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先日、牛丼屋に行った折。高校生たちが馬鹿騒ぎをしている。うるさいとは思うのだが、眉をひそめるほどではない。かと言って、元気でいいねえなどとも思わない。だって彼らは仲間と一緒のときとそうでないときの差があまりにも激しいから。 集団心理というものが如何に怖いものかはよく知っている。そしてまた情けないほど人をつまらないくだらないヤツにさせてしまうものであることも熟知している。 阿諛追従(あゆついしょう) 大嫌いな言葉の一つ。率先して悪いことをするヤツ許せない。けれど のせられてやるヤツは決して無罪ではない。 彼ら こんなんで明るいと思ってはいないだろうか。こういうのは明るいとは言わないのだ。よほどの人嫌いではない限り、気心知れた仲間といれば騒ぐことも明るくなることもできる。肝心なのは自分自身がその明るさの点火剤になれるかどうか。あるいは周りを照らすあかりになれるかどうかである。 営業一つとってみてもよくわかる。まさか集団で営業するわけには行かない。そこまで人件費にゆとりのある企業はそうはないだろう。必然的に一人もしくは少人数での営業となる。そこで明るくやれるか、顧客を笑わせることができるか。それが能力というものだろう。 もちろん集団で行動できることも大切だ。プロジェクトチームの中で自分の仕事を見つけることも。ただ、そこでも間違えてはいけないのは自分の所属する面子を選ぶことができるのはよほど能力を認められた人間だけであるということ。自分自身が所属するグループのメンバーは自分で選ぶことはできない。アイツとともにこの仕事をやれ と言われとりあえずそいつと口がきける人間。そしてその上で役割分担などして自分にできることをこなせる人間。 牛丼屋で大勢で騒いでいた高校生や居酒屋でサークルやコンパで馬鹿騒ぎしている大学生にはそういう力があるのだろうか。 社交性とは 自分本位でないメンバーを対象にしたときに はじめて問うことができるものであると思う。
2005年06月27日
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いわゆる記録フェチなところがある。自分自身が読んだ作品を何かの形で記録に残しておかないと気持ちが悪い。そんなわけでいわゆる図書館は利用しない。なぜなら読んだ本が残らないから。古本屋は(う~ん 文筆で糧の一部を得ている者として言いにくいのだが)使ってます(ちぢこまり)結構頻繁に使ってますはい。どうにか死ぬまでにこれまで読んだ作品の感想を全部書き上げようと思うのだがなかなかどうして一番困るのは書いている間は読むことができない。ぼくの読書スタイルというのは独特で常に数冊カバンや車に本が入っていて1冊読んだら次を買いに行くという形式ではない。だから読み終わったときには既に次の本がぼくを手招きしていておいでおいでするのだこの誘惑を振り切るだけのモティベーションがあるとすればむすことむすめとの和気藹々とした時間か見目麗しき女性とのおしゃべり次の作品を手にとるともうダメ感想など書いているのが煩わしく。いつかなんとかしてプチリタイアして思う存分に本を読んでやろうという小市民的な夢をもっている。前置きが長くなった。『鉄塔 武蔵野線』 新潮文庫。(続いたのは偶然)一部の方々の間にはかなり有名な作品である。何が有名か。この作品文学賞受賞を狙う人たちへこういう方法論もあるのだと画期的な提示をしてくれた作品なのである。第6回ファンタジーノベル大賞受賞作。内容は小学校5年生の少年が鉄塔に魅せられ番号がついていることに気がつき1番まで順にたどってたどり着いてやろうと思うだけならともかくそいつを実行してしまったという作品である。ちなみにそれだけの作品。賛否両論うずまいたことも頷ける。文体はやや昔の少年少女向け物語風。語りかけがやさしくけれど今の子供たちにはまどろっこしいかもしれない。読みやすいかといえば読みにくい途中何度も挫折しそうになった。なんせアクシデントは種々あれどパターンは決まっているし延々と数字を突きつけられそいつが1になるまではこの手の描写が続くのだと思うとうんざり鉄塔の描写も最初は興味を引くがあとはもう勝手にしてくれの世界それでも最後まで読みとおす。