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なかなか素敵ですね。
2012年05月05日
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2011年02月23日
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統一教会員のブログから転載
2010年10月21日
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新たな拉致監禁が発生したようです。 世界日報の記事を転載しますが、このような人権侵害は、ただちに止めるべき 拉致監禁の連鎖 緊急リポート 消えた婚約者(上)米本さんのブログ 婚約者からの訴え 私は杉並警察署に電話をしました。<杉並警察署>〒166-0015 東京都杉並区成田東4-38-16一ノ口克己 署長 殿 生活安全課 課長 殿 電話 03-3314-0110http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/suginami/index.htm早急な解決をお願いしましたが、対応した方は「今 捜査中でこれ以上は答えられない」の一点ばりでした。
2010年08月04日
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最近統一教会員のブログが多くなったようだが、なかなか「コレだ!」と思うようなブログがなかったが、最近良いブログに出会えたので、紹介しますキリスト者に捧ぐ仏教徒だった私がキリスト教の世界に触れた中で感じたこと。統一教の統一原理に触れてキリスト教の伝統を学びたい。キリスト者へ捧げるメッセージ。
2009年11月16日
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もっと早く立ち上げてほしかったが、やっと「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」が公開されました。日本語だけでなく、英語、韓国語にも対応しています。
2009年11月07日
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統一教会員の12年監禁事件を問題視―宗教の自由年次報告書 【ワシントン支局】米国務省は26日、世界各国の宗教の自由に関する年次報告書を発表した。報告書は日本について、「政府はおおむね宗教の自由を尊重していた」としながらも、「宗教や信仰、実践に基づく社会的迫害、差別の報告が数件あった」と指摘。具体的な事例として、世界基督教統一神霊協会(統一教会)の信者に対する監禁事件を挙げた。 統一教会では多くの信者が強制棄教を目的とした拉致・監禁の被害に遭っており、中でも都内在住の後藤徹さん(45)は1995年9月から昨年2月まで12年5カ月にわたって監禁された。報告書は「12年以上、本人の意思に反して家族に拘束されていた統一教会信者が2008年2月10日に解放され、統一教会本部に戻った」と、後藤さんの事件について言及している。 また、報告書は後藤さんの事件に関して、「調査報告期間の終わりの時点(今年6月30日)では、統一教会は誰も起訴されておらず、捜査も行われていないと主張している」と、統一教会側の見解を紹介している。 【ワシントン支局】米国務省は26日、世界各国の宗教の自由に関する年次報告書を発表した。報告書は日本について、「政府はおおむね宗教の自由を尊重していた」としながらも、「宗教や信仰、実践に基づく社会的迫害、差別の報告が数件あった」と指摘。具体的な事例として、世界基督教統一神霊協会(統一教会)の信者に対する監禁事件を挙げた。 統一教会では多くの信者が強制棄教を目的とした拉致・監禁の被害に遭っており、中でも都内在住の後藤徹さん(45)は1995年9月から昨年2月まで12年5カ月にわたって監禁された。報告書は「12年以上、本人の意思に反して家族に拘束されていた統一教会信者が2008年2月10日に解放され、統一教会本部に戻った」と、後藤さんの事件について言及している。 また、報告書は後藤さんの事件に関して、「調査報告期間の終わりの時点(今年6月30日)では、統一教会は誰も起訴されておらず、捜査も行われていないと主張している」と、統一教会側の見解を紹介している。 世界日報 5面 国際 2009/10/28
2009年10月28日
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待ちに待った「文鮮明自叙伝」の発売日 10月7日 近所の紀伊国屋で購入しました。これから少しずつ読んだ感想を記事にしてゆく予定です。ご期待ください
2009年10月07日
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「平和を愛する世界人として」 http://touitukyoukaihoumonn.seesaa.net/article/129674853.html
2009年10月07日
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うれしいニュースです。10月7日が待ちどおしい。多くに日本人がこの本を読んで文先生を正しく知って欲しいと願います。平和を愛する世界人として
2009年10月04日
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「家庭再建が日本を救う」 性モラル改善訴え大会-東京・渋谷 性モラルの確立を訴える「Pure Love2009in渋谷~性のモラルを東京から改善しよう!」大会が19日、東京・渋谷の千駄ヶ谷区民会館で開かれ、約500人が参加した。参加者は高校、大学生を中心に、父兄や小・中学生も。 世界日報 9月20日 社会面より抜粋
2009年09月20日
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「多大な迷惑掛けた」 世界日報 11面 社会 2009/07/14 (テキスト全文)統一教会が謝罪会見/特定商取引法違反事件 印鑑販売会社「新世」(東京都渋谷区)が高額な印鑑を購入させた特定商取引法違反事件などを受け、世界基督教統一神霊協会(統一教会)の徳野英治会長(54)は13日、都内で会見し「世間をお騒がせし、多大な迷惑を掛けた」と謝罪し、会長職を辞任すると明らかにした。 統一教会によると、信者がかかわった同法違反事件は、新世を含め、新潟市や福岡市など5カ所で警察に摘発されている。 徳野会長は統一教会の関連施設への家宅捜索などに「道義的責任を痛感する」と表明。14日付で会長職を辞任すると明らかにした上で、「コンプライアンス(法令順守)を指導していく」と語った。後任には梶栗玄太郎同教会幹部(72)が就任するという。 一方で、信者らの逮捕については「信者の自覚と責任が十分でなかった」「個人の経営活動に法人が指導・監督する立場にない」と強調し、統一教会の組織的な関与を否定した。 また、徳野会長は、多くの信者が統一教会の信仰ゆえに拉致監禁され、強制的に改宗を迫られている事実に触れ、「今後、一信者に戻り、信教の自由という崇高なる人間の基本的人権を守るために微力ながら誠心誠意、努力していく」と語った。 統一教会によると、これまで拉致監禁された信者は4000人にのぼり、多くが離教していった。同会長は、拉致監禁問題について「十分に有効な手立てなり解決策を取ることができず、ある意味では信者を奪われて、受け身の立場をただ甘受してきたような面において、私は大変責任を感じている。拉致監禁されたメンバーに対して大変申し訳なく思っている」と語った。
2009年07月15日
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前に「純潔」が大切と書きましたが、 「ブログ村のキリスト教」を見ていたら、素晴らしいメッセージがありました。 賛同する内容が多いので、紹介します。◇結婚まで待つセックス 結婚まで待つことは本当に相手を大事にすることだって知ってほしい。相手を大事にするからこそ結婚まで待つ。そこまで待てるってことは本当の愛情表現じゃないかな。このような健全な結婚観があってこそ、家庭が守られるのだと思う。不倫、浮気など考えられない世界を創れたら最高ですね。
2009年06月23日
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12年間も拉致監禁された統一教会員がいる。北朝鮮ではなくこの日本においてである。このような事を2度とおこさない為に、有志が立ち上がり、「拉致監禁をなくす会」が立ちあがって活動を開始しています。 ■拉致監禁をなくす会 さらに詳しく、火の如く「拉致監禁を究明する」ブログがある、火の粉を払え ルポライター米本和広blog拙著『我らの不快な隣人』などで、統一教会(統一協会)の信者を監禁して脱会させる強制説得の実態を暴いてから、水面下で批判を浴びるようになった。沈黙は腹ふくるる技なり。飛んでくる火の粉は払うべし。彼は「我らが不快な隣人」の著者です。ご一読をお勧めします。 注文はココ
2009年05月07日
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自殺者の数が毎年3万人を超える、痛ましい事実がある。そこで声を大にして言いたい! 絶対に自殺は止めて下さい!その理由は:霊界が存在するからです。お勧めは、「幸せの招待状」 注文:http://www.kogensha.com/products/magazines/sz489.html目次霊界はあるのでしょうか 天国を目指して愛の完成を 先祖の徳が幸せを呼ぶ 先祖を解放し心身すっきり 幸福の道を開くのは今 人類一家族をつくる平和思想 文鮮明師のメッセージ
2009年04月30日
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では何が大切かと言えば男も女も守るべきは、 「純潔」です。
2009年04月29日
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最近頭にくるブログのコメントが多く、悪質なTBも多いのではっきり宣言しておく! 不倫は「愛」などではない! 悪魔の誘惑にのっているだけである。不倫の行き先は地獄の1丁目!
2009年04月27日
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APTF-南大阪が主催する「純潔ラリー」がありました。■不倫絶対反対■純潔は私の誇り■幸福な家庭は純潔から
2008年06月24日
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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 【ビューポイント】ベーリング海峡の可能性 地球規模の経済的影響/歴史的な平和のトンネル構想 ロシア政治アカデミー理事 ウラジーミル・ペトロフスキー 世界日報07.7.20記事より◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 計画思い出させた文鮮明総裁 私たちは、比喩や隠喩を好んで使う。「平和と友情の橋」というフレーズも同じであり、さまざまな国や民族を結ぶ道路や橋という、文字通りの意味で捉えることはあまりない。こんな考えが頭をよぎったのは、文鮮明UPF(天宙平和連合)総裁が提唱した、ベーリング海峡をトンネルと橋で結ぶという、大胆で野心的な構想を耳にしたときである。計画はあまりにも壮大で、実現する可能性は低いのでは――それが私の最初の感想だった。 しかし、本当にそうなのだろうか。 かつてユーラシアと北米は一つの大陸だったが、一万数千年前に氷河期が終わると、ロシア極東のチュコチとアラスカの間にある地峡は海水で満たされた。その後、長い時間が経過し、人々はこの自然の障害を乗り越えようと、思案をめぐらせるようになった。 十九世紀末の帝政ロシアでは、シベリア鉄道の敷設計画が練られる中で、ベーリング海峡を鉄道連絡船で結ぶ計画が俎上(そじょう)に上った。その後、米国のあるシンジケートの提案で、連絡船ではなくトンネルで結ぶ構想が浮上した。ロシア政府はこの提案を真剣に検討したが、膨大な建設費用に対して利益は不透明との考えが広がり、その後の戦争や革命で計画も忘れ去られた。 ロシア革命後、ソ連のボリシェビキは、ベーリング海峡をいかに自然の要塞とするかを考えた。「社会主義の敵」がチュコチから侵入するのを防ぐためである。とはいえ構想は空想科学文学などで生き続けた。 ベーリング海峡を結ぶ計画について、本格的に政府や専門家集団が検討しだしたのはソ連崩壊後である。一九九一年にワシントンで、国際非営利組織「Interhemispheric Bering Strait Tunnel and Railroad Group(IBSTRG)」が公式に登録された。米側の発起人は、アラスカ州、米国鉄道協会(AAR)、ベーリング海峡付近に土地を所有する少数民族協会、複数の大型建設企業、鉄道企業、コンサルタント会社などである。 同時にIBSTRGのロシア支部も登録され、ロシア側の計画参加組織は、経済省、建設省、燃料エネルギー省、国家北方委員会、国営トランスストロイ、ロシア統一エネルギーシステム、ロシア科学アカデミーなど、そうそうたる面々であった。米ロの検討や国際会議の経緯 さらに一九九六年、米ロ両政府間に作られたゴア(米副大統領)―チェルノムイルジン(ロシア首相)委員会で、IBSTRGの計画の資金面に関する議定書が調印された。これを受け米政府は一千万ドルを拠出することを決定したが、資金の使い道について米ロ両政府は合意できなかった。資金は拠出されず、計画も再び凍結された。 最近、モスクワで「ロシア東方の巨大プロジェクト」という国際会議が開催された。ロシアの経済発展貿易省などが参加したこの会議では、東シベリアのヤクーツクからオホーツク海に面したマガダン、チュコト自治管区の首都アナディリ、ベーリング海峡に面したウエレン、そして対岸のアラスカのノーム、フェルバンクス、フォートネルソンを結ぶ総延長六千キロに達する鉄道、高速道路、パイプライン、光ファイバー、電力幹線について討議された。ちょうど真ん中に横たわるベーリング海峡を、総延長百キロに達するトンネルを掘削し陸路で結ぶ。また、トンネルは海峡に浮かぶ二つの島への出口も持つ。プロジェクトは、極東、東シベリアに眠る手付かずの膨大な天然資源を開発する可能性を与えるものであり、また、ベーリング海峡には強力な潮汐(ちょうせき)発電所の建設も計画されている。 