全558件 (558件中 51-100件目)
今朝の朝日新聞デジタルの記事から・・・引用ここから→ 記者コラム 「多事奏論」 天草支局長・近藤康太郎 いまでは3反以上の大百姓になったのに、昨年は大不作、手伝ってくれる塾生に分け前を配ったら、わたしの食べる米がなくなった。そんなまぬけに、読者からうどんやそうめんの「陣中見舞い」が送られてきたという話は、以前、本欄に書いた。ありがとうございます。 今年の稲刈りも、最後までハプニングがありすぎた。詳しくは近く再開する連載「アロハで猟師してみました」に書くつもりだが、それにしても、田では毎年違う“事件”が起きるのはなぜなんだ。1年として同じことがない。おもしろいと言えばおもしろいが、自然相手はほんとうにままならない。 そして、人間相手もままならない。わたしが、天草からフェリーと軽トラで2時間通勤している棚田は、かつて5農家が土と水とを分け合って米を作っていた。なかで「親分」といわれる人が変わり者で、新入りのわたしもずいぶん泣かされた。軽トラを止める位置が、いつもよりほんの10センチずれていると、1キロくらい先からどなられたり。どんな視力してんだよ。←引用ここまで。天体・・の表面に棲息する自分。をあらためて想起する。この地球を。先日、ようやく、、気軽にぐるりとご近所を歩き回ることが出来る。数ある申告仕事のうちの一つ、確かこれが最後だと思うが、掛け捨ての夫の医療保険の書類を郵送するために、ポストに行った。コメの精米をするコイン精米機の傍だ。見上げると、昼の月である。夕刻近く。東の空。もうすぐ、月食だなあ、と思った。家族がらみであると、保険金受取人名義書き換えとかの手続きがあって、急いで対応したが、この保険は、亡くなっても何も起こらないから、先延ばしだった。本当に、辛い日々が続くので、もう知らんわ、とか言いたいけどそうはいかない。気持ちを落ち着かせて、エネルギーが湧いてくるのを待ち、片付ける。彗星の衝突のような衝撃を受けて今日で、7か月だ。その衝撃波で、思いもかけず、、焼香かい、じゃなくて商工会主宰のブランドマーク募集に応募してみたり、市の女性委員会に応募したり、(前者は撃沈、後者は合格)やっぱり、弾き語りで行くべきだ、とか思ったり、そして、、今回、10月の納骨式準備の忙しいときに、、都会の文化センターのカルチャー講座に申し込んだりした。納骨式の先のいつでも良い適当な時期に何かの予定を立てたい!とキョーレツに思ったのだ。(と思う)行先を地図で確認すると、、かつての、阪急梅田店の上に更に高層ビルが出来ており、その中だと。。ああ、阪急百貨店だ!途端に、石橋という阪急宝塚線の駅の改札口が思い出され、生家が思い出され、、と、怒涛のように記憶が湧き出た。大変である。年齢がいってるので、70年間の走馬灯である。脳内音を立てて回っとります。その回転、終わりの方は、ゆっくりになり、とんと出かけなくなっているので、、、前回の梅田行は、、さてと、「港町13番地」をかさんと歌いに行った3年前?4年前?と、希薄になる。ホッとする。さて、そんな前のめりのあたしの梅田への遠足。本日の講義は、「通史で味わう ポピュラー音楽の歴史」。どうなりますことやら。。
2022年11月05日
コメント(0)
室内は撮影禁止!の赤坂迎賓館。和風別館は、見学申し込み(ガイド付き)をしていたが、こちらは、していなかった。建物すべてが国宝ゆえかどうか、、おそらくそうなのだろうが、館内写真はダメだった。楽しみ、感激して、見せて頂いたが、中に、廊下部分、パターンモザイク大理石タイルの廊下があった。見学者が歩く場所は、赤いじゅうたんが敷いてあり、当然、その絨毯の両側は手すり?じゃないけど、ロープが渡してある。だから、絨毯にはみ出て、床のモザイクタイルの端部分が見えるわけだ。かなり大量に、パターンのモザイクタイルが続く。(つい先ごろ、、トルコの農村で、大規模な古代住宅の床のモザイクタイルが発見されニュースになっていました)現代も、この種類の装飾タイルは買うことが出来て、ホテルなどの広い場所に、ポイントとして、設置されていることがある。伝統柄の模様であったり、動植物の柄であったり、、カーペットのデザインの模様を思い浮かべていただくと、ああ、あれね。。とお判りいただけると思う。センチ角くらいの小さな大理石で、さまざまな色を駆使して、模様とか、柄を作るのである。カーペットも高価だが、これとてやはり、お高い。日本の職人さんが、知識もないのに、明治の時代にごく短期間で、こういう建物を作った、、というエピソードから、あたしは、平伏して、見せていただいていたわけだが、、この大理石モザイクは、どのようにして、イタリーから?あるいは他の国から?運ばれて来て、そして、施工されたか、興味が湧いた。和風別館の方はガイドさんがついてくれたが、こちら本館の方は、ボランティアガイド、と名のつく、オレンジ色の腕章をつけた方々が、そこここにおられる。質問をしてみた。定年後、と思しき男性の方だった。まず、施工方法についてだが、、カケラを、一つ一つ貼って行ったのだろう。というようなお答えであった。通常、モザイクパターン大理石のユニットは、すでに、模様が出来上がったシートとして、流通する。少なくとも現在は。明治時代のタイル職人さんは、袋に入った、この1センチ角の様々な色の大理石の砂利?と言ってもいいくらいに小さいのだが、、それを、お手本はもちろんあったのだろうが、模様にして貼って行けるのだろうか。。それとも、当時から、パターンになったシートが、異国から運ばれてきたのではないだろうか。だって、、廊下、とはいえかなりの広さだ。そんなこと思いながらのワクワク見学だった。
2022年10月14日
コメント(0)
The Rose♪の歌詞、ピアノ伴奏(これも練習中だけど)に入れながら言葉を入れていくの。2番の歌詞を入れようとしている。2番最後の、And the soul, afraid of dyingThat never learns to live.が、泣いちゃって泣いちゃって歌えない。(でも一方、これは、2番まで進んだという、感激の涙でもちょっとはある)ハミングにしておこう。
2022年09月29日
コメント(0)
カタコトのうわごと [ 多和田葉子 ]読み進んでいる。カタコトかつ、うわごと、とは謙遜も謙遜、著者の日頃の学究としての有様をいかんなく発揮。本書中、ふと、とか思わず、とかをドイツ語にどう訳すか、などの文章があったが、あたしの中でキッカケになったのは、女性、と、考える、という行為との関係性とかを述べているところがあって、それこそ、ふと、思い出したことがあった。ああ、そんなことがあった。と。それは大昔、あたしが中学生の頃、だから、すでに60年以上前だ。いや、まだ小学生であったか、。ま、その位前の事、、だから書いてもいいと思って。亡母は、自宅を拠点に骨董屋を始めた。彼女の心の中の何かが、動いたのだと思うが、自分ち用に、古道具を買うことも時々あった。中に、小さなキャビネットがあって、それは、幅が90センチ、奥行きは45センチくらいで、天板の下に3個の薄い引き出し、両袖机のようにサイドに開き戸、開き戸の幅で薄い引き出しがあるので、引き出しは、左右対称に小、大、小、となっている。天板以外は網代細工がキッチリされており、ニス仕上げ。押さえに丸い紐状の物。黄色系の木材であった。キャビネットを眺めると、、それはまるで、工芸品のようである。ある時、あたしは、センター部の引き出しを開けた。そこには、、字が書いてあった。大きさは、一センチに満たないそれぞれの字ではあるが、字で、埋め尽くされていた!ブルーのインクで、当時いよいよ普及し始めた万年筆で書いたような感じだった。単語が書いてある。文章じゃない。単語は平仮名ではなく、漢字である。その、ひとつひとつの単語は、必ず「エッホン」と書いて、単語が続くのだ。例えば、、エッホン消防署、エッホン地図、エッホン学校、エッホンなんとか、、という具合に。整合性も何もあったもんじゃない(と、当時の子供であるあたしは思ったが、今思うに、なにかの規則があったのかも)字の大きさも違えば、(おおよそは人のペンで書く字の大きさ)向きも違う、読む方が、身体の方向を変えて読むような、そんな字の集合体が一面に展開されている。小引き出しも見てみる。同じように書き尽くされている。引き出しの裏も見てみたが、同じ。開き戸を座って、開けてみる。同じ、、。ホラー映画に後ずさりする、、というような反応ではなく、あたしはそれに魅入られた。エッホンなんとか、を、一つづつ読んだ覚えがある。知らない言葉とか、当時の公衆トイレの落書きのような公序良俗に反する?ような言葉類は一切なく、ただただ、森羅万象の、世の中にあるものの色々を、書き手が、思いつく単語があったと、記憶している。同じ単語もあちこちにあったなあ、。必ず、エッホン、というカタカナの次に単語、という規則はあるにしても。。。エッホン、という言葉が惹起語?書き手の?それをつけると安心する?書き手は、彼、だったのだろうか。そんな事を想起させる(結果としてだが)文章を読んだ。ということだ。とりとめない章の括り方で、気軽に読んでくだされば、との思いが多和田葉子さんにはあったのであろうが、あたしには、付いて行くのが精いっぱい、と申し上げておきます。
2022年09月14日
コメント(0)
70年前にあたしの母は、家を建てた。大阪の郊外である。その家、の間取りは、今も覚えている。もし、あたしが、有名人で、、何かの雑誌に子供時代に住んだ家、などのコラムに小文を書く、というようなことがあれば、(それは決まって、間取り図のイラストがあるような)ちゃんと描けるくらいに。。東北の隅が、親子の寝室で、作り付けのベッドが、まずダブルの大きさであって、それと、90度交差の形で、もう一つ上にシングルの大きさのベッドがあったのだ。亡母は、建築家ではなかったが、そういう空間構成を考えることが得意だった。藁を沢山と、生地と、テープと、押しピン?のようなピンで、自分で、マットを作り、敷いた。赤い色のストライプだった。二十過ぎに、2番目の母と出会って、まだ、お互いの立ち位置が定まらぬ時に、彼女は、「綿布団の作り方」をあたしに教えようとした。強引ではない感じで、彼女を手伝う感じで。汗がしたたり落ちたのを覚えているので、暑い時期であったかな。この場所は、6畳の和室で、作り付けベッドのあった家を壊して、新しく建てた(同じ敷地)家の、西端であった。(あたしの部屋には、自分のベッドはあったが、これは購入したもの、あてがいぶち)ほどなくあたしは、家を出る。外国の暮らしでは、しっかりしたマットレスがあたしのベッドとなり、いろんなタイプの住宅に住みたい!という信念のもと、引っ越しを頻繁にしている。そんな経緯もあるのかもしれないが、ベッド、そのものを選んで購入する経験は、自分にはなかった。(自分の住まいを設計する時は、作り付け(ベッド)にしていたので)夫が入院している間に、我が家に車寄せを作る必要が生じて、今の住まいを「減築」した。この奥行き現在は1350であるが、(削る前は2250あったので、奥行き方向に作り付けベッドが作ってあった)居間の外部にに長い羊羹のような空間が出来て、これをばまた、なんとかせねばなるまい・・。(考えていると時間の経つのを忘れるほど、つまりお楽しみなんですが)リハビリ優先、ケア優先、将来の車いす生活の事も考えて、無い知恵を絞った結果である。そんな、心遣いも無駄になった。ゆるやかなスロープをデッキの端に作って、、とか他にもいろいろ考えていたが、。。いつまでも引きずっているわけにもいかず、ムカデも出たことだし、床レベル作成!のミッションにとりかかった。解は、「ソファベッド」である。これは、ネットで購入しなくて本当に良かった。実際寝てみたりして探すことが出来たからだ。横に長い形は、あたしには、ダメだという事が分かった。広げた際に中央部にへこみが出来るのだ。どんなに上等でも。考えてみれば当たり前なのだが、そして、通常使用ソファで、臨時にベッド、であるなら、いいかもしれない。毎日使用だと、早晩こういうベッドは嫌になるだろう。(あくまで個人の意見です)縦方向に伸びるのは、中央部が凹まない。頭部から少し降りたところが凹む。(これも具合が悪いが、アタマを逆にして寝るとオッケー)とゆーわけで、短辺延ばし型を選んだ。今置いてあるソーファーの後釜にしようと思っている。一件落着。
