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ネットを検索すると19,800,000件もの名言に関する結果がでてきます。 名言は確かに名言なのですが、ひとつ問題があるのです。 それは、その言葉を名言とする基準が何かということです。まったく別の信条を基準にしたものも、同じく名言として紹介されているのです。自分の信条を持った上で。その信条に適う名言を選択するのであればいいのですが、ただ名言を無条件に受け入れていると、自分の信条がめちゃくちゃになってしまう怖れがあると思うのです。私は、フランスの三つ星シェフ パスカル・バルボの言葉を名言だと思ってブログで紹介しました。 調べてみると、それ以前に何人もの別の人がパスカル・バルボの言葉を名言として紹介していたのです。ところが、それはまったく別の言葉でした。 以前から紹介されていたものは「昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、日々変わり続ける事が大切です」というものです。 この言葉には、成長とか努力とかが感じ取れますが、私はこれだけでは名言だとは思いません。 これだけを読んだ人は、努力できない自分を責めたり、成長できなかったり、負けたりした自分に自己嫌悪してしまうかもしれません。私か紹介したのは、以下の二つです。------------------------------------------------------(ミシュランの格付けに対する姿勢と信条)三つ星は光栄だが、人生の目標ではない客が美味しいと感じるか 毎日が勝負だ楽しくなくちゃ料理じゃないシェフ パスカル・バルボ(レストラン アストランス(パリ16区))------------------------------------------------------(佐藤への助言として)ありのままの自分でいろ好きな料理で人生を楽しむ星の数に惑わされず 料理に集中することさシェフ パスカル・バルボ(レストラン アストランス(パリ16区))------------------------------------------------------人生の目的は、今ここを楽しむこと。自分以外の何かになることはできない。自分を否定せず、ありのままの自分でいること。楽しむこと。どちらの言葉の根底に、この信念が脈づいているのがわかるのです。 彼のこの信念を前提にしても前述の名言「昨日より今日、今日より明日、明日より明後日、日々変わり続ける事が大切です」を読むと、別の想いが見えてきませんか。誰かと競争するのではなく、自分を成長させていくことを楽しんでいるようす、新しい料理でお客様を楽しませることかできる歓びが私には見えてきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪
May 30, 2013
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縁起とは「因縁生起」(いんねんしょうき)の略であり、縁起の法は、釈尊の悟りの本質であり、仏教論理の根底を支えているものだ。つまり、釈尊によって縁起という言葉で語られた真理を腑に落とすことができれば、苦しみを超えることも遠くは無いといえる。『これが有れば、それが有る。これが無ければ、それは無い。これが生ずれば、それも生ずる。これが滅すれば、それも滅する』このような言葉で知られる縁起の法(真理)とは、いったいどのようなものだろうか。縁起の真理を今の言葉で説明すれば、「私たちが認識する世界は、すべてが相対的であり、絶対的なものなど存在し得ない」ということだと言えるだろう。あなたは、この中に重要なポイントがあることに気がついただろうか。それは『すべて』という言葉である。あなたは、すべてといえばすべてだからと、何の疑問も持たずに聞き過ごした(読み過ごした)のではないかな。原始仏典では、すべてを意味する「一切」という概念をこのように定義している。「比丘たちよ、何をもって一切となすのであろうか。それは、眼と見えるもの、耳と聞こえるもの、鼻と匂うもの、舌と味わわれるもの、身体と触れるもの、意識と観念の作用を比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである」どこかで聞いたような説明だと思わないか。そう、五蘊(ごうん)という人間システムのうちの色、受である。たいていの縁起の説明では、外側の相対関係や相互依存関係だけを説明していることが多い。だが、それは本質をはずしている。 実は、私たちの外側にあるはずのこの世は、私たち人間にとっては、外側そのものではなく、五感による情報を基に意識の中に相対的に構築された概念でしかないのだ。 仏教が対象としている世界とは、外側の世界そのものでなく、自分が認識している世界と自分との関係性によって創られた世界のことなのだ。だから私は『私たちが認識する世界』と限定をつけたのだ。 これで釈尊は何が言いたいのだろうか。 私たちは、この世には生老病死を始めとする多くの苦しみがあると思っている。悟りを開く以前の釈尊、つまりゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)もそう思っていた。病気になるから苦しいのだ、病気が苦しみの原因だ、老いていくことは苦しみそのものであり、さらに苦しみの基になっている、死ぬのが怖い、死は誰にも避けることができない苦しみの原因だ、そのような苦しみだらけの世に生まれなければ苦しむこともなかったのに、今こうして苦しんでいるのは、この世に生まれてきたからだ。そのような四つの苦しみ以外にもいつまでも一緒にいたい愛する者と別離する苦しみ、会いたくない怨み憎んでいる者に会う苦しみ、求める物が得られない苦しみ、肉体としての人間であることによる苦しみがある。そのような苦しみの原因を何とかしたいと、間違った理解で、もがいているのが凡夫なのである。因縁生起という真理を腑に落とした釈尊は考えたことだろう。『私(釈尊)は、たとえば、病気のような外側に起きてくることが苦しみの本質、直接の原因だと考えていた、だが、私たちが認識するこの世に絶対のものはないのだから、病気が絶対に苦しみだということはないはずである。病気を苦しみと感じさせてしまうのは、どんなものとの相対関係によるのだろうか』ここでヒカリズムの感情法則を思い出して欲しい。外側の出来事、状況 × 想い、観念(正しさ) → 感情『私(釈尊)は、これまで自分の外側に起きてくる出来事、状況こそ、苦しみの直接の原因だと考えていたが、そうではなかった。それは間違った理解だった(無明)。このような間違った理解で生きているのが凡夫なのだ。そうではなく、私の想いこそが直接の原因であり、外側に起きてくる出来事、状況が縁となって苦しみを生み出していたのだ』実は「因」は結果を生じさせる直接の原因であり、「縁」はそれを助ける外的な間接原因、条件のことなのである。『私(釈尊)が『病気になるのは絶対に嫌だ』という想いを持っているからこそ、病気という縁によって、苦しみが生じてしまっているのだ。だから、『病気になるのは絶対に嫌だ』という想いを手放せば、病気という縁による苦しみは滅することができる。すべての苦しみは、自分の中の想いに直接の原因がある。その原因を滅すれば、苦しみも滅することができるのだ』と。 もし、仏教の対象とする世界が外側の世界そのものであれば、苦しみだらけのこの世界において、苦しみの問題を解決するためには、この世を去る以外に手はない。 しかし、外側の世界と関わりなく、単に苦しみだらけの世界だと間違って認識している(無明)だけであれば、認識を変えることで、苦しみを超えることができるのだ。だから、『私たちが認識する世界』という限定はとても大切なのだ。この説明なしに縁起の真理を理解することはできないのだ。さあ、改めて縁起を説こう。間違った想いが有れば、苦しみが有る。間違った想いが無ければ、苦しみは無い。間違った想いが生ずれば、苦しみも生ずる。間違った想いを滅すれば、苦しみも滅する。これが「悟り=縁起の真理」とその展開であり、これをさらに詳しく説明していったのが、仏教なのである。 さんた ひかる
