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意外だったのは、日ごろのハードワークを楽々こなしている同じ班の連中が、ことランニングについてはあまり得意ではなかったということ。私だって決して速いというほどではなく、まあ人並みより若干上という程度でしたが、タイムを計ると班の中では上位の方でした。しっかりと駅伝予選会のランナーに選ばれてしまいました。朝から8時間立ちっぱなし、動きっぱなしの仕事を終えたあとで、夕刻からランニング練習って、よくもまあ文句も言わずにやっていたなあと思います。いやたぶんブツブツ文句を言いながら参加していたのだと思いますが。しかし、いざ練習がはじまってみると、苦しいだけでもなくて、走ることが思いがけず気分転換になるということを発見しました。また、ラインの連中の多くは私と同様、嫌々参加させられていたという意味で、なんとなく共通の連帯感のようなものが生まれました。予選会本番は週末ということで、これでまた日曜日が一日つぶれたのですが、不思議とそれを恨めしく思った記憶はありません。練習の甲斐あって、我が班は優秀な成績を収めました。私も何番手かで走りましたが、二人抜いて、班の仲間から喝采を浴びたものです。本番の「サーキット駅伝」のメンバーには残念ながら選出されませんでした。万一本番に選ばれていたら、またその時点から練習漬けの日々が始まっていたので、結果オーライでしたが、サーキットの上を走ってみたかったなという気持ちもほんの少しあったのもまあ事実です。それにしても、このころの私は、部活をやっていた学生時代を含めても、もっとも足腰が鍛えられていたような気がします。太ももの筋肉なんて本当にパンパンでしたし、たまに東京で電車に乗っても、多少の揺れには微動だにしない位、下半身が安定しているのが自分でも判りました。工場実習の数少ない成果でしたね。もっとも、実習が終わって一年もしないうちにもとに戻ってしまいましたけど。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月31日
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実習期間が延長になると聞いて、一時はジタバタした私でしたが、結局現実を受け入れる以外の選択肢はなく、ラインで毎日毎日同じ作業を繰り返すだけの日々が再び始まりました。 とはいえ、実習の初めの頃と圧倒的に変わったのは、自分自身がラインの仕事に慣れてきたことです。土曜日曜の休日買い上げは相変わらず続いていましたが、仕事が終わって寮でバタンキューということもなくなってきていました。では、平日勤務が終わったあとの時間をいかに有意義に過ごそうかということが、楽しみになるはずでした…。ところが、また例によって、そうは問屋がおろさなかったのです。工場では、秋になると部門対抗の駅伝大会というイベントがあります。まずは予選会のような感じで、班対抗の駅伝大会が行われ、その中び一部の人間がさらに選抜されて、「サーキット駅伝」という本選イベントに出場します。サーキット駅伝とは、その名の通り、鈴鹿サーキットを走る駅伝大会のことです。工場プロパーの人たちにとってはサーキット駅伝に出場するというのはそれなりに栄誉なことのようでしたが、われわれ実習生にとっては、ハッキリ言ってどうでもいいことです。「いや~、仕事が終わったあとに練習なんて、大変ですね。がんばってくださいね。」「なにをひとごとのように言うとるんや。オマエも出るに決まってるやろ!」「ハァ?」というわけで、早番の終了後は、今度は毎日のように駅伝の練習に参加することになったのでした。実習延長にヤクザとのトラブル、交通事故、痔ときて、今度はマラソン。我に七難八苦を与え給え、って、私は山中鹿ノ助か…。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月30日
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今にして思えば、わざわざ東京まで帰らずとも、鈴鹿市内の病院に行った方が体に負担をかけずに済んだのになぁと思います。が、このときは、体調を崩して気弱になったのか、なぜだか無性に勝手知った地元の町に帰りたくなったんですよね。たまたま実家のすぐそばによく知られた肛門科の病院があったということもありました。帰りの新幹線の中や都内の電車移動なども相当大変だったはずですが、その辺のことは覚えていません。翌朝、さっそく肛門科を訪ねました。ベッドに横になるように言われて、友人が言っていたとおり、「フラスコのようなもので」グリグリと尻の中をひととおりかき回されました。大腸内視鏡や直腸触診などを日常的に経験している今となっていは、全く大したことのないことですが、当時の私にとっては、それなりに衝撃的(笑)な出来事でした。そもそも、工場実習が延長になられなければ、こんな思いをすることもなかったのにと、会社の仕打ちを改めて恨めしく思いました。医師はひととおり、診察を終えて、ひとこと。「痔核(イボ痔)だね。」「あんまり飲み過ぎるなよ。」処置としては、患部に軟膏を塗って、ガーゼをあて、ガッシリと絆創膏を止めただけでした。あとはたしか便通を整えるための漢方のクスリが処方されたと記憶しています。あれだけ痛く苦しい思いをしたわりには、あまりにあっけない診察結果でした。「まあ、あんまり酷いようなら、手術すればいいから。金曜日に来てもらって、翌月曜日には通常に戻れるよ。」そんなものなのでしょうか。痔の手術って、すごく痛いとか大変だとかよく聞かされていて、結構ビビッていたのですが。たしかに、これで、発作的な激痛いったんは収まりました。しかし、その後も大規模噴火こそありませんでしたが、小規模な痛みは継続的にありました。症状が出るのは、冷たい椅子に座ったりして尻や下半身が冷えたとき、ずっと同じ姿勢を強いられたとき、寝不足や体調不良などのとき、ストレスがたまっているときなど。その都度、対症療法的に軟膏を塗ったり安静にしたり、風呂で暖めたりして、なんとかしのぎました。冬場は尻のポケットに使い捨てカイロを入れたりして、とにかく下半身を冷やさないように注意していましたね。3月に実習を終えるときに、ラインの同僚たちが寄せ書きを書いてくれました。今でも実家に残っている、寄せ書きを見返すと、数人の同僚が「痔、大事にしてくださいね。」「痔が早く治るといいですね。」といったことをを書いていました。当時、私の痔疾は班の連中にもよく知られていたようです。前に書いたヤクザ絡みのトラブルは(その場こそ大変でしたが)どちらも実習期間中に決着しました。しかし、痔については実習終了後もずっと、それこそ20代から30代前半にかけて、長く苦しめられることになりました。鈴鹿での実習終了のあと、冬の寒さが厳しい宇都宮勤務になったのもツイていませんでした。今思い出すだけでも、スキー場でゴンドラを待っている間に痛み出したり、海外出張中に痛み出したり、会社で重要なプレゼンを控えた前日に痛くてたまらなくなったりと、いろいろ苦労しました。といって、日常生活に支障をきたすような酷い症状が出るのはせいぜい2〜3年に1度程度だったので、手術を受けようという踏ん切りもつかないまま、なんとかやり過ごしてきました。その後の私は痔とうまくつきあえるようになったというのでしょうか。私にとって、痔は体調のバロメーターのようなもので、寝不足が続いたり、暴飲暴食が続いたりすると、尻のあたりがモゾモゾとしてきました。そしてそれが出ると、日常生活でも節制を心がけるようにしていました。あと、家のトイレをウォッシュレットにしたのもよかったのだと思います。歩けないほどの痛みが出たのは、33歳のときに行った中国旅行で苦しめられたのが最後でした。こうして、その後激しい痛みが出る事もなく、長い年月が経過しました。ここ数年は、かつて自分が痔で苦しんだ事も忘れていました。ところが、昨年、すっかり過去のものだとばかり思っていた痔の痛みが15年ぶりに再発したのです。それはほかならぬ昨年の東日本大震災の当日、帰りの交通機関がなく、職場で一晩過ごしたときのことでした。それだけ精神的にストレスになっていたということなんでしょうね。まあ、かつて味わったような、歩けないほどの痛みではありませんでしたし、痛みと腫れも1ヶ月ほどで収束して、今はまたなんともなくなりましたけど、忘れかけていた痔が完全に治癒したわけではなかったのだということを改めて思い知らされました。また、今回の下血に際しても、医師は最初、「痔」だと疑ったらしく、痔の既往歴があるかをずいぶんと聞かれました。しかし、私はいわゆるキレ痔ではなかったので、過去出血した事は一度もありませんでしたし、今回のの下血は痔とはまったく関係ないとう確信に近いものがありました。いずれにしても、今回の出血とあわせて、刺激物や暴飲暴食、睡眠不足、過度なアルコール(笑)など、今後も気をつけなければならないということなんでしょうね。もうひとつ、自分が痔になって気づいたことがあります。それは、みな自分から口に出しはしませんが、想像以上に痔で悩んでいる人は多いということ。私が痔の話をすると、「実は俺も(私も)…」という人に今まで何人であったことか…。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月28日
