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あなたが生きにくさを感じているのなら、共依存について知ることが役立つかもしれない。 共依存症は病気だが、共依存は生きにくさを感じてる人に共通の状態だ。それは病気ではない。 それは普通のことなのだ。 だが、自然ではない。それが共依存だ。【送料無料】共依存かもしれない [ ケイ・マリー・ポーターフィールド ]価格:1,470円(税込、送料込)【送料無料】依存症と家族 [ 斎藤学 ]価格:1,890円(税込、送料込)【送料無料】共依存症心のレッスン [ メロディ-・ビ-ティ- ]価格:1,995円(税込、送料込)
Apr 29, 2013
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あなたが悟ろうとするなら、あなたが今持っている『絶対的な正しさ』を手放さなければならない。感情の壁を越える必要がある。 しかし、あなたはそれを絶対的に正しいと感じているのだから、そう感じている間は手放すことなどできはしない。 さらにその正しさが絶対的なものでないと論理的に理解したところで、感情的に納得することができない。 ではいったい、どうしたら手放すことができるのだろうか。 その方法を得るためには、あなたがその『絶対的な正しさ』を手に入れた経緯を知る必要がある。 それには、最近になって臨床心理学で明らかにされた共依存症といわれる状態を知ることが役に立つ。 共依存とは、ある種の人間関係依存のことをいう。自分に存在価値を感じられない人同士が、相手との関係性において他の人から評価されることで自分の存在価値を感じている状態のことだ。 もともとアルコール依存症の臨床現場において発見されたものだ。 あるアルコール依存症の夫を持つ妻がひとりでカウンセラーに助けを求めた。当然カウンセラーは、本人を連れてくるように言った。だが、妻は毎回理由をつけて連れてくることを拒んだのだ。 その態度に不審を抱いたカウンセラーは、あることに気づく。 妻は表面的には夫のアルコール依存症の回復を望んでいるのだが、心の奥では無意識に、夫がアルコール依存症でいることを望んでいたのだ。 それはなぜだろう? 妻は自分の存在価値に不安を抱いていた。『こんな私が生きていてもいいのだろうか』と。しかし、アルコール依存症の夫を助けることで必要とされていると感じることができた。しかも、周囲の人からも献身的な良き妻という評価を得られた。そんなときだけ、彼女は生きがいを感じ、自分の存在価値を感じられるのだ。 もし、夫が健全になったら、一人で生きていけるようになったら、もう自分は必要とされない、献身的な妻の役割も終わってしまう。そんな恐れが彼女に夫がアルコール依存症のままでいることを望ませるのだった。 そのような状態に気づいたカウンセラーは、妻のような立場の人間をイネイブラー(依存症の支え手、依存症を可能にする人)と呼び、イネイブラーも結局は依存症者を仲介してアルコールに依存しているという意味で、、そのような状態を共依存と呼んだのだった。 実際、イネイブラーである妻は、今回だけと言いながら飲酒を許したり、夫がアルコール依存症によって起こした不祥事を隠したりして、遠回りではあるが、依存症であり続けことを助けているのだ。 そして今では共依存症はアルコール依存症患者に関わらず存在する人間関係依存だということが知られている。共にアルコールに依存しているという意味合いから、自分の存在価値を共に他人からの評価に依存している状態として認識されている。 そんな共依存症の人は、自分に自信がない、自己の存在価値を信じることができない。そこで必要以上に他人と関わり、他人をコントロールして他者に必要とされたり、他人に評価されたり、関心を持ってもらおうとする。自分に自信がないから、他者から認められることでしか、自分の存在価値を感じられないのだ。 共依存は、機能不全家族の中で育つことで身についてしまう嗜癖だ。機能不全家族とは、「子育て」「家族の正常なコミュニケーション」「地域との関わり」といった、一般的に家庭に存在すべきとされる機能が健全に機能していない家族のことだ。 別の視点から見ると、一般社会の正しさとまったく別の正しさが存在する家族だといえる。その中で暮らす人間は、その一般社会と別の正しさに適応するようになる。その閉鎖された社会の中では正常に育ったともいえるのだ。 深海で生きる魚は深海の高い圧力でも生きていけるように適応している。