2022年09月07日
コメント(0)
以下、今日の朝日新聞の天声人語から引用。▼国立国語研究所(東京都)に大西拓一郎教授(59)を訪ねた。蚊に血を吸われる現象をどう表現するか、2009年に全国調査をした。「さされる」という回答は秋田、岐阜、長崎など広域に及んだ。「くわれる」も青森から新潟、愛知、沖縄で確認された▼対照的だったのは「かまれる」だ。近畿と四国東部に集中し、東日本では使われていなかった。「それでも、さされるが標準語の地位にあるとは断定できない状況です」関西生まれであるあたしは混乱した。かまれたー!と言ってたか。いや、、さされた―!と言ってたか。子供の時。去年、この話題で、盛り上がって、天声人語氏が調べたそうだ。最近、思わぬ思い違いとか度忘れがあるので、ドキドキすることがある。昔の事だから、認知症関連じゃないかもしれないが、、あたしは、、さされたー!と(親に)言ってたように思うからだ。かまれる、は関西に集中、とあるので、。。ずうっと以前に、上岡龍太郎さんのTV番組で、全国アホ・バカの分布、ってのをしていたのを思い出したりした。いやまてよ、かまれたー、とか、かまれたんや、とか、言ってたのかしら。。プールと、フラと、行くし、周りの方に聞いてみよう。
2022年09月05日
コメント(0)
カタコトのうわごと [ 多和田葉子 ]多和田葉子の本は、今まで2ー3冊借りた。それぞれ厚い本で「献灯使」は読了に至らず。柔らかい生き物のような感触の文章で、優しいので好きである。朝日新聞のウェブの催しで、この多和田さんが出てこられるイベントがあったので申し込んでいた。どんな人か興味があった。昨日の午後4時からだった。突然のメーラー不具合で、動転したのをキッカケに、モニターには向かうが他の事をしていて、すっかり午後4時は、忘れていたが、後でも見ること出来ますとプライベートの方にメールお知らせがあって、見る。ベルリンからアテンドされたかどうかはわからない。彼女の座っているところしか映らない(当たり前)。それは問題じゃないけど。後、ドイツ文学の翻訳家の先生と、記者、と、女性3人の語り合いが一時間ほどだった。(『白鶴亮翅』の連載を終えて 多和田葉子さんと語る)半年の連載小説を書いていらしたらしい。タイトルの白鶴・・は、太極拳のポーズの一つだそうだ。話題は、ウクライナにも移って、2018年にも、ご訪問の由。衝撃だったのは、もうすでに、ロシアからの侵攻が始まり、戦争状態であった、と言われたことだ。日本人は今年の2月に突然それが起こったように受け止めているが、よくよく考えると、(2018年から)そういう風に物事は起きてくるのだという感じがよく分かった。とまれ、ネットでの対談視聴は空気は薄いが、姿も声も見ることが出来て大満足だった。ゴルバチョフ氏が最近亡くなり、ご葬儀などの地味な事(はっきり言うとお気の毒なくらい)のニュースを見て、思い出したのだが、、。あたしは、1974年にモスクワに旅行して、フルシチョフのお墓も見ている。ただの土饅頭であった。(このブログにもすでに数回書いていると思う。)その時に、国家とか、リーダーとか、その国のあり方とか、考えさせられたのだが、。通底する何か、、。などを思い、考えさせられる。そのロシアだが、多和田さんの小説にも出て来るらしいが、昨日の話に出てきたのだが、第2次世界大戦時、ソ連の戦争犠牲者数が、世界で一番多かった。と。これとて、鉄の、じゃないけど、目前のカーテンがガバ―!と開けられた感じがして、ビックリである。欧州の当時の様子など、数々の戦争映画でしか、分からないので、そうなんだ、、。と思うしかないのではあるが。まるまる徹夜で読み通す (井上ひさし 発掘エッセイ・セレクション2) [ 井上 ひさし ]読書中。只今、100冊の推薦文を順次読んでおりますが、半分くらいまで来ましたが、これが、、読まずに飛ばせるかというともったいないし、さりとて、本の帯なので、誉め言葉?宣伝言葉?ばかりで、少々ダレています。いえ、文章そのものは天井に行くほど素晴らしいんだけど・・。
2022年09月04日
コメント(0)
見出しを見たとき、即座に、数字の打ち間違いかと思った。人類の文明の始まりは、たとえばエジプト文明、メソポタミヤ、中国、インダス、これをば世界の4大文明と呼ぶ。と、中学一年の時に習ったあたしである。時代は、紀元前4000年くらいまでは遡り、、そうだ、中国の、殷の国は、もう少し遡るのであったか、くらいしか、知らなかった。一気に、一万年(100世紀)以上さかのぼって、文明、と言われてもなあ、と、記事を読んだ。まだ、遺跡全体の1%しか、明らかになっていないと。しかもこの遺跡は、埋められて(つまり人の力で)いる可能性があると。そして、、記事中ではあるが、これほど古いと、並み居る考古学者も、考古学オタクさんも、ずうっと降りてあたしのような一般ピープルも、誰もが、想像しようとしても出来ない領域のようである。従来の学説が、根底から覆されるかも。。へえ、すごいことになっとります。その発見レポートでは、高さ2.4メートルの男根の像が13本並ぶ、「男根の部屋」を皮切りに、前を隠す男性像や、動物に犯される人の彫刻などがすでに発見されているらしい。写真も撮り放題であった当時の(数年前?)様子は、今現在はすっかり様変わりして一大観光資源として、大テントに守られていて、撮影も一切禁じられているそうである。年間、100万人以上の見学者が訪れるようになっている。130世紀、というとてつもなく昔の文明、、。埋めてしまわれた、、街?施設?というミステリー。関連記事が出たら、また読んでみたいと思っている。
2022年08月23日
コメント(0)
納屋の掃除をしていたら、いつの頃からかの花火セットが出てきた。夫のコーナーはまだ、手つかずの初盆。おうち花火をして片付けようという事になり、夕食後敢行。豚のスペアリブ焼き。暑いが、、掃除と花火で一日が過ぎた。
2022年08月15日
コメント(0)
きびしく、亡父から言われたことである。小さいころ。顔面全体であったか、唇回りだけじゃなくて、他の部位も(鼻とか)か、、もう、忘れている。とにかく人前では、手を、か手で、顔を触るな。という事だった。たとえば、鼻くそをほじるとか、だったと思う。過日、ユーチューブで、見たい放送があって、その中身は濃く、欲しい情報がてんこもりであったので、観ていた。30代後半-40代と思しき、二人の男性が椅子に座り、語らっている。くつろいだ語り口で、カジュアルな服装。画面左側の男性が、裸足である事に気がついた。それというのが、、右足を膝からまげて、椅子の上に置いたからだ。片胡坐みたいに。つづいて、彼は、その足先を触り出した。揉むような、感じだな。その手を、次は、自分の顔に持って行く。わ―!(あたしは思う)またその手を足に持って行く。触る。顔に持って行く。おそらく、無意識なんだろう。たまりません。結局、欲しい情報であったが、観るのをやめた。昨夕も、コミセン(コミュニティーセンターの略)で、あたしの前の男性が、裸足だった。裸足はいいけど、。片胡坐になり、やはり足先を触る。。。わー!わー!
2022年07月29日
コメント(2)
人が亡くなって、彼岸に行ってしまう。あたしは、母を19歳のとき、父を39歳のとき、弟を59歳、、じゃなくて、56歳だったけど。核家族のメンバー4人のうち、あたし以外は皆鬼籍に入った。寡婦になりたての今、ちょいと、しみじみしている。で、小田嶋さんも、最近お亡くなりになって・・。要するに、生死は本当に、人生のすぐそばにあるわけで、。。朝から、いろ―――んなニュースを見るにつけ、ソリューション(解決)の方法について、考えざるを得ない。着地、とも言える。一つは、、宗教的解決。である。逃げるわけじゃない、と言うところがミソ。なかなかに、優れたソリューションである。2000年になる頃に、という事は今から20年以上前だが、(今となってみれば自分の至らなさから)仕事上で、仲間の裏切りに会い、経済的にひどい状態になった。現在のあたしを形作っている要素は、かなりの部分、この苦労が下敷きになっている。当時、それはそれは、多くの宗教的な、お誘いがあった。全国民が知っているようなメジャーから、20年経過してもまだ、ネットでしばらく調べないといけないようなマイナーな宗教まで。店頭に立ち、接客をする仕事であったので、お客様として、店に入ってこられる方は拒むことが出来ない。あっさり引き下がる方も居れば、、実は実は、、粘られて、結局、本部?まで同行せざるを得ないような局面にまで行った(お断りするのを条件でだったが)事もあった。旅に誘われて、遠い所に行き(お相手は女性ですぞ)その旅先で、実は、、と切り出されたこともある。控えめにだが、中には、(入信してくれたら)経済的には全く心配ない状態にお商売がうまく行くようにしますよ。と、真面目に言われたこともあった。ぐらつかなかった。結果は、苦労はずっとしばらく続いたが・・。近しい方の信頼も失ったこともあった。しかし、助けて下さった方もあった。そんなこんなで、20年。亡父の言葉を、最近になって思い出した。あたしが、小学校2年か、3年の時に、(場所まで覚えているがそれは関係ない事なので割愛)父とあたし、二人で、道を歩いていた。いつものように、手を繋いでもらおうと、あたしから、手を伸ばしたとき、、その追手を、サッと振り払い、「一人で歩きなさい」ときっちり言われた。「一人で歩きなさい。誰も助けてくれないのだよ」父は、甘えん坊のあたしを見ていて、二人になったときに釘を刺した?様な感じだった。もちろん、手をつないでくれないので、その時は、並んで歩くだけであったが・・。一人で歩け、誰も助けてくれない。これは、真理である。長じて、大学生になって、母が亡くなり、父が再婚し、、と、あたしの子供時代の後半は、あまり楽しい思い出はないけれど、そして、残念なことに、あたしの夫と、子供たちも、遠くからしか出会えていない状態で、親不孝な事だったが、そのまま、亡くなった。(病院へはしばらく通い、少しはお世話は出来たのだが・・。)あの時の事情はこうだったのよ、そしてこうだったのよ、、と、声にせずに呟いている。しかし、彼の、一人で歩け、誰も助けてくれぬ。というのは、本当に有りがたい言葉である。自力で生きよ、という事なんだと思う。とゆーわけで、ソリューションは、あたしの場合、宗教ではなかったのである。本当に、いろんな事が起こります。
2022年07月13日
コメント(2)
