところ、主上はげにもと思召されけん、さらば直ぐに冬房が書け、と仰せありければ、即ち御前にあって草案して、奏覧致した。 君はしばらく叡覧ありしが、御泪が告文にはらはらとかかったのを御袖にて押し拭いなされたので、御前にさぶらいける老臣が皆悲嘆の涙を含まない者はいない。 斎藤利行 御告文を読んで 暴死する やがて、萬里小路(までのこうじ)大納言宣房(のぶふさ)卿を勅使として、この告文を関東に下したのだ。 相模入道、秋田城介を以て、告文を受け取って即ち披見せんとしたが、二階堂出羽入道々蘊(どううん)が堅く諫めて申したのは、天子が武臣に対して直に告文を下されたる事、異國にも我が朝にも未だその例を承らず。しかるを、等閑(なおざり)に披見なされることは冥見(みょうけん、神仏の御照覧)に付けてその恐れがある。ただ、文箱を開かずに、勅使に返進せらるべきではないだろうか。と、再往(さいおう、再三)申されたところ、相模入道は「どうして苦しい事があろうか」と言って、斎藤太郎左衛門利行に読み進ませなされた。 叡心不偽處(えいしんいつわらざるところ)任天照覧(てんのしょうらんににんずと)と遊ばされたる所を読んでいた際に、利行は俄かに胘衄(めくるめきはなぢたり)ければ、読み終えずに退出した。 その日から咽の下に悪病ダレの蹌(悪性のかさ)が出来て、七日の内に血を吐いて死んでしまった。 時、さんずいの堯季(ぎょうき、人情が薄い末世)に及んで、道が塗炭に落ちたとは言え(入道が泥にまみ火に焼かれたとは言え、君臣上下の礼に違う時はさすが仏神の罰もありけりと、これを聞いた人毎に怖じ恐れぬはいなかった。 何様、資朝・俊基の陰謀は叡慮から出でた事であるから、たとえ告文を下されたと言えども、それによるべからず。主上をば遠国に遷し奉るべしと、始めは評定一決してけれども、勅使の宣房卿の申されし趣はげにもと覚えたる上に、告文を読んだ利行が俄かに血を吐いて死んだので、諸人皆が舌を巻き、口を閉じた。 相模入道も、さすがに天慮に対する憚りがあったのか、御治世の御事は朝議に任せ奉る上は、武家が干渉してはいけない。と、勅答を申して告文を返進(お返し)せらる。 宣房卿は即ち、帰洛してこの由を奏し申したりしにこそ宸襟始めて解けて、群臣は色を直したのだった。 さるほどに、俊基朝臣は罪が疑わしいのを軽んじて赦免せられ、資朝の卿は死罪一等を宥められて、佐渡国にぞ流されたのだ。
2025年12月15日
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小串範行 多治見行長を討つ、小笠原孫六の 奮戦 国長の自害 多治見の宿所には、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて押し寄せたり。 多治見は終夜(夜もすがら)の飲酒に酔い疲れて、前後も知らずに臥せっていたのだが、鬨の声に驚いてこれは何事かと周章(しゅうしょう、慌てる)騒ぐ。 側に臥していた遊君は物馴れた女であったから、枕元にあった鎧を取って打ち着せ、上帯を強く締めさせて、なおも寝入っている者どもを起こしたのだ。 小笠原孫六は傾城に驚かされて、太刀だけを手に取って中門に走り出て、目をすりすり四方をきっと見た所、車の輪の籏が一流れ築地の上から見えたのだ。 孫六は家に入って、六波羅から打つ手が向かって候いける。この間の御謀反が早くも顕れたると覚え候。早、面々、太刀の目貫を堪える程は切り合ってから腹を切れ。と、呼ばわってから腹巻(軽便略式の鎧の一種。士卒が着用したもので、胴丸に似て腹に巻、背で会わせるようにしたもの。吉野時代から行われ室町時代に盛行した)、を取って肩に投げかけ、二十四本差した箙(えびら、夜を入れて背に負う武具)と繁籘(しげどう、下地を黒漆塗にしてその上に幅一寸位、間五分くらいずつへだてて籘で繁く巻いた弓で、大将などが持ったもの。弓束・弓の手に握る部分から下部を二十八宿に象って二十八か所巻き、弓束から上を三十六禽になぞらえて三十六か所巻いたのを正式とする)とを携えて、門の上にある櫓に走り上がり、中差(なかざし、箙の内に差して上差・うわざし以外の征矢)を取って打ち蕃(つが)えて、挟間(さま、城壁や櫓などに設けて外を覗い、矢・石・弾丸などを放つ窓)の板八文字に開いて、あら、事々しの大勢やな。我らが手柄のほどぞ顕れるであろうよ。そもそも討っ手の大将は誰と申す人が向かわれて候やらん。近づいて矢を一つ受けて御覧候え、と言うままに十二束(矢の長さ、束・そくは一握り、即ち指四本の幅)三つ伏せ(伏は指一本の幅)を忘れるほどに引き絞り、切って放つ。 真ん前に進んで来ていた狩野下野前司の若党・衣摺助房(きぬずりのすけふさ)の鎧の真向鉢付けの板まで矢先を白く射通して、馬から逆様に射落した。 