しかし、それゆえに深海から釣り上げられる魚は、眼や胃袋が飛び出た状態で水面まであがってくる。 それと同じように一般社会と違った環境に適応した共依存症者は、一般社会にでると生きにくさを感じてしまうのだ。 しかし、安心して欲しい。水族館の深海魚は圧力がかかっていない水槽で生きている。それは一時的に加圧水槽に入れて、新たな環境に適応するように慣らしているのだ。同じように、共依存症者も社会に適応するように回復することができる。 機能不全家族に置いて、基本的に足りないのは、ありのままを認める愛情だ。機能不全家族の中では、親の求める条件を満たしたときだけその存在価値を認める、という条件付の愛で育てる。 その環境に適応するためには、まず相手の要求が何かを見極め、それに応え、さらに本当に相手を満足させることができたか、相手の評価を待つ、というクセを身に付ける。 こうやって身に着けた正しさを決めたのは、親など自分以外の人間だ。自分で決めた正しさなら自分で変えることができるが、他人が決めて求めてくる正しさは、自分では変えることができない。さらに、その要求にに応えても、その結果が相手の望んだとおりか、自分では確認できない。相手の評価を待つしかない。 共依存症者が相手の境界線まで踏み込んでしまうのはそのためだ。相手の顔色を気にしたり、相手に気を使いすぎるのはそのためだ。 しかも、機能不全家族の中で、条件付の愛によって育てられるということは、もし要求される条件を満たすことができなければ、親に見捨てられるかのような不安と恐れを抱くことになる。幼い子供は、親に見捨てられては生きていけない、つまり見捨てられる不安や恐れは、死の不安と恐れでもあるのだ。 その恐れから逃れるために身に着けた正しさは、死の恐れと無意識に結びついた絶対に守らなければいけない正しさとなる。、 いわゆるトラウマ状態である。 その無意識に感じる見捨てられる恐れ、死の恐れを克服しない限り、その絶対的な正しさを手放すことができない。それが感情の壁の正体なのだ。 驚くことに、それは共依存症といわれる病的な状態の人だけの問題ではないのだ。 共依存症は病的な状態だが、広い意味で考えるとほとんどすべての人が共依存なのだ。 アメリカでの共依存研究の権威であるシャロン・ウェグシェイダー=クラウスは、アメリカの人口の約96%が共依存者の条件に当てはまるという。 そもそも正しさは相対的なものだ。日本の家庭においては、日本の社会の正しさとかなり外れた正しさをもつ家庭が機能不全家族だが、日本の社会の正しさがすべての人に共通の正しさではない。 社会の正しさの中には、その社会を維持することを第一とする正しさがある。それは、社会を維持するためには個人を犠牲にする正しさだ。戦争が正しいとされるもの、死刑という殺人が正しいとされるのも、それが社会の維持という目的に適っているからだ。 どんな人にも、自分の正しさと社会の正しさが一致しないために生きにくさを感じる場面が出てくるはずだ。 つまり、人は社会に適応するようにしつけられるうちに、自分の中の正しさと違う、社会の正しさを身に着けているのだ。 普通の人も社会の常識や道徳、法律という社会の正しさと違うことをすると周りから冷たい目で見られたり、迫害されたり、罰せられたりする。その恐れから、常に自分が社会の正しさに適応しているように自分を抑え、知らず知らずのうちに自分以外の誰かが決めた絶対的な正しさを身に着けていく。そしてその対応が正しかを確認するために、周りの人の顔色を伺うようになっていく。それはすべての人が広い意味での共依存になっていくことを意味している。 そのことは、欲求として現われている。マズローの欲求段階説を見てごらん。 最初に求めるのは、動物的な生きるための最低限の生理的欲求だ。その次に、それを安全で安定したものにしたいと願う。 ここのでは自然だ。だが、そうやって安全に安定的に生きることができると、次に社会の一員として認められることを望む。社会生活をしているのだから当然のことだ。だが、いく種類もの社会があることからもわかるようにそれは人工的なものである。社会が不自然なものである限り、それは自然ではない。そして、その次に求めるのは、承認(尊重)の欲求だ。 共依存であるということは、自己の存在価値を他人に認めてもらうことを求めているということだ。最初は社会の一員として認められれば良かったものが、より安定して認められたいと願うようになる。それは動物的本能が社会生活の中でも発揮されているということだ。社会の中で、それはより尊重されることを意味する。したがってより高く評価されることを求めることになる。