I tried "Kakeibo"...と、家計簿の言葉が、英語になっていないのは、何よりの証拠なのかしら。2020年に米国のテレビで、米国の主婦が、家計簿のとの出会い、そしてその効果、を報告しているらしい。東大大学院の先生、林香里さんの記事からである。米国で紹介されたからと言って、軽々に日本生まれ、(家計簿が)とはちと、短絡かも?と思ってしまうが、林さんの言われるのは、あの、羽仁もと子さんの「家計簿」、なんだろう。かつてあたしは、この婦人の友、の家計簿に出会い、しんどくなって離れ、そして、コープさんの家計簿になり、これまた忙しくて離れ、、そして、、お店の経理に没頭し、、(この間、家計簿は付けていない)、、などと、浮遊状態ではあるが、地上との1本の糸のように今でも、レシートの整理だけはしている。婦人の友の家計簿には3年付き合った。まだ、子供が乳幼児であったころ。夫の給料が、世の中、会社員の給料が毎月25日支給が大勢であったころ、、ウチは、28日であった。この、3日間の差、は今でも悲しく懐かしく思い出される。家族手当、と言う名前の欄に、妻1000円、子供一人当たり500円、の数字があったっけ・・。あほらし。何が手当てじゃ!とは言え、、夫は、勤め人として、給与明細のデータの細い紙を毎月手渡してくれて、給与そのものは振込であった。エンジニアであったから、派手なことは何もなく、しかも業界では高いお給料をもらう会社でもなく、当時の公務員ベースの線をなぞっており、、ま、要するに日本の典型的な勤め人、というわけだった。まその、給料が増えない中での、家計簿つけは、味気ない。家事育児に忙殺されると、お先真っ暗の心境になるので(少なくともあたしは)、3年ほどきっちりつけてみた感想は、、いるものは要る。なんか文句あるか。というものだった。どうしても、環境的に、運転免許が欲しい、となって、結局、家庭教師を始めた。お金をためて、教習所に行ったなあ・・。今は昔。初めての車は、三菱のランサー、緑色の中古車だった。。。今でも、いるものは要る!文句あるか。との思いは変わらない。ハイ。なんだか、思い出の小道に入り、散漫な文章だ。
2022年06月30日
コメント(0)
毎日、ひどい暑さで、いささかバテ気味。あたしが、小学校2年の時に(あら、もう60年以上)ウチにテレビが来た。天気予報もあって、画面を覚えているのだが、手書きのお日様や、雲や、雨傘のプレートを、予報官が、近畿地方のそこここに、おしゃべりしながら貼っていく・・。ま、お天気なので、基本は変わらない。今も。方法はすっかり違うけれど、。ただ、、気温は、、30度、になると、大騒ぎで、今の猛暑日のような色、濃い赤色になって、30度、と書いてあったように思う。毎日が、30度越えではなかった、一番暑いときで、30度、ではなかっただろうか。31度、はあったかも。。昨今の、35度越えなど、ここ数年ではすでに日常である。えらいこっちゃ。体温越え、も、もう、ニュースにはならないで、天気予報の中で告知される。すでに、40度だって、驚かない。昔の30度31度、、の頻度とすれば、半世紀で10度上昇??ちと大げさか・・。いやいや、あながちそうとも言えない感じだよね。午後1時半ごろから、午後4時くらいまでは、もう、外にも出られない。今日など、小学校の生徒たちは、傘をさして!下校だった。一種の災害?だよね。6月に扇風機を出すなど、はじめてだ。(そうそう、実は、、クーラーが苦手です)おかげさまで、風はあるので、開け放ち、土間に風を通し、扇風機で日陰からの風を入れると、ホッとする。緑の匂いもして、それなりに、快適である。首から上だけ、すんごい汗をかき、アタマと首にタオル巻いての家事、仕事。いつも早朝に起きて、一仕事する習慣なので、夜明けが早いと、目が覚めるが、庭の納屋に行って、蔀戸を開けると、子供のころのキャンプの匂いがして、胸が一杯になる。幸福である。3歳のときから、六甲山のYMCAのキャンプ場に夏は必ず連れて行ってもらってた。この朝の山と緑の匂いは、値千金、、なんです。家事仕事して、早めにプールに行って、、暑いときはシエスタで、。。と、カッコつけておこうっと。
2022年06月29日
コメント(0)
ネトフリの「コペンハーゲン」一気見。(原題はBORGEN)すでに、49年経過。すごい、前だな・・。それでも、デンマーク語のドラマだし、街並みだって映るんだから・・。というのが、プログラムを選んだ理由。(一気見したのは、「BORGEN]ではなく、このシリーズのseason4)なので、いつかは、最初から観たいけど、。。週が始まってしまったので、まず、なすべきことを片付けてからだな・・。さて、画面では懐かしのデンマーク!が繰り広げられるわけだが、、日常の挨拶と、数、簡単な会話のやりとりしか今となっては、聞き取れないけど、懐かしい思いばかり。ドラマとしては、そういう立ち位置で観るのは失礼なんだろうけど、。。異質の時間が今、進行中のあたしなので、プレゼント、と思っておこう。
2022年06月06日
コメント(0)
スイミングと皮膚科、回って、更に幾つかの用事と、図書館、買い物を済ませ帰宅。待っていたように電話がかかる。中学校の同級生のよ君からだ。何がどうしたか、、は分からないが、夫の亡くなったことを知ったらしい。なに、こうして、一般公開している文章がある限り、知って悪いわけじゃない。数年振りに声を聴く。長電話になった。彼の人生相談じゃないの?受話器を置いて、10分経過、今度は、ほ君からだ。長くない電話。受話器を置いて、10分経過、今度は、、と、、なんと、あたしは、夕方まで、電話でおしゃべりが続いたのだ。。(おーい。元気してる?あんなあ、ぼち(仮名)のダンナが亡くなったんやてえ)こんな伝言ゲームが繰り返されたのだと想像した。(あたしの呼び名は、平かな2文字。さっこん、さん付けでないといけません、とか、学校の決まりが出来るらしいが、高校まで、あたしは、友達間では名字を呼ばれることは無かった。)メンバー全員に同じ事を言うので、疲れてしまった。重い気持ちが軽くなるでも無し、気分が明るくなるでも無し、まだまだ、底の方をうろついているだけだが、、しみじみ、、友達、って、有難いなあ。。というか、、こんなあたしのことを気にしてくれて、申し訳ないなあ、、などと、思った。疲れつつ、。そこで、かさんを食事に誘う。今回は、(今回もか)本当にお世話になって、一度はお食事なとご一緒にして、ちゃんと、感謝の意を伝えたかったこともあるし、この時は、、本当にぐったり疲れてしまい、だいどこに向かう気がしない。お魚の美味しい料理やさんへ。その名も、宝魚園。外食は四十九日の法事以来。しかもお魚メイン、お刺身久しぶり。玄米が炊きあがった。炊飯器で玄米を炊いてみたのは初めてだ。かつて、幾度か、夫に玄米食を提案したが、良い返事を貰えず、だらだらと、胚芽米だった。一口だが、食べてみて、、美味しいのだ。こういうことなら、もっと強引にでも炊けばよかったが時すでに遅し。かくして、今日以降、玄米食にすることにした。
2022年06月02日
コメント(0)
過日の、法事の後の食事の口取り。突然に、これが来て、クライシスである。夫が亡くなる、という事をネットであれこれ眺めたりした。立ち直りを目指すわけだが、その中に、、立ち直り専門ライター?の方もおられて、アドバイスしておられる。外へ出ましょう。日常をキープしましょう、、友達に会いましょう、食べましょう。などなどなど、。。その最後の項目。全部で7つほどあったと思うがその最後に・・。いつも、明日死ぬかもしれない、と思っておきましょう。ってのがあって、。こけた。なこと、誰も考えてないわ! って、。
2022年05月26日
コメント(0)
過日、筋肉痛、というタイトルで書きました日記、単語違いで、成長痛、の誤りでした。お詫びして、訂正いたします。コメント頂きましたみらいさんにも、ごめんなさいです。(恥ずかしい・・)
2022年05月24日
コメント(0)
その昔、息子が中学生時代、(ああ、しっかり一人前だよ今は・・)学校のクラブで、柔道部に入っていたのだった。その、顧問の先生と、電話で話していて、目が点になった事があった。クラブを休ませてもらうのに、「成長痛」(本当にそうだったんだが)という言葉を親のあたしが発した時、せいちょうつう、って、何ですか?と、先生が言った。なんだか、失望と落胆、軽蔑してしまい、力が抜けたのを覚えていた。(成長痛、という単語を知らない教師がいる、というのをどう受け止めていいのか・・)そんな事を思い出した昨夜。知っている、知らない、はもっと自分自身で、考えを深めた方がいいかも、知らない事に対して、驚く事はないのかも、。淡々と、ああ、知らないか、、と受けとめて置く。そういう受け方を学ばないといけないなあ、。知っている、と言ってもその程度も、、つまりどの程度知っているのか、どのように知っているのか、知らない、事の方が案外普通で、意識の場所がたまたま違うだけで、あたしにとっての知らない事、ってのがそういう場面に出てこないだけかもしれないし、。起訴、不起訴、という単語の意味、ということになればこれはある程度、法律の勉強をしている人たちには馴染みの言葉。新聞をよく読む人にも、滅多に出会わない言葉じゃない。この、フキソ、という言葉が、誤解の元になり、議会のある委員会である時、もめた、。という事について市民からの質問があった。フキソ=無罪、という捉え方をする人が、案外多いのだ。法曹界の人々は、専門用語で武装して、なりわい確保に努めている傾向があるのでなかなかに、法律入門的な、お話を聞く事がない。あたしは、なんとなくだが、市議会の議員、ともなれば、民事、刑事、起訴、不起訴、の意味とか、位置づけを知っているのが当然、と思っていたんだ。そうか、。未知の言葉であったか・・。この会合に出向く前、ネットニュースでだが、南丹市の観光大使のお話が掲載されていて、興味があったので読んだのだが、、これまた、へー、知らないの?その単語。。ってお話です。さるライターが、南丹市の職員にインタビューしている。それを、書き起こした原稿である。「ホロコースト、ってなんですか?」と、職員が聞いている。「ホロコースト」とは、、と、ライターが説明している、その顛末も文章になっていた。ホロコースト、知らんのか・・。そうか。。って感じ。そら、ホロコーストという単語を知らなければ、ホロコーストがあった、無かった、の案件も分かるはずがない。あたしは、戦争を知らない世代で一番上の方。生きていれば、それなりに、知っている単語も増える。単に、そういう事であれば、当然の事なんだが、なんだか、心配だ。大丈夫?と思ってしまう。
2022年05月21日
コメント(2)
幸田文 老いの身じたく [ 幸田 文 ]大作家の娘として生まれて、本人もライターの人生であった、神田文さんのエッセイ集。わが身の身辺雑記を、老い、というテーマで拾い上げて、編集したのが、孫の青木菜緒さん。後書きまで読んで、自分の考え違いに愕然とした。ちょっと大げさ。青木玉さんが、文さんの娘さんと知っていたのに、勘違いしていた。菜緒さんは、お孫さんである。玉さんは、まだご存命で、90歳を超えておられるという。はあ、なるほど。考えてみれば、というほどの事も無いが、文さんは、明治37年生まれだそうだ。あたしの、叔母と同じ世代である。叔母は、92歳で亡くなっている。確か、、15年くらい前、いやもっと前か・・。その文さんのお嬢さんが、今は大ろうじん。。はあ。。本の中、文章の最後に書いてある年はすべて、半世紀前の数字。(初出と、あやさんのその時の年齢)その時に老域に入りつつあった文さんの文章だ。お孫さんが、編集、、というのも納得である。中身は、すべて、老いに関してだから、気が滅入るかというとそうでもない。文さんのお人柄なのだろう。これは、シリーズもので、第6巻。いずれも、全集からの抜粋。お父上と同様、書いて書いて、、の人生であった。あたしは、そんなに彼女をライター、として認識していなかった。また時々、「神田文」を読んでみよう。
2022年05月02日
コメント(0)
