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今週から来月は、木曜日が休みで、今日はちょっとあれだけど、来週はばちばちに写真詩を書いていくと思うな。盆休みで、一日写真詩10枚いけるかっていうところを狙いつつ、まあ、俗にいう一万本ノック(増えてる?)だ。情報詩ではおそらく初の二万文字超えをして、(写真詩の情報詩は別として、)今後は二万文字、三万文字の作品を指す言葉に、なっていくのではないだろうか。情報を扱うということが主題だった、このジャンルだった、元をただせば、詩がつまらない、読む価値がない、だったら、読む価値のあるもの、特定に人に必ず届く(響く)情報詩を作ろうというところからきている。現代詩とかいう生産性のないものを作っているのに飽きたら、詩も大きくそちらにモデルチェンジしていっていいのではないか、と思う。未熟な詩、あるいは抒情詩というものは、未完成の気分にすぎない。あるいは未経験の心理だ。そして十代から二十代前半で辞めていくポエムにならい、ようは自分の自画像を上から嘘で塗り固めていく行為だ。そういうのを三十代とか四十代でも平気でやっていることに、吐き気を伴わないなんてすごいことだ。僕はだからjポップや、ボカロみたいな音楽性の文脈を導入した。人それぞれあるだろうけど、九割方はそれに追いつけない。だって、いままでと違うものを新しく積み上げようなんて、まともなことじゃないからだ。そこで行き着くのがモダニズムや、破壊的行為だろうか。現代詩なんて申し訳ないけど、たかだかその程度のものだ。読む価値がないというのをやさしく言ってあげられないこともないけど、僕は一ミリもそういうものに加担しない。情報詩なんてまさにその水際にあるもので、お前達全員馬鹿なんだと宣告するのに等しい。僕は一切容赦しない。アカデミズムだって大嫌いだし、詩壇なんてもっと嫌いだ。詩の同人誌なんて存在することだって許したくない。詩の賞があるというだけで、これは戦争だ。飯を食うための登竜門としてある、詩の賞なら僕はまだいいと思う。何の意味もないものに、いつまでかかずらっているつもりなのか。やっぱり、やるなら実績を積み上げなくちゃいけない。もちろん二十年ぐらい、どこかのブログなりホームページで、わけのわからない詩を書き続ける根性を身に付けてほしい。昔、僕も現代詩人がどこかのブログで、貧相な詩を書いているのを見たよ。こいつウルトラバカだなって思った。現代格闘技に中国拳法の名人が戦うぐらい馬鹿だなと思った。いや、中国拳法の名人が、それでも本当に努力している人なら、その肩書が嘘偽りのないものなら、現代格闘技ぐらい習得しているものではないかと思う。僕がその立場だったら絶対にそうしている。井の中の蛙大海を知らずというけど、恥ずかしいからだ。世の中には優れた人、五万といる。僕より文章力があって、僕より詩が上手い人はいないと思うけど、(でも何事にも例外はあるに違いないと思って、周囲を見渡すことをやめたりはしないし、その仮想敵を、自分の教訓とするのをやめたりはしない、)そういうのを、現代詩人達ひとりひとり、胸に手を当てて、きちんと考えているだろうか。詩の世界はバラバラだ。なら、僕が引導を渡したって構わんだろうと思う。はっきり言ってお前ら全員下手糞で、読む価値がないし、営業の迷惑になるから即刻消えてくれないか。僕は気に喰わなかったらそいつら全員ぶん殴るし、僕は暴力が好きなわけじゃないけど、僕のパンチはまあ重いと思うよ。毎日筋トレしているみたいな職場でやってるから、一発喰らったら意識が飛ぶと思う。殴られたら痛いし、喧嘩したことがないならそれは怖いだろう。でも、殴られる覚悟もなくて、本当に命を賭けた仕事なんてできるのだろうか。うだつが上がらないにせよ、胸を張って何かを成し遂げていくなんていうこと、本当にできるだろうか。ちゃんとやってるということを、周囲にも、そして最終的には一番厳しい僕にもわかるような、そういう仕事をしていかなくちゃいけないんじゃないかな。友達が必要になる、連携も必要になる、組織が必要になる―――僕はなんだって知っているわけじゃない、ひとつひとつ丁寧に考えて来たんだ。そして読者らしい人も、真面目に考えないといけない。はっきりいって、この体たらくは、主体性のある読者がいれば、十分に回避できたからだ。そういう高い次元のことを臨むには、いくらか、あなたが馬鹿すぎるだろうか。以上だな。
2026年07月30日