ベーリング海峡トンネルについては、延長九十八かキロら百十三キロの間でいくつかのバリエーションがあるが、英仏海峡トンネルが五十キロであることを考えると、どれにせよ極めて長大だ。しかし、海峡のほぼ中央に大ラフマノヴァと小グルゼンシュテルナという二つの島があるおかげで五十キロ弱の二つの区間に分けることができる。掘削技術的には実現可能なものだ。 専門家はプロジェクトについて、ロシアや米国、その他の潜在的参加国にとって、大きな利益をもたらすものだと評価する。東シベリア、極東の膨大な資源の開発が世界経済に与えるインパクトだけではない。米国やカナダ、さらに南米は、生産品や技術をロシアや中国、東南アジア、中央アジア、南アジアに直接輸出するルートを得ることになり、アジア太平洋諸国にとっても、南北米大陸への直接の輸出ルートが開かれることになる。実現は高度な国際協力が必要 計画に懐疑的な人々は、ベーリング海峡トンネルを交易ルートとして使うためには「ロシア、アラスカ側の双方で、数千キロにわたる鉄道や道路を建設する必要があるが、それは現実的ではない」と指摘する。確かに、例えばアラスカ側では、フォートネルソンからベーリング海峡まで千九百キロの鉄道や道路を整備する必要がある。 ところで、ロシアでは一九三〇年代に、バム鉄道から分岐しヤクーツクに達し、そこからさらにベーリング海峡を望むウエレンまで達する鉄道の建設が開始されたが、その後、さまざまな理由から計画は凍結された。しかし、プーチン大統領はこのほど策定した「ロシアの二〇二〇年までの交通運輸計画」で、このウエレンまでの鉄道建設を、ロシア政府の最優先課題の一つとして位置付けたのだ。 また、専門家はベーリング海峡トンネルによる新たな交通輸送幹線が生み出す利益を、年間一千万ドルに及ぶと計算している。もっとも、建設に掛かる費用は膨大だ。海峡トンネルを含め、ヤクーツクからフォートネルソンまでの鉄道・高速道路などの建設には五百五十億から六百七十億ドルが必要とされる。したがって、この計画は一国が行うには荷が重過ぎる。プロジェクトの実現には、米ロおよび周辺国の新たな、そして極めて高度な政治・経済面での国際協力が不可欠だ。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇---------------------------------------------------------
2007年07月20日
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神なきヒューマニズムの克服を 文先生が東欧圏解放、ソ連解放に伴って、最も胸を痛められたことがある。それはほかでもない、東欧圏諸国が共産主義を弊履のごとく捨てて、理想社会を憧憬して自由世界の懐に入ってくるとき、自由世界は果たして何を与えるのかという問題である。解放された旧共産圏諸国に一番最初に入ってきたのはエイズであり、麻薬であり、フリー・セックスであり、ポルノ雑誌であった。続いて入ってきたのが非情な商業主義であった。西側では売れない安物を数倍の値段で売りつける悪徳商人たちである。東欧圏の大都市の街角には娼婦が立ち並び、おかしな身なりをして誘惑の眼差しで道行く人を誘う。これが自由世界、特にアメリカが輸出した西洋文化の第一波であった。 共産主義の鎖からようやく解放された彼らを、一体誰が温かく迎えて慰労したのか? お腹をすかせて飢えた彼らに、一体誰が一切れの温かいパンを提供したのか? 一体誰が「われわれの生きる倫理と道徳はこのようなものです」と真の人生の標本を見せてあげたのか? 神なき世俗的人本主義に喘ぐ西洋文明が、解放された共産世界に与えるものは、実は何もないのである。「自由」--。そうだ! 自由を与えることはできる。しかし、われわれが住む西洋文明の世界では、自由は放縦となった。麻薬の自由、エイズの自由、ホモの自由、堕胎の自由等々を主張して、無責任な自由を氾濫させ、人間がただ生きるのでなく、真に良く生きるために倫理・道徳を守る「責任ある自由」はどこにも見出すことができない。人々は欲望のおもむくまま勝手気ままに行動するだけで、そこには自己抑制の精神がない。絶対的な価値基準は崩壊して、善悪の区別がつかない、やりたい放題の社会になってしまった。 現在、アメリカで新たに生まれる私生児の数は毎年百万名を超える。離婚率は五〇パーセントから七五パーセントに近付いている。アメリカの児童には「両親・父母」という概念がなくなりつつある。半分以上が自分の父親を知らない。「お父さん」という概念がこの社会から消え去ろうとしている。自分の父親も知らない人々に、目に見えない「天の父」をどうやって教えればいいのだろうか。それは並み大抵のことではない。 解放された共産世界はすぐに幻滅に陥った。「われわれが希求していたものは、こんなものに過ぎなかったのか。命をかけて戦って勝ち取った自由が、こんなものに過ぎないのか」 彼らはむしろ憤りを感じさえした。「旧官が名官である」という韓国の言葉がある。彼らの場合、「旧官」は共産党である。だからこそ、共産主義解放から五年も経たずに、東欧とロシアで共産主義復古運動が起こっているではないか。むしろ共産党時代の方が良かったということである。東欧には共産党が再び執権している国もある。ロシアでも共産党が再執権の機会を狙っているではないか。この状況を見て、文鮮明先生は最も胸を痛めておられる。 自由世界は深く反省しなければならない。早く第三の主義を探し出さなければならない。それが左翼でもなく右翼でもない頭翼思想であることは、もはや言うまでもない。世界はもう一度「解放」されなければならないのだ。解放された共産圏も自由圏も同様である。神を忘れた世俗的人本主義から、神主義に生まれ変わらなければならない。頭翼思想によって新しい文化革命を起こさなければならない。 私は本書を終えるに当たって、今は祖国ソ連に帰国を果たしたノーベル文学賞受賞者、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉<27>を引用しようと思う。「人類全体が病気にかかっている状態だ。ソ連とアメリカという両体制の中で崩壊という共通の事象が生じている。家庭の崩壊、労働意欲の喪失、教育の悪化などだ。相異なる両体制が、いずれも『神なきヒューマニズム』を出発点にしているからだ。われわれが完全かつ至高のもの(神)を持たない限り、共産主義の脅威がなくなっても、やがて世界は崩壊するだろう」
2007年04月29日
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■ベーリング海峡にトンネル、ロシアが建設構想発表http://www.worldtimes.co.jp/news/world/kiji/070420-120720.html 大陸間輸送の大動脈に 【モスクワ19日大川佳宏】ロシア政府高官は18日、ベーリング海峡両岸の米国アラスカ州とロシア極東チュコト半島を全長102キロの海底トンネルで結び、両大陸にまたがる六千キロに及ぶ鉄道・高速道路、石油・ガスパイプライン・送電幹線を建設する構想を発表した
2007年04月20日
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ソ連はなぜ文師を受け入れたのか? 本書を閉じるに当たって、総括的にもう一度この根本問題を問うてみよう。 ソ連はなぜ文鮮明先生を受け入れたのか? ここまで、モスクワ大会の背景と経過およびその結果を一つ一つ記してきたが、いくら考えてみても奇想天外で不可思議なことこの上ない。二十世紀最大の謎、最大の奇跡の一つである。 私の結論はこうである。「天がなさったことである。天意がそのようにされたのである」 しかし、天は決して地上の人間と無関係に、一方的に役事されることはない。天の役事(み業)は人間を通して行われるか、人間が立てた「善の条件」に基づいて行われるのである。これが天の原則、宇宙の鉄則である。そのために、いつの場合にも人間の側の責任分担が決定的に重要である。聖書を見ると、神の計画が失敗に帰した事例が数多く記録されている。いずれも天が失敗されたのではない。天が九五パーセント責任を果たしても、人間が自己責任の五パーセントを遂行できなかったところに原因がある。 人間が責任を果たせず、天のプログラムに合致できなければ、天の御旨は延長されるほかない。こうして、神の人類救済の歴史が(聖書的には)六千年も延長されてきたのである。その期間、神は悲しみと怨恨の中におられた。息子・娘を失った父母の心情で哀痛された。その天の心情をまっすぐに見つめて、その神を悲哀の涙から解放しようと乗り出された方が文鮮明先生である。 この世の中のどこに「神の解放」という言葉を口にできる者がいるだろうか。神の実在さえ確信できないわれわれの世界では、「神の解放」など想像もできないことである。私はこの事実一つとっても、文鮮明先生は再臨主、人類の真の父母となって余りある方であると信じてきた。 ソ連の解放はいかにして成し遂げられたのか? 地上の人間を代表して、文鮮明先生が人間の責任分担五パーセントを完全に遂行し尽くされたのである。そして、天の九五パーセントがそれにぴったりと合ったのである。 具体的にまとめてみると、(1)文鮮明先生がアメリカに拠点を移す(2)アメリカの建国精神復興運動(3)米レーガン大統領の当選(4)ワシントン・タイムズ創設(5)SDI(戦略防衛構想)の政策化(6)カウサ(CAUSA)運動の推進(神主義、頭翼思想理念の教育)(7)米ブッシュ大統領の当選(8)ISC(国際安保協議会)創設(9)「人参政策」を創案(10)ソ連訪問、ゴルバチョフ大統領と会見、思い付くまま挙げても、この十項目を列挙することができる。 その一つ一つが試金石であった。その一つ一つが血の滲む戦争であった。この戦いを、先生は身辺の危険を冒し、共産勢力の第一の標的となる中で遂行してこられた。 ゴルバチョフ大統領の顧問でイズベスチヤ紙編集局長ヴィタリー・コビッシュ氏が、日本訪問中に痛切な感想を漏らしたことがある。「われわれは四十年間、共産主義を正しいものと信じてきた。ところが、文鮮明師は既に四十年前から共産主義の誤りを知っておられた。共産主義七十三年の実験の結果、それが間違いであると知った今、われわれは文鮮明師の過去四十年間の歩みが正しかったと認めて、その意見に同意せざるを得ない。われわれは、この事実に胸の痛みを感じる」 そして、コビッシュ氏は吐き出すように結論を述べた。「今ソ連が行かなければならない道は、資本主義の道ではなく頭翼思想の道である。資本主義の誤謬も無数に知るようになったわれわれは、資本主義に先立って頭翼思想を信奉して実践するようにすれば、わがソ連が自由世界を追い抜くこともできるのではないかと考えてみる。この考えは、幻滅の海に沈んでいるわれわれに大きな希望を与え、一種の痛快感さえ与えてくれる」 なんと明快な結論であろうか。私は、これほど明晰な顧問を側に置いたゴルバチョフ氏であったからこそ、彼が偉大な仕事を遂行できたのだと思う。 ソ連が短時日のうちに文鮮明先生に魅力を感じて、文先生を受け入れたのは、この「頭翼思想」のためだと言っても過言ではない。
2007年04月20日
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ロシアの歴史に永遠に残る名前 文先生が口を開かれた。「大統領。大統領は偉大な仕事を成し遂げられました。ソ連大統領の地位は差し出しましたが、あなたはいま『世界の大統領』になられました。そしてこれは『終身大統領』です。誰もあなたの長期執権をけなす者はおりません。ロシアの歴史に永遠に残る名前はカール・マルクスでもなく、ウラジーミル・レーニンでもなく、ヨシフ・スターリンでもなく、ただミハイル・ゴルバチョフのみでありましょう。 それよりもさらに重要なことは、あなたが永遠に世界平和の使徒となられたことです。あなたの知恵と勇気によって、戦争なしに世界平和を成就しました。あなたは恐ろしい核戦争の恐怖から世界の人々を解放したのです。あなたは何かを失ったかのように寂しく思ってはいけません。あなたは最も大きなもの、永遠なるもの、美しいもの、偉大なものを得られました。あなたは神様の仕事を成し遂げたのです。 私から見れば、あなたがいま生きていることが奇跡です。これこそ、われわれが共にその感謝と栄光を神様に捧げなければならないことです。神様があなたを保護されたのです。本当に感謝すべきことです。そのために私は、一九九〇年にあなたに必ず会わなければなりませんでした。あなたに天運と神様の保護をもたらすためでした。 大統領。あなたは神様の愛する人であり、平和の英雄です」 ゴルバチョフ氏の目にはまた光るものがあった。「レバレンド・ムーン。私はきょう大変な慰労を受けています。その言葉を聞くと力が出ます。私はこれからの余生を世界の平和事業のために献身するつもりです。私はモスクワに『ゴルバチョフ財団』を設立しました。私は先生を信じる人間ですから、今この財団を支援してくださり、私がやり甲斐のある平和の働き手となれるようにしてください。私はレバレンド・ムーンがなさっている仕事に大きな感銘を受けています。今回ソウルに来ることにしたのも、私が先生を尊敬するからです」 文先生は次のように単独会談を締めくくられた。「大統領。私は永遠にあなたの友です。また、あなたの支援者です。平和事業はわれわれ共同の事業です。われわれは共に、世界人類の究極の真なる平和のために前進しましょう。大統領と令夫人、そしてその家族を天が継続して保護してくださるでしょう。私はあなたのために祈ることを忘れはしないでしょう。さあ、それでは、明日会議の席上で会いましょう」 これはモスクワのクレムリン宮殿での単独会談に劣らないほど感動的な会談であった。こうして、文先生が期待されたように、クレムリン宮殿でゴルバチョフ大統領に会って祈祷したことが、彼の生命を救う条件になったことが明らかになった。なんと不思議に編まれた神の摂理であろうか! ここに天が臨在され、運行しておられることを、一体誰が否認するであろうか。 次の日、三月二十七日午前十時、ソウル中心部のロッテ・ホテルで第二回世界平和会議が開幕した。壇上には文鮮明先生御夫妻と並んで、ゴルバチョフ元大統領夫妻が座った。 この日、文先生の創始者演説(「真の平和の根本原理」)に続いて、ゴルバチョフ元大統領の基調演説(「二十一世紀と世界平和」)があった。彼は一九八五年にソ連共産党書記長として執権してからソ連帝国終焉までの回顧を交えながら、将来の世界平和を希求する名演説をした。 彼の基調演説の後、壇上で再び勲章授与式が行われた。ラテン・アメリカ統一連合の「自由と統一のための大十字勲章」であった。この勲章こそは、一九九〇年四月十一日にソ連大統領執務室で授与された勲章である。しかし、この事実はそれまで秘密にされていた。再度、同じ勲章授与式を行った理由は、この秘密のベールを剥いで、かつての勲章授与式を公式化するためであった。旧ソ連帝国の最高権力者は、今はノーベル平和賞授賞者(一九九〇年十月)であり、今度は「平和の使徒」「世界の大統領」の位置で再び大十字勲章を受けたのである。ゴルバチョフ氏も、それを見つめるわれわれも、感慨無量なることこれに比べるものがなかった。
