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今日も43度です。大汗かきながらパッキングです。今日の夕方、シドニー経由で日本に向かいます。しばらく、日記の更新ができないかもしれませんが、ご容赦ください。東村山の実家はダイヤル回線ですから、重たい人の写真(重たいで切って読んでください)とかは軽くしてからお送りください。それでは、行ってまいります。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月30日
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41、43、40、40。何かのサイズとかの話じゃない。今朝の天気予報で今日からのメルボルンの最高気温のことだ。24年目のメルボルンだが、いまだかつてこのようなことはなかった。100年来のことらしい。そういえば、今世界は100年に1度の経済危機。天気も後を追っている。メルボルンは、湿気が少なくてカラッとした夏、なんて言われる。それにしても40度を超えたらそんなことも言ってられない。猛暑だ。外を歩いていると息苦しい。今日の予想は41度だったが、実際は43度を超えた。そして、明日も明後日も43度変更された。歩道のコンクリートの上で卵焼きができる、とラジオで言っていた。こんな暑い中、日本への一時帰国が迫っている。行く前にやりたいことが山ほどあるが時間切れになりそうだ。日本では、あの人に会いたい、この人にも会いたい、あれも食べたい、これは残したい、などということが目白押し。でも両親と熱海の温泉に行きたい。これが一番。98歳になる伯母さんに30年ぶりに会うことにもなっている。本も売らないとやっていけない。そんなことの前に、この急激な温度差で東村山引きこもりとかにならないか心配だ。オランダ系の連れ合いの誕生日が2月3日、バレンタインデーもある。私は不在だ。これで、日本出張が不発にでも終わったら、、、。いやいや、これじゃタコ社長のポジティブが泣く。目一杯の笑顔でやっていくことにする。熱海の温泉、お勧めありましたらよろしく。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月28日
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夜のお仕事の統計が、私が勝手にメルボルンの朝日新聞と読んでいるThe Age紙に載っていたので何の気なしに凝視した。オーストラリアで夜のお仕事に従事している方々の平均年齢は29歳。その内、子持ちが40%、結婚しているか事実婚の方々が50%。大学生か短大生などは10%。そして、平均年収が$66,000だという。日本人のある旅行者が、オーストラリアから日本に帰って何かのインタビューで言っていたそうだ。オーストラリアでは、昼間から夜のお仕事の立ちんぼうさんが、沢山大きなビルの周りでタバコを吸っていると。よくよく聞いてみると、どうやらこれは極普通のオーストラリアの女性達が、ビル内禁煙で単に外でタバコを吸っていたということだったらしい。考えてみると、こちらの女性の服装やお化粧は、そんな誤解を与えてもおかしくないようなのが結構多い。私は決して非難をしたり、止めて欲しいとかいっているのではない。あくまで一現象として捉えている。さて、この夜のお仕事の方々の年収についてだが、わずか半年前まではこの年収を新宿歌舞伎町などを想定して円換算すると660万円。ところが、この半年の急激な円高で今の換算では何と400万円を切る。どうだろう、「私の年収は~」と言っていた金額が、換算レートでこんなにも変わってしまう。これを、「あ~」と言わずに何と言おうか?「い~」とか「う~」とかは言ってられない状況がある。実は、怒っている。私たちは、日本ではラーメンもおちおち食べていられない。すごい話がある。40年前は1ドルが400円。無理を承知で$66,000を換算すると仰天2,640万円。まったく、「あの日帰りたい♪」状態だ。そんなとんでもない時代があったのだ。因みに、今は60円。今週の金曜日に日本に発つ。日本の皆さん、お願いです。おごってください!下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月27日
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今日は、オーストラリアデー、建国記念日でお休み。友達の家で20人ほどでお祝いの酒盛り。何か理由をつけて飲むことが多い国だ。特に、個人的に文句はないが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月26日
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「タコさんさ、悪いんだけどね黒のレースのパンティーとブラジャー買ってきてくれないかな。」吉祥寺のキャバレーの呼び込みをやっていたとかいう話ではない。1996年、私は日本語教師を辞め日本のTVなどの制作会社の現地コーディネーター会社で仕事をし始めた。仕事の響きはいいが、ようは制作会社の末端の何でも屋だ。車の運転から、撮影の許可取得、撮影現場の下見と決定、食事の手配からホテルの手配など全てだ。手配料はまとまったお金になるが、時間があってないようなもので、時給にしたらたいしたことはない。まさに体力勝負の仕事だった。ウイリアムスタウンという海辺の町でモデル撮影の仕事を請け負った。服を着ての撮影ということでモデル会社と契約して撮影に入った。「下着姿の撮影もやっちゃおや。」撮影の途中で、突然制作会社の川崎さんが言い出した。渋るモデルを説得してやることになった。そして、私が、下着を買う役目になったのだ。町を走り回ってやっと下着屋さんを見つけて入った。元相撲取りのような大きなアジア人が、息をハアハア言わせて黒い下着を探している。私は必死だったが、店の人は訝しがって私を見つめていた。それはそうだろう。やっとのことで、言われたサイズのものを買って撮影現場に戻った。私はもうすぐ45歳になる頃のことだった。何を言われても「はい、はい。」と、腰を低くして小回りのきく男芸者のような仕事がこの仕事だったが、まったくゼロからスタートするにはちょっと年を取りすぎていた。変な頑固さとか、わがままの鎧はなかなか崩れない。全く初めて会った、年もあまり違わないこの川崎さんという人に何度も何度も怒鳴られた。幼稚園の頃から、怒られたり怒鳴られたりすることに弱い。反応が、すぐ顔に出る。ポーカーフェイスができない。半年してこの仕事は辞めることになった。実は、この黒いレースの下着の一件には続きがあって、この撮影の後モデル会社の社長に呼び出しをくらい、下着撮影なんて契約違反だと怒鳴られた。そして、大仰な追加料金をふっかけられた。結局、この仕事中終始怒鳴られていたことになる。自分で買った透け透けの黒いレースの下着を身に着けたモデルが、目の前で海をバック私に目一杯微笑みながら横たわる。今は、健康によくないので、こんな楽しいことしか思い出さないようにしている。それにしても、なかなかだった。「その下着、私が買ったんですよ!」下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月25日
