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「本当は怖い家庭の医学」を見ました。 偏食で肌が荒れてボロボロ、目の疲れ、だんだんと爪割れがおきたりして、食べ物を食べても味がしなくなり、調味料の量が増えてきたら要注意。 偏食のために『亜鉛不足』になると、こんな症状がでてくるのだそうです。 テレビの中では、味覚障害がひどくなり、食べたケーキの味が感じられなくなり、まるで食器洗いのスポンジを食べているかのようになるという例を紹介していました!ひえーーーー!! そして、な、な、なんと半年以上もこのまま放置していると、味覚障害がひどくなり、半分の人は味覚が元に戻らないのだそうです。 なぜなら、人間の身体は生きている間は新陳代謝をしていますが、新しく身体を作る材料が足りないと当然新陳代謝ができないですよね。 亜鉛が不足すると、舌の味を感じる部分である【味蕾】(みらい)の新陳代謝がうまくいかなくなって小さくなり、最後には味蕾が無くなってしまうのだそうです。 しかも、そうなるともう元に戻らない!一生、味を感じられないまま過ごすということに!! マジ? 私は、自分でもケーキを作ったりするくらいおいしいもの食べるの好きだから、想像するだけでマジ恐ろしいです。 だって、ケーキが台所のスポンジを食べているように感じられ、粉っぽいものだったら砂を食べているように感じながら食事をするなんて、まるで地獄そのものですよ!! よく、ダイエットに○○だけを食べて痩せるダイエットなんてのがありますが、その○○に亜鉛が入っていなくて、それだけを食べ続けていたら、味覚障害になっちゃう可能性が大きいですよね、っていうか、なっちゃうよね。 カロリーを減らすために食事制限をすることが多いダイエットには、バランスの取れた栄養をどう摂るかってことは、とても大切なことですね。 食事制限で偏った食事をしていたら、何かの栄養素が足りない状態にすぐなっちゃいますよね。 私は、ブックマークにある「健康ダイエット」のサプリを食べ始めてから、眼精疲労と肩こりがなくなりました。(私の場合、増量のために食べました。減量のための薬が入ったようなサプリではなく、低カロリーで栄養をバランス良く摂れるサプリなので、増量もダイエットもこれひとつでOKなんです。すごい!!(笑)) 私はコンピュータ画面を一日中見続けている仕事をしているので、それまで、目の疲れや肩こりは職業病で仕方が無いのだとあきらめていたんです。 それが、そのサプリを摂ることできっと栄養バランスが取れていったのでしょうね。それしか考えられない。 栄養バランスが崩れることが原因で、たとえば、亜鉛不足なら、目の疲れ、肌荒れ、爪がちゃんときれいにできず割れる、などという症状がでるわけですから、体の不調のいくつかは、そういう栄養不足によるものもあるんでしょうね。 そして、そういうものは、ちゃんと栄養バランスの取れた食事を摂ることで改善されるわけですね。 亜鉛不足による味覚障害は、なってしまうと戻らないこともあるから、心当たりがある方は、早期対策が必要だよ。 あっ、そうそう、このサプリにしてから、湿疹とかも消えて、肌がきれいになったよ。もしかして、私もちょっと亜鉛不足だったのかな? だとしたら、健康になってよかったよ~~(^0^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 31, 2006
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「バランスをとる」というとき、天秤のように左右がつりあった状態をイメージしますよね。 たとえば、妻でありながら、OLとしての仕事のバランスをとるというとき、何時間を主婦の仕事に割り当て、何時間をOLをの仕事に割り当てる、と考えたります。 それは、けっして間違いではありません。ですが、それは静的バランスです。 生きているというのは、動的なものです。ですから、バランスも動的なものになるのです。 たとえば、棒を持って綱渡りをしている人を思い出してください。風が吹いてくれば、それに合わせて反対側に重量をかけます。そうやって常に割合が変化し続けています。 和尚のいう【感応】というのは、その動的バランスのようなものです。常に変化する周りの環境に自在に自分のバランスをとって調和していく、そんな感じですね。ですから、固定された正しさなんかを持たないのです。何かが固定されていたら、真に生きているとは言えないのです。 また、ちょっと前までは、ロボットが歩くというのはとても大変なことでした。最初のロボットは、静的にバランスをとって歩いていました。つまり、どのタイミングで動きを止めても転ばないバランスの取りかただったのです。 でも、今のロボットは人間と同じように動的なバランスをとりながら歩くことができます。つまり、逆にバランスを崩すことによって、一歩足を踏み出し、足を着くことでその崩れたバランスを立て直し、そのまままたバランスを崩すことで次の一歩を踏み出すのです。その途中は、バランスが崩れているのです。ですから、ちょっとしたことで転ぶんですね。(笑) これは、生の根本原理のようなものですね。何か新しいことをするために一歩踏み出すためには、これまでの自分を変えないとダメなのです。新しいものの創造が、ひとつの個として生きているということなんです。 創造は、実は破壊であるというお話は、また、機会があったら(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 31, 2006
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子供に自信や信頼を持って欲しいのなら、まず、親自身が子供を信頼することが大切です。 だって、子供は親のコピーのように育ちますからね。(^^) 「神さまは、その人が背負えないような荷は背負わさせない」という言葉があるように、子供というのは、親が心配するよりも、ずっとちゃんとできるものです。 でも、完璧主義者の親は、ついつい、ちょっとでも失敗すると手を貸してしまいがちになります。 それはたいてい、先回り育児になり、子供ためにもよくありません。 でも、思い出してください。子供が始めて歩き出したとき、ちゃんと歩けましたか?そんなことはないですよね。 でも、(歩く機能に障害がない限り)『ちゃんと歩けるようになる』と心から信じられているから、転んだりするのを安心して見ていられたはずです。(ちょっとハラハラした?(笑)) それと同じように、大人になっていく過程で、やっぱり失敗をするけど、子供には、それを乗り越えていく力があります。 そして、面白いことにそれをまわりの人が信じているとき、その本人もその力を充分に発揮できるんです。周りの人が信じられないとき、その不信感に影響されて、その力が空回りしてしまうことが多いのです。 私のサイト(さんたのはっぴーわーるど)に来てくださった方が、それに関するお話をしてくださったので、保存したものがあります。 シトリンさんの「初めての体感体験」(自分が変われば現実も変わる) 昨日のブログで紹介して好評をいただいた鉄人さんが見つけたお話も再掲しておきます。「鏡の法則」 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 31, 2006
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お釈迦さまという仏の教え、仏教の基本は「縁起」です。 縁起が相対性であるなら、縁起の教えを実践するためには、正しい基準が必要になります。釈迦さまは、何を基準とせよと言ったのでしょうか? お釈迦さまは、最期にこう言いました。「この世で自分を洲(しま)として、自分を拠り所として、他のものを拠り所とせず、真理を洲(しま)とし、真理を拠り所として、他のものを拠り所とするな」一般に「自灯明、法灯明」といわれるものです。法とは、(梵語 ダルマ dharma 達磨・達摩・曇)のことで、真理。道理。正しい理法。存在の法則性といういことです。 「自分と真理を基準にしなさい」と言ったのですね。 なぜ、中洲を意味する州(しま)が灯明となったかというと、州(しま)を意味する原語のディーパが、サンスクリット語のディーパ(灯明)とドゥヴィーパ(洲)に当るため、中国で灯明と誤訳されたと言われています。 しかし、悟りは、此岸(しがん)から、彼岸(ひがん)(涅槃)に渡ることでそのその悟りに至る過程は、しばしば河を渡ることにたとえられますから、ここは、河の中洲と考えたほうが、しっくりいくと思います。 しかし、基準がふたつあっては、相対的なものを固定することができません。 ですから、基準は「自分」と「真理」のふたつではなく、『真理に生きている自分』を基準にするということなのです。 そのために『自分とは何か?』ということを明確にする必要があります。 あなたは、自分とはなんだと思いますか?<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 31, 2006
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さきほど、ふと最新訪問者を見ると「精神世界の鉄人さん」の名前がありました。 トーマさんのサイトは、さんたのはっぴーわーるどのともリン2の162から、リンクさせてもらっていますから、ずいぶん以前から知っています。 でも、ブログはリンクしていないし、最近ご無沙汰だったので、ふと覗いて見ました。 すると、「鏡の法則」というブログで、ステキなお話を紹介していました。 元サイトを見つけました。野口嘉則さんの『鏡の法則』 まずは、読んでみられることをお勧めします。 すっごくいいです。ハンカチかテッシューを用意してご覧下さい。(笑) さて、もう読みましたか? 実は、私も、父親を許せずにいた人間です。 そして、妹と二人で「もっと変わってくれたらなあ」「親父ももっと愛を身につけるべきだ」みたいな話をしていました。 私の本棚でも紹介している『やすらぎ療法(セラピー)』に、それと同じことが載っていたにも関わらず、自分に活かせていなかったんです。---- 引用開始 ------------------- 私(ジェリー)の母は、97歳まで長生きし、いまだに私の最も大切な人生の師です。晩年、母は老人ホームに入っていましたが、訪れる人だれにも罪悪感を持たせるような時期がありました。いくら長時間彼女と共に過ごしても、決して十分ということがないのです。しばらくすると、友人も親戚もほとんどの人が母を訪問するのをやめてしまいました。私たちが母のもとを訪ねると、着いたときには平和な気持ちだったのに、母のぐちと不平不満にうんざりして帰途につくこともしばしばでした。私たちにも「母はおだやかな可愛い老婦人であってほしい」という願いがあり、母はその脚本に従うまい、と決心していたのです。 ある日、母を訪問する直前に、瞑想しているうちに、私とダイアンは「今まで、母を喜ばせようとしながら、同時に母を変えようとしていた」ということに気づきました。これでは無条件の愛情とはいえません。私たち二人は母のための脚本を作っていたのです。その脚本というのは、「母に幸せな晩年を過ごして欲しい。そして自分たちは母をおおいに喜ばせたい」というものでした。私たちは「無条件の愛とは、相手をあるがままに受け容れること」だと思い直したのです。母について言えば、彼女が苦しもうと決めた気持ちをそのまま受け容れることが無条件の愛なのです。 ダイアンと私は、母への脚本を破り捨てることにし、そのかわりに心のやすらぎを母との関係での第一目標にすることに決めました。私たちの心のやすらぎはもはや母の態度には依存していないのです。実際には母の態度はまったく変化しませんでした。それでも、彼女を訪問した後に、私たちは平和な気持ちを味わい、エネルギーに満ちていました。 私が母への脚本を書くのをやめてから、まもなく、驚くべきことが起こってきました。母が私たちの本やテープをほしい、と言ってきたのです。こんなことを母が言ったのははじめてのことでした。それ以前には、テープや本にかかわりをもつのをいっさい拒んでいたのです。「ホームの他の人たちにも見せたいから、余分に本やテープを届けてほしい」とまで言ってきたのです。こうしているうちに、母は婦長さんとの関係を癒すようになりました。母の小言は消え失せ、私たちの訪問の間にも、母は愛情深く、おだやかで、感謝を見せるようになったのです。 私たちが他の人々を変えようとするのをやめると、人間関係がもっともっと愛情に満たされて開放的になり、今まで予想もしなかった健全な変化が起こりはじめるとは、なんとすばらしいことではありませんか。(P198~P200)---- 引用終了 ------------------- この本もすっごくいいです。ぜひ、読んでみてください。 私自身、これと同じことをして、父を嫌い、変えようとしていたのです。 高校のときには、「生んでくれって頼んだわけじゃねえ!」と憎まれ口をたたいていました。 そして、機能不全家族の中で身につけたパターンによって、怒りを抑えられないで苦しんでいました。 何とかそこから抜け出したいと精神世界などを学んでいく過程で、無条件の愛を実践できていないのは自分の方だと気づき、あるときようやく「生んでくれてありがとう」と言えたんですね。とても勇気が要りました。でも、それは、自分にやすらぎをもたらしてくれたのです。それは、自分の心の平安を、外部の条件に依存しなくなったからです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 30, 2006