バヌアツ共和国は、オーストラリア大陸の東約一八〇〇キロ、フィジー諸島の西約八〇〇キロ、赤道と南回帰線のあいだに散らばる八十三の火山性、珊瑚礁性の島嶼が、この国だ。国の総面積は約一万二千平方キロメートル。日本の新潟県(約一万二千五百平方キロ)とほぼ等しく、しかしその領海は広大で、排他的経済水域は約六十八万平方キロに及ぶ。これは、日本の本州、四国、九州を合わせた面積よりも広い海域だ。この海こそが、彼等の道であり庭であり神殿でもある。潮汐の時刻は腕時計ではなく、三半規管内のリンパ液の微細な傾きと、月齢がもたらす引力のベクトルを身体が覚え、老人は波音だけで翌日の天候を言い当てる。この海域の航海術は、羅針盤も海図も知らぬ千年前から完成していた。星の出没する方位を三十二に区切った「スターコンパス」うねりが島の背後で反射してつくる干渉波の読み取り、雲の底に映る環礁の緑の陰、渡り鳥の飛跡、ミクロネシアの航海士が「エタック」と呼ぶ、自分は動かず島の方が背後へ流れていくという相対運動の想像法。 クックがタヒチから連れ帰った航海士トゥパイアは、頭の中だけで太平洋の百三十以上の島を海図に落としてみせた。彼等の脳は、GPSより古く、GPSより湿っていた。満潮前になると珊瑚礁の切れ目から潮流が唸り、子供達はその音だけで魚群の接近を知る。そしてバヌアツ海盆を抜けて複雑な渦を巻き、島々を潤す。水温は年平均二六度から二八度を保ち、サンゴの産卵は満月の数日後、一斉に海面を白く染める。その瞬間、海はまるで星空を逆さまにしたかのように、無数の白い点滅で覆われる。プランクトンが発光する夜には、カヌーの櫂が引き波に青い蛍光の尾を引く。光の正体は渦鞭毛藻、ヤコウチュウの類で、水の乱れという物理的刺激に、ルシフェリンとルシフェラーゼの酵素反応で応える。 要するに、櫂が海を叩くたびに、無数の単細胞生物が驚いて青く悲鳴を上げているのだ。美しい、とだけ言っておこう。 ただしこの楽園には、数年に一度、名を持った悪意がやってくる。 二〇一五年三月のサイクロン・パムは、中心気圧の底が知れぬカテゴリー五の怪物として上陸し、ポートビラの屋根という屋根を剥ぎ、この国のGDPの半分を一夜でむしり取った。海が道であり庭であり神殿であるということは、海が処刑人でもあるということだ。地質学的には、インド・オーストラリアプレートと、太平洋プレートの衝突帯に位置し、環太平洋火山帯の燃える首飾りの一部をなす。この首飾りは、南米アンデスからカスケード、アリューシャン、カムチャツカ、日本列島、フィリピン、インドネシアへと地球を四万キロ巡り、バヌアツはその南の留め金あたりで火を噴いている。この収束帯では、太平洋プレートが年間約七センチの速度で、インド・オーストラリアプレートの下に沈み込み、その摩擦と歪みの解放として、この国は地球上でも指折りの地震多発地帯となっている。地面は、いつも微かに落ち着かない。島々は急峻な火山性の山塊と、なだらかな石灰岩の台地、 フリンジリーフ バリアリーフそして裾礁や堡礁が織りなすラグーンから成る。土壌は火山灰由来の肥沃な黒土と、珊瑚砂が混じる白い砂浜が共存し、熱帯降雨林とマングローブ林が海岸線を縁取る。マングローブの根は、潮の満ち引きに合わせて呼吸するかのように、泥中に張り巡らせ、赤ちゃんの揺り籠のようなプロップ根や、空中に突き出た呼吸根が、水面に影を落とす。種によって根の造形は異なり、ヒルギの仲間は蛸の脚のような支柱根を、オヒルギやメヒルギは泥から筍のように呼吸根を突き上げる。塩分を根の膜で濾し取り、あるいは古い葉に押しやって切り捨てる、緻密な脱塩装置を体内に持つ。その地下には、ヘドロのように黒く、硫黄分の強い堆積物が数メートルにわたり蓄積し、有機物の分解を遅らせる。酸素の届かぬこの泥の中では、硫酸還元菌が有機物を食み、代謝の副産物として硫化水素を吐く。腐卵臭の正体はこの嫌気呼吸であり、同時にメタンの泡が、時折ぽつりと泥の表面で弾ける。そしてこの泡がとある詩を連想させる。僕に金子光晴のマングローブに出てくる詩を思い出させるのだ。「マングローヴ」の詩篇で、彼は「泥のなかの呼吸」と「根の迷宮」を謳ったが、その言葉は、この湿った土地の鼓動と共振する。金子はかつて『マレー蘭印紀行』で、南洋の湿気と倦怠と官能を、痰を吐くように書いた男だ。彼にとって熱帯とは、日本という国家の窮屈さを溶かす溶媒だった。その溶媒に、僕も今、膝まで浸かっている。実際にその泥に足を踏み入れると、踝まで沈み、引き抜く時にズブッという音とともに硫化水素の腐卵臭が立ち上る。カニが横切り、小さなトビハゼが目をぎょろつかせて泥の上を跳ねる。トビハゼは胸鰭を松葉杖のように使って泥を歩き、皮膚と口の中に溜めた水で呼吸する、進化の途中経過をそのまま生きているような魚だ。四億年前、僕等の遠い祖先も、こんな顔をして陸を窺っていたのかもしれない。いや、もしかしたらもっとシーラカンスだったかも知れない。目が合った気がして、少し気まずくなる。我進行せり。人口は約三十三万。その九三〜九九パーセントがメラネシア系で、残りはポリネシア系、ヨーロッパ系、中国系、そして他の太平洋島嶼系が混じる。そして世界でも突出した言語多様性、百を超える先住民言語が現役で使われ、その多くがオーストロネシア語族とパプア語族に分かれる。一人あたりの言語密度でいえば、これは地球上で最も濃い。八百を超える言語を抱えるパプアニューギニアや、コーカサス山中の谷ごとの言語、南米ヴァウペス川の多言語婚姻圏と並べても、三十三万人で百数十言語という比率は突出している。例えば、エスピリトゥ・サント島ではサクラウ語やレンガ語が、タンナ島ではレナケル語やクワメラ語が、マレクラ島ではナハヴァ語が話される。公用語はビスラマ語(英語系クレオール)、英語、フランス語の三つ。だが、日常の「思考の言葉」は、各村の固有語であることが多い。言語学者は、この多様性を「言語の聖域」と呼び、一島一言語、あるいは一村一言語の原則が、部族の境界線と重なることを指摘する。地質環境と、呪術的世界観と、歴史的条件が揃って、閉鎖性と紙一重の防御装置、生存装置は完成する。山を一つ越えれば、名詞の格変化も動詞の時制システムも断絶する。ある言語は動詞に十以上の時制と相を折り畳み、隣の谷の言語は名詞を数える度に単語を丸ごと繰り返す(畳語)「見る」と「見た」と「見るだろう」が、峠一つで別種の生き物になる。それはまるで、熱帯雨林の樹冠ごとに異なる進化を遂げた、固有種の昆虫達のようだ。ガラパゴス諸島が脳裏に浮かぶが、やはり少し違う。それが一つの国の文化というものだろう。ある村では「魚」を意味する単語が七種類あり、それは「釣り方」「調理法」「神聖さ」によって使い分けられる。言語は単なるコミュニケーションツールではなく、世界を切り分けるナイフなのだ。エスキモーの雪の語彙の話は俗説として叩かれ尽くしたが、ここではそれが誇張ではない。世界の解像度そのものが、単語の数だけ違ってくる。翻訳とは、常に何かを殺して運ぶ行為なのだ。ビスラマ語は、約千五百語の語彙と簡素な文法で成立する、驚くべき橋渡し言語であり、「カストム(kastom)」という概念を中核に据える。同じメラネシア・ピジンの兄弟に、パプアニューギニアのトク・ピシン、ソロモン諸島のピジンがあり、いずれも十九世紀のプランテーションで、言葉の通じぬ島民同士が英語の破片を接着して急ごしらえした、符牒に始まる。カリブ海のクレオールや、スリナムのスラナン・トンゴと同じ、支配の言語を奴隷が奪い返して作り替えた言葉の子孫だ。カストムとは、メラネシア・ピジン語で、「伝統・慣習・不文律」を総称し、土地の帰属、首長の継承、収穫儀礼、婚姻規約、紛争解決の手順、すなわち社会の根幹すべてを指す。そしてこのカストムとは、単なる過去の遺産ではなく、現在進行形で更新される「生きた法典」であり、長老達はその解釈を口承で伝える。判例集も六法全書もない。前例は老人の記憶の中にだけ折り畳まれ、村の集会所の薄闇で、低い声とともに開かれる。首長制は年功序列ではなく、 マナ血筋と実績と霊力の複合評価で成立し、女性首長も存在する。この序列は、メラネシア各地に見られる、 ニマンキ位階社会(ニマンキ)として制度化されており、豚を屠り、儀礼を主催し、位を一段ずつ買い上げていくことで人は大きくなっていく。 その通貨が、渦を巻いた豚の牙だ。上の犬歯を抜いて下顎の牙を伸ばし放題にし、螺旋を一周、二周と巻かせる。牙の巻き具合が、そのまま富と威信の度量衡になる。バヌアツの国旗に描かれた牙は、伊達ではない。マナとは、超自然的な力や霊験のことで、首長だけでなく、戦士、呪術師、あるいは特定の場所や物体にも宿ると信じられる。「マナ」という単語は、実は人類学の歴史を一つ動かしている。宣教師コドリントンが一八九一年に『メラネシア人』で、この概念を西洋に紹介し、モースやデュルケームが宗教の起源を論じる基石として使った。今どきの若者がゲームで唱える「マナが切れた」の遠い源流も、このメラネシアの海にある。言葉は、島から島へ、そして学問からゲームへと漂着する。これは先鋭化ー大衆化というものだ。時間が進めば大衆化し、個性が失われると先鋭化の再開発が始まる。 ウォントク土地は個人ではなく血族集団の共有財産であり、譲渡も売買も基本的に認められない。この感覚は、近代的私有財産観とは根本的に異質だ。この「共有」の概念は、単なる経済的な共有ではなく、祖先との精神的なつながりを意味し、土地を「売却する」ことは「祖先を売る」ことに等しいとされる。土着的な文化でよく見る文脈だ。アボリジニのネイティブ・タイトルも、マオリのファカパパも、根は同じ地層に埋まっている。土地とは占有する平面ではなく、そこに垂直に堆積した死者と未生者の時間なのだ。「ウォントク」とは文字通り「一つの言葉(one talk)」を意味し、同じ言語を話す血縁集団を指す。彼等にとって、土地は市場で取引されるコモディティではなく、祖先の骨が眠り、未来の子孫が歩く、時間そのものなのだ。 うたき沖縄の御嶽が共同体の精神的中心であるように、バヌアツでも土地は単なる地面ではなく祖霊との契約そのものだ。文化人類学者ブロニスワフ・マリノフスキーは、異文化を理解するには統計よりも、「そこで暮らす人々の日常」を観察しなければならないと考えた。彼はトロブリアンド諸島に住み込み、島々を跨いで貝の腕輪と首飾りが円環状に贈与され続ける、「クラ交易」を記録して、『西太平洋の遠洋航海者』を書いた。参与観察という手法は、ここメラネシアの潟の匂いの中で産声を上げたのだ。もし彼がバヌアツへ長期滞在していたなら、首長の儀礼だけではなく、市場で値切る老婆や、夕暮れにカヴァを囲む沈黙の時間にこそ、この社会の本質を見いだしたのではないだろうか。もっとも、彼の死後に公刊された私的な日記には、島民への苛立ちや欲望や退屈が赤裸々に綴られていて、聖人めいた学者像は音を立てて崩れた。他者を理解しようとする者ほど、自分の底の泥を覗き込むことになる。マングローブの地下と同じで、そこには硫化水素の匂いがする。一六〇六年、スペインの探検家、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが、この群島を「エスピリトゥ・サント」と名付け、正式には「聖霊の南方大陸(ラ・アウストリアリア・デル・エスピリトゥ・サント)」と大仰に命名し、大陸(オーストラリア)の一部と誤認した。彼はここに黄金郷と新エルサレムの建設を夢見て、白い都市の礎を置こうとしたが、飢えと病と部下の反乱に潰され、数週間で退散した。ユートピアは、たいてい上陸して数週間で腐る。 一七六八年にはフランスのブーガンヴィルがこの海を掠め、一七七四年、ジェームズ・クックが再来し、「ニューヘブリディーズ」と命名。彼の航海日誌には、島民の刺青や耳飾り、巨大なカヌー(ドゥガウト)の詳細なスケッチが残されている。クックは、島民が ヤムイモを栽培し、豚を飼育し、サンゴ礁で漁をする 様子を観察し、その記録は後の人類学者にとって貴重な資料となった。クックのペン先が紙を擦る音は、当時の島の夜のコオロギやカエルの合唱、太平洋の波の音と重なっていたに違いない。クックは博物学者でもあり、彼の記録は単なる探検記ではなく、消えゆく世界へのオマージュでもあった。お分かりいただけるだろうか?盛っていますからね、これは。クックの船、第一回航海のエンデバー号ではなく、第二回航海の帆船リゾリューション号の甲板からは、島々のシルエットが水平線に浮かび上がり、彼の手記には「島民の肌は銅のように輝き、髪は縮れ、目は鋭い」という記述がある。しかし、彼の客観的な観察眼も、夕闇に沈む熱帯雨林の奥から漂う、甘腐れした植物の息吹までは記録しきれなかったはずだ。そして日誌に書かれなかったもう一つの匂いがある。この海はやがて、労働力を狩る漁場になった。 ブラックバーディング、十九世紀後半、島民は甘言と暴力で船倉に押し込まれ、クイーンズランドの砂糖畑やフィジーのプランテーションへ運ばれた。「カナカ労働者」と呼ばれた彼等の多くは、二度と自分のウォントクの土地を踏まなかった。楽園の発見譚の裏には、いつも人買いの帆影が寄り添っている。大嫌いなので何度も執拗に書くけど、コロンブスは殺戮者だ。コロンブスの卵は、フンコロガシのための糞と覚えてもよい。一九〇六年、英仏両国は、「ニューヘブリディーズ合同海軍委員会」という、 コンドミニウム極めて特異な共同統治を発足させる。二重の司法制度・二重の警察・二重の通貨(英ポンドと仏フラン)が併存し、学校も「英語派」と「仏語派」に分断された。英人高等弁務官と仏人高等弁務官がそれぞれ官邸を構え、道路の右側通行と左側通行の擦り合わせにすら覚書が要った。この滑稽な二頭政治を、英語話者は「コンドミニアム(condominium)」ならぬ、「パンデモニアム(pandemonium=伏魔殿)」と皮肉った。地口が制度批評になる、稀有な統治だった。これたとえば、最大限お互い譲歩した巨大企業同士の合併みたいなものだ。つまり何かっていったら、有り得ないということだ。子供達は朝は英語で「Good morning」と言い、午後はフランス語で「Bonjour」と唱え、夜は村の言葉で「眠る」を囁いたのだろう。この二重統治は、非効率の極みであり、道路一つ建設するにも英仏双方の承認が必要で、インフラの整備は遅々として進まなかった。このコンドミニアム体制下では、一人の犯罪者が「英国法では無罪、仏国法では有罪」という、パラドックスに直面することもあった。弁護士達は、どちらの法を適用するかで頭を悩ませ、時には被告が自ら「自分はどちらの国の人間か」を選ばされるという、法の迷宮が出現した。寿命が何百年もあるようなエルフなら可能だ。あるいはスパルタなら拷問にかけるので、そんな心配はいらない。第二次世界大戦では、米軍がエスピリトゥ・サント島と、エファテ島に巨大な基地を建設。最大時で約十万の米軍兵士が駐留し、滑走路・病院・冷蔵倉庫・港湾施設が短期間で造成された。サント島は「ベース・バトン」と呼ばれ、珊瑚を砕いて固めた滑走路と、蒲鉾を伏せたようなカマボコ兵舎(クォンセット・ハット)が椰子林を埋め尽くした。 この基地に軍属として送り込まれた一人の無名の予備士官が、退屈な夜に椰子の実のインクで綴った短編集が、後に『南太平洋物語』となり、ピュリッツァー賞を獲り、ミュージカル『南太平洋』へと化けた。劇中で島民が仰ぎ見る魔法の島「バリ・ハイ」は、サントの沖に浮かぶアオバ島(アンバエ島)がモデルだと言われる。戦争の退屈から、二十世紀の甘いメロディが一つ生まれたわけだ。歴史の副産物は、いつも本編より甘い。戦後、それらは放棄され、ジャングルに飲み込まれたコンクリートの遺構が今も眠る。錆びた鉄骨にツタが絡み、雨季の夜にはコウモリが巣を作る。 ジオキャッシャー廃墟マニアや都市探検の好事家達にとっては、この鉄とコンクリートが亜熱帯の植生に貪り食われる、緩慢な崩壊のプロセスは、最高のエクストリーム・フィールドだろう。その遺構の壁には、当時の兵士が落書きした、「ジョン、1944年、帰りたい」という文字が、苔に覆われながらもかすかに読める。冷蔵倉庫の扉は半開きで、中には錆びた缶詰と、何故か一足の軍靴が転がっている。靴紐は解けたまま八十年、誰も結び直しに来ない。誰かの右足が、まだここで帰る日を待っている。一九八〇年七月三〇日、バヌアツ共和国として正式独立。初代首相ウォルター・リニは、英国国教会の司祭でありながら、カストムとキリスト教の融合を掲げた。 ロムダンス独立式典では、伝統的舞踊と聖書の朗読が同時に行われ、南太平洋の新しい夜明けを象徴した。太鼓の響きが夜明けの海面に反響し、赤く染まった空の下で、島民の目に涙が光っていた。だが、その夜明けは血の匂いも孕んでいた。独立の直前、最大の島エスピリトゥ・サントでは、ジミー・スティーヴンス率いるナグリアメル運動が、「ヴェマラナ独立国」を宣言して分離を図り、フランス系入植者とアメリカのリバタリアン集団の、「フェニックス財団」が背後で糸を引いた。 新政府はパプアニューギニアの「クムル部隊」を招いてこれを鎮圧する。武器は弓矢と旧式の銃、そして椰子。世に言う「ココナッツ戦争」だ。国家は、生まれる瞬間にすでに、内側から割れかけていた。リニ首相は、独立後も 「カストムはバヌアツの魂」 と主張し、伝統文化の保護に尽力した。リニの「カストム・ルネサンス」政策は、学校教育に伝統的な舞踊や歌を取り入れ、若者達に自らのルーツを再認識させた。独立の瞬間、ポートビラの時計台の針は午前零時を指し、英国旗と仏国旗が降ろされ、新たな国旗が風に翻った。(緑、赤、黄、黒の横縞に、牙とシダの葉の紋章、——緑は島々の実り、赤は豚と人の血、黒はメラネシアの肌、黄は福音の光。牙は先述の螺旋を巻いた豚の牙、シダはナメレと呼ばれる蘇鉄の若葉で、平和の徴である。四色と二つの徴に、この国の矛盾がすべて畳み込まれている、)その時、ヤスール火山が轟音を立て、まるで祝砲のように火柱を噴き上げたという伝説が残る。マレクラ島の北方に浮かぶラノ島、人口約二百五十人、周囲約八キロの小さな隆起珊瑚島。ここには、二十世紀初頭まで実践されていた、戦闘カニバリズムの痕跡が生々しく残る。マレクラ島は、上唇に幅広の樹皮布を巻く「ビッグ・ナンバス」と、細い前掛けだけの「スモール・ナンバス」という、二つの民の島として知られ、いずれも人類学者が涎を垂らして通った、儀礼の宝庫だった。部族間抗争は、土地・女性・ヤムイモの収穫範囲を巡り、数年から数十年にわたって継続した。何でそんな下らないことで抗争をするのかと思われる現代人もいるが、実のところ、それが法治国家たる証拠だと思うのだ。近代国家は「法」が争点を抽象化し、伝統社会は「生活」が争点を具体化する。子供達はきっとこの説明が分からなくなるのだ。馬鹿になるのかも知れないし、もっとリソースを別のところに向けるべきなのかも知れない。この「具体性」こそが、伝統社会の強さであり、争点が「生活」に直結しているため、和解のプロセスもまた、生活の再建に結びつく。抽象化された争点は、抽象化された和解しか生まない。国家間の条約は署名で終わるが、村の和解は、豚を屠り、マットを織り、娘を嫁がせ、井戸を掘り直すところまで含む。血で贖い、肉で赦す。それは非効率だが、噓がつけない。いまとなっては「神話」である。 ナサラ捕虜となった敵戦士は、儀式用の石の祭壇で殺され、身体は部位ごとに解体された。ナサラとは踊りの庭であり、法廷であり、祭壇でもある共同体の臍で、周囲には男達の位階を刻んだ立石が林立していた。マレクラの人々は、死者の頭蓋に粘土で肉付けし、髪と入墨を再現した実物大の座像「ランバランプ」を作り、祖霊の依り代とした。今は各国の博物館のガラスケースの中で、彼等は空調の効いた異国の夜を過ごしている。その祭壇は今も村の広場の片隅にあり、黒ずんだ石の表面には、雨水が長年かけて削った溝が走っている。触れると冷たく、かつてここで流れた血の重みを、石は静かに記憶しているかのようだ。死とは何なのだろう、詩のようなものだろうか。神とは何なのだろう、紙のようなものだろうか。、 、、、、、、、、、、、、、、、、、否、過ぎてゆく時間は何も教えてくれない。教えてくれないのに、僕等はそれを教師と呼ぶ。時間は無口な教師だ。板書もしなければ採点もせず、ただ全員を等しく落第させて出ていく。肝臓と心臓は、戦勝の首長と最強の戦士が生で食し、 マナその霊力を体内に取り込むと信じられた。もののけ姫とかいうアニメに出てくる猩々のワンシーンだ。この「霊力の摂取」は、単なる迷信ではなく、敵の勇気や力を自らのものとするという、象徴的な行為であり、戦勝の祝祭の核心をなす。(馬肉を食べると馬のような身体つきになってくる、という思い込みの皮肉をせせら笑いたい気がする、)、、、、、、、、、 、、、、、、、、、人間食べて強くなる、それはすごいことだ。 スモークドライ四肢の筋肉は燻製にし、約二週間保存可能にした。しかし、人間の肉は豚肉より脂が少なく、独特のアンモニア臭と酸味を持ち、(一説には豚肉、牛肉、子羊肉の中間に近い味らしいが、猪のような野趣溢れる味という話もある、)「不味いが、飢えの際には食べられた」と、高齢者の口承は伝える。太平洋の隠語では、人肉はしばしば、「ロング・ピッグ(長い豚)」と呼ばれた。四つ足の豚と、二本足で立つ豚。彼等の分類学の中で、僕等はただの、脚の少し長い家畜だったわけだ。この呼び名の乾いた即物性に、僕はむしろ背筋を正したくなる。貝類(特にギンタカハマグリ)と一緒に土鍋で煮込むことで、臭みを和らげたという。遺跡発掘では、人骨と大量の貝殻・ヤムイモの皮が同一の廃棄穴から出土し、単なるタンパク源ではなく呪術的共食であったことを裏付ける。その廃棄穴からは、人骨の他に、儀式に使われたと思われる朱色の顔料が付着した石斧や、豚の牙で作られた装飾品も出土している。彼等は敵を食べることで、その「物語」までもを体内に取り込もうとしたのかもしれない。プリオン病、特にパプアニューギニアのフォレ族に多発した、「クールー病」は、震戦・失調・多幸感・最終的には死に至る。フォレ族では女性と子供が遺体の脳を食べる習慣があり、発症率は女性で八倍だった。病原体はウイルスでも細菌でもなく、DNAもRNAも持たない、ただの折り畳みを間違えた蛋白質、プリオンだ。異常な形の一分子が、隣の正常な分子に、「お前もこう畳め」と伝播していく。核酸なき感染という、生物学の常識を折り曲げた発見で、ガジュセックは一九七六年に、プリオン説を唱えたプルシナーは一九九七年に、それぞれノーベル賞を得た。バヌアツでは、クールー病の記録はほとんどないが、これは脳組織を食べる儀式が限定されていたためか、あるいは遺伝的耐性が進化的に獲得された可能性もある。事実フォレ族では、プリオン蛋白遺伝子の、一二九番目のコドンがヘテロ接合の人ほど発症しにくく、これは食人の歴史が集団の遺伝子に刻んだ、選択の指紋だと考えられている。習慣が遺伝子を彫り、遺伝子が次の習慣を選ぶ。文化と進化は、こんなふうに手を繋いで踊る。 同じ折り畳みの間違いは、英国の牛を狂わせた狂牛病(BSE)となり、羊のスクレイピーとなり、海を越えて食卓に忍び込んだ。共食の禁忌は、迷信ではなく、たぶん数万年分の遺体解剖の統計だったのだ。いずれにせよ、儀式的共食は敵を人間として扱わないという倫理的停止と、敵の力を我がものとするという魔術的論理の二重の不条理で成立していた。(なお、広東で人肉を食べたという話を聞いたけど、最初はやはり好奇心からスタートしたのではないかと思う、)——アステカの心臓抉り、アマゾンのワリの葬送食、一九七二年アンデスに墜ちたラグビーチームの生存者、ガンジス河畔で死体の肉を食むアゴーリの行者。人が人を食む理由は、飢えと、信仰と、好奇心と、絶望の四色しかない。そしてその四色は、たいてい混ざって出てくる。いわずもがなだが、現代バヌアツでは厳禁であり、キリスト教布教とともに急速に廃絶した。夜の焚き火の匂いが、今では椰子の実の甘い焦げた香りに変わっている。しかし、カルト映画の猟奇的なワンシーンのように、あの薄暗い森の奥底には、未だに肉を焦がす煙の記憶が土壌の微量元素として眠っているのだ。そう、村の古老は今でも、満月の夜に焚き火を囲みながら、かつての「戦士の味」について語り継ぐ。その声は低く、火の粉が舞い上がるたびに、彼の瞳の奥に一瞬、太古の炎が宿る。その炎は、赦されたのではなく、灰の下で息をしているだけなのかもしれない。文明とは、消火ではなく、鎮火だ。タンナ島のヤスール火山(標高三六一メートル)は、世界で最も連続的な噴火を記録する活火山の一つ。約五分ごとに爆発的ストロンボリ式噴火を繰り返し、火砕物は高度数百メートルに達する。「ストロンボリ式」の名は、地中海シチリア沖で、二千年以上休みなく噴き続ける灯台島ストロンボリに由来する。地球には、眠らない火が数えるほど存在し、ヤスールはその南半球の当番だ。他ならぬクックも一七七四年、この山の赤い光を夜の海から目印にしたと伝わる。太平洋の灯台、と呼ばれる所以だ。その継続的爆発音は島の鼓動であり、住民は「ヤスールが眠るときは、島が死ぬとき」と言う。噴火口縁に立つと、足元の地面が熱で振動し、硫黄の匂いが風向きで濃淡を変える。夜間には、溶岩の赤い輝きが雲底を照らし、海面にも反射して、宇宙からも視認できる光を放つ。この噴火は、マグマの粘度が比較的低く、ガスが抜けやすいストロンボリ式であるため、爆発は比較的穏やかで、観光客が安全に観察できる。噴火の間隔を計測していると、そのリズムが人間の心拍数と驚くほど似ていることに気づく。ドクン、という爆発音のたびに、地面が太鼓の皮のように震え、鼓膜の奥で自分の心臓が同調する。ここでは、地球そのものが生きているのだ。ヤスール火山を案内するガイドは、噴煙の高さを見ただけで「今日は火口に近づける」と判断する。観光客はヘルメットを被り、最新の火山情報アプリを確認するが、彼は風の向きと硫黄の匂い、それに爆発音の間隔だけを頼りに歩き始める。「山が今日は機嫌がいい」と言うその一言には、何十年も火山と暮らしてきた経験が凝縮されている。アプリは確率を返し、老人は関係を返す。前者は山を対象として扱い、後者は山を相手として扱う。どちらが正しいかではなく、どちらがより長く生き延びてきたかを、僕はときどき考える。この火山活動は、日本の富士山信仰のように「鎮める」対象ではなく、止まらない神として受容されている。 ダルヴァザトルクメニスタンの「地獄の門」という、天然ガス火災が半世紀以上燃え続けるクレーターを連想させるが、あちらは一九七一年、ソ連の技師が掘削事故で穿った穴に火を放ち、数週間で消えるはずが半世紀燃え続けている、いわば人災の永久機関だ。ヤスールは自然そのもののリズムであり、人間の制御を超えた生きた時間の体現者だ。噴火の瞬間、熱気が顔を撫で、肌の上に細かい灰が降り積もる。火山灰は洗濯物を一晩で灰色に変え、自動車のフロントガラスを細かな研磨剤のように削る。住民は屋根に積もる灰を竹箒で払い落とし、その灰は畑へ撒かれ、数年後には肥沃な土壌へ姿を変える。破壊と滋養が同じ灰の中に同居している。神が吐き、大地が呑み、芋が育ち、人が食う。円環はここでも閉じている。ヤスール火山の周辺には、硫黄の結晶が地表に浮かび上がり、黄色い斑点を作っている。この硫黄の結晶は、高温の噴気孔から放出された硫化水素が、冷やされて固体化したもので、強い酸性を示す。ルーペで覗き込めば、その斜方晶系の結晶構造が、悪魔の牙のように鋭く連なっているのが見えるはずだ。その結晶を手に取ると、指先がかすかに熱を持ち、独特の苦い匂いが鼻を突く。子供たちはこの結晶を集めて、地面に絵を描く。彼等にとって、硫黄は破壊の象徴ではなく、遊びの道具なのだ。そしてこのタンナ島には、二十世紀が生んだ最も奇妙な宗教が二つ、今も息づいている。 一つは「ジョン・フラム運動」第二次大戦中、米軍が海の向こうから運んできた、冷蔵庫や缶詰やコカ・コーラを見た島民は、これぞ神の恵み「カーゴ(積荷)」だと悟った。「ジョン・フラム」と名乗る白い神が、いつか再び貨物を満載した船で戻ってくる。その日のために、彼等は椰子の丸太で滑走路と管制塔を作り、竹の銃を担いで星条旗を掲げ、二月十五日に行進する。人類学は、これを「カーゴ・カルト」と名付けた。 もう一つは、さらに常軌を逸している。ヤオフナネンの村人は、英国のフィリップ殿下、エリザベス女王の夫君を、島の伝説にある、「海の向こうへ渡り白い女と結ばれた山の精霊」の化身だと信じ、彼を神として崇めた。殿下は生前、村へ自らの署名入りの肖像写真を送り、村は殿下の写真を聖遺物として祀った。二〇二一年に殿下が世を去ると、村は喪の儀式を執り行い、次は御子孫のいずれかが精霊を継ぐと囁き合った。 滑稽だと笑うのは容易い。だが、遠い島の到来物を神格化するのが「未開」なら、僕等が海の向こうから届く新型の板きれを、毎年拝んで行列に並ぶのは、いったい何と呼ぶべきなのだろう。カーゴ・カルトは、たぶんタンナ島だけの病ではない。宗教は熱狂と集団性だが、実はその正体は思い込みだったりするのだろうか。タンナ島の内陸ジャングルには、樹齢四百年超のバンヤンツリー(ガジュマル類)がそびえる。ガジュマルを知らない人にとっては何でもないことだが、個人的にテンションが少し高くなる生命力が旺盛な木だ。そんなのが四百年とかいうレジェンドクラスともなれば、ブッダしたくなること請け合いだ。悟りを開きたくなるかといわれればそれは断らせてもらうが。ちなみにブッダが悟りを開いた菩提樹(という言い伝え)も、実はイチジク属の従兄弟(インドボダイジュ、Ficus religiosa)だ。カンボジアのタ・プローム寺院を石ごと呑み込んでいるのも、同じ絞め殺しの一族。この木は、宗教も遺跡も等しく抱きしめて、ゆっくり潰す。気根が数十本垂れ下がり、一樹で小森林を形成し、イチジク属は「絞め殺しの木」の異名を持つ半着生植物で、初めは他の木の枝に鳥の落とした種から芽吹き、気根を宿主に絡めて地面へ下ろし、やがて宿主を締め殺してその亡骸の空洞に立つ。しかもイチジクの実は、イチジクコバチという、体長数ミリの蜂としか受粉できない、一対一の共進化の契約を、数千万年守り続けている。その下ではエナワワ族が狩猟採集と焼畑農耕を営む。彼等は金属製の斧やマチェットを所有するが、石斧も儀式用に保存し、「森は貸してくれているだけ」という哲学を持つ。気根に触れると、湿った樹皮の冷たさと、微かな樹脂の匂いが指に残る。バンヤンツリーの根元には、シダ植物やラン科の着生植物が生え、小さな生態系を形成している。その木の幹には、何世代にもわたって刻まれた無数の傷跡がある。それは、通過儀礼の際に若者がナイフで刻んだ印であり、結婚の記念であり、あるいは単なる「ここに俺がいた」という落書きだ。木はそれらすべてを、黙って幹に刻み続けている。アルタミラの洞窟から渋谷の駅前まで、人は「ここに俺がいた」と刻まずにいられない生き物だ。木はその虚栄を、年輪という時間で薄めてやっているのかもしれない。しかし猿を祖先に持つのに木登りをしたことないなんて情けない、という言葉は間違いなく暴論だが、どうして人間はこんな風になれなかったのだろうと想像すると、優雅なシンキング・タイムの始まりだ。世界を支配していたのは植物だ。植物は、光合成という魔法で、太陽エネルギーを化学エネルギーに変換し、地球上のすべての生命の基盤を築いた。そもそも今僕が吸っているこの酸素も、二十数億年前、シアノバクテリアという藍色の細菌が「大酸化事変」で、大気を毒(酸素)で満たした、その置き土産だ。植物は僕等の食糧であるだけでなく、呼吸そのものの発明者なのだ。支配者という言葉ですら、彼等には控えめに過ぎる。このバンヤンツリーの下に立つと、自分が一個の「個」であるという感覚が曖昧になる。気根が垂れるたびに、木の一部になったような錯覚に陥る。人間もまた、この巨大な生命ネットワークの、ただの結節点に過ぎないのかもしれない。森の地下では、菌根菌の糸が木々の根を縫い合わせ、糖と警報と養分を融通し合う。「ウッド・ワイド・ウェブ」が広がっているという。木は孤立した柱ではなく、地下で手を繋いだ群衆だった。僕等が「個人」だと思い込んでいるものも、案外、腸内細菌と記憶と他人の言葉でできた、結節点なのだろう。時々遺伝子というものについて考える。もしかしたら僕等は何か大きな勘違いをしているんじゃないか、と。遺伝子の側からすれば、僕という個体は、自分を次へ運ぶための、使い捨ての乗り物に過ぎない。乗り物が「俺の人生」だと力んでいるのを、遺伝子はハンドルの向こうで冷ややかに見ている、そんな倒錯した想像を、僕はやめられない。二〇〇六年、英国のシンクタンク「新経済財団(NEF)」が発表した、地球幸福度指数(HPI)で、バヌアツは世界一位を獲得した。指標は①平均寿命、②生活満足度、③生態学的フットプリントの三つ。つまり、長生き・そこそこ満足・環境負荷が極小、これが「幸福」の定義だ。北欧諸国(フィンランド・デンマーク)が近年の各種ランキングで、上位を占めるガバガバの選定基準だが、それらはGDPや社会福祉を重視する指数であり、HPIは持続可能な幸福を問う異端児だ。どうでもいいが、異端児というと麒麟児と言いたくなる。同じ穴の異端児に、ブータンの「国民総幸福量(GNH)」がある。GDPではなくGNHで国を計ると宣言したヒマラヤの小国と、フットプリントで幸福を割り引くメラネシアの小国。大国が数え損ねているものを、辺境の小国だけが数えようとしている、というのは、たぶん偶然ではない。 そもそも所得が一定を超えると幸福感が頭打ちになる、「イースタリンの逆説」を、この島々は統計以前に身体で知っている。このランキングは、バヌアツの人々にとっては「当たり前」を、数値化されただけのものだ。彼等は「幸福」を追い求めるのではなく、ただ「生きている」ことを享受している。その無自覚さこそが、最大の幸福の秘訣なのかもしれない。幸福を計測した瞬間に、幸福は少し逃げる。ものさしを当てられていると気づいた幸福ほど、居心地悪そうに身をよじるものはない。寿命なんて言ってしまえばテロメアの長さにすぎない。けれど、あれだけ煙草や酒を悪の親玉のようにしながら、とある人々にとっては長寿の何の弊害にすらもなりはしない。朝六時を過ぎる頃には市場全体が魚の匂いと、ココナッツミルクの甘い香りに包まれ、値札という概念は曖昧だ。常連同士は値段より先に家族の近況を話し、売買は会話の続きとして成立している。ヤムイモ、タロイモ、キャッサバ、ココナッツ、パンノキ、バナナ、パパイヤが山積みにされ、魚介類ではカツオ、マグロ、ナンヨウブダイ、タコ、アワビ類が、朝獲れで並ぶ。女達の頭には籠が載り、地面には芭蕉の葉が敷かれ、その上で切り分けられた赤いスイカが陽に光る。台の隅には、噛むと口が朱く染まるビンロウの実と石灰の袋が置かれ、誰かが赤い唾を路傍に吐く。ラジオから流れるビスラマ語の歌に、鶏の声と天秤棒の軋みが重なる。海に囲まれているような島なので寿司屋もあるだろうなと思っていたら、バヌアツ共和国の首都ポートビラには、本格的な日本食や寿司を楽しめる人気店があるらしい。物々交換も残り、隣人同士のシェアが暗黙の義務。 ウォントク失業保険も年金もないが、拡大家族がセーフティネットとなる。電気は太陽光パネルとディーゼル発電機が混在し、ガスボンベは月一回の連絡船で届く。都市ポートビラではインターネット速度は遅く、停電は日常茶飯事だが、人々は「タイム・ビスラマ(ビスラマタイム)」時間に追われない生活態度を誇る。市場の片隅では、老婆が手作りのカヴァを売っている。彼女は客の顔を見ると、まず「家族は元気か?」と尋ねる。値段はその後だ。もし客が「今日は金がない」と言えば、彼女は笑って「明日でいいさ」と言う。これが「ウォントク」の経済学だ。掛け売りではない。負債ですらない。それは、時間を担保にした信頼で、村という一枚の巨きな帳簿に、名前ではなく顔で記帳されていく。踏み倒せば、失うのは金ではなく、島での居場所そのものだ。だから誰も踏み倒さない。ブロックチェーンより古く、ブロックチェーンより確かな台帳が、老婆の記憶の中で回っている近頃、優しさと許しについて何百回となく思索を深めている。スピリチュアル詐欺師列伝はともかく、何千年も物質主義の毒がまわって成長しないまま停滞する、魂というのが存在するらしい。天国や地獄があるのか、そもそも生きる理由や死ぬ理由が本当にあるのか分からない。けれど、何千年どころか、仮に何万年や何億年も、こんなところで時間を潰す意味がよく分からない。僕が混乱を伴いながら眉間に皺を寄せるのはそういう時だ。本当の優しさや許しなんて存在しない、でもだからといってその優しさや許しから逃れてはいけない。存在しないものから逃げてはいけない、という矛盾を抱えて歩くことだけが、たぶん人間に許された唯一のまっとうな姿勢なのだ。神を信じきれず、神を捨てきれず、その狭間で膝を抱えている。それでいい、というより、それしかない。僕にとってはキリストやブッダより、マザー・テレサが一番の偉大な人物だ。彼女の赤裸々なまでに綴られた神との不信の言葉は、どんな有名な言葉よりも僕の胸を打つ。輪廻転生は存在する。だけれど、輪廻転生が本当に万人のものかは分からない。一回こっきりの人生だって言う。誰に何を言われるまでもなく、するべきことはきちんとしなくちゃいけない。政治家が腐敗してようが、世知辛かろうが、綺麗ごとが世の中に溢れてお花畑していて息苦しかろうが、もっと内省を与えて、その考えを深化させていっていいと思う。全然関係ないが、無になれ、と言って無になれる人を見たことがない。人生の教訓として、無になる修行をしておくといい。都市を毎日生きている人々にとっては、原始的なもの、人間本来の生活というのが魅力的に映るものだ。たまに「晴耕雨読」という理想を持つ馬鹿もいる。雨の日の湿った気分で本を読むなんて僕には朝飯前だけど、多くの人にとってはどうだろう。キャンプガチ勢ならいけると思うが。いや、沖縄に移住して一年足らずで諦めるようなもので、世迷言はゆめゆめいうなかれで、たまに食べる刺身や肉は美味しい、そういうことだ。楽園は、旅券に帰りの日付が刷ってあるから楽園なのだ。帰れないと分かった瞬間、椰子の木陰は牢の格子に変わる。都会人の憧れる「素朴な暮らし」とは、たいてい、いつでも降りられる観覧車のことでしかない。バヌアツで「無になる」とは、瞑想することではなく、ただ波の音を聞き、風に吹かれ、ヤシの木の揺れを眺めることだ。何かを「しよう」としないこと。それが、この島々の最も難しい修行なのかもしれない。ジョン・レノンの「イマジン」じゃ人は救われない。マイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」も以下同文だ。でもそういうものの中に潜んでいる創造性と集団の関係に、おそらくシンクロ現象があるのだろうと僕には思われる。一人の頭に湧いた旋律が、数億人の咽喉で同時に震えるとき、何かが確かに起きている。世界は救われないが、救われないまま、皆で同じ節を口ずさむことはできる。たぶん芸術というのは、解決ではなく、共振のことなのだ。で、何でこんな言い方をしたのかっていうとだが、ここからが細工は流々仕上げを御覧じろの部分でね、バヌアツ大統領様は財政再建のために市民権を販売している。価格は十六万五〇〇〇ドル(約一八一五万円)この「開発支援プログラム」なる制度、要は数百万円で一国の旅券を売る合法的な打ち出の小槌で、審査は最短一、二ヶ月、面接も居住実績も要らない。世に言う「ゴールデン・パスポート」だ。伝統社会の霊的な市民権と、近代国家の法的な市民権が、二重化している現象だ。しかも笑えるオチが付く。この旅券は当初、欧州シェンゲン圏へ査証なしで入れる、魔法の切符として売れに売れたが、素性の甘い審査に安全保障上の懸念を抱いたEUは、近年ついにバヌアツ旅券の査証免除を停止した。祖先の土地の上に建てた無形の国籍が、遠いブリュッセルの一片の決定で、紙屑同然に値を下げる。 マナカストムの霊力は、EU官僚の署名の前ではいささか分が悪い。さらに、爆笑必至、抱腹絶倒なことに、バヌアツでは無人島が売られている。「土地は祖先のもの」というカストムの世界観と、現代的な「土地は資産」という資本主義の世界観が、正面から衝突している現象だ。ある不動産サイトでは、「伝統的な酋長の承認済み」「精霊の儀式済み」という、不動産広告としては極めて異質な文言が並ぶ。最高だろう、これが現世利益というものですよ。ここまで馬鹿になっちまったらどうしようもない、そこまでいっちまって後どうとでもなれってことか。購入者には、土地の権利証書とともに、その島にまつわる神話を記したヤシの葉の写本が添えられる。もう、まともな思考回路じゃ追い付かないよ。、、、、、、グレイトだね。祖先の骨の上に別荘を建て、精霊の物語を「特典」として受け取る。神話がPDFの付録になる時代だ。売る側も買う側も、どこか本気で信じている顔をしているのが、いちばん怖い。冗談が本気を追い越していく速度に、僕の背骨はもう追い付けない。地獄の沙汰も金次第とはいったものだけど、お金があって出来ないことは、本当にないんじゃないかという疑念を強くしてしまう。でも僕だってゆっくりと様々なものへの思索を深めている、盲目にならず、考えることを諦めちゃ駄目だ。そういう過程でしか人は人たりえないことを認識しなくちゃ駄目だ。さて、閑話休題。しかし、外務省「海外安全ホームページ」で、危険情報は発令されていないものの、近年の都市部(ポートビラ人口約五万、ルーガンビル人口約一万五千)では、失業率(推定一五〜二〇パーセント)の上昇と、西洋文化(ファストフード・スマホ・SNS)の流入が窃盗、住居侵入、性犯罪を増加させている。村を捨てた若者が都市の周縁に流れ込み、賃労働もウォントクの網もない宙吊りの場所で、酒とスクリーンだけが手の届く娯楽になる。楽園の統計には現れない、都市化のありふれた副作用だ。ラゴスでもマニラでもリオでも見た、あの居心地の悪い薄暮が、ここにもある。特に女性への性的暴行は、報告数が過去五年で約二・五倍に増え、夜間の単独行動は危険とされる。在バヌアツ日本大使館(兼在フィジー日本大使館の出張駐在官事務所)は、「窓に鉄格子」「ドアに二重ロック」「夜間外出禁止」を明記した日本語安全ハンドブックを配布。備えあれば憂いなし。現地の警察は二輪パトロールを強化しているが、島外からの移住者や単身女性旅行者は特に警戒が必要だ。ポートビラの夜は、 レゲエやクワイエット・ストーム(太平洋のポップミュージック) が、流れるバーと、暗い路地の対比が鮮明だ。その路地の奥では、使い捨ての注射器が転がり、壁にはギャングのタグがスプレーで描かれている。昼間の楽園のイメージは、夜の闇の中で完全に反転する。ここは、楽園の裏側だ。同じ砂浜が、昼は絵葉書で、夜は現場になる。楽園という言葉は、いつも半分しか写さないレンズだ。都会で一度だけだが、僕も麻薬を売られそうになったことがある。末端の売人だろうし、何しろ勘違いもあるのかも知れないが、人が一人や二人消えても変じゃないようなところが、夜にはある。アンダーグラウンドの暗渠には、我々の知らない微細な生態系が蠢いているのだ。蛇だらけの島を例え話にするわけじゃないけど、世の中には確かに蛇を飼い慣らせる人が一定数存在するわけだが、(蛇をペットとして飼い始めた子供がインドにいて、コブラもいたっていう話だった気がする。まあ、コブラに巻き付かれて玩具と勘違いして、頭を嚙みちぎった一歳か二歳の男の子もいたという、トンデモない国なので蛇を飼い慣らすなんて朝飯前な気はする)その蛇の島は、蛇同士を蟲毒状態で練り上げた強力な毒で、ひと嚙みされただけでお陀仏だ。例え話のふりをして白状すれば、実在する。ブラジル沖のケイマーダ・グランデ島、通称「蛇島」逃げ場のない孤島で、餌の渡り鳥を即死させるべく毒が極まった固有種、ゴールデン・ランスヘッド(黄金の槍の頭)が、一平方メートルに一匹ひしめくという。上陸は法で禁じられ、灯台守の一家が蛇に追われて、全滅したという伝説まで付いている。軍隊だけがおっかなびっくり上陸するという話だったが、自然は、隔離という条件を与えれば、平然と地獄を醸造する。蟲毒は、人の壺の中だけの話ではない。安全な格好をしようと思わないだろうか、親切にしてくれるバヌアツの人々は蛇じゃない、でも夜は、あるいは地域によっては蛇だ。人が蛇になるのではない。人と場所と時間の掛け算が、蛇を醸すのだ。長靴を履け、というだけの話を、僕はずいぶん遠回りに言っている。そしてこれが文学の恩恵というものだろうか、ゆっくりと物事を眺めてから判断せよ。ペンテコスト島南部のブンラップ村周辺で、毎年四月から六月のヤムイモ収穫期に行われる、ランドダイビング(ナゴル)これは、高さ二十〜三十メートルの木製タワーから、リンデ蔓だけを足首に巻いて飛び降りる成年儀礼兼豊穣祭。タワーは釘一本使わず、蔓と枝を組んで山肌に築かれ、飛び降りる者の体重、身長、覚悟に合わせて、櫓の各段が微妙に前傾する。土台が緩めば全員が死ぬ。この建築そのものが、共同体の命の預け合いだ。蔓はテトラプテリア・ポテンティラ(熱帯のツル植物)で、伸縮性がなく、達人は背中が地面すれすれで止まる。失敗すれば骨折か死だが、過去五十年で死者は三人と、驚異的な安全率を誇る。いや、人死んでんじゃねえかと思う人は、おそらくバンジージャンプには参加できないだろうと思う。これは蔓の長さを経験者が目測で調整し、飛び降りる瞬間の体重移動で制御する、生きた物理学である。弾性のないゴム紐なき紐で、位置エネルギーを蔓の限界張力ぎりぎりで受け止める。数センチの誤差が、髪が土を撫でる成功と、頸椎の折れる失敗を分ける。彼等は微分方程式を、腿の内側と度胸で解いている。飛び降りる直前、ダイバーは無言で空を見上げる。彼の目には恐怖ではなく、一種の諦念にも似た静けさが宿る。風が彼の身体を包み、蔓がピンと張る。その一瞬、彼は人間であることをやめ、空気と重力の一部となる。もしかしたら鳥を夢見たかも知れない。俗に「バンジージャンプの発祥」と言われるが、バンジーはゴム紐を用いる娯楽であり、ランドダイビングは土地への奉納である点が根本的に異なる。近代バンジーの直接の起源は、一九七九年、英国オックスフォードの、「危険スポーツクラブ」の悪ふざけと、それを商業化したニュージーランドのA・J・ハケットだ。彼はエッフェル塔から飛び、伸びるゴムで観光を発明した。奉納が娯楽に、祈りが料金に翻訳される、その典型がここにある。同じ「飛び降りる」でも、片方は神へ捧げ、片方はレシートを受け取る。飛び降りた男性の頭髪が地面に触れると、その年のヤムイモの生育が良いと信じられ、女性達は下で太鼓を叩き、呪文を唱える。観光客向けのデモンストレーションも行われるが、本祭は外部者立ち入り禁止の厳格なルールがある。タワーの上から見下ろすと、地面が遠く、風が耳をかすめ、心臓が咽喉まで上がる。蔓を巻く際には、伝統的なピグメント(赤土や炭)で身体に模様を描き、精霊に保護を祈る。ところで、八十三の島のひとつ、エロマンガ島(面積約八百八十八平方キロ)は、その名のエロティックな響きとはまったく無縁の、密林と断崖に覆われた島だ。夜の紳士達を夢想と愉悦と蠱惑の境地に達させる、仕掛け装置はまったくない。それどころか、この島は「殉教者の島」という、まるで正反対の綽名を背負っている。十九世紀、ロンドン伝道会の宣教師ジョン・ウィリアムズが、ディロンズ・ベイに上陸した途端に撲殺され、食されたと伝わる。後に来たゴードン兄弟も相次いで殺された。福音は、この断崖で何度も血に洗われた。名前の官能と、歴史の血。エロマンガ島は、その落差だけで一篇の物語になる。 さらにこの島には、もう一つの略奪の記憶がある。サンダルウッド白檀だ。良質の香木を求めた交易船が島の森を丸裸にし、伐り出した白檀は広東へ運ばれ、清朝の富裕層が茶や絹と交換した。先に語った広東の食人の噂と、この島の白檀と、そしてブラックバーディングの帆影は、同じ十九世紀の太平洋を、同じ欲望の糸で縫い合わせている。いいかい、「運命」という言葉を誤解してはいけないよ、霊妙なる山脈から流れる緩徐なる川の流れを。世界は、僕が思うよりずっと少ない糸で編まれている。命名の謎は二説ある。説一(ポトナルビン地域口承)一七七四年八月、クック船長が上陸し、現地のソルング語(現在は消滅)で 、「アルマイ・ンゴ、アルマイ・ンゴ(この食べ物は美味い)」 とヤムイモを称賛され、それを島名と誤認。説二(クック随行の博物学者ゲオルグ・フォースターの記録)五日後のタンナ島訪問時、ファノコという島民から、 「エロマンゴ」 という音を聞き取り、航海日誌に記載。——ちなみに、このフォースターという男、後にゲッティンゲンで人類学と革命思想の橋渡しをすることになる、若き博物学者で、クックの第二回航海の記録者として、西洋が「他者」を眼差す文法を一つ組み立てた張本人でもある。クック自身は同島を命名していない。ところでオーストラリア・クイーンズランド州には、 「エロマンガ」 という町が存在し、そちらはアボリジニ語で「熱風の吹く平野」 とされるが、バヌアツのエロマンガ島とは語源的な関連は不明。ただWikipediaには載せられているので無視は出来なかったのだろう。ちなみにこのクイーンズランドのエロマンガは、「オーストラリアで最も海から遠い町」を自称する、内陸の乾いた集落で、しかも近年、豪州史上最大の恐竜、全長三十メートル級の竜脚類オーストラロティタンの化石が、近郊で掘り出されている。片や海に呑まれた食人の島、片や海から最も遠い恐竜の墓場。同じ音の名を持つ二つの土地が、地球の反対側で、真逆の乾湿を生きている。この対称性だけで、僕は一日機嫌よく過ごせる。何だって理解するところから世界は始まる。言語学者は、オーストロネシア祖語の、「qelom(影)」+「qan(食べ物)」 の合成説も提唱するが、結論は出ていない。名前とは、来訪者が作り、現地人が忘れるもの。これが島の真実かもしれない。、、 、、、、、、いや、賢者タイムだ。アンブリム島(面積約六百七十八平方キロ)は、「ブラックマジック・アイランド」として全バヌアツで恐れられる。北のベンボウ火山(標高約千三百メートル)と、南のマルム火山(標高約千二百メートル)の双子の活火山が島を挟み、その噴気孔からは常に白煙が立ち上る。この二つの火口は、かつて地表に溶けた岩の湖、溶岩湖を湛えていた。地球上で常時燃える溶岩湖を持つ火口は、エチオピアのエルタ・アレ、コンゴのニーラゴンゴ、南極のエレバス、ハワイのキラウエア、そしてこのアンブリムくらいしかない。二〇一八年の大噴火で地下に岩脈が走り、湖は静かに抜け落ちてしまったが、島民にとって、それは神が目蓋を閉じたのと同じことだった。島民は、火山の怒り=魔術師の呪いと直結させ、テトゥア・ガリ呪術師は夜間に火山の火口で儀式を行うという。仮面儀礼「ロムダンス」では、樹皮布で作られた円錐形の巨大仮面(最大高さ五メートル)をかぶり、足踏みとシューという呼吸音で精霊を表現する。しかもこの仮面を作り、被る「権利」そのものが、位階社会の中で豚と儀礼を対価に買い取られねばならない。デザインは知的財産であり、精霊は登録商標なのだ。踊りとは、購入した霊格の着用行為である。木彫りの魔術像「タムタム」は、戦争や呪殺の際にマナを込める器とされ、二メートル以上の像には敵の名前が刻まれることもある。アンブリムのタムタム、正しくは幹をくり抜いた立ち鼓(スリット・ドラム)は、その彫りの荒々しい神性ゆえに、パリのケ・ブランリー美術館や、ニューヨークのメトロポリタン美術館の薄暗い展示室に立っている。ピカソやジャコメッティが震えたのも、この種のメラネシアとアフリカの顔だ。二十世紀の「近代美術」は、実のところ島と大陸の呪具を大量に輸血して生き延びた。なお、島にはホテルがなく、訪問者は伝統的なバンガロー(竹壁・ヤシ葉屋根)に泊まり、共同井戸と焚き火で自炊する。夜にはドラムビートが聞こえ、それは呪術か、ただの娯楽かというその境界は曖昧だ。仮面の裏側は暗く、汗と木の匂いが混じり、踊り手の呼吸が熱くなる。内側から見る精霊は、汗をかき、息を切らし、蒸れている。神聖の裏地は、いつも生温かい人間の体温でできている。エスピリトゥ・サント島、バヌアツ最大の島(面積約四千平方キロ)には、第二次世界大戦の巨大軍事遺産が今も眠る。ミリオンダラー・ポイントでは、戦後、米軍が余剰兵器、車両、燃料、食料を大量に海没処分した。撤退する米軍は、これらの装備を現地当局に、二束三文で売ろうとしたが、英仏の役人は、「どうせ置いていくだろう」と踏んで買い叩きにかかった。腹を立てた米軍は、ブルドーザーもジープもコカ・コーラの瓶も、丸ごと桟橋から海へ突き落とした。交渉のしくじりが、そのまま海底の博物館を作ったわけだ。人間の意地は、時に立派な遺跡を残す。自尊心の王国なんていう言葉はどうだろうね。ダイバーは、海底のジープ、ブルドーザー、銃弾の箱、さらには飛行機のエンジンを見ることができる。しかし、サンゴがそれらを覆い、今や人工礁として魚群の楽園となっている。特にクマノミやチョウチョウウオが、錆びた鉄骨の間を泳ぎ回る光景は、廃墟趣味満載で、時間の止まったような幻想的な世界だ。水深二十メートル、視界は三十メートル。そこには、まるで博物館のように整然と並んだ軍用車両の墓場がある。ジープのハンドルにはサンゴが花を咲かせ、ブルドーザーのキャタピラはウツボの住処となっている。戦争の残骸は、海の時間によって、静かに平和へと変換されていた。そしてサント沖の海底には、この島最大の遺物が横たわっている。SS プレジデント・クーリッジ号。かつての豪華客船が兵員輸送船に改装され、一九四二年、味方の敷設した機雷にうっかり触れて沈んだ。今や船体には、一等船室の壁を飾っていた、磁器の女神の浮彫り「ザ・レディ」が、六十メートルの闇の中で微笑んだまま眠っている。世界屈指のレック・ダイビングの聖地だ。豪奢と戦争と海の忘却が、一隻の鉄の胎内で、静かに折り重なっている。ルーガンビルは、欧米文化が最初に流入した都市であり、同時に治安悪化の中心。失業者が路上にたむろし、夜間はアルコールとマリファナの臭いが漂う。一方で、島の東部にはブルーホールという、石灰岩の地盤が陥没してできた淡水の泉が点在し、その透明度は数十メートルに及ぶ。ナンダ、リリ、マテヴルといった泉は、地下の石灰岩を溶かした雨水が湧き上がる場所で、水は現実離れした藍晶色をしている。木漏れ日が水底まで届き、飛び込むと、まるで空気と水の境目が消えたかのように、身体が青い光の中に浮かぶ。青く光る水中には、熱帯魚とともに沈んだ軍用トラックが見え、時間の層が垂直に重なる風景だ。バヌアツの通貨はバツ(Vt、VUV)一バツは約一・一円(変動制)主要産業は農業(コプラ・カヴァ・ココア・牛肉)と、観光(年間来訪者約十万人)乾かした椰子の胚乳・コプラは、かつて南洋交易の白い黄金だった。そして意外にも、この島の牧草だけで育った無投薬の牛肉は、「オーガニック・ビーフ」として遠く日本の高級店にまで運ばれる。楽園は、ステーキも輸出しているのだ。カヴァ(ピペール・メチスティクム)は、根を臼で搗き、水で絞った非アルコール飲料で、口の痺れとリラックス効果があり、儀礼・交渉・日常の夕涼みに使われる。痺れの正体はカヴァラクトンという成分群で、脳の興奮を穏やかに鎮め、酒のように理性を溶かさぬまま、身体だけを重くする。かつて肝毒性を疑われてドイツをはじめ欧州で相次いで禁じられたが、その後多くが撤回され、バヌアツは自ら法律を作って、「ノーブル種」の品質を守っている。神事の飲み物が、国際的な薬事論争の被告席に立たされる。ここでもカストムは、近代の書類と睨み合っている。「カヴァ・サークル」では、参加者が全員で同じ器を回し飲みし、沈黙と呟きが交錯する。日が沈み始めると、ナカマルでは老人が黙々とカヴァを用意し始める。樹皮を削る音、水を搾る音、木椀を卓へ置く乾いた音だけが静かに響く。誰も乾杯とは言わない。一口飲むと舌先が痺れ、会話はむしろ少なくなる。沈黙は気まずさではなく、この土地では敬意の表現なのだ。一杯を「シェル(貝殻)」と数え、飲み干した男は外の闇に向かって唾を吐き、しばらく星を見上げる。カヴァの効きは、酒のように陽気を煽らず、むしろ全員をゆっくりと海の底へ沈めていく。饒舌が沈黙へ、沈黙が敬意へと相転移する、逆さまの宴だ。ここでは、黙っていられる者ほど信頼される。喋りすぎる僕のような人間は、たぶん永遠によそ者だ。ラップラップは、タロイモかヤムイモをすりおろし、ココナッツミルクと混ぜて、バナナの葉で包み、地熱または石焼きで蒸し焼きにする。表面は焦げ目がつき、中はもちもち、甘味とほろ苦さが混在する。島ごとにレシピが異なり、魚や豚肉を加える地域もある。焼き石を敷いた地面の竈(アース・オーブン)に葉包みを並べ、上から土をかぶせて数時間、大地そのものを蒸し器にする。太平洋の島々に広く分布するこの調理法は、ハワイのカルア、フィジーのロヴォ、マオリのハンギと兄弟で、火ではなく蓄えられた熱で、ゆっくりと澱粉を糊化させる。日本人には「芋+ココナッツの蒸し団子」と表現されるが、それでは伝わらない。噛むほどに葉の香りが広がり、後味に灰のアルカリ性が残るのが特徴だ。これからすごくマニアックなことを言うが、ドラえもんの映画である日本誕生で登場した、あの餅のようなものではないかと勝手に妄想する。縄文の少年ククルが焼いていた、あの得体の知れぬ白い塊。(焼いていたような気がするが正しい、古い映画の記憶だ、)文明以前の澱粉の記憶というのは、たぶん世界中どこでも、似たような手触りと甘さをしているのだろう。ラップラップを噛みながら、僕はなぜか机の抽斗の匂いを思い出している。妄想は、細密画のいちばん奥の隅に、いつも勝手に描き込まれる。バヌアツの無形文化遺産(ユネスコ二〇〇三年登録)である、サンドロウイング砂絵は、火山灰や珊瑚砂を平らな地面に敷き、一本の指で描く連続線画。一筆書きで、図形は終点に戻るように設計され、物語、系譜、地図、儀式の手順を記録する。描き手は指の角度と速度で線の太さを変え、曲線はらせん状に、直線は鋭角的に重ねる。面積は最大で二平方メートルにもなり、描く時間は数分から一時間。完成後はすぐに風で消える。その儚さこそが「記憶は継承されねばならない」という教訓を体現する。伝統的に、砂絵は男性だけが描くが、現代では女性や子供も学ぶ。描くときには、周囲は静粛で、老首長が低い声で神話を朗誦する。驚くべきことに、この「指を一度も離さず、始点に戻る」という制約は、数学でいう一筆書き、オイラー路の問題そのものだ。しかも遠く離れたアフリカ、アンゴラやコンゴのチョクウェ族もまた、地面に「ソナ」と呼ばれるほとんど同型の連続線画を描き、それを民族数学者たちがグラフ理論と鏡像曲線の言葉で解読してきた。文字を持たぬ人々が、独立に、砂の上でトポロジーを踊っていた。数学は西洋の発明品ではない。それは、記憶を運ぶ最も軽い器として、南太平洋にもアフリカ内陸にも、同時に湧いていたのだ一本の線が、陸と海、生と死、現実と精霊をつなぐ。それがバヌアツの「書くこと」に代わる知の形態だ。書物は残り、砂絵は消える。だが消えることを前提に設計された知は、担い手の身体を離れられない。それは弱さではなく、忘れないための最も苛烈な仕掛けだ。ハードディスクは黙って腐るが、指が覚えた一筆書きは、描き手が死ぬまで描き直され続ける。八十三の島が八十三の時間を持ち、百の言語が百の世界を織りなす。砂絵が風に消えるように、すべての評価は一時の線であり、バヌアツはその線を描き直し続ける、ただそれだけの国だ。——そして僕のこの長い一筆書きも、砂の上の線に過ぎない。書いたそばから、潮風がさらっていく。それでいい。消えることを知りながら、それでも指を離さずに描き切ること。たぶんそれだけが、この島々が僕に教えてくれた、たった一つのまっとうな作法だ。
2026年07月30日

