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クロニクル NHKラジオ除夜の鐘を初放送1927(昭和2)年12月31日90年前の大晦日のことです。実はこの日の前日、90年前の12月30日は、上野~浅草間の地下鉄が開通した記念すべき日でした。地下鉄開通の記念という訳ではなかったようですが、この日NHKの前身の社団法人「東京放送局」は、上野寛永寺の除夜の鐘を、はじめて実況中継して、話題を集めました。以後、除夜の鐘の実況放送は、毎年の定番となって行きました。 大晦日のブログの更新が、日付が変わってからになりましたが、皆様この1年お世話になりました。2018年も、平穏にのんびりと暮せる世にはなりそうもありません。益々ぎすぎすした済みにくい世の中になって行きそうですが、そんな中、有象無象に流されること無く、自分の世界観をしっかり持って、平和の大切さを訴え続けてゆくつもりでおります。新年度もどうぞよろしく。
2017.12.31
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クロニクル フセイン処刑2006(平成18)年12月30日11年前のことです。この日、サダム・フセイン元イラク大統領が、「1983年にイラク中部のドゥジャイル村で、住民140人以上を殺害した罪」で、処刑されました。サダム・フセインは確かに独裁者でしたが、彼の支配の下で、イラク国内の党派対立(スンニー派、シーア派、クルド人グループ)は抑え込まれ、一定の平和と秩序が保たれていました。この独裁下の安定をぶち壊したのが、2003年に始まるアメリカのイラクへの攻撃でした。国連の反対を押し切って、強引な介入を試みた米軍の攻撃によって、イラクの政治秩序は破壊され、フセイン大統領も、2003年12月13日に逮捕されました。そして、アメリカの傀儡として誕生したマリキ政府は、自らの求心力を高めるために、上に記した罪状で、フセイン元大統領を起訴し、処刑に持ち込む方針を固めたのです。こうして2006年10月19日に、バクダードの高等法廷で初公判が開かれました。 死刑判決を出すことが、事前にすりあわされている裁判は、猛スピードで行なわれ、1審は11月5日に、2審も12月26日に、死刑判決を出し、判決確定の僅か4日後に、絞首刑が執行されたのです。それは、辛うじてイラク人の手で行われたましたが、当時のマリキ政権は、アメリカの強い肩入れを受けて、成り立っていた傀儡政権であり、強引なフセイン処刑を批判されて、その後政権の座を追われました。そのイラクと、後にアメリカがアサド政権の打倒を唆して、国内を混乱の極に追いやってしまったシリアでは、皆様ご存知の通り、現在なお破壊と混乱の中にあり、鬼っ子のIS勢力は、地域的拠点こそ失ったものの、今なお各地でテロ攻撃を行っていますし、ISという共通の敵をなくした諸勢力間の、対立が次なる戦闘を生み出しかねない状況が続いています。 懲りないアメリカの責任は重いですね。
2017.12.30
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クロニクル 第一次農地改革始まる1945(昭和20)年12月29日72年前のこの日、農地調整法が改正公布されました。ここに第一次農地改革がスタートしましたが、まだ地主制温存の雰囲気が強く、改革は不十分なままで、この時実現したのは、事実上の小作料の金納化だけでした。そのため、GHQのダメ出しを受け、翌46年10月21日に自作農創設特別措置法が公布され、本格的な農地改革が進みはじめたのでした。
2017.12.29
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クロニクル 余部鉄橋から列車転落1986(昭和61)年12月28日31年前になります。余部鉄橋は山陰本線の鎧駅と餘部駅間にあります。この日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車「みやび」が、日本海からの突風にあおられ、7輌編成の全車両が台車の一部を残して、橋の中央付近から転落したのです。回送列車でしたから、乗客は乗っていなかったのですが、転落した客車が鉄橋の真下にあった水産加工の工場と民家を直撃したため、工場は全壊、民家も半壊しました。その結果、工場のパート従業員の主婦5人と列車の車掌の計6人が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3人と工場の従業員3人の6人が重傷を負う、惨事となったのです。列車の運転士は無事でした。それは、機関車は客車に比べて重量があるため、転覆を免れたからでした。国鉄が民営化される前、最後の大事故でした。事故の調査報告に基づき、風力計が一定の風速を超えた場合、人間の判断を加味せず、自動的に列車の運行を停止するシステムが導入され、現在に生かされています。最近、強風に依り、運行を停止するケースや、徐行運転のため、ダイヤが大幅に乱れるケースが増えているのは、このためです。