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釈尊の悟りとは『縁起』であり、縁起の解説は数多くあるけれど、それを読んだだけで、分かる人はおそらくいないでしょう。 それは、悟ることが難しいとか、縁起を理解することが難しいとかではなく、解説している人が、悟っていないからです。 縁起というのは、言い換えれば『相対性』ということです。 そして、現代の日本人の予備知識があれば理解可能です。 ネアンデルタール人に、相対性を理解させようとしたらまずムリでしょうが、たった2500年前のインドの人、しかも、バラモンやクシャトリアなどの知識階層でもない人に理解させるのも、困難であっただろうと推測されます。 ところが、現代の日本人は、縁起を理解できるだけの情報を手に入れることが可能なのです。 そもそも、苦を超えるための悟り、心の苦しみから逃れるための科学が今では臨床心理学として発達し、私たちはいろいろと知ることができるようになっています。 医学も進歩し、脳の働きもいろいろとわかってきています。 物理の世界でも、物質が分子でできていて、分子は原子から、原子は原子核と電子からなり、それらは、素粒子、量子へと細かくなっていくことを知っています。 そして、量子の世界は、ニュートン物理学の世界とは違うことを知っています。 量子の世界を数字で表すとき、虚数が出てきます。 虚数の世界とは、何でしょう? 私は、それは臨死体験者が経験する意識の世界だと思っています。私の周りに臨死体験をした人はいませんが、そのようなことも本やテレビから情報を得て知っています。 私は、釈尊は苦行の時に臨死体験をしたのではないかと密かに想像しています。 まだまだ、2500年前のインドの人と、今の私たちでは、縁起(相対性)を理解するための知識が違うのです。ですから、昔の人に難しかった悟りも現代人にとっては、ラクに理解できるまでに、先人たちが知識を集積してくれているのです。 さて、では、なぜ、まだ、縁起を理解できない人が多いのでしょうか? それは、縁起を相対性として理解しようとしていないからではないでしょうか? 相対性ということは、基準を持たなければ、実体が定まらないということですよね。把握するためには、基準が必要だということです。 つまり、縁起を理解するなら、お釈迦さまが、何を基準としたかを知ることが必要なのです。 縁起の説明で、そのことにふれているものにであったことがありますか?ぜひ、本なり、ネットなりで調べてみてください。 ヒントを出すと実は、釈尊はもうその答えを言っています。分かった方、コメントお待ちしています。(^^) 今週は、これらのことについて、どんどんお話して行きたいと思っています。お楽しみに(^^)<続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 30, 2006
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ダイエットをしてる人はおおぜいいますが、その中で痩せるとやつれるの違いに気づいている人は、どのくらいいるのでしょう? よく「私は、6キロ痩せたの」というような言い方をしますが、痩せるとやつれるの違いを知った上で言っているのなら良いのですが、違いに気づいていなかったら、やつれている可能性大です。 食事制限でカロリーを減らすことで痩せようとしている人のほとんどは、痩せようとして、やつれているはずです。 正しいダイエットにおいて、やせるというのは、余分な脂肪を減らすことです。 しかし、栄養のことを考えずに食事制限をして、カロリーを減らすことだけに一所懸命になっているダイエットでは、脂肪より先に筋肉が減って体重が減っているはずです。 それは痩せているのではなく、やつれているのです。健康的なダイエットのポイントはしっかり栄養を摂ること。 ダイエットの時に減らした方がいいのは、脂肪だということは誰でもわかるでしょう。では、必要な栄養ってなんだか分かりますか? 脂肪を燃焼させる時に必要になる栄養素があるのですが、知っていますか? もし、知らないとしたら、ダイエット中にその栄養素が足りなくなっている可能性が高いですね。 仮に知っていたとしても、カロリーを抑えつつ、普通の食事でそれを補うような料理を作ることは不可能ではないでしょうが、たいへん難しいと思います。 そう考えると、健康的なダイエットに、サプリメントは非常に有効だということがわかると思います。 ここで、間違えて欲しくないのは、痩せる成分をメインとしたサプリメントのことではありません。しっかりと、ダイエットの時に必要な栄養素を補うサプリメントのことです。 私のお勧めは、ブックマークからリンクしてあります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 29, 2006
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心が苦しい人というのは、絶対的な(と思い込んだ)正しさを握り締めています。 しかし、正しさというのは、目的に対して決まるものであり、目的というのは、意志ごとに存在します。 誰かが『酒は悪いものだ、飲んではいけない』と決めた(意志を持った)ら、そこに「酒を飲まない」という目的が生じ、酒を飲まないことは正しいという正しさが生じるのです。 『酒は悪いものだ、飲んではいけない』という考えに同意していない人にとっては、別に酒を飲まないということは、正しさでもなんでもないのです。 そのときの法律に反して、革命が起き、それを支持する人がいるのは、この論理によります。 独裁者の作った法律は、その独裁者の都合、意志によって決められた正しさだから、その独裁者の考えに同意しない人にとっては、それは正しさではなく、悪でしかない、ということがあるのです。 ところが、日常的な常識などの正しさになると、無意識に従ってしまう人がおおぜいいるんですね。 そのように宗教の教えなり、法律なり、常識なりで、外部から強制的に正しさとして押し付けられると、自分の意志とのギャップから、苦しみになるんですね。 外部からの正しさの押し付けが、禁止令と呼ばれるものです。「~しなければならない(ねばならない)」「~であらねばならない」「~してはいけない」 これらの禁止令は、社会のメンバーとしてやっていくためには必要なことなので、【しつけ】として教え込まれます。 それはその社会に同意し、メンバーでいようとする意志があれば、必要なのことなのですが、問題は、それらの正しさには、必ず前提があり相対的なものなのに、その前提なしで、絶対的な正しさとして押し付けられる場合があることです。 さっきの革命のように、その社会に同意していないのなら、そんな法律や常識はその反対している人にとっては、正しさではないわけです。 日常的なことでは、たとえば、親のいうこと(正しさ)を聞かないとぶん殴られるから、その恐ろしさから逃れるために、自分の意志に反して、親の正しさを受け入れてしまう。 他人の正しさを無意識に受け入れてしまうと、そのことに気づかないままだと、絶対的な正しさとして存在してしまうのでもう自分ではなかなか変えられないんです。 もし、自分で『体調悪いし酒は止める』と思ったら、自分にとっては、酒を飲まないことが正しいことで、酒を飲むことは悪いことですが、体調が良くなって『酒を飲んでもいいな』と思ったら酒を飲むことは悪いことではなくなっています。 本来、正しさとは、自分にとっての正しさなのです。そのように常に、意志と正しさがペアで存在しているうちは、いいのです。 ところが、誰かに刷り込まれた正しさは、意志と分離しているので、そのことに気が付かないと変更がきかないんですね。 たとえば、『妻は、家事をやるべき』と思う人が社会の主流を占めているとき、『妻は家の中の掃除とか、茶碗洗いとかをしなければならない』ということが社会の正しさ(常識)になります。 そしてそれを無意識に受け入れてしまうと、その人は、『こうあるべき』『ねばならない』(正しさ)の奴隷になってしまいます。 それは、本来、意志に対して相対的に生じるはずの正しさを、絶対的なものであるかのように、誤った認識をしていることが原因です。 『バシャール2』(VOICE)で、バシャールはこう言っています。この世界では、小さい頃から何々しなればならない、「ねばならない」ということをたくさん与えられてきました。自然に自分に流れ込んできたアイディアに耳を傾けないで、社会の要請にちょうど合うようなものを探します。社会の期待に添うものを見つけても、それは必ずしも自然なあなたと一致するとは限りません。なぜなら根本的に、あなた以外の人から与えられた答えだからです。合うはずがありません。(バシャール2-P95) 『神との対話』でも、同じように言っています。何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決め付けだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体に正邪はない。 そうなんですか?「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。(「神との対話」P69P70) どうしてわたしはいつも暗い考え方ばかり選ぶのでしょうか?暗いほうを選んでは、自分を責めるのでしょうか? 無理もないとは思わないか?あなたがは小さい頃から、「悪い」と言われ続けてきた。自分が「罪」ほ背負って生まれてきたのだと思い込まされてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。あなたがたは、何もできないほど幼い頃から、自分のしたことに罪悪感を感じるようにしつけられてきた。完璧な者として生まれなかったことを恥じるように、教えられてきたのだ。<中略>あなたがたは劣った考え、劣った思いを選び、自分を力のないちっぽけな存在だと思いつづける。そう教えられてきたのだから。(「神との対話」P162P163) 何にせよ「間違った」ことは何もない。「間違っている」というのは相対的な言葉で、あなたがたが「正しい」と呼ぶことの対極を示しているだけだ。では、「正しい」とはどういうことか?あなたがたは、ほんとうに客観的に判断できるだろうか?それとも「正しい」とか「間違っている」というのは、あなたが貼るレッテルで、あなたがたが勝手に決めているだけなのだろうか?あなたは何をもとに決めているのか、教えて欲しい。自分自身の経験か?そうではない。多くの場合、あなたがたはほかの誰かの決定を受け入れている。昔の人や年上の人たちのほうがよく知っているだろうと考えている。日頃、自分自身の理解をもとに、何が「正し」く、何が「悪い」かを決定している人たちはほとんどいない。重要なことになると、ますますその傾向が強くなる。重要なことであればあるほど、誰か別の人の考えに従いがちだ。そう考えると、あなたがたが人生のある領域をコントロールする力を完全に失ってしまった理由も、人生経験の中でぶつかる疑問も理解できる。(「神との対話」P206) 「バシャール」も「神との対話」も私の本棚で紹介しています。 心理学も精神世界でも同じことを言っています。 正しさとは、意志に対して存在しているのです。すべての人にとって正しいこと、絶対的な正しさなどないのです。 自分の正しさは自分で決めること。 お釈迦さまが「自分を拠り所にしなさい」と言ったのは、そういうことなのです。 もし、あなたの心が苦しいとき、自分は他人の決めたどんな正しさにイヤイヤ従おうとしているのだろうか?その正しさの目的に自分は賛同できるのだろうか?と考えてみてください。 そして、その正しさの目的に賛同できないなら、その正しさはあなたにとっての正しさではないのだから、従う必要はないのです。 「あるべき」という言葉がいけないのは、誰かが基準を設定する点だ。そうすると、あなたがたの行動は自動的に、何を歓びとすべきかという他人の考えに制約され、方向づけられ、指示される。<中略>制約されるだけではすまない。結局、破壊されてしまう。<中略>いいかね。してはいけないからではなく、「適正基準」に違反するからしないんだよ。<中略>人生のすべてにおいて、誰かが決めた適正規準に違反するから、やらないなどということは絶対にやめなさい。(「神との対話2」P133) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 29, 2006
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幼い時にどう愛されたかが、その人の心を育てていきます。 この場合の愛には、条件付きの愛と無条件の愛との二つがあります。 アダルトチルドレンや共依存という言葉は、生きにくさを感じたり、心の苦しみを感じる原因が、その人が幼い時に、機能不全家族の中で、条件付きの愛で育ったせいであって、その本人のせいではないという免罪符のようなものなのです。そして、自分の現状を正しく観るということでもあります。 誰だって、そのような条件で育てられれば、同じような心の病になってしまう確率が非常に高いのです。 そして、そのことがわかったのなら、次のステップに進むことができます。 自分を機能不全ではない環境に置き、新たなパターンに変えることができます。 ですから、まず、その機能不全家族を離れることが大きな助けになります。そして、カウンセラーや心の支えになってくれる人がいるといいですね。 そしてその新たなステップで無条件に愛され、また自分自身であるがままの自分を認めてあげる作業をしていくことで、これまでと違う自分になることができます。 本当の自分を取り戻していくことができます。 そのためには、まず、現状の自分を正しく認識することです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 29, 2006
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恋愛の時に「愛している」というけれど、それは愛であって愛ではありません。 つまり、愛の定義をどうとるかで、恋愛の愛も愛であるといえます。 しかし、すべてを愛するという愛、神の愛は、恋愛の愛とは別物です。 すべてを愛する愛を愛とするなら、恋愛の愛は、愛に似たものです。(神の愛も私たちの理解より先があります) もうひとつ、愛に似たものがあります。それは虚無です。 私の本棚で紹介している半田広宣さんの『シリウス革命』にでてくるスマル(スマル)です。 それは簡単に言うと、裏返った愛です。 恋愛の愛は、(神の愛と言われる)愛ではありませんが、二人でその愛を育んでいくことで、愛になることができるのです。 二人の間に生まれる許せないことを許すことができるかどうか、それが鍵になります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 29, 2006
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成功って何でしょうか? 成功とは、目的を達成することで、すべての人の基本目的は幸せですから、単純に言えば、成功とは、幸せになることです。 基本目的以下の目的は、人それぞれですから、成功の形もいろいろあるわけです。 目的は、欲求によって生じますから欲求のレベル段階によって、成功の質が変わってきます。 欲求には、1.身体の維持欲求2.社会的認知欲求3.自己実現欲求 さて、これらすべての欲求は、二通りに分けられます。 いろいろな分け方が考えられますが、私が注目するのは、最初に自己確立ができているかどうかです。 たとえば、自己確立する前に社会貢献をしようとすると他者の期待に応えようとするので他者中心主義になります。 そのような他者中心主義のまま形で目的が達せられても本当には幸せになれません。■非常にわかりにくいことですが、ここがポイントです。 見かけの状態がどうなっているかではなく、どういう意識からやっているかが成功には重要です。 一見、周りからは成功者のように見えているのに本人が本当の幸せを感じられないのは、自己確立、言い換えると本当の自分を生きていないということです。 実は、一見トンデモ本と思われているかもしれない半田広宣 著『2013:シリウス革命』(たま出版)という本にこれに関することが意識の進化と意識の融解という形で載っています。 私たちの意識が順番に進化していかないと意識が融解していくというものです。 私の本棚でも推薦している本ですが、かなり難しい本なので、ある程度理解できている人向きです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 28, 2006