プルーフ・オブ・エグジステンス伽藍洞の鎧のような、この電脳空間。その空の胸甲の内壁にうっすらと結んだ結露の、ひと粒ぶんの曇りに過ぎない僕は、指で触れれば消えてしまう、その程度のプルーフ・オブ・エグジステンス。心象の懐疑と、まだ名づけようもない感情とを、幾重にも折り重なった暗号が守っている。楕円曲線の稜線を音もなく跳ねてゆく鍵、格子の奥にさらに格子を畳み込んだ耐量子の格子暗号。ナノマシンが定着した肺が膨らみ、人工皮膚の下でチタン合金を這わせた鎖骨が、生体と機械の境界を曖昧にするように静かに沈みゆく。この空間の天頂には、不可視の眼が偏在している。全市民の生体データから消費行動、無意識下の夢のログに至るまでを監視し、テラバイト級の瞬きで記録し、社会の恒常性を制御し尽くす偉大なる最上位存在。ああ、神よ、さらなる形而記号学的劣化を。左から右へ、右から左へ。目蓋の裏でそれを数えているうちに、僕はいつも、自分が数えられている側なのだと思い出す。砲撃も爆弾も、魔術の炎も、一つとして地球の上には落ちることのなかった戦争。真空蒸着されたクロム鋼板のような光沢を帯び、数千億個の演算ノードを縫う光ファイバーの神経束が、都市という巨大な脳梁を静かに脈動させ、肉体ではなく認証鍵だけを持ち込む。損耗するのは物質ではなく、注意力と信頼だ。敵味方の区別は確率分布としてしか存在せず、勝敗はアルゴリズムの収束速度で決まる。不治の病だ、感染症だ、抗体なんてない、脳内シナプスを強制的に発火させ、重度の情報的酩酊状態へと人々を叩き落とす。陰謀、都市伝説、計画は机上の空論だか空中の楼閣。神の時間という非線形的な時間軸の中で、因果は歪み、逸れ、再接続される。睡眠時間の増加、精神的安定。眠りは逃避ではなく、避難だった。断片的ではあるが、未加工の感覚が残っている。涙腺へ届く神経電位であり、瞳孔が一・二ミリだけ収縮する、その一瞬の微細な反応。記号はそのつど意味の中身を失って、記号の抜け殻だけがきれいに残り、差延の風に吹かれて少しずつ風化してゆく。誰も、もう、何ひとつ指し示すことができない。時刻はときおり本来あるべき位置からずれ、同じ一分が二度打たれたり、打たれるはずの一秒がまるごと欠落したりする。全党派が呪術資本主義を擁護する、宇宙に風穴を開けようとしている。みせかけのペテン民主主義を粉砕せよ、宇宙領域外の非次元空間を通過する。希望的観測に縋った。あらゆる情報武装を解除し、曝け出した自身の原初的な衝動へと還っていくのを感じていた。二十一世紀が終わりに近づいてきた頃。加速する技術についてゆけなかった国家による秩序は崩壊し、企業による統治の時代が始まるだろう。曝け出した自身に還る。吐き出された二酸化炭素は、エアコンダクトを伝って巨大データセンターへ流れ込み、液浸冷却されたGPUラックの熱交換器を濡らしていく。ビビッドカラーのネオンサインとケーブル、今宵都市ではUFOに、蚊のようなドローンが体当たりしている。玩具のような自爆が、暗い天蓋のあちこちで、音もなく閃光の花を咲かせては、消える。数々の憶測が飛び交ってたが、現在不明瞭ながら真実の一片が浮かび上がってきてる。さあそろそろ、面白いことになってきた。絶対座標パルス波の非収束、ゲルの溶解、風化した電子核、有象無象の浮遊する塵。不適切な取引でもいい、脳内具現化液晶へと高純度の情報を流し込む。推薦システム、信用スコア。顔認証、歩容解析。視線追跡、睡眠データ。購買履歴、脳波ログ。意味は圧縮され、比喩は数値となり、愛はエンゲージメント率へ置換され、祈りは検索履歴へ保存された。論理的思考能力を有する高度適応性仮想人格、いや、知性体による誘発的な記録復元に、方法をシフトチェンジしたい。近未来を彷彿とさせてる、意味不明な言葉の羅列、現実離れの超常現象。失った世界の記憶が、何回も僕を締め付けてゆく、真夜中は現実臨界点。液体と気体とが見分けを失う、あの一点の、温度と、圧力。足裏の電磁石を強めて身体を屈めると、背中のブースターから青白い火を噴き出す。反作用が背骨を蹴り、身体は、ネオンの地平から、ふわりと、しかし確かに、剥がれる。加速中、視界は遅延補正され、周囲の景色がわずかに歪んで見える。その光は神経接続端子を通じて脳幹へと送り込まれ、現実の代替としての電脳空間を再構成する。そこでは、空気の温度すら演算によって決定され、呼吸は単なる生理現象ではなく、同期信号として記録される。月の海地域に突如として、放射能隔離シェルターに類似する構造を持つ、巨大な施設が出現する。ゴミカスミソカスしみったれしかいない、ユートピアじゃ生きる甲斐がない。さあそろそろ、異次元の穴が見つかって、天国とか地獄へと続く階段でも見つけたい。そして今、その兆候が現れ始めている。観測装置が捉えた微細な歪み、説明不能なデータの欠落、そして何より、人々の間に広がる説明しがたい期待。この偽りの世界に風穴を開けるためだけに、青白い炎を引いて漆黒の虚空へと飛翔した。
2026年07月26日

