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廣内武さんがオンワード樫山の取締役だった1990年12月25日クリスマスの夜、廣内さんとその直属部下だった加藤嘉久さん、私の親友繊研新聞早川弘と銀座の電通通りを歩いていました。廣内さんらをクセのある某百貨店のMD担当役員に紹介する会食のあと、早川を加えて飲みなおすつもりでした。偶然向こうからオンワードの馬場彰社長と役員御一行が歩いてきて、馬場さんは「廣内くん、珍しい人と酒飲んでるねえ」。続けて「太田さん、今度は私とも付き合ってくれよ」、「いつでもお付き合いします」と私は答えました。すると「いまからどうかね」と言われ、馬場さんたちが先ほどまで飲んでいたお店に戻ることになりました。(馬場彰さん)お店に入るなり、「今日の繊研新聞はご覧になりましたか?」と切り出しました。当時アパレル業界リーディング企業のレナウン経営者の年末所感記事、ニュースの少ない年末であれば普通は1面トップ、でなければアパレル関連頁の3面トップ扱いでしょう。しかしその記事は3面肩の扱いでした。この扱いのことを私は馬場社長に話したのです。レナウンが英国アクアスキュータムを買収した年、すでにそのことは何度も記事になっています。年末の取材でニュースにできそうな次の構想や戦略話がなかったので繊研新聞の扱いは小さくなったのでしょう。買収後のアクアスキュータム戦略があれば、リーディングカンパニーゆえ1面トップに記事はきたでしょう。「なんで日本の企業は国際戦略という点でこんなにも動きがスローなんでしょう。オンワードも同じ。企業規模を考えればもっと世界に攻めなきゃおかしいでしょ」、さらに「二千億を超える売上ならば世界からもっとビジネスの引き合いがきてもいいはず、きてないでしょ」と言いました。馬場さんに同行していた役員たちは「うちの大社長に向かってこの若造は何を言うんだ」と怖い表情になり、「社長、お時間です」と発言を遮りました。すると馬場さんは「大事な話を聞いているんだ、黙ってろっ」と役員を制し、私に「話を続けて」と。CFDを預かる者が大手アパレルの社長に嫌われてもどってことないでしょうから、言いたいことは言っておこうと思ってさらにきつい話をしました。オンワード樫山は最大手アパレルの一角、でもその売上の多くは海外ブランドとのライセンスビジネスであり、自前のソフトウエア、オリジナルブランドの売上ではありません。ライセンスブランドでいくら売上を増やしても世界から見れば存在感のない企業です。だから私は続けて言いました。そろそろ本気で自前のブランドを仕立てて世界市場に攻めて行こうとは思いませんか。せっかくイタリアで腕のいい縫製工場ジボー社を買収したんですから、それを活用してオリジナル企画で世界に攻める。デザイナーはなにも日本人でなくてもいい、香港人でもドイツ人でもいいじゃないですか。とにかくオンワード樫山の自前ブランドで世界を攻めることを考えてください。結構失礼なもの言いでしたが、馬場さんは黙って聞いてくれました。そして翌日、その場にいた加藤嘉久さんが突然CFD事務所にやってきました。「今朝馬場社長に呼ばれ、昨日の話の続きを聞いて来いと言われました」。創業者樫山純三さんが縁故関係でもない38歳の新任取締役を大抜擢した社長さんだけのことはある、と思いました。加藤さんに、もう一度ライセンス提携ではなく自前のブランドを開発すること、そしてその中から世界に攻めるブランドを育てることが将来のオンワードにとっていかに重要かを説明、最初のコンテンツを描くデザイナーを紹介することになりました。翌年、生まれたオリジナルブランドが「組曲」、最初に原型となるデザイン画を描いた(組曲のデザイナーというわけではありません)のは私が人選したCFDメンバーの某デザイナーでした。そしてそのあと国内向け別ブランドの「23区」が発売され、さらに世界市場に攻めるブランドとしてニューヨークからデビューしたのが「ICB」でした。私はこれらのブランドに直接関わっていませんが、クリスマスの夜馬場さんに話したことは多少なりとも影響しているでしょう。38歳で社長に就任した馬場さんはそのリーダーシップでオンワード樫山の業績を大きく伸ばし、長く会社に君臨したことは業界人なら誰もが知っています。日本経済新聞最終面「私の履歴書」でも連載されているので、ここで私がその功績を書いても意味はありません。が、ひとつだけ日本ファッションウイーク推進機構の発足に関して触れておきます。小泉政権で内閣府知的財産本部にコンテンツ戦略会議が設置され、重厚長大ではない柔らかジャンルの経営者やアーチストが招集され、私も委員の末席に加えられて議論をしていました。そのタイミングで経済産業省製造産業局繊維課長に宗像直子さんが就任、2005年春先に私はワリカン会食に呼び出されました。コンテンツ戦略会議(のちにクールジャパン政策の起点となる)でどんな議論をしているのか、繊維行政では今後どんなことをすればいいかを質問され、私からは東京コレクションを政府含めてオールジャパンで支援できないものかと訊ねました。行動力のある宗像さんはすぐ日本ファッション協会理事長でもある馬場さんを訪ねました。政府も産業界も支援する東京コレクションに発展させ、世界に日本のファッションデザインを売り込みたいので協力して欲しい、と馬場さんに要請しました。私の代で10年、次の久田尚子議長で10年続きましたが、東京コレクションはそろそろ財政的にも改革すべきところに来ていました。(東コレより)宗像課長の協力要請に対して馬場さんのアクションは実に早かった。数日後、繊維アパレル産業界も支援体制を作って東京コレクションを協賛する形で日本ファッションウイーク推進機構の構想がまとまり、2005年10月東京コレクション開催に向け、理事長には馬場彰さん、実行委員長にはTSI会長の三宅正彦さんが就任しました。もしも宗像課長が話を持ちかけた相手が馬場さんでなければ、産業界からの回答はもっと遅くなり、現在の東京コレクションの形態は宗像課長時代には実現できなかったかもしれません。馬場さんの決断力と行動力のお陰です。
2022.09.06
あれは1989年の後半だったと思います。オンワード樫山の廣内武さんが突然CFDのオフィスを訪ねてきたのは。のちに社長に就任しますが、当時廣内さんはまだ取締役でした。あの頃私はいろんなセミナーで百貨店平場改革の必要性を訴えていたので、CFDの責任者がどうして百貨店の平場を改革すべきと唱えているのかを知りたい、これが訪問の理由でした。百貨店幹部も大手アパレル営業担当も「平場はメシの種」とよく言いました。百貨店の収益に貢献しているのは、当時もてはやされたDC(デザイナー&キャラクター)ブランドでもなければハイエンド外資ブランドでもなく、セーター売り場、コート売り場、ブラウス売り場など収益率の高い単品平場でした。だから皆さん「メシの種」、と言います。ところが、メシの種と言う割には売り場の作りも什器もハンガーもお金をかけていない、ブランドショップと比べたらかなり見劣りしました。メシの種ならば、まず売り場の作りも什器も改善して魅力的な売り場にすべきであり、商品自体もアップグレードすべきではないかと見ていました。東京コレクションに参加しているデザイナーだって積極的に平場の商品アップグレードに協力し、自らのショップだけでなく単品平場をもっとカッコ良くして百貨店全体のファッションフロアを改善することに力を貸してはどうだろう、と訴えていました。百貨店のファッションフロア全体に魅力がなくなれば、入店客数は減少していずれブランドショップの売上に影響が出る、デザイナービジネスにとってもこれはマイナス要因ですからデザイナーのクリエーションを単品平場に注入してはと提案していたのです。でも、単品平場はシーズンごとにどんどん消え、平場のコート売り場、ブラウス売り場もドレス売り場もまだ維持運営している百貨店はもうゼロに等しい。数店だけが辛うじてオリジナルのカシミヤセーターを展開しているのみ、平場はほぼ消滅してしまいました。収益の柱だった婦人服平場は消え、大手アパレルのナショナルブランド売り場も減り、百貨店全体の収益率は下がりました。もう単品平場が復活することはありませんね。廣内さんは、東京コレクションの主催者である私がデザイナーブランドとは遠いポジショニングの単品平場の改革を訴えていることが不思議だったのでしょう。その理由をわざわざ聞きにきてくれました。そんな大手アパレルの関係者は廣内さんだけでした。それ以来、大手アパレル企業とデザイナー側と居場所は異なりますが、廣内さんとはいろんな場面で意見交換する仲間になりました。廣内さんは入社以来経理畑、営業職でもMD職でもありません。馬場彰社長のリーダーシップで業績をグイグイ伸ばすオンワード樫山、しかし馬場さんの頭痛の種はなかなか黒字にならない海外事業。海外市場でのビジネス展開のみならず、ジュニア・ゴルティエなど海外ブランドの国内ビジネスも在庫が増え、抜本的にメスを入れる時期に来ていたようです。馬場さんは海外事業改革のため、経理に明るい廣内さんを海外事業本部長に抜擢したのです。海外担当に任命された廣内さんがまずしたことは英会話スクールに通って英語の特訓でした。少し上達したら海外の主要関係先を回ってヒアリング、最初に訪問したのはニューヨーク。伊勢丹のプライベートブランドとして導入されたカルバンクライン社を訪ね、カルバン・クライン本人に面会します。恐らくカルバン・クラインは提携先の新任担当が表敬訪問に来たくらいに思ったのでしょう、米国有数のトップデザイナーは少々不機嫌な表情で現れたようです。ここでSAY HELLOの普通の挨拶だったら、カルバンの不機嫌はそのままだったでしょう。しかし廣内さんは「あなたのデザイン哲学を聞きに来ました」、このセリフがデザイナーの心に響きました。カルバンは廣内さんのすぐ横の席に移り、自分のモノづくりを熱く説明し始めました。オンワード樫山に発掘されたジャンポール・ゴルティエは中本佳男さん亡き後相談事はダイレクトに廣内さんにしていましたが、ファッションやマーチャンダイジングには無縁の経理畑出身者がどうして名だたるデザイナーたちから信用されるようになったのか。カルバン・クラインとの初面談にその答えはあるように思います。この話を聞いた私はすでに会長職だった廣内さんに、「会長室で社内ゼミを始めて馬場くん(=写真)たちに海外ブランドやデザイナーとの付き合うコツを伝授すればいいのに」、と。結局実現しなかったようですが。1995年CFD議長を退任して松屋の東京生活研究所に移籍した私は、2001年の大規模リニューアル計画を推進、海外のオリジナルブランドが1つもなかった(当時はセカンドラインか日本生産のライセンス商品だけだった)松屋銀座店にルイヴィトン以下有力外資ブランドの大量導入案を古屋勝彦社長(=当時)に出しました。海外と交渉が順調に進む中、古屋社長から「誰がオンワード(お取引先の会の代表幹事企業)に説明するのか」と問われ、営業部隊の責任者に代わって私が廣内社長との交渉に出かけました。CFDオフィスでの面談以来友人関係でしたが、廣内さんと生々しい取引の話は一度もしたことがありません。が、社史に残るであろう大きなMD変更、海外ブランドも一気に導入する予定なのでどうしても既存の国内お取引先に影響が出ます。今度ばかりは生々しい交渉をせねばなりません。廣内さんに単刀直入に訊きました。「長々と交渉したくはないので、最低限これだけは守ってくれということがあれば先に教えて」、と。廣内さんと面と向かって取引の話をしたのはこれが最初で最後でした。友人として長く付き合う方法は、生々しい取引の話はサシでしないことだと思いますが、そのことを廣内さんも十分理解し、簡潔にオンワードの条件を出してくれました。日本アパレル・ファッション産業協会理事長になってからも、ファッションデザイナーとアパレル企業との取り組みをどうやって増やすか、日本のクリエーションをどう世界に売り出すかなどいろんな相談をしました。同協会でマーチャンダイジングゼミを、オンワード樫山のブランド責任者やMDにも同じくマーチャンダイジングを教えたこともあります。「結局、最後はクリエーションだよね」、廣内さんがよく口にしたセリフでしたが、大手アパレルの幹部にはクリエーションとの接点を増やして欲しいですね。写真:2014年アパ産協新年会にて、左が廣内会長、右が馬場昭典社長(=当時)
2022.09.06
1989年原宿クエスト館長の提案で始まったクエスト・ニュースタンダード・フォーラム、その第1回目はジャンポール・ゴルティエを発掘した中本佳男さんとジュンコシマダをあっと言う間に人気ブランドに育てた岡田茂樹さんをゲストに迎え、シブヤ西武の水野誠一店長と私がホスト役でした。すでに中本さん、水野さんのことは取り上げましたので、ここでは岡田さんとのエピソードをご紹介します。岡田さんは同志社大学卒業後1962年京都に本社がある野村(のちに社名変更してルシアン、現在はワコール傘下)に入社、韓国ソウル駐在員や子供服事業などを担当、社長の野村直晴さんがパリで契約してきた島田順子さんとのビジネスを担当するよう命じられ、ジュンコシマダの事業会社ルシアンプランニング専務取締役に就任しました。岡田茂樹さんのSNSよりご本人「クリエイションの島田、イメージ戦略の小笠原、マネジメントの岡田のトロイカ体制」、岡田さんから何度も聞いたセリフですが、パリ在住の島田さんをアタッシュドプレスのベテラン小笠原洋子さんと岡田さんが支え、49av Junko ShimadaとセカンドラインJunko Shimada part 2は世の中の「ボディコン」ブームのシンボリックなブランドとして認知されました。設立からたった7年ほどで両ブランド合わせて売上100億円寸前まで急成長、しかも手持ち運転資金がかなり少なくても事業を回せたのはマネジメント側の手腕あってのことでしょう。1980年代初頭、大手、中堅問わずアパレルメーカーがこぞってデザイナーと協業してブランドビジネスに着手、そのほとんどは売上が10億にも満たないうちに消滅しました。明らかにマネジメントの力不足だったと思います。そんな中にあって野村が手がけたジュンコシマダは稀有な成功事例。野村は若手デザイナー安部兼章さんの事業会社ルシアンザスペースも立ち上げましたが、こちらはジュンコシマダのようにはうまく行かず、スキーショップ大手のアルペンに譲渡しています。1987年ジュンコシマダ事業に突如転機が訪れます。島田順子さんの良き理解者だったオーナーの野村社長が50代半ばで急逝、ブランドを取り巻く環境は徐々に変わり始めます。理解者を失い、野村との契約更新が迫り、その話し合いは難航、島田さんは将来を見据えて新しいビジネスモデルを模索します。そのとき岡田さんから「太田さん、この構想どう思う?」と新体制案について相談されました。岡田さんにはその後もビジネス転機のたびに同じ質問をされましたが、「どう思う?」はいつも相談ではなく、「こうしたいんや」の決意表明でした。しかし、このとき水面下で検討していた新構想が野村側に漏れてしまい、ジュンコシマダ事業はルシアンプランニングが契約更新してそのまま継続、島田さんに代わって外部と交渉した岡田さんは会社を離れました。のちにジュンコシマダのゴルフウエアを手がけていたダンロップスポーツが岡田さんを専務として迎え入れ、岡田さんはライセンス契約側の役員として島田順子さんのビジネスを再び支えることに。このときも「太田さん、どう思う?」でしたが、本人の決意は固まっていました。当時私が主宰していたファッションビジネス塾「月曜会」の大学四年生の受講者は、講義に来た岡田さんの話と人柄に魅かれてルシアンプランニングを新卒受験、内定が決まりました。が、就職したら肝心の岡田専務は退職したあと、受講者はがっかりでした。ちょうどその頃、私は墨田区役所と人材育成プログラムを進めていたので、岡田さんに「業界への恩返しと思って手伝ってよ」と墨田区ファッション産業人材育成戦略会議に誘いました。墨田区の構想は通商産業省に引き継がれてIFIビジネススクールが発足、1994年IFI初の実験講座で岡田さんがアパレルマーチャンダイジングのクラスを、私はリテールマーチャンダイジングのクラスをそれぞれ講座主任として担当しました。発足したものの連日議論ばかりで一向に講座が始まらない状況に、岡田さんと私は山中IFI理事長に実験講座の開講を直訴して始めたものでした。それから実験講座の3年後、岡田さんがオフィスに訪ねてきました。岡田さん抜きのジュンコシマダには一時の勢いがなく、島田さんは岡田さんに再びパートナーとして自分を支えて欲しいとオファーしていました。「太田さん、どう思う?」の質問に、私は反対しました。今度の話は岡田さん個人が事業資金を集める形、あまりにリスキーだったからです。が、岡田さんは最初から私の意見を聞くつもりで訪ねてきたわけではありません。結局岡田さんはジュンコシマダのビジネス運営会社ジュンコシマダインターナショナルの社長に就任、島田順子さん再出発のために奔走しました。この新会社で広報を担当したのは、IFI実験講座で私の教え子だった元三越の女性社員でした。岡田さんがジュンコシマダを再び指揮して7年後の2005年、大手企業にその運営を委ね、岡田さんはアパレル事業から手を引きました。ご本人の体調が万全でなかったことも要因の一つです。またも時間的な余裕ができた岡田さんに私はまたまたお願いを。経済産業省が中小繊維事業者の自立化を支援する補助金の面接官を頼まれていたので、時間的余裕のある岡田さんに、「あんたも手伝うべき」と仲間に誘いました。ボディコンブーム期の島田順子さん東コレ会場前で岡田さんはこの自立事業で審査員をしたあと、採択された中小企業の経営をハンズオン支援するアドバイザーとして活躍、山形県鶴岡市で生まれた「キビソ」(従来製造過程で捨ててきた蚕が作る繭の外側の固い部分を活用した繊維)などの普及に務めました。そして、2005年には久田尚子さんのあとを継いで第3代CFD議長に就任、その年に始まったJFW(日本ファッションウイーク推進機構)の東京コレクションを指揮しました。経済産業省の自立支援事業の審査員とアドバイザーを経験したこともあり、岡田議長は自立事業に採択された技術力ある繊維メーカーと東京コレクション参加デザイナーのマッチング展示会を設置、産地とデザイナー双方に刺激を与えました。面倒見の良い岡田さんらしいプロジェクトでした。CFD議長3代CFD議長就任直前、岡田さんを推挙する人々に私は猛反対しました。時々検査入院して体調が万全ではない岡田さんに激務はさせたくない、「もしも岡田さんに何かあったら奥様に顔向けできないじゃないですか」と反対しました。でも、周囲もご本人も私の心配をよそにCFD議長就任の話を進め、JFW東京コレクションがスタートしました。翌2006年、JFW三宅正彦実行委員長(のちのJFW理事長。当時TSI会長)からの協力要請もあって、JFWの立ち上げには全く関係がなかった私がJFW側の担当として東京コレクションをサポート、岡田さんにはCFD議長に専念してもらう形になったのです。以来私はずっとJFWコレクション担当理事として東京コレクション(現在はRakuten Fashion Week TOKYO)をお手伝いをしています。岡田さんのようなビジネスマンがマネジメントを引き受けていたら、80年代、90年代にアパレルメーカーが立ち上げたデザイナー系ファッションブランドはもう少し生き残ったのではないかと思います。設立3年ほどで解約解消するブランドをたくさん見てきた私には、デザイナーのクリエーションを受け止めてマネジメントできる人材を育てるのが急務と思えてなりません。
2022.09.06
電電公社が民営化され、表参道の原宿駅寄りにあった電電公社総裁公邸はNTT系不動産会社の NTT都市開発に譲渡されました。NTT都市開発はここに原宿クエストという商業施設を建設、1階には西武百貨店のプライベートブランドだったラルフローレン店、3階には収容人数350人ほどの多目的ホールがありました。当時西武百貨店渋谷店の店長だった水野誠一さんからアポが入り、原宿クエストの関係者がCFD(東京ファッションデザイナー協議会)事務所にいらっしゃいました。要件は、CFDが主催する東京コレクションの会場として使ってして欲しい、と。後日、東京コレクションの舞台美術と照明音響を委託していた事業者スタッフと共にファッションショーの会場として必要な設備や機能を説明、公式会場として利用できる状態にしてもらいました。東京コレクションの会場として利用するブランドは増え、アパレル関係の展示会や各種プレゼンに利用する企業、団体も増え、NTT都市開発の担当者たちに大変喜ばれました。日頃お世話になっているファッション流通業界に何か恩返しをしたいと原宿クエスト側から提案があり、春と秋に1回ずつ参加費無料の「クエスト・ニュースタンダード・フォーラム」を開催することになったのです。第1回目は1989年、原宿クエストを東京コレクションにつないでくれた水野誠一さんと私がホスト役、ジャンポール・ゴルティエさんを発掘した元オンワード樫山パリ駐在所長の中本佳男さん、島田順子さんとのブランドビジネスを軌道に乗せた岡田茂樹さんをゲストに迎え、ファッションビジネスの国際化と高感度マーケットの将来性を討論しました。その後も、東武百貨店社長に就任した山中鏆さんと西武百貨店社長に昇格した水野さんとの池袋競合百貨店の新社長対談や、前項で触れたシブヤ西武「カプセル」をプロデュースした三島彰さんと伊勢丹新宿本店「解放区」を立ち上げたばかりの武藤信一さん(のちの伊勢丹社長)とのインキュベーションストア対談など、ほかではなかなか聴けないセミナーを開催しました。水野誠一さんは店長として渋谷店活性化のため実験店舗「シード館」や雑貨の「ロフト」を立ち上げ、同じ西武セゾングループのパルコとは異なる情報発信を仕掛けましたが、時代の方向性を捉えるその嗅覚にはいつも感服、たくさんのことを教えてもらいました。当時あまり聞き慣れなかった「ガジェット」(分野によってそれぞれ意味は違いますが、この頃流通業では「かっこいいガラクタ」でしょうか)とは何か、同フォーラムでは解りやすく説明されたことを覚えています。水野さんはガジェットに絡めて東急ハンズとロフトの違いをこう説明してくれました。プロのイラストレーターやアートディレクターが仕事用に多色マーカーや色鉛筆を買い求めるなら東急ハンズ、対してロフトはプロ以外の消費者にカラフルなマーカー、色鉛筆をペン挿しに何本も入れてデスクのアクセサリーとして楽しんでもらえそうな提案をする。座るための椅子を売るのが東急ハンズならば、洋服ラックとしても使ってもらえそうなデザイン性のある椅子を探してくるのがロフト。大きめのタンブラーグラスであれば、ピッチャーやリビングの花瓶としても使っていただく。いろんな用途が考えられるガジェット商品を消費者に提案するのがロフトの役割、と。水野さんの意図を我々凡人は100%理解できたわけではありませんが、ロフトの戦略からなんとなく次の時代の消費はこういうことかなと受け止めました。1990年水野さんは若くして西武百貨店社長に就任しました。世界的ホテルチェーンのインターコンチネンタルを買収したので西武セゾングループの銀行借入金は大きく膨らみ、利息だけでも年間1千億円余という経営状態。日本全体がバブル景気のピーク状態にあった微妙なタイミングでの社長就任でした。そこへ医療機器事業部の架空取引事件、イトマン事件に絡む高額絵画の偽保証書問題が発覚、就任3年後には不祥事の責任をとって社長を退任。運悪くあまりに短かった社長期間、もうちょっと長ければ水野さん流の百貨店改革が見られたはずでした。社長就任前後に水野さんに苦言を呈したことがあります。第一次地酒・吟醸酒ブームを牽引した西武百貨店有楽町店地下の酒売り場「蔵」での出来事です。東京コレクションでお世話になっている関係者に日本酒度15度の超辛口の酒「三千盛」を2本ずつお歳暮として送ろうと蔵に行きました。が、棚には必要な本数がありません。年配の販売員さんに「三千盛20本欲しいんですが、在庫ありますか」と訊いたところ、無愛想な表情で「訊かなければわかりませんね」。私は買い物するとき滅多にきつい言い方はしませんが、このときだけは「だったら訊けよ」と言いました。有楽町店の蔵はフロア丸ごと冷蔵して吟醸酒の品質を守り、品揃えは圧巻、恐らく当時都内随一の日本酒売り場だったでしょう。しかし、品揃えの自信もあってかお客様へのサービス精神は感じられず、「訊かなければわかりませんね」と横柄な受け答えをする。西武本店のある豊島区に住む私はこの蔵での一件で西武百貨店ハウスカードにハサミを入れました。西武百貨店の品揃えは素晴らしいけれど接客サービスをもっと強化しないとお客様の心は離れて行きますよ、とストレートに申し上げました。社長として接客サービスをテコ入れし、「親切一番店」をキャッチコピーに掲げる東武百貨店にサービス面でも負けないお店にして欲しかったです。水野さんは西武百貨店を辞めたあと、1995年学習院初等科の同級生だった鳩山由紀夫さんに誘われて新党さきがけ参議院議員となりました。テレビニュースで政治家として画面に登場するたび、早く実業の世界に戻ってもう一度暴れて欲しいと思いました。なんといってもクリエーションのよき理解者であり且つ時代の先を読める貴重な人材ですから。写真:(上)水野誠一さんSNSからご本人、(下)開店当初の渋谷LOFT参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/水野誠一
2022.09.06