で発見。多分意識的にそうしたわけではないのだろうが完璧に作者と登場人物とシンクロさせられていた。数字を突きつけられあと(鉄塔)何本分読まなければいかんのか はあという思いを抱かされたがこれ自体が実はあと(鉄塔)何本分歩かねばならない という登場人物(=作者)の思いだったのではなかろうか。夏休みというものへのほろ苦い思い出そうしたものももちろん感じさせつつ。万人に勧める作品ではないけれど。ちなみにぼくは国道マニア。日本中の国道を走って国道の表示板を写真におさめたいと小市民的な夢を持っている。ぼくが走ったことのない国道がある地域からの講演 授業ライヴのオファーを心待ちにしている今日この頃なのである。
2005年06月26日
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毎日のように訪問してくださる方がいらっしゃるのに多忙やその他を理由に不在を続けるのは心苦しい。講演や著書の中で「何も書かないのが一番いけない、何も答えないのが一番失礼だ」と偉そうにのたまわっている以上(自分に敬語をつけるな!(笑))お茶を濁すかもしれぬが書評を一つ。『船乗りクプクプの冒険』であるつ。新潮文庫。その昔、新潮文庫の北杜夫の作品には大変お世話になった。なぜかぼくのイメージの中の北杜夫作品は紺色の背表紙の新潮文庫。他の文庫が紙製の栞をはさんでいるのに対してひもがくっついていてなくさないのでありがたかった新潮文庫。夏休み海や山に連れて行ってもらうでもなし親戚が来るわけでもなし友人たちはでかけてしまって部活やクラス行事もないそんな暑い暑い日に2階のベッドに横たわってぼおっと読んだのが新潮文庫。67年生まれのぼくの中学生当時本を読むヤツは既に少なかったけれどそれでもいるにはいて人気のあったのは井上ひさしとこの北杜夫だった。双方に共通するのは活字ながらもユーモアのある点。ぼくが一番好きだったのは前者では『ブンとフン』後者では『奇病連盟』どちらも圧倒的な救いがフィナーレを飾る。今回はクプクプ。久しぶりに読んだ。きっかけはたまたまサイトで北杜夫の名前を見かけたことそう言えばもう十年どころか二十年くらい読んでないんじゃないかと。彼独特のユーモア古い今となってはことごとく古い。著者が物語りの作中にいきなり登場してしまったり一応は文学的な作品のはずなのに固有名詞がバンバンあらわれたりこういうのがとてつもなく斬新で驚きを誘った時代が確かにあった。もちろん氏は先駆者であって古いというのは逆に彼の偉大さを証明しているようなものだろう。なぜなら彼のとった手法が後にスタンダードになったからこそ古いと感じるのだから。土人をはじめとし、今では使えなさそうな表現がいっぱい。古いユーモアに辟易しつつも薄いので最後まではと読み進めた。正解だった。エンディング間際の今で言うどんでんがえし。こいつの爽快なことそして考えさせられること今の子供たちに必ずしも読むことは勧めない。こういう作品をそのまま自分の感覚で時代の差を考えずに勧めるほど教育に楽をしてはいない。けれどいつか読んで欲しいなあとは思う作品である。
2005年06月26日
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身体が一つ一日が二十四時間こいつがとてつもなくもどかしい時期誰にもあるだろう。ぼくにとっては今がまさにそうで(年中だという話もある)こういうときは収入に結びつく仕事を優先的にやらなきゃいかんのだがテスト前に本を読みたくなるのと同様ついお金にならないところに文章をあげてしまう。(ぼくはアフィリエイトに関心がない)多少のPRにもなるキャンペーンだと思って自分を納得させつつ書いてしまおう。本文がある。そのまま書いてあることがある。読解力のあるなしに関わらずたいていの人なら見つけられることがある。「10歳の頃までは私はほとんど本を読まなかった」ここから「私は8歳や9歳の頃はほとんど本を読んでなかった」という事実を導く。これが「誰でも見つけられること」こんなものは出題されない。