これを始めとして、鎧の袖・草摺・兜鉢とも言わず、指し詰めて思うように射たところ、面に立ったる兵(つわもの)二十四人を矢の下に射落した。 今一筋、胡簶(やなぐい)に残っていた矢を抜いて、胡簶をば櫓の下にからりと投げ落とし、この矢ひとつをば冥途の旅の用心に持つべし、と言って腰に差して、日本一の剛の者が謀反に與みして自害する有様を見置いて人に語れ。と、高声で叫び、太刀の鋒(きっさき)を口に咥えて櫓から倒(さかさま)に飛び墜ちたのだ。貫(つらぬかれ)てこそ死んでしまった。 この間に、多治見を始めとして一族若党二十余人が物の具をひしひsと固めて、大庭に跳(おど)り出て、門の関の木をさして待ち懸けたのだ。 寄せ手は雲霞の如くと言えども、思い切りたる(死を覚悟した、決死の)者どもが死に物狂いをしようと引きこもっているのが恐ろしいので、内に切り込もうとする者はいないのだ。 そこへ伊藤彦次郎父子の四人が門の扉が少し破れている所から、這って内側に入ったのだ。 その志の程は武(たけ)けれども待ち受けたる敵の中に、這って入った事であるから、敵は打ち違える事も無く、皆門の脇で討たれてしまった。 寄せ手は是を見て、いよいよ知kづく者も無かった。 その間に、内部から門の扉を押し開けて、討っ手を承る程の人達が穢くも見え候ものかな。早、これへ入りなされよ。我らが首を引き出物として進呈致そうぞ。と、敵を恥しめてぞ立ったのだ。 寄せ手の者共は敵に欺かれて、先陣の五百余人は馬を乗り放って歩み立ち(徒歩)になり、喚きながら庭にこみ入った。 立てこもっていた兵どもは、とても逃れられないと思い切ったる事であるから、何処へも一足も引かずにいる。 二十余人の者共、大勢の中に乱れ入って、面も振らずに真正面に進み、切って廻った。 先駆けの寄せ手五百余人、散々に斬りたてられて、門から外にさっと引いた。 されども寄せ手は大勢であるから、先陣が引けば二陣が喚いて懸け入る。駆け入れば追い出し、追い出せば懸け入り、辰の刻(御前八時)の直後から午刻(正午)の終わりまで火が出るまでに激しく戦ったのだ。 斯様に大手(追手とも、表門の事)軍が強かったおで、佐々木判官の手の者千余人は後ろに廻って錦小路から民家を打ち破って乱入した。 多治見は今はこれまでとや思ったのか、中門に並んで居て、二十二人の者共互いに差し違え、刺し違えして卜筮に使う算木を乱したように臥したのだ。 追っ手の寄せ手共が門を破っているその間に、搦め手の勢どもが乱れ入って来た。 首を獲って六波羅に馳せ帰った。 二時(四時間)程の合戦に、手負い死人を数えた所、二百七十三人であった。
2025年12月11日
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頼員(よりかず) 回(かえり)忠の 事 土岐頼員 妻に密事を 語る 謀反人の與党、土岐左近蔵人頼員は六波羅の奉行斎藤太郎左衛門尉利行の女(むすめ)と嫁して最愛したりけるが、世の中既に乱れて、合戦が勃発したならば、千に一つも討ち死にしないこともあるまいと思っている間に、兼ねて余波が惜しかりけん(前もって妻との別れが悔やまれたのであろうか)或る夜の寝覚め物語に、一樹の陰に宿り、同じ流れを汲むのも皆これ他生の縁が浅からず、況や相馴れ奉りてもう三年に余っている。 等閑(なおざり)ではない志の程を気色(顔色)に付けも折に触れても思い知り給うらん。 さてさて定めがないのは人間の習い、相逢う中の契りであるから、今わが身が果敢無くなったと聞き給う事があれば、なからん後までも貞女の心を失わず、我が後世を問い給え。再び人間としてこの世に生まれかえったならば、再び夫婦の契りを結び、浄土に生まれたならば、同じ蓮の臺(うてな)に半座を分けて待つべし。と、その事となくかき口説き涙を流して申しける。 女はつくずくと聞いて、怪しや、何事のはんべるらん。明日までの契りの程も知れない世で、後世までのあらましは忘れんとての情けに手こそ侍(はんべ)らめ。さらではかかるべしとも覚えずと泣き恨んで問ったところ、男は心浅くして、さればよ、われ不慮の勅命を蒙りて、君に憑(たのま)れ奉る間、辞するに道なく御謀反に與(くみ)したるので、千に一つも命の生きんずることは難い。 端なく存ずる程に、近づく別れの悲しさに、兼ねて斯様に申すのだ。この事はあな賢、人に知らせ給うなとよくよく口を固めさせたのだ。 妻は これを父親の 斎藤利行 に告げる かの女性は心が賢い者であったので、つとに起きて、つくづくとこの事を思うに、君の御謀反事が成功しないならば憑(たのみ)にしている男は忽ちに誅せられてしまうだろう。 もし又武家が滅びたなら、我が親類誰一人として残らないだろう。