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旅客機のコックピットでの一枚 2017年10月1日のことである。イグアスの滝を観光して午後の航空便でブエノスアイレスに向かった。ところが、搭乗した旅客機は、離陸後しばらくして悪天候のためにイグアス空港に再び戻ってしまった。 しばらく乗客は機内待機となった。天候の回復具合を調べている模様である。ふと前方を見るとなんとコックピットが開いていた。写真でも撮れたらと思って機首の方に向かった。すると、やはり乗客たちが写真撮影をしている。 自分の番になると、機長席に座らせてくれて機長自らが写真を撮ってくれた。天候悪化というハプニングのおかげで、とてもありえない貴重な体験をすることができた。「機長席でのスナップ」(今思えば、南米ならではのおおらかさだったと思う) 機長席が客席側に開放されること自体が異常である。その上に機長席での写真撮影なんて・・・。乗客に迷惑をかけたので、待ち時間にサービスで行っていたのだろうが、日本いや世界のどこででもありえないことだと思う。 搭乗時にチェックを受けているので、爆発物や可燃性のものを持ち込んでいる者はいなかったろう。それにしても、乗客にコックピットを開放し、しかも機長席に座らせえてくれるなんて、規定違反で処罰される行為ではと思ったりした。 結局天候は回復せず、乗客はイグアス空港に降りてホテルを案内された。このあたりのやり取りは、同行していたボリビア在住の従姉がやってくれて助かった。空港スタッフは英会話も出来たろうが自分の英語力では心もとない。 バスでホテルに向かう途中、道路上に大小の木の枝がたくさん道に落ちていた。ここイグアスでも風雨が激しかったようだ。翌日。天候は回復して無事にブエノスアイレスに向かうことができた。 7年前の今日、地球の裏側での出来事である。↓ランキングに参加しています。良かったら下をクリックして下さい。写真日記ランキングパタゴニア、アンデス、アマゾン 大自然ガイド [ さかぐち とおる ]価格:2,200円(税込、送料無料) (2023/10/26時点)楽天で購入
2023/10/01
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七色の煙の街から、澄んだ空・おしゃれな街へ 昨日(14日)から1泊2日で北九州市に研修旅行。昨日は、当地の人権擁護委員協議会の活動内容を聞き、意見交換をしたり、成人の障害者の自立支援をしている施設を見学して説明してしてもらった。 ずっと昔のこと、大学受験でこの町(小倉)に泊まったことがある。時は、高度成長期の終わりごろで、洞海湾沿いには製鉄所や火力発電所が立ち並んでいた。当時の北九州市の市歌には「七色の煙」が誇らしく歌われていた聞いた。「朝の光景」(ホテルの窓から、秋の終わりを告げるような街路樹の紅葉) まず、この朝の風景が新鮮だった。昨夜は分からなかったが、清潔で道路にはゴミひとつない。観光地門司港レトロには何回か行ったが、ふつうは観光地と日常の生活の場は違う。小倉の街は、まるで日本の他の街とちっとも変わらないくらいきれいだった。 これは、日本では当たり前のことである。でも、中国や韓国から来た観光客がこのような光景を見たら「きれいですねえ」と感嘆するのだ。 数十年前に大学受験で小倉に泊まった時、やたらに埃っぽく煤けていて、4年間過ごすのはまっぴらだと思った。時は流れ環境対策も進んで、小倉の街は見違えるように清潔な街に変貌していた。「朝の小倉城」(開館前で入場しなかったが、小倉のシンボル的存在となっている) 小倉城は戦国末期に中国地方の毛利氏が築城した。江戸初期に細川氏が改築したが熊本に転封となり、その後は江戸時代を通じて小笠原氏が小倉藩を領した。小倉城は他の城と違って空襲で焼失したのではない。幕末、幕府による第二次長州征伐の混乱のなかで小倉藩自ら焼却したという。 1959年に再建されたとき、史実に基づいて当初の設計図には破風がなかった。しかし、見栄えをよくしようとの意見が観光関係者から出て現在の形になった。もともとなかった天守閣を、破風を持つ桃山風に再建した九州の某市と似たような経過である。「閑散としている立派な建物」(夜にはにぎわうのだろう。暴力団工藤会も弱体化し明るい街づくりが進んでいる) 北九州市は、門司、若松、戸畑、八幡、小倉の五つの市が対等合併して誕生した。1863年のことである。人口は約105万人で、1978年に福岡市に抜かれるまでは九州第一の人口を誇った。1979年の108万6000人をピークに減少に転じ、2005年には100万人を割った。現在の人口は約94万人である。(2019年10月1日推計) そのあと、揚げたての唐揚げや新鮮なお刺身、美味しいものがずらりと並ぶ旦過(たんが)市場を見学した。朝食後間もないために触手は出なかったが、当地では有名な庶民の台所であり、観光名所でもある。 朝の散策のあと、わが国初の製鉄所、官営八幡製鉄所のモニュメントである東田高炉を眺める場所にある北九州市立「いのちのたび博物館」を見学した。ここを十分には見学する時間はなかったが、自分は「太陽系の誕生から現代まで」というその壮大な展示内容には満足したのである。まさに「いのちのたび」、我々の人生は、その気の遠くなるような長い長い時間のほんの一瞬なのだ。 「いのち」について語るとき、「太陽系の誕生、生命の誕生、人類の誕生・・・という長い長い前語りがあるのだ。それを思えば、今自分たちが些末なことで悩んでいるなんかなんとちっぽけな事か。 こんなことを考えると壮大な気分になり、心も体も悩みからも痛みからも解き放たれるような思いがする。恐竜の模型や古生代の化石などを見ながらそう思った。つい文が理屈っぽくなるが、この博物館に行ったことも今回の研修旅行の大きな収穫だった。↓ランキングに参加しています。よかったら下のアイコンをクリックしてください。にほんブログ村《新品》 SONY (ソニー) α6600 ボディ ILCE-6600 [ ミラーレス一眼カメラ | デジタル一眼カメラ | デジタルカメラ ] 【KK9N0D18P】価格:159819円(税込、送料無料) (2020/2/2時点)楽天で購入
2019/11/15
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たこ焼き味、これぞ大阪 今回の大阪への旅は手荷物だけで搭乗するため荷物はできるだけ減らした。男2泊3日の1人旅なら身軽なはずだが、フルサイズ、マイクロフォーサーズ、コンデジと3台のカメラを持って行ったので、結構荷物は多くなった。一番大きなリュックになんとか詰め込んだ。 最終日、空港の手荷物検査を抜け、搭乗待合室の売店で少々お土産を購入した。ありきたりだが、大阪限定と銘打っているお菓子を買う。少々かさばるが機内持ち込み手荷物の許容範囲に収まる。「たこ焼き味」(6代目グリコサインのパッケージ、たこ焼き味ポッキーとえびせんは濃い味でこれぞ大阪) カルビーは1949年に広島で松尾糧食工業株式会社として創業した。1955年にカルビー製菓株式会社に社名を変更したが、「カルビー」とは当時に日本人に不足していたカルシウムとビタミンB1を組み合わせた造語という。 1964年に瀬戸内海の小エビを使った「えびせん」がヒットした。1972年にはポテトチップス「サッポロポテト」を発売した。現在は北海道の1300のじゃがいも農家と契約していて、専用の運搬船も持っているというから、子ども相手のお菓子会社といってもなかなか侮れない。 一方江崎グリコの歴史は戦前にさかのぼる。創業者の江崎利一(佐賀県出身)が1922年、カキの煮汁からとったグリコーゲンをキャラメルに入れて発売したのが始まりである。1927年におまけつきグリコ発売「ひとつぶ300メートル」のキャッチフレーズも有名になった。 1933年に酵母菓子「ビスコ」を発売した。グリコーゲンといい酵母といい、当時はお菓子であっても栄養や滋養が宣伝文句だった。「カルビー」同様に時代の状況を反映しているのだ。「6代目の電飾看板」(キャラメル以後、アーモンドチョコレート、プリッツ、ポッキーなどがヒットした) 江崎グリコの歴史は古いが、大阪の道頓堀川にかかる戎橋から見る、ランニング姿のランナーの電飾看板が有名である。初代の看板は1935年、高さ33mの鉄塔上に設置されたネオン看板だった。この鉄塔は戦争中に撤去されたが、戦後1955年に看板は復活する。その後数度のリニューアルを経て、現在の物は2014年にデビューした6代目という。なんと80年以上の歴史があるのである。↓ランキングに参加しています。良かったら下のアイコンをクリックしてください。 にほんブログ村ソニー α6600 ボディ価格:161768円(税込、送料無料) (2019/11/5時点)楽天で購入
2019/09/20
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法務省旧本館にある法務資料展示室を見学 23日午後3時、3日間15時間の研修が終わった。羽田発の飛行機は18時発である。折角東京に来たのにあまりゆっくりと見物も出来ない。そこでまずは、法務省旧本館のある法務資料展示室をたずねた。ここだけはぜひ見ていきたいと思っていた。「合同庁舎6号館A棟の地下一階広場より」(旧本館を裏側から見上げる、3階が法務資料展示室になっている) 江藤新平といえば、佐賀の乱の首謀者として記憶している人が多いだろう。残っている写真も和服姿のため、士族の反乱の首謀者としての印象が強いかもしれない。ところが、法制度整備の面で、当時としてはとても革新的な考え方を持ち、江藤は初代法務卿(法務大臣)としてそれを実行した。「明治年当時の司法省幹部」(前列右から3人目が初代司法卿江藤新平) しかも、江藤新平は法務資料展示室ではとても高く評価されているのである。佐賀人としてはこのほかに、副島種臣や大木喬任などのパネルも掲示されていて、いささか佐賀人としては鼻が高い。といっても、厳密には旧佐賀藩地域の人にとってという但し書きがつくかもしれないが。(現佐賀県は、外様大名の鍋島氏の領地と7人の譜代大名が治めた唐津地方を合わせたもの) 資料展示室に入ると、正面に江藤新平は新しい司法制度の構想を「司法職務定制」としてまとめる。これは1972(明治5)年の司法卿就任からわずか3か月後のことだったと言われる。「司法職務定制」(日本の司法制度の基本となった、この展示室でも第一級の資料として扱われている) この「司法職務定制」は、法務資料展示室の入り口の正面に展示してあった。「写真撮影は接写以外ならいい」と掲示してあったので、全体を写すふりをして、コンデジRX100Ⅵのズームを200mmにして写すと、ちゃんと江藤新平の文字が写っていた。「江藤新平の名前」(なんで接写がいけないのだろう、他の人の観覧に迷惑になるからかな) 江藤はその後民法の制定に取り組んだ。彼は民法について司法卿就任前から研究していた。そして、1873(明治6年)3月に「民法仮法則」を作成した。裁判制度についても、英国やフランスなどの三権分立制度の導入を考えていた。ところが、この案は、行政権と司法権は一体であると考える政府内の保守派から反対を受けた。 江藤新平の政治生命は、明治6年(1873)の政変によって大きく左右された。西郷隆盛の征韓論に同調した江藤は、同年10月24日に西郷隆盛、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎らとともに下野(政府を辞すること)した。そして、翌年1月12日に民撰議院設立建白書に署名して帰郷を決意する。 佐賀には新政府に不満を持つ不平士族が二派にわかれていた。憂国党と佐賀征韓党である。夕刻党の首領には北海道開拓使判官だった島義勇(よしたけ)が担ぎ上げられ、江藤新平は佐賀征韓党の首領に推された。大隈重信、板垣退助、後藤新平らは江藤の帰郷を強く止めた。下野し帰郷したことは、新政府の実権を握った大久保利通の思うつぼだった。のちに西郷隆盛も同様の運命をたどっている。 佐賀の士族は当初は勝利をおさめたが、大久保利通が自ら佐賀に向かうと政府軍の前になすすべがなかった。江藤は佐賀征韓党を解散し、鹿児島の西郷や土佐の民権派に士族の挙兵を乞うが断られる。その後、岩倉具視への上申書を携えて上京を試みるが、徳島県安芸郡東洋町付近で捕縛される。 この江藤の困難な逃避行につては松本清張の「梟示抄(きょうじしょう)」という短編に描かれている。また、司馬遼太郎は「歳月」という長編小説の中で江藤を取り上げている。 その後の大久保利通の措置は異常にも迅速だった。江藤は公平な裁判を受ける権利を主張したが、その主張は一蹴されてしまう。江藤は佐賀に送られ4月8日に形だけの裁判を受け死刑を宣告される。13日に死刑が執行され江藤の首は嘉瀬川に晒し首とされた。法律制度の基礎を創った江藤新平は、形だけの裁判で、一応は法のもとにおいて処刑されたのである。 江藤新平は薩摩長州の藩閥政府が、江藤の民主的な法制度を認めなかったことに不満を持ったのであり、新政府を転覆する意図はなかった。政府は下野しても帰郷しなかった同じ佐賀人の大隈重信、副島種臣、大木喬任らはその後も政府内で活躍する。「副島種臣についてのパネル」(彼はフランスの刑法を参考にして、刑法の編纂に尽力した~法制資料展示室で) その後江藤は、1889(明治22)年、大日本帝国憲法の発布の時の恩赦により名誉を回復された。1916(大正5)年、正四位を追贈されている。墓は佐賀市内本行寺にあり、墓碑銘は書家としても有名だった副島種臣によるものである。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村ソニー SONY コンパクトデジタルカメラ Cyber−shot(サイバーショット) DSC−RX100M7価格:161546円(税込、送料無料) (2019/9/5時点)楽天で購入