誰でも見つけられることを出題してもしょうがない。(ただし公立の期末などでは0点の生徒を作らないために20点分ほどは意図的にこうした易しい問題を配置していることが多い)問われるのはそうではなくて本文に書いてあることから、普通に考えれば推測できることである。「10歳の頃までは私はほとんど本を読まなかった」とある以上普通に考えたら「11歳以降はある程度読むようになったんだろう」ということが推測できる。これが読解である。裏を取る という技である。今の子供たちはこれができない。(いや大人でもできない人は多い。そういう人は契約関係でだまされやすいから気をつけて)所得税が実質引き上げだとか。自画自賛だけれどぼくはこんなこと2年前に予言していた。しかも国語のメルマガで。「私の在任中は消費税は引き上げません」ココから裏を取ってみよう。こういう問題。(ちなみに解答解説は『これ一冊で必ず国語読解力がつく本』で読んでね(笑))裏ととることを覚えれば一つのソースから得られる情報量は格段に増える。ただしやりすぎてはいけない。やりすぎるとそれは読解ではなく自己流解釈になってしまう。それは鑑賞と呼ばれるものである。いわゆる学校で学ぶ国語にはこの鑑賞が多い。代表的なのは感想文。それはそれで重要だけれどその前提として正しい読解ができているかどうかがまず重要である。ある登場人物が死んでしまったことが描かれていてもそれを読み取れてない状態で「ちゃんと生きていてよかった」などと話すのは感想ではなくてただの誤解に過ぎない。「10歳の頃までは私はほとんど本を読まなかった」これで考えると今はとんでもない読書家とか子供の頃 テレビばかり見ていたとかは数多い可能性の中の一つに過ぎない。それはもう読解ではなく勝手な思い込みである。勝手な思い込みもまた危険なもので詐欺目的の文面にはこれを利用したタイプもあるから気をつけたほうがいい。書いてあることそのまましか読めないのは論外。書いてないことを想像するのはOKただしそれを事実と受け取ってしまうのは思い込み。必要なのは書いてあることからほぼ確実にとれるウラを見つけ出すことである。
2005年06月22日
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内申点の重要性については既に述べた。(ここんとこ高校受験絡みの話題中心、中学受験大学受験あるいは雑談エッセイ系をご希望の方、時期が時期なんでもう少しお待ちを)内申は努力点の比重が大きいと。ずば抜けた実力でなければ、態度や努力なしで評価を受けるのは難しいと。副教材はとんでもない武器だと。今日はいよいよ最強の武器を。そいつはノート。note 記述する(動詞) ではなくて notebook ノート 帳面(名詞)のほうね。理由市販の参考書は全国どこの地域にも対応できるようになっている。まあ大体首都圏の平均レベルの公立中学の生徒あたりが対象だ。当然地域差がある。いや首都圏の平均レベルなどというものも実は存在しない。財産1億円に人と100万円の人 二人の財産の平均は5050万円。こんな数字に意味はない。平均というのはあくまで団体レベルでものをいうのであって個人レベルではさほど意味をなさない。いそうでいないのが平均レベルの生徒である。定期テストは学校単位で問題がちがう。もっといってしまうと先生単位で問題がちがう。それなのに中学3年の数学なんて大きなくくりで対応したものだけでどうにかしようと思ってもこいつはなかなか厳しい。先生ごとに問題がちがうのなら先生の授業にピッタリあった参考書を使えばいい。そんな参考書あるのかって?ある!もちろん「新宿東口中学校 椎名先生の数学 対策問題集」とか「梅田キタ中学校 ヤシキ先生の国語がよくわかる本」などという参考書や問題集は市販していない。市販していないが存在はする。もうおわかりだろう。そいつがノートなのだ。ノートはその先生の授業のエッセンスの集約 結晶。こまめにとればその先生の授業のすべての板書を網羅(もうら)することもできる。こと定期テストに関しては市販のあらゆる素晴らしい教材よりも心強い武器になる。定期テスト対策にはノート定期テスト対策にはノートをお忘れなく。追伸私も忘れないでね 副教材よりさらに追伸一つだけ問題なのはノートは自分で作製しなければならないということだ。どうやってノートを取ればいいか。そいつはココに書いてある。↓
