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標記の問題については、すでに大きく報道されており、「すでに終わった問題」、「やむを得ない」という空気になっているだろうと感じています。私自身の感覚もそれに近いものがありましたが、為末大の発信を読み、確かにこのような見方がまっとうだ、と考えましたので紹介します。 自らの体験をふまえ、「子どもたちの問題にフォーカスするより、可能性を信じる社会の方が私は良いと思っています」という発言には共感をおぼえました。 日刊スポーツ新聞社に掲載された、長文コメント(為末大)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.07.21
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去る6月21日、遠藤誉が「Nature の研究ランキング『トップ10』を中国がほぼ独占」と題した記事を書いていました。Nature 誌を発行する英国の出版社による、「科学技術研究における各国の大学・研究機関の実力ランキング」の報告書の紹介です。Natureは145の自然科学分野および健康科学分野のジャーナル(学術雑誌)に掲載された研究論文への貢献を、2023年に出版された75,707報の論文をもとに調査をまとめランキングを作成しています。調査結果には<Nature指標2024 研究リーダーズ:中国の研究機関が上位を独占>という見出しがつけられました。 (世界で10位以内に入る研究機関・大学のうち、7つを中国が占め、日本はゼロ。) 「科学技術力」においても「経済力」においても「中国を見下す」ような主張・情報が多数発信される中、中国の現状と日本の現状(例えば大学教育の現状、研究の実態、彼我の落差)を考えていくうえで多くの人に読まれるべきだと考えました。「小泉・竹中構造改革路線」による新自由主義的な大学の改編(独立行政法人化と基礎研究を軽視した予算削減など)が教育機関としても研究機関としても日本の大学の体力を奪い、悲惨な状況に陥っている現在についても一目瞭然です。(現状を打開し、大学のみならず「日本の教育機関の体力」を回復させていくためには、正しく「社会的共通資本」としてそれらを位置づけ、必要な資金を惜しまず支えていくことでしょう。)遠藤誉の記事とあわせて、以下の二つも是非ご一読ください。古賀茂明「大企業の利権を守るためにEV化で後れを取った日本の代償 中国に全て奪われ『産業国家』が没落する日」ブログ 世に倦む日日 の関連記事「中国の科学技術力 - 嘗て日本の子どもたちが夢見た未来空間へ日進月歩」 さて、福島第一原発の事故の結果大量に発生した「汚染水(処理水)」の海洋放出問題について中国に「科学的な対応」を求めていた日本政府・東京電力は、科学技術においてすでに日本を凌駕している中国の「科学的見解に基づいた懸念」に全く触れようとしませんでした。この点、日本政府の発表を垂れ流すだけだったマスコミも同罪でしょう。「処理水(汚染水)」海洋放出の問題点 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.07.07
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前回の拙ブログ記事に応答する形で執筆していただいた、教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説(3.30)教職員の高度専門職化 まずは学習評価と特別支援からに対して遅まきながらいくつかcommentをしておきます。 以下の指摘に関しては、基本的に賛成。異論があるわけではありません。>“しょう”さんが引用する中内敏夫の「評価もまた教育でなければならない」というのは、重要な指摘だ。(「指導と評価」は)まさに一体のものとして日々の教育活動に生かされなければなるまい。>「わが国で唯一の教育評価に関する専門誌」である『指導と評価』が、3月号から学習評価の全体像を解説する特集を始めたのだ(・・・)代表理事は、学習評価が実務上の困難に直面している原因の一部は「学習評価の基礎知識の不足によると思われる」と指摘。>何より学習評価は、そもそも専門職として必要な「基礎知識の不足」状態が放置されている。一刻も早く、全教員の研修体制を確立すべきだ。 一般的に「学習評価に対する基礎知識の不足」という指摘は当たっているだろうと考えています。「内地留学の積極的保障も含めた研修体制づくり」は急務だと私も考えます。〔私の場合「内地留学の目的・主な関心」は、学習集団(含:学びの共同体)の問題と生活指導をどのように統合していくかということだったのですが、指導教官が「生活指導論」だけでなく「教育評価」も専門的に研究している方だったこと、同大学の特別支援にかかわる複数の教官(指導者)が非常に優れた人たちだったこともあり、予定した以上に幅広い学びを得ることができたのは幸運でした。〕 この内留をとおして教育評価を含む「教育学」の奥深さを実感できたのですが、何といっても大切なのは具体的な評価の例(学習評価・教育評価の実践例)にできる限り触れ、自分なりに工夫していくことだと考えています。 前記事では客観テスト以外の評価の方法としてb 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を活用・総合する「課題」に挑戦させ、作品づくりや実演によって評価する)、d 観察や対話による評価、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や記録を蓄積して評価するポートフォリオ評価。 例えば、古代国家の学習の締めくくりに以下のような課題に取り組ませる。(まだは、最初から課題を提示したうえで授業や考察に向かわせる。)Q 世界の古代国家に関する展示を博物館で行います。古代の王墓の写真・模型もたくさん展示されます。さて、会場の中に「古代の大帝国と国王による支配」が一体どのように成立したのか、説明するコーナーを作ります。多くの人々を使って、ピラミッドや古墳を造らせた「古代専制国家」はどのようにして誕生したのでしょうか。そして、広い領土を支配する大きな権力をもった「王」はどのようにして誕生したのでしょうか。中学生にも理解できるようなパンフレットをつくりましょう。分かりやすく写真や図を用いること。 上記の課題への取り組みをとおして「知識・理解」だけでなく「こと・もの・ひとに向かう関心や態度」についても評価して返していく。例えばこのような取り組み・評価によって先に例示したb 自由記述式、c パフォーマンス評価、eポートフォリオ評価を組み合わせていくことができます。 ただし、現在「過重負担を避けながら、充分有効な評価ができているか」ということになると自信がないところもあります。上記のような方式以外には、授業中に説明を受けた中身を要約し、思考を深めるような「問い」をノートに記録するよう促し、定期的に評価する。授業中の発言に関しても、周りが思いつかなかった創造的な発想や全体の認識を深めていけるような質問をとりあげ(周囲の生徒にも確認しながら)評価する、など意識的に行ってはいるのですが・・・。 中内敏夫や渡辺敦司の主張=「評価もまた教育でなければならない」、「指導と評価」はまさに一体のものとして日々の教育活動に生かされなければならない、という観点からすると、「記録に残る評価」もさることながら、d に示した「観察や対話による評価(言葉による評価)」こそが重要ではないか、という思いもあるのです。>もう一つ放置されていることがある。特別支援教育だ。「特殊教育」から移行して20年近くになるというのに、いまだに現場は発達障害を含む困難を抱えた児童生徒の指導に自信を持てないでいる。技術もそうだが、そもそも「基礎知識の不足」が放置されたままだからだろう。>『教育と医学』3・4月号は「発達障害のグレーゾーンの子どもたち――その理解と支援」を特集しており、青木省三・川崎医科大学名誉教授は発達障害が「ある・なし」で分けられないばかりか「人は皆グレーゾーン」だと喝破している。 「学習評価・教育評価」の場合とは違って「特別支援」に関しては「基礎知識のないまま放置されてきた」とは考えていません。県内・そして全国各地で「研究会・研修会」は行われており、そこから学んでいない教職員はまれでしょう。そもそも「自閉症スペクトラム」という言葉自体、それが連続的で明確に分類できない「障害」であることを明らかにしています。 「自信がない」というのは、「知識不足」が原因なのではなく「すべてがケースバイケースでその生徒、その状況に応じた適切な向き合い方をしなければならない」という意味において「わかりやすい解答」など存在しないことが大きいと考えています。 だとすれば「特別支援」の場合、「学習評価・教育評価」以上に様々な実践に触れること、読むことが重要だと考えるのです。「基礎知識+実践を学ぶ」という副題をつけましたが、力点は「実践」にあります。そして、私が今なおお勧めしたいのが、「教育の窓 ある退職校長の想い」のブログ主である清水俊皓の実践です。 この取り組み(=授業・学級づくり)が行われたのは白黒映像の時代。実践者の清水には「特別支援」や「教育評価」に関する学問的な基礎知識は皆無といっていい状態でしたが、その真髄と思われる「思想」が貫かれている、と考えるのです。 発達障害児と問題解決学習と(清水俊皓のブログ記事より) ただし、ここまでのところでかなりの分量になってしまいました。実践の引用や私自身のcommentに関しては、次回の記事といたします。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.04.15
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「教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説」2月12日の記事ー改訂諮問の年に③「学習評価」の根源的な捉え直しを-は考えるべき重要な問題提起を含んでいると読みました。心身の余裕が乏しかったこともあり反応できていませんでしたが、このたびごく簡単にコメントし、「学習評価」・「教育評価」に関する過去の拙文を紹介します。> 1)学習評価は、何のためにするのか――。教育の専門家である教師に、そうした問いをするのは愚問だろうか。> 2)しかし定期テストの廃止すら世間を騒がせるだけでなく教育現場にも賛否両論を巻き起こす状況を見るにつけ、本当に評価の専門性が浸透しているのか疑わしく思っている。> 3)評価のための評価では、自分たちの首を絞めるだけの徒労でしかない。> 4)そのための形成的評価〔註〕と、授業評価こそ重視されなければならない。もしもその障害になるとするなら、見直されるべきは指導要録の制度や入学者選抜の方だ。> 5)世間にも、数値による評定信仰がまかり通っている。教育界自身もそうだろう。それを乗り越えなければ、本当の意味で誰一人取り残さない教育は実現しまい。〔註:教育目標に照らして、児童生徒の学習が成立しているかどうかを確認しながら学習指導を行うという意味での「教授・学習過程で行われる確認作業」を「形成的評価」と呼ぶ。〕 以上、引用した項目に番号を勝手につけました。いずれも全くもっともな指摘だと思います。私の場合(幸運にも)「内地留学」の期間(一年)を得たこともあり、教育評価を学ぶ機会に恵まれたのですが、そうでなければ「評価の根底的な問い直し」をめざした教育学の試みなど理解しないままここに至った可能性は大きいと考えます。(一般的にも「評価の専門性が浸透しているのか疑わしい」と感じられるのは当然のこと。) また、4)では「形成的評価」の重要性が指摘されていますが、全くそのとおりでしょう。さらに言うと「子どもは、学校卒業後も伸びていかなければならない存在」であるという意味においては、子ども自身に「形成的自己評価の力」(目標に照らして自らの学びと成長を確認しつつ、学びの在り方を自身で問い直していく力)をつけていくことが大切だと考えます。 以下の二つは「教育評価」「学習評価」を学び要約した内容と、それをもとにして書いた「論文」です。よろしければご一読ください。 2011.12.30 学力とは何か? ~中内敏夫『教室をひらく』~ 2012 年 4月 あるべき学校評価と教育実践評価 以下は「あるべき学校評価と教育実践評価」の抜粋・紹介です。 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。 しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。② このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕 従来用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。 1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる4)「教材精選」の目安が得られる など。 もちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~ 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単にいうとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕⑧ このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「(評価をするための)鑑識眼」は洗練されていく。⑨このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて)〔以上抜粋、以下略、関連する註のみ転載〕①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁 戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁(※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁⑨2024年3月付記 「洗練された鑑識眼」を身につけ、学習の成果を何らかの形で評価・表現し子どもたちに返していくことは、現状において容易ではないという実感はある。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2024.03.24
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 教育委員会が発表している県立高等学校教育の在り方に関する基本方針案について、この8月に出した私見(パブリックコメント)の後半です。 1, 人口減少地域、中山間地域の高校「魅力化」の問題 表記の問題について島根県は早くから問題意識を持って取り組んでおり、本県においてもそれに学びつつ、「とっとり高校魅力化推進事業」として具体化されている。しかしながら、その「本気度」についてはもっと島根に学ぶことが大切だと思われる。①教職員定数の改善例えば隠岐島前高校の場合、標準法の改正について県や県教委が国への要望を続け「隠岐島前高等学校の魅力化と永遠の発展の会」とともに文部科学省、総務省や国土交通省、財務省にも働きかけ「標準法に地理的条件を反映させる方向での改正」を勝ち取っている。新魅力化構想(叩き台) (dozen.ed.jp) P.36 前例のない状態から法を動かした上記取り組みを考えれば、「反映されるべき地理的条件を拡大」すること(=中山間地域における学級定員、標準定数の改善)は決して不可能ではない。しかも現在、中山間地の高校存続の問題は本県のみならず全国的な課題であり、「地方創生」「人口減少への歯止め」とも深く関連する問題として注目されている。 https://www.dlri.co.jp/report/ld/200931.html など「教職員定数」や「学級定員」の改善は、教職員の「働き方改革」、「持続可能な教育改革」、さらには「地方・地域社会の持続可能性」にもつながっていく課題であり、各地の教育委員会としても「知事会」としても強く要求していくべき重要事項ではないか。②住環境の整備など島根県の場合、町と県が基金をつくってお金を負担しあい、「寮の運営に必要な職員」を確保するなど具体的な条件整備を行っているという報告を(視察した職員から)受けた。ところが、「とっとり高校魅力化推進事業」のページによれば、「県外生徒を受け入れるための住環境が不十分であることから地域にあった方法で、県外生徒の受入環境を整備していくことが必要」と触れているだけで、県が積極的に条件整備をしていくという姿勢が感じられない。該当校や地元自治体に事実上「お任せ」するような現状になっていないか。それでは話にならない。「基金の創設 ⇒ 寮の運営に必要な職員の確保」といった課題も含めて島根県の取り組みにもっと学ぶべきでだと考える。3,社会的共通資本(教育環境・施設)の維持・活用 農業学科を含む各専門科においてこれまで整備されてきた「教育環境・施設」は宇沢弘文のいう社会的共通資本である。確かに、生徒減やその時々の志願状況を無視することはできないが、それぞれ重要性を持った「財産(地域住民や日本に居住する人々の)」であることも忘れてはならない。例えば、工業科、農業科における施設は「モノづくり」や「命を育てる教育」に必要なものであり、たとえ就職先などの進路に直結しない場合でも様々な「体験と学び」の重要な条件である。(大きくは日本の製造業や農林水産業の持続可能性にもかかわる。)今後は、「特別な配慮や支援が必要」と考えられている生徒の「実習体験」などにも活用する方向で極力活かしていくべきだと考える。(例:特別支援学校の「分級」を専門高校内に設置 ⇒ 支援が必要と考えられている生徒が専門科で実習できるような条件整備をすると同時に、専門学科を存続させ教職員数も増やしていく。そのようなモデルを本県から発信してもいいのではないか。)専門高校もこれまでに定めた「基準」に照らして機械的に「学級減」の対象とするのではなく、いかにして共有財産を守り存続させていくか、別の角度も含めていかにしてこの財産を活用するか、ということにもっと注力する必要がありはしないか。4,結論(再度) 持続可能なかたちで教育の「質」を高めること、学校現場の健全な活力を膨らませ、創造的な教育を生み出していくことは確かに重要だと考える。ただ、そのためには国の標準定数法も含め「これまでの条件」を当たり前として受け入れ進めようとするのではなく、(地域の、さらにはこの国の)教育を創造していく立場からそれらを改善すべく最大限の努力を払っていくことが大切だと考える。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.10.09
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「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版) 教育委員会が発表している県立高等学校教育の在り方に関する基本方針案について、この8月、私見を提言しました(パブリックコメントの提出)。 2回に分けて公開します。 「基本方針案」における「高校教育改革の必要性」、「今後の県立高校が目指す姿」にまとめられた構想からは、確かに「めざしたい高校教育の在り方・改革」はある程度伝わってくる。現学習指導要領はもちろん各地で行われている「魅力化事業」の積み上げも活かされているように見える。だが、めざすものを実現していくための条件が根本的に問われていないように思われる。教育に関する基本方針を「上滑りの掛け声」にしてはならない。 1, 教職員定数の問題例えば「生産年齢人口の減少」のところで「適正な規模を維持しながら」とある。これは従来の学級減の方針(1学年3学級の場合、2年連続募集定員の3分の2を下回ったら2学級に減らす)を前提とした記述だと思われるが、私はこのような「基準」に基づく機械的な学級減には反対である。また、同記述は現行の標準定数が変わらないことを前提に書かれたもののようだが、TT担任制の推進・復活も含めて、これまでの教職員定数を増やすこと(定数改善)こそが現在求められている必須の条件ではないか。これは、学級数が「適正規模」を下回る郡部校だけでなく、適正規模に達している都市部の普通科高校や専門高校にも必要となる条件整備だと考える。現状のままでは地方の教育のみならず日本の教育自体が破綻しかねず、改善が必須だということを、現場の実情を知る県教育委員会・地方自治体こそが国に強く訴えるべきではないか。知事会なども強く動くべき。これまでのような、「教職員の善意と頑張り」に依拠した改革は持続不可能だということは声を大にして言いたい。(理由)・教職員定数を増やすことを抜きにして「改革」を実現することは極めて困難である。「基本方針案」は、教育の質の向上をうたい「新しい学び」の創造を強調している(学習指導要領にもほぼ同趣旨の内容が盛り込まれている)。結局、これまで教職員に求めてきた以上のものを要求していくということであるが、創造的な学びを構想し保障していくための時間的余裕は、小規模校であるなしを問わず今の学校現場に欠けている。・定数改善を抜きにした「教職員の働き方改革」は必然的に「掛け声だけ」となり、現状は全く改善されない。全国的に教職員の志願者は減少し、倍率も低下傾向にあるが、その背景にはあまりにも余裕のない学校の現状がある。 公立の教員採用倍率3.7倍 過去最低に 文科省調査 | NHK・このようなことで、「教育の質的向上」や「創造的な学びの保障」が達成され、あるいは持続するのか?条件整備を抜きに教職員への「要求」だけがますます高まり、IT対応なども含めて求められる指導が多岐にわたる中、産休・育休代員をはじめ「非正規職員の確保」等が困難になることは必然ではないか。 全国的に多くの教員が休職・離職する中、「求められる要求に応えきれず苦しむ個人」も含め「支えあいのためのゆとり・教育現場の体力」を生み出すことなしには、公教育自体が破綻しかねない。 後半: 人口減少地域、中山間地域の高校「魅力化」の問題 に続くブログ村、教育論ー教育問題の中で渡辺敦さんも定数改善を強く訴えておられますね。(10月4日 追記)「無理」を可能にする定数改善の展望を: 教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説 (cocolog-nifty.com)にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効「ウクライナ」戦争開始以降の主な記事(PDF版)教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.10.02