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感情に振り回されてしまう心の病は、身体の病よりつらいと私は思います。もちろん、比較することなんかできないけどね。 ただ、心が苦しくても表面的には、あまり変わっていないように見えるだろうから、周りの人からわかってもらいにくいというもつらいよね。 そんな感情に振り回される状態はなんとかしたいですよね。 そのためにカウンセリングというものがあります。実は、カウンセラーというのは、いろいろいます。受けるのなら共依存の概念をよくわかっているカウンセラーがいいと私は思います。 もうひとつ、悟るって方法があります。 私は臨床心理学と悟りについて調べているうちに、それがとても共通していることに気づいたんです。 でも、あたりまえですよね。悟りは、心の迷いを超えることなのですから。 でも、そのふたつにはちょっと違いがあります。 カウンセリングの目的は、生きにくくなった現状になじむようにすることです。ですから人の内面に働きかけることはもちろん、その結果外面の人間関係が改善されることで、現状になじめて穏やかな心になれば目的が達成されます。 悟りは、外面がなんであれ変わらない穏やかな心を手にすることが目的です。仏、神の意識になることです。 私の本棚でも紹介している『神との対話2』(P198)にこのように載っています。--------------------------------すべての紛争は、間違った欲望から生じる。世界中で持続しうる唯一の平和は、内的な平和だ。<中略>それぞれの人が内心の平和を見いだしたとしよう。内心の平和を見いだせば、あなた方は「なしでやっていく」ことができるようになる。つまり、あなたがたは外部世界のものを必要としなくなる。「必要としない」、それは偉大なる自由だ。-------------------------------- 実は、心の苦しさとは、心の中での争いの結果なんです。 共依存の概念から言うと、心を病んでいる人というのは、共依存の度合いが強い人です。しかし、社会自体が人々にある程度の共依存でいることを強いているのです。 つまり、カウンセリングの目的は、強い共依存の度合いを社会が求める程度の共依存にまで落とすことです。 一方、悟りは、共依存の必要性をまったくなくすることなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 28, 2006
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私の本棚でも推薦していますが、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』という本があります。 これってホントです。(^^)悟りを開くと、人生はシンプルでラクになります。 なぜか?というと、悟りを開くということが究極の根本原理、基本法則に気づくことだからです。 ホテル・団地などで用いるマスターキーというのがありますよね。少しずつ異なるいくつかの鍵(かぎ)のどれにでも合う合鍵。親鍵のことです。 根本原理、基本法則というのは、マスターキーのようなもので、どんな時も、その根本原理、基本法則を使うことですべての判断ができるのです。 それがないと、ケースごとに考えなくてはいけないから複雑になるんです。 マスターキーさえ持っていれば、迷いがなくなります。 究極の根本原理、基本法則ってわかります? 『無条件の愛』『あるがまま』です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 27, 2006
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掲示板に「ホモ、レズの気持ちは理解できますか?」というコメントがあったので、ちょっと言いたくなったことがあります。 かなり以前にNHKの教育テレビで「脳の話」という番組があって、いろいろと脳についての話題が出ていました。とっても面白かったです。 その中で同性愛と脳の関係についての話もありました。同性愛者の脳を調べると、脳の一部が一般的な異性を好きになる人と異なっていることが多いということでした。 同性愛者に偏見を持っている人は、きっとその人の考え方によって同性を好きになっていると思っているんでしょうね。でも、同性愛者は、単純に異性を好きになっている気持ちなんだと思いますよ。 ただ一般には身体のつくりと脳のつくりが一致しているけれど、同性愛者は、身体の性と脳の性が一致していないから、身体のつくりから表面的にしか見られない人は、違和感を感じているのでしょう。 同性愛者になる原因が、考え方である可能性と脳の異常の可能性、どちらが大きいか、実は、みなさんもそのひとつの証拠をよく知っているんですね。でも、深く考えようとしないと見えてこないんです。 テレビにもよく出演しているおかまの双子で有名なおすぎとピーコさんは、二人とも同性愛者です。 もし、考え方が原因で同性愛者になるのであったら、双子が同時に同性愛者になる確率は非常に少ないはずです。 でも、脳の異常が原因であれば、双子が同時に同性愛者になるほうが当然だということになりますよね。 つまり、脳の異常が原因である可能性が高いのです。(もちろん、すべてがそうであるとは限りません) ですから、多くの同性愛者は身体の見た目と逆の性の脳を持っている可能性があるということです。新たな研究によると、そのような人は、男性の汗などから抽出されたANDという物質をかがせると、通常の男性は反応しないのに、女性と同性愛の男性は強い反応を示したそうです。 そのように、どんなことも自分の固定観念、偏見というフィルターで見て判断してしまうのではなく、客観的に見て、偏ったフィルターを通さずに判断するようにすると、世界の観え方が変わってきますよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪ 他の参考:同性愛者の先天性
Jan 27, 2006
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劣等感というのは、偏った思考から生じているといえます。 さて、そのお話をするまえに実は、心理学的に劣等感というのは、ちょっと混乱した概念になっています。ですので、ここでは、単純に「自分が他人より劣っているという思い」から『私ってダメな人だなあ』という気持ちを感じることというような意味でつかいます。 そのような考えのどこが偏っているかというとすべてにおいて優れている人というのは存在しないからです。 たとえば、弁が立つ人と無口な人、どちらが優れているか決められますか?場合によりますよね。弁が立つ方が良い場合と、無口な方が良い場合とあるでしょ。 それなのに、ついつい、1.自分が持っている基準で優劣の評価をしてしまうんです。それだけなら、まだいいんです。さらに偏っているのは、2.ひとつの優劣で全体の価値を判断してしまうという過ちをおかしているんです。「私って、美人じゃないし、料理も下手だし、私ってダメな女だわ」なんていう言葉にうなづいていたらダメですよ(^^) だって、人の価値が器量と料理の腕前では決まらないでしょ?それに、美人かどうかなんて、人によって見方が違うのにね。 なぜ、そんなにその基準に囚われているかというと、たいていの場合、親が口をすっぱくして言い続けていた基準だからだと思います。 その基準を満たしていないと親に評価してもらえなかったから、あなたにとって、その基準は大きな存在になってしまっているんです。 そのことに気づき、偏った考えに気づき、考え方を変えていく事で劣等感を超えていくことができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 26, 2006
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自信ということが子供にとって大切だと昨日のブログに書いたら、おけいこ塾をやっていらっしゃるneko天使さんから、こんなコメントをいただきました。> 自信をつけさせること…。> 私、おけいこ塾でたくさんの子見てますが、確かに自信持つことでのびる子はいます。確かに。> > でも…。> 大人でも子供でもそうですが、自分の評価を甘くしてる人っていませんか?> おんなじなんですよね~。> 全然たいしたことないのに、自信だけ持ってる…。> 自分を正しく評価し、その上での自信ならいいとは思いますよ(*^^*) 私が思うに、このような「全然たいしたことないのに、自信だけ持っている人」というのは、実際は、逆に、とっても自信が無い人なのだと思います。 空(から)元気というのがありますよね。空元気とは、本当は元気じゃないのに、うわべだけ元気があるように見せかけることです。 それと同じように、本当は自信がないのに、自信があるように振舞っている空(から)自信(そんな言葉はないけど)というものがあるんだと思います。 ただ、空(から)元気というのは、自分が元気がないのを承知していながら、周りの人に心配をかけないために元気なフリをしてるって場合が多いですよね。 ところが、空(から)自信というのは、本人も自信があると思い込んでいる場合が多いんだと思います。 そんなことあるの?と思われるかもしれませんが、それが可能なんです。 人は自分の心を守るための機能として『防衛機制』という仕組みを持っています。この防衛機制という仕組みにはいろいろな種類がありますが。その中の合理化を説明するのに、よく使われるが、イソップ寓話の『すっぱいブドウ(キツネとブドウ)』というお話です。【すっぱいブドウ】 ブドウ棚に、よく熟れたおいしそうなブドウがぶら下がっていました。 それを見つけた腹ペコキツネは、そのおいしそうなブドウをとろうとして、いろいろやってみました。 しかし、どうやってもブドウの房に届かず、結局、ブドウをとることができなったのでした。 とうとうキツネはとることをあきらめて、こう言いました。「あのブドウは、どうせまだ熟してないくてすっぱいんだ(だから欲しくない)」<おしまい> ここで、注目していただきたいのは、最初は、熟していておいしそうだから、とって食べようとしたブドウなのに、どうしても取れなくてあきらめざるを得ないとき、『どうせまだ熟してないくてすっぱいんだ(だから欲しくない)」』と思っていることです。 この寓話は、負け惜しみをいさめる寓話として知られていますが、心理学で防衛機制の合理化の例として使われるときは、『すっぱい』と本気で思っているという状態の説明なのです。 おそらく、それと同様に、「全然たいしたことないのに、自信だけ持っている人」というのは、自信がなくてつぶれそうな自分の心を守るために、無意識に自分の評価を甘くして正当な評価をさけて、自分には自信があるんだという空自信というよろいで自分を守っている場合も多いのではないかと思います。 こういう人は、自分を正しく評価すると心がつぶれてしまいかねないので、無意識のうちに第三者からみれば非論理的な理由付けを採用しています。 ですから、論理的に説得してそのよろいを脱がそうとしてもまず難しいですね。 そして、自信持つことで伸びる子がいるけど、空自信では伸びないのは当然なんですね。 本当はとっても自信がないんですから。 自信をつけさせる場合、その見極めをすることが大切です。 見極めのポイントは、本当の自信というのは、もう自信ではなく、あたりまえになっているということです。 もし、『自分はこれが得意なんで、自信があるんだ』と再確認する必要があるようなら、自信がないってことですネ。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 26, 2006
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スピリチュアルな世界を好む人の中には、お金を汚いものとして遠ざけようとか、欲しがらないようにしようとする人がいます。 お金って、汚いものでしょうか?■ 広辞苑によると、お金、貨幣とは、商品交換の媒介物で、価値の尺度です。 お金の本質は、価値の尺度なんですね。 対象の価値を数量化するものが、お金です。 商品交換の媒介をしているのは、貨幣ではなく、価値の尺度のほうです。 もちろん、代わりに交換する物としての意味も昔は大きかったですが、数量化された価値を表示する方法として、貨幣がそのまま用いられているだけです。今は、通帳や株取引のように貨幣そのものを使わずに「価値を表示する数字」だけで済んでいますよね。■ 価値とは、目的の実現に対する貢献性のことです。つまり、目的達成にどれだけ役に立つかですね。 たとえば、砂漠でダイヤモンドがたくさんあるけど水がないとしたら、ダイヤモンドを手に取り「こんなものには、何の価値もない!このダイヤモンドすべてと一杯の水を交換してもいい」というような場面、想像がつきますよね? ダイヤモンドに価値があることを知った上で、ダイヤモンドには、今の目的を実現させることができない、つまり、価値が無い、と言っているわけです。■ そして、すべての人の基本目的は、幸せを感じること、喜びですから、価値の度合いは、喜びの度合いでもあります。 つまり、お金は、喜び度合いを表現する道具ということができます。 お金が入ってきた時に『やった~!良かった!』って喜ぶってことがありますよね。 それは、お金と換えられる喜びを先取りして感じているんです。お金をもらうと、のちに自分が望む喜びと換えられると感じるからうれしいんですね。■ 私はお金を頂くときはもちろん、払うときにも「ありがとう」と感謝の言葉を言うことがあります。 お金を払うというのは、そこに自分にとっての価値(喜び)があったからです。「喜びを与えてくださってありがとう」という感謝の言葉なんですね。そして、感謝をしてお金を支払うのは『その喜び(価値)に見合うと私が感じるお金(価値)をお渡しします』ということで、お金を払います。 お金をいただく時に「ありがとう」というのは、ます、お金は喜びに変わる(目的が達成される)わけですから、素直にそのことに感謝します。また、私のしたことを喜んで(価値を感じて)くださったことで、私のしたことを活かしてくださいました、どうもありがとう。という気持ちもありますね。■ お金が喜びだとしたら、お金を汚いものと毛嫌いすることは、喜びを汚いものと観ているのと同じことです。 たとえば、人気歌手が大金を稼げるのは、多くの人に喜びを与えているからです。多額の印税は、多くの人に喜びを与えた証明であり、結果なんですね。それが汚いものではないですよね? スピリチュアルな世界を好む人の中で漠然とお金が汚いと感じていのは、お金を儲けるため、損得勘定をし、得することを優先して抱いてしまうことがある【邪心】を嫌っているのでしょうね。 たとえば、『株や企業買収で儲けるためなら不正な行為も選んでもかまわない』という邪心を抱き、悪いことをしてしまうようなことを嫌っているのだと思います。 その区別は、はっきりつけて欲しいと思いますね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 25, 2006
