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「すぐセブに行きなさい!」秋田出身で87歳になる東村山の母が電話でそう言った。翌日が日本行になっていた10月18日に、日本行をキャンセルして急きょ英語学校をやっているセブに行くことにした。10月15日に近くのボホールという所でマグニチュード7.2の地震があり、今まで経験したことのないような大きな地震で学校の教師、スタッフが怯えていると聞き、学生さんのサポート、建屋のチェックのためなどに行くことにした。日夜寝ずにサポートしている日本人スタッフのことも心配だった。母は、年に2回の私の帰国を楽しみにしている。私の方がもっと楽しみしている。河口湖の温泉もキャンセルした。移住の身だから、母とあと何度会えるのかと思うと、、、、。 セブで一週間が過ぎた。余震も落ち着いてきているがまだある。若いセブの教師にとっては私は、父親のような祖父のような年代で私がいるだけでも落ち着くようだ。来てよかった。壁の修復などもしている。日本人の学生さんは地震なれしている人も多く、先生スタッフを励ましてくれている。嬉しい限りだ。「お前にやってもらうと思ったこと沢山あったんだけどね。仕方ないね。」母は、いつも私が帰国するときに仕事リストを作って待っている。来年の1月に日本帰国を延期することにした。ということで、日本でお会いしたかった皆さま、1月に是非。母の仕事リスト、楽しみにしてる。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月27日
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サラリーマン時代、東京で接待に使ったのは赤坂にあった「ニュー・ラテン・クォーター」で、京都では、三条大橋にあった「京都ベラミ」だった。そして、自分達だけの社内接待に頻繁に行ったのが、六本木にあって男女のトイレが一緒だった「クラブマキシム」だった。因みに、このトイレで小用を足しているとき、「あ~らタコさん、お久しぶりね。」とミハルさんから背中を叩かれて立ち往生してしまったことがある。昼には全く元気のないサラリーマンの私、日が暮れると俄然守備範囲がぐーんと広まった。1978年の8月から1984年の9月まで、ある建設機械メーカーの海外営業部に籍を置いていた。その前の別の部署での2年半を加えると9年弱のサラリーマン生活だった。当時、赤坂には、「コパカバーナ」「花馬車」「ゴールデン月世界」「ミカド」そして、「ニュー・ラテン・クォーター」という大型ナイトクラブ、またはグランドキャバレーがあって、接待の場所には事欠かなかった。大型ナイトクラブ、キャバレーの全盛期が続いていた。その中でも、「ニュー・ラテン・クォーター」は、結構頻繁にお邪魔していた。英語の分るホステスも多く、外国人の接待にはもってこいだった。そしてあの、誰もが一度は乗ってみたかった「はとバス」夜の東京観光の中に、「ミカド」が入っていた。中国人のクライアントを「ミカド」で接待している時に、二階席にどやどやと「はとバス」の一行が入ってきてビックリしたことがあった。因みにこのクライアント、ホステスが膝に手を置くと震えていた。悪いことをしてしまった。私は、膝に手がないと震える方だったが。「ニュー・ラテン・クォーター」は何しろ店に入るときに下りる真っ赤な絨毯の階段が豪華にできていて、上品さは天下一品だった。トイレに専用のお世話の方がいて用が済むとサッとタオルをだす。そのたびに100円のチップを払っていて、オシッコなどと言ってはもったいない雰囲気さえあった。「タコさん、いいんだよ、すべて諸岡さんに任せておけば。」部長がそういった諸岡さん、ここの主のようなマネージャーで、すべては彼に話せばことがスムースに進んだ。どんな女性をテーブルに呼ぶとかは、担当の女性がいてその女性が仕切ってくれた。ここは、昭和38年に力道山が刺された所だった。力道山は、その一週間後になくなっている。あの時、39歳だったと知って若かったんだなと驚く。当時は雲の上のスーパーヒーローだった。幼稚園の頃、歩いて10分くらいの所にあったタバコ屋さんで、生まれて初めて多くの人と一緒にプロレスを見た時、怖くて怖くて震えて歯が鳴った。白黒テレビで小さな画面だったが、黒いタイツ姿の力道山が大きく見えた。「おい、この子震えてるよ。」っとどこかのオジサンに笑われて警察官の子供らしくない振る舞いを恥じた。