全111件 (111件中 1-50件目)
早いもので、東京から滋賀に戻って3ヶ月以上経ちました。1月の東京探索記録も残しておきたいと思います。1/8 東京ステーションギャラリー「鉄道と美術の150年」ステーションギャラリーは初めてでした。ここには何度も来ているのに、同じ空間に美術館が繋がっているとは知らなかった!展示内容は撮影不可ですが、2階の周回通路部分にもいくつか展示物がありました。(こちらは撮影可)ここは建物のレンガ壁そのものが重要文化財だったりします。鉄道を扱った絵画の中には「教科書で見たことある!」というものもあって、見ごたえがありました。東京駅で乗り継ぎに時間があるときに、ギャラリーに寄ってみるのも一考だと思いますよ。ちなみに今は「大阪の日本画」大阪か~い
2023/05/10
コメント(0)
昨年12/18には、三鷹市の南部を歩いています。荻窪から芦花公園駅経由北野行のバスに乗り、下車後は西に歩いてまずはこの日の目的地その1、中嶋神社。神社 in 神社 が二つ。一つは、富士嶽神社↑ 富士塚? なのかな・・・↑↓ こちらは厳島神社↓ 中嶋神社の拝殿ここからしばらく、仙川の川沿いを歩きます。↓ スタート地点が天神山城跡。今は特に痕跡らしきものもなく小さな公園になっています。 木々の向こうに見える高架は中央自動車道。川沿いを歩くのはそれだけで幸せの時間。↓ 少し歩いて、川が大きく湾曲するあたりに丸池公園↓ 勝淵神社 勝淵の勝は柴田勝家の勝もう少し川沿いを歩きます。次は左に湾曲するあたりに仙川平和公園このあたりで川沿いの道は終わり、三鷹駅方面に向かいます。途中コメダ珈琲で糖分補給w↓ 八幡大神社、もう遅い時間になっちゃったので参拝はなしで。で、この日のゴールは三鷹駅の南、テンデイズゲームズ。ここの入口のわかり難さはなかなかのモノなので、小さな文字に注意して通りを歩こう(店は二階です) この日は「ティルトゥム」と「フォーラムロマナムの商人」を購入。どちらも買ってよかった、名作でした!
2023/02/25
コメント(0)
昨年11月26日に三鷹産業プラザで開催されたテンデイズゲームズ・アウトレットセールに出かけて、この時はテケン拡張~セトの時代、八分帝国の二つを買ったわけですが、当然のごとく、テケン拡張は積んでありますwこのままだと遊ぶ機会がないままに過ぎていきそうなので、どこかで「拡張の日」を設定して遊ぶとしよう!で、購入後は産業プラザ周辺(三鷹駅の北側)を少し散策しました。その後12月18日には、荻窪からバスで北野(三鷹市の南側)まで出てそこから三鷹駅まで歩いているのですが、今回は11月の駅北側散策内容から。↑ 太宰治の「斜陽」の一節が刻まれた本の形のレリーフ。下部には、亀井勝一郎の「三鷹村下連雀」の一文もあり、これも実は中々興味深い内容です。後で調べてみると、これ以外にも駅周辺には、山本有三:「生きとし生けるもの」を題材とした未来を見つめる少年の像三木露風: あかとんぼの碑武者小路実篤: 「人間万歳」地球を支える手と、三鷹ゆかりの文学者にまつわるモニュメントが設置されているようです。そこからすぐのところに「天文・科学情報スペース」なるものが・・・国立天文台が三鷹にあることに因み、無料の学習スペースとして開放されています。そして、駅前の商業ビル「CORAL」の5階にある「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」↓コロナ禍の真っただ中2020年の12月にオープンした施設です。自ら命を絶つ1948年6月まで家族とともに暮らした下連雀の借家が再現されているのですが、単に部屋が作られているだけでなく、各種資料も結構充実していて予想以上に見ごたえがありました。太宰は、親交のあった画家鰭崎潤の影響で油絵なども描いていて、小説の原稿や知人との間の書簡等とともにそういった絵の類も展示されています。残念ながら各種資料は撮影不可ですので、興味のある方は是非現場まで!(ここも入場無料! 月曜と年末年始は休館です)
2023/02/17
コメント(0)
東京の仮住まいである荻窪。まだまだ未開拓のゾーンもあったのです。11/3文化の日に、駅の南側の未探索エリアを歩きました。「西郊ロッヂング」昭和初期の建物だけど、今も現役。(新館が賃貸住宅、本館は旅館「西郊」として)ここから南西にまっすぐ行けば、「大田黒公園」大正~昭和初期の音楽評論家、大田黒元雄氏の屋敷跡を杉並区が公園として整備したものです。↑入口から大イチョウの並木、ここからもう立派過ぎるw↑氏の仕事部屋に、実際使っていたピアノや蓄音機なんかも展示されています。まだ紅葉にはちょっと早い。来週末から夜間ライトアップも始まるようなので、もう一度行ってみても良いですね。結構立派な鯉たち。↓下は公園内ではなく、駅方向に戻る途中で見つけたお花。ピンクと黄色、赤と黄色のツートンがすごくかわいい。調べてみると、「ランタナ」という花でした。「シチヘンゲ」という別名を持っていて、色が2パターンあるように見えるのは異なる株というわけではなく、色が変わる過程の違いであるようです。
2022/11/20
コメント(0)
10月はいろいろあって富士塚探索は1日だけでした。10/8のウォーキングは落合南長崎駅スタート。以前は同じ駅から東側に出てトキワ荘マンガミュージアムを訪れたわけですが、今回は哲学堂公園が最初の目的地なので西側に出ます。新青梅街道(県道440号)を西へ。途中に瓦屋さん。十二支の瓦がお見事。どうでもいい話だけど、周りのマンション・アパートあるいはビルの名称が「〇〇哲学堂」「哲学堂△△」という感じなのが大袈裟っぽくていいw地名からは哲学堂通りで左折したくなるけど、地図的には入口が遠い感じなので、蓮華寺下交差点まで出てから左へ。妙正寺川沿いに入口がありました。ちなみに下が妙正寺川。川の左は哲学堂公園の一部です。さて、哲学堂公園とはなんぞやと。詳しくはリンク先を参照いただくとして、簡単に言えば、明治時代の哲学者で東洋大学の創始者である井上円了氏が精神修養のために作った場所。哲学がテーマのコンセプチュアルな建造物が敷地内にいろいろとある。今は中野区有形文化財に指定されており、令和2年には国指定名勝になってるとさっき知ったw10月の土・日は、普段閉鎖されている各建物の内部が公開されているということで、この時期に行ってみたのです。上の写真、中央辺りに見えるのが、「四聖堂」。円了氏が最初に取り組んだ公園の中心的建造物で、当初はこれが哲学堂と呼ばれていたそうな。東洋・西洋の4人の哲学者、孔子、釈迦、ソクラテス、カントが祀られている。(なので四聖堂)釈迦涅槃像は後から持ち込まれたもの。(このあたりの事情は公式のHP参照ください)一連の建物があるこの空間が「時空岡」と命名されている。四聖堂の左側に見えるのが宇宙館。その中に、皇国殿。不思議な空間設計です。図書館の役割をしていた絶対城。東側の出口、理外門。菖蒲池を抜けて、哲学堂通りに出ます。で、ここからはひたすら北上し、大江戸線新江古田駅から西部池袋線江古田駅。その北側すぐのところに、茅原浅間神社。奥に「江戸八富士」の一つに数えられる富士塚があります。正月、7月の山開き以外に9月第二土曜日曜も登れるとのことなので、ここはもう一度来たいですね。こちらが本殿。え顔あふれるこの街だい好きというわけで、富士塚探索は通算37回53富士新江古田駅まで戻って、この日は約1万5千歩也
2022/11/14
コメント(0)
9/25は東京生活10年目にして初の西武新宿線を利用(たぶんだけど)w下落合から中井の一駅分のウォーキングです。↓下落合駅前の「せせらぎの里公苑」、東京都下水道局が管理する施設。公苑を抜けて神田川。川沿いに日本で最初のクラフトコーラのメーカー「伊良コーラ」があります。伊良は「いよし」と読むのね。お店で飲むこともできますが、ビン入り(炭酸で薄めて飲むタイプ)を買って、妻と家で飲んでみました。メジャーのいわゆるコーラよりも複雑な香りで、スパイシー。ある種、漢方的なテイストも含むけど嫌味はなくスッキリ飲めます。南へ戻って、月見岡八幡神社。神社の創建の歴史はあまりよくわかっていないみたい。浅間神社と富士塚は元は別だった(山手通りと早稲田通りの交差点あたりにあった)ものを昭和2年に合祀したようです。八幡神社含め、東京の多くの場所がそうであったように一度空襲で焼かれていて、戦後すぐに再建されたものです。再建時は八幡公園の場所にあって、昭和36年から37年にかけて今の場所に移転したとのこと。左側に浅間神社があって、その横に富士塚。登れるという情報もあったんだけど、入り口の扉は閉まっていたので下からのお参りに留めておきました。扉に鍵はなかったので、登って良かったのかな?***ここから西側に少し歩けば最勝寺。正確には「牛宝山・明王院・最勝寺」通称「目黄不動」徳川家光公の崇拝篤いお寺だったようですね。***ちょっと歩き足りないけど、ここから川を渡って下落合の隣、中井駅がこの日のゴール。富士塚探索通算36回、52富士
2022/10/29
コメント(0)
飯塚富士から再び亀有ゾーンへ。下は中川橋中央あたりから、また対岸側にスカイツリーが見えますねw駅の南東側、香取神社にお参り。両サイドに狛犬ならぬ狛亀?神社境内にこち亀関連の案内マップがあって、これはなかなかの大作。これは冊子版を駅前なんかに置いて欲しい。こんなところにも両さんがいます。拝殿前には狛犬がちゃんといました。神社横のラ・ローズ・ジャポネで休憩。そこから駅南側をこち亀関連の像を探して周ります。↓本田像↓大原部長のマンホール↓少年の頃の両さん像少年両さん像のある三角ポイントがちょっと歪んだ空間の風情で、いい感じ。↓亀有の由来↓中川像↓麗子像は室内。この日は見つけにくい像を探してぐるぐる同じところを回ったりもしたので、15000歩(最寄駅往復含)頑張った
2022/10/20
コメント(0)
9月4日、まだまだ暑い中、飯塚富士とたくさんの両さん像を巡るウォーキングでした。スタートはもちろん亀有駅。駅北側で最初に出迎えてくれるのは、こちらの両さん。続いて、数分歩けば亀有公園。公園内にもう一つ。もはや有名な話ですが、亀有公園前には派出所(=交番)はありません。実際は、駅の南と北に一つづづありますよ。マンホールも両さん。中川公園を横切りつつ川沿いの道に出ます。その川が「中川」なわけですが、「こち亀」の中川巡査の名前はこれが由来という説もあるようです。先に見えるのが、飯塚橋。下が橋の西側です。橋を渡ったら、今度は川の東側を南へ下ります。しばらく歩くと、飯塚富士がしっかりと見えます。左側から入口を探すものの、残念ながら登れないように閉鎖されていました。浅間山の盛土の上にボク石による築山の二段構えの構成はちょっと珍しい感じです。富士神社自体が木花咲耶姫命を祭神とし、正慶元年(1332年)創建とされますが、富士塚は明治12年(1879年)に地元富士講によって造られたもの。最近まで修繕(移築?)工事中だったというのもどこかで読んだ記憶があります。さて、ここからもう一度川沿いの道に戻って、南下を続けます。さっきまで歩いていた場所を対岸に見つつ・・・さらに奥にはスカイツリーも(中央やや左)しばらく歩くと、今度は正面にスカイツリーが見える。まあ、単に川が蛇行しているからなんだけど、ちょっとした「お化け煙突」感・・・w中川橋を渡って川の西側、亀有ゾーンに戻ります。前半はここまで。後半「こち亀」の仲間たちをの像を巡ります。***富士塚巡りに関しては、通算35回51富士
