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1月27日、中国の楽しみ方を教えてくれた友人が逝った。57歳だった。末期ガンのため、ホスピスを受けていたが、入院中自分の葬儀の打ち合わせに没頭していた。何とたくましい!斎場には、生まれた時から亡くなる数日前までの写真を展示。想い出の写真を編集したビデオまで作成していた。彼と知り合ったのは、20数年前。僕が初めて中国を訪問した時の添乗員。その後、中国を訪問する時は、いつも彼が同行してくれた。毎回、楽しい旅だった。同行者を楽しませてくれる影には、彼の演出家としての努力があったことを、葬儀で感じた。蟹を一生懸命食べる彼の姿と、彼の演出に乗せられて楽しんでいる僕たち。死の直前まで、周りを楽しませることに全力を注いだ彼に、合掌。
2006年01月30日
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先日、中国の政府関係者の友人から電話。「明日から、一週間の春節休暇になります」とのこと。「今年は、賑わうね」と、賀状を見ながら返答。中国最大の祝日・春節(旧暦の元日)が1月29日の今日。「恭祝新年好」「恭賀新禧」。この新年を祝う爆竹が、北京市中心部で13年ぶりに解禁。北京市では過去、事故や火事が多発し、死傷者が続出したほか、騒音・大気汚染問題なども絡んで、1993年に爆竹禁止令がだされていた。しかし、最近違法に爆竹を鳴らす人が相次ぎ、禁止令が事実上、有名無実。伝統的な習慣の復活を求める市民の声に押された形になった。なぜか、禁止令が出されていた昨年の春節でも、爆竹によって550人が負傷して病院に運ばれたというから、今年はどれくらい多くなるのか心配。市内の病院は緊急体制を敷くそうですが、保険会社も「爆竹保険」への加入を呼びかけているとのこと。春節と爆竹・・?なぜ、一体なんでしょう。それに、爆竹って花火感覚の日本人にとっては、危険を冒してまでやることに理解が及ばない。そういえば、小学校時代に爆竹をやって遊んでいたが、音が大きくて、よく怒られていた。今年の北京の正月は、騒々しいだろうな。
2006年01月29日
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南京の「日本軍侵略南京大虐殺受難同胞記念館」を訪問。ここを訪ねるのは、4回目(1998年)。来るたびごとに、過去の不幸な出来事を出発点にした平和と友好活動の必要性を痛感。初めて訪問したのは、1987年の2月。1937年12月13日から始まった殺戮をモチ-フにした庭園は、そのまま過去の出来事を語り継いでいる。記念館の中は、大きくレイアウトと内容が変わっていた。初めて訪ねた時の、背筋が寒くなる程の恐怖感を感じることはなかった。目新しい資料がなかったことも、理由のひとつ。「以前の展示内容が余りにもショッキングだったので、外国人とりわけ日本人に配慮された展示に変えられるようになっている」とのこと。虐殺事件は歴史的事実だが、あいかわらず事件はまぼろしとする説を唱える方がおられるのは残念。最近では死亡者30万人は多すぎだから、まぼろしだったという理由のようだが、日本人の小さな言い訳。平和の願いを込めた大きな彫像と、言い訳がましい小さな日本人でした。
2006年01月28日
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青年と呼ばれていた時代?南京を旅した時のこと。中国との友好事業の一環で、南京城修復作業に従事した。もちろん友好事業ということでのボランティアで、軽微な作業。夕食は、南京市人民政府の歓迎レセプション。会場は、テーブルにご馳走が盛られているだけでなく、BGMにオーケストラ。豪勢な趣向に参加者は、緊張。主催者の挨拶などが終わると、乾杯。数曲中国の音楽が奏でられた後、日本の曲を披露。「おお、昴(すばる)だ」と思いながら食事をすすめていると、いきなり「どなたか歌ってください」と司会者。しばらく、会場がざわつき、どこからともなく私の名前が上がる。「やめてほしい」と念じながら、そしらぬ振りで皿に箸をのばしていると、かたわらに人影。いやな予感がしたが、案の定腕をとられる。まわりは、こちらを注目。ここまできたら、断るのは申し訳ない。知っている歌だからと、しぶしぶマイクをとる。しかし、日頃カラオケで歌っていると言っても、歌詞本があってのこと。しばらく・・「♪♪・・(歌詞が出てこない)」。「すいません歌詞カードを貸してください」。手にした歌詞本は、中国語。マイクを持った姿はかっこいいが(?)、曲は最後まで、「アアア・・・♪♪」。それ以降、僕のパスポートには、「昴(すばる)」の歌詞カードが添えられている。