2017.12.28
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クロニクル 仲見世の誕生1885(明治18)年12月27日今日は明治のお話です。明治生まれの最もお若い方でも、お生まれは明治45(1912)年ですから、105歳でいらっしゃいます。「明治は遠くなりにけり」どころか、追憶の彼方の出来事になってまいりました。その明治も前半期、明治憲法も帝国議会も、そして教育勅語もいまだ誕生していない、まさに「鹿鳴館」華やかなりし時代のことです。今日が浅草仲見世の132回目の誕生日です。そうなんです。この日浅草寺境内に、1度に139店の仲見世商店街が新規オープンしたのです。煉瓦造りのお洒落な建物でしたから、連日大いに賑ったそうです。惜しむらくは関東大震災とその後の火災で、この建物群は跡形もなくなり、その後鉄筋造りの建物に建て替えられました。
2017.12.27
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クロニクル ルーマニア革命成就1989(平成元)年12月26日28年前のことです。ベルリンの壁崩壊に驚かされた一連の東欧革命の殿(しんがり)は、ルーマニアが勤めることとなりました。12月16日に西部の都市ティミショアラで起きた民衆反乱は、軍をも巻き込んで次第に拡大にし、21日には国防軍が革命戦線に加わることを決定し、大勢は決しました。こうしてルーマニアの共産党政権が崩壊し、革命の指導部救国戦線は、チャウシェスク夫妻を軍事裁判にかけ、銃殺刑に処しました(25日)。こうして翌日の26日、ルーマニア革命は成就し、救国戦線評議会が新指導体制を発表して、暫定政権が樹立されました。
2017.12.26
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クロニクル トウ小平路線確認1990(平成2)年12月25日27年前のこの日、中国共産党の第13期7中全会は、トウ小平の改革・解放路線を正式に確認しました。ここに中国共産党は、共産党1党独裁の政治体制を堅持したままでの、経済発展の大胆な導入に、大きく舵をきりました。それはいわば、社会主義体制の下での資本主義経済の導入ともいうべき試みでした。こうして中国は、先に豊かになるものがあっても良いという、トウ小平路線の下で、社会主義市場経済と銘打って、広州から上海にかけての沿岸地帯の経済特区を中心に、大胆な外資の導入なども組み込みながら、驚異的なスピードで経済発展を続け、その結果蘇州、大連、北京、天津、重慶などでも工業化が進み、押しも押されもしない経済大国の一角に名を連ねると、その後も驚異的な経済成長を続け、今や米国に続く世界第2の経済大国となり、自国中心の経済ブロックを形成しようとするところまで来ています。昨今は、さすがにその勢いも減速気味ですが、中国経済が何とかバランスをとり続けることが出来るのかどうかは、来年以降も世界経済の大きな関心事となりそうです。
2017.12.25
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クロニクル ソ連軍アフガニスタンに侵攻1979(昭和54)年12月24日38年前の今日になります。よりによってクリスマスイヴの日に、ソ連軍がアフガニスタンへの侵攻に踏み切ったのです。アフガンでは、前年の78年に人民民主党の政府が誕生したのですが、79年春に反政府派が武装蜂起したのです。次第に劣勢となり窮地に陥った人民民主党政府は、ソヴィエト政府に救援を依頼した結果が、この日の侵攻となったのでした。劣勢となったイスラム系抵抗勢力ムジャヒディンは、同国特有の山岳地帯に籠もって抵抗を続け、ソヴィエト軍を長期の消耗戦に誘い込んで疲弊させて行き、次第にアフガニスタンは、ソ連軍にとってのヴェトナムと化していきました。結局ソ連軍は、10年後の1989年2月に、アフガニスタンから完全に撤退するに至りました。勝利したのは山岳ゲリラとしてソ連と戦った、ムジャhディンの戦士たちでしたが、その後は内部分裂がおき、アフガニスタン各地は、なお内戦で疲弊することになりました。この混乱を平定、アフガンに平和を齎したのがタリバーンでした。そのタリバーン政権のアフガニスタンを、9.11の仕返しとして攻撃し、再び混乱に陥れたのがアメリカでした。馬鹿なことをしたもので、結果は再び、アフガンに破壊と混乱を齎しただけで、今度はまたまたアメリカが、アフガンで苦戦を強いられています。早くに非を認めて方針転換をすれば良かったのですが、そうわ出来ず、再びアフガンを内戦と混乱に突き落としてしまっています。数千の兵を送っても、政府軍の崩壊を防ぎ、首都カブールを防衛するのが手いっぱいの状態です。これでは、アフガンの現状を打開することは、とても無理です。アフガンの人々に、平和と安定が齎らされるのは、いつになるのでしょうね。米国の責任は重いと言わざるをえません。