さらばこれを父利行に語り左近蔵人を返り忠(裏切者、内通者)の者としてこれをも助け、親類をも扶けばやと思って急ぎ父のもとに行き、忍びやかにこの事を有りの儘に語ったのだ。 頼員 の 変心 斎藤は大に驚き、やがて左近蔵人を呼び寄せ、かかる不思議を承った。誠にて候やらん。今の世に斯様の事を思い企て給わんはひとえに石を抱いて淵に入る者であり、もし他人の口から洩れたのであれば我等に至るまで皆誅せられるものであれば、利行は急いで御辺が告げ知らせたる由を六波羅殿に申し出て、共にその咎を逃れんと思う。いかが計らいなされるかと、問うた所が、これ程の大事を女性に知らせる程の心で、なじかは仰天しないであろう。 この事は同名の頼貞・多治見四郎二郎の勧めに依って同意仕りて候。とかくも身が咎を助けるように御計らい候えとぞ、申しける。 六波羅勢の 謀 夜がまだ明けないのに、斎藤は急いで六波羅に参じて、事の仔細を委しく告げ申しければ、即ち時を変えずに鎌倉に早馬(急使、早打ちの使い)を立て京中・洛外の武士共を六波羅に召し集め、先ず着倒(到着した者の名を)をぞ付けられた。 その頃、摂津の国葛葉と言う所に地下人(じげにん)代官(守護職の代理人)に背いて合戦に及んだことが有る。 かの本所の雑掌(ぞうしょう、荘園で雑事をとる者、支配人)を六波羅の沙汰として庄家(荘園の事務所)にし据える為に四十八か所の篝(かがり、篝屋守護人。京都市中の四十八か所に番屋を構え篝火を焚いて警護した武士)並びに在京人を催さるる由を披露された。 これは謀反の人を落さない為の謀(はかりごと)であった。 土岐も多治見も我が身の上とは思いも寄らずに、明日は葛葉に向かうべき用意をして、皆自分の宿所にいたのだった。 山本時綱 土岐頼貞を討つ 頼貞の切腹 さるほどに明ければ元徳元年九月十九日の卯の時(午前六時)に、軍勢が雲霞の如くに六波羅に馳せ参る。 小串三郎左衛門尉範行(のりゆき)・山本九郎時綱、御紋(北条家の紋)の旗を給わりて、打手の大将を承って、六条河原に打って出て、三千余騎を二手に分けて多治見の宿所錦小路高倉、土岐十郎の宿所・三条堀川に寄せたのだが、時綱かくてはいかさま大事の敵を打ち漏らしてしまうであろうと思ったのであろうか、大勢をばわざと三条河原に留めて、時綱が只一騎で中間(ちゅうげん、侍と小者の間にあって仕えた雑兵、召使の者)二人に長刀を持たせて、忍びやかに土岐の宿所に馳せ行きて門前に馬を乗り捨てて小門から内へつと入って中門の方を見れば、宿直をしている者と思しき、物の具・太刀・刀・枕に取り散らし高いびきをかいて寝入っている。 厩の後ろを廻っていずくにか匿地(かけち、抜け道、抜け穴をくけあなと言う)があるだろうかと見れば、後ろはみな築地であり、門の外には路もない。 さては心安いと思って客殿の奥にある二間(ふたま、柱と柱との間を一間・ひとまと言う。室の広さ二間四方の部屋を略して二間と言う)を颯と引き開けたところ、土岐十郎はたった今起き上がったと覚えて、鬢の髪を撫で上げて結っていたが、山本九郎をきっと見て、心得たり、と言うままに刀掛けに立てかけた太刀を取り、傍の障子を一間蹴破って、六間の客殿に飛び出して天上に刀を打ち付けまいと払い切り(横に切り払う)にぞ切ったのだ。 時綱はわざと敵を広庭におびき出して、隙間があれば生捕りにしようと志して、打ち払っては退き、打ち流しては飛び退く。 人混ぜもしないで戦い後ろをきっと見た所、後陣の大勢二千余騎、二の関(第二の門)から押し入って同音に鬨を作った。 土岐十郎は久しく戦ってはなかなか生捕りには出来ないと思ったのであろう、本の寝所に走り返り、腹を十文字に掻き切って、北枕にこそ臥したりける。 中の間(奥の間に対して言う)に寝たりける若党どもは思い思いに討ち死にして、逃れるものは一人もなかったのだ。 首を獲って刀の切っ先に貫いて、山本九郎はこれより六波羅に馳せ参る。
2025年12月10日
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無礼講の事 付けたり 玄恵文談の事 ここに美濃の国の住人、土岐伯耆の十郎頼貞・多治見四郎二郎国長と言う者がいた。 共に清和源氏の後胤として、武勇の聞こえがあったので、資朝卿は様々の縁を尋ねて睦み近づかれ、朋友の交既に淺からざりしけれども、これ程の一大事を左右(そう)なく知らせる事、如何にあるべきであろうかと思われたので、猶もよくよくその心を覗い見ん為に、無礼講と言う物を始められける。 その人数には伊大納言師賢(もろかた)、四條中納言隆資(たかすけ)・洞院左衛門督實世(さねよ)・蔵人右小辨俊基(としもと)・伊達三位房游雅(だれさんみぼうゆうが)・聖護院廰ノ法眼玄基・足助次郎重成・多治見四郎二郎國長等也。 