30年前の話。九鬼氏に嫁いだ、という方がおられて、親なし子のあたしを気にかけてくれた遠縁の叔母とその方が親しかったのである。姻戚関係にあったかどうかは分からない。その叔母が、70代にさしかかると決まって毎年、国立文楽劇場の、趣味の舞の会に連れて行けと言う。九鬼さんの踊りは観ないと!、というわけだ。叔母と九鬼マダムは親しかった。毎回、楽屋にもお訪ねした。通うほどにあたしも、その世界に魅力を感じるようになった。だから折につけ、知己の方の藤間流の何とかの会があります。などと聞くと、いそいそと伺ったりしていた。たとえ年に数回でも、あの、邦楽の音色には、胸キュンである。さてその九鬼さんの日舞なんだが、流派は忘れた。ひょっとして、地唄舞であったかも。いつも、彼女の踊りは地味で、取り立てて華やかでもなく、、って、踊る本人も老境。しかし、足運びや手の位置など、確かで、連れていかれてみるあたしも、楽しませてもらう。そんな事を思い出した、昨日。亡き祖母は、あたしの小さいころ、日舞をさせようと、稽古に通った日々とともに、思い出したのである。若柳流の師匠は、扇子で、腰!脚!と、叩くのだ。習う方は、幼稚園です。いや、その前?小学校3年か4年の時に、両親と、祖母の間に子供の教育の事でトラブルがあったのかして、結局日舞の稽古をやめることになった。(一体何が起こったのか、今でもわからないが)家の外の路地で、祖母とあたしは抱き合って、泣いたのである。このシーンだけが鮮やかに残っている。あたしが、ヘルニアであると分かって、医者が止めたのかもしれないなあ。。中学入学直前に手術をして、さあ、これで、運動が出来ますよ、と、巽先生(近くの外科の先生んちに入院した)が言って下さった。バレエを習いたいと駄々をこねたりもしていた。結局、高校生になって、ダンスを始める。しかしこれは、親に内緒だった。ひと前での表現に関して、強いモチベーションがある。のを自覚する。ホンマ、人間の性格は変わりませんなあ・・。いくつになっても、。好きなんでしょうね。思いがけず、今になってフラダンスを習い始めている。会には出ない方針です。と宣言したにもかかわらず、来月、やってみるのである。これを、病コウモウと言わずして・・。日舞だと、着物で身体を覆うが、フラは、南国の舞踊。肩も腕も出し放題だ。見たくないわ。と、自分でも思うのだ。この一年、、スイミングで、身体のシルエットをあからさまにするのに、ひょっとして、慣れたか???ま、とにかく、来月は踊りに行く。内々の会、という事で、。。要するに、非公開。いつも稽古をしているお仲間となので、楽しみにするあたしである。
2022年03月29日
コメント(0)
今年から、ネトフリにした。評判の、愛の不時着も観た。最終話の中に、リアカーでお豆腐を売って歩いているオジサンのシーンがあって、ああ、子供のころ、こういうシーンが、あたしにも、あったんだ・・。と、思い出す。夕食の時に、夫に(同じ世代)聞くと、あったなあ、と言った。関東は、ラッパ。関西(と言っても、大阪北部しか知らないけれど)は、チリンチリン、と、鐘だった。クリスマスにおなじみのあのベル、の大きいのをオジサンは振っていた。容器持参で、お豆腐、、ください。。と、買いに行ったのか?そこんところはあまり覚えていない。家で、お風呂に入って、(木のお風呂)お豆腐屋さんごっこをしたのはよく覚えている。だから、その、売りに来たお豆腐屋さんは、木の水槽だったんだろう。祖母の事を思い出す。19歳のときに大恋愛をして、もうすでに結婚していた姉に、その結婚のことで大変叱られ、髪の毛を持って、(姉の婚家の箕面の家の座敷で、)引きずり倒された。と、他の親戚から聞いた事があり、これは、かつてブログに書いたかも。。結局、反対された結婚をして、9番目の妻になった祖母の事だ。はて、彼女は確か、、辰年であったから、いつ頃生まれなんだろうと、ネットで調べた。あたしが、中学2年の時に亡くなっている。西暦では、1880年生まれなんだ。。葵の鉢の世話と、カナリアの世話とが趣味と言えば趣味、洋服は着なかったと記憶する。あたしの母は、こいちゃん、と親類からは呼ばれる。(い、にアクセント)一番下の娘の事をそう呼ぶのだそうで、船場ことば。細雪の世界。本でも、映画でも、セリフ自体が自分ちと同じ。この本を読んでいるせいかも・・。↓半藤一利 語りつくした戦争と平和 [ 保坂正康 ]50年後には、今名前がついている職業の35%しか、存在せず。という調査が米国であるらしい。わたしたちは、子供たちに、何を伝えるのだろう。
2022年03月28日
コメント(0)
圧縮ウールのジャケット、約30年前に入手したものだが、気に入っていた赤で、刺繡(機械)が飛び飛びにあって、さて、と出したら、ひどい虫食いで、せっせかツヅクりに励み、これを、アクセント、一つの胸のアクセサリーにと、ピンブローチをつけたのだった。。と、思い出した。それが、2016年の事だとあらためて、ハッキリ、思い出した。これを着て、新幹線に乗り、一路東京を目指す。しさんからの、プレゼントだったこのピンブローチ。今は昔の、、延期になった東京オリンピックのだ。この間、着よう!と、思った。それまでは、着ることが出来なかった。これを着て出かけ、新幹線で、、夫の大事故(右足切断)の知らせを受けたので・・。昨年の11月で、その事故から5年。命にかかわることであったので、当時、ああ、彼は後5年生きていくことが出来るだろうか、と思ったものである。(おかげさまで、命は繋がり、何とか毎日、農作業に、病院通いに、つましくそれなりに、暮らしている。)こんなメモリーに続いて、、かつて首相であった人が中央に座って、喜びが全身に弾けた様子の大人数の集合写真をすぐ想起する。このジャケットと着ようとして、セーターに何か引っかかり、あれ、つづくりがまだ不足だったかしらと思ってみると、、小さな小さなこのピンブローチが。(つけたことを忘れている)1センチ余×3センチ未満の艶やかな板は、今あたしのデスクの一隅にあり、ピンのおかげで斜めに横たわり、こちらを見ている。5年以上前でも、ワードローブにずらありと並ぶ衣服を見て、(この間整理は少ししたが)着れそうなものはすべて、修理し、新しくは購入しないと決心した。特にニット物は、その作業で充分、時間が稼げる。先月、毛糸たくさん発見の写真は、この修理時代のものである。と、繋がった。修理した、だから着用できる、のサイクルで行けると思いきや、とてもとても、すべてをまた着ることなど、(修繕した時はそうしようと思っていた)出来なかった。修繕してまた、衣装箱に入ったままである。要するに、新しく購入は無いし、持っているものさえ一通りも来ていないのだ。思い入れだけが、残る。生物としての静物ほぼ読了。
2022年03月25日
コメント(0)
ユーチューブの上沼恵美子チャンネルを観た。笑った笑った。癒された。ご主人の上沼シンペイさんは、あたしと同じ石橋小学校で、一学年上。確か、奥村チヨさんも一年上だったなあ。上沼君、と呼んでいたと思うが、小学校が同じばかりでなく、同じ放送部だった。彼は、機械操作の方で、あたしはアナウンサーだった。長いコードを、肘を使って巻くのは、彼に教えてもらったと記憶する。住まいの方もすぐご近所で、ご家族皆さんと親しくしていただいた。シンペイ君には、お姉さんがおられて、そのお姉さんのお洋服のお古を貰っていた。そのうちの一つの、厚手の綿のワンピース、ブルーグリーンの色で、白のテープが縁取ってあった。長く着せてもらって、半そでのを袖なしに、自分で作り直した記憶がある。これが、、大体60年前。中学が、あたしは、地元の公立へ行き、シンペイ君は付属(大阪教育大)に行ったと思う。ただ、家が近くであったので、消息は家族を通じて、分かっていた。だから、関学に行かれたことも知っていた。あたしは、浪人し、母が亡くなり、、と、怒涛の青春時代を迎える。これが50年前。もうすっかり、過去の思い出になってしまうところが、、恵美子さんとご結婚のニュースで、一気にいろんなことを思い出したものだ。これが、40年前。昨日のことのように、とはよくある語り口である。本人、(あたしのこと)にすれば、固有の思い出なのであるが、他人さんにはトンと、面白くもない何でもない事柄なのだろうと思う。しかし、恵美子さんは素敵な女性だ。芸能界で、女性で、長く人気を保つことが出来る人は、そうそう多くない。しゃべりの間(ま)、がいいんでしょうね。これが難しいのだろうけれど・・。馴染みの語り口の関西弁が、心地よいし、何と言ってもおもろい!ので、ついつい、、続けて観てしまった。チャンネル登録、などというシステムがあるらしいが、、ま、いつでも見られるし、いいか。今日は、昨日と打って変わって春爛漫の空気感。頭もふやけておる。
2022年03月14日
コメント(0)
朝起きると、雪である。昨日の日記で、湿ったか、。。
2022年03月06日
コメント(2)
プレdルg 、、プレデラグ、と表記すればこのようになるが、Rと、Dと、Gは、くぐもった言い方、人の名前、である。彼は、ユーゴスラビア(当時)からの留学生で、あたしもその時期に同じクラスにいた。デンマークのアカデミーでのこと。プレちゃん(としておこう)は、キーステン(これもちと違うけど)と、同居していた。キーステンは、デンマークの女の子。彼女は学生ではなかった。所謂、ペーパーマリーであったかもしれない。コペンハーゲンにある、さまざまな寮で、本当に頻繁に、、留学生たちはつるんでいた。毎週末にはパーティーをして、いつの間にかそれが、回り持ちになり、、というわけで、36か国から来ているので、市内の学生寮の場所は大概、名前だけで、行けるようになった。半世紀前の話である。ウクライナの事が今の時代は瞬時に世界を駆け巡る。半世紀前はどうであったろうか。プレちゃんは、180センチくらいで、スリム。髭の濃い、イケメンである。ただ、お酒が入ると、、いつも、国際問題では口論になり、激昂する事もしばしばだった。パーティーの時は、ダンスに興じることもあり、プレちゃんの「コサックダンス」は、秀逸。あの、手を前に組んで肘を肩まで上げた姿勢で、腰を落として、足を交互に前に上げて、、ってやつだ。それだけじゃない、もっとたくさんのステップがあって、皆でぐるぐる回るのも、教えてもらった。聞けば彼は、コペンハーゲンに来る前、ユーゴスラビアで、DJをしていたと言う。ある時、、踊りの途中で、クリミア半島から西側ギリシャあたりまでの、あたしには、全く縁のないその地方の、民族問題について話してくれたことがある。質問をしたので、かどうか、、とにかく段々熱心に話しだし、踊るのをやめて、違う民族のルツボ、、的な歴史の事を話し始めたのだ。これは、かつて、日記に書いたことがあるのではないかと思うが、今はもう忘れてしまっている。ウクライナ、で、思い出したのだ。問題点はですな、、とハッキリその時、認識したわけじゃないけど、とにかく大変ややこしいことであるんだと、思った。日本は、島国であるので、こういう問題を把握するには、無理があった。この留学の後、エルサマリア(同級生だった)が、レバノンでテロに遭遇し亡くなったこと、ひろ子さん(同級生)から聞いた。キッチリ数えたわけじゃないけど、あの時は少なくとも同じクラスに36か国の国からの、学生がいたのだ。半世紀前なので、今はその人たち、どうしているかは全く分からないけど、あたしにとっては、大切な記憶である。36か国の点、が地球儀の上ににばらけている。
2022年02月26日
コメント(0)