1985年4月、読売新聞社創刊110周年記念イベントとして現在東京都庁舎がある場所に2基の黒い大型テントが建てられ、日本の主だったデザイナーのコレクション発表が行われました。30を超えるブランド数、これほど多数のデザイナーが短期間に集結してコレクション発表するのは初めて、私はこのイベントを見るためニューヨークから1週間だけ帰国しました。どのコレクション会場でも気になる年配の男性がいました。紬のキモノ姿の方がいつもランウェイ最前列に座り、開演前は穏やかな表情の好々爺、ショーが始まると目線がキラリ鋭くなる不思議な人物、仲間に名前を聞いたら現代構造研究所の三島彰所長でした。会場で名刺交換する際、「現代構造研究所とはどういうお仕事をなさっているんですか」と質問したら、「一言では言えませんね」でした。1985年ゴールデンウイーク明け、ニューヨークコレクションの取材を終えて私は再び帰国。そこへ新しいデザイナー組織を設立する話が持ち上がり、結局そのあとニューヨークへは戻れませんでした。新組織CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の正式発足が7月8日、私は事務局長として運営を託され、私を補佐するアドバイザーに読売コレクションを陰で支えたファッションプロデューサー大出一博さん、文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、無印良品を立ち上げたクリエイティブディレクター小池一子さんの3人と、スタイリスト原由美子さん、そして三島彰さんを加えた5人にお願いすることになりました。(三島彰さん)CFD発足後アドバイザーの皆さんとはよく話をする機会がありました。三島さんは経済誌でジャーナリストとして活躍していましたが、出身の東京大学繋がりで西武百貨店の堤清二社長に声をかけられて転職。格式を重んじる三島家には江戸時代の士農工商みたいな古い考えがあり、「どうして三島家の人間が商人なんだ」と最初は家族から猛反対されたそうです。三島彰さんのお別れの会は千代田区三番町にある二松学舎大学で行われましたが、三島さんは江戸末期から大正時代まで活躍した漢学者で二松学舎の創立者三島中洲の子孫。学者一族としては日銭を扱う商人をよしとしなかったかもしれません。その風貌といい、執筆される記事といい、三島さんは学者肌でしたが、それは三島中洲がルーツだからでしょう。三島さんが書くコレクション批評は多くのファッションエディターたちとはちょっと異なり、アカデミックでありながら根底にはデザイナーのクリエーション讃歌、美しいアート作品を愛でる喜びのようなものを行間に感じさせ、決して批判的な目線ではありませんでした。全国の織物産地にもよく足を運んでいらっしゃったので、デザイナーにテキスタイルのことを詳しく訊ね、マッチングできそうな織物工場をデザイナーにアドバイスもされていました。1995年私の松屋入りパーティーで乾杯音頭をとってくださいました1970年代前半、三島さんは西武百貨店渋谷店に伝説の売り場「カプセル」を作り、当時デビューして間がない若手デザイナーの山本寛斎さんや菊池武夫さんなどを売り出した元西武百貨店婦人服部長です。自主編集自主販売のとんがったセレクトショップ、内装は当時新進気鋭のインテリアデザイナー倉俣史朗さんと聞いています。寛斎さんによれば、自作の服を着てディスコで踊っていたら突然「その服面白いね」と声をかけたのが三島さん、寛斎さんはすぐにカプセルの注文をもらいました。あの頃の寛斎さんは非常にエキセントリックなデザイン、こうしたデザイナーの強い個性を消費者に訴求する画期的ショップでした。戦後経済史に残る東急西武戦争、西武百貨店は1968年開店の渋谷店のみならず1973年には渋谷パルコを公園通りにオープン、東急の牙城である渋谷の街に食い込んで攻勢をかけます。渋谷パルコはデザイナーブランドのショップをずらり揃え、パルコ劇場でユニークなイベントを企画、強烈なイメージのポスターやテレビコマーシャルを連発、渋谷の人の流れは大きく変わりました。が、パルコより一足先にファッション文化を強く打ち出し、おしゃれな若者を渋谷に集めたのはシブヤ西武、その革新的売り場の象徴がカプセル。ここは作り手にも消費者にも夢を提供するファッション黎明期の発信拠点と言ってもいいでしょう。シブヤ西武にカプセルがオープンしたとき、管理部門は実際よりも売り場面積を少なめにカウント、ちょっとでも坪効率の数値が上がるよう三島チームをサポートしました。西武百貨店のイメージアップのためには必要、でもデビューしたばかりの若手デザイナーたちの斬新な服、そう簡単に売れるものではありません。売り場面積を過少カウントして人気に火が着くのを待ったのでしょう。当時の百貨店はいまよりもおおらかでしたね。1970年代日本の多くの百貨店は海外有名ブランドと提携してそれぞれプライベートブランドを立ち上げましたが、そのほとんどはライセンス契約、ブランド側からデザイン画や生地スワッチをもらって国内アパレルメーカーに製造委託、オリジナル商品の販売ではありませんでした。しかし、西武百貨店だけは違いました。パリのエルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミラノからはジョルジオアルマーニ、ジャンフランコフェレ、ミッソーニ、ウォルターアルビーニなど輸入オリジナル商品を販売、他の百貨店とは全く異なる豪華なマーチャンダイジングでした。CFD時代、西武百貨店常務の松本剛さんが教えてくれました。バイヤーとして初めてエルメスのパリ展示会に行ったら、ネクタイ1本の値段が初任給以上、値段を見て誰が買ってくれるんだろうと不安になり、震えながらオーダーシートに発注を書き込んだとか。半年後エルメスのオープン日に開店と同時に来店して買ってくれたお客様の顔、松本さんは「ずっと忘れられません」とおっしゃっていました。いまでこそどの百貨店でも海外ラグジュアリーブランドの高額オリジナル商品を販売していますが、1980年代前半まで多くの百貨店はライセンスビジネスがほとんど、オリジナル商品とはデザインもクオリティーもほど遠い別物を売っていました。そんな中でいくら値段が高くてもラグジュアリーブランドのオリジナルをズラリ並べて販売する西武百貨店(テッドラピドスやラルフローレンはライセンスでした)のチャレンジ精神は際立っていました。それは、値段が高くてもブランドがまだ無名でも新しいファッション商品の導入に果敢にチャレンジするカプセルから始まったのではと思います。他店よりも海外ブランドのオリジナル商品をダントツに多く扱い、LOFTやWAVE、SEEDなど新しい切り口を次々打ち出し、パルコ、無印良品など新業態を軌道に乗せた堤清二さんが西武セゾングループから外れると、グループの様相は大きく変わりました。気が付けばコンビニ最大手セブン&アイHDの手に渡り、渋谷の若者文化を牽引したパルコは大丸松坂屋のJフロントリテイリング傘下に。そして現在、セブン&アイHDがそごう西武の身売り交渉で苦労している、三島さんら西武セゾングループで活躍した人々はどんな思いなのでしょう。西武百貨店黄金期を知らない世代には、「西武セゾン=ファッションの担い手」だったなんて想像つかないでしょうね。ほんと、凄くクリエイティブなグループでした。
2022.09.06
私は繊研新聞の社員でニューヨークに派遣された特派員だったと思っている業界人が少なくありません。が、私は自分の意志でニューヨークに渡ってから現地で契約を交わした通信員、収入が安定した正社員ではありません。あくまでも同業他紙には記事を書かないフリーランスの立場、男子専科やファッション販売にも寄稿しますし、バーニーズニューヨークのコーディネーター、NAMSB見本市の日本担当ディレクター、メンズデザイナーの合同展示会デザイナーズ・コレクティブ顧問も引き受けました。繊研の松尾武幸さん(のちに編集局長)が私との面談希望者をある程度絞ってくれたおかげで、ニューヨークで会わなくてはならない日本からの出張業界人は一般企業の駐在員ほど多くはありませんでした。でも、「こんな人なら時間の無駄だった」と言いたくなる面談や会食は何度もありました。私との面談を繊研に申し込んでくれる読者たちは、会社に出張報告を出さねばならず、日頃の取材活動から得た情報を得るための指名でした。それでも良いんです、利用してもらえるなら喜んで情報を提供しました。が、ヒアリングされるものと思って出かけたら自社の自慢話を延々と聞かせる大手企業役員、こういう出張者にはまいりました。同席した駐在員が後日詫びの連絡をしてきたケースもあります。某百貨店幹部でしたが、これ以降この会社の出張者との面談は断りました。逆に最も記憶に残る出張者も百貨店マンでした。阪急百貨店紳士服部長の松田英三郎(ヒデサブロウ)さんは婦人服部長から紳士服に異動した直後のニューヨーク出張でした。「いまニューヨークで見ておくべき百貨店の紳士服売り場を教えてください」と言われたので、「いま百貨店で見るべき紳士服売り場はありません。しかし、小さなブティックにはヒントがあると思います。回ってみますか」と答えました。中心街から外れたダウンタウン8番街西18丁目にあったゲイピープルに人気のカムフラージュ、ブティックやレストランの開店が続くアッパーウエスト地区に数店舗を構えるシャリバリやニュートラッド感覚のフランクステラ、アッパーイースト地区レキシントン街のサンフランシスコなど、8店舗のブティック名と場所をメモ書きして渡しました。松田さんは「明日の晩飯も付き合ってもらえませんか。このリストの店を全部回って、どうして太田さんが勧めたのか、自分が感じたことを聞いて欲しい」。翌日も日本食レストランで待ち合わせ。しかし約束の時間から30分経過しても松田さんは店に現れません。たぶんタクシーが渋滞に巻き込まれていると我慢強く待っていたら、汗を拭き拭き45分遅れで到着。案の定渋滞に巻き込まれました。「8店舗のうち7つは見てきましたが、最後の1つは時間が足りませんでした」。普通の出張者なら2つ、3つショップを視察して出張レポートを書くでしょうが、松田さんは8分の7、なぜ私が視察を勧めたのか、自分なりのブティック所見を話し始めました。当時ニューヨーク出張に来る百貨店の紳士服部長たちは、ブルーミングデールズ、メイシーズ、バーニーズニューヨークなど大型店とブルックスブラザーズ、ポールスチュアートなどトラッド専門店を回るのが定番視察コース、革新的なデザイナーブランドを揃える小型セレクトショップや新しいトラッド感覚のブティックだけを回る人なんてほとんどいなかったでしょう。松田さんは私がリストアップした小さな店をまわり、しかも自分が感じたことが正しいか否かを確認する、こんな熱心な百貨店部長は初めてでした。帰国後しばらくして松田さんは京都四条河原町店の店長に。開店時間直後、向かい側の高島屋京都店の売り場を歩き、阪急百貨店が見えるカフェで休憩、そこでよく顔を合わせる高島屋ファッションコーディネーター福岡英子さんに「ニューヨークのオオタヒロユキさん」、と何度もニューヨーク出張時の思い出話をしていたそうです。元子役の俳優「太田博之」の名前と勘違いしたまま私のことを覚えていてくれました。松田さんはその後阪急百貨店の社長に就任。下馬評では別の役員が有力とされていましたが、指名されたのはあの松田さん、対抗馬も立派な方でした。社長人事が発表されたとき、売り場をよく歩く人が就任したので嬉しかったです。(阪急MENS)私が社長を務めたクールジャパン機構は2014年、阪急百貨店の中国プロジェクト寧波市の新規出店に多額の出資をしました。このときの代表取締役CEOは椙岡俊一さんでした。椙岡さんを社長に推挙したのが松田さん。椙岡さんのことをよく知る友人のアパレル経営者から「あの人は銀行、取引先とは会食をしたがらない。きっと気が合うと思うよ」と勧められ、二人だけで会って意気投合しました。松田さんが社長に引き上げた人と一緒に仕事をする、何かのご縁です。阪急寧波店はブランド交渉が難航したりコロナウイルスの影響を受けたりと開店は何度も延期になりましたが、2021年春にやっとオープンしました。コロナ禍で海外に出られない近郊富裕層の消費欲にも助けられ、全館では予算比200%と驚異的な数字を叩き出し、1年を終えました。(2021年春開業した阪急寧波店)華僑発祥の地、中小企業経営の富裕層が多く700万人も暮らす都市なのにこれといった百貨店がなく、立地条件としては絶好の場所。日本からの遣隋使、遣唐使がたどり着いた港町でもあり、日本とは歴史的つながりもある特別な都市です。ラグジュアリーブランドをしっかり導入し、日本の食文化や生活様式、アニメはじめコンテンツをガツンと紹介すれば必ず現地消費者は反応してくれる、私たちはそう信じて大型投資をしました。初年度の業績が素晴らしいからずっと続くとは限りませんが、このまま順調に営業すれば機構はそれなりのリターンを得られるはずです。クールジャパン機構発足前、まだ私が松屋常務執行役員だったとき、大阪本社の椙岡さんから電話が入りました。「今日の午後松屋の事務所にいますか」、と。それから数時間後、生産が限定的で入手困難だった日本酒「獺祭」をぶら下げて椙岡さんは銀座に現れました。とても気さくな人でしたね。
2022.09.05
私は繊研新聞の社員でニューヨークに派遣された特派員だったと思っている業界人が少なくありません。が、私は自分の意志でニューヨークに渡ってから現地で契約を交わした通信員、収入が安定した正社員ではありません。あくまでも同業他紙には記事を書かないフリーランスの立場、男子専科やファッション販売にも寄稿しますし、バーニーズニューヨークのコーディネーター、NAMSB見本市の日本担当ディレクター、メンズデザイナーの合同展示会デザイナーズ・コレクティブ顧問も引き受けました。繊研の松尾武幸さん(のちに編集局長)が私との面談希望者をある程度絞ってくれたおかげで、ニューヨークで会わなくてはならない日本からの出張業界人は一般企業の駐在員ほど多くはありませんでした。でも、「こんな人なら時間の無駄だった」と言いたくなる面談や会食は何度もありました。私との面談を繊研に申し込んでくれる読者たちは、会社に出張報告を出さねばならず、日頃の取材活動から得た情報を得るための指名でした。それでも良いんです、利用してもらえるなら喜んで情報を提供しました。が、ヒアリングされるものと思って出かけたら自社の自慢話を延々と聞かせる大手企業役員、こういう出張者にはまいりました。同席した駐在員が後日詫びの連絡をしてきたケースもあります。某百貨店幹部でしたが、これ以降この会社の出張者との面談は断りました。逆に最も記憶に残る出張者も百貨店マンでした。阪急百貨店紳士服部長の松田英三郎(ヒデサブロウ)さんは婦人服部長から紳士服に異動した直後のニューヨーク出張でした。「いまニューヨークで見ておくべき百貨店の紳士服売り場を教えてください」と言われたので、「いま百貨店で見るべき紳士服売り場はありません。しかし、小さなブティックにはヒントがあると思います。回ってみますか」と答えました。中心街から外れたダウンタウン8番街西18丁目にあったゲイピープルに人気のカムフラージュ、ブティックやレストランの開店が続くアッパーウエスト地区に数店舗を構えるシャリバリやニュートラッド感覚のフランクステラ、アッパーイースト地区レキシントン街のサンフランシスコなど、8店舗のブティック名と場所をメモ書きして渡しました。松田さんは「明日の晩飯も付き合ってもらえませんか。このリストの店を全部回って、どうして太田さんが勧めたのか、自分が感じたことを聞いて欲しい」。翌日も日本食レストランで待ち合わせ。しかし約束の時間から30分経過しても松田さんは店に現れません。たぶんタクシーが渋滞に巻き込まれていると我慢強く待っていたら、汗を拭き拭き45分遅れで到着。案の定渋滞に巻き込まれました。「8店舗のうち7つは見てきましたが、最後の1つは時間が足りませんでした」。普通の出張者なら2つ、3つショップを視察して出張レポートを書くでしょうが、松田さんは8分の7、なぜ私が視察を勧めたのか、自分なりのブティック所見を話し始めました。当時ニューヨーク出張に来る百貨店の紳士服部長たちは、ブルーミングデールズ、メイシーズ、バーニーズニューヨークなど大型店とブルックスブラザーズ、ポールスチュアートなどトラッド専門店を回るのが定番視察コース、革新的なデザイナーブランドを揃える小型セレクトショップや新しいトラッド感覚のブティックだけを回る人なんてほとんどいなかったでしょう。松田さんは私がリストアップした小さな店をまわり、しかも自分が感じたことが正しいか否かを確認する、こんな熱心な百貨店部長は初めてでした。帰国後しばらくして松田さんは京都四条河原町店の店長に。開店時間直後、向かい側の高島屋京都店の売り場を歩き、阪急百貨店が見えるカフェで休憩、そこでよく顔を合わせる高島屋ファッションコーディネーター福岡英子さんに「ニューヨークのオオタヒロユキさん」、と何度もニューヨーク出張時の思い出話をしていたそうです。元子役の俳優「太田博之」の名前と勘違いしたまま私のことを覚えていてくれました。松田さんはその後阪急百貨店の社長に就任。下馬評では別の役員が有力とされていましたが、指名されたのはあの松田さん、対抗馬も立派な方でした。社長人事が発表されたとき、売り場をよく歩く人が就任したので嬉しかったです。私が社長を務めたクールジャパン機構は2014年、阪急百貨店の中国プロジェクト寧波市の新規出店に多額の出資をしました。このときの代表取締役CEOは椙岡俊一さんでした。椙岡さんを社長に推挙したのが松田さん。椙岡さんのことをよく知る友人のアパレル経営者から「あの人は銀行、取引先とは会食をしたがらない。きっと気が合うと思うよ」と勧められ、二人だけで会って意気投合しました。松田さんが社長に引き上げた人と一緒に仕事をする、何かのご縁です。阪急寧波店はブランド交渉が難航したりコロナウイルスの影響を受けたりと開店は何度も延期になりましたが、2021年春にやっとオープンしました。コロナ禍で海外に出られない近郊富裕層の消費欲にも助けられ、全館では予算比200%と驚異的な数字を叩き出し、1年を終えました。華僑発祥の地、中小企業経営の富裕層が多く700万人も暮らす都市なのにこれといった百貨店がなく、立地条件としては絶好の場所。日本からの遣隋使、遣唐使がたどり着いた港町でもあり、日本とは歴史的つながりもある特別な都市です。ラグジュアリーブランドをしっかり導入し、日本の食文化や生活様式、アニメはじめコンテンツをガツンと紹介すれば必ず現地消費者は反応してくれる、私たちはそう信じて大型投資をしました。初年度の業績が素晴らしいからずっと続くとは限りませんが、このまま順調に営業すれば機構はそれなりのリターンを得られるはずです。写真:2021年春開業した阪急寧波店
2022.09.05
慶應義塾大学出身の男子専科編集長の志村敏さんは慶應OBの会員制サロン「ブルー・レッド& ブルー」に度々連れて行ってくれました。オープン時は銀座8丁目ヤマハホールの裏手、現在は銀座7丁目昭和通り沿いにあります。志村さんはもの静かに乱れることなくシーバスリーガルをグイグイ、その酒量は半端なかったです。だから、ニューヨークから短期帰国する時はいつもリカーショップで販売されているシーバス特大ガロン瓶をお土産にしました。私の講演を見つめる松尾さん旧制東京高校(東京大学教養学部に合体)最後の卒業年度だった松尾武幸さんも母校愛が強い人、東京高校OBが集まる銀座7丁目西五番街「スペリオ」によく連れて行ってくれました。このバーのテーブルの上には旧制東京高校の歴代卒業生名簿が置いてあり、大学欄が空白の人は全員東京大学進学者、東大以外の人だけ大学名が書いてありました。松尾武幸の欄は名古屋大学、「私は出来が悪かったから」と謙遜されますが、名大は旧制帝国大学のひとつで難易度は低くありません。名大での部活は映画研究会、終戦直後GHQが統治していた時代の大学映画研究会はほぼ左翼系学生でした。松尾さんは左翼系組織が作った繊研新聞社に就職しました。松尾さんの学生寮ルームメイトも左翼系、友人は愛知県の高校教師になり、彼に啓発された女子高生のひとりが文化出版局ハイファッション編集長久田尚子さん、つまり私のあとCFD議長を引き継いでくれた人です。戦後の混乱期文化学園労働争議は有名、このとき久田さんは運動に参加しますが、その反骨精神の原点は松尾さんのルームメイトの恩師でした。この不思議な縁を久田さんが知るのは高校卒業して40年後のことです。志村さんも松尾さんも酒豪でした。シーバスリーガルのボトルを半分以上開けても静かな志村さんに対して、松尾さんはどれだけ飲んでもガハハッと笑顔の絶えない陽気なお酒でした。そこに相撲取り並みの底なし酒豪、繊研新聞営業部の古旗達夫さんが加わるともう飲み会はエンドレス、ニューヨークから日本に来るたび二人のハシゴ酒に付き合いました。CFD設立直後、六本木の仮事務所に来てくれた二人は「連れて行きたい店がある」と西麻布方向に歩き始めました。店に入ってカウンター席に座ると、松尾さんが小声で「太田くん、お金持ってる?」。誰が見たってここは高級寿司店、いつも連れて行ってくれる店とはちょっとクラスが違います。松尾さんは店を間違えたのです。「クレジットカード可みたいだから大丈夫でしょう」、私たちはそのまま食事を始めました。すると店主が「旦那さん、柳橋をよくご利用いただきました」、なんと松尾さんを覚えていました。日本橋堀留町の生地問屋幹部とよく利用していた柳橋の寿司屋、そこから暖簾分けした寿司職人が西麻布にオープンばかりの店でした。柳橋の近所に拠点があった革マル派はお歳暮を持って挨拶に来ていた、某有力百貨店オーナー社長がよく来ていたなどと店主と懐かしい会話が弾むうちに食事は終了。料金は特別サービスだったのでしょう、松尾さんのお財布の心配は取り越し苦労でした。寿司屋を出たらすぐ隣の店を指差しながら、「本当はここに行きたかった。ちょっとだけ寄って行こう」、お腹はいっぱいなのにすぐ隣の大衆居酒屋に入りました。おっちょこちょいで律儀な松尾さんらしいエピソードです。1978年からニューヨーク通信員としてたくさん記事を書きました。当初はまだファックスがなく、8番街西33丁目ニューヨーク郵便局まで行って速達を投函、もっと急ぐ場合は築地の印刷所で待機する速記者に国際電話を入れて原稿を読み上げ、固有名詞は間違いのないよう「アサヒのア」「イトウのイ」と伝えました。1981年頃でしょうか、ファックスの出現でコレクション記事はその日のうちに入稿するようになり、作品写真は時事通信ニューヨーク支局から電送してもらいました。ネット時代のいまはもっと早く記事を書かねばならないでしょうね。繊研新聞通信員として7年半で1本だけ「これは掲載できない」とボツにされた原稿があります。東京の婦人服工業組合(のちに日本アパレル・ファッション産業協会に吸収合併)が対米輸出を計画してニューヨークで開催したJFF(ジャパン・ファッション・ウイーク)合同展示会の総括記事、題して「J F Fは本当に成功だったのか」。温厚な松尾さんもこの記事を掲載すると大問題になると判断したのでしょう、私は国際電話でボツを告げられました。主要アパレルメーカーが参加、各社の経営幹部、商社繊維部門の責任者、業界メディアも多数会場に陣取り、JFF展への期待はかなり大きかったと思います。繊研新聞本社のベテラン同行記者もオールジャパンの大イベントをなんとか盛り上げようと連日ポジティブな記事を書きました。しかし、会場には期待したほどバイヤーの入場はなく、ほとんど注文は入りません。顔見知りの駐在員が会場で配られた繊研新聞の見出しを見せながら、「ここにはJFF大盛況って書いてあるけど、実際にお客さんはいないじゃない。こんな記事が載ると、どうしてお前たちは売れないんだと本社に怒鳴られる。困るんだよ」と愚痴。駐在員たちの気持ちも理解できます。展示会開催中は水を差すようなことは書けません。JFF展が終了した時点で私は総括記事を書きました。当時人気デザイナーのカルバンクライン日本製シルクスカートが上代250ドル前後、一方米国で無名の日本アパレルはポリエステル製なのに下代が500ドル。これでは勝負になりません。今後も対米輸出を進めたいのであれば根本的な仕切り直しが急務、今回はあまりにマーケティング不足という記事を書きました。記事の内容は理解できても婦人服組合の社長たちを刺激する記事はマズイ、ボツは大人の判断でした。繊研新聞での掲載が無理なら別のメディアに、私は業界誌ファッション販売の丸木伊参編集長に原稿を送りました。掲載後私の記事はやはり波紋を起こし、組合上層部から「仲間意識がない」とクレームが繊研に入りました。普通の上司なら烈火のごとく叱り飛ばす場面でしょうが、松尾さんはこの件を糾弾することはありませんでした。松尾さんの庇護のもとで直球記事を書いていたのはなにも私だけではありません。ファッション担当記者としてミラノ、パリコレを長年取材してきた織田晃さんは、私以上にクレームを生む書き手だったでしょう。あくびが出そうなショーには痛烈な批判、問題箇所が明白なコレクションには是正すべきポイントを指摘、時々ブランド側から怒りや泣きの電話が入っていたようです。松尾さんは「織田のデコスケが…」と言いながらも部下を庇い、本人の代わりに詫びに行く場面もありました。一般的ニュースの客観報道と違い、取材者の主観がどうしても入るコレクション報道、ボスがどこまで庇ってくれるかで現場のエディターが伸びるか伸びないかが決まります。志村さん、松尾さんは私には本当にありがたい編集長でした。写真:客観報道ではないコレクション取材は難しい。2014年春夏ニナリッチ
2022.09.05