たとえば、お金持ちであれば周りの人も評価してくれる。しかし、自分よりもお金持ちからは評価されないかもしれない。より多くの人から認められるためには、よりお金持ちにならなければならない。 スポーツで一流になった、歌手として一流になった。でもまだ認めてくれない人がいる。より多くの人から認められるためには、より努力してだれからも認められるようにならなければならない。 その、これではまだ認められないかもしれないという不安からの欲求が、尽きない欲の正体なのだ。 つまり、あなたの持っている絶対的な正しさというのは、社会を維持するという目的のための正しさなのだ。これまでにも、清教徒革命、フランス革命、ロシア革命、明治維新など、さまざまな革命が起きてそれまでの社会を終わらせている。 その正しさは、絶対ではない。 なにも革命を起こして今の社会を壊せといっているのじゃない。大切なのは、『あなたが絶対だと思っている正しさは、絶対ではない』ということを腑に落とすことだ。 ありのままの自分を認めてあげることだ。 さんた ひかる【送料無料】嗜癖する社会 [ ウィルソン・アン・シェフ ]価格:2,205円(税込、送料込)
Apr 29, 2013
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情熱大陸2013年04月28日放送パリで日本人として始めてミシュラン二つ星を獲得した料理人佐藤伸一の回を見ました。 その中で、三つ星レストランのシェフ パスカル・バルボの言葉がすばらしかったのでご紹介します。------------------------------------------------------(ミシュランの格付けに対する姿勢と信条)三つ星は光栄だが、人生の目標ではない客が美味しいと感じるか 毎日が勝負だ楽しくなくちゃ料理じゃないシェフ パスカル・バルボ(レストラン アストランス(パリ16区))------------------------------------------------------(佐藤への助言として)ありのままの自分でいろ好きな料理で人生を楽しむ星の数に惑わされず 料理に集中することさシェフ パスカル・バルボ(レストラン アストランス(パリ16区))情熱大陸2013年04月28日放送より------------------------------------------------------ パスカル・バルボはもう悟りの境地ですね。人生の目的は人生を楽しむこと そのためには(もちろん、高評価は喜ぶけど)他の人からの評価(星の数)に惑わされないことありのままの自分でいること好きなことをして人生を楽しむそこに集中すること(・・・三昧ですね) パスカル・バルボの言葉は、自分が体験している境地から自然に出た言葉です。パルボの悦楽の境地が見えてきます。 番組の冒頭に出てきたシェイクスピアの言葉期待はあらゆる苦悩のもと これは半分しか当たっていません。つまり、シェイクスピアは悟っていない。 自分が選んだ期待は自分で変えられるしかし、周りからの期待に応えるためにする期待は自分では変えられない。 佐藤伸一の場合なら、『二つ星を維持する料理を創りたい』 この期待は他人の期待に応えるために生まれた期待であって、自分が楽しむための期待ではない。待っているのは、二つ星の評価を絶対に得るという自分では決められない結果だけだ。しかも絶対にそうならなければならないと自分で感じている結果だ、 これは相手次第だ。しかも絶対にそうならなければと感じている。だからこそ苦悩してしまう。自分ではどうしようもできないことだから。何か努力しても、それが本当に相手からの評価に繋がっているかその瞬間は確かめられないから。それは「自分のやっていることに意味があるのかな」という疑問に繋がっている。それは意味があるかの判断を他人に委ねているからだ。 一方、パスカル・バルボの期待は『お客様に美味しいと感じてもらいたい』しかも、勝負しているのだから、絶対の結果の期待ではない。勝負そのものを楽しんでいるのだ。 この期待なら、毎回毎回結果が出る。仮に満足してくれないお客様がいても、それは次のお客様に対して自分を出し尽くすための励みになっている。そして、その瞬間に集中しているのだから、毎瞬を楽しむことができるのだ。
Apr 29, 2013