「ニュー・ラテン・クォーター」のトイレに入るたびに、力道山のことが過ぎった。子どもの時のヒーローだったからだろう。小用の震えと、子供の時の震えが入り混じる。力道山が使った便器かと思うと拝みたい気にもなったものだが拝みはしなかった。ロサンゼルスから来いて「ニュー・ラテン・クォーター」で踊っていたダンサージョイを浅草に連れて行ったときは、180センチはあろうかというジョイの美貌と体型に俄然視線が集中してうるさいくらいだった。そして、どんな男が連れているのかと私を見る視線が「何だこの程度の男か!」的なものが圧倒的で、マゾ度100%の一日となった。分不相応、という言葉を肝に銘じた。1984年9月、私はサラリーマンを自ら辞めてオーストラリア移住を夢見、日本語教師になる勉強を始めた。当然、クラブ活動は終了、退職前に溜まりに溜まったクラブ請求書は潔く後輩に譲ることにした。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月14日
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「京都ベラミ」。広島で戦後生まれた有名人二人のうちの一人、かの山口組三代目田岡組長が1978年に狙撃されたクラブだった。因みに、もう一人の有名人とはあのダイエーの創始者中内功氏だ。私は、田岡組長がピストルで撃たれたその一年後にこの「京都ベラミ」を訪れて、面白い思いをさせていただいた。ここには同僚の社内接待で行った。父親が神戸大学の経済学部の教授だというKさんと、奥さんが元全日空のスチュアーデスのMさんと、母親が秋田の農家出身の私の3人だった。入り口でスーツ姿じゃない人は、スーツを貸してくれる。我々3人は、ずらっと並んだスーツから体に合った物を選び中に入った。さすが、カラーコンビネーションまでは儘ならず、一見田舎者集団風になってしまった。Kさんは、ほぼ丸坊主に近い髪型に太目のメガネをかけていて、声がだみ声でよく響く。体格は元プロレスラーのようだ。Mさんはちょっと品のあるお抱え弁護士然とした感じを出していた。20代の私は、使い走りだ。当時私は、建設機械メーカーの海外営業マンでインドを担当していたサラリーマンだった。だからKさんも、レスラーとかじゃなく同じ会社の先輩サラリーマンではあった。テーブルについた3人の女性のうちの一人にダンスに誘われた。ダンスといっても、今のようにロックンロールを踊れるわけでもなく、ただくっついているだけのあのてのダンスではあったが。踊った女性はあっちこっちがぶち当たる肉付きのいい、艶っぽい人で自分を抑えながら躍らせていただいた。「ねえ、あんた。ちょっと頼み聞いて欲しいんだけど。」こういうところで頼みごとをきいたことがないので、私は、金の無心とかじゃないかと思ってやや身構えた。「ちょっとね、ある人をやって欲しいの。」初めて会った者に頼むことだろうか。通常は三回くらい会ってからとかが似合う依頼ではないだろうかなどと思ったわけではないが、せっかく踊っていて張ってきた体が萎えていくのがわかった。「あのメガネの人、これでしょう?」と言いながら彼女は人差し指で頬を上から下になぞった。なんと、この女性はKさんをあっち系の方と思ったようで、そのKさんに殺人を依頼しているのだ。この女性、どんなにそうじゃないと言っても信用してもらえなかった。前の年に、山口組の田岡組長が狙撃された「京都ベラミ」のダンスフロアーでの出来事だった。そう思って、周りをみたらどの人もあっち系の人に見えてきてしまって急に怖くなってしまった。席について、彼女がトイレで外しているときに、Kさんにこの話を伝えると、ものすごい声を出して大笑いした。「タコ君もウブだね。そうだって言って騙せばよかったじゃないか。」Kさんはそう言って、尚も笑い続けたが、まるっきり冗談とも思えなかった。この人も怖かった。体だけはデカイ駆け出しサラリーマンだったころの話だが、ドロドロとした世界の洗礼はまだ受けておらず、物事を実直にしか捉えられない不器用さを引きずって一生懸命人真似しようとあがいていた。毎回、果敢にこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。タコ社長の本業・オーストラリア留学タコのツイッター Twitterブログパーツ
2013年10月04日
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