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小手姫うどんお隣の伊達市月舘で6月から月に1度ずつ開催されている手打ちうどん教室に参加している。講師は自然食料理研究家で地元の食材を使った郷土料理を開発し、教え続けている 『 よーこばっぱ 』 こと 本田 洋子 さん。参加者は10名ほど。その中に僕を含めて団塊の世代とおぼしき男性が3人混ざって悪戦苦闘している。食材は、この地で栽培した小麦「きぬあずま」を漂白せずに使っている。500gの「きぬあずま」に食塩水 1カップを三度に分けて加えて混ぜ、こねる。この塩水、ひと月前に作り置いておく(水220~300ccに天然塩20~25g)のがコツだそうだ。この水加減が初心の身には難しい。『よーこばっぱ』が順繰りに回ってきて指導してくれる。子どもたちにも教えているだけあって 「あなた上手よぉ そうそう それでいいわよ 」 褒め上手だ。生地をボール状にまるめて、ビニール袋に入れて足で踏み、取り出して丸めて又踏むを3度ほど繰り返してビニール袋にいれて30分ほどねかせる。ねかせている間に特別講座が設けられているのも楽しみだ。初回は、この生地を三分の一ほど使ってピザを焼いた。色とりどりの具やチーズを乗せて焼けたピザを交換しながら頬張る。どの顔も笑みがこぼれている。二回目は野菜やハーブを使ったピクルス作りだ。「よーこばっぱ」が作ってきてくれたピクルスを味う。 打ち粉をふった麺台に生地を押しつけながら20cmくらいまで手で広げる。いよいよ麺棒で伸ばす。初心者には、たまに見かける手打ちうどんのデモンストレーションのようにはなかなか上手くいかない。始めに横に筋をつけるように押しつけながら伸ばしていき、次に縦にして、それを繰り返す。大きく広がったところで棒に絡めて丸めていき厚いところは掌で均等にしながら、これまた縦横繰り返して厚さ1.5~2mmほどに伸ばしていく。伸ばした生地を3~4つに折りたたみ好みの太さに切る。1回目は細かったり、太かったり、途中で切れて短かったり、大きさはまちまちだった。茹でるとホウトウのようだったり、ふかふかだったり、どう見ても手打ちうどんとはほど遠いものも多かったが、かま揚げ仕立てのを水に洗いネギの薬味と麺つゆのだけの素うどんの味は格別で、シコシコ感もあって、それはそれは美味かった。 1回目と違って2回目の教室ではみんな格段の進歩で、ぐーんと手打ちうどんらしくなった。8月は3回目、さてさて、どんな手打ちうどんができるのか今から楽しみだ。1回目よりも2回目と段々仲間との会話も弾み、9月の終了が寂しくなる。終了したら伊達市の祭りでみんなで腕前を披露するらしい。その前に自分の集落の高齢者サロンで味わっていただこうと話している。
2011年07月27日
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気分転換になった 浄土の世界原発事故以来、草が生えるに任せていたら庭の夏草は背丈ほどになり廃屋然として、ちょっと見た感じでは人が住んでいないような趣だ。これはこれで粗末な家に似合っているし、また見えぬ放射線の汚れに似つかわしいような気がしていた。何よりも此処に棲み心がうらぶれてしまった家の主に相応しいものだった。ところが、先週、連れ合いがやって来て、見るに見かねて三日かけて庭やアプローチの草刈りをしてくれた。草に隠れていた花が顔を見せ、一見すると普通に戻ったようは感じがしないでもない。だが、線量計をおけばあの機械音が鳴りっぱなしだし、荒んだ気持ちに変わりはない。そういえば、あれ以来ずーと放射線量を気に掛ける毎日だった。此処に居ること事態が心にストレスをかけ、知らず知らずのうちに気が滅入ってしまっていたようだ。テレビで世界文化遺産の話題が上っていた。 「 地上の浄土かぁ どんな処なんだろう 行ってみたいねぇ。」 どうしてもというよりも、何気なしに出た言葉だった。 「 一度行ったことがあるわよ そうねぇ 明日 行こうよ!」 こういうときの 阿吽の呼吸はありがたい。 中尊寺 木陰から見る金色堂藤原清衡は仏教による平和な理想郷をづくりに着手して、その理念は三代にわたって引き継がれたが、毛越寺をはじめ無量光院、その他数多の寺塔や御堂は度重なる火災や戦で失われてしまった。創建当初の建物で残っているのは鉄筋コンクリートで守られた金色堂のみと言われている。これとていつかは失われるのだろう。でも考えてみれば、この世にあるものすべてが千変万化し、諸行無常なんだという仏教の教えそのものの体現した姿なのかもしれない。僕にとっては 里山の自然の中での生活は理想の姿で、ある意味で浄土の世界の筈だった。その想いは脆くも簡単に打ち砕かれてしまった。 芭蕉の真筆と言われる句碑 夏草や 兵どもが 夢の跡 がとても身近に感じられた。 今朝また大きな地震があった。震度5弱と言う。ここでも震度4で大きく揺れた。