2007年04月10日
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第9章 ソ連崩壊後の再会/ゴルバチョフ氏の韓国訪問 ソ連解放から四年が過ぎた。一九九四年年三月二十六日、ミハイル・ゴルバチョフ旧ソ連大統領が初めてソウルを訪問した。彼はまず文鮮明先生の漢南洞公館に出向いて、そこで再会の熱い握手を交換した。 文鮮明先生は約束通り、ゴルバチョフ氏をソウルに招待したのである。そして、ゴルバチョフ夫妻を主賓に迎え、「世界平和連合第二回国際会議」を開催されたのである。ゴルバチョフ元大統領はこの会議で基調演説をする予定になっていた。 その日、漢南洞公館は慌ただしかった。文先生御夫妻はソ連で受けた親切な礼遇にお返しをしようと、精誠を尽くして韓国式の午餐を準備された。その午餐には教会幹部、重鎮たちも席を共にした。 ゴルバチョフ氏は珍しそうに二本の箸を使って、韓国式の食事をするのに汗を流していた。どうやってもうまくゆかず、令夫人がナイフとフォークを持ってくると、おなじみの「スパッシーバ! スパッシーバ!」を連発して感謝した。文先生御夫妻がクレムリン宮殿を訪問したときに何度も聞いた、あの懐かしい声である。彼は焼き肉と野菜炒めをおいしそうに食べ、食後にスジョンカ(韓国の飲物)まで楽しみながら、韓国の伝統料理は非常に素晴らしいと称賛した。 午餐が終わると、ゴルバチョフ氏は文先生に単独で申し上げたいことがあると言った。 先生は話を聞くために、すぐに彼を他の部屋に案内した。そこに同席したのは、もちろん韓鶴子令夫人と、元大統領の秘書兼通訳のリコタル氏と、文先生の通訳を受け持つ私だけであった。 別室に入ると、ゴルバチョフ氏はひどく深刻な表情になった。しばらく沈黙を守ってから、彼は口を開いた。「私は先生の祈祷がなければ既に死んでいた人間です。そればかりでなく、先生が私を救うために何をされたかを、私はよく知っております。先生は私の生命の恩人です」 ゴルバチョフ氏の目には光るものがあった。 ここで読者は怪訝に思うかもしれない。ゴルバチョフ氏が言う文師の助けとは、何を指すのであろうか? ここにまた一つ重大な秘話がある。 文先生がクレムリン宮殿で歴史的な単独会談を終えた後、アメリカに戻ってソ連のために最初に企画した事業が、ソ連のエリート大学生を招いて、アメリカで一週間ずつ神主義と頭翼思想の研修会<26>を行うことであった。モスクワ大学を筆頭にソ連全土から英語が話せる三千名の青年学生を招待したのである。それが一九九〇年七月から始まって、一年以内に二十回の研修会が終わっていた。ソ連の清純な若者たちの魂に神を刻み込んだのである。この研修会に参加したソ連の若きエリートたちは生涯で初めて神を知り、真の兄弟愛を味わい、涙を流して統一運動に参加し、ソ連を共産主義から救う決意を固めて帰国していった。 一九九一年八月、ソ連反改革派クーデターの報を聞かれた文先生は、すぐさまソ連内の三千名の青年学生に命じて、クーデターに対して反対デモを行うよう命令された。この三千名がゴルバチョフ大統領の生命を救った民間抵抗闘争の主役であった。 彼らは神の名をもってソ連軍の戦車を乗っ取った。ソ連の戦車はこのデモ学生たちで満載となった。ソ連軍はこのデモの群衆を皆殺しにするわけにはいかなかった。ひるむ反乱軍は二つに分裂し、そのすきに数千、数万の民衆が加勢した。これがクーデターを失敗させた原因である。事件収拾の裏には文先生の隠れた貢献があったのである。 ゴルバチョフ氏が韓国に来た本当の目的は、自分の生命の救い主に直接、感謝の意を表明することにあった。 ゴルバチョフ氏は言葉を続けた。「私は先生とモスクワでお会いした後、いくらも経たないうちにクーデターが起こったとき、間違いなく死ぬ運命でした。私がきょう生きているのは、神が保護したからです。神が私を保護された理由は、先生が私のために祈祷してくださったからです」「一九九〇年にクレムリン宮殿に来て語られた先生の言葉を、私は胸の奥深く大切にしていました。振り返ってみれば、そのとき先生が語られた言葉通りに、すべてが成し遂げられました。ですから、先生は私を少し称賛してくださってもいいでしょう。先生の言葉を百パーセント守ったのですから」 と大きく笑みをほころばせた。
2007年03月27日
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静かに消滅した「ソ連帝国」 このクーデターが熱血共産分子たちの策動であったことが明らかにされるや、ゴルバチョフ大統領は兼任していた共産党書記長を辞任し、ここぞとばかりに共産党を解体してしまった。共産党がなくなってしまえば、ソ連は終焉したも同然ではないか。ゴルバチョフは、クーデターが起こる前には共産党をつぶす勇気を持てなかった。クーデターが彼に共産党解体を決断させたのであるから、このクーデターもまた天の摂理であったと言えないだろうか? この八月政変を境にソ連は非共産国家となったのである。これは最終的にソビエト連邦の消滅につながったので、ソ連にとっては自殺行為であったかもしれない。しかし、ゴルバチョフ大統領もここまでくれば、やむを得ないと考えたであろう。 振り返ってみると、この方法以外にソ連帝国を速やかに解体する道があったかどうか? 第三次世界大戦を起こさずにである。思うに、八月政変と共産党解体はソ連消滅へのとどめの一撃となったのである。これは天がなさることであり、人間の知恵によってできることではない。 クーデターを契機として、ボリス・エリツィンの人気が高まった。彼は複数政党制や党の特権廃止、連邦無用論を掲げて登場し、より一層急進的な自由化、民主化を進めるようゴルバチョフに圧力をかけてきた人物である。クーデターに際しても、ロシア共和国政府庁舎に陣取ってバリケードを築き、果敢に反乱軍に抵抗した。 このエリツィンのロシアだけでなく、連邦を構成する各共和国が次々と自決権を掲げて独立宣言をしたので、ゴルバチョフ大統領は立つ位置がなくなってしまった。十二月一日にウクライナ共和国が独立し、八日にロシア、ベラルーシ、ウクライナの三国がソ連邦の消滅と「独立国家共同体(Commonwealth of Independent States CIS)」創設を宣言すると、この動きに他の共和国も追随した。CISは到底連邦国家とは呼べない代物である。それは国家ではなく、独立国家群の単なる親睦団体といった程度のものである。 ゴルバチョフは最後の最後に、天が自分に任せた使命が何であるかを悟った。それがソビエト連邦の解体、ソ連の終焉を導くことであった。この最終段階に至って、彼は自分の使命が終わりを告げ、舞台から去るべき時が来たことを知った。 威勢堂々たる超大国として一時は世界制覇目前まで版図を広げたソ連帝国は、ここにその旗を降ろしたのである。一九九一年十二月二十五日、不思議なことにイエス・キリストの誕生を祝賀するクリスマスの日であった。その日、ゴルバチョフ大統領はクレムリン宮殿で短い告別演説を行って、静かに権力の座から降りた。ロシア革命から七十四年、ソ連建国から六十九年が経っていた。 ここに私は一つの奇跡を見る。歴史的な仕事を担当したゴルバチョフ大統領が死なずに、生きて使命を果たしたということである。考えてみれば、これこそ大きな奇跡である。天が保護されたのである。これこそ文鮮明先生が願われたことである。 ソ連が滅びる前に第三次世界大戦が起こったと仮定してみよう。間違いなくそれは核兵器の戦争であっただろう。その結果は果たしていかなるものであったか! 考えただけでも鳥肌が立つ。それは単にソ連帝国の滅亡にはとどまらず、世界人類の滅亡であっただろう。
2007年03月17日
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ゴルバチョフ大統領を襲った危難ー八月政変 天がゴルバチョフ大統領に託した使命は険しく困難なものであった。それは第三次世界大戦という人類破滅の核戦争や熱戦なしに、ソ連共産帝国を終焉に導くという仕事である。 七十四年もの間、ソ連体制の骨髄にまで染み込んだ共産主義、神を否定して革命と階級闘争イデオロギーを神のごとく信奉する共産主義は、神なきもう一つの宗教であった。短期間のうちに世界の半分を呑み込むことができたのも、人間の宗教的情熱に訴えたからである。理想郷と理想世界の建設という夢を見つめて、彼らはすべてのものを犠牲にしてきた。共産主義ユートピアの名のもとに、罪なき一億五千万もの人命が失われた。目的(共産革命)のためなら手段を選ばない、無慈悲な共産主義思想の犠牲者である。 いかにペレストロイカでソ連の脱共産化が進んだといっても、その社会にはまだ保守的な狂信者も多い。ノメンクラトゥーラ(特権階層)の中核を占める彼ら保守・反改革派の刺すような視線を一身に浴びて、ゴルバチョフ大統領は常に危機の中にいた。 案の定、大統領がクリミア半島の別荘に休暇に行って、モスクワを離れたときに政変が起こった。ソ連軍部の不満勢力と政府の不満勢力が結束して、倒壊しつつあるソ連帝国を救出するという大義名分のもとにクーデターを起こしたのである。これには、副大統領、KGB議長、首相、国防相、内務相、ソ連最高会議議長らソ連政府の最高権力者たちが加わっていた。これほどの大物が揃ったクーデターは失敗するはずがない。 事件が発生したのは一九九一年八月十八日のことである。反改革派の狙いは、同月二十日に予定されていた「新連邦条約」の調印を阻止することにあった。その条約草案は、連邦を構成する各共和国に大幅な自主性を認め、徴税権も移譲して、緩やかな連邦体制に移行することを謳っていた。もしこの条約が調印されれば、共産党指導部も中央集権的な連邦政府もその権限を削ぎ落とされ、有名無実と化してしまう。ゴルバチョフ大統領はこの条約草案で、言わば最後の一線として名目的な連邦と共産党だけは存続させ、それと引き換えに各共和国への権限移譲、実質的な独立にも等しい自主性の容認を決めたのである。 この動きに真っ向から異を唱えたのがクーデターを強行した反改革派であった。彼らは強力な連邦体制と共産党独裁体制を破壊されたくなかった。彼らは腐敗した共産主義特有の政治システム<25>を温存しておきたかった。一言で言って、彼らは自分たちの既得権や特権を失いたくなかったのだ。 ゴルバチョフ大統領とライサ女史は別荘に軟禁され、十九日朝には、ヤナーエフ副大統領が大統領に就任し、クーデター勢力の非常事態委員会は全権を掌握したかに見えた。この時、天が介入したのである。 ソ連式の革命のやり方はまず最高権力者を殺害することである。最高権力者が倒れれば、その陣営は求心力を失って苦しくなる。これが常套的なクーデターの方法である。レーニンがロシア皇帝ニコライ二世とその家族を全員、無惨に処刑したことを想起すればよい。 ところが、今回はどうしたことか、彼らはゴルバチョフ夫妻を軟禁してから、ずるずると日時を引き延ばしてしまった。すぐに殺していれば、クーデターは成功していたかもしれない。殺さずに日時を引き延ばしている間に、国際世論が沸騰して、反改革派のクーデターは各国から激しい非難を浴びた。それに加えて、ソ連の国内世論もゴルバチョフの自由化、民主化政策に大きな期待感を抱いていたので、クーデターには怒りを露にした。反乱軍は街々で民衆とぶつかった。彼らは至るところで石つぶてを食らう羽目になった。 徒らに時間だけが流れるうちに、反乱軍の内部では穏健派と強硬派の衝突が発生した。分裂は敗北の始まりである。反乱軍の士気はがた落ちになり、彼らは秩序を失って投降し始めた。ソ連国民の支持もなく、クーデターは空中分解せざるを得なかった。 世論は正義の役割をするのが常である。これに力を得て政府軍が反撃を開始すると、二十二日には反乱軍の頭目が自殺したり、投降したりして、クーデターは終息に向かった。その時まで、軟禁中のゴルバチョフが殺されずにいたことは、天の協助のおかげとしか言いようがない。彼はモスクワに帰京して、大統領の座に無事復権を果たした。
2007年03月15日
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大会閉幕と「リトルエンジェルス」文化祝祭 四月十二日夜、三日間の有意義な討議を終えた三大会議参加者たちが、モスクワ大会閉幕のために再び一つの席に集まった。その場所はナターリア・サッツ国立児童音楽劇場であった。千三百名以上の参席者と観衆がぎっしりと詰まったこの児童音楽劇場の舞台で、文鮮明先生は大会閉幕の挨拶をされた。 この閉会の辞を傾聴する一人の特別な貴婦人がいた。それがほかでもない大統領令夫人、ライサ・ゴルバチョフ女史、ソ連のファースト・レディーであった。「ソ連よ、精神的ペレストロイカ(改革)に努めなさい。そうすれば、全人類が平和と繁栄に至る道が開かれるであろう」というのが、この日の晩の先生のみ言葉の要旨である。 全聴衆が感動の坩堝の中にあった。彼らは天地を揺るがす拍手と歓呼をもってモスクワ大会の閉幕を祝賀した。 続いて、韓国が生んだ世界的文化使節、友情と平和の天使「リトルエンジェルス(韓国少年少女芸術団)」の公演が、大会の閉幕を祝賀しながら繰り広げられた。この美しく幼い天使たちは、文鮮明先生が一九六二年に創設されて以後、平和の文化使節として全世界を駆け巡ってきた。そしてこの日、鉄のカーテンを貫いて、共産主義の牙城モスクワのど真ん中で、美しい愛の踊りと歌によって万人の心を魅了した。 踊りの部が終わり、合唱の部になって、彼女らがその清らかな声でロシア民謡を合唱すると、場内には歓呼の声が爆発した。「アンコール!」の掛け声が乱れ飛ぶ中、彼女たちは流れる汗を拭いて、やはりロシア民謡でアンコールに応えていった。これでロシア人の心に火が付いた。もともと情熱的で知られるスラブ民族の魂が込められた民謡である。観衆は興奮して狂ったようになる。彼らの絶叫と口笛の音! 「ブラボー!」「ブラボー!」という歓呼の声。リトルエンジェルスの準備した曲は出尽くしてしまった。 ここで司会者が迅速に前に出て、「このたび、文鮮明先生がモスクワにおられる間に結婚三十周年記念日を迎えるようになりました」と宣言した。舞台の片側から大きなケーキが引かれて出てきた。三十個のろうそくが光を放つ。その祝賀ケーキはリトルエンジェルスの前に準備され、文鮮明先生御夫妻が大歓声を浴びながら、満面に笑みを浮かべて再び登壇された。 清らかなエンジェルスの「御聖婚おめでとうございます」の歌声に合わせて、観衆が手拍子を打つ。先生御夫妻はろうそくを吹き消し、ケーキをカットされる。会場の興奮は絶頂に達した。美しいエンジェルスが御夫妻にキスをすると、ルージュで先生の頬に赤い色が付いた。会場から爆笑が沸き起こった。続いて、エンジェルスの全団員が観客席に降りて行って、すべての貴賓たちにキスをする。皆が頬に付いたルージュを拭きながら破顔大笑する。 なんと素晴らしいモスクワ大会のフィナーレであろうか! これこそ平和の祭典である。皆が平和を痛切に感じる晩である。そこには共産陣営も自由陣営もなかった。全員が一つの家族、一つの民である。文先生の言われる「一つの地球家族」があるのみである。 ライサ女史はすぐには帰らずに、幕の後ろに上がって来た。太極旗(韓国旗)とソ連旗を両手に持った子供たちが、ライサ女史に再びキスの洗礼を浴びせた。ライサ女史はよほど感激したのか、高ぶった声で「私の天使たちよ!(My Little Angels!)」を連発する。女史は文先生御夫妻に温かい握手を求めながら、「リトルエンジェルスこそ本当に平和の天使たちです。おめでとうございます」 別れ際には、再度先生を見つめて、「夫からよく話をうかがっております。きょうここで語られたことは、夫によく伝えておきます。あなたの熱い情熱に、夫は本当に慰められました。ありがとうございます」 と言って、警護員に囲まれて劇場を出て行った。 そのファースト・レディー、ライサ女史は、モスクワ大学でマルクス・レーニン主義哲学の講師を担当したほどの熱烈な共産主義者である。ところが、それから四年後、夫とともに韓国を訪問したときには、女史の胸には十字架の首飾りが光っていた。彼女は無神論者を卒業して、神とイエス・キリストを受け入れたのである。ゴルバチョフ大統領の母親がロシア正教の篤実な信者で、彼に幼児洗礼を受けさせたことは前に述べた。ライサ女史もまた、ソ連滅亡を機に無神論を捨て、神とキリストを信じる洗礼を受けたのである。 ある時、モスクワで開かれた写真展で、ゴルバチョフ大統領が祈祷している写真が展示された。その写真説明には、大統領はこの祈祷をレバレンド・ムーンから習った、と書かれていた。大統領夫妻に神様を伝道されたのは、紛れもなく文鮮明先生である。