2022/10/18
コメント(0)
8月はお盆は自分の家に帰ってましたし、富士塚探索も一休み。後半にいくつか気になってた場所を歩いたり訪れたりしたので、まとめてのメモ。〇 杉並区立郷土博物館Twitterにも書きましたが、とにかく不便なところにある。歩きたい人にはちょうどいいw↑博物館の入り口になっている門も実は見どころの一つ。旧井口家住宅長屋門。建築されたのは文化・文政年間(1804-1829)頃とのこと。この時は、中央線100周辺を記念した企画展でした。10月14日には鉄道開業150年を迎え、各地で様々な企画が実施されることでしょう。私は特に鉄道好きというわけではないですが、面白そうなものがあれば行ってみたいと思います。博物館本館の裏には、旧篠崎家住宅。こちらは、長屋門より古い寛政年間の建築と推定されています。↓囲炉裏の火は本物。↓立派な梁。暑さもさることながら、蚊がやっかいな夏の昼下がり。あちこちで、蚊取り線香が焚かれていました。〇 東高円寺 ~ 高円寺東高円寺は降りたことが無い駅だったので、特に目的はなかったけど・・・杉並区立蚕糸の森公園蚕糸科学技術発祥の地。蚕糸技術はかつて産業の基盤をなすものだったんですよね。↓萬壽山松応寺〇 昭和館7月に北の丸を歩いた時に、いっしょに行っとけ、って話ですが、時間がなかったんですよね。戦中・戦後の日本の生活がどんなだったか、その記憶・記録を残しておこうという趣旨の資料館。お昼食べてからでかけたら、ちょうど13:30で掃除の時間。30分待つことに。せっかくなので、周囲を撮影。↓九段会館、改装中14時になって、やっと入場。中は一部を除いて撮影不可。かわりにパンフレット表紙の写真で雰囲気を感じてくださいw常設部分はビデオ資料も多くて、もし全部見る気で回ったら半日かかります。今回の企画展は「お菓子の記憶 ~甘くて想い出たち~」戦後、軍用品払い下げのチョコレートには注意書きがあって、「元飛行機搭乗員用ニシテ昂奮剤ヲ含有スルニ付児童には少量ヅツ分与セラレタシ」と。歴史です。
2022/10/06
コメント(0)
7月30日は皇居の北側、北の丸公園を訪ねました。北の丸には日本武道館、東京国立近代美術館などがありますが、それだけではないのです。(ちなみに、近代美術館では今日までゲルハルト・リヒター展でした)この日の主目的は「国立公文書館」国の機関で作られた公文書の中から歴史資料として重要なものを選んで保存し、一般に公開して利用できるようにすることがその使命です。近年デジタルアーカイブ化も随分進みましたが、定期的に企画展示も行っていて、実物を見て学ぶ機会を提供してくれています。この時の企画は、「江戸城の事件簿」古い文献・資料の中から、歴史上有名な出来事や、殊更有名なわけではないけれど当時の実情が知れる事件を取り上げて展示・解説してくれていました。例えば、下の写真は【狩場の霞】宮崎成身の『視聴草(みききぐさ)』という雑録集、全176冊(!)の中の1冊から。松平外記が起こした刃傷事件の顛末を記した一部なのですが、その背景には、同僚の外記へのひどいいじめがあったといいます。上記のページに描かれているのは、追鳥狩という行事の予行演習時、外記が弁当を広げると馬糞が満杯に詰め込まれていたという場面。全身真っ赤にして怒っている外記を同僚たちがからかって笑っている。この日は我慢して帰宅したが、その後刃傷沙汰に及んだということでしょう。人間の中身はなかなか進歩しないもんなんだなぁって、ちょっと悲しくもなりますね。上は有名な「桜田門外の変」関係の資料。上は珍事件の一つとして紹介されている、「御実紀」の中の記録。政保3年(1646年)、切手門内に火のついた紙鳶(しえん)が投げ落とされたという事件により、紙鳶が禁止されたという内容。紙鳶というのは下のような、一種の凧です。今でいえばドローン攻撃ですね。***こんな感じで、興味深い資料がいろいろありましたが、公文書館のホームページからそれらの資料の目録が閲覧・検索可能ですし、一部の資料は画像として見ることもできます。そもそも国民が広く自由に利用できるようにすることが目的の施設ですので、施設の入場料も無料ですし、上記のような写真撮影やSNS公開も禁止されていません。常設展の方も見どころは多く、日本国憲法の御署名原本であったり、平成の新元号発表の時のあの書(額入り)の実物とか、歴史の貴重品を見ることができますよ。次の企画展示は10月8日から、「鉄道開業150年、広がる 広げる -公文書で描く鉄道と人々のあゆみ-」です。鉄道好きの方は是非!***公文書館の北には「科学技術館」があります。こちらは有料。基本は子供たちに科学を身近に感じてもらおうという趣旨での展示構成なので、理系の人間にとっては、「そんなの知ってるよ」って内容も多いかもしれません。それでもジャンルは多岐にわたっているので、何かしら新しい知識は入ってくると思います。当日はそうでなくても夏休み中で子供たちとその家族がいっぱいの中、イベントもあったのでかなり人が多く、こんな時にわざわざ来なくてもよかったなぁ、なんて思いながらw・・・***公園の側からの日本武道館↓旧江戸城田安門、重要文化財です↓***この日は、外歩きに関しては竹橋から北の丸公園を抜けて九段下までなので大した距離はありませんが、科学館等室内をかなり歩いたので、歩数自体は最寄り駅行き来も含めると1万歩以上でした。いやぁ、この日も外は暑かった・・・
2022/10/02
コメント(0)
瑞江近辺の翌週、7/24も引き続き暑かったけど東京街歩き。スタートは西大井駅。滝王子通りを東に歩いて、滝王子の交差点を右折、すぐに右側に見えてくる小さな社が、「瀧王子稲荷神社」です。境内の草刈りをされていた方の話では、この日はお祭りの日だったとのこと。コロナ禍以前は子供達にお菓子を配ったりして、お祭りらしい賑やかさもあったようですが、今年も残念ながらそれらは中止。ちょっと寂しいけど、致し方ないですね。小さいけれど、地元の方に愛されている神社という印象を受けました。左側に富士塚。登山道入り口の表示の向こうに頂上の祠が見えます。祀られているのは木花咲耶姫。かつては谷の一番奥に位置し、滝王子の水神池は農地に水を供給する貴重な水源であったようです。***滝王子通りに戻って、警察署の交差点を右折し南へ歩きます。品川区立品川歴史館は休館中、残念。(改装?結構長い期間のようです)鹿嶋神社大森貝塚遺跡庭園貝塚から出た本物を見たり触ったりもできる。庭園の一番奥にある碑は昭和4年のもの。戦前だ。史跡大森貝塚の碑は、ここからもう少し南。NTTデータ大森山王ビルの裏。意識していないと気づけないぐらいの地味な表示があります。こちらの碑は実は新しい。ゴールは当然JR大森駅。この日は短め、8000歩程度。富士塚探索、通算34回、50富士。
2022/09/30
コメント(0)
羽田を歩いた翌週7/17は、旧江戸川の向こうは千葉、という位置の三つの富士塚を巡りました。スタートは都営新宿線瑞江駅。ちなみに、瑞江という地名は旧瑞穂村と旧一之江村が合併されてできた合成地名だそうな。最初は瑞江駅から東方向500mほどで南篠崎「天祖神社」↓拝殿↓上の写真では右にも鳥居が見えますがそちらではなく、向かって左側に水神宮があり、さらにその左、案内看板が見えるその奥に富士塚があります。緩い登りの上・・・「上鎌田の富士塚」と称され、明治19年(1886年)に旧上鎌田村の丸星講により築造されたものです。浅間神社の石祠の前には「鬼ころし」(日本酒)の紙パックが供えられてたw裏側に胎内(胎内って書いてあるのは珍しい?)***続いて、天祖神社から南西に少し歩くと「豊田神社」御神木の大ケヤキは区の保護樹でもある。上の狛犬の台座の文字は奉納、下の狛犬の下は奉献。その両方が存在するのは何か意味があるのでしょうか?(わかる人いたら教えてください<(_ _)>)あと、富士塚のある神社は、拝殿前の狛犬もボク石の上に鎮座している事がありますよね。拝殿左側に富士塚。大正5年(1916年)、割菱八行講により築造された「下鎌田の富士塚」です。くの字型の登山道で、ちょっと珍しいなと思うのが、頂上でなく中腹に石祠がある点ですね。中腹左に小御嶽神社の石祠があるのは定番。写真は撮り損ねましたが、裏側に大沢崩れを模したと見られる場所がある。これも他にあるのかな?***ここからは少し距離を伸ばし、旧江戸川沿い篠崎街道(県道450)に出て、水神宮を左に見つけたらそこから200m程先、右側に上今井「香取神社」神社自体は永禄7年(1564年)創建(現在の社殿は昭和49年再建)ですが、富士塚は昭和5年築造。社殿右側奥にあります。頂上に石祠(登山道の途中に浅間神社の石碑)、「元祖食行身禄」の碑、烏帽子岩、力石などが配置されています。ふもとに寛延4年(1751年)建立の庚申塔もあります。***瑞江大橋を渡って、ゴールは一之江駅。あれ、「一之江」の名前は残ってるのね。江戸川区はほんとに富士塚の宝庫だなぁ・・・この日は約1万歩。富士塚巡り、通算33回49富士
2022/09/24
コメント(0)
7/10、穴守稲荷から羽田空港へのウォーキング、後編です。あらためて、穴守稲荷のスペクタクルポイント、稲荷山。できるだけ全景が見えるショットを探してみました。並ぶ鳥居の向こうにそびえる独特の姿、やはり、抜群の存在感を示しておりまする。なお、穴守稲荷神社にはもう一つ見どころがありまして、拝殿横の社務所内に名馬「イナリワン」にまつわる種々のアイテムが展示されています。イナリワンのイナリは、この穴守稲荷神社を由来とするそうです。さて、ここから一旦南へ、弁天橋通りに出て東へ進めば、当然ながら弁天橋があるのです。橋の向こうに見えるのが「旧・一の大鳥居」昭和初期、まだ穴守稲荷神社が羽田穴守町にあった頃、参道に建てられていたものが、なんやかんやあってこの地に移設されています。そのなんやかんやがかなり複雑なので、知りたい向きは前の記事のリンクからwikipediaなり、珍寺大道場の記事なりをご参照くださいwで、ここから多摩川沿いを歩けるようになっています。せっかくなので空港まで歩いてみよう。ん~、川沿いの風は少しあるとはいえ、やはり暑い(-_-;)遮るものが無いので直射日光がきついのです。ということで、最初は第1ターミナルまで行ければと思ったけど、一番近い第3ターミナルでゴールとします。(お昼もまだだったのでお腹も空いてきた)普段実際に空港を使う時はほぼ第1か第2ターミナルなわけで、この第3は初めてです。食事できるところは吉野家しかなかったのがちょっと残念だったけど、まあ仕方ない・・・しばらく、離発着の様子をぼんやり眺めたり。少しだけお土産コーナーをひやかしてみたり。で、この日は8000歩にも満たない距離だったのですが、体感としては1万をかなり超えて歩いた時の疲れ具合。水分の取り方が適切でなかったかな。さっさと、羽田空港第三ターミナル駅から帰宅。夏は要注意ですぞ。