2017.12.24
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クロニクル 営団地下鉄東西線一部開通1964(昭和39)年12月23日今から53年前のことです。丁度東京オリンピックが終った、約2ヶ月後のことです。この日営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線の、高田馬場~九段下間が開通、営業を開始しました。当時早稲田大学に近い、戸塚一丁目界隈は、神田神保町ほどメジャーではないため、値段の安い古書店が軒を連ねており、バイト代が入ると、東京凡太よろしく風呂敷を抱えて古書を漁りに出かけていた私には、高田馬場から馬場下町(戸塚の古書店街まですぐでした。駅名は後に早稲田に変わりました。)まで一駅の地下鉄は、何より有り難い存在でした。
2017.12.23
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クロニクル 伊籐博文初代首相となる1885(明治18)年12月22日132年前になります。この日内閣制度が発足して、伊藤博文が初代総理大臣に就任することが決まり、同日伊藤が組閣を完了して、第一次伊藤内閣がスタートしました。 外務大臣井上馨、大蔵大臣松方正義、内務大臣山県有朋、陸軍大臣大山巌、海軍大臣西郷従道、文部大臣森有礼、司法大臣山田顕義と長州から4人、薩摩から4人と、薩長出身者を仲良く4人づつ配した、完全な藩閥内閣でした。他に土佐藩出身の谷干城が農商務大臣、幕臣だった榎本武暢が逓信大臣となっています。それだけにバランスが取れていましたので、この内閣は1888(明治21)年4月30日まで、2年4ヶ月と、この時期にしては長続きした内閣でした。
2017.12.22
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クロニクル 年末ジャンボ初発売1976(昭和51)年12月21日41年前になるのですね。この日年末ジャンボ宝くじが、はじめて発売されました。オイルショック後の世界不況から、まだ回復できていない時期だったこともあって、人気が沸騰し、各地で宝くじ売り場に大勢の購入希望者が殺到、福岡と松本で死者が出る大騒ぎとなりました。これにこりて、翌年からしばらくの間は、官製の往復はがきでの予約申し込みが必要となりました。
2017.12.21
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クロニクル マカオ中国に1999(平成11)年12月20日18年前のこの日、中国はポルトガルの領有を黙認していたマカオを回収、マカオにおける中国の主権を回復しました。イギリスの香港返還から2年と5ヶ月後のことでした。マカオは、珠江のデルタ地帯にある、南北約5kmの小半島で、16世紀にポルトガルが来航、マラッカ、ゴアと共にポルトガルのアジア貿易の拠点として繁栄しました。この間、ポルトガルは中国当局に多額のワイロを送っては、マカオにおける交易の独占を続けたのですが、19世紀半ばから植民地支配に転じました。第二次大戦後に成立した中華人民共和国政府は、ポルトガルにマカオの返還を要求しました。そのときポルトガル政府は、流入する難民に反中国、親台湾の活動を一切させない方針を貫き、1965年には台湾政府とも断交するなど、親中国の姿勢を貫くことで、99年のこの日まで、中国政府に領有を認められてきたのです。そしてこの日、香港と同じく、ポルトガルの領有期限の満了をもって、中国政府に返還されたのです。
2017.12.20
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クロニクル 日本の第9次越冬隊南極点に到達1968(昭和43)年12月19日49年前のことです。村山雅美越冬隊長率いる、日本の第9次越冬隊が、日本人としては始めて、南極点に到達しました。高度経済成長も後半に入り、日本の工業化の進展の中で、砕氷船その他の性能も、格段に進歩した結果でした。 時は、全共闘運動の最盛期。東大と日大の全額ストライキはなお勢いを保ち、翌年の東大入試の中止が発表となる、少し前のニュースでした。 ピリピリした世相にあって、このニュースは一服の清涼剤でした。
2017.12.19
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クロニクル 日韓、国交を回復 1965(昭和40)年12月18日52年前の事です。この日、日本と韓国との間に日韓基本条約が結ばれ、日韓両国は国交を回復しました。ここに両国の経済は結びつきを強め、やがて韓国経済は飛躍の時を迎えるに至ります。岩波書店の『漱石全集』は、活版印刷の活版を韓国で組み、日本に空輸して校正、印刷にあたった第1号として、知られています。 日韓両国は、古代から密接な関係を持ち、言語的にも大変近い関係を持ちます。何しろ主語の次に動詞(述語)が来ない言語は、世界広しといえども、日本語と朝鮮語しかないのですから。そして漢字も仏教も含めて、中国の文物の多くは、みな朝鮮半島を経由して日本にやってきたものです。現在のギスギスした両国関係が、早期に改善されることを願ってやみません。