その交會遊宴の軆、見聞の耳目を驚かしたのだ。獻盃(けんぱい)の次第、身分の上下を言わず、男(おのこ)は烏帽子を脱いで、髻(もとどり)を放ち、法師は衣を着ずに下着の白衣になり、年十七八である女で見目形(みめかたち)が優美で膚(はだえ)が殊に清らかである者を二十余人、徧(すずし、煉らない生糸を織った布で作った単衣)だけを着せて、酌(しゃく)を取らせたので雪の肌が透き通って大掖の芙蓉(漢の宮苑内にあった太掖池の蓮)が新たに水を出たのに異ならず。 山海の珍物を尽くして旨酒(ししゅ)は泉の如くに湛えて、遊戯舞歌(あそびたわむれまいうたう)。その間には、ただ東夷を亡ぼす企てのほかはないのだった。 玄恵法印を講じて昌黎文集を講義させる 何と決まったこともなく常に會交するのでは、人が思い咎める事も有るだろうと、事を文壇に寄せる為にその頃才覚無双との評判があった玄恵法印と言う文者(儒者)を請じて、昌黎文集(唐代第一流の文豪の韓愈768ー824。韓退之の詩文集)の談議を行わせた。 この法印は謀反の企ては夢にも知らずに、会合の日毎にその席に臨んで、玄を談じ理を折(ひら)く(深遠な道理を説いた)。 かの文集の中に、「昌黎は潮州・ちょうじゅうに赴く」と言う長編があった。この所に至って談義を聞く人々、「これは皆不吉な諸である。呉子・孫子・六韜(りくとう)・三略なんどこそ、しかるべき当用の文である」と言って昌黎文集の談議を止めてしまった。 韓昌黎 の 故事 この韓昌黎と申す人は晩唐の季(すえ)に出て、文才優長の人なりけり。詩は杜子美(杜甫712-770、盛唐の詩人、字は子美、号を陵という。)・李太白(りたいはく、盛唐の詩人、李白、字は太白、号を青蓮と言う。702-762)と肩を並べ、文章は漢・魏・秦・宋の間に傑出している。 昌黎の猶子(ゆうし、甥)韓湘(かんしょう)と言う者がいた。これは文字さえ嗜まず、詩篇にも携わらず、ただ道士の術を学んで、無為を業として、無事を事とした。 或る時に、昌黎が韓湘に向って申したのは、「汝、大地の中に化生して、仁義の外に逍遥している。これは君子の恥ずる所である。小人が専らとする所である。我、常に汝が為に是を悲しむ所切である」と教訓したところ、韓湘は大いに嘲笑って、仁義は大道の廃れたる所に興って、學教は大偽が起こる所に盛んなり。吾は無為の境に優遊して是非の外に自得する。されば、眞宰(しんさい、天の神)の臂を掣(さい)て(端から掣肘、自由にさせないこと)壷中に天地を蔵して造花の巧みを奪う。橘裡(きつり、巴邛・はきょうの某が庭の橘の大きな実を割ってみると、中で二人の老人が棋を戦わせていた故事)に山川を峙(そばだ)て、却って悲しむらくは公(あなた)が只古人の糟粕を甘なって(甘いとして)、空しく一生を区々(小さい事)の中に誤っている事である。と、答えた所が昌黎は重ねて言った。 汝が言う所の言うと所を我はいまだ信じない。今、即ち造花の巧みを奪う事を得たのであろうか。と問いかけて、韓湘がそれに答えて、事なくして、前に置いた瑠璃の盆を打ちうつ伏せて、すべて亦ひき仰のけたのを見れば、忽ち碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝がある。 昌黎が驚いてこれを見ると、花の中に金字で書かれた一聯の句が有る。 「雲は秦嶺に横たわって、家おずくにか在る。雪は藍関を擁して馬は前にあらず。云々。」 昌黎は不思議の思いを為して、これを読んで一唱三嘆するに、句の優美遠長なる體製だけがあって、その趣向の落着する所を知り難い。 手に取ってこれを見んとすれば、忽然として消え失せた。 これよりしてこそ、韓湘が仙術の道を得たりとは、天下の人に知られける。 その後に、昌黎は仏法を破って、儒教を貴むべき由を奏状を奉った咎に依って潮州に流されたのだ。 日暮れて馬泥んで、前途程通し、遥かに故郷の方を顧みれば、秦嶺に雲横たわって、来つらん方も覚えず。悼(いた)んで萬仞のけわしきに登らんとすれば、藍関に雪満ちて行くべき末の道もなし。進退歩を失って頭(こうべ)を廻らす所に、いずいれから来たともなく、韓湘が悖然として傍らにあり。 昌黎は悦んで馬から降りて、韓湘の袖を引き、涙の中で言ったのは、先年、碧玉の玉の中に見えた一聯の句は、汝が我にあらかじめ左遷の憂いを告げ知らせたのである。今又、汝は此処に来たのであるよ。計り知ったぞ、我は終に謫居に愁い死して、帰ることを得じと。 再会、期なく、遠別は今に有り。豈(あに)、悲しさに堪えんや、と言って、前の一聯の句に続いで八句一首となして漢湘に与えた。 欲爲聖明除幣事 豈将衰朽惜残年 雲横秦嶺家何在 雪擁藍関馬不前 知汝遠來須有意 好収吾骨瘴江邊 韓湘はこの詩を袖に入れて、泣く泣く東西に別れけり。誠なるかな、「病ダレの擬人面前に不説夢」と言う事を、子の談議を聞いた人々が忌み思ったのは愚かなことであるよ。