今日は天皇誕生日で休日。ついでに、ウチの商売(ネット通販)の定休日。昭和の戦後生まれのあたしには、天皇誕生日、と言えば、4月29日であった。覚えていますよ、次の平成の時は、12月23日。休みは、しっかり、覚えなくてわ。今の天皇は62歳になられたとか。Netflicsを見始めて、ドラマを最後まで観たのは初めてで、つまりはイッキミ。それは、CROWN だった。すごかった。ウィキが大活躍だった。俳優さん達がすごい。もちろん、脚本も。日本人なら普通に、我が国の、、皇室、、と、思いが行かないはずはないと思う。あたしは、チャールズ皇太子と同い年である。自慢にもならんが。さて、その天皇のスピーチに「きちんと」という言葉が入っていた。予想するに、きちんと、ってのは大和言葉ではないかと思って調べたが、案外古く、語源は中国かららしい。既緊都 となっている。へえー。正確なさま。ということらしい。黒豆味噌を作る。豆と、塩、そして、麹(こうじ)、きちんと計って、美味しくしよう!2月の最終週は、味噌作りウイークだな。。
2022年02月23日
コメント(0)
2年前の2月、。お昼寝していたんだ・・。懐かしさが込み上げる。
2022年02月08日
コメント(0)
濃い緑の毛糸、と思って買い物のついでに探すが、無かった。100均の毛糸売り場は色が少ない。ムートンの色見本の端切れがあったはずと意を決して、二階の物置に出かける。色見本は無かったが、その手前に、、ありましたがな。古い毛糸類が・・。緑も小さいが玉があった。もうこれにしようと作成。するが、、密は、この毛糸には向いてない。疎、でいこう。有機的な感じ、などとうそぶいて・・。(巻く回数の感覚を忘れてしまっている)この緑が、つづくりのセーターの緑と呼応してくれないかと、。。あまり、作者の意図は今回反映されないが、これでいい。ところで、毛糸類が見つかった、と書いたが、結局、半日は、この片付けで費やす。ゆるやかな時間が流れる。感謝。
2022年01月31日
コメント(0)
ユーチューブのお手本は、ライトグレーの毛糸であった。あたしは、手元に行き場のない毛糸という、あてがいぶちの、緑系混色。穏当なところでは、濃い緑、つまりダークグリーンの極細の小さめのポンポン。いや、同じ混色で大きなポンポン。紫の明るい色の羊の毛のポンポン、(これは家のどこかにあるはず)そういえば、、他の色もあったっけ、。。ポンポン、ということばは、関西では、子供のお腹の事を言うのだった。亡き母が、あたしが幼児のとき、スキー用に帽子を編んでくれた。それは、棒針で、中細毛糸で、小豆色の、漉し餡が渇いたような何ともいえない含蓄のある色で、裏編みのストライプを濃いグリーンで8ミリくらいの幅で横縞に4センチごとに入っているといういささかのめりこみ過ぎの作品?だった。マフラーも同じデザインだった。あたしはこの、小豆色が嫌いで、いらん!と即座に脱ぎ捨てたものだから、母は、以来、あたしには、編んでくれなかった、、様に記憶する。この、漉し餡色じゃなければ、おそらく、愛用していたと思う。って、65年も前のこと、言えるか?帽子は出来上がったが、そして、暖かいが、この色もあたしには似合わない。似合う似合わんなど、言うてられません。かぶる人はすでに、ヘロヘロです。起きしなに、亡き母の作った作品の数々、思い出していた。おへその部分だけをくりぬいたワンピース(夏用)、マフィア風のチェックのパンツスーツ(冬)、プリーツスカートのウエストの所を首に持って来てのスモック、タコ足のコーデュロイのバッグ、(紐が底からブラブラ生えている)アメーバのような不定形のビーズの髪飾り、。枚挙にいとまがない。とにかく、ぶっ飛んでいた。
2022年01月30日
コメント(0)
永年使用の、ノルディックセーターの袖口。購入は1990年代である。GEIGER(ガイガー)というブランドで、洋服屋をしていたあたしは、このブランドを取り扱っていた。(とゆーわけで、卸値で、。)男物。毎年厳寒の時期になるとお出まし。ただ、少々くたぶれてきているので、家用にしておった。外に着ていこうと思えば、ちゃんとツヅクらないと(修理)いけません。他のセーターは必要に応じて、修理をしていたが、これは、(ほころび、破れなどが)目立たないので気がつかなかったこともあるし、めんどいし、ということもあって、そのまま着倒す。と思っていたか、ただ怠けていたか、やる気がなかったか、。。要するに穴があろうが、綻びようが、そのままであったという事。冬装束の一番上に着て、重宝する。過日、時間がせいて、プールに行くのにこのセーターを着て行った。コート代わりである。首にはマフラーをくくり、ジーンズに手袋、そしてロングブーツ、という恰好。バッグを斜め掛け。どうせ、すぐ水着になるし、スイミングの後は車で移動だし、マスクしてるし、、ササっと用事を済ませればいいさ、てな感じでね。穴も破れも分からないだろう、と、。プールの着替え室で、仲間のいさんが、あたしのこのセーターに着目してくださり、いいなあ、こんなセーター!と、激賞。もう、冷や汗ものであった。模様があるので目がちかちかするから、ボロボロである、ことはきっと気がつかれなかっただろうと、希望的観測。帰宅して、そうか、オヌシ(セーターのこと)、も外に出るか。。と聞くと、嬉しそうに返事をしたので、じゃあいっちょ、やりますか。。と、つづくりに取り組んだ。つづくりも数年振りである。肩こりがひどくなるのでもう出来ないかとあきらめの気持ちもあったし。百均で、毛糸購入。あたしのつづくりは、原状回復がミッションではなく、現状を如何に止揚するか。ってのだから、何かいいアイデアはないかと七転八倒したが、いいアイデアは来てくれず、結局、糸での補修となった。。ただ、この袖口の他にもおそらく、毛糸が痩せてすりきれとかが他にもあるだろうから、考えることはやめないで、今回は、肘と袖口で一応終わりとする。さて、今回のつづくり大作戦に参加が叶わなんだ毛糸。横目で見て、、帽子は言うに及ばず、セーターから、ストールから、赤子のブランケットまで、編み棒ひとつで編みまくった日もあったというのに、視力減退、忍耐力減退、と減退続きの昨今である。帽子一つ、くらいは出来そうかなと、思った次第。そういえば、帽子が欲しかったんだった。。と気がついて、。昨日の夜、ユーチューブで、編み物教室を見つけて、モニターみて、編んで、とやっていると、、毛糸がなくなった。。後、3玉は必要だろう。300円、いや、330円、のお楽しみである。ちゃんと編みあがった写真をお見せしたいと思っています。さて、どうなりますやら、。。
2022年01月28日
コメント(0)
合唱は、コロナと相性が悪く、長い間思い切り皆で声を合わせて歌うという事がここ数年できていない。2年前の今頃から、新型コロナウイルスのパンデミックが始まったのだった。学校も一斉休校となる中、当然、趣味の合唱サークルは練習中止である。あたしが参加するばあばたちの合唱サークルも影響をまともに受けて、加えて、向こう見ずな人たちではないので、慎重に対応しましょう、というわけで、月に2回(コンサートがあるときは月に3回あるいは4回)の集まりも出来なくなった。ウイルスの流行の波の高い低いに合わせて、それでも、なんとか再開したりやめたり、、を繰り返し、お稽古バッグの中には、顔全体を覆うフェイスカバーとか、替えのマスクとかが入っている。しばらく、いつもの練習会場のお部屋ではなく、コンサートホールの入り口の広い場所を借りて、ピアノも移動して、天上の高いところでやったりした。そんなにまでして歌いたいか?というほどである。だだっ広い場所で、ディスタンスも取り、顔にカバー、マスクして、歌うのである。継続は力なり。ようやく、昨年12月から、元の練習場所のお部屋に戻ったばかり。。。こないだ、年が明けてはじめての練習だったが、雪が降った。団員の年齢を考えると、こういう天候では、集まりが悪くなる。それでも、コアなメンバー、一通りそろって30名足らず。いやもう少し少なかったかな?先生は必ず、練習の前に体操をされて、そして発声練習に入るのだが、この、ストレッチがなかなかに効くのである。股関節の回しとか、膝の屈伸なども入る。そして、姿勢。次に、発声関連、となるが、発声と言っても、声は出さず、顔の筋肉の運動から。次いで、息の練習。息と言っても横隔膜の運動から、と、なかなか歌、まではたどり着かない。それでいいと思っている。そして、喉を使うのだが、いつもはリトミックで、身体と声とを連動させるリズム運動があって、さて、。まだ、練習曲に入らず、みんなのうた、みたいなものを少し歌う。先生の選曲ではあるがメンバーがよくよく知っているもの、つまり童謡唱歌。前回は、スキー、冬の星座、冬の夜、。の3曲だった。どれも、歌詞も覚えているので、懐かしく歌えるのだが、あたしは、、こういう唄には、とんと涙腺が弱くなり、泣きそうになる。スキー♪は、子供のころ、父と日帰りで行った神鍋高原のスキー場、信州のスキー場、立山のダウンヒル、ノルウエーのスキー場、、本当に走馬灯のように思い出が駆け巡るのだ。リフトに乗って、山の頂上まで行く途中の森の景色とか、もうたまりませんの。そういう思い出とともに、幾星霜・・。そしてあたしは今、参加できる団体があって、楽しい仲間がいて、声を合わせて、優秀な先生の指導があり、上手なピアノ伴奏があり、贅沢な練習会場があり、まあ何とか元気で、出かけてこちらに来ることが出来て、声も出る。来る途中には、、ゆっくりと車を走らせて、雪景色に感動して、ああ、キレイだなあ、と思い、食料品の買い物程度だと、後顧の憂いなく必要なものは買うことが出来る。こんな、有難いこと、無いでしょう?というわけで、。。泣きそうになるのです。今日は小正月。冷えるので、ストーブをガンガン炊いている。
2022年01月15日
コメント(0)
70年近く前の話。父が、クリスマスイブの夜、その日はちょうど雪が降っていた。夜になって、もうそろそろ寝どこに入ろうかと言うとき、聴こえない?ほうら聴こえるでしょ?と、父が言った。「?」と、父の顔を見たあたし。静かな夜があるばかり。かすかに、かすかに、、鈴の音が聞こえていた。。「サンタクロースの橇だね!」と、父。確かに、鈴の音は聞こえたが、さて、一体だれが、その音を出したのだろうか。。と、思い出したときにはて?と思ったが、今は確かめるすべもない。母は家の中に居たはずだし・・。弟はまだ小さかった。父とあたしが、対面で遠くの鈴の音を聞いた。雪の夜。クリスマスの夜。人間、時が経っても覚えているもんだな。。。ジョンレノンの、So this is Christmas ラジオで聴いた。
2021年12月24日
コメント(2)
休眠口座解約手続きに街まで出かけた。二つの街に行かねばならぬと思っていたが、最初に行った遠い方で、完結することが分かり、それはそれでよかったが、3個の内通帳持参が1個だけで、後の2個はカードだけ持って行ったので時間がかかった。解約の時は必ず通帳が要る。勉強になったが、もう遅い。銀行の支店の窓口で、数名の担当に次々変わって、そのうちのお一人に、手広くお仕事をしておられたのですね、。と話しかけられた。これは、いついつ創業、これは、その数年後、そしてこれは、、と話すと。私の生まれる前です。。と言われた。ああ、。なんだか、吹っ切れた。この3個は束ねて、法人にして17年だもの。そりゃそうさね。考えてみれば・・。口座に残っていたお金は、合計で、2千円ちょっと。さすが、ケチで貧乏なあたしらしい。さてと、。この思わぬ収入にウキウキし、お向かいの百貨店へ。宝飾品、化粧品、衣服、帽子、などは、目に飛び込んでこず、ザンネン。お弁当を買ってみようと地下食料品街へ。値段を見て、驚いて、息を吸うと、驚くばかりで吸うばかりになり呼吸困難になりそうだった。この現象は田舎暮らしをしてしばらく経過してからは変わらない。ただ、お目当ての玄米スープが欲しかったので、一番奥の乾物コーナーに回る。「千鳥酢」を見つけた。村山造酢 千鳥酢 900mlあら、島ザラメ(お砂糖)もあるじゃん、と2個かごへ。あら、これも、とかで、結構沢山になっちゃった。気づけばよいのに欲しかった調味料類をガバと買ってしまった。その、重い事。デパートの地下から、駅の改札まで、歩くわけだから、。。カートなどという便利な物は無いのです・・。ほぼ傘は要らない通路とは言え、両手に持った袋がドーンと地面方向に引っ張ってくれる。しょうがない、電車に乗るまでは。。あなたの生まれる前から、仕事をして来たんだよなあ・・。と、雨が降って来る空を見た。