flying in the sky動かない景色だけ、遠いほど霞んでいくのを、些細なる罰と感じ、無意識の霧の上に頼りなく浮かぶ、整理されない記憶の乱雑な塊が言う。あらゆるポーズを見せうる、デッサンのモデルが、媚びてくるように見えた、届かない、空の話を。口腔暗く光る翼のない舌からの、伝達の目的に従う透明な言葉。(そもそも挑戦を拒む綱渡り、)募る影は碧落を反転させる、その疾走は硝子をへだてて雨となる。昨日の鳥は何処まで飛べたか、視力届くかぎりの、すりガラス越しのモナリザ、殴りたくなる向日葵。くすんだ空の先は見えないまま、遠ざかる君の現在地。残酷な、優婉な、衛星。急角度の水平線が、僕等の前に立ちはだかっても。空へ空へ上るよ、僕等は高みへと、後ろを向かない、立ち止まらない、モーションは大きい程いい。囲壁のなかに自己を守護する、空へ突入する、動乱する窓、ねえ、この夏空を駆け抜けてく僕等は、拳を握り締めたままの、流れ星。思い出もセピアに変わる日が来るよ、校舎から合唱が聞こえる、衝突する! 転覆する!モジュラーシンセサイザーの、回路のままでいたいよ、フラッシュバック、蝉の声、猥褻な写真帳が閉じられ、いつか見たきみとの共同幻想、街並み溶かして背伸びする、催し事に喪だ、ビー玉がいくつも乱れ合って、打ち合っていたいよ、いま、物好きな陽炎を掴まえたら、呑気者だ、横着者だ、極度の亀裂を憂鬱な福音が満たしにかかる、それは存在の耐えがたい軽さのなかにない、やがて、空からカスタネットみたいに、月が落ちて来た。(それをポケットの中に入れた、)アラベスクには触れなかったんだ、色褪せた作り物は帰れよ、そして暗い暗い部屋で膝でも抱えていろよ、火がついたように街が光ったら、蒼ざめた陰惨な実弾の破裂を装飾のように思う。ただ一個の透明な観照体となって、何も思い出さず、何も考えず、ただ自然の魅惑そのままを映像として映しとどめ、恍惚そのものに化して空を旅してみたい。一生が、過ぎてゆきそうだ、真珠のように美しいはずの、静かな水面の変拍子、瞳のなかで女神達が舞踏っている。届かない、空の話を。深く息を吸って、もっと深く深く息を吸って、遠く過ぎていく街を見下ろしていく、このちっちゃな脳味噌ぐらいでいいじゃないか、海月みたいで、羽根みたいでさ、透明な透明な都市の花束だ、グランドピアノの影のなかで、街はみんな音を鳴らしたがっているように見える、感情と夢想の世界はしばしば波乱に富んだ外観だ、静的抑圧や階級的絶望なんかいらない、だってそれは自己欺瞞に陥る、現実的な行為も、弁証法的な理解もさ、灼くような手秤だ、物語よりはぐれた表紙のごとき世界だ。
2026年07月26日

夜は顔の部屋夜は顔の部屋、目鼻口のパーツが動きだす、眉も、耳も。仮想妄想の深海で浮遊、本当のわたしは、グロテスクな深海魚かも知れない。黒いケープレットのついた夜の衣裳が、魚の領巾のようにゆらめき、ああ、プログラムは焼き尽き始めている。精神を病ませることが、宗教的な完成だ、わたしは胎内に宇宙を飼っている。よろめく裸足の踵に、腐葉土のぬかるみを感じながら、缶コーヒーを飲みながら考える。この部屋にはさっきから、真っ黒焦げの人がいる。理知的な綺羅によって飾られた唇で言う、ごきげんよう、お元気ですか?懺悔の部屋だ。後悔の部屋だ。黒の喪章だ。潺湲の音が自由に聴き出される、紫白の光芒のなかで。誰かが言った。予期しない不快な感覚を顔面に覚えたみたいな、身の毛がよだった表情をしながら、湿った天使の羽根と、因果や罪悪が天秤にかけられるとしたら、どちらの方が重いと思う、と。サイシュウセンソウ ハジメマシタ。サイシュウセンソウ ハジメマシタ。あの夕方、飛び込みがあった。賑やかなダイヴィング・プールではただ、水の膜を破る短い藍色の音が繰り返される。でもそれは鉄道だった、模型の上ではない。赤茶けた線路の上を、車輪が影をからませ疾走した。昔住んでた通りを、そのまま西へ進んだところにある地点で、適当にこしらえたプロセスを鵜呑みにしながら、産卵を終へた蜉蝣の羽根を滲ませたような、ノウハウが溢れすぎて、自殺だ、葬式だ、手段がよりどりみどりで、ディストーションのかかったギターみたいだって、思ったんだ。かの昔は、若きウェルテルの悩みを読んで、人間失格を読んで、追体験しようとした人もいたらしい。積極的に変革、進歩させようとも思わない。改善しようと思わない。寿命を全うすることを、緩慢なる自殺とか、消極的自殺と言うのだと、友達が教えてくれた。煤煙だ。積極的なのはいうまでもないが、ありとあらゆる見方を、ポジとネガで語るロックな物の見方に、頭が悪くて痺れた。ああ、肺炎だ。寺や神社にお祓いに行けばいいよね、それから心療内科へ行けばいい。自殺幇助をするつもりもないし、突如殺人衝動に駆られるわけでもない。死にたいのも自由だけど生きたいのも自由だ、生きるためだけにものすごくお金がかかっている、そのせめて半分ぐらいは返してから、そうすればいいと思うし、何となく死んでしまう人と、何となく生きている人もいて、ギリギリの危ういサーカスみたいにうまい形で、絶対に死ねないような人もいて、絶対に生きたいを繰り返す人もいる、また一人同期が辞めて、使わなくなってしまったLINEグループ。別に珍しいことじゃない、別に何かがそれで変わるわけじゃない。試験用紙の破棄と、試験管ベイビーの雪崩は似ている、無条件降伏の下で輸入されてきた枠組みの中で句読点の存在しない世界とその距離感を。傘は雨に出会って雨傘になる、太陽に出会うと日傘になる。鉛筆から心臓が出てきて、消しゴムから腸が出てくる。コンパスから内臓が出てきて、気持ち悪くなった。朝にだって昼にだって夜にだって理不尽に苛まれ、泥水をすすってる。クリープ。蛆虫。人は誰しも小便と大便の排出口の間から生まれてくる。後ろ向きのロマンティシズムに溺れた、川べりの煤けた廃車の中に、親子連れが暗い顔をしてよく座っている。それがどうもわたしにしか見えないことに気がついたのは、友達にそれがまったく見えていなかったからだ。「ねえ、実は悩みがあって―――」「・・・・・・」「親が、こんなことで―――」「・・・・・・」「実は彼氏も、こんな具合で―――」「・・・・・・」「聞いてる?」「あ、ごめん、何も聞いていなかった」ひどいよって彼女が泣いている途中で犬が来て、電信柱と間違えて彼女の足に、おしっこをひっかけていったので、わたしは滅茶苦茶笑ってしまった。彼女も一緒に笑った。アメーバーのような原始生物まで琥珀色の液体で染めた、そんな笑い方だった。わたしの家でシャワーを浴びて服を貸して、一緒にお酒を飲んでごはんを食べて、それから音信不通だ。そういえば、あのとき貸した五万円、そろそろ返してくれると嬉しいな。嫌なことがあると、不幸だと、他人を傷つけていいって考えてしまうような人がいる、それを悪く言うつもりはない、石灰殻の工場裏だ、ただ、そういうことはずっと、繰り返すんだよ、電気仕掛けの分娩だ、悪性の腫瘍なんだよ、病気なんだよって、彼女に教えてやれなかった、ただ一緒に笑っていた。『完全自殺マニュアル』は絶版だから、やっぱり手に入れられなかったけど、誕生日に君に贈りたかった。すでに干上がってもう語られぬ係累達。死にたかったから、人を傷つけるのはそれより弱いことだって、そう思った友達の、生きるよすがになれなかったことを、少し疲れた老犬のような目をしながら思った。踏切を通過する、真っ暗な回送列車の音が聞こえる。どうせなら五十万とか、もう一桁大きく出ればよかった。きっと傷つける前に、それはちょっと時間がかかるとか、無理かもと言えたかも知れないから。暗い雑踏。不平不満だらけの人波。五万だって大金だ。でも五万ごときで、自殺の資金になるのだろうか。それともわたしの知らない町で、彼女は人生をやり直しているのだろうか。お金は人類にとって最大の毒薬だっていうけど、最大の問題点は脳にスイッチがかかるそれで、それが人類のアキレス腱なんだろう。もしかしたらアキレス腱のために、毒薬を水のように飲むかも知れない、そんなことが契機になった。お金を沢山持っていれば、五万を貸す前の関係が出来上がらないし、五万どころか、もっとたくさんのお金を、あげれるのかも知れない。そう思ったから会社を興した、年商数億の経営者になった、生きている動物達に生きていることを見せにいく、動物園だ。不夜城の裏面に磔にされた暗黒な心を抱きながら、キリギリスのような夜の唱歌隊を、懐しい逃亡者の国土にし、一夜をあかすその日暮らしのようなものが、いまでは、たくさんの従業員と家族同然に過ごす、かけがえのないものになった。けれどわたしの心の中にはいつも、あの友達がいた。灰が死霊に変わりはじめ、一角がたちまち灼熱して、死神の鎌が咽喉元に触れたかも。クレープの巻紙少しずつ千切るみたいに、そこから先は記憶が無いんだ。ごきげんよう、お元気ですか?どうしようもない日々の傷口から溢れ出した、灰色の夢、凡庸な街の隅で天を仰いで唾を吐いても、架空の船の架空の航路、この手紙を書き遺して終わらせたいんだ、明日が来る前に。サイトウコウ シマシタ。サイトウコウ シマシタ。何だか色んなことが嫌になったのだろうか、高い高い屋上で立っている夢を見た。首ねっこを掴んだもう一人のわたしが押さえつける、顔面からフェンスの金網に叩きつける。繁華街の暫定の更地に闇が仮置きされたみたいだ、鮮明な空間の壁絨、息が出来るのも当たり前のことではない、ぐっすり眠れたら御の字、もしかしたら人殺しのプロ―モーションビデオかと考えたけど、空が近くなる、この場所も長くない、永遠のお伽噺。簡単に始まり、簡単に終わる。簡単に喜び、簡単に傷つく。謝ってばかり。誤ってばかり。まわりには何もなくて電灯が光って、わたしは手に持っていた梯子で無理矢理降りてみた。そしたら真っ逆さまに落っこちて、遺伝子を刻むように重ね合わせてた、暗夜に沈没する艦の間断なき戦い、いつか観た映画のように、すべてを終わらせて、時間だけが過ぎてゆく終末だ。おそらくは最期の瓦解となる、二つの道を告げる目玉がとれかけた友達がいる。「ねえ、淋しいんだ、一緒にいようよ」それから腕のもげかけた友達に言う。「五万円、返してくれたら、いいよ」内臓の腐った友達がいる。「どうしてそんなことを言うの?」それから舌の奥に沢山の虫を抱えた友達に言う。「わたしはずっとあなたといたいから」人は記憶され続ける限り、死なない、そんな小さなことを、宇宙の摂理のように、季節の前触れのように、あなたに教えたかった、ちゃんと教えたかった。死にたいと殺してやるの境目に、救済のパスワードはあるのだろうか、救済のパスポートはあるのだろうか。二十一世紀は、失望のうちに訪れた。二十世紀はどうだったんだろう、十九世紀はどうだったんだろう、この光さえも虚無に感じた、青白いわたしの愛情。まぼろしをもう信じないまま、起動するスクリーンセーバー。わたしは彼女とのやりとりを思い出しながら、幽霊だらけの部屋で溜息をつく。明日も仕事だ。どちらが本当のわたしかいまは思い出せないんだ。寸断される風景は傾斜する。寸断される風景は陥没する。「ねえ、実は悩みがあって―――」「・・・・・・」「親が、こんなことで―――」「・・・・・・」「実は彼氏も、こんな具合で―――」「・・・・・・」「聞いてる?」「あ、ごめん、何も聞いていなかった」
2026年07月26日

夜の海波打ち際を歩きながら、深く深く沈んでゆく。人生が辛いならフィクションにすればいい、眉の顰め方に魅力を増す、軽薄すぎるくらいのラブソングが似合う。こいねがう色文。大福帳の眺め。ああ、凡庸なことを言っているにすぎないように思える、天気の悪い日は肉体が死を思う、めいめいが勝手に物事を考えている干渉や共振のなかで。いくつもの麻酔、道標のロープはもう燃え尽きた。最近、呼吸器がいかれていくような感覚が、とても愛しく思える、ストーリーは展開を急がないが、遠近法からキュビズムを求めない、街行く人はこんな鳥がいることなんて知らない、天竺へ、ローマへ行く人もいない。疲れた虫が、もの倦い花弁の中を游ぎながら、魯鈍無情の鴉の声すら喜ばしくなる。ひとつまみの胡麻粒のようなナスカの地上絵は、母親の不在、生活苦、失敗した心中の恥で、一撃で稀有な歴史家にしてしまう。いつの間に、私はこんなに弱くなったのだろう。排せよ、栄光、(かがよふ、)拝せよ、劣等。(ちりぼふ、)心を明け渡したら、突風にこの身を支えきれない。重大な欠損理由は不況。映った鏡には、ひびの入った自分が見える。部屋に残った缶ビール、干した下着がうなだれても、等身大はイブの肋骨。一匹の蜘蛛に、微笑みかけるしかない。ベッドの上から生活をよこぎってゆく蜘蛛は、きっと神様の使いなんかではなくて、昔の、そのまた昔の、私の正体を知っている、証言台のその人かも知れない。魑魅魍魎、否、蛇に似て水中に棲む怪物。波の中は殉教者でうようよしている。ああ、この生など無意味に等しい。雲の隙間、光、琺瑯の野外の空に、フリスクほどの連帯、ありとあらゆる果実が実っている銀河、鉄塔はさみしく空を区切り、猫の額ほどの未知の部屋へと案内する、蝶番のはずれた境界を越える夜、照らす月が泣いていても、声にならないのはあなたと同じ。顔に刺さってるダーツ、呪戒の装飾、この蔦には刺がある、それでも握り締めなければ、強く握り締めなければ、上へと上がれない。花の自動車なんかない、浮世絵のようにのっぺりとする毎日だ。ありったけのガラス器に、一匹ずつ小さな蛇を飼う。柄杓でも、砂糖菓子でも、洗面器でも、燐寸でも。輪郭も遠近もなくして、すべてがレンズのように思えるまで。声も言葉もない日々で、盲目を信じることを宗教と呼び、その強い磁場へと導くことを、空耳のような哲学と呼ぶ。晦冥の夜のこの暗黒無比の潮のながれが、三千世界へと、悪寒の予兆や圧迫感に伴う形象、その心理的作用となる。見世物小屋の背戸口で。(君の「思考」には大きな誤解が含まれている)見世物小屋の開かずの扉で。(君の「人間」には大きな誤解が含まれている)ああ、もうそろそろ口を閉じて、華やかな人生の場面に追憶するのはやめて。失くした夢を見ては、こんなに脆くなったと憤慨し、自嘲する、理智的な節制と伸長、まるでワルツが終わったように。夜深きをゆく鳥の鋭声。咲き急ぎ散り急ぐ花は不幸だ。(蛹の中身が蝶ではなく「液体」だと思えている)さし抱く闇は不幸だ。(夜の星の顔に浮かんだ「液体」だと思えている)星空がちょっと、ひんやり感じるのは、ずっと後がいい。いちまいの布を両端より持ちあげて、香水に触れた指からにおいたつ記憶のアルペジオ、てのひらにすくいてはこぼす砂は花びらのように光り、膚寒き天変の朝に割る卵。音よりも音の置かれぬ空間に、影の淡くうつりぬ学校の中庭の、名前の知らない一本の木が見えて来る。砂漠を見る夢に、オアシスはいらない、旅人の咽喉の乾きは強くなる、忘れかけていた痛みが、結び目と思えても、ときめきのように思えていたことも、いまは思い出せるが、馬鹿、恥知らず、それを巻いていたはずの芯が、声や叫びのようなものを辿らない。ふくれ上がった腕に包帯した腕は、解体の喜びに酔い痴れている混沌。線路をたどるとき、どこからか川の音がきこえる気がする。内部からの把握とまったく無縁に、外的・客観的に把握し、塔のような場所から俯瞰していよう。隠蔽する、旅愁する、永遠する、刹那する。ペンギンのかき氷器が置いてある、また少しズレた次元の、ロシアのように寒い冬の街。排せよ、栄光、(ふりつむ、)拝せよ、劣等。(したぎゆ、)ざわり、音はひそかに、波打ち際に打ち消されて、心の中の心象風景に思えて来る。ゆめがまし、言い訳ばかりうまくなった。生殖力の消滅だ、真っ青な仮面だ。いたづかはしい、悲しみは永久に消えることはなく、まっ二つに割られた身体を引いてゆく、小さな無数の蟻達のような秩序が。(ふりはへ、ふりはへて、)涙もきっと枯れない。季節は永遠に巡りつづける、あの日への扉は二度と開かれぬまま、この舞台装置は、もしかしたら回転面の集合体かも知れない、その場しのぎに、何回も、ドアをノックする、ああこれは、創世記かも知れない、てのひらから世界を何度もやり直す、通俗的な何物かが満ちていることを呪いながら、笑いながら、おどけながら、漏電だ、電球が切れた、呪文や催眠術のように繰り返す。「あなたはもういない。」非力さが、臆病さが表に出てしまいそうになる。青い空、揺れる飛行機雲、君の頬伝う涙。青い青空と骨組みだけのスケートリンク、登場人物は皆匿名、そんな関係を少しだけ思いだす終電車、どうしてこんな世界に生まれたのだろう、神の名前について考えていた。どうして生きられると思ったのだろう、夜が箱庭を冒した。「あなたはもういない。」折れ曲がる光のために誰も彼も、桜並木の終わりのようなものを意識しただろうか。始まりも終わりもしらぬ芝居のように、ただ空を漕いでいるブランコのような人でありたい。繰り返されて何処かへ流れても、変わらずに波音は響き続けるだろう、星は遠く誰も知らない夜空を、つれづれのうちに流れ、またいつか再び、瞳に映るすべてのものを愛せるかと、問い掛けるだろう。
2026年07月26日

