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クロニクル 公務員のスト権、団体交渉権を禁止1948(昭和23)年7月31日69年前のこの日、政府は政令第201号を公布、直ちに施行し、国家公務員及び地方公務員の争議権、団体交渉権を禁止しました。この月23日に、マッカーサーは芦田均首相に書簡を送り届け、(1)公務員の団体交渉権・争議権の否認 (2)逓信関係官庁の郵政と電信電話への分割 (3)鉄道及び専売公社の公共企業体化 (4)国家公務員法の全面的な改正 などを求めました。政府がこのマッカーサー書簡に対応して、実施したのが政令第201号でした。それは、この時期、日毎に勢いを増しつつあった、労働運動を抑え込むことを狙ってのことでした。
2017.07.31
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クロニクル 日本プロレスリング協会発足1953(昭和28)年7月30日 我々世代にとって、少年の日のヒーローだった力道山をご存知でしょうか。戦争に負けた日本人にとって、四角のリンクの中で、でかくて強そうな白人レスラーと死闘を演じながら、空手チョップで危機を脱してなぎ倒していく力道山は、実に胸のすく気分を味合わせてくれるヒーローでした。テレビ放送は始まっていましたが、まだ家庭への普及は程遠い時代。電気屋さんの店頭や、床屋さんの覗き見など、テレビのあるところは、どこも黒山の人だかりでした。そういえば、映画『always 三丁目の夕日』の子どもたちも、力道山と空手チョップが大好きでしたね。そんな力道山が、日本プロレスリング協会を結成し、記者発表したのが、64年前の今日でした。今思うと、力道山はレスラーであると同時に、プロモーターの資質にも優れていたことが良く分かります。
2017.07.30
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クロニクル 桂=タフト協定調印1905(明治38)年7月29日桂=タフト協定というのは、日本の桂太郎首相と、来日中の米国陸軍長官タフトの間で、交わされた極東地域の安定を確保するための秘密協定です。時は今から112年前、日露戦争における最後の大きな戦いとなった日本海海戦が終了し、日本が樺太の占領を実行した直後、日露の講和交渉に関する米国大統領セオドア・ローズヴェルトの斡旋工作が、佳境に入りつつあった時でした。この日結ばれた協定は(1)日本は米国のフィリピン支配を認め、かつ歓迎する(2)米国は日本が韓国に対し、優越的地位にあり、かつその権限を持つことを承認する。(3)極東の平和と安全の維持は、日・米・英三国の協力によって実現するの3点を含み、日露戦争後の極東問題の処理についての密約でした。
2017.07.29
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クロニクル 初の民営鉄道開業1883(明治16)年7月28日134年前のことになります。この日、日本で最初の民営鉄道会社である「日本鉄道会社」は、最初の営業路線として、上野~熊谷間を完成、仮営業を開始しました。同社は上野~青森、上野~高崎の路線建設を計画、政府の援助を得て、建設を続けて来ました。この日の午後1時からの試運転では、上野~熊谷の往復に、およそ5時間半を要したと記録されています。同社には、第15国立銀行が、積極的な融資を行ない、同社の株主には、華族たちが名を連ねるなど、民間と言っても、政府や支配層の積極的な関与がありました。こうなると、銀行も安心して、融資に応じてくれます。こうして同社は、この後も順調に路線の建設を続け、青森までの延伸は1899(明治32)年に完成。民間の鉄道熱を多いに盛り上げました。
2017.07.28
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クロニクル 栄光の3日間始まる1830(天保元)年7月27日187年前ですね。この日フランスで七月革命が始まりました。僅か3日間で、ブルボン復古王政を吹き飛ばしましたので、栄光の3日間と呼ばれました。フランスでは、ナポレオンの支配が崩れた後、フランス革命で刑死したルイ16世の弟が諸外国の力で王位に就いたのですが、所詮国民の支持はなく、外国の占領に比べればまだ我慢できるとされていましたが、ルイ16世の末弟シャルル10世は、そうしたフランス社会の動向への理解力を欠き、王権の強化を目指したため、この日遂に国民の怒りが爆発し、革命を誘発してしまったのです。始まってしまえば、王権への支持はごく一部に留まり、僅か2日半の抵抗で、ブルボン復古王政は、あっけなく瓦解してしまいました。なお、七月革命は、ドラクロワの名作「民衆を導く自由の女神」を生み、さらに、ベルリオーズを世に出したことでも知られます。