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「ケツ?」日本人の女性と結婚しているボブと、オランダ系の連れ合いが同時に訊いた。先日、私と連れ合い、ボブと奥さん、そして日本人のご夫妻の3カップルで食事をしていたときのことだ。4人の日本人が会話するときは、日本語になってしまうことが多い。そんなとき、連れ合いとボブは英語で話している。「その話のケツロンはね、、、、」と私が言ったときに、連れ合いとボブがそれまで英語で二人で話していたのを止めて「ケツ?」と訊いたのだ。それから、話題が「ケツ」の話になってしまい話の流れが強引に変えられてしまった。外国人が始めに覚える言葉集。私は、日本語教師として簡単で便利な言葉として「どうも」を教えていた。どうも、ありがとうございます。どうも、すみません。どうも、どうも。しかし、自慢じゃないが「ケツ」などという言葉は教えたことがない。日本に2年住んでいたことのある連れ合いだ、結構こういう言葉を把握しているフシがある。気をつけないとならない。というのが今日の日記のケツロンとしたい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月24日
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メルボルンで最初に住んだのがセントキルダだった。週75ドルの簡易宿泊所に2ヶ月ほど住んだ。歩いて海に出られる便利さはあったが、低所得者が多く住み犯罪も多かった。昼間から酒を飲んだり、ドラッグでラリっている人もよく見かけた。私は職もなく、夢しかないときだったが、この町の人をみて落ち込むこともあった。自分の将来を投影したわけではないだろうが、この町に住んでいて気持ちがなかなか浮いてこなかった。一つ一つ丁寧に肉を焼いてくれるハンバーガー屋さんがあって、そこで大きなハンバーガーを買って、今はF1開催で有名になっているアルバートパークのだだっ広い公園の芝生に座り、一人でその特大ハンバーガーをよく食べた。このセントギルダの住人から見たら、私はここに住むに相応しいでかいアジア人の1人であったのだろう。「俺は、こんな奴らとは同じじゃないんだ。きっとすぐにこんな生活から抜け出して永住権を取ってやっていくんだ。」今考えると、粋がって傲慢な態度で考えていたものだが、そいう思いが逆にバネになって自分を後押ししてくれていたことは事実だ。二ヵ月後、日本食レストランでバイトが始まり、このセントキルダからトゥーラックというメルボルンの田園調布と私が勝手にいっている所に移り住んだ。といってもいわゆる一部屋のフラットだったが。見栄や変なプライドがエプロン付けて、見果てぬ夢をころもにまぶしてレストランで天ぷらを揚げる日々が始まった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月23日
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ヨットハーバーのすぐ横にある、ちょっと洒落たレストランで6人で夕食。潮の香りが食欲をそそる。おなじみ、3組で3枚のクーポンを使用して90ドルのディスカウントを獲得した。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月22日
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「タコ、エイズ大丈夫?」一瞬、耳を疑った。1年ぶりにメルボルンに戻ってきたオランダ人のアデールと再会したときのことだった。彼女が私にそう心配そうに聞くのだ。1985年7月オーストラリア入りしたときに、一ヶ月のバックパックバス旅行に出た。エアーズロックに向かうバスの中で彼女と話し始めて一緒に旅をすることになった。だいたい、旅行をするときは時計回りか反時計回りに回るので、同じ方向に向かう人が同じように流れて、バスで会ったり、次の町で会ったりすることが多い。バス旅行の途中の休憩場で自然の話が始まる。だいたい、バス旅行する人のほとんどが外国人で、日と恋しさをバックパックに入れて回っている。アデールは33歳で私と同じ年、話題が結構合う。因みに、彼女はオランダ系ではなく正真正銘のオランダ人だった。旅の終わりで別れ、オランダに戻っていった。彼女にはベンディゴというメルボルンから西に2時間ほど行った所に、移住した兄一家が住んでいた。そして、1年後に永住で戻ってきたのだ。1年間、2,3回の文通でかろうじて繋がっていた。今のようにメールなどない。まだ、何も始まっていない二人だった。久しぶりに会えた喜びもあったが、何だか乾いた会話が続いていて気だるくなった。そして、エイズ発言だ。オランダはかなり自由な国で、この頃既にエイズが大問題になっていたのだろう。アデールは少なくとも3回、私にこの質問を発した。仏の顔も3度まで。オーストラリアはゲイ多い。シドニーは人口比では世界一とかいう。しかし、渡豪を前に父からしっかりといわれた、「エイズだけはきをつけろよ」と。基本的には素直なタコ社長、その父の言葉を励みにやってきていたのだ。その私に向かっての発言だった。何だか分からないが、私は急に切なく惨めになってきて、予定より早くこの家を後にした。彼女には、私の存在全体がエイズに見えたのだろうか。そして、これが最後となった。ということで、エイズは私の守り神となって今の私があるということになっている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月21日
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日曜日、午後四時からオランダ系の連れ合いとカフェで飲み始めた。午後のワインは何だか酔いが早い、まだ宵のうちなのに。ポテトウエッジは、スイートソースとクリームをたっぷり付けて食べる。手が止まらない。スパイシーピザは、それほど辛味も強くなく、赤ワインに合う。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月20日
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今日、メルボルンは37度。テニスにはまったく関心がないが、いま全豪オープンテニスが開催されていて賑やかだ。26日はオーストラリアデーで祝日。子供の時日本では「旗日」といっていた。どの家も日の丸を掲げていた。あの頃は、当然そうするものだと思っていた。我が家の、平穏なベランダだ。我が家は一年中「旗日」となっている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月20日