青春いつかの手紙を燃やしてしまった、譲れないものを作らないように。論理的じゃないし本能でもないのです、野暮ったい才能が五月蠅い言葉の中には。汗という、Crazy Diamondは止まらない。更生不可能なMotivationで、紛い物にKick&Awayブザービーター、体育館じゃ、どんな試合だ。失敗してもいつも通り先輩に、殴られるだけさ。臓器巡る扉絵、ハリネズミみたいな思春期、swichbladeだって持つさ、ミステリー。下らなくて、歪んでる、残像が奇形なアクセス。薄鼠色の蠱惑で商品価値を粉飾した昨日。空、声、海、拡がりのなかで、追い掛けているんです。何千日のたった一日。もしかしたら何万日のたった一場面を。外のガヤで頭がぐっちゃぐっちゃ、決して見ない見たくはないけど覗きたい、カーテンにそっと手を伸ばしながら、どぎつめのドーピング、曇天さ、どれほどの水位だろうか、イライラした日常を躊躇うな、意識の埒内、正気を失うぐらいの感じがよくて、新次元の歩みを求めるんだ。シュート外すたび、ビビってちっちゃくなる僕だけど。解答は空振り、初心者はまずRomって、(とりあえず20点)錯覚のために停車する薄目あければ、馴れ合いならVIPでやれ。賽を振った。ますます非現実的に気化していくようで、儚い哀感が沁々と湧く。(まーなんていうか、50点)自分本位、自己中心な優しさに、すべてを奪われて、遠霞む歳月の端を握って、自己嫌悪。透きとおるだけ透きとおらしめたあとで、これでもかこれでもかと迫る、怨念のテンションにやられるのさ。敵愾心やら嫉妬やら、憎しみやらを絞り出して、意力にバウンドをつけて白骨化する、(エスケープ、エスケープ、)赤い血が流れているのです、数え切れないほどこぼれる言葉の中には。涙という、Crazy Diamondは止まらない。逃げ出したくてEmergency形のないJeopardy失ったもの数知れず、遠回りもしてきた。夜に灯る自販機中段まんなかに、電線のない空が見えたらよかった。創ったつもり、染め上げたつもり、選べないや out of control(my really need you A.S.A.P)悔しさなら、誰よりも味わってきた。Danger 眠れない夜を沸かせて、真剣なふりの目なら刳りたい。(my really need you A.S.A.P)意味、空の果て、夜、拡がりのなかで、追い掛けているんです。何千日のたった一日。もしかしたら何万日のたった一場面を。小さなリングに向かってずっと放ち続けたボール、ストリートビューを見て羽根を拡げて死んだ形の鳥。周りからの期待はゼロただひたすら前見て、墓石だらけの心象風景に黒猫の過ぐ。勝ち続けて少しずつ声援も増えた、純粋な暴力の固有の焔、反逆心だっていいんだ、あとはただ、光の射す方へ走り出すんだ。エンディングノートに書く言葉なんて、まだ一行もない。little by little(gradually, slowly, steadily)羽根を持ち、舞い上がる、心が踊りだした想像の一歩先の未来で、千の幻想、被害妄想、いじけた根性を打ち砕く、一秒前 the other side
2026年07月26日

梅雨とバス停いつもは大体五分くらいなのにね、アニメの話が長かった。押井守の都市論、新海誠の湿度表現、手塚治虫の生命倫理、宮崎駿の飛行機械、士郎正宗の義体論、エスプレッソの抽出時間、あるいは改札の自動扉が、二度開閉するあいだに終わるような、軽い確認事項。一挙手一投足、不自然はないけど、地に足が付かないまんま、ドアが閉まって君が消えるとき、黒い髪の先が肩に落ちる角度から、俯いているのに気付いていた。論理的一貫性を保つ必要性、表現の不自由。本当にたった一言だった気がする、実験室のスライドガラスの上で、増殖する微生物。次第に黒ずむコンクリートの上、雨の匂いで零れ落ちた。砕けたビー玉、一欠片拾った。午後のニュースじゃ青春が溺れて行方不明、下らなくてどうしようもない崖から飛び降りたけど、生き物ではないから低空飛行を続けてる。副作用のような恋だ。雨が遮る坂道を全力で駆ける、濡れたバス停、遠い街、流行を耽溺する畸形、濡れたバス停のベンチには、誰かの置き忘れた雑誌と、広告の剥がれた跡。遠い街へ向かう路線図が、透明なフィルムの裏側で歪んでいる。持ち忘れた傘がいまも、重ねてる、紡いでる、透明人間みたいだ、震えてる、感じてる、こじらせてく、濁っていく。昼と夜の境界だけが曖昧に流れたまま、気付けば僕は一人で、梅雨のバス停に立っていた。天気も人も猫も宙に浮かぶような、シュールレアリスムのまま、自転することを忘れた星。翻り、翻る。意志の滞りを感じながら。立ち止まった僕を尻目に、人は幸せそうに歩いてゆく。群れなす方へ、遠ざかりだす、人波。物理学の流体のように、圧力の低い方へと自然に移動する。僕だけがその場に残り、境界層の乱れのように、流れから取り残される。夜になって気がついた、花火の音。それは遠く、遠く、遠く、光っている。より明らかであると同時に、より目には見えないものとなってゆく、運命とかいうもの。僕の心にも何か残るのかな、まぁ、何でもいいけどさ、残像に惑わされ立つ、流れてくれよ、消え失せてくれよ、瞳の中から透く道を、傾いている星座の光を。散乱する光の波長と、視覚の感度曲線。懐かしい日々にピントを合わせながら、いまも夕焼けの雲を遠目に覗いたりしてた、忘れてくれよ、知らないでくれよ、瞳に映った雨粒を。街燈の光の底から立ちのぼる、月魄の声。躓いて転んだとき、風感じたとき、揺らぐ緑を見たとき、全力疾走をしていたあの坂道が思い浮かぶ、輪郭をととのえてゆく過去、夕かげのなかにいつまで語りあう秋の手前。このまま何処へ帰れば夜は青に変わる、このまま波の音に紛れて、海へ向かおうか。白線からはみ出るな、両手伸ばしてバランスをとりながら、打ち寄せる波の音に裸足になって駆けだしながら、ようやく僕は泣くことができた。土壌細菌、アクチノマイセスが放つゲオスミン。植物油由来のペトリコール。そんなもの嗅げるはずもないのに、潮風が吹いているのに、胸の奥で何かが崩れると、僕はそこへと戻っていた。眩くて切なくて、そっと、還らないまま、入道雲は遠くなっていく、行かないでくれ、扁桃体だけが、警報を鳴らし続ける。世界が終わっていくような、美しい情景が頭に残ったまま、いつもより少し遅くなった時計の針に、浮き足立っている足音鳴らしながら、今を駆け抜けたんだろう。幼い歩幅合わせて、このまま何処でも行ける気がしていた、夏祭りのあと、君がくれたキスは、僕の最初で最後の、切ない恋。袖の先でつかむ風、今日が少しだけ許せたよな。指先に染みた、手榴弾に似た形状、鮮やかな果皮の黄色、爽やかな香り、酸味の鋭い味の檸檬にも似た、甘酸っぱさを残して。梅雨は明けた、夏は始まった、網膜上に結ばれた虚像。僕が見ている雨は、すべて、僕の中にある雨だと気付きながら、まだその向こう側へと、ゆっくりと進んでいかなくちゃいけない。喪失感なのか、解放感なのか、あるいはただの空腹なのか。胃のあたりに、重い塊がある。それが、こじらせていく。傷口に膿が溜まるように、感情が濁っていく。でもこうしていればよかった、ああすればよかったとは、絶対に言いたくなかった。生きているのに支障をきたすほど、困難なほど、心の奥をえぐってゆき、胸が張り裂けるほどの切なさに、ポーカーフェイスを装うとしても。いまだ何も成し得ていない痛覚をもつ、心臓の音を感じながら、もう一度、夏の終わったバス停へ。木製の共同椅子。灰皿。傘入れ。停留所名に、通過予定時刻のある、標識ポール。皮を捲ったように赤味を帯びて来る、三十メートル、いや、二十メートル、ヘッドライトがこちらに近付いてくる、消えかかった緑のラインが走るボディ。くたびれた外観のバス。バスはスピードを上げ、水を撥ねさせながら勢いよくこちらに向かってきて、僕は君が別の人と歩いていくのを見ながら、くるりと背を向けて、陽炎に溶ける。蝉の音が聞こえた、今年の夏は長い、九月になっても、十月になっても、もしかしたら十一月になっても、十二月になっても。
2026年07月20日

魔法少女、萌ゆ寝不足なんよ、あたし、魔法少女だから。タンバリン奏者みたいに、部屋のドアを叩くのはやめて。じゃ、インターフォンでじゃないし、次やったら消防車呼んでホースでぶっかけてもらうし、消火訓練だし。ああ、誰かの笑顔のため、今日もまた時間外の労働。睡眠はココアパウダー、マシュマロ入りチョコクッキー、寝不足のままパトロールさせる気、タイトロープなシンドロームの後遺症は、重度のディスコミュニケーション。って設定じゃないし。性癖のカミングアウト違うし。夜の十一時から二時、ずっと東京都千代田区で悪の怪人と戦っていた、この前は北海道、味噌ラーメン美味しかった、この前は青森、十和田バラ焼き食べて来た、おお、このburning heartあのね、(クリックモーション、)出勤表とかないし、スクランブルだし、「HEY TAXl」って、ちゃんと飛ぶし。あと、給料は出るし、危険手当、残業代つくし、あとUSJとディズニーランドの年間パスくれるし、(そうやって飼い慣らされている、)あと、二十代女性だけど魔法少女っていえるし。あのね、(ストップモーション、)少女なんて文字は少し女って書く、そしてこの少しは小さな一って書く、すなわち、少女だし、ロリコソ体型だし、そこ基準だし、(殿堂入り、殿堂入り、)誇りを持って希少価値って言葉いうし。あと、人生ゲームじゃ子沢山。(全米が泣いた!)空に飛んでいてもステルスだし、マッハ100で飛ぶし、(台風でもしまわなかった風鈴がうるさそう、)飛び出せばYou get a fighter戦闘シーンが繰り広げられても結界張ってるし、おお、マジックステッキからブッ放すブラスター!てか、コスチューム恥ずいから見せんし。ああ、これだから、これだから。(◎◆○×□●~)そのね、正体バラすのは、君だったらいいかもと思ったからだし。前から目つけてたんだよね、鯉? 泥臭いよね、ってそうじゃない、狭量で偏見だらけのリアルの世界の論理持ち込まないで、そういうイマジナリーフレンドじゃないし。自分の話ずっとしてるし。(シンパシーとか、テレパシーとか、)どんな服着てたかも知らないのに、コスプレマニアってひどすぎるし。衝動買いのシンデレラってもっとひどいし、買物行けないからAmazonだし。魔法少女の多面的な役割について、功と罪の両面、夜の紳士には大人気、(華著な肉体と美しい外貌、容姿端麗、明眸皓歯って、自意識高い系みたいな演出しないで、)だけどやっぱつまずく不器用すぎる選択肢、振り向いて見つけた昨日にdiveああ、寝不足の両目に容赦なく突き刺さる、充血性のウサギ、耳が頭に生えてきて四つ耳になってるかも。朝焼けの眩しさに背中を向けながら、誰かが朝ご飯を持ってきてくれたら、もうちょっと起きれるような気がするんだよね。おー、こんなところに、ちょうどよさそうな、ヒモみたいな人がいるじゃあーりませんか。一話目のムードが再放送だったけど、ここから先はムーヴィングファストなあたし。ふわふわのパンケーキ、(ふっ、わ、ふっ、わ、)stop! stop! give me! そうだねまたねじゃないよ、(会社辞めていいよ、給料あたしの方が多いし、リアル魔法少女なめんなよ、世界平和は一文なしだけど、防衛費は破格だし、)持ってきてよハングリー。犬の餌っていうなし、だけどコーンフレークは駄目よ。wake up! この気持ちが、Now! Now! going! POPしてはじけそうな感覚は何?(折れたブレーキ放り投げるんだ、「誰だー、チ〇コ投げてきたのはー」って、それ絶対違うし、)心が跳ね上がったよ。熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なくつき上げて来る。ラッキーハッピースマイル、チューぐらいおでこにしてやるし、黴菌みたいに言うなし。毎度おなじみチリ紙交換って間違えた、毎度おなじみ魔法少女育成計画センター。深く、切なく、熱烈に、我々の心に刻む、朝鮮民主主義共和国のような実体!(「見えるもの」の蜜を夢中になって漁って、それを「見えざるもの」の大きな黄金の巣のなかへ蓄える)トーストにはバター塗って卵とソーセージ、お願いよ神様いるのなら、ハッピーエンドはいらないから、福利厚生ください。ケーキのカロリーに要注意。あたし、魔法少女だから、こいつは執事兼食事係。ああ、これだから、これだから。(◎◆○×□●~)
2026年07月20日

NANIMONO二〇二六年六月末日、新大阪駅にいた。プラットフォームは、湿度を含んだ熱気がゆるやかに滞留していた。シミュラークルの海を漂う、膨大な人間の流体力学だ。関西空港行きの電車に駆け込む人の前で、舌打ちをしそうになっていたあの人は、何者だったのだろう?口腔内で舌が歯列に触れる直前の、あの刹那的な緊張。社会的規範と原初的衝動の境界線に立つ、ほんの一瞬の揺らぎ。考えたところで仕方がない。しかしその一瞬、心の中に眠る原初的な感情、すなわち自然への畏怖と尊敬を呼び起こす。窓からの景色は単調なようでありながら、刻々とその姿を変える。工場の配管は血管のように絡み合い、送電線は神経網のように空間を分割する。吊り革はほんの数センチ遅れて揺れ、広告ポスターが車内空調の微風に震えていた。そしていま乗り換えのために電車を降りて、咽喉の渇きを覚えながら、水を買い、蓋を集める運動を思い出している。キャップ八百個でワクチン一本。しかし、あの事業は輸送費や燃料費で成り立たなくなり、だが、ペットボトルの蓋を集める事自体は、また別の事業がやっているようだ。そしてそんなことを思う自分は一体何者なのだろう。スマートフォンに到着する就活サイトからのメールによって、思考を中断させられてしまう。そうした忘れ去られた断片は雑音となって、発着音のように消え去ってしまう。その美学を感性学ないし感性論として再建しようとする。それは拡張された修辞学だ。誰かに何かを尋ねようかと思ったとき、子供時代には親や兄弟がいた、いまは会社の同僚がいて、妻がいる。でも心の何処かでは他人に興味がない彼等みたいな下等生物が、自分に興味を持つはずもないだろうと、ミジンコやアメーバー達を思った。諦めて何かを探そうとしながらそれを咎めることもしないだろう、三歳児から知性が成長していない人々にとっては、ごくごく自然なことだ。曖昧な集団への帰属意識を向上させるものは、非人間的なものではなく、エゴである。そして自分も彼等のようなゴミクソカスを、社会の一部として監視する必要があるのだ。監視という語の、パノプティコンめいた冷たさ。超人になれない人間は奴隷になるより他ないのだ。蜘蛛の糸を掴み損ねたら、もう鳥の言葉しか話せない。あるいは、真の意味で主体的になれない人間というものは、自分のなかの仮面やテンプレートにも疑問を持たないのだ。戸籍制度、身分制、苗字と婚姻、理想的家族像としての皇室ファミリー、男系と男子による継承、女性蔑視、アメリカとの共犯関係であり、戦前から戦後民主主義の欺瞞を経て現在に相続される歴史的縦軸に、家父長制とジェンダー。多様性なんていう言葉は必要ない。アイデンティティーなんて、まず、空想の産物だからだ。パソコンの外部ストレージのように。自分の都合のいいように物事を記憶し、自分の都合のいいように物事を忘却してしまう。一体それはどんな外部ストレージだったのだろう。神経科学的に言えば、シナプスの可塑性と再固定化の過程に過ぎないが、主観的にはそれ以上の何かに見える。ふと思い立って見知らぬ駅に降りてみた。揚げ物の油の匂いと、パッケージングされた食品の防腐的な香りが混じり合い、蛍光灯の白が、剥製にされた午後のように色を失っていた。時間を潰すため売店で何かを食べようかと思ったり、見知らぬ駅舎の向こう側へ歩き出すのだと思いながら、最終的に蛍光灯のうらぶれたトイレへ行き、人生のなかで本当にするべきことはこういうことなのだと、思い当たったりした。ありもしない瀟洒な塹壕と皮肉に思った。そして小便器の隣で身体を震わせていた中年の男は、前立腺肥大症、尿路結石、膀胱炎、または服用中の薬の副作用なのだろうか。洗面台に水を流したまま、記憶が排水溝に落ちてゆく。しかしいま、その記憶という感光乳剤の上に、褪色したセピアの帯として現在の光景が焼き付いていく。そしてそんなことを思う自分は一体何者なのだろう。言語化できない迷いとコンプレックスこそが、人間の人間性と称することのできる存在なのではないかと、一瞬考えて眼を瞑って口を閉じた。言葉にならないもの、名指せば逃げていくもの、その、舌の裏の空白地帯に湿りと渇きを与えながら。ホームの前ではホームレスと、自作絵画を売る人がいる。もしかしたら似顔絵描きかも知れない。人生の貴重なすり減っていく時間を使って、資本主義の歯車として仕事をするということは何なのだろう。外国のAmazonの工場では労働が過酷を極め、ブラックの代名詞になっているという話を思い出した。ニュースは、人間を記号化する。記号は所詮、記号以上の意味を持ちえないのだと短絡的に思ったりもする。ニュースは人間をデータポイントへと変換し、統計的傾向として処理する。鯉と鰻の養殖で蜂蜜のねっとりとした感じを想像するようなものだ。全員が同じ顔を持った他人と認識され、扇動される。それでも記号を通じてしか世界を把握できないという現実の間で、認識は揺れる。そうして、自由を失い、疎外され、孤独なのだと浅墓に思ったりする。否、孤独は手に入れた先から失われていく。本当の孤独は絶望や虚無に等しいということを、長い間の生活の中で自分は見出していた。窓際の休憩スペースでコーヒーを片手に外を眺めながら、霧雨が降っていた。雨になると死にたくなる率が高くなるのはあながち間違いではなく、セロトニンの低下や、低気圧による自律神経の乱れなのだと、そんなことを考えている自分は何者なのだろう。相対性理論や非ユークリッド幾何学についての話を耳にするとき、想像上の共同体というのを考える。自動販売機で水を買ったら、硬貨が百円も多く返ってきてしまったとき多くの人は、百円玉を着服するだろう。それは本当に仕方のないことだ。わざわざ交番に届けに行く金額ではない。惑いのなかにある奇矯な勇気を試す者はいないだろう。だが、自動販売機でジュースを買ったら、十数本も出てくるという故障に見舞われたとき、その十数本を着服することができるだろうか。止まることなく変化を続ける動態的都市の中を、生き抜くのだ。矛盾は生きる中で絶えず襲い掛かる天敵の別の姿だ。問い掛けによって答えが変わるというのではない、それは人間がブレていることの証左ではないのか。それともこれは閾値の問題なのか、それとも物語の問題なのか。あるいは、これが重量なのかも知れない。百円は羽根のように軽く、十数本は、ずしりと、耐えがたく重い。そしてその重量とはすなわち犯罪に対する重さでもあるのだ。そんなことを思う自分は、一体何者なのだろう。インターネットが世界を繋げて一つにするという夢を、本気で信じる人はいなくなっていた。自動ドアはひっきりなしに開くのでそのことに気付いたのだ。目前に積み上げられる瓦礫の山と無数の虚構を見ながら、論理的による人工的な管理体制の構築を見出しながら、それを沈黙と、アイロニカルな論理のなかで、データベースと呼んだ。しかしそれもまた試行錯誤の結果生まれたものであり、たとえそれが構造の反復、抜け出せない円環と構造的可視化であろうとも、その背景には様々な人々の過去の成功と失敗の、喜怒哀楽が積み重なって潜んでいる。こちら側には空間があるから箱ティッシュを取り出せるのだと、そのことに気付いた二十数年。阪和線の三国ヶ丘駅から南海高野線で、堺東駅や、深井駅へ行ける。しかしその方向は逆だ。そのことに一瞬頭が混乱する。上りと下り、東と西、乗り換えの矢印が、カルロ・エミリオ・ガッダの文体さながらに、無数の副次的な因果へと分岐する。日本初の日系人の総理大臣が誕生するニュースが見えた。いや違うそれは、中南米のペルーで日系三世のケイコ・フジモリ氏で、高市早苗氏が第百四代内閣総理大臣になり、女性の総理大臣が生まれたのだ。新宿駅は複雑な構造な駅舎で、ダンジョンや迷宮と呼ばれる。ずしりとした重みを伴ったうつしみの現在そのものだ。だが、自分は天王寺駅ごときでも、どの電車に乗ればいいのかが分からなくなる。確かめられることを恐れ、人と話すことを避けている。得手不得手があり、慣れや経験を必要とするが、本当の意味での分かり易さを追求しているといえるのかと、そんなことを考えている自分は一体何者なのだろう。
2026年07月20日