May 24, 2013
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仏教において、無分別とは、分別しないことではない仏(菩薩)の智慧(無分別智)による分別のことである。 無分別、無分別智の意味について、悟りを開いていない者は、難しく考えてしまう。やれ、修行体験によってのみ得られる智慧であるとか、相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧だとか、対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智慧だとか。あなたはこんな難しい説明で理解できるか?分からないものを説明しようとするから、ことさら難しくしてしまうのだ。 最初に、分別の一般的な意味を整理しておこう。道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。物事の善悪・道理を区別してわきまえることなどである。道理とは、物事のそうあるべきすじみち、人の行うべき正しい道、である。 それを踏まえて、釈尊の行動を考えてみなさい。物事のそうあるべきすじみち、人の行うべき正しい道をわきまえているだろう。分別ある行動をしているといえる。 分別は社会の中で生きるときには必要なのである。 まず、対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智慧だとか、相対的な主観・客観の分別を離れる、とかいうのは、間違いである。 仏教において分別とは、認識主体と認識対象を分け、認識主体を「我れ」として固執(我執)し、認識対象を「我がもの」として固執(我所執)することである。このような説明を浅く理解したための間違いだろう。 ポイントは、認識主体と認識対象を分けることではなく、固執、執われの部分である。 この『執われた分別』によって、凡夫に苦悩が生まれるというのが、仏教の考え方なのだ。 一般的な分別では、法律や道徳、常識、習慣などによる正しさを絶対視し、正しく見ることができないまま、その間違った正しさに執われ、間違った正しさを選んでしまっているのだ。 無分別とは、そのような偏った分別を離れよ、ということだ。仏の智慧による分別である無分別とは、凝り固まった絶対視をやめ、目的に対して相対的に正しい答えを選ぶことなのである。さて、こんな話がある。 建仁寺の栄西(ようさい)禅師のところに、一人の貧乏人が来て、「私の家は貧乏で、もう数日に渡ってご飯を炊くことができず、夫婦と息子と三人が飢え死にしそうです。お慈悲を持ってお救い下さい」と申し出た。その時、建仁寺の山内にも、まったく衣類も食物も財物もなかった たまたま薬師如来の像を造るための光背の材料にする銅が少しだけあったので、栄西は、これを取って打ち折り、束ねまとめて与えて言った。「これを食べ物にかえて、飢えをしのくがよい」 その女が帰った後、弟子たちは僧正の行為を非難して、「この銅は、ほかならぬ仏像の光背です。それを俗人にお与えになるとは、仏の物を私用に使う罪になると存じますが、いかがでございますか?」と尋ねたそうだ。 その時、栄西が答えて言うには、「まことにそのとおりである。けれども、み仏の心を思うに、仏は、からだの肉や手足をさいてでも、衆生に施されるに違いない。目の前に飢え死にしそうな人がいるとしたら、かりに仏像全体を与えても、仏のみ心にかなうであろう。また、わたし自身が、この罪によって、たとえ地獄に落ちようとも、また衆生の飢えを救うべきであろう」(随聞記巻三) この弟子たちの考えこそが、凝り固まった分別である。絶対だと間違って思い込んだ正しさによる判断である。 悟った人には、そのような外側の正しさは絶対のものではない。 悟った人にとっては、仏の智慧による正しさが、自分の内側から自然と湧き上がってくるのだ。 さんた ひかる
May 19, 2013
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あなたは、『自灯明法灯明』という言葉を聞いたことがあるだろう。実は、灯明と訳されている言葉は、原典では中州というときの洲(ディーパ)であり、パーリ語ディーパは、サンスクリット語に変換すると、「灯明」と「洲、島」の同音異義語になるということだ。 仏教学の第一人者である中村元(なかむら はじめ)氏によれば、当時のインドでは、洪水で水浸しになり一面海のようになることがよくあり、インドは山などがない広い平地なのだが、平地の中でもちょっと高くなっていて水に浸かっていないところが洲となり、そこに多くの人が逃げていくのだそうだ。そのような環境であるから、インドの人にとって洲は頼りになるところという意味になるのだそうだ。 そのようなインドの状況を知らない中国の人にとって、ディーパは、灯明と訳すほうがしっくりきたのだろう。 さて、自灯明・法灯明の教えは、アーナンダの言葉に応えて、『釈尊の亡き後は、どうすれば悟りの境地に達することが出来るのか』について説いたものだ。「この世で自らを島(洲)とし、自らを拠り所にして他人を頼りとせず、真理を島(洲)とし、真理を拠り所として他を拠り所とせずに生きていきなさい」というような意味となる。 ところで、あなたは、『なぜ「他人を頼りとせず、真理だけを拠り所をせよ」だけではないのだろう』と考えたことはないだろうか。 なぜ、『自分を拠り所にせよ』と釈尊は言ったのだろうか。そして、なぜ真理よりも自分のほうが先に来ているのだろうか。 だが、ほとんどの人はその重要性に気がついていない。だが、さすが鈴木大拙氏はちゃんと見えていたのだ。。 鈴木大拙氏は、アメリカの哲学者ヒューストン・スミス博士に「釈尊が死に直面したとき、信者に遺(のこ)した言葉は何ですか」と尋ねられたとき「『他人に頼ることをやめなければ、人間は救われない』という言葉です」と答えたそうだ。(松原泰道著『仏教入門』祥伝社より)【送料無料】仏教入門 [ 松原泰道 ](←本当に入門本なので特にお奨めはしません)最小限で一番大切なことを言い切っている。真理という言葉さえ言わなかったようだ。 悟りとは、あるがままの自分を生きることだ。他の人、固定観念、道徳、常識などあらゆる『自分の外側の正しさ』に執われないで、本当の自分を生きることだからだ。 悟りとは、仏としての自分を生きることなのだ。 だから、自分を拠り所にせず、自分の外側の正しさである真理だけを拠り所とすることは、悟りとは逆に向かうことになってしまうのだ。それは、あなたを悟りから遠ざけてしまう。 だが、まだ偽りの自分、エゴに偏りがちな修行途中のものにとって、仏としての自分を生ききることはできない。 だからこそ、「自らを拠り所にして他人を頼りとせず、真理を拠り所として他を拠り所とせずに生きていきなさい」となるのだ。つまり、真理に沿って自分を見直しながら、正しい自分を生きていきなさい。ということなのだ。多くの人は、ここで納得するだろう。だが、まだポイントがある。ここで重要になるのは、真理という言葉をつけたとき、何が真理なのかをどうやって判断するかということだ。釈尊は、すべて語った、隠しているものはない、と言ったが、具体的な問題に対してすべて語れるはずはない。釈尊が遺した真理の言葉から自分で判断するのだ。そうやって真理に沿って自分を見直しながら、正しい自分を生きることを繰り返すことでいつか、自分と真理を一致させた仏となりなさい。ということなのだ。 そのとき、あなたは人々を苦しみから救う頼りになる島(洲)となっている。 さんた ひかる
May 13, 2013