2011年07月24日
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力になった 心遣いや思いやり電気が通じ、それに伴って電話もパソコンも使えるようになり、郵便も届くようになると、友人や兄姉、昔の同僚や仕事関係でお世話になった方々、こちらのブログの訪問者たちから多くの心のこもったお見舞いの言葉を頂戴した。一つ一つの思いやりや心遣いが打ちのめされた気持ちにとても大きな力になった。心からお礼を申し上げます。その中で特に勇気づけられたのは学生時代の友人が愛知から新幹線を乗りついてわざわざ足を運んで来てくれたことだ。4月下旬で連日マスコミは放射性物質の汚染を報道し、記事に取り上げていた時に足を運んで3日も泊まって話し相手になってくれ、一緒に行動し時間を過ごしてくれた。日ごろは人一倍健康に気を配っていたやつだが、朝夕のクウやYaeの散歩を一緒にしてくれた。時間があると僕は原発事故当時のこと、放射線の健康への害についての不安、また汚染された土地での今後の生き方等について、これまで知り得た情報をもとに、気持ちを、想いを話し続けた。 桜を見に行った、近くの花工房に出かけ、県内の温泉に行き、ゆっくり湯に浸かって、また雑談に花を咲かせた。三日で帰る予定の所をもう一晩泊って行ってくれと無理を言って最後の夜も遅くまで語り合った。ほとんど自分ひとりでしゃべっていたかもしれない。心ゆくまで話すことができた。 それから少しずつ気持ちに張りというか、前向きな所が出てきたように思う。ブログの再開も、彼が後押ししてくれたような気がする。
2011年07月17日
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福島県民200万人調査 試算した1年間の外部被爆は4mSV+?遅ればせながら、国と県は県民200万人全員の被爆に関する健康調査を行うことになった。おっつけ問診調査票が送られてくることになっている。問題は4か月前の行動を書くようなのだが、その頃の記憶なんてはるか彼方ではっきりしない。自分で線量計で測った5月末以降の1年間の外部被ばく量を試算してみた。おおよそ4ミリシーベルトだ。でも分からない ”?” の部分がある。水素爆発が起きて一番大気中に放射性物質が多かった1週間から5月末までの線量と被爆量だ。この時期に福島市内へ移動したり、駐車場から最寄駅まで歩いたり、郡山駅まで移動していたり、何も知らずに家の外をクウと散歩をしていた。水素爆発をした当時の線量は15日午後2時台に山木屋で測定上限の1時間当たり30マイクロシーベルトを超えていたり、同6時21分には福島市立子山でも7.33マイクロシーベルト(福島民友) というから相当な量を被ばくした可能性がある。もう一つ確かな情報によると、比較的に早い時期に山木屋以外の川俣町のある地点でたまたま土壌を調べたデータがあって200万ベクレルの放射線量が計測されたという。不幸中の幸いだったのは、3月~5月にかけては花粉が飛び回っている時期だったので、花粉症の身でマスクを欠かさなかったのは幸いした。それにしてもすごく高い数字だ。以下の積算数字は、友人から借りたアメリカ製の「Inspector alert]で計測した数字をもとに試算した。この検出器はハロゲン冷却式ガイガーミューラー管で知り合いが『NPO測定器47プロジェクト 』から借り受けたものだ。ただ、まだ校正をしていなかったのでどれほどのブレがあるか分からなかった。過日、たまたま知った大学の研究者に校正をお願いした。6月23日に校正済みの日立メディカルAlokaのサーベイメーターTGS131を基準器にして、忙しい中を半日ががかりの校正を快く引き受けてくれた。 TGS131それによると、この『アラート』は、ほぼ精度が高く2.2μSv/時以下の値の時は1.03の係数を、2.2μSv/時以上の時は 1.2xー0.12で計算すれば高価なサーベイメーターと変わらぬ働きをすることが判った。