青春カオスフィールドワークルーチン迷子になってはかくれんぼ、暴走中のOut of control!錆付いたフェンスにのぼって、街並みを眺めて、内緒の電波は徘徊中のSearching for the signal!はい、そこの君、地図は持っていますか。はい、スマートフォンのGPSも正常です。それでも「現在地」はどこにも表示されてない、ノイズに埋もれて、都市そのものが、周波数の合わない、巨大な送受信機のように唸っている、そしてそれを愛と呼ぶんだぜえええええ!街路樹を上手に利用して、横顔は、いつものヘッドフォンで塞いでた、(粘土食べてた)処方箋はない、(画用紙美味い、)ダークブルーイエローパープル、メリーゴーラウンド。ノイズのなか、転げおちた、フェンス越しのグラデーション。もう、どーなってんだ、なんでだってんだ、た、た、た、、、「だが断る!」何処から来て何処へ行く、その答えなら私の胸の奥にある。青空の裏側を見て、蟻は行列のできる法律相談所。この夏は多分、忘れてしまうことが多いだろう。「生きるのに疲れたので星座になりたいって、友達がLINEしてきたから、地上の星かって言ったらすごく怒られた」(いやいやいやいやポエムか?)Hello It's a Brand-New Day吸い込まれそうな景色を前に、ドックンドックン心臓は、このフェンスの向こう側、レフェリー!一晩中ただ妄想ばっかし。このフェンスのこっち側、そこに線を引いてる自分を笑った。―――ココロ、トキメク、イマ。急き立てるように、この気持ち、試してる?どんまいどんまい、あ、いまのなしAre you ready?「フェンスのない街へ行きたいって言ったら、ちょっとカッコいいかな?」どんな苦境も挑んで秒でエンド、(ちょっと尖った顎が、あなたの背中に突き刺さっただけ、)踏み越えたらもうラッタッタ、頭の中はパッパラパ。暗中に活はあるか?(反転する視界...Upside down!)泥中に花は咲くか?(暗転する世界...Fade to black!)世界地図の端っこから、こぼれ落ちた幾つもの物語。それも一つワールドな世界、目を細めればいわゆる一つのシンジケート、背中にひっつく白い制服に、What's going on?教科書、夏の記憶、鞄に詰め込んだ。大事なとこに赤線を引いて、Deep inside my heart内部情報をリーク、さりげないときに光るラインマーカーで、心理戦の拡大 Highlight my life!強がりの延長戦。(ねえ、ちょっと、)引き分けの涙。(ああ、それムリムリ、)点滅する信号が合図だ、Ready, steady, go!放射状の全方位性、リミッターOFF、足首の鎖にグッバイ!風が吹き抜けていく、スローライン、時間は過ぎ去ってく、フリーキックエリア、段々堕ちてくIQクソワロ、Brain meltdown!(本郷猛子は改造手術を受け、―――以下省略)それでもいっぱい溢れてる。ぐるぐるめくるめく色彩。無我夢中で探した自転車の鍵、つたう汗、望み薄、そんなん知らないよって。(I don't care! I don't care!)沸点に達しそう、苛々、馬鹿みたい、この世界はなんだか悪い夢のようだ。(ウルトラマンが酒場で、「おれはだめなウルトラマンなんだ」と言ってる)左に行くと見せかけて、右に行こうとしても、時の天秤は見極めてる。この世界線、有限の命、でもまだ一生懸命にやりたい、まだ前を向いていたい。感情の感染症、広まって伝染病。もう、どーなってんだ、なんでだってんだ、た、た、た、、、「だが断る!」この声が届かないって一体誰が決めたの、その答えなら私の胸の奥にある。バナナを食べればアホガールなんだ、だからドミノするよ、バナナで。エンジンではなく神経系で起きているバナナで、シナプスの発火が規則性を失い、ときどきいちごで、意味の連鎖が勝手に接続されて、(ときどき椎名葡萄という、そういう世界線について考える、)感覚だけは残る。湿度、鼓動、光の強さ。Hello It's a Brand-New Day吸い込まれそうな景色を前に、(ドックンドックン心臓は、)このフェンスの向こう側、急速急発進、(アンパイアー!)このフェンスのこっち側、カウントダウンをフライング、そこに線を引いてる自分を笑った。―――ココロ、トキメク、イマ。
2026年07月20日

Pianos in Deformation朝目が覚めてテーブルの前、トーストをコーヒーで流し込んだ。平凡な日常、ベルトコンベアーで運ばれてゆく、蝶の死骸で埋められた道、昨日との違いは、ニュースが告げる悲しい声。この音が聞けなくなるまであと何分何秒ですか?休符。スタッカート。空間のイメージををこすりながら傷を残して、『世界像』とかいう、アートになった。じりじりと記録をのばす遠泳、そうか、いつのまにか、こんな長い橋を渡っていたのか。そしていまは踊る指が色に変わる。頭を抱えた昨日、靴を売りたくなって兎の耳をつけた。暗青色のアトモスフィアな動揺に、凍えた心を包むような天使の祝福を。それでも僕等は愛をこう歌う朝と夜が限りなくやさしく触れ合うものと言うだけで、裾野がさらに広がりはじめる。時に薔薇を、時に長い髪を、(コーラス、メロディ、)その浅い酔いや愁いや退屈さえも、産まれるシーンの雷鳴、青鷺が波紋を連れる、繰り返すリズムに落とし込みながら。(ハミング、フィナーレ、)逃げる、白の旋律を、漂い、追いかける、黒の言葉を、滲ませ。「奈落へと通ずる美しい蠱惑の一瞬(を)」飛べない鳥があそこにいる、コンフレークを咽喉の奥へ流し込んだ。詰め込み過ぎた世界は空回りながら、眩暈の奥に、水底のあわいを感じながら、誰も聴きえぬ旋律を見出しながら、救急車のサイレンが掻き消した。この音が聞けなくなるまであと何分何秒ですか?ト音記号、ヘ音記号、ハ音記号、知性なんて必要ないよって針金を掴んだ、『根本命題』とかいって、涎れた首が折れるだけ。僕はなぞった、息をした、音に埋もれながら、静かにほら、僕等は何の意味もなく消えてゆく。点は線になる、円は球形になる、見えない生命を五線譜に置き換えてゆく。あの日いた、あの場所から離れられない優しい声。美の理想は推理の延長のなかで、観賞魚のようになってしまうかも知れない。灼熱が胸を焦がすShining rayとかいう凱歌は、いくらか遊戯的なものにすり替わってしまった。大人になるってこと?(かかる二つの区切られていない領域のなかに、住まっているもの、)子供のままではいられないってこと?(かかる二つの区切られていない領域が統合し、完全無欠なものとなった此の世、)それでも僕等は愛をこう歌う僕と君が限りなくやさしく触れ合うものというだけで、半世紀の軌跡をたどった地図になる。時に月を、時に濡れた花のような傘を、(コーラス、メロディ、)足りな過ぎた酸素や栄養や時間、静かに下ろす冬の余白。ほそき手指の影が窓枠を絵画にする、繰り返すリズムを刈り取りながら、(ハミング、フィナーレ、)逃げる、醜い生活を、漂い、追い掛ける、美しい生命を、滲ませ。「未来を夢みる空中の軽業に満ちた一瞬(を)」
2026年07月20日

嚏ほんの些細な小さなことで、心が離れてしまうのを、気にした。君が悲しいこと言い出すから、何かしてあげたいと思いながら、まだ何も言えないでいる。耳を澄まさなければ聞こえないような、小さな決意の言葉。駅の踊り場から見えた、君の家。ミンミンゼミの鳴くあの通り。ぼろい自販機と郵便局の、一つずつ影をもらって走り去る、触れるたびいのちが溶けてゆきそうだ、メーテルリンクと夜の夢。君が一人で抱え込んでいる、気持ちも少しは愛せるよ。だから泣かないでくれ、僕も泣きたくなる。(心の底からの、So darling I love you)小学生の夏休み、田舎に帰省して戻ってきたら、公園にたまたま君がいた。美しい木々だって初めて思った、それからずっとそこはそうなんだ。街の色がいつもより濡れていた、住宅街の小さな公園、カレーライスの匂いがする公園。襤褸をまとったような夜に街燈が地上を掘りかえし、搖すぶり、樹々の背後に、まるで眠れない夜のような、褪めた緑色に一筋の細い道を与える。一人飲むソーダ、空が見える、そりゃそうだ。夕陽傾き沈む学校からの帰り、いつも語り明かしたあの公園で、孤独な手をこする所作が痛かった、大人になることがただ怖い、進学とか、将来の夢、手のひらの番号札を軽く握って、今が終わってしまうのが怖かった。別れがあって距離は意識される、告白しなくても付き合っているのに、そういうことは絶対に、言わなくちゃいけないはずなのに、ポケットの中で運ばれている、目薬と体温計。不完全であるほど美しい繚乱とその変遷。みずうみの夢から覚めてゆく、きれいな倫理観。時間を忘れて漕いでいたブランコ、よく寝そべった滑り台、それが日毎に遠くなる、鮮明で淡い夢を見ていた上の空の些細な Storyまるで巨大なコンクリートの下に、心まで埋められてしまったような気がして。今夜はとても静かだな、強弱の火華を消した数千の符牒、夏休みのせいだ、サラリーマン風の人が、大きなくしゃみを一つした。ブラッドフォード、グラスゴー、デュッセルドルフ、意味はない、意味はないの、意味はないよ、一時期流行った、くしゃみのたびに、カッコいい外国名を連呼する、遊び。夢を見させてよ流れ星、向こう岸まで連れてってよ箒星。UFOが見えたらいいのに、そして君がこんな時間でも散歩に出かけてさ、よっ、とか言って隣に座ってくれたらいいのに。五分前に来たところって、待ち合わせをしていないのに言うんだ、君と奏でるセレナーデとかいう、恥ずかしいことも言うよ、美に牽かれる一番弱い本能を誘惑する珠玉、気障じゃなくて素直な気持ちはいつだってそう、バイバイ、さよなら、残った濃い濃度の気持ちに See you(心の底からの、So darling I love you)でもスマホでLINEを送りたくない、本当は一時間も前からここにいるって、絶対に言えないんだ。
2026年07月19日

いつかの思いがけない契機で、失われたはずの歳月、脳の奥底で固着していた樹脂のように、ひび割れて剥がれ落ちる。時間は連続しているはずなのに、その瞬間だけは層をなして逆流し、かつて頓挫し、暗礁に乗り上げたと思い込んでいた感情が、再び粘性を帯びて立ち上がる。そしてこの感情は伸びてゆく。古い机の引き出しのいちばん奥から、埃を被った日記帳が、他の何かを探そうとした手のはずみで転がり出てくるように。しかし、この感情はもっと緩慢に、もっと広範に、台風一過の、洗い流された高気圧の空へ、上層の風に乗ってゆっくりと薄く広がっていく巻雲のように、絹の繊維をほどいたように、伸びてゆく。張り詰めたような澄心の一針、しかしそれも人間性の特異化。錆びたネジのように軋みながら、ぐるりと半回転して戻ってきたら、誰しもが内包する狂気のスペクトラム上で、ただその座標が滅茶苦茶に、ズレていたことに思い当たるだけさ。踊り場の壁は、一九八〇年代のビニールクロスが剥がれ、下地のモルタルが露出し、その隙間から、湿気で膨張した新聞紙の切れ端がはみ出す。死体の口から覗く舌のように、だらしなくはみ出していたのさ。女性の悲鳴が聞こえ、「もう、アンタとはおしまいよ」と泣き叫ぶ声が、雨粒のように階段の踊り場に散る。五月雨でも降ったかと思うほど、皿が割れる音が連続し、窓を金属バッ!小皿は高音の「キィーン」で、スープ皿は中音の「ガシャッ」で、大皿は低音の「ドゴォン」だ。三拍子の不協和音が、暴力を音楽的な表現に錯覚させる。人間の聴覚野は、意味を拒む音の連なりにすら、律動を、拍節を、勝手に見出してしまう。ストラヴィンスキーなら譜面に起こしたかもしれない。いいか、女は黙って後ろからついてこい、しょうがないから抱いてやるって、いつの時代だ?昭和のテレビドラマから抜け落ちてきた台詞だ。心臓の鼓動が耳鳴りに変わり、世界が遠ざかっていく感覚。これは現実なのか、それとも俺の脳が作り出した幻聴なのか。都市の片隅で、人間の尊厳が紙のように薄くなり、そしてその言葉は文化の化石だ。時代遅れのフレーズほど、未分解のまま残存する。ここは、家畜の餌場じゃない。イオソでやれ。時々、屠殺場だと考える。スターバッコソでやれ。DV防止法(2001年制定)の精神からしても、明らかな逸脱行為だが、暴力が世界からなくなることはなく、暴力とはスーパーマーケットで繰り広げられる、死体の山と認識できないもののことでもある。スーパーマーケットの精肉コーナーで、均一なプラスチックトレイにパッキングされたのが、もし人間だったらと考えたような連中は、SF作家になるのかも知れない。いや、DV防止法が制定されようが、刑法が改正されようが、ジェンダー論が積み重ねられようが、人間の脳幹は数十万年前の設計図を引きずっている。新皮質は文明を学ぶ。しかし視床下部は、それを知らない。人間は同時に二つの時代を生きている。石器時代と情報社会を。その矛盾が、ときどき壁一枚向こうで爆発する。まだ続くようなら警察に電話かけてやろう、んもう内臓が丸出しのレベルで。なんだったら、んもうストリートキング気取りだけど、内臓がはみ出してはみ出して、これでもかと露悪的にはみ出しているレベルで。だが、暴力を振るう男なんて、ロクなもんじゃない、そして知り合いは風俗で性病をもらい、借金大魔王へと身持ちを格上げした。消費者金融の金利計算式に絡め取られ、気づけば返済総額が元本の三倍を超えていた。そんな奴、別に珍しいわけじゃない。そんな個体は、統計学上の外れ値ではなく、正規分布のボリュームゾーンに過ぎない。ただ、時々、自分のことだってきちんと考えられないことを、優しいって言うんだなと思ったりする。裏通り、ネオンが反射する湿ったアスファルトで、小さな鼠を見た。ああやって生きる生き物がいる、一体自分とどう違うんだろう?住処を探し、食料を探し。危険を避け、朝まで生き延びる。その生存関数の変数が、俺のそれと、根本的にどれだけ違うというのか。人間だけがそこに「意味」や「価値」や「尊厳」を持ち込んで、生きる事自体を難しくしている。そして、セクロスは悲しい、岡田斗司夫とかいう犯罪者の手口が漫画で暴露された。サイコパスじゃなくて、最後のバスだな、こりゃ。引導だな、一巻の終わりだな。生殖行為が本来持つべき親密さが、資本主義の商品化システムに回収された結果かもしれない。頭の中が貨幣経済、腰から下は原始時代だったか、そいつはすごいな。権力者がいかにして弱者を搾取するかが、図解付きで描かれている本がある。しかし、今読み返すと、あまりにも単純化されているように感じる。現実は、もっと複雑で、もっと粘っこい。被害者も加害者も、同じ人間の皮膚の下に同居している。進化心理学者ポール・マクリーンが提唱した、三位一体脳モデルは、現在では単純化されすぎているという批判もある。それでも比喩としては実によくできている。理性は最新型。欲望は数百万年前。この時間差が、人間という動物を滑稽にしている。なんでこいつ生きてるんだろうって思うような人も、息ぐらいはしてもいいんじゃないって言う人もいる、まあ我々の祖先、縄文人達は夜中に、乱 交パーティーをしていたそうですからな、本当かよって思うけど、国立歴史民俗博物館の研究によれば、縄文時代の集落遺跡からは、祭祀的な性 行為を示唆する土偶や装飾品が多数出土している。まあ学術的にはアウトもアウト、ミクロネシアの環礁で原始の人々が巨大な石貨を転がしていただろう、という程度の、ロマンチックで検証不能な、ナンセンスの一種にすぎないのだが。駅前の中古レコード店から漏れてきた、一九七〇年代のジャズピアノだったり、真夏のアスファルトから立ち上るビチューメンの匂いだったり、あるいは薬局でアルコール消毒液を手に取った瞬間、揮発したエタノールが鼻腔の奥に触れた、その程度の出来事だろう。Uber Eatsの緑のジャンパーが、夕闇の中で蛍のように光る。ああ、乱痴気騒ぎ、まったくもって猥褻、まったくもって卑猥、深く考えちゃいけないのかも知れぬ。馬鹿だよ、この人は。こりゃこりゃ。少子化という人口動態の縮小も、ホモ・サピエンスの集団的アポトーシスなのかも知れぬ。エイズとか避妊など子供に伝えたいことはあるけど、まず、自分がうすっぺらくて、どれだけつまらない人間か思い知るべきなのかも知れぬ。こりゃこりゃ。昨日までの自分を壊して、今日の自分を作る。そうやって生きられないものかなって思うことがある。エジソンは発明の功績を奪い、マルクスは家庭的に破綻し、ニーチェは人間関係が壊滅し、トルストイは家庭内で暴君で、ピカソは倫理的に最悪だった。偉人列伝は、功績だけを額縁に入れる。しかし、その額縁の裏には、嫉妬も、執着も、家庭崩壊も、金銭問題も、性的逸脱も、友情の破綻も、数え切れないほど貼り付いている。人類史は、人格者によって作られたわけではない。欠陥を抱えた人間が、偶然、巨大な仕事を成し遂げた歴史でもある。だから学ぶべきなのは偶像ではない。構造だ。何が、その仕事を可能にしたのか。何が、その人を壊したのか。その両方を見なければ、歴史はただの英雄譚になるこんな奴等から学ぶことなんか一つもないって、たった一秒でもそう思えたら、俺がよく出来ましたって手放しで褒めてやるよ、糞くだらん奴から学ぶことなんか一つもない。女を一人や二人愛人にしたいって言うから、物事の考えが甘くなるんだ、十人、百人愛人にしたいと言え、そうすれば、それが自分の可処分時間をどれだけ食い潰し、どれだけの人生を無駄に費やすことになるか、需給の均衡が崩れた瞬間にすぐわかる。俺にはどう見繕って、髪の毛逆立てても、これは無理だ―、無理ゲー。スマホ握って四角い画面を見るだけで、人生数年分の無駄が確定するらしい。親指でのスクロール動作は、報酬系を刺激する可変報酬スケジュールに最適化されている。脳科学の論文によれば、スクロール動作が前頭前野の血流を著しく低下させるという。これが文明の利器か。現代人必須のアイテムとやらか。昔観たショート動画のアメリカ人らしい子供とその親みたいに、プールへ向かってスマホを投げ込みたい。それだったらよいベットや、安眠枕について、研究してみる方がまだマシって思えたらいいが、ああいうのは脳のトリガーなんだろう、そしてそんなことをする奴は、コンプレックスまみれなんだろうな。それなら結婚しなきゃいいのに、結婚して一日後の早まったかなという苦悩を、世界中全部に響くほどスピーカーしてやりたい。社会学者アンソニー・ギデンズが『近代家族の変容』で論じた、「純粋な関係性」の不可能性を地で行く事例だ。あるいは、哲学者ジャン=ポール・サルトルの、「他者は地獄である」という命題を想起させる。ふと重く響く。誰かと一緒に生きるということは、常に自分の自由を削り取られることでもあるのだ。アンソニー・ギデンズが論じた「純粋な関係性」は、互いの満足を基盤とする関係だという。だが、人間はそんなに純粋ではない。疲労も持ち込む、仕事も持ち込む。嫉妬も持ち込む。親の介護も、子供の教育も、病気も、借金も持ち込む。生活とは、不純物の総和なのだ。だから続く関係は、美しい関係ではなく、修理を続けられる関係なのかもしれない。かつての友人の結婚式を思い出した。三年前のことだ。式場は都内のホテルで、披露宴はフランス料理のコースだった。友人は白いドレスを着て、幸せそうに笑っていた。しかし、その笑顔は、写真に撮るための笑顔だった。目の奥には、何か別の感情が宿っていた。不安か、後悔か、あるいは両方か。乾杯の音頭を取り、シャンパンの泡がグラスから溢れるのを見た。泡は、テーブルクロスに落ち、小さな染みを作った。それが、次第に広がり、白い布を黄色く変色させていく。ああしかし、心理学なんていうものを真面目に語る時点で、ちゃんと本を読んでいない証拠だ。いらっしゃいますとも、患者様達が、わんさか。おそろしい憂鬱の孤独だ。フォントは大きく、行間は広く、図解が多い。読みやすい。しかし、中身は水のように薄い。そして何もない。そういう本を読んで馬鹿にならないわけがない。分かり易さを馬鹿と呼ばれたくない人もいるだろう、均質化、空洞化と呼ぶべきだろうか。けれど、これだけは言える。心理学を口にする時点で、人間がないんだということを証明する。人生に苦労をしたことのない人間ほど、失敗を恐れる。人生は暇潰しだ、ああはやく自殺したい、そんな声もちらほら聞こえる。ネットの掲示板で見た書き込みの呪詛のような文言も、何度か目撃したことがある。「生きてる意味がない」「死にたい」「誰も私を必要としない」どれも、匿名の、誰かの叫び。しかし、画面の向こうには、本当の人間がいる。血が流れ、心臓が鼓動し、涙を流す人間が。それらの書き込みに、いいねを押したことがある。それが、正しかったのか、間違っていたのか、今でもわからない。鬱陶しいその長い髪を切って、海で服のまま泳いでくればいい、人生の難易度を上げてから兜を締めることだって、それはあるでしょうよ。声は、返事を求めてなどいない。ただ、そこに漂っているだけだ。シオランなら笑うだろう。カミュなら「それでも生きる」と書くだろう。ヴィクトール・フランクルなら、「意味は与えられるものではなく見出すものだ」と応じるかもしれない。哲学者は答えをくれない。問いを長持ちさせる技術だけを教えてくれる。それで十分なのだ。問いが残っている限り、人間はまだ思考している。猫がこっちを見る、どう、うちの家で一緒に暮らさない?その瞳は、琥珀色の奥に千年の倦怠を宿している。万里の長城を一緒に歩いてみない?その問いは風に消え、ただ尻尾がゆっくりと一回揺れるだけだ。炎上した。ネットのニュース番組なのか、討論番組なのか分からないが、過程を楽しむ要素がまったくない。政治評論家、経済アナリスト、芸能リポーター。みんな、スーツを着て、真剣な顔をしている。しかし、目は、画面の向こうの視聴者数を気にしている。近頃のコメンテーターはつまらない、ひろゆきとかいう馬鹿が、へらへら笑っているのも段々うすら寒い。ホリエモンは怒り芸をしている。いつからだろう、二時間くれれば、その一千倍マシな内容の文章を書けると思ったのは。昔はそうじゃなかった。頭が悪いとか、知識がないとかそういうことではない。その内容に関する切実さのなさが、俺にそう思わせた。発言はいちいちもっともらしいが、まるでエコーチェンバー内で反響するだけの空砲だ。エンターテイメントなのだろう。大学生だって、ジャーナリストだってきっとそうだ。頭の良さとか、知識のあるなしではない。僕は毎日自分に、こんなんでいいのかって問い掛けた、だからもっと成長しようと思った、そうしたら見えてきたのは、こんなんでいいのかっていう奴等の、ひねもすさみしげなシメジのような、大安売りのオンパレードの、程度の低さ。鏡の自分に問いかけた。「お前は、何を信じているんだ」答えは、返ってこなかった。部屋は静かで、時計の音だけが響いている。カチ、カチ、カチ。秒針は、容赦なく、未来へと進んでいく。パソコンを閉じると部屋は暗くなり、窓の外の光だけが、部屋を照らす。椅子に座ったまま、夜景を見た。車のヘッドライトが、赤と白の流れ星のように動く。ビルの窓から漏れる光は、まるで地上に降り注ぐ星の海だ。そこに、自分の姿を重ねた。小さな、光の一つとして。こちらが街を歩いているつもりで、街のほうがこちらの歩き方を学習している。駅の改札、監視カメラ。交通系ICカード、ポイントカード。位置情報、検索履歴、購買履歴。都市は巨大な記憶装置になった。ボルヘスの『記憶の人フネス』は、一切を忘れられない青年を描いた。現代都市は、忘れられない社会そのものになろうとしている。でもおそらく普通に話してみたら、普通な人なんだろうと近頃思う。五十パーセントはネタだったらいいな、テレビで普通に話せるのはすごいことだ。でも、普通に話せること自体が、もう、普通じゃないっていう証明だ。何の参考にもならない。テレビとかネットっていうのが、一時期のTwitterで馬鹿が大量に現れる現象ともリンクして、動物化だなと思う。それだったらハーブティーの知識を披露したい、ハーブティーの、カモミールとレモングラスのブレンド比の知識を、披露していたい。擬人化したきのこ図鑑について話したい、誰も興味がないことでも、まだそれよりマシかって思えることを、一つでも多く所有していることを喜びたい。自己啓発セミナーに参加したことがある。会場は、某ホールで、参加者は五百人ほど。ステージには、講師が立ち、マイクを持って叫んでいる。「あなたは、もっとできるはずだ!」「今すぐ行動しろ!」「失敗は成功のもとだ!」参加者は、メモを取り、頷き、時折立ち上がって拍手する。笑いを堪えるのに苦労した。高級クラブにいた。会員制の店だ。入り口には、黒服の男が立ち、会員証を確認する。僕は会員ではない。しかし、同伴者として、入店した。店内は、薄暗く、テーブルごとに、小さなシャンデリアが吊り下がっている。光は、琥珀色で、客の顔を、暖かく照らす。しかし、目の奥は、冷たい。そんなことを思い出した。セミナーの休憩時間、隣の男性と話した。彼は、小さな会社の社長で、社員は五人だという。「最近、調子が悪くて」と彼は言った。「注文が減って、銀行の借金が増えて。でも、こういうセミナーに来ると、元気が出るんですよ」彼の目は、充血していて、下瞼が腫れている。しかし、笑顔は、作り物のように整っていた。これが宗教かと思った。あるいはお金の力というやつなのかと皮肉に思ったりした。あんなの糞みたいなことだ。フンコロガシの方がまだ文化的な気がする。太陽の偏光を頼りに、球を真っ直ぐ転がすあの甲虫は、古代エジプトでは太陽神スカラベとして神格化さえされた。いや、もういっそ、僕は世を諦めて、儚んで、スカラベの糞球形成と定位行動を生涯かけて研究する、隠遁の、フンコロガシ研究家にでもなってしまおうか。フンコロガシから見た現代社会。スカラベと政治。心躍るようなフレーズだ、目に飛び込んでくるインパクトだけで、ただ者ではない感が伝わってしまう。必殺仕事人だ。コピーライターくたばれ。NHKの番組で、南アフリカのフンコロガシが、動物の糞を丸めて、巣穴に運ぶ様子を見た。糞は、丸く、大きく、彼等の体の数倍もある。しかし、彼等は、後ろ足で押し、前足で方向を変え、坂を登り、障害物を避け、巣穴まで運ぶ。それは、まるで、芸術のように見えた。精密な計算、完璧な協力、美しい軌道。見て見て、すごいすごい、あれが当代随一のフンコロガシの権威よー。馬鹿が、五月蠅い、黙れ。「フンコロガシが、フンに潰されてしまうではないか?」文明など、感覚器官を一つ捨てて手に入れた、不完全な進化なのではないかという気さえしてくる。湿ったアスファルトに映る信号機の赤が、風に揺れた街路樹の葉でわずかに歪む。夜は静かだ。政治の世界ではまさか、日本へ核兵器を運んではいないだろうね。国会議事堂の前に立っていた。正面の大階段は、花崗岩でできていて、太陽の光を反射して、白く輝いている。柱は、コリント式で、天を衝くようにそびえている。屋根は、緑青銅で覆われ、緑色に変色している。それは、権力の象徴だ。しかし、僕には巨大な墓標のように見えた。誰の墓か。民主主義の墓か、それとも、国民の信頼の墓か。どうなんだ、総理大臣。総理大臣、と国会議事堂のやりとりが聞こえる。そして議員の華だかのシュプレヒコールをし、ネトゲ三昧だったかのおっさんが居眠りをする。どうなんだ、総理大臣。総理大臣、と国会議事堂のやりとりが聞こえる。議員達が、自分の利益のために、国民の声を無視する姿。マニフェストはいつも立派だ、一つ守れたらえらいって何だそりゃ。政治は、いつだって滑稽で、いつだって危うい。そのくせ、人間の時間の中心のふりをする。自分自身が「見えない存在」であることを実感する、そんな奴等の心理だって分からないんだ。何が邪魔しているんだろう、何が弊害なんだろう、本音と建て前はいつまで続くんだろう。塾へ行っているから、学校では眠っていい、だってつまらない。じゃあ学校に来るな、もし本当にそう思うなら、友達作るためって言え。頭がいいのを証明したいなら、外堀を埋めるイメージ作りの重要性だって、わかるだろうって言ってやりたい。ありとあらゆること、優れてるように見える人はいても、みんな底上げしてるもんだ、演出された、加工された、フェイクの高さに騙されちゃいけない。同調圧力は人生を壊すほどのものだ、そう思われちゃいけない、そう思われてもいいように、いまからちょっと筋トレにいこっか。どしたん、握力は百超えた?それに、上には上がいる。井の中の蛙大海を知らずだ。一番上になったらルールだって作れる、一番上からなら世界は君のものだ、何だって好きなことを言ったらいい、クーデターには気を付けて。謀反はよくあること。そしておべっかを使う奴等ほど、裏では結構きわどいことを言ってるものだ。ああしかし、金を稼ぐという行為は、現代における最も汎用的なカードだ。しかしそれだけでは、内的な蓄積は保証されない。金を稼ぐ連中の湿気た面、見れば見るほど何もない奴等だ、ジッと部屋で本の一つでも読んでいられないのか、音楽のCDでも映画の一本でも、心の中に蓄えておこうという考えに至らないのか。外界の情報を内面の構造へと変換するプロセスは、時間をかけて沈殿する。だが都市の速度は、それを待たない。この街は病んでる。承認欲求とかいう四文字熟語風の言葉が五月蠅い。本屋で絵本を買っている女性は気持ち悪い。メルヘンチックなものが悪いわけじゃない、そういう本を買う時点で、そういう本を買う自分のキャラクターを、成立させているからだ。まあ、ピーターラビットの像を部屋に飾っていたら、いい趣味だって言ってやらないこともない。俺なら本屋のカウンターに、エログロの本を持って行っても、雑誌で隠す。それはそうだよ、何言ってるの、頭大丈夫?いつだって自己演出だ。完全無欠の天才詩人様のお通りで―い。自分に問いかけた。何をしようとしているのか。雑誌を買うのか、それとも、ただ見ているのか。雑誌を棚に戻した。すると、店員が近づいてきた。二十代後半の男性で、眼鏡をかけている。「何かお探しですか?」彼の声は、丁寧だが、目は、警戒している。首を横に振り、文庫本コーナーに向かった。いつだって自己演出だ。コンビニの隅で異国のタバコを求めたはずみに、レジの青年の手元が震え、小銭をばらまいたその瞬間みたいだよ。ごめんなさいって言わなくていい、ゆっくりやってもいい、いつから俺達は、人を傷つけてもいいっていうのを承認したんだろう、なめくさりやがって。どんな社会なんだ?甘い紅茶の缶を飲みながら思う、心が汚いのだ、ロックは不良だ、クラシックこそスタンダードだ。いつだって始まりは偶然だ。偶然という言葉は便利すぎる。スーパーの総菜売り場で流れていた八〇年代の歌謡曲。改札口ですれ違った女の香水。地下街の排水溝から立ち上る湿った鉄の匂い。ホームセンターの木材売り場に積まれた杉板の樹脂。それだけでいい。海馬は仕事を始める。神経細胞は嘘つきだ。それでも想起のトリガーが始まる。ああ、いい陽射しだ、循環せよ、世界中全部が美しいのだ。僕は表情を消して能面のようになりながら、真っ直ぐに、命の芽生えのなかを、精華を。「給食費だって払えないのよ」何処かで聞こえる、声。母子家庭の台所で、冷蔵庫の電磁音に溶ける嘆きだ。人のことを悪く言える人は一定数いる、相手の事情を配慮しない人も一定数いる、自分の考えとか常識とかワンセットの奴も一定数いる、みんなお金持っているわけじゃない、棚には、安物のインスタントラーメンが、あと数袋あるくらいで、冷蔵庫の中には、賞味期限を三日過ぎた牛乳だけが、ぽつんと入っているのかもしれない。路上ライブ時代に兄が、千円ぐらい誰でも出せると言ったものだが、いやいや、千円すら出せない人がいる、そんな人が都市の中に何百人といる可能性がある。児童扶養手当や、ひとり親家庭医療費助成制度なんかも必要だ。さらに申請のハードルや、情報格差が実際の利用を阻むこともある。市役所のホームページを思い出した。児童扶養手当、医療費助成、就学援助。様々な制度がある。しかし、それらを知らない人、申請の仕方がわからない人、恥ずかしくて申請できない人。制度はあっても、届かない人がいる。そしてそんな人々を何の考慮もせず、えらそうな講釈を垂れている連中がわんさかいる。してやっているという気持ちが消えない。人間を乞食や奴隷だとでも思っているのか。人と人同士に対する理想なんて俺には一ミリもない、ただ、普通でいたいだけだ。貧困という病理の根本原因は、貨幣の欠乏であると同時に、社会資本とコミュニケーションの、決定的な欠落のせいなのかもしれない。生きていくことが、貧しさに呑まれないようにするにはどうしたらいいかって、自分の賤しさと毎日戦っているような日々さ。ランドセルなんか本当に必要なのか、学習机なんて本当に必要なのか、揺り籠って本当に必要なのか、がらがらって本当に必要なのか。マウンティングがどうした?顔面が昼ドラ化し、過剰演技性顔面筋の女がオペラする。中身のないことをだらだらだらだらと、喋るな!耳が腐る、もう存在する時点で空気が腐る、何で生きているんだ、ゾンビなのか、どうして感情があるふりなんかしてるんだ。汚い言葉など、豚の言葉と思え。犬畜生どもの戯言になど、蓋をしちまえ。言葉の切れ端は、深夜のファミレスで、プラスチックのコップに映る蛍光灯の光に溶け、やがて誰の記憶からも消えていく。部屋で吸った煙草の煙が天井に輪を描き、時計の針だけが静かに進む。都市の鼓動は止まらず、また明日も同じような声が、どこかで響くだろう。意味なんかない。生きてる価値なんかない。そもそもこいつら人間じゃない。だからこそ戦争を終わらせたいって言いたい、だからこそ平和を実現したいって言いたい。電車が来る方を見た。先頭車両のライトが、トンネルの暗闇から現れ、次第に大きくなる。白い光が、ホームを照らし影を、長く、後ろに伸ばす。電車は、停止し、ドアが開く。それに乗り込んだ。車内は、空いていて、座席は、どこでも選べる。入り口から少し離れた席に座り、カバンを膝の上に置いた。電車は、動き出し、加速する。窓の外では、都市の景色が、後ろに流れていく。ビル、公園、川、橋。すべてが、朝の光に照らされ、新しく、美しく見える。それを見た。そして、目を閉じた。電車の揺れに身を委ね、眠りに落ちる。うららかな春に酩酊し、桜の木に凭れて白昼夢をしていた、あの少年は何処へ行ったか、小鳥よ、まだ愉快な夢を見よう、野原よ、並木道よ、ほっぽってたって、うだつが上がらなくたって、青空にだって手が届くさ。それを意味がないと断じることもできるし、意味を仮定することもできる。残るのは、わずかな温度差と、聞き手の内側に生じた微細なざらつき。俺達のゲノムには数万年前の危機回避本能、集団維持のための攻撃性、生殖競争の衝動がコードとして書き込まれており、それらが現代社会の規範と衝突するたびに、狂気というレッテルで矛盾を封じ込めようとする。「―――セフレがさ、」何処かで聞こえる、声、、、、、、、、 、、、、、、うるせえんだよ、ごちゃごちゃ。都市という名の迷宮を彷徨う一人の語り手の、意識の流れを写し取りながら、それは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』における、ダブリンの街を一日かけて歩くレオポルド・ブルームの、あの、句読点すら溶けていく内的独白を想起させるが、より断片的で、より暴力的で、より現代的なノイズに、飽和するほど満ちている。 、、、、、、、―――蝉は青い証拠だ。
2026年07月19日