2017.07.27
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クロニクル 「天空の城ラピュタ」公開1986(昭和61)年7月26日31年も経っているのですね。この日、スタジオ・ジプリ製作、宮崎駿監督作品『天空の城ラピュタ』が公開されました。映画は不入りで、映画興行としては、当たらなかったのですが、その後のビデオ販売は好調でした。飛行石に空賊のおばあさん、印象深く大人も楽しめたのですが、私も息子とテレビで見たのが最初でした。
2017.07.26
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クロニクル 和歌山毒入りカレー事件1998(平成10)年7月25日あれから19年ですか。この日は町内会のボランティアをしている者には、忘れられない事件が起きた日です。和歌山県園部で起きた、夏祭りの振るまいに用意されたカレー鍋に青酸化合物が混入され、毒入りカレーを食べた4人の方が亡くなった、いいえ殺されたあの事件です。会場近くの民家のガレージを借りてご近所総出でカレーを作り、会場へ運ぶまで交替で番をする、一種の炊出し訓練にもなりそうな、共同体慣行の名残でもあるような行事に、水を指す悪質な行為でした。見張り番の人達は、悪意を持って毒物を混入しようとする人を見張るのではなく、匂いに惹かれてちょっとお先にお毒見をと、考えるいたずら好きな子ども達対策だったに違いありません。まさかそこに毒を入れるなんて…この事件の影響で、この年の秋祭りでは、飲食物の提供を見あわせる町会も多く、各地に多大な迷惑を及ぼしました。犯人は年末に逮捕されましたが、この事件は子どもどころか、親世代の人達の幼児化が進み、精神発達が未熟なままで、身体だけが大人になってしまった、未熟児的大人が多くなっていることを、改めて印象付けました。この事件は、そうした善悪、公的空間と私的空間の区別、行為の社会的影響などについての判断が出来ない「人間」の起こした象徴的な事件でした。この種の事件は、日本社会が失ってしまった社会の規範力の再構築なくして、解決しえない問題であるだけに、解決の難しい問題でもあります。
2017.07.25
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クロニクル 児島明子さんミス・ユニバースに1959(昭和34)年7月24日あれから58年ですか。アメリカ,カリフォルニア州のロング・ビーチで開かれた第8回ミス・ユニバース・コンテストで、日本代表の児島明子さんが、見事ミス・ユニバースに選ばれました。欧米人優位のミス・ユニバース・コンテストで、1953年の第2回大会で3位に入賞した、伊東絹子さんの成績を上回るグランプリの獲得に、日本中が沸きました。なにしろ、日本としてだけでなく、アジアとして初めてのグランプリだったのですから。児島さんの出身地の熊本では、10月の彼女の訪問に合わせ、最寄町での街宣パレードまで行なわれる騒ぎとなりました。それから48年後、2007年大会において、久し振りに日本人の森理世さんが、児島さん以来のグランプリに輝いたのですが、皆さん森さんて覚えていらっしゃいますか? 児島さんの頃とは、ミスコンに対する関心が大様変わりしているようですね。
2017.07.24
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クロニクル 自衛隊潜水艦、釣り舟と衝突1988(昭和63)年7月23日29年前になります。この日午後3時半過ぎ、三浦半島の横須賀港の沖合いで、海上自衛隊の潜水艦「なだしお」(2200トン)と、大型の釣り漁船「第1富士丸」(154トン)が衝突しました。第1富士丸は僅か1分足らずで沈没し、通りかかったタンカーとなだしおが乗員・乗客48名の救助にあたり、19名を救助しましたが、うち1名は同夜死亡、29名は行方不明となりました。4日後の27日、第1富士丸は海底から引き上げられ、行方不明者全員の遺体が収容されました。夏休みに入った直後の事故でしたから、親子連れの乗客も多く、船室に留まっていた乗客のほとんどが、急の沈没に脱出の間もなく、船内に閉じ込められて水死した様子が、次々に明らかになりました。死者30名という大事故でした。事故の原因は双方の衝突回避行動の遅れによる、初歩的ミスとされましたが、救助にあたったタンカーの証言から、衝突直後になだしおが機敏に救助にあたらなかった事実や、回避行動の遅れを隠蔽するために、航海日誌を改竄していた事実が明らかにされ、自衛隊に対する風当たりは強くなりました。そのため、1ヶ月後の8月24日、当時の瓦防衛庁長官が事故の責任をとって、辞職することになりました。また、東京湾の船舶航行が超過密状態で、危険がいっぱいの状態であることも明かになりました。何とも後味の悪い事故でした。