2005年06月21日
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前後期制の学校が増えた。そういうところはさておいて。それ以外の学校はお楽しみの夏休みの前には期末テストが。ただいま期末真っ最中。あるいは期末直前の人たち 多いことだろう。予定通りに学習は進んでいるだろうか?なかなか思うようにならないのが予定。予定通りに現実が進めば人生にドラマはない。そこで重要なのは使える予定表の存在。実際には役に立たない予定表や言い訳の理由になるだけの予定表作るのに時間がかかって肝心のテスト勉強をする時間がなくなってしまうような本末転倒予定表などそんな予定表とはSay Goodbyこれからの予定表はこれだ!ぬりつぶし予定表。詳細はぼくの書いた本『最強最後の学習法』にも書いてあるけれどここではごく簡単にやり方を説明。用意するのはテスト範囲。ここでは副教材だけあつかってみよう。(副教材の重要性についてはおととい記載のものを参照)長方形のマスメをたくさん作って横にずらっと科目名を書く。そしたらたてにその科目の試験範囲に該当する副教材のページ数をおもむろに書く。英語 数学 国語 理科 社会12 35 24 9 1713 36 25 10 1814 37 26 11 19といった具合。あとはひたすらこれを眺めてやってないページをやる。やったらそのページを横線で消す。全部のマスメに横線が書かれたら一応試験範囲は一通りは確認したことになる。もちろん一度でマスターすることは無理だろうから二度目をやる。二度目が済んだら縦線あるいは斜線をつけたらいい。最終的に自信がついたページは蛍光ペンでぬりつぶす。これなら一目で何をやったらいいかどこからはじめたらいいか何が足りないかがわかる。その日の気分 体調 などと相談してできる科目をできる時間だけやったらいい。数学をやるのに気が重かったらとりあえず英語をやるとか。社会は後回しにしたいのならまずは理科からはじめるとか。もちろん最後の方になると選ぶわけには行かないけれどその頃にはぬりつぶしの達成感が存在するだろうから多少嫌な科目でも取り組むことができるだろう。期末テストはこれで決まりだ!(参考 『最強最後の学習法』(宝島社) ぬりつぶし学習法の章)
2005年06月21日
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最高の武器については後日記述。今日は二番目の武器。そいつは副教材。副教材ってなあに?うん あのね 各科目で先生から配布された薄っぺらいノートと同じくらいの大きさの冊子があるでしょ。あれのこと。(ちがう大きさのものもあるけれど)こと公立中学の定期テストレベルの話をするとあれは必ずやっておかなければいけない。以下 理由。そもそも市販の教材はどのレベルにも対応できる代わりにどのレベルにも対応しきれていない。だって広く使ってもらうために的が絞れないから。最近は教科書準拠教材が増えてきていてそれらはかなり定期テストに有効だけどそれでもまだまだレベル的には広すぎてありきたりにしか説明できていない。ところが副教材の場合学校採用が前提となって作られているから公立レベルの一般的な生徒にはじめの一歩から7割レベルまでとらせるのには最適な編成になっている。これらの教材の多くは教材会社の中でも教科書出版社や学校に顔が利くところが作っていて(校長OBや教育委員会さらには退職教諭の集まるいわゆる特殊法人(笑)でつくられているものも多い)学校現場での能力にピッタリ応じた物になっている。さらに普段は版権にうるさい教科書会社もこの手の団体には弱いこともあって他の教材よりも引用の割合が大きい。つまりより教科書に準拠できているのだ。スタッフの問題もある。市販の教材より高度なスタッフが使われていることが多い。そもそも使用する側がただの素人ではなくうるさがたの集まりなのでその意味でも練ってある。したがってまとめや範囲内の類題学習には最適。以上が表の理由。次に裏の理由。あのね(笑)有料で強制的に一括採用しているわけです。それが意味をなさない教材だったらまずいですよね。そこから出題されないようなら「何のために買わせているんだ」となりません?後は言えない(笑)各自で推察してください。というわけで副教材必ずやっておくこと。数値変えただけ?ノンノンそれどころかそのままの数値で問題が出題されるのは副教材ならではですよ。