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研修期間中、何人もの実習生が痔になったという話を聞いていました。秋が深まり、だんだんと冷え込んでくる上に、毎日同じ作業の繰り返しで血行が妨げられる。おまけにストレスや偏った食生活など、痔になる要素が満載だったわけです。私がいつも昼飯を一緒に食べていた実習生仲間でも痔になったという友人がいて、痛くて歩けなかったとか、医者にいったらフラスコのようなものを尻の穴からグリグリ入れられた、なんていう話を茶飲み話で聞かされていました。しかし、このときはまさか自分も同じ目に会うとは思ってもいませんでした。実習が延長期間に入り、秋も深まってきたころだったでしたから、11月頃だったと思います。その日、私は腹の調子が悪く、作業をしながら何度もトイレと往復しなければなりませんでした。ちなみにこの頃にはさすがにラインでの仕事にも慣れて、休憩中でなくても、自分の工程が少ない車種が流れてくる合間に、速攻でトイレに行って帰ってくるなんていう芸当も出来るようになっていました。慌ただしく行ったり来たりしている私を見かねて、隣の工程のオジさんが手持ちのクスリをくれました。「下痢に速攻で効くクスリを持っているけど、水で飲まなくてもいいってやつなんや。」「一発で収まるで〜。」ありがたく頂戴して、その場で飲むと、たしかに下痢は収まりました。ところが…。定時間際になって、急に尻に激痛が走り始めたのです。最初は何が起こっているのかわかりませんでしたが、ふと実習生仲間が語っていた経験談を思い出しました。「もしや、これって、『痔』では??」この日の寮までの帰り道は全くもって悲惨なものでした。尻のあたりに大きくポツンと腫れたような異物感があって、それが歩くたびに擦れて激痛が走るのです。いや、歩くどころか、大きく息をするだけで、尻にジンジンと響きました。友人が痛くて歩けなかったと語るのを、当時はそりゃ大変だったねぇと笑いながら聞いていましたが、自分が経験してみるとまさにその通り、いやそれ以上でした。やっとの思いで帰宅。経験者の友人のアドバイスに従って、風呂の浴槽に長く浸かるうち、腫れと痛みは若干収まりました。その日は食事も摂らず、早々に床につくことにしました。翌朝、痛みは収まっていました。それで、きっと慣れないクスリを飲んがための、急性の症状だったのだろうといったんは安心しました。ところが、午後、終了間際になると、また前日同様に鈍い疼痛が始まり、だんだんと酷くなってきました。帰路は前日よりさらに過酷でした。一歩歩いて、フーッと深呼吸をし、また一歩歩く。そのたびに尻からの疼痛が全身に響き渡ります。痔ってこんなに痛いものなのかと改めて思い知らされました。幸いこの日は金曜日だったので、翌日の「休日買い上げ」を休ませてもらい、この日のうちに実家に帰ることにしました。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月27日
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翌朝、事の次第を班長に報告しました。班長は「う~ん。」と腕組みをしながら長考したあと、「一応、上にいれておこうか。」ということで、係長のところに連れて行かれました。ひととおり話を聞いた係長は、とりあえずこの場で収めて、上司や本社の人事には報告しない、ということにしてくれました。まぁ、私を慮ってくれたというよりは、どこの馬の骨かもわからない実習生のことであまり事を大きくして、自分の管理責任を問われては面倒だ、という感じでした。実のところ、会社には黙っているという手もありました。しかし、結果的には正直に申告して正解でした。というのも、このあと、何度か先方のヤクザからの電話が職場にかかってきたりしたので…。一度は、打ち合わせをしたいと言われて名古屋から名鉄で何駅かの駅前の寂れた喫茶店に呼び出されました。何の打ち合わせをしたのかよく覚えていません。電話をとりついだ工場の工務の人から、後日「なんだかすごくガラの悪い人でしたけど、大丈夫でしたか?」と言われました。その後も何度か電話のやりとりをしました。あちらは私と話すときはいたって普通なんですが、他の人間に対してはヤクザそのものの話しっぷりだったようです。寮の管理人さんなどは気を使って、「なんだか大変そうな相手だけど、取りつがないようにしようか?」などと言ってくれたりもしました。そして、だんだんと先方が本性を見せ始めました。まず、私の自動車保険の担当者が先方とコンタクトをとったところ、「二人とも入院してしまいました。」ええ?事故の時はまったくそんなそぶりはなかったのに、やっぱりそう来ましたか、という感じでした。「クビがいたい」といって、二人ともずいぶんと長い期間入院していたようです。その後も、保険の担当者が電話をするとヤクザの事務所のようなところに繋がって、いろいろと難癖をつけられたようです。二人のうち、角刈りのオヤジよりもむしろ事故当日ほとんどしゃべらなったアキバ系っぽい男のほうが性悪で難儀しているとも聞きました。ただ、幸いなことに、交渉相手が保険屋になってからは、相手のヤクザが直接私に電話をかけてくることはなくなりました。その代わり、先方は「保険がなかなか下りないので、立て替えてほしい。」といって、私の実家にまで電話をかけてきたこともありました。実家が近隣だったりしたら、家まで押しかけられていたかもしれません。示談が成立したと保険屋から連絡があったのは、事故から数ヶ月後のことでした。角刈りの男に200万、アキバ系には300万支払ったとのことでした。合計500万。保険屋が払ってくれて助かりました。本当に、このときほど保険に入っていてよかったと思ったことはありません。今思い出すと、そもそもこの連中は「当たり屋」だったのではないかという疑惑もあります。というのも、事故ったときに私が一瞬よそ見をしたのは事実ですが、片側3車線の道路のもっとも中央分離帯に近い車線で、信号もなく渋滞だったわけでもないのに、突然前のクルマが急減速する、ということ自体、考えてみれば不自然だったよなぁ、と。今となっては、真相は闇の中ですがね。酷い目に会った中で、いくつか不幸中の幸いだったこともありました。まず、相手がヤクザといっても、おそらくはチンピラレベルだったこと。もし相手がベンツだったりしたらと思うと、ゾッとします。それから、担当の保険屋がよくやってくれたこと。人身事故扱いになったことで、翌年からの保険料は大幅に上がってしまいましたが、それはもう仕方のないことです。保険屋が払い渋ったりしていたら、もう一悶着あったところでした。あとは、金ヅルになりえないと思ったのか、私自身には後半、まったくといってよいほどアプローチがなかったこと。事故直後に迷わず警察を呼んだ事(これがなければ、はたして保険屋がどこまで対応してくれたか…)。クルマを相手に貸さなかったこと、などなど。しかしながら、地図を持たずに不案内な土地に行ったり、迷ってからも止まって確認せずによそ見をしながら運転してしまったことなど、この事故は、私自身にも大いに非があったのは事実です。街中を普通に歩いていたり、電車に乗ったりしていて、人生が狂わされるような災厄に出くわすことはそう滅多にありませんが、クルマって、たとえば人を轢いてしまったり、ヤバイ相手にブツケたりなど、ひとつ間違えれば本当に人生を破滅させかねないなぁと実感しました。このとき以来、クルマの運転には、慎重すぎるぐらい慎重になりました。といいつつ、その後も人生で何度か事故に巻き込まれているのですけど、まあその辺の話も機会があればいずれ…。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月26日