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教育をつくりかえる道すじ 教育評価3 の続きです ところで、「教育評価」に関連する力(「鑑識眼」)については、前掲論文の別の場所で三木裕和が述べていることが示唆に富んでいる。「重症児学校の朝の会。(・・・)『○○ちゃん、○○ちゃんはどこですか?』と問いかけ、返事を待つ。子どもは教師と視線を合わせることもしないし、手を動かすこともしない。(・・・)しかし、よく見ていると、自分の順番が終わり、隣の子どもの番になった頃に表情が和らぎ、ため息をついたり、時には微かな声が出る、手がわずかに動くなどの変化を見ることがある。(・・・)自分の挨拶のときに、それを理解できているからこそ行動に表れないという逆説を良く踏まえて臨まなければ、障害のある子どもを理解することはできない。」「大人との相互交流や、それに基づく自我の拡大に意味を見出す段階においては、あらかじめ評価基準を行動的用語として設定することはさらに困難となる。子どもの活動は、『評価されることを前提としたひとまとまりのもの』(終止形)ではなく、『次の目標を再生産する過程として意味を持つもの』(継続形)だからである。」⑫三木による上記の指摘は障害児に限らずすべての子どもたちの学習や成長を評価する際の重要で普遍的な視点を含んでいるように思われる。というのは、定型発達児においても児童期・前思春期から青年期にかけて、「教職員の期待したとおりの活動をしない、できない」場面は無数にあるからだ。自我の発達段階に違いがあるとはいえ、彼らの言動や態度・表情の中に「期待された行動としては表現されない葛藤・反発やもがき」という「成長過程」を読み取る力は当然にして求められるのではないか。 さらに、三木は次のように述べる、「相互交流の過程で起きた教師の内面の変化も子どもによって引き起こされたものと見ることができることから、指導者の主観さえ、子どもの活動の結果と結びつけて重視しなければならない。教師の主観も含めた諸事実から、子どもの教育評価が成り立つといえる。」⑫ ここで、子どもとの相互交流によって変化させられた指導者の主観に注目し、それをも含めた諸事実を大切にする、という発想が提示されているが、教育評価以前の教育の原点がそこに示されているように思われる。大切なのは、教職員が子どもたちの表情・態度・発言・行動の中に成長の兆しを見出す、といった意味における評価の力量(冒頭の引用文中で中内が述べている「有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取って」いくという意味での力)を高めていくことであり、かつ、子どもによって引き起こされた自分自身の変化をも意識化していく力であろう。実は、すでに教育評価はそのような力(少なくともその一部)の必要性を理論化しており、具体的方法で挙げた「d 観察や対話による評価」(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)がそれに当たると考えられる。要するに、「誰にでも客観的に評価できる行動目標の設定」(ましてや数値目標)にとらわれ、「工場モデル」に代表されるような狭い視野で教育評価の全体を理解・実践することは妥当でない。その結果は、「個人の願いや発達要求」の軽視や、「喜びや変革を生み出す実践的・創造的な力と無関係な画一的目標設定」につながる可能性が高い。それは、教育評価の持っている豊かな可能性を狭めることにしかならないであろう。以上、自らを省みることも含め、「教育評価」の力量を高めていくことの重要性を強調してきたが、そのような意味における「力」を鍛える方法については、これまでの様々な営みが示唆を与えてくれる。例えば、「学びの共同体」における授業後の研究協議では、授業者が見逃してしまいそうな子どもの発言・態度・相互交流を出し合い「子どもの学びの事実」を中心に議論する。その議論が適切に深められていけば、「評価の力」を相互に高めていく有力な方法となるであろう。一般的な研究授業と研究協議会の取り組みも、教職員の指導性に関わる議論も含めて同様の意義を持たせることが可能である。さらには、授業参観における保護者の感想にハッとさせられ、子どもたちの成長に関わる新しい視点を獲得することもあるだろう。そしてまた、このような評価の力は、日本における「生活指導運動」が特に重視してきた「実践分析の力」と重なり合う面が大きいのではないだろうか。実践記録の報告に基づいて、参加者は様々な質問をしながらその実践を読み取り、意見交換する中で分析を深めていく。このような営みを通して、子どもたちの活動や成長を評価していく力を高め、実践の優れた点と課題、それを次の実践にどのように活かしていけるのかという展望を見出していけるのである。 絹村俊明は「教員評価」に対置して、「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくり」を提起し、その具体的方法として「教育実践評価」を提起している。⑬教職員が同僚として力を高めあうことの大切さはいうまでもないが、教育の成果を適切に評価し「教育をよりよいものにしていく」ためには、子どもたちの成長や教育実践についてしっかり分析・評価していく「力量」、さらにはより適切な指導を見出していく「力量」が必要であり、そのためにも上記の「実践分析」⇒「教育実践評価」という視点は重要であろう。 4、結論 ~「学校評価」の組み換えと教育の改善~これまでの多岐にわたる叙述を簡単にまとめ、問題提起としたい。1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくこと。この趣旨は、学校評価と教職員評価~その現状と問題点~ で述べたとおりである。2)その評価には、学習の主体(第一の「利害関係者」)である生徒の参加も検討されるべきこと。例えば日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価するというポートフォリオ評価。作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む実践が注目に値する。3)「教育評価」の力量を相互に高めていくためにも、「学校評価」の中に「教育実践評価」(授業検討会や教育実践の報告と分析の場、子どもたちに関わる情報交換をしながら「評価」や「実践」について検討する場)をきちんと位置づけ組み込んでいくこと。 大切なことは、1)「学校評価」を「教育評価」本来の筋に沿って組みかえていくことにつきると言ってもいいだろう。「教職員評価」に関して、教育評価の筋で考えると、「自己評価⇒指導方法や教育環境・条件の改善」に力点が置かれる。(利害関係者や外部の評価は、それを補ったり修正する役割を果たす)。②評定の筋でいくと、「管理者が評価して処遇に差をつける」、という発想につながるが、多くの教職員が直感しているように(そして、米国の失敗が明らかにしたように)、これはむしろ教職員の士気を低下させ、学校の教育力を弱めていくことになるであろう。 上記の二つ(「教育評価」と「評定」)をきちんと区別しないまま「学校評価」、「教職員評価」が論じられていることこそが大きな問題なのである。 なお、付け加えていえば、教育基本条例が提案された背景には現状の教育委員会制度の問題(教育委員会が事実上文科省の上位下達機関の役割を果たし、官僚統制の象徴となっている面がないか、といった問題)がある。しかし、このような問題に関しては、政治家による教育への介入を正当化するのではなく、教育委員の公選制の復活、学校(学校長)の権限を強め教育の分権化を進める(PISAで高得点をあげたフィンランドの成功の大きな要因は教育の分権化だった⑭)、といった方向で議論していくべきではないだろうか。 〔註〕 しょうのページ(HP)の教育問題はこちら ⑫三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 205・6頁〕⑬絹村俊明「『同僚性』に深く根ざした実践的教師集団づくりを」『高校生活指導』176号、2008年、青木書店⑭『格差をなくせば子どもの学力は伸びる 驚きのフィンランドの教育』 亜紀書房 43頁OECD教育局のシュライヒャー氏はPISAの結果を分析してことを重要な指摘している。「フィンランドをみてみると、権限と責任はすべて学校に与えられていて、学校がありとあらゆることを決めることができるようになっています。それによって成績レベルを全体に底上げすることができると考えられます。・・・・トップダウン方式ではなくて、学校にやる気を起こさせることによって、成績を上げられるような環境にあるということです。PISA調査の結果から、学校が自分の判断でアイディアを考え出し、それを試してみることによってよい成績を得られることが可能となることがわかりましたが、その好例がフィンランドでした。学校にやる気を起こさせる環境を作ること、これが重要だったのです。」◎以上、「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.28
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この間の主な記事のPDF版 教育をつくりかえる道すじ 教育評価2 の続きです。 3、評価を行う力 ~教育実践評価の視点~ 中内は、「到達度評価を教育過程改造に活用する」という発想(=教育評価)には一種のオプティミズム(楽観主義)がある、と述べる。簡単に述べるとそれは、「教えられうる目標(到達点)は客観的に定めることができる」、そして「適切で妥当な評価は可能だ」、という意味での楽観主義である。⑦ 中内も言うように、「オプティミズムはリアリズムと結びつかなければ強い力にならない」。これまで長期にわたって採用されていた相対評価法は、現実の問題として、ある種の「客観性」および「実用性」を持っていたからこそ支持を得てきたのである。 確かに、標準学力テストや「模擬試験」の結果に振り回されることによって、見失われがちな大切な要素(「平和で民主的な社会の形成者」になっていく上で子どもたちが学びうる大切な力)が教育には数多くある。(例えば、クラスメートと話し合いながら「生活文脈」の中で発生するリアルな課題に取り組んでいく総合的な力。)しかし、仮に、そのような大切な力・学び体得した成果が目に見えない(客観的な評価ができない)とすれば、教育を改善していく展望も見いだせない、ということになるのではないか。 教育評価の立場からは、そのような疑問に応えるために、さまざまな評価の方法が示されてきている。〔a 客観テスト(授業単元で最も重視すべき教育目標を子どもたち全員が理解できたかどうかを把握するために作成されたもの)、b 自由記述式(「ある概念に関係のある言葉をいくつか選び出し、配置し、矢印の付いた線で結ぶ」など、知識間の関係づけをみる方式)、c パフォーマンス評価(知識を応用・活用・総合することを要求する「生活文脈から生じる課題」に挑戦させ、作品をつくったり実演させることによって評価する)、 d 観察や対話による評価(そのためには子どもの姿を通じて教育実践を生き生きと把握し語る力が不可欠である)、e 日常の学習過程で生み出されるさまざまな作品や評価記録を蓄積して評価する(ポートフォリオ評価)。〔作品等を題材にした教職員と子どもたちとの「検討会」が行われ、子ども自身の「自己評価能力」を高める過程を含む〕。⑧ このような様々な方法を駆使した「教育評価」は、当然、以後の教育実践の問い直しや教育条件の整備、当初設定していた「目標の見直し」にも活用されることになる。 実をいうと、これらの実践は「目標準拠評価」(とりわけ「行動目標」の設定と機械的な評価)へのさまざまな角度からの批判に応えて生み出されたものでもある。というのは、教育評価が当初「工学的アプローチ」と呼ばれたことからもうかがえるが、いわば「自動車の組立工程のように、下位目標を効率的に組み立てて画一的な最終目標に到達させる」ものとして理解され、このような「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在する、と解釈されていた⑨からである。〔行動目標…例えば、高校生が中国の封建体制について説明できる、障害を持った子どもが「ちょうだい」と意思表示して仲間とやりとりできる〕 確かに行動目標が明確に設定されれば、客観的な「教育評価」を行いやすい面はある。しかしながら、一つ間違えば「誰もが同じように評価できる客観的な目標設定」を強調するあまり、設定される目標そのものが妥当性を欠くものになる危険性や、子どもたち一人ひとりの発達要求や願い、感情や喜びなど、個々の主体にとって切実な問題(それは教育にとって大切な問題でもある)を視野の外におきかねない、という危険性をはらんでいる。 事実、三木裕和は、「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」 ―重症心身障害児を中心に― の中で、「評価目標を行動的用語で表現する」ことに実践がとらわれるあまり、知的障害のある子どもへの教育において以下のような問題が生じていることを指摘している。⑩ 1)知的能力、活動の軽視、ないし無視2)情意的能力・活動の軽視、ないし無視3)行動変化のタイムラグの軽視ないし無視4)行動変化の個性差の軽視、ないし無視5)評価されにくい人格的変容の軽視、ないし無視 これが障害児教育において一つの流れになっているとすれば、大きな問題であるが、定型発達児の教育においても1)を除けば同様の危険性をはらんでいるといえよう。 実は、当初の「目標準拠評価」がはらんでいた問題点(「教育の工場モデル」を成り立たせるために「行動目標」が存在するものとして実践される)については、米国においても異なる角度から批判がなされていたのである。 例えば、ブルームの提唱した「教育評価(目標準拠評価)」に対して、芸術教育で活躍してきたアイスナーは、「目標の規準性」に回収できない教育実践の創造性、教育・学習活動の「質」に注目し、「質」を判断する力(「鑑識眼」と「教育批評」)が大切だと主張した。(「鑑識眼」とは、対象の性格や質を把握する力。「教育批評」は公開され公共性を持った「教育・学習の性格や質を把握する」行為。)⑪ そして、「教育批評」(例えば日本における研究授業後の研究協議や「実践報告」に基づいた実践分析)を通して「鑑識眼」は洗練されていく。このような「力」によって、教職員は子どもたちの学習活動の中から「意味のある活動や反応」を評価し、次の教育実践に活かせるようになるのである。(「目標の問い直し」も含めて) しょうのページ(HP)の教育問題はこちら〔註〕⑦中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 52頁⑧田中耕治『教育評価』岩波書店 147~162頁⑨田中耕治『教育評価』岩波書店 59~62頁⑩三木裕和「障害児教育における教育目標、教育評価についての検討」〔地域学論集(鳥取大学地域学部紀要)第8巻 第3号 204頁〕⑪田中耕治『教育評価』岩波書店 61~62頁 続くにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.21
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この間の主な記事のPDF版教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 1 (2012年3月執筆)の続き2、学校評価と教職員評価 ~その現状と問題点~現在の「学校評価」や「教職員評価」が強調されるようになったのはいつからだろうか。田中耕治(『教育評価』)によれば、第16期中央教育審議会答申(1998年)以来、学校の経営責任の明確化、各学校の教育目標を効果的に達成することを目指して、学校評価が意識的に取り組まれるようになってきた。学校評議員制度もこの学校評価を支えることを一つの目的として導入されたものである。 「教育改革国民会議」(2000年)で「教師の意欲や努力が報われ評価される体制」の構築が提案される一方、「指導力不足教員」の問題、他方では「教員の専門力向上」の問題をにらみながら、人事考課、勤務評定としての「教育評価」の取り組みが強まっている。⑤ ここでは概略、次のような点が指摘される。・学校評価において、自己評価と外部評価をどのように関係づけるのか。・教師の教育専門家としての成長と、処遇への反映の関係をどのように考えるのか。・競争的な報奨制度が共同的な教育活動を阻害することになったアメリカでの失敗例を念頭において、教師の努力や意欲が報われ評価される体制をどう構築していくのか。 田中耕治の記述はいくつかの問いで終わっているが、彼が「教育評価」と鍵括弧つきで表現した上記の取り組みの中には、本来の教育評価を捻じ曲げる要素が数多く入り込んでいるのではないだろうか。「学校評価」・「教職員評価」導入の意図が、「教育評価」を前進させるという純粋な観点だけでないところに問題がある。いくつかの側面から整理しておこう。1)「学校評価」の主体は本来誰か冒頭の引用文で中内(『教室をひらく』)も記述しているように、教育評価の筋で考えれば教職員こそが評価の主体である。「教科の学習や特別活動の成果」、「学習や活動によって生じた変化(あるいは変化が生じていないように見える理由)」を適切に評価し、「教育を(学校を)よりよいものにつくり変えていく力」こそが、教職員の専門性だと考えられる。このような意味における「教育の成果や教育実践そのものを評価していく教職員の力」を高めることなしに、豊かな教育は成り立たないであろう。あくまでこれが基本であり、教職員自身による「教育評価」を補うために「利害関係者」(具体的には同僚、保護者、地域住民、教育行政機関、第三者機関)の評価、そして学習の主体である子どもたちの評価を取り入れるのである。例えば研究授業や参観授業で同僚・保護者が感想・意見を述べる等、教授・学習過程に関係する人たちが評価に参加することは、「教室に閉ざされた評価」を開いていくことになる。そして同時に、教職員は出された意見を受け止めつつ検討することで「教育評価」の力を高めていくことができるであろう。2)教育評価と評定の区別 評価については、教育評価(エヴァリエーション)と評定(ヴァリエーション)を区別することが必要であるが、現状においてはきちんと区別されていない。現在の学校評価、教職員評価は純粋に「教育評価」の観点から拡大しているわけでないところに問題がある。「教育評価」と言うよりも、「評定」が強調される傾向があまりに強いのである。(例えば、教職員をA、B、Cにランクづけする等。)確かに、現行の「学校評価」の中には教育評価的な性格が取り入れられている部分もあり、それをも含めて全面否定することは問題があるだろう。しかし、それ以上に「民間企業の目標管理システム」をモデルにしていると見える側面が強い。後者のモデルは目に見える数値目標を重視するが、それにとらわれることで「教育の目標設定」そのものをゆがめてしまう可能性は大きい。 さらに、数値目標が一人歩きしていくことは教育の市場化・商品化を加速させていくと考えられるが、米国において完全に失敗していった「教育改革の現状・結果」⑥から、しっかりと学ぶ必要があるのではないか。また、ランクづけ(さらには賃金格差の導入)が「教職員集団で行き届いた教育を創造する」上で大きなマイナスになることについては、多くの論者が指摘するとおりであろう。3)評価に関わる「利害関係者の利害」とは?確かに、学校教育において「利害関係者」が「教育評価」に適切な形で参加することは有意義である。適切な形での参加というのは、教職員による「子どもたちの学びの現状の評価」を色々な角度からの意見によって補ったり修正していくことである。その結果、どの学校においても指導や教育条件が行き届いたものになるよう関わっていくことである。 しかしながら、「参加」の問題が「俺にも文句言わせろ」と言う形で「評定(例えば標準テストの平均点)を上げるための圧力」になってしまうとすれば、結局、子どもたちを際限のない「排他的競争」に駆り立てるだけで、権利としての行き届いた教育保障に逆行するものではないか。確かに教育目標を再検討していくことは大切である。しかし、例えば学習指導要領の内容が、政治家や経済学者やマスコミによる「学力低下キャンペーン」によって右往左往するようなことには大きな問題がある。あくまで、目標の再検討は、現場における「教育評価」を土台にしてなされるべきであろう。(※)また、教職員をランクづけし「最低ランクの○○はやめさせろ」、「担任替えろ」といった要求を出すことが、しっかりとした「教育評価」をもとに、落ち着いて指導内容の改善や教育条件の整備を進めていく上でマイナスに働くことは容易に想像できる。橋下維新の会による「教育基本条例」は、そのような性急な要求を公的機関が押し出すことで「米国の失敗」を現実のものにする危険性が大である。 〔註〕⑤田中耕治『教育評価』岩波書店 87頁⑥堤 未果『社会の真実の見つけかた』(岩波ジュニア新書 2011) によれば、米国における「教育の市場化・商品化」の現状・結果は以下のようなものである。(概略)アメリカでは2002年春、ブッシュ政権によって市場原理中心の教育政策である「落ちこぼれゼロ法」が施行された。その結果、全国一斉学力テストの実施が義務づけられるとともに、学力ノルマ基準を満たせず「落第」とされた場合、責任と非難は現場の教師一人ひとりに集中し、減給や解雇が行なわれる。公立学校も、国からの予算カット、廃校、民営化に追い込まれる。さらに、公立学校の教員の多くが、国から要求される子どもたちの学力ノルマ達成と生活に余裕を失った保護者からの大量の無理難題要求に追い詰められていく。その結果、バーンアウト(燃え尽き)していく事態が急速に進行。2014年までに全米の公立高校の九割近くが「落第」になる見通しで、この政策は、教育現場を極度に荒廃させただけに終わっている。なお、米国で失敗した「落ちこぼれゼロ法」と「教育基本条例」が酷似していることを指摘した番組をとりあげたブログ記事はこちら 。◎「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは一応理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。 2023年5月10日付記 (※)中内敏夫は『教室をひらく』のなかで、現場で作成する「指導要録」の様式を改善して、そこに記述される「教育評価」の集積を、指導要領の問い直しの根拠にすべきことを主張している。 続き にほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.09