2006年01月27日
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大連・旅順で知り合った老人のこと。水師営は、第3軍司令官乃木希典と陸軍中将ステッセルの会見の場所。ここで、日本の勝利が決まった。当時会見が行われた粗末な家屋が、保存されている。齢78才の中国の方が、会見所の当時を物語ってくれました。当時は、在住日本人が多かったため、この方も大変上手に日本語を話される。当時の想い出話も聞かせていただいた。その話を興味深く聞く日本人観光客は、みな若い。教科書でしか知らない、歴史上のことと思いながら聞いてはいるが、目の前に歴史の生き証人がいることに感嘆。しかし「生き証人」とはいえ、年齢から察すると、この老人も伝え聞いた戦争なんですね。
2006年01月26日
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大連を訪問した時、旅順を散策。旅順の203高地は、日露戦争の遺跡で有名な場所。今でも当時の武器が、そのままに保存されている。標高203メートルのこの山は、眼下に旅順港を見下ろす位置にある。この高地で、日本とロシアの戦闘が始まると硝煙と爆煙と土煙が渦巻き、日本軍の突撃兵は銃剣をきらめかせて突入。一度は奪取したものの、その後ロシア側の逆襲で奪還されたが、再度日本軍が奪取したという激戦の地。司令官乃木希典の次男も、この戦闘で戦死。 璽霊山(203高地)の嶮は あに攀り難からんや 男児功名 艱に克つを期す 鉄血川をなし 山形改まる 万人ひとしく仰ぐ 璽霊山とあった。これは、乃木希典長官の詩。中国の有名な文学者で副首席を勤めた郭抹若氏も、彼の詩を高く評価。高地には、日本が建立した慰霊碑がたっているが、ここには日本人だけでなく多くのロシアや中国の方々の魂もあることを、日本人は忘れてはいけない。それを思い慰霊碑に向かい合い、あらためて困惑。そして合掌。
2006年01月25日
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「こんな岩山に建築物がある」ことを驚いた。 周りは、岩山が林立して、まさに林。写真を撮っている場所は、一本の手すりで、まかり間違えば落下していきそうな、危険な岩山の頂。 絶景であることは確かですが、日本人にはなぜかこの光景が懐かしいようです。 水墨画の世界と片付けてしまいますが、日本の天狗などの伝説を彷彿させ、不思議な絵の中にいるように感じるんですね。 日頃、低い裏山でさえ、登ろうなんて考えない私でさえ、足が向いてしまいました。 しかし、途中で足が萎えてしまいました。 頂に登り笑顔を浮かべながらも、頭の中では「帰りが不安・・」。 岩山さえ観光地になるのは、岩山にその昔を懐かしむ日本人の懐古があるから。 しかし、自然の力強さと驚異、不思議さを感じた岩山でした。
2006年01月24日
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昨年末、中国から来た友人たちを、福岡の大宰府天満宮に案内した。大宰府天満宮は、日本で有名な神社。『東風吹かばにおいおこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ』梅花を愛された菅原道真公が、大宰府へこられた時、京の紅梅殿の梅にこの歌を詠まれると、梅花は、はるばると後を慕って配所大宰府の菅公(道真)のもとに飛んできたというのが、飛梅伝説。この大宰府政庁が重要な役割をしたのが7世紀以降だから、中国の歴史を考えるとまだ歴史が浅いが、日本では学問の神様として有名。神社の方が、中国からの訪日団を前に歴史などを物語るが、皆さんはなかなかピンとこない様子。寺と神社は、どう違う?考えてみると、日本人も混同気味ですから仕方ない。「中国では、商売の神様に関羽帝が祀られている。海の神様は、玄徳というが、これは劉備のことなのかな?」と、僕も中国に思いを馳せて参拝。