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そのとき彼らが何と言っていたのか、今となっては思い出せません。そもそも私自身が平静さを取り戻すのにある程度の時間が必要だったと思います。とりあえず、追突された二人に怪我がなさそうなことを確認して、まずは警察を呼ぶことにしました。警察と聞いて、二人は一瞬渋ったようでしたが、私はお構いなしでした。あとから考えると、初動で警察を呼んだことは、本当に不幸中の幸いだったと思います。なあなあで示談にしようものなら、後でどんな悲惨な目にあっていたかもわかりません。工場勤務の前に経験したディーラー実習の経験が少しは生きました。警官が来て、実地検証をしたあと、みなで署まで一緒に行くことになりました。ここで初めて、私は自分が中川区というところを走っていたことを知りました。署で名前と職業、住所を書くように言われて、あちらの二人がまたまた口ごもっていたのですが、当時の私には、それを不審に思う心のゆとりはありませんでした。調書を取り終えて帰ろうとした私を警察の人が呼び止めて言いました。「大丈夫?相手は普通の人じゃなさそうだから、気をつけたほうがいいよ。」「え?そうなんですか?」実はそう聞かされるまで、私は先方は地元の自営業かなにかの人たちだとばかり思いこんでいていました。前回の亀山ヤクザと違って、今回の二人とのやりとりは至って常識的なものだったし、とりたてて私を恫喝したり威嚇したりすることもなかったし、あちらの乗っていたクルマもオンボロのシルビアだったし…。警官から言われてもまだ半信半疑だったぐらいです。そもそも、このときはもっと心配なことがあったのです。それは、「会社をクビになるんじゃなかろうか?」ということでした。自動車メーカー勤務で、交通事故を起こすというのは、きわめて重大なことです。事故の状況や成り行きしだいでは「クビ」ということは十分ありえます。まして私は仮採用の実習生の身。まあでもいいか。どの道、実習が延長になると聞いて、一度は真剣に転職しようとしたのだから…。別れ際、帰りの足がないという角刈りのオヤジに、「いいクルマ乗っているやんか。」といわれて、私はこともあろうに、自分のクルマを貸しましょうかと申し出てしまいました。「おお、そうか。」オヤジは満足げに私のクルマに乗り込みましたが、エアコンがないと聞いて、「この季節にエアコンのないクルマなんか乗れんよ!」と、結局私のクルマには乗らずに帰りました。これもまた本当に不幸中の幸いでしたね。あのとき貸していたら、私のインテグラはおそらく二度と私の元に戻ってこなかったと思います。今思えば、冷や汗ものです。このあと、一体どうやって私自身が鈴鹿に行き着いたのか、よく覚えていません。事故を経験した人なら判ると思いますが、事故った直後って、運転するのが怖くて仕方ないものです。まして土地勘のないエリアということで、何度そのままクルマを乗り捨てていこうかと思ったことか…。ふたたび道に迷ったり、周りに何もない農道を走ったりして、とにかく事故を起こさないことだけを考えて走り、ようやくド深夜に寮にたどりついたことだけは覚えています。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月25日
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多くの地方都市同様、鈴鹿もクルマがないと何かと不便なところです。実習期間が3ヶ月であればなんとか我慢できましたが、9ヶ月となると、自分の車を持っている人間は手元に持ってきたくもなります。さすがに会社側も考慮してくれたようで、しばらくして実習生のクルマ持込みがOKになりました。私もさっそく、休日買い上げのない週末に実家に戻ってクルマを持ってくることにしたのですが…。私が当時乗っていたのはインテグラ。ディーラー研修時代に購入したものでした。先立つものがなかった私は、エアコンやその他のオプション類をすべて後から装着することにしていたので、この日も窓を全開にして東京から鈴鹿に向かいました。車載の地図を家に忘れてきたことに途中で気づいたのですが、まあ高速をずっと走るだけなので大丈夫だろうと高をくくっていました。東京から4時間で名古屋に到着。すでに外は真っ暗でした。さて、ここからどうやって鈴鹿に向かえばいいのか、というところで、あてもなく適当に走ったら、早々に道に迷ってしまいました。ただでさえ方向音痴気味なところにもってきて、今のようにカーナビなどまだ無かった時代です。なぜこのとき、コンビニにでも立ち寄って、地図を購入しなかったのかと思います。こうなったら道路の標識と勘だけを頼りに鈴鹿まで行き着こうと半ばムキになっていたのでしょう。そもそも、今改めて地図を見てみると、なぜ名古屋で下に下りたのか分かりません。東名から東名阪に出て、鈴鹿ICで降りればよかったのですが、どこをどう間違えたのか…。そんなお粗末な状況で、一体どこを走っているかもわからぬまま、だんだんと路上の標識も減ってきました。このままでは到着するのが夜中になってしまう、翌朝キツイぞ、とさすがに焦り始めました。交差点にところどころある地名の書かれた青い標識を頼り煮に自分の知っている地名がないかと目を皿のようにして走っているうちに、ふと視線を目の前に戻すと、前を走っていたシルビアがなぜだか急に減速したように見えました。ヤバッ!あわててブレーキを踏んだものの、時すでに遅し。前の車のリアランプが、かつて自分の経験したことのないほど間近な車間距離に迫ったと思ったら、直後にガシャンと衝撃に包まれました。クルマが大破したわけではありませんが、といって、決してコツンというような軽い追突ではありませんでした。実際ぶつかった直後、ハンドルを握っていた私の両手は衝撃で痺れていましたから。「なんや、なんや~」と、前のシルビアから二人の男がおりてきました。ひとりは小太りで角刈り、もうひとりは銀縁メガネをかけた今で言えばアキバ風の風体でした。実はこのとき、私は二人がそんなにヤバイ業界の人だとは全く思いませんでした。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月24日
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こうしてヤクザお得意の「落とし前をつけろ。」「誠意をみせろ。それが何かは自分で考えろ。」というペースで時間ばかりが無為に過ぎました。外で考えろと店の外の駐車場に追い出されて、夜風に吹かれながら途方に暮れていると、ヘッドライトを上に上げたクルマが一台駐車場に入ってきました。パトカーでした。どうやら先に逃げおおせた同僚たちが店に電話をしてきたら、ちょうど「指を詰めろ。」などという物騒な怒鳴り声が聞こえてきて、それで警察に通報してくれたようなのです。「助かった〜。」と、まずは安堵したのですが…。事はそう簡単には済みませんでした。警官から一体何があったのかと問われて、「この人たちに脅されていました。」と答える私に対して、当然連中は、「そんなことは知らない。」と言い張ります。それに加えて、今までのやりとりの間、厨房にこもったきり、とりなしてくれるでも仲裁してくれるでもなかった店主が急に現れて、私に向かって、「何を言っているんだ、お前は?そんなことはなかっただろう?」と怒鳴り始めたのです。警察が来てマズイと思ったヤクザたちが、一転して私たちをさっさと帰らせてこの場をしのごうとしたのに、私が「脅されていた」と証言を始めてしまったので、なんとか上手く収めようとした。「後に」店主はそう弁解してましたが、この時の私がそんなところまで気が回るはずもありません。それに、この場で警察を帰らせたら、残された私たちはそれこそどうなるかも判りません。私はすっかり混乱してしまいました。パンンチパーマなどは急に猫なで声になって、「あ、缶コーヒー飲みますか?」などと警官にすり寄っていました。一方、私は「どうなの?」と聞かれるも、例によって店主が激しくプレッシャーをかけるもので、あまり強く言う事もできず、その後は沈黙がちになりました。細かいやりとりは失念しましたが、結局、なんだかんだで、若親分とパンチパーマの二人が連れて行かれました。逮捕というわけではなく、署まで同行という感じだったと思います。(まあ、あの時の雰囲気だと「カタギの人相手にあんまりオイタが過ぎるぞ。」とかなんとか叱られてすぐに放免になったのだと思います。)一方、ひとり残された親分さんは収まりがつきません。「もしアイツらがムショに入ることになったら、お前ら、ただで済むとは思うな。」「オマエらの工場まで行くからな。どこまでも追いかけるぞ。」とかなんとか、まるでテレビドラマに出てくるステレオタイプなヤクザの恫喝を繰り返していました。この親分がその後いつどうやって帰ったのか、覚えていません。たぶん一人で車を運転して帰ったのだと思います。彼らがいなくなったあとで、連中が時々店に来るホンマもののヤクザで、親分とその息子だということを店主から聞かされました。「粗相がなければいいなぁと思っていた」という店主でしたが、だったら思ってないで、誰かがトイレに立ったときにでも教えてくれよ、と言いたくなりました。この店主の小物ぶりには、今思い出しても腹が立ちます。ようやく放免されて、私たちが寮に帰り着いたのは、朝方4時過ぎでした。マズイなぁと思ったのは、私たちの素性が先方に割れていることです。単に工場勤務というだけなら、何千人もいるのですから見つけ出すのは困難でしょう。しかし、職場の同僚たちはこの店の常連でしたので、名前も知られています。店主が口を割れば、絞り込むことは可能です。職場に来られたり、日中しつこく電話をされたりしたら、しがない実習生の私はともかく、同僚や上司に激しく迷惑がかかります。今であれば、ワインのおつきあいで知り合った(笑)法曹界の方々や警察幹部の方々など相談する相手も思い浮かびますが、当時の私にはそうしたつてもありませんでした。職場の「その筋に詳しい」先輩に話しても、「そりゃ、ヤクザにはヤクザや〜。」などとアドバイスされる始末。大体、カレンダーを落としたぐらいで、なんでここまで追い込まれなきゃいかんのでしょうか。まったく理不尽な話です。そんなこんなで、その後数週間怯えながら過ごしたのですが、結局、ヤクザたちが工場にまで追い込みをかけてくることはありませんでした。これでこの件は終わりとばかり思っていたのですが…。