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「豆腐屋のおにいちゃんったらね、ほんとうに失礼しちゃうわ。前の家の今井さんの奥さんのことはちゃんと奥さんっていうのにね、わたしのことオバサンだって。失礼しちゃうわね。もう、買うのよそうかしら。」まだ、母が30代後半のことだった。大正15年生まれの母は、ちょうど昭和の年と年齢がほぼ一緒で数えやすい。東京の練馬にあった警察官住宅に住んでいた頃のはなしだ。それまで、山形出身の親切ないいおにいちゃんだと褒めていたのに、この日を境に母はこの豆腐屋にあまりいい顔をしなくなった。10歳くらい年下の今井さんの奥さんと張り合っても仕方ないと、私は子供心にはそう思っていたが。まして、今井さんの奥さんは京マチ子風の色気のある方で、豆腐やのおにいちゃんも気があったのかもしれない。「おねえちゃん、元気になって本当に良かったって言われたよ。」戦争中から戦後にかけて、母は秋田出身の従兄弟の家に住んでいた。家は、世田谷の経堂にあった。ここの家の子供たちは、もう皆70歳に近いが、いまだに母のことを「おねえちゃん」と呼ぶ。こういう言い方は、一生付いて回るからこれからも変わらない。母はなんだか、この「おねえちゃん」という言葉が好きなようで、この言葉を発するときは若干オクターブが上がるように聞こえる。母の青春を過ごした世田谷の家の生活がこの言葉にもしっかりと込められているのだろう。タコ社長、ちょっと前まではこちらで日本語教師をしていた。英語を母国語にする人たちに日本語を教えていた。勉強して初めて知ったことも多く、また驚かせられることの連続でもあった。日本語の人をさすときの代名詞の多さ、というよりこれは無限に作り出されてしまう。こんなこと一つとっても、興味が尽きなかった。「奥さん」も「オバサン」も、そしてこの「おねえちゃん」も日本語だからこその機微がある。英語だったらどうなるのだろうか。名前とかになるのだろうか。母が、アイダホ生まれのアメリカ人とかじゃなく、秋田県仙北郡生まれの日本人で本当に良かったと思うのは、こういう日本語の懐の深さを見せ付けられるときだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月19日
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平均年齢が70歳を余裕で超えるパーティーに参加。分かったようなふりしているタコ社長。右隣は、1951年にオランダから移民してきたハンスさん、80歳。週に2回、バトミントンクラブに所属してプレーをしているという。左隣は、ドイツから移民してきているこれまたハンスさん、71歳。私は、この方々にはんすて(東北訛りで読んでください。)まだ50代の若造。みなさん、本当に元気で話が途切れない。こういうときは無口な人には拷問だ。「日本の植民地だったインドネシアから、戦後直接オーストラリアに移住したオランダ人も多いんだよ。」80歳のハンスさんがいう。おっと、ここは深入りしてはいけない、オランダ人への日本兵虐待の歴史の話が背景にある。私は、やや無口にならざるをえない。どこの国も、年長者は結構頑固で自分の意見を曲げない。これからは、タコのない骨を探しながら、一本筋を通していく態度も学んでいかないとならないと思うこともあるが、「そこはまあまあ」の国から来ている移住者タコ社長。硬軟選り分けてやっていくのが一番かなと思っている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月19日
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オランダ系の連れ合いが、いつになく静かだ。そういうときは大体、SUDOKUをやっているが、今回もやはりそうだった。「数は独身に限る」という数独だが、数だけじゃなくても独身に限ることもあるだろう。「ボケ防止にいいのよ。だからやってるの。」連れ合いはしっかりとした目的意識からやっているようだ。毎日挑戦している。私にとっての「ボケ防止」はなんだろうか。毎日、日記を書くこと、これは別に「ボケ防止」のためにやっているわけではないが、普段あまり使わない脳を少し作動させるにはいいかもしれない。得意のスエーデン刺しゅうなんかで指を動かすことも少なくなってきているから、キーボード叩きなんかも指の運動になっていいのかもしれない。「妹がこんなのくれたの。」そい言って連れ合いが目を輝かせながら言ったのは、SUDOKUトイレットペーパーだ。いったい、こういうのは誰が考えるのだろうか。感心してしまう。連れ合いは、まさかトイレではSUDOKUはやらないだろう。これで連れ合いには益々ウンが付いて回るようだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月18日
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昨日は、オランダ系の連れ合いの父親の75歳の誕生日だった。朝の10時前から、夜の10時まで、ひっきりなしに家族、友人が訪れる丸1日のバトルだ。タコ社長、在宅だったので連れ合いと二人で11時に出向いた。60代、70代の兄弟や友人が既に10人以上いた。いきなり、ケーキ2切れから始まり、昼食、そしてアフタヌーンティーを詰め込んで帰宅した。こちらの誕生日は、開く方も行く方も結構体力勝負的なところがある。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月17日
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大変なことになっている。タコ本ネタが続いて済みません。タイトル、「つれあいはオランダ系オージー」で検索したら、なんと「鬼嫁」タイトルがでてきてしまう。同名の方が似たよう本を先に出しているのだろうか、とは2秒くらいは考えてが、これはまずありえない。出版社に問い合わせたところ、枠取りのために仮題で出しているとのこと、出版前には代えるという。それにしても、困った仮題で課題が残る。今は、まず検索の時代だ。もうすこし、おとなしい課題にしてもらえたらと、ちと冷や汗ものだ。よくよく見たら、著者名も違う。これも仮題ならぬ仮名かも。出版までには、すべて正しく修正されるとのことで、一応安心はしているが。む~ん。出版とはことほど作用に苦労が多いものかと改めて知ることになった。因みに、この仮題は英訳は絶対にしない予定だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月17日
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タコ本の、待ちに待った表紙が決まった。興奮が続いている。まず、皆さんのご意見ご感想をいただきたい ♪下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月17日
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日本帰国の日程が決まった。1月31日に日本入りして約3週間ほど滞在する。今年の目標の極一部両親と何回か温泉に行くフォークギターを再開するイタリア語を生まれて始めて勉強するできるだけ多くの人に会うこの目標の一つを叶える意味でも、日本ではいろいろな方とお話したいと願っている。北は北海道から、南は九州沖縄まで、、、、の方々に、できるだけ東京へ出ていらして欲しい。それも、東村山あたりだったら最高だ。ゲートボールの盛んな神社を通り、大きなごみ処理場の横から、朝のウォーキングで得意の埼玉県所沢キャバクラ商店街などを隈なくご案内させていただきたい。ということで、日本の皆様ご迷惑でない限り、よろしくお願いいたします。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月15日
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昼は、一人でいるときは、そば二把、オランダ系のつれあいがいるときは三把ゆでて食べる。私は日本人だからそばを食べる早さが連れ合いの10倍くらいはやい。私は、そばが大好きだ。昼は死ぬまで毎日そばでいいと思えるくらいだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月15日