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悟りとは、穏やかさだ。感情に振り回されない穏やかな心なのだ。 穏やかな心はあなたも体験している。 だが、あなたの穏やかさは、外側しだいだ。外側を変えないではいられない。 感情の式を思い出してごらん。外側の出来事、状況 × 観念 = 感情だった。 あなたは基本観念として絶対的な正しさを持っている。外側の出来事、状況 × 観念(絶対的な正しさ)= 感情となる。あなたは、二つの要素のうち、観念の方を固定してしまったから、感情を変えるすべは、もう外側にしか残されていない。だから、あなたの外側がどうなるかが最優先課題となってしまった。そうなると、目的と手段の逆転現象が起きる。本来、幸せになるための手段として外側を変えたいはずなのに、幸せよりも、外側を変えることが重要になってしまっている。 それではダメだ。あなたは自分がしていることが判らなくなっているのだ。縁起の法を思い出してごらん。すべては縁によって成り立っている。すべては相対的なものなのだから、絶対というのは間違っている。その間違いを正してごらん。あなたにとってもう受け入れられない外側はなくなってしまう。外側で変えられないものなら、あるがままに受け入れることができる。そうすれば、あなたは外側なしでやっていける。外側で変えられるものを変えようとすることを楽しむことができる。そうすれば、今を生きることができる。自分を生きることができる。穏やかさの上で生を楽しむことができる。 さんた ひかる
May 11, 2013
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悟りを開くためには、正しい道を行かねばならない。正しい道とは、快楽におぼれることでも、苦行で体を痛めつけることでもなく、中道を行くことだ。 このような説明のために、「中道とは極端を避けることだ、ほどほどということだ」と理解している者が多いようだ。 だが、よく考えてごらん。釈尊の行動はほどほどであっただろうか。 生き物を殺してはいけないという不殺生戒(ふせっしょうかい)を守るため、雨季になると活動を始める昆虫などの無用な殺生を避けるために、僧侶たちが一定期間、同じ場所において修行を行う、安居(あんご)という修行さえ設けていた。 これは極端だといえる。 考えてみれば分かるように、中道とは極端を避けるということではない。中道とは、『正しい道』ということなのだ。『なるほど!』と思ったかな?だが、ここで納得しているようではお話にならない。ここで『ん?それじゃあ、正しいとはどういうこと?』という疑問が湧かなければ論理的に理解しようとしているはいえないだろう。 正しいとは『目的に適ったこと』ということだ。釈尊は、『中道』という言葉で極端な道に走っている人々を諌めた。 だが、実際に釈尊が実践していたのは、あらゆる固定観念、偏見、主観、主義などに執われないで、客観的にものごとを観察して論理的に判断し、あいまいでない最適な方法を選ぶということなのだ。 八正道が正しい道なのは、苦しみを消すという目的に適っているからなのだ。 さんた ひかる
May 10, 2013
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日本の仏教において、無我と訳されている言葉には、二つの意味がある。ひとつは、バラモン教で使われている輪廻転生している永遠不滅の「アートマン(我)」に否定の言葉をつけて「アナートマン」としたものを訳した「無我(非我)」である。仏教では、諸行無常、諸法無我を説いていて、当然アートマンも例外ではないということだ。 日本において知られているのは、禅における無我だろう。こちらは、我執(自分自身に対する執着)・我所執(所有欲)としての「我」の否定である。これらのサンスクリット原語は全く別であるそうだ。 これから、語るのは禅の無我である。 さて『人間は無我の境地には絶対になれない』と考えていている者もいるが、それは浅はかな考えだ。無我とは、自分のことを考えなくなることでもないし、何も考えないことでもない。 そのように捉えていてるから『無我の境地なんてあり得ない』と考えてしまうのだ。 そもそも、対象としてる「我」が違うのである。こんな話がある。馬祖道一(ばそどういつ)がまだ若い頃、伝心院に住んでひたすら坐禅をしていた。この男は見所があると見た南嶽懐譲がやってきて、問うた。南嶽懐譲「おまえさんは何のために坐禅をしている」馬祖道一「仏になるためです」すると南嶽懐譲は、瓦を拾いあげて庵前の石の上で磨きはじめた。馬祖道一「師よ、何をなさっていらっしゃるのですか?」南嶽懐譲「磨いて、鏡にするつもりだ」馬祖道一「瓦を磨いてどうして鏡にすることなどできましょうか」南嶽懐譲「坐禅をしてどうして仏になることができようか」 論理的に推論すれば「仏になるために坐禅をしています」という者は、『私は仏ではない』と思っているということになる。 『鏡でない瓦をいくら磨いても鏡にはならない』という単純なことを示すことで南嶽懐譲が伝えたいのは、『仏でないものは仏になれない、仏になれるのは仏だけだ』ということだ。 つまり、坐禅で悟りを開けるのは、人は本来そのままで仏だからなのだ。坐禅をすることは、仏になる修行なのではなく、その人の仏性を露にすることなのだ。その禅定の心がそのまま仏なのだ。 坐禅のポイントは、自らの仏を露にすることで、自分が本来そのままで仏であったことに気づくことだ。仏になるのではない、仏を露にするのだ、そして、仏で在るのだ。 ところがここに問題がある。 それは、本来そのままで仏であるはずの自分を、『こんなダメな私が尊い仏さまであるはずがない』という思いだ。 ここに本来仏であるはずの自分とは別に、もう一人の自分がいる、これが凡夫の正体だ。 あなたが一人だと思っている自分とは、本当の自分と偽りの自分の二人の自分が合体しているものだ。 このことは、現代の心理学でも明らかにされている。知りたければ根本 橘夫著『人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 』 (文春新書)を読んでみるといい。【送料無料】人と接するのがつらい [ 根本橘夫 ] さて、この『こんなダメな私が尊い仏さまであるはずがない』という思いはどこから来るのだとあなたは思うか。 それはあなたが家で、学校で、社会で受けてきたしつけだ。「~であるべきだ」「~でなければならない」「ちゃんとできない子は悪い子だ」 あなたは社会の正しさを学ぶために叱られ続けてきた、否定され続けてきた。あなたが認められるのは、社会の正しさに適っている時だけだ。親が言う。「良い子でいるのよ」幼いあなたは親無しでは生きていけない。そこで親に認められるために、あなたは一所懸命に良い子を演じる。だが、それでも叱られる。「足をそんなにぶらぶらさせないの」『な、なんと、足を動かしてもいけないのか!』こうやってあなたは気がつく。自分が相手の期待する正しさに適っているかどうかは、自分では分からないのだ、自分が正しいかどうかを判断するのは、相手なのだ。そうやってあなたは相手の顔色を伺って生きるすべを学ぶ。そうやってあなたは育っていく。もう、あなたの中は、あなた以外の人間が決めた正しさでいっぱいだ。自分で選んだ正しさなら自分の意思で手放すこともできる。だが、他の人から無理やり押し込まれた正しさを手放すのは難しい。そんなことをしたら、『周りから見放されてしまう』という恐怖があなたを襲ってくるからだ。あなたはこの正しさを手放すことができなくなる。この正しさはあなたの中で絶対の正しさへと変ってしまう。こうして、あなたは絶対の正しさという枠にガチガチに閉じ込められたロボットになる。 この絶対の正しさが『凡夫』『我』の正体だ。この『こうあるべきだ』『ねばならない』という観念が、あなたを仏ではないと信じ込ませている。ん、それはそうだろう。すべての正しさを完璧にクリアできる人間などいるはずがない。だが、あなたは完璧になることで初めて仏になれるのだと勘違いしている。『こんなダメな自分が仏であるはずがない』と信じているのだ。 この『執われ』こそが凡夫と呼ばれる『我』の正体だ。この執われを手放し、絶対の正しさを手放すことが、我を手放すことであり、『無我』ということだ。 分かってみたら、なにも難しいことではない。 できてみたら、なにも難しいことではない。無我即仏である。 だが、実際に我を手放すことは難しい。 なぜなら、あなたはこの凡夫という『我』こそ自分だと信じているからだ。執われを手放すことは、自分の死に等しいからだ。あなたが悟りを開くためには、あなたは一度死ななければならないのだ。 さんた ひかる
