草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年03月07日
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哀れ、古ならば錦帳に装いを籠めて(錦の垂れ幕に美しく整えた姿を閉じ込め)、紗窓(しゃそう、

薄絹を張った窓)に美しい身を隠し、左右に侍女はその数を知らず、辺りを輝かしてい付きかしず

き奉りてあるべきに、何時しか引き換えたる内密の忍びの御籠りであるから、都が近くても事問い

交わす人もいない。

 ただ一夜、松の嵐に御夢を覚まされて、主を忘れない梅の香に昔の春を思召し出だすにも、昌泰

(しょうたい)の年(醍醐天皇の年号)の末に、荒人神(霊験あらたかな神の意で、特に住吉の神や北

野の神に言う)とならせられた心つくしの御旅宿までも、今は君の御恩に準えて、又は御身の歎き

に思し召し知られるのだった。

 哀れの色の数々に、御念珠を暫く止められて、御泪の内にかくばかり、



旅をないなら、神も今の後醍醐天皇や私の立場を思い知って下さい」

 と、作歌遊ばされて、少しまどろまれたその夜の御夢に、衣冠を正しくした老翁で、年齢は八十

有余である者が左の手に梅の花を一枝持ち、右の手には鳩の杖をつき、いと苦し気なる躰で御局が

寝ている枕の辺りに立ったのだ。

 御夢心地に思しけるには、笹の小笹の一節も、問う人もない都の外の蓬生(よもぎゅう)に、怪し

や、誰人であるか道を踏み迷って佇んでいるのでしょうと、御尋ねありければ、この老翁は世にも

哀れなる気色にて言い出だせる詞もなく、持ちたる梅の花を差し置いて立ち帰ったのだ。

 不思議であると思召して、御覧なされると一首の歌を短冊書いてある。

    廻り来て ついにすむべき 月影の しばし陰(かげ)るを なに歎くらん(日数がめぐれ

ば終には澄むべき月の光が、しばらく陰るのを嘆く必要はない。即ち、時が来れば、再び天下を治

め給うであろうから歎く必要はない」



と、頼もしく思しけり。

 誠に、かの聖庿(庿は廟の古字。中国で孔子の廟を聖廟と言うが、此処は菅原道真の廟)と申し

奉るのは大慈大悲の本地(ほんぢ)、天満天神の垂迹にて渡らせ給えば、一度歩みを運ぶ人は二世

の悉地を成就し、僅かに御名を唱える輩(ともがら)は万事の所願を満足する。

 況や、千行萬行の紅涙を滴らせ尽くして、七日七夜の丹誠(たんぜい)を致させ給えば、懇誠は暗



 世は既に澆季(ぎょうき、道徳や風俗が軽薄に悪くなった時代)に及ぶと言えども、信心に誠が

ある場合には霊鑑(れいかん、神仏の霊妙な照覧)新(あらた)なり(著しい)と愈々(いよいよ)

頼もしく思召しける。

        楠出張天王寺の事 付けたり 隅田・高橋
           並びに 宇都宮の事

          時益 仲時 両六波羅に補せられて 上洛

 元弘二年三月五日、左近将監時益(ときます)、越後の守仲時、両六波羅に補せられて関東から上

洛した。

 この三四年は常盤駿河守範貞(のりさだ)一人として両六波羅の成敗(成務)を司っていたが、堅く

辞し申しけるに依ったのだ。

        正成が挙兵 湯浅定仏の城を陥落する

 楠兵衛正成は、去年赤坂の城で自害して、焼け死にたる真似をして落ちたのだが、それを誠と心

得て武家から、その跡に湯浅孫六入道定佛を地頭に据え置きたりければ、今は河内の国においては

殊なる事はあるまいと、心安く思っていた所が、同(おなじき)四月三日に楠は五百余騎を率して俄

かに湯浅の城に押し寄せて、息をも継がせずに攻め戦った。

 城の中に兵粮の備えが乏しかったのか、湯浅の所領の紀伊の国の阿瀬河から人夫五六百人に兵粮

を持たせて、夜中(やちゅう)に城に入れようとする由を、楠はほのかに聞いて、兵を道の切所(要

害の所)に差し遣わして悉くこれを奪い取り、その俵に物の具を入れ替えて、馬に負わせ人夫に持

たせて、兵を二三百人を兵士の様に出で立たせ、城中に入ろうとした。

 楠の勢はこれを追い散らす真似をして、追いつ返しつ同士軍(味方同士での合戦)をして見せた。

 湯浅入道はこれを見て、我が兵粮を入れる兵共が楠の勢と戦っているぞと心得て、城中から打ち

出でてそぞろなる(何の因縁もない)敵の兵共を城中に引き入れてしまつた。

 楠の勢共は思いの儘に城中に入り済まして、俵の中から物の具共を取り出だして、ひしひしと固

めて即ち鬨の声をぞ挙げたのだ。

 城の外の勢は、同時に木戸を破り、塀を乗り越えて責め入りける間、湯浅入道は内外の敵に取り

込められて戦う様もなかったので、忽ちに頸を伸べて(斬首を覚悟の)降人(こうにん)に出た。

      正成 軍を渡部の橋の南に勧め 隅田、高橋と対陣する

 楠はその勢いを併せて、七百余騎にて和泉・河内の両国を靡けて、大勢になったので、五月十七

日に先ず住吉・天王寺辺へ打って出でて、渡部(わたなべ)の橋よりも南に陣を取る。

 然る間、和泉・河内の早馬を敷き並べを打って、楠が既に京に攻め上る由を告げたので、洛中の

騒ぎは斜めならず、武士は東西に馳せ散って、貴賤上下が周章(あわて)る事は極まりなし。

 かかりければ両六波羅には畿内近国の勢が雲霞の如く、馳せ集まりて、楠が今や責め上ると待ち

けれども敢えてその義もなかったので、聞くにも似ずに楠は小勢なのであろう。

 こちらから押し寄せて、打ち散らさんとて、隅田(すだ)高橋を両六波羅の奉行として四十八か所

の篝、並びに在京人、畿内近国の勢を併せて天王寺に差し向けられた。

 その勢は都合五千余騎、同(おなじき)二十日に京都を立って、尼崎・神崎・柱松(はしらもと)の

辺に陣取って遠篝を焚いてその夜を遅しと待ち明かす。

 楠はこれを聞いて、二千余騎を三手に分けて宗との勢をば住吉・天王寺の隠して、僅かに三百騎

ばかりを渡部(わたなべ)の橋の南に控えさせて、大篝二三か所に焚かせて相向かった。

 これは態と敵に橋を渡させて、水の深みに追い嵌めて雌雄を一時に決しよう為であった。





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最終更新日  2026年03月07日 08時31分17秒
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