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出るようで出ない。隣の家のバリーさんの便秘とかの話ではない。タコ社長の本の話だ。タイトルがオロナインだ。こんなオヤジギャグとかいっていたら、本当に出なくなるかもしれない。私も、いくつかタイトルを出してはみたが、決めるのは出版社。タイトルを見て、6割くらい読んだ気になるようなものじゃないとならない。素直に納得。向こうはプロだ。タイトルとは、子供の名前のようなもの。但し、子供の場合はまだ海のものとも山のものとも分からない子供に付けるのだから、そうなって欲しいという希望的観測でやるのだろう。因みに、私の名前はどっから見ても海のもので、その後の人生をみてもすわりのいい名前だ。肩の凝らないタコ。と、ここまで書きかけていたら、いよいよタイトルが出てきた。つれあいはオランダ系オージー~タコ社長のポジティブな豪州日記~つれあいはオランダ系~タコ社長のポジティブな豪州日記~この二つのどちらかになるという。どちらにしても、私が希望した言葉が入っているので、まかり間違っても「鬼嫁」とかにならなくて本当に良かった。「これであなたは一生私から逃げられないわね。」タイトルの主が彼女であることを伝えると、オランダ系の連れ合いがそう言った。彼女にも沢山売ってもらうことにしよう。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月14日
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「じゃ、私が赤線でも青線でも連れて行きます。」それまで、静かに紳士然として話していたM総合商社の建設機械課の山田課長がそう言いきった。マレーシアの有力なお客さんと、我々メーカー、そして間に入っている商社の人とで、当時赤坂にあったヒルトンホテルの応接室で商談が終わりかけていた。皆日曜出勤だった。1970年代の終わり頃の話だ。商談が終われば、お客さんの食事や諸々の面倒をみる時間となる。こういう場合は、メーカーがコミッションを支払っている商社の仕事になる場合が多い。この日も、どちらで面倒をみるのかちょっと駆け引きがあった。そして、山田課長が諸肌脱いだ格好になった。私は、建設機械メーカー運輸部で輸出の仕事を2年して、海外営業部に転属になって間もない頃のことで、大きな商談にまつわる、いろいろな付帯条件についていろいろと知らないことが多かった。山田課長は、自分の若いスタッフにはいいよ、といって一人でお客さん三人を連れてタクシーでホテルを後にした。ネクタイを取った真新しくぴっちりとアイロンがけしてあったワイシャツが眩しいくらいだった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月14日
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「しっぽ巻いて帰って来ることだけは、しないでちょうだいね。」1987年3月、永住権を取得してオーストラリアに旅立とうとしていた成田で、母親が厳しい顔つきになって言った。オーストラリアの永住権の申請は、自分の国に帰ってからしないとならなかった。1年ちょっと住んでいたオーストラリアから帰国して、日本で半年結果を待ち念願の永住権取得となった。成田には両親が車で送ってくれた。親としては、ずっと海外に行ってしまうことへの複雑な思いもあっただろうが、それよりも「やっぱり駄目だった。」なんて帰ってきてもらっても困る、という気持ちがこの強い発言になったのだろう。飛行機の中で、何度も反芻していた。実はこの23年間、何度かしっぽを巻きかけたことがある。人間関係、仕事などいろいろな局面で壁にぶつかり跳ね返された。だが、しっぽが長過ぎて巻ききれなかったようで助かった。長いものに巻かれてしまったのだろうか。「今日は、赤飯炊いて切り干し大根を作ったよ。お父さんと二人で食べるよ。赤ワインも少し飲むよ。」秋田出身の母は、今日83歳の誕生日だ。電話したらそう言って声を弾ませた。切り干し大根の匂いが伝わってきそうだった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月12日
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武漢の大学で1週間仕事をして、連れ合いが戻ってきた。元気に戻ってきてくれたのが、何よりのお土産だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月11日
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メルボルンの夕刊フジ、ヘラルドサンから。どうして、こんなに楽しそうにできるのか、今度お会いしたときに伺いたい。それぞれの、思惑はまったく違っているかもしれないが、今年、またどでかいことをしそうな国の方々だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月11日
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風のガーデンDVD、週末にかけて全て見た。初めての倉本作品だった。緒方さんの演技が現実とダブって見ているのが辛かった。彼は、死んでいく息子の姿を見守る父親の演技を、どういう気持ちでやっていたのだろうか。この映画で一番注目してみていたのは、緒方さん以外には誰だったろうか。実は私の場合は、床屋役の石田えりさんだった。実はタコ社長、こう見えても石田さんとは一度メルボルンで競演しているのだ。1989年12月29日のことだった。年末ぎりぎりというスケジュール。日本でも上映されたが、日本ではあまりぱっとしなかった「AYA」という映画に、当時タコ日本語教師、レストランの客として出演した。残念ながら、この石田さんと一緒に食事をするシーンは、朝の7時から入って12時間もかけて撮ったのだが最終的にはばっさりとカットされた。これで、タコ俳優の道は完全に閉ざされてしまった。海外にいると、日本人が少ないのでこういう機会が日本にいるよりはずっと多い。「緊張することないわよ、たかが映画よ。」待ち時間などで彼女と話すことがあったが、彼女はこういって私も気持ちをほぐしてくれた。その肢体と共に堂々とした態度に役者の風格を感じた。英語でのシーンも結構あったが、しっかりとこなしていた。そこへいくとタコ日本語教師、セリフは僅か一言でしかも日本語なのに上がってしまった。普段は、「役者!」とか言われているのに、本番では唯の人、落ち着きがない。この経験を踏まえてこの後、いろいろと準備はしてきているのだが、残念ながら未だに全くお声がかからない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月10日