2025年12月08日
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儲けの王 の 御事 皇子十六人 螽斯(しゅうし、いなご、いなごは集まり多く子を生むので、后妃達が集まり多く子を生む徳に譬えた)の化が行われて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚だ多かりければ宮々次第に御誕生有りて十六人までぞ御座(おわし)ましけり。 第一の宮 尊良(そんりょう)親王 中にも第一の宮、尊良親王は御子左の大納言、為世の御娘、贈従三位為子の御腹にて御坐(おわせ)しを吉田の内大臣定房公が養い子にし奉られしかば、志学の歳(十五歳)の始めから六義の道(歌の道)に長じさせなされた。されば富緒河の清き流れを汲み、浅香山の故(ふる)き跡を踏んで嘯風弄月に御心を傷(いたま)しめ給う。 第二 の 宮 第二の宮も、同じ御腹にてぞ御坐(おわし)ましける。総角(あげまき、童子の髪をわけて左右に結んだもの)の御時(小児)から妙法院の門跡に御入室あって、釋氏の教えを受けさせ給う。これも瑜伽三密の道数寄の御翫びがあったので、高祖大師の𦾔業にも恥ず慈鎮和尚の風雅にも越えた。 第三 の 宮 第三の宮は民部卿三位殿の御腹である。御幼稚の時より利根総明に御坐(おわ)せしかば、君は御位をこの宮にこそと思し召したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と代々持ち給うべしと、後嵯峨院の御時より定められしかば、今度の春宮をば持明院殿御方から立て参らせらる。 天下の事、小大(なに)となく関東の計らいとして、叡慮にも任せられざりしかば、御元服の義を改められ、梨本の門跡に御入室あって、承鎮親王の御門にならせられ給いて、一を聞いて十を御器量、世にまた類もなかったので、一實円頓の花の匂いを荊溪の風に薫じ、三諦即是の月の光を玉泉の流れに浸せり。 されば消えなんとする法灯を掲げ、絶えなんとする惠命(えみょう、身・口・意の三の秘密。即ち行者と仏の三密が相応融合して即身成仏の境に至る事)を継ぐこと、ただこの門主の御時なるべしと一山(比叡山全体)が掌を合わせる悦び、九院(叡山にあった止観院以下九院の人々)首(こうべ)を傾けて仰ぎ奉る。 第四 の 宮 第四の宮も、同じ腹にてぞおわしける。これは聖護院二品(にほん)親王の御附き弟にておわせしかば、法水を三井の流れに汲み、草冠に記草冠に別(きべつ、仏となる認可)を慈尊の暁に期(ご)し給う。 この外に儲けの君・儲けの王の選び多かりければ、竹苑木偏の叔庭(しょうてい)の備え(皇族)、誠に王業再興の運、福祚(ふくそ、皇位)長久の基は時を得たりとぞ見えたりける。 中宮のお産 御祈りの事 付てたり 俊基 偽り籠居の事 関東を調伏する 祈り 元亨(げんこう)二年(嘉暦二年1327が正しい)の春の頃より中宮懐妊の御祈りとて諸寺・諸山の貴僧・高僧に仰せて様々の大法・秘法を行わせられた。 中にも法勝寺の圓観上人、小野の文観僧正二人は、別勅を承って金闕(きんけつ、皇居)に壇を構え、玉體に近づき奉りて、肝胆を砕いてぞ祈られける。佛眼(ぶつげん)、金輪(こんりん)、五檀の法、一宿五反(へん)孔雀経、七佛薬師火偏の織盛光(しじょうこう)、烏蒭沙摩(うすさま)、変成男子の法・五大虚空蔵・六観音・六字訶臨、訶利帝母・八字文殊、普賢延命(ふげんえんみょう)、金剛童子の法、護摩煙は内苑に満ちて、振鈴の声は掖殿(えきでん、後宮)に響き、いかなる悪魔怨霊なりとも障礙を為し難いと見えたのだ。 かように功を積み、日を重ねて、御祈りの精誠(せいぜい)を尽くされたのだが、三年までかつてお産の事はなかりけり。 後に仔細を尋ねたところが、関東調伏の為に事を中宮のお産に寄せて、かように秘法を修せられけるぞと。 仰せ 合わせられし 人々 これ程の重事を思し召し立つ事であるから、諸臣の異見をも窺いたく思しめしなされたが事が多聞に及ばば、武家に漏れ聞こえる事も有らんと憚り思召しなさえた間、深慮智化の老臣や近侍の人々にも仰せ合わされる事はなかった。 ただ、日野の中納言資朝(すけとも)・蔵人右小弁俊基・四条中納言隆資(たかすけ)平宰相成輔ばかりに密かに仰せ合わされて、さりぬべき兵(つわもの)を召されけるに、錦織(にしこり)の判官代足助(あすけ)の次郎重成(しげなり)、南都(奈良の興福寺)北嶺(比叡山延暦寺)の衆徒、少々が勅定(ちょくじょう)に応じたのである。 