2019/08/23
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皇居を見下ろす食堂で 合同庁舎6号館A棟の20階にあるレストランには名物のオムライスがあるという。数量限定で人気があるようだ。我々の研修は11時半に終わり1時間のランチタイムがある。1日目(21日)は会議室のある地下一階のソバ屋でとろろそばを食べた。 折角だからと、今日は一団となってエレベーターに向かった。20階に着いたら、食券販売機に「今日のオムライスは売り切れました」とあった。仕方なく600円の焼カレーなるものを注文した。「皇居を見下ろす」 (ガラス越しで天気も悪く写りは良くないが、左が皇居で中央に二重橋前広場がある) 同席の6名はそれぞれ他県から来た研修生で、自分よりおそらく人生の先輩ばかりである。中でも南国高知の女性が元気で活動的な人で、民生委員や子ども食堂の運営にもあたっているという。典型的な土佐の女性でこんなひとを「はちきん」というのだろうなと思った。 そうこうするうちにそれぞれのメニューが運ばれてきた。焼カレーはつまりカレードリアみたいなものだった。12時過ぎてこの建物で働いている人たちも入って席は満席近くなってきた。「カレードリアっぽい焼カレー」(20階の高層から都心を眺めながら昼食するのもめったにできない経験である) そのうちに、隣に席を占めた同じ研修生の4人に名物の「オムライス」が運ばれてきた。訊いてみると彼女らは昨日から予約注文していたという。そういうシステムもあったのか、知らなかった。なおさら食べてみたくなった。といっても、次にここに来ることはないだろうけど…。「名物のオムライス」(写真だけ撮らせてもらう。作るのに時間がかかるだろうから、数量限定は仕方ない) 食堂は優に100人以上は収容できそうだ。そこでみんながオムライスを注文したとしたら、厨房は大変なことになる。添え物の楕円形の揚げ物が気になった。これは多分ハンバーグではなくコロッケだったろう。 話しはそれぞれの県の状況などになったが、昼の部の講義開始時間が迫ってきた。それぞれ職場で相当の役回りにいた人たちだけに人をそらさない。黒一点の自分にも話題を振ってくれた。自分が佐賀だというと、焼物、嬉野温泉、呼子の活きイカなどの知名度が高かった。 法務省にいるのに、初代法務卿(法務大臣)が佐賀主審の江藤新平だということは知られていなかった。これは案外の盲点で、実はこの時自分も忘れていたのだ。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村DSC-RX100M6 ソニー デジタルカメラ「Cyber-shot RX100M6」価格:117799円(税込、送料無料) (2019/9/2時点)楽天で購入
2019/08/22
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3日間、15時間の研修 昨日(8月20日)に着いたのだが、ホテルにチェックインしたのが20時を過ぎていたため、前泊のメリットを生かせなかった。第一日目の研修は午後からなので、少し早めに着いて研修場所である法務省のある合同庁舎の周囲を歩いてみた。「桜田門付近」(1860年、桜田門外の変で凶刃に倒れた井伊掃部守(井伊直弼)の屋敷はこの地図の左上付近) 雨が降っていて余り歩く気分にはならない。昨日は羽田空港から銀座のホテル(地下鉄有楽町線新富駅近く)に着くまでにかなり歩いた感じがする。わずか2.3駅ぐらいずつの区間を乗るために乗り変え駅の構内を随分歩かされた。都会の人は良く歩く。 慣れていないせいもあるだろうが、都会に来たらやはり歩き疲れる。東京駅も皇居前もすぐ近くなのだが、数年前に行ったので2回も行かなくてもいいかなと思ってしまう。「法務省旧本館」(1898(明治28)年に完成したレンガ造りの法務省本旧館) 赤レンガの建物は歴史を感じさせる。東京駅と同じ印象を受けるが辰野金吾の設計ではない。「お雇い外国人」のドイツ人建築家の設計であると説明版に書いてあった。1923年の東京大震災ではあまり被害はなかったが、1045年の東京大空襲ではレンガを残して焼失した。現在の旧本館は1994年の復元再建によるもので、法務総合研究所、法務図書館として利用されている。 今日は旧本館を左に見ながら反対側に出て、新合同庁舎の入り口から入った。都営地下鉄桜田門駅5番出口からだったら、旧本館のレンガ造りの門から入ったほうが近かった。「法務省のある合同庁舎6号館A棟」(地上21階、地下4階。広角レンズでも一番上まで入らない) 今日から3日間の指導者研修に全国から74人の人権擁護委員が集まってきている。その年齢構成は、職の性格上現役を引退した人が任命されるケースが多いため70歳代が中心である。研修では、隣席の人との意見交換やグループ討議などもあって、教育現場と同じようにアクティブラーニングの主砲を取り入れる講師が多かった。 9人の講師による講義や演習が12単位(12時間)、グループ討議が3単位(3時間)、合計15時間の講義が今日から3日間続く。4年ぶりの東京だがゆっくり見物する余裕なんてない。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村《新品》 SONY (ソニー) Cyber-shot DSC-RX100M6【¥10,000-キャッシュバック対象】 [ コンパクトデジタルカメラ ]【KK9N0D18P】価格:126655円(税込、送料無料) (2019/8/30時点)楽天で購入
2019/08/21
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油断大敵 阿蘇内牧温泉の帰途、大観峰を経由して若葉のきれいな菊池渓谷に立ち寄った。こんなシーズンにはめったに来ないので、少し時間をかけて写真を撮ろうと思った。 車を駐車場に置きに行く二人と別れ、一人で渓谷沿いの道を登っていった。今回は撮影旅ではなかったので、機材は標準レンズ付きのマイクロフォーサーズとコンデジだけだった。 服装も渓谷に入るには軽装だった。前夜は24時過ぎに寝たが、例のごとく旅の宿では不眠がことさらひどくいので睡眠不足でもあった。そのあたりにすでに伏線はあったのである。「ここまでは良かったが」(その他に数枚を遊歩道から渓谷を眺めることが出来る場所で撮影した) その後さらに300mほど登ると、渓谷の流れに石が転がっていて、飛び移れるような距離で並んでいる。そこに安易に渡ろうとしたのがいけなかった。スニーカーが滑って下半身が水没、右手に持っていたカメラは一瞬水中に没したがすぐに引き上げることが出来た。 幸いに転倒は免れたので、何とか流れの中の石の上に這い上がった。右ひざを打って痛みがあったが大きなけがではなさそうだ。上半身もシャツ全体にしぶきがかかり濡れている。渓谷の水は阿蘇の伏流水でとても冷たい。寒さが募るがそれよりも問題は水没したカメラだ。「一応撮影してみると」(タオルもなかったので表面の水滴を振り切って撮ってみたら一応撮れている) カメラは何とか撮影できる。さすがに防塵防滴の本体とレンズのセットだけのことはあると思った。遊歩道を途切れなく観光客が通るので、しばらくはさりげなく岩の上で撮影していた。 同行の二人もなかなか来ないので、靴と靴下を脱いではだしで川に入った。こうすればすべることなく歩けるし、岩と岩を安全に渡ることができた。 そしてさらに遊歩道を上の方に登り、つり橋のかかっている撮影ポイントで、さらに撮影をしながら二人を待った。ここでもカメラは何とか無事のように思えた。水の流れを表現するために、感度を落として絞りを絞り込んで、シャッター速度を1/8秒とか1/2秒にして撮った。「つり橋の上から」(ホントは下に降りて撮りたいが、ひざは痛いし寒いし、橋の上からがやっとだった) そのうちに二人がやってきて、ことの顛末を話しながら駐車場の方に戻っていった。改めて動いてみると足はさほどダメージを受けた感じではなかった。不幸中の幸いだった。 車の中で昨日の服装に着替える。コンパクトカーだけどルーフが高いのでこんな時にはありがたい。着替えをしてやっと少し落ち着いた。カメラのチェックは家に帰ってからのことになるが、メーカーの点検を受ける必要はあるだろう。たまたま無料点検に申し込んでいたところだった。 幸いにも滑落した場所の水深が1mほどしかなかったので無事だった。渓谷の水は10秒と手をつけていられないほど冷たかった。水深が深くて流されていたら危ういところだった。遊歩道を降りていたら、滑落した場所の対岸に「水難事故に注意」という看板があった。 まかり間違えば、10連休の最後に全国ニュースとなって流されるところだった。自分の体力やコンディションを考えてもっと慎重に行動しなければと自戒した。↓ランキングに参加しています。良かったら下のアイコンをクリックしてください。 にほんブログ村
2019/05/06
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豪雨の中、お出かけ 熊本地震以来交通網の断絶も続いているが、熊本応援の一環として南阿蘇俵山温泉の宿に泊まった、 竹のオブジェが美しい。この宿も地震の被害を受け、昨年7月にリニューアルオープンしたという。広い露天風呂の気持ちよかったが、個室の露天風呂も24時間かけ流しで、とてもぜいたくな気分になった。「個室露天風呂もかけ流し」(泉質は単純アルカリ泉で、くせのない肌ざわりである) もう一度といわず泊まりたい旅館である。しかし、驚いたのは国際化の波がこんな山中の温泉まで押し寄せていたということである。 食事も泊まる部屋とは別の個室で食べるようになっていた。配膳する女の人が細面のほっそりした体格でしゃべり方からして中国系の人と見た。 次に来室した人は小柄でややふっくらとしている。てっきり日本人だと思ったので話しかけたら、実は台湾の人だった。台中出身で来日してまだ半年という。日本語は台湾の塾で習ったそうだ。「美しい竹灯籠」(この宿の名物だという) 現在日本のサービス業は人不足に悩んでいる。そこで、研修生として中国や台湾から来日する人が増えているのだろう。「いらっしゃいませ」、「ありがとうございます」だけなら気づかない。ちょっと話しかけると、日本語勉強はまだ発展途上人だとわかる。 不愛想な日本人より、言葉が十分でない分「こころ」でもてなそうとする態度が伝わってくる。「頑張ってください」とつぶやいている自分がいた。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2018/08/31