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「こんにゃくは、金玉の砂落としっていうくらいだから体にいいんだ。どんどん食べないと。」小学校低学年の頃だろうか、ある晩食卓でおでんのこんにゃくを食べていたら、現職警察官の父がいたって真面目にそう言う。まさしく、これは母に対してではなく、3学年上の兄と私への強いメッセージと受け止めた。父は、今は結構オジイギャグを飛ばしたりするが、当時はカチカチの父親を演じていた。たまに、拳銃を持ってかえったりもする。両親の発言は、有無を言わせず全て正しいと思えたころの話で、しっかりと頭にインプットされてしまった。だが、金玉から砂が落ちると何にいいのだろうか、などいう疑問まで頭が回らない年頃のことだった。このときからだ、金玉の中身の一部は砂だったんだと思い込んだのは。しかし、開けて見るのも痛そうだ。こういう訳の分からない発言は、時としてその後の人生を大きく左右することもある。子供のときの布製の海水パンツはだらんとしていて、海で泳いでいるときなど中に砂がよく入った。あまりに入って脱げそうにもなったりする。そんなときは、これ以上金玉に砂が入っては困ると大慌てになる。一生懸命横を開いて海水で洗ったものだ。昨夜、群馬のこんにゃくを一人で食べながら、ふと父の実直な発言を思い出してしまった。オランダ系の連れ合いは出張中で居なかったが、たとえ居たとしてもこのことは言えない。日本人の腸は西洋人より長い、と発言したときと同様、「本当に日本人はバカなことを言う。」と一蹴されるのが関の山。2月に帰国する。85歳の父に、あの発言の真意を問い質してみよう。しかし、たとえ真意が分かったとしても、慈しみ培われた56年の玉の記憶が上書きされるわけではないが。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月10日
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週末にオランダ系の連れ合いが中国の出張から戻ってくる。独身最後の夜だ。晩御飯の材料が揃った。どう料理するかが問題だ。大食いを卒業したのに、こういう夜は全部一人で食べたくなる。冷凍のご飯は、ちょっと量が多すぎるが。一人だから悪いことができる。群馬のこんにゃくと、オーストラリアの大根、丸いさつま揚げ。自分で褒めたいくらいうまかった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月09日
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会社の新年会、食事のあと本当にメルボルンでは久しぶりにカラオケへ。まずは電球をしっかり握ってウォーミングあっぷ。社長!うまい、うまい、とみなが言う。どうやら、後ろの絵のことだったようだ。厳しい経済状況のなか、わが社はカラオケで元気をもらい新しい年スタート!下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月09日
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「タコ、これからもギターで歌を歌い続けてくれ。神様の賛美の歌を。」1974年、アメリカの3ヶ月に及ぶ旅も終わりに近づいていた。投宿していた家の75歳になるおじいさんがそう言った。おじいさんは全く歯がない。食事は、おばあさんがすべてすり潰して作っていた。舌だけをちょこちょことおちょぼ口から出て言うものだから、私にはとても聞き辛かったが、このときは何を言っているのかはっきり分かった。私は、おじいさんの前で2曲ギターを弾きながら日本語の歌を歌った。おじいさんは、涙ぐみながら聴いていてくれた。がさがさの両手でしっかりと私の手を包むようにして握ってこう言ったのだ。クリスチャンの教会の家族と一緒にアメリカ中を歩いた。習いたてのフォークギターを持っていって、毎週違った教会で日本語のフォーク賛美歌を歌って歩いた。ワシントン州のタコマの教会では700人の人の前で歌った。あの頃、私は熱心なクリスチャンだった。そ「お前は、本当にうるさいね、戦争、戦争って、何か他の歌はうたえないのかい?」学生時代家の二階で、よくギターで「戦争を知らない子供たち」を歌っていて一階の母に文句を言われた。その後、だんだんとギターにも触らなくなり、就職して歌の方はカラオケに場所を変えて続くことになった。教会にも全く行かなくなった。先日、こちらの本屋で「ギター教習DVD」セットが売っていたので、連れ合いに言って買ってもらった。連れ合いから私へのクリスマ指定プレゼントの一つとなった。ギター自体はクラシックギターを20年くらい前にこちらで買っていて持っている。やっぱり、一人になったとき歌った歌は「戦争を知らない子供たち」だった。神から離れてしまった今はフォーク賛美歌の方は歌えない。たとえ、覚えていたとしても、今は歌えない。私のレパートリーは本当に限られている。歯のないおじいさんの言った言葉は、ギターを抱えるときいつも蘇ってくはくるが。歌と音楽、これからもどんどん人生に取り入れていきたい。そして私の場合はこれにロックンロールダンスを加えて、これからくるであろう大変な時代に臨みたい。これら3つをしながら怒るのは至難の業だ。時代を考えながら、まさに「えじゃないか」の心意気といいたいところだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月08日
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毎朝、タコ社長が愛飲している健康飲料だ。健康には良さそうなのだが、のど越しがイマイチこれだけが朝ごはんのときもあるこちらの乾物屋で買えるきな粉と黒ゴマの粉末をまぜて、スプーン2杯生姜のすり身を少々匂いのきつい黒砂糖を少々 こちらでは馬に食べさせているとのこと タコ社長、馬並普通の紅茶 2回以上使うことが我が家の規則寿司屋の湯呑並みの大きさの湯呑にすべて入れ、お湯を注ぐ下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月08日
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私が物心ついたときからずっと母は内職をしていた。大学生のとき母は内職を辞めて、近くのプラスチック成型会社にパートのオバサンとして働きに出た。警察官は安月給だ、母が働かないと大食いの私と兄を食わせられなかったのだろう。そんなことを知らずに、弁当のおかずに文句を言ったりして、今本当に母と父に申し訳ないと思っている。3年後に倒れるまで母はここで働いていた。当時、母は身長が154センチ、73キロだった。病気したので今は50キロになっている。「八ちゃんがね、オバサンとこの息子すごく仕事するよって言ってたよ。一番だってさ。」私は大学の1年生のとき母が働いてるこのプラスチック成型会社中央産業で夏休み中バイトをしていた。そこに、やや知恵遅れの17歳の八ちゃんという子が働いていて、その子が母にそういったという。1972年、7月から8月にかけて約一ヶ月間半、生まれて初めて母と一緒の職場で仕事ができた。後にも先にもこれ一回だったが、今思うと私にとっては掛け替えのない毎日だった。私は、母の手前もあり一生懸命真面目に働いた。そんなある日、8月16日のことだった。どうして、いまだに日付を覚えているのだろうか分からない。その年の6月8日に忽然と私の前から消えた、ジーンズの似合う松田早苗さんから電話があった。父は泊まりでいなく、兄は留守で母と二人だった。因みに彼女以外にジーンズが似合う人と思ったのは中野サンプラザで見たリタ・クーリッジの他にいない。「電話だよ。」母が夕食のときにかっかってきた電話を取り次いだ。「私、早苗。」私は一瞬、呼吸が止まるほど驚いた。6月13日の私の誕生日に、一生の思い出を作ろうといっていた早苗が、その5日前に消えたのだ。僅か一ヶ月半の交際だったが、一つ年上でその時婚約者もいて、それでいながらすべてから逃げていた彼女と知り合った。初めての大人の恋の第一歩だった。正直のところ、13日を迎えるのが怖くなかったといえば嘘になる。