2017.07.23
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クロニクル 魚津で米騒動始まる1918(大正7)年7月22日第一次世界大戦末期の1918年の話ですから、来年で丁度100年になります。欧州中心の戦争ですから、不景気だったわけではありません。第一次世界大戦は、本質的にヨーロッパの戦争でした。そのため、漁夫の利を得たアメリカと日本の経済は大いに潤ったのです。しかし、工業の好調は、都市の工場や鉱山に向かっての農業労働力の流出を招き、コメの生産は不足気味になっていたのです。そこへ、ロシア革命への干渉戦争が組織され、日本軍も急遽シベリアへ大軍を送ることになったのです。出兵計画が明らかになると、米価の値上がりを見込んだコメ商人の買占めが始まり。米価の高騰を招いたのです。コメ不足と米価の高騰に不安を感じた人々は、きっかけさえあれば、実力行動に立ち上がる、そんな雰囲気が強まっていたのです。そこへこの日、1918年の7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うために「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦らが集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求めました。この時は巡回中の警官によって解散させられたのですが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう要求したのです。これが、名高い米騒動の発端でした。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となったのです。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させることに成功したのです。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道されました。米騒動は、こうして始まったのです。この事件が都市の庶民を刺激し、以後の東京、大阪などの大都市圏での住民の実力行動に繋がって行きました。
2017.07.22
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クロニクル 明石市花火大会歩道橋事故発生2001(平成13)年7月21日16年前のこの日、明石市の海岸での花火大会で起きた大惨事です。ご記憶の方も多いと存じます。前日の7月20日より、明石市の大蔵海岸で第32回明石市民夏まつり花火大会が開かれていました。この催しの2日目となる21日の午後8時半頃、西日本旅客鉄道(JR西日本)朝霧駅南側の歩道橋において、駅方面からの見物客と会場方面から戻る見物客とが合流する南端で、1平米あたり13人から15人という異常な混雑が生じたために、「群衆雪崩」が起きたのです。結果は、死者11名(内訳:1歳未満9名・70歳以上2名)と重軽傷者247名を出す大惨事となりました。事故後、警察の対応や警備計画の問題点が次々と浮き彫りされました。それによると、前年2000年12月31日に行われた世紀越えカウントダウン花火大会でも、同じような滞留が起きていたというのです。この時も軽傷者が出ていたのですが、この問題点が全く生かされていなかったのです。また、明石市、兵庫県警(明石警察署)、警備会社のニシカン(現エヌ・ケイ・セキュリティ)との間で事前の警備計画の協議が不十分だったことも明らかにされました。特に警備計画は、問題の多かった世紀越えイベントの計画を、丸写しにしたお粗末なものだったにも関わらず、県警からは何の改善命令も出されていなかったのです。何ともおめでたい話で、その結果としての第惨事だったのですから、やりきれないですね。事件後、明石市民夏まつり花火大会は中止されました。