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この間の主な記事のPDF版 PDF版 「誰のための司法か」 「教育をつくりかえる道筋」について私たちはどう考えていけばいいのでしょうか。 「大阪維新」が橋下知事の時代に制定した「教育基本条例」を意識しつつ私なりにまとめた「論文」(中内敏夫、田中耕治らの理論・考察を学ぶ機会を得て主に2012年3月に執筆したもの)を何回かに分けて公開します。 教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 大阪の橋下維新の会が提出・成立させた「教育基本条例案」。大阪の世論調査では、支持する人たちは多数のようだが、なぜこの条例案は多くの人に支持されるのか。様々な人たちがその問題点を指摘するものの、結局、われわれ自身「教育をより良いものにつくり変えていく道筋を充分示せていない」ということが背景にあるのではないだろうか。いまこそ、そのような道筋を積極的に示していく必要があると思われるが、実を言うと、すでに実践可能な理論は構築されているのである。それは何か。「教育評価」の取り組み(=教育の成果を子どもたちの実態に即して丁寧に評価し、授業改善や学校改革、教育条件整備につなげていくという発想・取り組み)である。教育学者の中内敏夫は、その著『教室をひらく』のなかで、以下のように述べている。 「教育の思想は(…)『評価もまた教育でなければならない』という原則をつくりだした。」「指導は大切だが評価はつけたしだという考え方がある。この場合、評価というのは、学期のしめくくりにやる子どもの成績に3、4、といった評点をつける仕事という考えが前提にある(…)。しかし、評価はそういう場面にだけ顔をだすのではない。授業のひとこまひとこまを進めるにあたって、『わかりましたか』という質問をしない教師はいない。たとえ声を出さなくとも、有能な教師は、子どもの顔色や、ささやきなどから答えに相当するものを読み取ってゆこうとする。(…)それとともに他方では、教材の当否を検討しなおす。授業の目標を再検討する。さらにすすんで学校の在り方を考えなおす。必要ならば、教育政策の変更を要求する。(…)この働きかけている対象(生徒)に対して問いをだし、答えを回収し、その答えを計算に入れたうえで次の働きかけのプランをたてるという、教育的な授業(営み)に不可避の部分こそ、評価の過程なのである。」① そして、戦後当時の文部省も、「評価」の本質を上記で中内が主張するように考えていたことが知られている。② このような評価は何を基準に行われるのだろうか。「教育評価」-「目標準拠評価」という言葉があるように、評価の基準は教育・指導の目標である。〔例:二桁の加算ができる、中国の封建社会の特徴が説明できる、遠近法を使える等々〕 ながいあいだ用いられていた相対評価が「必ずできない子どもがいるということを前提とする非教育的な評価論である」、「排他的な競争を常態化させて、『勉強とは勝ち負け』とする学習観を生み出す」、「『何を勉強したのか』という問いは希薄化していく」、「『相対評価』のもとで学業不振が起こったとして、その責任は子どもたちの努力不足、才能不足に帰せられてしまう」③として批判され、「すべての子どもたちの学力保障を目指す」目標準拠評価が公的に採用されていった、というのが近年の流れである。そのことは、小学校、中学校の評定において相対評価が廃止され、目標準拠評価が採用されるに至ったことからも、確認することができる。さて、このような目標準拠評価(「到達目標論」)の実践的・理論的成果について、中内は以下の点を挙げている(概略)。1)到達点が明確⇒相対評価と序列主義をのりこえる条件が得られる2)不明確だった発達段階を、目標に向かう段階として具体的にあらわせる3)到達できなかった場合の教材の研究や指導過程の工夫が教師の明確な課題となる4)「教材精選」の目安が得られる5)学習における相互協力が子どもにとって(義務ではなく)必然になるもちろん学力が目標に達しない場合はあるだろう。そこで大切なことは、「目標に達しない原因を、本人の資質ではなく学習の条件の方に求め、これを改造していくことである。」つまり、「『子どもの学力が目標に到達していない』という事実を、教材や指導過程の誤りをただし、教室定員や教育費に見られる弱点を正していく方向に活用する」④、というわけだ。 そしてまた、学力が目標に達しているかどうかを判断する材料として、「テスト」を偏重する思考からの脱却も要請される。テストは「評価のひとつの科学・技術」として編み出されたものであるが、「近代の市民社会における教育的人づくりにとっての妥当性」という基準でそれは検討される必要がある。その結果、客観テストは相対化されていくことになるだろう。つまり、教室内での質問による確認、子どもたちの作品や発表内容等も含め「評価のてがかり」はさまざまに存在するわけで、「テスト」はあくまでも「評価の一手段」なのである。〔註〕①中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 135頁( )内は引用者②田中耕治『教育評価』岩波書店 35頁戦後初期の文部省による「教育評価」の説明(概略)1)評価は、児童の生活全体を問題にし、その発展をはかろうとするものである2)評価は、教育の結果ばかりでなく、その過程を重視するものである3)評価は、教師のおこなう評価ばかりでなく児童の自己評価をも大事なものとして取り上げる4)評価は、その結果をいっそう適切な教材の選択や、学習指導法の改善に利用し役立てるためにおこなわれる5)評価は、学習活動を有効ならしめるために欠くべからざるものである③田中耕治『教育評価』岩波書店 47・48頁④中内敏夫『教室をひらく』藤原書店 49頁◎「教育評価」をとおして教育をつくりかえる試みは一応理論的に確立してはいるが、「創造的な教育へとつくりかえる」ためにも「ゆとりのない現状」は改善されなければならないだろう。処遇改善よりまず定数改善を、という教育ジャーナリスト渡辺敦司の見解に賛同する。 2023年5月10日付記教育を「つくりかえる」道筋 ~教育評価~ 2 | “しょう”のブログ - 楽天ブログ(rakuten.co.jp)へ続くにほんブログ村 ← よろしければ一押しお願いします。一日一回が有効教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)「しょう」のブログ(2) もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など
2023.05.01
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再掲・再確認の必要が生じましたので、重ねてお知らせします。拙HP「しょうのページ」のアドレスは諸般の事情でhttp://shchan-3.punyu.jp/ に変更しました。 (原発問題で「電気事業連合会の問題等」を公開したころから、執拗な攻撃=プロバイダへのHP削除要求を受けるようになったためです。) 下記のページ等は、いずれにおいてもskyをwwwに変更していただければアクセス可能です。比較的アクセスの多かったものにリンクを張っておきますね。 哲学・思想人権思想と日本的精神風土国家と文明サルトル 想像力の問題、存在と無、弁証法的理性批判アンガージュマンの思想と実践 教育問題糸賀一雄の思想と実践驚きのフィンランドの教育学力世界一のフィンランドの教育競争しても学力行き止まり日本の学力低下は本当かいじめ討論会 学校裏サイトヘーゲル思想と教育中内敏夫(教室をひらく)、田中耕治(教育評価)湯浅誠講演、『どんと来い、貧困!』スウェーデンの家庭 スウェーデンの大学フィンランド ノキア デンマークの雇用しのびよる貧困 子どもを救えるか 環境問題広瀬隆 二酸化炭素温暖化説の崩壊不都合な真実 9つの誤り環境問題はなぜウソがまかり通るのか検証 福島第一原発 官邸の100時間内部被ばく研究会 ようこそ低炭素社会へ にほんブログ村
2018.02.14
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色々な評価がなされている安倍談話ですが、部分的には充分納得できる内容もあります。例えば以下の部分。 「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」 また、村山談話を引き継いでいく という点も当然評価されるべきでしょう。 しかしながら、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くの人々を勇気づけた」と自慢したり、現在すすめようとしている安保法案を念頭に「積極的平和主義」という言葉を使うなど、談話の全体的内容がちぐはぐな印象を与えるのです。〔「ダラダラした印象をぬぐえないちぐはぐな安倍談話」ですが、それとは対照的な「チャップリンの史上最高のスピーチ【独裁者】という動画」を知りました。ぜひご覧ください。〕 http://ameblo.jp/shchan3/entry-12075502188.html また、冒頭で引用した「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」については全く異存ないのですが、「向き合うべき歴史」の内実をどのように創っていくかが問題なのです。 私が先日、あるコラムに投稿した以下の文章、よろしければご一読ください。▼先日、県中部で行われた「新しい歴史教科書をつくる会 」が主催する会に参加した。会の目的は「子どもたちが日本に誇りを持てる教科書で学べるようにすること」だという。「これまでの教科書が日本を不当に悪く描いていたこと(自虐史観)を改めるべきだ」というのが、会の主張なのだ。▼そうすると、ナチスの暴虐に正面から向き合い子どもたちに歴史を伝えようとするドイツの教科書こそ「自虐史観」の典型だということになるのだろうか。証拠が不十分だ(ない!)と主張しながら南京大虐殺や軍慰安婦という性奴隷制度を否定しようとする「つくる会」とは対照的に、ドイツは自ら現地取材も含めて事実を確認することで、教科書と歴史教育をつくり上げてきた。▼「戦後五〇年」を機に、来日したワイツゼッガー元西ドイツ大統領は講演で述べている。「ドイツも日本も勇気をもって自らの過去と向き合い、それを伝えていくことが大切だ。そして、連合国も勝つためにとった手段が全て正当化されるものではないという事実に向き合う必要がある」と。子どもたちだけでなく我々にとって大切なことは、過去と向き合い「世界に通用する歴史観」を身につけることではないだろうか。▼「つくる会」をはじめ、安易な自己正当化に走り、諸国の顰蹙を買うような人々の言動は「愛国的」でもなんでもない。戦後、周辺諸国にも尊敬されたドイツの歴史教育にこそ学ぶべきだろう。教科書づくり・教科書採択を含め、教育の内実が鋭く問われている。 にほんブログ村
2015.08.25
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「戦後70年談話」で安倍首相は「歴史に真正面から向き合うこと」を強調しましたが、果たして言行を一致させることができるでしょうか。安保法案を何が何でも成立させようとすることや、歴史にまともに向き合っているように思えない育鵬社の教科書を推奨したり・・・。「談話」の内容にも結構突っ込みどころがあります。 (→末尾の注) ところで私は一か月以上前になりますが、「新しい歴史教科書をつくる会 」が主催する講演会「演題:日本を取り戻す教育」(講師:高橋史朗)に参加しました。 めったに聞く話ではないので、その内容を要約しておきます。〔( )内は、私の心のつぶやきの一部です。〕 自分は、渡米してGHQの文書を読み込み、研究してきた。そこからわかったことは戦後GHQが、徹底的に日本人を洗脳し「義眼」をはめこんだことだ。例えば、靖国神社はA級戦犯が合祀されているから問題だといわれるが、そもそも「戦争を起こした罪」によって〔指導者を〕戦犯として裁くということは、当時の国際法からしても成立しない。 『菊と刀』・・・ルース・ベネディクトのという戦略的論文がある。 日本人には「内なる道徳律」がなく、世間の目(恥)が実質的な善悪の基準だという。 日本の軍国主義(集団同調主義)は本質的なものとして日本人に染みついているという趣旨の記述もあり。日本に来たこともないルースがなぜ日本人の本質について語れるのか? おかしいではないか!(中国・現地での聴き取り・取材・資料のまともな検討もしていない「特定の日本人」が、なぜ「南京事件」の虐殺は虚偽だなどと断言できるのでしょうねぇ:私) 朝日新聞をはじめとする戦後のジャーナリズムを見ると、日本人がいかに「義眼」をはめられ「自虐史観」の染まっていったかがよくわかる。従軍慰安婦は嘘であったにもかかわらず、韓国が問題として激化させている GHQによって日本人は罪の意識を埋め込まれた。 「原爆投下は戦争犯罪である」といった主張は言論界でも抑圧された。 朝日新聞などは早い段階で「義眼」をはめこまれ、自己検閲をしてしまっている。(そのような教育によって洗脳されたのは「ベトナム戦争」「イラク戦争」などに際しても一切米国を批判できない歴代首相では? 日米安保条約に基づいた「地位協定」という国際的にみても不平等な実態に関して歴代総理大臣が一言も発しないのは、ある意味「洗脳」状態にあるのでは? 「日本を取り戻す」というなら最低限見直し発言ぐらいすれば?:私 ) 「反日」の日本人が多い背景にはGHQによる洗脳がある。自虐的な教科書が横行している現実を変革していかなければならない。 日本人は東京裁判を正当化する「太平洋戦争史」に毒されてきた。日本人の弱点はこのような実態への批判的精神に乏しいことだ。「太平洋戦争史」に教師たちは反論していない。武士道の精神が残虐行為につながったなど、誤解が横行しているにも関わらず。 講演の要約は以上〔講演会後、我慢できずに私が発言した内容〕 中学に通っている子どもがいるが、私は自由社や育鵬社の教科書で学ばせたいとは思わない。子どもには「世界に通用する論理」を身につけてほしいからだ。「偏狭で自己中心的な観点から」自国の立場を強調する歴史を学ぶことは本当の誇り・「愛国心」とは無縁だと思う。 まず、「世界に通用する論理」について例を挙げたい1、「戦後50年」を機に来日したワイツゼッガー元西ドイツ大統領の演説 彼は、ドイツも日本も勇気をもって自らの歴史と向き合うべきことを強調すると同時に、連合国が勝つために行ったことの全てが正当化されるわけでは決してないことを主張した。 東京大空襲等の無差別爆撃や原爆投下などを想定。2、「東京裁判」におけるパール判事(しばしば右派に都合よく利用される)の論理 日本軍国主義は欧米帝国主義の悪しき模倣であり、いずれも道義的には許されないことであると厳しく主張すると同時に、当時の国際法には「戦争を起こした罪」を裁く観点は明記されておらず、「事後法」によってA級戦犯を有罪とすることはできないと主張した。 いずれも世界に通用する論理だと思う。偏狭な自己正当化を主張する歴史観が世界に通用するとは思えない。 続いて、自国の行為・歴史の見方について、日本とは別の事例を挙げたい。 私は過去に参加した原水爆禁止世界大会で、ある米国人のスピーチに感銘を受けた。彼女は、米国によって行われた「原爆投下」、「大空襲」を厳しく批判する(当時の米国人は日本人のことを「黄色い蛆虫」と呼んでいた!)と同時に、第二次大戦後、米国がベトナムやイラクで行ったことについて激しく非難していた。米国で彼女は「愛国心の足りない者」、「自虐的で不当に米国を貶めるもの」と非難されるかもしれない。しかし、このように真正面から自国の犯した犯罪行為に向き合う姿勢こそ、尊敬に足るものではないか。(自由社や育鵬社の教科書はどうだろうか?) 最後に、「軍慰安婦」の問題について発言したい。仮に軍による直接的な韓国人女性の強制連行の証拠が見つからないとしよう。しかし、慰安婦制度には根本的な問題がある。そもそも韓国併合条約には「(日本による)韓国人の保護義務」が明記されている。 慰安婦の多くが「業者等に騙されて連れてこられた」ことはよく知られた事実であるが、「騙されて連れてこられた人たち」は当然(警察・軍隊によって)保護され解放されるべきである。しかし、現実には一人の逃亡も許さない形で慰安所の中に拘束された。これは、明らかに「韓国人の保護義務」に反することを国家(軍隊)が行ったのではないか。(「性奴隷制度」という批判に反論できないのではないか?) 私の、質問・意見は以上でした。 講師の反応は省略します(一部「70年談話」と重なるような発言もありました)が、「そのような考えもあるんだ」という空気が会場に流れ、最後に主催者が、「先ほどのような質問・意見は私には出せない観点でした」とあいさつするなど、話はしてみるものだという「手応え」を得ることはできました。 (注)例えば談話の途中に出てくる「・・・危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」などは日本の自慢話ですが、この時代についてインドのネルーは以下のように証言しています。安倍談話がしっかり「歴史に向き合うもの」といえるのかどうか、ということですね。ネルー著『父が子に語る世界歴史3』大山 聡訳 みすず書房(1975 10刷) 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。その苦い結果を、まず最初になめたのは、朝鮮であった。日本の勃興は、朝鮮の没落を意味した。日本は開国の当初から、すでに朝鮮と、満洲の一部を、自己の勢力範囲として目をつけていた。もちろん、日本はくりかえして中国の領土保全と、朝鮮の独立の尊重を宣言した。帝国主義国というものは、相手のものをはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の神を聖公言したりする、下卑たやりくちの常習者なのだ。 なお、日露戦争以前に行われた日清戦争(まさに大日本帝国が東アジアの植民地化に乗り出した最初の本格的戦争)に関する私自身の授業実践はこちらです。) にほんブログ村
2015.08.15
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拙HP「しょうのページ」のアドレスは諸般の事情で教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(原発問題で「電気事業連合会の問題等」を公開したころから、執拗な攻撃=プロバイダへのHP削除要求を受けるようになったためです。) 下記のページ等は、いずれにおいてもskyをwwwに変更していただければアクセス可能です。比較的アクセスの多かったものにリンクを張っておきますね。 哲学・思想人権思想と日本的精神風土サルトル 想像力の問題、存在と無、弁証法的理性批判アンガージュマンの思想と実践 教育問題糸賀一雄の思想と実践驚きのフィンランドの教育学力世界一のフィンランドの教育競争しても学力行き止まり日本の学力低下は本当かいじめ討論会 学校裏サイトヘーゲル思想と教育中内敏夫(教室をひらく)、田中耕治(教育評価)湯浅誠講演、『どんと来い、貧困!』スウェーデンの家庭 スウェーデンの大学フィンランド ノキア デンマークの雇用しのびよる貧困 子どもを救えるか 環境問題広瀬隆 二酸化炭素温暖化説の崩壊不都合な真実 9つの誤り環境問題はなぜウソがまかり通るのか検証 福島第一原発 官邸の100時間内部被ばく研究会 ようこそ低炭素社会へ にほんブログ村
2014.07.15
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「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ朝日新聞デジタル 2013年1月11日20時51分体罰について語る桑田真澄さん 体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄さんが朝日新聞の取材に応じ、「体罰は不要」と訴えた。殴られた経験を踏まえ、「子どもの自立を妨げ、成長の芽を摘みかねない」と指摘した。 私は中学まで毎日のように練習で殴られていました。小学3年で6年のチームに入り、中学では1年でエースだったので、上級生のやっかみもあったと思います。殴られるのが嫌で仕方なかったし、グラウンドに行きたくありませんでした。今でも思い出したくない記憶です。 早大大学院にいた2009年、論文執筆のため、プロ野球選手と東京六大学の野球部員の計約550人にアンケートをしました。 体罰について尋ねると、「指導者から受けた」は中学で45%、高校で46%。「先輩から受けた」は中学36%、高校51%でした。「意外に少ないな」と思いました。 ところが、アンケートでは「体罰は必要」「ときとして必要」との回答が83%にのぼりました。「あの指導のおかげで成功した」との思いからかもしれません。でも、肯定派の人に聞きたいのです。指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。 私は、体罰は必要ないと考えています。「絶対に仕返しをされない」という上下関係の構図で起きるのが体罰です。監督が采配ミスをして選手に殴られますか? スポーツで最も恥ずべきひきょうな行為です。殴られるのが嫌で、あるいは指導者や先輩が嫌いになり、野球を辞めた仲間を何人も見ました。スポーツ界にとって大きな損失です。 指導者が怠けている証拠でもあります。暴力で脅して子どもを思い通りに動かそうとするのは、最も安易な方法。昔はそれが正しいと思われていました。でも、例えば、野球で三振した子を殴って叱ると、次の打席はどうすると思いますか? 何とかしてバットにボールを当てようと、スイングが縮こまります。それでは、正しい打撃を覚えられません。「タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん」。そんなきっかけを与えてやるのが、本当の指導です。 今はコミュニケーションを大事にした新たな指導法が研究され、多くの本で紹介もされています。子どもが10人いれば、10通りの指導法があっていい。「この子にはどういう声かけをしたら、伸びるか」。時間はかかるかもしれないけど、そう考えた教え方が技術を伸ばせるんです。 「練習中に水を飲むとバテる」と信じられていたので、私はPL学園時代、先輩たちに隠れて便器の水を飲み、渇きをしのいだことがあります。手洗い所の蛇口は針金で縛られていましたから。でも今、適度な水分補給は常識です。スポーツ医学も、道具も、戦術も進化し、指導者だけが立ち遅れていると感じます。 体罰を受けた子は、「何をしたら殴られないで済むだろう」という後ろ向きな思考に陥ります。それでは子どもの自立心が育たず、指示されたことしかやらない。自分でプレーの判断ができず、よい選手にはなれません。そして、日常生活でも、スポーツで養うべき判断力や精神力を生かせないでしょう。 「極限状態に追い詰めて成長させるために」と体罰を正当化する人がいるかもしれませんが、殴ってうまくなるなら誰もがプロ選手になれます。私は、体罰を受けなかった高校時代に一番成長しました。「愛情の表れなら殴ってもよい」と言う人もいますが、私自身は体罰に愛を感じたことは一度もありません。伝わるかどうか分からない暴力より、指導者が教養を積んで伝えた方が確実です。 日本のスポーツ指導者は、指導に情熱を傾けすぎた結果、体罰に及ぶ場合が多いように感じます。私も小学生から勝負の世界を経験してきましたし、今も中学生に野球を教えていますから、勝利にこだわる気持ちは分かります。しかし、アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。◇ 大阪府出身。PL学園高校時代に甲子園で計20勝を記録。プロ野球・巨人では通算173勝。米大リーグに移り、2008年に現役を引退した。09年4月から1年間、早稲田大大学院スポーツ科学研究科で学ぶ。現在はスポーツ報知評論家。今月、東京大野球部の特別コーチにも就任。著書に「野球を学問する」(共著)など。〔コメント〕 桑田さんの体験をもとにした上記の見解、本当に説得力がありますね。体罰が学校教育法で明確に禁じられているのは、桑田さんも言われるように本物の教育としては決して成り立たないからでしょう。 学校現場の多くの指導者よりも桑田さんのほうがはるかに広い視野と教育的な見識をお持ちのようです。このような考え(発信)が、運動部の顧問や「強い指導」を求める保護者にしっかり届いていくことを願います。 なお、部活動を通して競技力や総合的な力が伸ばしていくために、指導者が「怒鳴ること」さえ必要でない(むしろマイナスになること)は、過去に運動部を担当した時に私自身も体験しました。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) 〔 「しょう」のブログ(2) 〕もよろしくお願いします。生活指導の歩みと吉田和子に学ぶ、『綴方教師の誕生』から・・・ (生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2013.01.12