前出の志村敏さんと同じ年のもう一人のオヤジは松尾武幸さんです。大学2年の冬、私は父の勧めで老舗テーラー山形屋の子会社、紳士服マスマーチャンダイジングのギンザヤマガタヤ取締役竹田勲さんを表敬訪問しました。当時竹田さんは米国ショッピングセンターの情報通であり、洋服店のチェーンオペレーションを指導していました。竹田さんとの出会いが、ロンドンのサビルロー修行をニューヨーク移住に進路変更し、私が家業のテーラーを継がなくなったきっかけです。ギンザヤマガタヤ応接室で竹田さんを待つ間、これまで見たこともない繊研新聞という新聞ファイルが目に留まりました。新聞タイトルの下に問い合わせ電話番号の表記、それをメモして翌日購読を申し込みました。ここから私と繊研新聞の長い付き合いが始まります。1974年正月明けのことです。その3ヶ月後学生ファッション研究団体F.I.U.を設立、大手繊維会社ユニチカからマーケティング調査の委託を受け、年に4回調査データから読み取った若者の生活価値観や消費行動の変化をユニチカ幹部と共に記者発表するようになります。大型コンピューターからアウトプットしてもらった数字の羅列、これと睨めっこしながら変化の兆候を読み取る、結構楽しい作業でした。私はメディアにデータを詳しく説明したりインタビューを受けたり、時にはマーケティングレポートを寄稿しました。購読し始めた繊研新聞はアパレル業界担当の松尾武幸デスク、織田晃ファッション担当記者、営業担当古旗達夫さんと交流が始まりました。渡米後サラリーも原稿料の類いも送金されない状態を見かねた男子専科志村敏編集長は、ニューヨーク特集号を制作するという名目でわざわざ様子を見に来てくれました。そして繊研新聞と通信員契約を結ぶようアドバイス、繊研とは東京で交渉してくれました。志村さんから話を聞いた松尾デスクは社内上層部の了解を取りつけ、そこから引き上げるまでの7年半私は繊研新聞特約通信員として現地デザイナーや市場変化などをレポート、年2回帰国してニューヨークセミナーを担当しました。セミナー開催は帰国の機会を与えてやろうという松尾さんの親心です。繊研新聞で記事を書き始めると今度は紳士服見本市NAMSB展を主催する全米紳士スポーツウエアバイヤー協会から日本担当マーケティングディレクターを委託され、米国商務省が提唱する「バイ・アメリカン運動」の推進を手伝うことに。私の役目は日本のバイヤーのNAMSB展視察者を増やし、視察者に米国市場の方向性をセミナーで伝え、対日輸出をアップすることでした。この関係で日本側の窓口になってくれたのが繊研営業部の古旗さんです。日本での米国視察者集めのほか、繊研も独自にニューヨーク視察ツアーを企画、そのツアコンまで自ら担当。ほかにも米国商務省が東京で仕掛けるイベントなどを古旗さんがあたかも事務局スタッフのように支援しました。おかげで米国商務省や大使館から繊研新聞への広告出稿は増え、私の通信員契約分以上の収益が繊研新聞社にもたらされました。年2回の繊研ニューヨークセミナー以外にも私の東京出張はシーズン追うごとにどんどん増え、気がつけば年5回も帰国するようになりました。その中にはNAMSB絡みもあればバーニーズニューヨークの買い付けもあり、帰国するたび松尾さんと古旗さんは歓待してくれました。午後5時に日本橋浜町の小料理屋に始まり、人形町の居酒屋などを回ってその後銀座へ、全部で5つの店をハシゴして帰宅したのは午前5時、いま思えばよく身体がもったなあという飲み会もありました。古旗さんが業界人のツアーを引率してニューヨークに到着したシーズン、松尾さんもパリからニューヨーク入り、連日深夜まで飲み歩きました。このとき松尾さんのホテルの部屋で1枚60文字の専用原稿用紙にものすごいスピードで記事を書く松尾さんにびっくりしました。それまでの私は読者が記事を読む場面を想像してしまい、どうしても慎重になって何度も書き直し、時間をかけて原稿を仕上げていました。まるで速記者のようなスピード、松尾さんに訊ねました。読者のことをいちいち気にしていたらスピードは落ちる。新聞記者には輪転機の締め切り時間があるので作家みたいにのんびり原稿を書いていられない。事実を素早く正確に読者に伝えるのが新聞記者の使命、と。それまで400字原稿用紙1枚書くのに1時間も費やしていた私でしたが、松尾さんの姿を見てからは1時間もあれば原稿用紙4枚は書けるようになりました。ブログやSNSで私と繋がっている多くの方から「太田さん、原稿を書くのがはやいですね」とよく言われますが、それは松尾さんから学んだからでしょう。学生時代、私は男子専科の志村編集長から「最初に結論を書き、起承転結をしっかり組み立てなさい」と雑誌の特集記事の書き方を教わりましたが、松尾さんからはニュース原稿を書くスピードも重要と学びました。(私の手前が松尾武幸さん)繊研新聞ニューヨーク通信員として業界で認知されると、ニューヨーク出張時に私に会いたいという申し出が編集部や営業部に来るようになり、直接私に国際電話してくる人も出始めました。それを全部受けていたら仕事になりません。そこで、松尾さんが選んだ人だけは面談あるいは会食するとルールを作ってくれたおかげで助かりました。松尾さんの一番の助けは、私の書いた記事に対するクレーム対応でした。直球勝負で正直にコレクション記事や見本市取材記事を書くと、米国ブランドと提携する日本企業やショーを開いたブランド企業、ときには大臣秘書官を名乗る人からも、「あいつを通信員から外してくれ」、「今後繊研には広告を出さない」とたびたびクレームが入りました。しかし、松尾さんを筆頭に繊研新聞社の幹部は「太田が書いた記事は間違っていますか」、「通信員から外すかどうかはうちが決めること」といつも突っぱねてくれました。帰国するたび、「太田くん、こんなクレームが◯◯社から来てたよ、ガハハッ」と大笑いしながら話してくれましたが、松尾さんがガードしてくれなければストレートなコレクション記事は掲載されなかったでしょう。1985年5月ニューヨークコレクション最終日翌日、繊研ニューヨークセミナーのために帰国した私に東京ファッションデザイナー協議会設立の話が持ち上がり、松尾さんには相談しました。このとき「業界の発展とキミがやりたいことが先だ、繊研の後任通信員のことは心配するな」と応援してくれました。そして同年7月デザイナー協議会が正式に発足すると、真っ先に仮オフィスに陣中見舞いに来てくれたのは松尾さんと古旗さんでした。2009年12月、競馬の有馬記念の朝、松尾編集局長にかわいがられた朝日新聞編集委員高橋牧子さんから「ご存知かもしれませんが、松尾さんの葬儀が今日あります」と電話が入りました。繊研を退職してかなり時間が経っていたので、ひょっとして連絡が私に届いてないのではと心配して高橋さんが教えてくれたのです。慌てて電車に飛び乗った私は天国に旅立つ恩人の導きと語呂合わせのつもりで「ドリームジャーニー」(夢の旅)の馬券をスマホで注文、なんと馬券は当たりました。きっとあの世でいつものガハハッ顔でいまも見守ってくれていると思います。
2022.09.05
私にはファッション業界に二人のオヤジがいます。大学卒業後ニューヨークに渡って取材活動を開始した当初、思いがけない出来事が起こり、私はどん底につき落とされました。このとき私を救ってくれた命の恩人がこの二人のオヤジです。一人目は志村敏さん、初めて学生時代にお会いしたときは男子専科編集長でした。Wikipediaによれば、小説家の宇野千代(1897年〜1996年)は1936年ファッション雑誌「スタイル」を創刊、表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫(1907年〜1973年)とともに編集を務めた、とあります。藤田に東郷、すごいアーチストが手伝っていたんですね。そして1950年スタイル社からメンズファッション雑誌「男子専科」が創刊されます。慶應義塾大学を卒業した志村さんは創刊直後の男子専科に就職、北原武夫から文章の書き方を徹底的に鍛えられました。(右:志村敏さん 1982年5月撮影)1954年メンズブランドVANを立ち上げた石津謙介さんは、老舗出版社の婦人画報社編集部で働く一人の若者と、男子専科編集部の志村さんに新しいメンズファッション雑誌を作らないかと声をかけます。当時メンズファッション分野ではテーラーが購読する技術解説中心の雑誌「洋装」とスタイル社の男子専科があっただけ、石津さんはもっとおしゃれなファッション誌を通じてVANの魅力を消費者に届けたかったのでしょう。しかし、紆余曲折あって新雑誌の創刊は発売寸前に中止、それぞれ会社を飛び出した二人の若者は路頭に迷います。そして、新しいメンズファッション誌は1954年婦人画報社から「婦人画報増刊 男の服飾」(のちのメンズクラブ)が発売されました。アメリカのアイビールックやライフスタイルを取り上げるこの新雑誌はVANを大人気ブランドに押し上げ、創刊10年後の東京オリンピックの頃には熱狂的ファンが急増、アイビールックの「みゆき族」は社会現象になりました。アイビールックにフォーカスするメンズクラブ、男子専科は別路線を歩むしかありません。男子専科に復帰し、のちに編集長になった志村さんは、台頭する国内メンズデザイナーや日本への導入が始まったヨーロッパブランドをフォーカス。西武百貨店で活躍した五十嵐九十九さん(三島由紀夫の楯の会ユニフォームをデザインしたことで有名)をはじめ、映画スターのコスチュームをつくるクリエイティブなカスタムテーラーにスポットを当て、アメトラ対ヨーロピアンの構図でした。1970年代に入ると男子専科はさらにデザイナーブランドへのシフトが鮮明に。メンズビギ(菊池武夫さん)のコレクションが誌面で注目を集めます。菊池さんは萩原健一主演のテレビ番組「傷だらけの天使」(1974年日本テレビで放送)の衣裳を担当して脚光を浴び、1978年メンズのパリコレに日本から初めて参加、メンズデザイナーズブランドは菊池さんに牽引されて市場で存在感を増していきます。男子専科が菊池武夫さんやメンズのパリコレを取り上げるようになる寸前の1974年でした。大学や専門学校の学生に呼びかけて学生ファッション研究団体F. I. U.を立ち上げた私は志村編集長と出会います。最初はお茶の水の喫茶店で数人の仲間と共にお話を伺いました。「キミたちは男子専科をどう思うかね」と聞かれたので、正直に「学生としては面白くない雑誌、だから買いません」と答えました。メンズクラブはアイビーリーグのキャンパスで撮影、トラッドのカジュアルウエアや若者ライフスタイルを特集するので学生には親近感があります。対照的に男子専科はカスタムテーラーや百貨店オーダーサロンのデザイナーが創作したテーラードの掲載が多く、学生の私たちにはピンときません。メンズビギなど新興デザイナーズブランドを男子専科が紹介し始めるのはもっと先のことですから。「買いません」と言った私に、志村編集長は「買わなくていいよ。送ってあげるから読んでみろ」。それ以降毎月男子専科の贈呈本が届きました。そして、私たちが取材して記事を書く連載企画を受け入れ、団体の代表者である私は原稿を書いては編集長に目一杯赤ペンを入れられる関係になりました。学生時代とニューヨーク時代の約10年間、私は男子専科に執筆しましたが、北原武夫仕込みの志村さんから原稿を褒められたことは一度もありません。1977年5月大学を卒業した私は希望通りニューヨークに渡りました。志村さんはわざわざ羽田空港(まだ成田空港は開港されていなかった)まで見送りに来てくれました。私の渡航ビザはジャーナリストに発給される4年間滞在が認められる「I」ビザ、ビザ申請時の保証人は別の業界専門メディアでした。この会社の記者たちも数人見送りに来てくれたので、志村さんは米国での生活は大丈夫だなと思ったそうです。ところが、渡米直後から「ニューヨーク発=太田伸之特派員」の記事は次々掲載されましたが、約束のサラリーや原稿料はいっさい送金されません。窓口だった編集デスクに国際電話を入れて催促しても何も変わらず、最後は電話口にも出てくれません。持参したお金は底をつき、男子専科の志村編集長に手紙を書きました。すると「太田くん、窮状はよくわかった。取り急ぎ送金する。仕事の話はあとだ」と激励の返信が届き、簡潔美文の手紙を読みながら涙が溢れました。ビザの保証人だった会社は非情な対応、一方何の約束もしていない男子専科は窮状を察して支援してくれる異例の対応。捨てる神あれば拾う神あり、でした。志村さんの手紙がなかったら、私はさっさとニューヨークに見切りをつけ帰国していたでしょう。それから2ヶ月後の1978年1月、志村さんは専属カメラマンを伴って真冬のニューヨークに来てくれました。ラルフローレン、カルバンクラインなど台頭する米国デザイナーブランドの周辺を中心にニューヨーク特集号を制作しよう、と。ちょうど日本ではニューヨークファッションへの関心が高まり始めた頃、特集号を出す絶妙のタイミングでしたが、丸ごと1冊私に担当させてまとまった原稿料を渡す配慮でもありました。さらに、ニューヨークから戻ったら問題のメディアの担当デスクと話し合って、もしも相手の対応が悪ければ別のメディアと契約交渉をしてみる、「ここは私に任せなさい」と言ってくれました。志村さん自身は20代で男子専科を飛び出し、新雑誌を創刊しようとしたものの失敗した苦い経験があり、日本を飛び出してハシゴを外された私にご自分の若い頃を重ねていたのでしょう。帰国後志村さんから連絡が入りました。「あまりに誠意がなさすぎるので関係を切った方がいい。その代わり繊研新聞の松尾さん(編集デスク、のちに取締役編集局長)と話したので、近々連絡が入るだろう」。こうして志村さんの仲介で私は繊研新聞社の特約ニューヨーク通信員となり、1985年に帰国するまでの7年余男子専科と繊研新聞の記事を書くことになったのです。男子専科の志村さん、繊研新聞の松尾さん、二人はちょうど私の二回り年長の同い年、二人とも我が子のように面倒を見てくれました。私がファッション業界でそれなりに活動できるようになったのは、二人のオヤジの存在があったからでした。写真:1950年の創刊号と1979年加藤和彦が表紙の6月号
2022.09.05
1999年に亡くなる直前、東武百貨店社長から会長になった山中鏆さんはキリスト教に改宗しました。奥様がクリスチャンなので葬儀やその後の仏事で奥様に負担をかけないよう配慮しての改宗だったとか、このことでも山中さんの人柄がよくわかります。1998年12月最後の日曜日、競馬有馬記念のちょうどテレビ中継が始まる時間帯、私は繊研新聞編集局長松尾武幸さんから新宿駅前の談話室滝沢に呼び出されました。グラスワンダーが優勝した有馬記念、私はろくに馬券の検討ができず新宿に向かいました。松尾さんは私にとってニューヨーク時代からメンター、墨田区ファッション産業人材育成戦略会議の同志でもあります。急に何の用事かと思えば、山中さんから託された重要なメッセージをどうしても年内に伝えておきたかった、と。1994年9月IFIビジネススクール第1回夜間コースすでに1998年春からIFIビジネススクールは2年間全日制マスターコースが始まり、私は2つのコマを任されていました。ほかに1994年からスタートした夜間プロフェッショナルコースでは、講座が増えて月曜日から木曜日まで4講座のディレクターとして指導、かなりの時間と労力をIFIに割いていました。松尾さんはこう切り出しました。「山中さんの体調から考え、そろそろ次のIFI学長を決めておかなければならない。太田くんがどれだけIFIに貢献しているかは山中さんもわかっているが、あなたはまだ若い。ここは年長者に譲って、次の次に学長になってくれないか。これは山中さんの遺言と思ってくれ」。私は答えました。「勘違いしないでください。私は人材育成をライフワークのつもりで一生懸命やってはいますが、それを本業にしようと考えたことは一度もありません。教育のお手伝いはするけれど、その責任者になることはありません。次の次もないです」。ミスター百貨店を書籍にまとめようと取材をしていた松尾さんと私の関係を頭に入れ、このタイミングでIFI学長人事のことを松尾さんに伝言されたのでしょう。でも、それは取り越し苦労。私はマーチャンダイジングのプロになりたくてニューヨークへ渡り、帰国して若者たちにマーチャンダイジングを教えてはきましたが、それはあくまでボランティア活動、人材育成を本業にするつもりは昔もいまもありません。1999年正月明け、根津公一さんの東武百貨店社長就任が発表されましたから、この頃山中さんは身辺整理を急いでいたのでしょう。松尾さんから「山中さんの遺言と思ってくれ」と聞いたので、癌はかなり進んでいると受け止めました。だから、年明けに全日制マスターコースの受講生に一度は学長特別講義をして欲しいとお願いし、最初で最後の学長講義が実現しました。ミスター百貨店、あるいは百貨店経営の神様と尊敬されている大経営者、山中さんは気配りの人であり、そのサービス精神から重要な話をポロリと漏らす人でもありました。マスコミ関係者に山中ファンが多かった理由の一つはこのポロリ、記事が書きやすい取材対象でした。私もオフレコをよく聞きました。ある夜料理店に到着するなり珍しく「今日は早く帰るぞ」。その理由を訊くと、「明日は朝一番◯◯のところに行って伊勢丹の株を買わないでくれと頼みに行くんだ」。マンション販売で有名な秀和は業績が急激に悪化、株式市場で買い占めた伊勢丹の株を大手量販店に渡すのではないかとメディアで話題になっていた時期です。伊勢丹元専務のOBとしては黙っていられなかったのでしょう、山中さんは動きました。結局、秀和所有の株式は◯◯会長の大手量販店には渡らず、メインバンク三菱銀行のグループ各社、伊勢丹系共同仕入れ機構ADO(伊勢丹、松屋、東武、丸井今井、岩田屋、藤崎、名鉄百貨店らが加盟)の百貨店、伊勢丹の取引先などが引き受けました。山中さんが特に信頼していた馬場彰社長のオンワード樫山は全面協力、オンワード樫山は一時期伊勢丹の筆頭株主だったと記憶しています。1996年3月夜間コース「デザインの理解」修了式この直後、IFIビジネススクール理事長兼学長就任が決まっていた山中さんと学校を実質的に取り仕切る専務理事の候補者について話し合っていたとき、私は「山中さんに近い人物、できれば小売業が望ましいのでは。伊勢丹の小柴和正専務(=当時)はどうでしょう」と提案したら、「小柴はダメだ、これから忙しくなる」とピシャリ。それからしばらくして伊勢丹小菅国安社長が退任、創業家以外では初めて小柴さんの社長就任が発表されました。1993年のことです。小柴さんの社長就任が発表される直前、伊勢丹社員の間では秀和問題で奔走する東武百貨店の山中社長が実は伊勢丹に復帰したくて動いているのではないかという噂が流れ、私にストレートに質問する人まで現れました。「ご自分が伊勢丹社長に戻る気はないでしょう。山中さんはそんな人ではありません」と私は説明しました。伊勢丹社長に就任した小柴さんは山中さんのところに相談に通っているらしいと聞いていましたが、なるほどそういうことなのかというシーンもありました。IFI幹部の米国教育機関視察旅行、フィラデルフィアからニューヨークに戻るチャーターバスの中で突然、「伊勢丹の武藤くんはどんな男かね」と質問されました。「ファッションの話だけでずっと一晩私と付き合える、現時点では唯一の百貨店マン」と答えたら、「そうか。わかった」。おかしなこと質問するなあと思いましたが、会話はすぐ終わりました。余談ですが、武藤さんが伊勢丹に就職するときの面接官は山中常務(当時は後方部門担当)、武藤さんは「怖そうな人の前で緊張して頭の中が真っ白になった」そうです。米国視察旅行から帰国すると武藤信一さんの伊勢丹取締役就任が発表されました。そして1994年秋にプレオープンしたIFIビジネススクール第1回目夜間プロフェッショナルコース最終日、私が担当したリテールマーチャンダイジング・クラスの最終演習は、伊勢丹新宿1階ショップ「解放区」の次のプランを責任者の武藤取締役にぶつける、でした。数チームに分かれた受講生たちは考案した解放区構想を発表、しかしことごとく武藤さんに酷評されました。講師と受講生の熱いやりとりを仲介しながら、「これが山中式実学だなあ」と満足でした。第1回プロフェッショナルコースが終わると、アパレルマーチャンダイジング・クラス講座主任を務めたジュンコシマダの岡田茂樹さんと私は山中さんに池袋でご馳走になり、東武百貨店がフェアのために海外から仕入れたワインを半ダースずついただきました。気配りのミスター百貨店らしい配慮でした。IFIビジネススクールで私は多くの受講生と濃密に接してきましたが、ミスター百貨店から「経営者とは」を実学で教えてもらった受講生は私でした。
2022.09.05
1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が発足した直後、通商産業省(現・経済産業省)繊維製品課の渡辺光夫課長がオフィスを訪ねてきました。ファッションデザイナー側の意見も繊維行政に入れたいので委員になって欲しい、と。正直お堅い役所と交流するのは面倒臭いと思いましたが、断ったらデザイナーの声は行政には届かない。結局、委員を引き受けることに。ちょうどその頃繊維製品課では、WFF(ワールド・ファッション・フェア)の開催とFCC(ファッション・コミュニティー・センター)の設置が議論されていました。簡単に言えば、全国各地にイベントや展示ができる施設を作り、スケールの大きなファッション振興イベントを開催する。そんなの意味あるのかなあ、と思いました。ハコ作ってイベントやることより、ファッションビジネスのプロを育成することの方が国策としてもっと重要ではないか、日本は服飾専門学校がたくさんのデザイナーやパタンナーを輩出してきましたが、本格的なファッションマーチャンダイジングや実践的マーケティングを教える高等教育機関がありませんでした。当時ファッションと名のつくものは文部省(現・文部科学省)の分類では「家政学」の中の「被服」、家政学部を有する大学すなわち女子大学でしか教育できませんでしたから。長年日本アパレル産業協会などの業界団体で産業教育について議論され、海外視察団も送ってきましたが、この文部省のカテゴリー分類が障害、なかなか具体的な話が前に進みません。そこで、「人材育成というのは、教えてみようと思う人が寺子屋でも塾でも形式にとらわれず始めたら前に進むのではないでしょうか」、と私は発言しました。委員会後、お役人が「言うのは簡単、誰がそれをやるんですか」と言うので、「じゃあ、私が始めてみましょうか」。CFD事務局で開講した「月曜会」はこうして始まりました。毎週月曜日夕方、一般公募で集めた若者25人を受講生に、CFDのデザイナーやそのマネジメント人材、ショープロデューサーや雑誌編集長、大手アパレルや小売店幹部を講師に参加費無料でスタートしました。FCCを墨田区役所庁舎の場所に建てる計画を練っていた墨田区役所のスタッフが月曜会を見学、できれば将来建設する墨田区FCCの中にこうした人材育成プログラムを入れたいとなりました。こうして墨田区のファッション産業人材育成戦略会議が始まり、どういう人材を育てるのか、どういうカリキュラムで誰が指導するのかがほぼまとまり、文部省系統では身動き取れないので通商産業省の下で財団法人として立ち上げ、学長は松屋会長の山中鏆さんにお願いしようとなりました。ここでミスター百貨店は人材育成事業のステージに登場しました。山中さんも戦略会議に加わってさらに議論を進めるうち、この構想は墨田区主導ではなく通商産業省主導で墨田区に設置することになりました。「墨田区にできる墨田の学校か、それとも墨田区にできるオールジャパンの学校か」、区長選挙を控えた区長は後者を選択したようです。墨田区戦略会議の委員はここでお役御免、一人私だけが次のステージでも委員を続けるよう役所から依頼されました。私一人残留を認めたら墨田区の会議でみんなと決めた学長案も白紙にされかねません。私は通商産業省に出かけて当時の繊維製品課長に面談し、墨田区の山中学長案を白紙にせず、山中さんを委員に加えてもらえないなら自分は委員を降りると食い下がりました。東京都でもなく、ひとつの区で議論してきた案をそのまま国が引き継げない、リセットして最初から議論をやり直す方針だったのでしょう。しかし、課長は最後に折れ、山中さんを委員に加えてくれました。あそこで課長がもっとプライドの高い人だったら、初代の理事長兼学長は合繊または紡績メーカーの会長さんか、財界の重鎮経営者だったかもしれません。通商産業省で改めて人材育成機関の検討が始まり、墨田区20億円、東京都10億円、民間企業から出捐金20億円の合計50億円で財団法人として発足することになりました。正式名称はファッション産業人材育成機構(IFIビジネススクールの運営母体)、理事長兼学長は東武百貨店社長だった山中鏆さんに決まりました。このとき山中さんから「ハシゴを外すなよ」と強く言われました。墨田区人材育成戦略会議に山中さんが登場してから、山中さんとのミーティングの中身が変わりました。それまでは主に松屋あるいは移籍後の東武百貨店のマーチャンダイジングや店頭整備案に関するものでしたが、人材育成が主たるテーマになり、山中さんの口から「実学」と「問題解決能力」という言葉を何度も聞くようになりました。「立派な校舎なんかいらない、寺子屋で良いんだよ」、「学校で教えたから優秀な社長が生まれるわけではない」、これが学長としての基本的考えでした。山中イズムの一例を。売り場を回って問題点を見つけ、それを早く解決すること。売り場の広い東武百貨店に移ってからも午前中のアポは入れず、社長自ら売り場を頻繁に歩いていました。「売り場で販売員にいくつか質問すると、柱の陰に隠れて様子をうかがってる部長たちがあとで俺が何を言っていったか販売員に聞くんだよ」、子供たちと広場でかくれんぼを楽しんでいるかのようにニコニコ笑いながら説明されたことを覚えています。松屋の幹部もそうでしたが、山中門下生にとって売り場のリニューアルなどで迷ったら「問題解決は売り場で」、でした。山中さんが亡くなって10年以上経過した開店直前の東武百貨店、ガラス越しに根津公一社長が電動車椅子に乗り、社員数名を連れて売り場を回る姿を目撃したことがあります。根津社長は体調を崩されたのかなと思っていました。後日、たまたま根津さんとご一緒する機会があったので質問したら、話は予想とは全然違いました。1999年山中さんが癌で入院されるとき、根津さんにこうおっしゃったそうです。「今度退院しても、もう歩いて売り場を回れないかもしれない。電動車椅子を用意しておいてくれないか」。根津社長は言われた通り電動車椅子を用意して山中会長の帰りを待ちました。が、残念ながら山中さんは電動車椅子に一度も乗ることなくこの世を去りました。残された電動車椅子をたまに動かさないと故障するかもしれない、根津さんはそう思って時々乗っていただけでした。ミスター百貨店の売り場への執念、すご過ぎるエピソードを後世に伝えたいです。写真:墨田区ファッション産業人材育成戦略会議の座長だった繊研新聞編集局長松尾武幸さんは密着取材を一冊にまとめました。上梓の数ヶ月後、山中さんは亡くなりました。