2017.07.21
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クロニクル 沖縄海洋博開幕1975(昭和50)年7月20日1972年の沖縄の本土復帰を記念する記念事業として計画され、3年の準備の上に、沖縄国際海洋博覧会(略称、沖縄海洋博)が、42年前のこの日開幕しました。 会場は、沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)でした。「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加しました。期間中は県内の至る所に「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていたのが、印象的だったと聞いています。しかし、入場者数450万人が目標とされたのに対し、最終的な入場者数は約349万人にとどまりました。このため、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ人たちは、当てが外れて落胆することになりました。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、赤土の海への流出を招き、サンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染も引き起こすなど、負の面も目立ちました。
2017.07.21
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クロニクル 禁門の変起こる1864(文久4)年7月19日前年8月18日の政変で、京都を追われた長州藩の尊皇攘夷派の過激分子は、153年前のこの日1千数百人の部隊を率いて京都を攻撃、御所の警備を奪還しようと試みました。伏見方面での行動開始は前日18日でしたが、京都での戦端が開かれたのは、19日でした。蛤御門での戦いは19日午前2時頃から行なわれ、警備の会津藩兵と激戦を展開しましたが、薩摩や桑名の応援が駆けつけたことで、敗退しました。これは、どう考えても勝算のない無謀な戦いでした。その上、自ら放った砲弾により、御所周辺の民家から市街全体に火災が広がり、2万8千戸が焼失、多数の流浪の民を生じたのです。孝明天皇の怒りは凄まじく、2日後の21日には、早くも長州藩に対する征討令が出されます。第1次征長が開始されるのは、それから間もなくのことでした。揺れ動く幕末政治史の一幕でした。
2017.07.19
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クロニクル 光化学スモッグ発生1970(昭和45)年7月18日47年前のことです。この日、午後1時頃、東京杉並区堀の内の立正高校で、40数人の生徒が突然吐き気などを訴えて倒れ、近くの病院に運ばれました。都公害研究所は、新種の公害の可能性が考えられるとして、調査に乗り出し、光化学スモッグの発するオキシダントと、高湿度の中で発生した硫酸の微粒子による、世界初の複合汚染が原因と発表しました。発生地附近は、(1)急に気温が上がった(2)天気が良く紫外線が強かった(3)風が弱く空気が澱みやすかったと、被害の出やすい条件が揃っていたことも指摘されました。この発表を受け、東京都を中心に全国の大都市では、観測態勢を強化し、オキシダント濃度が一定量を越えた場合に、住民に対して屋外に出ないように呼びかけるなどの対策を進め、学校に対しては屋外での体育や部活動などを、一時的に休止するように求めるなどの対策を講じました。自動車の排ガス規制が強化されるようになるのも、この時以降のことです。今ではお馴染みの光化学スモッグ注意報や光化学スモッグ警報が発表されるようになったのは、この時からです。47年前のことだったのですね。
2017.07.18