忘れた頃、たしか数ヶ月後だと思います。本当に忘れた頃になって、副班長から「話がある」と呼ばれました。「実はなぁ〜。思い出したくもないと思うんやけど…。」「あのときの連中が、しつこく店主に、あのときの話はどうなったんだ、と言ってきてらしいんよ。」「要はカネを払え、ということなんや。」「で、いくらぐらい払えと?」「2万円だっていうんだけど。」「はぁ。2万ですか。」「みんなでカンパすることにしたんで、ナベちゃんも3千円払ってよ。」……。数ヶ月たってもまだしつこく言ってくることへの怒りとか、まだ終わっていなかったのかという驚きとか、はたまたこれでケリがついたいう安堵感とかはありませんでした。それよりもむしろ、夜中に監禁されてあれだけ追い込まれた落としどころが、2万円だったのかと思うと、呆れるやら情けないやら…。もっとも連中のことです。もしあの場で万札を出して、これで勘弁を、などと言っていたら、「なんや、金で解決しようって言うんか〜。」「誠意を見せんか〜。」とかなんとかいって、要求がエスカレートしたことは想像に難くありません。それに、当時の私はといえば、月給手取り12万円でした。今でこそグランクリュ1本分、などとすぐワインに換算してしまいますが、新卒実習生の私には、2万円という金額はそれなりの重みはありましたし、みながカンパしてくれたのは、素直に嬉しかったです。いやはや。この事件については、あまりデリカシーがあるとは言えないラインの同僚の連中も、さすがにネタにしては悪いと私に気を使ってくれたようです。その後は話題に上る事もなく、あのときは大変だったねぇ、とみなで語り合ったのは、3月末の私の送別会の時が最初で最後でした。ところが…。鈴鹿で過ごした期間で、ヤクザ絡みの事件はこれだけでは終わらなかったのです。(さらに断続的につづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月20日
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齢50に近づいた今、振り返ってみると、長いサラリーマン人生の中でほんの半年間工場勤務の期間が延びたぐらいで、なんでこの世の終わりのようなリアクションをしていたのか。ラインで一生を過ごす工員だっているじゃないか。それにこの先(肉体的にはともかく)精神的にもっと打ちのめされるような出来事に何度も出くわすことになるんだぞ、と当時の私を叱りつけたくもなります。。せっかく鈴鹿であと半年過ごすことになったのだから、たとえば毎週末関西や中国四国方面を観光で回ってみるとか、なにか習い事を始めるとか、もっと建設的なことをしておけばよかったとも思います。しかし、当時の私(というか実習生全般がそうだったのですが)は、なんというかネガティブ&ペシミスティックな思考に支配されていて、それがまた不運なめぐり合せや悪い出来事やを呼び込んでしまうという悪循環に陥っていたような気がします。今振り返ってもやはり鈴鹿で過ごした1年間は我が人生最悪の1年間でした。というのも、ここからさらに最悪な出来事が次々と起こるのです(笑)。今でこそ(笑)とつけられますが、当時はシャレになりませんでしたよ。まず、一発目が「亀山市でヤクザに監禁された事件」。実習期間が半年延長になったと知って、それまでは「どうせすぐにいなくなるんだから…」と無関心を装っていたラインの同じ班の人たちがわりと目をかけてくれるようになりました。その日も、仕事が終わってから、「焼肉を食べに行こう」と誘われて、みなで連れ立って、亀山の辺鄙な山の中にある焼肉屋に行ったのでした。周囲に店はなく、県道脇のドライブインといった趣の店でした。夜勤終了後だったので夜中の12時を回っていました。その店で何を注文したのか、肉はどんな味だったのか、今となってはまったく覚えていません。狭い座敷でひとしきり食べて、さて帰ろうと私が席を立った瞬間、柱にかかっていたカレンダーが肩に触れて落ち、運悪くすぐ脇にいた客にパサリと軽く当たってしまいました。ただ、それだけのことでした。あ、これはすみませんと、そこに座っていた客に謝ろうとした途端、横っ面をピシャンと引っぱたかれました。一瞬何が起こったのか分からず呆然とする私の前で、なんじゃコリャアと、パンチパーマの兄ちゃんから凄んでいました。相手は3人。もうひとりは方から刺青をした30前後の男。あとで聞いたところ、これが若親分だとか。そしてもう一人は年配のオヤジ。これが組長だったようです。その直後の経緯は失念してしまいました。とりあえず激高している相手に謝っておいて、さっさと店を出ようぜということになり、各自クルマに乗ろうとしたことは覚えています。(ひょっとしたら、店主から逃げろとアドバイスがあったのかもしれません。)ところが、工員仲間のうちの一人のクルマに彼らのクルマがピッタリと横付けされていて、駐車場から出られないのです。「○○がつかまった!」という怒鳴り声を聞いて、私たちも引き返さざるをえなくなりました。今にして思えば、店に着いた時点で、客の誰かをカモにしてやろうという魂胆だったのかもしれません。先に出た数人はそのまま逃げおおせましたが、この時点で、私を含めた数人が店に取り残されることになりました。店の中に他の客はおらず、完全に監禁状態。逃げようとしたとあって、相手のボルテージは上がっています。そしてそのターゲットは当然カレンダーを落とした私です。いくら謝っても、それで許してもらえるはずもなく、「どう落とし前をつけてくれるんだ。」「どうすればいいんですか?」「それは自分で考えろ。」の繰り返し。典型的なヤクザの問答でした。相手が金銭を要求しているのはなんとなく分かりましたが、この時点でこちらから金を払うと申し出るのはどうあってもマズイと直感的に感じました。(おそらく居合わせた誰もがそう思ったようで、金の話は最後まで出ませんでした。)「オマエら○○○の者か?会社に電話してやるから待ってろ」埒が明かなくなると、今度はパンチパーマの男が工場に電話して、なんだかんだと因縁をつけはじめました。しかし、電話に出た守衛の人たちはまるで無反応。私に電話を代わらせると、「自分でまいた種なんだから自分でなんとかしなさい。」と突き放されてしまいました。じれたパンチパーマは、しまいには「指つめろ。」と息巻き始めます。「いや、指つめたら工場で仕事できなくなるので勘弁してください。」「じゃあどうするんだ?」「どうすればいいんですか?」「それは自分で考えろ。」こんな感じでもはや無限ループでした。 (つづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月19日
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研修の期間中、私が過ごした会社の寮は工場まで徒歩10分ぐらいのところにありました。老朽化したボロボロの建物で、タタミ6畳の部屋に2人で万年床を敷いての生活でした。私が生活していた1階の部屋はジメジメとしていて、たまにゲジゲジが畳の隙間から現れたりしていました。ムカデにかまれた同僚もいました。食事も出されるのですが、あまりに「貧相で不味い」ため、みな工場で食べるか、外食にしていました。同じ寮の期間工の中には気性の荒い人もいて、風呂で湯がかかったかからないで喧嘩になったなんて話も時折耳にしました。いろいろな意味で、劣悪な労働環境、居住環境でした。そんな実習生活も3ヶ月の辛抱。工場からの行き帰りに、寮の前に広がっている田園風景を眺めながら、この田んぼの稲穂が黄色く色づくころには東京に帰れるね、などと会話をしていたものです。ところが、実習期間も2ヶ月を過ぎた8月頃になって、耳を疑うような話が飛び込んできました。「円高が急激に進んで厳しいので、その対策として、期間工の採用を絞り、代わりに新入社員の実習期間を延ばして、今年度いっぱい工場で働かせることを会社が考えている」というのです。たちの悪い噂だと信じたかったです。いくらなんでも、まさか会社がそんな理不尽なことをするわけなかろう、と思いました。ところが、火のないところに煙は立たず、とはよく言ったもので、ある日、実習生全員が集められ、本社の人事担当者から、3ヶ月の実習期間を延長して翌年3月までとする旨の発表がありました。実に6ヶ月の延長。7月から翌年3月まで、私たちはまるまる9ヶ月工場で働くことになりました。この発表を聞いたときの無力感脱力感をうまく文章で表現できるだけの語彙と文章力を私は持ち合わせていません。ようやくあと1ヶ月で終わると思っていた苦行のような生活が、突然6ヶ月延長されるという、あまりの不条理さ。田んぼの稲穂が黄色く色づくころには帰京して正規配属になると思っていたのが、収穫を終えて、翌春の田植えのシーズンまでライン勤務が続くというやるせなさ。労働に対する苦痛もさることながら、会社に裏切られたという思いが半端でありませんでした。実は私もこのとき、真剣に会社を辞めようかと思い立ち、有休をとって帰京して、大学の学生課に相談に行ったりしました。しかし、いわゆる第二新卒的な転職が一般的でなかった当時、卒業したての学生を採用しようという企業はほとんどなく、かといって、学科の劣等生だった私に、大学に残るという選択肢もなく、泣く泣く鈴鹿に戻ったものです。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月18日