May 9, 2013
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釈尊は今から2500年ほど前に悟りを開き、その教えを多くの人に伝えていった。 だが、これまでに悟りを開いた人は、それほど多くはない。 それはその当時の人にとっては、釈尊の論理が深遠過ぎたからだ。 確かに、釈尊の時代の人も現代の人と同じように、食べて、働き、寝てと同じような生活をしていた。だが、抽象的な論理を理解するための知識は驚くほど違うといえる。 ある未開の地の人に数字を尋ねたら、1、2、3以上は、すべて「たくさん」だったそうだ。彼らの生活において、その程度の概念で事足りていたのだ。そのような人にとって仏教の論理を理解するのは、難しいだろう。 もちろん、釈尊の時代のインドではそんなことはなかったが、現代の知識に比べると雲泥の差であることは確かだろう。 あなたは何気なく、「0(ゼロ)」という数字を使っているが、「0」という概念を初めて数(演算の対象)として取り扱ったのは、6世紀頃のインドだということだ。釈尊の時代より1000年以上後なのだ。一説には、仏教の「空(くう)」の概念がヒントになっているともいわれている。 「相対的」ということでさえ、当時の人に伝えるのは大変なことだったろう。釈尊は「縁起」という言葉でそれを伝えようとした。だが、しかし、現代の人の知識は、格段に進化しているのだ。 宇宙の神秘をどんどんと解明し、逆に量子の世界という極小の世界の解明も進んでいる。 哲学や科学の進歩が、私たちに膨大な知識をもたらしたのだ。 今では地動説の内容をほとんどの人が理解している。 アインシュタインの相対性理論、特殊相対性理論をちゃんと理解している人は、ごくわずかだろうが、時間でさえも、相対的なものだということを知っている人は多い。 脳科学の進歩は、さまざまな脳の働きを解明した。 心理学は、心の世界を解明してきた。 そのような知識を駆使することで、仏教の深遠な論理を理解することが誰にでもできるような時代になっているのだ。 だが、残念なことにほとんどの科学者は宗教は非科学的なものだと理解しようとさえしない。ほとんどの宗教家は、昔からの解説にしたがって仏教を理解しようとしている。そこに知識の交流はほとんどない。 もちろん、仏教を科学の知識を利用して理解しようとする科学者や仏教者がいることも私は知っている。 だが、まだトータルじゃないのだ。A・E・ヴァン・ヴォークトが書いた『宇宙船ビーグル号の冒険』の中で、それぞれの科学分野では優秀な科学者たちが何もできない中、総合科学者エリオット・グローヴナーが、次々に難問を解決していく。総合科学とは、あらゆる分野の科学知識を有することにより、単独分野の専門家では成し得ない結論を導きだせるという学問なのだ。 もちろん、個々の分野では、その道の専門家には敵わないだろう。だが、総合的に眺めることで見えてくるものがあるのだ。 仏教を理解するために必要な知識を広く持つことで、今は誰でも悟りを開くことができるのだ。 さんた ひかる
May 8, 2013
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世界には多くの宗教があるが、キリスト教、イスラム教、仏教が世界三大宗教といわれている。、人口に占める割合で捉えると、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教の四つが大きなものである。仏教(約6%)よりもヒンドゥー教(14%)の方が人口に占める比率は高いのだ。だが、仏教には他の宗教にない特徴がある。 そもそも宗教とはなんだろうか。その定義はさまざま存在し、定まったものはない。だが、多くの場合、自然の力を超越した神のような存在を前提としたり、超越的存在からの受け取ったという言葉を前提としていて、その前提の下で従うべき教義が作られている。 だが、仏教はそうではない。釈尊は、神の存在については語らなかった。仏教の普及に伴って、釈尊を人を超えた存在にしたり、阿弥陀如来などの人を超えた仏を設定した教えも発生してはいる。だが、それも仏教の真髄を理解したうえで捉えると、仏教を論理的に理解することが難しい人々に対して、導くために用意された方便だということが分かるのだ。 仏教は基本的には、釈尊という人間が確立した論理を基本にしている。理論ではなく論理だから間違えないように。 それは深遠な論理だ。 他の多くの宗教は神の預言や教祖の言葉などの前提を信じるか信じないかで、その教義を信じるか信じないかが決まってくる。 だが、仏教は違う。教えを信じるために無条件に信じなければならない前提などない。それはただの論理に過ぎない。縁起にしろ、無常にしろ、四諦にしろ、因縁の法にしろ、釈尊の教えそれ自体は、論理的に確認できる。多くの宗教の教祖は、「私の教えを無条件に信じろ」と言う。だが釈尊は、こう言う。「私の教義を私への尊敬のために受け入れてはならない。先ずそれを自分で試してみなさい。金は火によって試されるのだから」と。仏教の教義を論理的に理解し、納得することで分かるのが、仏教なのだ。本来は、そこに信じるべきものは存在しない。苦を論理的に解明し、その論理に従って滅する方法を説いたのが仏教なのだ。私は言おう。仏教は信じるものではない、ゆえに、仏教は宗教などではない。仏教はその論理を理解することで人々を苦しみから解き放つ、ゆえに、仏教はもっとも優秀な宗教である。 さんた ひかる
May 7, 2013
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釈尊が説いた悟りに至る道筋が「四つの尊い真理(四聖諦)」だ。四聖諦(ししょうたい)のうち苦諦とは、苦しみの意味の真理集諦とは、苦しみの原因について真理滅諦とは、(その原因に基づき明らかにされた)苦しみを滅するメカニズムについての真理道諦とは、苦しみを滅する具体的な方法(についての真理)である。 この道筋に従えば、悟りを開くことができる。 前回は、苦しみを滅するメカニズムについての真理について語った。最後は、悟りに至るための具体的な方法である。釈尊は、その実践方法として八正道(八聖道)を説いた。八正道とは、『正見(しょうけん)』正しい見方をすること『正思惟(しょうしゆい)』正しく考え判断すること『正語(しょうご)』ウソ、無駄話、二枚舌、粗暴な言葉を避けること『正業(しょうぎょう、しょうごう)』正しい行いをすること『正命(しょうみょう)』正しい生き方をすること『正精進(しょうしょうじん)』正しい努力をすること『正念(しょうねん)』正しい想いを抱くこと『正定(しょうじょう)』正しい禅定(ぜんじょう)。の八つである。 普段から八正道を心掛ける、というような理解で説明している人がいるが、それはまずできないはずである。そのような理解での実践では、絶対に悟りを開くことはできないはずだ。ほとんどの人はこの八つを同列に扱い、この八つを努力して同じように実践していくことで悟りに至れるものだと解釈している。だが、これが大きな間違いなのである。 これまでの理解した真理を考えてごらん。苦しみは、囚われた考えによってもたらされた間違った(偏った)正しさであった。そのような間違った正しさを持っているから、悟ることができないでいるのに、どうしてそのような状態で八つの正しい道(八正道)を実践できるというのだ。それは難しい。 まず最初に徹底して自分に叩き込むべきことがある。八正道の中で前提として一番重要な『正見(しょうけん)』である。それは、論理的に正しい見方をすることである。論理的に正しい見方をすることで、偏りを避け、絶対視を避け、自分中心の考えを避け、真理に沿った本当に正しい見方をすることができる。では論理的に正しい見方とは何か。それは、縁起(すべては相対的であるという認識)四聖諦(苦しみについての正しい理解(真理))という真理に適っているということである。