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鹿児島・指宿の旅、2日目 朝食がものすごい量だった。一品一品は少なかっただろうが、十数鉢はあった。これを昨夜と違って、みんな一斉に並べられたので、びっくりして写真を撮る元気もなく、とても悪いが今朝の朝食は手を付けなかった。やはりここは竜宮城だった! 10時半にチェックアウトして10分ほどで指宿駅に着いたが、何もする気分にならない。でも朝食を抜いたのが良かったのか、なんとか症状は回復傾向にある。「いぶすきのたまて箱」4号までの時間を、駅前の足湯に入ったり、旅行客ウォッチングをして過ごす。「指宿駅前の足湯」(とても熱くて43度ほどはあっただろう。そしてお湯は浅すぎる) 寝不足は体の末端の血行が悪くなって手足が冷たくなるが、足湯に小一時間ほど入っていたら、すっかり足が温まって、また少し体調が良くなっていくような感じだった。「指宿駅前」 小雨が降っているし、今日も平日とあって駅前に賑わいは大したことは無い。ただ、「たまて箱」号が出る時間には待合室は一杯になる。なかなか人気のある列車で、予約客でほぼ満席になっているという。最南端の特急列車というところがのだろう。 昨日(15日)、鹿児島港に鹿児島港としては過去最大の16万トンのクルーズ船が入港したそうで、6400人の観光客が21台のバスで一日観光に出かけたという。このクルーズ船は、上海発着なので、昨日の鹿児島と近郊の観光地では中国語が飛び交っていたろう。 12時56分の「指宿のたまて箱」4号に乗って、鹿児島中央駅に向かう。時間が昼休みなので、発車した「いぶたま」を市役所職員有志が手を振って見送っている。この「いぶたま」号で指宿を訪問する観光客も増えただろう。これまさに新幹線効果である。「見送りの人たち」(市役所職員有志だという、昼休み時にはこうして出迎え、見送りをしてくれる) 女性乗務員の人が回ってきて写真を撮ってくれる。我々も記念にとってもらった。被写体の人物もクラッシックだが、車内もクラッシックな列車だということがわかると思う。「記念写真」(写真右側が海が見える席、左は四人掛けや家族連れのサロン席がある) 「指宿のたまて箱」4号は鹿児島中央駅に13時49分に着いた。ここで2時間の自由時間があったが、自分はまだ歩き回る気分にならない。駅の隣のアミュプラザの中の、基本的には女性向きのリラクゼーションを提供する店に入る。ツボは抑えて揉んでもらったが、バリバリに凝っている自分の首まわり、肩、背中は、女性の手には負えなかったようだ。 そのあと、楽器店で楽譜を買ってお土産店に行く。西郷どんお土産は47種類もあると掲示してある。でも、鹿児島に来たら「かるかん」は外せない。米粉、自然薯を主原料にしたあのもちもち感はすっかり鹿児島の味として定着した。「到着したさくら」(新大阪から走ってきたのかと思えば、日本の大都市間は近くなったと実感した) 今はリニア新幹線も話題になっている。これ以上作ってどうする。これでいいのか、「地方創生」はどうした。ローカル線は便数が減らされ、廃線になっていくのも多いというのに。と、一人怒りつつ、16時13分発のさくら564号に乗る。「玉手箱弁当」(開けたとたん煙が出ておじいさんになるかと思ったがそれは杞憂だった) 17時26分、新鳥栖駅に着く。帰りはたったの1持間13分だった。空は雲に覆われ小雨が降っている。薄暗くなりつつある中を駐車場に向かう。この駐車場は一日300円と安い。ベアスタにサッカー観戦に行くのにも便利である。 帰り着くころになって、花粉アレルギーはおさまってきた。このところの雨でスギ花粉の飛散もおさまっただろう。しかし、次はひのきが待っている。やはりこの時期の旅としては、花粉の飛ばない沖縄県が一番良い。↓ランキングに参加しています、よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2018/03/16
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日本で一番南を走る特急列車 出発前から花粉アレルギーがひどく苦難の旅となった。ちょっと早いアニバサリー旅行だが、体調が最悪なので旅程はすべて相方に任せた。今朝は久しぶりの早起きがきつかった。多久~東脊振間は高速を使い、予定より1時間も早く新鳥栖駅に着いた。 9時21分発の「さくら541号」に乗る。今まで乗った新幹線と違って、座席などに高級感が感じられた。九州新幹線の全線開業は2011年の3月12日だった。線路沿いに多くの人たちが並んで手を振ったり、旗を振ったりするCMが数日前からテレビで流されていた。CMで使われたマイア・平沢の "Boom!"という曲もヒットした。しかし、開業日の前日3月11日に東日本大震災が発生したため、祝賀ムードはかなり自粛された。 そんなことを思い出していたが、アレルギー性鼻炎と慢性的な不眠のため、沿線の光景はほとんど意識にない。うつらうつら眠っていたようだ。「さくら541号」は1時間20分後の10時44分に鹿児島中央駅に到着した。おそらく、新鳥栖から鹿児島中央まで乗ったのは初めてだが、鹿児島がものすごく近くなったという気がした。「鹿児島は「西郷どん」一色」「コインロッカーまで「西郷どん」」 朝ごはんも食べていなかったので、「ザボンラーメン」という店に入って薩摩ラーメンを食べた。ザボンの皮が入っていたそうだが全く気付かない程度だった。「ザボンラーメン」(ラーメンだけでなく、セットの西郷丼にも焼き豚がたくさん載っていて食べ過ぎた) JR九州の在来線、指宿枕崎線のホームで列車を待つ。やがて入線してきた列車の外観は普通のディーゼルカーとあまり変わりなかったが、内部は改装されていて、海側の席は全部海を向いて座るようになっていた。「たまて箱3号」(もともとは気動車キハ47で、「いぶたま」は「指宿たまて箱号」の略称) この特急「指宿のたまて箱号」は2011年3月12日のダイヤ改正で新設された。ということは、新幹線開業と同時に、指宿枕崎線に特急が走ることになったのだ。そして、この特急「指宿のたまて箱号」は日本で一番南を走る特急列車となった。特急と言っても、もともとはキハ系の気動車で、そんなにスピードも出ないし在来線独特の揺れもある。「桜島も雨の中」(指宿のたまて箱号は、市街地部分は通勤列車にもなる、今日の桜島は雨でぼんやり) 11時57分に「指宿たまて箱」3号は発車した。海側の指定席をとっていたので、しばらくは鹿児島市街地や桜島が見えた。途中停車駅は石油備蓄基地のある「喜入」だけで、50分後の12時47分には終点の指宿駅に着いた。この特急列車「たまて箱」は指宿~鹿児島中央間を往復運転している。終点の枕崎は指宿からさらに40kmほど先である。 旅館の送迎バスで早めにチェックインしたが、体調の良くないので旅館から出なかった。砂蒸し温泉は歩いてすぐだが、6年前(2012年)3月に、車で来た時に体験しているので、ひたすら部屋でごろ寝を決め込む。しかし、眠りにはいれないうちに夕食時間になった。「竜宮城にきたような気分」(前菜、お造り、吸物、椀物、焼物、鍋物、留椀、ごはんと続く) 一つの料理を食べてしまった頃合いをみて、次の料理を持ってこられる。一品ごとに料理を引いて新しい料理を持ってこられるのだ。これはやっぱり浦島太郎になった気分かな。ちょっとボリュームがあっても、完食しなければ悪いような気がして食べ過ぎた。 西郷隆盛は指宿近郊の鰻(うなぎ)温泉に滞在していて、指宿との縁もある。旅館の近くに「指宿西郷どん館」もあったが、体調の良くない自分は一歩も旅館から出なかった。 6年前もほとんど同じ時期(3月13日~15日)に来ているのに、今年は何でこんなにアレルギーがひどいのか。今シーズンでも最悪の状態がこの旅の日程と重なった。↓ランキングに参加しています、よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2018/03/15
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南ア共和国のケープタウンにて このところの厳しい寒波の連続で、北海道から九州まで冷蔵庫の中にすっぽり入ってしまったかのようです。いや、冷蔵庫の中が戸外よりもかえって暖かいかもしれません。 九州地方では晴天が続き、最高気温は8~10度に上がります。しかし、翌日は放射冷却現象で冷え込みます。こんなに寒い日が続くと、もうそろそろ温かい春の気配を感じたくなります。 ということで、温かくなる写真を探していたら、2年前の今日(1月23日)、ケープタウンで撮った写真がありました。観光船の船着き場にびっしりと並べてあったお土産品の写真です。(時刻は午前9時半ごろ、人の影を見てもすでに太陽が高くあがっていることがわかります) 一頭、一羽を手に取ってみたくもなりますが、たくさん並んでいるところを写真で切り取るとデザイン画みたいです。多くの観光客はツアー客で、ちらっと見ただけで足も止めずにバスの方に歩き去っていきます。 これらの土産物は、どこで・だれが・どのようにして作っているのでしょう。そしてこのように並べて売っている人はどんな生活をしているのでしょう。 そんなことを考えながら数回シャッターを切っただけで、自分もまた歩き去ってしまうツアー客の一人でした。暑い日差しの真夏のケープタウンの写真、少しは温かくなったでしょうか。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2018/01/23
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ラパス、エル・アルト空港のコンパクトカー エル・アルト空港は4000mの高地に位置しているために充分な揚力が得られない。そのために4000mという長い滑走路を有する。 駐車場には通常仕様のコンパクトカーがたくさん駐まっている。下の写真は、真夏でも深い雪に覆われたボリビア第2の高峰イリマニ山(標高6439m)を写したのだが、よく見直してみると写っているコンパクトカー4台がみんなSUZUKI車だったのに気づいた。「エル・アルト空港から望むイリマニ山」(2017年9月25日撮影)(6年前に降り立ったときとほとんど変わらないボリビアの空の玄関) 左からSX4、CELERIO、右の2台はALTOのようだがワゴン仕様の海外専用モデルのようだ。スズキはインド、中国、インドネシア、タイなど東南アジアの11ヶ国に生産拠点を持っている。ここに写っている車もみんな海外生産モデルである。 SUZUKIは国によって同じ車でも車名が変わる。インドではナンバーワンのSUZUKIだが、最近はヨーロッパやアフリカや南アメリカへの進出も盛んである。車のバックウィンドウに次のような表示を出している車を見つけた。「EN VENTA」(左から2台目のCELERIOは現在「買い主求む」という状況のようだ) 「EN VENTA」とは売り出し中という意味で、数字は連絡用電話番号だ。このように掲示してあると、後ろから付いていくとこの車の走りがわかるので、気に入ったら連絡をして、内部を見せてもらい試乗をさせてもらうと流れになるのだろう。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/11/30
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こんなところにこんなモノが ブラジルのリオデジャネイロ港湾地区の大型客船埠頭の近くに、オリンピック、パラリンピックのモニュメントがありました。2016年2月8日に撮った写真です。「真夏のリオデジャネイロ」(空の青さは深い海に吸い込まれるようにどこまでも青かった) この頃リオの街は南米初のスポーツの祭典が迫っていました。しかし、私たちが寄港した4日間はカーニバル期間で、工事よりもまずはカーニバルという雰囲気でした。 後ろに見える恐竜の骨格のような建物は2015年12月にオープンしたMuseu do Amanha=(明日の博物館)です。興味深い外観で、内部には映像関係の展示が多いと言うことです。リオの新しい人気スポットです。しかし、残念ながらこの日は月曜日で閉館日でした。 この写真に3本のヤシの木が写っています。よく見るとヤシの葉の上から白い棒が突き出ています。この3本の金属の棒は避雷針のようです。「これは、何?」(よく見ると避雷針ですが、写真を撮るときにはこんなところまで気づきません) まあ、これだけのことです。でも、こんなささいなことにも気づくと一人で感心したりするのです。そういえば、折角行ったのだから「明日の博物館」見たかったです。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/11/25
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まず、音を出すのが難しい ペルーのクスコからの日帰り圏の観光地を巡っているとき、トイレ休憩で立ち寄った土産物屋さんで見つけた。楽譜?つきの簡単な英語の説明書が付いていた。 店のお兄さんに説明書に載っていた「EL CONDOR PASA」を吹いてみてと頼んだ。彼は、おなじみの一節を吹いてくれた。弾くのは「易しいか?」と聞くと、「簡単さ」と答えた。「サンポーニャ」(7本と6本の硬い材質の芦を組み合わせてあり、13音階の音が出るようだ) 芦は底がふさがった中空になっている。中音から高い方の音は出やすいが、低音(長い竹)の部分はなかなか簡単に音が出ない。「楽譜?」(上が7本、下が6本の列を表し、番号は左から1番2番…となっている) また、2列に並んだ吹口の上下間で口を移動させるのが難しい。しかし、まずは音を出すことが先決で、メロデイを演奏するようになるにはかなりの練習が必要だ。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/11/18