しかし、この人とこれからずっとと願っていた人だった。もう心に決めていた。その人がある日突然にいなくなったのだ。「ごめんね、あんな形でいなくなって。」「今、どこにいるの。」「金沢の友達のところにいるわ。探さないでね。」母は彼女のことをほとんど知らない。というよりも、誰も彼女のことは知らない。誰にも会わす機会さえなかった。そんな関係だった。食卓に母を一人にしているのが気になったが、私は早苗と電話を続けた。「家出の翌日にお兄さんに会ったよ。早苗の机の中から僕の住所を見つけたらしい。」「そう。」彼女は低くそう言ったっきり何も言わなかった。「元気でね。じゃ、切るわ。さようなら。」しばらくして彼女がそういった。初めて、死ぬほど好きになった女性、1951年10月25日生まれの早苗と私の最後の会話はこれだけだった。食卓に戻り、母には電話のことをほとんど話さずに食事を終えた。母も、何も聞かなかった。翌日も中央産業で何もなかったように母と一緒に仕事をした。19歳の夏休み、私は心をずたずたにされながらも笑顔で毎日プラスチックの加工の仕事をして過ごした。母は、それ以降も一切早苗の話をしたことはない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月07日
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タコ社長、竹を割ってギザギザとささくれ立たせたような性格とよく言われる。竹を割るところまではいいのだが、その後がいけない。年を重ねてくると、どんどんと丸くなる部分と、そうでない部分が両方あるようで、なかなか「可愛いオヤジ」とか「目の中に入れても痛くないタコオヤジ」とか言われるようにならない。秋田と栃木の混血で、寒い季節をじっと我慢して本心をなかなか表さない裏が好きな性格。それに加えて、B型の双子座ときている。こういう人間と一緒になってくれているオランダ系の連れ合いには本当に感謝が絶えない。人生150年としたら、120くらいになったら少しは自慢できる性格になっていくのだろうか。みなさんにも、そこら辺を見届けていただきたいと願っている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月07日
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クリスマスプレゼントにもらったワイングラス。ブランディーグラスのように暖めながら飲む。ここが私のタコ壺。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月07日
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オランダ系の連れ合いが中国に行っていて、家の中が本当に静かだ。見たかったDVD、「風のガーデン」がもう既にこちらの中国系のDVD屋さんで売っていたので早速買って見てみた。ストーリーの事前知識はなかったが、亡くなった緒方拳さんを偲ぶ意味合いもあった。「明日の記憶」「象の背中」と辛い映画をみてきていて、今回のドラマだ。まだ2話しか見終わっていないけど、もう消化不良。世の中、悲しいことが多すぎるのに、DVDを見ても悲しかったら、もう風呂入って寝るしかない。それに今は一人だ。このDVD、2枚入っていて値段は$35。日本円で2300円くらいだろうか。確かに安い。よくこの店で買っている。「お土産はいらないけど、安い日本のDVDがあったら買ってきて。」連れ合いに中国からのDVDを頼んだ。日本の100円ショップの信奉者の連れ合いだから、100枚くらい買ってきてくれるかもしれない。ところで「風のガーデン」、ちょっと地味な中年の女性がいるなと思って、誰だろうとよくみたら、何とあの憧れだった蘭ちゃんではないか。メイクの違いなのかどうかは3本目以降を見てみないと何ともいえないが。「風のガーデン」ガッツさんなんかも出演しているし、いろいろな見方をしながら最後まで見てみたい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月06日
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妬まない怒らない愚痴らない休み中に読んだ本の中に書いてあった三毒追放を、私も自分の生活に取り入れたい。私は、割と人に影響を受けやすいタイプの人間。表面的という批判もあるにはあるが。5日の仕事初めで、会社のスタッフにこれを伝え、皆もこれから学んで欲しいと話した。職業に卑賤なし、という言葉がある。風呂屋の三助も一国の首相も、職業というくくりでは同じだというのだ。だから、三助が高級料理屋で毎晩宴会の首相を羨んだり、首相がたまに番台に座れる三助を妬んだりするのはお門違いなのだ。妬んではいけないのだ。病気にも卑賤はない筈だ。整形手術とか豊胸手術などは病気ではないので除外する。たとえば、胃潰瘍の手術をした人とイボ痔の手術をした人がいるとする。それぞれが、会社の重役なんかで、年頭の異業種懇親会なんかで挨拶があったとしよう。前者の重役は、「昨年は本当に大病を患い、胃潰瘍の手術をしましたが、お蔭様で今はこの通り元気になっております。ハッハッハッ!」とかの挨拶が、なんのわだかまりもなくできる。では、後者の場合はどうか。各界のお歴々を前にして、そんな手術の話ができようか。今、この日記はランキングに参加させていただいているが、病気にもランキングがあるのだろうか。胃潰瘍は、イボ痔より偉いのだろうか。そうであるならば、一体どこが偉いのだろうか。なぜ、イボ痔は日陰者なのだ。ここから、イボ痔の妬みが始まる。こんなことを考えていると、だんだん怒りがこみ上げてくる。世の中、すべて不平等だ。なんで三毒追放などという本を読んだのだろう、なんていう愚痴の一つもいいたくなってきた。妬まない怒らない愚痴らないこういうことを他の人に偉そうに言うことはたやすい。言ってしまったことはもう取り返しがつかないが。タコ社長、来年の会社年頭挨拶の内容は決めてある。「不言実行」だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月06日
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写真は日本名、「笑いカワセミ」といわれる「クッカバラ」だ。何だか、悲しそうでもあり、怒っているようでもある。単に、お腹が空いているのだろうか。鳴き方が、笑っているように聞こえることからの命名だろう。本人(本鳥)は迷惑に思っているかもしれない。クッカバラはどんなに満腹になっても、笑顔は出てこないだろう。この肉食鳥は完全に名前負けしている。しかし、見た人に笑顔を作らせるという意味であるなら話は別だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月06日