2022.09.05
松屋社長の山中鏆さんがニューヨーク視察に出かける直前、「戻ったら時間を作ってくれ」と電話をもらいました。ニューヨーク出張なら紹介したい人がいます、と杉本明子さんの名前を伝えました。杉本さんは旭化成と伊勢丹の現地オフィスを長い間掛け持ちしていた才女、ちょうど両社を退いてその時点では自由の身でした。杉本さんに連絡を入れ、山中社長に五番街の高級百貨店バーグドルフグッドマンがいかにして蘇ったのかを詳しく教えてあげてくださいと頼み、滞在ホテル名を伝えました。杉本さんはホテルにメッセージを残して何度もコンタクトを試みますが、話がつながりません。見知らぬ女性からの社長への伝言、同行者がブロックするのは当然だったかもしません。そこで、杉本さんは「帰国されたらお読みください」と米国の百貨店事情をまとめたレポートをホテルに届けてくれました。山中さんがレポートを受理したのが帰国前夜の午後10時、すぐに電話を入れて杉本さんのアパートに飛んで行ったそうです。こういう場面ではいつも神対応する人でした。帰国後山中さんから電話があり、「杉本くんには松屋顧問になってもらった」と得意げでした。ちょうどその頃、五番街に本店があるサックスフィフスアベニュー百貨店の経営陣は親会社からのバイアウトを計画、出資して彼らをそのまま活かしてくれる企業を探していました。メインバンク富士銀行の仲介もあって東武百貨店はサックスの買収に名乗りをあげました。松屋社長を退任した山中さんに東武百貨店が移籍を要請していた時期と重なります。残念ながらサックスは当時グッチを傘下に有するアラブ系Investcorp S.A.の手に渡りました。サックスの経営陣(ユダヤ人)はアラブ系ではない日本企業にシンパシーを感じていたようですが、提示された買収金額の差が大きく、株主のメリットを考えればInvestcorp S.A.を選択するしかありませんでした。山中さんが東武百貨店社長に就任した1990年のことです。サックスの店頭状況はニューヨークの杉本さんから山中さんに届いていましたから、山中さんの杉本さんへの信頼はさらに強くなります。IFIビジネススクールの構想が最終段階になった頃、私はIFI理事長でもある山中さんに「杉本さんがご家庭の事情で帰国する可能性があります」と告げました。「どんな形でも良いから帰国させてIFIで指導してもらおう」とおっしゃるので、私は杉本さんに帰国を促し、IFIの指導と共にどこに籍を置くかいろんなパターンを考えました。杉本さんがニューヨークで働いていた伊勢丹と交渉する、あるいは山中さんが顧問契約をした松屋、そして山中さんの現在地東武百貨店もありでしょう。あとは本人次第でした。原宿クエストの「クエスト・ニュースタンダード・フォーラム」(原宿クエストがファッション流通業界をサポートするため年2回参加費無料で開催)、企画進行役の私は池袋の西武と東武両百貨店の新社長対談を組みました。この対談は定員300人の2倍以上の応募がありました。先に楽屋入りした西武百貨店水野誠一社長と打ち合わせをしていたら、山中社長が到着、挨拶もそっちのけで「杉本くんは東武に入れてくれ。キミがPTAなんだろ」。なんのことだか理解できない水野社長はキョトン、山中さんは対談のことよりこの話ばかり、とんでもない事前打ち合わせでした。フォーラムの翌日、東武百貨店の日沖取締役がわがCFDオフィスに。「山中がどうしても杉本さんを東武にと申しております」。私は杉本さんのPTAでもマネージャーでもありません、「ご本人の希望を尊重しましょうよ」と答えました。結果的に、ニューヨークから引っ越した杉本明子さんは山中さんが創設した松屋の東京生活研究所のファッションディレクターに就任しました。諦められない山中さんは帰国した杉本さんに東武百貨店社員向けセミナーを何度も依頼します。杉本さんは松屋のファッションディレクター、いくら山中さんの依頼でも同業他社の社員に講演というのはやりにくいもの、杉本さんは困っていました。そこで、山中さん、杉本さんとの一席を池袋でセットしました。東武での杉本さん講演を諦めてもらうためです。怒鳴られるかと思っていたら、「今夜は太田くんがご馳走してくれるのか」とご機嫌、この夜は二人でなんと日本酒熱燗18本(杉本さんは飲みません)、足がもつれるほど飲みました。晩年山中さんとはよく飲みましたが、こんなに飲んだのはこの日だけです。私の就任パーティー時の古屋さんと山中さんところで、多くの業界関係者から私が松屋に入った理由を「山中さんのお誘いですか?」と質問されますが、それは違います。私が松屋を選んだのは山中さんから松屋社長のバトンを受けた古屋勝彦社長が誠実に口説いてくださったから、山中さんはノータッチです。1994年4月、盟友とも言うべき市倉浩二郎(毎日新聞社編集委員)が東京コレクション初日に倒れ、そのまま亡くなりました。最後の瞬間に立ち会った私は人生の時間の短さを痛感、やりたかったマーチャンダイジングをやらずには死ねない、とCFD議長退任を決めました。あまりに若すぎる親友の死と自分が本当にやりたい仕事を綴った長いレポートをCFDの関係者や親しい友人たちに配りました。どうしても退任したかったので賛同を得るためです。その一部が杉本明子さんから松屋の古屋社長の手に渡り、すぐ銀座のイタリアンレストランに呼び出されました。1年後の1995年4月、CFD議長退任記者会見当日の午前中、私は松屋人事部との移籍の打ち合わせに銀座に出かけました。総務人事担当松澤常務から「いつ山中社長にはお話になりますか?」と訊かれたので、「翌週IFI幹部との会食があるのでその時にでも」と答えたら、「とんでもございません。できれば今日中にお話くださいませんか」。山中さんとの関係をよく知る総務担当常務らしい気遣いでした。私は東武百貨店の鎌形秘書に電話を入れ、緊急面談をお願いしてそのまま銀座から池袋の東武百貨店に向かいました。CFD議長を退任してマーチャンダイジングをやりたいということは親友の急逝直後に報告してあり、山中さんはよくご存知でした。両国の寿司店で「量販店はだけは絶対ダメだぞ。決める前に俺に相談しろっ」と言われていました。ありがたいことに山中さんにお考えがあったことは知っていましたが、山中さんからは「幹部の人事というのは秘密裡に進めないと失敗するぞ」と教わっていたので、相談せず古屋社長と極秘に話を進めていました。東武百貨店役員応接室、私は山中社長に「松屋に行きます」と告げると、喜んでくれるどころかブスッと無表情のままタバコを吸い始め、5分ほど両者沈黙、重苦しい時間でした。「俺が再建した会社に行くんだな」、続けて「古屋が全部持っていくんだな」。杉本明子さんのみならず私まで松屋に行くのかよという意味でしょう。このあと退任記者会見が控えているので、報告だけして帰りました。後日、東武百貨店の新生活研究所富塚所長が、「太田さんが東武に来るときはいつもニコニコだった山中が、あの日だけはもの凄く怖い顔をして応接室から出てきたので何かおかしいぞと思いました」と教えてくれました。やっぱり相談しないで勝手に決めたので怒っていました。しかし、ミスター百貨店は度量が広かった。その後も何事もなかったかのようにこれまで通り濃密に接してくださり、IFIビジネススクールや百貨店ビジネスについて何度も語り合い、よく酒を酌み交わしました。現在大手広告代理店勤務のお孫さんが山中さんのことを奥様に訊ねたら、「晩年よく飲んでいたのは太田さんだから、詳しいことは訊いてみなさい」とおっしゃったそうです。確かに、随分相手をさせてもらいました。IFIビジネススクール全日制コースのカリキュラムを検討していたある夜、その教育方針に関して「本気で実学をやる気があるんですか。このままでは実学とはほど遠いアカデミックな大学になってしまう。だったら私はIFIから身を引きます」と強い調子のメッセージを自宅ファックスに送りました。翌朝松屋に出勤すると、オフィスの入口の前で研究所の社員たちがなぜか直立不動で立っています。「どうしたの」と訊いたら、「山中社長がお待ちです」。部下たちにとって松屋を改革した大社長が予告なしに現れたのですからびっくり仰天、直立不動にもなります。夜遅くのファックスを読んで朝一番自ら足を運ぶ、こんな神対応されたらこっちはもう何も言えません。「実学に徹する、信じてくれ」と言い残して帰られました。最晩年は癌の影響でかなりお痩せになりました。体調のこともあってIFIビジネススクール全日制は開校したものの、学長(理事長兼務)の講義はなかなか実現しません。「学生を東武百貨店に連れて行きますから、一度は講義をお願いします」と電話をしたら、「尻の肉までおちて座ると痛いんだよ」と言いながら、わざわざ両国のIFI校舎まで出かけ最初で最後の学長講義、これもさすがの神対応でした。それから数ヶ月後の1999年9月、山中さんは永眠されました。その日自宅にお邪魔したら、奥様から「最後の最後まで人材育成のことを気にかけておりました」と伺い、ご遺体に向かって「ありがとうございました。私はもっともっと若者を育てますから」と約束しました。1987年から12年間、指導者のあるべき姿を教えていただきました。ただただ感謝、感謝です。
2022.09.05
藤巻幸夫さんがセブン&アイ生活デザイン研究所社長になった当初、彼はイトーヨーカドーの売り場を回って現場で定数定量管理を指導していました。伊勢丹、バーニーズジャパンで彼の先輩に当たる有賀昌男さんもまたエルメスジャポンの社長に就任した当初、社員にマーチャンダイジングの基本である定数定量管理を説いていました。さすが伊勢丹出身者です。「ミスター百貨店」とも言われる山中鏆さん(当時は東武百貨店社長)に「どうして伊勢丹社員だけがマーチャンダイジングの基本を叩き込まれているんですか」と質問したところ、「キミは終戦直後の新宿の街を知らないだろう。汚かったんだよ」と切り出し、当時の伊勢丹を取り巻く環境を教えてくれました。伊勢丹はターミナル駅に隣接しているわけではないし、戦後新宿の街は銀座ほど整然とはしていなかった。お客様の多くはごちゃごちゃの街並みを通って伊勢丹に足を運んでくださる。ボーッと営業していたのではお客様は来てくれない。どうやって魅力的な百貨店にするかを議論していたら、アメリカの百貨店にはマーチャンダイジングというものがあるらしいというのでその手引き書を購入、翻訳テキストを作成、社内研修を重ね、要点だけを羅列した小さなメモを社員は携帯することになったそうです。1990年新宿にバーニーズジャパンがオープンしたとき、伊勢丹から出向した田代敏明社長の名刺入れにもこの小型メモはありました。品揃えや商品展開に迷ったらこのメモを見る、伊勢丹社員にとっては必携のお守りでした。1976年山中さんが伊勢丹専務から松屋に転じたら社員は同じメモの携帯を義務付けられ、閉店後売り場で社長自らマーチャンダイジングを教える「山中学校」を開いた話は有名です。さらに、1990年東武百貨店社長に就任されたときも、東武の社員にはやや大きめ文字の同じメモを配りました。1950年代米国式マーチャンダイジングの導入と実践を伊勢丹でリードしたのは山中さんの上司だった山本宗二さん、のちに東急グループ五島昇さんに請われて東急百貨店の再建に乗り出す「デパートの神様」と呼ばれた方です。「百貨店として当たり前のことを当たり前にやる」山本イズムと、米国式マーチャンダイジングを叩き込まれた山中さんは伊勢丹の番頭さん(専務取締役)として、松屋の社長並びに東武百貨店の社長として、たくさんの後進指導に当たりました。1987年、思いがけず山中社長から電話が入りました。前にも触れた松屋ディレクター原口理恵さん急逝のあとのことです。要件は「キミに会いたいんだ、オフィスはどこかね」。場所を説明するより伺った方が早い、私は松屋銀座の事務館を訪ねました。松屋の取締役が数人同席、山中社長は「こいつらは委託販売で問屋に丸め込まれてバカなんだ」、何回も「バカ」「バカ」とおっしゃる(いまなら完全にパワハラ発言でしょうね)。アパレルメーカーとの間で委託販売や消化仕入れ取引の比重が高くなり、買い取りをしなくなったから百貨店は弱体化しているという意味でした。(中央・山中鏆さん、右・繊研新聞社松尾武幸さん)これを受けて私はミスター百貨店に、「委託はバツ、買い取りはマルなんて言うあなたこそバカじゃないんですか」、と遠慮なく申し上げました。するとムカっとした表情で「キミはアメリカが長いんだろっ」、買い取りビジネスが一般的なアメリカで仕事してきた者がおかしなことを言うじゃないかと思われたのでしょう。「アメリカを知っているから申し上げているんです。買い取りはリスクありますが、収益は高い。委託取引は低収益でもノーリスク、実績のないブランドをすぐ導入できます。買い取りのメリット、委託のメリット両方を取り入れるのがビジネス、どっちがマルかバツなんて古いです」。するといきなり「社長顧問になってくれないか」、これにはびっくりしました。まだ35歳にも満たない若造、いろんな百貨店と仲良くしなければならない中立的な組織の責任者が特定百貨店の社長顧問は無理です、とお断りしてこの日は帰りました。その翌日、松屋の役員らがわがオフィスに。話は前日の続きでした。社長顧問は無理でも時々会食しながら相談に乗って欲しいという話でしたから、「それは喜んで」と答えました。ここから私と松屋の長い関係が始まります。1989年は創業120年、これに向けて松屋は銀座店の大きな改装を計画中でした。山中さんは松屋幹部もいる宴席で「社員はルイヴィトンを導入したいと言ってるんだが、キミはどう思うかね」、私は「ルイヴィトンを入れるだけが大改装計画ではカッコ悪いでしょ」と答えました。すると「(太田は)ダメと言ってるぞ」と幹部に。私はルイヴィトンが悪いなんてことは一言も言っていませんが、山中さんはご自身のお考えもあってか導入に反対だったのでしょう。山中さんは記者団がいる場でも、高価なルイヴィトンのバッグを持っている女性たちを否定するかのようなコメントを発し、ルイヴィトン側からクレームが来たとも聞きました。いまだったらこんなコメントは女性に対するハラスメントとしてテレビや週刊誌で激しく叩かれるでしょうね。これはまずい、さっそく山中社長を訪ねました。「誤解しないでください。ルイヴィトンは悪いブランドではありません。120周年の記念すべき改装なんですから、現時点で無名でも将来性ありそうなブランドを発掘し、売り場で育ててこそ百貨店の仕事でしょ」と申し上げ、無名ブランドの一例として六本木の星条旗通りに路面直営店があった英国マルベリーの名前をあげました。翌日、山中社長はマルベリー直営店に現れます。その場に居合わせたブランド責任者の馬場宗俊さん(当時は八木通商マルベリー担当)に「太田くんが行けと言うから見に来たんだよ」。すぐ馬場さんから「びっくりしました」と電話がありました。そして松屋はメインフロアにマルベリーのショップを開店、ジャパン社設立に協力しても良いという提案も馬場さんにあったようです。結果的にマルベリージャパンは元松屋コーディネーター西山栄子さんのご主人で堀留の生地問屋の社長さんが出資しました。創業120周年を機に山中さんは創業一族の古屋勝彦さんに社長をバトンタッチ、松屋会長に就任されました。ちょうどその頃私たちは墨田区役所と一緒にファッションビジネスのプロ育成機関を移転後の区役所跡地に建設する構想(IFIビジネススクールにいずれは繋がるもの)を練っていました。座長は繊研新聞社編集局長松尾武幸さん、コルクルームの安達市三さんと私が主たるカリキュラム立案者。大筋教育プランがまとまり、理事長兼学長を誰にしようか議論していたところへ松屋社長退任のニュース、正式開校時には相談役か名誉職、少しは教育に時間を割けるだろうと就任の可能性を打診しました。山中さんは「墨田区の皆さんには松屋浅草店が大変お世話になっている」という理由もあって就任要請を受け、ここから墨田区の戦略会議に参加されました。ところが、松屋会長を退任して今度は東武百貨店社長就任のニュース、私はすぐ会長室を訪問しました。年齢のこともあって社長の激務は大変、人材育成機関代表との兼務となればさらにきつい、思いとどまるわけにはいかないでしょうかと申し上げると、私の発言は完全無視、上着の内ポケットから取り出した紙切れを渡されました。東武百貨店の組織図でした。「この組織図、良くないですねえ。商品部門が組織図の下の方に書いてあります。直して良いですか」とお断りして組織ラインを修正、山中さんに戻しました。山中さんは手を入れた組織図の上下を逆さにして「できたな」。逆さにした組織図の最上段は「お客様」、最下段は「取締役会」だったか「社長」だったかは忘れましたが、このとき「このじいさんやっぱり凄いわ」と改めて思いました。東武百貨店社長就任時、池袋駅の反対側の西武百貨店といかに戦うかを話し合ったことがあります。私は豊島区の住民、西武も東武も利用します。百貨店を寿司屋に例えてこう説明しました。冷凍物を一切使わない高級店、ネタは全て揃っている。しかし、常連客には丁寧な対応だがフリー客にはちょっと敷居が高い店があります。これに対して、冷凍マグロも使うお店はどういう戦略を取りますか。常連客もフリー客も分け隔てなく平等に扱い、丁寧に寿司を握るしか道はないでしょう。冷凍物でも良いじゃないですか、美味しければ。後日東武百貨店から発表されたキャッチコピーは「親切一番店」と「普通の百貨店」。飲みながら話したことを山中さんが社員に伝えて誕生したのでしょう。親子ほど年の離れた若造の話にも真摯に耳を傾ける、その耳はダンボのようにとてつもなく大きかったです。
2022.09.05
あれは2009年の年末だったでしょうか、リッキー(元リンクセオリー社長佐々木力さん)と千歳空港でばったり遭遇したのは。セオリー札幌地区ショップスタッフとの忘年会を終えて帰るところで「連チャンだから疲れたよ」、と。聞けば前日が福岡、前々日は大阪での忘年会、3日連続は誰だって疲れます。地方都市のショップスタッフは社長がわざわざ来るとなるとテンション上がり、二次会も三次会もセットされ、社長は翌朝二日酔いでムカムカしながら帰途というケースは少なくありません。3つの地方都市を回って連日忘年会に参加とは、エネルギッシュで優しいリッキーらしいけれども身体は大丈夫なのかなとちょっと心配でした。2011年夏、61歳で亡くなったとき、無理をしていたんじゃないかな、と思いました。世界中を飛び回り、余人に変え難い活躍をしたけれど太く短い人生だったリッキー、彼と同じように精力的に飛び回り、人の面倒をよく見てたくさんの人から愛され、早く逝ってしまった仲間に藤巻幸夫さんがいます。現職の参議院議員、日本の優れものを集めた藤巻百貨店を主宰するビジネスマン、残念ながら2014年春54歳の若さで亡くなりました。2013年夏の朝、藤巻さんから携帯に電話が入りました。留守電に残されたメッセージは「太田さん、クールジャパンの社長を引き受けてくれて僕は嬉しいです。一緒に日本を世界に売り込みましょう」でした。この日経済産業大臣定例記者会見で新設予定の株式会社海外需要開拓支援機構(通称クールジャパン機構)社長人事が発表されることになっていました。翌日も藤巻さんから電話がありました。「いまシンガポールに来ています。ここはクールジャパンになっていません」と。伊勢丹時代の後輩が駐在員、シンガポールの商業施設をあちこち案内してもらって感想を伝えてきたのです。相変わらず精力的に飛び回っているなあ、でも以前過労で倒れたことがある人なので彼の身体は心配でした。与党自民党と公明党が提出したクールジャパン機構の法案にはその政策を議論してきた前与党の民主党も賛成、藤巻さん所属のみんなの党は反対でした。国会で総理大臣にデザイン戦略、クールジャパン政策に関する質問をし、その重要性を熱っぽく述べた藤巻さんは投票を欠席。日本のかっこいい、美味しいをもっと世界に広めたいと人一倍情熱を持っていましたから、どうしても党の方針を受け入れることができなかったのでしょう。クールジャパン機構が正式に発足したのが2013年11月下旬、その数日後に藤巻さんは緊急入院、翌年3月に亡くなりました。参議院議員としても藤巻百貨店主宰者としても、日本の優れものをもっとダイナミックに世界各国に紹介したかったでしょう。私が初めて藤巻さんと会ったのは、伊勢丹新宿本店一階に若手デザイナーの「解放区」がオープンした1994年です。前年伊勢丹M D本部婦人服統括部長だった武藤信一さん(のちに社長)と会食したとき、才能はあるけれど資金力のない若手デザイナーを育てる売り場はできないものか、かつてのヘンリベンデル(ジェラルディン・スタッツ社長時代は市場をリードしたニューヨークのファッション店)のようなインキュベーション機能を伊勢丹はもてないのかと提案しました。武藤さんは小柴和正社長をすぐに説得、これまで売り場として使ったことがなかった1階中央部のプロモーションスペースを期間限定ショップ「解放区」として確保、その担当バイヤーとして登場したのが藤巻幸夫さんでした。バーニーズジャパンに出向してニューヨーク本社バイヤーらに買い付けを教わった藤巻さんは全商品完全買い取りという難しい仕事を担当、規模は小さいながら「解放区」は伊勢丹のシンボリックな売り場となりました。次のチャレンジは地下2階を新しいライフスタイル提案のフロアにすること。彼がプロデュースした地下2階BPQCのデザイナーに起用されたのは、私が主宰するファッション塾「月曜会」の第1期受講生だったオブジェスタンダールの森健くん。伊勢丹退職後に福助の社長やセブン&アイ生活デザイン研究所の社長になったときも、藤巻さんは森くんに企画協力してもらっていますから、二人はよほどウマが合ったのでしょう。その二人と伊勢丹の若手たちと新宿で会食、居酒屋から2軒目のバーに移動するときのこと。一緒に1軒目を出たはずの藤巻さんと森くんが途中ではぐれ、なかなか2軒目に現れません。半時間くらいしたのち店に入ってきた二人は、「途中チンピラを絞めてきました」。上智大学出身のカリスマバイヤーは実は武闘派でもあったのです。これは意外でした。BPQCオープン時、藤巻さんには転機となる出来事がありました。エントランスのV Pをチェックして帰宅し翌日売り場に足を運ぶと、そこには前日仕込んだはずのV Pがありません。藤巻さんが帰った後にやってきた幹部がV Pに満足せず撤去を命令した、と。伊勢丹退職の動機のひとつだったと本人から聞きましたが、武闘派バイヤーには耐えられなかったのかもしれません。セブン&アイグループに入ってから会食したときも面白い話をしてくれました。「僕は定数定量を教えているんです。量販店は商品を山積みすることが正しいと思っていますから」。カリスマバイヤーはクリエーションのことよりもマーチャンダイジングの原理原則のひとつ「定数定量管理」を売り場で指導していたのです。長年私も小売店やアパレル企業に定数定量管理を指導してきましたが、何度説明してもなかなか売り場で実践してもらえないのが「商品の数を定め、量を定める」。感性面よりもまず売り場の基本、やはり藤巻さんには伊勢丹の血が流れていました。葬儀の当日、藤巻さんの遺体を乗せた霊柩車は伊勢丹本店前で一旦停車したと聞いています。藤巻さんは最後の最後まで伊勢丹の人でした。写真:2014年末、バルーンにプリントされた藤巻さんを囲んで参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/藤巻幸大
2022.09.05