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諸般の事情で心身が疲れていたこともあり、最近、「新しいブログ記事」を書いてアップすることもなかったのですが、大津市の中学生自殺の問題に関連した内容を、遅まきながらまとめておきます。 何人かのグループが特定個人を継続的に「いじめる」というのも「一つの(ゆがんだ)人間関係」です。そのような「ゆがんだ人間関係」や「トラブル」は、子どもたちの力で(例えばクラスの第3者も含めて)修正したり解決していけること、そのような力をしっかりと育てていくことが大切であり、理想的だと考えます。(緊急に大人が介入する必要がある場合にも、そのような長期的な指導の視点を手放してはならないでしょう。) しかし、大人である教職員が直ちに介入・指導する必要がある「切迫した状態」に追い込まれていることも少なくありません。ところが、おそらく中学生以上の場合、大人にはすぐに分からない場合が多い(本当に切迫した状況になってはじめて分かる場合が多い)のです。 いじめられている事実を大人に相談することはプライドが許さない、といった意識や、「大人に相談してもどうせ解決できない」という不信感(さらには絶望感)が背景にあると思われます。私が、このたびの事件と対応を見て危惧するのは、「大人も学校も信用できない」という子どもたちの意識が今以上に広がり、全国各地無数にあると思われる「深刻ないじめの解決」がますます難しくなることです。 大津市の事件で教育委員会や当該の中学校(さらに必要があれば第三者機関)に強く望むことは、「かけがえのない命が失われた」という点で遅きに失するとはいえ、事実をきちんと確認し、事件の責任を引き受けること。「大人も学校も捨てたものではない」ことを少しでも示すことです。当初の対応は、論外といえるほどひどいものでした。 いじめの対応に関しては、実践の蓄積と情報交換が大切です。(特定の学校内だけでなく、学校の枠も超えて。)もちろん、プライバシーに関する充分な配慮は大切ですが、そのことが実践の蓄積と交流を妨げる口実になったり、深刻な状況に全く対応できない学校を残していくとすれば、問題は大きいといわなければなりません。 ただ、たとえ組織的に対応していく力量のある学校でも「いじめの事実そのものが分かりにくい」ことが、対応を遅らせがちなことも確かです。 私が経験した(関係した)ケースを2つ挙げておきます。1、まじめな生徒であるが、なぜか2日連続遅刻をした。表情もさえない。不審に思った担任が昼休憩に呼んで話を聴いたところ、机上に汚いものが置かれていて、それが数日間続いていることが分かった。中学校時代から継続的にいじめられており、本人は学校に行くのも本当に気が重い、と言っている。2、最近学校に行き渋る(理由をつけて休みたがる)のを不審に思った保護者が、本人と向き合い問い詰めたところ、いじめられていた事実(度の過ぎたからかいを受けたり、かばんのジュースが勝手に飲まれていたりしていたこと)が分かった。本人は学校をやめたい、と言っている。1,2のいずれも、意図的に担任が個室で話を聴いたり、保護者が問い詰めるまで事実が分からなかったのです。 2については拙 HP 「祭りの後のいじめとクラス」で紹介しました。が、もちろんこのケースのように全員への聞き取り調査を宣言しただけで当事者たちが名乗り出るとは限りません。1のケースでは手分けをしてクラス全員への聞き取りを実際に行いました。 「机上に汚いものが置かれていた、という事実」はトイレなど人目につかない場所での暴行(当人にしか分からない事実)と比べてはっきり出しやすい、という点では対応が容易です。また、ネットいじめなどもよく問題になりますが、該当のページをコピーすることができれば、動かぬ証拠として明確な指導ができます。(もちろんプロバイダーに協力を依頼することが必要ですが・・・) また、(本人から聴き取った)いじめの事実そのものを出さなくても、「本人の様子がおかしい、学校に行きたがらない」という家族からの訴えを子どもたちに伝え、「学校で何かいやなことがあるのではないだろうか、知っていることがあれば書いてほしい」という形でアンケートを取る、というやりかたもあります。 いずれにせよ、事実がわかれば担任個人にとどまらず、学年・学校としての組織的対応は可能なのです。(もちろん、その見通しをひらいていくような実践の交流も大切。) 確かに、いじめに対して学校は何もできないのではないか、と思う子どもたちが数多くいることは事実でしょう。しかし、水谷修氏(夜回り先生)が言うように「死なないでほしい、死ぬ前に誰かに相談してほしい」ということを願わずにはいられません。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(アメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活指導と学校の力 、教育をつくりかえる道すじ 教育評価1 など)
2012.07.16
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前回の記事で私は、「認識」と「実践的な力・姿勢」というのは、一方通行的な関係ではなくダイナミックな「相互関係」にあるのではないか、と述べました。 確かに「認識の深まり」が「実践的な力・姿勢」につながるという筋だけでなく、「実践的な姿勢(立場)の明確化」が「さらなる認識の深まり」につながるという視点は大切であると思われます。 そうだとすれば、認識以外の何が「社会に向かう態度や実践的な姿勢」を形成するのでしょうか。 私が、京都教育大学附属高校における札埜実践「国語としてできること」を(以前の記事で)検討して得た一つの結論は、具体的な他者(具体的経験)と直接・間接に出合い、それに共感することが、現在の様々な問題を「当事者として受け止め考えていく意思」を形成するのではないか、ということです。(詳しくは「東日本大震災を考える授業2」) そのように考えると、具体的な「他者との出会い」を創り出すこと、共同で学び・実践する体験を創りだしていくこと(共有すること)は、「平和で民主的な国家・社会の形成者」となっていくうえで不可欠ではないか、と考えるのです。 さて、以上のような文脈で「学びの共同体」の登場に関しても、その意味をとらえなおすことができるのではないでしょうか。そもそも「学びの共同体」は、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を明確に打ち出していると言えるのです。 佐藤学は次のように述べています。「学びとは対象(教材)との出会いと対話であり、他者(仲間や教師)との出会いと対話であり、自己との出会いと対話である。私たちは他者との協同をとおして、多様な考え方と出会い、対象(教材)との新たな出会いと対話を実現して自らの思考を生み出し吟味することができる」(『学校の挑戦』36頁) これは、「学び」を成立させる条件というだけでなく、「他者と出会い共感する関係の中で自らの姿勢を形成していく意味を持つ」と考えられるのです。 事実、佐藤は「協同的な学びの素晴らしさ」として、「誰とも話ができない緘黙の高志と、極めて英語を不得手とする幸子とのかかわり」を事例として挙げています。 「幸子が疑問文をつくって高志に話しかけてくるたびに、大きくうなずき『うん、うん』とつぶやいて、『その英語で合ってるよ』というメッセージを懸命に送っていた。そのせいだろうか。高志のささやくような声は、幸子だけでなく、数メートル離れて観察している私の耳にも、はっきり届くほどの大きさになっていた。」 「この幸子と高志の学び合う姿を見て、いったい誰が、高志が緘黙でもう何年も学校で口を開いたことのない生徒だと思うだろうか。そしていったい誰が、幸子が英語に関して極端な低学力の生徒で、たった30分前まで、人称代名詞とbe動詞との対応さえもまったく理解していなかった生徒であると思うだろうか。」 「目前で進行している高志と幸子の学びあう関わり合いが、互いの強さではなく互いの弱さによってつながっていることに気づいて、私はいっそう感動の思いを深くした。」 「幸子がこれほど必死で英語に取り組んだのは、高志が緘黙で人と会話ができないという弱さを何とか自分の力で支えたいと願ったからである。そして高志が幸子の問いかけにささやくような声で応えたのは、幸子の精一杯の行為に何とか応じようと思ったからである。」 「それだけではなかった。高志が精一杯の誠意で幸子の問いかけに応えたのは、英語を大の苦手とする幸子がたどたどしく学ぶ姿を見て、高志のほうも精一杯の行為で励ましたいと思ったからである。この互いの行為の交換という『互恵的な関係』が、この二人の協同的な学びを生み出したのである。」(『学校の挑戦』32~35頁) 正直なところ、初めてこの部分を読んだとき私は、授業の本質(例えば一つの問題について一緒に考えて意見を交換することで新たな視点を獲得したり認識を深めていく)とズレた事例ではないか、といった違和感を持ちました。 しかしながら、そもそも「学びの共同体」が、「本当の学びを成立させること」と「関わりあいをつくること(集団づくり)」の双方につながる問題意識を持っていることを考えれば十分理解できると考え直したのです。 上記の事例の中に生活指導の立場(生活が子どもたちを指導する=子どもたちは具体的生活や人間関係を通して成長していくという立場)との共通点、子どもたちの相互関係に注目した「集団づくり」との共通点を感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。 そして、このような「関わりあいの体験」から得られるものが、「競争に勝つためには友達でも利用するという姿勢」や「現代の貧困にあえぎ、自殺すれすれの精神生活を送っている人たちを自己責任のもとに切り捨てる姿勢」とは対極のものであることも、大方の合意が得られるのではないでしょうか。 学びが、「習熟」に到達するためには「実践的な関心」(これは自分たちの問題だという当事者意識を持って現状認識に努め、実践的に問題解決を目指していくこと)が大切であり、そのためにこそ様々な「出会い」が大きな意味を持つと思われます。人との出会い、具体的経験(生き方)との出会いに触発されながら、私たちは自分自身の生き方を深く考えるのではないでしょうか。 21世紀においてとりわけ大切だと考えられる「環境・人権などの問題」への取り組みにおいては(身近な「特別支援教育」一つをとってみても)、様々な他者を理解しようと努めながら関わり合いつながっていく「集団づくり」の観点を欠かすことはできない、と考えるのです。 (教育問題に関する特集も含めてHP"しょう"のページに・・・) (アメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)
2012.04.22
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田中耕治『教育評価』によれば、「戦後教育」の歩みはある意味「学力の問題史、論争史」だったといいます。ただ、戦後の学力論争は「論争」ではありましたが、はっきり共有されていた観点がありました。 それは、「学力」の問題を、教育目標と教育評価との関係においてとらえること、でした。 つけるべき力(「学力」)がついているかどうかの「評価」が重要であるという点では、論者の間に共通の認識があったのです。(『教育評価』99~100頁) ところが、このような大切な観点が1970年代まで忘れられてしまったのだといいます。それはなぜでしょうか。田中によれば、それは「相対評価」が評価を独占してしまったためです。(相対評価において問題になるのは全体の中の位置であって、教育の目標は視野の外におかれる) 相対評価によって測られる受験学力、偏差値によって振り回されているかに見える受験競争、おそらくそれらが不登校、非行、いじめなど、学校内外で生じたさまざまな問題状況の背景にあることは、多くの論者が指摘するとおりだと思われます。 さて、戦後の「学力論争」の中で、重要なテーマとなっていたのは、認識の積み上げ・深まりがいかにして、人間としての実践的態度や「社会に能動的に参加していく姿勢」につながっていくか、ということです。 受験競争の「勝者」は、豊富な「知識」(「学力」?)を身につけているはずです。しかし、一人ひとりが「生存権も含めて、一人ひとりが真に尊重されるような『平和で民主的な国家・社会の形成者』」としての「姿勢」と力を身につけているのか、問わなければならないでしょう。 教育学者の中内敏夫は『教室をひらく』の中で、「社会や他者に向き合い働きかけていく力・姿勢」に直接結びつくような「積み上げられ、こなされた認識の段階」のことを、心情や心の持ち方を意味する「態度」ではなく、「習熟」という概念で説明します。 中内の言う習熟というのは、「身についた知識」、「その人のものになった方法」といった「行動に結びつくレベルに到達した学び」のことです。「習得」した教育内容が主体によって充分にこなされ「習熟」の段階に達することを目指すのが(おもに教科)教育の目標だというのです。 なるほど、知識が個人によって充分こなされ「身についた知識」、「その人のものになった方法」になれば、それは行動に結びつく可能性を高めるでしょう。しかし、まだここにははっきりとしない問題が残っているように思われます。 一例を挙げると、 「多くの自殺や貧困を生み出している現代社会」の分析を充分にこなし、問題点を総合的に理解し、解決に向けての展望を把握する(例えば現代社会への認識を習熟のレベルに到達させ、『反貧困』という本を書き上げる)ためには、この問題を「当事者意識を持って受け止め、立ち向かう」ことが不可欠でしょう。各種「公害問題」や「環境問題」などについても同様です。 ここで注目したいのは、認識を深める(習熟に到達させる)ことによって行動にむかう姿勢が形成されるだけでなく、逆に行動への意思が認識を深めていく契機になるという側面です。「認識」と「実践的な力・姿勢」というのは、一方通行的な関係ではなくダイナミックな「相互関係」にあるものと考えるべきでしょう。 続く (教育問題に関する特集も含めてHP"しょう"のページに・・・) (アメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)
2012.04.08
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チャップリンの「独裁者」を子どもたちが演じる授業の実際を以下に引用します。 〔高生研第48回全国大会紀要の内容(大会基調)の一部〕 引用開始 共同作業が子どもたちに予期せぬ力を発揮させることがあります。 クラスで映画「独裁者」最後の演説を教材化したときのことです。個別に黙読している間は暗唱に苦労していましたが、映画で演説の場面を見たのちに「チャップリンは一人でこの演説をしているけれども、みんなは6人で協力して演説の核心を表現できるよう工夫してください」とグループ読みを提起したとたんに、生徒たちが変わりました。 この教材の与える力は大きくて、生徒たちは好んで何度もスピーチ場面を見直して研究しました。 グループ分けを生徒の要望に応じて柔軟に行い「グループ6人が単に均等な分量を担当するというのではなくて、あるところは二人で、あるところは全員で読む、という風に声のボリュームを変えることで伝える力を工夫してください」と要請すると、それに応えて呼吸を合わせる練習をするグループや、一人読みと全体読みを交互に組み合わせてインパクトを生み出す効果を狙ったグループなど、それぞれが個性に応じた分担の仕方をしていました。 何よりも生徒は読みを楽しんでおり、普段暗唱が苦手な生徒も他の生徒のノリに巻き込まれてSoldirs!と叫びながら全員がこぶしを振り上げるなど、生き生きと活動しました。 教材の力とともに、共同作業を生徒の側から育てることの大切さを実感しました。 以上、引用終わり。 私は上記のような生徒の活動を読んで、「教材の力」はきっと大きなものだったのだろう、と想像していました。私自身は映画「独裁者」を見たことがなかったのです。 しかし、20日ほど前にKUMA0504さんのブログ(再出発日記)で「独裁者」の演説に貼り付けてある映像(映画のラストシーン)を見て納得しました。この素晴らしい映画は見る者の心に訴える強い力を確かに持っている、と。生徒たちが楽しみつつ「独裁者」を演じることは、「世界に関わっていくありかた」について「訴える主体」を疑似体験することでもあります。 生徒たちは、主人公に感情移入しつつ協同で演じる体験を通して、真剣に考えながら一歩前に踏み出そうとする自分を感じていたのではないでしょうか。 ぜひリンク先の映像をご視聴いただければと思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)
2012.02.27
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大阪の「教育基本条例案」。一体どうなっていくのでしょうか。 大阪の仲間(教職員)から下記の集会について連絡をもらいましたので転載します。 記 集会のご案内です。「教育基本条例に反対するシンポジウム」が1月28日(土)13:30~17:00 守口文化センターで開催されます。http://homepage2.nifty.com/osaka-kouseiken/jourei0128simpochirasi.pdf パネリストは池田知隆さん(前大阪市教育委員長・「どうなる!大阪の教育」編著者)、佐藤学さん(東大教授)、野田正彰さん(精神病理学者・関学大)、前田佐和子さん(地球物理学者)で香山リカさん(精神科医)もかけつけるとのことです。 呼びかけ人には「大阪の教育のあしたを考える会」の小野田正利阪大教授も名を連ねられています。みなさん、これからもぜひ基本条例の行方にご注目お願いします。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。『綴方教師の誕生』から・・・ 、生活綴方教育における集団の問題 など)
2012.01.14
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学力を論じる場合、当然、教科等の指導「目標」が問題になるわけですが、例えばイギリスではじまりヨーロッパに広がった「シチズンシップ教育」(子どもたちが、民主主義を理解・実践するために必要な知識・スキル・価値観を身につけ、市民となっていくための教育)が何かと話題になります。 ただ、政府レベルでの議論によって「上から」提示されてきた「シチズンシップ教育」とは対照的に、日本の「総合的な学習の時間(←総合学習)」や「現代社会」、「理科1」などが地域住民運動(公害反対闘争など)に深く学びつつ、「新しい知の体系とそれをもりこめる新教科を」という「下から」の要求に応えて登場したということを、ご存知ですか。 私自身も中内敏夫『教室をひらく』を読んで最近知りました。 上記の取り組みはまさに現在において、日本史上最悪の「原発事故」に正面から向き合わなければならない現在においてこそ、貴重な教訓になると考えるのです。 中内は『教室をひらく』の第4章「目標づくりの組織論」のなかで、1960年代以降急速に進められた「巨大開発」(国土総合開発計画)とその弊害に向き合って、「環境権」その他いくつかの人権概念を発展させた地域住民運動に注目しています。そして、この運動に関わっていった教師たちの実践(新たな教育目標の設定・実現)をとりあげるのです。 次に挙げるのは、青森県下北地方で新全総の巨大開発に対峙する地域住民運動に関わっていた教師たちの言葉です。 「下北の私たち教師のかかえている問題は、公害の予防であり、地域の生活と自然を守ることであり、それを教育の中でどう扱うかということである」、「社会・理科の分野で住民運動の中で学んだことを教材化することが必要だと考えた」、「子どもたちが自分の生活の場を深く見つめ、現実を直視し、将来に向かっての世界観を自己形成することを願っている」、「地域の抱えている問題・課題を普遍的な科学の問題とつなげて考え」る。 〔実践記録集『やませ』(青森国民教育研究会編)〕 「自然を大切にしましょう」という心がまえの教育ではなく、その基礎となる科学的な自然像と環境概念を築きあげることを彼らはめざすのです。 そして、「住民運動から学んだこと」をヒントに「人間社会では(とりわけ高度成長期においては)、生産と消費だけが重視され、還元(分解)は軽視され環境が破壊されている」ことに注目。生産者である植物、消費者である動物に対して菌類は還元者(分解者)として生態系の中で役割を果たしていることを教材化していきます。 つまり、「生態系における還元の概念」を目標に位置づけ、地球の危機が問題となる時代の(グローバルな展望を持つ)学力保障の運動を展開していくのです。 そして、「人権と生活を防衛するために展開されていた各地の住民運動」を背景に、新しい動きが日本教職員組合の教育研究活動の中でも生み出されていきます。 日本教職員組合が委嘱した教育制度検討委員会の報告書『現代日本の教育改革』(1983)は次のように述べています。「自然との共存をめざす教育、人間と自然との新しい共存共栄をめざして自然を理解し、・・・自然を愛し、・・・次の世代に豊かな自然を伝えていくことがいま切実に求められている。」 そして、 「公害学習」を実践していた教師は「総合学習」を提唱します。 (日教組教育研究全国集会報告集) 「公害学習が、自然科学認識と社会科学のそれとの統一の上になりたつことは、分科会設営当初から自明のことであった。(公害学習のもつ総合的性格)」 「総合学習はそれぞれの教科で習得した分析的学力を総合し、これを応用して実生活上の課題や問題にとりくみ、またこのとりくみによって教科による基礎的な学習を一層必要と感じ取れるようになるものとして、一応他の教科とは独立の領域として設定する」 (日教組が委嘱した教育制度検討委員会の第三次報告書) 注目すべきは、(そして私が「すごい」と思うのは)当時の文部省も、そのような動きや実践を積極的に学習して、「新しい総合科目」を設ける意向を表明したことです! (教育課程審議会 中間報告 1975年) 「答申」を受けて指導要領改定され、『現代社会』と『理科1』が誕生しました。 現代社会冒頭「現代と人間」の学習内容の柱は「公害学習」運動が取り組んできた環境問題です。(国連の人間環境会議(72年)の各国政府への大きな要請も「環境教育」でした)。 新学習指導要領が「住民運動と教育課程編成運動」に学ぶことによって、「既成の教科と学校知の枠組みに入りきらない新しい知の体系・総合科目を求めた」というのです! 当時の永井文相は見識の高い人だったようですが、このような形で「目標の再編成」が行われたことは素晴らしい! と感動してしまいます。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。 『「綴方教師」の誕生』から など)
2012.01.09
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「夜回り先生」で有名な水谷修は『あおぞらの星』の中で、子どもたちに向かって次のように呼びかけています。 「こどもたち、初めて訪ねた真っ暗な部屋で、小さな懐中電灯を使って、どこかを照らしてごらん。もし、懐中電灯の照らす狭い視野のなかにナイフを見つけたら、ここは怖い殺人鬼のいる場所だと考えますか。でも、懐中電灯を横に向けていろいろな場所を見たら冷蔵庫や流し台が見え(・・・)台所だとわかるかもしれません。(・・・)」 「私たち人間は、子どもから大人へと成長していくなかで、日々生きていくなかで、多くの経験をします。そして、見方や考え方を広げていきます。懐中電灯でいうなら、その照らす範囲を広げていきます。そして、いろいろなものの見方や考え方できるようになります。」 そのこと(見方、考え方を広げていくこと)に対する期待もこめて、子どもたちに送る「心をこめた授業」が『あおぞらの星』(水谷修著)だったのです。 さて、仮に上記引用部分と結びつけて中内敏夫の学力観(概略)をまとめるとすれば、次のようになります。(1)「自分の見方や考え方を広げ、深めていくという意味での認識の力」、および、(2)「ヒトやモノゴト(社会や世界)に向かい、適切に対処したり働きかけていく実践的な力」。 戦後の「学力論争」でも議論されてきましたが、この(1)と(2)が全く切り離されたものであってはならず、結びついていかなければならないことを中内は強調します。 (1)でいう認識が、「身についた知識」、「その人のものになった方法」といった「行動に結びつくレベル」になることが大切であり、その段階に到達した学びのことを「習熟」という言葉で彼は表現するのです。 さて、それでは「読み、書き、算」などの基礎学力(言語能力、数学的能力、及び自然科学的、社会科学的な基礎学力)はどのように位置づけられるのでしょうか。(1)、(2)の力を支えていく「基礎体力」のようなもの(必要に応じて取り出し活用していく「道具」、「基礎知識」、あるいは「思考の枠組み」)ということになると思われます。 そして、上記(1)、(2)が分かちがたく結びついて「総合的な力」が獲得できるような教育が求められていると言えるでしょう。このような「総合的な力」はどのように表現できるでしょうか。 ここで、教育基本法の条文と結びつけて述べるならば、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(1947教育基本法の表現では「平和的な国家及び社会の形成者」)としての力ということになりますが、この力には「実践的な姿勢」が当然含まれます。〔ところで、条文の「平和で民主的な国家及び社会」とは、単に「戦争状態でない社会」という意味ではなく、「生存権も含む人権」が保障される民主的な社会である、ということも確認しておきたいと思います。現在いくら強調してもしすぎることはない点だと考えるのです。〕 さて、上記述べたように「平和的な国家及び社会の形成者」としての力には「実践的な姿勢」が含まれるということは自明ですね。例えば「実践的応用力も一定評価できる良くできたペーパーテスト」で高得点がとれる国家公務員が少なくないとしても、 「人権感覚」や「平和で民主的な社会を形成する意思」を全く持たない公務員が多数だという現実が仮にあれば、とんでもないことでしょう。 去年の3月に起こった原発事故に関して、その(原発建設)推進のための政策実務を積極的に行っていた省庁・官僚が全く責任をとらず、「再稼動だけは急ごうと画策・奔走する姿」に大きな疑問を感じた人は少なくないのでは? そのような現状も含めて(行政の問題点等を)批判することはもちろん大切なことです。 しかし、上記の(1)、(2)の力、そして、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」としての力を(もちろん進学校も含めて)生徒たちが獲得できるような教育を創っていくことは、それ以上に大切なことではないでしょうか。 例えば糸賀一雄(「ラストメッセージ、思想と生涯」)はもと滋賀県の公務員です。彼についてどう思われますか・・・。 さすがに糸賀一雄にはなれないとしても、そのような力と姿勢を持った個人が育っていくような教育はどのように創っていけるのでしょうか。 具体的な実践紹介も含め、何とかまとめたいと考えています。(遅筆で申し訳ありませんが・・・) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。⇒無着成恭の生活綴方教育と「学力」 など)