2007年03月07日
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奇跡的に撮れた写真 ここで私は忘れられない逸話を一つ書き残したいと思う。 文鮮明先生がご夫人同伴でソ連大統領執務室に入られたこと、そしてゴルバチョフ大統領がこの歴史的な会談に応じたことは、クレムリンの歴史にかつてない異例中の異例の出来事であった。しかし、この前例のない行事を認めるに当たって、ソ連側は一つの条件を課してきた。その条件とは、写真撮影を絶対にしてはいけないということであった。 私は心の中で「これはしまった!」と思ったが、どうすることもできなかった。ただ私は、万一の場合を考えて、韓国から同行した文先生の随行カメラマン、権英佑氏に、「とにかく帰らないで、大統領執務室の辺りをうろうろしていてくれ」と頼んでおいた。 ゴルバチョフ大統領との意義深い会談を終えた後で、文先生は韓国語で性急に私に命令した。「早く写真を撮れ。早く早く、何をしているんだ」 万事休す。私は窮地に陥った。その時、私は瞬時に覚悟を決めて大統領の前に進み出た。そして大胆にこう言ったのである。「大統領。今レバレンド・ムーンはこの歴史的な会談を一生の記念にしたいとおっしゃっておられます。先生の家族アルバムのために、写真を一枚撮らせてくださいますか。私の一生のお願いです」 その場の和やかな雰囲気の中で吐露される切実な嘆願に、大統領も否応なく「ダーダー(もちろん、もちろん)」と答えざるを得なかった。 側でこれを聞いていたウラソフ社長が速やかに外に出て、カメラマンを捜した。だがカメラマンが待機しているはずがない。見つかったのは、警官に蹴飛ばされながらうろうろしていた随行カメラマンの権氏だけであった。 ウラソフ社長は彼を連れてきた。彼はこの歴史的な写真撮影という重大な局面で、長年の経験を生かして冷静に、電光石火のごとく数発のフラッシュを飛ばした。私は大統領と文先生御夫妻を強引に引っ張りながら、いくつかのポーズをとらせた。即席の演出であった。この写真が果たしてうまく焼けているだろうか? 祈るような気持ちであった。「人事を尽くして天命を待つ」とはこのことであろう。 しかし、天はまたしても私を助けてくださった。本書に掲載したのはその時の写真である。大統領も御夫妻も鮮やかに写っていた。 この時の成功のカギは「ファミリーアルバム」という言葉であった。私はこの機知を賜った神に今も感謝する。こうして、この「文・ゴルビー」単独会談は記録に残るものとなった。権英佑氏にも心から感謝したい。メシヤであられる文鮮明師の願いは、いつも奇跡的に成就されるのである。
2007年02月26日
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「(韓ソ国交樹立に)何の障害もない。盧大統領にも会いたい」文先生は、今度は話題を懸案の政治問題に向けられた。「私は韓国国民の一人として、大統領が韓国とソ連の友好増進と極東地域の平和安定のために心血を注いでおられることに敬意を表します。韓半島は将来統一される運命にあります。わが国民は韓ソの国交が開かれ、大統領が盧泰愚大統領に会ってくださることを期待しています」 これに対してゴルバチョフ大統領は、「韓ソ関係は順調に発展すると確信しています。何よりもまず韓半島の政治的安定と緊張緩和が必要だと思います。韓国との修好は今や時間の問題です。そこには何の障害もありません。盧大統領にもお会いしたい」 明快な答であった。 モスクワ大会のもう一つの大きな成果は、朝鮮半島問題の前進であった。韓国の政界とマスコミが衝撃を受けたのは、韓国政界の要人たちが今まで成し得なかった朝鮮半島の緊張緩和と平和統一問題において、文先生がゴルバチョフ大統領との直接会談を成し遂げ、「時間の問題である。何の障害もない。盧大統領にも会いたい」という具体的な言質を引き出したことである。 彼はその約束をきちんと履行した。一九九〇年六月四日、ゴルバチョフ大統領はサンフランシスコで盧泰愚大統領(在職一九八八~九三)と首脳会談を持ち、これで韓ソ国交修好は一瀉千里に前進し、同年九月三十日、待望の韓ソ修好(国交樹立)が成立したのである。 韓国の時事問題専門週刊誌「時事ジャーナル」は四月二十九日号で、「文ーゴルビー」単独会談を高く評価し、「ソ連の最高指導者が韓ソ修好や韓半島の安全保障に関して、このように明確にその政策を明らかにしたのは前例がない」と絶賛した。また同誌は、同年三月二十一日に訪ソした当時の韓国与党・民主自由党(民自党)最高委員、金泳三氏一行の成果と比較して、「文鮮明師の接近方法や内容は政府よりも一次元上にある」「あの有名な北方外交の密使(ハンガリーなど東欧諸国との国交樹立に尽力した朴哲彦氏)も、“政治生命”までかけた民自党最高委員さえも、一日にして落第生になってしまった」と指摘した。 ゴルバチョフ大統領が直接、韓ソ修好の意向を表明したのは、この時が初めてだったからである。また、大統領は朝鮮半島の緊張緩和のために、仲裁役になることも表明していた。 文鮮明先生は最後に大統領に、「何でも私に助けられることがあれば、すぐに知らせてください。私は宗教指導者ですが、今この時点では、大統領を助けることくらい重要なことはないと思います」 と言われた。 大統領は喜色満面で、「時々、ワシントン・タイムズの記事が私にはとても痛いのですが」 と言って愉快そうに笑った。 先生はすかさず、「ワシントン・タイムズはあなたのグラスノスチ、ペレストロイカ政策の絶対後援者です。『走る馬に鞭を打つ』という格言もあるではありませんか。彼らがもっとよく仕事をするために、この言論人会議がここで開かれたのではありませんか」 と応じたので、大統領は再び「スパッシーバ、スパッシーバ」を連発した。 すべてが和気あいあいとした中で進行した。 記念撮影を終えて執務室を出るときに、先生は大統領と固く握手して懇切に頼まれた。「大統領、韓国に必ず来てください。韓国でお会いしましょう」 大統領は令夫人と握手しながら、「ご夫人が本当にお美しい方です。韓服姿が実によくお似合いですね」 と言った。 韓鶴子女史は即座に返答された。「ライサ女史は本当にお美しいご夫人です。世界の女性たちが尊敬しています。明日、お会いするのを楽しみにお待ちしています。私の夫も既に言いましたが、大統領は本当に美男でいらっしゃいますね」 ゴルバチョフ大統領は天にも昇る心地であっただろう。大統領と文先生のお二人は痛快に笑った。とても家族的な雰囲気で、和やかな会談であった。 天の立場から見ると、これは宇宙的ヤコブの大勝利であり、世界的に新しい摂理が出発する大きな条件が成立した瞬間であった。そしてこの会談は実際に世界の歴史を変えてしまった。会談以後の世界の動きがこれを雄弁に証明している。
2007年02月21日
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文鮮明師とゴルバチョフ大統領の単独会談 次は秘書室長が来て、文鮮明先生御夫妻だけを大統領執務室に案内した。お供をして入ったのは、通訳を担当する著者と郭錠煥世界宣教本部長、AULA会長ホセ・チャベス大使であり、ソ連側はゴルバチョフ大統領と通訳、そしてウラソフ・ノーボスチ通信社社長が同席した。 ここでのソ連側の対応は、二つの点で異例であった。 一つ目。今までソ連の歴史において、外部人士は誰もソ連大統領執務室に入ったことはない。この部屋はソ連帝国の権座であり、秘密中の秘密の場所である。ところが、今回はその規則を破ったのである。 二つ目。ここは大統領執務室であり、社交場ではないので、夫婦同伴で入るようにはなっていない。当初、大統領秘書室は文先生御夫妻が共に入室されることを頑強に拒絶した。私はそれよりももっと頑強に、われわれの伝統によれば、お二人が一緒に入られてこそ祝福になるのだと言った。天から見れば「真の父母」の位置であり、お二人が揃って入室されてこそ彼に天運を授けることができる、という信念である。 私は次のように言った。「文鮮明先生の令夫人は『世界平和女性連合』の総裁です。単なる夫人の資格だけではありません。ゴルバチョフ大統領は世界の女性たちの支援が必要ではありませんか。大統領に言上してみてください。先生御夫妻でなければ、われわれはこの会談そのものを中止にします」 私は断固として強硬に要求した。天を信じて腹を決めたのである。いや、こうすることがゴルバチョフ大統領を生かす道だと信じたからである。すると大統領はOKを出した。 大統領執務室は豪壮な宮殿の一室というよりは、日々押し寄せてくる山積みされた案件を処理するための機能的な事務室であった。正面に執務用の机があり、その横にソ連旗が立て掛けられ、壁にはレーニンの肖像画が掛かっている。手前には幹部会のテーブルがあって、椅子が十数個置いてある。この部屋から、スターリンがソ連全土に君臨し、ブレジネフが世界赤化戦略を指揮したのである。それを考えると、一種の戦慄を感じざるを得ない。 しかし時代は変わった。今はこの部屋で、ソ連大統領を前にして、神と平和が論議されるのである。ああ、歴史の奇異なるかな! われわれはまず執務室に入って、勲章授与式を挙行した。これは世の中に知られていない事実である。勲章授与式と言っても、天から見れば祝福式である。ラテン・アメリカ統一連合(AULA)から献呈された「自由と統一のための大十字勲章」である。勲章の中央には、中南米の独立と統一の英雄、シモン・ボリバルの肖像が彫刻されている。この勲章をAULA創始者の文先生がゴルバチョフ大統領に授与する儀式である。 チャベス大使が勲章証書を読み、文先生が肩章を大統領の肩に掛け、大勲章を胸に吊した。それから、その勲章の上に右手を当てて、左手で令夫人の手をつかんで懇切な祈祷をされた。その声は感激に震えておられ、御夫妻の目には光るものがあった。そして最後に、「この大統領を神様が祝福してくださいますように。(God bless you, Mr. President.)」 と英語で語られて、この宇宙的な二人の巨人は熱い抱擁をした。 ゴルバチョフ大統領は紅潮した顔で、幼い子供のようにうれしそうであった。われわれ全員にも握手を求めてきた。 ああ、このソ連独裁者の権座、今はソ連大統領執務室に、これほど温かい愛の雰囲気が漂ったことがかつてあっただろうか。 ゴルバチョフ大統領はこれで天の祝福を受けたので、天運の保護を受ける者となった。 いよいよ二人は席に着き、その場に世界の歴史を変える言葉が行き来した。「大統領。私は大統領の改革の意志と動機を信じます。しかし、これは大統領の改革であると考えれば失敗します。これは神様がなさる改革です。大統領はこの事業に召命を受けられたのです」「ソ連と大統領が生きる道は、神様をソ連にご案内することです。神様を差し置いてするすべての人間の仕事はことごとく失敗します。 大統領。共産主義は神様の主義ではありません。共産主義には終焉が来るようになっています。この国に宗教の自由を呼び起こしてください。精神のペレストロイカがまず起こらなければなりません。共産党が滅びたとしても、国が滅びるわけではありません。その時には真実の新しい国が誕生することでしょう」「ベルリンの壁の崩壊を許された大統領は、勇気あることをなさいました。今後、さらに大きな大統領の決断が必要となることでしょう。ソビエト連邦の各共和国の自由独立を防ごうとなさらないでください。巨大なロシアがあるではありませんか」「この時点で、世界で戦争を防ぎ、核兵器の戦争を防ぐことができる人は、大統領お一人だけです。大統領お一人がなさること如何によって、世界人類を滅亡させることもでき、恒久的な世界平和を構築することもできます。そこで、私はきょう大統領にお会いして、神様の祝福を請うたのです。ソ連大統領の職に未練がましくしないでください。あなたは世界平和の使徒として、世界の大統領として永遠に残る仕事をしなければなりません。絶対に血を流すようなことをしないでください」 第一部の会談はゴルバチョフ大統領が語ったペレストロイカの説教であったが、第二部の単独会談は文先生が懇切に忠告する神主義の説教であった。 彼は熱心によく聞いた。私は英語に通訳し、ソ連の通訳官はそれをロシア語に通訳する。真摯な言葉のやり取りに火花が散った。ゴルバチョフ大統領は首を縦に振りながら熱心に傾聴した。「レバレンド・ムーン。あなたの言葉は普通の言葉ではありません。しかし、ソ連と私のために愛によって語ってくれた言葉であると信じます。私はきょう先生の言葉の真意を深く把握しました。ローマ法王庁訪問以後、宗教に対する理解の幅が広くなりました。宗教の役割に対してはレバレンド・ムーンと認識を同じくしています」
2007年02月14日