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「タコさん、本というものは書いただけではだめなんです。タコさん自身が積極的に売っていかないと。著者が精力的に活動してくれるのが一番効果があるんです。」出版関連の方から、強いコメントをいただいた。不況の中で、出版社が一番売りたい安全パイ本は、有名人の本。必ず売れる。メルボルンでチョコチョコ頭を出しているくらいの無名人のタコ社長の本など、基本的には買う人がいない。だから、著者自身が必死にならないと売れないということのようだ。小学校のガリ版刷りの文集以来、本を出すなんてことは初めてだからまったくもって、徒手空拳、暖簾に腕押し、糠に5寸釘。じゃ、まず有名人になることが先決だ、などと思っても手が後ろに回ることくらいしか考えが及ばず勢いがつかない。それに、そんなことにでもなれば元警察官の父に申し訳が立たなくなる。ということで、タコ社長の目の前にある問題は、実は数学の複雑な方程式を解く問題とかじゃなく、単純な足し算のようなもので、唯々売っていくしか回答が見えてこないことらしい。ようしこうなったら、富山の薬売りとか、青森の味噌漬け屋とかみたいに、山と積んだ本を大きな風呂敷に包んで行商よろしく売り歩かないとならない。因みに、「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」著者の方は、最初この本を本当に背負って売り歩いていたらしい。これも、ありの世界のようだ。昔、シャワートイレをメルボルンで売っていたことがある。11台売った。日本のサラリーマン時代は120トンとかのダンプトラックとか、1台数億円のブルドーザーとかも売っていた。シャワートイレは別として、ブルドーザーは背負っては売り歩けないが。今までの人生で、モノを売ったというのはそれくらいしかない。ということで、話のぎっしりと詰まった紙を売り歩かないとならない。カミといえば、だんだん薄くなる髪の方も心配だし、神にはとうに見放されているだろうから多難な前途が待っていることは間違いない。しかし、根っからの楽天家のタコ社長、メルボルンにいるオランダ系の連れ合いの一族郎党が、読めないタコ社長の日本語の本も買うといってくれていることもあり、安心な部分もある。オランダにいる純粋のオランダ人の親戚もそういっている。16世紀の前半、世界はオランダに支配されていた。その末裔の方々の心強い発言が続いている。オランダが味方についている。2月に出る本が売れても売れなくても、これほど多くの人々から応援を受けられたことは、中学3年のときの東京都陸上競技大会の砲丸投げ決勝以来の出来事いらいのことで誠に喜びに絶えない。「今は、アマゾンがあります。」ブラジルの裸族とかの話ではない。知られていない本でも、アマゾンドットコイ、とかいうのがあって知らないうちに売ってくれるらしい。これからはやはり本の世界もBRICの時代か。連れ合いが中国で、タコ社長一人で赤ワインを飲んでいて朦朧としてきた。酔っていてもこうして日記を書いている。病気だろうか。では、皆様、お休みなさい。ベストセラー作家になった夢でも見て寝ようか。因みに、ある本を10万部売るとベストセラーとなり、人はその著者を「作家」と呼び始めるとのこと。私の場合はどう逆立ちや又裂きしても、まさっか、止まりであろうが。
2009年01月05日
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ブランチにフレンチトーストを頼んだ。横に塩味のベーコンが添えてある、というより幅をきかせていた。料金アップのために載せているとしたら頂けない。そう思いながらもしっかり完食。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月05日
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赤坂のバーでアメリカ人のロジャーと飲んでいたら、急に黒いフリルのスカート姿の白人女性が長い髪を振り乱して踊りだした。だらけたバンザイをするしぐさで腰を落としセクシーに踊る。かかっている曲は、Greg Kihn BandのJeopardy だった。私は、その挑発的な踊りをチラチラと見ながらロジャーとウイスキーのオンザロックを空けた。実は、そのときはこの曲のことを知らなかった。妙に記憶に残り後で知った曲だ。聴くたびに、あの白人女性の艶かしい姿が浮かぶ。スローロック調で気だるく踊る曲だ。思わず体が動く。この曲は1983年に大ヒットしたようで、そういえばロジャーと会ったのもその年のことだった。ロジャーは、当時私が勤めていた建設機械メーカ大松のニューギニア代理店の責任者だった。金髪を短く刈り込んで、スティーブ・マックウィーンばりの色男だった。私は、年はあまり違わなかったが担当の平社員で、このロジャーから仕事上いろいろと学ぶことが多かった。仕事が終わって、飲みに連れていって酔っても決して乱れないであくまで大人だ。「会社を辞めるんだって。ビックリしたけど、すごい決心だ。タコはきっとオーストラリアで良い日本語教師になるよ。」翌年、脱サラしてオーストラリアに行くと手紙で伝えると、ロジャーが丁寧に手紙書いてよこした。仕事では、可也きつくいろいろと要求されたロジャーで喧嘩もしたこともあるが、この優しい手紙には大いに励まされた。そのロジャーが最後に一言手紙に付け加えていた。「元々、出来上がったリーダーなんかいない。リーダーとは作られるもんだ。タコ、元気に頑張ってくれ。」そのときは日本語教師を目指しており、まさかタコ社長になるなどとは夢にも思っていなかった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月04日
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一体全体、何を撮ろうしたのか全く記憶にない。子犬だけが知っている、、、。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月04日
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「連れ合いが一週間出張で中国に行ってるだよ。」秋田出身でいまだ色白もち肌自慢の母に電話した。今、82歳の母は85歳の父と元気に東京は東村山で暮らしている。「そうかい、大丈夫かい。羽伸ばしすぎて悪いことしちゃだめだよ!」タコ社長、今年57歳になる。この年になっても、母に信用がない。私の過去を知り尽くしている母には、今もって全くもって頭が上がらない。放っておくとすぐに悪いことをする悪ガキの域を出ていない。「分かった、分かった、大丈夫だよ。」どんなに転んでみても、今できる悪いこととは、この間水に落として駄目にしたipodを黙って買い換える、毎晩スタッフと飲み歩きカラオケなどに行く、毎日まったく掃除をしない、好きな60年代、70年代の音楽を聴きまくる、連れ合いが帰ってくるまでベットメイキングをしない、一番高い我が家の赤ワインを飲んでしまう、家に帰ってもず~とPCの前に座っている、もう絶対着ない服などを大量に捨てる。どう考えてもこれくらいしか思い浮かばない。自分の品行方正を褒めてあげたくなるほどの人生だ。どんなに年を取っても頭が上がらない人が一人はいてくれると、本当に泣きたいほど嬉しいものだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします。
2009年01月04日
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昨夜、オランダ系の連れ合いが中国への出張に出かけた。いつも感心するのだが、パッキングが実に潔い。連れ合いは、気質のしっかりしたゲルマン系で、血液型は間違いなくA型だ。私は、言わずと知れたB型の双子座、どうしようもない。これから家の中が限りなく汚くなっていくことが可也の確率で予想される。救いは、出張がわずか1週間ということだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月03日
