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クロニクル ワシントン大統領に1789年4月30日イギリスのアメリカ植民地が、独立戦争を戦い抜いて、イギリスから独立を勝ち取ったのは1783年のパリ条約によってでした。それなのにアメリカ合衆国初代大統領にジョージ・ワシントンが就任したのは、6年も後の今日のことでした。この間、独立戦争を共に戦った13の元植民地は、一つの連邦を形成すべきか、13の別々の国となるのか、意見がまとまらず、断続的に会合を開いては検討を続けていたのです。その結果、ようやく憲法草案が作成され、各州の住民投票で、3分の2の州が憲法を批准すれば、アメリカ合衆国として出発することが決まったのです。そして9番目の州が、憲法を批准したのが前年88年の11月だったのです。こうして大統領選挙の実施が決まり、13植民地の連合軍の総司令官として、人望の高かったジョージ・ワシントンが、圧倒的な支持を集め、この日初代大統領に就任したのです。 228年前のことでした。
2017.04.30
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クロニクル ニ六新報,三井財閥攻撃1900(明治33)年4月29日今から117年前、19世紀のまさに最後の年、20世紀との変わり目の年のことです。この年に再刊された『二六新報』は、この日特集記事を組んで、三井財閥攻撃キャンペーンを開始しました。キャンペーンはまる2ヶ月後の6月30日まで続き、日清戦争の戦時利権で膨大な利益を得ながら、それを国家や社会に還元せず、私企業の中に溜め込んでいると強く攻撃し、さらに三井一族の乱行までもが暴露されて、攻撃されました。音を上げた三井財閥は、政府に泣きつきます。その結果、内務省は5月18日、強権を発して、キャンペーン記事の連載禁止を命令したのですが、大衆の支持が厚く、当時日々14万2千部と、第2位の朝日新聞を4万部近く引き離して(朝日新聞の発行部数は10万4千部でした)売り上げトップを独走する『二六新報』です。連載と銘打つことだけを取りやめ、連日三井財閥攻撃の単発記事で、攻撃を続けました。三井財閥は、批判に耐えかね、社主で主筆の秋山定輔と会談を持ち、以後は行動を慎むことを約束し、ようやく『二六新報』による三井財閥攻撃は、終わりを告げたのです。。こうして『二六新報』の人気はさらに高まリ、発行部数もまたさらに伸びました。
2017.04.29
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クロニクル ムッソリーニ銃殺1945(昭和20)年4月28日72年前のことになります。イタリアでは第一次世界大戦後の1922年10月末に、ドイツや日本に先駆けてムッソリーニのファシスタ党が政権を握りました。ムッソリーニのイタリアは、1929年の世界恐慌後、ドイツ・日本と組んでファシズム連合を形成しましたが、イタリア軍の内実は、侵略を仕掛けたエチオピアでも苦戦するなど、決して強力とはいえませんでした。こうして1943年、連合軍の攻勢が強まると、ファシスタ党は分裂し、ムッソリーニは失脚します。その後イタリアは同年9月8日に連合軍に降伏、ムッソリーニは逮捕、投獄されますが、4日後に救出され、ドイツ軍の展開した北イタリアに迎えられ、ドイツの傀儡としてイタリア社会共和国の形式的統治者となるのですが、その地位は名目的なものに過ぎませんでした。ドイツ軍の敗色が濃くなると、北イタリアもパルチザンの猛攻を受けるようになり、戦い敗れたムッソリーニは、パルチザンの捕虜となり、この日4月28日、即席の人民裁判によって銃殺刑に処され、晒し首にされました。ソ連軍の攻勢を受けたベルリンで、ヒトラーが自殺を遂げたのは、この2日後の4月30日のことでした。
2017.04.28
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クロニクル 京都府農繁期託児所を設置1928(昭和3)年4月27日89年前のことです。この日京都府社会局は、農繁期託児所を設置するよう、府内の各市町村長に通達しました。 これを受けて市町村では託児所の設置が進むのですが、愛国婦人会が趣旨に賛同して、補助金を交付して設置を奨励したため、設置は全国に広がり、大変な評判となりました。明治後期から細々と継続されてきた企業内託児所は、年間を通じて運営されましたが、京都府の託児所は農繁期に限られ、農閑期には閉鎖される季節的な託児施設でした。我が家の周辺は、多摩ニュータウンに隣接した郊外型住宅地ですが、次第に都市化が進みだした昭和40年代まで、この農繁期託児所が機能していた実態が、地域のミニコミ紙のバックナンバーで確認できます。幼児を抱える母親族には、大好評だった様子が窺えました。
2017.04.27