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クロニクル 「もはや戦後ではない」1956(昭和31)年7月17日敗戦から11年、61年前のことです。この日発表された経済企画庁の『経済白書』は、副題を「日本経済の成長と近代化」として、日本経済の回復に対する自信をそれとなく示していたのですが、本文では、前年昭和30年中盤からの景気回復と物価の安定、そして金融緩和を綜合して「数量景気」と名づけ、日本経済は昭和20年代後半の特需依存型の景気回復を脱し、正常で安定的な成長軌道を歩み出しているとの判断を示し、「もはや戦後ではない。......回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって、支えられる」として、今後の経済成長への自信を背景に、バラ色の展望を示しました。「もはや戦後ではない」は、年度後半の大流行語となり、流行語大賞がこの時期に存在していたとしたら、間違いなくダントツで授賞しただろうと思われる勢いで、国内各層に浸透していきました。朝鮮戦争の休戦後、戦争特需を失った日本経済は、深刻な不景気に見舞われ、一時的に元気をなくしていたのですが、前年(昭和30年)秋から、アメリカの景気回復による輸出の好調に支えられて、景気は回復傾向を示し始め、30年の貿易収支は5億ドルの黒字となり、それに加えて空前の米の大豊作が重なり、好景気にも関わらず、物価は非常に安定した状態にあったのです。この見通しの発表と、バラ色の空気は国民の気分を明るくし、翌32年にかけての、「神武景気」と呼ばれた好景気に繋がりました。神武景気後の後退期を経て、池田内閣の所得倍増政策を起点とする、高度経済成長期に連なって行きます。あれから61年、国会議員の大部分が戦争を知らない世代となりました。平成の世の現在は、確かに「もはや戦後ではない」のですが、戦争を知らない世代の政権運営を見ていると、戦争の悲惨をしらない危うさが随所に感じられて、この連中に外交を任せておいて大丈夫なのかと、危なっかしさを感じてしまうこの頃です。心配ですね。
2017.07.17
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クロニクル 夫婦同姓か別姓か1898(明治31)年7月16日「夫婦別姓か同姓か」などと、妙なタイトルを掲げました。実は119年前のこの日、明治民法に家族法に関する部分が書き加えられ、日本で始めて、夫婦同姓の原則が定められました。婚姻の届出時に、夫または妻の姓のどちらかを選び、届け出なければならないと、定められました。国際結婚の場合は、この限りではなく、特に申し出がない限り、夫婦別姓でOKとされていました。夫婦同姓が法的に強制されるようになったのが、1898年で、それ以前はごく自然に夫婦の姓に関する規定はなかったのです。世界的には、当時夫婦別姓が主流で、ドイツ民法の影響を受けた日本やトルコなどが、夫婦同姓を選択していたのですが、本家筋に当るドイツ、それにトルコなどは、夫婦別姓を求める世論に押され、法改正を経て、現在は夫婦別姓も認めています。そのため、夫婦同姓が定められているのは、いまや世界広しといえども、日本とオーストリアだけになっています。
2017.07.16
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クロニクル 三鷹事件1949(昭和24)年7月15日68年前の出来事です。この日、午後9時24分、国鉄中央線の三鷹車庫から、無人の電車が暴走したのです。電車は車止めを突破し、駅改札口と階段をぶち抜き、駅前の派出所を全壊して、民家に突入、ようやく止まりました。死者6名、重軽傷者20名を超える大惨事となりました。この年、政府は経済再建のための行政整理の一環として、国鉄の人員整理を計画して実行。7月1日に30,700人、12日に63,000人の整理を発表したのです。当然組合は、この計画に強く反発、国鉄労使の関係は、こじれにこじれていたのです。そうした中で事件はおきました。7/5の下山事件、8/17の松川事件と並ぶ、国鉄争議をめぐる3大事件の1つです。時の吉田茂首相は、社会不安の源は、武装革命路線をとる共産党にあると、共産党を強く非難しました。その結果、9人の共産党員と1人の非共産党員が、逮捕されました。首相の共産党非難に悪乗りした捜査当局の勇み足でした。それでも非を認めない捜査当局は、証拠がないにも関わらず、公判維持に奔走しました。そのため9人の共産党員の無実が確定するまでに、6年もの歳月を要したのです。権力の暴走って怖いものですね。これからが心配です。
2017.07.15