2006年01月23日
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中国の小学校の記事を書いて、思い出しました。数年にわたり、中国の領事館の領事などを伴い、日本の学校を訪問してきた。総領事たちが、小学校などを訪問することは、一般的にはまずない。私が、責任者兼案内役。まず彼らが驚くのは、日本の教育施設の充足状況。プールや体育館が完備され、学校によっては、小学校の屋上にプールが設置されているなど、ユニークな建築に注目。次は、文具品や教育備品。教科書やノートは当たり前だが、指導する時は様々な備品を活用する。教室には、テレビが常備され、パソコンでパワーポイントなどプレゼンテーションを活用しての授業も行われている。最後に給食。中国では、都市部は別として一般的には普及していない小中学校での給食。一緒に食べてもらったが、なかなかの味。メニューも、パンやご飯。あるいは中華やイタリアンなど、バリエーションに富んでいる。いつもながら、「日本の子ども達は、十分な環境で教育できてたいへん恵まれている。また給食もおいしい」と感想を述べられ、学校を後にする。教育環境はいいのだが、なぜ水泳や体操などは中国の選手に追いつかないのだろう。栄養は行きとどいているのに、中国の人より身体が小さいのは、なぜだろうと思ってしまう。日本の教育環境の充実は、かつての経済力を背景にしたもの。これからは、中国が力をつけていくことになる。
2006年01月22日
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数年前、小学校を訪問した時の児童の歓迎の様子。ステージでは、合唱、中国楽器やバイオリンなどを演奏してくれた。また、英語で読誦してくれた児童もいた。中国では、小学校から英語の授業が取り入れられているだけでなく、英才教育がされているため、こんな歓迎の光景は珍しくはない。しかし、後で先生方から自慢話。つまるところ、児童をエリートコースに乗せるために、学校も懸命。保護者から寄付を募り、学校の施設を充実させなければ、優秀な児童は育たない。児童の熱烈歓迎の背景には、他の小学校よりも優秀な児童の育成と教育施設の充実に向けたデモンストレーションがある。これは、教育委員会と向き合う日本の学校も同じ。学校の評価は、優秀な児童を育成するための先生の熱心さ次第だと痛感。
2006年01月21日
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小学校の授業を参観。中国の授業にもパソコンが活用されている。以前だと、先生が高唱する詩に、合わせて詠っていた国語の授業。現在では、パソコンの画面の詩に合わせて、声をそろえて詠っている。しかも、ひとり一台。使い方も慣れている。教育内容は変わらないようだが、指導方法がずいぶん近代的になっている。説明してくれるガイド役の先生も誇らしげ。しかし、あとで聞くと「パソコンは難しい」の一言。首に巻かれた赤いチーフは、以前と変わらないが、幾分子ども達の顔が垢抜けしたように見えるのは、気のせいか。パソコンの授業風景から、中国の近代化を感じることができる。
2006年01月20日
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昨年、福岡県に九州国立博物館がオープン。太宰府市はもちろん、九州上げての誘致。外観のデザインもユニーク。半世紀振りの国立博物館の建設ですから仕方ないのですが、すべてにわたりかなり過剰宣伝。オープン前、中国の友人たちが訪日した際に当博物館を訪問。驚いてくれると思いきや・・。「上海の博物館には行ったことがある?」と質問されて、窮す。中国の博物館は、大きい。昨年夏、大連の博物館に行き、数年前は山東省博物館にも行ったが、中国の博物館は大きい。それに、陳列されている品も、古い!紀元前のものは当たり前。砂漠で発見されたミイラや恐竜の骨を組み立てて、そのまま展示。恐竜にいたっては、ガラスなどに収納されず、そのまま陳列。「これ、レプリカですか?」と聞くと、「これは、恐竜の骨を組み立てたものです」と、至って冷静。その後、中国の友人たちを連れて、近くの古墳へ。5世紀に作られた古墳で、中国にあっては新しい時代のもの。装飾古墳のため、中は外気に触れないように、ガラスなどで遮断され、見物する場所も狭い。数ヵ月後、中国の友人から「省の文化局のメンバーと訪日するから、あの古墳を見せてほしい」と連絡が入った。彼らにとっては、新しい博物館より、万全を尽くした保存施設の方に興味がいったようだ。博物館を通して、中国と日本の価値観を違いを知ることができた。