2005年06月20日
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内申点というのがある。言わずと知れた通知表の評点。コイツが問題になるのは主に高校受験。私立の推薦と公立の推薦および一般受験。都道府県によっては公立で内申が関係ない石川県のようなところも存在するがほぼ全国で内申は公立高校志願者にとって無視できない数値である。内申についての問題点を指摘するのはたやすい。客観的に公正かつ公平に数値が出る(運不運は存在するが)ペーパーテストの数値に比べ内申というのは担当の教諭の主観が大きく混じる。そこには運不運だけでは割り切れない要素が確かに存在する。しかしながら入試のシステムに内申が存在する以上、批難するよりは数字を挙げねばならない。一般的に当事者の批難は負け惜しみに思われることが多いし、改革にはつながらないのだから。内申努力点ガ大きいといってもいいだろう。中にはテストの得点をそのまま数値化される教諭も多いが宿題、授業態度、その他の努力点がかなりのウエイトを占める。「実力があればいいじゃん」という生徒は結構多いのだが、はたして本当にそうだろうか?実力だけで相手の評価を勝ち取るということはそんなに簡単なことだろうか?これに対する答えは簡単に出てくる。自分自身に置き換えれば済むことだ。たとえばあなたが野球部の監督だとする。打率3割でバントや流し打ち、盗塁援護の空振りなど一切しないプレイヤーと打率は2割5分を切ってしまうが、チームプレーに徹してくれるプレイヤーとどちらをスタメンに加えたいか?これが打率5割(高校野球レベルまでだと結構ある)クラスなら多少のチームプレーの欠如を補ってあまりあるものがあるかもしれない。だけど悪くない数字とは言え、並みの好打者の打率なら多少打率が低くても使い勝手がよいほうの選手が好まれるはずである。仮に君が混声合唱の指揮者だとする。人数制限があるコンクールのオーディション。とんでもないハイトーンをビブラートをかけることなくカンニングブレスすらしない状態で伸びやかに響かせるただし彼女は指揮者より譜面を重視するスーパーソプラノと低音域があまり出ない、カンニングブレスしなければ息が続かない、ただし指揮者の指示を守ることができ、まわりにあわせた音量で発声することができる並みのソプラノとどちらをメンバーに加えるか。これも答えは明らかだと思う。前者はソリストならばともかく合唱団の構成員としてはメリットよりデメリットが大きい。結局内申の言いたいことはこれなのだ。並みの実力ややや他人を上回る程度の実力しかない者は実力だけでは食えない。仕事だって同じである。特に日本人はその人物の態度と業績を混同しやすいからスポーツなど明白に結果がでる種目でなおかつ極端に他を圧する実力がなければある程度の協調性や人柄は身につけないことには勝負にならないだろう。女優だって作家だって映画監督だってわがままになれるのはだすものだすものすべて当たって大御所としての評価を確定しブランド化してからだ。それ以前の修業時代や売り込み時代、並みのプロの時代には仕事をもらうためにアタマを下げる必要もあれば時間をきっちり守ることもやらざるを得ないだろう。結論範囲指定のない模擬テストで500点満点中アベレージ450以上常にキープレベルならともかく、それ以下の数字で「態度が悪くても実力はある」などとのたまうのは分不相応だ。350点や400点という数字をその数字に見合った実力で認めて欲しいならばそれ相応の売り込みはしなければいけないだろう。
2005年06月15日
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