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クロニクル 119番通報始まる1949(昭和24)年3月31日今を去る事、68年前のこの日、東京消防庁は、火災通報の119番電話を設置しました。当初は火災通報専用で、救急車は火災で重傷を負った人を病院へ搬送する必要から、遅れて生まれたと聞き及びます。東京消防庁の設置ですから、全国展開はずっと遅れます。疎開先の桐生では、我家が東京に戻る1952年秋の段階で、なお未設置のままでした。当時私は小学校4年生。東京の小学校での晩秋の避難訓練の時に、消防署の小父さんから、講評と共に119番通報について教えられ、東京は進んでいるんだなァと驚いたことが、今でも強く印象に残っています。しかし、考えてみれば、なお電話の普及率は低く、一般家庭で、電話のあるお宅は、なお例外的な金持ち家庭に限られていましたから、地方都市や農村では、なお火の見櫓で半鐘を打ち鳴らす通報の方が、効果的な時代だったのですね。本日は、意外に最近のことだった 119番の誕生について記しました。しかし昨今は、消防車より、救急車の119番通報が圧倒的多数ですね。中に119番をタクシー代わりに使っているかのような不心得者が増えているとか、モラルの低下、何とかしたいですね。
2017.03.31
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クロニクル 安田火災、ゴッホの「ひまわり」を落札1987(昭和62)年30日ちょうど30年になります。この日ロンドンの美術品オークションで、安田火災海上保険(当時)は、ゴッホの「ひまわり」を53億円という高値で落札しました。バブル景気の前半期のことです。この頃からジャパンマネーが海外の美術品や土地・建物を高値で買い漁る姿が目立つようになり、美術品や不動産価格の高騰を招き、顰蹙をかったのですが、バブル崩壊と共に、昔日の勢いを失います。安田火災の「ひまわり」は、現在も新宿の超高層ビルの一郭を占める、損保ジャパンの本社ビルにある美術館で参観者を楽しませてくれていますが、当時の大昭和製紙の会長が高値買いした美術品は、1度も参観に供されることもなく死蔵され、そのうちバブル崩壊による借金の清算のために競売にかけられ、今度は海外勢に安値でさらわれるという、何ともみっともないことになりました。三菱地所が購入したNYのロックフェラーセンタービルなどについても、同じことがいえそうです。「実るほど、頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」という名言が日本にはありますが、バブルに浮かれて稲穂の精神を忘れるような、ボンクラ経営者が跋扈していたのですから、こうしたボンクラ経営者の全てを追放できたのだとすれば、バブル崩壊後のながぁーい苦難の時期も、大きな意味を持った期間だったといえるのですが、果してどうなのでしょうね。東芝のようにダメ社長が三代に渡って続いた結果、名門企業の屋台骨が崩れて、存亡の危機に陥っている企業が」、今もあります。そこからすると世の社長族、未だに玉石混淆状態のように見えるのが残念ですね。 社員の投票でダメ経営者を追放する事が出来るようにするなど、大胆な改革が必要なように思えます。
2017.03.30
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クロニクル 米軍南ヴェトナムから撤退1973(昭和48)年3月29日44年前になります。この日米軍の最後の兵士が南ヴェトナムから撤退しました。これにより、宣戦布告無き戦争と呼ばれた、米軍の南ヴェトナム解放民族戦線、並びに北ヴェトナムに対する、無法な攻撃は終わりを告げました。南ヴェトナム解放民族戦線の活動に対する米軍の介入は、一般に南ヴェトナム戦争と呼ばれる戦争を惹起しましたが、この戦争に世界の眼をひきつけたのは、米国のごり押しによってこの地に誕生したゴ・ジン・ジエム政権に対する、高僧の抗議の焼身自殺という衝撃でした。そしていち早く南ヴェトナム戦争の実態を、世界に向けて発信したのは、日本人フリージャーナリストの岡本昭彦氏でした。後にビアフラにて取材中に犠牲となった岡村氏は『南ヴェトナム戦争従軍記』を世に問い、毎日新聞の大森実、朝日新聞の本多勝一らの優れた報道を引き出しました。そうした意味で、ヴェトナム戦争報道について、さらにはヴェトナム反戦運動の戦列において、まさしく日本が世界の世論をリードしていたのです。かつては、日本のマスコミにも、そんな時代があったのです。今では考えられないのですが…