2022/09/11
コメント(0)
東京街歩きの記録がしばらく途絶えておりますが、夏の暑い時期もそれなりに歩いております。7/10は穴守稲荷から羽田空港まで穴守稲荷は駅名として知っていましたが(以前に隣の駅-大鳥居の龍門/餃子を紹介済み)、神社自体は知らなかった。行ってみる気になったのは、珍寺大道場で紹介されていたから。(珍寺という名前がついてますが、お寺に限らずちょっと変わった見た目や背景を有するあれこれを紹介するサイトです。)では、京急穴守稲荷駅からスタート!駅前にマスコットのコンちゃん。駅を出るとすぐに神社感を打ち出してくるぞ。表参道↓少し歩けば本殿正面↓ここまでは普通です。右側に少し小さ目の鳥居が並んでいるのが見えますね。それがこちら↓連なる鳥居(千本鳥居)、これも稲荷神社ではテンプレ。右側に並ぶのは手前から、必勝稲荷、開運稲荷、出世稲荷、繁栄稲荷。(よく見るとその間に、高さ10cmほどの小さな鳥居も無数に並んでいるのがわかります)で、前に進むと・・・鳥居の先に見える謎の塔?一気に異世界感が増してきました。その塔の1F部分が奥之宮ねがいごと かならずかなう 穴守のいなりの神よ いかに尊き御神砂をいただく。3つ上の写真、左側に階段が見えます。そこをワンフロア分上がると、さらに4つのお稲荷様。(右から築山稲荷、幸稲荷、末廣稲荷、航空稲荷)航空稲荷があるのが羽田っぽい。さらに登ります。どんどん登るそして、一番上に「穴守神社上社」と「御嶽神社」そして、今登ってきたこの塔のような建造物は「稲荷山」と案内図には示されています。お参りして、下り坂は別のルートが用意されています。すごいハングオーバー。石が崩れ落ちないように金網で囲まれてます。↑拡大するとわかりやすいですが、このような黒ボク石が数多く使われています。以前は富士塚のようにボク石で覆われた築山(その時代から稲荷山と呼ばれていました)があったとのことで、そこで使われていたものを表層に用いたようです。今の形になったのは2020年らしいので、かなり新しいんですね(Wikipdedia情報)↑地上に降りたら、羽田講の碑。でも、富士塚じゃないんだよねぇ・・・乱雑に積まれた小さな鳥居が世紀末感w↑奥之宮の左側には「福徳稲荷」目つきが怖い。というところで、一旦置きます。後半は川沿いを歩いて羽田空港まで。
2022/09/08
コメント(0)
6/11東京散策の後半。白山神社を出て本郷方面、歴史のある坂が多い一帯を歩きます。なんでもないような、平行に走る二つの道をショートカットする小さな坂も、街を構成する重要な景色です。本郷四丁目、「鐙(あぶみ)坂」。その名称は、坂のカーブが鐙の形に似ているからとも、鐙の製作者の子孫が住んでいたからとも、諸説ありのパターンですね。坂の途中に、金田一京助・晴彦の旧居跡があります。下の階段は「炭団(たどん)坂」、こちらも、炭団を商うものが多かった説、ここで躓けば炭団のように転げるから説、と二通りあるようです。坂の上に、坪内逍遥旧居があったようです。真打ちは、樋口一葉菊坂旧居跡。市川紗椰がタモリ倶楽部でも絶賛していた風情ある坂(というか階段)。見つけるのが意外と大変で、上の二つの坂を回るコースを二周ほどしてしまいました。市川紗椰が「ライクの森」でそのこだわりを語った回の紹介記事をリンクしておきます。こんな感じの坂(先ほどの樋口一葉旧居に入る道とその上の菊坂をつなぐ小さな坂)をいくつか登ったり降りたりしながら菊坂下の交差点に出て、そこから西へ。こんにゃく閻魔(常光山 源覚寺)にあたってから南下して後楽園駅がゴール。この日は8000歩弱。
2022/08/13
コメント(2)
6月11日(2ヶ月遅れだぁ~)の東京歩きは、ちと情報量過多の気配wなので、今回も前後半に分割で。白山神社の富士塚が「文京あじさいまつり」の期間中は登れる、というウェブ情報を見たので訪問。名称通り、なるほど紫陽花が美しい。この日、天気は良いとは言えませんでしたが、あじさいには雨模様の方が良く似合うのです。で、期待した富士塚の方は実際行ってみるとダメでした。コロナめ!!仕方ないので、下からお参りです。下の写真の中央あたり、小さな屋根が見えるのが浅間神社の祠でしょう。本殿も紫陽花越しの写真で。白山神社は天暦2年(948年)に勧進されたとされる、これまた歴史ある場所です。元和2年(1616年)に二代将軍秀忠の命で一度巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移され、明暦元年(1655年)に次期将軍の綱吉の屋敷造営のために今の場所に戻された。お祭りなので、境内にはいくつか出店も出ていましたが、一際異彩を放っていたのがこちら。「ボッチャ」イタリア語でボールを意味するこのスポーツ。パラリンピックの種目ですが、老若男女、障がいあるなし、誰がやってもいいのです。実際の距離より短いですが、体験できました。「最初に、白いボールを×のところをめがけて投げてください」「わかりました」 。。。 ビタッ!!「うまいですね」「こういうのはわりと得意です」得点方法はカーリングと似たところがありますが、大きく違うのはターゲットの白ボール(ジャックボール)は動くこと。投球は両チーム交互ではないという点。(ジャックに一番近いチームの相手側が常に投球者となります)ここに、このスポーツ独自の戦略性が生まれるわけですね。なるほど、これは面白い!「モルックも買ってみたわけだし、これも」ってちょっと思ったけど、モルックよりかなり高かったボッチャ ボール セット FIELD GEAR FG-BOCCIA レク用でも国際ルールの規定に準拠 アポワテック スポーツ用品体験記念に東京オリンピック・パラリンピック2020のバッチもらえました。森会長とかが胸に付けてた奴だw前半はここまで。このあとの「本郷・坂めぐり」は後編で。***とりあえず、この日の富士塚は以上なので・・・通算32回46富士
2022/08/10
コメント(0)
6月4日南千住と隅田川沿い、後半。小塚原富士を後にして、少し西へ。もらった「まちあるきマップ」を参考に旧千住製絨所レンガ塀をチェック。明治政府が建てた日本初の官営毛織物工場のレンガ塀が、当時の姿を残しています。戦時中は陸軍の工場となって軍服などの生地を作っていたとのこと。川沿いウォーキングの起点にしようと、まず千住大橋。ところが、ここからそのまま川沿いには出られない。日光街道を一度神社近くまで戻ってから東へ。ようやく川沿い。日差しは強いけど、風があるのでまあまあ気持ちいい。上の写真の奥に小さく見えるのが、千住汐入大橋。少し先に水神大橋。遠くにスカイツリーも見える。(まあ、どこからでも見えるんですがw)水神大橋を渡って少し東に行けば東武伊勢崎線鐘ヶ淵駅。実際には渡らずにもうしばらく川沿いを歩きます。で、この日の二つ目の目的地が見えてきました。神社の向こうにガスタンクという景色が面白い。石浜神社。神亀元年(724年)聖武天皇の命で創建されたという、ものすごい歴史のある神社。亀田鵬斎の詩碑なんかもある。で、目的の富士塚は入口の近くに。「冨士山遙拝所」の碑があります。白髭富士ともよばれる富士塚の築造は宝暦8年(1758年)で、隅田川の堤防工事がらみで石浜神社とともに昭和63年、当地に移築されたもの。↑ 三猿も見える。神社敷地の南側に出ると、白髭橋。こちらは写真に撮り損ねた。最後はぐるっと回って南千住駅でゴール。川から離れると一気に疲れが出た、約12000歩。***通算31回45富士
2022/07/29
コメント(0)
まだ梅雨の気配も無かった(かつCOVID-19感染者数も落ち着いていた)6月4日、南千住と隅田川沿いを歩いてきました。今回も前後半二分割で。スタートは南千住駅ではなく、東京メトロ三ノ輪駅。日光街道(国道4号)を北へ少し歩くと、昭和の雰囲気を残した路地の入り口を見つけました。これは行ってみなければと、先へ進みます。「三ノ輪橋おもいで館」で観光地図をいただいて・・・都電荒川線の三ノ輪橋駅。電車は新しいけど、駅は古いよ。この昭和な看板はちょっとあざといけどw***で、一つ目の目的地「素盞雄(すさのお)神社」へ向かう途中、お祭りの神輿に出会いました。天王祭というお祭りの日でした。人の行き来が多い街道の夏に流行する疫病を祓うための祭禮。春に収穫を祈念し、秋の稔りに感謝する農村型の祭とは違う、都市型のお祭り。(京都祇園祭等と同じ)・・・てなことが神社のHPに書いてありましたw先ほどの神輿を実際に見ると、時々止まって左右に振る動作をしていたのですが、あれは疫病を「はらう」ための動き(神輿振り)だったのですね。社殿の右側から回り込むと、露店の隙間から緑の空間が見え隠れします。瑞光石。神社創建の起源になったと言われる霊石。そのすぐ横に富士塚の表示はありますが、木々に覆われて頂上はよく見えません。露店のおじさんにことわって、屋台の裏側に入れてもらいました。ここからなら頂上が見えますし、浅間神社の鳥居がちゃんとありました。(山開きの日以外登れません)小塚原富士と呼ばれる富士塚は、元治元年(1864年)築造とされます。ここからそっと疫病退散をお祈りして、神社を後にします。***このあと隅田川沿いに出て歩きますが、それは後編で。
2022/07/26
コメント(0)
前回の続き。前回貼り付けた地図で見ると「しまむら西台店」の少し下あたり、「東京ミルクソフト」で涼みながら休憩。ソフトの写真なんぞ撮ってる暇はない暑さw気を取り直して、西へ。3つ目の目的地、徳丸北野神社に到着。創建千年の碑が見えますが、造立は長徳元年(995年)。京都の北野天満宮からの分霊。本殿。二つ上の写真の鳥居から右側に、通称「徳丸富士」6段ほどで登頂!で、実は富士以外にも3つのお山が・・・湯殿山、月山、羽黒山。徳丸出羽三山神社という表記が見られますね。さらに西へ歩きます。スパイダーマンがいた。4つ目の目的地は、大門の赤塚諏訪神社南側にある境外末社、赤塚浅間神社。ちょっとわかりにくい場所にあります。Googleマップ上では「諏訪神社富士塚」という名称になっている。丸吉講が築いたとされますが、造築時期は不明。記録からは明治5年よりは古いということが言えるのみ。上からの景色下から見た方が高さがわかる感じかも。諏訪神社の本殿にもお参りしています。先ほどの北野神社とならび、ここにも「田遊び」の碑がありました。共に国の重要無形文化財に指定されている、五穀豊穣・子孫繁栄を祈願するお祭りです。明治から大正にかけては、この一帯は一面田んぼの景色だったようですね。左右に聳える夫婦イチョウは板橋区登録文化財の天然記念物。なお、このあたり「高島平」という地名は、天保年間に高嶋秋帆がこの地で鉄砲や大砲の訓練を行った事から名付けられたものとのこと。で、ゴールは新高島平駅。約14000歩、暑かったけど頑張ったw***通算30回43富士