2021年12月07日
コメント(0)
コペンハーゲン市の北東部、人口湖の上端から一つ二つ通りをさらに北へ行ったところ。ヴィレモスゲイド、と発音する。この58番地のアパートの最上階があたしの住まいだった事がある。「最上階」とは、いわゆる屋根裏部屋である。階段を上って、たしか、5階の上だった。家賃は当時、400クローナくらいであったか。家主のクリスチャンセンさんは、お爺さんで、ドイツ語が得意。第一次世界大戦ではドイツに占領されていたからか。英語はあまり得意でなかった。あたしの部屋のだるまストーブが壊れたとき、翌日すぐに電気ストーブの差し入れがあり、お気遣いいただいたのだと今になって思う。一時帰国した時に、その家主さんに日本の京都の何か小さなお土産を買い、渡したのだが、数日して奥様が、ガラスのこれまた小さなキャンドルスタンドをお返しに下さった。お返し、などとは露ほども思っていなかったあたしは、その時、人間って、地球上では、どこも同じなんだと、感動したことを覚えている。お向かいの同じ、屋根裏部屋には、同じ学生のボー君がいた。明らかに高校生程度の青年。下の階からまともな?部屋になるが、エルサマリア、という二十過ぎのナース。彼女とよく話した。彼女は、デンマーク語で、あたしは英語。お互いあまり相手の話す言語は上手ではないから意思疎通に時間がかかる。しかし、仲良しだった。特筆すべきは、彼女は、いわゆるなさぬ仲の家族で大きくなり、で12歳の時に独立した、と言ってたことだ。へー。と、当時は、滞在するこの国の制度や青少年施策のほとんどにあたしは無知であるので、そんなことが(12歳で家出して一人暮らし)可能かどうか大いに疑問にも思ったが、本人が言うのだからと、そのまま、それを受け入れて隣人としてお付き合いしていた。おそらく、家族別居の制度とかが日本と違ったのだろう。当時すでに、未婚の女性が妊娠出産した時、相手の男性は、国に養育費を払い、女性は国から養育費が支払われる。という、国家介入?があったことである。それほど、かの国は日本と違った。このアパートは、古いタイプのレンガ造りで、回転して昇る階段で、下から上まで見上げることが出来る。壁は、石、と思いきや、板に石の模様が描いてあった。触らないと分からないほどに上手に描いてあった。北欧は、シュバルツヴァルトのドイツよりも北で、木が多い。南欧のような石は少ないのだ。様式は伝わり、方法は現地対応である。階段を上ると、そこが1階で、地面の階数以前の入り口の奥には、納屋のようなスペースがあって裏庭に続く。森鴎外の小説にも出てくる。あたしの住んだアパートでは、その納屋はいつも獣の臭いがした。住人は、動物園勤務のカップル、公務員、看護師、学生、などの集合体で、おまけに、共同キッチンであったので、おかげさまで、あたしは、ディープ・コペンハーゲンをしばらく過ごすことが出来たってわけだ。フリカデラ(茹でミンチ肉団子)、という名前もこのアパートで覚えた。半年ばかりの滞在後、次の最新型寮に引っ越したのであるが・・。(いろんな住まいを経験しようと決めていたので)昨夜、夕食時、(アジの刺身)たまたま、鶏のメニューの話になり、ロイヤル・アカデミーの学生食堂では、鶏2分の一、がお皿に乗った。(と言うメニューがあった)とか、先生用の食堂もあった、とかの話が出て、昔のことを思い出した。今年もストーブも炊き始めて、薪をくべて、アパートのだるまストーブが壊れたことを思い出して。。
2021年11月21日
コメント(0)
昨日は、愛犬が亡くなった日だった。一年経過。思いは、言葉にするには難し過ぎるが、一昨日、買い物に出て、虹が出た。あたしの、感情と近い。埃まみれの熊のぬいぐるみは、アイルランド製で、背中から手が入るように作られており、これで、パペットのように遊ぶことが出来るので、棄てられなくて置いてある。英語教室で使えるかもと、思い立ち、洗濯する。今は、水きりの後、干してある。28日の翌日、つまり29日、今日だが、先般より、歌仲間シニアミセス(と呼んでおこう、自分の事だとばーちゃん、と簡単に言えるが)4人で、ライブをしようじゃないかという話になり、なんとか、、実現に向けて話が進んでいる。その打ち合わせの日だ。やろう!という気持ちが湧いてくる、ってのは、楽しいもんである。
2021年09月29日
コメント(0)
こないだ、大学時代の同級生からハガキが来た。その前に、電話が来ていた。電話から数週間が過ぎている。ウジウジする時期なのだろう。ご同輩。昨日、ようやくハガキの返事をハガキで投函。ゴソゴソとデスクの下の引き出しを探して古いハガキを見つけ出し、52円か、今はさて?幾らになっているのだろうかと思いつつ・・。彼女からのハガキの文面。前略、ブラブラブラ・・この前はお電話ありがとう。中略、随分前のことですが、二人目ができなくって、あなたにTELした時、「一人あげよか」と言われて、ずいぶん気持ちが楽になった事を思い出しました、あれから40年くらいかナ、かわいかった私たちも70代に突入。後略一人あげよか、と言ったこと、覚えているのだ。こちらは覚えていない以前の世界である。人それぞれ、タイプがある。それで楽になったのなら、良かった。昨日は朝からスイミングに出かけた。雨がひどく降ってきていたので、少し早めに屋内駐車場を目指す。同じことを考えるクラスメイト、多かった。受付で、何やら上の方に色紙が貼ってある。若い男女の写真と。飲み屋さんの壁に貼ってあるようなやつ。どなたなんだろう?と眺めていた。誰かが、キタジマコウスケやんか。と言った。知らなかった。正直にへえ、どなた?と発言。。一同、サ―ッと空気が変わった。ご親切にもキャッチ―な、何かのCMのフレーズも教えて下さる。が、。あたしは、長い間テレビは見ていない。ので、さっぱり。そういえば、そんなお名前聞いた事がある、、程度で、。なんでも、奥さんがこちらの出身らしく、いつのことやら知らないが、このプールをご訪問の由。顔をぐんと上に向けないと見えないところに貼ってあった。しかも、ビニールのカバーつき。受付を通ることを8か月もしているのに、昨日までこの色紙の存在は分からなかった。夫の用が立て続けに数個、浮上して、とにかく、こなす。午睡が遅れたが、なんとか確保。5時になる。ジャズピアノの先生、来てしまった。いよいよ、出げいこになるので日程調整を半月前にしたのである。曜日が火曜から木曜に変更になるのを、すっかり忘れており、カレンダーにも記入していなかった。不覚!居て下さったので良かったですと、いやホンマ、おってよかった。一昨日は、ある事で、外部の方とメールやり取りがあって、うっかり、日にちを9月9日、としてしまい、9月8日、と訂正されたばかりである。牛若丸も老いたのだ。片足の弁慶、なんとか、持ちこたえて現状維持でよろしく、の心境。
2021年09月03日
コメント(0)
8月最後の日は、しみじみ、明日から学校だな・・。宿題してないなあ・・どうしようかな・・。と思いにふける日であった。今は昔。やってない事ばかり思い出す。完全にこれで、無事に明日から新学期を迎える!と、おおいばりで9月の1日を迎えたことなどあったのだろうか。あったかもしれない、。当り前のことだからそういう展開は皆、忘れてしまって、焦ったことばかり、印象として残るのだろうか。とにかく全体がいい加減なあたし、であったなあとしか、思い出せない。おそらくは、「宿題」の呪縛かも。長じるにつれて、逃れる方法も要領を得て、うまく立ち回っていただけかもしれない。どうなんだろう。孫の英語スピーチの原稿の添削サポートのお知らせが入ったのは、午後3時である。こちらにすれば、何を突然、、の気分で、あちらにすれば、昼になる前から連絡しているのにどうして(電話)出てくれないか、と焦っている。取りこぼしの課題である。あとは出来ているのだから、(一つくらい)数日(提出)遅れても、大丈夫だよと、孫と話したら、娘からメールで、即、強いお叱り。ほほ。でも結局、しゃあない、見るか。となって。。。こんまい英字を読む羽目になり、大変だった。いい加減な親からは、キッチリタイプの子が出来るのかしら。いえいえ、締め切り直前に大騒ぎになる、というのは、やはり受け継いでいるのかしら。英文を眺めて、、あれ?これは中学生の作ったものじゃないんでは?と感じたので孫に聞く。どうやったのさ、翻訳機?案の定、そう。と返事。でかした、孫よ。いえいえ、(あたしは、何でもいいと思うので・・注*)慎重に、こね回したいところ、なんせ夕暮れはすぐそこだ。やっつけで、返し、形だけは整って。無事間にあったそうです。結局、夕食のフライはようせんかった。どっと座り込んだ。楽しいパニックタイムだった。*注:日本語原稿が本当によく書けていたので、もう十分と思ったので。空はすっかり秋だがや・・。
2021年09月01日
コメント(0)
今年1月からレッスンに励むスイミングプールは、市の運動公園の一隅にあって、その横のグラウンドは、冠ネーミングで、有名飲料水の会社の名前がついている。室内プールの建物は、高い屋根で、巨鳥の翼半分が覆いかぶさるようなハイカラなデザイン。屋根以外は周囲ガラス張りでなんとも、田舎のプールにはあり得ないほど、(失礼、田舎だから可能であるかも)広々として、緑豊かな里山が一望できるちょっと高台に鎮座まします。プールの水面が、グラウンドのレベルとほぼ同じ。ここで、プハー!と浮いたり出来るのだから最高だ。プハー、と浮くだけでは物足りない。カッコよくスイスイ泳げるとどんなにか楽しいだろうと、思ってしまったのが、、運のつき。泳げる、という幻想を抱いたのは自分であるので、誰を責めるわけにもいかず、。時間は過ぎて行く。実際、年齢的にいかがなものか、とは正直今は思うが、もう遅い。ダブルの意味で。カメラ御法度故、が言い訳ではあるが、季節がよくなれば気持ちに余裕も出来るだろうし、ぜひまた、プール周りを写真に撮ろう。先日、朝一のウオーキング(水中)のクラスに出向いたとき、でっかいはしご車がグラウンドの横に待機していた。ほどなく、救急車が到着、そして、ヘリコプターが着陸しようと空から現れた。このグラウンドは、ヘリポートでもあるのだ。 夫が、このヘリポートから神戸の救急医療センターに運ばれたのは、 5年前の11月22日であった。 ヘリコプターに乗ったときは、かろうじてまだ、五体満足ではあったが、 24時間後には、残念ながら右足を諦めないといけなかった。 ヘリの中で治療が始まり、家族のゴーサインなしに輸血を決断してくださったのはドクター。 それで、いのちは救われた。あたしは新幹線で東京に向かう途中だった。ヘリコプターは着いたが、なかなか飛び立たない。一つは、それほど急がなくてもいい場合は、カラで帰るそうだ。コーチは言う。そうか、。いろいろマニュアルがあるんだな。。もう一つは、、受け入れ先が決まらない場合、、ではないか、と野次馬は語り合ったことだった。医療ひっ迫の状況を人々は熟知している。水中ウオーキングのクラスは、スイミングと違って、話し声飛び交う。生徒の頭は水上にあるからだ。これが、子供のクラスだと、所謂ハタラク自動車オンパレードのこの光景。まったく、授業にならないそうだ。ほぼ5年経って、あたしは、この時、何も起こらなかったように水の中で歩いており、1人の傍観者としてクラスの他の方と話したりしている。当の夫は、畑に出て、黒豆の苗のチェックして、健康福祉センターに体操に出かける。バスに乗って。悪性新生物の場合に予後5年生存率とか言われたりするが、怪我した当時は、5年、という時間が少し気になったのを記憶している。そうか、。5年経ったか・・。赤とんぼが群れて、グラウンドに舞う。秋が来ている。