2012.01.04
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そもそも「学力」とは何か、教育とはどのような営みか、その評価(教育評価)とはどのように行われるべきか・・・。 上記はしばしば議論の対象になりますが、それを根本から探求した著書があります。 教育学者、中内敏夫の『教室をひらく』、これは私を教育学の奥深さに開眼させてくれた著書です。 今年度、腰を落ち着けて読む機会を持ち、その内容を要約してみました。 『教室をひらく』要約の目次 「目的意識的な『教育=制作説』の立場から態度主義的な『教育=過程説』を批判する野心的な著作」(竹内常一書評)。 相当な力作で、教育の目標や学力の問題、教育評価の本質に迫っています。とりわけ、「教育と評価」 (測定と評価に関する歴史的考察)および、「目標づくりの組織論」 (公害闘争・公害学習に取り組んできた住民と教師が、環境教育〔後の現代社会や総合学習に連なる環境教育〕〔今後に向けての提案〕という目標内容を導き出した過程を分析している章)は圧巻でした。 要約してもなかなかの分量になりますが、ぜひご一読ください。 時間的な余裕ができたら、引用しながらしっかり論じてみたい豊かな内容が満載なのです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)(開店休業中だったアメーバブログ〔= 「しょう」のブログ(2) 〕を復活させました。当面「糸賀一雄の思想と実践 」や「無着成恭の生活綴方教育と「学力」 」など、育てたい力(広義の学力)に関わる記事を連載します。)
2011.12.30
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教育基本条例案で大きく揺れる大阪の仲間から、「アメリカの競争教育から大阪をみる」という講演会の報告をいただきました。米国の現実に基づいた話で、非常に説得力のある内容だと感じています。以下に転載しますのでぜひご一読ください。 堤未果さんの講演「アメリカの競争教育から大阪をみる」は聞き応え十分、ある意味戦慄を覚えるものでした。内容を紹介します。 昨今報道されたウォール街のデモは、1%のリッチ層が他の99%の生き方を決めてしまうことへの抗議であったというところから話は始まります。デモの先頭には「Education Not for Sale」「We need teacher」のプラカードが。 アメリカで2人に1人の先生が5年以内に辞める事態だといいます。その理由は「落ちこぼれゼロ法」。そのきっかけは2001.9.11テロ。アメリカが思考停止に陥った画期だといいます。テロ後、ブッシュ政権は対テロ戦争を名目に社会保障や教育予算を削減、そして愛国者法で監視社会の強化がはかられ、対テロを理由に異論が言えなくなっていって人々は委縮していったといいます。 教育でも、「学力が低すぎる」ということが問題となり、国が学力を管理する流れが「落ちこぼれゼロ法」になります。この法案がでたのが2002年の春。いきなり出てきた法案です。 その柱は政治介入と厳罰化、点数至上主義、そして民間の力の活用です。まさに、「教育基本条例案」そのものです。堤さんいわく「条例案は弁護士さんがつくったそうですが、彼はアメリカにもいたようで参考にしたのでは」とのことでした。そして数字ではかれないものまで、あらゆるものが市場化されていきました。 現場の先生たちは公務員で工夫がないと攻撃され、ノルマが課せられるようになります。先生の勤務時間は長くなり、ノルマを達成するため成績改竄などのインチキが横行していったそうです。ここは小野田先生も集会でお話されていましたし、堤さんの本『社会の真実のみつけかた』にも詳しく述べられています。お話にでてくる競争においたてられていく子どもと先生たち親たちのすがたが痛ましく思えました。 教育の市場化で戦慄を覚えたのはここからのお話です。アメリカでは、教育予算の削減で給食のおばちゃんを解雇し、かわって大手ファストフードが学校給食に参入していき、そして給食が民営化されたそうです。 出される給食は高カロリーで味が濃いファストフード・ジャンクフード。その影響で子どもたちはみるみる肥満に陥ります。今やアメリカでは3人に1人の子どもが肥満だとか。ミシェル大統領夫人が肥満撲滅キャンペーンをはじめたそうですが、それは「もっと運動しましょう。」というレベルのもの。こうした肥満傾向は大人にも拡大し、結果的に医療費を押し上げることにつながっていきます。 そして虫歯と貧困の関係にも驚きました。こうした食事をしているとどうしても虫歯になります。虫歯になってもアメリカは国民皆保険ではないので医者にかかれない。保険のない人がたくさんいるのです。虫歯になると、顔だち・容姿に影響して就職にも苦労するようになって仕事をえられない若者がたくさんでるそうです。 貧困に陥った若者をリクルートするのが軍です。アメリカの学校は「落ちこぼれゼロ法」によって軍に個人情報を提供することが義務付けられています。若者のケータイに軍のリクルーターが電話をかけ、「大学に行ける。資格がとれる。仕事が得られる。」という殺し文句で次々と兵隊にして、アフガニスタンなどにおくりこみます。 堤さんは、「教育の市場化をベースにした経済徴兵制」と表現していました。アメリカでは戦争も市場化され、高収入の派遣社員の仕事はアフガンやイラクの私兵です。そうした私兵は正式な戦死者には数えられないといいます。運よく生きて帰って除隊して、大学に行っても近年アメリカの学費の高騰は著しいとのことでした。 教育予算が削られたからで、まだ教育がよかった時代を経験した親から「なんとか大学には行きなさい」と言われて学資ローンを組む。しかし、学資ローンの負担に耐えられない人が続出し、今や6人に一人はそういう状態だといいます。破産という手も学資ローンに限っては消費者保護法からはずしてしまって使えなくしているそうです。死ぬまでローン負担がついてまわる。そんな事態です。 給食にしても保険にしてもアメリカの企業は儲かると思えるものにどんどん入っていって、利益をあげると必ず政治家に献金をするようになるといいます。政治家と大手企業の癒着の構造ができあがります。 堤さんが、アメリカのビジネスマンにインタビューすると、日本はどうしても進出したい市場だそうです。給食も保険も参入したい。しかし、規制があるし、憲法9条もある。しかし、虎視眈々と参入をねらっている。TPP問題もその延長上にあります。しかもそこには支持率低迷の中で再選をめざすオバマ大統領の政治的思惑があるといいます。 堤さんは、政治が市場化を入れる時の手口があると紹介してくれました。それは 1)敵をつくる 2)ワンフレーズをばらまく 3)内容はぼかす 4)議論させない 5)マスコミは一部しかみせない の5点です。なるほどと思わせます。そして市場化に対抗するための手法も紹介してくれました。すなわち、1)大きな流れをみる 2)世界/過去の事例をみる 3)異なる層の関心をつかむ 4)相手を叩くより本質をアピールすること 5)良き代案を出すこと 6)わかりやすく/面白く/ワンフレーズで これまたなるほどと思いました。 「教育の問題だけじゃなくて、医療も、働き方も、エネルギーももう一度全部一緒に考えて、どんな社会だったら子どもたちに手渡したいのか、どんなふうに社会に住んでいけるのか、国を信頼して家族やコミュニティとつながっていけるのか、どんなふうに教育でまなぶことの楽しさをつかんでいけるのか、その全体像をイメージすることが大事だと思います。」 「自分は和光学園で、先生とのむすびつきが強かった。いろいろ悩みも聞いてもらった。社会に出て壁にぶつかったきに・・授業じゃないですよ、そんなものは忘れちゃったんですけど(笑い)先生が一緒に何かを体験してくれたりとか、喜んでくれたり、泣いてくれたりとか、思い出とか体験とかうれしかったこと、そういうことが自分の背中をおしてくれて力になった。 教育はテストの点数、数字だけではかるものではなくて、その子の人生の中で繰り返し花開いて背中をおしてくれるものだと思います。これからの子どもたちにもそういう教育の宝物を残していきたいし、これからもがんばりたい。」と語られました。 最後に堤さんは、ハリケーンカトリーナで未曾有の災害を受けたニューオーリンズの先生が、日本の先生に伝えてほしいと言っていた詩を紹介しました。ニューオーリンズは大水害をきっかけに復興特区ができて市場化が一気にすすんだといいます。 学校も、公設民営のチャータースクールになり、民間手法で経営がすすんでいます。そしてつぶれる学校もふえているとのことです。大震災を経験したわたしたち日本はアメリカを反面教師にしないといけないでしょう。さて、その詩とは・・・。(アメリカでは有名な詩だそうです。) ナチスが共産主義者を弾圧したとき、私は不安になったが、自分は共産主義者ではなかったので何の行動も起こさなかった。 次にナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安になったが、自分は社会主義者ではないので何の抗議もしなかった。 それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大した。しかし、それでも、私は何もしなかった。 ある日、ついにナチスは教会を弾圧してきた。私は牧師であったので行動するために立ち上がった。 しかし、その時は、すべてが遅すぎた。 「私は、大阪も日本もまだ間に合うと思っています。ともにがんばりましょう。」と結ばれました。アメリカを反面教師としながら、あるべき社会のすがたを多くの人とかたっていくこと。堤さんの市場化に対抗する手法に学びつつ具体化していきたいと思いました。元気のでるお話が聞けてよかったです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.12.11
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教育評論家の尾木直樹氏、大阪大学の小野田正利教授、女優の竹下景子氏らをはじめ、多くの学者・文化人が基本条例反対のアピールを発表しました。以下に転載します。 憲法・法令に抵触するこの条例案、選挙にむけて(あるいは選挙後にも)、問題点について「考えあい話し合い、できることから行動していくこと」(文末)が大切であると考えます。 大阪基本条例反対アピール 私たちは、「大阪維新の会」が大阪府議会に提案している教育基本条例案について、大阪にとどまらず日本社会全体にとって見過ごせない問題であると考え、このアピールを発表することにしました。 私たちは何より条例案が、学校教育を知事及び議会の直接的な支配下に置こうとすることに強い危惧を覚えます。条例案によれば知事は、「学校における教育環境を整備する一般的権限」をもち、府立学校に至っては「教育目標」を設定する権限まで委ねられています。さらに、知事の目標に服さない教育委員の罷免、教職員への厳しい処罰などの教育への権力統制の体系が盛り込まれています。 人間を育てる教育には、教える者と教えられる者との、自由な人間どうしの魂の交流が不可欠です。また、子ども一人ひとりの現実に即した、教員や保護者、子どもを支える多くの人々の知恵と判断が尊重されなければなりません。知事や議会が教育上何が正しいかを決定し、それに異議をとなえる者を排除していくことは、教育の力を萎えさせ、子どもたちから伸びやかな成長を奪うものです。 しかも、学校教育を知事や議会の直接的な支配下におくことは、憲法と法令に抵触します。教育基本法第十六条は「教育は不当な支配に服することなく」としていますが、この文言は、時の権力が軍国主義教育をすすめた過去への深い反省のうえに定められた、日本の教育の大原則です。その結果、地方の教育行政は首長が指揮監督する一般行政から分離され、教育委員会がつくられました。 教育委員会の実態やその行政に不十分さがあることは私たちも知っています。しかしその解決は、教育委員会の民主的な改革に求められるものであり、知事らによる直接的な支配となれば不十分さはますばかりです。 私たちはさらに、「維新の会」の政治的な手法に危うさを感じています。いったん選挙に勝ったことによって、あたかもすべてを選挙民から白紙委託されたように振る舞うことは、ファシズムの独裁政治を想起せざるをえません。 多くの方々が力をあわせ、大阪府教育基本条例案やそれに類する計画をとめ、子どもの伸びやかな成長のために考えあい話しあい、できることから行動していくことを訴えます。【よびかけ人】池田 香代子(翻訳家)市川 昭午(国立大学財務・経営センター名誉教授)尾木 直樹(教育評論家)小野田 正利(大阪大学教授)小森 陽一(東京大学教授)佐藤 学(東京大学教授、日本学術会議会員)高橋 哲哉(東京大学教授)竹下 景子(女優)野田 正彰(関西学院大学教授)藤田 英典(共栄大学教授、日本教育学会会長)【賛同者】浅田 次郎(作家)あさのあつこ(作家)阿刀田 高安斎 育郎(安斎科学・平和事務所所長)池内 了(総合研究大学院大学理事)池田 知隆(前大阪市教育委員長)石坂 啓(漫画家)内田 樹(神戸女学院大学名誉教授)梅原 猛(哲学者)永 六輔大内 裕和(中京大学教授)大原 穣子(方言指導)小川 正人(放送大学教授)奥平 康弘小山内 美江子(脚本家)尾山 宏(弁護士)門脇 厚司(筑波大学名誉教授)窪島 誠一郎(作家・「無言館」館主)栗山 民也(舞台演出家)小中 陽太郎(日本ペンクラブ理事、星槎大学教授)斎藤 貴男(ジャーナリスト)崔 洋一(映画監督)坂本 義和(東京大学名誉教授)佐貫 浩(法政大学教授)品川 正治(経済同友会終身幹事・一般法人国際開発センター会長)下重 暁子(作家)杉原 泰雄(一橋大学名誉教授)杉 良太郎妹尾 河童(舞台美術家・エッセイスト)高畑 勲(映画監督)高村 薫(作家)田島 征彦田中 孝彦(武庫川女子大学教授)田中 恒子(大阪教育大学名誉教授)田中 康夫(前梅花女子大学教授)谷村 志穂(作家)寺崎 昌男(東京大学名誉教授)暉峻 淑子(埼玉大学名誉教授)鳥飼 玖美子(立教大学特任教授)永井 憲一(法政大学名誉教授)中嶋 哲彦(名古屋大学大学院教授)西村 章次(埼玉大学名誉教授)野末 悦子(産婦人科医師)長谷川 千秋(元新聞記者)原田 智子(漫画家)広田 照幸(日本大学教授)広原 盛明(元京都府立大学学長)冨士谷 あつ子(評論家)古田 足日(児童文学者)辺見 庸(作家)本田 由紀(東京大学大学院教育学研究科教授)前田 佐和子(前京都女子大学教授)松本 猛(絵本・美術評論家、ちひろ美術館常任顧問)茂木 俊彦(民主教育研究所代表)森 南海子(服飾デザイナー)山口 二郎(北海道大学教授)山崎 朋子(女性史・ノンフィクション作家)山田 洋次(映画監督)山中 恒(作家)山家 悠紀夫(くらしと経済研究室)渡辺 一枝(作家)渡辺 武(元大阪城天守閣館長)(賛同62名 2011年11月19日16:00時点) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.11.22
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参考にすべき、と思われるフィンランドの教育ですが、「教育における知事権限の拡大(教育の中央集権化)」とは全く異なるやり方をとっています。 「フィンランドは、全体的な成績が非常に良いのですが、もっと重要なことは、他の多くのOECD諸国に比べ、社会的背景の影響がずっと小さいということです。教育制度がすべての生徒に均等の機会を与えることに成功しているわけです。 〔『格差をなくせば子どもの学力は伸びる 驚きのフィンランド教育』 38頁〕 (11月4日の記事に掲載した表を参照)」 フィンランドに行ってみると、(・・・)義務教育(基礎教育)にあたる16歳までは、他人と比較するような学力テストはない。「勉強するのは自分のため」という意識がいきわたり、教師は生徒を支援し、行政はそれを援助し、親は協力するという。テストで追い立てない教育のシステムが作り出されている。(9頁) 私は、イギリスの場合(統一テストと「学校別結果の公開」を通して学校現場を追いたてた結果、教職員は一生懸命になっているが、子どもたちの学力は中学2年生あたりで頭打ちになってしまったイギリス)と比較せずにはいられませんでした。【イギリスの実態について、私は以前の記事で以下のように分析】1、国を挙げてのテスト体制と「結果の公開」による学校への圧力は、子どもたちに「テスト向けの訓練」を繰り返しさせていくような方向へと進ませることになった。2、このような「訓練」は、小学校段階における「学力」(例えば計算力等)を高めるには一定の効果をもたらした。3、しかし、中学校段階で頭打ちになってしまうのは、「訓練」の繰り返しだけでは、子どもたちの「(幅広い意味での)学習意欲」を持続的に高めていくことにつながらなかったためではないか。4、「公開」によって学校間競争が促進され、教職員は「成果」をあげるために必死になっている。しかし、色々な工夫をしながら「楽しく充実した授業を構想し、組み立てていく」という実践は「追いまくられる状況」の中で後退しているように見える。 さて、「(幅広い意味での)学習意欲」を持続的に高めていくためのポイントは、 「学ぶことは自分にとって価値あることだ」と実感できること、子どもたちが「学ぶことの楽しさや興味関心」をふくらませていくことだと考えられます。そして上記の「楽しく充実した学び(授業)を構想し、組み立てていく」という教育実践がその重要な条件であることは論を待たないでしょう。 追い立てられる状況の中で、そのような教育実践、授業実践が後退しているかに見えるイギリスに対してフィンランドでは多くの学校で授業が「豊かな学びの場」になっているようです。その要因は何でしょうか。 「フィンランドを見てみると、権限と責任はすべて学校に与えられていて、学校がありとあらゆることを決めることができるようになっています。それによって成績レベルを全体に底上げすることができると考えられます。」 OECD教育局のシュライヒャー氏 「トップダウン方式ではなくて、学校にやる気を起こさせることによって、成績を上げられるような環境にあるということです。PISA調査の結果から、学校が自分の判断でアイディアを考え出し、それを試してみることによってよい成績を得られることが可能となることがわかりましたが、その好例がフィンランドでした。」(43頁) 「フィンランドでは、(・・・)1990年代前半に、教える教育から学ぶ教育へと教育観も転換された。時を同じくして、教科書検定も廃止され、視学官制度など監視・査察制度も廃止された。 ほぼ全ての権限を現場に降ろし、国はガイドラインを示すものの、条件整備と情報提供に徹することになった。そうすると、管理や監視の無駄な人員もなくなり、少人数学級が実現する。しかも、知識は国家管理から解放され、それぞれの学習主体が構成していくものとなった。」(10頁) 関連して「フィンランド国家教育委員会」の公式見解(フィンランドがPISAで高得点をあげている理由)をいくつか引用します。・すべての教育を無償にしていること・総合制で選別をしない基礎教育・全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること・生徒の学習と福祉に対し、個人にあった支援をすること(特別ニーズ教育も充実)・テストと序列づけをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること(47頁) このような教育行政機関の基本的な姿勢が、最終的に子どもたちの学習意欲にも通じているようです。44頁でも、子どもたちが「学ぶことの楽しさや興味関心」をふくらませて「やる気と動機」を強化していくことの重要性が指摘されていますが、そのためには教員自身がじっくりと楽しみながら「楽しく充実した学び(授業)を構想し、組み立てていくこと」が大切でしょう。 以上のような観点で、国家(行政機関)による管理を小さくして「できる限り権限を現場に降ろす」ことが大切だ、ということをフィンランドの体制から学ぶべきではないでしょうか。 橋下候補と維新の会がもくろむ「競争・管理の強化」が子どもたちの利益にならないことは、イギリスの失敗ですでに証明されているのです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.11.10
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前回記事「教育基本条例とは異なる改革」に対してdolceさんからコメントをいただきました。教育基本条例案や「教育改革」の根本にかかわる大切な視点を提供していただきましたので、全文引用の上、応答させていただきます。 >まず「学力とは何か」という質問に、誰か答えられますか?>どんな試験でも作成して「学力テスト」と命名すれば、それが、学力を測るものとして一人歩きしてしまいます。>つまり、テスト作成者の主観で作ったテストが、学力を測るものになってしまうのです。>今まで行われたようなテストで、それが学力を示すものとなれば、ひたすら学力テストの点数アップ競争になりかねません。 そもそも「学力とは何か」ということを曖昧にしたまま、「点数アップ競争」が行われていることについては、おっしゃるとおりだと思います。 ブログ記事でとりあげた「進学校では授業料減免の申請率が低い(リンク先の新聞記事)」とか「東大生の保護者の平均年収は1000万円を超える!?」といった事実から大まかにわかる「経済力と相関のある学力」というのは(さしあたっては)「受験学力」のことです。 これはこれで、「社会的格差」の再生産につながる大きな問題ですね。 ただし、根本的には学力=「ヒト・モノやモノゴトに向かう(実践的)力」と切り離せない「身についた知識・知恵」、「その人のものになった思考力」といった見方を私はしています。学力の内実を問うべきだ、というあなたの問題提起には賛成です。 なお、拙ブログ記事「教育基本条例とは異なる改革」に載せた表はPISA(OECDの学力テスト)の分析結果です。PISAの場合「実践的応用力」を重視した問題を作成していますから、私自身の学力観と近いものがあります。 >その結果、中身はないのに点数だけ高いという表面的な結果でのみ大人たちは満足し、子どもたちは点数アップのためにムチ打たれ、ひいてはそれが人間の価値であるかのように見られ、ますます勉強嫌いの子どもを増やす懸念が大きくなるような気がします。 これはすでに起こっている問題ですね。日本の子どもの勉強嫌い(とりわけ理科嫌い、数学嫌い)の率は、国際的にも高いです。(日本の学力低下は本当か 2 末尾)>子どもの学力を云々する前に、子どもを育んでいる地域の文化性や教育力というもっとも基本的な土台をなんとかしなければ、軟弱な土台、それこそ砂地の上にビルを立てようとするようなものです。>子どもの教育では、第一に幼児教育が大切で、6才児ではすでに、大人の脳の90%が完成されているということがわかっています。>ということは、幼児期に受ける刺激、地域、家庭、親の与える刺激が大きく影響するということです。>大阪が教育レベルのアップを目指したいなら、文化的予算を増やすこと、貧困率を下げるという根本的なものを解決しなければ、素人の行う対症療法になるでしょう。 まさにその通りだと思います。「ヒト・モノやモノゴトに向かう実践的な力」と不可分の学力・実力がしっかり身についていく条件(「地域・社会の土台」)を整えていくためにも、文化的予算を増やしていくこと、貧困率を下げることが根本的に重要だとわたしも考えています。 社会全体のたくわえ(=「溜め」)を増やしていくことは、間違いなく個々人の力を高めていくことにつながります。この点にこそ、府知事や市長、政治家は力を注いでほしいものです。 このような意味においても、フィンランドをはじめとする北欧の取り組み から得られる示唆は大きいと考えています。>知事の短絡的教育介入で事を決めるのではなく、御用学者でない教育専門家や文化人の提言を受け、計画を練ることが大切と思います。 「学力低下」キャンペーンを張った中心は教育学者(専門家)ではなく、経済学者やマスコミでした。橋下知事と似通った発想をする「経済界」の介入をあまりにも受けやすい(受けてきた)ことが、これまでの教育の大きな問題ですね。 私事ですが、今年に入って、中内敏夫(教育学者)の著作集を読む機会があり多くの示唆を得ました。本物の教育学者(専門家)も間違いなく存在しているわけですから、そのような人たちを交えて、「落ち着いた議論」を経て計画を練っていくことが大切だと考えます。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.11.08