2017.03.29
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クロニクル 「プロジェクトX」放送開始2000(平成12)年3月28日17年前の今日、NHKTVで「プロジェクトX~挑戦者たち~」の放送がはじまりました。この番組は、戦後のさまざまな開発プロジェクトなどが直面した難問を、どのように克服したかを紹介するドキュメンタリーでした。終了は2005(平成17)年12月28日でした。中島みゆきの歌った主題歌も、ヒットしましたね。「風の中のスバル…砂の中の銀河…」
2017.03.28
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クロニクル 日本、国際連盟脱退1933(昭和8)年3月27日84年前のことです。この日、ジュネーヴの国際連盟本部に、内田外相は日本が国際連盟を脱退する旨を通告しました。2月24日の国際連盟本会議において、連盟が満州(現在は中国東北地方)に派遣したリットン調査団の報告(いわゆるリットン報告、具体的には満州の事態を、日本の侵略と断定したもの)を、42対1で、承認したことに対し、日本の全権代表松岡洋右は、対日勧告の採択に抗議して退場していたのですが、その事態を追認し、政府全体としての抗議の意志表示として、脱退を選択したと説明されました。ここに日本は国際的な孤立状態に陥っていくことになります。この時、政府首脳の多くは、国際連盟からの脱退に慎重だったのですが、新聞各社はそろって脱退論を唱え、全国132の新聞社が、「満州国の存在を危うくするような解決案は、いかなる事情があろうとも、絶対に受諾すべきではないことを、全言論機関の名において声明する」という共同声明を発表し、世論を脱退に誘導していたのです。新聞各社は、国際関係の実情を知らず、ただ威勢が良いだけの軍人達に引きづられていたのです。政府首脳もだらしなく、硬派の世論に引きづられて、脱退に傾いたというのが真相でした。 外交下手は、今に始まったことではないようですし、円安誘導や消費増税への誘導など、マスコミが世論をミスリードするところは、今も変わっていないですね。
2017.03.27
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クロニクル 多摩ニュータウン入居開始1971(昭和46)年3月26日46年前のことです。1960年代の高度経済成長期は、真面目に働けば収入は増え、暮らしは良くなるということが、実感として信じることが出来た、今から考えると大変良い時代でした。電化製品の普及が進み、次第にマイホーム主義のムードが漂い始めた頃でもありました。しかし、その結果として、通勤に便利な東京都区部の住宅価格は高騰を続け、若い世代の手が届くものではなくなっていました。一例を挙げると、ミスタープロ野球と言われる長嶋選手が1957年のオフに巨人軍に入団した時の契約金が、週刊誌情報で2千万円から3千万円と書きたてられ、大きな話題となったのですが、そのわけは、この金額があれば当時最高級住宅地として有名だった田園調布に、200坪の宅地を持つ邸宅が4,5軒は購入できると、書かれていたことにありました。長嶋選手の契約金は、推定に過ぎませんが、当時の価格で田園調布の邸宅が、1千万円を大きく切る価格で購入可能だったとする点は、各紙に共通していますし、そう大きくは外れていなかったのでしょう。しかし、1964年の東京五輪に向けて、東京の地価は倍々ゲームのように上昇を続け、普通のサラリーマンの手の届かない価格になって行きました。この状況から、地下の安かった23区の周辺で、民間業者による乱開発が始まりました。多摩ニュータウン構想は、そうした乱開発に歯止めをかけ、住環境の良い住宅を大量に供給しようと言う意気込みで、はじめられました。現在の東京都多摩市、稲城市、町田市、八王子市に跨る多摩丘陵の3000ha(1haが3000坪にあたりますので、900万坪です)という広大な地域を開発し、30万人を上回る居住者に住宅を提供しようという壮大な計画でした。宮崎駿監督率いるスタジオジプリが製作した『平成狸合戦ポンポコ』は、この多摩ニュータウンの開発を舞台にした作品でした。計画は65年に立てられ、66年に事業認可を得てスタート。67年に初当選した美濃部革新都政の下でも、遅滞なく推進され、46年前の今日、多摩市永山地区と諏訪地区で、第1次の入居が始まったのです。現場は、バスで京王線の特急、急行の停車駅である聖蹟桜ヶ丘まで15分足らずのところでしたが、74年に京王線が乗りれて永山駅と多摩センター駅が開業し、少し遅れて小田急線の乗り入れも実現し、両線が乗り入れたことで、さらに交通の便が良くなり、当時は入居の抽選倍率は大変高いものとなりました。しかし、時移りて現在はというと、46年という歳月のなせる業なのですが、入居者の高齢化と建物の経年劣化、この地で生まれ育った若者の職住近接への指向などにより、住宅地としての活力の低下が問題となっています。新たな価値をどのように再生するかは、長い時間を経過した住宅団地に共通する課題ですね。