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佐世保市の無窮洞を訪ねて ある会の研修旅行で初めて訪ねました。第2次世界大戦中の1943年から1945年8月の終戦の日まで、旧宮村国民学校の先生と生徒が手掘りで掘った防空壕です。「入り口」(長崎県佐世保市の旧宮村国民学校の防空壕の入り口)「主洞」(幅5m、奥行き20m、高さは背の高い大人が立っても十分余裕がある)「石で作られた教壇」(穴掘りは高等部(現中学)の男子、このような整形は女子が担当した) その他に覆道や書類室や幅洞、食料庫などがあり、500人が収容できたという。空襲警報が出たときに全校生徒600人が入ったら酸欠状態になったので、農家から唐箕(とうみ=もみを選別するための昔の手回し式選別機)空気を送ったということです。「台所と避難口」(手前は石をくりぬいて作られたかまどで、その奥には地上に抜ける避難口がある) 「無窮洞」の「無窮」とは「無限」という意味で、この戦争に絶対に負けないという決意を表したのでしょう。 戦争当時は各地に防空壕が掘られたそうですが、完全な形で残ってこのようないるのはとても珍しいと思われます。平成14年(2002)の佐世保市制100周年を記念して整備されて公開されるようになったそうです。 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/11/07
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九州北部豪雨の爪跡 7月5日から6日にかけての「平成29年7月北部九州北部豪雨」で、福岡県朝倉市では30人が死亡しいまだに5人が行方不明となっている。8月16日、山鹿温泉からの帰りに朝倉市のJA物産館を訪ねてみた。「流木と土砂で埋まった水田」(もともと地盤が弱かった上に、森林の管理が不十分だったので被害が拡大した) 朝倉市では7月6日11時40分までの24時間に545.5mmという降水量を記録した。これは観測史上1位を更新する集中豪雨であった。そのために河川の氾濫、土砂崩れ、流木の発生、家屋の浸水などで、現在でも多くの人が避難生活を送っている。「シンボルの三連水車」(物産館の裏にある鋼製三連水車も半分埋まった状態のままである) 夏休みも終わって、ボランティアの数も減ってきているという。洪水による浸水の被害は経験しているが、流れてきた土砂の撤去作業が一番困難な作業である。家屋内の土砂は手作業でしかできないから人出が必要なのだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/08/25
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日程のすき間を縫って1泊旅 今年は8月の11日~13日が3連休となったために、都会からの帰省ラッシュもずれ、人でのピークも分散したようだ。どこか近場の温泉でのんびりと考えていたら、。8月15日に山鹿温泉の宿が空いていた。 15日と16日は山鹿灯籠祭りである。この時期に市内のほぼ中心に宿が取れたのはラッキーだった。古い老舗の温泉宿だったが、部分改装してオープンしたばかりでなかなかサービスはよかった。特に飲み放題自由というので連れの友人は喜んでジョッキを重ねていた。 15日の夜、宿の食事を終えて菊池川の川原に花火大会を見に行った。一連の花火の前に協賛企業の宣伝が数分間あるところはいかにも地方都市らしい。「菊池川での花火大会」(三脚を持っていなかったうえにコンデジで手持ち撮影) 8時から9時の1時間、小雨が降り出す中を辛抱強く眺めていた。特に変わった演出はなかったが見物の人たちも多くて、久しぶりに花火を見た自分にとっては新鮮だった。 頭に灯籠を乗せて女性が踊っている山鹿灯籠踊りのポスターは見たことがある。大勢が一斉に集まって踊る千人踊りは明日の夜だという。でも、今日も町中で踊っているというので、人混みの多い方にわけもわからないまま歩いて行った。 すると、午後10時にもなろうという時間に、目抜き通りを灯籠を頭に乗せた人たちが踊りながら近づいて来た。この日は一定数の人数の組別の踊りのようである。「この日は街中で灯籠踊り」(頭に灯籠を乗せているので、動きは手と足が中心になるが優雅な踊りである) このチャンスも機材準備不足で、あんまり良い写真は撮れなかった。でも、まっすぐ旅館に戻らずによかった。千人踊りの迫力には及ばないと思うが、見ることができて良かった。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/08/24
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縮景園 今日のカープ対ホークス戦はデーゲームである。それに気づかず、12時過ぎの新幹線を予約していた。今日の試合を見ても十分今日中に帰り着くことができた。 心はマツダスタジアムにあったが、今回は仕方がない。午前中にまだ見ていない広島の見所を訪ねることにした。「市内電車」(市内電車のある町は絵になるというか、ノスタルジックでいい) 電車を一度乗り換えて「縮景園」に行くことにした。国の名勝で「日本の歴史公園100選」に選ばれているそうだ。「入場券」(旧敷地内にある県立美術館とセットになっている) 入場口にボランティアのガイドの人がいた。ガイドしてもらった方が折角見に来た甲斐があるというものだが、気ままに歩きたい我々はガイドさんの前は素通りして、「順路」という案内板にしたがって園内に入った。「清風館」(1064年建築の数寄屋造り茶室、古いつくりの屋根と高層ビルという新旧の対比) この「縮景園」は広島藩主浅野氏の別邸として元和元年(1620)に作られたという。日本ではどこの城下町の庭園も藩主の別邸としての歴史を持っている。「跨虹橋(ここうきょう)」(天明2年(1786)に竣工した石製アーチ橋で、数少ない戦前からある建造物) 他の庭園と違う歴史を持つとしたら、1945年の原爆で破壊されたことだ。その後、1970年頃までに再建が行われて現在の姿になったという。園内には4826本の樹木があるが、戦前からの樹木は3本しかないという。これら3本を被爆樹木というが、このことからも原爆の被害の大きさがわかる。「被爆の惨状」(多くの被災者がこの庭園にも避難してきたが、多くは死に絶えたそうだ) 「縮景園」の名前の由来は世界各地の景色を縮めて現したものだからで、名付け親は林羅山だとも言われている。中国の景色を模した部分もあるという。「池と島」(池が全体の20%を占める回遊式庭園となっている) 庭にはあんまり関心がないものだから、さっさと歩いて見終わった。あとでパンフレットやネットで調べてみると、もっとよく見てきた方が良かったと反省すること多しだった。 それにしても、来年以降マツダスタジアムで観戦するときは、金曜日のナイターと土曜日のデーゲームを組み合わせることにしたい。そうすれば、1泊で2試合見ることができる。「新幹線広島駅」(博多が終着とばかり思っていたら鹿児島行きだった) 帰りの新幹線もがら空きだった。広島からたった1時間で博多に着いた。博多から唐津までが1時間20分ぐらいだから、地域格差というか交通格差の大きさを体感させられた。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/06/17
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105日目の横浜 前回(第74回クルーズ)の船旅はメキシコでハリケーンに遭うというアクシデントで寄港が5日間も延びました。そのために、いろいろな出来事がありましたが、今回は順調に進んでいよいよ日本の土を踏むことになりました。 といっても、今回の出国地は1回目の寄港地那覇でした。だから、正確には2015年12月20日に那覇を出港して以来、日本の土を踏むのは102日ぶりということになります。 昨年のこの日(2016年3月29日)のブログの横浜寄港時の写真や記事と重ならないものを選べば下の2枚になりました。「下船する人たち」(船内からガラス越しに撮ったもの、この時はまだ私たちの順番はきていなかった)「最後のチェック」(寄港地毎に行われたIDカードのチェックもこれが最後になる)「見送る人たち」(タラップを降りると、まだ下船順番が来ていない人が見送っていた) 客船の下船は最上階から順に行われます。最上階にはスィートルームやバルコニー付きのお値段の高い部屋があります。要するにお金持ちから降りるのです。というとひがみに聞こえますが。とにかく下船口と荷物搬出口の混乱を考えたらそうなるのです。 800人からの船客が全部下船を終わるには3時間以上は時間がかかるでしょう。我々の船室は6階でしたからほぼ半分の人たちがが降りたあとの下船になりました。 次に乗るのはいつになることでしょう。いろんな仕事や舞い込んでくる役職を逃れられたころ、また体力と気力とお金が残っていたら、考えてみたいと思っています。 1年前の105日間を、違った角度でふり返ってみました。これらの記事と写真はまだハードディスクに眠ったままです。だから、このブログが船旅の唯一のまとまった記録です。 デジタルは便利ですが、一瞬で消えていく事故があります。本来はアナログで遺すのが一番確実かと思っていますが、なかなか手がつかないままになっています。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/30
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横浜帰港Ⅰ日前 2016年3月29日、船旅は計画通りに進んでいよいよ明日が横浜帰港の日となりました。掲示板にも日本各地の天気予報や横浜港周辺の案内図が掲示してあります。「日本はまだ早春」(出港時(2015年12月17日)の服装をまた引っ張り出す必要があるようです) 最後の昼食は風に吹かれながらデッキで食べました。すっかり馴染んだメニューともお別れかと思うとちょっぴり寂しさを感じます。カロリーや栄養バランスを考えたメニューで食生活は快調、胃腸も満足でした。 荷物も下船時に宅配便に託す荷物と、手に持つとして持って降りる荷物に分けてすっかり準備が終わっています。今回は、横浜港に午前の早い時間帯に着岸しますので、余裕を持ってその日のうちに家に帰り着けそうです。「船上からの最後の夕陽」(それぞれの胸に刻まれた南半球の旅、思い思いに名残を惜しんでいるようです) 船内ではそれぞれが知り合いに成った人同士で「最後の挨拶になるでしょう、お元気で…」という挨拶が飛び交っていました。104日目がこうして過ぎていきました。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/29
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太平洋の真珠、ボラボラ島 首都パペーテのあるタヒチ島から一晩航行してボラボラ島沖合に錨泊した。この島は周囲30kmほどの火山島で、タヒチ島からは北西に約260km離れている。 この島もフランス領で、我々が1日を過ごしたのはリゾートホテルのある小さな環礁の島である。ココヤシの木と水上コテージがこの島独特のリゾート気分をかもし出していた。(カニものんびり過ごしているようだ) ハネムーンならともかく、シニア世代にとっては半日もいたらもう飽きてしまう。あまりのんびりしすぎているの何となく落ち着かない。まあ、根っからの貧乏性なのだな。 時間が結構あった割には面白い写真は撮っていなかった。 ※写真は2016年3月13日撮影 ↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/13