2021年08月29日
コメント(0)
スイミングに行って、歩くだけ、バシャバシャ泳ごうとするだけ、ではなく、実は、、潜ってプハー!ってのも、最近やるようになった。壁を蹴って底に近いところまで進んで、、しばらくカエル脚で進み、息が続いている間は潜ったまま進んで、、苦しくなると水面に上がろうとして、上に向き、、そして、クジラのようにプハー!と、背中から水鉄砲・・なわけはないが、。やってみようと思った頃は、5メートル行くともうダメ、だったけど、最近は時々、10メートルくらいまで行けるようになった。(プールの底のタイルは、目印に区切りごとに色を変えてある)今年に入り、個人的に屈託が増えて、コロナ禍でもあり、息の詰まる日々が続いて、、まあ、人生とはこういうものだろうとは思うが、老年のあたしには、キツイこともある。そんなときに、ふと眺めるのが「石」である。路傍の石、、だといいが、いや、路傍の石に癒されるほどには、人間が全く出来ていないので、あたしの場合は、きらきら光る石、なんだが、。何十年も集めるばかりのことをして、さして、富の蓄積になっているかと言うとそうではなく、単に、子供時代のカード集めや、切手収集と変わりない。もともと、それに、投資するとかそういう考えも原資もなく、あらキレイ。だけのことだ。これは、ルビー(写真上の方)だが、突然、リングにしようと思って、適当なキャスト(既製品の石の台)を探したりしたが、最近は高騰しており、それと、本来あまり好きではない宛がいぶちだし、逡巡し、結局、オーダーにしようと決心した。こちらは、お付き合い30年。しかし田舎に移住してからはご無沙汰だった。小商いしている時は、本当にお世話になった。お客様へお届けのジュエリーは数知れずだが、当方の所に来るものはほんの僅か。余程の幸運で、安く入手できた石しか、装飾品として手元には無い。そうそう、夫が拾ったダイヤリング、を警察に届け、晴れて落とし主なしで、頂いて、それを作り直したこともあったっけ・・。折角お送りいただいた石ですが、、と連絡があって、「良くない」とのご託宣。急遽、探し出し、同じ大きさっぽいタンザナイトと、ルビー(写真下のペア)、を追加で送る。タンザナイト(命名はティファニーと聞いている。本来は、ゾイサイト)は、合格、だった。で、出来上がったのが、、わーい!ルースの時より、大いに出世した。ばらけている石を整理しようかと思って、これである。道遠し。。ちなみに、、ペアのルビーはデザインの段階でボツになりました。またの機会に、。いつのことやら・・。
2021年07月30日
コメント(2)
中高と同窓生であった、ジちゃんからメール。このところ、病院と縁が切れない。今度は、胆石だと言う。去年は、抗がん剤治療で頑張ってたのに。夏の終わりには、もう一度手術だと。大変だなあ・・。コロナ禍、いや、コロナ下、かしら、、コロナ禍下、か。面会不可の状態で手持無沙汰になったのだろう。同級生ネットワークの連絡網?があるので、知人友人の訃報などは通っている、、とは思うが病院からのメールに、訃報を返すのは気が引ける。こちらは元気です。暑いです。ところでワクチンは、、と、あっさり返したが、。待てよ、彼女は、中学で一緒だけ?中高一緒?小中高じゃない事は確かだが、。と、少し頭が混乱した。こないだ、もたらされた同級生の訃報2件は、どの辺の繋がりであったか。。確認に、情報元へメール。メールしながら、、途中で、無駄な努力をしている。との自覚が湧く。だから、メールに、、こんなメールは書かない方がいいと思い始めましたがここまで書いたので出しますわ。と。。返事が数日後着て、周りが、(同級生)病院まみれで、気が滅入る。と。。弱音を吐いている。70歳、これからは湯豆腐 私の方丈記 [ 太田 和彦 ]あっさり読了。著者の略歴を読んでから、本に入るのがいつものことだが、なんと、朝倉先生の授業を受けておられる。ああ、あの時代に、同じ先生に学んだ方だ。と、思うだけで読み進める。著者は、お酒が大好きで、関連著書も多数。一方あたしは、あまりお酒自体に縁がない。だから、あまり面白くなかった。日本全国の居酒屋評論もあり、余程のマニアでないとここまでは書けないだろうと思った。老年期のデザイナーのエッセイ、という感じでそれでも楽しかった。お酒以外は、共感する事多数。
2021年07月19日
コメント(0)
ひょっこり突然に現れた亡き父の日記。ささっと読み、遠い記憶の束に収めるはずが、アタマの隅に引っかかり取ることが出来ない。いつの日か、忘れてしまうのだろうが。今のところは、。水の底に、杭があって、思い出の紙片がそれに絡まっては、潮の流れに抗えず、次々とちぎれて、明るい水面に向かって昇っていく。中にはそのまま、引っかかって留まるのがあって。祖父が大阪市野田(今の福島区)に住居を構え、子が8人いた。事業に失敗し、極貧の暮らしとなる。父から直接話を聞いた、キャベツのことも、この日記を読んで思い出した。空腹で食べ物をねだる父、祖母は、彼に一銭だか5銭だか小銭を握らせ、キャベツを一つ買ってきて、と言う。買ってきたキャベツを茹でて、おかかをかける。それが、食事であったと。一方、日記には、、夏はまだ、薄物を着ているだけで良かったが、冬は寒さをしのぐため、家族全員に厚い生地の着物を用意しないといけない。一家の着物は全て母が縫っていたと。(読み手のあたしは当時はそれが当たり前であることは知っている)お母ちゃん、寒い。と、口々に8人の子が言う。縫物に母は没頭する。上の子の物を下の子に回し、と冬物を縫う母。その冬物を縫う母は、まだ、夏物の着物を着たままであった。その母に、まとわりついて、お腹が空いた何か食べるものが欲しい、とねだる子(亡き父)。。その、母との思い出を歌にしている。。中学に上がると、三男であった父は東京の母の実家、つまり加納家に、働きに行く。薬局の小僧さんである。(これは聞いていた)夜学に行ったのだろうか。。1人の餓死者も出さずに、とにもかくにも、8人の子を育て、そして、一家は第2次世界大戦の末期に、北海道へ移住。それが、100年前のことである。ヒマヒマに、日本近代史の学習をするあたしだ。それで、この、1920年恐慌、の単語を知った。文章にすることで、少しづつ、記憶の紙片が水中から明るい水面に向かってヒラヒラと昇る。
2021年07月15日
コメント(0)
再来年になると、あたしがデンマークの王立美術アカデミーに留学して、半世紀になるが、未だに、その学校、そして、デンマークと言う国に、大いなる感謝と、恩義、を感じている。入学を許される、という僥倖は、チャレンジしたからではあるが、一旦、その学校の学生になれば、全ての費用は、無料になった。おまけに、学生パス、なるものも貰って、国内の美術館、博物館、はすべてフリーパス。日本からの仲間には、政府の奨学金をゲットし、生活費もほぼ貧しくない程度に支給されていたが、あたしは、暮らして行くためには、、というか、食べるためには自分で稼がないといけなかった。デザイン事務所のアルバイト、ウエイトレス、などでしのいでとにかく、学びは継続した。年度の終わりの旅行も、ご招待である。翻って、今現在、日本では、大学院生たちは、平均して300万円と言う大金の借金を背負い、苦学する。大変だよね。。教育に、お金が潤沢に回らないと、国はダメになる。本当に嘆かわしい。誰がどこから調達するのか、と言う問題ではなく、これはシステムの問題だ。教育の重要性を真剣に政治的に、論議してもらいたい。そう書いて、ああ、。老女が一人、夕暮れに落ち込んでいる。
2021年07月14日
コメント(0)
単なる数字が、たまたま同じであったので、思い出したこと。一つ目の二万四千円。昭和30年当時(1955年)。父とのサイクリング。この、父と、私、弟の3人のサイクリング熱は、ひとしきり続いたのだが、それが、昭和30年ごろであった。そのある日、お父さんの自転車がなくなった。母は、返したのだ。と言う。そのサイクリング車は、ジュラルミン製で、車体も軽く、ハンドルが下に大きく湾曲し、ツール・ド・フランスで、参加者が皆乗っているようなスポーツタイプのものである。2万4千円もしたのだ。当時。金額を強調し、こどものあたしにも印象が残るセリフ。ので、記憶がある。もちろん、子供は普通の自転車だ。あたしが14インチ、弟は12インチ。贅沢過ぎて、あまりの浪費に母が驚き、返品に至ったのだろう。二つ目の二万四千円は、、。昭和40年当時(1965年)。我が家に、薬屋さんの御用聞きが毎日来ていて、その支払いが、2万4千円。母が亡くなる少し前、薬、、だけではないだろうが、、強い痛み止めを、頻繁に購入していたらしい。(その数年後亡くなるのだが)父は、月に2万4千円も薬代やで!と言ったのだ。。痛み止め、は腹部の痛みの為であったのだと思う。隣町まで電車に乗り、有名な漢方薬屋さんに「百草根」という湿布薬を買いに行ったのは娘のあたしである。同じ2万4千円だが、、ちょいと調べてみた。貨幣価値。2000年と比較。昭和30年当時の一万円は16万円。昭和40年当時の一万円は8万円。(以上ざっくり)するってえと、、父のサイクリング車は、約40万。母の薬代は、約20万。(この方が驚くね)10年で、貨幣価値は半分になっている。平成から、令和になって、あまり貨幣価値に変動が無いので、10年で、半分(倍)になる時代があったのだと、驚いている。叔父が、先日、父の日記文集を送ってくれたので、しばらく、昔の事々を思い出したりしていた。
2021年07月13日
コメント(0)
先日、父方の(8名の内ただ一人、存命)叔父が亡父の句集を送ってくれた。たまたま、昔の品を整理していたら出てきた、という事で。。少し、複雑な家族の歴史であるので、あたしには、辛い。しかし、実の娘なんだから、と思いやってくれた叔父の好意を無駄には出来ない。返事も書かにゃならぬ。ああ、本当に思い、じゃなくて、重い。困難な事は数あれど、一つづつかき分ける。それが人生さ、ってわけで、今朝は手紙のひと時であった。。。:::::::::::::::::::天候不順の折、いかがお過ごしでしょうか。すっかりご無沙汰してしまっています。先日は、亡き父、*の昔の俳句などの当時の日常を記した文章用紙をお送りくだ さり、本当にありがとうございました。詠んだ歌の末尾に61とありますのは、おそらく、昭和61年のことと思って読み ました。(以下、西暦換算で失礼いたします。この文章の束、以下、句集、とします)昭和61年は、1986年です。すでに、35年の月日が過ぎ去ったのだと、感慨無量でございます。少々の間違いがあるやも知れません。また、お会いしました折にご教示くださ い。つらつらと、その当時の父の様子や、**(継母)様との二人暮らしの様子、父の若いころの思い出(初めて知る事ごとも多くございましたが)、そうそう、こういう事を言っていた、、と、句集を読んでいろんな思いが溢れて 来まして感傷的になりました。私が22か、23のとき、ですので、1970年、71年に、**(継母)子さんの一言がきっかけになり、家を出てから15年、自分が1987年、39歳の時に父が亡くなっていますので、1919年生まれの父は、1986年当時67歳、最晩年の句集、という事になります。ほどなく、身体の調子が悪いと、入院したのでしょう。