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前・元国家元首ら28名とクレムリン宮殿に乗り込む 単独会談の日になった。四月十一日である。明るく晴れた、雲一つない澄んだ天気であった。 朝十時に、文鮮明先生御夫妻はソ連政府が用意したリムジンに乗られ、前の席には私がお供をして乗った。そして、後ろのバス一台には世界各国の前(元)職大統領・首相二十八名が乗った。 十時ちょうどにわれわれはクレムリン宮殿の奥深くに入った。大統領執務室がある庁舎の前で全員が下車し、大きな会議テーブルがある会議室に案内された。文先生と令夫人は一番前の席に座られ、通訳のために私が隣の席に座り、その両側にテーブルを囲んで前職、元職国家元首たちが座った。 まもなく、ゴルバチョフ大統領が微笑を浮かべながら登場した。彼はヤコブレフ共産党政治局員、「プラウダ」紙編集長・共産党中央委員会書記であるイワン・フロロフ氏、そして秘書室長、速記士、通訳らを連れて入って来た。一斉に拍手で大統領を歓迎した。初めて実物のゴルバチョフに会う瞬間であった。 ゴルバチョフ大統領はまず世界言論人会議と世界平和のためのサミット評議会、そしてラテン・アメリカ統一連合国際会議が同時にモスクワで開かれるようになったことを高く評価しながら、文鮮明先生に感謝の意を表した。 次に彼は、グラスノスチ、ペレストロイカの成功について説明を始めた。大統領は、「ソ連社会は今、再編の段階から具体的に行動する時期に来ている」「この気運に乗って、今からは抜本的改革を進行したい」と決然と語った。また、「今われわれは新しい世界秩序の構築に進出した」と述べて、未来への自信感を表明した。彼はロシア語で話し、英語に通訳された。 大統領の言葉が終わると、文鮮明先生が口を開かれた。「大統領は写真やテレビで拝見するよりもずっと若く見えて、ハンサムでいらっしゃいます」 と言われると、場内に爆笑が沸き上がり、雰囲気が軽くなって、ゴルバチョフ大統領は「スパッシーバ! スパッシーバ!(ありがとう。ありがとう)」を連発した。 大統領は、「実を言うと、激務にあまりに苦しめられるので、年を取るのも忘れていました」 と冗談で応酬した。再び文先生は、「世界各国の高名なこの代表団を代表して、ゴルバチョフ大統領に敬意と賛辞を申し上げます。われわれがモスクワでこのたび会議を開催することになったのも、ひとえに大統領が遂行しておられる『ペレストロイカ』政策を理解し、支持して、これを全世界に宣伝して差し上げるためなのです」 同席した二十八名の貴賓たちが皆、拍手をして賛同の意を表した。文先生は続けて、「私はこの席を借りて、全体を代表して贈り物を準備しました。これはわが祖国韓国が産する白色大理石の壺に龍を彫刻した芸術品です。白色はわが民族『白衣族』の象徴であり、龍は東洋哲学では富貴、権勢、栄光を象徴します。大統領はこれさえあれば、難局をすべて切り抜けて余りあることでしょう」 大統領は立ち上がって、文先生御夫妻と並んでカメラの前に立ち、この大理石の壺を受け取って記念撮影しながら、「スパッシーバ、スパッシーバ」を繰り返し、「私はこの大理石の壺さえ持てば、後は他にやることがなくなりましたね!」 と軽妙なジョークを放った。 再び、全参席者が拍手大笑する和気あいあいとした雰囲気になった。 以上で頂上会談の第一幕が終わった。その時間は約一時間三十分ほどであった。
2007年02月11日
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第8章 文鮮明師とゴルバチョフ大統領の会談 ゴルバチョフの生死の鍵は天運に乗るか否か「彼が私に会わなければ天運に乗る道はなく、天運に乗らなければ彼は生き延びることはできない」 文先生がゴルバチョフ大統領について語られたみ言葉である。 結局、文先生に会うことが彼の生きる道である。そのことは後に劇的な形で証明された(後述)。文先生は、やがて彼に生命の危険が迫ってくることを知っておられたのである。 その当時、ソ連の改革はもう誰も統制できないところまできていた。ソ連改革の突風はブレーキがない汽車と同じである。誰もこの汽車を止めることはできない。ゴルバチョフという格好の配役を得て始まったソ連解放運動は、人間ゴルバチョフの改革では終わらないのである。それは天の改革、天の解放運動である。端的に言って、ソ連改革とは革命であった。その革命はゴルバチョフの想像をはるかに超えるものであった。革命を始めた張本人さえも制御できない恐るべき奔流となって、一気にソ連社会を呑み込もうとしていた。既に采は投げられたのである。天下のいかなる力もこの革命の波を静めることはできない。 グラスノスチ、ペレストロイカがこれほどまでに拡大するとは、ゴルバチョフ自身も想像していなかった。 彼はある時、しみじみと語った。「今や歴史の流れに身を任せるほかないであろう」 彼は手の打ちようがないことを悟ったのである。もし彼に宗教的な洞察力があれば、もっと正確にこう言ったであろう。「今や天の摂理に任せるほかはない」 しかし、彼は無神論者であった。この期に及んでさえも……。 革命児は常に血を見て倒れるのが歴史の鉄則である。ゴルバチョフもまたその運命を免れることはできない。この事実をあまりにもよく知っておられる方が文先生であった。文先生の使命の一つは、彼に会って天の祝福を授けることであった。彼が天運を持つようにし、彼を保護することを先生は願われたのである。
2007年02月08日
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力強い拍手が場内を揺らした。 最近、私はソ連の言論人から、社会、経済、政治的発展の前提条件として、霊的ルネサンスの重要性について質問を受けました。私はこの機会をお借りして、この点に関していくつかの私の見解を説明しようと思います。 まず、こうした霊的ルネサンスは極めて重要なことです。そのためには、人間の置かれた状況について、より深い哲学的、宗教的理解が必要です。これは通信や言論とは直接的な関連はないかもしれません。しかし、このことについての理解は、私たちが真の世界平和を樹立していくためには、とても必要なことであり、これこそ私が生涯を通じて探求し、発見し、教えてきた真理の本質なのです。 このように前提されて、先生はご自身の教えの根本である統一原理の核心に触れた、非常に宗教的で精神的なメッセージを語られた。先生は、神の天地創造の理想と神の子女アダム・エバの堕落、メシヤを通しての神の救いの摂理、キリストが人類の真の父母として降臨され、真の父母主義時代を到来させることを語られ、社会的、経済的、政治的発展の前提条件として、精神的、霊的復興が重要であると強調された。そして結論に行かれて、 ソ連が道徳的、経済的ルネサンスを遂行する姿が目に浮かびます。私はそのルネサンスを奨励し、支援するために、できる限り最善を尽くすつもりです。私は皆様の祖国ソ連とソ連国民を心の底から愛しています。皆様は今、新しいソ連革命に着手しておられます。それは銃弾なき無血の革命でなければなりません。すなわち心と魂の革命です。…… この広大なソビエト連邦は、極東では私の祖国韓国と国境を接し、西部では西洋文明の発祥の地であるヨーロッパの心臓部にまで広がっており、本来この国はヨーロッパとアジアの架け橋となるべき運命を担った国であります。今や私たちは、私たち自体が、地球という一つの家に住んでいる一つの地球家族であると考えなければなりません。 神の祝福がソ連国民の皆様にあることをお祈り致します。 これは見事な説教であった。宣言であった。いや、ソ連の上で弾けたみ言葉の原爆であった。このみ言葉を皆が傾聴した。水を打ったように静かであった。み言葉が終わるや否や、全員が感動と驚異に満ちた眼差しで、起立して文先生に拍手を送った。 このメッセージを聞いた五百名のソ連側参席者の中には、ソ連の外務次官、ゴルバチョフ大統領顧問、ソ連共産党中央委員会国際部次長、ソ連共産党中央委員会外交政策顧問、ソ連最高会議経済改革委員会副委員長などがいた。 ソ連国営テレビ放送の報道局長は、「レバレンド・ムーンの言葉は、ソ連共産党の幹部たちが生まれて初めて聞く説教であった」 と語った。 ノーボスチ通信社ウラソフ社長は、味わい深い言葉でこの会議を評した。「本質において、今回のこの会議は冷戦が既に終結したという証拠である」 ここで特記しなければならないことがある。一生を共産主義との闘争に捧げてこられた文鮮明先生であるがゆえに、誰もが先生の口から火を吐くような反共思想と、共産主義を呪う言葉が飛び出してくるだろうと思っていた。ところが、予想に反して、先生は一言もソ連や共産主義への非難の言葉を語られなかった。ただ真理を吐露されただけである。怨讐を攻撃して彼らが解放されるのではない。彼らに真理を与えてこそ彼らは解放されるのである。先生はどこまでも積極的、肯定的な道を行かれる。彼らを貶す時間があれば、一言でも多くの真理を教えたいのである。「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ福音書八章三二節)。先生は果たして“愛のメッセンジャー”であり、“真理の使徒”であられた。
2007年02月04日
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共産党幹部が生まれて初めて聞く説教 一九九〇年四月十日。待ち望んだ第十一回世界言論人会議、第三回世界平和のためのサミット評議会、第九回ラテン・アメリカ統一連合国際会議ーいわゆるモスクワ大会<24>が開幕する日である。 この日午前、ソビン・センターには当初予定を上回る世界約七十カ国から、ソ連の参加者が約五百名、自由世界からの参加者が約五百名、合計約一千名の参加者が席に着き、二段に仕立てられたヘッド・テーブル(ひな壇)には文鮮明先生をはじめとして、ソ連の最高幹部と全世界から集まった頂上級の参加者たちが座った。 参加人数一千名は国際会議としては超弩級である。しかも、この一千名が発揮する影響力は数十万の大衆集会とは比較にならないほど大きい。 会議は英語とロシア語で進められた。 開会式の冒頭、主催者側を代表してアリベルト・ウラソフ・ノーボスチ通信社社長の歓迎挨拶があった。次に、私が今回の会議の実行委員長として挨拶した。それから、コスタリカのロドリゴ・カラソ元大統領によって創始者である文鮮明先生が紹介された。 雷のような拍手の音とともに、歴史的瞬間が訪れた。“赤い帝国”ソ連の首都モスクワで、世界人類の前にみ言葉を語られるのである。文鮮明先生が生涯望んでおられた瞬間である。 先生はこの歴史的壇上で、まず温かい感謝の言葉を語られ、続けて「真の統一と一つの世界」と題して基調講演を行った。 親愛なる議長団。尊敬する元国家元首、首相、貴賓、そして紳士淑女の皆様。この歴史的な「第十一回世界言論人会議」を皆様とともにソ連の首都、このモスクワで開催できますことを無限の栄光に思うものです。 今回のこの会議の主題は「地球規模の通信と協力の促進」であり、こうした討議を行う場所としてソ連ほど適切な所はありません。また、今回の大会は、世界の平和を追求する「第三回世界平和のためのサミット評議会」と「第九回ラテン・アメリカ統一連合国際会議」が同時にここで開催されます。 今回のソ連訪問は、私個人にとっても温かい情を感じられる機会となりました。ソ連政府、特にノーボスチ通信社の幹部の皆様の手厚い歓迎に対して、まず感謝の意を表します。私と私の妻、家族までが、皆様が見せてくださった親切に深い感銘を受けました。今この場におられる元国家元首および首相、ならびに各国の貴賓の皆様方も、私と同じく、主催国ソ連に対して深く感謝しておられることと思います。その感謝の意味を込めて、共に拍手を送りましょう。
2007年01月31日
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ゴルバチョフが胸襟を開いた2つの理由 私はその戦略を随分前から考えていた。それまで数度にわたって、ゴルバチョフ大統領の側近とこの問題を相談してきた。彼らの反応は良く、皆が全面的な協助を約束してくれた。しかしながら、つまるところ誰が最後に猫の首に鈴を付けるのか、これが大きな問題である。 私は二人を考えた。その一人は、ソ連共産党政治局員兼書記で、大統領会議のメンバーでもあったアレクサンドル・ヤコブレフ氏である。彼はグラスノスチとペレストロイカ政策の創案者の一人で、ゴルバチョフの真の同志であった。彼はソ連の生きる道がこの改革の道しかないことを固く信じていた。私はこの人に、グラスノスチとペレストロイカが成功する道は、ソ連が文鮮明先生に侍ることだと熱心に説明した。彼は私の言葉を信じた。 もう一人いた。ソ連科学アカデミー副委員長として世界物理学会の会長を務め、ゴルバチョフ大統領の大変親しい友人であり、大統領顧問にも任命されたユーリー・オシピヤン博士である。博士とは親密で厚い友情を築くことができた。彼はアメリカをしばしば訪れて文先生をよく知るようになっただけでなく、文先生の青年運動だけが共産主義以後のソ連を生かせると信じていた。 それでも、四月八日のモスクワ入りまで、ゴルバチョフ大統領との会見に関する決定は下されていなかった。当時、ゴルバチョフ大統領は世界の名士中の名士であった。彼の人気と名望はずば抜けていて、いよいよ盛り上がりを見せていた。 私はこの二人を再び訪ねることにした。ゴルバチョフ大統領に見せたい資料をさらに多く持って行き、会談の最終決断を促したのである。二人の有力者は本当に全力を尽くしてくれた。二人は四月九日に、一緒にゴルバチョフ大統領を訪問してくれた。大統領は万事を差し置いて文鮮明師に会うべきだと建議して、それがなぜソ連に有益なのかを熱を込めて説明したという。これはゴルバチョフ大統領が最も信じる側近二人の建議であった。ゴルバチョフ大統領は非常に感動したという。文鮮明師は必ず会ってみなければならない人だという強い印象を受けたのである。 後で知ったところによると、大統領は特に二つのことで文先生の人格を尊敬したという。 第一に、文先生が共産中国に建設中であった「パンダ自動車工業」(広東省恵州市)に対してである。同じ共産国の中国に二億五千万ドルを注いで、アジア第一の自動車工場を造ったという説明と写真を見て、彼は新鮮な印象を受けた。とりわけその時期が、共産中国が国際世論から強烈な指弾を受けた「天安門事件」<23>以後であり、西側諸国が皆、中国から荷物をまとめて撤退したのに、文先生は「難しいときに助けてやるのが本当の援助ではないか。この時こそ中国を助けてやるときだ」と、むしろその投資を急がれたところに、非常に大きな感動を覚えたという。 第二に、アメリカのダンベリー刑務所収監の報告であった。米国政府が迫害を加えて刑務所に閉じ込めたのに、受難の渦中にあっても、そのアメリカを許されたばかりか、当のアメリカのためにワシントン・タイムズを創刊され、アメリカのために私心のない投資をしておられると聞いて、それゆえわがソ連が共産国家だからといって、仇を討とうとされる方ではないと聞いて、大きく心を動かされたという。 ともかく、四月九日の午後に私は歴史的な電話を受けた。オシピヤン博士からの電話であった。「大統領が文鮮明先生御夫妻をクレムリン宮殿にお迎えすることになりました。日時は四月十一日午前十時、場所はクレムリン宮殿の大統領執務室です。最初は前(元)職国家元首級の二十八名とともに会見し、その後別途に文鮮明先生と単独会見の場を持たれることになりました」 私はその場に座り込んで、「神様ありがとうございます。ありがとうございます」を連発するばかりであった。涙を拭くすべも知らずに……。
2007年01月30日