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クロニクル 東京スカイツリー起工式2008(平成20)年7月14日9年前のこの日、東京スカイツリーの起工式典が行なわれました。 東武鉄道が本社に隣接する貨物駅跡地を提供し、その地に建設されました。スカイツリーは、完成前から、新たな観光名所となっており、まさに東武鉄道は「損して得とれ」を地でいったといえましょう。 東京スカイツリーの建設目的は、東京都心部の超高層ビルの増加によって、東京タワーからの送信が電波障害を生じるようになったため、TV各局が代替施設の建設の必要を痛感したことにありました。ですから当初は、地上デジタル放送のために、建設が計画されたわけではなかったのです。ところが、建設計画案作成期間中に地上デジタル放送が次第に普及し、2011年7月24日には地上アナログ放送が終了することになったため、地上デジタル放送用の電波塔に切り替えられました。 そしてスカイツリーは、2012年2月に当初の予定通りに竣工しました。その後試験放送などを経て、これまた当初の予定通りに、2012年5月22日に開業しました。開業初年度の来場者数は、東武鉄道の予想を大きく超えました。 事業主体は東武鉄道が筆頭株主の「東武タワースカイツリー株式会社」。事業費は約500億円。このために、同社は500億円のユーロ債のCBを発行して資金調達を行いました。発行後に円高=ユーロ安が進行しましたから、同社はかなりの為替差益という恩恵も受けらました。しかし、私はスカイツリーではなく東京タワーが大好きです。東京タワーの竣工時、東京で最も高いビルは地上8階のいくつかのデパートや、同じく10階に満たない丸の内のビル群でした。最初の超高層ビルとして霞が関ビルが竣工するのは、ずっと後のことだったのですから、東京タワーの高さは抜きんでていたのです。
2017.07.14
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クロニクル 母子手帳使用始まる1942(昭和17)年7月13日75年前のこの日、厚生省(現厚生労働省)は妊産婦手帳規定を実施に移しました。これが現在の母子健康手帳の原型ですから、母子健康手帳の利用開始は、戦時中のこの日だったことになります。私の生まれる3ヶ月少し前のことです。この政策は、まさに「生めよ増やせよ」政策の一環として、人口の増加を図るために、妊産婦に栄養食を優先的に配布するため、そして出産用品を確実に配給することを狙いとして、立案されたそうです。まだ、物不足が目立つ時期ではないのですが、将来における物不足を、厚生省が読んでいたとすると、そう読んだ人物は、端倪すべからざる慧眼の持ち主だったと言えますね。
2017.07.13
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クロニクル 源頼朝征夷大将軍に1192(建久3)年7月12日古い事になります。825年前になります。源平の合戦を制した源頼朝は、鎌倉に根拠地を構えて、武家政府の体裁を整えはじめると共に、京都の朝廷の実験を握る後白河法皇に対し、征夷大将軍への任官を強く求めました。しかし後白河法皇は、武家政治の樹立を念願する頼朝の狙いを察して、これを認めませんでした。この年、後白河法皇が病を得て亡くなり、短時日の内に、朝廷内の後白河派は一掃され、この日行なわれた新たな人事の一環として、頼朝は念願の征夷大将軍の地位を手にすることが出来たのです。ここに頼朝は、名実共に武家の棟梁となり、鎌倉幕府体制はここに一応の完成を見ることになりました。
2017.07.12
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クロニクル 御木本幸吉、真珠の養殖に成功1893(明治26)年7月11日124年前のことです。日清戦争が始まる1年前のことでした。この日、後に真珠王と呼ばれるようになる御木本幸吉さんが、初めて真珠の養殖に成功しました。彼が、「私は、いずれ世界中の女性の首を絞めてみせる」と豪語したのは、この数年後のことです。この発言は、御木本真珠のネックレスを、世界中の女性が憧れる商品、しかも誰もが身につけることが出来そうなリーズナブルな価格帯の商品に、育ててみせるという、並々ならぬ決意の表明でした。
2017.07.11
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クロニクル 『ぴあ』創刊1972(昭和47)年7月10日45年前のこの日。雑誌『ぴあ』が創刊されました。『ぴあ』社は社長の矢内廣が中央大学在学中に起業したもので、学生起業のはしりとなリました。『ぴあ』は、当初は映画情報・コンサート情報をまとめた雑誌でしたが、昨今では、雑誌にチケット情報はなく、ぴあ社はインターネットを利用したチケット販売に主力を移しています。
2017.07.10