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ラパヌイ3日目 イースター島(ラパヌイ)ではオーシャンドリーム号は沖合に錨泊した。島に大きな岸壁がないためである。乗客はテンダーボートで上陸して3日間に分かれて観光した。 ↓2日目(3月4日)に上陸した時の記録は2016年3月4日の本ブログ https://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/20160304/ 3日目は天気も回復し、1日目に短時間しか上陸できなかった人のため特別上陸も実施された。定員15人程度の小さなモーターボートが、乗客を乗せてミズスマシのように上陸地点と本船の間を往復している。(上陸地点には7体のモアイ、「アフ・ナウナウ」が海を背に立っていた)(波も穏やかになり、ボートの乗り降りも楽になった) ラパヌイには馬がたくさんいる。1888年に島がチリ領となったときに軍隊が持ち込んだと言われているが、のんびり草を食んでいる様子が船からも見られた。馬の写真を撮ったのだが、釣りをしている男の人が写っていた。(観光業にとってかき入れ時であろうが、この人は釣りに専念しているようだ)(ときどき大きな波が来て、彼は走って波をよけていた) 上陸したのは1日だけだったが、ラパヌイのゆっくりした時間は味わい深かった。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/05
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南半球で見る月 2016年3月3日、船はイースター島(ラパヌイ)に着いた。今日から3日間に分かれてツアーが始まる。3日間に分けたのは島内の受け入れ能力が限られているからである。 自分のツアーは明日なので、今日は船上でラパヌイの伝統的な舞踊と音楽のショーを見たり、お土産品屋を眺めたりして過ごした。 天気は薄曇りであるが、夕方から少し晴れてきた。デッキに出てみたら、月が顔を出していたのでたまたま持っていた標準ズームで撮った。「ラパヌイ(南緯27度7分)の月」o(普段は北半球の月を見ているが、南半球では違った角度から月を見ている) 満月は満月に見えるし、三日月は三日月に見える。それは北でも南でも同じだ。しかし、見え方が違う。簡単に言えば、南半球の月は逆立ちしたように見える。 もっと正確に言えば、北緯45度、南緯45度の中緯度付近で見比べた場合には180度だけ回転した姿で見えるということだ。 この日の写真は満月ではないが、満月で言えば、北半球で見れば餅つきをしている兎の耳は16時の方向を向いている。しかしこれが南半球では、11時の方向を向いているということだろう。↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/03/03
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チリ、首都サンチャゴの出店 港町バルパライソから片道2時間半をかけ、首都サンチャゴに行った。盆地に位置するサンチャゴは大気汚染でスモッグが発生していた。夏のこの時期はまだいいほうで、冬にはもっと視界がかすんで見えるということだった。 昨年の見学地などは本編(2016年2月26日の本ブログ)で紹介したので、ここでは街角で見つけたお店の写真を紹介する。といっても、ほかの町と特に変わった様子はなかったけど…。「お面の露店」(日本の縁日を思い出すような、お面がならんだ出店があった) アニメのキャラクターが多い。日本のアニメも人気があるようだ。そのほかには、南米で人気のスポーツであるプロレスの覆面のお面もあった。 観光地の露店はカラフルで人目をひき、価格も手ごろな品がたくさんあります。しかし、ツアーでは時間が十分にないため、手に取って見る客は案外少ない。「土産物店」(面白そうなものもあるけど、Made in Chinaだったりしてあとでガックリする)(キャップは赤、青、白を主とした色が多いがチリの国旗の色からきているようだ)「地球儀もあるよ」(箱が雑然と置いてある。「フーテンの寅さん」を思い出すようだ) チリでは地球儀に人気があるのだろうか。そういえば、南アメリカ大陸に細長く伸びているチリの国土は地球儀上で目立っている。※1916年2月26日撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/26
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チリ、バルパライソで沖待ち バルパライソには寄港予定日(2月26日)の前日の午後に着いたが、植物検疫のために沖合で停泊した。上陸はできず、船から人口27万人のバルパライソの町を眺めて過ごした。「船室に射しこむ夕日」(壁に貼っている航路図も、残りは太平洋横断を残すだけとなった) この地にはインディオの部族が住んでいたが、1818年にチリがアルゼンチンから独立するとチリ海軍の主要な港となった。1834年にはダーウィンを乗せたイギリス海軍のビーグル号も寄港している。 このような歴史のなかで、バルパライソは南米大陸の南端のマゼラン海峡を通過する船舶の補給地として重要性を増した。歴史ある美しい入り組んだ街並が2003年に、UNESCOの世界遺産「バルパライソの海港都市とその歴史的な町並み」として登録されている。「古い港町の夜景」(街の灯から想像するに、多くの港町がそうであるように坂の多い街のようだ) 1914年にパナマ運河が開通するとバルパライソに寄港する船は激減した。道路や鉄道、航路の発達という地政学的な理由で興亡する国家や都市は多い。パナマ運河の完成からすでに1世紀、バルパライソは過去の港となろうとしている。 明日はこの町から東南に120kmほど走ったところにある首都サンチャゴを観光することにしていた。※1916年2月25日撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/25
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南緯50度にあるピオ11世氷河 今さらながら、南緯50度付近にパタゴニアの大氷原や多くの氷河があることが不思議である。北半球の北緯50度といえばロンドンやベルリン辺りに相当するからだ。「大氷河と対峙」(朝早く、パタゴニアフィヨルドを通ってピオ11世氷河に近づいた) ピオ11世は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のころに活躍したローマ教皇である。在位は1922年から1939年で、混乱の続く時代に、共産党や独裁者のムッソリーニやナチスと対立し、現実世界の中でのカトリック教会のあり方を模索したといわれる。 この氷河を1931年に初めて踏破したイタリアの探検家が、当時のローマ教皇ピオ11世をたたえて「ピオ11世氷河」と名付けたとされる。しかし、今もってパタゴニア氷原やこの付近の氷河の詳細については研究が十分に尽くされていない。「氷河のかけら」(この美しいブルーは、太古の時代のこの地を想像させるにあまりある) 地球温暖化で氷河の後退が各地で起こっている。しかしこのピオ11世氷河は拡大を続けている。その理由も正確にわかっていない。 ※2016年2月22日に撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/22
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世界の果て、ウシュアイア アフリカで誕生した人類が、長い長い旅を経てたどり着いたのが南米大陸の南端だった。この人類の旅はグレートジャーニーともいわれる。 その歴史にちなみ、アルゼンチンの最南端の都市ウシュアイアは「世界の果て」を売り物にしている。我々が訪ねた2016年2月19日は、ウシュアイアの短い夏の真っ盛りだった。「ウシュアイアまで」(陸路では強風や悪路で最も困難なルートといわれるが、航路では平穏な旅だった)↓1年前のリアルタイムの記事はこちらです。(別ウィンドゥで開きます)http://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/201602190000/(単なる落書きとはいえない、何か人の心を和ませてくれるものがある)(監獄としての歴史を持つだけに、土産品店のオブジェも面白い)(山の方では雨が降っているようで、美しい虹がかかっていた)(20時50分、我々の船内生活を支えてくれているクルーが外出していた) 南緯54度58分と緯度が高いために夏のこの時期は遅い時間まで明るい。遅めの夕食(19時30分から)の仕事を終えたクルーが、私服に着替えて外出していた。 船は明日出航するため、この日は帰船リミットはなかった。船客たちの中にも夜中まで食べて飲んで世界の果てを満喫した者も多かっただろう。 ※2016年2月19日撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/19
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アルゼンチン、ブエノスアイレス 南米のパリといわれるブエノスアイレス。政情不安な時期もありましたが、現在は落ち着いた雰囲気の町です。 最近ではテロの不安が高まっている本家フランスのパリより安心して歩ける街かもしれません。青い空がとても印象的な一日でした。 少なくともヨーロッパ系移民の人々にとっては、一定水準以上の生活が保障されているようです。山間地の先住民の人たちの生活は、どんなものでしょうか、それを自分の目で確かめることはできませんでした。 ブエノスアイレス滞在わずか一日で、南アメリカ大陸最南端を目指して出航しました。 ※写真は2016年2月14日、レコレータ墓地付近で撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/14
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地球の裏側の大河 ウルグアイでは農園を訪問して、乗馬体験や農園の見学をした。そして、昼食にはおいしい肉とワインを満喫した。 ラプラタ川の河口に位置する首都モンテビデオはちょうど夏の最中だった。夕方、まだ陽射しが残る港を出ていく我々の船を、防波堤から見送っている人たちがいた。「突堤で過ごす夕暮れ」(ウルグアイでは、南米につきものの貧困の影があまり感じられなかった) 船は次の寄港地であるブエノスアイレスを目指して、ラプラタ川をさかのぼるのかと思ったら、川の流れに乗ったかのようにどんどん南下して沖合に出ていった。「地球の裏側にて」(この写真の色合いは豊かな大地のにおいを感じさせるようだ) 船はかなり南下して広いラプラタの河口を横断したようだ。 ※2016年2月13日撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/13
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快晴のリオ・デ・ジャネイロ 「1月の川」という意味があるこの都市は、1980年にブラジリアに遷都するまで、ブラジルの首都だった。現在でもサンパウロに次ぐブラジル第2の都市である。 市内一帯の美しい景観は 「リオ・デ・ジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として2012年にユネスコの世界文化遺産に登録された。「カリオカ」とはリオ・デ・ジャネイロやその出身者を総称する名詞である。「明日の博物館前にて」(開発が進む港湾地区にある、鳥の翼が羽ばたいているデザインで有名な博物館) この日は、午後からのカーニバル観覧ツアーの前に午前中少し自由行動をした。コルコパーナの海岸などの人ごみを抜け、船に戻ってきたら改めて美しい空に気づいた。 町中のごみは、オリンピックを控えて少なくなっては来ているようだ。ただし、ここから見る空は美しいが海水は汚れている。まだこの国の環境保全への意識は不十分である。「裏から見ると」(白いモニュメントも裏側には極彩色で色が塗られていた) このような、緑や赤や黄色などの原色はブラジル文化を代表するもののように思った。 ※2016年2月8日撮影↓ランキングに参加しています。良かったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/08
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オリンピックよりもカーニバル 客船ターミナルは、リオの海の玄関口である。2016年2月7日、カーニバルのクライマックスが近いので、着岸している大型客船の数は5隻に増えている。 オリンピックも近いというのに、客船ターミナルの整備はまだまだ途上である。一画にはかつて船荷の積み出しに使われていたであろう古い煉瓦つくりの建物が残っている。「聞こえてくるサンバのリズム」(右の建物の屋根の下、彼らはカーニバルの練習のために集まっている) サンバのリズムが船まで聞こえてくる。彼らの本番は迫っているもしかして今晩か、遅くても明日の夜だ。明日の夜は一番最高のチームが出る最終日なのだ。 リオッ子たちにとって、大事なのはオリンピックよりもまずはカーニバルなのだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/07