2022/07/06
コメント(0)
5月22日、板橋区の北、都営三田線沿い(あるいは首都高5号池袋線沿いという方が適切?)の富士塚4つを巡りました。下の地図はだいたいこんな感じということで、実際に歩いたコースはもう少しジグザグしてます。今日はまず前半。***スタートは三田線蓮根駅。少し南に歩けば蓮根氷川神社。本殿御祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)と奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。境内の稲荷社で、こちらは案内板では末社の御嶽神社という表記でしたが、富士塚ということで良いんですよね。上から見下ろすとそれなりに高い。ここから西台天祖神社に向かいますが、これが結構な登りになります。登り切ったあたりに第二の目的地。本殿御祭神は天照皇大神こちらも、境内に稲荷神社があります。(下の写真の左側)そして、本殿と稲荷神社の間に、「おしわぶきさま」御神体のアップもあるけど自重。「おしわぶきさま」はここ以外にも祀られているところは多いみたいですね。石神がセキシン=咳の神様(咳の出る病気を鎮める神様)に転じたということらしい。(しゃもじが添えられているのは、石神をしゃくしんと読み替えこれが杓子に通じる、という由来)で肝心の富士塚ですが、入り口の鳥居のすぐ右側にあります。この富士塚の一画に関しては特に説明板等もなく、来歴はよくわかりません。富士塚の一覧に載っていたりもするけれども、厳密には富士塚ではなくて御嶽神社(日本武尊)の御嶽塚と説明されているサイトもありました。天祖神社自体は江戸時代は神明社(または神明宮)と呼ばれ、1869年(明治2年)までは教徳寺(明治5年廃寺)が別当を担っていたようです。明治6年に天祖神社に改称され、現在の本殿は平成2年(1990年)に造替されたものとのこと。***実は距離的には全コースのまだ1/3か1/4です。ここからさらに西に歩きますが、それは後半の部で。
2022/07/03
コメント(0)
3月6日の富士塚探索は練馬区北町ゾーンを歩きました。スタートは地下鉄赤塚駅。川越街道(国道254号)を東に向かい、小さな工務店横を南に入ってしばらく歩くと大松の氷川神社。この右側、参道脇に富士塚があります。それなりに高い場所に登った気がするのに、頂上から見下ろす景色がそんなに高くないのは、二つ上の写真の左端を見るとわかるように、本殿への道も同じだけ登っているからですね。ここから川越街道を越え、さらに一本北側に旧川越街道。板橋で道が分かれて大宮方向が中山道、川越方向がこの川越街道です。江戸から川越まで、約51km、9+4の十三里。栗よりうまいというのは名物川越芋の宣伝コピーだったわけです。案内図に従ってまず、北町の仁王像と観音様。仁王像はどこかユーモラスな雰囲気も漂わせていて、新しいものなのかと思ったら、天和三年の銘があるらしいです。さらに東に歩くと「富士嶽神社」の鳥居、その奥左に「浅間神社」の鳥居が見えます。で、この浅間神社が「下練馬の富士塚」です。なかなかに立派な佇まい。つづら折りのメインルート以外にも左側からの急峻な登り、本殿からの近道などもある複雑な構成。登ってからぐるりと周囲を巡るコースも作られています。左がつづら折りルート、右が直登道(急峻ルート)です。合目石もしっかりと。(ただしこれは新しいものにも見えます)四合目あたりから「お中道」(周回ルート)が始まりますが、その奥で旅人を迎えるように、あるいは試すように二体の天狗像(大天狗と烏天狗)。頂上見下ろすと、相当高いことがあらためてわかります。こっち方向がリアルの富士山ですよ、という標。まあ、見えないんですけどw***というわけで、ここから東部練馬駅でゴール。この日は短め、約1万歩。通算29回、39富士。
2022/06/15
コメント(0)
2月19日の東京歩き。随分前の話になっちゃいました。スタートはJR板橋駅。駅の東口真ん前に、新選組・近藤勇の墓所があったりします。北に向いて石神井川を観音橋で渡ると、大きな観音様。そこから少し歩くと、近藤勇の菩提寺である寿徳寺。このあたりから東に行くと王子方面ですね。以前に飛鳥山公園の渋沢資料館等を見学しましたが、今回はさらに北に向かいます。東十条駅の近くに「十条冨士」があるらしいので行ってみると、本来頂上にあるはずの祠だけがポツンと。元あったところは工事中。再整備の計画が進行中で、令和5年の大祭は新しくなった冨士塚で行わる予定とのこと。再訪もありだな(覚えていればだけどw)演芸場通りを埼京線十条駅の方へ歩くと、大衆演劇場があります。で、次に十条駅から少し南へ戻ると、元東京砲兵工廠銃包製造所のレンガ塀があります。十条富士見中学校の外壁は、そのレンガ塀をそのまま残して使用している貴重な文化財。この「富士見」は本物の富士山のことではなく、十条冨士のことなんでしょうね。面白いな。***富士塚探索通算、28回、37富士。
2022/06/09
コメント(0)
東京富士塚巡りの記録がしばらく中断していました。相変わらずぼちぼちやってます。もうかなり前ですが2/12に、かつての宿場町、北千住の駅のまわりをぐるりと歩いてきました。北千住駅周辺でまずお昼ご飯から。あさり食堂さんで。駅から西へまっすぐ、日光街道(国道4号)を越えたら「千住神社」まずは本殿。ここには通称「千住富士」と称せられる富士塚がございます。残念ながら登拝できるのは7月1日のみです。千住神社境内には芭蕉の「ものいえば 唇さむし 秋の風」の古い句碑もあったりします。さて、続いて大正通りに出て荒川の方に歩きます。荒川が氾濫したら最大6m浸水するよっていう区の注意書きが、付近の電柱にある。そういう事が起こらないように富士塚では祈願しておるわけです。この道の奥の方に鳥居が見えます。それがこちら、氷川神社(大川町)です。鳥居の向こう左側に、既に富士塚が見えています。正面から。千住川田浅間神社冨士塚。碑に記された最も古い年号から、文政七年(1824年)築造とされています。入口から見たら小さく見えたものの、上まで登ってみるとそれなりに高さがあります。本殿はこちら。天保十四年(1843年)の紙すき碑も残っていて、かつて紙すき業が盛んだった時代、稲作りにも劣らない仕事であるという自負の句が刻まれています。ここから荒川沿いを歩いて・・・柳原で西に降りていくと、柳原稲荷神社。神社そのものの起源は元禄年間以降(1600年代後半から1700年代前半あたり)とみられますが、富士塚は昭和八年に築かれた比較的新しいものであることがわかっています。階段はあるけど手前の門が施錠されているので登れず。***ここから北千住駅に戻り、消費したカロリーを補充w2538(にこみや)デリコッペで「クリームチーズ+あんこ」。***この日は頑張った、1万6千歩。富士塚探索通算、27回、36富士。
2022/05/10
コメント(0)
1月最終週も富士塚探索。1/30、スタートは都営地下鉄「光が丘駅」まずはせっかくなので「光が丘公園」経由で。公園の西側、光丘高校口から出て土支田通りを西へ歩きます。途中、おにぎりのお店あたりから、道路の左は東京、右は埼玉という状態になります。やぶ重さんでお昼。都道443(南田中町旭町線)に合流したら右折して600m程で目的地「大泉八坂神社」まずは本殿にお参り。その右側に富士塚がありますが、今まで見た中でもかなり大きい。中里富士と呼称されるこの富士塚は明治初期の築造とされますが、文政五年(1822年)の石碑もあることから、原型は江戸時代からあったものと考えらえています。山道はジグザグ型で、合目石はもちろんのこと全36基の石造物がある。特に道祖神の碑は都内唯一とのこと。基部からの高さ12m、径が約30mで、頂上までの歩数も体感としてこれまでで一番です。頂上からの景色は実際に山です。下を見るとちょっと怖いぐらい。頂上の宮と剣ヶ峰の碑。ジグザグの道は、下の写真が一番実感してもらえるかな。帰りは、最短距離で光が丘駅に戻り、ダイソー(光が丘は数少ない超大型店)で100円ボドゲを買い物して終了。約14000歩。通算:26回、33富士
2022/04/03
コメント(0)
三回目の中野周辺街歩きは、1/23に丸ノ内線新中野駅スタートで。富士塚巡りを思いつかない限りは降りる事が無かった駅だと思います。地下から南東側の出口に出て、そこから100mも歩くことなく、目的地。五桂五成(ごしゃいなり)神社。もともとは個人(商家)が伏見稲荷から勧進した屋敷稲荷だったそうな。(文政6年/1823年)↓本殿(これが出来たのは昭和48年)↓眷属社(お狐様がいっぱい)本殿の左側には弁天様その手前に富士塚があります。「十七夜講社」は今も続いているようです。***ここまでは全く歩いたうちに入らないので、北へ。お昼ご飯に「花は咲く」(うどん)中野カレーうどん次行くことがあれば、黒毛和牛A5を贅沢に使った肉うどんを試してみよう。さらに北上で久々の中野ブロードウェイをウインドウショッピング。もうちょい足を伸ばすと「新井薬師 梅照院」「北野神社」ここから新中野駅まで戻って、約12000歩。富士塚探索の累計25回、32富士。
2022/03/30
コメント(0)