この正見は、他の正しさの基本の考えになっているのだから他と同列に扱ってはいけないのだ。これがしっかりとできていなければ、他の七つの正しさは、「今持っているこれまでのパラダイムの絶対の正しさ」で解釈してしまうことになる。 すると、その修行の仕方は、正見で真理に沿った正しさを理解しようとしているのに、他の七つの実践では、これまでのパラダイムの正しさを基本にしてしまうであろうから、その修行によって磨かれるのは絶対の正しさになってしまう。人は、実践を繰り返すことで習慣ができ、習慣が自分の基礎を形作っていくのだ。つまり、間違った正しさで実践していくと、正見は、単に知識に留まり、それを腑に落とすことができないままになってしまうのだ。つまり、実践の際に、注意すべきは、「正見」を基本にして行わないと逆効果ということだ。それはある意味、悟りの正反対に向かっているようなものなのだ。 正しく見るとは、真理を正しく見ることであるから、正見することで、初めて他の七つの正しい道を実践できるのだ。悟りたいのであれば、まずここをしっかりと理解しなさい。 さて、現代においては、正見を実践するために役立つのが、臨床心理学の発見である共依存と認知行動療法である。共依存症を理解することで、私たちが間違って絶対的な正しさがあると信じ込んでしまうメカニズムを理解すること。認知行動療法によって、その間違いを正すこと。 だが、それによって修正された正しさは、普通の正しさに過ぎない。そこにもまだ絶対視された正しさが残っているのだ。まだ自然ではない。悟りのためには、さらにその先まで進むことが必要である。共依存症からの回復は、その社会における普通の状態になることである。しかし、その社会における普通の状態とは、その社会が、その社会を維持するという目的のためにその構成員に押し付けている法律や道徳、常識のような正しさを絶対的な正しさであるかのように信じている自然ではない状態なのだ。それは広い意味での共依存である。認知行動療法における回復も社会的に普通の状態までである。その普通もそれぞれの社会によって違うことは、今の私たちには容易に理解できるはずだ。社会の正しさは、自然な正しさではないのだ。アメリカとイスラム原理主義者の対立は、その社会の正しさの違いよって起きている。どちらも自分の正しさが絶対的に正しいと信じているから、争いになっている。 そこで、認知行動療法の手法を応用して、自分が今信じている法律や道徳、常識のような正しさも、絶対的な正しさではないということを明確に理解して、その正しさを手放し、広い意味での共依存からも回復して、自然な状態になることで、正見することができるのだ。そのほかの八正道には、『正思惟(しょうしゆい)』正しく考え判断すること『正語(しょうご)』ウソ、誹謗中傷、陰口、無駄話を避けること『正業(しょうぎょう、しょうごう)』正しい行いをすること『正命(しょうみょう)』正しい生き方をすること『正精進(しょうしょうじん)』正しい努力をすること『正念(しょうねん)』正しい想いを抱くこと『正定(しょうじょう)』正しい精神統一をすることがある。最後の正定は、精神を統一して心を安定させ、『迷いのない清浄な境地に入ること』なのだ。それは、もう悟りそのものである。その結果として、正念ができる。その結果として、その他が自然にできるのだ。ん?それは変ではないか!八正道は、悟りに至るための実践方法のはずだ。 それでは、なぜ八正道が悟りに至る実践方法なのだろうか。それは社会心理学で「自己提示の内在化」として知られている方法だ。内向的な人が、繰り返し外向的に振る舞っていると、だんだん外向的になっていき、それが定着していくのだ。同じように、悟った人ならやるように振舞い続けていると、あるとき、悟りに至ることができるのだ。そのためには、最初に言ったように正見が一番重要だ。一般には、悟った人のイメージは聖人のようなものだが、それは絶対的正しさを実践する人のようなイメージが付きまとっている。そのようなイメージで八正道を実践しても逆効果になるだけだ。まず、悟った人は絶対的ただしがないことを理解した人であり、周りから与えられた正しさをすべて手放し、その上でその瞬間の自分の信じる正しさを選べることだとしっかりと肝に銘じること(正見)。 その上で、その悟った人なら そう考えるように、考え、判断すること(正思惟)その悟った人なら そう語るように、語ること(正語)その悟った人なら そう行うように、行うこと(正業)その悟った人なら そう生きるように、生きること(正命)その悟った人なら、そう心を尽くすように、心を尽くすこと(正精進)その悟った人なら、そう想うように、想うこと(正念)その悟った人が、迷いのない清浄な心でいるのと同じようにいること、自分の選んだ正しさを信頼し、周囲の正しさに惑わされないこと。(正定) これを繰り返しなさい。そうすれば、あなたは悟りを開くことができるだろう。 今一度言おう。一番大切なのは正見だ。もし、これ無しで他を100回実践するくらいなら、正しい観念の基で、1回の実践をするほうがましである。必ず、正しい観念の基で繰り返しなさい。まず、偏らず正しく世界を見なさい。その中で自分の選んだ正しさを信頼し、周囲の正しさに惑わされないようにして、穏やかな心、愛の心ですごしなさい。その上で自分の中から湧き上がる想いを大切にし、それに従いなさい。自分の想いを心を尽くして実現させていきなさい。つまり、まずその瞬間を偏らず正しく見なさい。自分の想いを基準に正しく判断しなさい。自分の想いに素直になって愛で語りなさい自分の想いに素直になって歓びの中で行動しなさい。自分の想いに素直になって幸せに生きていきなさい。 それがそのまま悟りの実践である。 さんた ひかる
May 6, 2013
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釈尊が説いた悟りに至る道筋が「四つの尊い真理(四聖諦)」だ。四聖諦(ししょうたい)のうち苦諦とは、苦しみの意味の真理集諦とは、苦しみの原因について真理滅諦とは、(その原因に基づき明らかにされた)苦しみを滅するメカニズムについての真理道諦とは、苦しみを滅する具体的な方法(についての真理)である。 この道筋に従えば、悟りを開くことができる。 前回は、苦しみを感じる原因の真理について語った。苦しみを感じる真の原因は、この『絶対の正しさ(という観念)』であった。 次は、苦しみを滅するメカニズムについての真理(滅諦)だ。そのために、苦しみが発生するメカニズムを考えてみることにしよう。何かが自動的に動くためには、きっかけが要る。あなたの中の絶対の正しさは、常にあなたに起こることをチェックしている。あなたに起こることが、あなたの中の絶対的な正しさ、つまり『~のときは、必ずこうすべきだ』『~のときは、絶対にこうすべきでない』『~は必ずこうあるべだ』という観念に適っているかどうかをチェックし、もし、基準から外れていたら、それを否定する思考が必ず発生することになる。外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情であり、-X × Y =-XYなのだから、その思考をきっかけに怒りや悲しみなどの否定的な感情が湧き起こる。そして、その状況が継続し、意識がそこに注目している限り、その思考は続き、感情のスイッチを押し続ける。それによって、その否定的感情は不自然なほど続くのだ。それだけでも苦しみだ。だが、それだけでない。あなたは自分の中の絶対の正しさのせいで、目の前の否定的な状況を絶対に受け入れられないので、なんとかして状況を変えようと試みる。それが運よくあなたのコントロール範囲内であれば、変えられるかもしれない。あなたの絶対的な正しさの範囲に収めることかできるかもしれない。そうすればあなたは否定的な感情を止めることができる。 だが、問題はそれがあなたのコントロール範囲外であった場合だ。つまり、思うがままにならないことであったら、あなたはいつまでも否定的な感情に振り回され続けても、あなたは、あなたの中の絶対の正しさのせいで、感情的にその観念を変えることができない。