2017.12.18
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クロニクル ライト兄弟初飛行1903(明治36)年12月17日114年前のこの日、ライト兄弟が人類史上始めて、エンジンを備えたプロペラ飛行機で空を飛びました。兄弟は自転車修理業を営みながら、自作の自転車も販売するなどして、貯めたお金を飛行機製作につぎ込み、この日の成功に至りました。3日前の12月14日に1度飛行を試みましたが、兄のウィルバーが操縦を誤り、失速して失敗、部分的な破損を修理して、この日に再度の挑戦となったのです。今度は弟のオービルが乗り込み、12秒間120フィートの飛行に成功しました。午前10時半頃でした。2人は交互に飛行を繰り返して、距離と時間を延ばし、この日最後の4度目の飛行では、59秒と言いますから、約1分の飛行に成功、距離も852フィートに伸びました。この飛行機、フライヤー号は、この日昼頃から強まった大風で、4度目の飛行の後、大破してしまい、この日の飛行実験は、そこで打ち切りとなりました。
2017.12.17
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クロニクル バングラデシュ誕生1971(昭和46)年12月16日 今日で、誕生から46年というわけですね。私の学生時代の世界地図にはバングラデシュという国はなく、インドの東西に別れて、東パキスタンと西パキスタンと呼ばれた2ヶ所のパキスタンがありました。しかし、やがて東西の折り合いの悪さが目立つようになり、この年71年には完全分離による独立を求める東パキスタンと、そうはさせまいとする西パキスタンの争いが勃発、東パキスタンはバングラデシュ独立戦争を起こしたのです。ここにパキスタンの弱体化を望むインドが介入し、12月3日に第三次印パ戦争が勃発しました。この戦争はインド優勢のうちに進み、この日西パキスタンが東の独立を認めたことで、戦争は終結を見ました。そして、この日の内にバングラデシュは独立国として、誕生することになったのです。ガンジス川の流れに沿うバングラデシュは、アジア並びに世界の最貧国の一つとして、苦しんでいた時期が長く続いたのですが、世界的な金余りと低金利が続く最近になって、ようやく外資が潤沢に流れ込むようになり、ようやく経済的な離陸期にさしかかってきました。 特に中国資本の進出が目立ったため、対抗してインド資本もバウウグラデシュへの投資に積極的になっていることが、プラスに働いているように見えます。
2017.12.16
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クロニクル 第1回レコード大賞発表1959(昭和34)年12月15日 「黒い花びら 静かに散った あの人は帰らぬ 遠い夢……」、悪童の雰囲気を漂わせた水原弘が、独特の野太い声で歌った『黒い花びら』は、確かにこの年を代表するヒットナンバーでした。レコード大賞、通称レコ大は、58年前に始まった流行歌の音楽賞でした。スタートしたこの年は、誰もレコ大の存在を知らず、受賞曲の発表を知った時に、あちこちで「レコ大って何?」という囁きが聞こえたものでした。レコード大賞の主催団体は、社団法人日本作曲家協会と日本レコード大賞制定委員会で、TBSが後援する形で、50年以上にわたって続いてきました。ただし、第1回から第10回までは、審査発表と授賞式は別々になされていましたので、この日即ち15日は、受賞曲、受賞者が公表された日でした。 第1回の授賞式は、12月27日に行なわれました。ところで、レコードがCDに代わって久しいですが、ネーミングはいまだにレコ大。今の若い人たち、レコードって分かるのかな…… 時移りて、人かわり、今日ではレコードを知らない世代が、増えてきました。まさに昭和も遠くなってきましたね。
2017.12.15
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クロニクル 日本OECD常任理事国に1965(昭和40)年12月14日 今から52年前のことです。丁度戦後20年が経過し、東京オリンピックが終了して1年が経過した時でした。世界的にはヴェトナム戦争へのアメリカの介入が泥沼化の様相を強めていた時期です。そういう状況のこの日、日本がOECD,経済協力開発機構の常任理事国に推挙され、満場一致に近い支持を得て、就任することになりました。 以後ODA(政府開発援助)も年々増額され、日本は次第に援助大国になっていったのですが、2000年以降財政難を理由に、ODA予算が減らされているのが残念です。日本の平和的支援が必要な国はなお多く、そういった支援が将来の日本の国際的な発言力の向上に、間違いなく大きなプラスになるのですから…。