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リオのバイクタクシー 1年前の2016年2月6日早朝、我々の船はブラジルのリオデジャネイロに入港した。この日はコルコバードの丘などを含む市内観光ツアーをとっていたが、カーニバル期間に入っていて、人出が多くどこも混み合っていた。「車窓からの一枚」(バイクタクシーだと思うが、2台目は公認タクシーなのかゼッケンをしている) 「mototak」というゼッケンをしている。他の2台はゼッケンがないので、無許可営業をしているのであろう。何はともあれ、交通交雑の中では、このバイクタクシーが機動力抜群で何かと便利だったかも知れない。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/02/06
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各国が注目、サブサハラの海底油田 ナミブ砂漠は、南北約1,300km、東西50km~160kmで、世界で一番古い砂漠と言われる。何しろ南北に長い砂漠で、ナミビア共和国の海岸線のほとんどに砂漠が迫っている。「ツアーバスの軌跡」(車窓に広がっていたのは、一面砂と岩石のモノトーンの風景だった~google earthより) ナミビア共和国の産業は、ダイヤモンド、亜鉛、ウランなどの鉱業の他は牧畜ぐらいで、経済的には旧宗主国の南アフリカに依存している。しかし最近は海底油田の探査が始まっている。 サブサハラとはサハラ砂漠以南のアフリカ大陸のことである。近年各国の大小の石油資本はサブサハラの海底油田の探査に注目している。「沿岸を走るバスから見えたプラットフォーム」(2012年以降、ナミビア共和国には複数の企業が試掘に参入している) これまでの海底油田は比較的浅い大陸棚からの採掘だった。しかし、最近は水深300m以上の深海(大水深油田)が注目されている。コストはかかるが、原油価格が高どまりしているため参入する資本が相次いでいる。~JOGMEC(独立行政法人石油天然ガス・金属鉱物資源機構)資料より「夜も明るい」(ナミビア、ウォルビスベイを出港後、夜も明るいプラットフォームの横を航行した) プラットフォームは海底の石油や天然ガスを採掘するための機械や労働者を収容する構造物である。これは、人間が作った移動する建造物としては最大級だと言われる。 これだけの大きな投資をしても採算がとれるということだろう。しかし、ふと立ち止まって考えれば、このようにして人類という生物は徐々に地球を食いつぶしてゆくのだろう。 ※(写真は2016年1月27日撮影)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/27
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ナミビア共和国に向けて 2016年1月26日、南アフリカ共和国のケープタウン港を出て、ナミビアに向かっていた。波は穏やかでこの日の夕陽は大西洋上に沈んでいった。「1時間の航跡」(縮尺を表示させると1時間に進んだ距離は約15km程度だった) この船は船齢は古いが、最高23ノット程度は出せる。しかし、寄港地が近くなると入港時刻に合わせて速度調整をする。 このGPSログはPENTAX WG-3 というコンデジで記録した。時刻表示では、午前1時半過ぎから2時半ごろまでとなっているが、頻繁にある時差調整をしていたのかは忘れている。 この地域はGMT(世界標準時)から+1時間の範囲なので、時差調整していたのなら現地時間の0時半過ぎからの記録となる。船室の窓際でも受信できたので、多分その時間だろうと思う。 西アフリカの乾燥地帯がどこまでも広がっている。その中のオアシスみたいな、ナミビアの大西洋に面した海岸線のほぼ中間点、南緯22度に位置する港ウォルビスベイに向かっていた。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/26
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ダイヤモンドミュージアム 昨日(1月23日)、南アフリカ共和国のダイヤモンドについて書いた。そのとき、つい最近ケープタウンにダイヤモンド採掘の歴史について展示した「ダイヤモンドミュージアム」が開館していたことを知った。「V&Aウォーターフロント(富裕層のためのお洒落なこのショッピングモールにミュージアムはあったのだ) このV&Aウォーターフロントは、ネルソン・マンデラが収監されていた刑務所の島ロベン島へのフェリーが出発する埠頭のすぐそばにあった。ミュージアムの公式ホームページによれば、歴史上有名なカットダイヤモンドのレプリカもあるそうだ。 ↓ダイヤモンドミュージアム公式ホームページ http://www.capetowndiamondmuseum.org/ V&Aウォーターフロントでは自由行動の時間があったのに、事前のリサーチが不十分だったので入館しなかったのだ。しかし、ハードディスクを調べると看板だけはちゃんと撮っていた。 1867年から始まった採掘が、アパルトヘイトのもと、黒人労働者の血と汗によって進められたことは言うまでもない。そのことをどう展示してあるのか、このミュージアムに入ってみたかった。 南半球一周クルーズ(2015年12月17日~2016年3月30日)の記録を更新しています。船上のネット状況が悪くアップできなかった写真の追加と文章の校正が中心です。 やっとシンガポールからマダガスカル(エアホラ)までが終了しました。 →http://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/20151229/↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/24
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人気一番は動物たち 南アフリカ共和国は、金・ダイヤモンド・プラチナなどの鉱産資源が豊富で、特にダイヤモンドはかつて世界生産の50%以上を占めていた。現在でも世界の10%程度の生産をあげている。 といっても、発掘されたダイヤモンドの多くは原石のまま輸出され、ベルギーなどの西欧諸国で加工されカットされてはじめて輝く宝飾ダイヤになる。だから、当然ケープタウンのお土産品店でダイヤモンドは売られていない。 人気があるのは動物の置物と民芸品のようだ。しかし、観光客の大半がツアー客なので、時間に追われ足を止める人は少ない。 ※(2016年1月23日撮影) 遅くなりましたが、1年前の南半球一周クルーズ(2015年12月17日~2016年3月30日)の記録を更新しています。船上のネット状況が悪くアップできなかった写真の追加と文章校正が中心です。 横浜出港からシンガポールあたりまで終了しました。 ↓ http://plaza.rakuten.co.jp/shigedoraku/diary/201512170000/↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/23
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南アフリカ共和国とモザンビークの国境にて クルーガー国立公園でのサファリドライブを午前中で切り上げ、モザンビークの首都マプトに向かった。昨日超えた国境を、今日は反対側から(南アからモザンビークへ)越える。 ふと、塀際に並べてある箱が目に入ってきた。ブルーの袋に何かが入っているようだ。持って行きなさいと言わんばかりに置いてある。 最初はここに並べてある「モノ」が何なのかよく判らなかった。それは、普通の日本人にとっては、この「モノ」がこんなに開けっぴろげに置かれている状態を知らないからだった。 袋には「choice」と書いてあった。そして、説明文を読むと、「なるほど」と思わされた。貧困とともに、アフリカのもう一つの大きな問題が、この「モノ」から見えてきた。 Dept of Health Republic of South Africa がキャンペーンのために無料で配付しているのだろう。 ※(2016年1月19日の写真より)↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2017/01/19
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ちょっと見ではゲームのCM 旅に出たら何でも興味あることをスナップするようにしている。帰って来てから調べてみるといろいろと面白いことがある。 下はスマートフォンで撮った写真である。スマホで撮った写真は、あまり見直すことがない。でも、先日見ていたらこんな写真があった。9月25日に韓国大邱(テグ)の街角でのスナップだ。「何のバスだろう」(韓国の観光バスは全体的に汚れているが、このバスはとてもきれいだった) 韓国ではこのようなえんじ色?のバスはあまり見ない。ボディに描かれたイラストを見るとどうもゲームのキャラクターのように見える。 写真をPCで拡大してみるとURLが描いてあった。URLを打ち込んだら韓国のプロ野球チーム「ネクセンヒーローズ」のページに飛んだ。このバスは野球チームのバスだったのだ。「日本っぽい」(ちょっとキュートなキャラクターが描かれていた) このしっかりしたイラストはラッピングバスとは思えない。チームの選手の移動用バスだろう。しかし、こう大きく描かれていると、イラスト部分の窓は外が見えないだろう。 時刻は午前11時過ぎ、ヒーローズのバスは大邱市の中心部に停まっている。この時間、選手達はどこで何をしていたのだろう。 ヒーローズにはかつて元ヤクルトの高津臣吾投手(その後メジャリーグ、韓国リーグ、台湾リーグを経験し、現在は東京ヤクルトスワローズの投手コーチ~日本プロ野球通算セーブ記録286は第2位)も在籍したことがあるそうだ。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。 にほんブログ村
2016/09/30
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大邱の料理店 先の韓国の旅の最終日、大邱の免税店での買い物タイムに、例によって街角ウォッチング。開発が進んでいる下町、先日も紹介したおばちゃんの八百屋さんの近くに料理店があった。「ビルの谷間に」(ここにも、まもなく地上げ屋が来て立ち退きを迫られるのかもしれない) 結構こざっぱりした料理店である。昼間のことで、お客の姿は見えないし、大体開店しているのかも分からない。でも、廃業したとは思えないのは、そのこざっぱりとした佇まいにある。 何の料理を専門にしているのか、残念ながらハングルが分からないからわからない。ハングルはちょっと見たらカタカナみたいにしているのに、まった意味が判らないのはなんとも情けない。勉強しようと思わない自分がいけないのだけど…。「これが看板?」(店の駐車場の入り口の塀に描いてあったが、もしかして焼き肉屋さんなのだろうか) それにしても、とても素晴らしい牛の絵だ。中国の水墨画のようにモノトーンであるがとても印象的な絵である。それに、日付とサインまで書き込んである。 看板であっても、これはもうアートの世界である。ハングルは判らなくても絵は判る。やはり絵や音楽は万国共通語であることを再認識した。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックしてください。 にほんブログ村
2016/09/29