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子育てで大切なのは、自信をつけさせることだと思います。 自信とは、自分に対する信頼ですよね。自分の価値、自分の可能性そういうものを信じることができるようにすること。 これが大切だと思います。 昨日のブログ「信頼を身に付けさせたい」に愛野ひまわりんさんから、こんな質問があったので、お答えします。> 信頼を、身に付けてもらうために> 何かしてることでもあるの?1.許可が下りると分かっているようなことは、いちいち親の承諾を求めず、自分の責任で行うようにさせる2.「あなたならできるよ」と励ます3.自分ですると決めたことをさせてあげる4.失敗をしたときに、責めない5.失敗と思えるようなことから、何を学ぶかを示唆する たとえば、こんなことですね。 このブログのブックマークにある「よりゆかたになるために」のリンク先で、実践されていることでしょ(^^)「私にできたのですから、あなたにもおできになります」ってやつもそう。 だから、あれってすごいと思う。ゆたかになりながら、知らず知らずに人間的にも成長していけるんだからね。 よく、『そんなこと自分にはできない』と思えることがあって躊躇(ちゅうちょ)してしまって、一歩前に進めない、こうありたい自分になれない、ってことがあります。 通常の能力があればできることができないとしたら、自分で気持ちの上で、抑制しているんだよね。それを実践を通して、変えていくことになるから、成長できるんだよね。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 25, 2006
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親としては、子供のことを思い、子供に習いごとなどさせて、いろいろと身に付けさせてあげますよね。 でも、私が子供に一番身に付けさせたいのは、自分を信じる気持ち、自分の可能性を信じられる気持ち、周りへの信頼、世界、宇宙への信頼、 そんな信頼をまず身に付けてもらいと思います。 いくら技術を身に付けさせても、それを使って『自分にはできる』と思えずに、せっかくの能力を活かせなければもったいない。 逆に自分の可能性を信じられる人は、70歳になっても新たなことに挑戦し、人生を楽しんでいる人もいますよね。 だから、まず、自分の可能性を信じて欲しいんですね。 そして、どんな人もひとりで生きていくわけではないから、一緒に生きていく人を信じられること、これも大切だと思います。 そして、そういう信頼できる世界観を持って欲しい。 まず、信頼。そう思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 24, 2006
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シダーHiroさんのブログで、「劣等感っていけないもの?」という記事がありました。 「劣等感」つまり、「自分が他人より劣っているという感情」には、2通りあり、私たちが普段悪いものだと思っているのは、「劣等コンプレックス」を劣等感と勘違いしたもので、本来の「劣等感」は宝物だとさえ思っているとのこと。 私もそう思います。そして、エリザベス・キューブラー・ロス博士は、それを「嫉妬心」と呼びました。嫉妬心は、「うらやみ憎むこと」ですが、その「うらやむ心」を指しているんですね。「うらやむ」とは、1.人の様子を見て、そのようにありたいと思う。2.人の境遇・資質などが自分よりよいのを見てねたましく思う。「ねたむ」とは、1.他人のすぐれた点にひけ目を感じたり、人に先を越されたりして、うらやみ憎む。2.癪(しゃく)だと感ずる。くやしいと思う。 要するに、1.劣っている部分を自覚する次に2A.自分も、その人の様子を見て、そのようにありたいと思い、向上心を呼び起こすか2B.相手の価値を自分より落としたいと願うか、という違いですね。 自分の価値を信じ、自分の可能性を信じている人は、向上しようと思うでしょうし、自分の価値、可能性を信じられない人は、向上しようとすることをあきらめてしまうので、自分より優れた人に攻撃的な気持ちを持ち、相手が自分より劣っている点を攻撃したりして、うさ晴らしをするというようなことをしたりします。 ポイントは、自分の価値を信じられるかどうかです。子供の時から、親などから「どうしようもないやつだ」「そんなこともできないのか」「グズ」「バカ」「おねえちゃんは、こんなによくできるのに」「おまえには任せられない」「どうせおまえなんか」etc.と価値を否定されるような言葉を何度も浴びせられて育ってくるとどうしても、自分の価値を感じられなくなってしまうものです。 でも、本当はすべての人には価値があるということを信じることによって、いわゆる「劣等感」につぶされない人になれるのです。そして、「向上心」に結び付けていけるようになるのです。 確かに、子供時代の親は、神さまのような絶対の存在だったかもしれません。でも、このブログが読めるあなたなら、その親の呪縛を自分で解く力があります。 アダルトチルドレンや共依存のことを学んだり、カウンセリングを受けたりすることで、あなたを閉じ込めて可能性を封印している呪縛から、自由になりましょう。 私にもできました。 あなたにも必ずできます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 24, 2006
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中庸と中道という似たような言葉があります。このふたつを混同している人もいます。 釈尊が言った中道の意味については、ほとんどの人が誤解しているように思います。辞書でも、同じに扱っているものがあります。【中庸】(ちゅうよう)とは、どちらにも片寄らないで常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。【中道】(ちゅう‐どう)・極端に走らない中正の立場。・〔仏〕二つの極端(二辺)すなわち有・無、断・常などの対立した世界観を超越した正しい宗教的立場。 釈尊の中道の教えに、弦の張り方のたとえがあります。弦をあまりにきつく張っていても、反対に弦が緩く張っていても良い音はではない。ちょうど良く張られているのが、良い音色を出すのだ。というものです。聞いたことがある人も多いと思います。 これを『両極端によらずに中ほどが良い』と解釈すると中庸と同じになります。辞書には、仏教の意味とは別に、その意味もありますね。 仏教での意味としては、これではフォーカスする部分がずれていると私は思っています。 釈尊がいったのは、「自分が出したい音(目的)に合う張り方が、ちょうど良い張り方である」だと思うんですね。 この解釈の違いは、「両極端」という前提にあります。 ほとんどの方は、【端】という状態があると思っています。それを前提にしています。 でも、それは幻想です。その人が採用した基準に対してあるように見えているだけです。 そして、その基準を無意識に採用しているために、そのことに気づいていないので、【端】が当然のごとくあるように見えているのです。これが囚われです。 その前提がある状態で、弦のたとえを聞くと「中ほどが良い」と解釈してしまうのですね。 しかし、釈尊の悟りは、【縁起】ですから、そのようなことをいうはずがありません。 そもそも、有・無、断・常などの対立した世界観を超越した無分別で世界を観ているのですから、【端】はありません、端がなければ中もありません。 しかし、ひとたび、「自分が出したい音」という目的を持つと、その縁に因ってちょうど良い張り方が生ずるのです。 極端に言えば、キンキンの高い音で緊張感を演出したいという目的を持てば、切れる寸前の張り過ぎが中道(良い加減)ということなのです。 そうでないと「ロックなど歌ではない」?そんな頑固な固定観念と同じになってしまいます。 変だと思いますか? そう思う方は、釈尊が率いていた比丘と比丘尼たちの生活を思い出してください。 あれは、極端に寄らない生活だと思いますか? それとも、一般的に見たら極端に偏っているけれど、目的から観ると適しているともいえると思いますか? 中道というのは、愛と同じでどれでもすべて選べるのです。悟りの境地とは、無分別ですから、分別する条件がないのです。その境地の上に、ある目的を持つことで初めて条件が生まれ、最適が生じてくるのです。 それが中道だと私は思います。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 23, 2006
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イライラとは、『思うようにならず、気があせるさま』のことです。 イライラしているときは、心が穏やかになりません。イライラを解消するためには、1.思い通りにする2.思い通りにしようという欲を止めるということですね。 さらに、思い通りにできない理由が何か、ということも重要です。たとえば、痩せるのは比較的簡単(ナイスバディ健康ダイエットを見てね)ですが、『背が低いので、身長を伸ばしたい』というのは、物理的にかなり難しいです。あとは、『過去を変えたい』というように不可能なものもあります。そのような場合は、事実を受け容れて2.思い通りにしようという欲を止めるしかないわけです。 ところが、あなたの中の禁止令が、あなたのしたいことを止めている場合があります。このような場合は、思い通りにできる可能性があります。 たとえば、あなたは結婚しても仕事を続けたいという思いがあるに『結婚したら、嫁としてしっかり家を守らなくてはいけない』という思いもあるために、どっちを選んでいいか決まらずに、イライラするという場合ですね。 この場合、後者の思いとは、育ってくる過程で親などに刷り込まれた禁止令です。 禁止令は、あなたの本当の思いではないですから、まずそのことに気づくことが大切です。これは比較的簡単です。 次に、自分の気持ちではないと気づいたんだけど周りの人の意見も『結婚したら、嫁としてしっかり家を守らなくてはいけない』であったり、あなたはそう思っていなかったのに、周りの意見に押されて迷っていた場合は、今度は、周りの人に嫌われるのを恐れているために、自分のしたいことができない状態です。 これは、自分の価値を自分で認めることが必要なので、かなり大変かも。 イライラは原因がわかるとなんとかできることもあるので、ちょっと自分で考えて見てくださいね。 そして、できれば『自分のあるがままを認める』という根本的な解決をすると、穏やかな心を手にすることができます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 22, 2006
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怒るに関連して、「人にあたる」という言い方があると、neko天使さんが教えてくださいました。 「腹が立ったので、関係ない人に当ってしまった」なんてことがありますよね。 これは、共依存のコントロールドラマということを理解するとすぐわかることです。 コントロールドラマでエネルギーを失ったとき、脅迫者タイプの人は、そのエネルギーを回復するために、別の人を怒りをぶつけ、相手を負かすことで相手のエネルギーを奪います。これが「あたる」ですね。 そして、これは当然、自分より弱いものにあたった方が確実にエネルギーを奪えますから、親の場合、子供にあたることも多くなりがちです。 職場で面白くないことがあったので、家に帰ってきても不機嫌で、ちょっとしたことで当り散らすなんてことが、私もよくありました。(^^; そうなると、子供もそのパターンを学んでいきますから、気をつけたいものです。 しかしそうはいっても、感情に振り回されていると、自分をコントロールできないんですよね。 ですから、自分が共依存から脱して、穏やかな心を手にすることが、子育てにもとても重要なことになります。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 22, 2006
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子育てというけれど、子供は親の背を見て育っていますよね。ということは、子供の姿は自分の姿でもあるとも言えます。 つまり、子供に直したい面が見えたときは、日ごろの自分を見直してみる必要があるかもしれません。 子供を育てるためには、自分もそれに見合うように成長をする必要があるのです。 子育ては、親育てなんですね。 あるお母さんが、子供が生まれて、ある人に相談しました。「この子供を良い子に育てたいのですが」すると相談された人は、言いました。「手遅れです。その子を良い子に育てたいのなら、あなたの親から始めなくてはなりません」 これは、共依存の連鎖ということを理解していると納得できる話なのです。 共依存が強い親のいる機能不全家族の中で無意識に育てると、どうしても強い共依存のパターンが子供にも刷り込まれることになります。 でも、先ほどの例は、そのことをわかってもらうための方便ですから、どの時点でも、意識的になりさえすれば、共依存の連鎖は断ち切れます。 私にもできました。 ですから、あなたにも必ずできます。 子育てのコツは、親自身が心の平安を持つことです。恐れを動機に思考・行動する子育てから、愛を動機にする子育てをすることです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 21, 2006