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人は感情の動物だといわれている。 それは人が豊かな感情を持っているという意味でもあるが、それよりも、人が感情に支配され、論理よりも感情にしたがって思考、行動してしまうクセがある、ということなのだ。 あなたにも『理屈では分かっているけど、なかなかその気にならない』『気持ち的に許せない』ということがきっとあるだろう。 きれい好きの人が、散らかっているのを見るときれいにしないではいられない、などというのもその例だろう。 そのように感情に支配されて思考、行動してしまうことが、感情の壁となって、自分の中の『絶対的な正しさ』を手放すことを阻み、結果的に悟ることを難しくしている。 そこであなたは感情を何とかしようとする。 怒りがわいてきたら、怒りを抑えようとする。悲しみに包まれたら、明るく振舞おうとする。 だが、それはむなしい努力だ。なぜなら、感情そのものは意志によって生まれてくるものではないのだから。あなたはあなたの意志と関係なく感情に包まれる。あなたは感情に囚われているのだ。 だからこそ、感情は論理より強い。悟りの壁となって立ちはだかる。 だが安心していい。あなたは、感情発生の基礎になっている観念を変えることで感情の囚われから抜け出すことができる。それが悟りということだ。 感情の発生には二つの要素が必要だ。自分の外側に起きる出来事、状況と自分の内側にある『絶対的に正しい』という観念だ。 それを式に表すとこうなる。外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情 ある人が『きれいにしておくことは絶対に正しい』と思っているする。そのきれいさには程度がある。物はすべて整頓され、収納され、塵ひとつなく、さらに消毒までされている、そんな状態を完璧である+10としよう。 今、外側は物はすべて整頓され、収納され、塵ひとつないが消毒はされていない状況を、まあ-1としよう。 すると計算式は、-1 × 10 = -10となり、-10のマイナス感情が湧き起こる。このマイナス感情とは、外側を否定することで起きた怒りや悲しみなどの否定的感情のことだ。この否定的感情は、外側と内側の関係性で変ってくる。外側を攻撃し、自分思い通りに変えようとするベクトルがあれば、それは怒りとなり、外側に打ち負かされ思い通りに変えられず、感情のベクトルが内側に向くと悲しみとなる。まったく整理もされず、散らかり放題、埃まみれで不潔であれば、状況は-10(仮に設定)となり、-10 × 10 =-100となり、-100の否定的感情が湧き起こる。 その人の観念が、整理整頓しか求めていない(これを仮に5レベルとする)のであれば、その状況でも-10 × 5 = -50となる。 外側の状況が整理整頓されていれば、その人にとって外側の状況は、可のなく不可もない状況、すなわち0であるから、0 × 5 = 0となり、その人は当然の状態が維持されているのだから、平然としている。 もし、整理整頓された上に、きれいに拭き掃除されていたとしたら、その人にとっては、プラスの状況となる、仮にそれの状況を+3とすると+3 × 5 = 15となり、喜びや楽しさなどの肯定的感情が湧き起こることになる。 つまり、『絶対的な正しさ(観念)』がある限り、あなたは『外側の状況』に振り回され続けことになる。言い換えれば、感情に振り回され続けることになるのだ。 これが感情の壁だ。 だが、しかし、ここであなたが絶対的な正しさを持っていないとする。絶対的な正しさが『0』なのだ。仮に外側が最悪の状況(-10)だとする。すると計算式はこうなる。-10 × 0 = 0なんの感情も起きない。穏やかな心のままだ。 もはやあなたは感情に振りまわされることはなくなる。 それが解脱だ。 だが、言っておこう。悟って感情に振り回されなくなったとっても、悟った人に感情がなくなるわけではない。いくらかの人は、そこを誤解していることがある。 そのためには、先ほどの式に説明を補足する必要がある。 人の感情は、動物脳ともいわれる大脳辺縁系(特に扁桃体周辺)の情動反応によって起こる。だが、それはほんの一瞬(一秒以下)だ。そのは脳の結果、我々の身体には表れる様々な身体反応が起こる。そのような身体反応のために分泌された化学物質が消えるまで感情が続いてもわずか30秒程度だ。 これは自然な感情だ。すばらしいものだ。しかし、人の感情はもっと長く続く。何分も、何時間も、時には何ヶ月、時には何年も。 それは、人間脳と呼ばれる思考を司る部位(大脳新皮質)が関係している。 自然な感情も思考のスイッチオンによって発生していた。しかし、自然な感情であれば、続いても30秒程度だ。ところが、あなたが思考によって外側を否定続けると、このスイッチは、エンドレスに押され続ける。