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ところで、これほどキツイキツイと書いてきた工場勤務ですが、当然ここで普通に勤務している社員たちもいるわけで、彼らはいったいどういう生活をしているのでしょうか。私が所属していた職場は、四輪車体組立二課11班というところでした。鈴鹿の第二ラインの最後の方に近いところです。班には班長と副班長がいました。班長は30台後半。独身ながらすでに一戸建ての家を買って持っているという堅実派でした。部下からの評判ははっきり言って悪く、飲みにいって彼の悪口をよく聞かされました。副班長は背がひょろっと高い30台半ばの朴訥とした男で、この副班長には私もお世話になりました。「せっかく関西にいるのだから、仕事ばかりでなく、週末あちこち観光するなりしたら…。」と、近場のスポットを教えてくれたりしたのもこの人でした。当時30代半ばでしたから、今はもう引退しているのでしょうね。その下には、30前ぐらいのグループリーダー的なポジションの人が数名いました。高卒で入っているので、職歴は10年以上、班内の各工程を経験してきたベテランで、特定の作業にはつかず、ラインで上で作業が遅れたり間に合わなくなった工員の作業をフォローしていました。ラインで実作業をするのはおおむね20台の正社員や期間工、それに私たちのような実習生でした。通常は大体30半ば過ぎになると、班長、副班長といった立場になるか、あるいは「中間検査」「完成品検査」といった体力的にもっと楽な作業に配置換えされていようです。ただ、私の班には「国鉄」からの出向者とか、別の事業所から派遣されてきた人たちもいたりして、30代半ば過ぎの方がラインで一緒に働くのはさすがにキツそうでした。社員の人たちは場所柄、九州出身の人などが多かったように思います。大卒の実習生はいやがらせを受けるなんていう噂もありましたが、私の班では(一部の例外的な変人を除いて)そのようなことはなく、そこそこ普通に接してくれました。同年代の社員でも、あちらは入社してすでに4~5年働いているわけなので、そこはこちらもそれなりにリスペクトして接したのがよかったのかもしれません。本社に行けばひとつの課で数人なんていう部署もザラでしたが、ここの課は総数で200人ぐらいいたのではないかと思います。課長になると慶弔費用だけでとんでもなくかかるなんて話も聞きましたが、さもあらんというところですね。男女比率は圧倒的に男性が多かったですね。9:1ぐらいだったんじゃないでしょうか。ちなみに私のいた班は男性ばかり15人ぐらいで、ほとんどが独身でした。工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月16日
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さて、つづきです。人間の体というのは大したもので、このような労働環境の中でも、無駄を省いて少しでも負担を和らげるよう、力の入れ加減、抜き加減などを体が勝手に覚えるようです。1ヶ月もすると作業の工程にもなれ、他の工員の人たちに迷惑をかけずに仕事をこなせるようになります。たとえば、一回の工程で私はネジを5〜6箇所締めていたのですが、慣れてくると、ストックの山からガバッと正確に仕様にあった個数分のネジを取り出し、すぐに工具で締められるように瞬時にすべてのネジを指と指の間に挟むなんてことが普通に出来るようになります。ネジを誤って斜めに入れてしまうということも滅多になくなりますし、ライン横の工具置き場とラインとの往復にも1歩1歩の動きに無駄がなくなってきます。肉体労働のおかげで、最初の2ヶ月間で体重が約7キロ落ちましたが、3ヶ月目に入ると、体重の減少はピタリと止まりました。一人前にこなせるようになるのは良いのですが、そうすると今度は、あらためて果てしない単純労働の連続が苦痛になってきます。なにせ、どこの国向けかで多少のバリエーションはあるとはいえ、一日8時間基本的に同じ作業の繰り返しです。1ラウンド(と私たちは呼んでいました。)あたり2時間。東京から名古屋まで新幹線で行けてしまう時間、黙々と同じ作業を続けなければなりません。10分間の休憩をはさんで、午前中に2ラウンド、食後2ラウンドこなすわけですが、午前中はとにかくなにも考えずに作業に熱中します。午後になると、マラソンで中間地点を越えたあとのように、あと○時間、あと○分と終了時間を目標にがんばる訳です。もっとも、その日の作業が終了したからといって、何かよいことがあるわけでもなく、寮に帰って、食事をして寝るということの繰り返しなのですが。(断続的につづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月15日
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今日の空。素直に秋らしいうろこ雲と言うべきところですが、なんだかクッキリしすぎていてやや不気味でもありました…。そう思ってツイッターをのぞいてみたら「すわっ、地震雲か??」といったツイートであふれていました。さて、前回の続き。なんといってもキツかったのが生産ラインでの作業です。私は「四輪車体組み立て」というところで、主にエンジンルーム内のエアクリーナーやハーネス類の取り付けを担当していたのですが、単純にポンと部品をとりつけて終わりというものではないんですね。クルマの周りをぐるりと回りながらハーネスを何カ所か繋いで、クリップを数カ所止め、さらに部品を取り付け、それを数カ所ネジで止めるという作業を一台あたり1分弱でこなさなければなりません。それが一日400回以上。しかも米国向け欧州向けなど、各国仕様が順不同で流れてきて、それぞれの仕様で部品や工程が異なるのです。最初のうちはとてもひとりではこなせず、ベルトコンベアと一緒に自分が流されていってしまいます。そうしたときのために、ベテランの救援要員が配置されていて、「オーイ」と呼ぶと救援要員の方が駆けつけてくれて一緒に手伝ってくれるのですが、ラインに配置された最初の1週間ぐらいはほとんど救援を呼びっぱなしという状況でした。そして、家電製品などと違うのは、とにかく重労働であることです。なにせ相手がクルマですから、大きな重たい部品もあるし、クルマの周囲を歩き回って作業しなければならなかったりします。工程によっては、ずっと腰を曲げたまま作業しなければならなかったり、一台一台クルマの中に乗り込まなければならなかったりするパートもあって、そういったところの作業は熾烈を極めます。今ではロボット化自動化が進んでいるようですが、私がいたころ、自分が「絶対にやりたくないなぁ」と思ったのは、タイヤの取り付け工程とシートの取り付け工程でしたね。実際、実習生の同僚でシートの取り付け担当になった運の悪い仲間がいたのですが、彼は腰を痛めて、休日はほとんど寮で寝たきりになっていました。もうひとつ厄介だったのが電動工具です。ボルトのネジは、空気圧を使った工具で締めるのですが、(私たちは「インパクト」と呼んでいました)この工具の振動で、手が痺れてむくんだようになっていまうのです。仕事が終わって帰ってきて、寮のドアを開閉しようにも、ドアノブを回すことすら難儀する有様でした。そんなこんなで、最初の1ヶ月ぐらいは、実習生が寝起きする寮の中は、あちこちからうめき声が聞こえてきたり、廊下を這って歩いている輩もいたりして、さながら野戦病院のようでした。鎌田慧氏の著作に「自動車絶望工場」という小説がありますが、まさにその通りの世界でしたね。我々実習生は逃げ出すこともできないので、ひたすら歯を食いしばって耐えましたが、出稼ぎで来ている期間工」の方々の中には1週間ぐらいでいなくなってしまう人も珍しくなかったとか。(断続的につづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月13日