正気を疑いながら自分自身を疑った、(の、)そして目を開いて、認識した、シティ・セントラル。青白いモニターの光が、水槽の底から照らされたクラゲみたいに、ゆらゆらと揺れ、一つ一つの言葉がガラス片のように咽喉を転がり、皮膚の下を這い回る。セロトニンの分泌は偏り、ドーパミンの閾値は異様に低い、ほら目蓋を持ち上げる動作ひとつにだって、粘性のある抵抗が伴う。筋のひとつひとつの筋線維が、収縮のたびに乳酸めいた抵抗を返してくるわけだよ。メタ認知の螺旋階段を一段ずつ、降りていくのさ。デフォルトモードネットワークが空回りする、螺旋はもう一巻き深くなり、踊り場は、オアシスは何処にも現れない。ねむたくて、、、 ねむたくて、、、ねむるぼく、、、息を止めて気配を消したら、風の音は雑音に消え、遠くなったものが不意に近くなるのを感じた、角膜の上を涙液層がゆっくり滑り、硝子体の中を、無数の飛蚊症が銀河のように漂っているかもね。タロットカードの「吊された男」水晶玉の冷たい輝き、ルーンストーン、カバラの生命の樹の図、黒い羽根、星と月の象徴。想起されたイメージは、元のエピソード記憶から切り離され、浮遊するシニフィアンとして、意識の表面を漂う。色彩も、匂いも、触覚の面影すら無い。あの日の、緑色の芝生とブランコの錆びた匂いがした、ジオラマのような公園の記憶から。ただ、その場所があったという事実だけが、空白として残っている。意識のエッジが丸くなり、境界が溶け、主観と外界の区別が、緩やかに崩れていく。ノエシスとノエマは癒着し、志向性の矢は宙で軌道を失う。ニュースサイト、動画サイト、チャットログ、RSSフィード、APIレスポンス、アーカイブされたコメント群。どれも読み終えたはずなのに、スクロールバーだけが、無限の漸近線を描いて、いつまでも下へ下へと伸びていく。終わりが来ない。読み終えることができない。情報の海は、どこまでも深く、どこまでも広がっている。「ドコヘユクノ」期待値制御する機械の檻、光学ファインダーを覗き込んでも、オートフォーカスは乱反射するネオンに惑わされ、ピントは永遠にズレたまま。ユーザーのクリック履歴、滞在時間、スクロール速度、マウスの軌跡。すべてを学習し、次の行動を予測するね。そして、その予測に基づいて、コンテンツが選択的に提示される。「ドコヘユクノ」鈍い支配、絡むコード、LANケーブル、USBケーブル、充電ケーブル、床の上で、灰色と黒の蛇みたいに絡まり合った、蜜月、サイレンス、それでも回る歯車。「ドコヘユクノ」恥じらって含羞んで、それでも抗えないディストーション。燃焼時間は短い。まるで湿った新聞紙に火を付けるように。期待値だけが肥大し、満足だけが極端に短命になる。「次はもっと大きなものを」(真っ白な画用紙の中に何を描こう...)「もっと強いものを」(でも本当の敵は自分の中にいる...)ヘイヘイ、それで。(ヘイヘイ、)銀河の径庭、楕円軌道の離心率。暗黒物質の分布。背景放射の揺らぎ。大宇宙に繊細な円描いて、I love youが遠い。形成、拝礼、最速で未来したい、消灯、深海、メルトダウン、オリオン座、カシオペア座、北斗七星。みんな見えない。まだまだ終わらない行き当たりばったりのライ、ジョークみたいな再来、レッテルが廻れ、スローモーションの速度でしか、俺の人生は進んでいかない。(ヘリウムを含んだ銀の鳥、カテゴライズされたマテリアル、)顔も名前も捨てて、プラスチックな身体、レプリカが流行り、外れた部品が上手く見つからない。巨大な電波塔、ビルの谷間、足が棒になるだけ。Party night!!四角く切り取った日々の中で、歪な僕達は息をしてる。エンターキー押したら点滅。前衛的宇宙船に乗って、成層圏にイルミネーション鏤めて。この心臓が痛いな、知恵も命もないかな、正しさの向こうにもないかな、くだらないことばかりが増えていく、くたばりやがれが増えていく、くだらない人ばかりが増えていく、優しい人から死んでゆく、まるで生態系の頂点から捕食圧に晒されるように、いちばん傷つきやすい柔らかなものから、先に。どうしようもないまま、逃避はループを生む。いつわり/のれいめい/の名前に意味なんてない、存在に意味なんてない、この数字に意味なんてない、ただ溶けたチョコレートの上で、べたつぎながら踊ってる。フォンダン・ショコラみたいに外側は焼けて固く、内側は溶けてとろける。そのコントラストが、この人生のメタファー。でも醒めてた、だって僕は感情を厭わしく思っている、忌々しく、汚らわしく思ってしまうから。かの人も、感情を厭わしく思っている。何も、思わな、い。何も、残さな、い。何も、話さな、い。そうそう、強く、弱く、感情の行くままに。Come on!!(Come on!!)幻想、空想、想像と、理想像、強く、弱く、環状の行くまま、ジェットコースターのように上下する。桿状の行くまま、前頭前野で生成されるシミュレーション。暗黙の了解。防御力は低い。秘めたる迷路の扉を、過ぎにし幾多の傷を。すぐに見えない場所で、HPが削られていく。ゆらゆら、、、ゆらゆら、、、 、、、、―――このまま。正気を疑いながら自分自身を疑った、(の、)そして目を開いて、認識した、シティ・セントラル。進んで、もう一歩。すべてが、まだ意味だった頃。世界のあらゆる細部が、記号ではなく手触りとして、まだ確かにそこにあった頃。もう面影もない。圧倒的な、あまりに圧倒的な世界の総量に、僕は打ちのめされるけど、この一分一秒の、引き延ばされた刹那の中で、ふいに、胸の奥がすっと軽くなる。閉じていた横隔膜がほどけて、肺胞のひとつひとつに新しい空気が届く。遠くまで、光害の向こうまで、僕の声が届くように。何十億もの人々の思惑が重なり、Wi-Fiの電波のように干渉し、オシロスコープの上で位相をずらしながら、重圧に崩折れそうになりながら、届かないパケットにもどかしく思いながら、それでも確かに、呼んでる、ノイズキャンセリングの奥で、この『声』が。境界線を越えて、溶け合う、君と僕の、この生体的な『声』が。
2026年07月18日

その、穏やかに問う声も。暗い暗い重い時の中で、羨望のEye、ぬるま湯の虚像、巨象。(開封したままのAmazonの段ボール箱が、、、、ぐらり、)人間未満、感情不足に、ハイソに味見だけして積み上がった包装、急性的思考停止とかりそめのマイナーチェンジ、同じ夜を追いかけながらデッドヒートさ、心で蔑むYou & Me(downward social comparison...)違う夢を抱え込んでは、因果の応報SHOWWarning? Don't worry(No Signal? Stay tuned)待ってるのはいつだって、煩わしい情動とセパレート。青。消える。また青。まるで深海生物の発光器官が、生体電流のわずかな揺らぎで点滅する。ポーカーフェイスは心の中まで、見えなくなると信じていたけど、思ったよりは見えてしまうから。自問自答、自問他答、(進路自問、進路他問、)にべもなく進む絵空事のような悶々滔々、「傷って、いくら経っても消えないんだね」他問自答連れ回しビットレート、「きれいごとが欲しいなら、お前がパックマンになっていないか鏡を見ろよ」その中国の酒のような問々問々。お掃除ロボッツ、ハートの感情それがとっ散らかって、回り回り回り回る閉鎖空間、(巡り巡り巡り巡る待機画面、)I want you to know蝕む思考、融解、それも幽閉したい集大成。昼下がり、テレビを付けて、流れるドラマ。Light Light Light Light 照らして。照らしてほしい場所は、いつも心の奥の、暗いところだ。―――光が届かない場所。あの、小さな船は、笑っている。延々と錯じた夕景を。反乱分子の親友は、絶賛今日も沈没中。「灘校出身の東大卒がビールを飲みながら、鍋をつついて笑ってしまう」見えない思い出の額縁は、絶賛今日もホワイトノイズ症候群。過剰的自意識の強制的進化論。「生産性なんて、質の向上とは相いれないもの、まだ嘘っぱちの哲学を始めているの?」どんなフラグだ、世紀末的運命論、紙飛行機を投げれば走馬灯の街、ナースコールが鳴って点滴が落ちて、天敵も落ちて、バタフライナイフも落ちて、あのカーブでスピードも、百二十キロほどに落ちて。体験版の人間 ロード中の人生。全概念はコンテンツ、街路樹を見ながら歩く通行人A。モールに惹きつけられてもう何年経った?逃げろ! 現実だ。どうせ君も、三時のおやつにマカロン食べたいんだ。おいおい、こいつは一体何の冗談だ。(その問いもまたテンプレート、)カードは如何様、それでもたった一度だけの秘密のイリュージョン。エルメス、グッチ、プラダ、サンローラン、ディオール。はいはい、インスタントなMy真理に、エモさを和えたら吹けば飛ぶような看板の完成。どうでもいいけど、活舌が悪いのか癖が強すぎるのか歌詞がわからねー。、、、最後に、、、、、、、、、、、 、、心の底から笑ったのは、いつ?この世はきっと木端微塵に壊れた個、ファムファタール、サルバドール、マグリット、人生の主人公への起死回生、(物語の主役への一発逆転、)夜を謳えば、陳腐な人生へ 1.2.3...君は言った。テンプレートな美学の遺稿、ずっと弱いままニューゲーム、すぐ濁っちゃう未来は罪悪感かも。きっと続いてく罰ゲーム、身体に纏わりついてるのは後悔の吹き溜まり。せーのでいこう、どっかにいこう。ライターで睫毛が焦げるような、ライターで前髪が焦げるような、希望とかいうスイーツファクトリー。まだ美少女恋愛シュミレーションとか、そんな趣味?怖くないよ、皆やってるよ、先っぽだけだから。滲む思考、飽和、それも冷凍したい総集編。真夜中に、レディオを点けて、流れる交通情報。映画のワンシーンをなぞるように、適切な場面で適切な表情を浮かべる君よ、「本物の感情を、どこかに置き忘れてきた気はしないか?」(子供時代の何処かで、思春期の何処かで、自ら手放したんじゃないか?誰かに奪われたという気はしないか?)心の地下室に、配管の錆びた蛇口から、一滴ずつ、水溜まりを広げていく。Signal Signal Signal Signal 届いて。ウッ、ウッ、ウゥーン...黒、黒、隙間がなくなるように、イヤホンの絡まりを解き、楽観、達観、紙一重の、冷えたリミナルを独り占めしたい。トレーサビリティの無いいつかのメモリー。迎合、踏襲、量産、形骸で、都合良く歪めた怠惰解釈、お誂え向きのSOSの完成。地図とルーペ、パズル、(アンテナとコンパス、暗号表、) 、、、それからランプ。Simultaneous Localization and Mapping‼Simultaneous Localization and Mapping‼不平不満の相棒は、絶賛今日も圏外中。「合コン帰りのプレイボーイが、缶チューハイ片手に、傘を差すのを忘れてびしょ濡れで帰る」届かない留守電の受話器は、絶賛今日もハウリング症候群。過剰的自意識の強制的アップデート。「効率なんて、深さとは相いれないもの、まだ受け売りの持論を垂れ流しているの?」そして不意打ちの一撃。「ラピュタにでも行くつもり?」まだソシャゲのガチャとか、そんな沼?怖くないよ、皆回してるよ、あと一回だけだから。最後には笑って抱き合う、ハッピーエンドが待っているぜ、四六時中、退屈だらけのディスティニーへ、グレネードランチャーを、ヒュー、お見舞いだぜ!
2026年07月05日