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『ゲルニカ』を巡ってピカソの代表作の一つ『ゲルニカ』は、1937年4月26日に行われた、ドイツ軍によるゲルニカ空爆を描いたものです。この空爆は、歴史上初めての「都市の破壊」と「住民の虐殺」をねらった絨毯爆撃でした。当時ピカソは、同年に開催予定のパリ万博に出展するスペイン館の壁画製作を、彼自身も支持する人民戦線政府に依頼され、パリに滞在中でした。その彼の下に、ゲルニカの悲報が伝えられると、ピカソは急遽用意していた画題を変更して、ゲルニカの悲報をテーマにした壁画の作成を思い立ち、僅か1ヵ月余の短期間で『ゲルニカ』を描きあげ、6月4日に完成させたのです。縦3,5メートル、横7,8メートルの巨大壁画を僅か1ヶ月で描きあげることが出来たのは、油絵を避け、工業用の絵の具ペンキを用いたからでした。パリ万博終了後、『ゲルニカ』は戦禍のスペインを避け、しばらくロンドンなどヨーロッパで展示された後、1939年に米国にわたり、ピカソ自身の希望でニューヨーク近代美術館に預けられました。スペインの内戦は、1938年7月末、フランコ派の反革命が勝利し、その後は長期に渡るフランコ独裁が続きます。やがて第二次世界大戦が終ると、フランコは図々しくも『ゲルニカ』のスペイン返還をピカソとニューヨーク近代美術館に申し入れたのです。しかし、ピカソはこの申し出をきっぱりと拒絶しました。「スペインに自由が戻るまで、この絵がスペインに帰る事はない。」これがピカソの返事でした。結局ピカソは、フランコ独裁の終了を見届けることなく、1973年に死去します。そしてフランコもまたその2年後の75年に死去し、スペインはようやく中道左派を中心とした共和政体が息づくようになります。ここにようやくスペイン共和政府とニューヨーク近代美術館との間で、『ゲルニカ』返還交渉が本格化します。交渉は長期化しましたが、1981年になってようやくまとまり、『ゲルニカ』はスペインに戻ったのです。製作から44年後に、はじめてピカソの故郷に帰ったのです。以後『ゲルニカ』は、マドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されて、今日に至っています。ところで、戦後ピカソは、『ゲルニカ』と同じ構図のタピスリーを3つ製作しています。その一つはニューヨークの国際連合本部の国連安全保障理事会の会議場前に展示されています。
2017.04.27
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クロニクル ゲルニカ廃墟と化す1937(昭和37)年4月26日80年前のことです。1937年といえば、日本では国民精神総動員法が制定され、7月には盧溝橋事件を起して日中戦争に突入、軍ファシズムによる全面戦争へとまっしぐらに走り出した時期に当たります。同じ頃ドイツとイタリアもまた、大戦争に向けて走り出していた時期でした。ちょうどこの年の1年と少し前、1936年2月にスペインで人民戦線政府が誕生しました。人民戦線とは、反ファシズムと民主主義の擁護を掲げた、中道派と左派の政策協定を伴う連携を指します。この政府に対して、危機感を持った軍幹部、教会(スペインの全耕地の3分の1を所有する大地主でした)、大地主らは、フランコ将軍をトップにクーデタを起して、政権の奪取を目指しました。こうして36年7月、スペインは内戦状態に入りました。フランコ反乱軍は、当初は圧倒的に不利だったのですが、同じくスペインの人民戦線内閣に危機感を募らせていたイタリアとドイツから、物心両面にわたって強力な支援を受けて、態勢の立て直しに成功します。こうして立ち直ったフランコ軍は、独・伊両軍の戦闘参加を得て、37年に入ると攻勢に出ます。その最初の標的がスペイン北部のバスク地方でした。バスク地方は独立志向が強く、伝統的にカトリック教会との仲が悪かった地方でしたから、人民戦線派の重要な拠点のひとつとなっていたのです。ゲルニカはバスク地方の省都ビルバオに近い、小さな美しい町でした。80年前のこの日、この美しい町に、突如としてドイツ空軍が襲い掛かったのです。それは小さな町を完全に破壊しようという意志を持った、悪魔の攻撃でした。東京大空襲などでお馴染みの絨毯爆撃、そして逃げ迷う住民に対する機銃掃射まで行う念入りの攻撃でした。こうしてゲルニカの町は廃墟と化しました。しかしゲルニカの町は、今でも私たちの心に残ります。そうです。スペイン人民戦線を心情的に支持した画家ピカソが描いた「ゲルニカ」を通して…
2017.04.26
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クロニクル 政府モスクワ五輪不参加を決定1980(昭和55)年4月25日あれから37年ですか。この日、日本政府は8月に開かれるモスクワ五輪への不参加を正式に決定しました。夕刻大平内閣の伊東正義官房長官は、JOC(日本オリンピック委員会)の柴田勝治委員長を国会内に呼び、この方針を伝えました。モスクワ五輪を巡っては、前年12月末のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって、雲行きが怪しくなり、米国のカーター大統領が1月に早々とボイコットを提唱し、米国オリンピック委員会もこの方針に同調し、4月12日に不参加を決定していました。このため、政府はJOCに不参加を働きかけていたのです。この動きを察知した選手・コーチ等は、21日に「五輪参加アピール」を発表して世論に働きかけました。また政府の通告を受けたJOCの会議では、自費参加を訴える委員もありましたが、体協への補助金をカットするなどの,政府の脅しに屈し、5月26日にJOCも正式に不参加を決定しました。政治の介入によって、スポーツの祭典が汚された一幕でした。当時全盛期にあったマラソンの瀬古選手をはじめ、4年に一度しかないオリンピックに照準を合わせ、ひたむきに練習を続けてきた選手たちが、気の毒でなりませんでした。自国の価値観を平然と他国に押し付けることを辞さず、自国の尺度で他国を断罪しようとする政治家の態度は、気持ちの良いものではありませんね。