5月下旬に一度、6月下旬にもう一回、部屋の中から、クウとの散歩道、各畑や田圃の畦、ビニールハウスの中、鶏小屋の中、クウやYaeの小屋の中、玄関先、庭、玄関の中、居間、台所、寝室、2階の窓の屋根をくまなく測定した。各地点4度の計測して平均を出して、上記の式を当てはめた。路上や雨ざらしの場所は1か月の間に、雨風で流れて数値は減少していた。畑や田は0.5~1.5μSv/時ほど下がって0,6~1,6μSv/時、剥いだ畑は0.4~0.6μSv/時だった。部屋の中は念入りに拭き掃除をしたので0.1~0,2μSv/時ほど下がり0.2~0.3μSv/時だった。屋根のある乾燥小屋、鶏小屋やハウスは変わらず0.3から0.5μSv/時を示した。これらの数値から、おおよその1年間の外部被ばく量を足し上げると 3975μSvだった。 (576μSv=0.6μSv/時×16h×60d 始め2ヶ月間の部屋での生活、263μSv=2.2μSv/時×2h×60d 始め2ヶ月間のクウの散歩、162μSv=0.45μSv/時×6h×60d 始め2ヶ月間の睡眠、2242μSv=0.35μSv/時×21h×305d 部屋の中、320μSv=0.7μSv/時×1.5h×305d 散歩、412μSv=0.9μSv/時×1.5h×305d 野良仕事)1年間に4ミリシーベルトというのは低い数字ではない。これに水素爆発の1週間の間、それ以降の2ヶ月間に受けた外部被ばくと吸い込んだ内部被ばく、さらには自給の野菜を加えると、どういう数字なるのか予断を許さないだろう。昨夜もNHKのクローズアップ現代で、県内の小さなお子さんを抱えた人が、避難地域でなくとも県外に避難する人が続出しているということを取り上げていた。此処の自分の住む場所の汚染状況の数字が分からないので余計に不安を呼ぶ。町では漸く自治会ごとに無料の線量計を置いて貸し出すという。後手後手な感じがする。
2011年07月14日
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買い物弱者を さらに追い込んだ震災こちらに来て痛感したのは車社会と言うこと。車がないと買い物もままならず、駅へ行って何処かに出かけることもできない。車が欠かすことのできない生活の一部になっている。だから車の運転ができない高齢者は、普段でも離れたスーパーや店に買い物に行けず買い物弱者となっている。そうした高齢者の一部は、スーパーや生協の「個人宅配・共同購入サービス」を頼りとしている。私も週に一度の「コープ福島」の個人宅配サービスを買い物代わりにしていた。ところが震災後、まったく機能しなくなった。それも再会するまでに二か月ほど時間がかかった。車があってもガソリンが売られていないから買い物もできない。幸い昨年作った米や味噌、ジャガイモ、沢庵、梅干し、ラッキョウ漬け、買い置きの缶詰め等々があって飢えることはなかった。だが、こうしたストックがないお年寄りはどうしていたんだろう。生協の店舗は、さほど遅くない時期に、他の大型店舗と同様に再開していた。店舗が開きながら、個人宅配サービスは一向に再開の目途が立たない。生活協同組合の主旨からいって、買い物弱者への心配りが余りに欠けているように感じた。生協本部に確認すると、店舗と戸別配達は別組織であるとのこと。大手コンビニエンスストアのローソンが全国ネットを活用していち早く本部の指示で全国的に東北のローソンの各店舗を支援していることをニュースで知った。生協は全国組織でなかったのか。協同組合だからこそ店舗と個人宅配サービスとの連携、大手コンビニエンス組織と同様に、いやそれ以上に全国津々浦々のネットの輪が広がるのではないかと訊ねるが、各県の生協は独立採算のため横の連携が取れてないという。理念と現実のギャップに気落ちさせられた。昨夜、仮設住宅での孤独死がニュースで取り上げられていた。同時に、買い物弱者の報道もされていた。阪神淡路大震災の教訓を生かそうと繰り返し言われてきたが、どこま活かされたのだろう、掛け声だけに終わっていたのならあまりに悲しい。簡単なパン焼き米を作りながら朝食はパンが多い。ふた月パンが食べられなかったのはきつかった。自衛手段というわけでもないが、自分でパンを作ろう! 時間はあまるほどあるし。てなわけでホームベーカリーを買い込んだ。セットに5分、焼き上がるまで4時間半ほど。強力粉やドライイースト、スキンミルクも半年~1年間分をストック。焼き上がる香ばしいにおいが何とも言えない。焼きたてのふわふわ、もちもち感 そしてモーニングコーヒー 美味いなぁ!
