草加の爺の親世代へ対するボヤキ

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草加の爺(じじ)

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2026年04月07日
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この山に登るのに、七曲りとて険しく細い道がある。

 この所に至りて、寄せ手は矢を射られて少し勢いを挫かれ、上り兼ねてそのままの状態を保って

いる間に、赤松律師則祐(そうゆう)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰の二人が南の尾崎に下降(お

りくだ)って矢種を惜しまずに散々に射ったので、寄せ手は少し勢いをそがれて互いに人を楯にな

して、その陰に隠れようと、敗色が見え隠れしている。

 その気配を見て取り、赤松入道の子息・信濃守範資(のりすけ)・筑前守貞範(さだのり)。佐用

(さよ)・上月(こうつき)・小寺・頓宮(とみや、とんぐう)の一党五百余人、峰(きっさき)を揃えて

大山が崩れるが如くに二の尾から打ち出たので、寄せ手は後から引き立てて、返せ、と言うけれど

も、耳にも聞き入れず、我先にと引いた。



ので、返さんとするも叶わず、防がんとするも便りがない。

 されば城の麓から武庫河(むこがわ)の西の縁(はた)まで道の三里の間は、人馬がいやが上にも重

なり死して、行人は路を去り敢えず、向かう時に七千余騎と聞こえた六波羅の勢は僅かに千余騎に

だにも足らずに足らずに引き返しければ、京中で六波羅の周章斜めならず、然りと言えども敵は近

国から起こって属順(つきしたが)った勢はそれほどには多いとは聞こえないので、たとえ一度や二

度勝ちに乗る事があっても、何ほどの事があるべき。と、敵の分限を推し計って引けども機(き、

心の働き)を失わない。

         六波羅勢は 再び摩耶山に向う
           赤松父子 危難に遇い 僅かに遁れる

 かかる所に、備前の国の地頭・御家人も大略が敵になったと聞こえていたので、摩耶城に勢が重

ならない先に討っ手を下せと言って、同(おなじき)二十八日、又一万余騎の勢を指し下された。



して先んずるに如かず。とて、三千余騎を率っして摩耶の城を出て久々智(くくち)・酒部に陣を取

って待ち懸けた。

 三月十日に六波羅勢は既に瀬河(大阪府)に着いたと聞こえたので、合戦は明日になるだろうと赤

松は少し油断をして、ひと村雨が過ぎる程を物の具の露を干そうとして、僅かなる在家に込み入っ

て雨の晴れ間を待っている間に、尼崎から船を止めて上がった阿波の小笠原、三千余騎で押し寄せ



 赤松は僅かに五十余騎で大勢の中に駆け入り、面も振らずに(一心に、まっしぐらに)戦ったのだ

が、大敵を凌ぐのに叶わないので四十七騎は討たれ、父子の六騎だけになってしまった。

 六騎の兵は皆、揆(しるし、軍隊の印に兜の前、或いは後ろに付けた小旗)をかなぐり捨て、大

勢の中に颯と交わり懸かりければ、敵はこれを知らないのであろうか、又、天運にかかったのか、

いずれも恙無くして、味方の勢の小屋野の宿の西に三千余騎にて控えたるその中に、馳せ入って虎

口に死を遁れたのであった。

 六波羅勢は昨日の戦で敵の勇鋭を見ると、小勢とは言えども欺きがたいと思っていたので、瀬河

の宿に控えて進み得ない。

           赤松勢が 六波羅勢を 破る

 赤松は又、敗軍の勢を集めて遅れたる勢を待ち調える為に、軍を仕掛けないで互いに陣を隔てて

いまだに雌雄を決しようとしない。

 丁壯(士卒)そぞろに軍旅(戦争)に就くならば敵に気を奪われるだろうと、同十一日に赤松は三千

余騎で敵の陣に押し寄せて、先ず事の軆(てい)を伺い見るに、瀬河の宿の東西に家々の旗二三百流

れが梢の風に翻って、その勢は二三萬騎もあるかと疑われる。

 味方をこれに合わせて見れば、相手の百に対して一二にも比べることは出来ないと見えるが、戦

わなくては勝つ道はないので、ひとえに唯討ち死にと志して、筑前の守貞範・佐用兵庫の助範家・

宇野能登守國頼・中山五郎左衛門尉光能(みつよし)・飽間(あくま)九郎左衛門尉光泰は、郎党共と

七期にて竹の陰から南の山に打ち上がって進み出たのだ。

 敵はこれを見て、楯の端が少し動いてかかるのかと思えばそうではなくて、色めきたる(敗色が

表われた)気色に見えたので、七騎の人々は馬から飛び降りて、竹が一叢繁っている所を間に合わ

せの楯にとって、差し攻め、引き攻め(矢を弓弦にしっかりとつがえては十分に引き絞り)散々に

(したたかに)射たのだった。

 瀬川の宿の南北三十余町に沓(くつ)の子を打ったる様に(沓の底に打った鋲、多くの人が立ち

並ぶ様に譬える)控えている敵であるから、どうして狙いが外れるであろうか、外れる筈がない。

矢頃(矢を射る距離)に近い敵二十五騎が真っ逆さまに打ち落されたので、矢面にいる人を楯にし

て、馬を射させまいと陣容を整え兼ねた。

 平野伊勢前司・佐用・上月・田中・小寺・八木・衣笠の若者共は、すはや、敵は色めきたるは

(敗色があらわれたぞよ)と、箙(えびら、矢を盛って背に負う道具)を叩き、勝鬨を作って七百余

騎が轡(くつばみ、馬のくつわ、金属製の具で、馬の口に含ませて馬を御するのに使用する)を並

べてぞ駆けたのだ。

 大軍が靡く癖であるから、六波羅勢は前軍が返っても後陣が続かない。行く先は狭まいぞ、閑

(しずか)に引け、と言っても耳には入らず、子は親を棄て、郎党は主を知らず。我先にと落ち行く

のでその勢の大半が討たれて僅かに京へと帰ったのだ。

           赤松の勢が 六波羅勢を 追う

 赤松は、手負い・生捕りの頸三百余、縮河原に切り懸けさせて、又摩耶の城に引き返そうとした

のだが、圓心の子息帥律師則祐(そくゆう)が進み出て申したのは、軍の利は勝ちに乗じて逃げるの

を追うのには如かず。今度、寄せ手の名字を聞くに、京都の勢は数を尽くして向かって候なる。

 この勢共は今四五日は、長度の負け戦に草臥れて、人馬共に物の役に立つはずもありませんでし

ょう。臆病神が醒めない先に、続いて責めるのならば、などかは六波羅を一戦の中に攻め落さない

でいられましょうか。

 これ、太公(周代の斉の始祖、太公望呂尚。武王を助けて殷を滅し、天下を平定した)の兵書に

出ていて、子房(しぼう、漢の高祖に仕えた張良。字は子房。一老父・黄石公から兵法の書を与え

られた)が心底に秘めていた所ではありませんでしょうか。と、言った所、諸人が皆この義に同じ

て、その夜やがて宿川原を立って、路次(ろし)の在家(道筋の田舎家)に火を懸け、その光を手松

(たいまつ)にして逃げる敵に追い縋って、責め上ったのだ。





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最終更新日  2026年04月07日 10時27分47秒
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