2017.04.25
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クロニクル 第1回日本ダービー開催1932(昭和7)年4月24日85年前になりますね。この日、東京府下目黒町の競馬場(通称目黒競馬場)で、第1回日本ダービーが「東京優駿大競走」の名で開催されました。 ところで、この試みは、主催の東京競馬倶楽部が、馬体の改良と馬産の新興を目指して、世界的に人気の高かった本場イギリスのダービーにあやかろうと始めたものでした。距離2400メートル、出走馬は4歳の19頭でした。前夜から降り続く雨中の重馬場での出走でしたが、観衆は9300人を超える人気となりました。 さて、レースはというと、1番人気の大本命ワカタカが、圧倒的な強さを見せ、2着に入ったオオツカヤマに4馬身の差をつけるぶっちぎりの優勝でした。馬の名前も現在とは違いますね。当時の馬券は1枚20円。大卒初任給が教員で70円程度の時代ですから、現在の馬券に比べると、遥かに高額でした。まさに当時の競馬は、金持ちの道楽といった趣きだったのでしょう。当日の売上げ総計は99,080円、4954口となったそうです。大本命の優勝でしたから、配当率は低く、単勝の払い戻し金は30円だったそうです。 ところで、本場イギリスのダービーについて一言。こちらの起源は1780年の5月。主催者のダービー伯爵の名を冠してダービーと呼ばれました。伯爵はトーリー党(現在の保守党の前身)の大物の1人で、1850年代と60年代に3度首相を務めた実力政治家でした。 競馬が当時の上流階級の娯楽として誕生したことが良くわかりますね。本場のダービー、さすがに高齢のエリザベス女王夫妻は現れませんが、王族を中心に上流社会の社交場としての機能を、現在でも果たしています。日本ダービーに天皇皇后両陛下や皇太子殿下夫妻、あるいは首相や衆参両院議長、最高裁長官らが顔を見せることは考えられないことと比べても、両国の競馬には大きな違いがあることが分かりますね。
2017.04.24
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クロニクル 天皇・皇后両陛下沖縄へ1993(平成5)年4月23日即位から4年と4カ月ですか、24年前のことです。この日は沖縄の人々にとっても、1972年の本土復帰以来の歴史的な日になりました。そうです。この日平成天皇夫妻が、歴代天皇の中で、はじめて沖縄を訪問されたのです。天皇は挨拶の中で、「父、昭和天皇が訪問を希望しながら果たせずに大変残念がっていた」という事実を紹介し、さらに沖縄の人々が、唯一の本土決戦の地として多くの犠牲を強いられたことや、戦後の米軍統治下に艱難辛苦を味わったことなどに言及し、沖縄県民への感謝の気持ちを伝えると共に、訪問が遅れたことへの無念の気持ちを述べられました。その後、姫百合部隊の生き残りの方たちとの面会やゆかりの地の訪問、住民の一部が海に身を投げた地での黙祷など、平和の使者としての行動を貫ぬかれました。途中、両陛下に向かって火炎瓶が投げられたりもしましたが、予定の変更は一切なさらず、予定になかった場所にも立ち寄られて、犠牲者の冥福を祈られました。政治の動きが、軍事力の強化に向かい、平和の推進に背を向ける傾向が強まっている今日、日本国憲法の定める平和の象徴としての、天皇夫妻の行動を、私は高く評価しています。
2017.04.23
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クロニクル 幣原内閣総辞職1946(昭和21)年4月22日71年前のことです。敗戦から、8ヶ月少々、まさに敗戦後の混乱の最中にあった時代でした。幣原喜重郎内閣は、GHQの人権指令を実行できず、右往左往の末に総辞職した東久邇皇族内閣に代わって、前年45年の10月9日に成立した内閣でした。しかし、戦後のインフレに有効な手を打てず、4月10日に行われた、女性が参政権を獲得して始めての衆院選の結果が出揃ったことから、この日総辞職しました。しかし選挙の結果、第1党となった自由党も141議席に留まるなど、どの党も過半数に遠く及ばず、幣原内閣の後継内閣の選出は難航を極め、1ヶ月の政治空白を招くに至るのです。政治空白の長期化を畏れたGHQが、比較第1党の自由党の党首吉田茂に、組閣命令を出したのが5月16日、吉田が組閣を完了したのは22日と、幣原辞任から丁度1ヶ月後のことでした。その吉田内閣も、起死回生をはかった国会解散総選挙の実施という、博打に失敗して、衆議院の第1党の地位を社会党に奪われ、47年の5月20日に総辞職する破目に陥り、社会党中心の片山哲連立内閣が誕生するに至ります。 敗戦後の混乱期の出来事でした。
2017.04.22