2011年07月12日
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連れ合いだけは 何とか東京へ3月13日の夕方に電気が通じるようになって情報が一挙に増えた。とくにWebサイトからの情報が増えるに従って、どうやら原発事故は予断を許さない厳しい事態に陥っているらしいことが徐々に解ってきた。最初の頃の私の頭には、まだ水素爆発が起こったことと放射線物質が漏れ出したことが結びつかないでいた。大した量の放射線物質は出ていない、遠くにいくほど薄まって行くから人体への影響を与えることにはならないという政府の会見での説明を真に受けていた。怖いのは格納容器が爆発することにあると思い込んでいた。放射線が体に悪影響を及ぼすことは分かっていても、それはレントゲン撮影の時のように一瞬の被爆さえ気をつければ済むと思っていた。家のなかに居れば飛んで来る放射性物資を直接身体に触れずにやり過ごせて大丈夫だろうとタカをくくっていた。だが時間が経つごとに深刻な状況にあるらしいことが分かってきた。連れ合いだけは、ここから出られるようにしなければ。気はせくが列車は止まっていて、いつ再開するかまったく見通しが立っていない。バスが仙台から新潟、山形をへ行くのがあるらしい。新潟まで行けば新幹線が通っている。仙台までの往復は軽油を満タンにしておいたパジェロでなんとかなるだろう。だが肝心の席は何日先までも満席状態だ。キャンセルがでないか二日間にわたってキーボードを繰り返し打ち続けた。願いは通ずるものだ。随分と先の日付だが1席だけ空きが出ているのにぶつかった。私は昨年から集落の皆さんと J A や役場との農事に関する連絡係の役割を仰せつかっていた。輪番とは言え他から入ってきた新参者を信頼して選んでくれた手前、役割を放り出して逃げ出すわけにもいかない。ましてこれから作付や放射線に関する様々な情報を伝えなければならなくなることが予想された。地域が避難することになるまでは一緒に行動しなければならないだろうと覚悟を決めることにした。チケット代の口座からの引き落としの手続きもすっかり終えた。ホッとしてテレビを見ているとテロップに、福島駅から東京駅八重洲口までの臨時の高速バスが出るとことになったと流れた。こちらのほうが新潟経由よりも速いし、もしかしたら出発日も繰り上げられるかもしれない。電話をするが一向に通じない。殺到しているのだろう。今度は電話をかけ続けた。百回近く掛けただろうか、諦めかけた頃に受話器口に女性の声が聞こえた。運が良かった。明後日の空きがあるという。予約を終えた。6時過ぎの出発なので、念のため早朝の4時半に家を出る。まだ売り場の窓口は閉まっていた。待っていると、あっと言う間に100人ほどの列が出来ていた。電話で予約番号が知らされていたが、中には、予約せずに待っていた人がかなりいて係員と押し問答をして混乱した。すぐ後ろで待っていた女性は南相馬から来たという。数週間後に結婚式を控えて南相馬に来ていて地震に遭遇したという。婚約者も、そのご家族も無事だったそうだ。バスに乗り込む連れ合いを見送ることができて、心底ほっとした。連れ合いも、その女性も並んで座っていた。
2011年07月09日
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