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間近で見た歌姫たち早朝に行政区の世話役から携帯に電話が入った。もしや何処かの家で不幸でもあったのだろうか。恐るおそる 「何かありましたか?」 と訊ねると 「今日の夕方から時間があるかい」須賀川市文化センターで 『BS 日本のうた』の公開収録があるという。岩崎芳美、クミコ、伍代夏子、夏川ルミ、美川憲一他13名の豪華メンバーが出演する。しかも前から2番目の中央の席を確保したという。昨夜から徹夜で並んだそうだ。「行きます! 行きます!」 二つ返事だ。岩崎芳美の 『タッチ』 から始まり、クミコさん、夏川りみさんの心あらわれるような澄んだ歌声に聞き惚れた。ドラマに感動するようにゾクッと鳥肌がたった。歌って、こんなにも心地好かったんだ。清涼剤のように爽やかな気持ちにさせていただいた。歌番組の収録なんて初めての体験で、左右のカメラ、舞台上のカメラの動きの見事さにも驚かされた。特に舞台下のカメラの動きは曲に乗って滑らかで華麗だ。収録が終わって客が席を立って出るまでカメラマンはお辞儀をしておられた。感激して 「テレビの映像が、こうして作られていたんですね。見とれてしまいました」 とお礼を伝えると 「いいえ、観ておられる方の邪魔になってしまい申し訳ありませんでした」きっと、この番組だけでないのだろう。スタッフの誠実さに終わってからも温かな気持ちで家路につくことができた。世話役さんありがとう! そしてNHKさんにも感謝!皆さんも7月10日(日)午後時30分~8時58分 観てね。 文化センター側を流れる
2011年06月30日
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我が家に 新しい生き物の仲間がずーと以前に鶏小屋作りをこのブログで紹介したことがある。最初に作った犬小屋や薪置き場に比べて、我ながら数段、出来が良いと思った。犬小屋と言っても、どうひいき目に見ても、ただ箱を横に置いただけの代物だったし、今にも落ちてきそうな波板で被っただけの薪置き場だったから、数段上と言ってもたかが知れている。鶏小屋が完成して直ぐに雛を購入した。だが温度管理がうまくいかず10日程の間のうちに次々と死んでしまった。これはかなりのショックだった。雛から飼うことの難しさを痛感させられた。あれから2年経った。昨年の秋にJAへ予約しておいた雛がやって来た。今度こそは死なせてなるものかと、巣箱に電球による暖房、サーモスタットの温度調整と準備万端の備えをした。4月上旬に引き渡される予定だったが、原発事故が起きたために一月半ほど雛が来るのが延期された。この遅れが幸いした。今回の鶏は前に来た雛の2倍も大きく成長した立派な若鶏だった。用意した雛箱は小さすぎて役立たなかった。大きい体格で見るからに寒さ知らずで強そうだった。鶏が来てから2週間経ったが、元気に餌をついばんでいる。有精卵がいいので雄1羽を入れて雌5羽の家族。これはハーレムと言うのかなぁ、それとも女人天下と申しましょうか(笑) ブンブンブン 蜜の音こっちは何千匹の仲間だ!!昨年秋に、知り合いの I さんが今度分蜂(ぶんぽう)したら養蜂箱を持ってきてやるからと言ってくれた。先週、何と三段も持ってきてくれた。箱の中に女王蜂がいて、箱の下の小さな出入り口付近に何千なのか、どのくらいいるのだろう、引っきりなしに働き蜂が飛来している。この養蜂箱は、彼の家の山の杉木を切り倒し、製材所に出して板にしたものを手作りしたものだ。設計図をいただいたので自分でも作るつもりだったが、生来の親譲りの不器用さもあって、大雑把な鶏小屋ならいざ知らず、こういう細かな細工は無理だろうなぁと諦めていた。前にも書いたが、彼は時々、訪ねて来てくれて、一人暮らしの僕の安否を確認してくれる数少ない友人だ。秋にくれる大根や白菜は、それはそれは見事なものだ。こういう人と知り合えたからこそ、知らない土地で6年目を迎えることができたのだと思う。感謝。