以後の経過は、昨年私が叔父様にお手紙しましたような経過で、亡くなるのですが、ほぼ一年ほどの間に、書かれている事、父の貧しかった子供時代の母を思うことや、そして、自分自身が老いて、その母と、 豊かな食卓を囲むことが出来ると喜んでいる様子や、退職後、バドミントンの競技に趣味 として参加していたと思えるような記述、ご近所の(**様・読売新聞の記者) 様子など、想像し、まさに、実の父、肉親でしか恐らくはこの感覚は理解できな いだろうと思いながら、読ませて頂きました。背中の左肩甲骨の下あたりに、銃創の在った父です。1951年に**に亡き母が家を建てたときに、槙のお風呂があったのですが、そのお風呂に入って、戦争の思い出を語る父でしたが、小さい私には言わない事 の方が多かったのでしょう。父と会えずにいる間、そして、父が亡くなってしま い本当に会えなくなり、結局、長期になりましたこの、35年間に書いてあるもの は多くなく、その断片を思い出すだけでしたが、今回、少しまた、その暗闇の 中、パズルのピースが一つ、二つ、三つ、と明らかになりました。救いです。まるで、お宝のように、いそいそといつも読み返すことは到底できませんが、お送りいただきましたことは、叔父様も言われるとおり、生き残った娘の私が、読んで、また、こちらに留め置くことが適当である、のは納得しております。私の持っている、父の遺品(とは到底言えないおひとさまからは単なるガラク タ)の中に、「バドミントン」という雑誌があります。その中に、バドミントン協会理事であった父が、昔の思い出と称して、連載記事を書いてい ます。字も細かいし、叔父様はご存じの事かもしれませんので、まして、印刷物ですし、迷いましたが、その記事の一部をコピーして同封いたし ます。(トマス杯初参加時、チーム監督として日本代表団を率いる。1954)また、お会いしました時にお見せしたいと思っています。さて、去年は、台風も同行して大変な北海道、でしたが来年は、、コロナもなく、普通に旅が出来そうだ、とお話していたのに、なんと、引き続きのコロナ禍です。予想もしませんでした。ワクチンも無事に2回接種、おすみになられたと拝察いたします。こちらも、なんとか、生き延びてはおります。どうかお元気でお過ごしください。また、お会いできますこと、また一緒に北海道に旅行できますこと、楽しみにしています。ごめんくださいませ。::::::::::::::::::::::::::句集の中に、「南京予備士官学校」、という単語が出ている。ネットで調べたが、あまり多くの情報はないし、正式に学校として存在したのかも不明。。在籍歴の方は多くいるようだ。
2021年07月10日
コメント(2)
【中古】 宝石 改訂版(1) 品質の見分け方と価値の判断のために /諏訪恭一(著者) 【中古】afb図鑑のようなこの本、3冊シリーズで本棚にある。購入時は、各1万円だった。折に触れ、石の種類別に網羅されているので、読みなおす。昨日来、ブルージルコン(いつかは入手したい石の一つ)を見ているが、本当に値上がりしてる。すでに、高嶺の花かもしれない。15706 ブルージルコン 3.03ct 最も魅力的な宝石 一見ブルーダイヤモンド(処理) カンボジア Ratanakiri産 : 瑞浪鉱物展示館 【送料無料】懐に札束入れて、、とは程遠く、いつもミネラルショー(展示会形式の)に出向いていた。。石が好きなので、時が過ぎるのを忘れるくらいに楽しんだ。今は、すぐ歩き疲れてしまうかも知れないし、ちょっと調べたミネラルショーなど、お知らせハガキ一枚で入場できたのに、今は、700円‼も必要だ。日程が合って、気持ちが動けば、また行ってみたい。うーん、700円か・・。お遊びの範囲を超えないお金の使い方と言えば、あたしは、せいぜい一万円以内、と決めているので、大盤振る舞いだとしても、そしてそのチャンスが会場で3回遭遇するとして、3万円、である。さて、そのお財布、池袋のショーの時に、失くした。会場を出てから気がついた。慌てて戻り、ウロウロした順番をたどって、会場をもう一度回る。。焦ったなあ。もしもし、、と、声掛けされて、これあなたのじゃないの?と、いう本人は外国の人。日本語上手。そうです!ありがとう!たくさん入っているみたいだね。とニヤッとされた。(レシートで財布はパンパンに膨れている)このお店(ブース)で、スピネルを値切って買ったのだった。以来、彼とは親しくなって、石友達に。ショーのたびに会場で出会い、おしゃべりしたものだ。パキスタンからのナイームさんと言う。今はロンドンにお兄さんを頼って行ってしまっている。ああ、今は昔。昨日のクロール、少し進展があって、気分がいい。最後尾、には変わりませんが、。
2021年07月04日
コメント(0)
さてと、今日は、じゃがバターだな。とか思っていると隣の府に住まいする叔父から電話。無沙汰を詫び、通り一遍の挨拶して。叔父が言うには、、今日、加納順平の自筆の句が出てきて、その句に添えて、(あなたの)亡き父の句もあるので、郵便で送る。と、。加納順平は、加納諸平の子に当たる。その句、というのが、祖母加納菊子(嫁いだ先があたしの実家)が、順平、齢50歳を過ぎて、生まれた子なので、それを喜んで作った句らしい。菊子は明治10年代に生まれている。とすると、、順平曽祖父は、将軍家斉の時代に生まれているんだな・・。(と遠い目)叔父は、ワクチンのことや、家系の墓地のことなど話し、ではまたと、。状況が落ち着けば、また一緒にゆかりの土地になど出かけてみようと思った。
2021年06月29日
コメント(0)
彼(ホ君)とは、小中高で同じだった。幼馴染。隣の隣の市に住まいする。メールしてきて、2件ほどの話があるという。プールは行かないで、午前中に会う。と、今朝書いた。デスクがホ君という来客のために整理されて(いつもは自堕落)、思いついて、久しぶりに犬のお線香を、と思い。煙があまりに美しいので撮影する。ひ**ゅん、というニックネームの同級生の彼、去年3月に亡くなったと。彼本人の家庭の事情で、その経緯が複雑で、同級生のホ君が、にわか探偵になって、結局、お墓参りまで完結。の話。ずいぶん、探索の努力をしたようだ。。ひ**ゅんは、小学校の6年の時、生徒会会長に立候補。「大男、総身に知恵が回りかね・・」と、演説を始めて、当時あたしは、その文言の意味さえ知らず、一体この人は何を早口でまくし立てているのやら、、と強く印象に残っている。その声も、覚えているくらい。彼は、とびぬけて背が大きく成績も良かったように思う。。ただ、その背は、それから伸びなかった?ので、大人になって会ったとき、小学生の時と同じ大きさだったので、なーんだ。とかも、思ったけれど。や**ゅうは高校の同級生、ホ君と特に親しかった。結婚してからも、家が近くで、家族ぐるみのお付き合い。先月、はやりヤマイで亡くなった。お葬式さえ、。。後は言うまい。そんな事情で、ホ君は溢れたのだろう。とにかく、生きてる人間に会いたかったのだろう。今思う、、なぜあたしは、お線香の写真を撮ったのか?ホ君の来る数時間前である。この二筋の美しい煙に見とれていたんだ。。
2021年06月17日
コメント(2)
亡くなったのは2017年だそうだ。一応は、有名人であったのだろう、ネットで調べた。この人の子供に当たる世代のあたし。高校の同級生、たちゃんが、この人の息子さんと結婚している。ので、ので、たちゃんと同窓会で久しぶりに会ったときにへー!世間は狭い!と、話したのを覚えている。まてよ、。2017年にも、また、たちゃんと同窓会で出会っているが、亡くなったとは聞かなかった。たちゃんとの出会い後、亡くなったのかしら。葉室みちこさんである。若いころ、大阪の夜の街、昼の街で、幾度かお出会いし、何かの・・デザイン関係の催しとかでもご一緒した。初対面の時は、大先輩のさるファッションデザイナーからの紹介である。この、デザイナーさんとは故あって長いお付き合いだったが、あたしの、結婚前のことだ。子供の折、一桁年齢から!何かにつけてあたしを連れ出してくれて・・。やれ、雑誌のモデルだの、新聞のコラムの写真だの、、と、可愛がってくださった。恩人の一人である。彼女には子供が居なかったからかも。美術方面に進学すると、そして、実母が亡くなると、その密着度はいや増して、本当にお世話になった。ある時、大阪キタのあるバーで、この方のご主人は、、ベルリンオリンピックのメダリストなんだよ。と、みちこさんを紹介してくれて、お出会いしたのだった。帽子のデザイナーなんだよ。。あたしは、帽子のデザイナー、などと言う単語を初めて聞くものだから驚いた。その時、ああ、そういうことか、。(どういうことやねん!)と、納得した記憶がある。アパレルの一つの要素として、帽子、ってのも世界がアリ、なんだと。今は昔。たちゃんと、同窓会で話していた時、、義母(はは)は、水泳もすごいんだよ。と確か、、言ってたのではないか?と、思い出し、昨日の数分の、「探索」の結果、なんと彼女は、水泳マスターズの世界記録保持者であった!!長いこと・・。今は、同窓会どころではない。加えて、いつも集まろう!と言い出しべえたちが老いて、もうしんどい(幹事役)などと言ってるから、付き合う方もセットしてくれたら行かんでもないがな、、くらいの低いココロザシしかないし、同窓会自体、実現の可能性も低いんだが、、また、たちゃんに会いたいなあ、と思った。そうか、。ベルリン・オリンピックか・・。
2021年06月06日
コメント(0)
今日は雨だが、昨日は晴れだった。扉の桟の埃が日の光で目立って、ちょいと拭おうとし、あ、ここも、あら、こちらもと、次々に拭いていて、犬用の特注した通り道に、眼が行った。もうダメ。悲しいモードに突入。とは言え、涙が止まらなくなる、、とかはないけれど。(夕刻、ペットロスを調べる。ネットで。どうも、あたしは、それほど深刻でもない、という事だが)すでに、亡くなって8か月が過ぎた。一年の三分の二だ。その間、目立つ大きなもの、つまりケージや、カート、は処分して既にない。チリチリと思い出を引き剥がすように、小さいモノたちも捨ててしまっているが、訓練用のリードと、フードの食器はまだ、。。納屋の分別ゴミコーナーの傍にある。すてらんない。いいのだ。と言い聞かせ。チラと見ては通る日々。こういう風にまとめておいて、正解であった。スイミングに行くために車に乗ったら、ラジオから、、美空ひばりの「悲しい酒」、が流れてきた。おいおい。一緒に歌って、泣いた。半ばやけくそ?に、泳いだので、上達した。ような気がした。心の中では、ワンワン泣いていた。犬の鳴き声でない方。緊急事態宣言で、いつものフラのお稽古場が閉まっているので、そこに居る、子犬ちゃんに、夏用の犬シートをプレゼントしようと思っている。その時が来たら、差し上げる予定。(稽古場再開)この事が終わって、そして、リードを捨てよう。とか段取りを考える。匍匐前進で、時々引き摺り下ろされるが、ヤマイには至っていないようなので、このまま耐えて居よう。
2021年06月04日
コメント(0)
これは、1991年のモデル。SWATCHのだ。1990年夏にロンドンで買ったとばかり思っていた。が、小さい字で1991と裏に印字があった。すると、翌年の香港でか?第一、1991年には香港に行ってない、。と思う。その後しばらくして何度か行ったけれど。。ま、とにかく、時代物。使っているうちに、はめ込み式のレンズの方と、耳を掛ける方のフレームが、意味なく外れるようになった。でも、引っかけることは出来たのでだましだまし使っていた。サングラスが必要な季節になり、掛けてみるとレンズが、、合ってない。なんせ10年はくれている。レンズだけ替えてもらった。このポッチリを固定したい!ネットで調べて、あるメーカーさんに質問メールした。ご親切に送っていただく。有難かった。MISUMIさま、すみませんでした。おかげさまです。うまくいきました。ホッとした。
2021年05月22日
コメント(0)
全558件 (558件中 51-100件目)