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大阪の教育基本条例案には何と「前文」があるのですが、その後半部分には「教育の現状」について次のように書かれています。 「大阪府における教育の現状は、子どもたちが十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。」 この「前文」に関してはまず、「グローバル社会に十分に対応」という言葉が当たり前のように使われていることが気になります。というのは「グローバル社会に対応」という目的で、製造業派遣の自由化等の「改革」が行われた結果、非正規雇用率が4割に迫る状況が生み出され、「格差」や「貧困」が深刻な問題になっていったことは間違いないからです。 したがって、前文にある「グローバル社会に十分に対応できる人材育成を実現する教育」が、「格差」や「貧困」を解消する方向性を持つのか、それとも問題をより深刻なものにしていくのか、という点はしっかり見ておく必要があるでしょう。 例えば、小中学校の「学力テスト」の結果を「学校別に公開させる」という趣旨の規定が「教育基本条例案」には盛り込まれています。これが、学校間の競争を促進することは見やすい道理ですが、結果として「生徒間の競争」も激化させ、学力格差を一層拡大する危険性はないでしょうか。 上記は『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』(亜紀書房 福田誠治著)に掲載されていたものですが、この表をみると日本は学力の国内格差、学校間格差が大きく、「社会経済文化的指標によって説明される格差」が大きいことがわかります。 このような「経済格差等を背景とする学力格差」をいかに縮めていくか、ということは「教育政策」における重要な課題なのです。 ところで大阪の場合も、このような経済格差を背景に義務教育段階でも相当な学力格差がついているyoようです。(その後実施された高校授業料無償化だけでは、もともと授業料減免の対象になっていたような貧困状態の家庭に対しては新たな意味がない。) 学校間競争、生徒同士の競争をあおることで、このような格差が解消に向かうのでしょうか。結局は格差の拡大再生産にしかならないのでは? 現実にイギリスではサッチャー政権の時代から、橋下氏(教育基本条例案)と似通った発想で、「共通テスト」結果の学校別開示、初等教育段階からの学校選択制などを取り入れましたが、結果は(生徒も教職員も追い立てられただけで)さらに多くの問題を生み出しました。 「受験体制」・「偏差値教育」の長年の弊害をグロテスクなまでに拡大すると思われる「教育基本条例案」の方向性とは、根本的に異なる発想で改革を進める必要があるのではないでしょうか。 私は、イギリスの失敗に学び、フィンランドの成功に学ぶことが大切であると考えています。『格差をなくせば子どもの学力は伸びる』から引用してみましょう。 フィンランドの学校では、格差をなくし、どこでもいつでも学べる学校にして、学級内では学力差に応じて個別指導ができるようにし、その結果、国全体の学力差を最も小さくしながら国際的に学力を最も高くしているということがデータ(上記の表)でわかる。 PISAの最大の功績は、平等と高学力とは矛盾しないと指摘したことであろう。学校や経済的背景を平等にすれば、国民の平均学力は高まるということを事実に基づくデータで証明したのである。これは、先進国の政治家や教育行政担当者たちの常識を覆すことになった。(37頁) さて、先進国の政治家や教育行政担当者の「常識」とは何でしょうか。同書には明記されていませんでしたが、概略次のようなものと考えられます。「平均学力を高めるためには、学力競争が必要である」 ⇒「競争によって“勝者”と“敗者”が生まれることは避けられない」 ⇒「したがって、高学力を獲得するために“国内の学力格差”が発生することは必然であり、教育における平等と高学力は両立しない」 そのような「常識」を打ち破ったのがフィンランドの教育であったわけです。 続く(この記事へのdolceさんのコメントに対する応答) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.11.04
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大阪「教育基本条例案」について、9月20日の拙ブログ記事では、それが「現場主義」とは真反対の内容であることに触れました。 橋下知事の手法の問題と、条例案の性格、具体的に予想される子どもたちへの弊害について「生徒と向き合えない教育...教育基本条例案を考える」でcheさんがまとめていらっしゃいますが、私も全面的に賛同するものです。ぜひご一読いただければと思います。 また、教育ジャーナリストの渡辺敦司氏も10月15日の記事で以下のような根本的問題を指摘しておられます。 「条例案の『キモ』は橋下知事自身が強調しているように、教育委員会制度を根底から覆すこと」であり「『民意』を反映させるという御旗の下、『政治の関与』によって教委を名実共に知事の下位に置くことを目指している。」 「現行の教委制度が妥当かどうかは、さまざまな議論があろう。(・・・)しかし一地方議会の条例によって『覆す』ことができるかどうかは、別である。教委制度は、あくまで国の法律によって定められたものだ。その制度を改める場は国会であって、地方議会ではない。」 普通、「弁護士」がこのような基本中の基本を無視するのでしょうか? 大阪のPTAも「教育基本条例案再考を」橋下知事に要求しました。自治体の条例案に対してPTAの組織が統一見解を出すということは前代未聞では? 保護者の立場からもそれだけ大きな問題を含んでいるのです。 (内容は⇒ PTAの組織の統一見解) 高校生もきちんと自分なりに判断して意思表示しています。高校生の声 「社会全体に渦巻く不満や不安を背景に、学校への八つ当たり的批判を基にした、無茶な改革を進めているようにしか思われない」(小野田正利阪大大学院教授)というこのたびの条例案、何としてもその問題点をしっかりと共有していきたいものです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.11.01
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「維新の会」が9月20日開会の大阪府議会に提出する「大阪府教育基本条例(案)」をまとめました。 「維新の会」が提出する予定の大阪府教育基本条例(案)の内容 教育基本条例案をめぐる新聞報道 条例案に対する大阪府教育委員会の見解 弁護士(自由法曹団)による意見書 教育への「不当な支配」を可能にする条例案の撤回を求める 教育を思い通りにしたいというのが「政権担当者」の大きな「野心」だというのは、いつの世でも・・・という面はありますが・・・。 この条例案には橋下知事の要請で教育委員に就任した影山英男委員(百ます計算の実践で知られる立命館大教授)も強く反発し、可決時には辞任することを明言。また、「(維新議員は)学校現場を歩いたのか。知事はもっと現実を見てほしい」と批判したのだそうです。 比較して申し訳ないのですが、総務大臣も務めた「片山前鳥取県知事」もかなりのエネルギーで教育に関わる政策を具体化していきました。ただ、橋下大阪府知事と大きく異なる点は、 「現場主義」(それぞれの現場が求めていることを重視して改革を進めていくこと)を基本にしていたことです。 具体化された政策は、「小学校1~2年生に関する30人学級の実現」、「県立学校の全図書館に常勤で専任の司書を配置し図書館教育を充実させる」(貸し出し冊数だけでも3倍以上に伸びた)、「特別支援教育の条件整備を手厚くする」などでした。 その他のことも含めてすべてが良かったとは言えませんが、「現場主義」を基本にかなりの成果を挙げたことは事実です。(内容は権力者による教育への介入ではなく、教育条件整備)。そして、そのために県議会内で与党の議員を組織し、条例案が通るように根回しするようなことは一切していません。 現実をきちんと踏まえつつ、教育を良くするために具体的に打ち出す条件整備の条例案は、内容が妥当であれば根回しなどなくても合意は得られる、という確信を持っていたように思われます。 そもそも、都道府県知事の教育に関する本来の役割は何でしょうか。このたびの教育基本条例案、原則に照らして重大な問題点を明確にしていく必要があると考えます。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.09.20
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5月2日の拙ブログ記事でとりあげた、議論における「市民社会のルール」に関してdolceさんからご指摘をいただきました。疑問にすべて対応できていませんが、とりあえずの「回答」をさせていただきます。>ここで「溜め」という言葉が出てきますが、この言葉の意味がわかりません。 「わかりません」ということになってしまった理由は、その場所に説明を(注)として入れるか、過去記事(又はHP)にリンクを張っておかなかった私の不手際にあります。 イールさんもお読みいただいた「城内(ウロコ)先生からの学び 1」の下から4段落目にはリンクを張っていましたが、5月2日の記事は「単独のものとしては意味不明」であったと反省し、補足させていただきます。 以下は「湯浅誠のいう“溜め”」についての説明です。 "溜め"とは溜め池の「溜め」である。大きな溜め池を持っている地域は多少雨が少なくても慌てることはない。その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。(・・・)このように"溜め"は外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーをくみ出す諸力の源泉となる。 (『反貧困』78頁) “溜め”の機能はさまざまなものに備わっているということで湯浅はいくつかの例を挙げます。1、お金(充分な貯金)・・・たとえ失業しても当面生活しながら積極的に次の仕事を探す条件であり「溜め」の機能を持つ2、人間関係の溜め ・・・頼れる家族・親族・友人がいるというのは人間関係の溜め3、精神的な溜め ・・・自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは精神的な「溜め」 上記の例だけでなく、色々な面で「頑張る(自己実現や自己表現していく)」ために「必要な一定の条件」、「力の源泉や一種のゆとり」をも含みこんだ概念として、湯浅は“溜め”という言葉を使います。 意見交換・議論においても「相手が落ち着いて自説を述べられるような(しっかりと自己表現できるような)“ゆとりやエネルギー”〈=溜め〉」を増やしていくべきだ、という考え方から表記のような主張(「市民社会の議論のルール・留意点」」が出てくるわけです。 さて、このような“溜め”とイールさんが述べられた“間”との関係ですが、あの記事や直前の状況を見ると「( k 氏から)絶え間なく入れられた執拗なコメントが、イールさんの考える時間だけでなく、精神的なゆとり、さらにはコミュニケーションやブログを継続するエネルギーさえも奪っていった」様子が見て取れました。 そのような意味で両者は深く関連するものではないか、と私は考えたのです。〔付け加えると、例えば、相手を挑発して怒らせる表現の多用や、相手の意見を無視したり人格を否定するかのように受け取れる言説は、相手の“溜め”を奪うことを含め、大きな問題があるといえます。〕 さて、“溜め”について、さらに「貧困」との関連についても補足しておきましょう。 「たとえば、お金持ちの家に生まれて、両親がいい人たちでやさしく、頼りがいがあって、自分も自信満々、いつだって『きっと自分にはできるさ』と思えるような人は、お金、人間関係、精神的な“溜め”が全部そろっているから大きな“溜め”に包まれている。 逆に、お金のない家に生まれて、両親も仲が悪く、自分のことなんてかまってくれない。自分もいつもどうしても「どうせおれ(私)なんて・・・」と思ってしまう人は、包んでくれる“溜め”が小さい。」 (『どんとこい、貧困!』45頁) 湯浅によれば、「貧困」は、単にお金がないことではなく、公的な福祉からも排除され、頼れる人間関係も「自分にはやれる」という自己肯定感も失ってしまった状態(さまざまな溜めが奪われた状態)です。 逆に言うと、たとえお金がなくても、周囲に励ましてくれる人たちがいて、自分でも「やれる、がんばろう」と思える状態であれば「貧困」ではありません。 例えば脱サラして田舎で暮らし、自分たちで田畑を耕しながら趣味を仕事にしているような人たち、子どもは野山を駆け回って地元の人たちと交流しながら楽しく暮らしているような人たちは、たとえひと月の現金収入が5万円であっても「豊かな暮らしをしている」という言うことができます。 しかし、公的福祉・企業福祉からも、家族関係や友人関係からも排除された状態に陥ると、最後は「自分自身からの排除(自分は生きていても意味がない存在だという感覚)」にいたる、それが「貧困」だ、というのです。 このように、各人が持っている“溜め”は周りの環境等によって異なるわけですが、湯浅は「社会全体の“溜め”を増やすことによって個人が生きやすい条件を創っていくこと」を主張するのです。 dolceさんが記事の中で主張されている「教育予算を増額すること」も、社会全体の“溜め”を増やしていく営みであり、「行き詰っている社会」をよりよい方向へ打開していくための大切な条件整備であると考えています。(なお、自称オタクコミュニストの紙屋氏も、湯浅誠の"溜め"という発想は「貧困の自己責任論に最後的な打撃を与えた」と述べていますのでご参照ください。12日付記) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.05.11
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私が素晴らしい記事として挙げたいのは、窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず(4月27日)、えんぴつけずりは手回しで~間の必要性~(4月24日)の二つです。 なぜでしょうか。それは、いずれも「個人への問題提起」であると同時に、歴史としての現代の転換にむけて「私たちが考えるべき大切なこと」を、すべての読者に投げかけた素晴らしく説得力のある内容だ、と感じたからです。 まず、4月27日の記事ですが、その中には「大震災への政府の対応」、「授業でよく見かける問題」、「掃除を例にした指導の具体的なあり方」等々、この間の「意見交換や発信姿勢」の問題点や、ルール指導等をめぐる論点の整理が実にていねいになされていました。 そして、「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」という格言を本来の意味で実践していくことの重要性など、イール夫さんからkurazohさんへの心をこめた呼びかけを読み取ったのは私だけではないでしょう。 さらに、そのメッセージは「個人への呼びかけ」を超えた意味を持つと考えられます。 身近な例を挙げれば、「うまくいかないことに困って悩んだ末、“教育者”が自ら変わったときにはじめて通じる」という体験・・・、子育てにおいても公教育においても、多くの人が体験することでしょう。 このような発想こそ、「現代において私たちが共有すべき大切なものではないか!」 腑に落ちるというのでしょうか、本当に深く納得させられます。しかしながら、このような豊かな示唆にとんだ 「格言」というのは、人を批判することではなく「自己省察や自己変革」につなげてこそ、大きな意味を持つ と考えるのです。 この記事で、具体的な問題提起を受けたkurazohさんの反応を極めて残念だと感じたのは、イール夫さんだけでなく、私も同様でした。結局は、格言を「自己省察や自己変革に活かす」のではなく、「他者を批判する手段にする」という発想から抜け出せていないからです。 例えば、100ページの一文のなかで、kurazohさんのよく使われる「ミラー現象」という言葉、わたしは「他者の中に見える様々な問題点というのが、実は鏡のように自らの問題点を映し出している」といった理解をしていますが、これは「自らに当てはめて自己省察に活かすかぎりにおいては極めて有効・重要な発想である」と考えます。(これに似通った発想は、聖書にもみられるようです。) 自らに適用するからこそ、気づきと学びがある。ところが、kurazohさんがこの思想を自らに適用し、自己省察に活かしたケースというのは(少なくともブログコミュニケーションのなかで)私の記憶にはありません。「ほらっ ミラー現象ですよ」といって他者を批判する場面は、いくつも数え上げることができますが・・・。〔「ミラー現象」を自らに適用し、自己省察に活かしていらっしゃったのは、吟遊詩人さんのほうでした。〕 確かに、これは決して特定個人の問題ではなく、 「誰かを批判するとき」に私たち自身が常に問いかけるべき重要な点ではないかと思います。相手に向けてさしむけている批判の内容が実は自らにも当てはまるのではないか、特定の(あるいは不特定の)他者を批判しつつ、「自分だけはちゃっかりと“批判の対象からはずす”」という自己正当化や自己欺瞞に陥っていないか…。 このような問いかけを忘れないこと、それこそが、(ネット上の)大人同士のコミュニケーションを、子どもから見ても「民主的な議論」のお手本になるような健全で建設的なものにしていく大切な鍵だ、と言えるのではないでしょうか。 以上、「窮すればすなわち変じ、変ずればすなわち通ず」に関わって私見を述べてきましたが、その直前に書かれた「えんぴつけずりは手回しで~間の必要性~」も、市民社会における議論を創造していく上で極めて重要な問題提起を含んでいると考えます。 長くなりましたので、それについては次の記事に回したいと思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2011.04.28
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本日、鳥取県PTA研究大会がおこなわれましたが、私も子どもの通う小学校のPTA会員(役員)として参加しました。1、講演:「体と脳の発達を基礎にたくましく心豊かな子に育てる」 そのあと2、「基本的生活習慣の定着等による学力向上促進事業」の実践報告 というプログラムだったので、講演内容も「学力向上促進」に関わる内容かな、と予想していたのですが、思ったより大きな問題提起でした。 以下に講演の内容を整理してみます。〔現状認識〕 近年、わが国では体と心が危機的状況にある小中学生の増加が続いている。 体の面では力強さ、粘り強さ、しなやかさなど「生きていく」基盤となる体力が1885年以降低下を続けてきた。(・・・) 心の面では思考、判断、意欲、情動など「よりよく生きていく」基盤となる豊かな心がバブル崩壊以後、年ごとに低下を続けてきた。〔問いかけ〕 このような体と心に深刻な問題を抱えている小中学生が、たくましく豊かな心を取り戻すために、家庭と学校及び地域社会は何をすべきか、そして豊かな心の中核となる「感性」と「情操」はどのようにして育つのか。 上記の問いかけに対する「(大脳と神経の研究を積み上げてきた)講師の回答」は次の通りです。 前頭連合野および間脳(視床下部とその周辺)がしっかり発達していれば、意欲や感性・情操が豊かに育つ。その部分は(狭義の)「勉強」以上に大切にしなければならない。 体の力強さ、粘り強さ、しなやかさを得るためには全身運動が大切。そして、自然の中、河原や山で遊ぶような体験を積めば(例えば野いちごを探してできるだけたくさん採ってくる、といった体験を通して)考える力も感性も育つ。感覚器官の感受性を育てていくには自然の中での集団遊びが一番だと思われる。 講師は、自らがスウェーデンへの「出張」で知ったこと(親子一緒に2ヶ月以上の「夏休み」をとって自然の中〔保養地〕で暮らすことが親子のつながりを濃密にし、自然の中で豊かな感性をはぐくむ)も引き合いに出しながら、日本の現状に強い危機感を抱いている、ということを訴えました。 なかなか展望が見えないまま重た~い雰囲気で閉会しそうになったので思わず挙手・発言をしてしまいました。その趣旨は次の通りです。 県が推進している「勉強がんばろうキャンペーン」はあまりに短絡的だ(「心と体 いきいきキャンペーン」はいいとしても)と感じていましたが、今日の講演を聴いてあらためて「勉強がんばろうキャンペーン」よりも「一緒に遊ぼうキャンペーン」の方が大切だと思いました。 確かに「狭義の学力」以前に「人としての基礎力」である思考・感性・情操・体力を育てていくためには自然とのふれあいや仲間同士の遊びの体験が必要だと思います。現実にそれが不足しているために起こる問題も多いのですが、決して悲観的な状況ばかりではありません。 例えば、全国に「親父の会」が数多く(数千といわれる)生まれ、「自然とのふれあいや遊び」の体験教室を実施する動きが(NPOの活動も含めて)広がっています。私も午前中は「町内の餅つき」をしてきましたが、子どもと大人が一緒になって餅をついたり丸めたり、そういった行事が本当に大切であることを、あらためて感じました。 せっかくのこの会が「重たい雰囲気」で終わることは、本意ではありません。今ある積極的な動きにもしっかりと目を向けて「足元から」できることをやっていきましょうよ。 私の発言に対して講師も「人間の持つ保育と教育の可能性」に言及され、会場も好意的な雰囲気でした。 確かに厳しい現状も目につくのですが、例えば今静かに広がりつつある「学びの共同体の実践」も含めて「人としての基礎力」につながっていくような実践は決して少なくはありません。 PTAの集まりでもそれらを共有しながら「薄っぺらな学力論議」を超えていくことが大切ではないか、と考えるのです。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です)(教育問題に関する特集も含めてHP"しょう"のページにまとめています)
2009.12.13