東京街歩きの記録、ようやく今年の話に突入w1/16のスタートは京王線明大前駅。歩いて3分で最初の目的地。扶桑教本部の富士塚、通称松原富士扶桑教は全国の富士講が集結して明治6年に設立された富士一山講社が起源の教派神道の一つ。なお、写真を見るとわかりますが、ここでは「富士」ではなくて「冨士」ですね。お山自体が信仰の対象なので、鳥居の額束も「冨士山」なのです。もちろん富士塚(冨士塚)があります。富士塚の手前には「道開(みちびらき)社」猿田彦大神を祀るここは「全国オートバイ神社第零号総本山」とのこと。(調べてみるとオートバイ神社は一番東が茨城県取手市、西が鹿児島県姶良市まで15か所あるようです。)さて、ここから次の目的地、森厳寺開山堂を目指して南東方向に歩きます。東京の富士塚一覧として森厳寺も挙がっているものがあるのです。ただ、敷地内をくまなく探索するも、それらしきモノも記載も見当たりませんでした。かつてはここにあった記録がある、ってことなのかな?徳川家所縁の神社で、あちこちに三つ葉葵の御紋が見られます。(上の写真にもありますので探してみて下さい)富士塚はなかったけど、針塚はあった。で、隣接する北澤八幡神社にもお参りします。こうして隣接しているのはたいがい別当寺の関係だろうとわかってきました。(もともと私は歴史に詳しくはないので、富士塚巡りを始めたころはそんなことも全然わかりませんでした)で、期待していなかったところで見つけてしまいました。神社ホームページの記載では、富士山遙拝所は2018年(!)にできたものとのことで、この富士塚は境内に分散していた富士山の溶岩を集めて造ったものだそうな。「冬の晴れた朝に富士山が見えます」という入口の案内にあるように、神社境内から富士山が見える数少ない場所として『八幡さま御鎮座550年事業』の一環であったようです。これ以上のことは少し調べただけでは分からなかったのですが、森厳寺にあったとされる(おそらくは江戸時代の)富士塚が一旦解体され、もとは一体だった八幡神社の敷地にも断片が分散していたのではないかと、これは勝手な推測です。 →文末追記参照詳しい由来が判る人がいたら是非教えてください。帰りは下北沢駅まで歩いて、この日は約12000歩。*******累計24回、31富士(今回の二つ目は富士講によるものではないようなので、富士塚と言っていいのか微妙ですけど)*******以下3/15追記:富士信仰の研究者の方からTwitterでご助言いただきました。森厳寺自体をwikipediaで調べるだけで、富士塚に関するいきさつはかなりわかっちゃいました。(昨日は北澤八幡神社の側から調べようとしたためにすぐに辿り着けなかっただけです、はい)富士塚が完全になくなったのは2000年代に入ってからという比較的新しい出来事。理由は墓地造成のためで、世田谷区側との協議・調整、さらには文化庁の指導もあって発掘調査を行い、その結果は調査報告として残っているとのこと。富士塚自体は、森厳寺に元々あった「鍋島山」と呼ばれた築山にさらに盛り土して1821年に造築されたもので、よく見るボクセキを積んだ(あるいはボクセキで覆った)ものではないらしい。調査によっても小さなクロボクが3つ見つかったのみで、道標や石碑の類も殆ど出てこなかった模様。森厳寺に、盛り土型の富士塚が確かにあったこと、2006年に調査実施の上消失したことは判りましたが、その歴史と北澤八幡神社の小さな富士塚が関係あるのか無いのかは未だ不明。これは継続調査課題としよう。
2022/03/14
コメント(0)
昨年12月12日の東京街歩き、この日は北区の田端エリアから。田端駅のすぐ前、田端文士村記念館芥川の他にも室生犀星、菊池寛、萩原朔太郎らが住んだ町。今、芥川龍之介記念館の建設計画が進んでいるようです。直ぐ近くに、赤紙仁王尊。正式名称は石造金剛力士立像。身体に悪いところがある人が、その場所に赤紙を貼ることで回復すると信じられています。横にたくさん草鞋がつるしてあったのですが、これは実際に治った人が供えたものだそうな。阿吽の二体のはずが、口元も見えないぐらい赤紙が貼られているので、どっちがどっちだかわからない。一般には向かって右が阿形で、わずかな隙間から見えるところではそれであっていそう。(注1)もともと(江戸末期あたりまで)は、この後訪ねる八幡神社の社前にあったそうですが、明治維新の神仏分離で別当寺(注2)であった東覚寺の境内に移されたとのこと。上が白龍山東覚寺の本堂。で、お隣が田端八幡神社。下の左が本殿。右側を登ると富士塚があります。富士塚は、青い鳥居を通って頂上にまっすぐ登るルートと、左から赤い鳥居をくぐって回り込むルートがあります。下が本殿。ここまでだと全く歩けていないので、北西方向に足を延ばします。↑ 田端小学校の近く、「のらくろ」のマンホール。↑↓ 上田端八幡神社。こちらは富士塚は無い。お隣が大龍寺。調べてみるとやはり上八幡神社の別当寺でした。先ほどの田端八幡神社も、こちらの上八幡神社も、祭神は同じ「品陀別命(ほんだわけのみこと)」で、源頼朝が文治五年に起こしたとされます。もう少し歩いて山手線を越えたところに円勝寺。こちらも銀杏が美しい。↓ その向かいにゴルフ用品の会社。巨大なゴルフボール、2020年3月撮影のストリートビューでは文字だけだったので、最近書き換えられたようだ。ここから線路沿いに駒込駅まで歩いてゴール。この日は短めで約8000歩。累計 23回、29富士。******注1) 阿形/吽形の左右は時代によっても違うらしいので、違ってたらごめんなさい。注2) 別当寺は、神仏習合が普通であった江戸時代以前、神社を管理するために設けられた寺。今はちょっとかっこいい人名として認識される「神宮寺」も実は同じ意味。
2022/03/08
コメント(0)
12/5、二つの氷川神社、後半。板橋区の名称由来である旧中山道「板橋」は区の東北部、もうちょいで北区ってあたりにありますが、そこから西側の、埼玉県和光市隣接ゾーンへ移動です。氷川町氷川神社から西に歩いて、中板橋駅から東部東上線に乗ります。なんだか既視感あるなぁと思ったら、コロナ前にゲーム会やるために集合した駅でした。成増駅で下車して、北東に歩くと赤塚氷川神社。下の写真はGoogle Mapで「氷川神社鳥居」と記されている場所で、本殿からは200m程手前になります。左下に見えるのは庚申塔です。続く参道は銀杏並木。氷川神社本殿富士塚は、敷地の南西側にあります。銀杏の季節はとても美しい!ここは上まで登れます。周囲の樹木の美しさもさることながら、富士塚そのものも立派です。造成時期は文献で確かめられるのは明治5年よりは前ということだけですが、富士講(丸吉講)自体がこの地に伝播した天保六年(1835年)頃から、塚にある碑に記述のある1860年代までのどこかという感じでしょう。ここから、板橋城址を中心に抱える公園が近いのが分かったので、行ってみました。公園内にある板橋区立美術館の「つくる・つながる・ポール・コックス展」を見学。当日にTwitterに上げたこれ。いろんな絵の置物でしりとりを作ってみよう、っていうコーナーにあった『る』のパーツ。右は定番のルビーだろうけど、左は何?正解は、「ルイ14世」言われてみると有名な絵の、あれだw (適当にググれば出てくるよ)***最後は西高島平駅まで歩いて、帰宅。19000歩。累計22回、28富士。
2022/02/20
コメント(0)
富士塚巡りの記録がしばらく途切れていますが、昨年12月以降も継続しています。12月5日、板橋区の二つの氷川神社を探索。この日は19000歩あるいていまして、まずは前半を。スタートはJR板橋駅。旧中山道を歩きます。 観明寺の参道入口にある庚申塔。1661年造立で、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古。板橋宿の商店街をしばらく歩きますが、閉まってる店も多い。途中から仲宿の商店街に変わりますが、こちらは結構活気がある印象。日常の買い物をする人に交じって、観光の人もちらほらいる感じかな。この中山道が石神井川を渡る橋、それが「板橋」です。もちろん、板橋の地名の由来もこの橋からですね。最初の目的地、氷川町氷川神社はこの板橋からすぐ西にあるんですが、一旦旧中山道をもう少し北に歩くと、「縁切榎」という史跡があります。男女の悪縁を断ち切りたいと真剣にお参りする人が後を絶たないので、映り込まないように気をつけました。で、来た道を戻って「氷川町氷川神社」です。 氷川町氷川神社の富士塚年号の入った石碑から、1800年代の中頃以前に造られたものであることは間違いないですが、正確な発祥は不明のようです。上の浅間社の他にもいくつかお社が並んでいます。私は板橋を経由して本殿の東側から入りましたが、正面の参道入口はこちら。参道の銀杏並木が美しい。この景色が見られるギリギリのタイミングだったかもしれないです。ここから、電車に乗ってもう一つの氷川神社に向かいますが、それはまた次に。
2022/02/16
コメント(0)
昨日の続き。甘泉園を出て、早大キャンパスを左に見ながら南下、早稲田通りを少し行くと「穴八幡宮」始まりは康平五年(1062年)で、もともとは高田八幡宮という名称だったよう。寛永十八年(1641年)、宮主の庵を作るために山裾を切り開いたら神穴が現れたということから、以降穴八幡と呼ばれることになった、と案内板にありました。登れなかった水稲荷神社の富士塚は「高田富士」と呼ばれます。そもそも、高田馬場は文字通り武士の馬術訓練場だったわけで、その場所は現在の「高田馬場駅」がある付近ではなく、この穴八幡宮辺りが史跡としての高田馬場跡なんですね。下写真の像はその名残。流鏑馬の神事自体は現在、近くの都立戸山公園で体育の日に実施されるようです。早稲田通りをもう少し歩いて、正法寺のあたりで右斜めに入る道が「漱石山房通り」漱石山房記念館があります。この時の企画展示は「森田草平」夏目漱石の門下生でたぶん一番のクセ強。妻ある身で平塚らいてうとの心中未遂をやらかしてる。敷地のはずれに道草庵という小さな展示館もあるので見逃さないように。ここは夏目漱石終焉の地でもあり、昭和28年の命日に復元された猫塚もあったりする。「吾輩は猫である」の猫のお墓と思いたいところだけど、そういうわけではないみたい。訪れた場所は以上。このあと神楽坂駅まで歩いたか、バスに乗ったか、もう覚えて無い・・・この日は約9000歩。
2022/01/25
コメント(0)
11月から12月にかけてボードゲームの動きが復活した分、東京の街歩きメモが滞ってました。11月21日は面影橋駅から、早稲田方面を歩きました。JR大塚駅から都電荒川線に乗り換え。東京では珍しい路面電車に一度乗っておきたいと思っていたので、やや遠回りなのですがこのコースで。今回のコース前半(面影橋-水稲荷神社-甘泉園)は、2016年の1月にも一度辿っています。(2016/1/27「都の西北 ワセダのとなり辺り」)その時の面影橋駅は下の写真。今のものが下の写真。東京さくらトラム(都電荒川線)という表記になり、マークも都電に共通の緑のイチョウからピンクの桜に変わっています。駅からすぐ、水稲荷神社。本殿。で、水稲荷神社内に富士塚らしき場所があるんですが、実際には違っているらしい。本当の富士塚は7月の2日間だけ山開きで登山できるとのこと。奥に、胎内っぽい場所があるけど、これは狐穴と呼ぶ場所。で、いかにもな下の場所は富塚古墳。字面的にもほぼ富士塚じゃん、って思ったりw今年7月にまだ東京にいるなら、再訪してみようかな。で、隣に甘泉園。というか、甘泉園の一角が水稲荷神社というのが正しいのか。前回訪問時より紅葉が残っていてきれいです。***さて、ここまでは面影橋からは200m圏内。殆ど歩いていないのですが、ここから早稲田方面への話はまた次に。