アメリカ社会は人材の流動性が高くキャリアアップの転職は当たり前、終身雇用だった日本のように同じ職場でずっと働く人は多くありません。しかし、タキヒョーUSA滝富夫会長の秘書Sさんは私が渡米した1977年当時すでに秘書、何十年もの間ボスを支えてきました。Sさんは滝さんが支援するカンサイヤマモトUSA代表を兼務していた時期もあったと思いますが、こんなに長く秘書を続けるのはレアケース、滝さんの人柄を物語る話です。タキヒョーUSAがアンクライン社を傘下におさめた頃、名古屋のタキヒョーに就職してまだ数年の若手社員がニューヨーク駐在員として着任しました。それが佐々木力さん(通称リッキー)でした。まだ英会話もままならない新人を見かねたSさんは友人の日本人に「デリでサンドイッチの注文の仕方を教えてあげてよ」と頼みます。若きリッキーをデリに連れて行ったのが、旭化成USAにいた杉本明子さん、のちに伊勢丹がニューヨークオフィスを設置したときは旭化成と伊勢丹の掛け持ち、帰国して松屋の東京生活研究所ファッションディレクターを務めた人です。世界を飛び回る国際派ビジネスマンが最初はサンドイッチも注文できなかった、杉本さんに聞いたときは笑いました。滝富夫会長の下でファッションビジネスのイロハを習得したリッキーは、1977年香港に転勤します。当時カルバンクラインなど急成長する米国スポーツウエアブランドは日本製素材を香港で縫製するパターンが大半、カルバンクラインのシルクスカートがいまでは考えられない250ドル未満とかなりリーズナブルな価格で販売されていました。米国ブランドとも香港の縫製工場とも親密な関係を築いたリッキーは早々と香港で独立、大手アパレル企業ワールドの支援も受けて「ワールド香港」を創業、同時にワールド本社の役員にも就任します。この頃からリッキーは米国ブランドの生産のほか、香港資本と組んで日本ブランドのショップを手掛け、ヨーロッパでは日本ブランドの現地生産も担っていた縫製工場を買収、日本ブランドとの関係が密になりました。ちょうどその頃、パリコレ視察に行った私はヴァンドーム広場の近くにあるホテルロッティのラウンジに呼び出されました。CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の設立が1985年7月ですからその3ヶ月後のパリコレ、私はCFD事務局長になったばかりでした。リッキーが役員を務めるワールドを含め、アパレルメーカーはこぞって若手デザイナーをスカウトしてデザイナーブランドを立ち上げ、過分なプレスルームや直営店を作り、トップデザイナーばりのファッションショーを大会場で開き、デザイナーには高額ギャラを支給、まさしくバブル経済そのものでした。「いまの日本のファッション業界、あなたはどう考えているのか」、と質問されました。私はアパレルメーカーの若手の青田刈りと破格の処遇は日本のファッション業界を衰退させる、と答えました。当時、装苑賞やオンワード新人大賞の最終審査に残った学生や有名ブランドのアシスタントデザイナーの争奪戦は激しく、まだ未熟な若者に多額の資金を投じてブランドを起こすのが業界トレンドでした。若者の多くはラグジュアリーカーを乗り回し、プレスルームのテーブルや椅子はイタリア高級家具ブランドを要求。すぐに直営店はオープン、名のあるインテリアデザイン会社や建築家の設計ですから施工費は半端ない。コレクションは全てオリジナル素材、かつて先輩たちがありものの生地を買ってきて工夫して使ったことに比べたら優遇され過ぎでした。勘違いする若手デザイナーが急増、こんなフワフワした社会はおかしい、絶対にメスを入れなければならない。リッキーとは深夜まで熱い議論で盛り上がり、「今度畑崎さん(ワールド創業者)との面談をセットするから会ってみてよ」と言われました。帰国後私は指定されたホテルオークラのロビーラウンジに出かけました。リッキーが畑崎広敏社長に、「CFD事務局長が東コレ特設テント建設の支援をお願いしたいようです」とそれらしい理由をつけて面談をセットしたとは全く知らず、私はパリでリッキーに話したことをそのまま畑崎さんにぶつけ、若手ブランド戦略は間違っていると申し上げました。特設テントの寄付を要請されるものと思って面談に現れた畑崎さんは「あなたは間違っている」と初対面の若造に言われてびっくりしたでしょうが、畑崎さんはとても紳士的に受け止め、「この話、うちの寺井(義弟の寺井秀蔵さん、のちの社長)に話してくれませんか」。後日この面談の模様をリッキーに報告したら、「畑崎さん、びっくりしたろうなあ」とゲラゲラ笑っていました。寺井さんとは後日お会いして同じ話をさせてもらいました。リッキーはその後も香港をベースに欧米、アジア各地で多角経営を進め、カシミア、シルク、リネンなど上質天然素材で作った自社ブランドを卸売するアパレル事業にも着手、私生活ではパパラッチに追われ、世界各地に別荘を所有するリッチな有名人になりました。ところが、アパレル事業で大量の在庫を抱えたからでしょうか、リッキーの会社は破綻し、別荘などは手放しました。伊藤操さんの「ダナキャランを創った男」出版記念パーティーで久しぶりに会ったリッキーから「なんでもするからさ、仕事紹介してよ」、と。でも表情に悲壮感はなく、いつもの笑顔いっぱいでした。ここが普通の人間とは違うんでしょうね。その直後、リッキーは完全復活します。持ち前の広いネットワークで米国の新興ブランド「セオリー」を日本市場で手掛ける会社を設立、次にユニクロの柳井正会長の支援を受けてセオリー本体を買収、リッキーは倒産で失った資産を取り戻します。しかしながら2011年癌でこの世を去りました。いまでもホテルロッティでの熱い会話、はっきり覚えています。ファッションビジネスに身を置いてこれまでいろんな方にお会いしましたが、笑顔を絶やさず誰とでもフレンドリーに付き合う異能の男、リッキーのような人はほかに会ったことがありません。とにかくカッコよくて魅力的な人でした。早すぎる死はとても残念です。参照:https://forbesjapan.com/articles/detail/21772
2022.09.05
前項の山本寛斎さんをビジネス面で支えたのは江戸時代中期創業の老舗繊維会社タキヒョー、そしてその7代目社長でありタキヒョーUSA会長だった滝富夫さんです。タキヒョー、滝さんのサポートがなければ寛斎さんは海外で活躍することはできなかったでしょう。(繊研新聞・中村信也カメラマンが撮影)私が東京ファッションデザイナー協議会設立のため急遽帰国しなければならなくなり、特約契約をしていた繊研新聞の後任通信員になってくれたのが伊藤操さん(のちに帰国してファッション雑誌ハーパースバザー日本語版編集長を務め、再びニューヨークに戻って作家生活を始めた人)、「ダナキャランを創った男」(扶桑社)を上梓した人でもあります。滝富夫さんの波瀾万丈の人生は伊藤さんの著書で詳しく紹介されていますが、ここでは私の知る滝富夫さんについて触れます。(伊藤操さんの著書)1973年名古屋に本社を置く名門タキヒョーはニューヨークにタキヒョーUSAを設立、FIT(州立ファッション工科大学)の新卒女性を採用します。名古屋本社での新卒者研修を受けてニューヨークに戻るとき、滝社長はビジネスチャンスがあるなら直接自分にレポートするよう指示しました。そして、アメリカンスポーツウエアの母とも言われるデザイナーブランドのアンクラインが資本家を探している、と報告が入りました。タキヒョーはすぐアンクライン社に出資、のちに傘下におさめます。しかし運悪く翌年アン・クライン女史は急逝してしまいます。ブランドを存続させるか否かの議論の中、ブランドを続けさせて欲しいと若きアシスタントデザイナーが発言、滝さんはブランド存続を決めます。それが当時26歳のダナ・キャランさんでした。アンクライン社はセカンドラインのアンクライン2の成功もあって業績を伸ばし、10年後の1984年滝さんとダナ夫妻は新会社ダナキャランを立ち上げます。コレクションラインのアンクライン、セカンドラインのアンクライン2の成功体験がダナキャラン社のビジネスにも活かされます。コレクションブランドのダナキャランのみならず、セカンドラインDKNYの爆発的成長もあって、世界のデザイナーブランドビジネスの模範例となりました。米国の主だった百貨店はDKNYを筆頭にck Calvin Klein(カルバンクライン)、ralph(ラルフローレン)などセカンドラインのために婦人服売り場をワンフロア増床、米国デザイナーブランドはヨーロッパやアジア市場でも急速に売り場を拡大しました。そして、ダナキャラン社はニューヨーク証券取引所に上場、滝さんもダナ・キャラン夫妻も大きな創業者利益を手にします。このとき滝さんはダナの出身校であり、滝さん自身が理事を務めるパーソンズ・スクール・オブ・デザイン(たくさんのデザイナーを輩出するデザイン総合大学)に多額の寄付金を提供。しかも滝さんは友人である韓国サムソングループの李会長にも寄付を呼びかけました。同校ファッションデザイン学部の名物学部長だったフランク・リゾー氏に直接伺った話では、「トミオの寄付でCADを設置する部屋を確保し、サムソンの寄付でCADの機械を導入できた」。滝さんはカンサイヤマモトのみならず、真珠のミキモトや韓国のサムソン、アパレル企業45RPM(現45R)などが海外進出する際にアドバイザーあるいは社外取締役として陰でいろんなサポートをされていますが、顧問料などの報酬は受け取っていません。ダナキャラン上場時もパーソンズに多額の寄付、なかなかできることではありません。だから米国のデザイナーやファッションブランドは太っ腹な滝さんに支援やアドバイスを求めて多数集まります。以前このブログで触れたジャンポールゴルティエ、無名のデザイナーを発掘したオンワード樫山は長期間パリコレ人気ナンバーワンの地位をキープする絶対的クリエイターに成長するまでサポートしました。が、そのブランドビジネスでしっかり果実を得たかと言えば、答えはイエスではないかもしれません。一方、タキヒョーUSAのダナ・キャランは最終的に株式を上場して創業者利益をデザイナーと共有、確実に果実を手にしました。世界市場を相手に最も成功した日本資本のブランドビジネス、海外で上場まで進められたのはタキヒョーUSAのダナキャランだけでしょう。私自身も滝さんからいろんなことを学びました。「商社に丸投げしちゃいかんよ」、家業を継ぐ前に総合商社で修行した滝さんですから商社の価値や役割は十分ご存知、仕事を丸投げして自分たちが楽をしてはいけないと何度も忠告されました。価格設定に関しても、単純に原価の積み上げ計算で小売上代を決めてはいけない、市場で競合ブランドの相場を調べてから適正上代を決めるべきとも教わりました。滝さんの東京での定宿はホテルオークラ、ここに朝食ミーティングやランチで度々呼び出され、ディナーもよくご一緒しました。朝のラッシュアワーでびっしょり汗をかいてオークラに駆けつける朝食ミーティングは正直辛かったです。また、お世話になっているのが当方なのに食事代はいつも滝さん負担、申し訳なくてこれもちょっと辛かったです。滝さんの人柄を示すエピソードを。のちにセオリーやユニクロで活躍する佐々木力さん(通称リッキー・ササキ)とのことです。初期のタキヒョーUSAの駐在員だったリッキーは滝さんの薫陶を受け、次にタキヒョー香港に転勤しましたが、現地である程度の商圏をもらって独立。一般的なオーナー経営者であれば、自社の商圏を持って独立する社員を敬遠あるいは警戒するでしょうが、滝さんはリッキーに独立資金の援助をしています。普通では考えられないことです。その後リッキーは香港での成功と失敗ののち日本に活動拠点を移し、米国セオリーの日本導入、ユニクロと組んでのセオリー本体の買収で再び大儲けしますが、2011年癌でこの世を去りました。このとき滝さんは可愛い元部下のため米国に戻るのを延期して連日リッキーの病室を見舞いました。面倒見の良い滝さんらしい話です。コロナウイルス禍で滝さんはしばらく帰国されていませんが、また東京でお会いしていろんなお話を伺いたいです。参照:https://www.takihyo.co.jp/history/ https://www.digital-zasshi.jp/apparel-dictionary/tomio-taki/
2022.09.05
この写真はFEC(日本ファッションエディターズクラブ)賞をいただいた1992年の授賞式にて撮影されたもの、右側がFEC幹事だった文化出版局ミスターハイファッション編集長の執行臣雅臣さん、中央が山本寛斎さん、そして左が私です。私が初めて山本寛斎さんの名前を知ったのは確か大学2年生、NHK「新日本紀行」が原宿の変容ぶりを取り上げ、その番組の中で寛斎さんは異彩を放つ新進デザイナーとして登場しました。デヴィッド・ボウイが寛斎さんデザインの服を着て初来日(1973年)して話題となった前後のことです。カンサイコレクションを初めてナマで観たのは、渡米して2年後の1979年、マンハッタンに新しくオープンする大型ローラーディスコで開催されたショー。モデルが全員ローラースケートを履いてスケートリンクに登場、アニマル柄の強烈な色彩のニットが非常に印象的でした。ニューヨークコレクション初参加のショーは演出もコレクションも大きなニュースになりました。(1992年FEC賞にて)翌年、ニューヨークの百貨店や主要ファッションストアはこの寛斎さんのニットを一斉に売り出し、どこのお店でもすぐに完売するほど消費者から絶大な支持を得ました。のちに私がお手伝いすることになるバーニーズニューヨークでも、虎のモチーフのニットがよく売れました。このことがバーニーズの幹部に「東京は次のリソース拠点としてイケそう」と思わせたと言っても過言ではありません。あの頃、パリ、ミラノコレクションはモンタナ、ミュグレーに象徴される巨大なショルダーの逆三角形シルエットが大きな話題。でもこのトレンドは一般消費者の間で支持されず、ビジネスとしては成功とは言えませんでした。ヨーロッパ買い付け出張で予算を余して帰国するバイヤーが増え、ファッションストアは頭を抱えていたところ、そこへ東洋からの新しい風、東京は未知のリソース都市と期待できそうだ、と。言い換えれば、カンサイヤマモトのニットが爆発的に売れたことで米国バイヤーは東京を意識したのです。そして1981年春、バーニーズニューヨークと、当時その最大のライバルだったシャリバリが新しいリソースを求めて東京にやってきます。バーニーズの創業者の孫ジーン・プレスマンに協力を約束した直後、シャリバリ創業者の息子ジョン・ワイザーからも私は声をかけられました(先にバーニーズと約束したので仲が良かったジョンの手伝いはできませんでした)。パリ、ミラノのデザイナーブランドを大量に導入する2つの競合店がほぼ同じタイミングで動き出した背景には、お店で爆発的に売れる寛斎ニットの存在があったのです。私の松屋入りパーティーでの寛斎さん(右)山本寛斎さんがマジソンアベニューに直営店を再オープンしたとき、私は初めてインタビューしました。このときの発言、いまもはっきり覚えています。寛斎さんは「私の服は、(トップスを)被る、(ボトムを)履く、単純なんです」。ロンドンやパリコレでこれまで発表してきた浮世絵や歌舞伎の派手なプリント柄、デヴィッド・ボウイの奇抜な衣裳からは想像しなかった「単純なんです」、この言葉にびっくりしつつ妙に納得もしました。1985年突如デザイナーの任意団体を東京に作ろうとなったとき、寛斎さんにも設立準備デザイナーになってもらい、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立後は6人の幹事デザイナーに就任してもらいました。その事務局を預かる私は寛斎さんとお話する機会が増え、パルコ劇場でのパフォーマンス、九州・高千穂での屋外大イベントにも呼んでいただきました。が、ちょうどCFD発足した頃から、寛斎さんの関心はファッションデザインにとどまらずイベントプロデュースに向かい、海外でのビッグイベントを仕掛ける場合の資金集めの方法などを話し合う場面が増えました。と同時に、ロシアやベトナムなど海外で大々的なパフォーマンスをプロデュースするうちにファッション業界やメディアの間でファッションデザイナー山本寛斎の存在感が薄れ始め、中には「変人扱い」するようなエディターたちも出始めました。また、寛斎さん自身もパリコレを継続することより別の表現方法で自らのクリエーションを世界に投げかけることに意味を感じ、パリコレ発表をやめました。寛斎さんがロンドンやパリコレでコレクションを発表していた時代のあとに生まれた次世代バイヤーやエディターには関心外の存在かもしれません。第二次大戦後クリスチャン・ディオールが発表したAライン、ディオールから独立したイブ・サンローランのタキシードやモンドリアンなどは強いインパクトを与え、モード史に残るアイコニックな作品として人々の記憶に残りました。デヴィッド・ボウイが着た寛斎さんのつなぎ服もモード史に残る「時代を象徴する1点」と私は思います。が、そのことを知らない業界人があまりに多くて残念です。寛斎さんは数十メートル先から手を振り、お辞儀を何度もしながら歩いてくる礼儀正しい人でした。頂戴するお手紙は何色ものカラーペンを行ごとに替えたカラフルなもの、寛斎さんなりの愛情表現だったのでしょう。いつも笑顔を絶やさず元気いっぱい、でも病に倒れ2020年この世を去りました。ファッションデザインに携わる美術館学芸員の皆さんには、どこかのタイミングでファッションデザイナーとしての山本寛斎の仕事、役割をキチンと顕彰していただきたいです。
2022.09.05
バーニーズジャパン社長だった田代俊明さんが親会社の伊勢丹社長に辞表を出した夜、私はニューヨーク時代から親交のあった三越の山縣憲一さんに声をかけ、田代さんの転職を一緒に祝いました。田代さんと山縣さんが飲むのは初めてでしたが、その後田代さんがグッチジャパン社長に就任したら山懸さんも三越を辞めてグッチに合流、びっくりしました。山縣さんとの最初の出会いは1976年秋、三越本社の立派な応接室でした。翌年大学を卒業したらニューヨークに渡るつもりだった私は夏休みにニューヨークを視察、業界紙に「ブルーミングデールズの周辺」という連載記事を寄稿しました。これを読んだ三越本店次長広報担当の田邊壽さんから編集部に「この記事を書いた記者に会いたい」と連絡が入り、私はスーツにネクタイを着用し学生であることを隠して三越に出かけました。このとき田邊さんが「明日ニューヨーク駐在に赴任する社員がいます」と引き合わせてくれたのが、ニューヨーク駐在オフィスを新設するため渡米する山縣さん、「来年春に私もニューヨークに行くのでよろしくお願いします」と挨拶しました。田邊さんはその後の三越岡田社長事件(取締役会で解任された岡田社長が逮捕された大スキャンダル)ののちに三越を辞めてダイエーグループに移り、初代プランタンジャポン社長、福岡ダイエーホークス球団社長などを務めた方です。半年後私は予定通りニューヨークに渡り、初代駐在員の山縣さんと再会、以降弟分のように可愛がってくれ、数えきれないくらいご馳走になりました。当時の三越駐在事務所の仕事のメインは既にライセンス提携していた米国デザイナー、オスター・デ・ラ・レンタとのコミュニケーションでした。あの頃三越日本橋本店は懸垂幕で「世界三大デザイナー、オスカー・デ・ラ・レンタ」と堂々とうたっていましたから、「三大デザイナーのあと二人は誰なの?」と山縣さんに尋ねたら、「そんなの誰でもいいんだよ」と笑っていました。あの頃こんな大袈裟な表現を百貨店が懸垂幕でうたっても平気な時代でした。山縣駐在員が赴任して1年、三越本社からオスカーに次ぐデザイナーを探せという指令がきました。山縣さんと会食したとき、「うちに合いそうなデザイナーは誰だろう」と訊かれたので、当時イタリア生産のカッコいい高級服を作っていたビル・カイザーマンの資料を届けました。ビル・カイザーマンは米国デザイナーに贈られるCOTY AWARD(現在のCFDA賞が誕生するまでは米国デザイナー賞の最高峰だった)メンズ部門でラルフ・ローレンと並び三度受賞の実績あるビックネーム、婦人服も魅力的でした。それから2ヶ月ほど経過した頃、山縣さんから連絡が入りました。私が推薦したビル・カイザーマンと独占輸入契約の話を進めていたら、他の百貨店が交渉に割り込んできて三越が契約できないかもしれない。「助けてくれ」でした。私はすぐデザイナー本人に電話をかけ、「あなたにとって米国で一番重要な小売店は(クラシックな)サックスフィフスアベニュー、それとも(ファッションで先行する)ブルーミングデールズですか。もしもサックスならば三越でしょ」、と。私の問いに「サックス」と答えたビル・カイザーマンはすぐ社内会議を開き、その日のうちに三越との契約を決断しました。次に山縣さんが取り掛かったプロジェクトは三越ニューヨーク店のオープンでした。家賃の高いパークアベニュー東57丁目角に、古伊万里など伝統的な工芸品を販売するギャラリーのような売り場と高級和食レストランを開設、富裕層ニューヨーカーに人気がありました。バーニーズニューヨークに日本ブランドのコーナー「TOKYO」をオープンするとき、これを手伝っていた私は山縣さんにお願いして三越レストランを借りきり、ヴォーグ誌やニューヨークタイムズ紙など主要メディアの編集者を招待してバーニーズは導入日本ブランドのミニショーを催しました。米国ファッション流通業界で「東京ブーム」が起こるきっかけはこのミニショーでしたが、まだコムデギャルソンは無名、「コメデスギャーコンズのデザイナーは男性、それとも女性?」と質問されたことを覚えています。このときわざわざ日本から来てくれたのがニコルの創業デザイナー松田光弘さん。松田さんは米国編集者たちの歓迎する眼差しを実感し、マジソンアベニューに直営店を開き、ニューヨークコレクションに参加することを決めました。商標登録の問題があったので「ニコル」は海外では「マツダ」として販売が開始されました。このあと帰国命令を受けた山縣さんは本社の婦人服部門に配属されますが、このミニショーで披露したニコルなどデザイナー企業の幹部たちと山縣さんとの密な交流が始まります。日本ではD C(デザイナー・キャラクターブランド)ブームの幕開け、三越も日本の新興ブランドの導入を計画、帰国した山縣さんはその中心人物でした。が、デザイナー企業にとって三越は老舗コンサバイメージ、積極的に出店しようとは考えてくれません。山縣さんは自らデザイナー企業に乗り込み、交渉相手の役員たちが揃う会議にも同席して交渉しました。外出続きの山縣さんは三越の上層部から「どうしておまえが出向くのか」と言われたそうです。長く百貨店の雄だった三越は取引先が訪ねてくるのが常識、三越から出店のお願いに出向くなんて構図はあり得なかったのでしょう。「そんなこと言っていたら誰も取引してくれません」、上司の発言を無視して山縣さんは奔走、徐々にブランド企業の幹部の間で山縣さんを信頼する人が増えて三越にもD Cブランドが導入されました。ブランド企業幹部の中には三越健保組合の指定病院を山縣さんに紹介してもらって人間ドックに通っていた人もいたくらい、いつの間にか信頼関係はかなり強いものになりました。山縣さんが三越傘下のパロマピカソジャパン社長になったとき、私は松屋のシンクタンク東京生活研究所の所長。三越銀座店と隣同士の松屋に三越傘下ブランドを導入することはできませんが、松屋浅草店での展開をお願いしました。山縣さんは「おまえには世話になっているからなあ」と出店してくれましたが、その事情を知らないピカソジャパンの部下が通勤時に松屋浅草店のウインドーを見て「大変です、松屋浅草に偽物が飾ってあります」と報告。部下にすれば三越ブランドが松屋で展開なんてあり得ない話なので偽物と思ったのでしょう。山縣さんが笑いながら教えてくれた話です。グッチジャパンを経てロロピアーナジャパン社長、海外ファッションブランド協会の会長を務め、山縣さんは第一線から身をひきました。私にとっては数少ないアニキです。海外ファッションブランド協会2013年新年会の山縣さん(右端)お詫び:出会ってから46年、考えたら名刺交換したことがなく、私は山縣さん の苗字を「山懸」と信じて年賀状もやりとりしてきました。 どうやら私の誤解、「山縣」が正しい表記でした。
2022.09.05
1981年4月、私はバーニーズニューヨークのジーン・プレスマン副社長(創業者の孫、のちに3代目社長に就任)とメンズバイヤーのマイケル、レディースバイヤーのキャロルを連れて東京にきました。秋に設置予定のジャパンブランドを集めたショップ「TOKYO」の買い付けが目的でした。当時バーニーズニューヨークはマンハッタン7番街西17丁目に1店舗のみ、売上は日本円換算150億円弱でしたが、ジョルジオアルマーニと独占販売契約を結んで米国市場で広めた大型ファッションストアとして有名でした。ところが、日本のショールームを回って来日の趣旨を説明しても、ほとんどのブランド関係者はその存在すら知りません。バーニーズが米国市場でどういうポジションにいるのか、また決済方法の「レター・オブ・クレジット」はいかに出荷側にリスクがないかを説明してからでないと発注できませんでした。次の来日のときは、滞在中のホテルの部屋を借りてリビング雑貨の責任者でもあるジーンの母親がホステスとなってバーニーズを知ってもらうための小宴を開いたくらいです。東京でバイイングをするうち、ジーンは買い付けのほかに自社プライベートレーベルとして立ち上げたカジュアルブランド「BASCO」(バーニーズ・オールアメリカン・スポーツウエア・カンパニー頭文字をブランド名に)の契約先発掘と、バーニーズそのものの日本進出を手伝ってくれるパートナー探しを頼むと言いました。でも、前者は商社に依頼すべき、後者は難しいと思うよ、と返事しました。BASCOは伊藤忠ファッションシステムの仲介でラングラージャパンと提携できましたが、バーニーズの東京出店は諦めたと思っていました。ところが私が帰国して4年後、バーニーズニューヨークは伊勢丹との業務提携を発表、伊勢丹が巨額の出資(確か日本円換算640億円)で米国内の多店舗化をサポートし、これとは別に日本にもお店を開くと知りました。そして1990年新宿にバーニーズがオープン、ニューヨークから派遣されたのはあのメンズバイヤーのマイケルでした。オープン日にマイケルは私に「ニューヨークよりもいい店ができたと思わないか」と胸を張っていましたが、新宿店はニューヨークよりもファッション店らしい雰囲気が漂っていました。が、のちにバーニーズニューヨークは米国で多店舗化を急いで経営破綻、出資者の伊勢丹にとんでもない迷惑をかけ、プレスマン一族は会社を追われました。その後バーニーズは投資ファンドなどの手に渡り、結局二度目の破産申請で消滅しました。現在日本法人(こちらも伊勢丹の手から離れ、現在はセブン&アイ傘下)は営業を続けています。ニューヨークから派遣されたマイケルと闘いながらなんとかバーニーズ日本1号店を立ち上げたのは、伊勢丹シンガポール店での経験がある田代俊明さんでした。田代さんは本国の社長になったジーンや東京駐在のマイケルから私のことを聞いていたからでしょう、よく声をかけてくれました。CFD時代東京コレクションが閉幕すると、田代さんは慰労会を開いてくれました。その席には片腕だった有賀昌男さん(現在エルメスジャポン社長)、野本洋子さん(のちに伊勢丹研究所ディレクター)、高橋みどりさん(のちにエストネーション立ち上げ)らが同席。バイヤーの野本さんのアシスタントが若き藤巻幸夫さん(のちに福助社長、参議院議員)です。また、日本人で初めて米国高級店バーグドルフグッドマンのヴァイスプレジデントになり、そのあとユニクロ役員になった勝田幸宏さんもキーメンバーでした。田代さんはバーニーズ側が言う「オープン・トゥ・バイ」が理解できず、ジーンとマイケルとよく口論したそうですが、日本の百貨店マンには商習慣が違うので一見無計画な発注に映るオープン・トゥ・バイが呑み込めません。パリやミラノの展示会場ではよく喧嘩したと聞きました。が、この経験はバーニーズジャパンに関わった人々の血となり肉となったのではないでしょうか。横浜店の建設を計画しているとき、恵比寿にあった某イタリアンレストランと出店交渉していた田代さんはお店に通い続けましたが、レストラン側の資金的事情もあって夢はかなわずでした。田代さんはいつものメンバーで恒例の東コレ慰労会をここで開いてくれましたが、このとき店主がグラッパのボトル数本をテーブルに並べ「どうぞ好きなだけ」とサービスしてくれました。田代さんと私は調子に乗ってサービスのグラッパを大量に飲み、お店を出るときは完全に足をとられ立っていられなかった思い出もあります。東京コレクション直後の真面目な話もひとつ。モデル4人の非常に小さなフロアショーでデビューしたNデザイナーのことを私が絶賛したら、野本バイヤーがショールームに飛んでいってショーのサンプルまで買い付けました。その年毎日ファッション大賞新人賞に決まったNデザイナーはサンプルが足りず授賞式でのショーをすることができなくなり、毎日新聞社がサンプル制作費を提供したなんてこともありました。田代さんが伊勢丹の小柴社長に辞表を提出したちょうどその日、電話をもらいました。その夜スケジュール調整が可能だったので、荒木町の割烹店で合流、もう一人呼ぼうじゃないかとニューヨーク時代から親交のある三越の山縣憲一さんを誘いました。「で、今度はどこに行くの」と私が質問したら、「まだ内緒」と田代さん、でもピカピカGマークのバックルベルトにGマークのネクタイだったので想像はつきました。ただ、このとき紹介した三越の山縣さんまでが田代さんと一緒にグッチジャパンに移籍するとは想定外でした。伊勢丹はバーニーズへの出資で大きな火傷をしましたが、田代さんを筆頭にバーニーズジャパンは多くの優れた人材を輩出しました。言い換えれば、授業料は高かったけれど、日本の流通業界で活躍する人材育成プログラムではなかったかと思います。写真:発祥の地7番街に新店をオープン、しかしその後に再び倒産。参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/バーニーズ・ニューヨーク