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クロニクル 後楽園遊園地開園1955(昭和30)年7月9日62年前のこの日、当時の後楽園球場の脇に、後楽園遊園地が開園しました。話題の中心は、日本初のジェットコースター。野球場へ通う傍ら、横目で見ながら通り過ぎる人も多数おりました。何しろ当初は、日本でここだけ、ナイターの始まる直前の時間でも、行列に切れ目はなく、ナイター観戦前にチョット乗っていこうなんて、とても出来かねる大盛況でした。それが今では……、人間の欲望、贅沢にはキリがないですね
2017.07.09
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クロニクル マッカーサー、警察予備隊創設を指令1950(昭和25)年7月8日67年前の1950年は、プロ野球が2リーグ制に移行した年であり、また6月25日に、朝鮮戦争が始まった年です。一方で、日本はまだ第二次世界大戦の連合軍の占領下にありました。それゆえ、当時の最高権力は、連合軍総司令部(GHQ)にありました。GHQの総司令官マッカーサーが、日本統治の最高権力者だったのです。そのマッカーサーが、この日、吉田茂首相宛て書簡の中で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の拡充を指令しました。警察予備隊は、後の自衛隊の前身です。このマッカーサー指令に従って、政府は大慌てで、警察予備隊の創設準備を開始、8月10日に警察予備隊令を公布するに到りました。7月8日は、日本の再軍備への歩みが始められた日です。
2017.07.08
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クロニクル サイパンで守備隊全滅 1944(昭和19)年7月7日1942年6月のミッドウェーの海戦に敗れ、制海権を失った日本にとって、マリアナ諸島とりわけサイパン島の防衛は、重大な意味を持っていました。それは米軍が新型爆撃機B29を完成させたからです。サイパンを失えば、東京や大阪への爆撃が、米軍の自由自在に行なえるようになるからです。そう考えた軍部は、急遽サイパンに増援部隊を送り込みましたが、制海権を失っていた悲しさで、増援部隊の7割は海のモズクと消えたのです。ようやく、6月下旬に1万人強の増援部隊が上陸に成功しましたが、兵器は陸揚げできず、総員3万人強の日本軍が、6万人の米軍と対峙したのです。そして73年前のこの日、もはやこれまでと悟った日本軍は、玉砕覚悟の総攻撃を敢行したのです。こうして、米軍の死者3,500人、日本軍の自決5千人、戦死2万5千人という、理に合わない戦闘が、終了したのです。そして、軍部の恐れたとおり、その後、日本本土への空爆が次第に激しくなっていったのです。サイパン陥落前に条件付き降伏を選択する道があったように、私には思われるのですが、メンツにだけ拘る当時の軍部には、選べなかったのでしょうね。理性を失った連中が権力を掌握していることの恐ろしさ、これは肝に銘じておきたいですね。
2017.07.07
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クロニクル 大相撲年6場所に1958(昭和33)年7月6日59年前の今日、初の大相撲名古屋場所が初日を迎えました。名古屋場所の導入によって、年5場所だった大相撲は、初めて年6場所制になりました。会場は愛知県体育館、開催は日本相撲協会と中日新聞社の共催という形でした。相撲協会以外の団体が本場所の主催元になっているのは名古屋場所だけです。夏で体調管理が難しいのか、名古屋場所は荒れるとされ、平幕力士の優勝が最も多いのも、名古屋場所です。高見山関が、外国人力士として初めての幕内優勝を飾ったのも、1972年の名古屋場所でした。2010年の名古屋場所は、野球賭博問題にゆれ、NHKの実況中継が見送られました。その後は八百長問題も明るみに出ましたが、最近はそういう噂も聞かなくなりました。本当に無くなっているのならよいのですが、少なくとも最近は、7勝7敗で千秋楽を迎えた力士が、勝ち越せるケースがかつてに比べると、だいぶ少なくはなっているようですね。益々国際色が強くなっている相撲界、それはそれで良いことだとは思うのですが、日本人力士にも大いに頑張って欲しいですね。
2017.07.06