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下血による貧血でダウンして入院した初日、病院のベッドでうつらうつらとしながら夢をみました。それは就職したての「工場実習」のときの夢でした。以前コラムでも書きましたが、今の職場に転職する前、私は某自動車メーカーに勤務していました。自動車メーカーに入ると、最初の数ヶ月、ディーラー(販売店)と工場での研修が待っています。ディーラーでの研修は一般に楽しい、面白いとの評判でしたが、一方の工場実習はとてつもなく「キツイ」というので有名でした。私は4月から3ヶ月のディーラー実習を終えたあと、鈴鹿(と書くとどこのメーカーかすぐにわかってしまいますが)で3ヶ月の実習の予定でした。どんなにキツイといっても、勤務は定時勤務だし、週末に休めるのだからなんとでもなるだろうと思っていました。ところが、これが大間違いで、想像以上の過酷な環境だったのでした。まず、そもそも休日がまともにないのです。当時の新車種の売れ行きが絶好調だったせいか、生産が間に合わないようなのです。その結果、土曜日はほとんど毎週「休日買い上げ」と称して出勤になってしまいます。そんなことって、あるのか?と思いましたが、出勤はほとんど強制のようなものでした。勤務は8時間ですが、交代制なのがキモでした。早番のときは朝6時からの勤務で、遅番のときは夜中の12時まで。金曜日が早番終わりで、翌週月曜日が遅番のときは比較的ゆっくり休めるのですが、前述のとおり「休日買い上げ」で土曜遅番で12時に帰宅し、月曜日が6時からの早番だったりすると、休日は丸一日もないようなものでした。私は担当しませんでしたが、別の工程では三交代制で真夜中の勤務になる連中もいました。彼らなどは、土曜日の夜中に仕事をして、日曜日の朝寮に帰し、日中寝たと思ったら、翌月曜日は朝の6時から勤務という、ほとんど休日が休日になっていないような状況でした。(つづく)工場実習の思い出。工場実習の思い出〜その2 工場実習の思い出。~その3 工場実習の思い出~その4 工場実習の思い出~その5(実習期間が9ヶ月に延長) 工場実習の思い出~その6(亀山市でヤクザに監禁される) 工場実習の思い出~その7(亀山でヤクザに監禁されてその後)工場実習の思い出~その8(名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その9(続・名古屋でヤクザの車に追突) 工場実習の思い出~その10(名古屋でヤクザの車に追突その後) 工場実習の思い出~その11(痔で歩けなくなる) 工場実習の思い出〜その12(痔で動けなくなってその後)工場実習の思い出~その13(駅伝の練習ってマジですか??) 工場実習の思い出~その14(駅伝ってマジ?~その後) 工場実習の思い出~その15(ジョブローテーションでさらにキツイ仕事に…) 工場実習の思い出~その16(ジョブローテーションでキツイ仕事に…)工場実習の思い出~その17(ラインの同僚のこと) 工場実習の思い出その18(休日の過ごし方) 工場実習の思い出~その19(友人とそのフィアンセの話) 工場実習の思い出~その20(もうひとりの友人のこと。) 工場実習の思い出〜その21(実習終了間近なれど…)工場実習の思い出~その22(実習終了)
2012年10月12日
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■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)さて、これまでの調査で~我が家の先祖は、彦根藩の下級藩士だった。~といっても、最初から彦根藩に仕えていたわけではなく、享保年間までは「森」という姓で、京都町奉行所勤めだった。それが何らかの理由で職を辞し、4年の浪人の後、彦根藩召抱えになり、苗字も変えたらしい。なぜ苗字を変えたかは不明。~彦根藩では、「十右衛門」または「重右エ門」という通名を代々世襲していた。仕事は藩主の家族の身の回りの世話や、藩校の先生などをしていたらしい。ということが判りました。親戚の家に行った際、そんな話を披露したら、面白がって聞いてくれて、後日、本家筋の従兄弟の有志が編纂したという、曽祖父やその前後の代の記録を記したメモのコピーを送ってくれました。読んでみると、「代々嵯峨源氏の嫡流」(→もともとは森姓だったということが今回判明)とか「彦根藩では代々勘定奉行をつとめた」(→そんな偉い身分ではありませんでした)とか、明らかに「それは違うだろ~」と突っ込みたくなる記述もあるのですが、まあご先祖の歴史というものは誰しも美化したくなるものなのでしょう。興味深いのは、そのメモには、私が訪れた際には、時間の関係で見せてもらえなかった寺の「過去帳」の記録からの情報多くが含まれていたことです。ということで、新たに入手したメモと、私がそれまで調べた記録とをもとにざっと、近世のご先祖の足取りをまとめてみました。まるで映画「北の零年」の世界です。■曽祖父の父(高祖父と呼ぶようです)名は重右エ門。メモには勘定奉行を世襲していたと書かれていますが、これはおそらく誇張で、勘定方にでも勤めていたのでしょう。自宅は現在市役所前の大通りになっている所にあったそうで、石高は90石。この当時の彦根藩の藩主はといえば、桜田門外の変で殺害されたかの井伊大老。まあ、私のご先祖が実際に井伊大老に会ったことがあるかどうかはわかりませんが、歴史上の人物と身近なところにいたと思うと不思議な感じがします。桜田門外の変が起こったのが、重右エ門41歳のとき。当人は明治5年に53歳の若さで亡くなっていますが、晩年は歴史の大きなうねりの中でさぞ苦労したであろうと想像できます。■曾祖父の兄上記重右エ門の長男で名は機平。嘉永元年(1848年)出生。16歳の時、初陣で蛤御門の変に参加したものの、幕軍に利なく、槍一本を担いで逃げ帰ってきたというエピソードがメモに書かれています。しかし彦根藩はこの時官軍に組したはずなので、史実と異なっていますね。まあ初陣で散々な思いをしたことは事実なんでしょう。明治4年、廃藩置県が実施され、禄を離れた彦根藩士たちは集団に北海道(釧路)に移住しました。機平も、父の死後(明治5年)、屋敷を担保にお寺(私が前回訪れた円常寺のこと)に50円の借金をして、嫁と弟=私の曽祖父を連れて北海道に渡ったそうです。当時、機平は25才、弟の篤三郎10才。「漢学に秀れ、小学校で教鞭をとっていた」そうですが、妻が子供を残すことなく32歳の若さで亡くなると、家禄を弟である私の曽祖父に譲って、大正2年62歳でなくなったそうです。■曽祖父名を篤三郎といいます。重右エ門の末子三男として出生(次男は3歳で死亡)。姉たちの中には器量良しが多かったそうで、そのうちの一人が家老の下に嫁ぎ(幕末から明治にかけてですと、もはや身分の差などはあまり問題にならなかったのでしょうか?)、その血筋からは後のどこそこの社長を輩出している、なんていう自慢話がメモに書かれていました。曽祖父自身の生い立ちは明らかでありませんが、成人して炭鉱技師としての技術を習得し、網走刑務所(本当ですかねぇ?)で囚人を引率して炭鉱の開発にあたっていたと書かれています。道内では「常盤炭鉱」の開発にあたったり、北九州の「筑豊炭田」の開発に出向いたこともあったようですが、九州での仕事は結局うまくいかず、また北海道に戻ってきたのだとか。この時代に北海道と九州を往復するというのも大変だったんでしょうね。夫人(というか、私の曾祖母のわけですが‥)の名は「さだ」。慶応3年、岐阜藩の足軽金森家の長女として出生。金森家は維新後、夕張で呉服店を営んでいたとのことですので、あちらで見合いでもしたのでしょうか。16歳で曽祖父のもとに嫁ぎ、私の祖父を含む12人の子供を設けました。曽祖父は、炭鉱技師としてはそれなりに成功したらしく生前はわりと良い暮らしをしていたようですが、大正3年に58歳の若さで亡くなった後、曾祖母は幼子を抱えて困窮したそうです。■祖父のことどうも我が家の家系は短命の血筋らしく、私の祖父も私が4歳の時に亡くなったので、祖父に関する記憶はほとんどありません。生まれは北海道の留萌郡。祖母も同じ北海道の札幌「南37条西」の生まれだそうですが、出自はわかりません。前述のとおり、曾祖父が早くに亡くなったため、若いころは、家庭が困窮して苦学だったようです。戦前は建築士として「浅野炭鉱」ゆかりの「浅野建設」という会社で働いていたとのことで、私の父親も「雨竜町」というところにあった会社の社宅で生まれたそうです。(もっとも、父からも祖母からも、生前、北海道時代の話を一度も聞いたことはありませんが‥。)戦後、都内(永福町)に移住。浅草の「雷門」の再建や新宿のミラノ座だかスカラ座だか(忘れました)の設計に携わったとかで、私が幼い頃はサンプルでもらったと思しき映画館のイスがベランダに置いてあって、よくそのイスで遊んだものでした。所属していた建設会社では重役まで昇進したようですが、どこぞと合併でもしたのか、あるいは倒産したのか、今となってはネットで探してもその会社の名前すら見つけることはできません。享保の時代の先祖のことまで調べたことを思えば、祖父や祖母のことをもっと詳しく調べるのはたやすいことですが、この時代の話になるとさすがに生々しすぎるというか、触れてはいけない部分もあるようで、気が引けてしまいます。(たとえば祖母は、自分の子どもの頃ことについては全く私たちに話しませんでした。)まあ、それらは私の子供の代にでも任せることにします。ちなみに、本家の方々とは現在は全くつきあいはありませんが、東京で建築関係の仕事をしている人もいるのだとか。ワイン好きで、このブログを読んでくれたりしてないですかねぇ?さすがにそれはないか‥。そんなわけで、祖父や父が生まれた場所まで特定できたことは収穫でした。(というか、この年になるまでそれすら知らなかった。)北海道出身の友人などは、「留萌って何もないところですよ~」と言いますが、次は、留萌をぜひ訪れてみたいと思い始めている私です。**********************ここまでが5年前に書いた内容です。このタイミングで改めて掲載したのは、正月らしいネタということに加えて、そろそろまた彦根に墓参りに行こうかなと思い始めているからです。その後、「ひこにゃん」がブレークしたrして、以前私が訪れたときとはだいぶ変わっているんでしょうね。新しいネタがあれば、パート5としてアップしようと思っています。文中に書いたとおり、北海道にも機会があれば行ってみたいですね。