2017.03.26
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クロニクル 欧州経済共同体(EEC)設立へ1957(昭和32)年3月25日ちょうど60年前のことです。この日、フランス・西ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの西ヨーロッパ6ヶ国は、ローマ条約に調印し、欧州経済共同体と欧州原子力共同体を組織することに合意しました。この2つの組織は翌年1月1日に正式に発足します。このうちEECの狙いは、西ヨーロッパにおける生産物とサーヴィスの共通市場を作りだし、経済活動の相互補完を図ることにありました。農業面では各国の思惑の違いから、例外規定もかなり残りましたが、工業製品の関税障壁は、撤廃されることになりました。6ヶ国はその後も協議を続け、加盟国も次第に増加していきましたが、各国はその後もより密接な関係を構築しようと努力を続けて、1967年7月には、政治関係をも含む欧州共同体(EC)結成に踏み切り、相互の関係をさらに強化しました。その努力はさらに続き、1992年2月にはマーストリヒト条約を結んで、欧州連合(EU)の形成に踏み切り、99年1月には、加盟11ヶ国2億9千万人が加盟する通貨統合が「共通通貨ユーロ」の導入という形でスタートしました。 この共通通貨ユーロに加盟する諸国は、2011年1月にエストニアが、14年1月にラトビア、15年1月にリトアニアが加わり、19ヶ国に増えました。ところで私は、各国の主権の1部を大きく制約する共通通貨の導入などとても無理だろうと考えていただけに、ドルとの競争に耐え得る通貨を手にするためならという、特に独仏首脳部の固い決意に気付いて、驚きを禁じえなかったのを、今でも良く覚えています。さて、鳴り物入りで登場したユーロですが、ギリシアを初めとする南欧諸国の危機で、今や大きく揺らいでいます。移民の問題も深刻で、ユーロに未加盟のイギリスは、昨年の国民投票でEUからの離脱選択しました、これからユーロとEUはどうなるのか、なおしばし、眼が離せない状況が続くのでしょうね。
2017.03.25
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クロニクル 結核菌発見1882(明治15)年3月24日135年前になります。その後も長く死病と恐れられてきた結核菌ついて、この日ドイツのロベルト・コッホが、遂にその正体を突き止めたことを学会で発表し、大いなる関心を集めました。
2017.03.24
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クロニクル 興安丸舞鶴へ1953(昭和28)年3月23日64年前のことです。この日朝、京都府の日本海に面した港町舞鶴へ、中国からの引揚げ者2009人を乗せた興安丸が入港しました。中国大陸からの引揚げは、一応1946年中に完了したことになっていましたが、なお数万人に及ぶ旧軍人や民間人が残留していると見られていました。ところが、社会主義の中華人民共和国が成立。敗北した国民党が台湾に亡命政府を組織して、中国の正統政府を主張し、米国がこの台湾政府を支持・後援し、日本政府もそれにならったことなどから、大陸中国と日本との関係は断絶、残留日本人の帰還事業は暗誦に乗り上げてしまったのです。 この事態に、日本赤十字社と中国紅十字会という民間同士の話し合いという形をとり、人道的見地による解決が測られ、交渉には長い時間がかかりましたが、この日ようやく第1回の帰国に漕ぎつけたのです。第2陣の高砂丸も夕刻、1959人の引揚げ者を乗せ舞鶴に入港しました。舞鶴港はソ連のナホトカからの引揚げ者の入港地でもあり、興安丸はソ連からの引揚げ者の運搬船でもありました。中国からの引揚げ者は、ソ連からの引揚げ者に比べ顔色も良く、元気そうでしたが、中国での生活については,固く口を閉ざして語ろうとはしなかったと、記録されています。「きょうも暮行く、異国の丘に、友よ辛かろ、せつなかろ...」と歌われる『異国の丘』はロシアに抑留された仲間の兵士をしのぶ曲ですが、中国からの引揚げ者の間でも、瞬く間に口ずさまれるようになったそうです。