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太りやすい体質の人は、たいてい筋力が弱く、基礎代謝が低くなっているはずです。 当然、運動量も減りますから、さらに太りやすくなりますね。 ダイエットをするなら、まず、基礎代謝を上げるために、筋肉をつけましょう。筋肉がつけば基礎代謝が上がり、何もしないでもカロリー消費量が増えますし、同じ運動をしても、筋肉量が多い分、消費カロリーも増えます。 柔道部の身体の大きな男性とスマートな女性がデートで同じ距離を歩いてお昼を食べるとき、筋肉の多い男性の方が食事の量も多いですよね。でも、柔道部の男性ほど筋肉をつける必要はありません!(笑)女性の場合は、少しくらい筋肉をつけても、まっちょになることはないので安心してくださいね。(^^) さて、ダイエット目的で基礎代謝の向上のために筋肉をつけるのなら、大きな筋肉を中心に鍛えたほうが効率的です。人間の身体の中で、筋肉が大きいのは、胸(大胸筋)、背中(広背筋・脊柱起立筋)、脚(大腿四頭筋・大腿ニ頭筋)、腹筋などです。 筋トレの場合のポイントは、負荷をかけるということです。負荷が少ない状態で、運動を続けでも現状維持と運動量の増加にしかなりません。 「ラクラク腹筋100回もできた」というのなら、負荷が足りません。10回ギリギリというくらいの負荷をかけることがポイントです。筋肉痛になるはずですから、その場合、その部分のトレーニングは休みます。休んでいる間に、新しい筋肉が作られるからです。 ラクになってきたら、負荷を追加していきます。 もうひとつのポイントは、筋肉の材料のたんぱく質をしっかり摂ること。他にもビタミンやカルシウムなども必要です。たとえば、カルシウムは筋肉の収縮作用に使われます。 単純にたんぱく質だけを摂ればいいというものではないんですね。 そのような必要なものをすべて理解して、バランスの良い食事を工夫して摂るのは、大変です、それより、サプリメントの方が簡単です。ダイエットで摂るプロテインサプリメントなら、お薦めは、このプログのHOMEのブックマークの身体バランスで紹介している『健康ダイエット』です。 私も使っています。ポイントをまとめると1.大きい筋肉を中心に鍛える2.負荷をかける3.筋肉痛になったら、しっかり休む4.たんぱく質を始めとする必要な栄養をバランスよく摂る ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 21, 2006
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ある小学校で「給食費を払っているのだから、給食の時にうちの子には『いただきます』を言わせないでほしい」と母親が申し入れをしたそうです。 これがTBSラジオ「永六輔その新世界」で昨年話題になったということが今朝の毎日新聞に載っていました。 このことは、深く考えるとさまざまな気づきをもたらしてくれます。たとえば、誰に対して「いただきます」と言っているのだろうか?「いただきます」とは感謝なのか?感謝だとしたら、いったい何に感謝しているのだろうか?一般的に両手を合わせるが、あれは特定の宗教行為ではないか?などなど、 このあたりの前提があいまいになっています。ということは、人により解釈、前提が違えば、当然、結論も変わってきますよね。 新聞のインタビューに、永さんは「話の発端になった母親は、物事を『売る、買う』という観点で決めているのでしょうね」と答えています。 いい視点ですね。でも、もっと根本的なところまで掘り下げることができます。 足立幸子さんがその著書『あるがままに生きる』(七賢出版)という本の中でこれらの時代は「『損得』ではなく『尊徳』だ」と言っています。徳を尊ぶんですね。 臨死体験をしたダニオン・ブリンクリーは 光の存在から、「精神主義的資本主義をつくり上げる」という目的を告げられています。お金より精神性を大切にするということでしょうか。 足立さんは、『あるがままに生きる』(P123)で「今までの経営者の方は『どうしたらお金が得られるか』ということに重点を置かれていたと思いますが、これからは、人を幸せにして、その結果お金が入ってくる---『お金は目的ではなく、結果なんだ』ということが理解できないとダメなのではないでしょうか」と言っています。 『尊徳』であれ、『精神主義的資本主義』であれ、実は、『徳』をつむということは、見方によっては、徳を得する、とも捉えられます。 徳であっても、損得で捉えるようになるともう徳ではありません。徳を他人に知ってもらうことが目的になっていたら、それは承認欲求に成り下がっています。本当の徳とは、 以下の欲求の段階のうち1.身体維持の欲求2.他人に認められたい承認欲求3.自己実現の欲求自己実現で完結する必要があります。 この身体維持の欲求や承認欲求にとって、損か得かを優先しているか、ではなく恐れではなく愛からでた自分のしたいことを実現するという欲求を優先することなのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 21, 2006
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ダイエット薬とサプリメントを同じに扱うというのは、それぞれ効用を理解しようとしないまま、他人に偏見で嫌っているのではないかと思ってしまいます。 また、食生活の改善と運動でのダイエットは否定しませんが、時間や苦労、体重を減らすまでの期間などを考えると、肥満度の大きい人の事情を考えていないのではないかとも思います。 カロリー吸収を阻害するタイプの薬や飲んでいるときだけカロリー消費を上げるタイプの薬は、当然、その薬の服用を止めたら、減量効果がなくなり、元に戻るのですから、いくら効果的に痩せても、すぐにリバウンドするということですよね。 根本的な改善を無視して、そういう薬だけに頼って痩せてはリバウンドして、また薬を飲んで痩せるを繰り返すというのは、お金も無駄になりますし、身体のためにも良いとは思えません。 しかし、今現在、肥満のために糖尿病、高脂血症、高血圧などさまざまな弊害が出始めていたら、緊急な(急速ではない)減量のために、減量に効果的な薬を利用するのも、考慮に値すると思います。 その場合は、もちろん根本的な改善を前提にした上で、あくまで補助的に使うのがいいと思います。 根本的な改善とは1.基礎代謝量を上げる(太りにくい身体にする)2.食生活の改善(太りやすい食事を止める)3.生活の中の運動量を見直す4.ストレスの改善などでしょう。<9に続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 20, 2006
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ニーズ(必要なもの)は買うけど、ウォンツ(欲しいもの)は落ち着くまで買わない、ということが、当ブログにご訪問下さったたすく24さんのブログに書いてありました。 ニーズ(必要なもの)を優先し、ウォンツ(欲しいもの)は後回しにするという考えは、納得です。(^^) でも、ちょっと気になったことがありました。 それは、「ニーズ(必要なもの)とウォンツ(欲しいもの)の区別はどういう基準で判断しているのか?」ということです。 たとえば、「穴の開いたズボンを買い換える」というのは、ニーズ(必要なもの)?それとも、ウォンツ(欲しいもの)? ちばてつやさんのマンガ『ハリスの風』の石田国松などの子供たちのズボンってツギがあたっていたと思う。『あしたのジョー』に出てくる子供たちもそうじゃなかったかなあ。ちばさんの子供の頃は、それが当たり前で、ちょっと穴が開いたくらいでは、「穴の開いたズボンを買い換える」というのは、ニーズ(必要なもの)ではなく、明らかにウォンツ(欲しいもの)だったはず。 極端なことを言えば、路上生活者と比較したら、今の生活自体が、ウォンツ(欲しいもの)であふれていると言えると思います。 それなのに、そのウォンツ(欲しいもの)が自分の中では、ニーズ(必要なもの)となっているのは、たとえば、『ツギのあたったズボンをはいていたら、世間体が悪い、今の時代の常識としてツギ当てズボンはないでしょう』という常識を基準にしているからだと思います。本来、ニーズ(必要なもの)と思っているものの多くも、実は『世間体を良くしたい』というウォンツ(欲しいもの)から来ているんですね。 でも、世間の中で暮らしているのだから、『世間体を良くしたい』というウォンツ(欲しいもの)を満たすことはちっとも悪いことじゃないですよね。 さらに、極端にいえば、食事をするのだって『生き続けたい』というウォンツ(欲しいもの)からのものです。 だとしたら、「食事をする」というウォンツ(欲しいもの)と「穴の開いたズボンを買い換える」というウォンツ(欲しいもの)の違いはなんでしょう? それは、マズローの欲求段階説を使うとすぐに分かります。簡単に分けると1.身体維持の欲求(身体)2.社会的評価の欲求(精神、心、怖れの感情の回避)3.自己実現の欲求(魂)です。家や服は、寒さをしのげれば、1.身体維持の欲求は満たすのだけど、2.社会的評価の欲求は、満たさないので、これをニーズに感じてしまうとしたら、それは、精神、心、怖れの感情の回避を優先して生きているということです。 自分らしく生きたいと思うのなら、今、自分が『ニーズ(必要なもの)ではない』と思って、がまんしているものを見直してみてはどうかな? それには、やつぱり、背伸びした社会評価を期待してるものもあるでしょう。背伸びしている部分があるから、『ニーズ(必要なもの)ではない』と分類しているんだと思います。 でも、自分が心からしたいことの実現、自分らしく生きるためのニーズ(必要なもの)である可能性もあります。 たとえば、バイクレーサーになりたい人が、衣食住は、必要最低限で生活してもバイクにお金をつぎ込んでいる場合なんか、そうですよね。 自分に自分らしく生きることを許してあげること。 世間体や親や周りの人の期待を優先するのではなく、自分の『したい』という想いを優先すること。 それって、思った以上に大切で、それを許してあげるとすっごく幸せってことがあると思うよ。(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 20, 2006
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癒し系の本などに「あるがままでいい」というような言葉が使われていることがあります。 しかし、これに対して「努力しないでいいというのか?」とか「成長しないで人として意味があるのか?」とか「甘やかしだ!」というような批判をする人がいます。 これは、「あるがまま」「そのままのあなた」が、2つの意味にとれるためと、批判する人が、『目的を明確にしていない思い込みの思考』をしてるために、起きた誤解です。 自分のこととして考えて欲しいので、今は「あなた」を「自分」に変えて説明します。 「あるがままの自分」には、1.今の自分2.素の自分のふたつの意味があります。1.今の自分とは、今のそのままの自分で機能不全家族の中で身に付けた特殊な思考・行動パターン(性格)で生活している自分です。2.素の自分とは、本来在るそのままの自分ということです。 たしかに、「今のそのままの自分でいい」ということであれば、前述の批判のとおり、何の成長もしなくて良いということになってしまいます。 この部分で批判をする人には、目的が不明確になった思い込みがあります。目的によって成長しなくても良いとも悪いともいえるのでしたよね。 しかし、さらに「あるがままでいい」には、「今の自分」のほかに批判する人が気づいていない「素の自分」という意味があります。「素の自分」とは、愛そのもののことで、機能不全家族の中で身に付けた特殊な思考・行動パターンを手放した状態の自分です。 素の自分の方は、旧パラダイムには、あまりない概念なので、旧パラダイムで思考している人は、その概念がわからないために誤解されるのです。 「素の自分」つまり、「本来在るそのままの自分」なので、「あるがままの自分」なんですね。 では、本来の在るがままじゃない自分ってなんでしょう? そう、偽りの自分、偽我のことです。機能不全家族の中で身に付けた特殊な思考パターンを基準にして、行動や感情が発動してしまう自分です。 親や社会の価値観を自分の「在るべき(エゴ)」としてしまって、他人の価値観に沿うように生きてしまっている自分のことです。 多くの人は、偽我と真我を同時に生きています。そして、偽我(エゴ)が主導権を握っています。それは怖れが先に立つからです。それが、旧パラダイムの人です。 ですから、偽りの自分でいることがあたりまえで、それに何の疑問も持たずに生きているので「あるがままのあなたでいいんだ」と言われると、本当の自分(在るがままの自分)と偽りの自分という区別が見えていないので、前述のような反論が出てきてしまうのです。 しかし、他人の価値観を生きているということは、自分の価値観を生きていないのですから、(個としての自分、自我とは、選択された観念、価値観だから)自分を生きているとは言えません。 他人の顔色をうかがいながら、他人の価値観に合う偽りの自分を演じ続けているのです。それって悲しいですよね。 自分を押し殺して、あたかも自分は相手の望む人物像であるかのようなフリをずっと演じ続けているのです。そのために、必要以上に相手のことや反応が気になってしまうのです。それが共依存(人間関係依存)でしたよね。 自分を生きていない、だから、苦しいのです。 苦しさは、本当のあなたの心の叫びなのです。あなたの心が、あなたに呼びかけているのです。「わたしは、わたしらしく生きたい!」と。 あなたは今、このブログを読んでいるのですから、あなたはすでに本当の自分に気づき始めています。これまで、自分が親や社会の価値観に縛られて生きてきたことを知りました。そう、本当の輝く自分への一歩を踏み出したのです。 もう、誰かの価値観に振り回されて生きるのはやめにしませんか?あなたは、在るがままのあなたでいいのだから。今、心を決めましょう。わたしは、わたしの道をゆくこれからは、誰かの決めた「在るべき」は手放していく「自分のしたいことをすること」を自分に許してあげるのだ、と。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 20, 2006