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文鮮明師、国賓待遇でモスクワ入城 一九九〇年四月八日、この日こそ歴史的な日である。文鮮明師が共産主義宗主国ソ連に入城された日である。 その日午前十時三十五分、文鮮明師御夫妻一行は米国ニューヨークからパンナム航空でモスクワ空港に到着し、まず空港貴賓室に案内された。私はこの大会の実行委員長として、一足先にモスクワを訪れていた。空港貴賓室にはソ連側主催団体、ノーボスチ通信社のアリベルト・ウラソフ社長をはじめとして、同社の重役たち、極東とアメリカを訪問した顔なじみの言論人たちが、家族を迎えるような雰囲気で出迎えに来ていた。異色だったのは、KGBの高級幹部の一人が、文師御夫妻とその家族の警護のために配置されたことである。 先生が貴賓室に入ると、ウラソフ社長が歓迎の挨拶をして握手を交換した。続いてナタリア・ヤコブレバ女史が文先生に花束を、ゴルバチョフ大統領補佐官のヴィタリー・コビッシュ氏が令夫人に花束を贈呈した。この瞬間、歓迎のために貴賓室に集まった主催者側と、立錐の余地もないほどに入った取材記者団たちは、一斉に拍手を送った。 感激の熱い思いが私の全身を駆け巡った。私は両をはらはらと流れる涙を隠そうともしなかった。 (ああ! これが奇跡でなくて何であろうか?) かつて北朝鮮共産政権から何度も死線を越える迫害と拷問を受けられ、興南共産監獄に二年五カ月も投獄され、それでも厭わずに勝共の道を歩んで来られ、共産世界とソ連共産政権から「世界人民の敵」という悪名を付けられ、ソ連KGBからは除去対象の大物三人に選ばれ、日本の赤軍派がアメリカにまで派遣されて先生の暗殺計画を実行しようとしたのを、天佑神助によって生命を救われた文先生が、ついにソ連の首都モスクワで歓迎の花束を受けられた。世界を征服し、アメリカを葬ろうと画策してきた共産主義者たちからである。 これが奇跡でなければ、ほかにどんな奇跡があるだろうか! これこそ実在する神が生きて働かれている証拠である。この場面を見ても神の実存を実感できないなら、その人は木石でなくて何であろうか! 空港の外には、ソ連政府が用意した外国の国家元首が訪問したときに使用するリムジン車と、それをエスコートする警察の車が勢ぞろいして待機していた。まもなく御夫妻はリムジン車に乗られ、私は同じ車の前の席にお供をして乗った。 エスコートの警察がサイレンをけたたましく鳴らして出発する。空港から迎賓館まで約三十分の距離を、われわれは十五分で走った。モスクワには大路の中央に黄色で表示された中央線レーンがある。これは誰も使えず、ただ大統領と国家元首級の国賓だけが使用できる道路である。警察のエスコートは先生をその中央道路に案内した。それは、ソ連政府が今回の文先生の訪問を国家元首級に相当すると判断したためである。わが主、人類の真の父母として来られた文鮮明先生御夫妻をご案内して、モスクワの「黄金路」を走る気分はとても形容し難いものであった。 先生とご家族の宿所は、ソ連政府が直営する国家元首級の迎賓館であった。その迎賓館全部をそっくりそのまま今回の会議期間中、先生一行の宿所とし、下の階ではサミット評議会に参席する前(元)職大統領・首相たちを収容するようになっていた。 先生は迎賓館宿所に到着されるや否や、送ってきたソ連の官吏たちを一人一人握手して見送られ、教会幹部だけを残して祈祷を捧げられた。「私が生涯願ってきたこの日をあらしめてくださった天のお父様に感謝致します。今や天は、反逆してきたこの共産主義、そしてこの宗主国ソ連がお父様の前にひざまずきましたので、どうかこの国、この民族を哀れに思ってください」 懇切な祈祷であった。誰一人として嗚咽しない者がいなかった。祈祷を終えて座られると、意味深長なみ言葉を語られた。「今、本当に共産主義は終わった。それだけではない。世俗的人本主義も終わった。一方向しか考えない既成教会も終わった。二十一世紀を導く新しいビジョンは新しい理念から出てくる。まさにそれが神主義であり、頭翼思想である。この新しい理念によって地球村、地球家族のビジョンが現れるのである。今からソ連を本格的に助けなければならない」 これが文鮮明先生のモスクワ入城第一声であった。 ゴルバチョフ大統領についても、「彼がしなければならない一番重要なことは精神復興である。新しい神観による価値観の復興である」 と語られた。 文鮮明先生は念願のモスクワ入城を果たされた。だが、大きな疑問が一つそのまま残っていた。それは文鮮明先生がゴルバチョフ大統領に会うことができるのか、という疑問である。
2007年01月28日
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強烈な印象を受けた日本訪問 日本では、統一教会幹部と信徒たちが彼らを手厚く接待した。 九月十五日のことである。東京都内で歓迎晩餐会が行われることになっていた。ところが、予定時刻を三十分過ぎても一行は会場に現れなかった。主催者側が心配して時計を見ていると、三十分が過ぎた頃に慌てふためいて駆けつけて来た。彼らが弁明することには、駐日ソ連大使館で第十一回世界言論人会議のモスクワ開催について、本国政府の正式許可を取りつけてから来ようと思って遅れたというのである。 ついにソ連政府は、より正確にゴルバチョフ書記長は、第十一回会議をモスクワで開催することに同意したのである。それだけではない。ソ連政府の官製通信社、ノーボスチ通信社が世界言論人協会と共催することまで決定したのである。 こうして第十一回世界言論人会議のモスクワ開催が現実のものとなった。ゴルバチョフ書記長は文鮮明先生がソ連に来られることを知って、この会議の開催を承諾したのである。このニュースは、彼ら言論人一行が日本を離れる前に文先生に捧げていった最高の贈り物であった。 その日の晩餐は、モスクワ会議開催決定の祝賀の宴となった。この席でヤコブレバ団長は挨拶して、「日本に来て大きく強烈な印象を受けたことは、統一教会の若いメンバーたちの真心に溢れた歓迎です。今でもこのような若者がいるのかと思って、私は非常に驚きました。果実を見てその木を知れと言います。私はここの若者たちを見て、文鮮明師の思想と教育がいかなるものであるかをはっきりと知ることができました」 と感激の涙を流した。 おそらくこの涙の背後には、自由を抑圧されて、自分の感情を表現することもできずにいるソ連の若者たちへの哀れみの情があったのであろう。「第十一回世界言論人会議」はモスクワで開催されることが確定した。開催日時は一九九〇年四月十日から三日間で、場所はモスクワで最も良好な国際会議場として有名なソビン・センター、会議名は第十一回世界言論人会議、第三回世界平和のためのサミット評議会、そして第九回ラテン・アメリカ統一連合国際会議、これらをひっくるめて「モスクワ大会」と呼ぶことに決定した。 われわれの史上最大の国際会議は、以上の経路を経て、今やその達成を見ることになった。ワシントン・モニュメント広場大会から十四年ぶりである。当時の「モスクワ大会」の予言は、こうして具体化したのである。 それにしても、一九七六年の時点で誰が、一体誰がこのような形でモスクワ大会が実現すると想像したであろうか。
2007年01月26日
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ソ連メディアの衝撃の論文「いかにして敵を友とするか?」 帰国したコビッシュ氏は、約束通り、訪米内容をすべてゴルバチョフ書記長に報告した。おそらく、書記長の反応は好意的であったのだろう。しばらくして、ソ連側の態度の変化を思わせる動きが次々と表面化してきた。 第一に、ソ連の週刊誌「新時代」(一九八九年七月二十一日号)にコビッシュ氏の論文が掲載されたことである。そのタイトルが愉快であった。「いかにして敵を友とするか?」というものである。副題には「新しい光に照らしてみる文鮮明師」とあった。その論文の結論でコビッシュ氏は、「われわれはイデオロギーの違いを超えた。文師及びその信者とわれわれは同盟者である」と言い切っている。 第二に、ソ連の外国情報誌「ザ・ルベージョム」(一九八九年版第二十四号)の「宗教および社会欄」に、文先生の令夫人、韓鶴子女史のインタビュー記事が登場した。「私の夫と統一教会」と題して大きな扱いを受けたこの記事は、文先生御夫妻の肉声を肯定的に伝えたソ連で最初の記事である。 第三に、世界言論人協会はその年の九月初旬からソ連の重鎮言論人五名を極東訪問に招待し、ソ連側は快くこれを受け入れた。団長のソ連国営ノーボスチ通信北米部編集長ナタリア・ヤコブレバ女史を筆頭に、イズベスチヤ紙編集局長ヴィタリー・コビッシュ氏、ソ連国営テレビ・ラジオ局のアンカーマン、ファリッド・ムルコフ氏、ザ・ルベージョム誌副編集局長ウラジーミル・イダニスキー氏、ゴルバチョフ書記長随行首席テレビカメラマンのウラジーミル・グセフ氏の五名であった。 一行は最初に韓国を訪問した。彼らは韓国の発展ぶりを見て、その感嘆を言葉に表現することさえ難しいと言った。特にリトルエンジェルス芸術会館で、清らかな子供たちが喜々として楽しみながら踊り、歌う公演を見て、彼らは久しぶりに本心に刺激を受け、涙を流した。これが、後に「リトルエンジェルス(韓国少年少女芸術団)」がソ連に招待され、ソ連国営放送を通して全国に放映された理由である。 彼らは韓国を離れる前の日、ソウル漢南洞にある文鮮明先生の邸宅に招待され、ご夫人が親しく準備された韓国料理を楽しみながら、幼い子供たちのように喜んだ。 この日の晩、文先生が彼らに、「私がモスクワで言論人会議を開き、私が直接参席すれば、あなた方は私を歓迎しますか?」 と尋ねられた。 彼らは皆、拍手をしながら、「ダーダ!(もちろんです)」 と叫んだ。 先生は笑われ、「私を殺そうとしていたソ連政府を、私が完全に信ずることができますか?」 と言われると、コビッシュ氏が真顔になって、「それは私が責任を持ちます。ゴルバチョフ書記長の名により、私が先生の身辺を保障します」 と言った。 ソ連言論人訪問団一行は翌日、日本に発ち、それから五日間は日本に滞在した。その後、一行は台湾、中国、北朝鮮を訪問した。彼らの極東訪問で最も感動が大きかったのはやはり韓国と日本であった。
2007年01月23日
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ソ連ジャーナリストが米国へ モスクワ大会の具体的作業が始まったのは、一九八九年三月に米国ワシントンDCで開かれた「第十回世界言論人会議」であった。 ここに初めてソ連の言論人代表十二名が参加した。これを見て西側世界は非常に驚いた。もっと驚いたことは、この十二名の参加リストの中に重量級のジャーナリストがいたことである。ゲスト・スピーカーの一人として招待されたヴィタリー・コビッシュ氏は、ソ連政府機関紙「イズベスチヤ(通報)」の編集局長であり、ゴルバチョフの最高ブレーンの一人であった。彼はゴルバチョフ大統領のスピーチ・ライターを務め、米ソ首脳会談にも随行する最高実力者の一人である。 コビッシュ氏は、「グラスノスチとペレストロイカでソ連はどこが変わったのか?」という質問に、「私がレバレンド・ムーンの会議に来たという、これ自体が劇的な変化ではないか」と答えて、参席者を感動させた。 彼らはニューヨークの文先生の邸宅に招待された。午餐を共にしながら、文先生は彼らが一生忘れることのできないみ言葉を語られた。ここでソ連の言論人たちは、文先生の真の人間性を見たのである。彼らはソ連を救援できるのはまさにこの方であると悟ったのであろう。 この場でわれわれは、第十一回世界言論人会議のモスクワ開催について集中的に討議した。彼らはいろいろと深思熟考した末に、本国政府に建議することを約束してくれた。「ワシントンで開かれたような言論人会議がモスクワで開かれたなら、これを最も歓迎する方がゴルバチョフ書記長でしょう」 と、彼らは自信を表明した。「いまグラスノスチ、ペレストロイカ政策が必要としているのが、まさしくこのような言論人会議ではないでしょうか」 とも付け加えた。 コビッシュ氏は、今回の訪米内容をゴルバチョフ書記長に報告するつもりだと語った。その言葉はわれわれを安心させたが、ソ連帝国がそんなにも簡単に統一教会運動に扉を開くとは誰も想像できなかった。
2007年01月21日
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第7章 史上空前のモスクワ大会 ソ連KGBが狙った3人の暗殺 それでは、文鮮明先生とゴルバチョフ大統領の握手はどうやって実現したのか? ここまで私は長々と、この二人の巨人の宿命的な出会いについて、その背景を説明してきた。文鮮明先生の「頭翼思想」は共産主義ソ連を解放する思想であり、これをゴルバチョフは受け入れる運命にあったのである。ゴルバチョフ改革は陰に陽に、文先生の終生の信念と、血と汗を流された努力の所産であると言っても過言でない。しかし、万事が座ったまま、ただで成ったことではない。 文先生のソ連接近は決して容易なことではなかった。自由世界がソ連の誠意を不信したように、ソ連と共産世界も文先生を敵対視し、不信した。ある意味では、それも当然のことであろう。 ソ連帝国の全盛時代に、彼らは三人の怨讐の頭目を選び出した。ソ連KGBはこの三大巨人の除去・抹殺を使命としていた。 一人目は、勿論レーガン大統領である。レーガンさえいなければ世界赤化は手に入れたも同然だと彼らは考えた。 二人目がローマ法王である。ローマ法王は早くから共産主義は人類の敵、神の敵であると宣布していた。 三人目が文鮮明師である。文鮮明師はソ連が最も恐れる存在であった。なぜなら、マルクス・レーニン主義を打ち砕く思想を持っておられたからである。そして思想だけでなく、全世界的に勝共運動を展開して、至るところで共産主義を守勢に追いやっていたからである。この頃、彼らはまだ頭翼思想の真意を知るはずもなかった。 ソ連KGBの使命は、これら共産革命の敵である三大巨人を除去することであり、その使命は着実に実行に移された。 一九八一年三月三十日、レーガン大統領狙撃事件があった。レーガンは九死に一生を得て生き返った。 同年五月十三日、ローマでヨハネ・パウロ法王狙撃事件があった。法王は九死に一生を得て、生命を取り留めた。 一九八八年、日本赤軍派の菊村一味がアメリカに派遣され、文先生の夏別荘を爆破する計画があった。しかし、この計画は天の保護によって未然に防がれた。菊村が消化器爆弾を積んでニュージャージー州の高速道路を走っている途中、不意に警察の検問を受けて爆弾が発見され、菊村一味が逮捕されたのである。四月十二日のことである。何の情報もなかった単なる通常検問で、このとんでもないテロ計画が発覚したのである。これはまさに天の保護としか言いようがない。 暗殺を企むほどの敵対状況の中で、文鮮明先生の本意、真意をソ連に納得させるのは容易なことではなかった。
2007年01月20日