2017.03.23
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クロニクル エイズ患者第1号認定1985(60)年3月22日32年前になります。この日、厚生省(当時)が国内におけるエイズ患者第1号を認定しました。前年からエイズは世界的に流行するようになり、日本国内でも数多くの報道がなされるようになってきた時期でした。そうした中でこの日、国内の日本人エイズ患者第1号を認定したという、厚生省の発表がありました。なおエイズ患者の累計数は米国が最も多く、この年8月30日現在の累計で12,932人と発表されました。薬害エイズが世間の耳目を集めたのは、この2年後の話です。最近は話題にならなくなりましたね。
2017.03.22
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クロニクル 義務教育6年に1907(明治40)年3月21日110年前のこの日、改正小学校令が公布され、義務教育である尋常小学校の修学年数が4年から6年に延長されました。実施は翌年1908(明治41)年の4月新年度からとされましたから、109年前に、義務教育は小学校の6年間に切り替わったことになります。当時、5年制の中学校、3年制の高等学校(事実上の大学予科)、3年制の帝国大学は存在していましたし、中学校入学は、4年制の尋常小学校を卒業後に、高等小学校で2年以上学習したものにだけ、門戸を開いていましたから、卒業後にさらに修学を希望するものは、高等小学校へ通っていたのですが、明治末の時点で、義務教育の修学年数を引き上げることになったのです。義務教育年限の引き上げは、この年1906(明治39)年度の就学率が97%に達していたことが大きく、1872(明治5)年8月の学制公布後、1877(明治10)年頃までの就学率が30%前後に留まっていたことからすると、僅か30年余の期間における修学熱の高まりは、脅威的なことと言って良く、早期の教育の普及は、世界でも希有な例と注目されました。
2017.03.21
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クロニクル 地下鉄サリン事件起きる1995(平成7)年3月20日22年前になります。この日、日本の官庁街、霞ヶ関を通る数本の地下鉄に、一斉に猛毒のサリンが撒かれ、ラッシュアワーの通勤客や駅員などが被害を受けました。サリン事件は、死者11人、重軽傷者約5500人を数える大惨事となりました。重傷者の中には、いまだに意識の回復しない方、入退院を繰り返している方、事件のトラウマに悩まされ続けている方などもおられ、事件の後遺症は今に残っています。私が事件を知ったのは、闇斎方面から帰京する夕方の新幹線の車内放送でした。
2017.03.20
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クロニクル はとバスの運行始まる1949(昭和24)年3月19日68年前のことです。この年4月に、私は小学校に入学しました。そんな年のことです。前年に東京都から東京遊覧自動車の業務を引き継いだ新日本観光株式会社が、この年3月1日に路線営業の許可を取り付けた、黄色に鳩のマーク(鳩は平和の使者とされていました)のはとバスの運行を、この日開始しました。路線は、東京半日Aコースでした。この路線は、現在でもなお部分的にコースを替えては運行を続けている、ロングランの人気を誇る同社のドル箱コースです。現在のコースは、東京駅丸の内口を出発して、皇居前広場、浅草寺と仲見世、レインボーブリッジ、お台場、東京タワー、国会議事堂などを経て、東京駅へ戻るのですが、人気の東京スカイツリーを組み込んだコースもできています。
2017.03.19
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クロニクル 婦人警官初採用1946(昭和21)年3月18日71年前の話です。警視庁は、この日婦人警官63人を初めて採用致しました。 男女同権を定めた新憲法の公布は、この年11月3日のことですから、まだその影を見ないのですが、新時代の到来を予見する空気が漂い初めていたこと、そして何よりも戦死者・負傷者が数多く、五体満足な青年男子の数が決定的に不足していたことによる措置でもありました。 今では珍しくない婦人警官も、戦後すぐの時期にに誕生したのですね。日本女性史の1ページとして、記憶しておきたいことの一つです。