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クロニクル ネッシー登場1934(昭和9)年4月21日スコットランド北部にあるネス湖、霧にむせぶようなネス湖に悠々と姿を現したネッシーの写真、皆さんも記憶されていると思います。何の教科書だったか、中学校時代の教科書にもネッシーの写真が載っていた記憶が残っています。そのネッシーの写真の最初の1枚が、イギリスの新聞『デイリー・メール』の紙面を飾り、世界に一大センセーショナルを巻き起こしたのが、83年前の今日のでした。この写真については、1994(平成6)年に、亡くなる直前の撮影者が、トリック写真だったことを告白しているのですが、最初の1枚以外にも、ネッシーを撮影したとする写真は、何枚か存在しており、現在もネッシーの存在を信じる、ネッシー擁護派と名づけられた人々が活動しています。日本では、石原慎太郎氏が熱心なネッシー擁護派で、私財でネッシー探検隊を組織し、何度かネス湖の調査を行っていますが、すべて失敗に終わっています。教科書に載っていた写真は、1955(昭和30)年に撮影された写真で、1934年に発表された写真ではないことを、付記しておきます。
2017.04.21
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クロニクル 最初の女子大学校創設1901(明治34)年4月20日116年前のこの日、東京目白台の地に、本邦最初の女子の高等教育機関として、日本女子大学校が創設されました。創立者の成瀬仁蔵は、「女子を人間として、婦人として、国民として教育する」ことの必要性を説き、夫たる男性の留守を守り、家の跡取を立派に教育する役割を担う女性たちは、高い教育を受ける必要があると説き、良妻賢母教育の場としての女子大学校の創設を目指しました。この目標の下に、成瀬は三井家を実家とする広岡浅子を介して三井財閥本家の協力を取りつけ、苦心の末に、この日の開校を迎えました。
2017.04.20
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クロニクル ボストンマラソン初優勝1951(昭和26)年4月19日昨今は、ボストンといえば、米大リーグのボストン・レッドソックスの町として有名になりましたが、古くは英国からの独立戦争のきっかけになるボストン茶事件の舞台として知られ、戦後はボストンマラソンの開催地として知られた町でした。今年のボストンマラソンでは、久々に日本選手が活躍し、早稲田出身の大迫選手が3位に入賞しました。このところ泣かず飛ばずだったマラソン界に一筋の光が射したといった感じですね。なにしろボストンマラソンでの入賞は、全盛期の瀬古選手以来で30年振りだそうです。30年前の瀬子選手は、堂々と優勝をかざったのですが、日本選手のボストンでの初優勝は、66年前の今日だったのです。この年、日本はボストンマラソンに初参加し、田中茂樹選手が見事、初参加・初優勝を飾ったのです。翌52年の大会でも山田敬三選手が優勝し、マラソンは日本のお家芸と見る空気が強まりました。こうして夏のヘルシンキ五輪のマラソン競技に期待が寄せられたのですが、ボストンのようには行かず、優勝はチェコのザトペック選手、日本代表の3選手は、20位台後半と平凡な成績に終りました。
2017.04.19
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クロニクル 石油税法公布1978(昭和53)年4月18日39年前のこの日、石油税法が公布されました。エネルギー対策の財源に充てるためでした。73年から74年にかけての第一次オイルショックの教訓として、原油を中心としたエネルギー政策の強化の必要が叫ばれました。 その結果、(1)石油備蓄基地の建設を含む、石油備蓄の推進、(2)代替エネルギーの開発の2点が必要と判断され、そのための財源として、この法が作られたのです。こうして、この法に基づき、原油・石油製品・ガス状炭化水素(LNGとLPG)に新たに課税されました。 この石油税は、2003(平成15)年に改正され、新たに石炭にも課税されることとなり、法律名も石油・石炭税に変更されました。
2017.04.18
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クロニクル 台湾銀行救済案否決1927(昭和2)年4月17日関東大震災後、経営の傾いた神戸の鈴木商店への、不良貸付を膨らませていた台湾銀行は、鈴木商店が遂に破たんのやむなきに到ると、一挙に巨額の不良債権を処理しなければならなくなって、自らもまた経営危機に陥りました。国策銀行の台湾銀行が個別の1企業に過ぎない、鈴木商店への多額の融資が仇となって、経営危機に陥ったのです。これは明かに危機管理の失敗でした。しかし、台湾銀行は日本の植民地経営の先兵でした。国策銀行でもある台湾銀行を破綻処理するとなると、日本の金融危機は一挙に深刻化します。ここに政府は、台湾銀行の救済を決意し、「台湾銀行救済緊急勅令」を発する用意を整え、枢密院の会議に提出しました。ところが、枢密院は台湾銀行の破綻は、経営のリスク管理を忘れた自己責任であり、その救済は筋が通らないと、反対一色の討論を経て、この日「台湾銀行救済緊急勅令法案」は、枢密院で否決されてしまったのです。90年前の今日のことです。枢密院は大日本帝国憲法に規定された議会ではありません。衆議院でも貴族院でもなく、憲法に規定のない超法規的存在でした。枢密院は元老たちが、私的に天皇の相談に預かる場として組織された特別な存在として、大きな力を持っていたのです。この結果、金融恐慌はすさまじい勢いで燃え盛りました。あわてた政府は、台湾銀行の資本金を3分の1に減資すること、積立金の全額を取り崩すこと、内地の企業への貸し出しは今後はしないことなど、台湾銀行により厳しい条件をつけた再建プランをまとめなおし、7月下旬にようやく枢密院の了承を得たのです。