2012年01月12日
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前のエントリーで、代々彦根藩の下級藩士だったと聞かされていた私の先祖が、もともとは「森」という今とは異なった姓で、享保年間まで京都町奉行所の配下だったことがわかった、と書きました。これはわたし的には相当驚愕の事実でした。というのも、生まれてこの方、世の中に多くいる渡辺姓の方の多くは先祖をたどっていけばどこかでつながっているとばかり思っていましたし、家紋も渡辺姓によくある「三ツ星一文字」でしたから。そういうわけで、今度は「森」姓を名乗っていた京都町奉行所時代の情報をなんとか得られないかと、いろいろ調べてみました。ネットで検索しているうちに(こういうときネットってつくづく便利ですねぇ。)まさにドンピシャと思われる史料を発見。『京都武鑑』という、江戸時代の京都の幕府役人の人名録があるそうなのです。さっそく「京都市歴史史料館」に電話してみました。ところが残念ながら、この『京都武鑑』には享保年間のものは掲載されていないとのこと。私の先祖が京都町奉行所を辞したのは、享保7年(1722年)、京都武鑑に掲載されているのは、宝暦9年(1759年)以降ということで、30年ちょっとの開きがあります。300年以上前のことを調べていると、30年程度の差なんて誤差の範囲に感じてしまうのですが、現実にはそうもいきません。う~ん、残念。‥と思ったら、史料館の担当の方が、『翁草』という随筆に、享保年間のころの町奉行所の人名名簿のようなものが載っている箇所がありますよ、と教えてくれました。『翁草』というのは、神沢杜口という当時の京都町奉行所の与力の人が綴った随筆集。かの森鴎外の「高瀬舟」の原話もこの作品の中の一話からだそうです。当時現職の京都町奉行所与力が書いた随筆ということで、今度こそ、と思いましたが、よくよく著者の神沢杜口の生没年を調べてみると、1710~1795年ということで、私のご先祖が職を辞した1722年当時、杜口はまだ12歳に過ぎなかったことになります。う~む、これも、かすってはいるのですが、望み薄でしょう。他にも何かないかと探したのですが、該当しそうな史料はありそうでないものです。とりあえず、アクションを起こしてみよう、ということで、~『京都御役所向大概覚書』~『日本都市生活史料一巻』の中の『京都覚書』『古久保日記』という2冊を調べに、国会図書館に行ってみました。この辺のくだりは長くなってしまうので割愛しますが、結論からいうと、これらの史料は当時の生活様式を知るのに大変面白く、時間さえあればじっくり読み込んでみたいと思わせるものでしたが、残念ながら、私の探しているご先祖情報は見当たりませんでした。ところで、享保といえば、「享保の改革」ですよね。私もネットを検索しているうちに、こちらのネタが面白くなって、本筋を離れて、享保の改革の記事ばかり読んでいたら、たまたまそこで「これだ!」というような、重要な記述を発見しました。というのも、改革の一環として、「それまで京都町奉行所の管轄だった、摂津、河内、和泉、播磨の裁判の管轄が大阪町奉行所に移管された」そうなのです。しかもそれが行なわれたのが享保7年。すなわち私のご先祖が離職した年とぴったり一致するのです。そうなると、私のご先祖は、何らかの失態を犯して京都町奉行所をクビになったというより、この改革でリストラされたという可能性の方が高い気がしてきます。今で言うところの、「レイオフ」のような形となって、4年後に彦根藩で空きが出て、そちらで召抱えられた、と。まあ、この辺はもはや推測の域をでないのですが‥。ここまできて、どうやらこれ以上ルーツをたどるのは難しそうだなあ、と感じはじめています。仮になにかしら古文書の類でご先祖の名前を見つけられたとしても、本来の私の目的である『ご先祖の墓参りをする』という観点からすれば、苗字がまだ『森』だった頃、すなわち享保年間以前のご先祖の墓所の所在を知るのはほとんど不可能でしょう。もはや無縁仏となって、墓標もなくなっているかもしれません。いや、そもそも私の先祖が傍流であれば、本家筋が今も墓を守ってくれているかもしれません。それでも、つい先日まで、曽祖父のことすら知らなかったことを思えば大きな前進だと思いますし、ごくごく平凡な一庶民に過ぎなかった我が家の先祖のことをここまで把握できたというのは大きな収穫でした。最後は近世編です。■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)
2012年01月09日
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お参りをすませてお寺を辞し、せっかくだからひととおり観光を、ということで、彦根城の天守閣に上り、庭園を見学しました。そのあとは「彦根城博物館」へ。井伊家ゆかりの宝物類がいろいろと展示されている中、当時の城下町のありさまとか、庶民の暮らしぶりとか、ご先祖に関連したものはないかと見て回りましたが、あいにくそのようなものはなく、さあて帰るかと、館内の土産屋に立ち寄ったところ、ある書籍が目に入りました。「彦根藩井伊家文書 侍中由緒帳(さむらいじゅうゆいしょちょう)」。http://longlife.city.hikone.shiga.jp/museum/book/02.html彦根藩士の履歴や仕事、賞罰などを石高順に一覧にしたものだそうです。ひょっとして、これなら載っているかも、と思い、その場で全9巻すべての目次に目を通してみましたが、私と同じ渡辺姓では、「弥五右衛門家」と「九郎左衛門家」の2家しかありませんでした。#後で知りましたが、この九郎左衛門は、大久保大和と名乗って自首してきた新撰組の近藤勇を偽名だと看破したことで歴史に名を残しています。結局、博物館ではなにもわからずじまいで、帰京して数日後に、、再度、彦根城博物館のサイトで、「侍中由緒帳」を検索してみると、「1~9巻刊行中、『以下継続刊行予定』」と書いてあるではないですか。侍中由緒帳は、80巻ある古文書のうち、32巻までを現代語訳したものです。したがって、33巻以降現代語訳が出てくれば、そこにご先祖に関する情報もそこに載っているやもしれません。ということで、さっそく、博物館に電話してみました。「あのう、ちょっとお尋ねしたいんですが、『侍中由緒帳』の続刊はいつ出るんでしょうか?」「少々お待ちください。」(待つこと数分‥)「お待たせしました。出る予定はないそうです。」「はぁ、そうですか‥。」それでも、ダメもとで、一応自分の先祖が彦根藩の下級藩士らしいこと、墓誌には1700年代以前の記載がなく、もともとの出自を調べられないかと思っていることなどを説明したら、電話口に学芸員の方が出てきてくれて、調べてみましょう、ということになりました。その場では「今日中ぐらいにはお返事できるかも‥。」ということでしたが、折り返しの電話はなんと10分後ぐらいにかかってきました。速ッ!「『渡邉十右衛門家』は侍中由緒帳の48巻に載っていました。」「もともとは京都町奉行の配下だったようです。」「え?京都町奉行?」「享保7年にそちらの職を辞して、4年間浪人し、享保11年に彦根藩に召抱えられたとあります。」「‥それはなぜでしょうか?」「そこまでは書いてありません。」「どういう仕事をしていたんですか?」「初代の十右衛門さんは、藩主の妻子の賄いや身の回りの世話をしていたようです。その後も代々、藩主の家族のお世話をしたり、藩校の先生をしていた人もいますね。」「それと、今の姓は彦根藩に来てからのもののようです。」「??」「京都町奉行所にいたころは、『森』という姓だったようです。」「そういうことって、あるんですか?どこぞの○○家から嫁でももらったんでしょうか?」「そこまで書いていないので、わかりませんねぇ。」う~む、事実は小説より奇なり、とはよく言ったものです。我がご先祖の十右衛門さまは、もともとは京都町奉行所の配下で、そこをなんらかの理由でクビになったか辞職した。その後4年間浪人し、享保11年に、これまたなんらかの理由で、彦根藩に召抱えられた。しかも、当時の苗字は、今の姓ではなく、森だった。そして、彦根藩に召抱えられて、これまたなんらかの理由で姓を変えた。こうして苗字を変えたということは、おそらく森家では長男ではなかったのでしょうね。石高は聞きませんでしたが、32巻に掲載されいてる家が110~150石程度であることを思うと、48巻のわがご先祖は、きっと数十石だったのでしょう。そういえば映画「たそがれ清兵衛」の主人公の石高が50石でした。そんな生活だったのでしょうね。それにしても、彦根藩って、スゴイ!と思ったのは、家老や殿様といった偉い方でなく、私のご先祖のような下々の藩士についても、出自をここまで追いかけられることです。調べてくれた学芸員の方は、「こちらにいらっしゃることがあったら、史料をお見せして説明できるようにしておきます。」と言ってくれたのですが、その後は行く機会がないまま5年が過ぎてしまいました。(この項、さらに続きます。)#なお、その後続刊の予定がないと言われた「侍中由緒帳」ですが、久しぶりにHPを見たら、09年よりまた続刊が刊行されて、現在11巻まで出ているようです。これももしかしたら「ひこにゃん」効果なんでしょうか?■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)