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共産党一党独裁に終止符 ゴルバチョフ革命の決定打は一九九〇年初めに起こった。 ゴルバチョフ書記長の改革の巨弾がまず二月に炸裂した。共産党中央委員会総会が新しい政治綱領案を採択し、ソ連憲法第六条と第七条の改正を決定したのである。その内容は、共産党一党独裁を放棄して複数政党制を容認すること、「民主集中制」(共産党中央が全権を行使する上意下達システム)を改め、党と政府を分離して大統領制を導入すること、などであった。依然として「マルクス・レーニン主義の堅持」を謳う点で疑問は残るものの、これが型破りな政策であることに間違いはない。ここでソ連は共産党一党独裁の歴史に終止符を打ち、複数政党制を基盤とする自由化、民主化へと踏み出し、歴史的な体制転換の局面に突入したのである。 三月十五日、クレムリン宮殿で開かれたソ連臨時人民代議員大会は、一八七八票中一三二九票の賛成をもって、ゴルバチョフを初代大統領に選出した。任期は五年であった。 その年の六月一日、ゴルバチョフ大統領はワシントンを訪問、ブッシュ大統領と並んで座り、一連の軍縮に関する米ソ合意の調印式が行われた。ブッシュ大統領は、「少し前、ある人々は、米ソおよび米ソの偉大な国民が永遠に対立し続ける運命にあると信じていた。ゴルバチョフ大統領と私は歴史に挑戦し、新しい一歩を踏み出し、継続的協力関係を築かなければならない」「米ソは全部のことに合意しないかもしれないし、合意してもいない。しかし、米ソは一つの真実を信じている。それは、世界が待ちくたびれており、冷戦は終わらねばならないということだ」 と述べた。 これを受けてゴルバチョフ大統領は、「非常に重要なことは、より健全な国際環境、よりよい国際関係、暴力なき世界に向けて努力することを米ソが誓約しているだけでなく、それを実行に移しつつあるということだ」「思っていたより、たくさんの話をしすぎたようだ。それは、私が人間であり、感傷的になっていることを示している。米ソは成功のために大変な努力をしており、私は両国の国民に祝賀を送りたい。ブッシュ大統領、あなたと握手をし、互いの努力を祝したい」 と語った。そしてブッシュ大統領に向かって握手を求めた。 互いを見つめる二人の目には涙が光っていた。最前列に座っていたブッシュ大統領令夫人、バーバラ女史をはじめとして、来賓一同が感動を抑えきれずにハンカチを取り出した。世界平和の序曲であった。
2007年01月18日
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「ベルリンの壁」が遂に崩れた! ゴルバチョフ改革の最初のテストは一九八九年八月にやって来た。果たしてソ連は、ソ連改革の評価基準に照らして、改革をどこまで実行するのであろうか? 果たしてブレジネフ・ドクトリンを破棄するだろうか? 共産党一党独裁に終止符を打てるだろうか? どれ一つ取っても、最初は誰も信じる人はいなかった。 そこへ一九八九年八月、ポーランドのキシチャク首相が辞任して、反共・自由労組闘争を継続してきた自主管理労組「連帯」の指導者、マゾビエツキ氏が首相に任命されたというニュースが飛び込んできた。九月十二日には「連帯」主導の政権が樹立された。これは東欧圏最初の非共産党政権の誕生である。ゴルバチョフ書記長はこの動きに干渉しなかった。 同年十月十八日には、ハンガリーが複数政党制と大統領責任制を導入し、国名をハンガリー人民共和国からハンガリー共和国に変更した。これは共産主義路線との絶縁を意味する。この動きにもゴルバチョフは干渉しなかった。 ついに地軸が震える日が来た。十一月九日、「ベルリンの壁」が崩れたのである。東ドイツではハンガリー経由で西側へ脱出する国民が続出し、ホーネッカー政権は東欧を襲った自由化、民主化の波にあっと言う間に呑み込まれてしまった。そして、後続のクレンツ政権が直ちに「壁」の通行を解放したのである。 一九六一年に東西ベルリンの境界線に築かれた壁は、それまで東西冷戦の象徴となっていた。このベルリンの壁が崩れたことは、共産圏崩壊の雪崩現象が始まったことを世界中に強く印象づけたと言ってよい。この地軸を揺るがす大事件は全世界の人々に深い感動と衝撃を与えた。共産主義滅亡など幻想であると考えていた人々も、これで再考を余儀なくされたであろう。 驚くべきことに、ちょうどその頃、ゴルバチョフ書記長は東ドイツ建国四十周年記念行事のために東ドイツを訪問していた。彼は東ドイツの改革を促し、これに真っ向から反対するホーネッカー書記長を退陣に至らしめたのだ。 十一月十日には、ブルガリアの共産党強硬派、ジフコフ書記長が辞任した。ここにもゴルバチョフ書記長の影響力が大きかった。 チェコスロヴァキアではフサーク大統領、ヤケシュ書記長が退陣に追い込まれた。十二月一日、ゴルバチョフ書記長がローマ法王との会見のためにイタリアを訪問した際、彼は一九六八年にソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)の戦車によって無惨に蹂躙されたチェコスロヴァキアの政治改革運動、いわゆる「プラハの春」と呼ばれる改革運動の正当性を表明した。これは、ブレジネフの軍事介入を批判することで、ブレジネフ・ドクトリンの放棄を明らかにしたものである。 ルーマニアの展開も劇的であった。チャウシェスク大統領の残忍な長期独裁政治に呻吟していたルーマニア国民は、連日の大規模集会で独裁者を追い詰めていった。十二月二十二日、大統領夫妻は官邸に押し寄せる群衆に恐れをなして、ヘリコプターで逃亡した。しかしすぐに逮捕され、二十五日のクリスマスの日に、わずか四十五分間の軍事裁判を受けただけで、直ちに処刑された。この場面が全世界に放映されたことは記憶に新しい。ゴルバチョフはルーマニアに対しても、かねてからソ連のペレストロイカにならって、改革に踏み出すよう求めていたが、チャウシェスク大統領は聞く耳を持たなかった。その結果が、大統領自身の無惨な末路となって現れたのである。 十二月二、三日、地中海のマルタ島で開かれた米ソ首脳会談で、ブッシュ、ゴルバチョフ両首脳は、長きにわたって世界人類を恐怖のどん底に陥れてきた米ソ冷戦の終結を公式に宣言した。これで米ソ核戦争の悪夢は去り、共産主義ソ連の敗北が誰の目にも明らかとなった。 多事多難な一九八九年であった。この一年間に連続して発生した事件は、ゴルバチョフ書記長の改革の意志が本物であり、彼が心底、ソ連と共産圏諸国の自由化、民主化を欲していること、そして自由世界の協助を必要としていることを明白にした。 とはいえ、ゴルバチョフ書記長はソ連国内での人気は今一歩であった。保守派が反撃して、いつでも失脚する可能性があった。彼はまだソ連の全部ではない。改革に及び腰で、非常に強大な力を持つ軍部がそのままである。 この時、文鮮明先生は、今度は彼に直接会って、彼に反対する保守派や虎視眈々と機会を狙う軍部の手から彼を保護することを決心されたのである。どうやって? 天の祝福を授けることによってである。ゴルバチョフが天運を持つように導くのである。それができる方は、文鮮明先生以外には誰もいない。 ここで文先生は私を呼ばれた。そして、「一九九〇年にモスクワで、第十一回世界言論人会議と、頂上級が集まる世界平和会議と、ラテン・アメリカ統一連合まで併せて、超マンモス会議を開催するようにしなさい」 と命令されたのである。 この巨大な天の摂理を抱いて、一九八九年が暮れた。
2007年01月17日
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国際安全保障協議会「セントルイス宣言」の慧眼 一九八三年のワシントン・タイムズ社長室での出来事である。 ある日、珍しいお客様が訪ねて来た。彼はユダヤ人学者として国際問題、特に国家安全保障問題の最高権威者であった。彼の名前はジョセフ・チャーバ博士(Dr. Joseph Churba 米空軍大学教授、米空軍情報局中東・ソ連問題特別顧問、レーガン候補外交顧問、米軍備管理軍縮局上級政策顧問など歴任)である。 博士が私に言うことには、「私はワシントン・タイムズの創刊以来、生き甲斐を感じています。今日の冷戦体制下で勝利を収めるのに、この新聞が決定的な役割を果たせると私は確信しています。レバレンド・ムーンは共産主義を解放できる唯一の人物、唯一の希望です。 ところで、私はきょうレバレンド・ムーンに一つの提案書を持って来ました。それはISC(International Security Council 国際安全保障協議会)の創設です。新聞だけでは足りません。政府の政策立案者たちに、『共産主義に勝つための政策と理論』を作ってあげなければなりません。そうしなければ、すべてが絵に描いた餅です。私にその役目を下さい。私は終生の事業としてこの仕事を担当致します」 私はチャーバ博士の提案に大きな感動を覚えた。本当に正鵠を射た言葉であると思った。私はすぐにニューヨークに駆け付けて、文鮮明先生にその提案書を提出した。 判断が早い先生は、そうでなくともチャーバ博士の名声を知っておられたので、一言のもとにその創設を許可してくださった。 ISC<22>の発展過程で産婆役を果たし、チャーバ博士を助けてその組織を導いてきた隠れた功労者が、当時ワシントン・タイムズ社の副社長として事務を執っていた韓相國氏(前ノルウェー大使)である。 さて、国際安全保障協議会は一九八九年三月二十九日から三十一日までの三日間、米国ミズーリ州セントルイスで、ホワイトハウスの要請により「ソ連における変化の評価」という主題で国際セミナーを開いた。ここにはアメリカだけでなく、国際的に名の知れた西側の安全保障、共産主義問題担当の専門家十八名が集まった。このセミナーは参加人数よりも質に重点を置いた世界最高権威者たちの集まりであった。 このセミナーで、ゴルバチョフ改革と今後のソ連の展望、そして特にアメリカが取るべき対ソ外交政策について集中討議があった。勿論、文鮮明先生の基本原則を土台としてである。ここで編まれた政策が、ソ連評価の物差しを提示する、いわゆる「人参政策」(走る馬の前に人参を吊す政策)であった。 ISCは、このセミナーの終わりに「セントルイス宣言」を発表した。そこには、ソ連の改革を評価する十箇条の物差しが提示されていた。この物差しに合致すればその改革は本物であり、そうでなければ改革は偽物、欺瞞政策であるということだ。 十箇条の物差しは、 (1)ブレジネフ・ドクトリンの放棄(東欧諸国に対するソ連の干渉を放棄する) (2)ソ連の軍事諸計画の大幅縮小(核兵器の調達、近代化を含む) (3)キューバ、ニカラグア、アンゴラ、アフガニスタン、ベトナム、エチオピアなどの共産主義政権に対する軍事援助の中止 (4)軍備管理協定の誠実な順守(ABM条約違反の中止を含む) (5)START(戦略兵器削減交渉)をSDI計画の制限・禁止にリンクさせないこと (6)ベルリンの壁の撤去 (7)ソ連からの自由出国を含むヘルシンキ協定の順守 (8)ソ連国内での政治改革(一党独裁の放棄、複数政党制、司法の独立、自由な労組など) (9)アメリカに対する欺瞞情報、虚偽宣伝キャンペーンの中止 (10)国際テロ支援の即刻停止 以上である。 この十個の条項が順守されれば、ソ連は西側の大幅支援を受ける資格があるということになる。しかし、これらの条項を見れば分かるように、セントルイス宣言はソ連に対してソ連であることを放棄せよと言っているに等しい。世界赤化の野望は勿論のこと、共産党一党独裁も放棄せよ、マルクス・レーニン主義も放棄せよ、と厳しく迫っているのである。 この政策建議が基礎となって、ブッシュ大統領の「対ソ外交の基本方針」が策定され、「人参政策」が動き出したのである。
2007年01月16日
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ゴルバチョフの前に「人参」を吊せ この時、文鮮明先生が登場されたのである。先生の主張は、「どちら側も信じる必要はない。ゴルバチョフの前に人参を吊せ。そして、改革の真実度を計る物差しを明白に設定せよ」というものであった。これはすなわち、“大統領よ、誰の言葉も信じるな。行動を信ぜよ。ただソ連の行動、すなわち実践だけを見てその真否を見分けよ”ということだ。これはブッシュ大統領にとっては大きな福音であった。彼は二者択一の苦悩から解放されたのである。その上さらに文先生は、実際に「改革の真実度を計る物差し」を作って、ブッシュ政権に提示されたのである。 一九八九年五月十二日、ブッシュ大統領は外交演説で「対ソ外交の基本方針」を発表し、ゴルバチョフ改革の評価基準を明らかにした。その評価基準の骨子を挙げてみると、まず外交政策面では、 (1)東欧共産圏諸国の自決権の尊重(ブレジネフ・ドクトリンの放棄) (2)核兵器、通常兵器を包含した大幅軍縮の実施 (3)キューバ、ニカラグアへの軍事援助の停止 (4)テロ国家リビアとの関係断絶 (5)中国の領土保全 (6)麻薬や環境問題など地球的課題でのアメリカとの共同歩調 などである。 ソ連内政面では、 (1)自由政党制と政治的複数主義の確立(共産党による一党独裁の放棄) (2)人権重視政策 (3)言論・出版の自由 (4)ユダヤ系ソ連人の自由な出国 等々である。 これは徹底して厳格な物差しであった。 ブッシュ大統領が公表した物差しは、“ゴルバチョフ書記長よ。西側の協力を望むなら、これらを実施してあなたの真意を見せてくれ”という呼び掛けである。それは一言で言って、“世界赤化の野望と共産党一党独裁を放棄して、自由世界に入籍せよ”という最後通牒であった。意外なことに、ゴルバチョフ書記長はこの餌にがぶりと食いついたのである。ここから、事は一気に進み始めた。 それでは、文鮮明先生はどうやってブッシュ大統領にこの提言をすることができたのか? それを次に述べてみよう。
2007年01月12日
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揺れるブッシュ政権-ゴルバチョフ改革は本物か? 私は先に、文鮮明先生が共産主義の脅威と闘い、宗主国ソ連を解放するためにアメリカに行き、レーガン大統領の誕生に全精力を注ぎ、その後にはワシントン・タイムズを創刊して、ソ連の世界赤化の野望を粉砕するうえで決定的な仕事をされたことを明らかにした。 しかしながら、文鮮明先生がソ連解放に寄与した功績はそれだけに終わるものではない。私は本章で、世の中でよく知られていないある重要な事実を紹介しようと思う。「走る馬の前に人参を吊せ」という格言がある。この格言は、ソ連解放が急ピッチで進んだことを説明するのに実にしっくりと合う。ゴルバチョフ書記長のソ連は「走る馬」である。その走る馬の前に人参を吊すという戦略である。その馬は脇目もふらずにただ前方だけを見て、目の前の人参を食べるために必死で走るようになる。前方に進む道はペレストロイカの道であり、経済改革、政治改革、軍縮路線の追求など諸々の改革を推進していく道である。その道に沿ってまっすぐ走り続ければ、最後には自然と共産主義を捨てるようになる。 その「人参」とは何だろうか? アメリカをはじめとする西側諸国家の支援である。経済的支援や技術支援、定常的な相互通商である。屋台骨がぐらつき始めたソ連は、もはやこの「人参」なしには亡びるほかない状況にある。そのことを骨身に染みて知っているのがゴルバチョフである。それゆえに、彼が目の前にぶら下がった「人参」を見て走らざるを得ないように誘導する戦略こそが、ソ連を共産主義の鎖から一日でも早く解放させる最善の戦略であった。 ゴルバチョフ書記長は、アメリカの二人の大統領を相手にした。前の三年はレーガン大統領であり、後の三年はブッシュ大統領である。レーガン大統領はゴルバチョフ改革の真意を把握することができた。しかし、ソ連共産主義がレーニン、スターリン以来常套手段としてきた欺瞞政策(表面では米ソ友好・共存を演出しながら、裏では世界革命を推進する)への不信の壁は厚く、アメリカの保守勢力はなかなかゴルバチョフを信じようとしなかった。 一九八九年一月にブッシュ大統領が就任して以降、ブッシュ側近の意見は真っ二つに割れた。一方は、ゴルバチョフ改革はレーニン式の欺瞞政策だと断定する大統領補佐官(国家安全保障担当)、スコウクロフト氏らの意見であり、もう一方は、ゴルバチョフ改革は本物の改革だと主張するジェームズ・ベーカー国務長官らである。ブッシュ大統領は両者の間で軸足が定まらず、どちらの立場に立つべきかで苦悩の日が続いた。