2006年01月19日
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旅は武漢へ。中国・武漢の黄鶴楼から、いつもなら20分程度でいける湖北省博物館までの距離。この日ばかりは、1時間を超えてしまった。渋滞がその原因だが、中国の運転マナーに謙虚さがほしい。といっても、日本でもマナーは今一。しかし、車の前に対向車が来るのは、びっくり。規則の遵守とマナーがなければ、規律は生きてこない。それでも、バスの中国の運転手は動じない。当たり前のことながら、さすが・・。昼食前に、博物館の裏口から入場。この湖北省博物館は、湖北省で発掘された土器、陶器類が数多く展示されている。特に、戦国時代前期の曽侯乙墓から発掘された文物が有名で、漆器や編鐘などを陳列。食後は、博物館内のホールで、編鐘の演奏を鑑賞。2400年前の音色が流れていると思うだけで、歴史を超越したこの国の深さを痛感する。「英語は、かつては中国語でした」とは、博物館のガイドさんの言。編鐘コンサートから、英語の歴史を学ぶことができた。
2006年01月18日
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乗船して3日後、船は目的地に到着。2泊3日の長江クルーズは、天候にも恵まれてのリッチな旅。客船・三国号は、思ったよりも大きな船でした。各部屋シャワーとトイレが備え付けられ、部屋は6畳程度のツインの部屋。 ふと思い出したのが、「大地の子」のラストシーン。主人公と実父の旅行シーンで、クルーズの一コマ。ベッドの中での親子の会話に、涙が止まらなかった。 三国号を後にする。また、慌しい毎日が待っていると思うと、時が止まってほしいと願った自分。帰国して、想い出をたどるため、写真を見ると不思議な光景。下船された後ろの方は、なぜ着物を着ているのでしょう?懐かしいながらも、理解に苦しむ写真。
2006年01月17日
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朝5時30分のモーニングコール。さすがに眠いし、デッキは寒い。夜が明けきれない薄暗がりの山稜を両側に流しながら、船は静かに長江を走る。冷たい風が頬を流れていく。西陵峡は、雄大壮観な長江三峡の中では、もっとも長く、巴東県の官渡口から宜昌県南津関に至る約1200kmに及ぶ。長江が、曲折迂回し、流れが作り出した奇岩がそびえ、峻嶺と絶壁が空に横たわっている。9時ごろ三峡ダムを通過する。創造を絶する程の規模に一同感嘆。 ダムの建設に伴って、都市が作られている。 集合住宅や学校はもちろん、放送局まで作られたというから、三峡ダムにかける中国の期待感と意欲が伺える。ダムが建設されるに及んで、多くの町や遺跡、景観が水の中に沈んでしまう。現在の水位より175m上がるというから、その貯水量は膨大である。中国は、基本的には水力発電で電化の道を考えている。自然に恵まれた国の将来が楽しみである。
2006年01月16日
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中国の三峡下りの「三国号」から、小さな船に乗り換えて白帝城に上陸。三国志の英雄、劉備玄徳の城。約900段の階段を駆け上がる。 といっても大半の参加者は、駕籠(かご)に乗っての登山。三国時代、劉備もこうやって籠で入城したのかと回想したが、担ぎ手に気を使う余り、かえって疲れてしまった。結局下りは、徒歩で下山。 白帝城は、守りやすい土地に建っている。 一見島のようでもあり、長江そのものが天然の濠となっている。白帝城には、城の主・劉備玄徳が療養していた?(微笑)乗船前に、子どもたちが、品物を売りにくる。 買って上げたい気持ちはやまやまだが、大勢の子ども達の中で一人だけと言うわけにはいかない。 「泣いて馬謖を切る」思いで、その場を去る。元の城主は、子ども達には夢を与えたが、生活の糧は残してくれなかったようだ。