2012年01月07日
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2006年に前初めて先祖の墓参りをしたときのことを昔のブログ(FC2の方)に書いたことがあります。今回、自分自身の備忘録の意味もあって、再度こちらに掲載することにしました。なお、この記事は2006年の5月のものです。当時は「ひこにゃん」もまだ世に出ておらず、一部の城郭マニアや歴史マニア以外から彦根市が世間の注目を浴びることはあまりありませんでした。今の彦根市はかなり様相が違っているのだろうと思います。*******************知っている人は知っていると思いますが、我が家の姓は「渡辺」です。「ワタナベさんのナベの字は正式には、下が口(邉)ですか、それとも方(邊)ですか?」とよく聞かれますが、実のところ、当人は全くこだわっていなくて、「当用漢字の『辺』でいいですよ。」と答えています。ちなみに本当はどちらなのかというと、戸籍上は「邉」になっているので、そちらが正しいはずなのですが、祖父や父が入っている多磨霊園の墓には「邊」と記されています。この墓を造った祖父がなんらかの事情があってそうしたのか、それとも私同様、あまり気に留めていなかったのか、今となっては知る由もありません。私どもの家は、祖父の代に北海道から東京に出てきました。では、曽祖父の墓はどこにあるかというと、彦根市にあることは聞いていました(先祖はもともと彦根藩の下級藩士だったそうです‥)が、そうそう彦根を訪れる機会もなく、唯一墓を訪れたことのある祖母も亡くなって久しく、本家筋の遠い親戚とは全くつきあいもありません。そうなるとお寺の詳しい所在すら定かでなくなり、墓がどうなっているのかを知る由もありませんでした。亡き父がこの手のご先祖ネタに全く興味がなかった、というのが世代間の情報の断絶の大きな原因だったりするのですが、わたし的には、生まれて40年余、曽祖父やご先祖の墓参をしたことすらない、ということが気になっていましたし、渡辺のナベの字のゆかりについても知りたいと思っていました。それで、たまたま週末に名古屋に出張した際に、土曜日の昼の空き時間を利用して、ぜひ彦根に行ってご先祖の墓参りをしようと思い立ったわけです。ところが、まずお寺を探すのが難儀でした。祖母はよく「井伊家の菩提寺」と言っていたらしいので、それをたよりにインターネットで検索してみると、「龍譚寺」とと「清涼寺」というお寺が見つかりました。しかし、どちらの寺に電話して聞いても、該当するような墓はありません。そもそもごくごく下級の藩士に過ぎなかった私の先祖が、そんな大層なお寺に埋葬されているというのが変な話で、どこかで誇張されて伝わったのでしょう。彦根には4000を数えるお寺があるとかで、寺が判らないのではお手上げです。こりゃいきなり頓挫かな、と思っていたら、捨てる神あれば拾う神あり、で、親戚の叔母が、古い手紙の中から、だいぶ前に「園常寺」という寺で法要が行なわれたことを調べ上げてくれました。早速そちらのお寺に電話してみると、たしかに、祖父の兄、およびその子供たちの名前で登録されているとのこと。これでようやくお寺が特定されました。彦根に行くには、新幹線で「米原」で下車して、そこからひと駅。名古屋からだと約1時間の行程です。時間的には大したことありませんが、新幹線の往復と寺までのタクシー代で約10000円の出費と相成りました。初めて訪れた先祖の地は、よく言えば静かで落ち着いた、悪く言えば活気のない街でした。(前述のとおり、当時はまだ「ひこにゃん」は生まれていませんでした。)街の中央に彦根城があり、一部にはタイムスリップしたかのような古い町並みもあったりして、風情があるのですが、東京の喧騒に慣れた身には、あまりにもうら寂しく感じます。お墓がある「円常寺」というお寺は、「二代目君主のご母堂の菩提寺」だそうです。それで我が家には「伊井家の菩提寺」だと伝わっていたんですね。本尊は快慶作の阿弥陀如来で、立派な庭もあり、なかなか由緒のありそうなお寺でした。墓地に埋葬されているうち、9割は彦根藩の侍だそうですが、彦根藩が幕閣側だったことから、維新後はみな全国に散り散りになってしまったとのこと。私どもの先祖(曽祖父の父親)も明治維新の後、北海道に渡り、本家は今も札幌に住んでいるそうです。もっとも、その息子が東京在住ということで、年に1度ぐらいは必ず墓参に来ており、お墓も荒れ果てているようなこともなく、手入れが行き届いて綺麗なものでした。先祖の墓のナベの字はやはり「下が口(邉)」の方でした。墓誌を確認してみると、曽祖父はもとより、8~9代ぐらい前のご先祖まで、このお墓に埋葬されていることがわかりました。一番最初に記載されいてるご先祖は俗名を「十右衛門」といって、寛保元年(1741年)に亡くなっています。その後も十右衛門または重右衛門という同じ俗名が複数いるところを見ると、当主が通名として十右衛門を名乗っていたのでしょう。生まれて初めて、曽祖父のみならず、先祖代々の墓の前で手をあわせることができたことに少なからず感動を覚えたものです。ところで、このお墓に埋葬されているのは、寛保元年に亡くなった十右衛門さんだということはわかりましたが、そうすると、それ以前のご先祖はどこに埋葬されているのでしょうか?どこか別のところにお墓があるのか、それとも、墓誌に記載されていないだけで、この墓地内に埋葬されているのか、あるいは今となってはもはやわからないのか‥。もともと曽祖父の墓参りが主目的だった彦根訪問でしたが、ここにきて私は、この古のご先祖のことが気になって仕方なくなりました。(この項つづきます。)■ご先祖探し~その1■ご先祖探し~その2■ご先祖探し~その3■ご先祖探し~その4 ■ご先祖探し〜その5(完結篇1)■ご先祖探し~その6(完結編2)■ご先祖探し〜その7(完結篇3)
2012年01月07日
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主人公が気づくと、そこは戦場で、周囲で殺し合いが起きている。しかし、何故戦っているのか誰も知らない。実は、彼らはアンドロイドで、ゲームの中で、将棋の駒となって戦わされているだけだった。‥こんなストーリーのマンガを小さい頃に読んだ覚えがあって、いったい誰のなんという作品だったんだろうと常々思っていたのですが、ネットって便利ですね。適当に思いつく言葉を並べて検索したら、あっさりとヒットしました。永井豪の「真夜中の戦士」という作品で、復刻版も出ているようです。メジャーな漫画家のものだったんですね。他にも同じようなケースがいくつか。昆虫採集に行った少年たちが、不思議な世界に迷いこみ、その世界では逆に自分たちが「採集」されるという話。ラストで一緒に助かったと思った女の子の体が割れて、中から蛾が出てくるというシーンが、子供心に相当なインパクトを感じたものでした。これも案外簡単に見つかりました。件の作品は、「ぼくらマガジン」に掲載されていた、「ムロタニ・ツネ象」による「地獄シリーズ」の中の「虫地獄」というタイトルだそうです。同じ作者の「地獄くん」は、近年復刻版が出たようですが、この作品は復刻されてないようです。どこかで入手できれば、もう一度読んでみたいものです。ちなみに、ムロタニ・ツネ象は、最近は歴史マンガの作者として活動しているとか。これはもう少し大きくなってからだと記憶していますが、週刊雑誌(少年マガジン?)で読んでいたキックボクシングもののマンガがありました。作者は村上もとかだとばかり思っていたのですが、これは私の記憶違いでした。(村上もとか氏のサイトで確認した)それでも、「キックボクシング 週刊 懐かしの‥‥ 」などとテキトーに検索語を入れていったら、見つかりました。タイトルは、「紅の挑戦者」。原作は梶原一騎だったんですね。当時、対戦相手死亡、本人再起不能という壮絶なエンディングが頭にこびりついて離れなかったものです。さらにもうひとつ。図書館かなにかで読んだ怪奇モノで、赤ん坊を生んだあと、ひどく乳が張って苦しんでいる女の人が、姑(だったかな?)のアドバイスに従って、蛙に乳を吸わせたところ、それ以降蛙の霊につきまとわれる話でした。当時子供の私にとってはひどく恐ろしいストーリーで、読んだあとしばらくトイレに行くのが怖かったのを覚えています。作画のタッチからいって楳図かずおの作品かな、と思ったんですが、こちらはさすがに情報不足なのか、ネットで探しても見つかりません。たぶん70年代前半のマンガだと思います。何という作品なんだろう?実はこの作品、途中で読むのをやめてしまって、結末を知らないのです。読んでみたいなぁ。
2008年04月01日
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