2022.09.05
6月8日、南青山のスパイラルガーデンで始まった「ミントデザインズ大百科」展にお邪魔しました。英国セントマーチンズ校出身の勝井北斗さんと八木奈央さんがブランドを設立して20年周年、それを記念してのアーカイブ展です。ミントデザインズで思い出すのは2008年サンパウロ・ファッションウイーク。日本人がブラジルに移民開始してちょうど100年、ブラジルではいろんな式典やイベントが行われました。皇太子様(現・天皇陛下)がブラジル国会で祝辞を述べられたのも、ファッションウイーク期間中のことでした。サンパウロ・ファッションウイーク主催者が掲げたシーズンテーマは「モッタイナイ」、日本とサステナビリティーを訴求するものでした。大きな見本市会場には回転寿司のベルトにビーチサンダルや婦人靴を乗せたブースや、鶴の折り紙形状のプラスチックチェアーを並べたブース、忍者「くの一」のユニホームを着た女性スタッフがここで搭乗手続きをしてくれる航空会社ブースもあり、アイディアいっぱい、楽しくてかっこいい会場でした。このときセミナー講師としてパリから招待されたのが世界的デザイナー高田賢三さん、ゲストデザイナーとしてファッションショーを行ったのがミントデザインズ、私も討論会のパネラーとして招待されました。賢三さんと咳を並べてミントデザインズのショーを観ていたら、賢三さんがポツリと「日本もいい若手が出てきましたね」、と。このときからミントデザインズのショーや展示会を見るたび、あのときの賢三さんの言葉を思い出します。私が初めて「ケンゾー」の名前を知ったのは1974年、私はまだ大学生でした。IWS(国際羊毛事務局)のセミナーで広報官がサンプルを見せながら「パリコレで人気急上昇なのはクロエとケンゾー」と解説。当時のクロエはカール・ラガーフェルド、ケンゾーはもちろん高田賢三さん。ファッション界のワールドカップのような場で日本人デザイナーが脚光を浴びているとは夢のような話でした。1977年大学卒業してニューヨークに渡った私にケンゾーのことをよく話してくれたのが、同年春のファッションウイークでデビューし、すぐに時代の寵児となったペリー・エリス。彼はデザイナーになる前は地方百貨店の婦人服バイヤーでしたが、「アメリカのバイヤーたちはケンゾーの素晴らしさを正しく理解していない」といつも言っていました。この頃賢三さんはパリコレ人気ナンバーワン、間違いなく世界のトレンドセッターでした。私は全盛期の賢三さんとは面識がなく、会話を交わしたこともありません。賢三さんはパリ、私はニューヨーク、接点はありません。じっくりお話できたのはあのサンパウロ・ファッションウイークが初めて。5日間毎日ディナーは賢三さんと広報の鈴木三月さんと一緒、ディナー時のやりとりで多くの業界人が賢三さんのことを大好きな理由、みんなが手を差し伸べたくなる理由がはっきりわかりました。モードが熱く燃えていた時代を牽引した実績ある大デザイナーですが、非常に謙虚で優しい人柄、ライバルたちのこともちゃんと評価して悪口を言わない、実に魅力的な方でした。現地で成功している日系人の邸宅に招かれたとき、私たちと同じテーブルにブラジルの元経済産業大臣と奥様が着席。その奥様が「最近あなたのコレクションの色使いは以前とは少し違って明るさがないように感じますが」と発言すると、賢三さんは申し訳なさそうな表情で「いまは他のデザイナーがデザインしていて、私ではないんです」。この説明に夫人は納得されていましたが、そのやりとりを横で聞いていたご主人は「だったらここにいるブラジル人の資本でブランドを再出発すればいい。相談に乗りますよ」。日本人でなくても応援したくなるキャラクターなんですよね。セミナーでは、デビュー時のブランド名「ジャングルジャップ」を「ケンゾー」に変更した経緯を説明、「移民で苦労された日系人の方々には本当に申し訳ありませんでした」とお詫びされていました。ブティックの物件は確保できてもインテリアデザイナーに空間演出を頼む資金はなく、大好きなアンリ・ルソーのジャングルの絵を自ら壁に描き、ゴロが良いからと単純にショップ名を「ジャングルジャップ」にしてしまった、と。私もブランド名変更の経緯を初めて知りました。ネット検索すると確かに賢三さんがショップの壁にルソーの絵を描き上げた写真が出てきます。2018年帰国時のツーショットサンパウロ後ニュースが2つ入りました。1つはファッション業界ゆかりのサントノーレ通りの一方通行を賢三さん運転の車が逆走、賢三さんが逮捕された話。パリに住んで半世紀近いというのにうっかりだったんでしょう、賢三さんらしいです。すぐ釈放されて良かった。もう1つは韓国企業が契約不履行で賢三さんを訴えたニュース。賢三さんは人を騙したりプライドが高くて不義理をするような人ではありません。両者の間に入っている会社の手続きミス、あるいは何か誤解が生じたのではと私は思います。賢三さんはこれまで人をすぐに信用して何度も騙されてきました。だからサンパウロでは「あなたは有名人だから寄ってくる人が多い、もっと警戒しないとダメですよ」とディナーの席で毎晩申し上げました。その後も東京でお会いする機会は何度もありました。一般的なブランド回顧展ではなく、若いデザイナーや学生さんを巻き込んで未来志向の高田賢三展をやりましょうと話し、出身校である文化学園の大沼淳理事長に提案したことがあります。文化服装学院の学生たちが賢三さんのアシスタントデザイナーとなってコレクションのデッサンを描き、パターンを組み立て、生地を調達し、実際にサンプルを創作、ここで賢三さんの講評を受けるカリキュラムを編成できないでしょうか、と相談に行きました。文化出版局はケンゾーコレクションの記録写真をたくさん保存しています。賢三さん本人に代わってケンゾーについて解説できる文化の先生、出版局の編集者は何人もいらっしゃいます。資料館にはアーカイブコレクションもかなり保管されているはず。これらを全て活用し、特別カリキュラムで製作した作品とそれに対する賢三さん本人の講評を一般公開しましょう、と提案していました。しかしながら、2020年10月に高田賢三さん、翌11月には大沼淳さんが相次いで逝去され、結局私の提案は実現することはありませんでした。賢三さんは家具、インテリアデザインの新会社を立ち上げ、ファッションとは別分野でクリエーション活動を進めていました。新型コロナウイルス感染で亡くなるとは、ご本人が一番悔しいでしょうね。
2022.09.05
学生時代から多くの業界リーダーたちにチャンスをもらい育ててもらった私、次世代を育て恩返しするのは使命と思ってこれまでいろんな人材育成を手掛けてきました。米国から戻って最初に手掛けたのはCFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立1年後の1986年から始めた私塾「月曜会」。会場はCFD事務局の会議室、毎週月曜日の夕方開催するのでこの名称に。授業料は無料、社会人は職種を問わず、学生も専門学校、一般大学を問わず受け入れました。学校、職場で繊研新聞を読んでいる人は多いでしょうが、夏休みに募集記事を掲載してもらえば自宅購読でなければ気がつかない。繊研新聞くらい自腹で読んでいるような若者を集めたかったのです。いろんな人が集まってきました。当時まだ武蔵野美術大学の助手だった松村光くん、のちにベストセラー商品BAOBAOのバッグを手掛けました。東京オリンピック聖火デザインでも話題になった吉岡徳仁くん、毎回受講感想文は普通の文章でなく自作の詩を書いてきました。文化服装学院学生でブランド「オブジェスタンダール」を立ち上げ、ワールド「アンタイトル」の企画も担当した森健くんや、ファッションイベントプロデュース会社「ドラムカン」を起業した田村孝司くんも受講者。他にも小売店や素材メーカー、アパレルメーカーやデザイナーブランドで働く若者たち、それぞれ現在は所属企業のキーマンです。講義は私自身のほか、CFD会員デザイナー、ファッション雑誌編集長、ショー演出家、デザイナーブランドや大手アパレルメーカー幹部、百貨店幹部をゲストスピーカーにお招きしましたが、ゲスト講師の話に感動してその会社に就職した学生もいました。そんな中に文化服装学院の学生だった内村寛治くんがいます。彼は私が審査員をしていた某ファッションコンテストに応募、一般市民の投票では第一位でしたがファッションデザイナーら専門家で構成する選考委員会では各賞に名前すら上がりませんでした。後日月曜会で内村くんから「どうして評価が低かったのでしょうか」と質問されました。「残念ながらきみの作品を別のモデルさんが着ていたら全体のバランスが保たれて結果は違っていただろうね。単純にパターンが悪いと講評した審査員に見る目がなかったんだよ」。翌年から、私はこのコンテストの審査員を断りました。他のファッションコンテストでも学生に「もっとパターンを勉強してください」と発言するデザイナーさんは少なくありませんが、「ご自分のコレクションのパターンは大丈夫ですか?」と言いたくなるケースはよくあります。その内村くんが文化服装学院を卒業してから「仲間のデザイナーたちと一緒に八王子で展示会を開くので見にきてくれませんか」と連絡が入りました。八王子では前項「ミモザ賞」で触れた地元織物会社みやしん宮本英治社長が目をかけ、無名の新人たちに発表のチャンスを提供していました。塾生だった内村くんがどのように成長したのかを確認しようと、私は都心から離れた八王子の会場に向かいました。ここで内村くんたちと一緒にコレクションを出展していたのが本格デビュー前の皆川明さんでした。ブランド名は現在の「ミナ ペルホネン」の前身「ミナ」ではなかったと思います。皆川さんは文化服装学院卒業後アパレル関係の会社やデザイナー企業には就職せず、八王子のみやしんで働いて織物の基礎をしっかり学んだレアなデザイナーです。私は展示会でサンプル服を手にするとき、ハンガーラックからハンガーにかかった服を引っ張り出してその重量と布のオチ具合を必ずチェックします。このとき若き皆川さんに言ったのは、「服が随分重いね」、次に「男くさいね」(男性デザイナーが作ったとはっきりわかるという意味)でした。その後ミナのコレクションで「男くさい」と感じたことは一度もありませんけど。25年後の2019年皆川さんが「つづく展」を東京都現代美術館で行なったとき、こんな手紙をいただきました。「宮本英治さんのもと若手デザイナーが集まり太田さんに服を見て頂く機会がありました。私の稚拙な服へも的確で気づきの多い言葉をいただきその後の私の指針をつくってくださいました」。あのときの若者から四半世紀後にこんな手紙をいただくとは、読んだ瞬間私は目頭が熱くなりました。これまでの長いキャリアの中で、最も頻繁に展示会に足を運んだブランドは「ミナ ペルホネン」。お邪魔するたび感じるのは、ミナの展示会は他のファッションブランドのそれとは違ってバイヤーらが服を見る目が非常に穏やか、会場には平和な空気が流れている、と。皆川さん自身のキャラクター、ブランドの持つ不思議な世界観がそう感じさせてくれるのでしょう。毎シーズン展示会では皆川さんから新しく開発した素材、その制作過程の説明をしていただきますが、「こんな手の込んだ素材、本当に量産できるんだろうか」といつも思いますし、サンプルに付いたプライスを見て「こんな価格でできるんだ」と素材生産者や皆川チームの思いと努力を実感します。ミナ直営店ではセールをしません。余った生地を廃棄処分することもありません。余りが出れば服以外のアイテムに使う、あるいは生地のままお客様に販売します。サンプル反をあれこれ織物工場に作ってもらってシーズン終了後にバーンと廃棄するブランドとは違いますし、トレンドに合わせてデザインを変え産地を変えるなんてことはせず、同じ工場に継続的に仕事を出します。工場にしっかり独自のものづくりを続けてもらうためです。昨今SDG’sは業界全体の目指すべきテーマでしょうが、ミナは最初からものを捨てない、トレンドに左右されない、職人を大事にするSDG’sそのもののブランド、織物工場で仕事した経験があるからでしょう。たまたま教え子のデビュー視察に出かけた展示会で出会った新人デザイナーと四半世紀も付き合いが続き、私が設立に関わったIFIビジネススクールを卒業した甥っ子がどういうわけかそのデザイナーの会社に就職していた。なんとも不思議なご縁です。写真:東京都現代美術館「つづく展」参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/皆川明
2022.09.05
前述ジャンポール・ゴルティエを発掘した中本佳男さんから伺ったたくさんの話の中で特に印象に残った1つにオンワード樫山創業者の樫山純三さんとのエピソードがあります。中本佳男さん樫山さんのパリ出張、駐在オフィスから中本所長と部下がシャルル・ド・ゴール空港に出迎えに行ったら、創業者は「君たちはそんなに暇なのかね」と。自分でタクシーを拾うので今後出迎えは無用とおっしゃった。さすがです。パリのオフィスに案内してお茶を出したら、今度は「君たちは普段からこんな良いお茶を飲んでいるのかね」。日系の海外駐在オフィスならどこも日持ちする日本土産のお茶、羊羹、煎餅、あるいは梅干し、昆布佃煮は在庫過多状態、土産の玉露は毎日使っても底をつくことはありません。でも、樫山さんは贅沢を戒めたのでしょう。 樫山純三さん樫山さんはオンワード牧場を創設、オーナーブリーダーとして競走馬を育てたことでも有名。単なる馬主ではなく、馬を生産し、牧場で育て、馬主としても登録する本気のホースマンでした。桜花賞、オークスを勝った牝馬や天皇賞、有馬記念を勝った牡馬など名馬も送り出し、フランスではダービー馬の馬主です。1972年持ち馬ハードツービートがフランスダービーを優勝したときだったか、それとも翌年凱旋門賞で3着になったときだったか。パリ郊外の競馬場で樫山さんが駐在員の小型車に乗り込んだところを目撃した記者団は、馬主は外の駐車場で大型リムジンに乗り換え戻ってくるから取材はそのときと考えました。ダービー馬の馬主が小型大衆車に乗って競馬場に来るとは誰も思いません。しかし、樫山さんはそのまま小型車で帰ってしまい、記者団は馬主インタビューできませんでした。1974年、樫山さんは姻戚関係でもない、役員に昇進したばかりの馬場彰さん(38歳)に社長をバトンタッチ、世間をアッと言わせます。そして、所有する自社の株式や不動産など私財(確か時価総額200億円以上だった)を提供、1977年人材育成のために樫山奨学財団を設立しました。また、番頭だった杉本一幸さん(代表取締役副社長)も3年後の1980年故郷の奈良県大淀町に杉本教育財団をつくり、町立杉本記念文化センターが奈良県の山奥に誕生しました。生家が貧しかった杉本さんは大学に進学できなかったので地元の子供たちのためにと増資でかなり膨らんだ自社の持株を処分、20億円を財団に提供しました。設立20年以上経過してから私は杉本さんに伺いましたが、さも当然のことをしたって表情に感動したことを覚えています。創業時から会社が急成長して持株が増えたとは言え、創業者も番頭さんもそれぞれ人を育てる社会貢献、誰にでもできることではありませんよね。さて、オンワード樫山がそもそもジャンポールゴルティエ事業を立ち上げた背景に触れます。樫山純三さんは中本さんに、「うちも大きな会社になったので、そろそろヨーロッパでビジネスを始めたい。SEHM(当時ヨーロッパで有数のメンズ見本市)に出展する」と指示を出しました。SEHMはそれなりにキャラクター性のあるメンズブランドを集積した見本市、当時海外では無名の日本企業が普通のビジネススーツを並べても話題になることはまずありません。そこで、中本さんは来場者にせめて会社の名前くらいは覚えてもらおうと、SEHMのブースでシャンパンのボトルを山積みしてバイヤーらに振る舞いました。シャンパンは来場者にたくさん飲んでもらえたものの予想通り注文はゼロ。帰国して厳しい結果を報告したら、樫山さんは「紳士服がダメなら次は婦人服でどうだ」。本業の紳士服でも難しいのに後発の婦人服ではもっと難しいと反論した中本さんに対し、「じゃあどうすれば婦人服で市場を開拓できるんだ」。フランス人の生活価値観を理解したフランスのデザイナーを起用する以外に方法はありませんと答えたら、樫山さんからフランスのデザイナー採用命令が出ました。パリに戻った中本さんはさっそく仲の良い現地ジャーナリストやスタイリストに若手デザイナー情報をもらい、30人以上の面接を行って起用デザイナーをほぼ決めていたところ、最後の最後に飛び込んできたのが20代半ばのジャンポール・ゴルティエでした。当時のパリはケンゾー風、クロードモンタナ風、ティエリーミュグレー風が蔓延、若手デザイナーはその影響を強く受けていました。しかし、最後に面接にきたゴルティエは誰にも似ていないデザインをプレゼン、中本さんは「これだ!」と閃きました。1977年、ゴルティエが企画したコレクションはサンジェルマン・デ・プレ教会の向かい側のお店で販売開始されました。このショップの真ん前にバス停留所があったのでショップ名は「バスストップ」、のちにオンワード樫山は複数の海外ブランドを集めたセレクトショップ「ヴィアバスストップ」を日本全国で展開したのはご存知の通りです。創業者が「海外市場でも売りたい」と漏らしたことから、パリ駐在所長が無名の若きデザイナーを発掘、本社も多額の資金援助をしたことでゴルティエは不動の世界的人気デザイナーに成長、オンワード樫山は各国の若手や新人デザイナーが支援を求めて集まる会社になりました。米国マーク・ジェイコブスも、パーソンズ・デザイン学校卒業後就職した会社はオンワード樫山USA社、ミラノのドルチェ&ガッバーナも創業期はオンワード樫山の多大なサポートを受けていますから、世界のファッションデザイン界への貢献度はかなり高いです。中本さん写真はミラノ在住ジュエリーデザイナー小川健一さんSNSより抜粋参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/樫山純三
2022.09.05
渡米した1977年の春、ニューヨークのファッションウイークでは新星ペリー・エリスが現れました。これとほぼ同じタイミング、パリではジャンポール・ゴルティエが登場、シーズンを重ねるごとに評価はグングン上がり、20世紀後半の世界のファッションシーンにおけるスーパースターに成長しました。ニューヨークにいた私にパリ情報は断片的にしか入らず、この若き天才クリエイターのブランドがどうして日本の大手アパレルメーカーから発売されたのか不思議でした。最初に売り場で見たコレクションの織りネームは、太文字ゴシック調フォントのKASHIYAMAのロゴの上にJean-Paul Gaultierのサインでした。大きなビジネスを市場展開する大手アパレルが超個性的な、着る人を選ぶ服を創作するデザイナーをデビューさせる、どう考えても異例の組み合わせでした。フランスのファッション専門紙ジャーナルドテキスタイルは毎回コレクションシーズンが終わると各国小売店のバイヤーや新聞雑誌エディターに投票させ、半年後の紙面で評価ランキング上位ブランドを発表しますが、ゴルティエがその地位を固めて以降バイヤー部門では四半世紀50シーズンのほとんどが第一位。この業界紙がブランドランキングを開始してから今日まで、トップの座をこれほど長くキープしたデザイナーはほかにいません。そんなファッション界のスーパースターをデビューさせたのが日本の大手企業とはイメージがわかず「不思議だなあ」でした。その謎はパリで解けました。あれは1983年秋パリコレのときだったでしょうか。ギャラリーヴィヴィエンヌの一画にゴルティエのモダンな大型直営店がオープン、このときオンワード樫山パリ駐在所長の中本佳男さんと初めてお会いしました。新ショップのオープニング、周辺エリアは車両進入が規制され、道には多くの大道芸人が好き勝手に演じ、ギャルソンがシャンパンやおつまみを運ぶ。招待客は数千人はいたでしょう。ホスト役のゴルティエ本人は派手なスカートのセットアップ、中本さんは古風な紋付き袴でゲストを迎える。これまで経験したファッション界のイベントの中で最もスケールの大きな、最も楽しい、そしてゲストのみんなが笑みを浮かべる素敵なパーティーでした。中本佳男さんこのパーティーの直前だったか直後だったか、中本さんとサシでご飯を食べました。このとき、ずっと不思議に思っていたことの答えが見つかりました。日本の大手アパレルと稀代のクリエイターの組み合わせは、クリエーションを受け止められるインターナショナルなビジネスマンが存在したからだ、と。もしも中本さんでない普通の日本人駐在員であれば、当時パリで絶大な人気を誇っていたケンゾー、モンタナ、ミュグレーなどほかの誰にも似ていないスケッチを見せに来た若者を恐らく採用しなかったでしょうね。(中本さんは確かミュンヘン大学、トリンプ本社勤務を経てオンワード現地法人に転職)このサシご飯で私は中本さんの熱烈ファンになりました。以降、パリコレ出張に行くたび中本さんに時間を作ってもらい、たくさんのアドバイスをいただきました。言い換えれば、「パリコレにいくたびに会う」ではなく、「中本さんに会うためにパリコレに行く」でした。パリにはデザイナーのクリエーションを受け止める素晴らしい日本人ビジネスマンがいるよと伝えたくて、東京でセミナーを企画し、わざわざ中本さんを招聘したくらいですから。中本さんにはたくさんの刺激をもらいました。ゴルティエを起用したそもそものいきさつ、ゴルティエと一緒に付属と縫製仕様書を工場に出した創業期のエピソード、パリコレ参加し始めた頃の資金不足と仲間を説き伏せて特設テントを割り勘にした話、ゴルティエ電車を仕立ててその中でショーをやろうとした話、新店オープンするかわりにパリ市内の売り場を大幅カットしたことなど、「へぇー」ばかりでした。一番印象に残っているのは、ブランドビジネスは市場の中でどう位置付けすべきか、でした。クリエイティブなブランドは生地値や縫製工賃を抑え小売価格を下げようとはしない。クリエーションを商品化するためデザインに相応しい生地を選び、手のいい工場で縫製すれば当然小売価格は上がる。商品に袖を通し、価格を見て、「高い」と思う人は買わなきゃいい。世の中すべての人に着てもらおうなんて考えたら失敗する。一般的アパレルブランドの3倍の値段をつけたっていい。そのかわりお客様に3倍満足感を提供できなければ話にならない。そう言われた翌日、ゴルティエ新店で中本さんが選んだメンズジャケットに袖を通したら、身体がとろけるような上質感、まるでオーダーメードでした。ゴルティエは単にデザインがユニークなだけじゃない、パターンも縫製仕様も半端ない、だから値段は高い、と実感しました。通常のアパレル企業が原価積み上げ方式で小売価格を決めているのとは別のものさしでものの価値を決める、度胸と自信とクリエーションがなければそんなことできません。そんな話を会うたびに熱く意見交換、東京ファッションデザイナー協議会でデザイナー諸氏をサポートしていた私には非常に刺激的でした。その後オンワード樫山を離れ、リボンの木馬のパリ進出をサポートし、次に自分自身のブランドから離れた高田賢三さんの相談に乗り始めたところで不運が待っていました。短期帰国中に癌が発見されて入院、パリに戻ることなく都内の病院で亡くなりました。帰国なさった直後「ご飯食べましょう」と電話で約束したまま、実現することなく訃報に接しました。日本のファッションビジネスにとって大きな損失と思いますし、これまで私が出会った日本人ビジネスマンの中で最もカッコ良かった方でした。写真(下)2019年秋、来日したゴルティエ氏。 「パリ開店のときあなたはスカート、中本さんはきもの姿 でしたね」と声をかけました。
2022.09.05