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前回記事で述べましたが、「子どもたちが疎外され踏みつけにされている現実は学校の中だけに目を向けていても見えてこない」と思います。 直接に見たり聞いたりできる範囲は限られていますが、それでも教職員をしていると、通常よりも多くの子どもたちと出会うことになります。そして、 「対話」や「指導」に教職員が大きな困難(あくまでも指導の不適切さが主因でない場合ですが・・・)を感じる生徒の多くが「何らかの背景」を持っていることを経験させられることになります。 例えば、次のような子どもたちとの出会い。 こちらがあいさつをしたり声をかけても「無表情のまま教員からの呼びかけをはねかえすような態度」を示していたA子。実は「幼児虐待を受けていた」ということがあとでわかった。 学校で「暴力事件」を起こしたB夫。幼いころから父親の暴力を受けてきた子どもだった。 (家庭の細かな状況はなかなかわからないものですが)上記のような「出会い」を、長い教職員生活の中でしばしば体験します。さらに保護者による暴力の背景を見ていくと「とんでもない親がいたものだ」という見方では解決しない場合(極度の貧困や生活苦を背景にしている場合)が圧倒的に多いのです。 比較的最近、特別支援学校(養護学校)の職員に聞いた話ですが、学校に通ってくる生徒は従来のような「障がい」を持った子ども以上に「被虐待の子ども」が多い、ということでした。しかし、「虐待を受けた結果、緊急避難的に引き離され、親元から離れて学校に通ってくる子どもたちのほとんどが“その親を慕い求める”」と言うのです。 「親のところに戻っても同じことになるよ」、という話をすると「あまりにも生活や仕事が苦しくて親はイライラしているんだから仕方がない」、と言うのだそうです。水谷修氏が一人の母親からのメールで気づいたことを、子どもたちの多くは気づいているのです。 『反貧困』(岩波新書)の中で湯浅誠氏は「児童虐待を本気でなくそうとするならば、まっすぐ原因に向かわなければならない」(51頁)と述べ「貧困社会」を変えていくこと、そのためには「自己責任論」にはまることなく貧困を「社会の構造の問題」(=社会の“溜め”のなさ)としてとらえ、克服していくことを訴えています。 去る8月3日、「高生研全国大会」の最終日に行われた分科会(「反貧困」の高校教育)で問題提起者となった湯浅誠氏は、自らの具体的実践や構想を述べましたが、大変示唆に富んだ話でした。 それをどのようにして実践的に受け止めていくか、ということが参加者の課題であったわけですが、話の内容については次回の記事で紹介します。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.08.19
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「校則指導」にからんで文月さんから多くの激しいコメントをいただきました。一つひとつにお応えすることはできませんが、コメントを踏まえつつ「子どもたちをめぐる現実」に触れておきたいと思います。 >生徒に校則を押し付けてきた教師たちは、正に卑怯者だと思います。 学校や教職員による強制の卑劣さを強調しておられますが、現実の問題として「校則の様々な規定を強制することなど無理だ」というのが多くの教職員の実感でしょう。 「もっと校則や服装指導を厳しくすべきだ」、「義務教育ではないんだから、校則違反を繰り返すような生徒はやめさせればいい」といった声は、教職員からよりもむしろ(一部の声の大きな)保護者から(PTA懇談会などで)発せられる場合が多いですね。 何割かの生徒は、現実の校則と軽くつきあいながらうまく立ち回っています。そのような子どもたちは文月さんのようにまじめではないので、「制服の強制に真っ向から立ち向かうぞ」というより「適当に着くずしておこう」という感覚でしょう。 しかし、厳しい就職難の現在、「あんな格好をしている生徒を採用する気にならないよ」と企業の人事担当者から言われれば学校としても苦しいわけです。 大まかな傾向として、 「高学力の生徒が集まる伝統的な進学校」ほど校則指導は甘く、「世間からバッシングされやすく、存続が危ぶまれるような学校ほど校則違反を放置しにくい」という現実があります。(文月さんが例示した学校はどうなのでしょうか。) もし仮に「もっと校則指導を厳しくして欲しい」といった要求が保護者からも出るような状況だとすれば、個々の教職員は「保護者をなだめる側」なのかもしれません。 違反を放置しにくい現状だから、厳しい徹底した校則指導は当然か? といえば決してそうではないと思います。私の基本的な考えは、前ブログ記事の前半に書いたとおりです。 また、評判が悪くなったり求人がなくなるからきちんとさせるべきだ、という考えの中には「差別されるのは自分たちに原因があるんだから、生活を改め身を正せ」といった「(差別に関する)昔の間違った融和運動」と似たようなところはないか、それは根本的に間違っているのではないか、という問いかけも大切だと思います。 少し問題をずらしたところがありますが、 「入学時点での誓約」は決して対等平等に行われたものではない、という観点が大切であることはおっしゃるとおりですね。(そして、現実の「雇用関係」のなかにも似通った問題が数多くあるのかもしれません。校則指導の問題も「社会の現実」の中に位置づけてその課題をとらえなおしてみることが大切でしょう。) 『社会契約論』の中でルソーは次のように言っています。 人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鎖につながれている。(・・・) 何がこれを正当なものとなしうるか・・・、 彼は上記の問いから出発して、「権力行使」を正当化するものは「人民の“合意”以外にはありえない」、という結論に達しています。そして、「暗黙の合意」や「仕方がないというあきらめ」ではなく人民自身が公論によって明確な意思表示をしていくことを主張するわけです。 生徒会の動きにしたり「(生徒、教職員、保護者の)三者協議会」をもつ、というのは「公論形成」を目指す正統な方法ですが、少数者(当事者)が「少なくとも私は合意していない」ということで、明確に意思表示し場合によっては訴訟を起こす、ということもかなりのインパクト(学校内外で当然だと思われていたことを問い直す効果)はあるのでしょう。 ところで、西研氏のHPの中に「きょういくをテツガクする」という文章があります。よろしければご一読ください。文月さんの考えと一致する部分もたくさんあると思いますが、その主張・表現には多くの人が共感するのではないでしょうか。(基本的に「敵」を想定した文章ではないのです) ただ、(学校教育のあり方を問い直すことは大切であるにしても)、私自身の実感・実践感覚からすると、「子どもたちが疎外され踏みつけにされている現実」は学校の中だけに目を向けていても見えてこないのです。 今年の高生研全国大会の一つのテーマは「反貧困」でした。 「貧困」を背景に子どもたちが強いられている現実(生活崩壊=「生存権」も「学習権」もないがしろにされている状況、親によるDVなど様々)に向き合い克服していく展望はどうすれば見出していけるのか、次回以降は「高生研全国大会」の報告も入れながら考えてみたいと思います。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.08.13
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下記も、高校生からの質問ですが、その質問に答えながら、文月さんの長文のコメントにも応答したいと思います。>この教師という職業(学校という職場)で、今、課題となっていることはどんなことでしょうか? さまざまな課題がありますが、古くて新しい問題(課題)の一つは、いわゆる「指導と管理」の兼ね合いや「体罰」の問題です。 つまり、学校の中では「落ちついで勉強できる雰囲気」をつくるためにも「遅刻なども含む校則指導」の必要性が強調される傾向が強い(保護者からもきちんとした服装・制服指導を求める声がよく寄せられる)のですが、それ自体を目的化・絶対化してしまうと大変なことになります。 (体罰などが、そのような問題を背景になされる場合もあると考えられるのです)。 この点について、私自身はU高校のKさんと同じほぼ見解を持っています。 あくまでも指導の目的は子どもたち自身の力をつけることなのです。 現在、正規に採用されない労働者を中心とする「貧困」や、正規労働者の「過労死」などが問題になる中で、「決まりを守り学校(集団)に適応させること」だけでは必要な力は全くつきません。 苦しい時、違和感を感じた時、それを言葉にしたり、問題解決・打開に向けて一歩踏み出していく力(例えば、話し合いをもとに行動していく力)をつけていくことが求められると思うのです。 以下は、文月さんのコメントに対する応答です。>しょうさんのおっしゃったことも素晴らしいと感じますし、賛成です!!>「教職員と保護者、さらには生徒が一緒に話し合っていくという方向性」は私も大切だと思います。>それにも限界があり、体罰が起こってしまった後では、いくら一緒に話し合いをしても手遅れの場合があります。 わたしが話し合っていく方向性を主張したのは「遅刻指導、掃除の強制、内職の注意、頭髪、服装などの校則指導」、などについてです。少なくとも(私自身も含めて)現時点では大部分の学校で行われている指導であり、それらが「絶対悪」だとは考えていません。 ただ、以前文月さんが書かれたように「どうすることがよりよいのか」を一緒に考えていくことは大切でしょう。私自身は「小・中・高等学校にいつ来ていつ帰ろうと生徒の自由だ」とは考えていませんし、学校の約束事・決まりを「ときおさえ」として指導することも必要だと考えています。>遅刻指導で、教師が閉めた校門に挟まれて女子生徒が死亡した神戸高塚高校では、遅刻した生徒に対し、ランニングを強要していたとの話も聴きました。 問題は、遅刻指導してはいけないということではなく、「指導のありかたや根本にある発想」であると考えています。上記の事件に関しては高生研の中でも論議がありました。私自身は「自らの“内にある校門”を自覚し乗り越えていくことが必要だ」、という観点で議論に参加しています。>教職員と保護者、生徒たちの話し合いでは、体罰などで傷ついた生徒の心、苦しみ、恨みは晴れない場合があります。(・・・)>どれだけ深く傷ついているかこの心をしょうさんにみせてあげたいくらいです。 同じ体験をすることは不可能ですが、あなた自身の体験、苦しみや恨みはおそらくわたしの想像を絶するものなのでしょう。>なんらかの形で厳罰を与えることなら本気になられれば、しょうさんならできると思います。 いかなる程度の体罰であっても厳罰(懲戒免職)にすべきだ、という考えは持っていません。 ただ、法的にも禁止されている以上「体罰」をおかした教職員に罰が与えられることは当然でしょう。通常、「教育委員会」を開いて「罰」が検討されますが、多くの人たちの考えをよりよく反映していくためにも「教育委員の公選制」に戻すことが大切だと考えます。 ところで、法的な位置づけはまったく違いますが「体罰」問題と「いじめ」問題は似通ったところがあると思います。例えば「高校において“いじめ”をした生徒はその程度に関わりなく厳罰(退学)にする」という対応をしても問題の解決にならないように、「厳罰」だけでは「言葉の暴力」も含めた問題は解決できないでしょう。 『家本芳郎のしなやか生徒指導』のなかには、同僚の体罰に対してどうすべきか、といったこともかなり具体的に書いてありました。(その一部) 多くの読者を含め、教職員がまず現場から実践していくことが大切だと考えています。その場合、「同僚に対する弱さ」を克服していくことは重要な課題です。 ただ、表面化していない「被害」については当事者が「サポートセンター」のような第三者機関や弁護士に相談することも大切なのでしょう。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.08.05
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toshiさんのブログ(「教育の窓 ある退職校長の想い」) 小学校の特活はどこへ? 学習指導要領の変遷から に刺激を受けて、久々に教育をテーマとする記事を連載します。 上記の記事でtoshiさんは新学習指導要領の内容を引用しながら次のように述べておられます。 どうだろう。 (特活が)人としての生き方に、もろにかかわる領域(教科ではない)であることがご理解いただけるだろう。 もっと言わせていただければ、・多数決による決定とか、・少数意見の尊重とか、・できるだけ、合意を目指すとか、 そうした意味では、民主主義社会を守り、より確かなものにしていく上でも、大切な学びと言えるのではないかと思う。 私もそのとおりだと思います。そして、子どもたちが教育基本法でいう「平和的な国家および社会の形成者」に育っていくことを意図して「特別(教育)活動」が導入されたことを考えれば、単に「集団に調和・適応する個人」ではなく「現実や社会の問題点に気づき、よりよい社会を創造する主権者」の育成が大きな目的であったことも明らかでしょう。 「民主主義社会を守り、より確かなものにしていく」という上記コメントも、そのようなものとして理解したいと思います。そして、以下のようなtoshiさんの例示からもわかるように、子どもたちは学校における具体的な活動や生活の中で生じる問題解決の体験を通して、そのような力を少しずつ身につけていくことが期待されるのです。 学級生活、学校生活における諸問題については・・・、 たとえば、・子どもが計画し、準備し、運営するお楽しみ会・学級生活を円滑に営む上で必要な学級生活のルールや、めあての設定・係、当番活動などの組織づくりや運営上起こりうる諸問題の解決 など、教科ではとても扱いきれない学習があるはずだ。 このような特別活動の意義を踏まえつつ、toshiさんは自らの実践例も示されるわけですが、近年における「特活の現状」に次のような疑問を投げかけられるのです。 これが形骸化しているという心配はないか。 まず、現状において、特活における学びは、ほんとうに、上記のねらいを達成できる学習になっているだろうか。 形式にとらわれたり、長年の慣習にながされたり、子どもの活動に見せかけてはいるが、実質は教員の一方的な指示によって動かしていたり、 特に近年の学力競争の中では、『特活の命』が失わされてはいないか、心配になる。 上記ブログ記事ですでにtoshiさんが試みておられることですが、大切なことは次の2点であると考えます。1、特別活動の現状はどうなのか、きちんと点検すること(話題として共有していくこと)2、本物の実践(特別活動本来の目標を達成している実践)に注目し広げていくこと まず1について私自身が早速実践したいと思うことは、・保護者として、子どもの通う小学校の職員にtoshiさんの上記ブログ記事を紹介し、話題にすること。(実は、小学校の管理職は以前からよく知っている人だったこともあり、toshiさんのブログをすでに紹介しています。) ・PTA役員同士でも「特別活動のあり方」を話題にすること。 (昨年度、「学力テスト」の結果について〔保護者が集まった時に〕学校から説明がありました。 その時〔それ以降〕、PTAとしては目先の点数にこだわる論議をするのではなく、 例えば「学校図書館に常勤で専任の司書を配置することが、“総合読解力の向上”にもつながるのではないか」、 「地域の行事への参加率の高さが“世の中の役に立つ人間になりたい”といった子どもたちの意識につながっているのではないか」、 といったことを含めて論議しているので「特活」についても話題にできそうです。)・教職員組合主催の「教育研究集会」(小・中・高等学校の職員が一緒に論議できる)の「自治的諸活動と生活指導」の分科会で、toshiさんのブログ記事を紹介し、論議すること。・職場(高校)の同僚や高生研の仲間にも上記ブログ記事を紹介し、積極的に話題にしていく。〔考えてみれば、これが第一番ですね〕(一保護者であれ、教職員であれ、問題点を共有する方向へ一歩踏み出すことはできると思うのです。) そして、2についてはtoshiさんの実践を紹介・分析したり、民間教育研究団体の、「全生研」、「高生研」(特別活動に力点をおきながら実践と理論的研究を積み上げてきた)の実践的な成果を広く共有できるよう努めたいと考えます。 20年前に比べて民間教育研究活動も困難になっているとはいえ、「全生研」はまだまだ元気、「高生研」はとりわけ今年全国大会の開かれる大阪で精力的な実践や活動が展開されています。具体的な内容については次回に・・・。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.07.18
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小2の胸元つかみ壁に、体罰認定せず 最高裁が逆転判決 (2009年4月28日 読売新聞) 熊本県本渡市(現・天草市)の市立小学校で2002年、男性の臨時教師が小学2年男児(当時)の胸元をつかんで壁に押し当ててしかった行為が、体罰にあたるかどうかが争われた訴訟の上告審判決が28日、最高裁第3小法廷であった。 近藤崇晴裁判長は「行為は教育的指導の範囲を逸脱しておらず、体罰ではない」と述べ、体罰を認定して市に賠償を命じた1、2審判決を破棄し、原告の男児の請求を棄却した。 この判決と事例をめぐるブログ記事は『日本ブログ村の「教育論・教育問題」』を見る限りあまり多くないようです。教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説 で慎重な見解が出されていましたので、それをめぐって「社説執筆者」の渡辺氏とコメントのやり取りを行いました。コメント欄で不充分だった点を補いながら独立した記事として公開し、今後の教訓にする方向での問題提起といたします。 私自身、このたび初めて一審と最高裁の判決文を読みました。 一審判決 最高裁判決 事実認定そのものが両者の間でズレており、判断は180度ひっくり返っています。 私が気がかりだったのは、このたびの最高裁判決に関するマスコミ報道だけでは教職員を含む多くの人が適切に判断するのは難しいのではないかという点です。(実際、ネット上でも最高裁判決を支持し保護者を「モンスター扱い」する意見が多かったです。) きちんと判断するためには一審の事実認定と判決文も読む必要があると思いましたが、私自身、両方読んだ限りでは第一審の判決のほうが妥当であると考えます。 また、事実認定や「児童に現れた症状と〈指導〉との因果関係」に関する判断も丁寧に行われており、学校現場にとっても参考になるのはむしろ「一審の判決の方ではないか」と感じました。>一審判決であればケーススタディーとして学校現場の参考になるのではないかと思います。>ただし、それはむしろ保護者対応ないしは児童・生徒対応の事例としてではないかと思うのですが、いかがでしょう。 わたしが参考になると考えたのは、教職員それぞれが子どもたちに向き合う姿勢について考えたり問い直していく機会とすべきではないか、という意味でした。 教職員はともすれば「指導には素直に従うのが当然」という意識で居丈高な姿勢のまま児童・生徒に対応しがちであること、「素直に従わなかった児童・生徒の中でいったい何が起こったのか」を確認もせずに、強く叱責することによって子どもたちの反発を押さえ込もうとしがちであること、これらはまさに「自らの問題として」教訓にすべきではないかと感じました。>一審の事実認定が正しいと仮定すれば、本件の教員や管理職の対応が妥当だったのか否か、あるいは、どうすればよかったのか(・・・)。 まず、問題となった場面での本件の教員の「指導」は不適切でしょう。少なくとも、「指導としては成り立っていなかった」ことから出発しなければ、何らの教訓も引き出せないと思います。 彼は、原告の児童に蹴られた瞬間「許せない」という気持ちが先にたち、「胸元をつかんで壁に押しつけて凄む(手を離した時点で子どもは倒れる)」という行為に及んだようです。 しかし、直前の本件教員の指導(女の子をふざけて蹴ったことに対する「説教」)は原告の児童ではなく別の児童に向けられていたわけです。そうすると「なぜ〈君が〉わたしのおしりを蹴ったのか」と問いかけ「直前の指導がどのように見えたのか」について話をさせることを出発点にすべきでしょう。 それをめぐるやりとりをきちんとした上で「どう見えたにしても蹴って逃げるというのはどうだったのか?」という話をすれば充分「指導として成り立った」と考えます。 さて、上記の「事件」が起こった後の管理職等による保護者対応についてですが、これも適切だったとはいえないでしょう。確かに「居直る」ようなことはせず、教員の対応が不適切であったことは認めています。しかし、母親の厳しい抗議に対して「なんとか早く事を収めよう」という対応になっているように見えます。 確かに、母親の抗議は一見「常軌を逸した」ものに思えるかもしれません。しかし、抗議がそのような激しいものになって継続した重要な背景としては「子どもが泣きながら暴力をふるわれた、と訴えてきたこと」、この時以降、家の中で「夜中に泣き叫ぶ、食欲低下、笑顔の消失、母親がいないと不安、1人で寝られなかったり入浴できない、睡眠時の中途覚醒、悪夢を見る、朝体が動かない」等々の症状を現すようになった事実があります。 学校としては、問題となった「指導」以降の児童の状態をていねいに聴き取り、「それを“回復”させるためにはどのように対処し、周囲の大人が本人に対してどのように接していくことがいいのか」ということについて母親と真剣に話し合うことが大切であったと考えます。 そもそも教職員と保護者との信頼関係というのは、「子どもを中心に手を結ぶ」ことによって築いていくものでしょう。「困った保護者にどう対応するか」という意識ではなく、「子どものためにどのように手を結ぶか」を大切にしながら連携していく必要がある、ということをあらためて感じました。 その点においては、「一審の事実認定と判決」には考えさせられるものが大いにあった、現場としてはそこからいろいろな教訓を引き出すべきではないか、というのが私自身の見解です。 日本ブログ村と人気ブログランキングに参加しています ↑ ↑よろしければクリックして投票・応援いただけますか(一日でワンクリックが有効です) 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2009.05.06
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イギリスの教育から何を学ぶか 1998年に発表された「貧困と社会的排除に関する主要指標」は50の指標を使って状況を報告している。(下記は一例:引用者)1、250万人の子どもが、仕事を持たない親のもとで育っている。(・・・)2、毎年、22万人の若者が義務教育をGCSC(中等教育資格)のCの資格を得ること無しに卒業していく。(・・・)3、セカンダリースクールから永久追放される子どもは12,500人で、これは、1991年の5倍になっている。(『イギリスの教育改革と日本』50頁) 「サッチャー教育改革」が主な原因とまではいえないかもしれませんが、1988年から始まる「教育改革」以降、確実に学力格差が拡大しているようです。ブレアー労働党政権は(全国学力テスト実施と学校別公開等、前政権の政策を踏襲しつつも)アンダークラスの形成という上記の現実から出発して、新しい政策を実施していくのです。 具体的には(・・・)1、底辺部分の学力達成をどう向上させるかが大きな独自の目標として設定され努力されていること、(・・・)3、一クラスあたりの生徒数改善目標に見られるように、ヨーロッパの他の先進諸国に遅れてはいるが、労働党の政策は一定の優先性をこれらの改善に与えていること、4、ニューディール政策に見られるように、底辺層の雇用改善と教育訓練とを直結して、底辺層の押し上げを強力に推進しようとしていること、(・・・)などである。(193~194頁) 「底辺層」の学力向上政策、学級規模などの条件整備、そして 「ニューディール政策」 、これらは確かにサッチャー政権の時代には見られなかったものです。 上記「ニューディール政策」についてはNHKスペシャル『ワーキングプア』でも放映されていましたが、 「担当者(全国で9000人)」が市内・国内をパトロールし、職についていない若者を集め、必要な就学援助や様々な技術を身につけるための支援を行うというもので、「貧困家庭」に育った若者に対して実質的で大きな支援となっています。 この番組で「社会的排除防止局」という役所の担当者が登場します。「社会的排除」を防止して「社会につながる」ことをどうすすめるか、これが具体的な政策として実践されているのです。 イギリスの若者の社会的排除防止の対策では、環境や福祉など社会的に貢献している企業(「社会的企業」)における就労訓練が放映されていました。このような「社会的企業」の多くは年間1億円以上の補助を受け、一人当たり13万円の支援を受けているのです。イギリス全体で5万5千社の社会的企業があり30万人がこうしたプログラムをうけているのだといいます。 さて、1967年の『ブラウデン報告』は、当時のイギリス労働党の進める福祉国家づくりの社会的風潮の中、一人ひとりの状況に応じて実質的に平等な教育を実現しようとしており、統合教育やいわゆる「落ちこぼし」「落ちこぼれ」をなくする「アファ-マティブアクション(弱者積極的優遇策)」の立場に立っていました。 他方、学校間競争が進められてきた現在のイギリスにおいて、「統合教育」が後退していることは以前の記事でも述べたとおりです。しかしながら、今のイギリス労働党の政策は『ブラウデン報告』当時の福祉国家作りの理念を「一部復活」させたものだ、といえるかもしれません。 このような点も、イギリスにおける(広義の)教育政策のなかで、日本も学んでいく必要のある重要なポイントであるように思われるのです。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.12.25