2006年01月15日
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長江沿いにある豊都は、三峡ダムが完成すると沈んでしまう町。 長江を挟んで対岸には、すでに新しい町が建設されている。再びこの地に立つことはないと思い出を込めて写真撮影。 この町に「鬼の城」がある。「鬼の城」というから、誰が城主かと思ったら、閻魔大王がその主。さらに、大王に奥様がいたというから、2度ビックリ。閻魔大王に会うためには、多くの選択肢をクリアしなければならない。楽しみながらのお城見物。 再び乗船し、沈んでいく町を見納める。「閻魔大王は、地獄で自分の城が沈んでいくのを知っているのかな」などと、マジメに変な想像をする自分。ひとり、おかしさを我慢。
2006年01月14日
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話は戻りますが、少し三峡を紹介。 朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵 一日にして還る 両岸の猿声 啼いて住まざるに 軽舟己に過ぐ万重の山李白の「早い白帝城を発す」。山崎豊子さんの「大地の子」にも、最終場面で紹介された三峡。最後、船から三峡の絶壁を見上げながら、親子二人でこの詩を吟唱するシーンは感動的でした。目から溢れ出てくる涙が止まらない・・!その三峡のメイン、小三峡の入口桟橋に到着。船に乗りこんで、わずか後。絶景というのは、こういう景色をいうのだろうと感嘆。 水面から切り立った崖は、天を突くほど猛々しく自然の驚異を感じる。まさに水墨画の世界で、日本人にも馴染みやすい光景。ナマで見る三峡の絶景に、またも涙・・!絶壁が上から覆いかぶさってくるようで、自然の威圧感に驚異を感じた瞬間でした。
2006年01月13日
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長江の三峡下りの想い出話。小三峡と言うのは、長江の支流大寧河のうち、巫山から上流50kmの部分をいい、切り立った絶壁が門のように見える龍門峡。猿の形の奇岩や、「懸棺」といって崖に埋葬された棺桶が見られる。巴霧峡、赤い崖と濃い藍色の水が美しい滴翠峡の3つからなる。 自然の渓谷を船で遊覧。途中、岸から子ども達が駆けて来る。パンツひとつで手には網竿と石を手にしている。「何だろう」と思っていると、石を売って、網の中にお金を入れてもらう手口。驚きはそればかりではない。私達はオーバーをまとっているが、彼ら裸で冷たい水の中にいる。生活のためということもある。日本でも、かつてはこんな光景があったのだろう。子ども達を通して生活へのたくましさを痛感。
2006年01月12日
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峨眉市からバスで約1時間、楽山市に到着。楽山の仏石は、岷江と大渡江の合流点。楽山の町の船着場からわずか10分程度の船上から、全貌を楽しむことができる。大仏は713年に僧侶海通によって彫りはじめられ、子から孫へと受け継がれ90年後の803年に完成したといわれるから、90年に渡る仏願が宿っている。当時は楼閣がおおい、大仏には金色の彩色がされていたそうだが、今はそれも戦火で落ち露天にさらされたままになっている。高さは71m、肩幅は24mというから、たいへんな大きさ。洪水による災害。街を水神龍の怒りから、鎮めの仏として刻まれたという仏石群である。自然の力に対しては、今も昔も、人類は天に祈るしか術を持たない。しかし、こんな大きな仏像を目の当たりにすると、彫った人々の偉大な宗教心を感じる。
2006年01月11日