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人は、身体と精神(良心)と魂の三位一体の存在だという考えがあります。 身体と精神(良心)と魂のどこに偏っているかというのは、どんな欲求を動機に行動しているかを見ればわかります。 遭難して残り少ない食料をどうするか?そんなとき、周りの人を蹴落としてでも、自分の食料を確保するとしたら、それは食欲、生存欲求という身体の欲求に偏りすぎています。 状況に関わらず、他の人の命を救うために良き人であろうとして自分はまったく食べない、または、分け合えられた食料を受け取れないとしたら、それは精神(良心)に偏りすぎています。 状況により、優先して食べることも、食べないでいることも自由に選択できる人は、実は、バランスが取れていると言えます。 なんであれ、状況に応じてすべてを選択することができるのが、魂の欲求です。 言い換えると、身体と精神(心)と魂の三位一体の存在として、パーフェクトなバランスとは、魂の欲求を優先すること、感応すること、心(愛を動機とした感情)の命ずるままに行動すること、老子の言葉であれば、「無為自然」ということです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 19, 2006
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心が苦しいのは、バランスが取れていないからといえます。 それは、なんのバランスなのでしょうか? たとえば、誰かが言った自分の陰口を耳にしたとき、そのことをとても気にして考えすぎると心が苦しくなるというのは分かります。 それがなんのバランスなのかがわかれば、対処しやすくなります。 共依存の特徴に・自分自身に価値を見出せない。・考え方、視野が狭いというものがあります。 自分自身に価値が見出せないので、他人の評価によって、不足している自分の価値、自己肯定感を補おうとします。自分の自分に対する評価と他人の自分に対する評価のバランスが他人の評価を気にする側に傾きすぎなのです。 そのときに、ポジティブ思考の人は、他人の良い評価によって、現状の自己肯定感にプラスする方向で思考が働きます。ですが、ネガティブ思考の人は、悪い評価にフォーカスして、それが減点されないようにしようと考えてしまいます。 しかし、他人の考えをコントロールすることは基本的にできないので、なんとかしようという努力は空回りしてしまい、その悪い評価は、山から転がり落ちる雪玉のようにどんどん大きな存在になっていきます。 しかし、よく考えて見れば分かりますが、考え方というのは右から左まで幅広く存在しています。 その人の価値を認める人も認めない人もいて当然なのです。 イエスだって、お釈迦さまだって、人気絶頂のスターだって、気に入らないと思っている人がいるんです。 ゴッホの絵だって、生きているうちは売れなかった。でも、死後であっても、評価されることになったんです。 だから、今現在の自分に対する他人の評価を必要以上に気にしないこと。 あなたを認めてくれる人は、必ずいます。 そして、他人の評価を気にしすぎてうじうじしている人より、そんなこと気にしないで、さっぱりとしていられる人の方が他人の評価があがります。 だから、他人の評価を必要以上に気にしないこと。OK?(^^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 19, 2006
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無条件の愛は、「あるがままに受け容れる」というと、必ず誤解する人がでてきます。 たとえば、「今、虐待を受けているのに、されるままになっていろと言うなんてひどい」というような誤解をします。 今の状況をあるがままに受け容れるとは、このまま今の状況に甘んじなければいけないということではありません。 『今の状況に甘んじ続ける』ということは、まず、今ではなく、未来の話です。 『今の状況をあるがままに受け容れる』をとは、意識の上での話です。 それを理解するためには、逆の状況を考えて見るとわかりやすいです。 今の状況を否定している意識状態とは、『あのとき、こうすればよかった』とか『あの人が、思い通りになればいいなあ』とかどうにもならないことを考え続けたり、未来の空想に逃避したりしていることです。 なぜ、今の状況を否定している、受け入れられないかといえば、その状況が、あなたの持っている「あるべき」から外れているからです。ですから、今の状況という事実を事実として容認できないのです。 その出来事を受け入れるまでは、前に進めません。出来事を引き起こした原因を探し、責めることを繰り返してしまいます。 その事実が自分の前にあるということを認めたら、初めて、今の状況に甘んじないで済むように今の状況を変えるために、今ここでできることをしていけるのです。 たとえば、過去にある原因を参考にして、今ここでできることをしたり、未来への希望を現実にするために今ここですべきことをしたり、状況を作るきっかけとなった誰かの失敗をフォローすることを今、自分ができないかを考えるということができるようになるのです。 簡単にいえば、今の状況を無条件に受け容れるとは、「こうあるべき」という理想(正しさ)を手放し、『起きてしまったことは、文句を言わずに事実として認める』ただそれだけの当たり前のことなんです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 19, 2006
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人生とは、とてもシンプルなものだ。 あなたが、思考で複雑にしない限り。 思考は、分別、分離に他ならない。 どちらかが正しく、どちらかが間違っている。それは、そのとおりだ。 しかし、正しさとは、目的に対してのみ成立する。囚われて、絶対視してはいけない。 だが、ここであなたは、他人の目的を採用することがある。 こうなると大変だ。 あなたにはいくつも目的を持つことになる。親の目的、学校の目的、会社の目的、社会の目的etc.etc. その結果、あなたはいくつもの正しさを持つということになる。 そうするとどうなるか? あなたは、もう自分で決めることができない。決めるということは、正しいものを選ぶということだからだ。 あなたは自分の正しさを生きられない。 あなたは他人の正しさ、目的、価値観にしたがって生き始める。 それは、複雑で、その上、楽しくない。 あなたは、他人の人生を生きているのだから。 他人の正しさを、あなたは変更することができない。 あなたは決めるために、あなたが無意識に採用してる目的の持ち主にお伺いを立てなくてはいけない。しかも、相反する目的もあるのに。 そうなったら、もう、あなたは決めることなどできはしない。なにしろ、もう、あなたの人生ではなくなっているのだから。 そうやって、あなたは自分の人生を複雑にしている。 本来、正しさは、意志ごとにある。他人が決めた正しさは、その人が意志を変えない限り変わらない。 あなたにとっての正しさは、あなたの意志によって決まる。 その真理に気づくこと。 その瞬間から、あなたの人生はシンプルになる。 誰にお伺いを立てる必要もなくなる。 あなたは自分が感じたとおりに生きることができる。 あなたの人生を生きることができる。enough for today? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 18, 2006
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「学校へ行こう!」で以前、女子十二楽坊と共演した高校生・宮城一真君。彼は女子十二楽坊の音楽を聴いて励まされ、引きこもりから脱することができたということです。 今回は、中国古典楽器を独学する宮城君と再び共演するため女子十二楽坊が来日!V6岡田准一も中国楽器を特訓して共演することに。 そんな宮城君の様子がおかしいことに気づいた森田が尋ねると「さっき、自分が『岡田さん、かっこいいです』と言ったとき、隣にいた坂本さんの顔が変だったので、坂本さんが気を悪くしたんじゃないか?傷つけてしまったんじゃないか?」と思って、心配していたとのこと。 もし、そう感じたなら「あっ、坂本さん、傷つけちゃったらごめんなさい」と言えればいいんだろうけど、それもなかなか言えないし、そのことをどこまでも心配してしまう性格なので、引きこもりになってしまったんだろうなあ、と思いました。 私たちは、他人の感情の責任まではもてないんですよね。きっかけをつくることはありますけど、それが気になるなら、すぐにその気持ちを伝えれば良いだけなんです。 「他人の感情の責任と自分の感情の責任の境界線」をはっきりさせて、他人の感情の責任をとろうとしないことが大切なんですよね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 18, 2006
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以前の私は、怒りまくって叱っていました。でも今は、怒(おこ)ると叱るの区別をはっきりつけるようにしています。広辞苑によるとおこ・る【怒る】1.いかる。腹を立てる。「―・ってなぐりかかる」2.叱(シカ)る。「親に―・られる」怒るの基本は、感情のことです。その後、叱ると同じ意味にも使われるようになっていったと思われます。しか・る【叱る・呵る】1.声をあらだてて相手の欠点をとがめる。とがめ戒める。「子供を―・る」2.悪口を言う。叱るの基本は、感情的に怒った状態で、その原因について責める、批難するんですね。これは、コントロールドラマになっています。 コントロールドラマは勝ち負けですから、どちらも勝つまでやろうとしますから、相手を変えることはできません。一方、さと・す【諭す】1.神仏が啓示・警告して気づかせる。2.言いきかせて納得させる。おしえみちびく。この2の意味です。コントロールドラマになっていません。相手が納得したら、相手は変わります。 諭すためには、目的を明確にする必要があります。言い聞かせるためには、論理的な話である必要があるからです。何が正しいかは、目的(目標)によって変わるからです。たとえば、バイクレーサーになろう(目標)としている息子に親は、その経験から学歴(目標)が必要だと信じていて、子供は、実力さえあれば学歴など関係ないと思っていたら、「勉強をしなさい、学歴があったほうがいいんだよ」と言っても説得できるはずがありません。 目標が一致していて、その話が論理的にその目標に適っていた時にはじめて説得ができるんですね。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 18, 2006
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子供の自尊心を持たせるように育てることが大事だと思います。 でも、ポイントは、その自尊心に条件があるかどうかです。 もし、イチローの自尊心が『私は、一流の大リーガーとしてやっているから』という理由(条件)に基づいているとしたら、そうでなくなったときに自尊心を失うことになります。 それは一流の大リーガーとしての地位や名誉や人気に依存しているということです。 これは条件付きの愛であり、条件付きの愛で育てられるとそうなります。 『愛されるには、期待に応えなければならない』と思うようになります。 そうではなく、『無条件に人は尊い』と思いえてそこから生じる自尊心が大切なのです。 それが無条件の愛です。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 17, 2006
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私がお薦めした「自己主張が楽にできる本」が、いい本でしたとピンクモグさんが掲示板に書き込みしてくださいました。 今、臨床心理学はカウンセリングを通じて直接心を病んでいる人と接し、その心の仕組み、心が傷つく仕組み、心が傷つく環境、心を癒す仕組みなどが詳しく分かるようになってきました。 機能不全家族の中で、禁止令、負のストロークを浴びつづけることで、自分の中に自分を認めないもうひとりの自分ができてしまいます。そのもうひとりの偽りの自分が、自分の価値を否定するので、自己肯定感が感じられず、自分に価値を感じられなくなるので、心が痛むのですね。 機能不全家族の中で育っていくうちに、心の中に自分の存在を否定しまうという間違ったプログラム(そこから回路)が作られてしまったわけなんです。 たとえば、あなたは心から正しいと思ってやっていることに対して「あなたは間違っている」という人がいます。その人の言い分を聞いても『やっぱり自分のやっていることは正しい』と頭では思うのに、感情的には、自分が間違っているように感じてしまうというのも、「他人の評価に依存して自分の存在を否定しまうという間違ったプログラム」とそれによって作られた反応パターンという回路のせいですね。 でも、「あなたは間違っている」というのは、その人の意見であって、あなた自身の価値の事実を述べているのではないというのが、正しい考え方(正しいプログラム)です。 そのように、間違った考え方を正しい考え方に正していくことで、心は癒されていきます。 自分の心を傷つけているのは、自分の間違った考えだからです。 あなたも共依存、AC、機能不全家族などを理解して、あなたの心の間違ったプログラムを見直してみませんか? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 16, 2006
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ほめて育てるのは、大賛成ですが、一つのポイントに気づかないと、かえって子供の心を傷つけることになりかねません。 これは(ほめて育てる)の続きです。 ほめるということには、ふたつの種類があるんですね。それはどんなものでしょうか? 「ほめる」というのは、ほめる側の行為を表しています。実は、ほめられるという行為から、子供が感じるものには二種類あるんです。 ほめることで子供がすくすくと育つのは、子供が『認められた』と感じるから。だから、やる気を出したり、頑張れるんですね。 自分の生きている価値を感じられるからやる気になる。 ほめている時に、過度の期待をかけていると、それは逆にプレッシャーになってしまいます。過度の期待は、「今のままでも、素晴らしいけど、まだまだ価値が足りない、もっと頑張らないと、もっと努力しないと価値を認められない」と言っているのと同じなんです。 子供は、それを受けて「今の自分には価値が無いんだ」という暗黙のプレッシャーを感じてしまうんですね。 そうなると、「お前のようなやつはダメだ(価値が無い)」と怒っているのと、似たような攻撃を子供に与えているということになるんです。 ほめるときには、そういうことに気をつける必要があります。 子供のあるがままを認めた(無条件の愛)上で、ほめるのと、親が勝手に抱いている期待像を前提に、それに適ったから、それに近づいたから、という理由(条件付きの愛)でほめるのでは、自ずと違ってきます。 言葉の端はしに子供への無言のプレッシャーがあるんですね。 子供のあるがままをまず、認めてあげましょう。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 16, 2006