東京コレクションを主催する東京ファッションデザイナー協議会を始めて3年後1988年の2月、夢の中に突然鯨岡阿美子さんが現れ、「あとはよろしくね」と声をかけられました。この不思議な夢の数時間後、オフィスに入るやいなや鯨岡さんの訃報が届いてびっくり仰天、すぐ六本木のご自宅に弔問に出かけました。その半年前にも、選考委員長をされていた毎日ファッション大賞の改革構想を伺ったとき、「私は来年退任しますから、あとはよろしくね」と言われました。きっと直接遺言を届けにいらっしゃったのでしょう。ニュートラルな立場で協議会運営をしなければならない私、デザイナー個々の仕事の良し悪し、クリエーションについて公の場であれこれ発言したくありません。発言が漏れたら会員デザイナーに恨まれるに決まっていますから、賞の選考委員なんぞ受けたくありません。しかし、親友である毎日新聞の市倉浩二郎編集委員から「クジラさんの遺言だから引き受けろ」と説得され、その年から百貨店に移籍する1995年までの7年間ファッション大賞の選考委員を引き受けました。ファッション業界の大功労者であり、ファッション大賞の選考委員長のまま亡くなったのですから、市倉さんと鯨岡さんの名前を残そうと、「鯨岡阿美子賞」の新設を提案しました。しかし、公共性の高い新聞社が元記者の名前をタイトルに賞を作ることはありえないとネガティブな反応。ただ、もしも毎日新聞社と無関係の人が奔走してファッション業界を取りまとめ、設立基金を集めることができたら考えなくもないと聞いて、私は設立発起人となり鯨岡さんと親交のあった方々に呼びかけました。2年後の1990年、ファッション業界の功労者を対象にした鯨岡阿美子賞はスタートしました。私が初めて鯨岡さんの活躍ぶりをこの目で見たのは1976年秋、経団連ホールで開催されたファッションビジネスのパネルディスカッションでした。パネラーは通商産業省繊維製品課長の福川伸次さん(のちの事務次官)、東レ繊維事業本部主幹の遠入昇さん(のちの鐘紡副社長)、ヴァンヂャケット社長の石津謙介さん、女性だけの業界団体ザ・ファッショングループ日本支部長でアミコファッションズ代表の鯨岡阿美子さんでした。翌春大学を卒業したらニューヨークに移住するつもりだった私は夏休みを利用してニューヨークのリサーチに出かけ、現地で見たこと聞いたことを「ブルーミングデールズの周辺」と題して連載記事を業界紙に寄せました。連載に書いた「優秀なマーチャンダイザーはデザイナー以上の報酬を得ることもある」がたまたまこの討論会で話題となったので、このときのことははっきり覚えています。業界リーダーの男性陣を圧倒するくらいの迫力で「デザイナーをもっと尊重すべきです」と鋭く発言する鯨岡さんはウーマンリブの闘士さながら、正直言って「おっかないおばさん」でした。9年後の1985年春、ひょんなことから東京ファッションデザイナー協議会を設立のため帰国することになった私は、協会の運営方法などを教えてもらうため渋谷のアミコファッションズを訪ねました。4時間を超える長時間、大先輩からはデザイナー社会のこと、各メディアとのスタンス、役所との距離の取り方、アパレルメーカー団体とのすみ分けなど、ほかではなかなか聞けないことを伝授されました。優しい眼差しと語り口、丁寧でわかりやすい説明、「おっかないおばさん」ではありませんでした。その後もご主人の古波蔵保好さん(評論家、元毎日新聞社論説委員)と共に何度も会食する機会をいただきました。あれは1987年の暮れだったでしょうか、社団法人ザ・ファッショングループのセミナーと懇親会が都内でありました。ファッション業界における女性の地位向上と活躍を後押しするため米国で始まった協会運動を日本に導入したのは鯨岡さんとその仲間、初代理事長を退任なさったあとも会員たちの精神的支柱でした。この懇親会で私のグラスにビールを注ぎながら、「見てご覧なさい。お役人や男性のお客さんもたくさんいらっしゃってるんだから、ビールくらい注いであげたらいいのに。そんなことしたら女の値打ちが下がるとでも思ってるのかしらね」、と。1945年終戦直前に政治部記者となり、戦後あの市川房枝さんに共鳴して女性参政権の必要性を説いていた元ジャーナリストのコメントとしてはあまりに意外でした。差別や不平等に対しては断固戦うウーマンリブ闘士、しかし古風な一面もある女性でした。今年も毎日ファッション大賞選考委員会の季節がやってきました。2013年に私は17年ぶりに選考委員に復帰、昨年まで9年間再び選考委員会の議論に参加しました。ファッション大賞や新人賞は過去1年間を通じて活躍が顕著なデザイナーや企業を選べばいいんですが、鯨岡阿美子賞の場合単年度の話ではなく、職種、業種の領域も広く、毎年推薦票を記入するときに悩みます。鯨岡さんの名にふさわしい人を、「いい人選ね」とあの世で褒めてもらえそうな人を推薦しなきゃと心がけてはいますが、なかなか難しい。今年もクジラさんを念頭に悩みに悩んで推薦票を提出しました。参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/鯨岡阿美子
2022.09.05
5月30日、SNSで繋がっている米国ファッションデザイナーのジェフリー・バンクス氏が「HAPPY HEAVENLY BIRTHDAY, NANCY CESARANI !!」とアップしていました。NANCYはもう10年余前に癌で亡くなったサル・セザラーニ夫人のこと。サルが創業期のラルフローレンでデザイナーとして働いていた頃ジェフリーはサルのアシスタント、両者は約半世紀の長い付き合いだそうです。下の写真は 、ジェフリー・バンクス氏のSNSからの引用です。前列左側がラルフ・ローレン氏、その後方のメガネの男性がサル、すぐ隣の女性がナンシー夫人、そしてその右がジェフリー、1970年代中頃に撮影されたものでしょう。 私は大学を卒業してニューヨークに渡り、ファッションジャーナリストとして米国デザイナーやニューヨークコレクションを取材、多くのデザイナーや経営者をインタビューしました。その中で米国ファッション業界の事情やその仕組みを丁寧に優しく教えてくれたのがセザラーニ夫妻、私にとってはメンターそのものです。ロングアイランド東端の避暑地イーストハンプトンにある彼らの別荘やマジソンアベニュー80丁目のアパートに度々招かれ、8年間のニューヨーク時代ディナーを共にした回数が最も多いのはセザラー二夫妻でした。ラルフ・ローレンの後がサル・セザラーニサル・セザラーニで最も記憶に残っていることは、1980年ニューヨーク州レイクプラシッドで開催された冬季オリンピック公式ユニホームプロジェクト。1977年オニツカタイガーら3社が合併したばかりの新生アシックスは冬季五輪オフィシャルサプライヤーのコンペに参加しました。協賛企業としての多額の寄付に加え、ユニホーム制作費はかなりの負担、多くの米国スポーツ用品メーカーは二の足を踏んだのでしょう、アシックスが選ばれました。アシックスは誕生したばかり、まだ世界市場での知名度は低く、この冬季オリンピックでブランド認知度を一気に上げる計画。当時パリコレで大活躍中の日本人デザイナーを起用し、メダル授与式や開会式のコンパニオン、聖火ランナーや大会関係者のカッコイイ公式ユニホームを提供して注目を集めるつもりでした。ところが、ファッションビジネスが基幹産業の1つニューヨーク州で開催されるオリンピックなのに日本企業が公式ユニホームとはなにごとか、と米国の一部メディアがネガティブな報道をしたため、アシックスは日本人デザイナー起用をあきらめ米国デザイナーに委託するしか批判をかわす方法はないと考えました。そして、ニューヨークの私に米国デザイナー推薦の依頼が届いたのです。アシックスの希望は、オリンピックプロジェクトを名誉ある仕事と意気に感じてくれそうな若手デザイナー、大御所デザイナーを起用するつもりはありません。私は全くタイプの異なる4人の若手デザイナーをリストアップ、それぞれのオフィスに出向いてプロジェクトの説明をして歩きました。この中からアシックスが最終的に選んだのは、アメリカントラディショナルを標榜するデザイナーのサル・セザラーニでした。レイクプラシッドはニューヨーク州とは言ってもカナダ寄りの山奥にある田舎町、アヴァンギャルド性の強いデザインではオリンピック運営委員会を組織する保守的地域住民の賛同を得にくいと判断したのでしょう。加えて、サル自身の気さくな人柄、日本贔屓も選ばれた大きな要因でした。サルはアシックスの期待以上に協力的、精力的に動きました。素材確認のために来日、防寒試験のために欧米の山岳リゾート地を何度も訪ね、レイクプラシッド住民へのデザイン説明も本人自ら行う。私もレイクプラシッドでのプレゼンに同行しましたが、田舎の商店街のおじさんが「あんたのデザインは古くないか」と発言するのに対し、怒る表情を見せず目を白黒させながらデザインの意図を丁寧に説明する。他のデザイナーなら口論になっていたかもしれません。サルは本業そっちのけでオリンピックプロジェクトに没頭、東奔西走の活躍でした。セザラーニ社を訪ねたとき、彼のアシスタントは私に「あなたが変なプロジェクトを持ち込んだおかげで サルはほとんどオフィスにいないじゃないか」と文句を言わましたが、確かにユニホームのことで海外出張が多かったようです。公式ユニフォーム展示の前でセザラーニファミリーそして、公式ユニホーム発表記者会見が日本で行われた数日後、セザラーニ社はなんとニューヨークでチャプター・イレブン(連邦破産法)を申請、つまり倒産してしまいました。彼のアシスタントらが心配していたことが現実のものとなってしまい、話を持ち込んだ人間として申し訳なく思いました。しかし、そんなことでめげないのがサルとナンシー。倒産後の夏休みにイーストハンプトンの別荘に行ったら、サルは交渉中のアパレルメーカーの新規コレクションのためプールサイドでスケッチを描き、生地スワッチを重ねながら私にコレクションの意図を解説する。陽気なイタリア系だからなのか、それとも米国人は概してチャプター・イレブンに神経質ではないのかはわかりませんが、とにかく二人の表情は意外にもとても明るかった。もうひとつ、セザラーニで思い出すことがあります。日本の大手コンバーターの市田の子会社ハナムラがセザラーニとライセンス契約を締結、その直後サルと彼の弁護士から呼び出されました。セザラーニの名を日本で商標登録しようとしたところ、すでに日本では登録済み、しかも登録者はS社でした。「日本の商標登録のルールはどうなっているんだ」と弁護士に質問されました。ラルフローレンが日本に上陸した1970年代中頃、日本のメンズ業界ではサルがラルフ・ローレン氏の影武者デザイナーだったという噂が流れました。おそらく日本でのラルフローレン事業を守るため、将来競合することになるかもしれないセザラーニの名を登録してしまったのでしょう。幸いサルの弁護士はラルフローレンの弁護士でもあり、その後日本での商標登録問題は解消されたようです。余談ですが、その数年後にサルと新たに組んだ米国紳士服メーカーが裁判で争った際、この弁護士の仲介でラルフ・ローレン本人が証人としてサルを擁護する証言したと聞いています。私は東京コレクションに長く関わっていますが、デビューを計画する新人デザイナーから相談されると、「まず商標登録を済ませてください」とアドバイスすることにしています。サルの商標登録事件に遭遇した経験から、ショーや展示会開催準備よりも先に商標登録を推奨してきました。数年前ニューヨーク出張したとき、久しぶりにサルと会食しました。ニューヨークコレクションの参加デザイナーの多くを輩出しているパーソンズ・デザイン学校で、FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)出身の彼は後進の指導に当たっていました。ブランドビジネスを卒業しても学閥を超えて後進指導で業界に恩返しする、日本もそんな事例をたくさん作れたら良いですね。 参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Salvatore_J._Cesarani
2022.09.05
私が高校に入学したとき、教室の木製の机という机には彫刻刀でVANと彫ってありました。我々よりちょっと上の世代の先輩たち、世に言う団塊世代はビートルズに熱狂し、アイビーリーグファッションの伝道師VANの信者になりました。VANの文字が真っ直ぐで机を彫りやすかったことも大ヒット要因でしょう。高校3年、私たちは書店で志望大学ごとに編集された「赤本」あるいは「螢雪時代」の大学案内を読んで受験校リサーチ。経営学部志望だった私は、自分の生まれ年に経営学部が新設された明治大学に妙な縁を感じました。明治大学の有名人卒業生の中に作曲家の古賀政男、政治家の三木武夫と並んでファッションの石津謙介(ヴァンヂャケット創業者)の名前を知りました。私は団塊世代の先輩たちのようなアイビー信者でもVAN信者でもありませんし、熱烈なサッカー少年だったので、明治大学と聞けばどうしても俊足ドリブラーの杉山隆一(三菱重工選手)を思い浮かべます。 明治大学に入学したものの過激派学生がキャンパスを占拠、1ヶ月後の5月上旬には学校封鎖で休校、大学に真面目に通ったのは入学直後のたった1ヶ月だけ。オヤジに命じられて新宿の日本洋服専門学校(テーラーの事業者のほとんどはこの学校の世話になっていました)、加えて個人教授の先生から紳士服の科学的パターンメーキングを教わりました。大学を卒業したらロンドンのサビルロー修行に行けとオヤジから言われていましたから。 大学3年の春、たまたま知り合った紳士服業界関係者に誘われて日本メンズファッション協会のセミナーに初参加。このとき会場に現れたロマンスグレイのカッコいい紳士、これが同協会理事長でもあった石津謙介さんでした。カリスマ特有のものすごい異次元オーラ、ステージ上での発言もほかのパネリストの方々と違ってメチャクチャ面白かったです。 その後同協会の別のセミナーのお手伝いをしていたときのこと。事務局から大量のサントリー角瓶を持ち込んでパーティー会場のテーブルにボトルを並べていたら、そこに現れた石津さんに「キミはこの角瓶をどう思うかね」と質問されました。ファッション協会のパーティー、しかも会場はボトル持ち込み可、「我々学生が飲むような安い角瓶ではなく輸入スコッチではないでしょうか」と答えました。 「事務局長を呼びなさい」。石津さんは直立不動の事務局長に「これから女性を口説きに行こうというとき、いまの時代は何に乗って行くんだね?」。事務局長は緊張して答えられません。すると、石津さんは「自転車に決まってるじゃないか。キミがやってることはバスだよ、バス。すぐ酒を替えなさい」。私はその場で吹き出しました。 (1992年度日本ファッションエディターズクラブ賞授賞式)また、別のセミナーでは石津発言の感想文を書いて郵送しました。「先生のご発言と現在のメンズファッション界とでは大きなズレがあると思います」と率直に矛盾を述べました。「学生でさえわかっているのに、キミたちはわからないのか」、私の手紙を見せながら事務局長を叱ったそうです。この直訴の手紙で気分を害した事務局長によって私は同協会の出入りを禁じられました。 明治大学を卒業してニューヨークに渡る寸前のあるパーティー、石津さんから「初めて1億円の赤字を出したよ」と声をかけられました。そしてその1年後、VANが数百億円の赤字を出して倒産、とニューヨークで聞きました。たった1年でこんなことになるとはびっくりでした。のちにご本人に伺ったことですが、倒産騒動の最中に石津さんがレナウン中興の祖と言われる尾上清さんに相談に行ったら、「ファッションは虚業。再生なんか考えず、潔く破産でいいじゃないか」とアドバイスなさったとか。その際、「これで自宅の抵当権は外してもらえ」と尾上さんは石津さんに小切手を渡したそうです。すごい信頼関係ですよね。 晩年、ちょっとしたご病気で入院されたとき、退院を祝して一献と提案したところ、「僕が料理を作ってみんなが食べる会にしませんか」と逆提案されました。当日、ファックスでそのメニューが私に届き、「これに合いそうなお酒を頼みます」と指示がありました。お酒に詳しい友人に知恵を拝借、あえて甘めのシャンパン、スッキリ白と軽め赤のブルゴーニュワイン、これに食後のタンカレージンを買って持ち込みました。石津さんは目を細めて大変喜んでくださいました。 このとき、石津さんは参加者それぞれにちょっとしたギフトを用意して「実はあるテーマでギフトを集めてきました。テーマとは果たして何でしょう?」。このとき私がいただいたものはいろんな野菜を練り込んだナチュラルソープでした。テーマは「清貧」、石津さんはバブル経済後のライフスタイルの方向性を示唆されました。80歳を過ぎてもなお独特の洞察力で生活価値観の変化を予言される、とっても時代に対する感度の良い方でした。 2年余の新型コロナウイルスの影響で世の中の様子は大きく変わりましたが、いまから30年も前に石津さんがおっしゃった「清貧」という言葉、いまもズシリ重いです。
2022.09.05
パソコン、スマートホンがなければ何もできない生活に慣れてしまい、手書きの字はどんどん下手になり、漢字がなかなか思い出せない場面が増えました。ものづくりの世界でもハイテク技術で精度は上がり、ロスは少なくなり、製造時間は短縮され、生産コストも下がってありがたい。衣服の製造もCADで便利になりました。カーデザインもCG全盛ですが、マツダ本社工場を訪問したとき新型ロードスターの開発プロセスはちょっと違いました。職人さんが粘土を電子レンジで温め、時間をかけて粘土を貼り付け車体の形を整え、乾燥させたら余分な粘土はヘラで削る。1ミリ、2ミリを大事にものづくり、ローテクで納得いくカーデザインを作り上げ、完成後にCGに落とし込む。感動しました。写真(上)はカーデザイナーと職人さんたちが粘土で作ったハンドメイド車体、2枚目の赤い車は完成した2015年の新型ロードスターです。この話をマツダの担当者に伺いながら、ファッションの世界でもいくらハイテク万能になっても職人技を粗末にしてはいけない、人間のクリエーションをもっと重要視しないといけない、と思いました。(伊勢丹クアラルンプールの売り場にて2017年2月)
2022.08.21
1980年代三越のデザイナーブランド導入を推進した山縣憲一さん(のちにロロピアーナ日本法人社長)の葬儀、昨日田園調布のカトリック教会で行われました。パロマピカソとの契約交渉でパリとニューヨークを飛び回り、過剰なスケジュールが原因で自律神経失調症に。「太田、身体だけは気をつけろよ」と忠告されました。慶應義塾体操部の監督でもあり、丈夫な人だったので驚いたことを覚えています。ご冥福をお祈りします。
2022.08.19
ANAでもJALでも、東京からニューヨークへのフライトは現地時間の午前中ケネディ空港に到着しました。所属していた百貨店の大改装のヒント探し、あるいは社員引率しての研修など年に5回ニューヨーク出張したこともありました。ホテルにチェックインすると、すぐに五番街西57丁目BERGDORF GOODMANへ、次にマジソン街東60丁目BARNEYS NEW YORKを視察、その後定数定量管理のお手本CRATE & BARRELマジソン店をチェック、五番街を10ブロック歩いてSAKS FIFTH AVENUEが出張初日の定番コースでした。倒産していまはなきBARNEYS NEW YORK、日本ブランドの導入でお手伝いした店なので特別な思い入れがあり、いまとなっては懐かしい写真です。(撮影:2019年10月)
2022.08.10
消費者がファッションに熱い視線を送るアジアの国という点では中国以上にタイ、首都バンコクは若い男性たちが最もおしゃれな都市かもしれません。メンストリートには東南アジアで最も賑わうラグジュアリーモールの「サイアム・パラゴン」があります。パリ、ミラノのラグジュアリーブランドはほとんど全て入居、午前の開店時からディナータイムまでずっと賑わっています。ここまで賑わうラグジュアリーモールは世界見回してもあまりないでしょう。「パラゴン」の並びにはカジュアル系ブランドを集めた「サイアム・センター」、そして日本企業がプロデュースしたかのような「サイアム・ディスカヴァリー」。3館を経営するのはSIAM PIWAT(サイアム・ピワット社)というタイ王室と深い関係がある会社です。「ディスカヴァリー」は「クールジャパン館」と言ってもいいユニークな商業施設、日本のnendoが空間演出しています。日本を代表するファッションブランドの大型ショップから、アニメ、漫画のキャラクターグッズの売り場、LOFTも含め日本のモダンな生活用品やリビング雑貨も揃っていて、我々日本人にはありがたいモールです。SIAM DISCOVERYエントランスnendoが設計した空間Yohji Yamamoto discordキャラクターグッズを集積した楽しいフロアSIAM PIWATはかなり以前からLOFTを導入
2022.08.09
2008年は日本人移民がブラジルに渡って百年の記念すべき年。皇太子殿下(現在の天皇陛下)がブラジル国会で記念スピーチされたとき、サンパウロでは「モッタイナイ」をテーマにサンパウロ・ファッションウイークが開催されていました。パリからは高田賢三さんが基調講演スピーカーとして参加、東京の若手ミントデザインズがショー発表、私もセミナーのゲストの1人として招待されました。ブラジル企業はそれぞれ日本の文化や生活様式を取り込んだ楽しいブースを構え、回転寿司ベルト上にはビーチサンダルが流れ、忍者コスチュームの案内係や折り鶴のソファなどが目を引きました。こんなに楽しいファッションウイークは見たことない、ブラジルのファッションに未来はありそうと感じました。旧式折り畳み式携帯電話で撮影したので残念ながら画像は全部粗いです。お許しください。サンパウロファッションウイークのメイン会場世界的なビーチサンダルブランドhavaianas回転ベルト上にhavaianasのビーチサンダル婦人靴Melissaのブースでも壁面に回転ベルトミントデザインズのショー高田賢三さんの講演文化服装学院の小杉先生らと記念撮影
2022.08.06
スイスのバーゼルから国境をこえてドイツにちょっと入った田園地帯に広大なVITRA DESIGN MUSEUMがあります。VITRA(ヴィトラ)は1950年代に創業の比較的新しい家具メーカーですが、1989年創業二代目経営者がここに家具とインテリアデザインを集積したデザインミュージアムを作り、世界各地から建築・インテリアの関係者や学生たちが見学にやってきます。中でも世界の椅子を集めたコレクションは圧巻、誰もが一度は見たことがありそうな椅子ばかり、年代別にズラリ並んでいます。エントランスにはフランク・O・ゲイリーさん設計のシンボリックな建物、その左側には安藤忠雄さん設計の会議棟、後方にはザハ・ハディドさん設計の消防署ビルなど、世界的建築家の個性的な作品が並んでいます。ミュージアムスペースでは建築家たちの特別展がよく開かれ、子供たちがワークショップで利用できる作業場や広場も敷地内にあります。一日中各パビリオンを回っても全く飽きない、居心地の良い素晴らしい空間、建築・インテリア、プロダクトデザイン関係者のみならず、ファッションデザインに関わる人々にもぜひ一度は視察してもらいたい場所ですね。フランス国境からもかなり近い場所なのでパリコレ視察の帰りに寄り道いかがですか。正面入口の案内板フランク・O・ゲイリーさん設計安藤忠雄さん設計ザハ・ハディドさん設計1940〜1955年の椅子コレクション1955〜1965年の椅子コレクション(倉俣史朗さんデザインの椅子)インテリアショールームインテリアショールーム参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Vitra_Design_Museum https://en.wikipedia.org/wiki/Vitra_(furniture) https://www.vitra.com/ja-jp/home
2022.08.04
日本のサブカルチャー大好きなフランス人たちが始めたJAPAN EXPO、最初入場者は数千人程度だったのが20年も経過すると20数万人の大イベントに成長。広い会場に老若男女のフランス人が思い思いのコスチュームやメーキャップで集まってきます。AKB48などアイドルグループやミュージシャン、漫画アニメのキャラクター、ゲーム、コスプレ、くまモンなどゆるキャラから、将棋、弓道、居合抜き、日本食クッキングと、最近の流行りものから伝統文化や日本の衣食住まで、緩いものから大真面目なものまで、とにかくなんでもあります。集まったフランス人の表情は我々が元々イメージしていたものとは大違い、みんな明るく楽しそうだったのが印象的でした。この人がJAPAN EXPO仕掛人参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/Japan_Expo
2022.08.01
2013年8月西海岸ビバリーヒルズ、サンタモニカのセレクトショップ、百貨店、ラグジュアリー系ブランド直営店を視察しました。映画「プリティ・ウーマン」の舞台になった場所でいろんな収穫があり、帰国したらマーチャンダイジングに活かせそうと思って帰国しました。西海岸を代表するセレブなセレクトショップとしてハリウッドの映画人に愛されてきたMaxfield(マックスフィールド)のエディ・スリマン新生サンローランの打ち出しに「さすがだなあ」と感心。その創業者のジュニア(記憶違いならごめんなさい)のJames Perse(ジェームスパース)のナチュラルな空間演出と商品にはしびれました。個人的にこういうの好き。MaxfieldJames Perseの外観と店内西海岸の開放的な空気を伝えるFred Segal(フレッドシーガル)が映画ポスター、ミュージシャンや俳優の肖像イラストをうまく使って商品カテゴリーごとに面白いヴィジュアルプレゼンをしていました。そこで、ハリウッドの映画ポスター専門店に出かけ、何かに使えそうとポスターを数点買いました。Ron Herman(ロンハーマン)はサザビーリーグが日本で展開しているのでかなり期待して入りましたが、思ったより単調な品揃え、プリントのサマーワンピに装飾過多のホットパンツがいっぱい、「東京の方がはるかに良いじゃないか」と驚きました。Fred SegalRon Herman帰国したら、まさかの展開が待っていました。留守中に政府の使者がうちの社長を訪ね、この秋に立ち上げる官民投資ファンドの社長に私を推薦したいと要請がありました。いろんな関係があり「会社として受ける」と決まりました。せっかく西海岸で次のビジネスのネタをたくさん仕入れて帰国したのに、ちょっと複雑な思いでした。2年後、ビバリーヒルズのど真ん中の同じホテルに泊まりました。今度はクールジャパンのお仕事、ハリウッド映画産業の関連事業への大型投資案件のための出張でした。参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Fred_Segal