藤原俊基が 偽って籠居し 諸国を廻る事 かの俊基は累葉の儒業を継いで才學が優長であったから、顕職に召し使われて官蘭臺(らんだい、弁官の唐名、職掌は明治以後の内閣府書記官に当たる。御前近くに侍するので身に芳香を帯びる)に至り、職、職事(蔵人の異名)を司った。 然る間、出仕で事が繁くして籌策(ちゅうさく、謀・はかりごと)に隙がなかったので、いかにもして暫くは籠居をして謀反の計略を廻らさんと思いける所に、山門横川の衆徒が款状を捧げて禁庭に訴える事があった。 俊基がその奏上を披いて読み申したのだが、読み誤りたる体で楞巌院(りょうげんいん)を慢巌院とぞ読んだのだ。 座中の諸卿は是を聞いて目を合わせて、「相・もうの字をば、偏につけても作りにつけても、木とこそ読むべかりけれ」と掌を打ってぞ笑われける。俊基は大いに恥たる気色にて、面を赤めて退出した。 それより恥辱に遭って籠居すると披露して、半年ばかり出仕をやめ、山伏の形に身を代え、大和・河内に往きて城郭になりぬべき所々を見置きて、東国・西国に下って国の風俗や人の分限(身分)をぞ窺い見られたり(挙兵の準備に豪族の様子を探った)。
2025年12月05日
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関所(せきところ) 停止(ていじ)の事 それ、四境七道の関所は国の大禁を知らしめ、時の非常を知らしめんが為である。 然るに今、壟断(ろうだん)の利に依って商売往来の弊(ついえ)、年貢運送の煩いありとて大津、葛葉の外(ほか)は悉く所々の新関を止められたのだ。 元亨の飢饉に窮民を救い、記録書にて訴訟を聞き召さる 又、元亨(げんこう)元年の夏、大上に日の干(おおひでり)が地を枯らして田服(てんぶく、王城の四方五百里の地、畿内)の外百里の間、むんしく赤土のみ有り、青苗(せいびょう)はなし。 餓莩(がひょう、餓死者)が野に満ちて、飢人(きひと)が地に倒れている。 この年に銭三百を以て、粟一斗を買う。 君は遥かに天下の飢饉を聞し召して、朕に不徳が有るのであれば天は予(よ)一人を罪すべし。黎民に何の咎があってこの災いに遭うのか。 自ずから帝徳が天に背いていたのを歎き思召して、朝食偏に向(あさかれい)の供御(天皇の御膳)をやめられて、飢人(きにん)窮民の施行(施し与える事)に引かれたことは有難い事である。 これもなお万民の飢えを助けるべきものではないとて、検非違使の別当に仰せて、当時富祐の輩(ともがら)が利倍の為に畜積(たくわえため)る米穀を點撿して、二條町に假屋を建てられて、検使自らが断(断って、判断して)値を定めて売らせたのだ。 そうであるから、商売(売り買い)が共に利を得て、人が皆九年の畜(貯え)あるが如し。 訴訟の人が出で来たる時には、もしや下の情が上に達しないこともあろうかと、記録所に出御なって直に訴えを聞し召し明らめて、理非を決断なれたので、虞芮(ぐぜい、田地)の訴えが停み、刑鞭も朽ち果て、諌鼓も撃つひとがいない。 著者 の 批評 誠に理世安民の政(まつりごと)、もし、機巧(才知)に付いてこれを見れば、命世(めいせい、世に名を得た者)亞聖(あせい、聖人に次ぐ者)の才とも稱すべし。 ただ、恨むらくは齎桓覇(せいかんは、斉の桓公が覇道を行った。覇道とは権謀や武力で国を治める事。王者・聖人の道を行う者が忌む所である)を行い、楚人は弓を忘れた故事に叡慮(御醍醐帝の御考え)が少し似ている事である。 是、即ち草創は一天を合わすと言えど、守文(しゅぶん、先祖が武力で得た国を文を以て守る。即ち。国を維持し治める事)三載(三年)を越えざる所である。 この覇道的で狭量であらせられたことが、せっかく天下を併せんがら、これを維持する事三年を越えなかった理由である。ここは、後醍醐天皇が王道を忘れ覇道を行われたと諷したもので、冷徹な批評眼を持つと学者などから評価されている。 立后の事 付けたり 三位殿御局の事 藤原示す偏に喜立后 寵なし 文保(ぶんぼう)二年八月三日、後(のちの)西園寺太政大臣實兼公の御女が后妃の位に備わって弘徽殿に入らせ給う。 この家に女御を立てられたること既に五代、これも承久以後の相模の守代々西園寺の家を尊崇せられしかば、一家の繁昌あたかも天下の耳目を驚かせり。 君も関東に聞こえしかるべしと思召して、取り分け立后の御沙汰もありけるにや、御齢は既に二八にして、金鶏障(金鶏の絵を描いた障子)の下のかしずかれて、玉楼殿の内に入り給えば、夭桃の春を傷める装い、垂柳の風を含める御形、毛女偏の牆(もうしょう、麗姫)・西施も面を羞じ、女偏の降樹・青琴も鏡を奄(おお)う程であるから、君の御覚えも定めし類あらじと思えたのだが、君恩は紙より薄かったので、一生空しく玉顔に近づかせ給わず。 