机の上に、夜更けのスタンドライトがひとつだけ灯っている。そこに白い花びらのような紙が舞い降りている。失敗も、訂正も、破棄も知らない。まだ誰にも名前を与えられていない世界。読むことはできるが、読むという行為そのものに意識が引き戻される。紙は、ほんとうに真っ白だ。印刷工場で裁断されたばかりのような、無傷の平面。凸凹を知るためにわずかな視覚的努力を要する、絶妙な曖昧さを帯びた境界域。そこにはまだ、線も、記号も、地名も、方角も、「ここから先は危険」というハザードマップの警告色も、「立入禁止」を示すトラロープの黄と黒の警戒標識も、何ひとつとして刻まれていない。もっとさりげなく、世の大人達のように、この夜を楽しむことが出来るようにと伝えるべきだろうか、もう完全な情報の蜜月との接続など、とうの昔にし終えているのに。ここから先、落石注意という看板の近くで、落石があったのを覚えている、熊出没、マムシがいるという手書きの看板、それも本当なのだろう、そして高速道路に迷い込んだ鹿は、しなやか足で走り続け、車のフロントガラスにぶつかった鳥は、そのすごい衝撃のもと絶命する。繊維質のペン先が乾燥収縮して、開口部が閉じかかっているボールペンを、すごろくのように転がす。こんな一瞬、いくつになっても、まだ名前のない目的地なんだなと思う、自分で決めることとのあいだには、賽の目ひとつでは、跨げない、深い河が、流れている。未来というような事柄は、もやを隔てて遠い遠い向う岸に、あって欲しいようなものだから。何処へ行こうか迷ってた。行き先の候補は、頭の中にいくつもあるのに、七転び八起きだか、七転八倒だか、どれも、決定打にならない。カラオケでも居酒屋でもいい、友達との約束、家族の用事、そういう既に決まっている行き先なら、細いボールペンでびっしりと書き込まれていなくとも、きちんと実行できるのに、この紙の上の夢のような行き先だけは、まだ何も決まっていない。シアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの、インクカートリッジみたいになれないだろうか、東京、ソウル、台北、上海。シンガポール、レイキャヴィーク。ウユニ塩湖、サマルカンド、マチュ・ピチュ。映像が、焦点の合わないスライドショーのように、蒼冥と暮れた宵色の湖面に、次々と切り替わっていく。未来だ。口元に浮かんだ、困惑と期待の入り混じった微妙な微笑み。就職先が決まったとか、新しいプロジェクトが始まったとか、フォロワーが何万人になったとか、次のステージに行ったことを示す報告が、次々と流れてくるような未来。無意識に、その跡が完全に消えるまでの時間を数えている。知らない街の高層ビルや、海外の海岸線や、見たことのないスタジオの機材と、迷いのないピースサインをしている、主人公が必要なんだろう。多く繋がっている者ほど、新しく繋がられやすい。持てる者が、さらに持つ。優先的選択。数の増えかたそのものが、数を増やす仕組みになっている。それでも、空間解像度の粗い衛星画像のように漠然とし、自分のことなのに遠くの国の歴史を語るような、他人事の響き、いまだって昔とそれほど変わらない。人間は、何かを書こうとするとき、実際には文字を書く前から思考を始めているらしい。認知心理学では、未来を想像するときに活動する神経回路は、過去を思い出すときの回路と大部分が重なっている。海馬、前頭前野、デフォルト・モード・ネットワーク。脳は未来を予測しているのではなく、記憶という瓦礫を組み替えて、まだ存在しない景色を即席で建築している。僕は、未来へ進めずにいるのではない。過去という資材置き場の前で、どの部品を持っていくかと、迷い続けているだけなのかもしれない。瓦礫のままでは、未来にならない。けれど、瓦礫のなかにしか、未来の材料は、ない。若い時分には、誰かの後ろをついてけば安心だって思っていた。それは、これまで何度もやってきたやり方だ。進路相談のときも、部活を選ぶときも、みんなが行くならと、大きな流れに身を任せてきた。社会心理学では、それを同調行動と呼ぶ。情報が足りない状況では、人間は他者の選択を正解だと思いやすい。アッシュの同調実験。群集心理。バンドワゴン効果。認知地図を自ら構築しないまま進むことの代償は、分岐に立ったときの空白として現れるとしても、情報が、雪崩のように、一方向へ流れていく、あの、選択の連鎖。先頭を歩く人の背中は、いつもまっすぐで、迷いがないように見えた。その背中の少し後ろを、半歩ずつ遅れてついていくと、自分で地図を描かなくても、道は勝手に伸びていくような気がした。ハッシュタグで「#人生変わった」と書かれている、それが飛行機の窓から真っ昼間の光輝いた、耳鳴りする雲海のように思えてくる。でも机の引き出しの奥には、あのときもらった進路希望調査票のコピーが、まだしまってある。そこに書かれた「特に決めていません」という文字が、薄くなったインクでかすかに浮き出ている。第一希望、第二希望、第三希望。備考欄、進学か就職か。将来就きたい職業。資格取得予定。自己PR。それらを言い表す言葉ではないはずの言葉が、何かもっともらしく見えてしまうのは何故だろうか。それがもしかしたら、僕の人生なのかも知れない。しかしそう考えるための、心理的な余力が、今はない。筆跡心理学では、文字の傾きや圧力に性格傾向を読み取ろうとする研究もある、その真偽はともかく、この文字だけは確かに、何かを決めることから静かに視線を逸らしている。汚い字だ、でもそれは習字に習いに行かなかっただけだ、あるいはそのための練習をしなかったからだ、本当にそれだけの違いかも知れないけれど、その違いを何十年も持つとなると考えてしまう。道は誰かによってまず八割方は、決められているのかも知れない、と。行き止まりにぶつかってしまうことがある。誰かの選んだ道が、必ずしも、自分のために開かれているとは限らない。コンクリートの壁に、関係者以外立入禁止と赤い文字で書かれていたり、フェンスの向こう側に、工事中の重機が並んでいたり、あるいは、ここから先はあなたの責任でと、急に標識が消えてしまったりする。地図アプリを開いても、現在地の青い点が、ただ灰色のエリアの上に浮かんでいるだけで、道の線がどこにも繋がっていない。「ルートを再検索しています」という文字が、いつまでも消えないままだ。自分で方位磁石を確認しなくても、迷わずに歩き続けられた、集団の最後尾でも、たとえそれが統計上の実体のない影でも。数学の授業で習った「不可能図形」のことを思い出す。エッシャーの描いた、上り続けるのにぐるぐると同じ場所を回っている階段。あの絵をじっと見ていると、目が混乱してくる。今の自分も、あの階段の上に立っているような気分だ。進んでいるようで進んでいない。上がっているようで、同じ高さにいる。視覚の錯覚に、感情まで巻き込まれている。二次元の紙のうえにしか、存在できない階段。三次元の世界には、どうやっても、建てられない、あの、閉じた上昇。それが心というものなんだと思えていたなら、もう少し世界の見え方は変わっただろうか?設計とは、線を引くことではない。どの線を引かないかを決めることだ。一本増やすたびに図面は複雑になる。一本減らすたびに意味が研ぎ澄まされる。人生も、おそらく同じなのだろう。選択肢が多いことは、自由ではない。むしろ自ら難易度を引き上げて、茨の道にしているだけだ。ゼロなのにマイナス。何かが欠けていることを示す、記号だけが残っている心の中に、絆創膏を貼ることはできるだろうか?未来は、現実よりも少しだけ青い空。未来は、現実よりも少しだけ白い歯。未来は、現実よりも少しだけ幸福そうな人生。列挙していて笑ってしまう、愚の骨頂だ。そんなものあろうはずがない、朝の寝起きのような無防御の顔つきで、スクランブルエッグといって、いざ食べたら鶏になってしまうのだ。信じられるかい、でもその論理的な矛盾を、信じるとも信じないとも言えないでいることが、何かが欠けている状態を象徴しているように見えた、昨日までの世界だ、あるいは昨日に住んでいる僕自身を、だ。世界は止まっていない。止まっているのは、僕だけだと思っていた。しかし本当にそうなのだろうか。地球は赤道上で、時速約千六百七十キロメートルの速さで自転し、秒速約三十キロメートルで太陽の周りを公転している。太陽系そのものも銀河系の中を移動し、銀河系さえ局所銀河群の重力の中で流れている。宇宙には、静止という状態は存在しない。それなのに人間だけが、立ち止まっているという錯覚を抱く。もしかすると、不安とは速度の問題ではなく、座標系の問題なのかもしれない。何を基準に現在地を測るか。誰の地図を見て、自分の位置を決めるのか。その違いだけで、迷子にも旅人にもなれる。答えは幾つもある、でもそれを選ぶ自分は一人しかいない。未来について考えてみる。それは空白ではなく、まだ名前の付いていない地形。それは余白ではなく、これから測量される盆地。未知とは、欠落ではない。未踏なのだ、と。自分の足の裏で、まだ誰も踏み固めていない地面を、確かめてみる。ガタガタな道でもいいから。舗装されていない砂利道、雨上がりでぬかるんだ土、雑草が伸び放題の空き地の端っこ。足首まで泥が跳ねても、靴の底がすり減っても、それでも、ここを通ったという感触だけは、確かに残る。スケールが変わることで、意味の配置も変わる。音は遅れて届き、光は先に届く。遠方の高速道路は光の線となり、近景の草は触覚を伴う存在として立ち上がる。心理学者カール・ロジャーズは、人には自己実現へ向かおうとする傾向性が備わっていると考えた。脳科学者アントニオ・ダマシオは、意思決定には感情が不可欠だと論じた。経済学者ダニエル・カーネマンは、人間がいかに非合理な近道を選びながら判断しているかを示した。分野は違っても、彼等が見つめていたのは同じ問いだったのかもしれない。人は、何を頼りに一歩を選ぶのだろう?住宅街の裏手、工事予定地のフェンスの隙間から、細い獣道みたいな小径を抜けていくと、急に視界が開ける。そこには、背の低い草が一面に広がる斜面と、ところどころに立っている、細い木々の影。夕方の光が斜めから射し込んで、草の先端に小さな金色の輪郭を描いている丘。そこに立ちながら、街の輪郭が、いつもと違う角度で見える。駅前のビルの看板、遠くの高速道路を走る車の列、学校のグラウンドの白線、それらが、少しだけ遠くに、少しだけ小さく、でも、ひとつの風景として繋がって見える。風が、頬を撫でていく。景色はいいけれど、特に何かがあるわけでもない。それがいい。何もないことが、ここを特別にしている。何処にいたって人は同じ場所にいる。だからそこは美しいのだ。写真や絵にすると、どうしても別の何かになってしまう気がする、この場所の空気や、風の温度や、鳥のさえずりの間隔や、草の匂いは取り込めない、目を瞑りながら空気の中をまさぐるような感覚を、否定することになる。言葉だってそうだ、言葉は万能ではない。地図の正確さよりも、自分の身体が覚えた感覚の方が重要だ。定規で引いた直線ではなく、手の震えがそのまま反映された少し歪んだ線でいい。間違えた角、行き止まりの路地、引き返した踏切、それらの点が、折りたたまれた地図帳の中で静かに輝き、自分だけのナビゲーションとなる。考え続けているだけでは、現在地は更新されない。一歩歩いて、ようやく座標が変わる。もう一歩歩いて、ようやく景色が変わる。さらに歩いてあるいて、「ああ、あの場所はこういう形だったのか」と、事後的に俯瞰して振り返ることができる。未来は前方にあるのではない。おぼろげな流れで、その二つが融け合い、歩いた距離だけが、背後に地図として現れる。遠回りの価値は、最短経路問題では評価されない。しかし探索アルゴリズムにおいては、ランダム性が新規解を生む。地図はまだ描きかけで、余白が多く残っているが、確かに少しずつ輪郭が定まり、色が加わっていく。姿勢を正して、窓の外を遠く眺めてみる。スタンドライトの光が、少しだけ強くなったように感じる。窓の外では、夜がゆっくりと薄まり始めている。遠くで、始発電車の走る音が聞こえた気がする。未来、その言葉を、これからあと何回呟くだろう、僕等はもっと遠くまで行けるのか、そしてそこに答えがあるのかを、何度も問い掛けては眠りに落ちるのだろう。何年後か、何十年後かの自分がもしいたら、こうして机に凭れて何か考えている所を、後ろから、そっと行って、肩に手を掛けるか冗談半分に首を絞めるか、それとも蹴りの一発でもいれるか、「そんなに考えることがあるかい?」とでも軽く言ってやりたい夜の終焉。紙はもはや白ではない。そこには線があり、時間があり、意思がある。その線を増やしていくことが、生き方になる。線が交差する場所もあれば、平行に走る場所もある。途切れる場所もあれば、何度もなぞって太くなる場所もある。それらの線は、すべて、自分自身の軌跡だ。失敗も、訂正も、破棄も、もう、知っている紙。真っ白だった、あの、無傷の平面は、いつのまにか、歩いた分だけ、汚れて、生きて、僕のものになっている。それでも、次の線は、まだ存在しない。しかし、存在しないことが、選択可能性の総体として広がっている。でもほら、夜明けが、もうすぐそこまで来ている。
2026年07月05日

* 百二十メートル先の信号が青から黄色へ変わるまで、あと二・三秒、 そんな情報が、視覚と同時にテロップのように流れ込む。 タクシーのヘッドライトが通り過ぎるたびに、影が長く伸びて、 また縮む。まるでペルシア細密画の金箔のように、 光と闇の境界が、幾何学的に揺らいでいる。 舗道のアスファルトは骨材の粒径が不均一で、 靴底越しでも粗さがわかる。 だがその情報は、足底のメカノレセプターから、 一次体性感覚野に届いているにもかかわらず、 「冷たい」という語に変換されない。 複数の物語場面が一画面に共存しているのに、 どの場面も、主語を持たない。 代わりに浮かぶのは数値だ。 温度。距離。時間。 ナンバープレートの数字が一瞬で分解され、OCRのように脳内で処理される。 * 、、、、、、、、、、、、、、、 不完全なものが主客を入れ替える、 、、、、、、、、、 、、、、、、、 それを疑う余裕さえ、今の僕にはない。 * 駅のホーム。 人工照明だけが空気を支配し、冷えた手すり、 (心拍数、呼吸数、脳波の振幅、画面の明るさ、 通知の頻度、広告の表示回数。すべてが緩やかに上昇していく。 だがその中で、僕自身だけが言葉を知らなくなっていく―――) 湿り気のあるコンクリート、鉄と埃のにおいが漂う中、 僕だけが不自然な輪郭を持って震えている。 (辞書を開いても、検索窓に文字を打ち込んでも、 どの言葉も自分の感覚にはぴったりと貼りつかない。 「寒い」という文字の意味はわかっても、 今足裏から伝わる冷たさを「寒い」と呼ぶことに、 どこか違和感が残る。名前のついていない、新しい感覚だけが、 僕の内側で膨らみ続けている。) * * 葬/儀/場/の/白/い/菊 祭/壇/の/上/の/照/明 (も、)棺の中の静かな顔。 (も、)死のイメージ。花と光。 * ログインセッションは、タイムアウトした。 再認証が必要です。パスワードを入力してください。 そのメッセージだけが、画面の隅に、薄く残っている。 ログインセッション。 それは自分自身を証明するためのプロセスだ。 しかし、そのセッションがタイムアウトしている。 再認証が必要だと言われても、 自分自身を何によって証明すればいいのかわからない。 パスワード。どんな意味だ、どんな比喩だ。 指紋。顔。声。それらはすべて、 今の僕には何の証明にもならない。 、、、、、、、、、、、、、、 デフォルトモードネットワークが完全に沈黙し、 、、、、、、、、、、、、、 エグゼクティブネットワークも、 、、、、、、、、、、、 サリエンスネットワークも、 、、、、、、 すべてのネットワークが停止したように。 * * 立毛筋が収縮し、鳥肌が立つ。 皮下脂肪層の厚さが、熱伝導率を変化させ、体感温度をさらに低下させている。 欠如の確信は、陽性症状ではなく陰性症状として現れる。 統合失調症の陰性症状に似た、感情の平板化、意欲の減退、社会的引きこもり。 しかし、それは病理ではなく、ある種の覚醒の形態だった。 自己言及のループが切断される。 デカルトの「我思う、故に我在り」の確信が、言語的な自己同一性を失う。 前頭前野の内側部と外側部の間で、自己関連付けの処理が停止する。 デフォルト・モード・ネットワークの活動が、 自己言及的な思考から、感覚処理へとシフトする。 ユーザーインターフェースのアフォーダンスが消失する。 ボタンは、押すことを示唆しなくなる。 (世界は相変わらず鳴り続けている。 地下鉄の振動、遠くの車の音、風の通り抜ける音。 すべてが存在している。だがそれらは、 ただ空気の振動として鼓膜を通り過ぎるだけで、 心に届く前に意味を失っていく) テキストは、読むことを要求しなくなる。 (ビリヤードの球の材質は、フェノール樹脂。 衝突音の周波数特性は、球の材質と大きさに依存する。 象牙の数珠の材質は、リン酸カルシウムとコラーゲン。 擦れ合う音は、表面の微細な凹凸が、互いにこすれ合うことで発生する。 硬質なもの同士が、一瞬だけ、接触し、 その後、別々の方向へと転がっていく。 衝突の力学。運動量保存則。エネルギー保存則。反発係数。 衝突の瞬間、二つの物体は、変形し、弾性エネルギーを蓄える。 その後、そのエネルギーが、運動エネルギーに変換され、 物体は、別々の方向に飛び去る。 この一連の過程は、数ミリ秒の間に完了する) スクリーンは、単なる物理的な物体として、そこにあるだけになる。 (そこにあるだけのものなんて存在しない) * * 『グレート・ギャツビー』の文庫本が、表紙を下にして伏せられている。 出版社は新潮社、翻訳は野崎孝、ISBNは4-10-205201-1。 ページの紙質は、経年により黄変し、酸性紙の劣化による脆さがある。 表紙のデザインは、目玉と光る看板のイラスト。 背表紙の糊が劣化し、ページが剥がれかけている。 ページの間から、過去のパーティーの音楽。 シャンパンの泡、壊れた約束、消えた光、 そうしたものの残響だけが、薄く漏れ出している。 1920年代のジャズの断片、チャールストンのリズム、 フローレンス・ミルズの歌声、アイリッシュ・ウイスキーの樽の香り、 (進化論の教科書に載っていた、樹形図。 魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類。 その枝の一本に、僕等の祖先の名が、小さな文字で記されている) 禁酒法時代の密造酒の粗い味、ロングアイランドの夏の湿気、 イーストエッグの灯台の光、 (系統樹の分岐点。約6億年前のカンブリア爆発。 約4億年前の四肢動物の上陸。約2億年前の哺乳類の出現。 約6500万年前の恐竜の絶滅と哺乳類の適応放散。 約700万年前のヒト科とチンパンジー科の分岐。 約20万年前の現生人類(ホモ・サピエンス)の出現。 それらの時間の深さが、一瞬のうちに、視覚化される) それらの記憶の断片が、紙の繊維の間に閉じ込められている。 (起源の夢、最初の細胞、最初の呼吸、最初の光、最初の声。 生命の起源。約38億年前の原始スープ。 最初の自己複製分子。最初の細胞膜。最初の光合成。 最初の多細胞生物。最初の神経細胞。最初の意識。 それらの「最初」が、 夢の中で、同時に、現在進行形として現れる。) 、、、、、、、、、、、、、、、、、 ―――それが夢だと本当に思っているのかい? So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past. (かくして我々は漕ぎつづける、 流れに逆らうボートのように、 絶えず過去へと、押し戻されながら。) ▉▉▉▉▉ □□□□□□□□□□□□□[必要のない階段] (を、)『価値のあるオブジェ』に。 □□□□□□□□□□□□□ (頭の中の神経繊維を撫でられたような気がした、 エマージング・ディジーズ・・・) □□□□□□□□□□□□□ 「外の対象」ではなく、 『内の体験』を。 □□□□□□□□□□□□□ エ、ヲ、 ▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒ □□□□□□□□□□□□□ 足りないオツムの中で、 しょうもない、 足りないのはオムツなんでしょ、 言っててしょうもなくなるような、 □□□□□□□□□□□□□+ ロック解除【PROTECT】 □□□□□□□□□□□□□―――【ACCESS】(Type in the code)“Please enter your password here”―――****―――████《許可シマス》(「ACCESSが承認されました」) □□□□□□□□□□□□□ エ、ヲ、 ░░░░░░░░░░ Everything 「心の理論。他者の内側を推定するあの機能が、 いま、片側だけ、断線している。 何かが「ある」ことへの不安ではなく、 何かが「ない」ことが、あまりにも確実だという、 静かな確信のほうだった。 is (ルイ・アルチュセールが言った、 あの「おい、そこの君!」という呼びかけ、 呼び止められて振り返る、その振り返りによって、 初めて主体になる、という――その呼びかけが、 いま、僕にだけ、届かない。画面は僕を呼び止めない。 だから僕は、振り返るべき「僕」を、持てない。 認証という行為が、いまは、耐えがたいほど虚しく感じられる。 wrong. * *
2026年07月04日
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