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十数年前、峨眉山に登った。山麓の報告寺。やや疲れ気味で、足取り重くとも仏様の前に立つと、さすがに両手を併せてしまう。峨眉の山への安全祈願は、今も昔もここから始まり、やがて霧に煙る山上へ。バスで登ること1時間半。まさに五里霧中を山頂へといった感である。周りの視界がきかず、車の前方の道路もおぼろ。途中、「もう下りたほうがいいかもしれない」と、下山を打診する中国のガイド。お互いたどり着けるかどうか確信することができないまま、とりあえず行けるところまで行きたいという期待のみで、バスは山頂へ。頂上に登り詰めた時は、途中の霧雨も嘘のよう。眼下には、晴れ上がった空とはるかに続く雲海。島影に似た山々の山頂を見晴らすと、自然の壮大さを感じる。日の出は雲海に浮かぶ「峨眉の仏光」(ブロッケン現象と言うらしいが)を拝することができるという。 1,800年前から寺が建てられ、16世紀にはその寺の数は70以上だったというから、まさに仏教名山。悠久の自然は、人類の手に負えない大きなものであり、人類が創造し得ない偉大な美しさを持っていると感じる。削られた山肌の壮絶な程の鋭さと、山の緑が与える優しさ。どれもが対象的で、しかし何かしらバランスを保ち、私たちに落ち着きを与えてくれる。下山する道すがら、また雨が落ちだした。山頂に向かう道脇で煉瓦を組んでいた作業者は、もういない。しかし、人家の明りが途中目につく。こんなところにも人が住んでいる・・。感激とともに、人類の長い歴史を感じる。 しかし、酸性雨に侵され、枯れ落ちた峨眉山の森林を見た時、自然に対する人類の功罪を改めて痛感。
2006年01月10日
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昆明省の山の中の小学校。子ども達が、卓球をしていた。すべて手作り。卓球台やネットなども,粗末なもの。話を聞くと、家の仕事の都合で、毎日小学校に通えるわけではないとのこと。それでも、元気で、学校で友人たちと会うことが楽しくて仕方がない感じ。ラケットを見せてもらった。これも、ラバーは破れ手作りに近いラケット。彼らを見ているとたくましさを通して、将来の頼もしさを感じる。物があることが当たり前の世界を相手に、彼らは創る喜びと遊びを通して、世界を相手にする。きっと、たくましい国になると痛感。
2006年01月09日
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雲南省の大雪山に登った時のこと。 標高三千メートルを超える山々。ケーブル・カーを降りて、山道を散策。広い場所で、少数民族が音楽の演奏や踊りを披露。 「高い山では、呼吸使いに気をつけて」と言われたものの、誘われてつい一緒に踊りを楽しんでしまった。 それはよかったのですが、この後がたいへん。 心臓に痛み・・。 バスで下山する頃には、手足の先が冷たく、真っ白。暖かいお白湯を飲んでも、体が冷たくなり、心臓の痛みが強くなっていく。 ホテルに入って問診。「高山病」の一言。だいたい想定内であったのですが、何もしてくれない。「寝ていれば直ります」と言われてものの、一向によくならない。 ホテルがある場所の標高を尋ねると、約2千メートル。これでは、直るはずがない。鎮痛剤をもらい、翌日午前中の日程をキャンセル。 高山病は、侮ってはいけないことを痛感。
2006年01月08日
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ジャンクで太湖遊覧。風もほとんどなく、上天気のため、皆さん甲板に出て湖を遊覧。屋根の上の帆柱辺りではしゃいでいて、「危ないから、下りてください」と注意を受ける光景も・・。江蘇と浙江の両省にまたがる太湖は、たいへん大きな湖。長江や銭塘江が長年にわたって土砂を流し、江南の肥沃な土地をつくった時に取り残されたのが、この湖。湖中には小島が点在し、洞庭東山、洞庭西山が湖中にそびえています。湖辺には公園が点在していますが、中でも北東岸にある亀頭渚公園が有名。下船後は、鹿頂山麓の楼桜賞で記念撮影。太湖のほとりから、鹿頂山を仰ぎ見るのもいいものです。太湖遊覧後、中国のガイドさんが「上海、蘇州とバスに乗り・・♪♪(無錫旅情)」と、バスの中でマイクを握り披露。大きく音程がはずれていたのが印象的。あとで、「僕もマイクを持ちたかった」という方も・・。それでも中国のガイドさんは、鼻歌まじりに観光説明。この歌は、ガイドさんの十八番(おはこ)だったとのこと。
2006年01月07日