深宮の中に向って、春の日の暮難いのを歎き、秋の夜の長恨みに沈ませ給う。金屋(きんおく、美麗の家)に人無くして、皎々たる残燈(のこりのともしび)の壁に背ける影は、薫龍に香が消えて簫々たる暗雨(よるのあめ)が窓を打つ声、物事に皆御泪を添える仲立ちとなった。 人生では婦人の身となるなかれ、百年の苦楽は他人に依る。と、白楽天が書き残しているのも、断り也と覚えるのだ。 三位殿の局寵を専らにする その頃、安野の中将公廉(きみかど)の女(むすめ)に、三位殿の局と申す女房が中宮の御方に候われける。君が一度ご覧になられて他とは異なる御覚えありけり。 三千の寵愛を一身に受けたので、六宮の粉黛は顔色なきが如き成り。 すべて三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一女御・及び後宮の美人・楽府(がふ、漢の武帝が歌辞・楽律を制定するために設けた役所。ここは日本の雅楽寮の歌姫を指す)の妓女と言えども、天子顧眄(恩恵)の御心を付けられず。 ただ、殊艶尤態(特別な優艶な姿態)がひとりよくこれを致しただけではなくて、ただし善巧便佞叡旨に先だって、奇を爭いしかば、花の下の春の遊び、月の前の秋の宴にも、駕すれば輦(てぐるま)を共にし、幸(みゆき)すれば席をほしいままにし給う。 是よりは君王は朝政をしたまわず。忽ちに准后の宣旨を下されしかば、人皆が皇后・元妃(げんぴ、第一の后、皇后)の思いをしたのだ。 驚いて見る、光彩が始めて門戸に生まれた事を。 この時に天下の人は男を生むことを軽んじ、女を生む事を重んじたのだ。 されば御前の評定、雑訴の御沙汰までも、準后の御口入れであるとだけ言えば、上卿も忠がないのに賞を与え、奉行も理あるのに非とする、 関且偏に隹(かんしろ)は楽而不淫(たのしんでいんせず)、哀而不傷(かなしんでやぶらず)、詩人が採って后妃の徳とする。 如何かせん、傾城傾国の乱、今に有るであろうと覚えて浅ましかりし事どもであるよ。
2025年12月03日
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御醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡、建武の新政の失敗、南北朝の対立、そいて室町政府の成立まで、およそ五十年間の南北朝時代を描いた全四十巻の軍紀物語です。 その文章・修辞は和漢混交文の極致に達したもので、和文の優美と漢文の勁健と、それぞれの特徴を受けてそれを融和させ、、或いは壮絶に、或いは優艶に、多種多様なその姿態文姿は誠に自由自在であるとの感じを読むものに与えずにはおかない。所謂、道行文も「太平記」で初めて完成した。 とにかく、本文の鑑賞に入りましょうか。 第 一 巻 序文 蒙(もう、私)は密かに古今の移り変わる姿を採って、安危の来由を察するに、覆って外無きは天の徳である。 名君がこれを體して国家を保つ。載せて棄てることないのは地の道である。 良臣は即ちこれに則り、社稷を守る。 もしそれその徳が缺蹴る時は位有ると言えども保たず。所謂、夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に贁られた。その道が違う時には威蟻と言えども、久しからず。 嘗て聴く、趙高は咸陽に刑せられ、碌山は鳳翔に滅ぶ。 ここを以て前聖は謹んで法(四書五経の類)を将来に垂れることを得た。 後昆(後世)、顧みて誡めを既往に取らざらんや。 御醍醐天皇御治世の事 付けたり 武家繁昌の事 天下の大乱 ここに本朝、人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、御醍醐天皇の御宇に当たって、武臣相模の守平高塒と言う者がいた。 この時、上君の徳に背き、下は臣の礼を失った。 これより、四海は大いに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙は天を翳(かく)し、鯨波(げいは、鬨の声)は地を動かす。 今に至るまで四十余年、一人として春秋に富めるを得たる者なし。万民は手足を措くに所なし。 その濫觴と源氏三代 つらつらとその濫觴を尋ねれば、ただ禍は一朝一夕のことにあらず。 元暦年間に鎌倉の右大将頼朝卿が平家を追討して、その功あるの時に後白河院は叡感のあまりに六十六箇国の総追捕使に補(ふ)せられて、これより武家が始めて諸国に守護を立て、荘園に地頭を置く。 かの頼朝の長男左衛門守頼家、次男右大臣実朝公、相続いて皆征夷将軍の武将に備わる。 これを三代将軍と号する。 