2022/01/24
コメント(0)
11/14の深川美楽市の後、南下して富岡八幡宮へ。前に富賀岡八幡宮の富士塚を紹介しました。偶然ですが同じ東西線沿いですね。南側正面の鳥居。賑やかです。入ってすぐ左に伊能忠敬像。近く(現在の門前仲町)に住んでいて、大きな測量の前にはここで安全祈願をして出かけたようです。立派な本殿です。横綱力士碑と大関力士碑というのが、少し離れた位置にあります。江戸勧進相撲の発祥の地であるという事で作られたものだそうな。大関力士碑の右にある少し黒っぽく見える石柱は釈迦嶽雲右衛門という大関の身長と同じに作られている。七尺五寸(2m26)也。高い。で、正面左奥に富士塚があります。釈迦嶽関よりかなり小さいですが、元は6mの高さがある立派な富士塚だったようです。昭和40年代に一度壊され、平成14年に再建されたもの。江東区のHPでは「富士塚跡」という表記になっています。高度経済成長の時代に、いろんなものが犠牲にされたんですね。***累計 21回、26富士。***さて、ここから木場駅まで歩いて、ゲーム会へ。ゲーム会のレポートはまた次に。
2021/12/08
コメント(2)
ボドゲライフ・リスタートの2週目、11/14は葛西での新しいボードゲーム会に初参加。その前に、近くの深川で「深川美楽市」というイベントがあるみたいなので午前中に訪ねました。食品や雑貨・アクセサリー、古本などなど、下町の市らしいこじんまり感の中でも、ここが特別なのは大道芸の充実度。短い通りの中に4ヶ所も大道芸スペースが設けられていて、時間をずらして数多くのパフォーマーが技を披露してくれます。アクションの大きないわゆる大道芸の他にも、スタチューパフォーマーらが店々の間でその存在をアピール。で、事前案内には「ボードゲームもある」ってことだったので、探した結果、これでした。「にゃんこならべ」石のかわりに猫駒にした五目並べ(連珠)ですね。ボードゲーマーは知ってると思うけど、囲碁と連珠では盤面が違います。囲碁は19路、連珠は15路。にゃんこならべも15×15の盤で勝負です。見かけはかわいいけど、お相手してくれるおじさん(まあ私もおじさんですけど)は間違いなく連珠有段者。全然勝てる気がしなかったですw***さっき調べて知ったのですが、2018年秋のゲームマーケットに出店していたみたいです。***というわけで、ここから葛西のボードゲーム会へ・・・ではなくて、その前に例によって富士塚探索を絡めてます。(それはまた別レポートで)
2021/12/04
コメント(0)
水曜が休みっていいよね~11/3の文化の日は、ボドゲ再始動の日としました。立川ボドゲ会に参加を決めましたが、立川の富士塚は未踏だったので午前中はそちらに行くことに。スタートはJR西立川駅。南東方向へ4~500m歩くと、その名も「富士塚公園」街の小さな公園の一角にたたずむ、木々に覆われたお山と小さな鳥居。浅間神社です。実際にこうやっていくつもの富士塚を見てくると、登れるお山は貴重だなぁ、と思うわけです。周りでは子供たちがサッカーをしていて、たぶんたまにはボールが鳥居にあたったりもするんだろうけど、「そんな事は気にしないよ~、元気に大きくなるんだよ~」なんて言っていそうな、緩やかな優しさを感じる佇まいでした。裏側に、下山用なのかもう一つの階段がありましたが、こちらは通れないようになってました。フェンスから外側をなんとなく見渡してみましたが、目につく範囲には碑や石像の類は見つからず、頂上の祠のみ。奉納額に昭和52年4月とある以外、起源などを示す案内板もありません。後で調べてみると、明治42年以前に既に浅間神社はあり、最も古い記録では享和4年(1804年)の時点で富士塚らしきものの描写があるとのこと。(参考:市史編さん広報誌「たちかわ物語」8号/2019年9月)歴史はありそうです。***さて、ここから2km弱歩いて、柴崎学習館へ。ゲームのレポートの方はまた後日。これで富士塚探索は20回、25富士。
2021/11/07
コメント(0)
10月31日の日曜日。元々晴れるまでは無くても、曇りっていう予報だったんですよね。それで予定していたウォーキングプランはあったけど、実際は雨模様でこれはダメだな・・・と。とはいえ小雨程度なので、徒歩圏内の富士塚をチェックしてみることに。荻窪から青梅街道を西へ。前に訪れた善福寺公園のすぐ隣といっていい場所にありました。井草八幡宮です。東側大鳥居から入って東参道は長い直線。この真っすぐな感じはもしかしたらと思ったら、やはり流鏑馬が行われる場所のようです。(写真は二の的の印ですが、もちろん一と三もあります)楼門から、本殿へ。お参りしてから北参道へ。で、大灯篭から道路を渡ると、北駐車場があって、その一画に小さな鳥居が見えます確かに、浅間神社です。右奥にこんもりと小山が見えますが、これなの?これでした。案内板によると、元は本殿西南側にあったものが昭和50年に現在地に移築されたとのこと。かつての地名であった「遅乃井(をそのい)」から名を取った「丸を講」が、戦前までは続いていたようです。小御岳石尊大権現や庚申塔等、富士塚らしい碑は旧塚の跡地に残っているようですが、その辺りは入れなかったので未確認です。帰りはバスに乗っちゃったので、この日は7000歩程度でした。19回24富士也。
2021/11/04
コメント(0)
先週日曜(24日)は良い天気でしたので富士塚探索。スタートは田園調布駅。渋沢栄一が理想の田園都市として計画した街であり、我々古い関西の庶民は星セント・ルイスの漫才でその名を知った高級住宅街ですw駅からきれいな同心円を描く設計は、日本では珍しい。(Google Mapで見てみて下さい)上の写真では左斜め方向、南西に歩いていくと「大田区立宝来公園」宝来公園を抜けてさらに南西に進むと、多摩川台公園。相当に広い公園で、西端にある宝莱山古墳をはじめ、多数の古墳が並ぶ中を遊歩道が通り、子供たちが遊べる広場あり、水生植物園あり、古墳展示室ありの充実施設です。多摩川を右に見ながら公園を抜け、東急の高架を潜れば、すぐに多摩川浅間神社です。神社の中に富士塚があるタイプではなく、神社全体が富士のお山という形ですね。登っていくと、他の富士塚でもよく見るタイプの碑が一つだけ立っています。富士講の富士登拝33回を記念して勝海舟に依頼して書いてもらったという「食行身録之碑」裏から見る方が、富士講の碑らしさは強い多摩川に面した見晴台からの景色は広々と、とても気持ちがいい。この写真からはさすがにわからないと思いますが、うっすらと実物の富士山の姿も見る事ができました。(心の目で見るレベルで、実は思い込みなのではないかと考えもしましたが、後で案内写真を見ると位置的に完全に一致していたのでたぶん本物w) 遅ればせながら、こちらが本殿シン・ゴジラのロケ地になったのに便乗した自動販売機(中身はワンピース缶だったりする)ゴジラデザインのお守り・絵馬セットや手ぬぐいもあるらしい。ありがたいのかありがたくないのかはあなた次第wゴールは多摩川駅で、この日も13000歩。富士塚巡りは通算18回で23富士也。
2021/11/01
コメント(0)
2週も前の話になってしまいましたが、10月10日は葛西で富士塚巡りでした。10月10日って以前は「体育の日」でした。1964年の東京オリンピックを契機に誕生した祝日が、東京オリンピックのために振り替えられるという奇妙なめぐり合わせでしたね。スタートは葛西駅。なんかここは降りた事あるなぁと思ったら、「葛西ボードゲーム会」で2度ほど来ていたのね。前回1日1富士ルールを解除しちゃったので、今回も近辺に複数の富士塚があるエリアを選択してみたのです。東葛西でなんと4ヶ所。(下の地図、中割天祖神社/真蔵院/長島香取神社/桑川神社:実際に歩いたのはもう少し横道に逸れたりグネグネしてます)では、ぐるっと行ってみましょう。中割天祖神社、正面に本堂。本堂左側に富士塚「中割の富士」(浅間神社)。ここから東に歩いて、雷香取神社の隣に真蔵院手前の小さ目の狛犬がお守りしているのが雷不動そして、真蔵院の敷地の中に浅間神社、「雷富士」どうやら、神社in寺院は全然特異な話ではない事がわかってきた。隣の雷香取神社もかつては一つの敷地だったと思われます。歴代の富士講の碑がまっすぐ並んでいるここから真っすぐ北上し、少しだけ旧江戸川沿いを歩いてから西に折れて、長島香取神社こちら本殿左側に「長島の富士塚」(浅間神社)向う側に見える墓地は東善寺。このあたりは他にもお寺や神社が数多くありました。長島香取神社から桑川神社はすぐ近く。こちら本殿左奥に「桑川の富士塚」四富士を巡って葛西駅に戻り、地下鉄博物館・通称チカハクを見学。切符状の入場券になってて、上の写真の自動改札で入館。路線ごとの地下鉄年表。私が生まれた時は、まだ丸の内線は荻窪まで来てなかったのねぇ。というわけで、この日は約13000歩。富士塚巡りは通算17回で22富士。都内だけでも60以上あるそうなので、まだまだ・・・
2021/10/25
コメント(0)
目黒近辺を歩いた10月2日土曜に続き、3日の日曜日は亀戸方面を散策。スタートは亀戸駅。まずはお昼ご飯を「佐野みそ」のイートイン「味苑」で。本来、味噌の店なのですごい種類の味噌が並んでました。「噌ムリエ」と呼ばれる味噌マイスターが相談に乗ってくれる。焼きおにぎりと、味噌の種類を選べるお味噌汁(具入り)、おかず味噌が3種類のランチ。このおかず味噌がたまらんレベルでウマい。特に大葉の味噌は絶品で、買って帰りたかったけど賞味期限が短いので単身の身にはもてあますと思って我慢。実はもう1か所ランチ候補が「亀戸餃子」だったんですが、こちらはお昼のピークは過ぎているはずなのに長い待ち列ができてた。でも、いつかはここも行ってみたい。他にも実にアジのあるご飯処が集まってる感じ。いやぁ、いいなぁ亀戸。なんなら住みたいよ亀戸。蔵前橋通りを歩いて旧中川の江東新橋を渡ります。亀戸は江東区だけど、川の向こう側は江戸川区です。このあたりはどこからでもスカイツリーが見えて、方向感覚の助けになる感じですね。少し川沿いを歩いてから内に入り、平井の渡し跡というのを探したけれど案内板しかなかったです。平井橋の交差点を右折。ちなみに左折して平井橋で旧中川を渡ると、その向こうは墨田区になります。(このあたりは荒川の西側で、墨田区と江東区に挟まれた、江戸川区飛び地的に言われたりするみたい)平井諏訪神社。その左側に、恒例の神社in神社。「平井の富士塚」は大正9年頃築造とのこと。実は、こちらに富士塚があるというのは認識していなくて、途中に寄ったらあった、という事前チェック不足でございます。ということで、実はこの後訪ねる「逆井の富士塚」の方が今日の主目的だったのです。これで「同じ日に複数の富士塚は行かない」という自分ルールは解禁することにしちゃいました。平井諏訪神社と敷地的には隣接する形で平井聖天(燈明寺)があります。平井聖天の僧が信州の諏訪大社からの勧進で建てたのが平井諏訪神社という由来があるので、先ほどの神社も元は燈明寺の敷地内だったようです。護国寺の例は珍しいという話を前に書きましたが、かつて神仏習合の時代には珍しくないことだったのですね。立派な本堂は工事中。隙間のガラスの向こうにオシャレなステンドグラスが見えます。こちらは別堂?さて、ここから一旦蔵前橋通りに戻って南下、江東新橋東詰交差点を東に。しばらくいくと最終目的地、平井浅間神社=「逆井の富士塚」です。関西にはたぶん無い地名なので、逆井ってなんて読むんだろうって思いました。ギャクイ、じゃないだろうけど、サカイかな・・・サカサイなんだ!創建時期は不詳、長享二年(1488年)とも伝えられる。祭神は木花咲耶比売命、社殿が別にあるわけではなく富士塚全体が浅間神社という形です。全部で20数基の石碑が建っているとのことですが、典型の一つ、向かって右側の小御嶽神社の碑は明治15年。周囲の保全用コンクリートの土止めは昭和41年の改修によるもの、とのこと。神社のすぐ西、ふれあい橋で旧中川を再び渡り、亀戸駅まで戻ってこの日は15000歩。頑張りました。