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2泊3日の三峡下り。重慶から宜昌までの旅。今では、三峡ダムが建設されて,多くの町が水没している。白帝城や閻魔大王の城も例外ではない。NHK「大地の子」で映し出された三峡で、絶景の旅。船の中の部屋は、広くはないが快適。ベットとシャワー室が設置され、ゆるやかな大河の流れに、窓の外の光景がゆっくりと変化をしていく。その船で知り合った、重慶の大学生。卒業旅行で、豪華な旅をしているとのこと。日本語を専攻していることもあって、日本語で交流。船の最終地・宜昌に到着して、武漢に行く。武漢のデパートで偶然、また学生たちと会った。久し振りに街に来て、音楽CDなどを購入している。翌日の早朝の汽車で、重慶に帰るとの事。所要時間は、なんと24時間。2泊3日のゆったりした旅を満喫しての、慌しい帰郷である。
2006年01月06日
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露天の裏側にビールケースのような箱を囲んでのディナー。 これは、北京の繁華街王府井(わんふーちん)の露店でのひとこま。ここの露店には、中国各地の味覚が集められています。 それだけでなく、蠍(さそり)や雛が孵(かえ)る直前の卵なども売っています。中国では珍味は当たり前ですが、日本人にはなかなか馴染めないものがいろいろと陳列されています。 また、露天の数も半端ではない。 店先に陳列されている品物を見るだけでも、価値ありの楽しい繁華街です。 「食べてみようか」とは言うのですが、やはり手がでません。とりあえず、ジャージャー麺や坦々麺。 一般的なメニューですが、口に入れてみると、これが辛いこと。口の中が炎のような状態。 食は中国に在り。香辛料を効かして、何でも食材にする国です。
2006年01月05日
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敦煌を旅した時に、現地の小学校を訪問。1800年代に創立された小学校。さすがに、遥か昔から東西交流の基点となっていただけに、教育の歴史も古い。子どもたちが、その場で書をしたためてくれた。日本の書体や筆の持ち方とは違うが、躊躇なく筆を運ぶ姿に余裕さえ感じる。小学校後にして、映画「敦煌」のロケ地へ。セットがそのまま保存され、観光スポットとなっている。ここには、墨絵を描いてくれる絵師が筆を振るってくれていた。子ども書家と絵師の作品をいただいた敦煌の一日でした。
2006年01月04日
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はるか昆明省の小学校を訪問。日本の児童の写真を贈呈し、お返しに小学校の児童の書画をいただきました。その後、校庭に集まった児童たちが歓迎の躍りを披露。中国風の独特の躍りに参加者一堂、感嘆。私たちは、お手玉。珍しいもの見たさで、子ども達が回りに集まって来る。帰路に着く頃には、子どもたちから参加者一堂サイン攻め。校庭の片隅では、未来のピンポン選手が自前の卓球台で練習中。「この小学校には、不登校の児童はいないのですか」と、学校の先生に尋ねられた方がおられましたが、先生は頭を傾げられました。家の仕事で、学校に行きたくても行けない児童が多いことが問題となっている中国。日本的質問を通して、日本人の感覚のズレと両国の違いを感じた一面でした。
2006年01月03日
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「揚子江の正確な名は、長江です。揚子江というのは、長江下流の一部の呼び名です」とガイドさん・・・。 6,500km。世界で3番目に長い大河のほとりで見た雪と、中国で出会った初めての光景。 随分前の2月に「日本軍侵略軍南京大虐殺受難同胞記念館」を訪ねた時も、たいへん寒の締まった時期だったが、その時は雪には出会わなかった。積雪することがほとんどないこの地でも、雪は舞う。大地に舞い降りた雪は、やがて大地を潤し、人民を養っていく。大きく緩やかに流れるこの河は、五千年のこの国の歴史を創ってきた。長江の岸から見渡すと、対岸が見えない。まさに、海。そこから出てくる朝陽を遠望すると、この国の大きさを感じることができる。
2006年01月02日
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