2017.03.18
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クロニクル アサヒスーパードライ発売1987(昭和62)年3月17日もう30年になるのですね。30年前のこの日、アサヒビールは、新商品「アサヒスーパードライ」を関東地方限定で発売しました。その後の「スーパードライ」の快進撃は御存知の通りで、各社は競ってドライビールを発売、ビール業界はドライ戦争を繰り広げましたが、結局アサヒの1人勝ちとなりました。発売9年後の96年6月には、ビール業界のガリバーだった「キリンラガービール」を抜き去って、業界no,1の月刊シェアを獲得、翌97年には、年間シェアでも1位となりました。それも僅差の1位ではなく、「キリンラガービール」と「キリン一番絞り生」の合計シェアよりも上位になるという、ぶっちぎりでした。その「スーパードライ」も、最近は一時の勢いがないですね。ノンアルコールビールなどは、増産が続いているようですが…
2017.03.17
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クロニクル 第二臨調初会合1981(昭和56)年3月16日もう36年も前のことになりました。第二次臨時行政調査会(通称第二臨調)の初会合が、この日行われました。会長には土光敏夫氏が就任しました。この委員会は、勤勉に活動を続け、国鉄の分割民営化と電電公社、専売公社の民営化に道筋をつけるなど、大きな成果をあげました。
2017.03.16
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クロニクル 東京は23区でしょう?えっ、22区??1947(昭和22)年3月15日ちょうど今年で70年ですね。この日、東京の区部は、今までの35区から、22区に整理・統合されました。 そうなんです。23区ではなかったのです。遅れて誕生することになる23番目の区は、練馬区です。練馬区は、この年8月1日に新しい区として認められ、23番目の区として、東京特別区に加わったのです。ですから、東京が22区であったのは、ほんの4ヶ月半のことでした。その練馬区。1960年代前半、東京オリンピックにかけての時期に、石神井公園や大泉学園に良く通いました。駅周辺を離れると畑の中にポツンポツンと家があるような農村のような情景が広がり、鼻をつまみたくなる独特の匂いが漂っていたことを覚えています。
2017.03.15
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クロニクル のぞみ登場1992(平成4)年3月14日25年前になります。この日東海道新幹線にビジネス特急「のぞみ」が登場しました。「のぞみ」は好評で、それなら山陽新幹線にもと、やがて東海道・山陽新幹線の東京~博多間で、「のぞみ」号が運転されることになりました。停車駅は、やがて新横浜が追加されましたが、当初は、名古屋・京都・新大阪・岡山・広島の5駅(終着博多を加えると6駅)に停車するだけという、文字通りの超特急でした。
2017.03.14
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クロニクル ドイツ,オーストリアを併合1938(昭和13)年3月13日79年前のことです。この日の出来事のおよそ5年前、1933年の1月に、世界恐慌の嵐に巻き込まれていたドイツで政権を獲得したヒトラーのナチスは、ヴェルサイユ条約の破棄、ラインラント非武装地帯への軍の派遣、軍備の強化などを、次々に強行していきましたが、この日遂に、オーストリアの併合に踏み切りました。大戦後のオーストリアはドイツとの合併を望んでいましたので、ヒトラーの行動を歓迎しましたが、英・仏・米らの諸国は、ドイツへの反発と警戒感を強めました。 ヒトラーの暴走はここから始まったと言える出来事でした。
2017.03.13