2011年06月25日
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知る人ぞ知っていた 原発の危険震災から三日目(3月13日)に連れ合いと一緒に山の家に戻った。帰りの車の中で原子炉からの放射能物質が漏出していることを知らされた。避難所で連れ合いの隣に、たまたま居合わせた紳士然とした人が、早朝に避難所を出て行ったという。その前日に、その人が部下か同僚かと原発事故が最悪の場合は爆発する危険があるから一刻も早く遠くへ避難しようと相談していたという。ラジオでは死者や行方不明者、各地の被災状況、電気や水道といったライフラインの情報が刻々と伝えられたが、原発の事故の情報は無い。単一ラインの情報は限られていた。連れ合いからの話で急に原発から出た放射能の問題が現実味を帯びてきた。その日の夕方に電気が通じた。TV画面の上の方に3つ、4つとテロップが流れ様々な情報が同時に流れていた。テレビからの情報の何と豊かなことか。初めて津波の押し寄せる画面を見た。ラジオで聞いて想像していたものとあまりにケタ違いだった。身体がワナワナと震えた。インターネットは情報の宝庫 芋ずる式に知りたい情報に辿り着く原発事故の状況も伝えていた。だが解説する人が淡々と話しているので、その非常さが伝わって来ない。 「外出するときはマスクを着用して帽子を被ってください」 「換気扇は使用しないでください」 いったいどれほど危険なんだろう。 「直ちに健康に影響は及ぼさない」 直ちにじゃなければ将来は危険があるのだろうか。原子炉の事故の状況を解説する専門家は不安を押しとどめるように、危険性を低く評価するような説明しかしない。アナウンサーも物静かだ。水素爆発のときもあまりに冷静沈着に報道していた。こういうときは、もう少し感情を込めて、ちょとときつめに危険ですから部屋のなかに避難してください!!と言ってくれないとと危機感が伝わって来ない。インターネットで情報を探し回る。避難地域の10キロ、20キロの同心円が目に入る。我が家は第一原発から何キロ地点なのか、地図で計ってみると45,46キロある。20キロ圏内は避難地域だという。大丈夫だ。まだ20キロ以上あると自分を安心させる。ところが調べていくと、放射線物質の汚染範囲は風向きや山の起伏に影響しているという。国が公開していた放射線量の情報でも北西方向30キロ、40キロ地点が高く、50キロ、60キロ地点でも高い所がある。ところが当初は具体的な地名が記されず伏せられていた。北西というと自分の住んでいる方向だ。中途半端な情報公開は余計に疑心暗鬼をよび不安をかき立てる。地名が出たのはだいぶ先になってからだった。インターネット言うのは情報の宝庫で、ある人のブログやホームページ、twitterから芋ずる式に情報の輪が広がり、突き進んでいくと凄い情報にぶち当たる。Speediという汚染予測開発ソフトがあるらしい。さらに一部が公開されているという。3月の下旬に漸くのこと、色分けした地図にたどり着くことができた。さらに放射線関係や宇宙物理学の研究者たちが、さまざまな形で情報を分かりやすく加工し発信してくれていた。Speediの地図の上にモニタリングで公開されたデーターを重ねてくれた人もいた。自分の住処は何処だ!地図上で探す。北西に高い線量の地域が広がっている。先ず浪江、そして飯舘だ。さらにその先に若干高い福島市が広がっている。我が家はその間にある。ホットスポットならぬ若干クールスポットになっていた。私が情報源にしたtwitter。今でもタイムリーな情報がいっぱいある。http://twitter.com/#!/hayanohttp://twitter.com/#!/Mihoko_Nojirihttp://twilog.org/tweets.cgi?id=AkiraOkumura&word
2011年06月23日