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イギリスの教育に何を学ぶか しばらくの間『競争しても学力行き止まり』(朝日新聞社)を中心にイギリスの教育を検証し、教訓にできる点や学べる点について述べてきました。関連して参照した文献が『イギリスの教育改革と日本』(高文研)ですが、内容の一部を紹介しつつイギリスの教育に学べる点を(学力問題よりも広い全人格的教育や社会的排除の防止にかかわって)考察します。 日本のいじめとイギリスのいじめで、興味ある違いが紹介されている。それは、いじめの「仲裁者」(いじめを見て止めようとするもの)と「傍観者」(いじめを見ても見てみぬ振りをするもの)の割合変化の違い である。 イギリスでは中学を境に仲裁者が増加し、傍観者が減少しているのに、日本では仲裁者が減少し続け、傍観者が増加し続けていることである。この問題について森田氏は、日本においては、「(中学生という)社会的な自我が確立し自立した人格が形成してくる時期が機能していないことを示しているのではないか」とし、大きな問題があることを指摘している。〔『イギリスの教育改革と日本』(高文研)62頁〕 『イギリスの教育改革と日本』(高文研)62頁 著者の佐貫氏は「表現の自由」と「民主主義」を重視するイギリスの教育指導と学校システムが、このような違いに何らかの影響を与えているのではないか(・・・)と指摘しています。 そしてまた、「熟達した受験生や高得点者、あるいは従順な従業員をつくり出す」ためではなく、「若者が自分自身や仲間が民主主義社会の一員となれるように、知的に、感受性豊かに、勇気を持って考え、行動することを援助するためにカリキュラムは存在するのだ」(『競争しても学力行き止まり』182頁)というOECDの学力観・能力観が思い起こされますが、「伝統的なイギリスの教育」においてもそのような観点が大切にされていたのではないかと思われます。 「そのような教育」が、いじめの仲裁者を増やし傍観者を減らすことにつながっているのだとすれば、日本の教育はイギリスから(全国統一テストの学校別公開と学校選択制度などよりも)「自分自身や仲間が民主主義社会の一員となれるように、知的に、感受性豊かに、勇気を持って考え、行動することを援助する教育」をこそ学ぶべきではないか、と思われるのです。 以上、私は1980年代後半から始まる「イギリスの教育改革」よりも、それ以前から強固に実践されている「伝統的な教育」の意義に目を向けてきたのですが、「教育改革」を全否定するものではありません。とりわけ、「サッチャー政権が始めた教育改革」と「ブレア政権時代の教育改革」は共通点もありますが、大きな相違点もあります。 ブレア労働党政権の教育予算は1996年と2007年を比べると総額でほぼ倍増し、また、特別なニーズのある子どもたち、「学習障害」、「遅進児」、「問題行動の子どもたち」を対象に「特別支援教育」が展開されたこと、さらには「社会的排除の防止」に向けて国家を挙げて取り組んでいることが注目されます。 この点について詳しくは、次回記事で述べたいと思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.12.21
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「競争しても学力行き止まり 1」におけるコメントのやり取り に関して、私自身考えさせられることが数多くありました。「“討論の継続”はほとんど無意味だ」と一旦は考えたのですが、ブログコミュニケーションにおける私自身の失敗や教訓を記すことを主な意図として記事をアップさせていただきます。 まずはPsycheさんの疑問等への「回答」です。(11.21に準備したもの)>もともと「kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである」>という認識のもとここのコメントのトップに意見を述べました。 そのような意思表示をいただいたのは、「このたびが初めて」ですね。 まず、前回コメント〔11月18日〕の時点における私の認識を述べておきます。 少なくとも、最初のコメントをいただいた時点では「kurazohさんへの私の注文」に対する肯定的な認識の表明はなく、その後、私のブログのコメント欄でも「『教員の立場(弱さ)を認めろ』という意図が含まれていたのではないか」、と述べておられます。 そのような認識であるということを前提にすれば、最初のコメントは以下のように読めてしまったのです。>それができてこそ反対派・賛成派双方にとって>あなたが(教師の自己保身を意図して僭越にも)kurazohさんにおっしゃったような>説得力のある有意義な考察になるのではないかと思います。〔( )内は引用者が補足〕 上記は、他の読者が冷静に読んでも違和感を感じると思うのです。 そして、その違和感を感じるかどうかを左右するポイントは「あなたが私の『注文』を全面的に否定していたかどうか」であり、二つの「注文」が同質であるか異質であるかとは別問題だと思います。>私の注文行為を否定することで>あなたのkurazohさんへの注文行為をあなた自身が否定することに他なりません。 私は「前向きな意志を持って」真剣にkurazohさんに「提案」いたしました。 そして、11月18日のコメント欄で「純粋に前向きに受け止めていません」と述べたのは、Psycheさんのコメント(当初)について、その「意図」に関しても「実際に行ったこと」に関しても問題がある、と判断していたからです。 そして明らかにすべき点は「その“認識”が誤解であるかどうか」です。「いきさつをご存知でない多くの読者の前で『kurazohさんへの私の注文とPsycheさんの注文が同質であるかどうか』という意見交換をすること」は望むところではありません。 さて、繰り返しますが、以上はあくまでも11月18日の時点における認識であり、「親修行中さん」のコメントを受けて、かなり考えさせられました。その点において、私は「親修行中さん」に心から感謝しています。まず、>発言に隠された意味を露にすることが、私にはそれほど重要とは思えないという意見については「まさにそのとおり」だと思ったのです。 確かに「もともと『kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである』という(Psycheさんの)認識」が、それ以前の記事やコメントの内容と多少矛盾する面は感じます。(何しろ明記されていなかったわけですから。) しかし、文月さんの言葉を借りて「どう考えるのがよりよいか」という観点からすると、最初のコメントの中に「皮肉」を読み取って追及することには何の意味もなく、「素直に受け止めたほうが私自身にとってよりよい」ということには疑いありません。 つまり、「ブログでの発信やコミュニケーションをより豊かなものにしていく」という観点からは、「皮肉・牽制ではないか」という「認識」にこだわりすぎていたわけです。このたび、Psycheさんから「kurazohさんに注文を出したあなたの態度は前向きである」という意思表示をはっきりいただきましたので、これまでのような「認識」は修正させていただきます。 続いて、別の反省点です。 私にとって「感情」や「情念」それ自体は大切なものです。文章の論旨を捻じ曲げたり、視野を狭めたりすることにつながりさえしなければ・・・。しかし、私のPsycheさんに向けた前回の質問がいわば「責め立てる」ような表現になっていたことは否めない と考えます。(それがPsycheさんの「返信」の文体・表現に影響してしまったのではないか、と反省しています。)語調が失礼なものになっていたことについて、お詫び申し上げます。 それでは、Psycheさんの当初コメントの「意図」ではなく「内容」についてどう考えるべきでしょうか。前回コメント(11月18日)において「私ならこうする」ということを述べました。本来そうすべきであり、あの段階におけるPsycheさんの「注文」には問題がある、というのが私の認識でした。 しかしながら「私ならこうする」⇒「こうあるべきだ」、という考えにとらわれていた点も否めないと思います。確かに、少し柔軟に考えれば「Psycheさんのような『注文』は絶対するべきではない」ということには決してならないでしょう。 「前回コメント」において「本来あるべきでない(従って前向きに受けとめていない)」という趣旨のことを書きましたが、その点についても再度修正させていただきます。 ただ、「どうするのがよりよいか」という観点からすると、やはり「論の途中であれば、その展開を待ってから意見を述べる。討論を通じて別の文献を対置する必要があると判断したときは自ら提示すること」 がより望ましいと考えます。 また、仮に最初の注文が「イギリスの教育改革を検証したもので“競争”や“改革”を肯定する立場の『○○』という文献もあります ので、ご一読の上“多角的な考察”を期待します」ということだったとしたら、「相手にすべて下駄を預ける(無責任な)コメント」といった受け止め方もされなかったでしょう。(実は、上記のような文献は探しても見当たらなかったので、私としても困ったのです。) 今後の問題として、大多数の人に受け入れられる「より良い注文」を目指していくことは大切ですよね。 以上、確かに、本ブログ上(「競争しても学力行き止まり 1」)での意見交換がこれまで「建設的なもの」にならなかった面は多々ありますが、今後の貴重な教訓にしていくことが自分にとって「よりよい道」なのではないか、と思っています。 「コミュニケーションにおいて一番大切なものは“信頼”であり、“不信感”を基盤にしていては不毛な論議になる」ということを、私の「失敗」とともにあらためて確認させていただきます。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。)
2008.11.25
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私がU高校で行われた論議を紹介した次の記事(「子どもの成長可能性」2008.2.28)に、文月さんから「強烈なコメント」をいただきました。 不充分ながらも「応答」したいと思います。 根本的な問題として、教職員は「既成の学校秩序」が当然のものという「独断」を前提に、それこそ上から目線で「子どもたちの成長」を論じているだけではないか、そもそも「子どもの人権」から出発する議論が欠けているのではないか、という主張のようですね。 正直、文月さんの厳しい追求に対して「満足いただける回答」はできそうにありません。文月さんの眼から見れば私は「共犯」または「主犯」にあたる教員でしょう。 しかしながら、「少数者」の問題提起を「無意味なもの」と切って捨てる立場ではありません。「問題提起」を私なりに分けながらまとめていきます。1、「教職員の意識の問い直し」について 私はKさんの講演をもとに、「U高校内で行われた論議」を紹介しましたが、その中には「人権擁護活動の一環として茶髪にしている生徒」がいるかもしれない(U高校にいたかどうかは別として)、という視点が入っていないことは確かです。「少数者」の視点を欠落させた論議には問題があるのではないか、という指摘は受け止めていく必要があると感じました。 とりわけ、学校現場において様々な場面で「生徒の人権から出発する」論議が極めて不充分である、という点については「改革」していく必要があると考えます。2、「人権侵害の問題」について>頭髪、服装、行事への参加等の自由選択など、生徒の人権が保障されなければなりません。 「そのような意見があること自体」は受け止める必要があります。しかし、例えば「学校が制服を定めてそれを着ることを求めたり、頭髪に規制を加えることは人権侵害であり許されない」という主張は「絶対に正しい」ことが保障されているわけではないと考えます。(私もかつては文月さんのような考え方が「絶対に正しい」と信じて先輩教員と激論したものですが・・・) 確かに「人権の大切さ」については広範な社会的な合意が成立しています。例えば「天然の頭髪(茶髪)を黒く染めさせる」といったことは明らかな人権侵害でしょう。しかし、例えば、「公立高校が制服を定めたり、頭髪に規制を加えるのは、憲法で定められた基本的人権を侵害するものである」という形で、学校や自治体を相手に訴訟を起こした場合、結果がどうなるかは難しいと思います。3、「“志士”への対応」について かつては私自身が「志士」であったのかも知れません。(あなたの眼から見れば、今は「堕落した大人」なのでしょうか。) 生徒会の担当が長かったこともあって、何度か「校則」をテーマにした論議や取り組みをしたことがあります。基本的には「不要なものは見直していく」、という立場でした。 例えば、「新たな校則を定める」取り組みに「学校が生徒会の参加を求める(悪く言えば利用する)」動きに対しては、「本来生徒の要求を代表すべき生徒会執行部の立場がなくなる」ということで、生徒とともに「拒否」をしたり、会議で激論の末「提案を否決」したこともあります。 生徒総会で出された「“服装指導”に関する生徒の要望」を取り上げて、「生徒代表と職員代表の話し合いの場」を設定し、「指導の基準を緩和した」こともあります。実をいうと現在も、「校則指導の基準の緩和」について職員同士で意見交換をしています。 ただ、文月さんと異なるのは、「(現時点では)制服=学校のユニフォームを定めることを容認していること」、「頭髪に関する規制も一定容認していること」です。 確かに、「ルールとは(本来)色々な人が共存していくための約束事」であり、他者に迷惑をかけないことについては「基本的に自由であるべきだ」という視点は大切だと思います。しかし、茶髪・金髪にしたり制服を変形させてきた生徒は、「人権闘争の志士」だけではありません。「そのような生徒の多い学年・学校」の中で「人に迷惑をかける行為」が多発することをかなりの教職員は経験しているでしょう。 他方で、例えばバンドを熱心にやっている子が「その時だけスプレーで金髪に染めてライブで盛り上がる」ことは問題ないでしょう。私服でおしゃれをして「解放された気分で遊びに出る」こともいいことですね。しかし、「学校内で落ち着いた気分で学習していく雰囲気を大切にするならば、制服や頭髪に関する規制は無いよりあった方がいいのではないか」というのが、ほぼ学校における(あるいは半数以上の保護者の)「暗黙の合意」だと思うのです。 私自身はそのような「合意」を「現実に容認」しています。しかし、それに対する反論も含めて「現状を変えていくために意見を表明していく場」は大切だと考えています。私が所属する「高生研(民間教育研究団体のひとつ)」では、学校代表、保護者代表、生徒代表による会議「三者協議会」の取り組み(実践報告)がしばしば登場します。 かつては当たり前であった「男子への丸刈りの強制」「制帽の強制」も、少数者が声をあげることから出発して変えられていったのでしょう。 「現状の校則は人権侵害であり真っ向から論議して変えていきたい」という「骨のある志士」に出会った時は、そのような論議や場の設定も含めて応援していきたいと考えています。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.11.18
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「教育失敗学から教育創造学へ」でブログ主のkurazohさんは次のように述べておられます。1、ピンチをチャンスに>「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」から教師は脱皮して、「打たれ強い」「逆境に強い」「逆風を追い風に変える」教師に生まれ変わるのは難しいことでしょうか。2、教師はなぜ批判に弱いのか その1 のコメント欄>そのような関係(どうしてわかってくれないのかといった)が、昔の文科省と日教組、(・・・)、一部の教師と「モンスター」扱いされる保護者との間に見られるので、いつまでたっても教育の議論が「子ども不在」になってしまうのですね。子どものけんかと同じようなレベルでしょう。 上記の記事、およびコメントは全く違ったタイミングで書かれたものですが、両者の「つながり」にもこだわりながら「教育における批判と連携」について述べたいと思います。 確かに批判を正面から受け止め自己成長の機会にしていくような強さを持つことは大切でしょう。それは教職員に限らず保護者さらには全ての人間にとってそうだと思います。 しかしながら、「こうあるべきだという正論」だけで人間は成長するかと言えば、そう簡単ではありません。 例えば(上記のように)、一部の教師と「モンスター」扱いされる保護者との間に見られる関係を「子どものけんかと同レベル」と断じるだけでは、あるべき連携の展望は見えてこないでしょう。 保護者に関して言えば、確かに「幼少期から子どもに最も長い期間接するのは保護者であり、子どもがどう育つかについては最大の責任を負っている→保護者は子どもの問題点について何らかの指摘や批判を受けた時はそれをきちんと受け止めて、子育てのあり方を問い直していく必要がある」というのも一つの正論でしょう。 しかしながら、子ども自身に問題が見える時、少し家庭の状況を質問しただけで保護者が過敏に反応し、逆に「学校の指導のあり方」について通常では考えにくいほど激しく追求してくる場合はしばしばあります。 このような保護者は以前から「クレーマー」と呼ばれ「困った親」と見なされていました。しかしここでも「困った親というのは困っている親だ」という小野田正利(阪大大学院教授)の発言は妥当だと思うのです。 私自身の実感でもあるのですが、「子どもの問題点」を指摘した時にクレームをつける保護者というのは「もしかしたら自分の育て方がが悪かったかもしれない。しかし、そう思いたくない。」という二つの思いが葛藤している場合が多いと思います。 水谷修氏も指摘していますが、保護者が心の余裕を持ちにくくなっている状況の中、保護者を責めて追い込まないようにする、ということは大切なことだと思うのです。むしろ、そこでは子どものプラス面を伝えたり、気づいてほしいときには「親としての失敗談を(エピソードとして)教員が語る」といった対応が適切でしょう。 kurazohさんは「褒められたい症候群」「褒められないと不満症候群」という言葉を使っておられます。確かに「褒められなければ批判と正対できない」ということは問題でしょう。しかし、「褒められたい」ということ自体はある意味で人間の真実だと思うのです。実際、 「批判を受け入れて自己変革すること」は簡単にできません。これは教職員だろうと保護者だろうと同じことでしょう。 根本的に「人間(自己意識)は人から認められること(承認)を求める存在」であり、それが満たされない状態に置かれると、深く傷つく存在です。 私は以前、 「学校の力を高める」2で「U高校の実践」と「船井幸雄氏の経営者指導」を例に「褒めること」、「承認すること」を軸にした「学校づくり」、「企業指導」について紹介しました。 上記の実践は、教職員と保護者とが好ましい連携をとりながら、ともによりよい教育を創造していく上でも、大切な点を示唆しているように思います。 教育問題に関する特集も含めてHPしょうのページに(yahoo geocitiesの終了に伴ってHPのアドレスを変更しています。) ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.10.05
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この間「学力低下」論議が一人歩きし、子どもたちを競争させ教職員を競争させ追い立てていくような検討が「中央教育審議会」や「文部科学省」などを中心に進められてきました。しかしご存じですか?「学力世界一」となったフィンランドは競争もテストもしない国なのだそうです。 『週刊東洋経済』1月12日号では「北欧」の社会や経済、教育をテーマに本格的な特集が組まれました。その一部を引用してみましょう。学力が高い子が育つ「フィンランド式」の真実 フィンランドの子どもたちは学力世界一であるという。(・・・) フィンランドの子どもたちが高学力を示したのは、PISAにおいてである。これはすなわち、OECDが各国の子どもたちに求めている学力を養うという点において、フィンランド教育が優れているということを意味する。 では、OECDが各国の子どもたちに求めている学力とは何か。それは、「問題を見出し、解決する力」である。そして、フィンランド教育の一つの特徴として挙げられるのは、就学前(6歳)から徹底して「問題解決力」を養うこと。つまりOECDのいう学力と、フィンランドのいう学力は一致しているのだ。(詳しい記述内容やコメントについてはHP“しょう”のページへどうぞ) また、フィンランドに何度も行かれた都留文科大学 福田誠治氏の講演や著書は、日本の現状を考え直す一石となりうるものです。ぜひ読んでみませんか。 福田誠治氏へのインタビュー記事もこちらです。HP “しょう”のページ グローバル化で大企業が海外の安い労働者を争って求める中、携帯電話の販売シェアで世界一を誇る「ノキア」がなぜ多くの労働者を国内で採用しているのか? フィンランドの教育にその鍵があるように思われます。 ↑ランキング(日本ブログ村)はこちらです
2008.01.21
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去る12月21日の新聞等で報道されたように、2008年度予算において教育関係費を増額し、教職員数を増員するという「財務省原案」が示されました。 きわめて不十分ながらも一歩前進であり、何より「現在そしてこれからの社会を考えた時、教育条件整備が重要だ」ということが「文部科学省」と「財務省」などによって共通認識されたという点では評価できます。 しかし、NHKスペシャル『ワーキングプア』で描き出されたような実態は、「教育環境自体を破壊してしまう社会の実態」であり、それに対する根本的な対策を進めていくことなしには「この国の将来に希望はない」ということになるでしょう。 『ワーキングプア』の実態は、以下に引用するような現実と直結していないでしょうか。(水谷修講演会に参加して) 今の日本で遺書を残さない「自殺」の大部分は事故として処理されており、それを含めると自殺者は年間3万人や4万人なんてものではない、という話を「水谷修講演会」で聞いた。水谷のもとには毎日「助けを求める悲鳴のようなメール」が殺到しているというが、個人はもちろん「公的機関」にも抱えきれないような数多く問題や切迫した状況がある。 たとえ「生きるか死ぬか」というところまではいかないにしても、「無力感や生き難さ」を抱えた個人は日本人の多くを占めるのではないだろうか。「民間企業の力が弱い」といわれる鳥取県においても現実の状況がより軽いものであるはずはない。私の身近にも児童虐待を受けてきた子どもをはじめ心の不安定な子どもたちがいる。 水谷は言っている。「現代は世の中全体が“イライラ”していて“やさしさ”が隠れてしまっているようです。子どもの多くはその被害者です。しかし、大人たちが本当は持っているはずのやさしさも伝えていくべきだったのではないか、と今は思っています、」と。 環境問題への取り組みも含め「企業の社会貢献活動の意義」が声高に言われます。しかし、労働環境を改善することで「まともな教育環境を整えていくこと」こそが企業に求められる「貢献」ではないのでしょうか。先を見通しつつ対応していくはずの経済界がそのことにたいしてあまりに鈍感ではないか、と思わずにはいられません。
2007.12.23
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