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クロニクル 小野田元少尉ルバング島より帰還1974(昭和49)3月12日43年前のこの日、小野田寛郎元陸軍少尉(51歳)がフィリピンの離島ルバング島より帰還しました。戦後28年と7ヶ月目のことです。小野田さんは、敗戦直前に、味方の撤収後も敵地に残って敵の諜報活動をするよう命じられ、忠実にその任務を守っていたのです。小野田元少尉は、この年2月26日に世界を放浪中の鈴木紀夫さんと邂逅、ルバング島のジャングルでの生存情報と、帰国の実現には、戦時中に与えられた任務の終了命令を伝達する必要のあることが、厚生省(当時)に伝えられました。こうして、3月10日に旧陸軍の上官が、鈴木さんと共に現地入りして、「作戦行動の停止」を命令、ようやく小野田さんにとっての戦争が終了し、帰国が実現する運びとなりました。幸いだったのは、和歌山の実家でなおご両親が健在だったことです。ご両親のお喜びはいかばかりか、こぼれるような笑顔が新聞に載っていたことが思い出されます。帰国後の小野田さんは、マスコミの取材攻勢を嫌い、翌年4月実兄の居住するブラジルに移住しました。 ブラジルで牧場経営に成功し、日本とブラジルを往復する生活をしていましたが、2014(平成26)年1月、肺炎のため91歳で亡くなりました。
2017.03.12
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クロニクル 百円札発行1930(昭和5)年1月11日87年前のことです。この日、聖徳太子の百円札が誕生しました。太子の千円札が発行されるのは1950〈昭和25)年ですから、この日の20年後になります。高校時代の教頭先生は、昭和14年に教員として赴任されたそうですが、そのときの初任給が、65円だったと話してくれました。国語の時間で、漱石の『坊ちゃん』を取り上げていた時でした。給料袋に当時の最高額紙幣が1枚も入らなかった時代だったのですね。それでも、65円は新卒教員には、使いきれない額だったそうです。
2017.03.11
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クロニクル 山陽新幹線線岡山~博多間開業1975(昭和50)年3月10日もう42年も経つのですね。この日山陽新幹線の岡山~博多間が開業しました。山陽新幹線は1972年の3月15日に、新大阪~岡山間が開業、この日の岡山~博多間の開業によって、全線が開通したことになります。
2017.03.10
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クロニクル 溥儀、満州国執政に就任1932(昭和7)年3月9日前年9月18日、自作自演の柳条湖事件をきっかけ(満州事変)に、満州占領を強引に進めた関東軍は、この年3月1日、日本による直接統治を諦め、関東軍の息のかかった日本人に行政の全権を握らせる傀儡国家,満州国を建設していました。しかし、傀儡国家の恰好をつけるには、それなりのネームバリューのある中国人の大物をトップに据える必要がありました。このメガネに叶った人物が、1911年の辛亥革命で皇帝の座を追われた、清朝最後の皇帝宣統帝溥儀でした。関東軍は溥儀を口説いて、奉天(現瀋陽)に連れだし、ちょうど85年前のこの日、同氏を満州国執政の地位につけ、見かけ上満州人の国のように見せかけたのです。しかし、そんな姑息なやり口で欺けるほど、世界は甘くなかったことは、その後の歴史が物語っています。話しは巡って、1957(昭和32)年の12月に、伊豆の天城トンネル附近で、同じ大学の恋人と心中した、学習院大生愛新覚羅慧生さん(19)は、溥儀氏の実弟溥傑氏と流転の王妃と呼ばれた嵯峨侯爵の孫娘浩さんの長女でした。翌年には、この出来事を映画化した『天城山心中 天国に結ぶ恋』がヒットしました。また1987(昭和62)年には、溥儀をモデルとしたイタリア、中国、イギリスの合作映画『ラストエンペラー』が公開されています。
2017.03.09
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クロニクル メートル法採用を決定1921(大正10)年3月8日96年前のこの日、時の政府は、メートル法の採用を正式に決定しました。日本政府は、これより早く1885(明治18)年にメートル条約に加盟していましたが、この日度量衡法を改正して、メートル法の採用を決定したのです。しかし、長期にわたって馴染んできた尺貫法を切り捨てることは難しく、この後もメートル法と尺貫法が併用され、戦時中も配給米は何キログラムとメートル法で支給されましたが、ヤミ米は1升2升と尺貫法で取引されるという具合でした。この混在に終止符が打たれ、尺貫法が正式に廃止されたのは、戦後も10年以上が経過した1959(昭和34)年1月1日を期してのことでした。
2017.03.08