2017.04.17
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クロニクル 『となりのトトロ』封切り1988(昭和63)年4月16日もう4半世紀も過ぎ、来年には30年になるのですね。確か娘が3年保育の幼稚園に通い出した頃でしたから、考えてみれば納得です。そうなんです。29年前の今日、宮崎駿監督の『となりのトトロ』が劇場公開されました。真っ黒クロスケ、猫バス、そしてトトロにチビトトロ。子供たちが夢中になる要素がふんだんに盛り込まれていましたね。公開からしばらくしてTV放映。録画したビデオを、息子や娘、その友達を含めて、いったい何度見たことか。今でも幼稚園や小学校低学年の子ども達には大人気です。
2017.04.16
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クロニクル 武蔵野鉄道開業1915(大正4)年4月15日武蔵野鉄道って御存知でしょうか。この鉄道、実は現在の西武鉄道池袋線の前身なんです。というわけで、102年前の今日、現在の西武池袋線の前身、武蔵野鉄道の池袋~飯能間が営業を始めました。池袋育ちの私には、馴染みの路線です。今では横浜まで繋がっていますね。
2017.04.15
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クロニクル アイスランドで火山噴火2010(平成22)年4月14日もう7年経ったのですね。7年前の今日、 アイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル火山が噴火しました。この日始まった噴火による灰雲は、欧州各地に拡がり、航空機がそれを吸い込むとエンジントラブルを起こして、飛行困難になることから、翌日の15日から20日にかけてヨーロッパの空港の大部分が閉鎖に追い込まれました。その結果、ヨーロッパ地域内での航空便だけでなく、地域外からヨーロッパへ、さらにはヨーロッパから地域外への、多くの航空便がたいへんな規模でキャンセルされ、第二次世界大戦以後の航空運行の混乱としては、最もひどい状況を生み出しました。航空運行の混乱は、5月まで続きました。そしてこの大噴火は、同年10月になって、ようやく公式に終了が宣言されました。ユーラシア大陸の西の果ての島国で起きた大噴火と、同じ大陸の東の果ての島国で起きた東日本大震災とは、僅かに11ヶ月足らずの期間で起きていたのですね。
2017.04.14
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クロニクル 日ソ中立条約締結1941(昭和16)年4月13日私の生まれる前年ですから、76年前のことです。この日、モスクワで日本全権松岡洋右外相がソ連側との合意に達し、日ソ中立条約に調印するに至りました。1939年の8月、反共の立場をとるナチスドイツと、社会主義国ソ連とが、独ソ不可侵条約を結んだ時、「国際情勢は複雑怪奇」という笑えないセリフを残して平沼麒一内閣が総辞職したのですが、日本もまた互いの利益のために、社会主義のソ連に接近、日ソ中立条約を結びました。この当時日本は、対中国侵略戦争の長期化に伴う物資の不足に悩み、戦争継続のためにはと、対米開戦をも覚悟しながら、資源確保のための南進作戦(インドシナやフィリピン、インドネシア等への侵略の拡大)へと、歩を進め初めていたところでした。対米戦争を覚悟した日本にとって、腹背に敵を受ける事になるソ連との開戦は、何としても避けたいところです。一方のソ連も、独ソ不可侵条約を結んでいるとはいえ、ドイツ軍のバルカン半島への侵入を機に関係は悪化、ソ連もまた対独戦への備えとして、後方の安全確保のために、日本との中立条約の締結は渡りに船だったのです。こうして両国の思惑は一致し、ソ連は対独戦のため、日本は対米戦のために、日ソ中立条約が結ばれました。実際、ドイツは6月22日に、ソ連への侵入に踏み切り、対ソ戦を開始、日本もまた8ヶ月後の12月8日にハワイ真珠湾の米軍基地を攻撃して、対米開戦に踏み切りました。この条約は、両国は互いに、1方の国が第3国と戦闘状態に入ったときに、他方は中立を守ることなど、4ケ条からなっていました。
2017.04.13