2022.07.31
かつてマンハッタン西57丁目にあったファッション専門店HENRI BENDEL(ヘンリベンデル)は、毎週金曜日午後に新人や無名のデザイナーたちに門戸を開放、アポなしでサンプルを持ち込んでバイヤーに見せる機会を提供していました。バイヤーが気に入ってくれたらその場でオーダーをもらえます。新しい才能を発掘して売り場で育てるインキュベーション(孵化)ストア、だから全米の百貨店やセレクトショップはベンデルを視察してベンダーになりそうな新ブランドを探しました。私がニューヨークに住んでいた頃、ファッション雑誌記者出身ジェラルディン・スタッツ社長とジジ・ローゼンバーグ副社長兼ファッションディレクター、二人の女性経営者がこのユニークな小売店を指揮していました。当時、ファッション雑誌エディトリアル頁や広告の撮影があるとスタイリストはここでストッキングやタイツを買っていたので「モデル御用達」、あるいは「スタイリスト御用達」とも言われました。ニューヨークタイムズの広告はイラスト主体、アンディ・ウォーホルはかつて専属イラストレーターだったと言われています。WWD本紙イラストレーターだった小川吉三郎さん(のちにParsons教授)もF.I.T.卒業前からベンデルの広告イラストを描いていました。1980年親会社のGenesco(ティファニー隣にあった高級百貨店Bonwit Tellerも所有していた)が経営不振でベンデルの売却を決め、スタッツ社長が外部資本の支援も得て買収しました。その後1985年には大手製造小売業リミテッド(現在のL Brands。ヴィクトリアシークレットなどを展開)がベンデルを買収、スタッツ社長は退任、場所を五番街西56丁目角に移転、オリジナルのバッグ、アクセサリー、婦人服などを販売するSPA店に変わり、インキュベーションストアの面影は完全に消えました。それでも、チョコレートブラウンとホワイトのストライプ柄スモールグッズはとても魅力的。このストライプ柄グッズを日本に本格導入したくてニューヨーク出張、日本事情に詳しい社長と交渉しました。「いまは国内販路の整備を優先したい、しばらく待ってくれ」と言われてその時は断念しました。このとき社長室のデスクには合羽橋で買ったであろう醤油ラーメンの模型サンプルが置いてあったので、この話で随分盛り上がり、帰国してから合羽橋の道具屋で寿司サンプルをいっぱい購入して送りました。あの社長、いまどこにいるんだろうなあ。結局、リミテッドは2019年1月ベンデルを解散、123年の歴史に幕を閉じました。残念です。ニューヨーク本部エントランスのイラスト郊外ショッピングセンターでもテナント出店このストライプ柄はアイコン(解散後のホームページ)参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Henri_Bendel
2022.07.27
クールジャパン機構設立の翌年2014年9月、パリの老舗百貨店ボンマルシェは全館あげてLe Japon、日本プロモーションを開催。日本の美味しい、カッコいい、カワイイを集めたクールなカントリープロモーションでした。イベント会場は安藤忠雄さんの直島関連の展示でしたが、ファッション分野の主役はSACAIら巨匠たちのネクストジェネレーション、東京のセレクトショップをしっかりリサーチしたチョイスだなあと感心しました。オープニングレセプションで招待客に配られたお土産がLe Japonのキービジュアルを配した透明のビニール傘(2枚目写真右側)、これもうまいところに目をつけたなあ、でした。ボンマルシェはやることがオシャレで知的です。参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Le_Bon_Marché
2022.07.27
通商産業省が繊維産業の政策ビジョンとして大規模なイベントWFF(ワールド・ファッションフェア)と情報発信拠点としての装置FCC(ファッション・コミュニティーセンター)構想を掲げていたとき、役所の検討会の委員に加えられました。将来のためにイベントは必要あるのかなあ、ハコ作ってどうするのかなあ、正直そう思っていました。人材育成が急務じゃないでしょうかと発言したら、「誰が教えるんですか」とお役人から質問されたので、大袈裟に学校と考えるから前に進まない、寺子屋みたいなものでいいじゃないですか、自分でやってみますと答えた意地もあって1986年私塾「月曜会」をCFDオフィスで始めました。月曜会を視察に来た墨田区役所から、人材育成を議論するための会議を墨田区に作りたいと話があり、墨田区ファッション産業人材育成戦略会議が発足。育てる人材像やカリキュラム案、理事長には山中さん(当時は松屋会長)になってもらおうと構想を固めました。それから紆余曲折あったものの、墨田区に財団法人ファッション産業人材育成機構が発足、1994年秋から半年間1クールのIFIビジネススクール夜間講座がスタート。この写真は1996年に始まった夜間講座修了式のもの。中央が山中理事長(このときは東武百貨店社長)、こういう集合は写真珍しいです。この頃、百貨店経営の神様は病でかなり痩せていました。2枚目の写真は山中さんがお元気な頃のものです。写真整理していたら出てきました。懐かしい。
2022.07.25
2011年3月11日東北地方を襲った大地震と津波、そして原発事故による避難勧告。4月20日に予定していた春のファッションプロモーションは自粛か実施か議論しました。アーティスト遠山由美さんが般若心経の解体文字をデザインした赤いアクリル作品をキービジュアルに、全館チャリティーのつもりで実施しようとなりました。ルイヴィトンのマーク・ジェイコブス、靴デザイナーのクリスチャン・ルブタンはじめ世界各国のクリエイターからチャリティーグッズがたくさん届きました。反響は大きく、お客様も被災地の皆さんも全館チャリティーに喜んでくださいました。(遠山由美さんの作品をベースにしたキービジュアル)半年後の2011年10月、長年のライバル三越銀座店との初めてのコラボイベントGINZA FASHION WEEKを開催。自粛ムードで暗くなった銀座を元気にしよう、地方の産地を元気にしようと、両社のロゴ入りショッパーを作り、買い物は松屋でもノベルティーは三越でレシートと交換可能、松屋のウインドーに三越の商品を飾る、あるいはその逆も。とにかく面白い試みを一緒にやってみましょうう、と。現場の担当者たちが考えた「織る松屋 編む三越」のキャッチコピーはなかなか秀逸でした。震災から1年後の2012年3月、今度はGINZA FASHION WEEKのバージョンアップ、ジャパンデニムの素晴らしさを世界に向け発信しようと歩行者天国初のファッションショーGINZA RUNWAYを開催。広告代理店を入れず両社の社員を総動員。あいにく朝から雨でしたが、開演10分前に雨はあがり、東北のちびっ子と経済産業大臣が登場したラストシーンでは眩しい太陽、とても感動的でした。上空からのフィナーレ写真、どこがランウェイ、どこが客席、どこが歩道かわからない大盛況。PR協力してくれた東京メトロも普段より乗降客が増えて喜んでくれました。テレビ各局はそろって夕方のニュース、主要新聞は翌日朝刊で写真入り報道、まさに「事件」でした。これら3つのイベントをみんなで実現することができ、百貨店にはまだまだできることがある、と確信しました。その思いはいまも変わりません。
2022.07.23
2012年秋、パリ最古の百貨店ボンマルシェの創業160周年記念イベント。有料のエコバッグにもどことなくパリのエスプリを感じます。ウインドー装飾(=4枚目の写真)は女優カトリーヌ・ドヌーブさんがモチーフでした。かつては古ぼけたあまり魅力的ではないお店だったけれど、LVMHグループが買収し10年以上も時間をかけてリニューアル、いまの姿になりました。プランタンやギャラリーラファイエットは観光客でいっぱい、落ち着いて買い物できませんが、こちらはパリ市民のお客様が多く買い物自体をゆっくり楽しめます。ちょっとした什器のデザインやイベント、プロモーションに日本でも使えそうなヒントがあり、流通業で働く者としては視察MUSTのお店。コロナウイルスでも創業170周年記念プロモーションを今年はやるんでしょうか。
2022.07.22
ニューヨークコレクション視察時、マンハッタンのイエローキャブに乗ると座席前のタブレットからニューヨーク市ポートオーソリティ(交通局に相当)局長が導入が決まった新しいイエローキャブの紹介映像が自動的に流れていました。局長はいかに素晴らしい車種かを説明するんですが、それはGMでもフォードでもクライスラーでもなく、日本の日産自動車製でした。出張に同行した部下のファッションコーディネーターに「日産がコンペでビッグスリーに勝ったなんて知ってた?」と聞いたら「知らなかったです」。新たな日米経済摩擦を気にしてか、日産はPRにとても慎重だったのでしょう。映画やテレビドラマで頻繁に登場するイエローキャブ、ものすごい宣伝になります。ニューヨークのアイコンのような車なのに米国ビッグスリーをおさえ日本車がコンペに勝利するとは。でも日本ではあまり知られていないんだったら日本で広めようじゃないか、と。コーディネーターは日産自動車に知り合いがいるというので、「これを銀座で走らせてみよう。交渉してよ」となりました。まだニューヨークで新型イエローキャブとして走る前、日産メキシコ工場からわざわざ3台日本に送ってもらい、松屋銀座店で展示し、報道陣には銀座の街を乗ってもらいました。天井がガラス張り、車イスを簡単に引き上げられ、とっても気持ちいい車、日本の誇りです。新型イエローキャブが来る、当然松屋の店内はニューヨークプロモーションを仕掛けました。2013年秋のことでした。
2022.07.22
5年間の休止期間はありましたが、このブログはこれまで220万以上のヒット数、多くの方々に読んでいただきました。ビジネススクールやファッション専門学校の教え子を対象に始めたものですが、いつの間にかメディア関係者や経営者の方々にも広がりました。また、このブログの一部に加筆した書籍まで出版させていただきました。これまでのご声援に感謝申し上げます。しばらく充電期間をいただいてリセットしたいと思いますので、本日分が最後となります。これまでお付き合いくださり、心より御礼を申し上げます。* * *10月、気温が下がって秋らしくなるといつも思い出します。オヤジが倒れた日のこと、そしてその30年後の京大検査入院のことを。今日はとっても内輪の話ですみません。私がぼんやり大学受験を考えはじめのは高校3年生の夏休み明けでした。それまではサッカーがすべて。朝から夕方までボールを蹴っていました。疲れきってろくに勉強したこともないんですから、受験しても恐らく失敗して浪人だろうなあ、と想像していました。その頃、車を運転して帰宅したオヤジが腹痛を訴えて救急搬送、自分の中で大きな変化がありました。翌日、家業テーラーのお客様でもある総合病院の外科部長から「見ておきなさい」と切除したオヤジの十二指腸を見せられました。広げて見せたくれた十二指腸は大きい穴がいくつもあり、複数の穴はストレスが原因との解説でした。このとき、オヤジが死んだら浪人なんてできなくなる、やったことがなかった猛勉強をここから開始。2カ月半は寝る間も惜しんで受験勉強、どうにか大学3つ合格しました。担任の先生もこの結果には驚いていました。当時オヤジはテーラーを地元で開き、同業の仲間と別の紳士服事業を県内他都市に開き、百貨店の名古屋店と大阪店ではイージーオーダー納入業者として走り回っていました。弟子に任せたらいいのに、お客様の型紙制作とカッティングは必ず自らの手で行う。大半のお客様はお隣の愛知県、ご自宅に伺って最終フィッティングですから休む間もなく働きっぱなしでした。無理がたたって急性十二指腸潰瘍と腹膜炎併発の手術、このとき受けた輸血が原因でB型肝炎、のちにC型、肝硬変、肝臓癌と悪化、入退院を繰り返しました。三人の子供を大学卒業させるまではと病と闘いながら仕事も頑張ってくれました。近年、予防接種などが原因でC型肝炎になった人を救済するテレビCMが頻繫に流れていますが、当時はそんな救済策はありません。「運が悪かった」と諦めるだけでした。学生時代、帰省した日にも救急車が我が家に。痛いおなかを押さえながら「おまえはいったい何になりたいんや」と訊くので「マーチャンダイザーになりたい」と答えたら、「それはどういう仕事なんだ」。そんなやりとりをするうちに救急車が到着でした。ロンドンのサビルローに修行に出し、将来テーラーを継いで欲しいというオヤジの願い、でも私はニューヨークに渡ってマーチャンダイジングを習得する道しか考えていませんでした。オヤジの弟子のご縁で晩年は京都大学の先生に肝臓癌の定期検査をしてもらうことになりました。当時から京大は免疫療法でも有名だったので、オヤジに京都行きを勧めました。季節はちょうど気温が下がり始めたいま頃、結果的に生涯ラストになった定期健診でした。珍しく入院が長引くことになり、京大病院の真ん前の旅館にオフクロを宿泊させ、我々兄弟は順番に京都に様子を見にいきました。そして1月下旬、オヤジは肺炎に。院内感染でしょう。見舞いに行ったら、呼吸用の管を入れられ意識がもうろうとする中、力を振り絞って書いた「にいちゃん、ありがとう」のメモを渡されました。字が綺麗なオヤジでしたが、まるで幼稚園児が書いたような字、これが絶筆です。私が京都から東京駅に着いたところで訃報、逝く瞬間は傍にいてやれませんでした。でも悔いは全くありません、絶筆をもらったんですから。テーラー廃業したあとも、オヤジは生地をなるべくカットしないパターンで重量感のない着やすい服の研究を続け、自らパターンを引いて自ら縫ったジャケットを我々に送ってきては「どうやった?」と感想を聞いて喜んでいました。私に代わって一度家業を継いだのちデザイナーアパレルで生産管理をしていた弟に何かを伝えたかったのかもしれません。オヤジと弟はメンズブランドのパターン改良研究を廃業後も保存していた大きなカッティングテーブルでやっていましたから。縫製は自転車の運転みたいなもの、しばらく乗らなくても操作を忘れることはないけれど、パタンメーキングは自動車の運転と同じ、しばらく乗らないと腕が鈍る。オヤジから何度も聞いたセリフ。だからでしょうか、その職人魂から引退後もずっとパターンを引いて研究していました。衣食住どんなジャンルでも研究熱心なベテランは年を重ねても進化する、死ぬまで研究するテーマがあってオヤジは幸せでした。子供の頃、オヤジはとても厳しく怖かった。うちの若い職人たちを叱り飛ばす、あるいは鉄拳シーンを何度も見ました。勉強しない私にも容赦なくゲンコツ。さらに、最悪の教育パパ、「勉強しろ」としか言わなかったので正直言って煙たい親でした。勉強せずサッカーに没頭したのもオヤジへの反発かな、と。大学卒業後の進路では意見が分かれ、私は長男でありながら「分家」にされ、渡米前に親戚縁者を集めて分家の儀式もありました。だから、オヤジの告別式では弟が家族を代表して参列者の皆様にご挨拶しました。発病後も仕事を続けるオヤジを弟は傍で助けたので、オヤジは命を縮めずにすみました。わがファミリーにはありがたい弟です。亡くなってからオヤジの生き方を理解できるようになりました。われわれのために精一杯働いてくれたオヤジのおかげでいまの自分がある、といまではしっかり自覚しています。紺屋の息子が洋服屋になりたいと修行に行き、のちに東京洋服専門学校(テーラーの後継者の多くが学んだ学校)でパタンメーキングの勉強、終了後はそこで講師。そして徴兵されて激戦のインパール作戦。終戦後数年はビルマ(ミャンマー)の収容所で暮らしました。祖父の手元にはなぜか戦死通知が届いたそうですが、祖父は息子の無事を信じて洋服地を大量に買い込み、いつ帰還してもすぐテーラーが開業できるよう蔵に積んでいたそうです。私はマーチャンダイジングのプロを目指して渡米、8年間ニューヨークで取材活動をして帰国、いろんな仕事をさせていただきました。カエルの子はカエル、ずっとファッションに関わる領域でキャリアを積むことができました。マーチャンダイジングの基本を日本の業界に広めたい、と人材育成にも情熱を傾けました。教え子はいつの間にか数千人、でもどこまで私の指導が浸透したかはわかりません。彼らがマーチャンダイジングの基本に忠実に仕事をしてくれたらなあと願っております。これからもショーや展示会の視察は続けます(写真は本日お邪魔したANREALAGEの展示会)。マーチャンダイジングの指導はライフワーク、ずっと続けます。が、もうブログにアップすることはありません。長い間、ありがとうございました。
2021.10.22
英語でCLASSIFICATION、日本語にすると「分類」あるいは「区分」。マーチャンダイジングの基本を教える際に必ず「分類に始まり、分類で終わる」と言ってきました。米国式マーチャンダイジングを真っ先に日本に導入した伊勢丹では、かつてマーチャンダイジングの基本項目を書いた名刺入れに入る大きさのカードをバイヤーは常に携帯していましたが、そこには「区分」とあったと聞いています。伊勢丹専務の山中さんが松屋の社長に就任された際、このマーチャンダイジングのカードを松屋のバイヤーにも持たせ、松屋から東武百貨店社長に移られたときも同様のカードを配布なさったと聞いています。品揃えや商品展開方法で迷ったときはこのカードを見て基本に戻るよう、各社のバイヤーたちは山中さんから指導されたはずです。私も長年マーチャンダイジングの基本を学校や企業で教えてきました。単発セミナーではなく、長期間マーチャンダイジングの基本を私から教わった教え子はファッション流通業界に数千人います。皆さんに説いてきたのは、「ファッションビジネスに奇策はない」、「基本に忠実に仕事をしてください」、そして「自分たちの手で機会ロスを減らしましょう」、「プロパー消化率を上げましょう」でした。ときには深夜まで働いて企画チームが苦労して作り上げた商品を、バイヤーやビジネスチームはしっかり受け止め、お客様の目に魅力的に映るよう工夫すればクリエーションに共感してくださる方は増えるはず、それには整理整頓分類の徹底を、と口酸っぱく言い続けてきました。商品分類のモノサシと定数定量のモノサシの両方を使ってそれぞれの売り場に相応しい商品展開、陳列を心がけましょうとも。新型コロナウイルス感染の騒ぎが始まって1年半以上、営業時間の短縮、営業フロアの制限、入店客数の制限や館の営業中止もありました。しかし新規感染者の減少によって制限が解除され、今月から百貨店、駅ビルやファッション系商業施設はほぼ通常営業に戻りました。秋本番、気温が下がり始めるタイミングでの通常営業復活は本当にありがたいことです。数ヶ月間外出ショッピングできなかったお客様、徐々に売り場に足を向けてくださるようになり、久しぶりに街に活気が戻りつつあります。もちろん、またまた新規感染者が急増して営業自粛命令が出る可能性はあるでしょうが、しばらくは秋物ショッピングを楽しめる状況が続けばなあと期待してしまいます。1年半小売店は思い切ったプロモーションを打てず、集客イベントは基本的に見送りでしたが、これもやっと解禁です。このままの市場環境がクリスマス商戦まで続けば、大きく落ちた売上をそこそこ回復させることだって可能ではないでしょうか。先日、六本木ヒルズ森タワーに向かうエスカレーターでドンペリニヨンのプロモーションビジュアル(写真上)に目がとまりました。決して安くはないドンペリニヨンの2006年ヴィンテージロゼと世界の歌姫レディガガ、なんとも目立つプロモーションですが、限定ギフトボトルの売上は順調に伸びているそうです。高価なシャンパンと、派手な衣裳が毎回話題になるスーパースターのコラボ、消費を我慢してきた人々が反応してくれて好調な滑り出し、自粛ムードを吹き飛ばすプロモーションではありませんか。自粛から解放された今月、小売現場ではどうしても気になることがあります。いろんな原因はあるのでしょうが、とにかく服を販売する売り場が乱れています。コロナウイルスの影響で海外からのデリバリーや国内生産に影響があるのも原因の1つかも知れませんが、整理整頓分類がほとんどできていない売り場、軒先のマネキンが意味不明コーディネーションというショップ、どこの商業施設でも多いのが非常に気になりますね。待ちに待った自粛からの解放、気温も下がり始め、これまでのピンチを挽回する大きなチャンス到来だというのに、これでは売り場の前でお客様の足をとめられません。ショッピングモードのお客様を魅了するハンガーラックやマネキンの陳列方法、あらためて整理整頓分類の基本を念頭に、通路側からお客様目線で自分たちの担当売り場を点検して欲しいですね。教え子の皆さん、「基本に忠実に仕事をしてください」。
2021.10.19
私がこのブログを書き始めたのは、ちょうどホリエモン事件があった頃でした。渦中の堀江さんがブログで自分の思いを発信しているのを見て、業界内に数千人いる教え子たちに「補習」をするつもりで私もブログを始めました。売り場で見たこと、感じたこと、業界ニュースに対する自分の思い、お世話になった諸先輩や友人の活動などを綴りました。2011年の東北大震災の後、復帰したばかりの松屋銀座で被災地支援チャリティーを行ったとき、私のブログをたまたまご覧になった避難所暮らしの女性から感謝メッセージが届きました。メッセージを読みながら涙が溢れました。同じく松屋の社員からは「この会社で働いていることに誇りを感じます」とイベントを主導した私に熱いメッセージ、これにも泣けてきました。準備期間がほとんどない中、イベントを強行して良かった、まだまだ百貨店にはできることがあるとこのときは実感しました。しかし、この被災地支援イベントと、次の銀座ファッションウイークや歩行者天国のショー(競合店との合同イベント)で目立ち過ぎたのか、2年後松屋は政府の要請を受け私を官民投資ファンドの経営者に出すことになりました。フリーランスの長い私がお堅い政府系の仕事、あまりに勝手が違います。公的ファンドの反対勢力も存在しますから、用心のためブログは中断、過去にアップしたブログの文章は全て削除、5年間の在籍中はSNS発信できませんでした。2年前その投資ファンドを退任、再び民間人としてファッションビジネスの世界に戻りました。自由の身になったのです。退任直後からブログを再開、主に国内外の売り場視察で感じたこと、売り場が示唆している将来のビジネスの姿などを中心に書きました。5年間ファッションビジネスから遠ざかっている間、ますます「服は売れない」世の中になっていました。名ばかりのファミリーセール(本当は社員の家族向けではない)、百貨店の店外セール催事の連発、アウトレットへの積極的出店、当然ながらアパレルのプロパー消化率は下がり、在庫はどんどん膨れ上がり、廃棄処分で環境は悪くなる、そして多くの企業の収益はかなり悪化しました。このままではアパレルメーカーは消滅する、それに依存する小売店も苦境に陥る、特に地方店は売り場が成り立たなくなる。そんな話を流通セミナーでしていたら、警鐘を鳴らす本を書いてはどうですか、と高名な経済学の大学教授に勧められ、業界に復帰してからの1年間でアップしたブログを年初より整理加筆し始めました。ところが、同じタイミングで新型コロナウイルス感染が日本に飛び火、欧米でも日本でもレストランや小売店は通常営業ができなくなりました。日本では自粛要請、欧米では休業命令、当然破綻する企業が出現し、ほぼ毎週のように閉店、ブランド解散、倒産のニュースが続きました。その度に加筆し、コロナ後について考えるようになりました。ほぼ原稿がまとまった時点で繊研新聞社に出版のお願いに行きました。私は大学卒業後すぐニューヨークに渡り、7年余繊研新聞の初代ニューヨーク通信員として米国デザイナーや米国市場の動向を取材しました。今日の私があるのも当時ニューヨークで身につけたことがベースになっています。今回は原点に戻ってファッションビジネスを考え直す本に仕上げたつもり、であれば自分の原点のメディアから出版したいな、と考えました。幸い、繊研新聞出版部の協力を得られ、9月1日に発売となりました。約1年分のブログの中から記事を選んで加筆したのですが、結構分厚い本になりました。ファッションビジネスはいま赤信号状態、なので表紙は真っ赤に塗りつぶしました。タイトル「売り場は明日をささやく」は、売り場を注意深く見て分析すれば明日の業界、市場が見えてくるという意味です。コロナ後のビジネス、これまで以上に独自性、希少性がなければお客様はショッピングしてくださいません。企業はそこをどういう仕組みで工夫し消費者に訴求するのか。密集を避け、他人が試着した服は触れたくない消費者心理、従来の小売店とは違うビジネスモデルが登場するでしょうね。でも単純に「これからはオンラインだ!」ではないと思います。長い期間隔離を余儀なくされた反動から、消費者の一部にはコミュニティーへの参画意識が芽生えるでしょうし、企業はそれをどう提供できるのか、今後の課題の一つと思います。コロナ後、同じ景色は戻ってきません。これからどういう戦略を立てるのか、ぜひ拙著を参考にしていただきたいです。「もっと魅力的な商品を作ろう」、まさにクリエーションが問われるのはここからではないでしょうか。
2020.08.31
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