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クロニクル 青函連絡船運行始まる1908(明治41)年3月7日「上野発の夜行列車 おりた時から 青森駅は 雪の中 北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で 海鳴りだけを 聞いている 私もひとり 連絡船に乗り……」1977(昭和52)年のヒット曲、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」です。歌詞に出てくる青函連絡船の誕生が、109年前の今日でした。この曲の出来る4年前、1973(昭和48)年が、利用のピークでした。その後は、飛行機に押されて年々利用客が減少します。そして、青函トンネルが開通し、営業を開始した1988(昭和63)年3月13日をもって、青函連絡船の営業は廃止となりました。以後は、青函トンネルを走る快速「海峡」や、寝台特急「北斗星」などにゆだねられました。その後、「海峡」の運行は、2002(平成14)年に打ち切られ、「北斗星」の運行も、2016(平成28)年に北海道新幹線の新函館までの開業に伴い廃止されています。
2017.03.07
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クロニクル 新日本製鐵(新日鉄)誕生へ1969(昭和44)年3月6日48年前のことです。当時日本の製鉄業界の首位を争っていた八幡製鉄と富士製鉄は、この日合併契約書に調印しました。 両者は、戦後GHQによる独占企業体の分割命令によって、旧日本製鉄が分割された企業でした(他にも大日本麦酒が分社された朝日麦酒と日本麦酒、日本製紙が分社された王子製紙、本州製紙、十条製紙などがありました)。その両者が合併を決議したのです。 そのため公正取引委員会の慎重な審議にかけられ、その了承を待って、翌年3月31日に正式に、合併新会社新日本製鉄が誕生しました。今では国際競争に対応するためにと、新日鉄は住金と合併。より巨大化しています。
2017.03.06
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クロニクル スターリン死去1953(昭和28)年3月5日64年前のことです。この日、ソヴィエト政府は、自国の最高指導者スターリン首相兼共産党書記長の死亡を発表しました。73歳、死因は脳出血という発表でした。 後任首相にはマレンコフ氏が就任しましたが、日本の株式市場は、発表を受けて暴落しました。世に言うスターリン暴落です。 スターリンの死去をきっかけに、ソ連政府が政策転換を図るのではないか。膠着状態の朝鮮戦争も終結して、平和が訪れるのではないかと、考えられたからでした。当時、朝鮮戦争の特需(米軍の需要です)で、ようやく戦後の混乱期を脱した日本経済は、まさに軍需景気に沸いていたからです。 日本の株式市場は軍需株を中心に暴落しました。この市場の予感は正しく、ソ連のマレンコフ首相は、これまた朝鮮戦争の終結を訴えて大統領選に勝ち、この年1月に就任したアイゼンハワー米大統領と、朝鮮半島問題の平和解決に合意し、7月には朝鮮休戦協定が結ばれたのです。 日本経済が、外需頼みでまだ弱弱しかった時期の出来事でした。
2017.03.05
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クロニクル 共産党中央委員会壊滅1935(昭和10)年3月4日82年前のことです。治安維持法の施行後、国体転覆を図る団体として非合法組織とされた共産党は、逮捕を免れた幹部達が地下に潜って秘密結社を組織し、細々と活動していましたが、この日、残された最後の幹部だった袴田里見氏が、本郷の路上で逮捕されたため、事実上壊滅に追い込まれました。共産党を活動不能状態に追い込み、自信をつけた軍部や右翼は、天皇の権威を絶対的なものとすることで、自己の権威をも絶対化することを目指しました。この年初めからは、この方針の目の上のたんこぶ的存在となっていた津田左右吉氏や美濃部達吉氏ら、良心的な学者の唱える学説への攻撃を仕掛け、左翼の次には、良心的な知識人弾圧へと歩を進めていったのです。奇しくも、この同じ日、首相の岡田啓介は、議会で天皇機関説への反対を明言し、言論を封殺する国体明徴運動の推進へと大きく舵を切ったのでした。そして現在。幼稚園児に戦後の民主化の過程で否定された「教育勅語」を暗唱させるという、教育基本法を無視した教育を実践している「森友学園」への政・官を巻き込んだ呆れた優遇措置が、明らかになりました。トランプ大統領の米国以上に、日本の将来の方が心配になります。