2021/10/15
コメント(0)
先週土曜日(10/2)のウォーキングはJR恵比寿駅スタート。恵比寿南三丁目交差点の南角にある道しるべ。正面の「南無阿弥陀佛」は交通安全祈願で、左右の面に本来の意味の道しるべ。右面に「ゆうてん寺道」と、説明書きにある。(実際は囲いのために読めない)今回はそのゆうてん寺道(目黒から別所坂を登り麻布経由で江戸市中へ至る最短ルート)を、途中まで逆行して歩きます。少し歩いた所に「馬頭観世音」このあたりが坂の頂上。昔は、江戸の街並みが全て見下ろせるような感じだったんでしょうね。かつて広重も江戸名所百景の一つに描いた「目黒新富士」と呼ばれる富士塚があったらしいですが、今はありません。庚申塔。ここからではそれほどきついように見えないですが、奥の角を曲がったあたりからかなり急になります。目黒川まで出てきました。ここは中目黒駅手前。山手通りと交わるまで目黒川沿いをずっと歩きます。で、首都高3号渋谷線を越えたところに本日のメイン、上目黒氷川神社。こちら本殿。本殿の右側に浅間神社。先ほどの別所坂上「新富士」に対して、目切坂上に「元富士」と呼ばれる富士塚があったそうですが明治11年に取り壊しになり、一部の碑だけがここに移設されたようです。神社を出ると、首都高の向こう側になにか施設が見えたので行ってみた。「目黒天空庭園」首都高の大橋ジャンクションの屋上を緑化した遊歩道です。ビルの3F(2F?)から屋上にでます。天空と言っても、その上にマンションとかあるわけでw登りきったところはビルの9Fの高さ。良い景色です。ここからビルに戻ってエレベータで地上まで降ります。出たところにあるバス停でスマホの地図を見ていたらバスが来たので、渋谷駅行に乗ってこの日のウォーキングは終了。約13000歩。
2021/10/10
コメント(2)
9/12の記事で稲荷鬼王神社を紹介し、「来週にすればよかった」って書いてました。翌週がお祭りだったからです。で、実は19日にレミニセンスを観たのが新宿だったので、その時に再訪しております。今更と思ったけど、せっかく写真も撮ったことだし・・・水琴窟が本殿横にあるのを書き損ねてたので、ここで手前の筒に耳を近づけると、聞こえます前にも書いたように、掲示板の展示は通常時も定期的に入れ替えがあるようなので、新宿で映画を見る時はまた寄ってみよう。
2021/10/04
コメント(0)
文京区の文京は「文教」からきている名前らしい・・・というわけで、先週土曜(9/25)は富士塚探索第14弾+久しぶりの東洋文庫のコースで歩きました。スタートは地下鉄「本駒込」駅。駅から地上に出てすぐ、本郷通りと白山小台線の交差点あたり、駒込土産店跡という史跡文化財があります。神田、千住とならぶ江戸三大市場の一つだったそうな。そこから北へ400mほどで「吉祥寺」前回の「柳森神社」もその始まりは太田道灌でしたが、この吉祥寺も太田道灌が江戸城築城の際に、『吉祥増上』なる刻銘の金印を見つけたことが由来とされます。元となった吉祥庵は現在の和田倉門付近、そこから吉祥寺となって水道橋あたりに移り、さらに二度の江戸の大火で現在の場所に再建されたものとのこと。一方、井の頭公園のある吉祥寺に「吉祥寺」というお寺がないのは有名な話。江戸の大火で寺院が駒込に移った際に、周辺住民も同じ場所に移ることができず、幕府が用意した別の場所に引っ越した。それが現在の武蔵野市の一部だったんですね。住民たちがもと居た場所を懐かしんで、吉祥寺の名前を付けたのが始まりのようです。アメリカにニュー〇〇という地名やらリトル××という地名が多いのと同じようなもんですかなw吉祥寺本堂で参拝してから、昼ご飯にお蕎麦食べて、少し歩けば「駒込富士神社」です。石碑群に色が入ってちょっとヤバい雰囲気を感じないでもないですが、その始まりは延文年間(1300年代半ば)とも言われる由緒ある富士塚です。ただし当時は古墳だったとも言われ、浅間神社として当地で形になったのは寛延6年(1629年)のようです。下の写真の右側にある板塀でふさがれているのは「胎内」なのかな。なお、ここの手水舎はセンサー式で近づくと水が出ます。コロナ禍で出来た仕組みなのか以前からそうなのかは知らないw神社を後にして、アジア最大の一次文献図書量を誇る「東洋文庫」へ。この日歩いた場所が、江戸時代の地図で見られるのは感慨深い。下の写真、中央やや上に見える緑に囲まれた寺院が吉祥寺、そこからさらに左側に駒込富士神社です。前に来た時は入館料200円だったけど、今は900円に値上がり。でもまあ、それぐらいの価値は十分あります。今回は時間も遅くなったので六義園はスルーでJR巣鴨駅まで歩き、この日約1万歩。
2021/09/30
コメント(2)
土曜日11日の新宿歌舞伎町に続いて、日曜日12日も富士塚&ウォーキングでした。今回のスタートはJR秋葉原駅。まず、イエローサブマリン秋葉原RPGショップにて「ガムトーク」「ガムトーク2」を購入。割引品コーナーを物色してると「アマルフィ」が4400円だったので、この値段ならとこちらも。で、そこから南東に下って主目的地、柳森神社です。柳原通りから神田川河岸へ一段降りた所にあるのが柳森神社。太田道灌が江戸城の鬼門除として現佐久間町一帯に植樹した柳の森に鎮守として祭られ、200年ほど後(1659年)現在地に移ったもの。左側の鳥居に「福寿神」とありますが、五代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したもの。立身出世にご利益ありとしてこちらが有名で、柳森神社自体が「おたぬきさん」と呼ばれたりします。13個ある力石群は千代田区有形民俗文化財です。若者たちの力自慢を競うためのアイテム!今でも各地で、祭の際にこういうのを持ち上げる大会みたいなのが行われたりしますよね。こちらが本殿。両サイド見てもらえればわかりますが、柳森神社本体は稲荷神社です。(京都の伏見稲荷神社を勧進)稲荷神社が「お狸さま」とも呼ばれるって、よく考えるとかなり面白い状況ですよね。で、わたくしめの本題はこちら、手水舎の柱にささやかに貼られた「浅間神社」のプレート。神社入口の階段を下りたところすぐ右にあるのが「富士講関係石碑群」厳密には富士塚ではなく、この周辺にあった富士講に関わる石碑や富士塚の名残を集めたものなんですね。現場に掲示されていた説明書きによると、昭和5年には一度境内に富士塚も築造されたのですが、昭和35年に取り壊されたようです。残念。さて、ここから神田川沿いに西に歩きました。万世橋。橋のすぐ南に、有名な「肉の万世」本店があって、地下2階、地上10階のビルのうち、1F~5Fまでが肉の万世の様々なタイプのレストランが入っている。それが、なんと今週水曜日、その「肉の万世」が本店ビルの売却を決めたというニュースが流れました。コロナ禍で飲食店はかなり厳しく、そのあおりだと思いますが、お店自体は継続するとのこと。レンガ造りの川沿いを歩きます。昌平橋から西を臨む景色。レンガ壁の上は中央線、右に見えるのは総武線ですね。左に見えるスペイン料理の店も緊急事態宣言の間は閉店中。御茶ノ水の観光スポット、通称「ニコライ堂」も現在は閉鎖中。ゴールは御茶ノ水駅で、この日も約8000歩でした。
2021/09/18
コメント(0)
富士塚探索第12弾(9月11日)は、なんと新宿歌舞伎町。新宿駅から、ホストクラブやらガールズバーやらが立ち並ぶゾーンを抜けたところに突然現れる小さな緑の場所。稲荷鬼王神社です。承応2年(1653年)に勧請された福瑳稲荷に、天保3年(1832)鬼王権現を合祀した神社なんですが、なかなか見どころあるいはツッコミどころのある存在であります。入り口すぐのところにある「鬼王神社の水鉢」は新宿区指定有形文化財。もともと加賀見某の邸内にあったのが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので刀で切りつけた。その後家人に病災が続くので本神社に預けられたという。水鉢を担ぐ鬼の左肩にはその刀傷が残っているそうだ。正面が本殿。なんだか板がたくさんありますが、これの正体はあとで・・・左側に「新宿山ノ手七福神」の一つ恵比寿神社があります。で、本殿左側奥、入ったのと反対の東側の鳥居に向けて出る参道の途中に、富士塚があります。が、ここの富士塚はちょっと変わってます。参道の両側左右に富士のお山が分かれちゃってる。上が鳥居に向かって左側、4合目まで、一番上に4合目の碑がありますね。下が同右側、5合目から頂上。昭和43年の社殿再建の時に二分したようです。さて、この富士塚の手前、社務所の建物横に面白いものがありました。もともと、大正時代に出来た映画館(戦時中に閉館)が隣にあったことが縁で、毎年9月18日の大祭期間中に、氏子などから寄贈された映画のポスターや資料を境内の仮設掲示板で展示するそうだ。冒頭の写真に写っていた板には、これから掲示物が貼られていくんですね。来週にすればよかったなwで、上の掲示板は、大祭期間中以外も見てもらおうということで、定期的に掲示物を変えながら展示しているものだそうだ。説明書きに「展示品によっては神社で展示するには問題のあるものも、寄贈品ゆえに展示いたします。」とあるのがちょっと面白い。「決着」と書いて「おとしまえ」、まあ問題があるかないかで言えば、あるw神社をあとにして、さらに北に歩いてコリアンタウンをウインドウショッピング。新大久保駅ゴールで、この日は8000歩でした。(9/13少し追記)