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復旧はいつになるのか 阿蘇山の外輪山の北に世界一の阿蘇カルデラをながめる名所「大観峰」がある。休日には多くのマイカーやオートバイでにぎわう所だ。 その大観峰から10分ほど西に走って左に分岐すると通称「ミルクロード」と呼ばれるドライブやツーリングに最高の道がある。このミルクロードを数分、注意下っていくと左側に小さな石のお地蔵様がある。これが目印で、ここから左に下ると「ラピュタの道」に入る。 この道は阿蘇外輪山と阿蘇谷を結ぶ牧場管理用の農道である。しかし、カルデラに突き出した尾根をめぐる道が、雲海の中に浮かび上がると「天空の城ラピュタ」を思わせるような光景が出現する。最近、特にライダーの口コミで有名になったスポットである。(この日はバイクで行った。撮影時刻は14時ごろ~2014年9月21日)(2014年9月29日撮影)(早起きして出かけたが霧は出ていなかった~撮影時刻は6時40分ごろ~2014年9月29日) このラピュタの道はこれまでも大雨などで崩れたりしていたが、4月16日の熊本地震で大きな被害を受けた。お地蔵様のある道路入り口は封鎖されていたので、200mほど歩いて2年前の撮影地点に向かった。(上の2枚は2016年8月29日12時ごろ撮影) 何人か観光客もいたが、すっかり様変わりした光景に立ちすくんでいた。2年前の撮影場所だった道路にも地割れが走り、流麗なカーブを描いていた「ラピュタの道」の一部は完全に崩壊している。上の写真の反対側の道路も土砂崩れがひどいようだ。 何万年もかかって作られた景観も、一度の地震でこんなにももろく崩れていく。自然の雄大さと脅威を感じさせられるとともに「自然の時間」の前には「人の時間」なんてなんて短かいものかと思った。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/08/29
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復興支援の一助も兼ねて 8月中にいつもの仲間数名で温泉1泊旅をしようと目論んでいた。ちょうど熊本復興支援キャンペーンが行われていたので、最初は玉名温泉か平山温泉あたりで、と考えていた。 しかし、熊本復興支援キャンペーンには申し込みが殺到し、あっという間に完売となった。そこで、阿蘇の内牧温泉をチェックしていたら通常料金ながら空いていたので予約を入れた。「昼食は馬刺し定食」(熊本といえば馬刺し、柔らかくて美味しかった) 阿蘇周辺の道路は熊本地震のために何カ所かで不通になっている。しかし、リアルタイムで更新するナビが迂回路を選択してくれたようだ。午後4時というチェックインタイムに余裕があったので温泉宿に入る前に阿蘇神社を訪ねてみた。 これまで阿蘇神社は写真で見たことはあったが、実際に来たことはなかった。阿蘇市一の宮町にある。寂れてはいるが門前町もあり、全国に数多い阿蘇神社の総社というにふさわしい。この由緒ある神社が、4月14日、16日の熊本地震で大きな被害を受けた。「倒れたままの石灯籠」「全壊した拝殿と楼門」 ここに至るまでの道筋にもまだ屋根をブルーシートで覆ったままの家屋も多く見かけた。阿蘇神社の惨状を見て改めて被害の大きさがわかった。「拝殿前の狛犬」 倒壊した拝殿の前の狛犬が悲しげに空を見上げている。まずは被災者の生活の復旧が第一であろう。熊本城や阿蘇神社などの復興にはかなり長い年月がかかるだろう。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/08/28
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爆買いブームも一段落して 今月初め秋葉原にいったときに感じたが、中国人買い物客の姿が少なかったように思った。団体客を乗せたバスは来ていたが、ひと頃のようなにぎやかさはない。「中国人団体バス」(この後集合してきた人たちの手にしている荷物も少なかった~2016年8月4日秋葉原) このように爆買い現象が一段落した理由の一つには、ネット通販の利用が増えていることがあるという。海外にまでネットワークを広げている日本の宅配業が、海外からのネット通販の受注に大きく貢献しているのだろう。 ビザ要件緩和などの政策もあり、訪日外国人数は右肩上がりに増えている。2013年に初めて1000万人を突破して、2015年には1974万人と2000万人に迫る勢いである。(観光庁資料) しかし、爆買いによるインバウンド効果は峠を越えたようだ。それは訪日外国人が日本に期待していることが「モノからコト」に変わっているのではないかということだ。 「モノを買う」ことから、「コトを体験」することへの移行である。その一例は、美しい景色や自然を観ることや、清潔でおもてなしの行き届いた旅館に泊まることだったりである。 そのことで思いだしたのが、先日行ったUSJ(ユニバーサルスタジオ・ジャパン)での外国人客の多さである。数年前は外見や言葉ですぐわかったが、最近ではちょっと見では日本人と区別が付かない。しかし、よく観察すると韓国人や台湾人、中国人の姿が多いことがわかる。 USJが発表した2015年度の入場者数は1390万人で、そのうち訪日外国人の入場者数は140万人と10%をこえたという。今年度はもっと増えているのではないか。シーズンでも違うだろうが、先日の自分の体感では2割以上は確実にアジア系外国人だったように思う。「USJで増えている外国人」(服装やマナーも日本人文化の中にかなりとけ込んでいます) 彼等は今や大声で仲間同士で話したり列に割り込んだりしない。ましてやゴミをやたらと捨てたりもしない。日本人の振るまいかたや文化を学んでいるのだ。ただ、列に並んで待っているとき、周囲でささやかれている言葉が韓国語や中国語だったりすることは多かった。 これから先は、「モノからコト」への変化がどんどん進んでいくのだろう。それに対応できる「おもてなし」が求められている。2020年の東京オリンピックも近づいてくる。 ただ、このインバウンド効果が都市部だけに集中するのは困る。「地方創生」というならば、インバウンド効果の地方への波及も考えていきたいものだ。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/08/22
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世界遺産登録が決定 去る7月17日、イスタンブールで開催された第40回ユネスコ世界遺産委員会で、「ル・コルビュジェの建築作品」が世界遺産に登録された。ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年~ 1965年)はスイス生まれ、フランスで主に活躍した建築家である。 8月3日に海外からの来日中の親戚と会うことにしていた。待ち合わせ場所に上野を指定したのも、一緒に食事をしたあとにこの国立西洋美術館を観るのが目的の一つだった。ここにあげた写真は8月3日に撮影した写真の一部である。「2階への回廊」(いろんな角度から作品群を見て登っていくと2階である) 美術品を鑑賞するのに必要な照明はできるだけ自然のあかりを生かしている。自然光をどう取り入れるかがこの国立西洋美術館の基本コンセプトにあったのだろう。「ふりそそぐ光」(吹き抜けを見上げれば光の速度が感じられるかのようだ) 川崎造船所(現川崎重工)社長の松方幸次郎 (1865~1950) が西欧で収集した近代絵画(松方コレクション)が常設展示の中心である。印象派以降の近代絵画が多く展示されている。「自然の照明で観る」(世界遺産に登録が決まった直後だったので観覧者が多かった) ル・コルビジュジェは1960年代を中心に、壁面の装飾をなくした合理的的・機能的はモダニズム建築で優れた作品を遺している。今回指定された建築作品は世界7ヵ国にまたがっているが、東京都台東区上野にある国立西洋美術館もその一つである。「中庭を望む」(多くの絵を観たあと自然の色彩に出会うと一風変わった感覚を体感できる)「わかりやすいピカソ」(タイトルは「男と女」、分かりやすいのは構図や形だけではない) この作品は、色彩も補色関係にある赤と緑を使っている。それで男と女を対比的に描いている。自分は二人の幸せ感が伝わってくる作品だなと思った。 1時間程度では鑑賞時間が足りなかった。もっと時間があるといろんな発見があったかもしれない。今回はとりあえず気づいた点を記憶をもとにまとめてみた。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/08/13
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初めての寄席 昨夜泊まったホテルは、東京メトロ銀座線外苑駅から徒歩2分、神宮球場まで徒歩10分以内の南青山2丁目という好立地だった。そして部屋は高層階だったので眺めも良かった。「大都会の日の出」(ビルとビルの間から日が昇ってくる。今日も暑くなりそうだ) 野球観戦ツアーとなった今回の東京。最終日の予定は決めてはいなかったが、思いついて寄席に行くことにした。野球と寄席、ジャンルは違っても3日続いてのライブである。「大都会の中の昭和」(開場時間の10時には何人かの列が出来ていた) 前座に始まり、入れ替わり立ち替わり漫才、落語、切り絵などの芸人が登場する。テレビのバラエティはドタバタと自分たちが楽しんで笑いを無理矢理とっている。しかし、寄席は芸で勝負である。テレビに出るような芸人さんは登場しなかったが退屈せずに笑わせてもらった。 昼の部の終了を待たず秋葉原に出て、少しだけ電気街を見物する。ひところこの秋葉原を占拠するかのように多かった中国人買い物客は大幅に減った。爆買いブームは去ったようだ。「ハニートースト」(食パンをくりぬいてアイスクリームと完熟バナナやアイスクリームが入っている) 最後はくりぬいてある食パンの外側も切り開いて食べる。この店は一昨日の8月2日に開店したばかりで、8月31日まで営業する限定カフェ「サンデーカフェ2016」だった。少年サンデーに登場するキャラクターにちなんだメニューで人気の店のようだ。 甘ったるい食パンを平らげて秋葉原駅に向かっていたら、こんな姿の外人さんがいた。別に珍しいことではないのだろうが、自分には珍しいというか、まともに見るのが恥ずかしい。「すれ違いざまの秋葉原」(撮るときちょっと動揺した。女の人の表情もちゃんと撮れていれば良かった) 都会にはスナップ向きのいい被写体が多い。小さくてもよく写るカメラでじっくり路上観察したら、結構面白い光景が捕らえられるだろうと思う。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/08/04
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意外と多い右ハンドル左側走行の国 西アフリカのナミビアで買った車雑誌をなんとなく眺めていました。今年の1月27日、ナミビアのウォルビスベイ寄港の折りに買った「Leisure Wheels(Feb.2016)」です。船旅では車やカメラの情報が入ってこないので、英語だったら何とか読めると思って買ったのです。「ナミビアで買った車雑誌」(SUV系の車雑誌ですが、確かにアフリカの大地には本格4輪が似合います) ナミビアはかつて「アパルトヘイト」を行っていたことからもわかるように南アフリカ共和国の影響が強い国です。だから、今でも雑誌などは南アフリカのものが多いようです。 そこで気づいたのは、この雑誌に掲載されている車の写真の多くが右ハンドルだということでした。そのことについ先日気づいたのです。LEXUS LX450dのロードテストが乗っていますが、やはり右ハンドル車でした。「LEXUS LX450d」(日本では2015年9月にLX570が発売されていますがまだあまり見かけません) 雑誌に掲載されているLX450dは8気筒ディーゼルターボで排気量は4661ccです。車長5056mm、車幅1980mm、車高1865mmで、車重は2.6トンもあります。室内のインテリアは日本で販売されているものと変わらないようです。右ハンドルだから違和感がないです。 ちなみにLX450dの現地での販売価格は139万3千ランド。1ランドは約7円ですから日本円に換算すると980万円になります。 日本版のLX570はV型8気筒DOHC 5662cc、価格は1千100万円。諸元の違いはあるが、南アでの価格は意外に安い。グローバルに展開しようというLEXUSの戦略が見えるようです。日本では高く売って稼いで、外国で安くして販路を広げようとしているのでしょう。 それはそうと右ハンドルの話ですが、南アフリカはかつてイギリスの植民地で現在もイギリス連邦の構成国です。現在右ハンドルで車は左側通行という国は世界の約3分の1もあり、その多くは旧イギリスの植民地だったところなのです。「確かに車は左」(南アフリカ共和国のケープタウンで2016年1月24日撮影) だから、オーストラリアもニュージーランドもインドもスリランカもシンガポールも右ハンドル左側走行です。右ハンドルは圧倒的少数派ではなかったのです。↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いします。にほんブログ村
