草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月03日
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一日の内に兵粮を五千余石を運んだのだ。

 その後、家中の財宝を悉く人民百姓に与えて、己の館に火をかけて、その勢は百五十騎にて船上

に馳せ参り、皇居を警護仕る。

 長年の一族で、名和の七郎と言う者、武勇の謀があったので、白布五百反(たん)あったのを旗に

拵え、松の葉を焼いて煙にふすべ、近国の武士共の家々の紋を描いて、この木の本、かしこの峯に

ぞ立て置いたのだ。この旗共が峰の嵐に吹かれて、陣々に翻った様は山中に大勢が充満していると

見えて夥しい。

          船上(ふなのうえ)の 合戦の事
           佐々木清高等が 船上山を 攻める



寄せたのだ。

 この舟上と申すのは北は大山(だいせん)に続き岨立ち、三方は地が下がって峰にかかっている白

雲が腰に廻っている。

 似赤に拵えた城であるから、まだ堀の一所も掘らず、塀の一重も塗らず、ただ大木の少々を所々

に切り倒して逆茂木に引き、坊舎(僧の住む家)の甍(いらか)を破って、掻き楯として並べただけで

ある。

 寄せ手の三千余騎は坂中まで駆け上がって、城中をきっと見上げたれば、松柏が生い繁って、非

常に深い木陰に軍勢の多少は知らね共、家々の旗が四五百流れ、雲に翻り、日に映じて見えたの

だ。

 さては早や、近国の勢共が悉く馳せ参じていたのか。

 この勢ばかりでは攻め難いとや思ったのか、寄せ手が皆心に危ぶんで、進み得ず、城中の勢共は



せて日を暮らす。

         寄せ手敗北する 清高の末路

 かかる所に、一方の寄せ手なりける佐々木弾左衛門尉は遥かの麓に控えていたのだが、いずかた

より射れるとも知れぬ遠矢に右の眼を射抜かれて、矢庭に伏して死んでしまった。

 これに依りて、その手の兵五百余騎は色を失いて軍をもせず。



 隠岐判官は猶、斯様の事も知らずに、搦手の勢は定めて今は責め近づいているだろうと心得て、

一の木戸口に支えて、新手を入れ替え入れ替えして時が移るまで攻めたのだ。

 日は既に西山に隠れなんとしける時に、俄かに天が書き曇り、風が吹き雨が降ることは車軸(車

の太い心棒の様な垂直に降る雨」の如くである。雷が鳴ることは山を崩すかと感じられる。

 寄せ手はこれに怖じわなないて、ここかしこの木陰に立ち寄りて群がりいたる所に、名和又太郎

長年、舎弟の太郎左衛門長重、小次郎長生(ながかた)が射手を左右に進めて、散々に射させ、敵の

楯の端が揺るぐ所を得たりや賢しと刀を抜き連れて打ってかかった。

 大手の寄せ手千余騎は谷底にみなまくり(追い払われて)落されて、己の太刀・長刀に貫かれて命

を落す者数を知らず。

 隠岐判官ばかりが辛くも命を助かって、小舟一艘に取り乗り、本国に逃げ帰ったのだが国人は何

時の間にか心変わりをして、津々浦々を堅め防ぎける間、風に任せ波に随いて越前の敦賀に漂い

寄ったのだが、幾程もなくして六波羅が没落の時に、江州(ごうしゅう、近江国)番馬(旧中山道の

一駅)の辻堂で腹をかき切って失せたのだ。

 世は澆季(ぎょうき、道徳や風俗が軽薄になった末世の時代)に成ったとは言え、天理はまだ残

っていたのか、余りに君を悩まし続けた隠岐判官が三十余日の間に滅び果てて、首を軍門の幢(

はたほこ、小さな旗を上に付けた鉾)に懸けられたのは不思議であるよ。

         諸国の軍勢が船上山に 馳せ集まる

 主上は隠岐の国から還幸なって、船上に御座有ると聞こえしかば、国々の兵共が馳せ参る事は引

きも切らず。

 先ず一番に、出雲守護塩谷判官高貞、富士名(佐々木の分家)の判官と打ち連れて千余騎で馳せ参

る。その後、浅山二郎が八百余騎、金持(かねぢ)の一党が三百余騎、大山衆徒七百余騎、凡て出

雲・伯耆・因幡、三箇国の間に弓矢に携わる程の者が参らぬ者はなかったのである。

 これのみならず、石見(いはみ)の国には澤・三角の一族、安芸の国に熊谷・小早川(こばいわ)、

美作(みまさか)の国には菅家の一族・江見・方賀(はが)・渋谷・南三郷(さんごう)、備後の国では

江田・廣澤・宮・三吉、備中に新見・成合・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前に今木・大

富太郎幸範・和田備後の二郎範長・知間の二郎近經・藤井・射越(いのこし)五郎左衛門範貞・小

嶋・中吉(なかぎり)・美濃権の介・和氣弥次郎季經・石生(おしこ)彦三郎、この他に四国・九州の

兵までも聞き伝え、聞き伝えして我先にと馳せ参じたので、その勢は舟上山に居余りて、四方の麓

の二三里は木の下、草の陰までもひとがいない所はなかった。

         巻  第  八  
       摩耶 合戦 の事に付き 酒部・瀬河 合戦の事
       佐々木時信、常陸前司時知、摩耶山に向かい 破れて京都に帰る

 先帝は既に船上に着御なり、隠岐判官清高は合戦に打ち負けた後、近国の武士ども皆馳せ参る

由、出雲・伯耆の早馬が頻並(しきなみ)に打って、六波羅に告げたので、事は既に珍事に及びぬと

聞く人は色を失った。

 これにつけても、京近い所に、敵の足を止めさせては叶うまい。

 先ずは摂津の国の摩耶の城に押し寄せて、赤松を退治すべしとて、佐々木判官時信・常陸の前司

時知に四十八か所の篝、在京人、並びに三井寺法師三百余人を相添えて、以上五千余騎を摩耶城に

向かわせた。

 その勢、閏二月五日に京都を立って、同(おなじき)十一日の卯の刻(午前六時)に摩耶の城の南の

麓、求塚・八幡林から攻めたのだ。

 赤松入道はこれを見て、態と敵を難所におびき寄せる為に、足軽の射手一二百人を麓に降ろし

て、遠矢を少々射させてから、城に引きあがったのだ。

 寄せ手は勝ちに乗じて五千余騎、さしも険しい南の坂を人馬に息もつがせずに揉みに揉んでぞ上

がったのだ。





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最終更新日  2026年04月03日 19時37分44秒
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