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クロニクル 沢松選手ウィンブルドン女子ダブルスで優勝1975(昭和50)年7月5日42年前の今日は、全英オープンテニス、通称ウィンブルドン選手権の女子ダブルスの決勝が行なわれた日でした。その決勝で、日本の沢松和子選手が、日本選手として初めて、ウィンブルドン選手権の優勝者に名を連ねました。沢松選手とダブルスのコンビを組んだのは、日系2世の米国選手アン・清村選手でした。この試合は、NHKの衛星中継が始まった直後で、衛生生中継されていたため、ビデオ録画も行なわれ、沢松選手組の優勝の瞬間は、歴史的快挙として繰り返し放送されました。その後、2003年に杉山愛選手が、ベルギーのクライシュテルス選手と組んで、全仏とウィンブルドンの女子ダブルスで、連続優勝を達成しています。
2017.07.05
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クロニクル 新空港、成田に決定1966(昭和41)年7月4日51年前のこの日、政府は閣議決定という形をとって、新東京国際空港の建設地を、千葉県成田市(三里塚)に決定しました。それまでは、千葉県木更津市沖の埋立地などが、候補にあがっていたのですが、急転直下成田に決まったのは、予定地内に皇室の御料牧場があり、土地買収が比較的容易であろうという理由によるものでした。しかし、この政府判断は、予見に基づく極めて甘い判断であったことが、間もなく露見します。 ご料地が中心部分を占めるといっても、この地に先祖伝来の農地を持ち、代々農業や牧畜を営んできた朴訥な人達がおり、その人達が揃って頭越しの決定に大きな怒りを示して、反対運動に立ちあがったからです。ここに、三里塚・芝山空港建設反対期成同盟が結成され、長く続く空港反対運動が幕を上げたました。その結果、成田空港は、建設決定から13年もかかった1978(昭和53)年になって、ようやくひっそりと開港を迎えるという、大難産となったのです。しかも横風用の第二滑走路を欠いた片肺の飛行場として……。
2017.07.04
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クロニクル 数寄屋橋ショッピングセンター開業1957(昭和32)年7月3日あれから60年経ったのですね。数寄屋橋は失われましたが、ショッピングセンターは、だいぶ古ぼけてきましたが現在も健在です。この年5月25日には、有楽町そごうも開店しており、有楽町、数寄屋橋周辺は、益々賑わっていました。年末には、魅惑の低音フランク永井が「あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる…」と甘く囁くように歌った「有楽町で会いましょう」が大ヒットしました。日本が高度経済成長を迎える助走期。みんなが上を向き始めた頃でした。
2017.07.03
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クロニクル 飛行船初飛行1900(明治33)年7月2日117年前のこの日、ツェッペリン伯爵は、自ら開発した硬式飛行船ツェッペリン号に乗って、ドイツのフリードリッヒシャッフェンで、初飛行に成功しました。ツェッペリン号は、大変な人気を博し、大きな成功を齎しました。そのため、ツェッペリンは、その後硬式飛行船を指す言葉になりました。 硬式飛行船は、船内に金属の枠組みがあり、形が崩れないようになっている飛行船で、宮崎アニメの『魔女の宅急便』に出てくる飛行船が、このタイプです。トンボ君を助けようと必死になったことで、キキちゃんの魔女力が回復し、魔女っ子のキキちゃんが保守的な町の人たちに受け入れられるストーリー、なんとなく思い出しました。
2017.07.02
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クロニクル 郵便番号制導入1968(昭和43)年7月1日49年前になるのですね。この日から3桁または5桁の郵便番号制がスタートしました。キーになる大きな局のある地域では3桁、それ以外の地方では5桁の郵便番号が付与されました。その後1998年2月2日から、現在のような7桁に改められ、今日に至っています。7桁の郵便番号の導入で、郵便事業はかなりの合理化が進んでいると思うのですが、郵便料金は、いっこうに値下げの計画を示さないどころか、経営の失敗には知らん顔して、葉書の料金を10円も値上げするという、暴挙を強行してきました。これで経営が改善するとも思えないのですが…
2017.07.01
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