然るを、頼家公卿は実朝の為に討たれて、実朝は頼家の子悪禅師公暁の為に討たれて親子三代、僅かに四十二年で尽きてしまった。 承久の乱 と 北条氏の仁政 その後に、頼朝卿の屍、遠江守平の時政の子息、先の陸奥守義時、自然に天下の権柄を執り、勢い漸くに四海を覆わんと欲す。 この時の大上天皇は後鳥羽院である。 武威を下(しも)に振るわず、朝憲(国を統治する法規)は上(かみ)に廃れしことを歎き思召して義時を亡ぼさんとし給ったのだが、承久の乱(承久三年五月に承久の乱が起こる。六月、義時が京に乱入して七月十三日に後鳥羽上皇を隠岐に、土御門上皇を土佐に順徳上皇を佐渡へ入るした。六月十三、十四日に宇治の勢多合戦であるから、一日も終えぬのに官軍が忽ちに敗北と言うのは誤りで儚い敗北を誇張したものである)が出で来て、天下は暫くも静かではなかった。 遂に旌旗(せいき、多くの旗)が日に掠(かす)めて、宇治と勢多にして相戦う。 その戦い、未だ終わらざるに、一日で官軍が忽ちに敗北してしまったので、後鳥羽の院は隠岐の国に遷されさせ給いて、義時はいいよ八荒(はちこう、八方、天下)を掌に握る。 それより後、武蔵の守泰時・修理の亮時氏・武蔵野の守経時・相模の守時頼・佐馬權頭時宗・相模の守貞時、相続いて七代、政(まつりごと)が武家より出て、徳は窮民を撫するに足りたる。 威は萬人の上に、被ると言えども、位四品の際(あいだ)を越えず、謙に居て仁恩を施し、己を責めて礼儀を正す。是を以て高しと言えども危うからず、盈(みて)りと言えども溢れず。 承久より以来(このかた)、儲王(ちょをう)摂家の間に、理生安民の器に相当たり給える貴族を一人、鎌倉に申し下し奉りて、征夷将軍と仰いで、武臣皆拝趨の礼を事とする。 同じく三年に、始めて洛中に両人の一族を据えて両六波羅と号して、西国の沙汰を執り行わせて京都の警護に備えられた。 又、永仁元年からは鎮西(九州を言う)に一人の探題を下して、九州の成敗を司らせしめ、異族襲来の守りを堅きした。 されば、一天下は遍くかの下知に随わずと言う所はなく、四海の外(ほか)も均しくその権勢に服せずと言う事はなかりけり。 公家 對 武家 朝陽(ちょうよう)犯さざれども残星光を奪わるるの習いであれば、必ずしも武家より公家を蔑(ないがしろ)にし奉れともなけれども、所には地頭は強くして領家は衰え弱く、国には守護が重くして国司は軽い。 この故に朝廷は年々に衰え、武家は日々に盛ん成り。 北条高塒の 暴逆 これによって代々の聖主(優れた天皇)、遠くは承久の宸襟(天皇の御心、承久の乱に後鳥羽・順徳・土御門の三上皇が遠嶋に遷された御怨み)を休めんがために、近くは朝議の陵廃(高い所が崩れる意)を(朝廷の政の衰微)を歎き思召して、東夷(東国の武士を嘲り言う)を亡ぼさばやと、常に叡慮を廻らされたのであるが、或いは勢いが微にして叶わず、或いは時いまだ到らずして、黙止し給いける所に時政九代の後胤・前(さき)の相模の守平高塒入道崇鑒(すうかん)の代に至って、天地命を革(あらた)めるべき危機(天命が改まる、即ち統治者が改まると言う危うい兆し)がここに顕れたのだ。 つらつら古を引きて今を見るに、行跡(行状)は甚だ軽くして人の嘲りを顧みず、政道正しからずして民の弊(ついえ)を思わず、ただ日夜に逸遊(ほしいままの遊び)を事として前烈(ぜんれつ、祖先)を地下に羞(はずか)しめ、朝暮に奇物を翫(もてあそ)びて傾廃(けいはい、国が傾き廃る事)を生前(しょうぜん、生きている間に)に致さんとする。 衛の懿公(いこう)が鶴を乗せた楽しみは早く尽きて、秦の李斯(りし)が犬を牽(ひ)いた恨みが今に来たらんとする。 見る人は眉を顰め(不快がる)、聴く人は唇を翻す(そしる)。 後醍醐天皇 の 御聖徳 この時の帝御醍醐天王と申せしは後宇多院の第二の皇子、談天門院の御腹(おんはら)で御坐(おわ)したが、相模の守の計らいとして、御年三十一の時に御位に就き奉る。 御在位の間、内(私生活)では三綱五常(さんこうごじょう、君臣・父子・夫婦の三道と仁義礼智信の五徳)の義を正し、周公孔子の道に順い、外(ほか)には万機百司(ばんきはくし、すべての政務)の政(まつりごと)を怠りたまわず、延喜天暦の跡を追われしかば(醍醐天皇と村上天皇の時代の御事績を慕ってそれに近づく)四海風(ふう)を望んで悦び、万民は徳に帰して楽しむ。 およそ諸道の廃れたのを興し、一事の善をも賞ぜられたので、寺社禅律(仏寺・神社と禅宗・律宗)の繁昌、ここに時を得て、顕密儒道の碩才も皆が望みを達したのだ。 誠に、天に受けたる聖主、地に奉ぜる名君なりと、その徳を稱じ、その化に誇らぬ者は無かったのだ。
2025年12月02日
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