2016/05/20
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成田空港にて 25年前の今日(1990年10月26日)の夜、私は他の22名の同行者と一緒に成田空港にいました。この日は海外研修視察でヨーロッパに出発する日だったのです。 この旅では、自分が「記録係」だったこともあり、ビデオはもちろんスチール写真も結構撮っていました。そのフィルムは多分ASA400のフジカラーですが、今はどこにあるかわかりません。ただ、主要な写真は5册のアルバムに残していました。 これからしばらく、25年前を思い出しながらアルバムの写真をピックアップしてブログにアップいきます。アルバムに貼っているL版の写真をスキャナーでとって使います。「夕暮れの成田空港・北ウイング」(まだ空の旅と言ったら断然「日本航空」がブランド力があった時代です) 自分にとっては、1980年以来2回目のヨーロッパでした。特筆しておかねばならないのは、このころまでのヨーロッパ便は基本的にはアンカレッジ経由だったということです。 それはなぜかというと、ロシア上空がまだ飛行できなかったからです。だから、一部には南回りの乗り継ぎコースもありました。こちらは安いけど時間がかかりすぎるのが難点でした。「出発便の表示板」(22:30発 JAL421便、アンカレッジ経由(VIA ANCHORAGE)と表示されている) これを書いていて気づいたことがある。上の写真の表示板のJALマークは、2002年から尾翼に使われるにようになるマークだった。「誇らしげな鶴のマーク」(1959年以来親しまれた鶴マーク、2002年に消滅したが2010年の経営破綻により復活した) 使用カメラはCanon EOS10 QD、レンズは35~135mm F3.5-5.6のズームレンズ。フィルムの一部は空港のX線検査でかぶっています。今考えればちょっと不気味です。 基本的にはノートリミング。退色などが目立つ場合には若干の色補正を試みてみます。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/10/26
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百済文化祭のヒーロー・ヒロイン 百済の武寧王は、混乱していた国土を鎮めて国威を向上させた第25代の王です。9月中旬に2週間にわたって開かれる百済文化祭では武寧王とその后は大切なシンボルです。「開会式の武寧王と王妃」(開幕式で聖火を点火したのは、公州市選定の「今年の武寧王と王妃」でした) 「今年の武寧王と王妃」は、毎年広州市民のなかから公募で選ばれます。活躍ぶりが評価されたのか、今回の王様夫妻は見事再選されたそうです。 一方、可愛い、日本の「ゆるキャラ」みたいな武寧王と王妃も見ました。今年(2015年)の百済文化祭の扶余(プヨ~忠清南道扶余郡)会場にありました。「可愛い王と王妃」(雨が降ったらどうなるのだろうと気になりましたがとても可愛いです) 扶余は武寧王のあと、538年から660年(百済滅亡の年)まで6代にわたって都がおかれました。武寧王までの都だった公州(コンジュ)から車で30分ほど西に走った場所にあります。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/10/17
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韓国の貸切バスの運転席 先月の韓国4日間の旅はバスでの移動が中心でした。それも、釜山から公州までを往復したのですから、福岡~神戸間くらいに相当する長距離移動だったのです。 バスの中ほどに席を占めていたので、運転席の様子はわかりませんでした。しかし、ときおり飛行機のようにバスの全面の光景が50インチ超ほどの液晶画面に写し出されたりして、かなりハイテクなバスのように感じました。「運転席」(乗降の機会に撮っていた写真、日本車と比べたわけではないがスイッチが多くて飛行機みたい) 細かいところが気になるでしょうがこの写真は全景です。音響関係の機器も多く、ナビも2つついているようです。黒いもう一つの画面が、正面の大画面のモニターでしょうか。 この運転席はメカ好きな人にはたまらないでしょう。運転する前に、ここに座っただけでなんか満足してしまいそうな感じです。ハイテクな機器やスイッチが多い反面で、シートカバーがローテクな感じを出していて面白かったです。 ハンドルにある「KIA」は、起亜自動車のマークです。起亜自動車は現代自動車に次ぐ韓国第2の自動車メーカーでしたが、1998年の経営破綻以降は現代自動車グループの一員になっています。トヨタグループにおけるダイハツという感じでしょうか。「外から見たらこんな感じ」(日本の観光バスよりいかめしい。ナンバーがフロントウインドの上部にも書いてあります) 2日目(9月26日)の朝、2日間泊まった公州の錦江ホテルの前で撮りました。バスの前に立っているのがドライバーです。無口で穏やかだが、腕は確かなドライバーでした。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/10/03
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飲んで、食べて、しゃべって 五連休となった今年のシルバーウィークの最後の2日間。現役世代の友人二人は遠くに出かけるには都合が悪そうなので、県内のほんの近場の温泉宿を予約していた。 そうすると、案の上近場にしていて良かった。結局は、チェックインタイムからチェックアウトタイムまでが3人が一致して都合できる時間帯だったのだ。「川の向こう側に建つ温泉宿」(自宅からだと車で約40分、いつもただ通り過ぎるだけで泊まるなんて考えたことなかった) 三人三様の交通手段で旅館集合だったが、ヒマな自分はチェックインタイムより少し早めに着いたので温泉街付近で時間つぶし。しかし、温泉街というほどのことはない。この温泉地には10軒ほどの温泉旅館があるが、山あいをながれる谷間にはのどかな風景が広がっている。「山里の秋」(拾い忘れられた栗、この季節を代表する彼岸花)「秋の彩り」(宿の部屋からの眺め、静かにしかし確実に秋の陽は傾いていった) 19日から3日間(つまり昨日まで)、この古湯温泉では第32回「古湯温泉映画祭」が開かれていた。これは後で知ったのだが、俳優、役所広司をメインゲストに10本ほどの映画が上映されている。今年上映された中に「幸せの黄色いハンカチ」、「アナと雪の女王」、「Shall we ダンス?」なども含まれていた。前もって知っていたら来ていたのにと、ちょっと残念だった。「露天風呂つきの客室」(最近リニューアルされた清潔感ある檜造り。半露天で広さはお一人様用) 早速夕食前に一風呂あびる。連休料金ということもあるだろうが、ちょっとお高い宿泊料金である。チェックインからチェックアウトまでをフルで楽しまなければならない。「和風の食事どころで」(最近増えているシニア層に合わせた、食べ残しの出ないほど良いメニューだった) 夜中過ぎまでビールや焼酎を飲みながら話し込む。隠し砦の三悪人ならぬ三小市民であった。午前様まで話し込んでいたが、それでも朝はきちんと朝風呂に入って「ぬる湯」を楽しんだ。「朝の回廊」(離れの客室をつなぐ回廊からは、紅葉しかけた木々の眺めが美しい) 9月23日、チェックアウトの時間にはちゃんと3人揃って宿を出る。「今度はまたいつかどっかで…」と声をかけ合って、それぞれの用件に向かって走り出した。 そんな、とても真面目な男3人の隠れ家ごっこだった。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/09/23
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下関で歴史の跡を訪ねる 前日(8月23日)は、広島駅から17時2分発こだま747号に乗って18時23分新下関駅着。そこから山陽本線に乗り換えて下関駅に降り立ちました。下関駅周辺は浴衣姿の男女が目につきました。22日、23日と「しものせき馬関まつり」が行われていたのです。 駅前からサンデン交通バスで約10分、唐戸市場のある唐戸バス停で下車。見上げると目の前に立派なホテルが建っていました。昨夜の宿は海峡に面した下関グランドホテルでした。 今朝は唐戸市場内の食堂で朝食を摂り、まず前田砲台をめざしました。1863年5月、長州藩は下関海峡に面した前田砲台(下関砲台)から関門海峡を航行する外国船を砲撃しました。長州藩は単独で攘夷を実行したのです。これを一般に下関事件と呼んでいます。「前田砲台跡」(現在はこの下に国道2号線が走っていますが、幕末当時は直接海に面した高台でした) 翌1864年8月、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4ヶ国連合艦隊は前田砲台を攻撃し占領しました。多くの歴史教科書にこの時の写真が載っています。このできごとを下関戦争といい、これを機に長州藩は攘夷を捨て近代化を進めて倒幕に向かうことになります。 前田バス停からサンデン交通のバスに乗ると5分もしないうちに赤間神宮前のバス停に着きました。2番目の目的地は下関講和会議が行われ下関条約が締結された春帆楼です。春帆楼は伊藤博文がよく利用した料理屋で、今も高級料理店兼旅館として営業をしています。「日清講話記念館」(春帆楼の右手に下関講和会議関係の資料を展示した「日清講話記念館」があります) 下関講和会議は下関事件からわずか30年後の1895年4月のことです。幕末からわずか30年で日本は列強国となり、大国だった清国に戦勝国の立場で講和会議に臨んだのです。日清戦争は日本の大陸進出、軍国主義化の始まりでもあります。しかし、前田砲台跡、春帆楼を続けて訪ねてみると、明治維新以降の日本の近代化がいかにスピード感があったのかというのが身にしみて感じられました。「記念館の内部」(記念館には中国からの団体観光客も多く訪れていました~入場は無料) 自分たちの国が負けた戦争の講和記念館を見る気分はどうだったでしょうか。清国は満州人の国だから、漢人の自分たちには関係ないよと言ったでしょうか。 ついでに、隣の赤間神宮に行きました。壇ノ浦に沈んだ幼い安徳天皇を祀った神社です。ここにも中国人観光客が多く見られました。門の形はまるで竜宮城みたいです。「赤間神宮の門」(きっと中国人の皆さんは親近感を感じたかも知れません~門の外は関門海峡壇ノ浦) 1185年の壇ノ浦の戦いで滅んだ平家一門の墓石もありました。日清講話記念館から百歩ほど歩いただけで、日清講話条約から700年前の壇ノ浦の合戦に戻ってしまいました。「平家一門の墓所」(後世のしつらえでしょうが、左端が壇ノ浦の合戦の総大将平知盛の墓碑です) 歴史の旅の締めくくりは巌流島です。宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は歴史というより伝説でしょうが、下関市は巌流島の決戦400周年として宣伝しています。400年前といえば1615年で歴史年表で言えば大坂夏の陣があった年です。 実際の決闘は1612年説など諸説あるようです。基本的には吉川英治の力作「宮本武蔵」の筋書きが通説になっているようです。まあ大雑把にいえば400年なんだなと納得して、10時35分発の関門汽船の渡船(往復500円)に乗りました。「武蔵と小次郎」(小次郎像が2002年、武蔵像は1年遅れて2003年に制作~左奥に関門海峡大橋) 巌流島は通称で、正式には船島といい藩政時代は小倉藩領でした。現在では下関市に属しています。もともとの船島は小さくて平らな小島だったと思われます。「伝馬船が一艘」(武蔵もこんな舟でこの島に渡ったのでしょうか。舞台装置としてはいい演出です) 11時40分発の渡船で唐戸に戻り、昼食を食べてから下関を後にしました。帰りは旅友の提案で博多まで高速バスにしました。なるほどそういう手があったのです。 というわけで、今回の旅は2日目のレンタカーを除けば行程の全てを公共交通機関を利用しました。使った公共交通機関は、JR、新幹線、路線バス(鞆鉄バス、サンデンバス)、広島市電、タクシー、定期渡船(福山市営渡船、関門汽船)、高速バス(西鉄バス)でした。 近場でも行ったことのない味わいある場所があるものです。晩夏の歴史再発見の旅でした。 ↓ランキングに参加しています。よかったらクリックをお願いしますにほんブログ村
2015/08/24
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