2017.12.14
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クロニクル サンウェーブ工業倒産1961(昭和36)年12月12日56年前のこの日、台所の流し台の大手メーカー、サンウェーブ工業が会社更生法を申請、事実上倒産しました。 現在のような、システムキッチンのまだない時代でしたが、ステンレスの流し台は、同社が開発し、高度経済成長の波に乗って、倍々ゲームで既存住宅にまで、販路が広がりつつあっただけに、年末の倒産劇は、意外感を持って受け止められました。 強気になりすぎての、過剰な設備投資が倒産の原因だと報じられました。同社の社長令嬢が、大学の同級生だったのですが、気の毒なほど落ち込んで、しばらくはクラスメートが声をかけるのもはばかられるほどだったのを覚えています。
2017.12.12
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クロニクル 100円銀貨登場1957(昭和32)年12月11日60年前の今日のことです。この日初めて100円銀貨が、日本の貨幣史に登場しました。しばらくは、自由民権運動の産みの親として知られる、板垣退助の肖像を刷り込んだ100円札と併用されましたが、この日以後、紙幣は刷り増しされることはなく、時間の経過と共に紙幣は姿を消して行きました。100円玉もまた、銀貨は製造原価が割高なため、10年後の1967年には、現在も使われている白銅貨に代えられました。銀貨のデザインは、当初は鳳凰でしたが、2年後に稲穂に変わりました。この100円銀貨の銀含有量はどちらも60%です。硬貨の重量は4.8gですから、銀の重量は、4.8×0.6で2.88gです。今年の銀相場は、1g70円前後で推移していますから、100円銀貨に含まれる銀の価格は、100円を大きく超え、約2倍の201円程度となり、銀貨の額面を大きく越えることになります。お持ちの方は、支払いには使わないようご注意ください。
2017.12.11
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クロニクル 田中正造、足尾鉱毒を直訴1901(明治34)年12月10日116年前になります。この日、前衆議院議員田中正造は、第16回帝国議会開院式から還御途中の明治天皇に対し、足尾鉱毒事件に関する直訴を試みようとして、警備の警察官に取り押さえられました。正造は検事の取調べを受けたのち、その日の夜には釈放されています。 彼は1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙に栃木県から立候補して当選(当時は財産による制限選挙制でしたから、被選挙権者は一握りの富裕層、地方名望家に限られていましたので、彼自身有力な地方名士の1人でした。)、1891年の第2議会で、古河財閥の足尾鉱山鉱毒事件を取り上げ、以後毎議会で政府を追及しておりました。1897(明治30)年以降、地元農民が4回にわたって上京、各方面に請願・陳情を行うに際しては、積極的に斡旋役を務めています。しかし、政府は誠意ある対応を見せず、請願運動の弾圧をも試みるありさまでした。1900(明治33)年にいたって、被害農民が裁判に訴えると、ようやく世論も足尾鉱毒に注目し始め、演説会の開催や義捐金の募集、現地調査などが行われるようになり、下流にあたる渡良瀬川流域の荒廃振りが広く明るみに出されました。こうした情勢の下で、1901年10月、正造は直訴を決意して議員を辞職、機会を待っていたのでした。後に公表された直訴状は、実情の訴えと被害土地の原状回復を政府に措置させるよう、要望するものでした。 彼の直訴事件後、足尾鉱毒問題への支援は一層高まり、政府も翌年には国としての調査委員会を正式に発足させるに至ります。正造の直訴は、日本の公害史の大きな1ページをなす出来事でした。
2017.12.10
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クロニクル 自衛隊のイラク派遣計画決定2003(平成15)12月9日14年前のことです。この日、自公連立の小泉内閣は、自衛隊のイラク派遣に関する基本計画を決定しました。1947(昭和22)年5月3日に施行された昭和憲法は、その前文において、「日本国民は、恒久の平和を念願し、……平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と正々堂々と宣言し、この前文を受けて、平和主義を掲げる9条を設けたのでした。 9条は、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と述べ、さらに2項において、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とはっきりと述べています。 