2007年01月10日
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文鮮明師のソ連解放戦略 文鮮明先生がある時、ソ連が崩壊する道には三種類あると語られたことがあった。 第一に、軍事革命が勃発して連邦政府を転覆する道である。 第二に、窮地に追いやられ、のっぴきならない事態に陥ったソ連が、最後の手段として第三次大戦を起こし、核戦争にエスカレートして滅亡する道である。これは単にソ連の滅亡であるのみならず、アメリカの滅亡であり、西欧世界の滅亡であり、世界人類の滅亡である。 第三に、ソ連の中枢指導部から革新・改革を起こし、「自由の風」を受け入れれば、究極的には共産主義は消滅するであろう。これが最も望ましい崩壊の方法である。 そして、天はこの第三の道に導かれるであろうと言われたのである。 この予言は正確に的中した。天は世界人類の滅亡を望まれなかった。天はソ連に勇気ある若い指導者を送られ、彼をして“新ソ連革命”に点火せしめたのである。それがほかならぬゴルバチョフ書記長であった。 文鮮明先生のソ連解放戦略は、どこまでも「Soft Landing(軟着陸)」であった。血を流してはならないというみ言葉である。核戦争だけはいかなる状況においても避けなければならない。それが天の御旨、天の至上命令であった。
2007年01月09日
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ゴルバチョフ改革―ペレストロイカとグラスノスチ ゴルバチョフ書記長は危機的な国内経済を立て直し、ソ連社会を活性化するために、重荷になっている軍事費を削減して、東西体制の共存、より正確に言えば米ソ共存<19>の道に踏み出そうとした。西側の支援なしにはソ連が窮地を抜け出す道はないという現実を、まざまざと見たからである。政権出帆当初のゴルバチョフは、共産主義の放棄までは考えていなかった。軍縮と米ソ共存を進めて時間稼ぎをし、その間に、国内体制を再び超大国ソ連にふさわしい磐石なものにしようと構想していた。しかし、共産主義、社会主義の枠内での部分的改革ではにっちもさっちもゆかなくなり、次第に共産主義体制そのものの変革、マルクス・レーニン主義の実質的な否定(「実質的な否定」と言うのは、マルクス・レーニン主義の看板は下ろしていないが、実際にやったことは市場経済や民主主義の導入など非共産主義的な政策であったから)にまで踏み込んでいった。 ゴルバチョフ書記長は国内政策では、一九八六年にまず「グラスノスチ(情報公開)」<20>と呼ばれる開放政策を打ち出した。しかし、西側諸国では誰も信用する者はいなかった。この時期には誰もが、西側の目を欺いて、裏では世界共産化を進めようという偽装戦略だと考えたのである。ここで彼の天賦の人間性と外交力が遺憾なく発揮された。彼は顔を見れば“裕福な家の御曹子”に見える。対外的な態度にも誠実性と説得力と人を引き付ける力がある。彼は少しずつ西側社会の注目を引き、信頼を勝ち取るようになった。 一九八七年に入ると、ゴルバチョフ書記長はさらに大きな一歩を踏み出した。それが「ペレストロイカ(改革、立て直し)」<21>政策である。今度は「開放」だけにとどまらず、「改革」に打って出たのである。これは硬直したソ連社会の実情からすれば、一種の革命にほかならない。通常の革命は軍事革命として必ず軍が介在し、首脳部よりも下級将校、大概は熱血青年将校が不義・腐敗に我慢できなくなって起こすものである。ところが、ソ連の活路を切り開こうとするこの革命は、軍部でもKGBでもない、最高権力者の共産党書記長から始まったのである。
2007年01月08日
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ゴルバチョフ登場 アメリカ政府が対ソ戦略で大々的な攻勢に打って出たこの時期に、ソ連は国内経済だけでなく、政治体制にも緩みが見え始めた。原因は相次ぐ最高権力者の死である。まず一九八二年には、世界赤化戦略の権化であるブレジネフ書記長が死亡した。後を継いだ六十八歳のアンドロポフ書記長はわずか一年強の執権期間のみで死亡した。その後に書記長の座に就いた七十二歳のチェルネンコも、老弱で十三カ月後に死亡してしまった。 かくして、世代交代を待望する気運が盛り上がりを見せ、ゴルバチョフ新政権の夜明けが訪れたのである。彼が一九八五年三月にソ連の最高統治者になったとき、彼はまだ五十四歳の若さであった。共産党中央委員会政治局員の中では一番の年少者である。政治局のメンバーには彼の先輩が多くいたが、皆年齢的に難があり、アンドロポフ、チェルネンコの前轍を踏まないために、最も若くて健康なゴルバチョフが選ばれたのである。 ゴルバチョフは幼年時にロシア正教の洗礼を受けている。彼の母親はロシア正教の篤実な信仰者であった。そのためか、彼は右側の額に大きな赤い血色のマーク(birth mark)を付けて生まれてきた。 私は彼が書記長になってから、韓国の大都市巡回講演で、「ゴルバチョフがソ連最後の統治者となるだろう」と予言したことがある。講演ではスライドを作成して聴衆に見せながら、「共産主義が流した総数一億五千万人に上る罪なき犠牲者<18>の血の代価を清算させようとして、神が額に血の印章を押してゴルバチョフを送られた」と語った。今考えてみると、これは的中した予言となった。 夫人のライサ女史は、モスクワ大学でマルクス・レーニン主義を講義していた徹底した共産主義者であり、哲学者であった。 就任したばかりのゴルバチョフ書記長は、到底背負いきれないマイナスの遺産を押しつけられた格好になった。見かけ上は、超大国として世界に君臨していても、その内情は深刻で切迫していた。国民経済は破綻に陥り、国民の士気は地に落ち、共産党の指導力は低下し、政府や官僚機構の腐敗は極に達して、世界赤化の野望達成はもはや不可能な状態であった。この現実を直視する限り、ゴルバチョフの行くべき道は一つしかなかった。それが「改革」の断行である。そして、世界赤化の野望を捨て、米ソ共存と軍縮路線を歩むことである。
2007年01月07日
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経済が疲弊しSDIで追いつめられたソ連 ソ連の赤い版図が大きくなればなるほど、ソ連の経済力は打撃を受け始めた。一つの国を拾って手に入れるたびに、その分だけ宗主国であるソ連の負担は大きくなる。ソ連は同盟国キューバのために、一日平均百万ドルもの支援をしなければならなかった。アフリカのアンゴラから南米大陸のニカラグアに至るまで、アジアでは北朝鮮、ベトナムからアフガニスタンに至るまで、これだけ版図が広がると、ソ連の経済力によっては到底持ちこたえることができなかった。 ソ連の国内経済は停滞し、悪化の一途を辿った。アメリカとの軍備競争で絶対優位を確保しようとしていたソ連は、経済情勢の悪化に追い立てられて、核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)の生産に最後の血の一滴までも絞り出そうと躍起になった。底知れぬ野望の持ち主、ブレジネフ書記長もさすがに焦り始めた。 ブレジネフ構想の最終目標は、一九八〇年代までになんとしてもアメリカを共産化しようというものであった。アメリカを落とせば勝敗は決するのである。したがって、ソ連の戦略はどうすればアメリカを共産化できるかという視点から構築されていた。アメリカを圧倒的な核兵器の力で脅迫し、世界各地で共産革命を起こしてアメリカを消耗戦に誘い込み、最後には思想戦、宣伝戦によってやる気を失わせ、戦わずして手を挙げさせようという作戦である。そのためには、敵の死命を制する核兵器をアメリカの二倍、三倍持たなければならない。困難な経済事情のもとでも、一九八〇年代初頭までは、すべてがブレジネフの青写真通りに着々と進行しているかのようであった。ソ連の中枢指導部は、この時期にはまだ、集まれば会心の笑みを浮かべる余裕があった。 ここで予期せぬ事態が発生した。「いや、こんなはずではないんだが?」と呆気に取られている間に、アメリカでレーガン大統領が当選したのである。これはソ連のシナリオにない出来事であった。ソ連の目論見は容共的なカーター大統領の再選であった。これに対して、レーガンは共産主義の戦略を知り抜いている人物である。彼はその思想において、容共ではなく反共・勝共であった。 レーガン政権の始動とともに、米国民の士気は一新し、アメリカ経済は「レーガノミクス」のおかげで好況を取り戻した。また、選挙公約通りに軍事力が強化されたので、アメリカの国防力は大幅に向上した。 そして、ついにソ連に致命的な打撃を加える日がやって来た。それが既に説明したSDI(戦略防衛構想)の正式な国防政策化である。SDIの政策化は、ソ連が絶対優位を占めようと必死に行ってきた核兵器の増強努力を、一夜にして無に帰してしまうだけの衝撃力を持っていた。SDIは、ソ連の大陸間弾道ミサイルが米本土に到達する前に、すべて宇宙空間や空中で迎撃して撃破してしまう戦略である。アメリカ大陸に「核の傘」をかぶせるのと同じであり、これが実現すれば、ソ連が核弾頭を搭載した弾道ミサイルをどれだけ多く保有したとしても、もはや何の役にも立たない。ソ連指導層は目の前が真っ暗になる思いがしたに違いない。 SDI構想を前にしたソ連指導層の当惑たるや、形容のしようがないほどである。長らく悪名高いKGBの議長であったアンドロポフは、米国でSDIが取り沙汰されるようになると、KGBの全能力を動員して、SDIの政策化を阻止しようとあらゆる手を打ってきた。党書記長(在職一九八二年十一月~八四年二月)になってからも、執拗に妨害工作を行って、レーガン政権の攪乱に余念がなかった。しかし彼らが何をしようと、その努力が実を結ぶことはなかった。ここに文鮮明師が創設したワシントン・タイムズの功労が大きかったことは、既に明らかにした通りである。SDIを阻止できなかったことによって、ソ連のアメリカ共産化計画は大きくつまずくことになった。アメリカを共産化できなければ、あるいはアメリカをソ連の前に屈服させられなければ、いつまで経っても世界赤化の野望を遂げることはできない。
2007年01月06日
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第6章 「ベルリンの壁」崩壊 ソ連帝国の版図を押し広げたブレジネフ時代 それでは、一九七六年のワシントン・モニュメント広場大会から一九九〇年の「文-ゴルビー会談」までの約十四年間に、ソ連はどのような変遷を・ってきたのだろうか? 私は既に、文鮮明師の「ソ連内部で地殻変動にも等しい変化が起こる」という予言に触れておいた。この十四年間のソ連の変遷を振り返ると、あえて地殻変動と呼ぶのがふさわしいであろう。 一九七〇年代から一九八〇年代前半までの十数年間、東西冷戦はその絶頂にあった。言葉では「冷戦」というものの、あちこちで局地戦争、代理戦争が勃発し、東西が雌雄を決すべく抗争する熱い戦いの時代であった。当時のソ連の核心権力者はブレジネフ書記長(在職一九六四~八二 七七年から最高会議幹部会議長〔国家元首〕兼任)であった。彼の鋼鉄のような意志は、世界共産化という冷厳な目標に捧げられた。彼は世界赤化の野望に燃え、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」を宣言して、世界赤化戦略の基本とした。 ブレジネフ・ドクトリンについて再度説明しておこう。 第一に、いかなる国家であろうと、いったん社会主義(共産主義)国家となれば、その国が自分の意思でソ連の影響圏を抜け出すことはできない。 第二に、ソ連を盟主とする共産陣営は、共産主義の伝播(革命の輸出)を積極支援する。 これがブレジネフ・ドクトリンである。 それが含意するものは、一度赤化された国は否応なくソ連の隷属下に入るということである。共産圏諸国はソ連の鉄拳のもとで生きなければならないのである。もし自らの意思で共産圏を離脱しようとすれば、容赦なくソ連軍事力の制裁を受ける。その典型的な例がチェコスロヴァキアで起きた「プラハの春」蹂躙事件である。 一九六八年、ドプチェク共産党第一書記が「人間の顔をした社会主義」のスローガンを掲げて、言論・思想の自由、複数政党制などの改革を推し進め、広範な大衆の支持を得た。これに危機感を抱いたソ連はワルシャワ条約機構軍を動員して介入し、自由を求める国民運動を完全に圧殺してしまった。この無慈悲なブレジネフ・ドクトリンの行使は他の共産圏諸国を震え上がらせた。 ブレジネフ以前にも、これと似た事件がハンガリーで起きている(一九五六年のハンガリー動乱)。ソ連圏からの離脱と一党独裁の放棄、自由化政策を推進しようとした改革派のナジ政権を、ソ連が軍事侵攻して押し潰した事件である。この時は、ナジは処刑され、三千人の死者と二十万人の亡命者を出した。 ブレジネフ時代のソ連は五大洋六大洲(六大陸)で手を伸ばさない国がなかった。世界の至るところで革命の赤い炎が燃え上がった。そして、世界各地で多くの国々が共産主義の魔の手にかかって倒れていった。ソ連帝国の版図は日ごとに変わり、世界地図も日ごとに塗り替えられていった。世界地図は日ごとに赤く染まったのである。アメリカがベトナム戦争で苦杯を嘗めて後退すると、ベトナム、カンボジア、ラオス一帯が共産ソ連の支配下に入った。この頃はソ連の全盛期であったと言ってよい。世界赤化のゴールが目に見え始めた時期である。意気揚々たるソ連は、自由世界の盟主アメリカをあざ笑うかのように、十五万人もの正規軍をアフガニスタンに侵攻させた。ソ連は自信満々で威勢堂々としていた。ところが、一九八〇年代に入ってから、ソ連の運勢は大きく変わり始めたのである。
2007年01月05日
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