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クロニクル 振り替え休日の誕生1973(昭和48)年4月12日44年も前だったのですね。この日、祝日法改正案が可決成立し、祝日が日曜日と重なった場合、次の月曜日を休日とすることが、決まりました。この年は丁度秋に第一次オイルショックが発生した年で、日本は高度経済成長の最終局面にありました。世界から日本人は働きすぎだと言った声が、数多く寄せられていた時期であり、田中内閣は休日を増やすことで、働きすぎ批判をかわすことを、狙っていたのです。それにしてもこの決まり、中・高・大の被害が甚大でした。というより、未だに被害が続いています。月曜に授業が組み込まれると、そのクラスだけ授業日数が、グンと少なくなってしまうからです。授業自数の多い科目ならまだしも、週に1時間しかない科目の場合、取り返しができません。そこで、学期末に場行編成を一新する特別時間割を組むという、大変面倒な作業を行わざるを得なくなるのです。大学の場合ですと、月曜祝日は無視して(無視しないのは、成人の日だけです)、平日よろしく授業を行なう大学がほとんどです。
2017.04.12
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クロニクル 老兵は死なず、ただ去り行くのみ...1951(昭和26)年4月11日66年前のことです。この日、マッカーサー元帥が国連軍最高司令官兼GHQ総司令官の職を解任されました。1950年に始まった朝鮮戦争に、アメリカ合衆国は参戦を決意、ソ連がベルリン封鎖(1948年)に対する国連の対応に抗議して、国連ボイコット戦術をとっていたスキをついて、安全保障理事会において、北朝鮮を侵略者と規定し、韓国救援のために国連軍を派遣する決議を採択することに成功していました。しかし、米本土から兵士や武器弾薬を輸送するのでは、時間がかかり過ぎます。そこで、米国は日本に駐留するGHQ配下の米軍を朝鮮半島に送り込み、GHQ総司令官のマッカーサーを、自国が中心をなす国連軍の最高司令官に据えたのです。国連軍という衣をまとっても、実質は米国の丸抱えでしたから、マッカーサーが国連軍最高司令官を兼務したのです。 米軍の参戦で形勢は逆転、北朝鮮軍はたまらずに敗走を重ねましたが、勢いに乗った韓国・米国の連合軍は勢い余って、中朝国境の鴨緑江を越えてしまい、結果として中国義勇軍の参戦を招いてしまいます。ここで再度形勢は逆転、北朝鮮と中国の連合軍が盛り返し、結局戦闘は38度線に沿う形で膠着状態に入りました。この状態にいらだったマッカーサーは、中国領への越境攻撃を再三ホワイトハウスへ進言、ソ連の参戦という最悪の可能性を何としても避けたいトルーマン大統領との対立は決定的になったのです。そしてこの日、大統領トルーマンはマッカーサーの解任を発表、後任にリッジウェイ中将を任命したのです。こうしてマッカーサーは兼務していたGHQ総司令官の地位をも失い、1945年の着任から続いた日本滞在からも離れることになったのです。日本の国会は衆参両院共に、マッカーサーに対し、感謝決議を贈って、彼の対日統治の功績を称えました。冒頭に記した「老兵は死なず、ただ去り行くのみ...」の語は、やや気取り過ぎの感はありますが、マッカーサーの日本国民に対するお別れ演説の1節です。マッカーサー解任を知った日本国民の多くは、アメリカにはマッカーサー司令官よりも偉い人がいるのだと初めて知り、大変驚いたと当時の新聞は書いています。
2017.04.11
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クロニクル 女性参加の総選挙実施1946(昭和21)年4月10日71年前のこの日は、日本の女性史上、忘れられない日です。この日は、初めて女性に選挙権、被選挙権が認められた、男女完全平等の国会議員選挙の投票日だったのです。第22回衆議院議員選挙がこの日投票日を迎えました。初めて選挙に参加し、投票する女性たちには、晴れ着姿も目立ちました。その姿には、ようやく手に入れた投票権に対する女性たちの熱き思いが込められていたように、私は受けとめています。この選挙は、その後の衆議院の中選挙区制や、現在の小選挙区制とは異なり、全国を53の選挙区に分ける選挙区制で行われたのですが、投票形式は、4~10人区(当選者が4人~10人)では2名、11人以上区では3名の制限連記制(2名以上、3名以上を連記すると全て無効となる)がとられました。立候補者を出した政党は258にのぼり、小党乱立の選挙でしたが、全立候補者は2770人に留まり、10名以上の候補者を擁立した政党は11しかありませんでした。選挙の結果、日本自由党が140議席、日本進歩党が94議席、日本社会党が92議席と3党で過半を占めたのですが、戦前弾圧され、壊滅状態に追い込まれていた日本共産党も5議席を獲得しました。日本の共産党が議席を得たのは、この選挙が初めてでした。被選挙権をも獲得した女性の中から、79人の立候補者があり、その多くは11人以上区で立候補し、3人連記の3番目に私の名をと訴える作戦で票を伸ばし、39人が当選するという成果を上げました。
2017.04.10