無駄な努力であっても、その思うがままにならないことを思うがままにしようと試み、その抵抗感という苦しみを味わうことになる。 さて、この否定的感情と苦しみ発生のメカニズムを止めるにはどうしたらいいだろうか。その答えは論理的には簡単である。外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情であって、感情の発生には二つの要素が関係している。外側の出来事、状況が変えられないのであれば、もうひとつの要素である絶対的な正しさ(観念)の方を変えればいいのだ。 だが、ここで問題になるは、『絶対』であるものは、絶対なのだから、変更はできないということだ。 しかし、論理的に考えるときに一番根底にあるのは、『すべては相対的である』という考えである。私たちが認識するこの世界は必ず相対的なものでしかありえないのだ。それは、認識するということ自体が相対的であるからだ。つまり、外側の出来事、状況 × 絶対的な正しさ(観念) = 感情という式において、ふたつめの要素である『絶対的な正しさ』は間違った考えだということだ。 この間違いを正しく認識し直すことで、感情を変えることができるのだ。この手法は、現在の臨床現場において、論理療法、認知療法、認知行動療法として実践されていることだ。 そして、実はそれだけではないのだ。補足した人間システム、特に脳の働きを思い出して欲しい。「認識」→『基本的観念(正しさ)』→「想念」→「意志」→「判断」となっている。私たちは、自分の外側の出来事や状況は、客観的に見ても同じく起こっていると思い込みがちだ。たとえば、病気になったときのことを考えてみよう。『健康であるべきだ(という正しさ)』を持った人が病気になると、『不運にも病気という不幸なことになってしまった』というような想いを抱くのが普通だ。そのために、病気=不幸という図式(観念)が、基本的な観念の上に新たな観念として付け加えられる。 このような観念は、たいていの場合、常識という形で付け加えられる。次からは、基本的な観念を使うことなく、この常識だけで判断をするようになり、それを繰り返していると、病気=不幸という観念は、間違った信念へと変ってしまう。 ここから分かることは、病気それ自体には、意味はないということ。そして、それを受け取るあなたが、意味づけをしているのだ、ということだ。病気 × 健康であるべき(病気は悪いこと)という式は、外部状況である病気には程度がある。仮にレベルをつけてみよう。健康である(0)軽い風邪を引いた程度。(-1)一週間寝込む。(-2)一ヶ月の入院が必要。(-3)一年も入院が必要。(-5)足や胃を切断しなければ死んでしまう場合。(-6)手の施しようがなく、余命数ヶ月の場合。(-8)もう明日まで持たないというほどの場合。(-10)正しさの観念にもレベルがある。絶対に病気になってはいけない、健康でなければならないを10とする。正しさのレベルを下げて、「健康であるほうがいいが治れば良い」変えると観念の方のレベルもたとえば、5に下がる。もし同じように一年入院する病気になっても-5 × 10 = -50と-5 × 5 = -25と半分になる。良寛の「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」のように、病気も死をもあるがままに受け容れると否定する条件が0になるので、-5 × 0 = 0-10 × 0 = 0となり、病気になっても、死が確実になっても否定的感情に振り回されることもなくなる。もちろん、あるがままを受け容れて、外側を変えようとしないのだから、思い通りに変えようとしないのだから苦しみもなくなるのだ。 こまではいいだろうか。理解したかな?さて、この説明には方便があったのだが、あなたは気がついただろか。もし、この方便がすぐに見えているようなら、あなたは悟っているだろう。-10 × 0 = 0という式は、ウソである。 さきほど正しさのレベルを10から5に下げて苦しみを減らすことができた。このように自分の正しさ、言い換えると外側を変えようとする期待値を下げることで苦しみを減らそうとする手法がプラス思考だ。 期待値を下げているということは、相変わらず外側の状況に同じレベルをつけているということになる。その観念の中には、相変わらず『病気=不幸』という観念が存在している。それは意識の奥には、外側を変えたいのに変えられないという苦しみがあるということだ。自分の外側に苦しみの状況が見えているということなのだ。それは苦しみから逃れているだけで、苦しみは自分の内側にも、外側にも存在している。苦しみは、滅せられていない。そのようなあなたのために、仮に-10 × 0 = 0という説明をしたのだ。だが、考えて欲しい。あるがままを受け容れるということは、無条件の受容である。無条件に受け容れるということは、否定する基準が無いということだから、すべての受容ということと同じである。すべてに差がなくなるのだ。だからこそすべてを受け容れることができる。健康でも、もうすぐ死にそうでも、同じレベルなのだ。レベル0なのだ。つまり、本当は-10 × 0 = 0ではなく、0 × 0 = 0というのが真実だ。悟りを開くと外側の見え方が変るのだ。このような状態を無分別という。 それは、自分の思い込みで脚色せずに、あるがままを正しく見るということなのだ。認知行動療法では、絶対的な正しさは間違いだから、普通の正しさに変える。ここで普通に回復したことになる。たしかに普通である。だが、それは自然ではない。 悟りでは、普通の正しさでさえ、いったん手放す。0 × 0 = 0の状態にする。これが自然な状態なのだ。そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している。これが滅諦である。 だが、このままだと感情がない人になってしまう。実は「そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」というのも方便なのだ。悟りとは、感情がなくなることだろうか。そうではない。自然な感情になることなのだ。初転法輪(しょてんぽうりん)のときの釈尊のことを考えてみてほしい。釈尊は「コンダンニャはさとった!」と喜んだではないか。その後も、感情に振り回されることはなかったが、自然な感情を示していた。また、悟りを開いた釈尊は苦しみの中にいる人を悟りへ導くために、その一生を捧げた。人々を変えようとしていたではないか。0 × 0 = 0の真理を悟ったとき、その状態を腑に落とすことになる。その状態を残したまま、その瞬間の自分の正しさを選び続けるのだ。すべてが0であることを知りつつ、正しく考え、正しい選択をするのだ。それによって、自然な感情が生まれてくる。そして、自然な想いも湧いてくる。「そこには変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」というのは、間違いではないが、正確でもない。そこには「変えようとする意志も、変えるべき状況も消滅している」が、代わりに「変えたいという意志が生まれ、変えたい状況が生じてくる」のだ。そこには、苦しみはない。そこには、正しさは、相対的なもので、目的によって変る。目的は意志ごとにある。意志はひとりひとりにある。という気付きがある。つまり、『本来正しさは、自分だけの正しさなのだ』という観念に置き換わっているのだ。 これが本当の滅諦である。 さんた ひかる
May 5, 2013
