草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年03月24日
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これ程に言う甲斐のない御所存で、天下の大事を思し召し立たされた事はうたてなり。はや、その

物の具を脱がせ給え。と、申して、御鎧の上帯を解き奉れば、宮、げにもとや思召されたのか、御

物の具・鎧直垂迄脱ぎ変えさせ給いて、我がもしも生きながらえたならば、汝の後生をともらうで

あろう。共に敵の手にかかるならば、冥途までも同じ岐(ちまた)に伴うであろう。と、仰せられ

て、御泪を流させ給いながら、勝手の明神の御前を南に向かって落とさせ給わば、義光は二の木戸

の高櫓の上に上り、遥かに見送り奉りて、宮の御後影がかすかに隔たり給いぬるを見て、今はこう

と思いければ櫓のさまの板を切り落として、身をあらわにして、大音声を挙げて名乗りをあげた。

 天照太御神の御子孫、神武天皇から九十五代の帝、後醍醐天皇の第二の皇子、一品兵部卿親王尊

仁(そんにん、尊運の誤りか、ここは俗名の護良とあるべきである)、逆臣の為に滅ばされて恨みを



際の手本に致せ。

 と、言うままに鎧を脱いで櫓から下に投げ落として、錦の鎧下垂れの袴ばかりに煉り貫の二小袖

を押し膚脱いで、白く清げなる膚に刀を突き立てて左の脇から右の側腹(脇腹)まで一文字に掻き切

って、腸(はらわた)を掴んで櫓の板に投げつけ、太刀を口に咥えてうつぶせになりてぞ伏せたのだ

った。

 大手・搦手の寄せ手はこれを見て、すはや、大塔の宮が御自害なされたぞ。吾こそ先に御頸を給

わらん、とて、四方の囲みを解いて一所に集まった。

 その間に宮は、刺し違えて、天の河へぞ落ちなされたのだった。

 南から廻った吉野の執行(しつぎょう)の勢五百余騎、多年の案内者であるから道を横切り、かさ

に回りて(相手を威圧する勢いで)、打ち留め奉らんと取り込める(包囲する)。

 村上彦四郎義光の子息、兵衛蔵人義隆は、父が自害した時に、共に腹を切ろうとして二の木戸迄



の先途を見届け参らせよ。と、庭訓を遺したので、力なく暫くの命を延べて、宮の御伴にぞ候いけ

る。

 落ち行く道の軍(いくさ)、事は既に急であり討ち死にしなければ、宮は落ち得させ給わぬと覚え

ければ、義隆ただ一人が踏みとどまって、追ってかかる敵の馬の諸膝を薙いでは切り据え、平頸を

切っては刎ね落させて、九折(つづらおり)の細道に五百余騎の敵を相受けて、半時ばかりを支えた



 義隆、節(節義)、石の如きとは言え共、その身は金鉄ではないので、敵が取り巻いて射た矢に既

に十余箇所に傷を受けていた。

 死ぬるまではやはり敵の手にはかかりたくはないと思ったのか、小竹の一村がある中に走り入っ

て、腹をかき切って死んだのだ。

 村上父子が敵を防ぎ、討ち死にしたその間に、宮は虎口に死を御遁れありて高野山へぞ落ちさせ

給いぬ。

          宮 高野山の隠れる 道薀 これを求む

 出羽入道々薀は、村上が宮の御真似をして腹を切ったのを真実(まんまこと)と心得て、その首を

取って京都に上せ、六波羅の実検に晒した所、ありもあらぬ者の首であると申す。

 獄門に曝すまでもなくて、九原(きゅうげん、元、中国の墓地)の苔に埋もれたのだ。

 道薀が吉野の域を攻め落したのは、専一の忠戦ではるが、大塔の宮を打ち漏らしたので、なお安

からず思ってやがて高野山に押し寄せて、大塔の陣を取って、宮の御在所を求めたけれども、一山

の衆徒は皆心を合わせて宮を隠し奉りければ、数日(すじつ)の粉骨は甲斐がなくて、千劒破(ちは

や)の城へぞ向かったのだ。

         千劒破城 軍の事
           大軍が千劒破の城を囲む

 千劒破城(大阪の東南、南河内郡千早赤阪村金剛山にあった城。金剛山の城とも言う)の寄せ手

は前の戦で関東から向かった八十萬騎(ぎ)に、さらに赤坂の勢や吉野の勢が馳せ加わって、百万騎

の余ったので、城の四方の四五里の間は見物相撲の場の如くに打ち囲んで、尺寸の地も無く充満し

ていた。

 旌旗が風に翻って靡く気色は秋の野の尾花の末よりも繁く、剱戟が日に映じて耀く有様は、暁の

霜が枯草に布せるが如くである。

 大軍が近づく所には山勢がこれが為に動き、鬨の声が震わせる中には坤軸(地軸)須庾に挫けた。

 この勢いにも恐れずに、僅かに千人に足りない小勢で以て誰を頼み、何を待つともなく城中に堪

えて防ぎ戦った楠の心の程ぞ不敵であるよ。

         正成 寄せ手を 悩ます

 この城、東西には谷が深く切れて、人が上がるべき様もない。南北には金剛山に続いて、しかも

峰が絶えている。

 されども高さは二町程で、周りは一里に足りない小城であるから、何ほどの事があるだろうと寄

せ手はこれを見侮って、初めの一両日の間は向い陣(敵陣に対して構えた陣)をも張らずに、責め支

度をも用意せずに、我先にと城の木戸口の辺まで槍をかづき連れ立って、上って来たのだ。

 城中の者共は少しも騒がずに、静まりかえり、高櫓の上から大石を投げかけ投げかけして、楯の

板を微塵に打ち砕いて、漂う(慌て落ち着かぬ様)所を差し詰め差し詰めして矢を射たので、両方の

板から転び落ちて、落ち重なり手負いになり、死を追いたす者は一日の間に五六千人に及んだ。

 長崎四郎左衛門尉は軍奉行であったから、手負い死人の実検をしたところ、執筆(しつひつ、書

記、右筆とも言う。戦争の時その他で諸事を記録する役)の十二人が夜昼に筆も置かずに注した。

さてこそ、今から後は大将の御許しなくては合戦をする輩は却って罪科に行うべしと、触れられた

ので、軍勢は暫く軍を止めて、先ず己の陣々を構えたのだ。

      金沢右馬之助の謀 名越時有 城兵が水を汲むのを待つ
       正成の水に対する用意 有時の軍勢が敗走する

 ここに赤坂の大将金澤有時右馬助、大佛奥州に向って宣(のたま)いけるは、前日に赤坂を攻め

落した事は全く士卒の高名ではない。城中の構えを推し出だして、水を止めて候しに依って敵は程

も無く降参し候。これを以てこの城を見候に、これほど僅かな山の頂に川水があるとも覚えず。又

挙げ水などを他所の山から懸けるべき便りも候わぬのに、城中に水が沢山にあるように見えるのは

如何様、東の山の麓に流れ来る谷水を夜々に汲むかと覚え候。哀れ、宗徒の人々一両人に仰せつけ

られてこの水を汲ませぬように御計らい候え。と、申しければ、両大将(まえの大仏奥州を指す)、

この義然るべく覚え候とて、名越越前の守を大将として、その勢三千余騎を指し分けて、水の辺に

陣を取らせ、城から人が降りぬべき道々に逆茂木を懸けて待ち懸けた。





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最終更新日  2026年03月24日 19時52分34秒
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