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クロニクル 吉原炎上1911(明治44)年4月9日106年前のことです。この日、早暁吉原遊郭から出火、折りからの強風に煽られ、全焼家屋6550戸を数える大火災となりました。吉原遊郭は跡形もなく燃え尽きていました。後日、酔客の寝タバコが原因と判明、この火災がきっかけとなって、廃娼運動が活発化しますが、いまだ1部の動きに留まり、女性の人権の観点から売春防止法が制定、公布されるのは、女性の参政権が全面的に認められ、女性の声が同じ女性の議員を通じて、直接議会に届くようになった後の1956(昭和31)年5月24日(58年4月1日全面施行)のことでした。にもかかわらず、風俗産業や「援助交際」が花盛りの現実が今に残るのですから、これは人間の業とでも言うべきなのでしょうね。
2017.04.09
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クロニクル 細川首相辞意表明1994(平成6)年4月8日23年前のこの日、前年8月9日に成立した、非自民連立政権の細川護煕首相が、辞意を表明しました。日本新党の代表として、佐川急便グループからの1億円の借入金問題に関連して、予算委員会を空転させた責任を取るというのが、その理由でした。確かにこの問題についての首相の答弁は、二転三転する見苦しいものでしたが、年末に唐突に発表した消費税を福祉目的税として3%から7%に引き上げるというプランが、マスコミや世論に厳しく批判されたことで、内閣支持率が急落し、寄り合い所帯の内閣として、求心力を無くしていましたので、真相はその辺にあったように思われます。
2017.04.08
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クロニクル 前川リポートまとまる1986(昭和81)年4月7日31年前のことです。この日、中曽根首相の諮問機関であった「経済構造調整研究会」(座長前川春雄元日銀総裁)は、中曽根首相に対し、「内需主導の経済構造転換」を求めた報告書(いわゆる前川リポート)を提出しました。これ即ち、70年代初頭の繊維協定に始まり、牛肉・オレンジと鉄鋼からカラーTV、そして自動車へと、連綿として続けられた日米貿易摩擦の解消へ向けての、日本側の取り組みと覚悟を示したものでした。内需振興、以来今日まで何かにつけて叫ばれていますが、日本のGDPに閉める輸出の割合は、実を言うと僅か16%に過ぎず、84%は内需です。日本は堂々たる内需の国なのですね。だからこそ、欧州の有名ブランドは、競って上得意の日本進出を果たし、日本の一等地に軒を連ねるのです。昨今は、対日貿易よりも対中貿易の不均衡が大きく、対日貿易が問題化する事はなかったのですが、米国並びに世界経済を見る眼が、今なお20世紀に留まり、古き良き時代への回帰を目指す時代遅れの大統領の登場で、なんだか騒がしくなってきました。彼がその方針をあくまでも貫くとすると、米国経済の歯車が狂い、世界経済へのマイナスの影響は半端じゃないことになるでしょうから、ちょっと心配しています。
2017.04.07
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クロニクル 遠くかすむは彦根城…1941(昭和16)年4月6日76年前になりますね。この日、金澤の第四高等学校漕艇部員11名が、春休みで合宿中の琵琶湖での練習中に、春の琵琶湖に特有の突風に煽られてボートが転覆、全員が水死するという痛ましい事故が起きました。この水難事故を惜しんで作られたのが、奥野椰子夫作詞、菊池博作曲の「琵琶湖哀歌」です。> 遠くかすむは彦根城 波に暮れ行く竹生島 三井の晩鐘音絶えて なにすすり泣く浜千鳥 <東海林太郎と小笠原美都子のデュエットの曲は、東海林の代表曲の一つとされるヒットとなりました。私の生まれる1年半ほど、前のことでした。
2017.04.06
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クロニクル イタイイタイ病の原因特定1967(昭和42)年4月5日ちょうど50年前のことです。この日、岡山大学の小林純教授は、富山県神通川下流地域で蔓延している原因不明の病い、「イタイイタイ病」の原因物質はカドミウムであり、カドミウムの多量の摂取が発病の原因である事をつきとめ、神通川上流にある三井金属神岡精錬所の廃水こそが、多数の患者を出した元凶であると名指しで発表しました。やがて群馬県にある東邦亜鉛の安中精錬所の廃水中のカドミウムによって、この地でも同じイタイイタイ病が蔓延しました。人の安全より、先ずは企業の利益。そうした雰囲気が安全を疎かにする風潮を育んだと言えましょうか。昨今の原発を巡る政・官・財の議論も、全く同じですね。今の中国やインドの状況を、あげつらう以前に、国内の状況を、もっと厳しくチェックすることが、大事なような気がしてなりません。
2017.04.05