2017.03.04
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クロニクル 桜田門外の変1860(安政7)年3月3日157年前のこの日、雪の降りしきる桜田門外で、登城途中の大老井伊直弼の一行を、水戸の浪士17名と薩摩の浪士1名の合わせて18人が襲撃、大老井伊直弼を暗殺しました。事件の直接のきっかけは、大老井伊の主導で進む、幕府の開国政策に対する攘夷派の巻き返しに対し、井伊が強力な弾圧政策で望み、いわゆる安政の大獄を実行したことに対する反発でした。実行犯の浪士たちの斬奸趣意書には、襲撃は幕府に弓引くものではなく、井伊の売国的行為に対する天誅であると記されていました。しかし、井伊大老は、当時の幕府の最高権力者でしたから、井伊が惨殺されたことで、以後幕府の権威は大きく揺らぎ、激しい政争が展開されることになりました。
2017.03.03
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クロニクル タリバーン、バーミヤンの大仏を破壊2000(平成12)年3月2日17年前のこの日、アフガニスタンを実効支配下に置いていたタリバーンは、バーミヤンの洞窟に鎮座した2体の大仏を、破壊しました。バーミヤンの大仏は、経典を求めてインドへの旅に出た、玄奘三蔵も感激して眺めた優れた仏教遺跡として知られていました。その大きさは東大寺の大仏を凌ぐ、世界最大の仏像でした。タリバーン過激派の狂気のなせる業なのでしょうが、残念でなりません。 最近、イラクやシリアの遺跡でも、ISと支持勢力による遺跡の破壊が行われています。貴重な文化遺産の破壊の進行を、止められないのが残念でなりません。
2017.03.02
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クロニクル 対人地雷全面禁止条約発効1999(平成11)年3月1日18年前のこの日、対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)が133ヶ国の参加で、正式に発効しました。地雷、特に対人地雷の大部分は、人を殺す事を目的として作られた兵器ではありません。地雷は、人を傷つけて、労働能力を奪い、社会に負担を強いることで、相手側に打撃を与えることに狙いを定めた兵器なのです。また地雷は、1個数百円程度と非常に安価で、大量使用が容易なことも特徴の1つになっています。それゆえ、国家間の戦争においては勿論、反政府勢力などとの内戦においても、大量に使用される兵器です。その上地雷を埋め込まれた土地は、その除去が完了するまで使い物にならなくなります。それゆえ、相手側の経済力にも打撃を与えることが出来るのです。戦争当事者には、実に便利で、しかし相手側にとって、これほどいやらしく、ややこしい兵器はないのです。その地雷が、対人地雷に限ったとはいえ、全面使用禁止となるには、中堅諸国とNGO諸団体との密接な協力がありました。条約の調印に先立つ1997年10月10日、六つのNGOを束ねたICBL(地雷禁止国際キャンペーン)とコーディネーターのジョディ=ウィリアムズ女史に、ノーベル平和賞が授与されているのですが、ここからもこの条約の締結、批准等においてボランティア団体と中堅諸国との、強力な連携が覗えます。中堅国では、カナダやノルウェーが積極的で、オーストリアも加わって作戦を練り、NGOの意見を聞きつつ、双方の意見を集約して、条約原案の準備を続けた過程がオタワプロセスと呼ばれるのですが、ここで条約案がまとめられ、オスロ会議で条約原案は無修正のまま成立を見たのです。この条約には調印国のうち、40ヶ国が批准すれば,条約は発効するという条件も書き込まれていました。条約に署名した国々は、次々に議会で条約を批准し、98年の9月16日に発効に必要な40ヶ国を超えたため、ここに翌99年3月1日に効力を発揮することが決まったのです。条約には問題点もありました。対人地雷は全面禁止されても、対物地雷には言及していない事、国家間の条約でないため、反政府勢力は規制を受けないことなどです。こうした問題点は残りましたが、地雷という非人間的な兵器の使用に大きくブレーキをかけた功績は、決して小さなものではありません。
2017.03.01
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