2021/09/12
コメント(0)
8月22日、この日も暑かったのですが、富士塚探索第11弾です。スタートは東京メトロ東西線、南砂町駅。駅前正面がもう緑。でも後で地図を見ると、この公園(南砂三丁目公園)を抜けるより、駅から東西線沿いの道を東に歩いた方が近かったw公園を抜けて、500mも歩けば「富賀岡八幡宮」まずは本堂にお参りそこから左奥に進むと、富士塚定型といえる浅間神社が「神社in神社」。他の人のブログなんかを見ると、何年か前までは登れたみたいですが、今は禁じられています。オリジナルは天保四年(1833年)頃にここから30mほど北に造られ、その際は土山だったそうです。昭和8年(1933年)に水害で形が崩れたため表面を溶岩で固め、昭和37年(1962年)に現在地に移築されたとのこと。奥の石板が改築記念碑、手前が移築の記念碑です。ちょっと別世界感のある緑につつまれた場所。軽く休憩・水分補給して、ここから「サマーフィルムにのって」を見るために錦糸町駅前を目指します。仙台堀川公園を川沿いに西へ、横十間川と合流したら北上というルートで、ずっと川沿い、緑の多い場所を移動できるはずと考えてのコース取りです。基本的には想定通りだったのですが、それでも暑かったですw川の合流地点でボート乗り場がありました。親子で楽しんでる光景が微笑ましい昼下がり。さらに北上して小名木川との合流地点、4方向にクロスで架かる小名木川クローバー橋。クローバー橋の中心から北を臨むと、少し先にスカイツリーが見えます。ここからさらに2km弱を歩いて錦糸町駅前、TOHOシネマズ錦糸町楽天地でゴール、14000歩。やりすぎだったかも。
2021/08/31
コメント(0)
8月1日に富士塚探索第10弾、品川神社。正直のところ、この日の気温はウォーキングには向いていない、というより、ほんとは外に出てはいけない暑さでした。携帯する飲み物を前回の麦茶からスポーツ飲料に格上げして大崎駅からスタート。ゲートシティ大崎など室内を移動できるところは使って東へ。地上に出てまっすぐJR線路を越えられると思って歩いたら、実際は行き止まりで遠回りに結局わかりやすく山手通りを歩くことに。山手線・新幹線の線路を越えてから、上野東京ラインの線路の手前で左に曲がると東海寺大山墓地。沢庵和尚のお墓があります。山手通りに戻って、第一京浜との交差点を左折すればすぐ品川神社。ここまででかなり消耗しておりますが、頑張って階段を登ります。奥が本殿。なのですが、富士塚には二つ上の写真の灯篭があるあたりで左に入ります。新たな石の鳥居の向こうに、「登山道」と「一合目」の碑があります。でぐるっと回って、頂上は広くフラットに整備された空間になってます。お山自体は数mですが、神社自体が高台にあるので、東側の景色はなかなかです。この街並みの向こう側、直線距離なら3kmほどでお台場なんですよね。反対側に降りていくと、「ぶじかえる」の像がお出迎え。芸が細かいwこの横に案内板もあって、品川神社富士塚の来歴が書かれています。いわく「明治2年(1869)築山の後、一度神仏分離政策で破壊され、明治5年に再築、大正11年(1922)に現在地に移築」とのこと。頂上には何も祀られていないので、お参りは下山後にこちらで。で、よき季節ならここから天王洲の運河沿いを歩いて品川あたりまで出るのが良いと思うのですが、もはやこれ以上歩くと死にそうなので、真ん前の京急新馬場駅から帰宅です
2021/08/22
コメント(0)
7月第2週、第3週も富士塚巡りにでかけようと部屋を出たものの、あまりの暑さに近所で買い物だけで帰ってくる、というルーチンを繰り返しておりましたw4週目連休二日目、むしろこれまでより暑いぐらいだったのですが、ミネラル麦茶を片手に思い切って出動(富士塚探索第9弾)下車駅は京急大鳥居駅。普段この線を利用するのは羽田空港に行く時ぐらいで、羽田早朝便のためにお隣の穴守稲荷駅で降りてホテル前泊することはありましたが、大鳥居駅での下車は初めてです。一旦北へ向かってお昼を「龍門」さんで。ここの餃子は肉なしなんだけど大満足できる、と餃子好きの間では有名な一品です。「セットの汁物が中華スープじゃなくて味噌汁なのは大正解」っていうコメントを何か(誰かのブログだったか、食べログのコメントだったか?)で見たんだけど、同意です。作ってくれるおばあちゃんは九十うん歳とのことで、暑い中この日も黙々とネタを包んでおられました。お元気そうでなによりで、大鳥居の交差点を南に越えて、萩中公園を経由して羽田神社まで、1kmほど歩くだけで汗だく。まずは本殿にお参り。この左側に、富士塚(羽田富士)があります。現場では気がつかなかったけど、頂上の浅間神社とともに、二合目には水神宮・弁財天が祀られているのですね。ここはしっかり登ることができます。ちゃんと下山用の道もある。さて、羽田神社の北側に、Googleマップでは「孫悟空」と記載された謎の場所がある。行ってみると石材店のアピール用のオブジェでした。銘には「よし坊」とあるので、厳密には孫悟空ではないw奥に見えるのは大師橋。そして、この日はこの後映画を観に行く強行軍。ちょっと無理したかも。新宿でのうろうろもあわせてこの日12000歩。
2021/08/09
コメント(0)
7月1週目に富士塚巡り第8弾、台東区の小野照崎神社内、入谷坂本富士です。地下鉄入谷駅からすぐ、ぐるっと回って北西側から入ります。七夕のお祭りの季節。入ってすぐ左の位置に「織姫神社」(下の写真)があって、七夕とは縁が深いのです。さらに奥に進んで左奥、神社の敷地の中では北東の位置に富士塚(浅間神社)があります。築山から230年、国の文化財指定されていて残念ながら登れないのですが、6/30と7/1の山開きの日には関係者での登拝があるようです。合目石が目印になって、ジグザグ型の道が見て取れますね。七夕祭のイベントで、短冊に願い事を書いた後、絵師さんがイラストを描き加えてくれるというサービスが行われていました。入った時と反対側の南の鳥居から出て、ここから少し歩いて油そば専門店「万人力」半熟卵付でいただきました。この日はそのまま入谷駅に戻ったので、歩数は稼げず。7月に入るとかなり暑くなってきて、これから長距離あるくのはしんどくなる季節です。
2021/08/01
コメント(0)
6月最終週に富士塚めぐり第7弾スタートは地下鉄護国寺駅で、地上に出るとすぐ護国寺の正面です。で、とても珍しいことに今回の富士塚は護国寺の敷地の中にあります。他のたいていの富士塚は別の神社の敷地の中で、浅間神社の名で存在するのが定番なんですよね。さて、まずは護国寺の方から、最初の写真の仁王門を入ってすぐのところに、下の写真のような「音羽富士」の案内があります。案内に従って行くと、かなりの大きさがあり、今回は登れます!頂上このあと、鬼子母神堂の時に回れなかった雑司が谷の町を探索です。首都高を跨いですぐのところに、雑司が谷の七福神のうち吉祥天がおわしました。吉祥天は鬼子母神の子なんですね。そこから北西方向へ歩きますが、そうしてみると雑司が谷は坂の町であることがわかります。高さの違う上下の道を縦につなぐ、こういった狭い道の景色が好きだなぁ。宣教師館通り米国の宣教師マッケーレブが住み、活動の拠点とした場所が保存され、資料館として見学できるようになっています。第二次世界大戦により、非常に厳しい状況となった、その歴史も記録されています。雑司が谷は、周囲に多くの大学を有し、菊池寛など著名な作家達が住んだ文学の町でもあります。自分の娘に読ませることのできるまともな雑誌が無いと、じゃぁ自分で作っちゃえって「赤い鳥」を創刊した鈴木三重吉や、秋田雨雀もその中の一人。ちなみに、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も「赤い鳥」に掲載されたのが最初なんですね。宣教師館から北に向かうと雑司が谷霊園があり、その中に夏目漱石のお墓もあります。霊園を抜けて都電雑司が谷駅。このレトロ感に、乗ってみたい気もしたけど帰り道から遠ざかっちゃうのでそれはまた別の機会に・・・池袋駅まで歩いて、この日はちょうど一万歩。
2021/07/23
コメント(0)
富士塚巡りの2回目で横目で見ていた新宿の花園神社。6月二週目にあらためて訪れました。本殿はこちらその手前に、稲荷神社があって溶岩っぽい小山の上に祀られていたので、最初これのことなのか?って思ったんですが・・・こちらは違いました。富士塚は道路から入ってすぐ右側、敷地の東北方向にありました。芸能浅間神社の真新しい印象の碑が建つ小さ目の富士塚は、およそ自分の身長と同じ程度の高さです。なぜか藤圭子の「夢は夜ひらく」の碑もあったりします。そもそも、この地に芸能神社が存在する理由がありまして、花園神社が江戸時代に何度か火災で焼失するたびに、境内に設けた劇場で演劇などを催して再建費用にあてた事からきているそうな。そして、この日も新宿梁山泊のテント公演(ベンガルの虎)が開催期間中でした。なお、富士塚めぐり第3弾のタイトルに宇多田ヒカルを持ち出したのは、今回のフリというわけではありません。
2021/07/13
コメント(0)
5月から始めた東京の富士塚めぐり、6月に入って最初の休みに第5弾のお出かけをしています。この日のウォーキングのスタートは八丁堀駅。八丁堀と言えば中村主水@必殺仕事人ですよね。当時八丁堀に同心の屋敷が多くあったことから、そのような呼び名が通称になっていたわけです。目的地は鉄砲洲稲荷神社。この地が鉄砲洲と呼ばれるのは、その形から来ているそうです。なるほど。(今の神社の位置は”松平阿波”と書いてあるあたり・・・のはず)コロナ禍で手水舎が封鎖されているところが多いですが、ここは手水のかわりにアルコール剤がおいてある。よいですね。こちらが本殿その右奥に、鉄砲洲の富士塚があります。残念ながらここも登れないです。「富士山」って主張が強いw(他は「お山に登らないでください」的な表現が多いんじゃないかと思います。)隣のマンションの住人達は富士山を見下ろしているわけですね。ありがたいような、ありがたくないようなw登れないですが、周囲はぐるっと観察できます。前回の記事で書いた「胎内」というのが、ここではしっかり見ることができるのが特徴の一つと言って良いかな。神社を出て、亀島川沿いを歩きます。亀島橋の北西側の角に、「堀部安兵衛武庸の碑」があります。ここから、少し遠回りで八丁堀駅に戻って約7000歩。なお、鉄砲洲稲荷神社は平成29年に大改修工事をやっていて、この時富士塚も一時撤去と復元という大手術を経験しておるのです。ちゃんと残って良かった。下は錦絵「江戸自慢三十六興」より「鉄砲洲いなり富士詣」(国会図書館ウェブサイト、「錦絵でたのしむ江戸の名所」より)
2021/07/04
コメント(0)
全111件 (111件中 1-50件目)