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第3話 「女刑事を襲うワナ!警察に泥棒」笹原瑠衣は、強盗と格闘した時に父の形見である腕時計を壊してしまう。 その事件のニュースを見ていた晴登は、「瑠衣とTAKE FIVEとその腕時計の関係」を知っていることを語ったときのことを思い出す。 瑠衣は、現場で壊れた腕時計のガラスを探しているとき、帆村がやってくる。「何か探していらっしゃるようですが」壊れた腕時計を見ながら瑠衣は言う。「仕事中に壊してしまいました。仕方がありません。形あるものは壊れる」事件が解決した後、新美晴登は瑠衣に新しい時計を贈ろうとして言う。「俺を逮捕する時、その時計じゃ逮捕時間が分からないでしょ」亡くなった父の思い出の腕時計を見直す瑠衣。その時計を見ながら晴登は言う。「その時計、ずっと重そうだなって思ってた」----------------------------------------------------「瑠衣とTAKE FIVEとその腕時計の関係」を知っている晴登ならではの深い言葉だ。 瑠衣のしている腕時計は重いのだ。そう、彼女の人生をかけるほどに。 瑠衣が女物の腕時計に付け替えるときは、彼女の心の重荷が取れたときなのだ。形ある時計は、古くなり、痛んでいき、そして壊れる。それは、彼女の心の痛みを象徴している。 だが、しかし、形あるものではない心は、癒されることが可能なのだ。瑠衣の心の言葉がそれを語る。・・・盗みは人を不幸にする。盗むことを決断するなら、愛が無くてはならない。その言葉の意味を、私は少し理解し始めていた・・・ さんた ひかる
May 4, 2013
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釈尊が説いた悟りに至る道筋が「四つの尊い真理(四聖諦)」だ。四聖諦(ししょうたい)のうち苦諦とは、苦しみの意味の真理集諦とは、苦しみの原因について真理滅諦とは、(その原因に基づき明らかにされた)苦しみを滅するメカニズムについての真理道諦とは、苦しみを滅する具体的な方法(についての真理)である。 この道筋に従えば、悟りを開くことができる。 前回は、苦しみの意味の真理について語った。苦しみの意味の真理とは、「苦しみが、思うがままにならないことを思うがままにしようとするときの抵抗感」だということだった。 次は、苦しみの原因について真理(集諦)だが、苦諦について知ったばかりのあなたは、「思うがままにならないことを思うがままにしようとすること」が、苦しみの原因だと考えるかもしれない。 悟りを開いていない人が単純に論理的に推測するなら、これを苦しみの原因だと考えるのは当然だ。 確かに、それは苦しみの原因だが、真の原因ではない。 それが原因だとしたら、苦しみを滅するメカニズムとは、同じく「思うがままにならないことを思うがままにしようとしてしまうから」となり、苦しみを滅することを実現する方法は、「思うがままにならないことを思うがままにしないこと」または「思うがままにならないことはあるがままに受け容れること」ということになる。 確かに、それも間違ってはいないが、それは表面に見えている部分であって、それもまた別の原因の結果に過ぎない。 原因の原因の原因というようにもうそれ以上原因が見つからないところが、真の原因なのだ。この考え方は、特性要因図という現代のQC手法によって手順化されているものだ。 では、人が苦しまずにはいられない真の原因を探してみよう。まず思い出して欲しい。釈尊は、人を五蘊(ごうん)という五つの集まりによって成り立っているものだと見抜いた。肉体とそれに付属する感覚器官と感覚機能、それによって展開される想い、意志、判断という心の世界、科学的には脳の働き。この人間システムのどこかにポイントがある。釈尊を考えてみよう。釈尊は、肉体も感覚器官も変えたわけではない。つまり、ポイントは心の世界にある、脳の働きにある。判断の変化は、意志の変化によるものであり、意志の変化は、想いの変化によるものである。 では、人の想いはどうやって生まれるものだろう。ここで気づいて欲しい。同じ状況に出会っても、人は同じ想いを抱くわけではない。釈尊は触れていないのではないかと思うが、想いにも原因がある。この原因が違うから、同じ状況に出会っても人それぞれの想いを抱くことになる。それが想いを発生させる根底にある基本的な観念だ。ロボットを考えてみると、この観念とは頭脳コンピューターの中のプログラムということになる。敵対するものに出会ったら、戦えとプログラミングされているか、逃げろとプログラミングされているか、和解に努めよとプログラミングされているか、停止しろとプログラミングされているか、相手の力を分析せよとプログラミングされているか、自爆せよとプログラミングされているか、どのようなプログラムかによって行動が変ってくるのだ。人もそれと同じだ。どのような基本的な観念を持っているかで想いや意志、判断、行動が変ってくるのだ。その観念は、育っていく過程で形成される。すべての人は、社会に適応するようにしつけられる中で、さまざまな基本的な観念を身につけていくのだ。それは『~のときは、こうすべきだ』『~のときは、こうすべきでない』『~はこうあるべだ』というような観念であり、自分の中で正しさという観念として形成されていく。自分で判断して身につけた正しさは、その後の自分の判断で変えることができる。ところが、法律や常識、道徳といった社会的な正しさは、自分の判断を超えたところで作られ、押し付けられることがある。そのような正しさは、自分では変えることができない絶対的な正しさとしてその人を支配することになる。そして、そのような絶対的な正しさは、親などの条件付の愛という取引によって押し付けられていくあなたにも覚えがあるだろう。「映画館では静かにしなければダメよ。静かにできないならもう連れてきません」親はあなたに親の愛と引き換えに自分の正しさを押し付けていく。親は、その正しさを満たしたときだけ愛するという条件付の愛で愛する。子どもは、それに対応しなければ親に見離されるという怖れを抱き、しまいには、自分がその正しさの条件を満たしていないのなら、自分には生きる価値が無いとさえ感じるようになる。そうやって親に認められることで、生きる価値を感じるようになる。親が押し付けてくる正しさに自分が対応できているかどうかは、親にしか判断できないのだから、親の顔色を伺うようになる。そのような仕組みは、家庭という最小の社会を出て、幼稚園、学校、職場でも規模を拡大して続いていく。そこで押し付けられる正しさの条件をクリアするのは並大抵ではない。正しさを押し付け、判定する人が増え、70点でOKとする人もいれば、80点を求める人もいるからだ。そこであなたは誰からも認められるように、より上を目指す、どんどん勝ち抜こうとする。それが欲だ。どこまで求めてもそれが完璧にすべての人を満足させるとは限らないから、欲は止まることがないのだ。欲は多くの人から認められなければならないという不安から生じている。欲の力の源は、『人から認められなければ自分には生きる価値がない』という怖れなのだ。あなたの生存に関わる重大な恐れが根底にあるのだ。あなたは多くの人に認められるために、自分の周りを価値で着飾る。高い地位、お金、名誉、学歴、評価される職業、高価な宝石、珍しいコレクション、見せかけの人徳、優秀な子ども。周りの人がそれをすごいと認めてくれたとき、自分が認められているように感じる、自分の生きる価値を認められたと勘違いする。だから、人はそこに依存する。それにしがみつく。依存対象を失うことは、自分の存在価値を失うことに等しい。それはとてつもない怖れとなる。だから、それが思い通りにならないものであっても、なんとか思い通りにしようとしてしまい苦しむ。怖れが論理的な思考を越えているからだ。この怖れは、自分の存在価値がなくなる怖れだ。 苦しみの原因は、まず自分の存在価値を信じられないことだといえる。ではなぜ、自分の存在価値を信じられないのだろうか。 それは、社会的な正しさとして『~のときは、こうすべきだ』『~のときは、こうすべきでない』『~はこうあるべだ』という観念を『絶対に』付で刷り込まれているからだ。苦しみを感じる真の原因は、この『絶対の正しさ(という観念)』である。 さんた ひかる
May 4, 2013