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先日、ラジオで叱咤激励して教育していた先生が、あるときふとほめたところ、生徒がみるみる変わって良くなっていたことから、考え方を改めた、と話しがありました。 私自身も、ちょっと怒りっぽい性格から、かなり荒れた状態、そして、穏やかな状態と心の状態が変わっていくに伴って、子育てのやり方も変わっていきました。 そんなふうにいろいろな子育てを体験して思うことは、やはり『ほめて育てる』のがいいと言うことです。 でも、ここにポイントがあります。 女優の東ちづるさんの『“私”はなぜカウンセリングを受けたのか―「いい人、やめた!」母と娘の挑戦』東ちづる著◇カウンセリング 長谷川 博一◇マガジンハウスという本を読んだことがありますか? 東さんは、優秀な子供だったらしく、「また賞状をもらってきたね、すごい、おかあさんの誇りだわ」(言葉は正確ではないです)と言ういうようにほめられて育ってきたそうです。 単純に『ほめて育てる』ということであれば、すごい賛辞なので、すごくほめていますよね。 でも、この言葉が逆に東さんを心理的に追い詰めていったのです。そして、カウンセリングを受けることにまでなってしまったんですね。 どうしてそういうことになってしまったのでしょうか? 実は、ほめるも二つに分けられるんですね。 その違いを知らないで、ほめて育てていると、東ちづるさん親子のように、間違った子育てになる可能性があるんです。<失敗しないほめ方へ続く> ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 16, 2006
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「私は心を傷つけられた」という言い方をします。「誰かにひどいことを言われたから」「冷たい態度をされたから」「信じていたのに味方をしてくれなかった」いろいろな理由から、誰かから「心を傷つけられた」と感じます。理由はいろいろでも、根は同じなのです。 『自分を認めてくれない、自分の価値を認めてくれない』と信じる(決める)ことで傷つくのです。 そう信じることで、自分の価値を自分で否定してしまうから自己肯定感をなくしてしまうのです。 その喪失感が、心の傷なのです。自分の価値がなくなることを恐れているのです。 恐れたことが実現したことが悲しいのです。 でも、このことを知ってください。 きっかけは自分の外側にあっても、「自分には価値が無い」という考えに自分が同意したから傷ついたのです。 自分の心を傷つけているのは、自分なのです。自分の心を傷つけられるのは、自分だけなのです。 誰かに、「バカ」と言われて傷つくのは、自分で、自分がバカだという意見に同意したときだけなのです。 誰かに裏切られて傷つくのは、『自分には信頼される価値が無い』という考えに、自分が同意したときだけなのです。 ですから、自分を無条件に愛することができた人は、自分の価値を否定しなくなるから、傷つかなくなるのです。 自分を心から愛してあげてください。 それができたとき、その愛は、あなたから周りに広がっていくことができます。---- 引用開始 ---------------------------------------ニール:わたしはあなたを愛しています。ご存知ですか?神 :知っている。 そしてわたしもあなたを愛している。(ニール・ドナルド・ウォルシュさん「神との対話」サンマーク出版より)---- 引用終了 --------------------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 15, 2006
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すべての人の一番基本的な目的は『幸せであること』なんですね。 それをプラスの方向で求められると、マズローの欲求段階説の自己実現に進みます。 人から認められる自分の実現、自分のしたいことの実現などですね。 それができない人は、マイナスの方向で、今の苦痛を逃れる方向で進みます。 人間関係がつらいから、会社を辞める、生きているのがつらいから、死にたい。となってしまいます。 それらは、実は、幸せを感じるきっかけなんですね。それらをきっかけに、満足した心の状態になることが幸せなんです。 マイナスの方向の幸せは、前より満足だけど、まだ不満が残っている状態なので、心から幸せだと思えないのです。 でもそれは、二元化の意識世界の話です。 幸せの本質とは、実は、二元化の意識世界では、満足であり、二元化を超えた意識世界では、表現が難しいのですが、不満がないことであり、それが本当の満足なんですね。 さて、それは難しいのでちょっと置いて。 人生というのは、選択の連続です。では何を選択すればいいのかというと、 基本的な目的である『幸せと感じる』という基本目的に叶うものを選べばいいのです。 そのときに、満足するということは、不満をなくすということになりますよね。 不満をなくすときに、変える方向が二つあります。自分の外側か、自分の内側か、です。 過去や、世界や他人など外側は変えられないか難しい、変えられるのは自分の内側だけなんですね。 不満というのは、それを否定しているということです。否定しているときの心は、平和ではなく、争いです。 ですから、内側を変えて満足するためには、否定するのを止めればいいのです。すると、争いは止まり、心に平安が訪れるのです。 それが『無条件の受容』『すべての受容』『無条件の愛』なんですね。 そのことについては、ニールさんの『神との対話2』(サンマーク)という本の第11章にも書いてありますね。 よかったら読んでみてください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 15, 2006
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「健康には食べ物が大切」って、すごく当たり前のことなんだけど、ちょとカン違いが多い気がします。 テレビで、「ココアが何々にいい」というと、お店の陳列棚からココアが消え、赤ワインがいいと言えば、赤ワインが売れ、寒天がいいといえば、寒天が品切れする。 さらには、調整済みココアを飲みすぎて糖分の取りすぎになったり、ワインを飲みすぎで肝臓を悪くしたり。 どうも、西洋医学の対症療法の悪い面が、こういうところにも出ているみたいな気がします。 大切なのはバランスでしょう。 栄養のバランス! さらにいうと、たとえば、たんぱく質であってもいろいろ種類があって働きや効果に差があります。 でも、まあ、とりあえず、栄養のバランスをとることが大切ですよね。 私はけっこう栄養とか運動とかにも気をつけていて、ずっと健康診断【A】でしたから、健康に自信をもっていました。 年齢とともに、肩こりとかがでてきたりとかしたのですが、それでも健康診断はAでした。 ところが! ちょっと胸に筋肉つけたくて始めた健康食品がすごかった!しばらく食べていたら、あるとき気づいたんです。『あれっ?最近、肩凝らないなあ?』で、注意して気にするようにしていたら、パソコンを長時間した日でも、まったく肩こりしないんです。『な、治った!!(^○^)/』 他の人にも、聞いてみると、他の人肩こりはすぐにしなくなったそうです。 そのあと、しばらくして、中学校の給食説明会に行ったとき、栄養士さんのお話を聞く機会があったんです。 それによると、栄養士さんがバランスを考えて用意した給食も、偏食して何かを残すとバランスが崩れしてしまうそうです。・・・って当たり前だよね。(笑) でも、大人になると、けっこう自分で好きなものを食べているから、知らないうちに偏食しているんですね。 そうなると、栄養的に足りないものが出きて、健康面にも現れてくるというわけです。 『健康には食べ物が大切』っていうけれど、それは食べ物を薬のように、偏食して食べるのではなく、栄養バランスをとって食べるということを心がける事が大切だと最近強く思っています。 でも、それって難しいので、私はお気に入りになった栄養食品を食事としても愛用しています。(^○^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 15, 2006
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私がDVになったときの子育てはサイテーでした。 最初の子供が生まれたときは、怒りっぽいところがあったけれど、DVではなかったと思います。たが、幼稚園の時の長女はのびのび、にこにこした良い子だったなあ。(^-^) プレゼントをあげると「わーい、わーい、うれしいな!(^○^)/」っと素直に喜びを表していたのが今も思い出されます。 それが、私がDVになって怒って接するようになってから、性格が変わってきました。 良い子育てをしたいのなら、まず、親自身が心の安定、穏やかで暖かい心を獲得することがとても大切だと思います。 持っていないものは与えられないのですから。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 15, 2006
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瞑想とは、サマーディ(三昧)のことだと私は思っています。 もともと、禅定や三昧という意味での『瞑想』はサンスクリット語のサマーディ(サマージ)から来ています。 サマーディのポイントは、『無心になること』無心とは、その漢字から、「何も考えないこと」と捉えがちですが、そうではないんですね。『無自覚に連鎖する思考』を離れるということです。 今でも、読書三昧、○○三昧というように一心不乱に事をするさまとして使いますよね。 一心不乱とは、「一つの事に心を注いで他の事のために心が乱れないこと」ですから、それは『無自覚に連鎖する思考』を離れている状態ですよね。むしん【無心】(2) 心中に何もとらわれた心がないこと。1 仏語。固定的なとらわれがなくなった状態。凡夫の一切の妄念がとりはらわれた心。虚心。無念無想。⇔有心。2 仏語。一切は空であると観ずる心。3 (形動)心に何のわだかまりもなく素直であること。自然のままに虚心であるさま。「無心な笑顔」Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988 この無心の説明が、瞑想の意味を上手に表しています。 すべてのことは相対的であり、絶対にこうすべきというものはないということが腑に落ちているから、囚われが無くなり、『ただ自然になる』んですね。 禅では、三昧、ただ自然になることを『そのものに成り切る』というような言い方をします。食事をしているとき、「私」が「食事をしている」のではなく、私-空腹-食べ物-食べる、というものが縁で一体となってそれは切り離せないもので、ひとつであるということです。 道元は、『只管打座(しかんたざ)』といいました。それは『ただ座ること』ということです。 この『ただ座る』は、二通りに解釈できます。(ここすごく重要)1.「悟りをひらくため」には、経を読んだり、念仏を唱えることも不要で、ひたすら座禅という修行をすればよい、という解釈。2.「悟りをひらくため」や「仏になるため」に座るのではなく、座禅するときには「ただ座る」ことと一体に成り切ることが、即、仏である。「只管」『ただ~する』を受けるのは「打座」だけではありません。歩くときには、ただ歩く、腹が減ったら、飯を食う、眠くなったら、布団に入るこれが禅の「平常心是道(びょうじょうしん これ どう)」です。 これにも、「朝起きて、ご飯を食べて、仕事をして夜は寝る、そんな当たり前の日常が道である」というような別な解釈がありますが、そんな意味ではないと私は思います。イヤイヤ起きて、イヤイヤご飯を食べて、イヤイヤ仕事をする。その間、『あー、仕事に行きたくないなあ』などと雑念ばかりの日常だとしたら、それが仏道だと思いますか?歩くときには、ただ歩く、腹が減ったら、飯を食う、眠くなったら、布団に入る そういった日常そのものが修行であり、修行が日常である、と修行と感じるのは、悟りを開いていないときです。 悟りを開くと、ただ行う日常の在りようが無心となり、そのような日常がそのまま悟りの境地であることが腑に落ちるのです。 つまり、ただ在るとき、それはサマーディであり、そのまま瞑想なのです。---- 引用開始 --------------------------臨済が「何があなたに起こったんですか?みんながあなたは悟ったと言っていますが?」と聞かれたとき、彼は肩をすくめて言ったものだ「起こった? なんにも私は森で木を伐り、禅堂に水を運ぶ井戸から水を運び冬が近づいているから木を伐る」彼は肩をすくめたとても意味深長なジェスチャーだ彼が言おうとしていたのはこういうことだ「なんにも起こっちゃいませんよなんというナンセンスをあなたは聞いているのかそれは自然なことだ井戸から水を運び、森で木を伐る人生は全く自然なものなのだよ」臨済は言う「眠くなれば私は眠る腹がすけば私は食べる生は完全に自然なものになったのだ」と 解脱とはあなたが完璧に自然であることにほかならない解脱とは何かあなたが自分はものすごくたいそうなものを手に入れたんだと言って自慢にするようなものじゃないそれは全く大それたものなんかじゃないそれは全く並はずれたものなんかじゃないそれはただ自然であることただあなた自身であることにすぎないのだ それならどうすればいいのか?見せかけを落としなさい偽善を落としなさい自分の自然な実存のまわりに培ってきたあらゆるものを落としなさい自然になるのだはじめのうち、それはとてもとても骨の折れることだろうしかし、はじめのうちだけだ一度あなたがその感じをつかんだら他人もまたあなたに起こったことを感じはじめるだろうなぜなら、真正な存在というのは大変な力があり大変な磁力を持っているものだからだみんなが何かを感じはじめることだろうこの男はもう我々の一員としては動かないあいつは完全に違う、とそして、あなたのほうは別に困ることなんかない落ちてゆくのは人工的なものだけだからだ人工的なもの見せかけや仮面を投げ捨てることによっていったん虚空が生み出されたならそのとき自然な実存がその流れを始めるそれにはスペースがいるのだからっぽで自由でそして自然でありなさいそれをあなたの生の最も根本的な原理にするといい(『存在の詩』P69P70)---- 引用終了 -------------------------- ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 14, 2006