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もう20年以上前の話だが、クリスマスイブにメルボルンを発って、5日かけて海岸沿いを車でシドニーまでキャンプをしながら上がったことがある。その頃の連れ合いと二人の旅だった。天候に恵まれ暑い日が続いた。オーストラリア、至る所に設備のしっかりとしたキャラバンパークがある。キャラバンパークといっても、キャラバンカーなしでテントだけを持ち込んで、場所を借りてそこにテントを張って投宿できる。トイレ、シャワーなどは共同だが大きいのでそれほど問題もない。生まれて初めてのキャンプの旅で気持ちは大いに高まっていた。NSW州のトゥーロスヘッドという海沿いのキャンプ場に2泊した。母方の秋田の血を半分引くタコ社長、自慢のもち肌をビーチで太陽にさらす。子供の時から横須賀の海岸で夏を過ごしていた私は、なんと言っても海がいい。持ち込んだサンドイッチの昼食をはさみ、なんと都合6時間も体を焼いた。そして、これが地獄の始まりとなってしまった。考えてみなくても、強い太陽の紫外線に6時間も身をさらしていたわけで、結果日射病にかかってしまい、その夜は熱と吐き気で唸なりながら七転八倒。更に、もち肌大いに焦げてしまい、横にもなれないほど熱く痛い。もう二度とビーチはいい、と思った訳ではないが、それからも続く海岸沿いの日々が恨めしくなってしまった。後遺症が残った。もち肌が縞肌になり親に顔向けができないほどになってしまった。今もごくごく限られた一部の方々の観賞のみに耐えるしかない始末だ。「あれ?私が貸したテントは銀色だった筈だけど。」旅行からやっと帰って、旅行中に撮った写真を友人に見せた時、写っているテントを見てその友人が発した。写真のテントは緑色だった。「そんなことないですよ、これは借りたテントです。」「裏返しだったんだよ。これ。」やはり友人のテントだったが、どうやら5泊、毎日テントを裏返しに使っていたようなのだ。夏で日差しが強いので、直射日光をできるだけ跳ね返すように銀色の面を外にするように作られていたとのこと。してみると、あの日射病の夜、テント内も日射病にかかっていたようだ。というわけで、最初で最後のオーストラリアテント旅行、暑く熱い思い出となっている。下の箱をポチッとクリックお願いいたします。
2009年01月03日
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夏はバーベキューの機会が多くなる。プロパンガスで焼くのが基本。ガス欠にならないようにしないとならない。肉、魚、野菜など、毎日のように使っている人もいるという。ビールの美味しい季節だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月02日
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オランダ系の連れ合いが、本日から1週間中国に出張する。オーストラリアは正月は2日から通常の生活にもどり、お雑煮気分などまったくなくなる。もっとも我が家では100%おせち料理フリーだから、元より正月気分などないが。連れ合いは以前は、私より我が家の老猫ルーシーのことを心配しながら出張していた。私は放っておいてもしっかりとエサを見つけられるが、ルーシーは老いていてネズミとかもなかなかまま成らないので、私が面倒をみないとやっていけない。そういう心配が連れ合いを大いに不安にしていたようで、飛行場の別れではもっぱらルーシーの話になっていた。そのルーシーも昨年他界しており、今回の出張はわりとスムースにスタートしそうだ。連れ合いの家族や友人は、基本的には連れ合いがいないときにはコンタクトはほとんどなくなるので、私はこれから一週間チョンガー生活になる。(古い言葉で若い方は分からないだろうが、今風にいえばシングルライフ。語源は韓国語らしい。)ここで私は考える。私のオーストラリア生活とはいったい何なんだろうと。連れ合いがいなと唯の日本のオヤジになりきってしまう。会社に出ればスタッフは全員日本人、家に帰って卵ぶっかけご飯なんかで晩御飯を済ました日にゃ、一体自分はどこにいるのかと疑問に思えてしまう。連れ合いが日本人で秋田出身とかだったら話は簡単だ。日本人夫婦がよその地に住んで根を張ってやっている、ということになる。私の場合は、中途半端が付きまとう。正月から普段使っていない頭を使って考えたりすると、ろくなことはない。回答のない問題は棚上げして、今年はあまり物事に拘らないで、自然体でやっていこう。本来は、死んだ振りとかが似合っているタコ社長、悩むと心配な髪にも悪いし。ということで、明日からは切れている梅干とかを買い込んで気ままにやっていくことにする。あっという間の1週間だろうし。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月02日
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謹賀新年。明けましておめでとうございます。いかがお過ごしでしょうか。去年のことをいうとオニが怒る、といわれているかどうかは未確認だが、昨夜の大晦日の話。30人ほどで中華料理屋の二階の年越しパーティーに呼ばれたので行ってきた。始まったのが7時半で、家に帰ってきたら翌年の1時半になっていた。なかなかの長丁場だ。年代がほぼ同じの集まりで、半分以上は初めて会う人たちだったが赤ワインの後押しもありすぐに打ち解ける。11時からはダンスもスタート大変な騒ぎとなる。日本のようにコタツに入りミカンに年越し蕎麦とかとはえらい違いだ。因みにタコ社長、日本にいるときは独身だったので一人机に向かい、今年逃げられた女性をいつくしんだりして一年を振り返っていたものだ。中華料理屋でデスコも味がある。曲は私も知っている70年代の曲ばかりで全員大合唱で踊りまくるが私は一緒には歌えない。ちょうど日本でいえば、みんなが知っている三波春夫さんの「チャンキおけさ」を歌いながら皆で踊るといったところだろうか。因みに、幼稚園の頃父と同じ年の三波春夫さんに豊島園で握手をしてもらって、歌の世界に進もうかと思ったこともあるが、その道は残念ながら叶わなかった。そして、年越しのカウントダウンとなり年が明けると、そこらの人みなとハグして派手なお祝いの挨拶。それからまた1時間ほど踊って帰ってきた。今日の元旦、8時に起きてまず野菜畑に2本植わっている菊芋に挨拶。どういうわけか、急に納豆が食べたくなりパックを取り出し、120回くらいこねくり回して、日本及び日本の家族、友達を思い一人で食べた。納豆がねばって私を日本に引き戻してくれる。オランダ系の連れ合いはまだ寝ていた。仕事以外で今年やりたいことを考えてみた。フォークギターをしっかりと弾けるようにしたいイタリア語を勉強したい妬まず、怒らず、愚痴らないをモットーに生活したい連れ合いとの時間をもっともちたい二冊目の本を出版したい自給自足の道を歩み飢饉がきても食料だけは確保したいたまには、本を最後まで読みきりたいロックンロールダンスを踊り続け、江戸時代末期のような「えじゃないか」運動が起きたら真っ先に参加したいこんなことが頭に浮かぶ。本年もいろいろとあるだろうが、皆様とこうしてお知り合いになれたのも何かの縁。この縁を更に強くさせていただけたらと願っております。よろしくお願い申し上げます。オランダ系の連れ合いの友人ともう、どうにも止まらないポチッとクリックお願いいたします
2009年01月01日
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