武力紛争が続く時代にあって、この戦力不保持を宣言した憲法は、国際的に見て異彩を放つ立派な憲法だったと私は思います。しかし、だからこそ、日本国憲法が拠って立つ平和主義は、理想主義の旗を高く掲げた世界平和主義の視点に立つ、攻めの憲法にして行く責務が、日本国民には科せられていたのだと、思うのです。 惜しむらくは、敗戦日本国民は、世界に対して広く訴えるという、世界平和主義の視点に立つことが出来ないできました。そのため、狭い一国平和主義に閉じこもる道を選んで良しとしてきてしまいました。そのため、身勝手だと世界から指摘され,遂にその指摘に尻押しされて、遠く離れたイラクに兵を派遣せざるをえなくなってしまいました。そして今日、特定秘密保持法を成立させ、その勢いで集団的自衛権の行使を容認する法改正まで実行してしまいました。この方向は、国際紛争の解決に武力を用いないとする憲法の規定に、明らかに反する暴挙です。だからこそ、安部内閣は憲法改正に執着し、9条の骨抜きに熱心なんでしょうね。我々は、そういう政府に対して、もっと強く抗議する必要があると考えています。。
2017.12.09
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クロニクル 新宿コマ劇場開場1956(昭和31)年12月8日58年前のことです。日米開戦の1941年から、ちょうど15年。『経済白書』が「もはや戦後ではない…」と書いてから1年。盛り場の賑わいも戻っていた頃ですね。新宿歌舞伎町の外れに、コマ劇場が建設され、58年前の本日めでたく開場の運びとなりました。コマ劇場は、演歌の殿堂として名を成し、演歌歌手は、いつかコマ劇場の客席を埋め尽くしての、リサイタルや座長公演を行なうことを夢見て、修行に励んだことで、知られました。また「アニーよ銃を取れ」「努力しないで出世する法」「南太平洋」など、コマ劇場を日本での初演の地に選んだミュージカルも、少なくありません。ドリームジャンボの抽選会の開場にも使われていましたね。そんなコマ劇場も、次第に大入りの続く人気公演が少なくなり、業績の悪化から、6年前2008年12月31日、「第41回年忘れニッポンの歌」の生中継を最後に、取り壊されることになりました。しかし、歌舞伎座と違って、コマ劇の跡地は再開発計画の作成に手間取り、劇場の取り壊しが始まったのは、閉館から2年以上経った2011年3月のことでした。解体は、隣接する新宿東宝会館と共に行われ、同年7月、ようやくコマ劇場と新宿東宝会館の跡地を合わせ、地上31階建の複合インテリジェントビルとして、「新宿東宝ビル」を建設すると発表、2015年4月17日に完成、開業しました。しかし、このビルにはコマ劇場のような演劇場は、収益が見込めないという判断から、入居が認められませんでした。
2017.12.08
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「貧乏人は麦を食え」発言を巡って 今晩は。昨日は6日と7日を間違えて、6日を飛ばして7日の日記をアップしてしまいました。今後気をつけます。そこで、本日は、6日分ではなく、池田発言についての私なりの見解を記させていただくことにしました。池田勇人氏は、広島のつくり酒屋の息子で、決して先祖代々のエリートではありませんでした。東大から大蔵省に入り、吉田首相の秘書官として官邸に出向、運輸省から出向した佐藤栄作氏と共に、吉田首相に進められて政界に入りました。そして、1年生議員にして蔵相に抜擢されたのです。同じく運輸相に抜擢された佐藤氏と共に、吉田学校の優等生とやっかみをかねて自由党内で囁かれていました。2人の1年生議員を、いきなり重要閣僚にするなど、今では考えられないことです。ちなみに池田氏もまた、薫陶を受けた吉田首相を見習って、優秀な秘書官を政界入りさせ、子分として育てる手法をとり、大平正芳首相や宮沢喜一首相を育て上げています。ところで池田氏は直言居士で、ストレートに物を言い過ぎる傾向がありました。この発言がまさにそうでした。当時なまだ、食糧難が解決せず、3度の食事を満足に取れない家庭も残っており、貧しい家庭は麦飯が主流でした。せめて銀シャリ(白米のこと)を腹いっぱい食べられるようになりたい。これが貧しき人々の願いでした。食い物があることが幸せな時代だったのです。今では、遠い昔のことになりましたから、ご存じない方も多いのですが、日本の米の自給率が100%を越えてくるのは、東京オリンピック後の1965年のことでした。それまでは米の生産量は、国内需要を満たせずに、外米を輸入して間に合わせていたのです。日雇い労働者の日給が240円。彼らが自嘲的にニコヨンを自称していたのは、1954年頃から60年にかけてですが、この頃の彼らの憧れの昼食が、中央に梅干を1個入れた銀シャリ弁当、日の丸弁当でした。それは、毎日はとても無理だったのです。