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以前ある人に「あなたは瞑想をするのか?」と訊かれたことがあります。 私は、目を閉じて行うような、いわゆる瞑想、『目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと』というようなことは、ほとんどしません。 英語圏で瞑想をイメージするとmeditationであり、それは、深く考えることです。日本人がイメージする瞑想は、逆に思考や我を落とすことの方が多いかも知れません。 そのように『瞑想』とひとことで言っても、その指し示す範囲は広いでしょう。そして、どれが正しいとかいうものではないですね。 穏やかな境地を手にするための瞑想ということであれば、『熟考』としての瞑想は、偽りの自分、心を乱す自分の考えに気づくために考えることでしょう。 禅定と呼ばれるものがこれに当たるでしょう。ぜんじょう(‥ヂャウ)【禅定】1 (「禅」は梵dhyDnaを音訳した「禅那」の略。「定」はもと梵samDdhiの訳語。心を一つの対象に注いで、心の散乱をしずめるのが「定」、その上で、対象を正しくはっきりとらえて考えるのが「禅」)仏語。仏道修行の一つで、三学・六波羅蜜の一つ。心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想。心を統一して静かに対象を観察し、思索して真理を悟ること。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988 そして、思考や我を落とすという意味での瞑想は、『瞑想条』ですね。瞑想条(ジヨウ)〔仏〕(梵語 sam?hi; dhy?a の訳語) 心を一つの対象に集中して安定させること。心の散乱を静めた瞑想の境地。禅定。三昧。(広辞苑) 二つの意味が説明されていて、この二つは、まったく違うことですから、本来、1.心を一つの対象に集中して安定させること。2.心の散乱を静めた瞑想の境地。と分けるべきところですが、それがなされていません。 ポイントは、『心の散乱を静めた瞑想の境地』ということです。 なお、このように悟りなどについて、言葉から概念を探ろうとするときは、あまりその説明に囚われないことが大切です。 なぜなら、編纂している人は、悟っていないでしょうから、自分が体験していないことを、他の人に聞いて、まとめているだけだからです。だから、まったく違う意味であることに気づけないで説明しているんですね。 ここでは、瞑想条の説明にある『三昧』に注目します。さんまい【三昧】〔仏〕(梵語 sam?hi の音訳。三摩地・三摩提とも。定・正定・等持・寂静などと訳す) 心が統一され、安定した状態。一つのことに心を専注して無念になること。禅定。 もともと、禅定や三昧という意味での『瞑想』は梵語のサマーディから来ています。 サマーディのポイントは、『無心になること』無心とは、その漢字から、「何も考えないこと」と捉えがちですが、そうではないんですね。『無自覚に連鎖する思考』を離れるということです。むしん【無心】(2) 心中に何もとらわれた心がないこと。1 仏語。固定的なとらわれがなくなった状態。凡夫の一切の妄念がとりはらわれた心。虚心。無念無想。⇔有心。2 仏語。一切は空であると観ずる心。3 (形動)心に何のわだかまりもなく素直であること。自然のままに虚心であるさま。「無心な笑顔」Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988 この無心の説明が、瞑想の意味を上手に表しています。ここまでで分かる人は、分かるでしょう。とりあえず、ここまでにします。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 14, 2006
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感じなさい。あなたが感じるとき、そこにあるのはあなた自身だ。 そこにバラの花があれば、バラの花の美しさを感じなさい。だが、美しいのはバラではない。バラの花が美しいのは、バラの花にあなたの心が映し出されているからだ。 それがバラであれ、なんであれ、それ自体には美しいという意味を持ってはいない。 あなた自身の心が投影されているに過ぎない。 ビジネスの損得勘定に染まった心にはバラを見ても、『儲かるかどうか』しか見えていない。腹が減っていれば、『食えるかどうか』だ。 愛し合う二人が見る世界がバラ色に輝いているのは、二人の心がバラ色だからだ。 感じなさい。 あなたがそこに美しさを感じるとき、 あなたは自分の真の姿を感じているのだ。 本当のあなたは愛そのものなのだから。 あなたが愛であるとき、あなたの観る世界は、まったく別の世界になっているんだよ。 釈尊が観て、イエスが観た世界だ。 世界にある美しさを感じなさい。enough for today? ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 13, 2006
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昨日の「共依存と相互依存」で、その違いを説明しました。 その中で、「共依存」とは、自己肯定感の無さを補うための意識としての依存、感情的な依存で、「相互依存」は、自己肯定感をしっかり持っている。と説明しました。 一般に、自己肯定感は、自分に価値を感じている、という意味でも捉えることができます。 どちらも、実は、他者の評価に依存しているという点で同じモノなんです。他者の評価をうまく受け取って自分でも認めらることができた人は、自己肯定感を持てるし、他者の評価を素直に受け取れない人、つまり、他者が評価していることは受け取れるんだけど、その内容を自分で認められない人は、共依存になって、常に他者から評価しつづけないではいられないんですね。 さらに、その先の状態があります。それは、価値を超えた状態です。それは悟りの境地です。 悟った人は、『すべてのものは本質としては、価値を持っていない』ということに気づいた人なんですね。 価値は、受け取る人が与えて、自分でそれを受け取っていると気づいた人です。 つまり、そのことから、すべてのものに価値が無い、ということは、すべてのことに価値を与えられる、と気づいたということでもあります。 すべてのものには、存在価値がある。 だから、あなたにもどんな人にも存在価値があるんです。 それを信じてください。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 13, 2006
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『青春アドベンチャー』というのは、HNKのFMラジオで平日の午後5時45分からやっているラジオドラマ?です。 これ聴いている人っているのかなあ?たぶん時間的にあんまり聴いていないんだろうなあ。 私もほとんど車で通勤している冬だけしか聴けないんでだけど、これがなかなかいいんだよね。今やっているのは、シリーズものの一話完結タイプの不思議博物館?前は不思議屋貿易商だったかな? 主に不思議屋シリーズではなくても、人間ドラマとか、愛とかがテーマになっているみたいで、ちょっと切なかったり、考えさせられたり、笑っちゃったり、といろいろあるところもいい。(^^) 人とか人生とか愛とか、いろいろ考えさせられるステキな15分なんです。今日はぢんなお話かな?楽しみ(^o^) ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 13, 2006
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共依存に対する言葉として、相互依存があります。「共依存」は、(co-dependency)であり、「相互依存」は(inter-dependency)の翻訳です。 そして、共依存の概念が日本に入ってきた初期の頃は、(co-dependency)を相互依存と翻訳していた書籍もありました。現在でも、相互依存という言葉で使ってる人もいるかもしれません。 (co-dependency)を『共依存』と翻訳して定着させたのは、斎藤学(さとる)さんです。 前説はこのくらいにして、「共依存」と「相互依存」の違いを、どの解説書よりも簡単にご説明しましょう。(その代わり、周辺情報は、別の解説を参考にしたください。また、一般的な概念とずれていると思われる部分もあります。ポイントを奥まで突き詰めているためにずれが生じています) 「共依存」とは、自己肯定感の無さを補うための意識としての依存、感情的な依存です。 一方、「相互依存」は、自己肯定感をしっかり持っているために、意識や感情面で、他人に依存する必要が無い(自立した)状態の人間同士が、より高い幸福のためにお互いを必要とすることをいいます。夫婦の協力関係や、協力し合って仕事する、社会の分業などがあてはまります。身体と心(精神)と意識のうちの、身体の部分、物理的な部分での依存関係が主なものですが、気持ち的な部分もある程度含まれていると考えてもいいと思います。 つまり、依存によって得ている利益が、感情、意識面(共依存)なのか物理面(相互依存)なのか、という違いなのです。 ですから、アルコール依存症の夫を物理的に看護したりしている妻や、子供に対し過剰なまでに世話を焼いている母親が、表面的にはまったく依存していないように見えても、共依存だといわれるのは、感情面にフォーカスして分類しているからなんですね。 つまり、あなたがもし、ある人間関係において『心の隙間を埋めてもらえるから』という理由でその人との人間関係を好むとしたら、共依存である可能性が高いわけです。 もちろん、相互依存においてもある人間関係において、うれしくなるということはあります。愛し合う二人の関係もそうですね。 そのふたつの違いは、その人間関係を維持するために、相手の期待に応えようとして、自分を偽らないではいられないか、つまり、相手に嫌われるかもしれないから、自分の主張は相手の顔色を見ながら、というようになっているか、そうではなく、自分の考えをはっきりと自己主張できるかということでわかります。 ですから、愛し合う二人でも両方の可能性があります。 自分を偽って生きることは、その人にとって大きなストレスになります。ストレスがあるのならやめればいいのですが依存ですからそれができないのですね。 共依存の人は、そのような『相手に嫌われたくない』という怖れがあるので、「ノーと言えない人」になってしまいます。それは相手にとっては都合が良い人なので、『あの人は良い人だ』という評価を得ることも多いのです。良い人でいることが、またその人の自己肯定感の無さを補填しますから、その関係の依存が続くことになります。 では、自己肯定感とは何か、それをどうやって得るか、という問題になっていくのですが、そのお話はまたいずれ。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 12, 2006
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ターミネーターなどの映画で知られるカリフォルニア州のシュワルツェネッガー知事が、二輪免許を持たずに、バイクを運転していたと報じられています。<バイク事故のシュワ知事、2輪免許を持っていなかった> 実は、私が知っている人も、無免許で事故を起こし、会社をやめることになった人がいます。 彼は、仕事が忙しかったので、免許の更新を逃したんです。その時点で無免許になるわけ(?)ですが、今は、その後一ヶ月以内であれば、更新が可能らしいです。 ですから、後で更新すれば問題ないと比較的安易な気持ちで運転を続けていたのでしょう。でも、結局、更新できないまま、本当に無免許になったのにそのまま営業の仕事で車を運転し続け、ちょっとした交通事故で無免許が発覚したのです。 交通事故といっても、すべって道路わきの家の庭の植木に突っ込んだ程度の免許があれば、まったく問題にもならないくらいのちょっとしたものだったのですが、結果としての事実は、『無免許運転で事故を起こした』です。 最初は、ちょっとしたウソでも、そのウソをつき続けるためには、さらに大きなウソをつき続けなければならないものです。 だから、『ウソをついてはいけない』という道徳が生まれるわけですね。 でも、もし、ガンで余命幾ばくもない人に、病名を告げなくてはいけない時に、その人が、本当のことを聞いたら、ショックで自殺をしてしまうかもしれないとしたら、あなたなら、どうしますか?1.ウソをつくことは正しくないから、正直にいう2.相手がショックで死ぬかもしれないから、ウソをつく 今、提示されている正しさは『ウソをつかない』だけですが、ここに新たに、暗に、『人の命を守る』という正しさが浮かび上がろうとしています。 しかし、正直に言っても、死なないかもしれないから、その正しさの評価は、容易にはつきません。 このようなときに、人は葛藤します。 優先順位を決められないからです。 なぜ、決められないかというと、その正しさは、他人が決めたものだからです。 悟った人がいうのは、『正しさは、自分の内から出てくる』ということです。 言い換えると、その人にとっての正しさは、その人が恐れではなく愛の状態でしたいことなのです。 『ウソをつかない』その究極の基準は、自分の心にウソをつかないこと。 それが自分を生きることであり、結局は穏やかな心を手にするための最短の道なのです。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
Jan 12, 2006
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