草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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2026年03月10日
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渡部の橋の合戦 正成の勝利 

さるほどに、明ければ五月二十一日に六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一所に合わせ渡部の橋まで

打ち臨んで、川向うに控えたる敵の勢を見渡せば、僅かにニ三百騎には過ぎず、あまつさえ痩せた

る馬に縄手綱を懸けたる体の武者共である。 隅田と高橋が人混ぜもせずに端から下りて真一文字

にぞ渡しける。 五千余騎の兵はこれを見て、我先にと馬を進めて、或い橋の上を歩ませ、或いは

河瀬を渡して、向の岸に駆け上がる。 楠の勢はこれを見て、遠矢を少し射捨てて、一戦もせずに

天王寺の方に引き退いた。

 六波羅の勢がこれを見て、勝ちに乗り人馬の息をも継がせずに、天王寺の北の在家まで揉みに揉

んでぞ追いかけたのだ。 楠は思う様に敵の人馬を疲れさせて、二千騎を二手に分けて、一手は天



して敵陣を突破する隊形)懸かりに駆けだした。 一手は住吉の松の陰から駈け出した。 鶴翼

(鶴が翼を広げたように陣を張る横隊の陣法)に立って開き合わす。 六波羅の勢を見合わせれ

ば、對揚(たいよう、匹敵)すべき迄もない大勢であるが、陣の張り様がしどろ(秩序なく乱れ

て)であり却って小勢(こぜい)に囲まれぬべく見えた。 隅田と高橋はこれを見て、敵は後ろに大

勢を隠して騙しているぞ。この辺は馬の脚立ちが悪く、都合が悪いぞ。広い場所に敵をおびき出し

て勢の分際を見極めて、懸け合い懸け合い勝負を決せよ、と下知したところ、五千余騎の兵共は敵

に後ろを切られない先にと渡部の橋を指してぞ、引き退いた。 楠の勢はこれに利を得て、三方か

ら勝鬨を作って、追いかけた。 橋近くになった際に、隅田・高橋はこれを見て、敵は大勢ではな

い。ここで返し合わせなければ大河が後ろにあって具合が悪い。返せや、兵共、と馬の足を立て直

し立て直しして下知したのだが、大勢が引き立てたことなので一返しも返さずに、ただ我先にと橋

の危ういのも言わず馳せ集まった間、人馬共に押し落されて水に溺れる者は数を知らず。 或いは



いる。ただ、馬、物の具を脱ぎ捨てて逃げ延びようとする者はあるが、返し合わせて戦おうとする

者はいなかった。 然れば五千余騎の兵共は残り少なに打ちならされて、ほうほう京へぞ上りけ

る。 その翌日に、何者がしたのであろうか、六条河原に高札を立て一首の歌を書いたのだ、     

渡部の 水いかばかり 早ければ 高橋落ちて 隅田流るらん 京わらんべの癖であるから、此の

落書を歌に作って歌い、或いは語り伝えて笑いける間、隅田(すだ)・高橋は面目を失い、しばらく



をして 楠勢に向わしむ 両六波羅はこれを聞いて、安からぬ事に思いければ、重ねて寄せようと

議せられた。 その頃、京都が余りに無勢であるとて関東より上られたる、宇都宮治郎大輔(じぶ

のたゆう)を呼び寄せて評定ありける。 合戦の習い、運によって雌雄が変わることは古から無き

にあらず。しかれどもこの度南方での戦が負けた事は、偏に将の計(はかりごと)の拙(つたな)さに

由(よ)っている。又、師卒が臆病であるからだ。世間の嘲り口を塞ぐには所がない。 中に就い

て、仲時が罷り上りし後に、重ねての御上洛の事は、凶徒蜂起したならば、御向いあって静謐候と

の為である。今の如くであれば、敗軍の兵を駆け集めて、何度攻勢をかけてもはかばかしい合戦が