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連絡のとれない不安東京の家から昨日、父の日に梅ワインの詰め合わせが届いた。地震と原発事故以来、連れ合いには一度だけ来てもらったが、それから、かれこれ2ヶ月ほど会っていない。その分、毎晩、欠かさずに小一時間ほど電話で会話を楽しんでいる。一緒にいる時は改まって話すことはなかったが、離れて暮らすと不思議なもんでメールにしろ電話口での会話にしろ結構話すから面白い。連れ合い曰く、私のボケ防止だそうだ。 梅ワインの『梅うふふ』 名前が素敵だ地震のあった日に、携帯ラジオでは東京でも相当に大きな地震であって何人かの死傷者が出たと伝えていた。また当日の新幹線が途中で立ち往生したというのもラジオで聞いた。携帯電話をいくらしても東京の娘とも東京に向かっていたはずの連れ合いとも連絡が取れない。ケガでもしてないか、新幹線が止まり進退きわまっているのではないか、連絡が取れないと余計に不安にかられてしまう。震災のあった翌日、意を決して連れ合いを探しに出かけることにした。町で災害時の仮設電話でも設置しているかと地元の役場に出かけたが、職員は浮き足立っていて肝心な情報は何もなく、まともな対応もしてくれない。隣接している市の分庁舎車を走らせると、発電機が稼動していた。公衆電話が使えると職員が親切に対応してくれた。だが、やはり東京の家の電話にも連れ合いや娘の携帯にも通じなかった。福島市に向かったが、隣の町も市も何処もかしこも停電だった。給水に列をなしていた。福島駅に行ってみたが、構内が地震で崩れていて危険なので入り口が閉まっていて入れない。AUの販売店に行けば携帯電話の上手い操作方法を教えてもらえるかもしれないと行ってみるが、特段上手い方法はなく、今は掛かりにくくなっているので繰り返し掛けるしかないと言う。途中の駅まで行けば情報がもらえるかもしれないと次の駅、また次の駅・金谷川と向かうが駅員がいても情報が入っていこないと、すげない返事しか返って来ない。途方に暮れる。腹が減ってきた。そういえば昨夜から飯らしい飯を食べていない。金谷川という駅は福島大の最寄駅で家からも20分ほどと近く駅前に無料の駐車場があり比較的多く利用している駅だ。広場の横に学生向けの食堂が開いていた。待っている間に所在なく携帯に電話を電話していると、な なんと!連れ合いの携帯に繋がった!!東京の娘は無事だという。連れ合いは怪我もなく避難所にいて炊き出しのにぎり飯や温かな味噌汁を頂いたという。夕方にでも新幹線が動くだろう、このまま待っているから心配しないで大丈夫だという。このときは、その程度で、すぐに復旧するとたかをくくっていた。あにはからんや、新幹線が開通したのはそれから一月も先のことだった。その時は、そんこととは思いも及ばず、ホッとして帰宅した。その日の夜のラジオのニュースで新幹線は当分は動かないと報じた。これは明日にでも郡山に迎えに行かなくては。翌早朝にディーゼル車で出発。これが正解だった。既にガソリンが不足し始めていたが軽油は若干売られていた。帰りに何ヶ所かのスタンドに立ち寄って10リットルずつ軽油を注入できた。既に高速の東北道は一般車は通行できないとニュースで伝えていた。国道四号線も途中で通行できない箇所があるかもしれない。裏道を通って三春の近くまで行って4号線に出よう!このときは原発事故のことは全く頭になく、結構高い放射線の値の所を通って行った。郡山駅についたが何処に避難所があるのか皆目分からない。駅構内の派出所に訊くと駅前のビルにもしかしたら避難しているかもしれないとのこと。入口の受付に名簿があった。けっこう沢山の人が避難しているようだ。名簿が何分冊にもなっている。一通り見てもいない。他の避難所なんだろうか。諦めかけていたら受付の人が居ましたよ!と見つけてくれた。避難所は大小何部屋にも別れていた。どの部屋の人もダンボールを下に敷いて横になったり、座っていた。みな憔悴しきっていた。4っつ目の部屋の奥で連れ合いは座って横の若い女子と談笑していた。鼻の奥がツーンとした。胸が高まった。嬉しかった。