底辺の労働者の暮らしが、ようやく麦飯を卒業して、毎日白米になっていったのは、60年代に入った頃からでした。美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄」の母さんが食べていた弁当も、週の大半は麦飯だったとお考えください。「貧乏人は麦を食え」は確かに失言でしたが、今のような低レヴェルな、実情についての無知が言わしめる失言とは、だいぶ趣が違っていました。それはストレートに事実を言い過ぎたことにあったのです。米の生産はとても足りません。当時冷害に強い品種の稲は、なお試作の段階に過ぎなかったからです。外貨も不足がちで、輸入も外貨の割当を受ける必要のある、許可制の時代でした。ですから、全世帯に米をいきわたらせることは、当面できないが、せめて麦は行き渡るようにする。食い物がない世帯は無くす。麦でもないよりは良いはずだ。池田蔵相は、ストレートにそうした思いを表現したのです。1年生議員らしい、表現を工夫しない直言でした。それは目の前の現実を指摘したものでした。しかし、この発言はストレート過ぎました。いずれ銀シャリを腹いっぱい食べられるようになりたいという、歯を食いしばって頑張っている、戦禍からの復興にようやく目鼻をつけつつある国民の神経を逆撫でしてしまったことも事実でした。同じことを言うにしても、表現を工夫せよ。これが吉田首相が池田蔵相に与えた注意だったと聞き及びます。2年後の「中小企業の一つや二つの倒産、自殺はやむをえない」発言も、同じ脈絡にあります。丁度共和党のアイゼンハワーが、朝鮮戦争の終結を公約に大統領選に勝利した直後で、朝鮮特需が大きく減少を初め、日本経済に不況色が濃くなりつつある時でした。大企業の倒産は、雇用を守るために何としても避ける。しかし、なお貧しい日本の財政事情では、中小企業全てにまでは、手がまわりかねる。そちらはいくらか潰れるかも知れないが、そこまでの財政の余裕はないので、勘弁してほしい。こんな趣旨だったのです。通産相として打ち出す、当時の不況対策としては、間違ったものではありません。しかし、この発言もストレート過ぎました。この時は吉田首相も庇いきれず、辞任となったのです。54年に吉田氏は首相の座を降り、鳩山、石橋、岸の3首相を挟んで、池田氏は1960年7月に首相となり、64年11月に咽頭癌の悪化に拠り辞任するまで、3期4年4ヶ月弱を務めあげました。東京オリンピックは池田首相の下で開催されました。かつての直言居士、高姿勢は影を潜め、相変わらずストレートな物言いではありましたが、放言壁は翳を潜めた見事な変身振りを見せていました。「つくり酒屋の息子に過ぎない、自分のようなものが、首相になって良いのか」と随分と政界の先輩達に話していたという逸話は有名です。また私が特に感心するのは、首相に就任後、大好きなゴルフと、高級料亭通いを完璧に封印し、一度として禁を破らなかったことです。宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」の事故のときに、ゴルフ場からすぐに戻らなかったアホ首相や、ホテルのバー通いに居直るライオン丸首相、米首相を招いてゴルフに興じる現首相などと、同じレヴェルで比較する気に、私はなれません。安保条約の改訂をごり押しした岸首相の後を受け、国民との和解を目指して、「寛容と忍耐」をスローガンに、国民と野党に対する低姿勢と対話路線を貫いてブレなかった政治姿勢を、私は高く評価しています。所得倍増政策を掲げ、物価上昇率を上回る経済成長と賃金の増加を打ち出した政策も、当時は広く受け入れられたものでした。かつての失言を生かし、首相としての実績で、見事に汚名を挽回したと、私は考えています。
2017.12.07
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クロニクル 貧乏人は麦を食え1950(昭和25)年12月7日67年前のことです。この日、衆議院での委員会審議の席で、食糧問題に関する質問への答弁で、池田勇人蔵相が「貧乏な人は麦を食べればよい」という趣旨の答弁をし、大きな政治問題となりました。この時は、吉田首相が庇い通したのですが、池田は2年後の11月27日、今度は通産相としての答弁において、「中小企業の倒産、自殺もやむをえない」と放言し、今度は吉田首相も庇いきれず、2日後の29日に、辞任するに至りました。
2017.12.06
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クロニクル 東京女子医大誕生1900(明治33)年12月5日117年前のこの日、吉岡弥生女史は、東京至誠会医院の一室に東京女医学校を創立しました。現在の東京女子医科大学の前身です。やがて新宿区河田町の現在地に移るのですか、医学校に病院を併設したのは8年後の1908(明治41)年のことでした。 女性が医師の世界に進出する道の第1歩が、ここに開かれました。同じ年に津田梅子女史が津田英学塾を創立していますし、成瀬仁臓氏が日本女子大学校を創立したのは、翌1901(明治34)年でした。女性の高等教育機関が、この時期に揃って誕生したことが分かります。なお、東京女子医学校並びに東京女子医大の校友会が至誠会で、至誠会病院は校友会の系列病院にあたります。