出来るとも思えない。 暫くは天下の一大事、この時に候ければ御向かい候て御退治候えかし。

と、宣えば、宇都宮は辞退の気色なくして、申したのは、大軍が既に利を失って後に、小勢にて罷

り向い候事は如何と存じ候が、関東を罷り出でし始めより、斯様の御大事に遇い命を軽くすること

を存知候。 今の自分、必ずしも合戦の勝負を見る所にては候ねば、一人にて候とも先ずは罷り向

って一合戦仕り、難儀が及び候時には重ねて御勢を申し候わめ。と、誠に思い定めたる躰にて帰っ

たのだ。 宇都宮が一人で武命を含んで大敵に向う事は、命を惜しむべきではないので、態と宿所

には帰らずに六波羅から直ぐに七月十九日の御前に都を出て、天王寺へと下りける。 東寺辺まで

は主従で僅かに十四五騎程と見えたが、洛中にあらゆる所の手者共が馳せ加わって、四塚(四塚)・

作道では五百余騎にぞなっていた。 路地に行き会う者をば権門・勢家を言わず、乗り馬を奪い、

人夫を懸け立てて通ったので行旅の往反路を曲げて、閭里(ろり、閭は里の門、村里)の民屋は戸を

閉じている。 その夜は柱松(はしらもと)に陣を取り、明けるのを待った。その志は一人も生きて

帰らんとは思わなかった。      

     正成・宇都宮 両将の駆け引き 天王寺に於ける両軍の交替 

 さるほどに河内の国の住人和田孫三郎がこの由を聞いて、楠の前に来て言ったことには、先日の

合戦に負け腹を立て、京から宇都宮を向けて候と聞き及びました。今夜、既に柱松に着いて候がそ

の勢は僅かに六七百騎には過ぎないと聞こえて候。

 先に隅田・高橋が五千余騎で向かって候しだに、我等は僅かな小勢で追い散らして候いしかし。

その上に今度は味方が勝ちに乗じて大勢でありまする。敵は機を失って小勢でありまするぞ。

 宇都宮がたとえ武勇の達人でも、何ほどのことが候べき。今夜に逆寄せにして、打ち散らして捨

ててしまいましょう。と、言ったのを、楠が暫く思案してから言ったことには、合戦の勝負は必ず

しも大勢小勢に依らない。ただ士卒の志を一つにするか否かにある。

 されば大敵を見ては欺き、小勢を見ては怖れよ。と申す事はこれである。

 先ず思案するに、先途の軍に大勢が打ち負けて引き下がった跡に、宇都宮一人が相向かう志は一

人たりとも生きて帰ろうと思う者はいないであろうよ。

 その上に、宇都宮は坂東一の弓矢取りである。紀請(紀氏は下野宇都の宮神社に奉仕した。清原

氏の子孫で、宇都宮氏に従属する。伝説によれば、頼朝の時に、清原氏が絶え、紀高俊両党の旗頭

となり芳賀氏を称した。宇都宮系図に拠れば清原氏である芳賀氏及び紀氏である益子・ましこ氏と

婚姻を結んでいる)両党の兵は元から戦場に臨んで命を棄てる事、塵芥よりも尚軽いとする。

 その兵七百騎が志を一つにして戦いに臨めば、當手(味方)の兵に譬え退く考えがなくとも、大半

は必ず討たれてしまうだろう。

 天下の事は全く今般の軍に依るべからず。行く末遥かの合戦に多くない味方を初度の戦で失うの

は後日の戦に誰が力を合わせるべき。

 良将は戦わずして勝つ。という事が候故に、正成においては明日わざとこの陣を退いて敵に一面

目あるように思わせて、四五日を経て後に方々の峯に篝を焼き、一蒸し蒸すならば坂東武者の習

い、程なく気疲れして、いやいや、長居しては悪いであろう。人面目有ったのだからいでや、引き

返さんと言わぬ者はいないであろう。されば懸かるのも引くのも折による、とはかようの事を申す

のである。





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最終更新日  2026年03月10日 10時29分53秒
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