2011年06月19日
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3月11日 運転中に地震に遭遇3.11から100日が経過した。原発の事故の収束がつかず放射線に怯える毎日で、未だ私の中では地震と原発事故は終わっていないが、ようやく気持ちの上で整理がつき始めた。東京に戻る連れ合いを福島市内へ送っていった帰り道、ラジオで緊急地震速報が流れた。車を止めると直ぐに揺れ始めた。はじめはゆっくりと、だが直ぐに激しく横揺れがして、次いで縦にドスンガタガタと激甚な揺れが続く。車が横転するのではないかと不安になるほどだ。街路地や街灯のポールがグラグラ烈しく揺れ、電線がブルンブルンと波打っている。停車しているのに知らず知らずのうちにブレーキを目一杯に踏んづけていることに気がつく。前に体験した震度3や4の地震と違って揺れる時間がすごく長い。ようやく揺れが収まり走り出す。しばらく行くと信号が点灯していない。地震で電気が停まったようだ。角のコンビニの店内も真っ暗だ。交差点でスピードを落とし譲り合いながら右折する。余震なのか時々揺れを感じるので直ぐに停車できるようにスピードを落とす。前の車も後の車も同じようにゆっくり進んでいる。いつもだと15分くらいで行ける道が30,40分ほどかかった。町に近づいた。途中のセブンイレブンやローソンはどこも真っ暗だ。6軒ほど集中している大型店舗も店内が暗くシャッターが降りていたり、臨時に休業している。トンネルが近づいた。不気味だ。中は真っ暗な黒い穴を開けている。以前、奥尻の地震でトンエルを走行中に地震で落盤して生き埋めになったニュースの場面が頭を過ぎる。灯りのないトンネルは底気味悪い。何事も無く通過できてホッとした。なんとか無事に我が家へ通づる林道にたどり着いた。だが、ここからが気掛かりだ。途中、土砂崩れがあるに違いない。暫く行くと案の定、土砂が堕ちている箇所に何度か出くわした。幸い、通れないほどの土砂崩れはなく大岩でも1メールほど、殆どは30~50センチほどの塊だ。ぬうようにして先に進む。さらに行くと5~20センチほどの幅の地割れが口を開けて4メートル程斜めに舗装道路を横断している。行くか引き返すか迷ったが、家が壊れていないか、動物たちは大丈夫なのか心配で突破する。家に着き、まずは下の駐車場の横のYaeの小屋を覗く。いつものように "腹を空かしたとヨ" とエサを催促している。犬小屋の前でクウガ飛び跳ね迎えてくれた。クウは地震が相当に怖かったのか犬小屋の脇のイチジクの小枝を数本折って、その先で前足の脇腹を傷をつけていた。幸い大したことはなさそうだ。家も崩壊せずに立っていた。家の中に入れておいたチュウはドアを開けるなり ニャオー と擦り寄って片時も離れようとしない。部屋のテレビや茶箪笥、冷蔵庫、パソコン等は固定しておいたので倒れず無事だった。ただ積んで置いた本棚の中の本がバサッと落ちていた。2階の押入れのドアが開いて、棚の上から予備の毛布の入った箱が毀れ落ちていた。どの部屋も大きな被害はほとんどなく済んだようだ。ずーと後に気がついたのだが土蔵の壁も2×3メートルほど崩れていた。その日から三日間、停電が続いたのはしんどかった。最初の夜は暗闇の中の余震が怖く家ノ中に居るのが恐く、車のなかに布団を敷いて過ごすことにした。中で横になっていると隣の家のお兄さんが一緒にいかがですかと声をかけてくださった。お陰で隣人の家族の4人と暖かい炬燵で夜を過ごせて安心した。余震がある度にローソクの灯を消して皆で一緒に飛び出した。余震におののきながらの一夜が明けた。電気が通じないから携帯ラジオが唯一の情報源だ。どうやら地震の規模も震度や津波の被害は相当なものらしい。数日後、電気が通じるようになってテレビの映像を見て、そのひどさに度肝を抜かれた。自分の想像をはるかに超えるものだった。
2011年06月19日
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