2017.12.05
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クロニクル ラオス王政を廃止1975(昭和50)年12月5日42年前のことです。この年、4月30日、南ヴェトナムの開放が実現し、ヴェトナム戦争は、ヴェトナム人民の勝利に終わりました。その上、米軍は地上戦の範囲を、隣国のカンボジャにまで拡大していたため、カンボジャでもシアヌーク王政が崩壊し、ポル・ポト派による社会主義政権が誕生しました。こうなると、旧フランス領インドシナの残された一郭ラオスの動向に注目が集まります。そして、そのラオスで、この日革命が成就しました。 革命派は、王政の廃止を決定し、さらにラオス人民民主共和国への国名変更を発表しました。こうして、インドシナ3国は、揃って社会主義国への道を歩みだしたのです。それにしても、この頃は、ラオスに関する報道が、見られませんね。ミャンマーの報道が増えた現在、ラオスはどのような状況にあるのでしょうね。東南アジアに残された唯一の謎の国、ラオスの開国は、いつになるのでしょうね。
2017.12.04
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クロニクル スプートニク2号打ち上げ 1957(昭和32)年11月3日60年前のことになります。この日、ソ連は機内にライカ犬を乗せた人工衛星「スプートニク2号」の打上げに成功しました。。史上初の生物打上げ実験に成功したのです。打ち上げられたライカ犬は、実験の犠牲とされました。当初は、打ち上げ10日後にクスリ入りの餌を与えられ、安楽死するに至ったと報じられていましたが、その後、打ち上げ4日後にキャビン内の気温がコントロール不能となって上昇し、死亡していたことが明らかにされました。一方で死亡はもっと早かったという情報もあって、正確なことはわかっていません。分かっていることは、この日以前の動物を乗せた打ち上げ実験は、米ソ共に全て失敗に終っており、この日の打ち上げが、間違いなく最初の打ち上げ成功例だったということだけです。
2017.12.03
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クロニクル 水俣病顕在化1959(昭和34)年11月2日58年前の現実です。この日、水俣病に苦しむ不知火海の漁民等、約1500人が、新日本チッソの水俣工場に抗議のために押しかけ、工場内への立ち入りを拒む会社側と対立、怒った漁民達が工場内に乱入して、警官隊と衝突、双方に怪我人が出る騒ぎとなりました。 足尾鉱毒事件に続く、大きく、かつ悲惨な公害病となった水俣病の存在が、世に知られるきっかけとなった出来事でした。その後水俣病については、石牟礼道子さんの『苦海浄土』を始めとする,優れた作品群によって、全国に紹介され、世の注目を集めました。 静かな内海の不知火海を公害の海に変えたのは、チッソの水俣工場が垂れ流した水銀でしたが、当時ようやく高度成長期にさしかかりつつあった日本経済の腰折れを懸念した政府は、企業を守りたい通産省の立場に配慮して、チッソ工場を擁護する姿勢に終始し、チッソの廃棄水銀との有為な関係の立証責任を漁民側に求めるという、公害無策振りを発揮したのです。ひどい話でした。 公害に対する当時の日本の国家や社会の姿を、今の中国の国家や社会は、なにやらそのまま写しているように、思えてなりません。
2017.12.02
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クロニクル 壱万円札発行1958(昭和33)年12月1日59年前のこの日、初めで1万円札が発行されました。肖像は聖徳太子、すかしに法隆寺の夢殿が使われ、裏面は鳳凰でした。 折から高度経済成長の初動を迎える時期でしたから、1万円札の発行は、まさに時宜を得たものでした。この聖徳太子の1万円札は、1984年11月1日に文化人シリーズの新紙幣として、福沢諭吉の肖像を用いた1万円札が登場するまで、26年間に渡って役目を果たしました。新1万円札の裏面は雉で、偽札防止用の技術として、特殊発光インキが使われました。20年後の2004年11月に、再度紙幣は更新されたのですが、1万円札に限って、同じ福沢諭吉が使われていますが、裏面は雉から平等院の鳳凰像に変りました。 1万円札の発行当初、給料がなお1万円に届かない人も多く、早く1万円札をわが手にできる身分になりたいと、酒場でボヤく人も多かったと聞き及びます。この時、私は高校の1年生でした。
2017.12.01
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