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釈尊は悟りに至る道筋として四聖諦と呼ぶ「四つの尊い真理」を説いた。この真理を明らめる(明確に知る)ことで悟ることができるということだ。 ではどんな真理を明確に知ればいいのだろう。苦諦とは、苦しみの意味の真理であり集諦とは、苦しみの原因について真理である。滅諦とは、(その原因に基づき明らかにされた)苦しみを滅するメカニズムについての真理道諦とは、苦しみを滅することを実現する方法について(の真理)だ。 こうやっても苦を超えることで悟りを開くことができるのだ。 まず苦の真理について語ろう。 苦とは、その原語を調べるとサンスクリット語で「ドゥフカ(duhkha)」、パーリ語で「ドゥッカ(dukkha)」であり、『思うがままにならないこと』という意味がある。 釈尊は四苦八苦といわれる八つの苦(思うがままにならないこと)をあげた。苦しみのあるこの世に生まれたという苦しみ(生)老いる苦しみ(老)病気になる苦しみ(病)いつか死ぬという苦しみ(死)いつまでも一緒にいたい愛する者と別離する苦しみ (愛別離苦(あいべつりく))会いたくない怨み憎んでいる者に会う苦しみ (怨憎会苦(おんぞうえく))求める物が得られない苦しみ (求不得苦(ぐふとくく))肉体としての人間であることによる苦しみ(五蘊盛苦(ごうんじょうく)) 最後の苦しみは、おそらく他の解釈とは違うだろうから、説明が必要だろう。 五蘊(ごうん)の「蘊」(うん)とは「集まり」という意味だ。五蘊(ごうん)の五つの集まりが、色、受、想、行、識である。最初の「色」とは物質的存在のことだ。残りの「受・想・行・識」は物質に対する「心」の世界、「脳の働き」を意味する。「受」は、痛いとか、熱いというような五感による感覚だ。「想」は、五感で受けたものを心の中で展開し、何事か想うことだ。「行」は、その想いを基に意志を発動すること。「識」は、それらを基に判断することだ。 たとえば、肉体があるから、蚊にも刺される(色)すると、かゆみを覚える(受)『かゆいなあ、たまらん』と想う(想)『かゆみを緩和しよう』と決める。(行)『とりあえず、掻こう』と判断する(識) 肉体としての人間を分析すると、このような働きの集まりによって創られていることがわかる。この人間システムというメカニズムが苦しみを生み出しているということだ。つまり、五蘊とは、人間であることそのものなのだ。「五蘊盛苦」の元のパーリ語は、「パンチャ・ウパーダーナ・カンダ・ドゥッカ」であり、「パンチャ」は「五つ」、「ウパーダーナ」は「執着する、固執する」「カンダ」は「要素(蘊)」「ドゥッカ」は「苦」という意味なので、 「五つの要素に執着する苦しみ」というのが原文の意味だ。人間であること、その人間メカニズムに捕われていることが苦を生み出しているだ。 臨死体験をした人や退行催眠によって過去生での死を思い出した人が、その死の瞬間を語るところによると、たとえば、交通事故や火事などにあって死に至るとき、痛みや熱さを感じ、人間メカニズムを発動させ苦しむのだ。ところが、死の瞬間を迎えると、意識は肉体を離れ、その瞬間、痛みや熱さは消え去るという。 つまり、この人間を構成する五つの要素のどれかが欠けると、苦しみが発生するメカニズムが壊れ、苦しみを感じなくなるのだ。手術のとき、麻酔をすることで痛みをなくし、苦しみを感じないようにするもの同じことだ。 さて、苦しみの真理を語ろう。 四苦八苦にあげられる、あなたが苦しみだと思っていることがある。苦しみのあるこの世に生まれたこと老いること病気になることいつか死ぬということいつまでも一緒にいたい愛する者と別離すること会いたくない怨み憎んでいる者に会う苦しみこと求める物が得られない苦しみこと苦しまざるを得ない人間(凡夫)であること だが、これらは、苦しみそのものではない。たとえば、老いることや病気を苦しまない人もいる。そうだとしたら、老いや病気そのものは、苦そのものでないということだ。 では、苦の正体、苦しみの真理とは何か。 だれかが何かを『思うがままにならないことだ』と思うとき、それは、その人がその何かを思うがままにしようとしているということを意味している。 もし、思うがままにしようとしていないなら、それが思うがままになるとか、ならないとか思うことはないはずだからだ。 人間メカニズムを発動し、思うがままにならないことを思うがままにしようとするからこそ、そこに苦しさを感じるのだ。 そう、苦しみとは、「思うがままにならないことを思うがままにしようとするときの抵抗感」のことなのだ。 これこそが、苦についての意味的な真理だ(苦諦)。 老いることが苦なのではなく、『いつまでも若いままでいたい、絶対に老いたくない』と抵抗するから苦しいだけなのだ。 病気になることが苦なのではなく、『絶対に病気になりたくないない』と抵抗するから苦しいだけなのだ。 死ぬことが苦なのではなく、『いつまでも生きていたい、絶対に死にたくない』と抵抗するから苦しいだけなのだ。良寛は、手紙の中にこう書いている。「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候」 あるがままを受け容れること。思い通りにならないことに対する抵抗を止め、あるがままを受け容れたら、そこから苦しみは消え去る。災難をあるがままに受け容れたら、そこから苦しみは消え去る。老いを受け容れたら、そこから苦しみは消え去る。病気を受け容れたら、そこから苦しみは消え去る。死を受け容れたら、そこから苦しみは消え去る。苦しみから離れるのではない。苦しみそのものが消えしまったら、どうやって離れることができる?無いものから離れることなどできはしない。苦しみを超えるのだ。 さんた ひかる
May 3, 2013
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悟りについて語る前にはっきりさせておく必要があることがある。 それは「何をもって悟りというか」ということである。 言葉で悟りを語るためには、語るものと聞くものの間で、悟りの概念を一致させておく必要がある。悟りの概念定義が必要となるのだ。悟りをあるものは、無我になることだと捉え、あるものは、千里眼などの超能力を得ることだと捉え、あるものは、自分と他人の区別からの解放だと捉え、あるものは、全ての苦しみから離れることだと捉え、あるものは、すべてと一体だと感じることだと捉え、あるものは、無になることだと捉える。 そのように悟りをまったく違うものに捉えていたとしたら、とんちんかんなことになってしまうだろう。 だが、前にも言ったようにその定義の違いが同じひとつの悟りを違う視点から語っているだけであれば、それは結局は同じものであり、とんちかんにはならない。一見違ったように見えても、論理的に矛盾なく説明することが可能となる。 また、この概念定義は、悟りを開く前の人に伝えるのだから、まだ悟っていない人がその違いを理解できることが必要だ。 たとえば、悟りとは、無我になることだ、とか悟りとは、真理を会得した状態、というのは、無我が何かとか、真理が何かが分からないのであるから、この場合の概念定義として適さないといえる。 さて、悟りの概念定義をする前に、釈尊の悟りについて考えてみよう。 そもそも釈尊が悟りを求めたのは、生老病死にあっても苦しまなくなるためであった。 苦はサンスクリット語では、ドゥフカ、パーリ語ではドゥッカといい、語源を調べると『思い通りにならないこと』という意味があるそうだ。 今では、アンチエイジングの努力をしある程度の効果をあげてはいるが、それでも老いから逃れることはできないし、いつか必ず死ぬものだ。 つまり、老いも死も思い通りにならないのだ。だから苦しみなのだ。 そしてこの世は、思い通りにならないことだらけだ。そんな苦しみだらけの世に生まれてくることも苦に思えるだろう。「健康でいる努力をすることで病気を避けることができるはずだ、病気は思い通りにならないことではない」という者もいるかもしれない。 釈尊が目指したのは、そのように苦しみを避けることではない。 仮に病気になっても、苦しみを感じない境地を求めたのだ。 さて、ここで悟りの概念定義をしよう。悟りとは、「苦しみを超えること」である。けっして苦しみから離れるのではない。苦しみの次元を超えること、此岸(しがん)から彼岸(ひがん)へ渡ることなのだ。 さんた ひかる
May 2, 2013
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