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2012年02月05日
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カテゴリ: クラシック
 この間から書いている話について畏友に話したところ、「そもそも皆そんな難しいこと考えちゃいないよ」と至極ご尤もな指摘を戴きました。まぁ、そりゃそうだよなぁ。
 というわけでテンションガン下がりなのですが、落ちが付くまではまぁ書かなきゃいかんよなぁ。誰も付いて来てない気がするのですが、まぁ、いいか(苦笑)


 前回、元々音楽というのは自分で演奏するか演奏される場に行って聞かなければいけないもの、ということを書きましたが、現代では、音楽というものは、一人で、他人の演奏するものを聞くことが出来るものになっています。言わずと知れた、放送と録音技術の発明です。ラジオ放送は、演奏されるその場に居なくても、離れた場所で個人的に音楽を聞くことを可能にしました。録音技術、つまりレコードの登場は、演奏されたものを物質として固定化することで、演奏された時でなく、演奏された場所でなくても、音楽を聞くことを可能にしました。
 否、むしろ、音楽を聞く上では大多数の人が「音楽は"一人"で聞くのが基本」ということになっているのではないかと思います。

 一人で聞く音楽というのは、極めて快適なものです。そこには、「私の音楽」を邪魔するものがない。いや、全くない訳ではありませんが、例えば気になる音を立てる周囲の他の聴衆もいないし、逆に自分が何か音を立てたからといって咎め立てする人も居ない。記録媒体に記録されたものを持っているなら。その気になれば演奏を戻すことも出来る。その代わり、拍手をする相手とかはいませんが、でも、それを除けば、「私」はその音楽を所有することが出来る訳です。その音楽に対してはほぼ全面的に支配可能だ、という意味で。
 コンサートというものは、ある特定の時間、ある特定の場所で、自分以外の大勢と共に居ることを必要とします。しかも、そこで演奏される音楽には保証が無い。元々音楽というのはそういうものだったわけですが、この、時間と空間の制約から解放され、他の人とも関係なく、一定のレベルを保証された、というのはつまりミスタッチなどの失敗の心配なく音楽を聞くという世界からは遠く隔たったものでもあります。
 こういう聞き方が今は普通であり、標準である。いい悪いではなくて、そういうものになっている。勿論、自分で演奏して楽しむ場合もこれに近いのですが、ただ、ここでは「誰かの演奏したものを聞く」という意味合いで考えれば、やはりそれは別物で、かつこれまで無かった状況だということは分かると思います。

 思うに、この「一人で聞く」という習慣があまりに一般化してしまった為、知らず知らずの内にコンサートに際してもその延長線上で考えてしまう、切り替えが出来ていない、ということがあるのではないかと思うのです。どちら向きに対しても。

 皆に開かれている、ということは、どんな人が来るか分からない、ということでもあります。しかも、時間に制約される、ということは、時間の不可逆性に支配されるということでもあります。1時間を越える大曲の終わりで、どっかの誰かがiPhoneの標準呼出音であるマリンバのメロディを高らかに鳴らしたとしても、指揮者がそうすることを決心しない限り、もう一度やり直し、はないのです。


 閑話休題。
 要は、コンサートってこういうリスク(まぁある意味笑えるのだけれど音楽的にはメリットじゃねーよな)があるものだよ、という認識をしないままに来てしまう人が増えているのではないかな、ということ。いや、リスク、という考え方自体がもうおかしいのかも知れません。こういう形で音楽を聞く以上、当たり前のことと言うべきなのでしょうが、一人で聞く世界からそのままコンサートに来てしまえば、ある人は周囲の咳払いだとかなんだとかに我慢がならなくなるだろうし、もう一方では演奏中でも平気で飴玉の包み紙をガサガサ剥いたりして、何が問題なのかさっぱり分かりません、という顔をするのではないかと思うのです。
 いや、うっかりすると、これが同じ人だったりするかもしれない。

 結局、これって、自分の殻に閉じ篭ったまま社会を闊歩しているということなのでしょう。コンサートがコミュニティのようなものであるならば、皆に開かれているということは、一方通行ではなく、コミュニティの成員間にも、決して直接的なコミュニケーションではないにせよ、関係性はあると考えるべきです。
 勿論、別の見方をするなら、こういうコンサートというものは、都市文化の象徴的な在り方の一つのようなものでもあるでしょうから、そこではやはりある種の匿名性というものがあるのだと思います。皆に開かれているというのはそういうことにもなります。でも、匿名性が高いからといって、即ち相互に関係性は働かない、ということでもない。もっと言えば、コンサートという場に於いては、我々は聴衆という「役割」を持っているのです。
 これが決定的にコンサートが「一人の音楽」と異なる所です。「一人の音楽」に於いては、我々リスナーは何か役柄を負うことはないし、一人なのだから、社会的関係を帯びることもない。けれど、コンサートにあっては、我々は聴衆という役柄を負って、某かの社会的関係を帯びることから逃れられない。その社会的関係の一つが「うるさくしない」「多少うるさくても受け入れる」ということを求められる所以なのではないかと思うのです。

 聴衆、という立場について、もう少し考えてみようと思います。聴衆というのは、黙って聞いてりゃいいのか?ということについて。






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最終更新日  2012年02月08日 00時24分34秒
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