つまり、否定的感情はずっと続くのだ。それが、人の感情が長く続くメカニズムだ。 もうこれは自然な感情ではない。 このメカニズムは脳科学によって確かめられ、明らかにされている。釈尊の時代には分からなかったことだ。凡夫(悟っていない人)は絶対の正しさを持っているから、式は 外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念、信念) = 感情であった。悟った人は、絶対的な正しさを手放しているが、相対的な正しさは持っているから、 外側の出来事、状況 × 相対的な正しさ(一時的な考え) = 感情となる。 絶対的な正しさを持っている場合、外側が自分の望む状態に変らない限り、感情のボタンを押し続けてしまう。それをやめるためには、別のことを考えるか、外側の状況から離れるしかない。 しかし、相対的な正しさであれば、いつでも手放すことができる。それが感情の囚われからの解脱であり、感情の囚人から、感情の支配者になるということなのだ。 感情の支配者となれば、自由に感情を遊ぶことができる。だからこそ、釈尊も悟った後も悲しんだり、喜んだりしていたのだ。 さて、ではなぜ人はそんな厄介な絶対的な正しさを獲得してしまったのだろうか。これについては次回に語ろう。 さんた ひかる
Apr 29, 2013
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悟りを体験すること、つまり悟りを開くことが簡単でないのは、悟りとは意識の変容だからだ。 意識の変容とは意識がまったく別のものに変わってしまうということだ。 それは、別の言葉でいうと広義のパラダイムシフトだ。パラダイムとは、科学史家 トーマス・クーンによって提唱された科学史上の概念では、科学上の問題を取り扱う前提となるべき、時代に共通の体系的な想定ということだが、今ではもっと広い意味で使われている。 この広義のパラダイムとは、簡単に言えば、私たちの思考の基礎になっている基本的な考えのことだと思えばいい。私たちは、自分が持っている基本的な考えに基づいて思考をしている。それはコンピューターのプログラムのようなものだ。プログラムを変えれば、同じ入力がされても別の答えを出すことができる。 そしてシフトというのは、変化の一種だ。アナログ時計の針は徐々に変化しているが、デジタル時計の数字はいきなり変わる。パラダイムシフトのシフトとは、そのデジタル時計の数字のように、いきなり革命的にもしくは劇的に変化することをいう。 つまり、パラダイムシフトとは、基本的な考えがいきなり革命的にもしくは劇的に変化することだ。 コンピューターのプログラムをまったく別の答えを出すように、まったく別の形に変えてしまうようなものだ。 パラダイムシフトの例としてよく知られたところでは、天動説から地動説へのシフトがある。教会にとってそれは受け入れがたいことであった。 地球上で太陽が10度動いて見えたとき、天動説プログラムなら、太陽が地球周りを10度動いたという答えを出し、地動説プログラムなら、地球が10度自転したというまったく違う答えを出す、ということと同じだ。もうひとつの例として、ニュートン力学と違う量子力学の世界の発見がある。あのアインシュタインは、「神はサイコロを振らない」と言って量子力学の考えを受け入れようとしなかった。 まったく違う考えを受け入れるとはそれほど難しいのだ では、これまでのパラダイムと悟りのパラダイムは何が違うのだろうか? そもそも、私達の意識は、自分が獲得した正しいと思う考えを基に組み立てられている。 たとえば、人を殺してはいけない、それが絶対的に正しいと考えている人がいる。しかし『絶対的な正しさ』など存在しない。すべての正しさは、前提、目的によって相対的に成立しているものだ。「人を殺すことはいけない」という正しさは、法律的正しさであったり、道徳的正しさであったり、常識的正しさであったり、前提、目的によってその幅が違うのだ。 ところが、一般的な状況においてはそれらの正しさがある程度一致しているから、あたかも絶対的な正しさのように思い込んでしまうのだ。 絶対的でない証拠に、殺人を犯した人を死刑にすることに賛成している人もいるし、死刑にも反対している人でも、正当防衛や緊急避難での殺人は認めていることもある。 そのように『絶対的な正しさ』など存在しないのに、ほとんどの人は無意識のうちにさまざまな『絶対的な正しさ』を持っている。その正しさこそが基本的な考えだといえる。 