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クロニクル 普通の女の子に戻りたい1978(昭和53)4月4日39年前のことです。この日、東京後楽園球場(東京ドームはまだなかった頃です)の特設ステージを埋め尽した、5万5千人のファンの前で、キャンディーズの解散コンサートが開かれました。入場者の9割が男子中学・高校生という「年下の男の子」たちでした。ヒット曲のメドレーを中心とした4時間に及ぶコンサートの終盤には、泣きじゃくる男の子たちで会場は異常な熱気に包まれたと、翌日の報道にありました。キャンディーズが4年半の活動を締めくくって、普通の女の子に戻った後、76年にデビューしたピンクレディ旋風が若者を捉えるなど、しばらくは女性アイドル歌手の時代が続きました。いまや、遠い昔になりましたが… 今ではAKBに始まって色々な48が並立して、没個性的なアイドルの時代、時代の変化は目まぐるしいですね。ところで「普通の女の子」に戻ったキャンディーズの3人、スーちゃんは2011年に55歳で死去、ランちゃんは水谷豊夫人となり、ナレーターなどの芸能活動を再開、ミキちゃんは主婦。公開の場で動静が報じられたのは、スーちゃんの葬儀が最後でした。
2017.04.04
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クロニクル 新日本橋完成1911(大正10)年4月3日今年で106年ですね。この日、妻木頼黄(つまき らいおう)氏の設計による、新しい日本橋が完成、開通式が行われました。現在は首都高の下にひっそりと息づいていますが、良く見ると、結構お洒落で、しかも丈夫な良い橋です。首都高の地下化、早く実現すると良いなと、私も地下化を望んでいます。あの風格のある橋、そしてお江戸日本橋は、まさに日本の歴史遺産。銀座周辺は地下化しているのに、何故歴史遺産に配慮しなかったのか。当時の政治家も財界も、まさにエコノミック・アニマルと化していたのでしょうね。
2017.04.03
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クロニクル フォークランド紛争勃発1982(昭和57)年4月2日35年前のことです。フォークランド諸島は、イギリスとアルゼンチンが、かねてから領有をめぐって争っていたパタゴニア沖400kmの海上に浮かぶ群島です。 この地は、西欧諸国による世界の植民地化が進行する過程にあった1833年に、当時最大の植民地大国だったイギリスが領有を宣言して植民地とし、以後ずっと領有し続けておりました。 一方のアルゼンチンは、フォークランド諸島は1816年の独立時に、当時の宗主国スペインから継承した固有のアルゼンチン領だと主張して譲らず、両国の主張は真っ向から対立していました。 しかし、この時まで両国の軍事衝突はなかったのです。それが一転。35年前のこの日、武装した2000人のアルゼンチン軍が同諸島を攻撃、79人のイギリス軍警備隊を降伏させ、同島を武力で占拠したのです。 イギリスは直ちにアルゼンチンに撤退を要求、拒否されると武力による奪還を決定、アルゼンチンとの国交断絶を宣言します。アメリカとペルーによる調停工作も失敗し、本格的に戦闘が開始されたのは、5月20日のことでした。 イギリス軍は、空母を含む40艘の大艦隊で周辺海域を封鎖し、制空権をも確保した上で、同諸島のアルゼンチン軍を総攻撃。6月14日に、アルゼンチンの同島守備軍が降伏して戦闘は終了しました。アルゼンチン側死者712人、イギリス側死者225人を数えました。 装備の点で劣り、海・空軍力に決定的に劣るアルゼンチンが何故無謀な戦いに突入したのかが、問題になります。しかし、この点は当時アルゼンチンが軍事独裁政権下で、極度の経済不振に悩まされていた(第2次オイルショック不況下で、債務危機に陥っていました)ため、内政の失敗を固塗するために、冒険主義的行動に走ったものと考えられています。結果は失敗に終り、アルゼンチンの民政移管を早める結果に繋がりました。対するイギリスでは、サッチャー首相の評価が高まり、彼女が[鉄の女」と形容されるようになるのは、この戦争がきっかけでした。しかし、政治家のメンツのために命を落とした両軍合わせて937人の死者は、浮かばれませんね。
2017.04.02
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クロニクル 男女雇用機会均等法施行1986(昭和61)年4月1日もう31年も経ったのですね。31年前のこの日、男女雇用機会均等法が施行されました。職場の花、お茶汲みと揶揄された職場での女性の立場も、この均等法の施行で強化され、総合職の女性も次第に増えますが、一方では女性の残業制限の廃止など、本来は母体保護のために導入された規定の廃止なども含んでいたため、当初はプラス面を強調するよりも、マイナス面を指摘する論調が目立ちました。しかしながら、少子化による労働力不足から、次第に女性労働を戦力化する構想に、企業側の関心も高まり、今では1度退職した女性の再就職に門戸を開く企業も増え、労働形態の多様化の承認、管理職への進出の増加など、およそ10年を1単位とする緩慢なペースながら、女性の社会進出は広く、深く進行するようになってきました。それでもなお、今日においても、女性が働き続けながら、子を産み、育てることには多くのハンディが残っています。こうした点がなお、少子化問題が少しも解消の方向に向かわない、原因となっているように思えてなりません。 頭の固い男どもを何とかすること、官僚や政治家の世界を根底から揺さぶることが、今もなお必要なんですね。情けないことですが…
2017.04.01
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