悟りのパラダイムにおいては、『絶対的な正しさ』など存在しない、すべては相対的なものだと論理的に正しく認識されている。それが基本的な考えになっている。 その考えは、どこまでだったら正しいかという程度の問題の延長線上にはない。一段飛び抜けている。それはシフトアップだ。 つまり、意識の変容、悟りのパラダイムシフトとは、たとえば「人を殺すことは絶対的な悪ではない」というこれまでとまったく別の考えに変るということだ。自分がそれまで絶対的な正しさだと信じていることを手放すことが、悟りを開くということなのだ。 その人が信じている絶対的な正しさを手放さなければ悟ることができないからこそ、悟りを開くことは簡単でないのだ。 さらに、正しさを手放すことを難しいのは、感情的な壁を超えなければないないからなのだ。これについては次回に語ろう。 さんた ひかる
Apr 28, 2013
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時は満ちた。 これから悟りについて語ろうと思う。 だが私が「悟りについて語る」というとあなたはこう言うかもしれない。「悟りは言葉で語れないものだ」「悟りを言葉で伝えることはできないはずだ」と。 だが、この二つのうち、「悟りは言葉で語れない」というのは誤解である。 その証拠にこれまでに何人もの人がその悟りについて語っているではないか。「悟りは言葉で語れない」というは完全なる誤解なのだ。 一方「悟りを言葉で直接に伝えることはできない」というのは本当のことだ。まずこの違いを理解して欲しい。 「悟りを言葉で直接に伝えることはできない」と聞くとあなたはこう思うだろう。『やっぱり悟りって難しいんだ』と。 いや、そうではないのだ。 断言しよう。悟りを開くことは、それほど難しいことはない。むしろ、覚悟さえできれば簡単だとさえ言える。多くの人は誤解しているが、そして、おそらく仏教学者でさえそうかもしれないが、「悟りを言葉で直接に伝えることはできない」ということは、実は悟りの問題ではないのだ。 それは単に言葉の機能の問題だ。 多くの人は、自分の体験を言葉によって直接に相手に伝えられると思っている。そもそもそれが大いなる誤解なのだ。 いやいや、言葉にそんな機能はない。言葉は、自分の体験に近い相手の体験を指し示しているに過ぎない。けっして、あなたの体験を言葉によってそのまま伝えたのではないのだ。 あんこを食べたことがない西洋人に、「これは大福といい、日本のスイーツ、甘いお菓子です」と言ったとき、その西洋人はあんこの味、甘さを思い浮かべることはできない。それはそうだろう、これまで食べたことがないのだから。その人が思い出すのは、その人がこれまで食べたことがあるスイーツの甘さ、たとえばケーキの味や甘さのはずだ。けっして、あんこの甘さではない。「甘い」という言葉は、相手の体験した甘さを指し示すことになる。 だが、日常生活ではそれで事足りる。その西洋人がそこで大福を食べさせすれば、あんこの甘さを共有できる。次からは、相手のその体験を言葉で指し示すことができるのだ。 それが言葉の機能であり、機能の限界なのだ。 ところが、残念なことに「悟り」に関してはそんなに簡単ではない。 というのも普通の体験は、ほとんどの人が同じように体験しているか、それ自体は体験していなくてもその延長線上にある体験をしている。たとえば、登山をしたことがない人も、坂をのぼったり、階段をのぼったりした経験があり、登山はその延長線上にある。 しかし、悟りは通常の体験やそこから得た観念のの延長線上にはないのだ。悟りは意識の変容だ、言い換えるとそれはパラダイムシフトなのだ。 悟りはそれまでの体験や観念の延長線上にはない。これについては次回に語ろう。 さんた ひかる
Apr 27, 2013
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昔はりんごを皮ごとと食べていました。でも今は農薬が心配で皮をむいています。 本当は皮をむかない方が栄養がとれるんですよね。 鉄腕ダッシュで国産レモン農家のレモンを山口君とかが取れたを食べていました。ポストハーベストで薬品が使われている輸入レモンとの違いを実感しました。 つまり、取れたてをおいしく食べているムービーを載せたら安全性が伝えられて売れるのではないかと思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Apr 2, 2013
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